『碧玉の夢 ~LoveLoveLove~』
年明け早々の地獄は非常に多忙である。
そもそも正月というものは、餅を喉に詰まらせたご老人や、羽目を外して浮世からも足を踏み外してしまった者など、めでたいイメージと裏腹に存外『事故』が多いものだ。楽園に等しい幻想郷といえども例外ではなく、むしろ浮かれポンチキの割合は格段に跳ね上がり、年間通じて一番死亡率の高い時期でもあった。
地獄が忙しければ、当然閻魔も忙しい。
むしろ地獄で一番忙しいのが閻魔といえよう。
連日連夜審議は続いて報告書を纏めるだけでも一苦労であり、今も執務室で頭の痛い案件に関する資料に目を通しつつ、徹夜続きで荒れた肌にまで悩まされているというのに。
「四季さま、結婚してください!」
そんな時にこんなトンチキを、それも部下であり同性である小野塚小町から告げられたら、問答無用に蹴り飛ばす以外選択肢があるだろうか、いやない。
「あ、待って! 話を! せめて話だけでも!」
瞬撃のローリングソバットで鼻っつらに足裏をめり込ませてやったのに小町は存外しぶとかった。
殺虫剤とか丸めた新聞紙の方が効果的だったかもしれない。
「その虫を見るような視線はマジ止めてください! 心が根こそぎへし折れそうです!?」
「てゆーかなんですかいきなり。脳に虫でも湧いたんですか? もし勤務中にも関わらず飲酒で酩酊してるというのなら二重の意味で首を切るので覚悟しなさい」
「飲んでません、誓って飲んでませんったら! だから話だけでも聞いてくださいって!?」
「むぅ」
思いがけず小町の瞳には、切実な、訴えるような輝きがあった。
不本意ながら小町が真剣なのは嘘ではなさそうだ。嘘を暴くプロの閻魔だからこそ信じざるを得ない。
「……それでどうしたというのですか? 言っておきますが貴女と結婚する気なんかこれっぽっちもありませんよ?」
「それはつれない……ああ、いや、あたいじゃなくてですね、いやあたいだってできるもんなら四季さまと結婚したいのですが、今回はそういうことではなく……」
「歯切れが悪いですね。何だというのです?」
「実は四季さまに紹介したい者がおりまして。ただその前に……ちょいとばかし話を聞いてもらえないでしょうか」
仕方ないですねと映姫が目で促すと、小町はこほんと咳払いをしつつ訥々と語り始めた。
無様で情けなくて。
一途でひたむきで。
閻魔に心を奪われてしまった――愚かな雄(おとこ)の話を。
§
物心ついた頃には、もう家族と呼べる者は誰もいなかった。
だがそれを淋しいと感じた事はない。
なにしろ生きる事は大変で、食うのも寝るのもやらねばならぬことが多すぎた。
天涯孤独な彼に対して里の者はみな親切にしてくれたが、それに甘えてばかりもいられない。
だから赤子時代を終えてからは、食い扶持を得るために毎日せっせと働いた。
何のために生きるのかなど、これまで一度も考えたこともなかった。
だからあの日、食い扶持を得るために無縁塚まで足を伸ばしたのも単なる日課に過ぎず。
何を期待したわけでも、
何か予感があったわけでもない。
ただ、いつも染み入るように静かな無縁塚がその日に限って妙に騒がしく、赤や青の眩い光がちかちかと明滅しているのに気付いて、こっそりと草場の影から覗いた瞬間――雷に撃たれたような衝撃に貫かれた。
宙に浮かぶ人影から眩い後光が差している。
赤と青の弾幕が激しく飛び交う中、黒い人影が右手に持った笏を振り下ろすと、一際眩い白光が天と地を繋いだ。その光に照らされて、影の顔が顕わになる。
意志の剛(つよ)い、碧色の瞳。
白光の眩しさ故に彼の目で認識できたのはそれだけであったが、それで十分だった。
その瞳の剛さに、彼は心を奪われた。
人影は誰かと戦っているらしい。
だが戦いの必死さのようなものは感じられず、人影の口元にも薄く微笑が浮いているように見えた。
