妖怪が住まう森に、灯りが灯ることは無い。なんていうのは過去の話。今では煌々と小さな灯りが静まり返った木々を照らし、立ち上る煙と甘辛い香りが、彼女を探す目印となっていた。
夜雀が経営する一軒の屋台。この時間、この場所だけは、誰もが酒を酌み交わし、苦も楽も舌で転がし、飲み込み憩う、小さな夜の楽園となっていた。
飛頭蛮、赤蛮奇がこの屋台を知ったのは、つい数週間前のことである。「いい店があるんだ」と、友人である今泉影狼に紹介されたのがきっかけだった。
赤蛮奇はこの店が気に入っていた。屋台の主、ミスティア・ローレライが作る飯は、そこらの人里で隠れ食う飯より美味いし、安い。何より人目を気にせず、妖怪として酒が飲める場所は数少ない。
故に彼女はこの店が気に入っていた。しかし彼女には、一つだけどうしても気に入らないことがあった。
「いらっしゃい、非常勤の赤蛮奇さん」
「飛頭蛮よ」
この主、妖怪としての名をいつも忘れるのである。
「あれま、また違いましたか」
わざとらしく舌を出し、おどけてみせる女将の顔に、反省の文字は見られない。
「まったく、いつになったら覚えてくれるんだか」
「まあま許してやんなさいよ、女将の鳥頭も妖怪の性さね」
「んま、失礼しちゃうわ。狼女は覚えたわよ」
既に一本空けていた影狼は、数ヶ月前からの常連である。
「覚えられるまでよく我慢したものね。あ、蒲焼一人前と熱燗ね」
「はいな」
吐き捨てながらもまずは一杯が客の礼儀。赤蛮奇にとっては悔しいことに、屋台の女将としての彼女の手腕はとても優れていた。
「確か馬頭琴の赤蛮奇さんは」
「飛頭蛮よ」
「タレでしたよね」
「うん」
妖怪の種族名は覚えないくせして、客の好みは把握している。
「今日は薄味が食べたい、と見ました」
「……正解」
「じゃあ薄く塗っておきますね~」
顔を見てこちらの気分まで読んでくる。本当はこいつ覚なんじゃないかと疑ってしまうが、
「ところで波動拳の赤蛮奇さん」
「飛頭蛮」
やはり鳥頭だ。むしろ名前覚えてるだけまだマシである。
「巫女か魔法使いにでも会いました?」
「な、なんでそれを?」
「この上なく機嫌が悪そうだったんで。はい熱燗」
「ん、ありがと」
眉間に皺でも寄っていたか。彼女の目が利いているのではなく、こちらが顔に出していたらしい。ふうっと大きく息を吐き、赤蛮奇はくいっと一飲みした。
「人里で紛れ込んでるのが巫女にバレちゃってね。酷く追い回されたのよ」
「こちとらもう暴れる気は無いってのにねえ、あっちのほうがよっぽど狼じみてるわ」
少しばかり袖で手元を隠しながら影狼もぼやく。今夜は満月か。
「あら、私は人間見かけたらすぐ襲っちゃうわよ~?」
鼻歌交じりに、ミスティアは網の上の串を裏返す。見た目とは裏腹に、女将のほうがよほど攻撃的らしい。
「まあ、私も巫女だけは御免だわ~。妖怪としての実力は移動間の赤蛮奇さんと大差無いし」
「飛頭蛮」
こんな頭の妖怪と大差無い。それもまた赤蛮奇にとっては一つの屈辱だった。
「お、今日も騒がしそうだね」
赤蛮奇の横に入ってきたのは、もう一人の常連客である、妖蟲のリグル・ナイトバグ。この店に限っては影狼より古参であると、赤蛮奇は聞いていた。
「その調子だと今日も覚えてもらえてないようだね? えーと、この前は羞恥心の赤蛮奇だっけ?」
「おい」
「あっはは私は覚えてるって飛頭蛮さん」
もはや妖怪として覚えられていないことを話のネタにされている。そのことも、赤蛮奇にとって気に入らなかった。
「えーとリグルは蒲焼二人前と、お酒はいつものでいい?」
「ん、それで」
