さようなら、アン・シャーリー
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木漏れ日、という表現はここに来てから学んだ。木々の葉を透けて地面に届く太陽の光なんてなかなかロマンチックな表現だと思う。全身で太陽の光を浴びるより木漏れ日をさりげなく浴びる方が人間にとっては心地よいのだろう。ただ、吸血鬼である私にとってはどんな形であれ太陽の光を浴びるのはご法度だ。だから太陽ではなく月の光で置き換えて木漏れ月なんて表現はどうだろう。そんなことを以前お姉様に言ったら笑われてしまった。人間は私たちほど目がよくないから月の光はわからない。だからその言葉は広まらないだろうって。別に人間にはわからなくてもいいと思う。現に私は木漏れ月の下で本を読める。木にもたれながら本を読むのも雰囲気があってよいと思う。
足音が聞こえてきたから顔を上げると咲夜がいた。私には彼女の顔ははっきりと見えるけど彼女は私の顔がよく見えてないかもしれない。
「妹様、御食事までもう少しかかります。申し訳ありません」
「わかった。けど、珍しいわね」
「最近妖精メイドに料理を経験させているので」
曖昧な返事を返して、今さっき読み終わった本を咲夜に渡した。
「これ、気に入ったから写本を頼んでもらって」
「妹様」
「なによ。約束は守ってるはずよ」
「写本の回数ではなくて、妹様も貸本屋に行かれてはどうでしょう」
顔を上げて咲夜の顔を覗き込む。館にいるときの彼女は表情をなかなか変えないから、なんだか物足りなさを感じることがある。もっと表情があってもいいと思うんだ。
「めんどくさいから、いい。物語なら何でも読むから」
「ご自身で選んだ方がずっと面白いと思いますよ。お供します」
「気が向いたら行くわ」
要するに今はその気がないのだ。外に行かなくったって面白いものは本の中にたくさんある。パチュリーの図書館と人間の貸本屋からの本があればきっと私の一生のほとんどはそれに尽きっきりになるだろう。現実の誰かに向き合うよりも、本の中の方がずっと興味深い。
そもそもこっちに来てから一度気まぐれに外に出ようとしたら疑われて、外に出してくれなかったではないか。まあ、その時のおかげで弾幕戦を知ることが出来たから無駄な行動だとはあながち言えないが。
「ぜひ来てください。お嬢様も喜びますわ」
どうしてよ。私のことなんて大して気にしてないでしょうに。
なんだかむしゃくしゃしたから、咲夜への返事はおざなりにして自室に向かうことにした。お気に入りを読んで気分転換しよう。
あそこには私の好きな物しかない。
-2-
今日はいくら待ってもお姉様が来ないから、部屋に呼びに行くことになった。食事が運ばれているのに来ないなんてよっぽど忙しいんだろうか。
「お姉様。もうご飯来ちゃってるよ」
何度ドアをたたいても返事がないから部屋に入ってみる。入っても姿が見えないから、まだ寝てるのかと思いベットに近寄ると本当に寝ていた。表情一つないお面のような寝顔だ。
こんな時間まで寝るとは何をしていたのだろうと思った。マナーや礼儀にうるさいお姉様らしくなかった。
「起きて。ご飯だよ」
揺さぶろうとして触れた瞬間、驚いて手を引っ込めた。もう一度、今度は頬に触れてみる。
太陽の光を浴びて暖かくなった芝生のようで、吸血鬼の肌にはあるまじき暖かさだった。
「なんで私が行かなきゃいけないの」
パチュリーはいつもより険しい表情で私をにらんでいた。イライラしているのは理解できるけど私だって主張したいところは主張する。
「咲夜とか小悪魔とかいるでしょ。そっちの方が早いでしょ」
「咲夜は神社にいる。前々から約束があったのよ。私は様子を見ながら魔法陣の調節をしなきゃいけないし、小悪魔は魔力の供給源に使いたいの。自由に動けて、最短時間で永遠亭に行けるのはあなただけなの」
「だったら、美鈴でも同じでしょ」
「いつもいる門番がいなくなれば不審がられる。まだ外部に気づかれるわけにはいかないの」
「じゃあ私が神社に行く」
「だから、外部に気づかれたくないの。霊夢や魔理沙も同じよ」
屁理屈のせいで私は言い返せなかった。妖精メイドに薬のお使いを頼むわけにはいかない。普段からさぼってばかりいるのだ。
パチュリーは本を読んでいるときとは違う目つきをしていた。眉間にしわを寄せて、針の穴から覗き込んですべてを見極めようとするかのような鋭い目だった。