眩さにも慣れ、身体つきから人影が女性であることも、各所に金をあしらった豪奢な服装も見て取れた。
その全てを美しいと思い、その全てを手に入れたいと思った。思ってしまった。
何かを欲しいと、心の底から思ったのはこれが初めてのことだった。
思わず足を踏み出して、近寄ろうと、もっと目に焼き付けようとしたところ、流れ弾を喰らって藪に転がりそのまま気を失った。
しばらくして目を覚ますと、もう人影も、誰の気配も残っていなかった。
がっくりと肩を落とし、未練たらしく無縁塚を走り回ってみたが見つからない。
その翌日も、翌々日も訪れたが、彼女の気配は豪も感じられなかった。
せめて、もう一度だけ――
それが何も持たず、何者でもなかった彼が、初めて抱いた望みである。
生きる意味も、死ぬ意味も、何もなかった彼が唯一抱いた願いである。
だから彼は、その瞬間から。
ただそれだけのために生きる――修羅となった。
§
「あー、そりゃ閻魔さまだねぇ。うん、あの格好はちょいと目立つしなぁ。間違いないでしょ、たぶん」
竹林で焚火を囲み、月を映した杯を満足そうに傾けながら、彼女は笑った。
彼女は俺の数少ない飲み友達で、あちこちに顔が利くせいか色んなことを識っている、とても頼りになる友人だ。あの人影を追って夜も昼も出鱈目に走り回っても埒が明かず、ようやく思いついて相談してみたら一発で答えが出た。本当に頼りになる友人だ。
「うん? どうすれば会えるかって? んー、そりゃ閻魔さまなんだし死んだら会えるんじゃない? って、ちょっストップストップ! なにいきなり焚火に飛び込もうとしてんのさ!? は? いやそりゃ死んだら会えるっていったけどさぁ、ちょいと思い切り良すぎんでしょ」
駄目なのかと問い掛けると、「駄目に決まってるでしょ、ったく」と呆れられてしまった。難しいものだ。
「あのねー、アンタはその閻魔さまに惚れてんでしょ? 嫁にしたいんでしょ? 自殺なんかしたらそっこー地獄逝きよ。つか会うまでもなく死神に三途の河へ叩き込まれておしまいよ。そんなのヤでしょ?」
それは確かに困る。
だが会うことしか考えていなかった俺は、嫁にしたいのだろうと言われて激しく狼狽してしまった。焦げた髭の臭いと相まってどうにも落ち着かない気分になる。
「うん? 会えるだけで十分だって? ちょっとなーに情けないこといってんのさ。雄なら夢はでっかく持ちなさいよね。応援してるからさー」
大分酔いが回っているのか、彼女はからからと笑いつつ俺の背中をばしばし叩いた。
痛い。
が、その痛みが俺に火を着ける。
やってやろうと、そう思わせてくれる。
だが悲しいことに俺は大層頭が悪い。どうすればいいのか解らない。
「そうねぇ。私も直に会ったことはないけど、偶に里へ説教しにくるって噂もあるのよね。よくわかんないけど、もっと善行を積めとかなんとか。だから善行とやらを積めばいいんじゃない? え、具体的にはですって? んー、んー、んーーー、人を助けたりとかかなぁ、よくわかんないけど」
ふむ、人を助ければいいのか。
よし、早速やるとしよう。
「え、おいちょっと何処いくのよ! ってこら待ちなさいってばー!」
彼女の声を遥か置き去りに、俺は里へと向かって疾る。心躍る。胸躍る。やるべきことが定まれば、あとはただ突っ走るだけだ。
身を裂くような冷たい風も、行く手を阻む濃い竹林も、全てが俺を祝福しているようだ。
気合一発月に吠え、牙を剥くような笑みを浮かべ、俺は里へと走り続けた。
§
甘かった。
見通しがあまりにも悪すぎた。というより前など全然見ちゃいなかった。
前にも言ったが、俺は頭が悪い。
おまけに不器用で笠ひとつ編めやしない。
取り柄と言えば、頑丈な身体くらいのものだ。
そもそも助けるとはどういうことなのか。
腹を減らした者に飯でも奢れば、それは確かに助けたと言えるだろう。
