夜に辿れば
深く沈んでいくような闇夜のしじまの中を、一人の女が歩いていた。
それは酷く目立つ女だった。背丈は一八〇ほどで女にしては高い方だ。異国風の、夜であってもその色を失わない艶やかな金髪に、冷める様な青染めと白模様の描かれた着物に紅い帯をし、からころと陽気な下駄の音を響かせている。
その身体つきは極上にして、着こなしは遊女の如く。撫でやかな肩と滑らかな白い肌、豊かな胸は半ばまで、外気に晒し、温かな色香を漂わせていた。頬はわずかに上気し、妖しげな微笑みを浮かべている。まるで夜に咲く椿の花のよう、並みいる女郎なんぞ敵にもならぬ。
きっとどんな年老いた男でさえ、その扇情的な形貌には色めき立たずにはいられないだろう。そして夜道を一人、そんな格好で歩く彼女のなんと危険なことか。心ない者に襲われても仕方がない。美しい花は折られるが定め、世の無情な道理なのだから。
けれど、その里の人間たちが彼女を襲うことは、恐らく無い。
そもそも里の人間たちは男を含めて臆病であった。時は既に十二時を越え、日付を変えている。どれだけ酒を好む者たちであろうと、さすがに日を跨げば家に戻る。それでも酒を飲む者は救いようのない酒好きか、人間でない者しかいない。
人間でない者――妖怪。化生怪異の類だ。
そう。
ここは幻想郷。
妖怪と人間が暮らす暗黒郷。
矛盾を受け入れ常識を排す世界。
そもそも今は睦月、夜は凍るほどの寒波が走る。そんな時節の真夜中に薄着で出歩く者が、果たして人間であるはずもない。そんな女に襲いかかる胆力に勝る男も、いるはずがなかった。
一人悠然と歩き続ける女の嫋やかな両手首、両足首には、その風体には不釣り合いで無様な黒鉄の輪と、それに連なる鎖が垂れ下がっている。
そして並みの妖怪であれば、彼女の額を見て一目散に逃げることであろう、赤い一本角が生えていた。
女は名を、《星熊勇儀》という。
妖怪の山の四天王が一角、怪力乱神、金剛力――それは地上から消えたはずの鬼の名であった。
何故彼女が人里の夜を歩いているのか?
もちろん大した理由など無い。単に酔いたい気分であっただけだ。それも知り合いと極力顔を合わせないような場所で、一人静かに。
鬼といえば仲間内で飲んで騒ぐ、というのが一般的な見方かもしれない。けれど、鬼だって静かに酔いたい時があるのだ。勇儀はここしばらくそんな気分になって、毎夜毎夜それに浸っていた。
夜の人里でもいくらかは酒の飲める店が出る。
この時間に利用する妖怪たちも少なくないし、妖怪は人間よりも良く酒を飲むので上客だ。必然、里の人間でも店を開ける者はいたし、それらの店で屯する人間たちもいた。
今日の勇儀はすでに三軒ほどハシゴしていた。
見知らぬ妖怪や酒好きの人間が酔って騒いでいる中で、一人ちびちびと熱燗を呷り、混み合い始めると店を出る。彼女の後ろ姿だけを見て声を掛ける者もいたが、彼女の正体を見るなりざぁっと青褪めて声を窄めていく輩に、勇儀が関心をもつ筈もない。
張り合いのない連中など無視して、彼女は夜の人里をそぞろ歩く。
暫くして、勇儀は一軒の良さそうな店を見つけた。
何の変哲もない酒印の赤提灯に、褪せた藍色の棒袋暖簾。けれど店内から五月蝿い声が全く聞こえないのが良かった。勇儀は迷いなくその店の暖簾を潜り、戸を開けた。
中には幾人かの人妖がいた。が、誰もが一人で静かに飲んでいた。
酒の香り、煙管やら料理やらの紫煙、程よい暗さで落ち着ける雰囲気に、勇儀はまず満足した。
誰もいないつけ台の席に腰を据えてふうと一息つく。酔いの気分で温まっているとはいえ、やはり睦月の夜の風は肌に滲みた。だがだからこそ、こうした場所の温かな空気が際立って感じられるのが醍醐味というものだろう。
「熱燗とおでん、種は任せる」
「あいよ」
店主はいくらか白の混じる頭髪の、齢四、五〇ほどの男だった。ぱっと見人間に見えるが、勇儀は彼が妖怪であることをすぐさま見抜いた。別に驚くことでもない。人間を相手取って商いする妖怪は多い。