「大丈夫よ。手紙も代金もこっちで用意する。極端な話、黙っていてもできる簡単なお使いよ」
すこしずつ外堀が埋められてしまって、逃げ道がなくなってしまった。館の外にまともに出たことがないのにそんな重荷を背負いたくなかった。
「なんか、パチュリーらしくないね。いつもなら自力でなんとかしようとするでしょ」
捨て台詞に一瞬押し黙っていたけど、パチュリーは小さくため息をもらした。
「そもそも、吸血鬼が体調不良になるなんて前代未聞よ。どれだけやっても反応がないし、どこの本にも書いてないんだから、頼れるものには全部頼るわ。手遅れになる前にね」
最後のセリフで足元が揺らいだ気がする。あんなのでも長い時間一緒にいた姉でいろんなものを共有してきたのだ。いなくなったらどうなるんだろう。崖から突き落とされたみたいに何もかもが終わりになってしまうんだろうか。
「いい、フラン? あなたがここで好き勝手にやれるのはレミィがいるからよ。いなくなったら全てが変わるの。別にレミィの為でなくてもいい。あなた自身のために薬を貰いに行ってきなさい」
そう。どんな理由であろうと今を守るためにはいかなければいけないのだ。
-3-
これまでお出かけといえば館の壁の外側を歩くくらいだった。視界のどこかには館が常に入っていたので館を背にして歩くのはこれが初めてだった。
「フラン様、お気を付けて。永遠亭はあっちの方角です」美鈴が示した方向には何もないように見えた。
背負った荷物の重さを意識しながら、家がどんどん小さくなっていくのを何度も振り返って確認した。
家が見えなくなったって星の位置から方向を間違えることはない。間違えないように、ずっと星ばかり見ていると星座とかそれにまつわる物語を思い出してしまう。そのうち隣り合った星座から話を空想したりする。雲に隠れて見えなくなったりするときっと喧嘩したんだろうとかそんなことを考える。空想は私の不安も孤独も埋めてくれる。
「なにしてるの?」
唐突に声が聞こえて、そちらの方を向くと同じくらいの身長の女の子がいた。黒服に金髪で赤いリボンをつけている。この時間に一人でいるということはきっと妖怪なのだろう。
「なんでもいいでしょ」
「うん、なんでもいい。背負ってる物見せてよ」
会話がかみ合っているのかいないのかよくわからない。
「やだ、あんたには関係ないでしょ」
「だったら見ても問題ないでしょ」
売り言葉に買い言葉みたいな感じで会話するのも面倒になってきたから無視して歩こうとする。アイツはわずかに地面から浮きながら私の後ろを追いかけようとする。
「あなた吸血鬼の館から来たの? そっちの方向から来たけど」
「そうだけど」
「じゃあ、吸血鬼なんだ」
そのとたん背中がぞわっとして髪の毛の先が逆立った感じがする。嫌な予感がして振り向いたんだけど、目の前にアイツはいなかった。
いや、ちがう。私の周りが真っ暗になっていて何も見えないんだ。星も、月も、雲も見えてなかった。こんなんじゃ目をつぶっているのと同じだ。
「うわっ」何かが私の肘を触った。
どこからか笑い声が聞こえてきた。遠くから馬鹿にするような曖昧な笑い声。
首とか背中とか色んな場所を触られて不気味だった。相手を傷つけるためじゃなくて、純粋に相手のうろたえる様子を楽しむために思えた。
ひょっとしたらこの暗闇から抜け出せるんじゃないかと思って走り出した。けど、どんなに走っても月の光は見つからなくて、ついに転んでしまった。
あざけるような笑い声が聞こえてくる。
「情けないね。吸血鬼ってそんなに弱いの?」
一瞬だけ呆けてしまったけど不思議と落ち着けることができた。私はそんなに立派な吸血鬼だとは思ってないけど、種族を馬鹿にされて黙っているほど気弱ではなかった。昔から口酸っぱく言われていたことを思い出す。
身構えながら感覚を研ぎ澄ます。音とか、気配とかを探り出す。
何かが肩に触れる予感がしたからそれをつかんで思いっきり地面に叩きつけた。
「痛い、痛い。もう降参」
その声を合図に月の光が降り注いだ。私はアイツの腕をつかんで地面に押さえつけていた。
「許さない」
奴の『目』を探そうとする。やばそうな気配を察したのか、私の顔を乞うように見上げてきた。
「やることあるんでしょ。私よりもそっちやりなよ」
いちいちこいつの言葉はムカつくけどその通りではあった。太陽が昇るまでという制限時間がある。
無言でどいてやると私の顔を見ずに飛んで行った。