だが自慢じゃないが、この里で一番食うに困っている者といえば俺のことだ。俺を見た瞬間一目で解るのか、里の者はいつも俺に食い物を分けてくれた。
俺に食い物を分けてくれた人々は、死んだら彼女に会えるのだろうか。ちょっと羨ましい。
それでも何かないかと里中廻ってみたが、そもそも困っているのかいないのか、俺にはよく解らなかった。一度だけ親子連れの後ろを歩いている時、子供がお守りを落としたのに気付かず歩み去ろうとしていたので、拾って追い掛けたら親子共々「ありがとう」と言われた。これで人を救ったことになるのだろうか。よく解らない。
その後、何日も、何週間も、何ヶ月も、ちまちま善行とやらを積んでみたが、これで本当に良いのか、どれだけ積めば良いのか、まるで、まるで、見当もつかない。
焦る。
そわそわし、ぞわぞわする。
心は疾れと命じているのに、身体を何処に向ければいいのか解らない。
そうして一年も過ぎた頃、ようやく俺は気が付いた。
善行を積むだけでは駄目だ。
俺は、俺を殺す方法も、考えねばならない。
§
用心棒になる。
考えて考えて考え抜いた結論がこれだ。
死ぬことも厭わず誰かを助ければ、それは間違いなく善行だろう。その結果生命を落とせば一石二鳥である。この妙案を思いついた時、俺は思わず叫んでしまった。
が、すぐに落ち込んだ。
里の者を助けるために戦う。それはいい。
戦って死ぬ。これも簡単だ。
だが助けるためには敵を倒さなければならない。敵を倒さないまま俺が死んだら助けることができなくなってしまうからだ。それはただの無駄死にだ。自殺となにも変わらない。
だがこれも自慢ではないが、俺は喧嘩が弱い。
猫にすら負ける有様だ。カブトムシなら勝てるだろうが、カブトムシに襲われて困ってる人などいない。
どうすればいいか、考えて考えて考え抜いた先に、俺はようやく答えを得た。
弱いなら――強くなればいい。
猫よりも、カブトムシよりも、誰よりも強くなれば良いのだ。
思い立ったが吉日。俺は里を出て山に籠った。
強くなったと確信できるその日まで、俺はもう戻らない。
§
あれからどれだけ経ったのだろう。
何度も太陽が昇って沈み、何度も春と夏と秋と冬が廻り、猪や熊や妖怪に襲われ、何度も何度も死に掛けて、死ねば楽になる、彼女に会えると諦めそうになり、その度にあの碧い瞳を思い出しては己を奮い立たせた。
昔の記憶はどんどん薄らいでいったが、それでも彼女の姿だけは覚えている。
瞼を閉じれば昨日のことのように思い出せる。
それだけで何でも出来る気がした。
実際に何でも出来た。
今の俺には猪も熊も妖怪さえも近づかない。
身体も大きくなり、力も強くなり、技も心も極限まで磨き抜いた。
俺は強くなったのだろうか。
無敵の用心棒になれたのだろうか。
誰であろうと救うことが、できるのだろうか。
確信は――まだ、ない。
だからその後も己を苛め抜いた。
誰も、何も、近づかないくらい強くなっても、まだ鍛えることを止められなかった。鍛えて鍛えて鍛え抜いた先に何があるか知らず、知らない以上確かめる術は鍛え続ける他なく、何年も何十年も過ぎ去って――俺は自分の身体が少しずつ満足に動かなくなってきたことに気が付いた。
忘れていた。
生命には『寿命』というものがあるのだ。
困った。どうしよう。
俺が本当に強くなれたのか、未だ確信は持てない。だがこのまま手をこまねいていては、寿命で俺は死んでしまう。死んだら誰も助けられない。それでは意味がない。
悩んで悩んで悩み抜いて、己を鍛える方法以外のことを何十年か振りに考えて、ようやく俺は思い至った。
そうだ。俺には友人がいる。
長い黒髪が美しい、何でも識ってる彼女がいる。彼女に聞けば俺が強くなったかどうか解るだろう、どうすれば人を救えるのかもきっと教えてくれるに違いない。
思い立った瞬間、俺は駆け出していた。