「アンタ、この店は長いのかい?」
何ともなしに、勇儀は尋ねた。
「へぇ、もうかれこれ、二〇年ほどやらせてもらってます」
「二〇。そりゃご苦労なことだね」
「ええまぁ、あたしみたいに能のない奴は、こういう事ぐらいでしか稼げませんので」
ことり、とおでんの取られた皿と湯で暖められた熱燗が、勇儀の前に静かに差し出された。
勇儀は熱燗を御猪口に注いで、いくらか冷ましてから一気に呷る。
熱さと突き抜ける香りが味に連なる感覚を刺激した。胃で感じる熱が、じんわりと全身に伝播していくのが心地良い。
しばらくそれを堪能してから、備え付けられていた割り箸を割って、おでんへ手を付けた。見るからによく味の染みている、深い茶色の大根を四つにさいてから、汁を零さぬよう左手を添えてその一欠片を口へと運んだ。
噛みしめる。滲出する出汁と大根の風味が、酒のお陰で鮮やかに感じられる。
勇儀はゆっくりとそれらを味わいながら、もう一度熱燗を呷り、諸共飲み込んだ。
「……うん、美味いじゃないか」
ほぅと熱を追い出すように息を吐いて、勇儀は言った。
「この腕なら、それも立派な一つの能だと私は思うね」
「へぇ、有難うございます」
勇儀はもう一度大根の欠片を口に運んで、それを念入りに味わった。
それ以降は店主との会話もなく、勇儀が静かに飲み続けた。店内は驚くほど音がなかったが、皆思い思いに考え事に耽っているのか、息苦しさはまるでなかった。
と、不意にその沈黙を破るように、店の戸ががらがらと開く。
勇儀が見れば、入ってきたのは白髪の少女だった。歳は十六、十七ほどで、どこか厭世的な雰囲気が漂っている。夥しい白髪を、赤墨で書かれた札をリボンみたいにして飾っているのが異様で、白いシャツに赤いもんぺ、あるいは袴のようなものを履き、それをサスペンダーで吊っている。
全体的に独特な形だが、しかし勇儀に心当たりはなかった。
少女は迷いなく、すぐさま勇儀の席の隣を陣取った。
「熱燗、あと焼き鳥を数本頼むよ。種類は任せる」
「あいよ」
そう注文してからすぐに、少女は勇儀の方を向いて声を掛けてくる。少し忙しない奴だなと、勇儀は眉を吊り上げて呆れた。
「良い店だよね。人も少ないし、一人で飲むにはぴったりだ」
物騒な雰囲気はない。むしろもっとのんびりとした、落ち着いた口調と声音だ。少女の目的は分からないが、すぐさま荒事にはならない様子。少し迷ったが、勇儀は「……あぁ、そうだね」と相槌を打った。
「この辺には、よく来るのかい? あんまり見ない顔だけど」
「いや。ここに来たのも初めてさ」
「アンタみたいな美人が不用意に出歩く場所でもないだろうに」
「はは、お嬢ちゃんみたいな子に言われるとはね、私も焼きが回ったか」
言外から「去れ」という念がありありと伝わってくる。態度にこそ出ていないが、どこか危うい気配を感じて勇儀は楽しくなっていた。
「熱燗お待ち」
少女の前に温められた徳利と御猪口が置かれる。それに早速手を付けようとした少女を、勇儀の手が抑えた。少女が何事かと勇儀を睨め付ける。その鋭さたるや、鍛えぬかれた業物の刀、いやさ妖刀を思わせた。ぴんと張った緊張の心地よさに、勇儀は薄っすらと笑みを浮かべてその感覚に酔い痴れる。
「……まぁ、こうして逢ったのも何かの縁だ。注がせておくれよ」
勇儀がそう言うと、途端に少女の目の鋭さが霧散して、ぽかんと呆気に取られてしまった。
それから困惑し、酒を飲んでもいないのに少しばかり頬を紅潮させて「あ、あぁ、じゃ……」と御猪口を掴んだ。
勇儀も少女の前に置かれた徳利を取って、彼女の御猪口へ注いでやった。
「さぁ、飲んでくれ」
勧められ、少女はぐいっとそれを呷った。良い飲みっぷりで、注いだ勇儀も思わず気持ち良くなる。酒が沁み入っていく感覚に目を瞑り、少女は少しの間それに浸っていた。やがて、目を開いて言う。
「……美味い」
「あぁ、そうだね」