なんて邪魔だ。幸運にも方向は大きくずれてないから、もうすぐ到着するはずだ。
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目の前には見たことのない森があった。風の吹くたびに聞こえる葉のこすれる音は聞き覚えがあるけど、姿はまるっきり私の見る木ではなかった。月明りにも見える鮮やかな緑色と筒状の固い幹、縦筋の入った細長い葉っぱも珍しかった。切り取った細い竹なら館でも見たことあったけど、こんなに密集して生えているのは初めてで素敵だった。なかに入ればきっと別世界が広がっているんだ。
入ってみたい衝動に駆られたけどパチュリーに言われた通りに入口の腰掛に座った。座っていれば案内の人が来てくれるはずだ。たぶん何らかの魔法か、術式が組まれているのだろうと推測した。
じっと座って竹を遠くから見つめる。確か、ここの古典に竹の中からお姫様を見つける話があった。私も歩いていれば何かをみつけることができるだろうか。キラキラした宝石が詰まった竹はあるのだろうか。
遠くから足音と共に白い雰囲気を纏った人が見えてきた。 髪が不思議なほど白くって闇の中から浮かび上がってきたようだった。暗闇にも負けない強そうな人に見えた。
「こんな時間に案内とは珍しいね」
慌ててスカートの両裾を持ち上げて挨拶をする。
「フランドール・スカーレットです。永遠亭までの案内をお願いします」
「藤原妹紅です。中は暗いから気を付けて」
あっという間に背を向けて、竹林の中に入っていった。そっけない人だ。
中はざわめきが絶えなかった。ざわめきはまるで生き物のささやき声のようで、自分の見えていないどこかを走り回っている何かがいるのかもしれない。獣道を一歩外れると枯葉が大量に散らかっていて、茶色のカーペットのように見えた。カーペットの隙間から生えた竹の緑色が浮かび上がって綺麗だった。
「ひょっとして、霧の湖にいる吸血鬼の妹? あんまり外に出ないって話を聞いたけど」
突然質問を投げかけてきた。
「そうです」
「やっぱり、人間のメイドと一緒にお姉さんを見たことがあるよ。はた迷惑だったな」
「その節はご迷惑を」
「いやいや、あいつらは騙されてたみたいだし。特に怒ってないよ」
一瞬だけ沈黙が広がったけど、またしゃべりだした。
「あんたがここにいるってことは吸血鬼の家はよくない状況だな。主だったメンバーがトラブルに巻き込まれて動けない。そして全体も混乱しているから、フリーな妹が駆り出されたわけだ。で、永遠亭に行くってことは病気になったってところだな。病気になりやすいのは人間のメイドかな」
ほとんど合ってる。きっと私と会った時から考えていたんだ。けど、吸血鬼が体調不良とは思いつかなかったみたいだ。人間の病気の方がずっと自然だろう。
「ごめんなさい。具体的なことは言えません」
「それ自体、私の推測を認めるようなものだよ」
ひょっとしてこの人は状況を利用して何かするんじゃないだろうか。誰かに告げ口するとか館に乗り込むとか。
「確かに体調の悪い人はいますけど、館はそんなに混乱してないです。重要な人が体調不良になったら私より偉い別の人が行くのが自然でしょう?」
「あんたは偉くないの?」
「全然。館の隅で読書にふけってばかりなの」
「それもそうか」
嘘というには小さい嘘だけど、考えをそらすことはできたかもしれない。
自分で言ったことだけど、私がお姉様の薬を取りに行くのは自然でもあり、不自然だ。姉のために妹が動くのはおかしくないけど、もっと信頼のある別の人が行くのが道理だと思う。私は館のお仕事には全然関わっていないのだ。さっきは言いくるめられたけど、腑に落ちない気持ちがずっとしこりを作っている。
「本好きだから、あまり外に出ないの?」
「本を読んでいると出るのがめんどくさくなるの。幸い家には本が山ほどあるし」
興味のなさそうな曖昧な返事が聞こえてきた。私の方に顔もむけない。
「あなたは本読まないの?」
「学術系なら読むことはあるけど、物語はとんと読んでないね」
「どうして?」
「事実は小説よりも奇なりっていうだろ。色んなものを見すぎてしまって、もう驚くことがなくなったんだ」
よくわからない、含むところが多そうな発言だった。この人は私よりも年上なのだろうか? それとも、ずっと館にいる私は経験すべきことを経験していないのだろうか? 経験がないから本に没入してしまうのだろうか?