ここはやはり覚えている。なんで客のいつも頼むものは覚えているのに……と、ここで赤蛮奇に一つの引っ掛かりが生まれた。
「『いつもの』?」
「おっと、気付いちゃったか」
それとなく通っているので、赤蛮奇は二人が頼むメニューをいつしか覚えていた。影狼は枝豆に焼酎、蒲焼は空腹時。リグルは大抵焼き魚か蒲焼、そして、『いつもの』である。
「ふふん、実はこの店には常連様限定の秘蔵酒があるのさ」
リグルは自慢げに胸を貼り、誇らしげに赤蛮奇の瞳に横目で合わせた。
「おっと、残念だけどこれはまだ蛮奇ちゃんには飲ませられないよ?」
「馴れ馴れしいわね、誰が蛮奇ちゃんよ。木っ端妖怪が調子に乗っちゃってまあ」
「お? 言うねえ蒙古斑の赤蛮奇様」
「飛頭蛮だ!」
元より誰かに弄られることに慣れていない赤蛮奇にとって、馬鹿にされることはそれ以上に不快であった。何より、種族名を貶されること、それが妖怪にとってどれ程の不名誉か、それはリグルにだって分かっているものだと思っていたのだ。
「まあまあ落ち着いて。リグルも人が悪いわよ?」
「ん、今のは先に仕掛けたリグルが悪い」
「わ、分かったよごめんって」
影狼と女将のフォローがあったのは幸運だった。二人が止めなければ、例えリグルが謝ったとしてもこの場で弾幕勝負がおっ始まっていたことであろう。
「リグルもあんたに絡みたいだけなんだから、許してやりなさいな、ね?」
「一品奢るからさあ、許してちょうだいよ」
「……まあ、いいわよ」
影狼の言葉で気付いたが、先に絡んでくるのはいつもリグルのほうであった。それが自分と夜を楽しみたいという意図があるならば、それは悪い気はしなかった。
「はい、蒲焼お待ち! 模倣犯の赤蛮奇さん!」
「くっ……!」
「ぷふぅっ……!」
「おいぃ!?」
女将の思わぬ不意打ちに、影狼とリグルは思わず口元を押さえた。
「女将さん今のはダメだって……!」
「ひ、ひぃ……っ、模倣犯て……うは……っ」
どうやらツボに入ったらしい。既に半分出来上がっている影狼は突っ伏して完全に震え耐えていた。
「あ、あはは、またやっちゃいましたかね、えーと……スターリンの洗面器?」
「ぶぅ!?」
「っかぁあ……!」
もはや泥沼である。混乱か焦りか、とうとう女将は個人名まで間違えてしまったのだ。
「女将ィ!」
「あ、あいっ」
これにはさしもの赤蛮奇も思わず立ち上がった。さすがに琴線に触れてしまったか、ミスティアも思わず強張り固まった。
「……酒だ」
「……はい?」
「酒追加!」
「は、はい!」
「もーあったまきたわ! 全員座りなさい! いや座れ! 飛頭蛮の一から百まで全部この場で叩き込んでやるんだから!」
影狼は大爆笑して痙攣し、リグルの持つ枡はカタカタと震えて酒が零れていた。
カウンターに詰まれた空の大枡に並々と酒を注ぎ、赤蛮奇はそれを口に含んだ。大きく仰け反り、喉を鳴らし、枡に映った満月ごと一気に飲み干した。
「ちょ、ちょっと蛮奇ちゃん……!」
「さすがに一気にいきすぎだって……!」
「っかぁ~……! いいから聞きなさいよ!」
影狼達の制止を振り切り、辛い息を垂れ流しながら頭を上げた赤蛮奇の顔は、名前のとおり既に真っ赤だった。
「そもそも妖怪ってのはねえ、忘れ去られたらおしまいなのよ! それなのにあんたらときたら毎回毎回なんなのさ!」
限界だった。女将の言葉に悪意は無い。元より記憶できる頭が無いのだから仕方が無い。それは分かっていた。分かっていたからこそ、赤蛮奇にとって、それが何よりももどかしかった。
同格の妖怪にすら覚えられていないという現実に晒された自身があまりにも惨めに思えてしまい、赤蛮奇はもはやいても立ってもいられなくなってしまっていたのだ。
