不穏な音を立てていたエンジンがついに止まった。ボンネットを開いてみても、私が出来るのは闇雲に手を汚すことだけだろう。それが科学技術を利用するということだった。
私はSUVの運転席に備え付けられた合成革のシートに沈み込んで、図体ばかり大きいこの車に屋根が無いことを恨んだ。
ああ、オンボロのエンジン。それに目を閉じていても網膜が焼けそうなこの日差し。
さっきまで何十分もノロノロと一本道を走り続けて、全くスピードの出ない車にも、暑すぎる太陽にも、異国の自然の雄大さにも、うんざりするばかりになっていた。果たしてどこまでも褐色の平地が続くことに私は感動するべきなのだろうか。どうであれ、そんなことに頭を悩ますのなら状況を打破する行動を起こすべきだった。
私はこの車が再び動くことは無いだろうと理解しつつも、やけっぱちな勢いでギアを入れ直してはキーを捻ってエンジンを再始動しようとした。普通なら日が高いうちにサポートを呼ぶべきだが、あいにくと電話はおろか、この国の貨幣も、免許証も、何一つ持っちゃいない。気がつくとこの長い一本道に呆然と立っていたのだ。
私が現在持っている財産は、常に左右のポケットに持っている幾つかの貴金属類、そして自分自身――強きを挫く精神だけである。
もはや鉄くずとなったこの車は、私が放り出された所に放置されていたものだ。もし持ち主がいたのなら、壊れかけのエンジンを積み替えなかった事を今すぐに怒鳴りつけてやりたかった。
私は車を諦め、ドアを飛び越えて焼けるコンクリートに降り立った。舗装された果てしない道の上で、急に二本の足が頼りなく思えた。いったいどうやってこの道路を渡りきればいいのだろう。なぜ私はこんなところにいるのだろう。ヒエラルキーやイデオロギーといえるほどの何かが、赤茶けた大地のどこにあるのだろう。まったく途方に暮れる様なことばかりだ。水平線がどこまでも私を取り囲んでいた。
とにかく、何か自分の位置を知る手がかりが欲しかった。それには空を飛んでみるのが一番だろう。外の世界で真っ昼間から飛行すると色々なモノに目をつけられる原因になるが、今はそんなことに構ってられなかった。集中し、反転する重力をイメージすると、体が浮き上がり――
「ダーメ」
頭の中に女の声が響いて、私を持ち上げる力が霧散した。正体は聞くまでもない。少し、安心もしていた。この状況が明確な悪意のもとにあるのなら、上手くやれば切り抜けられるはずである。
「見ていてくれたとは、嬉しいね」
「お仕置きだもの」
「この素晴らしい道路と車を用意したのはアンタかい?いや、なかなかの乗り心地だった」
「あらありがとう、用意した甲斐があったわ」
姿を現していたら、殴ってやるところだったのだが。
「それで、何がお前の望みなんだよ。虫けらみたいに私を弄んで干からびさせることか?」
「そうねえ……じゃあ、クイズをしましょう」
今思いついたように言うが、こんなところに連れてきた時点で考えがあったはずである。こいつのこういう態度が私を苛つかせる。もう一度反則で叩きのめしてやろうか。でも道具がないんだった。
「この地点から最寄りの街にたどり着くには、前に進むか、引き返すか、どちらが近いでしょうか。あなたが正解だと信じる方向に進むのよ。どう?」
「正解したら何かくれるのか?」
「そのときに考えるわ。出来る限りの望みは叶えましょう」
何が言いたいのか、なんとなく見えてきた。つまり賢者様は、このクソ長い一本道を私に歩いて欲しいんだ。
なまじ賢いとこういうくだらない遊びを思いつくんだな。
「もし私が道路から明後日の方向に歩いたら?それか、いつまでもじっとしていたら?」
「私はなにもしません。ただ、あなたが勝利すれば必ず何かを与えましょう」
「まあいい、今の私はどちらにせよ動かないといけないんだ。乗ってやろうじゃないか」
「やけに物分りがいいのね」
「チャンスが巡るまでは頭を垂れ続けるのが私のやり方なのさ」
「あら、それじゃあ式神にしちゃおうかしら。骨のある奴が欲しかったのよ」
「高名な賢者様の式神とは、是非ともなってみたいものだな」
クスクスと笑って、声は消えた。