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案内された永遠亭は木や草や紙で作られていて館とは全然違っていた。雨に打たれれば腐ってしまうのではないかと疑うくらいに私のところとは全然違う。本当はもっと見物したかったけど、早々に診察室に案内されてしまって出来なかった。
診察室は雰囲気を変えて真っ白で変な匂いをたくさん感じた。時々物語の中で病院の中で不安がっている場面があったけど、こういう匂いのする空間なら不安がっていてもおかしくないと思った。目の前にいるお医者さん、確か八意とか名乗っていたけどその人の返事を待つ時間が長く感じた。
「手紙は読みました。お姉さんの薬なら用意できます」
「ありがとうございます」
「ただ条件が一つ」
条件と言われて、なんとなく手を握りしめた。
「お姉さんは吸血鬼でしょう。体のつくりが人間とは違うはずだから、薬のつくり方も変える必要があるの。で、参考に妹のあなたから血液を採らせてほしいの」
予想外の内容にのどを絞められたような気がした。返事が出来ず、そのまま黙っているとウサギの耳をつけた人が銀色のお盆を持ってきた。銀製というわけではないだろうけどお盆の上に載った注射器が見えて息苦しくなってきた。注射器が照明を反射して、太陽を目の前にしているかのようだった。
「やらなきゃ……ダメですか?」
「駄目ね。変な薬を渡すわけにはいかないもの」
どうしてそんなことをしなきゃいけないのだ。だって私は吸血鬼だ。血を吸う側であって、取られる側じゃない。お姉様の為であっても種族のプライドはもってしかるべきだろう。
「嫌なの? 大して痛くはないわ」
視線をおろして両ひざにのった自分の手をじっと見つめていた。
そうじゃない。痛いとか怖いとかそういう話ではない。
「こんばんは」
突然声が聞こえてきて振り向くと、綺麗な女性がいた。黒髪の長髪で、いかにもお屋敷に住んでいるお姫様といった容貌だった。子供っぽい、けど親しみの持てそうな笑顔で手を差し出してきた。
「蓬莱山輝夜というの。よろしくね」
私も握手を返す。
「フランドール・スカーレットです」
ふと、この握手に違和感を感じた。目の前の人は相変わらずの笑顔で何かを楽しんでいるかのように見えた。
試しに力を強く入れて相手の手を握る。けど、彼女は全く表情を変えなかった。
そうだ。この人は私と全く同じ力で握り返してる。見た目は奥ゆかしいけど、かなりの力持ちだ。
「あなた、強いじゃない。そのくらいなら注射の痛みなんて平気よ」
余裕たっぷりの笑顔だった。励まそうとしているのがなんとなくわかった。
「針が刺さる痛みなんて大したことないわ。ちょっと時間がたてば忘れてまた笑顔になれる。けどね、家族を失う痛みってそれどころじゃないのよ」私の胸を指さす。「そういう時ってねここが痛むの。しかもすごい長い時間、忘れようとしても忘れらないくらい。あの時ああすればよかった。こうすれば違う結果になったのではないか。そんなことをいつまでも、考えるたびに痛みがくるの。だからね、今やれるベストを尽くしなさい」
正直、初対面の人にここまで言われるのは嬉しくない。まるで説教されてるみたいだし、失礼じゃないのかと思ってしまう。
けど正しいとは思う。何のためにここまで来たか忘れるわけない。
小さくうなずくと優しく頭を撫でて、私を軽く抱きしめた。
「このままやっちゃいましょう」
そう聞こえて、私の右腕を机の上に乗せた。
暗い視界の中で腕にヒモのようなものが巻かれて、冷たい水をつけられた。そしたらすぐに痛みが一瞬あって、腕に異物がある違和感と何かを奪われる感触があった。
血を取られているんだなと思いながら、目の前のお姫様の香りが私の注意を引いた。植物のにおい、竹とか葉っぱとかを連想させるこの家らしい匂いで普段かぐことのない匂いだった。この匂いがこの人を作ったのだろうか。私の匂いはどう感じるのだろう。
「終わったわ。偉かったわね」