「こちとら泣く子も黙る飛頭蛮! ひ! とぅー! ばん! なのよ! はい! リピートアフターミー!」
「「「ひ、ひとぅーばん……」」」
「飛頭蛮つってんでしょが!!」
「!?」
「アクセントが違うの! ひ(→)とう(↑)ばん(↓)! ここ重要! すっごい重要なのよ! 分かる!? 名前ってのはねえ!」
「あー……蛮奇さん?」
「せ・き・ば・ん・き!」
「あ、はい……」
飛頭蛮の、堪忍袋の緒が飛んだ。それは、首が伸びきる程に長く語られる、彼女の思いの丈が放たれた瞬間でもあった。
箍が外れた首無し妖怪の説教は深夜まで及んだ。唐代の逸話から、はたまた類友のペナンガランまで、赤蛮奇は舌の根が乾き、ベロンベロンになるまで語るに語り尽くした。
「う、ひぐ……だからあ、飛頭蛮は尊いのお……」
そしてとうとう、泣き上戸にまで語るに落ちたのである。
「あーはいはい分かった分かった、あんたは飛頭蛮、立派な妖怪様だよ」
「リグル……あんたいい奴ね、蟲なのに温かいじゃない……!」
すっかり潰れた赤蛮奇の肩を担いだのは、リグルだった。
「いいのかい?」
「将来の常連さんだからね、今日は先輩の私が付き合ってやるさ」
普段共に帰るのは影狼の役だ。それが、今宵は違った。この小さな変化に、影狼はんふっと笑みを零した。
「悪いわね、今度奢るわ」
「気遣いなら無用だよ。あ、ミスティア、お代は今度でいいかい?」
「ちゃんと払ってよ?」
「踏み倒す仲でも無いだろう? それじゃお疲れ様。ほら行くよ飛頭蛮、あーもう首持って、ほら、落とさないの」
「うえ゛え……っ、あり゛がとう、こんなわだしにぃ……! さっきはっ、さっぎは! 木っ端とか言ってごめん゛ねえ……!」
「わーったわーった気にしてないから!」
ずりずりと頭の抜けた赤い妖怪にひらひらと手を振りながら、影狼はほうっと小さく息を吐いた。
「……いつもありがとね、女将さん」
「慣れっこですよ、こう言うのは」
「そうじゃなくて」
空の皿を片付けるミスティアに目を配りながら、影狼は続けた。
「あの子に付き合ってあげてさ」
「……あ、やっぱ気付いてました?」
「あの子の名前は?」
「飛頭蛮の赤蛮奇」
「……ふっ」
「ふふっ」
満月を見上げる屋台に、僅かな静寂が流れた。
「あいつ昔っから人と絡むのが苦手でね……あんなによく喋る赤蛮奇を見たのは今日が初めてかも」
「でも、さすがに今日はちょっと焦ったわ~」
「洗面器は流石に駄目だって」
「私も女将としてはまだまだってとこかしらね~」
ミスティアは、懐から一冊のメモを取り出し、開いた。『飛頭蛮、地雷原、避雷針、胡蝶蘭』……そこに書かれていたのは、傍から見れば何のことだか分からない、三文字の羅列であった。
「でも、やっぱここは私の屋台だからさ、この店の、この夜の楽園の王は私じゃない?」
新たに言葉を書き記し、ミスティアはそれを懐に戻した。
「だったら皆で馬鹿騒ぎして、洗いざらい曝け出してもらわなきゃ、私が困るわけよ」
「まったく、人の悪い王様ね」
「人間にとっては悪い王様よ」
にっと歯を見せ、ミスティアは空になった影狼の猪口に残りを注いだ。
「あ、ところで次は『ナズーリンの黒板消し』あたりでどう?」
「そろそろ常連認定しなさいよ」
「慣れたあたりで認めたげるわよ。王様の審査は厳しいの」
空の徳利を片手に、夜の王は意地悪く微笑んだ。
夜雀が経営する一軒の屋台。この時間、この場所だけは、誰もが酒を酌み交わし、苦も楽も舌で転がし、飲み込み憩う、小さな夜の楽園となっていた。