私は迷わず前に進んだ。迷った末に間違った道を進んだりすれば、それはヤツの術中にハマるということだ。強者を楽しませてなどなるものか。私はアイツを思い切り退屈させるつもりだし、何日でも淡々と歩き続ける覚悟はできている。するべきことが見つかると、みるみる力がみなぎってきた。今なら辞書を一ページ目から読んでいくことだって出来る。それでも、日が暮れるまで歩き続けて一向に景色が変わらなければ気力を保ち続けるのが難しくなってくる。振り返ると、乗ってきた車が豆粒ほどの黒点に見えた。つまり、未だに車が見える距離までしか進んでいなかった。人の足というものはつくづく鈍重である。私は再び前を向いて、重くなった足を引きずり始めた。満点の星空も見慣れたものだ。空に浮かぶ逆さ城からはこういう夜空を見下ろすことができて、なかなかの眺めだった。
私は初めて車を運転した時のことを思い出した。戦後のことだ。忍び込んだ成金の豪邸から盗み出したスカスカのアメ車で往来をかっ飛ばして、結局は公衆電話にぶつけてお陀仏にしてしまった。その時の相棒は誰だったかな、幻想郷に入るときに色々な記憶を失ってしまった。「前を見ろ!」そうだ、その叫びだけは覚えている。本当は、相棒に車をくれてやりたかった気がする。でも私は反逆のスピードに夢中だったんだ。
片足に体重を乗せてはもう片方の足を踏み出す。歩くということはその繰り返しだ。なぜか、それだけで進めてしまうのである。朝日が夜空を照らし始めた。私は進む向きを間違えたのだろうか。車で走った距離は長くはなかったし、引き返すという選択肢もあった。それでも、一度走った道を再び歩きたくはなかった。汗水垂らして、自らの行為が無駄であったと証明することになんの価値があるだろう。詰まるところ、私自身に従う限り選択の余地はなかったのだ。
アイツはちゃんと退屈しているだろうか。私は歩き続けるだけだし、自然は相変わらず巨大なスケールで広がっている。
日が出てきたお陰で、進行方向の道の脇に一本足の看板が現れた事に気付いた。たっぷり時間をかけて近付いてみると、青い看板は、白い矢印で私がやってきた方向を示していた。その上に、外国語で地名らしきものが書かれている。
私は看板の端を思い切り殴って半回転させた。
私はSUVの運転席に備え付けられた合成革のシートに沈み込んで、図体ばかり大きいこの車に屋根が無いことを恨んだ。
ああ、オンボロのエンジン。それに目を閉じていても網膜が焼けそうなこの日差し。
さっきまで何十分もノロノロと一本道を走り続けて、全くスピードの出ない車にも、暑すぎる太陽にも、異国の自然の雄大さにも、うんざりするばかりになっていた。果たしてどこまでも褐色の平地が続くことに私は感動するべきなのだろうか。どうであれ、そんなことに頭を悩ますのなら状況を打破する行動を起こすべきだった。
私はこの車が再び動くことは無いだろうと理解しつつも、やけっぱちな勢いでギアを入れ直してはキーを捻ってエンジンを再始動しようとした。普通なら日が高いうちにサポートを呼ぶべきだが、あいにくと電話はおろか、この国の貨幣も、免許証も、何一つ持っちゃいない。気がつくとこの長い一本道に呆然と立っていたのだ。
私が現在持っている財産は、常に左右のポケットに持っている幾つかの貴金属類、そして自分自身――強きを挫く精神だけである。
もはや鉄くずとなったこの車は、私が放り出された所に放置されていたものだ。もし持ち主がいたのなら、壊れかけのエンジンを積み替えなかった事を今すぐに怒鳴りつけてやりたかった。
私は車を諦め、ドアを飛び越えて焼けるコンクリートに降り立った。舗装された果てしない道の上で、急に二本の足が頼りなく思えた。いったいどうやってこの道路を渡りきればいいのだろう。なぜ私はこんなところにいるのだろう。ヒエラルキーやイデオロギーといえるほどの何かが、赤茶けた大地のどこにあるのだろう。まったく途方に暮れる様なことばかりだ。水平線がどこまでも私を取り囲んでいた。
とにかく、何か自分の位置を知る手がかりが欲しかった。それには空を飛んでみるのが一番だろう。外の世界で真っ昼間から飛行すると色々なモノに目をつけられる原因になるが、今はそんなことに構ってられなかった。集中し、反転する重力をイメージすると、体が浮き上がり――
「ダーメ」
頭の中に女の声が響いて、私を持ち上げる力が霧散した。正体は聞くまでもない。少し、安心もしていた。この状況が明確な悪意のもとにあるのなら、上手くやれば切り抜けられるはずである。