お姫様が私から離れると明るくなって、腕の絆創膏が目に入った。ちょっとだけ赤い点がにじんでいて、それだけが血を取られた証拠となった。
「フランドールさん、またいらっしゃい。お客さんとして歓迎するわ」
満足した顔でもう一度握手すると、診察室の奥に消えていった。
ウサギの耳をつけた人が目でお姫様の消えていく姿を追いかけていた。
「相変わらずですね」
「そうね」
八意さんも同意していた。
「採血ありがとう。これから薬を作るからちょっと待っててね」
「すいません、太陽が昇る前には家に着きたいので早めにお願いします」
「ええ」
そう言うと八意さんは私の血を入れた容器を持って奥に行ってしまった。その時一瞬だけ、私の血が目に映った。
私も赤い血を持った生き物なんだなと妙な満足感を感じた。
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「お疲れ様」
藤原さんはずっと外で待っていた。せめて中で待っていればいいのに。
「もう帰っても大丈夫かな?」
「はい。お願いします」
門をくぐろうとすると八意さんに呼び止められた。
「頑張ってね。夜明けは近いわ」
「はい」
手を振って、見送ってくれた。
帰り道はなんとなく見覚えがあるから、それほど神経質にならなかった。背中の荷物は行きより重くなって、それが私の背中を押しているような気がする。
ずっと目の前には藤原さんの背中が合って、髪の毛が一定のリズムで揺れているのを眺めていた。行きも帰りも不思議なほどぶっきらぼうで無口で、私より人見知りなのかと思ってしまう。
「永遠亭でお姫様みたいな人にあったんだけど、黒髪の綺麗な人」
話題を振ってみると、少し歩みを遅くして、振り返って私を見つめた。なんだか温度の無い冷ややかな視線だった気がする。
「なんか言ってたか?」
「また来てねって言われた」
「またか。変わったやつが来るとすぐに首を突っ込んで自分のペースに引き込もうとするんだ」
「そうなんだ。思ったより積極的なんだね」
急に藤原さんが立ち止まる。歩いて横に立つと、上を向いていた。私も上を見るけどほとんど竹の緑色しか見えなかった。所々に黒い紙をちぎってばらまいたような夜の色が見えた。
「前に言われたことがあってな。好きなものだけに囲まれてたら楽しいけど、すぐにさび付いてしまうぞって。長生きするつもりならなおさら外を向かないとダメになるってな。説教は嫌いなんだけど、それだけは頭に残ってな。それがきっかけのひとつになって案内を始めたんだ」
「外を向いて、何か成果はあった?」
「まだ分からない。すぐに目に見える結果なんてそうそう手に入らないよ。それこそ水がしみて、芽がでて木になるくらいにはゆっくりやっていくよ。長生きはするつもりだしね」
すっと前にゼンマイ仕掛けのおもちゃをもらったのを思い出した。好きなおもちゃだったけどゼンマイが固くなって遊べなくなって興味をなくしてしまったのだ。どこにしまったのか今は思い出せない。
さび付かないようにもっと丁寧に遊べばよかったなと今更ながら思った。
もう少しで紅魔館だった。空が白みそうで、月とはお別れだと感じていた。けどこの分ならギリギリ間に合うだろう。
実はパチュリーの努力が実を結んで既にお姉様が目を覚ましていないだろうかという期待とも不安とも言えない気持ちが湧いていた。目が覚めていればどのみち構わないけど私の努力も役に立ってほしかった。話すことも一杯あったし、ほめてほしかった。
「また会ったね」
振り向かなくても誰が話しかけているのかわかる。せっかくだから嫌味たっぷりの表情で振り向いてやった。
「そんな顔しないでよ。綺麗な顔してるのに」
彼女の黒い服は夜明けを迎えそうな空よりも黒くて、置き去りになった夜を抱え込んでいるようだった。
もう喋る気もしなかった。急がなきゃいけないし『目』はもう見つけてる。これ以上邪魔する気なら本気でやるつもりだった。
数秒か十秒くらい黙って睨んでいたら、急に表情を変えた。おもちゃへの興味を無くした顔だった。
「つまんない」
ためらいもなく私に背中を見せて、拍子抜けだった。