調理場で鳥串が焼けていく音と煙がたった。肉の焼ける香りが、酒で洗われた鼻孔を、そして少女の眠っていた空腹感をくすぐった。
「アンタ、名前は?」
しばらくの沈黙の中、幾度か酒を飲んでから、改めて勇儀はそう尋ねた。
「藤原妹紅。藤の原に、妹の紅。妹紅」
「そうかい。良い名前だね。私は星熊勇儀って言うんだ」
「知ってるよ、地底の鬼だろう。……なんで、地上にいるの?」
「……まぁ、そういう気分だったんだ」
勇儀は寂しげに笑って答えた。言い難そうな気配、鬼の取る態度とも思えぬ。妹紅は不思議そうに首を傾げる。
「逆に、聞いてもいいかい?」
勇儀が尋ねると、妹紅は訝しむことなく即座に頷いた。
「いいよ、私で答えられるのなら」
「なんで私に声を掛けてきたんだ? 何か、理由があるんだろ?」
だが、そこで妹紅は閉口した。言い辛いことだとは分かっていたが、突然言葉がなくなって、勇儀は尋ねたことを若干後悔した。
いつもなら「まぁ気にすんな」と笑い飛ばしているだろうが、生憎とそういう気分でもなく、勇儀はただ、妹紅の答えを待つことにした。気になる部分ではあったのだ。
時間潰しに自身の猪口に酒を注いで、それに口を付ける。
「……この近くにさ」
しかし思いの外早くに、妹紅は二の句を継いだ。
「この近くに、寺子屋があるのは知ってる?」
「寺子屋……いや知らなかったよ」
「そこで子供に歴史を教えている先生が、私の知り合いでね。この辺りに鬼が出てるのを知ったら、不安がるかもしれないから」
「それで早めの鬼退治に来た?」
「そう。でもその鬼は暴れる気配もないから、拍子抜け」
「ははは。まぁ里で暴れたりなんてしないよ」
脱力するように二人は笑った。そうなるともう、二人の間にはすっかり剣呑さはなくなっていた。二人は同じような速度で酒を注いで、それを呷った。まるで気の通じ合った年来からの友人同士のように、言葉を交えずに酒を飲み交わした。
「焼き鳥お待ち」
ついに差し出された皿を、妹紅がちょうど勇儀との間にずらし、どうぞと手を添える。
「食べてくれ。ここは鳥も美味いんだ」
勇儀もおでんの入った皿をその辺りに置いてから頷き、早速串を一本取った。タレの付いたねぎまだ。ネギと一緒に肉を口に入れると、タレに絡んだ肉とネギの香ばしい匂いが満ちた。焼き加減も鳥の質も申し分なく、また酒と合う。
確かに彼女の言う通り、鳥も美味い。
「なぁ姐さん。また、聞いてもいいかい?」
妹紅はすかさず尋ねた。鳥串を食べてしまった手前、ちょっと断り辛い勇儀である。出された餌にまんまと飛びついてしまった自分に彼女が苦笑する。
「いいよ、答えられるものならさ」
「さっきの続きさ。どうして地上に? 気紛れっつっても、何かしらの発端はあるんでしょ?」
今度は勇儀が閉口する番だった。図星を突かれて、思わず言葉に窮してしまった。そう、発端はあるのだ。だがそれは少し女々しい、口にするのも憚られるような、恥ずかしい物事なので、すんなりとは言い辛い。
酒を猪口に注ぐと、それが最後で、徳利が空になってしまった。勇儀は熱燗をもう一つ頼み、注いだ酒を呷った。
「……張り合いがね、無いんだよ」
「張り合い?」
「そう。酒の飲み比べとか、腕比べとか、まぁ色んなもんで比べ合いをやるのが鬼ってもんなんだが、最近はどいつもこいつものんべんだらりとしてやがる……それが悪いとは思わない。だが気には食わないのさ」
「へぇ。旧地獄でもそうなのかい?」
「まぁそうだね。ここしばらくは、そういう生温い空気が流行ってる」
そう言いながら、しかし勇儀は別の事を思い出していた。
妹紅には語っていない本当の理由である。その情景には、彼女の親友の姿が写っている。捻れた二本角の子鬼の姿が。
『いや、今日は止めとくよ。珍しく、霊夢に呼ばれてるから』
そう言い残して霧となり消えた親友は、勇儀に一抹の寂しさを残した。
絶対に口には出せないが、要するにこれは誘いを断られた女の、寂しい一人酒なのだった。
「弾幕やら異変やら、地上はいろいろと賑わってるみたいだけどさ。それ比べれば今の旧都は、ちょっと温いかもね」