飛頭蛮、赤蛮奇がこの屋台を知ったのは、つい数週間前のことである。「いい店があるんだ」と、友人である今泉影狼に紹介されたのがきっかけだった。
赤蛮奇はこの店が気に入っていた。屋台の主、ミスティア・ローレライが作る飯は、そこらの人里で隠れ食う飯より美味いし、安い。何より人目を気にせず、妖怪として酒が飲める場所は数少ない。
故に彼女はこの店が気に入っていた。しかし彼女には、一つだけどうしても気に入らないことがあった。
「いらっしゃい、非常勤の赤蛮奇さん」
「飛頭蛮よ」
この主、妖怪としての名をいつも忘れるのである。
「あれま、また違いましたか」
わざとらしく舌を出し、おどけてみせる女将の顔に、反省の文字は見られない。
「まったく、いつになったら覚えてくれるんだか」
「まあま許してやんなさいよ、女将の鳥頭も妖怪の性さね」
「んま、失礼しちゃうわ。狼女は覚えたわよ」
既に一本空けていた影狼は、数ヶ月前からの常連である。
「覚えられるまでよく我慢したものね。あ、蒲焼一人前と熱燗ね」
「はいな」
吐き捨てながらもまずは一杯が客の礼儀。赤蛮奇にとっては悔しいことに、屋台の女将としての彼女の手腕はとても優れていた。
「確か馬頭琴の赤蛮奇さんは」
「飛頭蛮よ」
「タレでしたよね」
「うん」
妖怪の種族名は覚えないくせして、客の好みは把握している。
「今日は薄味が食べたい、と見ました」
「……正解」
「じゃあ薄く塗っておきますね~」
顔を見てこちらの気分まで読んでくる。本当はこいつ覚なんじゃないかと疑ってしまうが、
「ところで波動拳の赤蛮奇さん」
「飛頭蛮」
やはり鳥頭だ。むしろ名前覚えてるだけまだマシである。
「巫女か魔法使いにでも会いました?」
「な、なんでそれを?」
「この上なく機嫌が悪そうだったんで。はい熱燗」
「ん、ありがと」
眉間に皺でも寄っていたか。彼女の目が利いているのではなく、こちらが顔に出していたらしい。ふうっと大きく息を吐き、赤蛮奇はくいっと一飲みした。
「人里で紛れ込んでるのが巫女にバレちゃってね。酷く追い回されたのよ」
「こちとらもう暴れる気は無いってのにねえ、あっちのほうがよっぽど狼じみてるわ」
少しばかり袖で手元を隠しながら影狼もぼやく。今夜は満月か。
「あら、私は人間見かけたらすぐ襲っちゃうわよ~?」
鼻歌交じりに、ミスティアは網の上の串を裏返す。見た目とは裏腹に、女将のほうがよほど攻撃的らしい。
「まあ、私も巫女だけは御免だわ~。妖怪としての実力は移動間の赤蛮奇さんと大差無いし」
「飛頭蛮」
こんな頭の妖怪と大差無い。それもまた赤蛮奇にとっては一つの屈辱だった。
「お、今日も騒がしそうだね」
赤蛮奇の横に入ってきたのは、もう一人の常連客である、妖蟲のリグル・ナイトバグ。この店に限っては影狼より古参であると、赤蛮奇は聞いていた。
「その調子だと今日も覚えてもらえてないようだね? えーと、この前は羞恥心の赤蛮奇だっけ?」
「おい」
「あっはは私は覚えてるって飛頭蛮さん」
もはや妖怪として覚えられていないことを話のネタにされている。そのことも、赤蛮奇にとって気に入らなかった。
「えーとリグルは蒲焼二人前と、お酒はいつものでいい?」
「ん、それで」
ここはやはり覚えている。なんで客のいつも頼むものは覚えているのに……と、ここで赤蛮奇に一つの引っ掛かりが生まれた。
「『いつもの』?」
「おっと、気付いちゃったか」
それとなく通っているので、赤蛮奇は二人が頼むメニューをいつしか覚えていた。影狼は枝豆に焼酎、蒲焼は空腹時。リグルは大抵焼き魚か蒲焼、そして、『いつもの』である。