「ちょっとなんで何もしないの?」
「だって、あんた怖がってくれないんだもん。ちょっかい出せないよ」
振り向きざまの姿勢で私を見つめる。彼女の後ろでどんどん空が黒から白になろうとしている。
「私はそんなに強くないから、隙のある奴じゃないと手は出せないよ。それなのにさっきとは別人みたいに違ってさ、どうしようもないよ。何かあったの?」
そりゃあ違うでしょ。さっきとは状況が違うし、身構える時間もある。そんなにたいしたことは無かったはずだ。
「何も無いわよ。元々がこうだっただけ」
「ふうん。ま、もう夜明けだから早く戻りな」
こんなのに気を使われるとは意外だったけど、空は確実に白み始めていた。
踵を返して走った。太陽の光を浴びないように影ができる場所を選びながら紅い外壁を目指す。
太陽の光を浴び始めた外壁は私が今まででみたことの無い色をしていた。今まで夜の外壁しか見たことがなかったのだから当然だ。
出発した時と同じ場所に美鈴がいた。
「おかえりなさいませ」
肩で息をしながら荷物から薬を取り出した。
「ただいま。これ薬だから渡してあげて」
受け取った美鈴は深々と頭を下げた。
「ありがとうございます。ご無事で何よりです」
あっという間に門の中に入って行って一人になった。ホッとして影に使った木にもたれかかった。これでお使いも終了だ。
ちょっと顔を上げて正面を見ると外壁がさっきより鮮やかに見えた。後ろを振り返ると正面の木が赤と青の色を帯びた空と風に乗って流れる白い雲の景色を縦に切り裂いていた。こんな景色外に出なければ見えなかっただろう。直接太陽を見られないのを勿体無く思ったことは初めてかもしれない。きっと素敵な大パノラマが広がっていることだろう。
躊躇いがちに手を伸ばして指先で光に触れようとする。
痛い。けど、注射の方が痛かった気がする。あのお姫様と似た匂いが風に乗って鼻を刺激した。
右腕には注射の絆創膏が残っていたから、剥がしてやった。風に乗って鳥みたいにどこかへと飛んで行った。
お姉様に言ってやるんだ。あんたの為に血を差し出して、太陽の光より痛い思いをしたんだって。
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「聞いたよ。薬を取りに行ってくれたんだってね」
ようやくベットから起き上がれるようになったので面会を許された。けど、お姉様の顔色はまだよくない。本当なら静かに会話するべきなんだろうけど、お使いが成功した興奮でついつい話しすぎてしまう。
「本当に頑張ってくれたんだな。フランが外に出たなんて聞いて最初は信じられなかった」
「そうね。五百年くらいかな」
「きっかけは何だっけ?」
「忘れた。本に熱中して面倒だったとしか覚えてない」
「外は楽しかった?」
「怖い思いも痛い思いもして、手放しに楽しいとは言えないわ。けど、本だけでは見られない景色も見たし、経験できない思いも経験できた」
お使いを思い出して、少し微笑んだ。まだ言ってなかったことがあった。
「あとは……そうね、無事に帰れたってのが変に嬉しかった」
言葉が途切れて黙り込んでしまったが、その沈黙は重たいものではなくシーツで体を包むような柔らかさを伴っている気がした。二人そろって今の言葉をかみしめていた。
お姉様の顔が満足気に見えたのは私の錯覚だろうか。
「申し訳ないんだけど、頼みたいことがあるんだ」
突然の話の切り替えに面食らってしまった。
「外の世界にいる友人に荷物の配達を頼みたいんだ」
「パチュリーの魔法で届けてたでしょ?」
「手紙だけならね。重くてかさばる荷物は難しくて、直接渡す方が安全なんだ。私は長期で離れられないし、実は困ってたんだ」
目線をそらして、カーテンに覆われた窓を見た。あの先には危険で、広い世界があるはずだ。
「外の世界か。いまはどうなってるのかな?」
「バベルの塔が雨後の筍みたいにたくさん生えてる世界だよ。少なくとも、私たちには優しくないな」
私の興味を引きそうな言い回しを使うのがなんとも憎たらしい。