勇儀は重い溜息を吐いた。別のことを考えてはいたが、妹紅に言ったことは嘘ではなかった。旧地獄でも、張り合いはなくなりつつある。
「旧都ねぇ……聞いた限りじゃ、無法地帯みたいになってるんだって? それこそ妖怪の楽園じゃないのかい?」
「無法というほど法がないわけじゃない。誰かに迷惑をかけりゃ、その仕返しがある。恩を売ればそれが返ってくる。そういう世の理はちゃんと働いてるよ」
「そりゃまぁ鬼だって世の物だしなぁ……いやあの世か? でも、暴力で解決するんだろ?」
「そうだね。言っても聞かない奴はぶん殴られて、喧嘩が始まる。それを諌めようとする奴、混ざろうとする奴、大げさにしようとする奴、それらを纏めて収めちまおうとする奴……そういう輩ばっかりだった」
「いや、そういう場所は無法地帯でしょうよ……」
「これでも最近はマシになってきたんだけどね」
喧嘩を収めようとするのは大抵勇儀だった。下らない喧嘩をする連中も、勇儀の顔を見れば大人しくなる。彼女の拳の世話になった者は多い。
勇儀は強いのだ、鬼の中でも。伊達に四天王の一角を張ってはいない。
だがそれは、彼女の根本的な悩みである〝張り合いの無さ〟に直結した。
今じゃもう、勇儀を抱いてくれるような男もいなくなっている。こんな格好をしたって、もっぱら女を抱く方ばかり。
喧嘩を売ってくる奴もとんと見なくなった。
「喧嘩だけじゃない。賭博とか、薬とか、色事とか……人間どもが蓋をしようとする暗い部分も、私たちにとっちゃ遊びみたいなもんで……昔は人と戦争して、こっちもあっちも必死になって張り合った。戦った。とにかく私はそういう時代が、ふと懐かしくなったのさ」
「はぁん。つまり姐さんは人生の迷い人ってことかい」
「人じゃあないけどね」
誤魔化すように言って、勇儀は酒を呷った。
いくらか話してすっきりする。溜め込んだ鬱憤を全て晴らすにはまだまだ遠いが、一人で飲む酒はやっぱり寂しいもんだと認識できるくらいには、勇儀の傷心もくゆりくゆりと癒えつつあった。
「柄にもなくしみったれた話をしちまったね。悪かったよお嬢ちゃん」
「いやいや気にしないで、私から聞いたんだし。それにその〝張り合い〟についちゃ私も分からない立場じゃあ、ない」
妹紅は少しばかり湿り気のある気配を交えて、自嘲的に笑って御猪口に唇を添える。
「こんな形だが、私も結構長生きでさ。姐さんの言う〝張り合い〟ってのを探して、あちこち周ったこともある。人間の中に混じろうとして失敗したり、腹いせに妖怪どもを殺したりしたよ。でも結局張り合いがなくなって止めて、最後には復讐に走った」
その語り口は、まるで仙人、いやさ遥か長い道を歩き続けて疲れ果てた旅人のようだ。言ってることは嘘じゃないんだろう。勇儀は思いの外、興味深くその話に耳を傾けていた。
「でも、ここがまた傑作でさ、その復讐は終わらないんだ。まるで輪廻って名前の輪っかの上で、延々と走り続けるみたいに終わらない。いや終われなくなってた。張り合いっていうのも、あったりなかったりになってた」
妹紅は苦笑する。それは自嘲であったり、寂寥であったり、後悔であったり、そういう色々と入り混じる、やはり何処か疲れたような笑みだった。
「最近はそれすらも無くなりつつあるんだけど、時たま姐さんみたいに思い出すよ。復讐の理由だけどね。酒に感けてだったり、寝床の中で夢に見てだったりなんて、下らないもんだけどさ。結局私も、それにアイツも……」
そう言いかけた所で、途端にもにょもにょと妹紅が口を窄めて言葉を濁した。
「いかんいかん。酒が入るとつい自分のことをだらだら語っちまう。ごめんね姐さん、つまらない話で」
「いや、面白かったよ。お前さん、蓬莱人って奴だろう?」
勇儀も風の噂には聞いていた。
地上の世界で、生き死にの輪廻から外れた人間がいると。
かの有名なかぐや姫伝説に端を発する、不老不死の者どもがいると。