「ふふん、実はこの店には常連様限定の秘蔵酒があるのさ」
リグルは自慢げに胸を貼り、誇らしげに赤蛮奇の瞳に横目で合わせた。
「おっと、残念だけどこれはまだ蛮奇ちゃんには飲ませられないよ?」
「馴れ馴れしいわね、誰が蛮奇ちゃんよ。木っ端妖怪が調子に乗っちゃってまあ」
「お? 言うねえ蒙古斑の赤蛮奇様」
「飛頭蛮だ!」
元より誰かに弄られることに慣れていない赤蛮奇にとって、馬鹿にされることはそれ以上に不快であった。何より、種族名を貶されること、それが妖怪にとってどれ程の不名誉か、それはリグルにだって分かっているものだと思っていたのだ。
「まあまあ落ち着いて。リグルも人が悪いわよ?」
「ん、今のは先に仕掛けたリグルが悪い」
「わ、分かったよごめんって」
影狼と女将のフォローがあったのは幸運だった。二人が止めなければ、例えリグルが謝ったとしてもこの場で弾幕勝負がおっ始まっていたことであろう。
「リグルもあんたに絡みたいだけなんだから、許してやりなさいな、ね?」
「一品奢るからさあ、許してちょうだいよ」
「……まあ、いいわよ」
影狼の言葉で気付いたが、先に絡んでくるのはいつもリグルのほうであった。それが自分と夜を楽しみたいという意図があるならば、それは悪い気はしなかった。
「はい、蒲焼お待ち! 模倣犯の赤蛮奇さん!」
「くっ……!」
「ぷふぅっ……!」
「おいぃ!?」
女将の思わぬ不意打ちに、影狼とリグルは思わず口元を押さえた。
「女将さん今のはダメだって……!」
「ひ、ひぃ……っ、模倣犯て……うは……っ」
どうやらツボに入ったらしい。既に半分出来上がっている影狼は突っ伏して完全に震え耐えていた。
「あ、あはは、またやっちゃいましたかね、えーと……スターリンの洗面器?」
「ぶぅ!?」
「っかぁあ……!」
もはや泥沼である。混乱か焦りか、とうとう女将は個人名まで間違えてしまったのだ。
「女将ィ!」
「あ、あいっ」
これにはさしもの赤蛮奇も思わず立ち上がった。さすがに琴線に触れてしまったか、ミスティアも思わず強張り固まった。
「……酒だ」
「……はい?」
「酒追加!」
「は、はい!」
「もーあったまきたわ! 全員座りなさい! いや座れ! 飛頭蛮の一から百まで全部この場で叩き込んでやるんだから!」
影狼は大爆笑して痙攣し、リグルの持つ枡はカタカタと震えて酒が零れていた。
カウンターに詰まれた空の大枡に並々と酒を注ぎ、赤蛮奇はそれを口に含んだ。大きく仰け反り、喉を鳴らし、枡に映った満月ごと一気に飲み干した。
「ちょ、ちょっと蛮奇ちゃん……!」
「さすがに一気にいきすぎだって……!」
「っかぁ~……! いいから聞きなさいよ!」
影狼達の制止を振り切り、辛い息を垂れ流しながら頭を上げた赤蛮奇の顔は、名前のとおり既に真っ赤だった。
「そもそも妖怪ってのはねえ、忘れ去られたらおしまいなのよ! それなのにあんたらときたら毎回毎回なんなのさ!」
限界だった。女将の言葉に悪意は無い。元より記憶できる頭が無いのだから仕方が無い。それは分かっていた。分かっていたからこそ、赤蛮奇にとって、それが何よりももどかしかった。
同格の妖怪にすら覚えられていないという現実に晒された自身があまりにも惨めに思えてしまい、赤蛮奇はもはやいても立ってもいられなくなってしまっていたのだ。
「こちとら泣く子も黙る飛頭蛮! ひ! とぅー! ばん! なのよ! はい! リピートアフターミー!」
「「「ひ、ひとぅーばん……」」」
「飛頭蛮つってんでしょが!!」
「!?」
「アクセントが違うの! ひ(→)とう(↑)ばん(↓)! ここ重要! すっごい重要なのよ! 分かる!? 名前ってのはねえ!」