私の知っている世界は平坦で、天を貫くような建造物を見たことがなかった。
「危ない場所だよね。持っていくものは気を付けないと」
「詳しくはパチェに聞いてくれ。持っていく荷物もパチェが準備しているから」
「わかった」
椅子から立ち上がって、部屋を出ようとしたところで立ち止まった。
「お姉様……もし、私が薬を取りに行かなかったら誰に頼むつもりだった?」
それを言ったとたん、お姉様の眼の色が変わった気がする。痛快というか、満足というか本当に楽しそうな表情だった。
「妹を疑う姉がどこにいる?」
「馬鹿じゃないの?」
「パチェにも言われたよ」
平手打ちを喰らったような気分で、思わずよろけてしまった。
-8-
魔法の本、地図、日光対策の道具、それと頼まれた荷物。それで持ち物はいっぱいになりそうだった。私の私物なんてほとんど持って行けそうにない。
長い間ここを離れることになるから、部屋も一緒に片づけていた。私の背と同じ高さに積みあがっていた本の山を崩して、本棚にしまう。全部入りきらなかったらどうしよう。パチュリーに頼んで本棚を借りることになるかもしれない。
部屋のドアをノックする音がした。
「はーい」
「失礼します」
咲夜が入ってきた。
「これですが、依頼されていた写本です」
「ああ、忘れてた」
受け取った本の表紙を眺める。この物語はとても好きだった。彼女くらい眩しい視線で世界を眺めたいと思っていた。
「フランドール様」
「何」
咲夜が私の名前を呼ぶのはいつぶりだろう。
「ありがとうございます」
「何が?」
「薬を取りに行ってくれたこと、すべてです」
「ああ、そうね。けどすっかり騙されたわ」
持っていく荷物を横目で見る。
「一か所だけかと思ったら、いくつも頼まれたの。あれだけため込んでいたなんて信じられない。すぐには帰ってこれそうにないわ」
この部屋を離れるなんて思いもよらなかった。この部屋とここの本が私の大部分を占めていたのだ。
部屋を見渡す。しばらくこの部屋は空っぽになる。けど、私自身が空っぽになるわけではない。本の世界が館の外に置き換わっただけだし、永遠の別れでもない。
「けど、フランドール様。ずいぶん楽しそうに見えます」
「咲夜」
「はい。失礼しました」
そういって咲夜は部屋から出て行った。
残された私は手元に残った本をじっと見つめていた。持っていく荷物と交互に何度も見る。このくらいなら持っていけるだろう。
対話するように、じっと本を見つめる。
けど、開くこともなく、本棚にしまった。
バイバイ、アン・シャーリー。もう一度会いたかった。
けど、あなたは連れていけないの。これから行く先に必要なのは生きるための力と知識なの。あなたは心の支えにはなるけど、それじゃあ足りない。
もう貰ったから。あとは私一人で大丈夫だから。
けど……
絶対帰ってくるから。また会いに来るから。
あなたぐらいに立派になって帰ってくるから。
その時は、よろしくね。
妹様の旅がついに始まったのだと、門出を祝うような心境です。
彼女の旅に幸多からんことを願います。
フランドールさんのちょっと理屈っぽい言葉遣いとか、感情を理性で抑えているような”らしい”語り口が見事でした。
赤毛のアンの設定を思い返していると、フランさんの心情にも迫れるように思います。それでいて抑制が効いているので、想像の余地がありました。
妹紅さんや輝夜さんとのやり取りも素敵でしたね。以前から拝見していますが今作がいちばん好きかもしれないです。
ラストのアンシャーリーのくだりでやられました。
気持ちの良い終わり方で面白かったです。
生きるための力と知識なんて当たり前に生きてりゃそれなりに手に入んだから、わざわざ別れを言う必要なんざないと思いつつ、それもフランなりのケジメなんだろうと、そんなふうに思いました
特に、フランの心境を示す地の文がどれも素敵です。
お使いを経て少し成長した気がするフランがとても可愛らしかったです
すべてのことばのチョイスが大好物です。
題名とつながりました。
とても良いさようならでした