「なんだ知ってたのかい」
「聞いていて思い出したのさ。それに、実物とも初めて喋った」
「へへ、不老不死なんて言っても、案外俗っぽいでしょ?」
「霞を食って生きるよりはマシだぁね」
霞より肉を。そして酒を。そうしている様こそ人間らしい。
「知り合ったついでに姐さんどうだい、私といっちょ、切った張ったの大立ち回りでも演じないかい? なぁに心配しなさんな、私にも鬼退治のノウハウはいくらかあるし、命だったらいくらでも払える。やり過ぎるってこともない」
「……いや、遠慮しておくよ」
勇儀は妹紅の提案を拒否した。妹紅は肩透かしを食らって、不思議そうに首をかしげるしかない。鬼だから乗ってくると思ったし、彼女の機嫌を直すのに命を払うなら安いものだと思っていた。
「復讐に燃えた嬢ちゃんにもわかるだろう。私が今求めてる〝張り合い〟っつーのは、何もやるだけじゃダメなんだ。なるたけ思いの丈を晒して、それをぶつけ合わせて、認め合わなくちゃ気持ち良くねぇ。今はアンタとぶつかる理由がないし、単なる力比べじゃあ、ちょっと物足りないね」
「そっかー。まぁ確かに、今の提案は私の願望がちーっとばっかし混じりすぎてたね。ごめんなさい」
「いいんだいいんだ。完全にやりたくないってわけじゃないしね……」
鬼としての本能、強い奴との腕比べ、どうしようもない渇望の一端がちろちろと見え隠れする。蓬莱人、死なない人間、やり過ぎない戦い、どれも魅力的な言葉だ。
それでもなお、沁み入る感傷のほうが優っていた。いやその傷は、ここ三日の酒でその大きさをじくじくと増やしていたに過ぎない。
「いつか、いつかまたあった時は、その時は、やろう」
勇儀は言った。
「うん」
妹紅は素直にそれを承諾した。
「さて、ずいぶん長いこと話しちまった。そろそろ行くとするよ」
勇儀はそう言って適当に代金を懐からつけ台に置いた。
「足りるかい?」
「へぇ、十分です」
「こいつの分も含めておくれ」
そう言って妹紅を指すと、彼女は驚いたように目を見開いた。
「いいのかい?」
「あぁ、久しぶりに気持ちが晴れたよ。その礼だ」
勇儀が店主を見遣ると、店主は釣り銭を見ずそのまま再度頷いた。
「へぇ。それでも十分です」
「……そうかい。釣りは取っといておくれ」
本当に気持ちよく飲めて、勇儀は軽い足取りで店を出た。
外へ出ると再び睦月の寒風が身を撫でた。酒のお陰で支障はない。だがその寒さと夜闇は、勇儀が忘れかけていた感傷を、霧となって消えた親友の後ろ姿を仄かに思い出させた。
こんな思いをするならもっと酒を飲んでおけばよかったものを。忘れるくらいに浴びるように酒を、飲み干しておけばよかったものを。乾いた心を誤魔化しの潤しで満たすように、酒で溺れればよいものを。
しかし今更惜しんだ所でしようがない。
勇儀は一人、からころと軽快な下駄の音を響かせて、静まり返った人里を歩く。
声を掛ける者も、毒牙に掛ける物もいない。
あぁ張り合いない。つまらない。
けれど勇儀はそれを他人の所為、いやさ世界の所為などとは、実は思ってはいなかった。
自覚しているのだ。
つまらなくなっているのは自分だと。
温くなっているのは自分だと。
どうしようもないほど乾いている原因は、自分にあるのだと。
それに目を瞑り、張り合いないと嘯いて、酒に感けて管を巻く。堂々巡りにしかならない無意味な演目。出来損ないの茶番劇。
でも今日は、その劇に僅かばかりの亀裂が入った。
出もせぬ答えを夜に辿れば、思いがけない縁があるものだ。
今日はそれで十分。
勇儀はそっとその縁を胸の内に秘めて、夜の人里の闇へと消えていった。
―了―
1話完結だからこその余韻かもしれませんが、続編も読んで見たいです。
これって合ってる?
>けれど外から五月蝿い声が聞こえないのが良かった
勇儀も妹紅も語りまくってるようで語りすぎてなくてよかったです
よい良い酔い
雰囲気すごくいいです。
妹紅&勇儀好きの私にはたまらない作品…
続編なども是非書いて下さい!