「見ていてくれたとは、嬉しいね」
「お仕置きだもの」
「この素晴らしい道路と車を用意したのはアンタかい?いや、なかなかの乗り心地だった」
「あらありがとう、用意した甲斐があったわ」
姿を現していたら、殴ってやるところだったのだが。
「それで、何がお前の望みなんだよ。虫けらみたいに私を弄んで干からびさせることか?」
「そうねえ……じゃあ、クイズをしましょう」
今思いついたように言うが、こんなところに連れてきた時点で考えがあったはずである。こいつのこういう態度が私を苛つかせる。もう一度反則で叩きのめしてやろうか。でも道具がないんだった。
「この地点から最寄りの街にたどり着くには、前に進むか、引き返すか、どちらが近いでしょうか。あなたが正解だと信じる方向に進むのよ。どう?」
「正解したら何かくれるのか?」
「そのときに考えるわ。出来る限りの望みは叶えましょう」
何が言いたいのか、なんとなく見えてきた。つまり賢者様は、このクソ長い一本道を私に歩いて欲しいんだ。
なまじ賢いとこういうくだらない遊びを思いつくんだな。
「もし私が道路から明後日の方向に歩いたら?それか、いつまでもじっとしていたら?」
「私はなにもしません。ただ、あなたが勝利すれば必ず何かを与えましょう」
「まあいい、今の私はどちらにせよ動かないといけないんだ。乗ってやろうじゃないか」
「やけに物分りがいいのね」
「チャンスが巡るまでは頭を垂れ続けるのが私のやり方なのさ」
「あら、それじゃあ式神にしちゃおうかしら。骨のある奴が欲しかったのよ」
「高名な賢者様の式神とは、是非ともなってみたいものだな」
クスクスと笑って、声は消えた。
私は迷わず前に進んだ。迷った末に間違った道を進んだりすれば、それはヤツの術中にハマるということだ。強者を楽しませてなどなるものか。私はアイツを思い切り退屈させるつもりだし、何日でも淡々と歩き続ける覚悟はできている。するべきことが見つかると、みるみる力がみなぎってきた。今なら辞書を一ページ目から読んでいくことだって出来る。それでも、日が暮れるまで歩き続けて一向に景色が変わらなければ気力を保ち続けるのが難しくなってくる。振り返ると、乗ってきた車が豆粒ほどの黒点に見えた。つまり、未だに車が見える距離までしか進んでいなかった。人の足というものはつくづく鈍重である。私は再び前を向いて、重くなった足を引きずり始めた。満点の星空も見慣れたものだ。空に浮かぶ逆さ城からはこういう夜空を見下ろすことができて、なかなかの眺めだった。
私は初めて車を運転した時のことを思い出した。戦後のことだ。忍び込んだ成金の豪邸から盗み出したスカスカのアメ車で往来をかっ飛ばして、結局は公衆電話にぶつけてお陀仏にしてしまった。その時の相棒は誰だったかな、幻想郷に入るときに色々な記憶を失ってしまった。「前を見ろ!」そうだ、その叫びだけは覚えている。本当は、相棒に車をくれてやりたかった気がする。でも私は反逆のスピードに夢中だったんだ。
片足に体重を乗せてはもう片方の足を踏み出す。歩くということはその繰り返しだ。なぜか、それだけで進めてしまうのである。朝日が夜空を照らし始めた。私は進む向きを間違えたのだろうか。車で走った距離は長くはなかったし、引き返すという選択肢もあった。それでも、一度走った道を再び歩きたくはなかった。汗水垂らして、自らの行為が無駄であったと証明することになんの価値があるだろう。詰まるところ、私自身に従う限り選択の余地はなかったのだ。
アイツはちゃんと退屈しているだろうか。私は歩き続けるだけだし、自然は相変わらず巨大なスケールで広がっている。
日が出てきたお陰で、進行方向の道の脇に一本足の看板が現れた事に気付いた。たっぷり時間をかけて近付いてみると、青い看板は、白い矢印で私がやってきた方向を示していた。その上に、外国語で地名らしきものが書かれている。
私は看板の端を思い切り殴って半回転させた。
面白かったです
とても面白かったです
情景が凄まじいですし、何より「前を見ろ」との警句を文中に織り交ぜたのはハードボイルド的で素敵でした
あと本筋にはあまり関係ないですが「満点の星空も見慣れたものだ。空に浮かぶ逆さ城からはこういう夜空を見下ろすことができて、なかなかの眺めだった。」も新鮮な視点で好きです