「あー……蛮奇さん?」
「せ・き・ば・ん・き!」
「あ、はい……」
飛頭蛮の、堪忍袋の緒が飛んだ。それは、首が伸びきる程に長く語られる、彼女の思いの丈が放たれた瞬間でもあった。
箍が外れた首無し妖怪の説教は深夜まで及んだ。唐代の逸話から、はたまた類友のペナンガランまで、赤蛮奇は舌の根が乾き、ベロンベロンになるまで語るに語り尽くした。
「う、ひぐ……だからあ、飛頭蛮は尊いのお……」
そしてとうとう、泣き上戸にまで語るに落ちたのである。
「あーはいはい分かった分かった、あんたは飛頭蛮、立派な妖怪様だよ」
「リグル……あんたいい奴ね、蟲なのに温かいじゃない……!」
すっかり潰れた赤蛮奇の肩を担いだのは、リグルだった。
「いいのかい?」
「将来の常連さんだからね、今日は先輩の私が付き合ってやるさ」
普段共に帰るのは影狼の役だ。それが、今宵は違った。この小さな変化に、影狼はんふっと笑みを零した。
「悪いわね、今度奢るわ」
「気遣いなら無用だよ。あ、ミスティア、お代は今度でいいかい?」
「ちゃんと払ってよ?」
「踏み倒す仲でも無いだろう? それじゃお疲れ様。ほら行くよ飛頭蛮、あーもう首持って、ほら、落とさないの」
「うえ゛え……っ、あり゛がとう、こんなわだしにぃ……! さっきはっ、さっぎは! 木っ端とか言ってごめん゛ねえ……!」
「わーったわーった気にしてないから!」
ずりずりと頭の抜けた赤い妖怪にひらひらと手を振りながら、影狼はほうっと小さく息を吐いた。
「……いつもありがとね、女将さん」
「慣れっこですよ、こう言うのは」
「そうじゃなくて」
空の皿を片付けるミスティアに目を配りながら、影狼は続けた。
「あの子に付き合ってあげてさ」
「……あ、やっぱ気付いてました?」
「あの子の名前は?」
「飛頭蛮の赤蛮奇」
「……ふっ」
「ふふっ」
満月を見上げる屋台に、僅かな静寂が流れた。
「あいつ昔っから人と絡むのが苦手でね……あんなによく喋る赤蛮奇を見たのは今日が初めてかも」
「でも、さすがに今日はちょっと焦ったわ~」
「洗面器は流石に駄目だって」
「私も女将としてはまだまだってとこかしらね~」
ミスティアは、懐から一冊のメモを取り出し、開いた。『飛頭蛮、地雷原、避雷針、胡蝶蘭』……そこに書かれていたのは、傍から見れば何のことだか分からない、三文字の羅列であった。
「でも、やっぱここは私の屋台だからさ、この店の、この夜の楽園の王は私じゃない?」
新たに言葉を書き記し、ミスティアはそれを懐に戻した。
「だったら皆で馬鹿騒ぎして、洗いざらい曝け出してもらわなきゃ、私が困るわけよ」
「まったく、人の悪い王様ね」
「人間にとっては悪い王様よ」
にっと歯を見せ、ミスティアは空になった影狼の猪口に残りを注いだ。
「あ、ところで次は『ナズーリンの黒板消し』あたりでどう?」
「そろそろ常連認定しなさいよ」
「慣れたあたりで認めたげるわよ。王様の審査は厳しいの」
空の徳利を片手に、夜の王は意地悪く微笑んだ。
ミスティアの店主としてのスタンスも興味深かったです
キレる蛮奇も火に油を注ぐミスティアもフォローする影狼も煽るリグルも全員良いキャラしてました
仲間内で気軽に軽口を叩ける仲というのは素敵なものですね
蛮奇ちゃんは酒癖悪そうだなぁと読みながら思いました。
みすちーいい女だなぁ
次は『えーりんの玉の輿』あたりなんてどうでしょうか?
いい雰囲気、とっても楽しめました。
笑えてほろりと落ちるタイプ好きです
日本人に中国人と言うくらいには違います
傍から見れば元は同じ中国人だろと思うのかも知れませんが