木々を薙ぎ倒し、嵐さえ巻き起こし、里に向かって一直線に駆けていった。
『教えてくれ影狼。
俺は――強くなれたかい?』
§
「里には……辿り着けなかったそうです。異変を察知した里の人間が総出で迎え討ったようで」
「そう、ですか」
反撃は、なかったそうだ。
稲妻を纏った碧色の巨狼は、一切抵抗しないまま呆気なく人間に討たれた。事切れる瞬間の哀切の咆哮は、幻想郷の隅々まで響き渡ったという。
「で、これが『彼』です。影狼から必ず四季さまに渡すよう頼まれました」
小町が懐に隠していた魂を映姫に差し出した。
生前の体色と同じ、鮮やかな碧玉の魂。
映姫の眼差しを前に、怯えるような、恥じるような、そんな風に弱々しく光を明滅させていた彼は、映姫の指先に突かれ、驚いたように跳ね、そして顔を上げたその先に。
あの日、見たままの、剛(つよ)い瞳。
「まったく……貴方は少し性急すぎる。
善行の意味も知らぬまま無策で突っ走り、誰にも追いつけない速度で、誰にも辿り着けない処まで、とうとう疾り抜けてしまった。
これでは誰にも理解されず、誰とも解り合うことが出来ない。
貴方は少しだけ足を緩め、ゆっくりと周囲を見渡せば良かったのです。
そうすれば貴方はきっと、貴方の願った無敵の用心棒になれたことでしょう。多くの人を救い、多くの人に愛された、幸せな生涯を全うすることができたでしょう。
そう、貴方の罪はその視野の狭さ。
貴方は結局何も成し遂げることなく、何も得ることができないまま、儚く消えるが定め」
映姫の、閻魔の瞳に射抜かれて、魂はしゅんと小さく縮こまった。
何も成し遂げることなく。
何も得ることができないまま、消える。
それはとても悲しくて、苦しいことだけど。
何も得ることができなかった――ことはない。
あの瞳を、輝きを、声を。
こんなにも近く感じることが出来たのだから。
――俺はもう、何も思い残すことはない。
満足して満足して満足しきってしまって、昇天だか成仏だかしようとした瞬間に、ぐっと頭を押さえつけられた。
「だーかーらー、勝手に自己完結するなと言っているのです! 閻魔たるこの私が罪を罪のまま放置するわけないでしょう! 貴方の罪は重すぎる、改めるまで千年だろうと一万年だろうと付き合ってやろうじゃないですか! とりあえず私の家に行きましょう。その性根を徹底的に叩き直してやりますから覚悟しなさい!」
そう言って彼女は、ぷいっと背中を向けてしまった。よく解らないがどうやら怒らせてしまったようだ。彼女が怒っている。それは困る。困って困って困り果てて周囲を見渡すと、紅い髪の死神がにんまり笑ってこう言った。
「四季さまはね……アンタと家族になろうって言ってるのさ」
§
映姫の屋敷には広くて立派な庭がある。
その庭の一番日当たりが良い場所には『しゃばら』とネームプレートの付いた立派な犬小屋があって、其処には小さな雷狼がいつも幸せそうな顔で眠っている、そうだ。
《終》
年明け早々の地獄は非常に多忙である。
そもそも正月というものは、餅を喉に詰まらせたご老人や、羽目を外して浮世からも足を踏み外してしまった者など、めでたいイメージと裏腹に存外『事故』が多いものだ。楽園に等しい幻想郷といえども例外ではなく、むしろ浮かれポンチキの割合は格段に跳ね上がり、年間通じて一番死亡率の高い時期でもあった。
地獄が忙しければ、当然閻魔も忙しい。
むしろ地獄で一番忙しいのが閻魔といえよう。
連日連夜審議は続いて報告書を纏めるだけでも一苦労であり、今も執務室で頭の痛い案件に関する資料に目を通しつつ、徹夜続きで荒れた肌にまで悩まされているというのに。
「四季さま、結婚してください!」
そんな時にこんなトンチキを、それも部下であり同性である小野塚小町から告げられたら、問答無用に蹴り飛ばす以外選択肢があるだろうか、いやない。
「あ、待って! 話を! せめて話だけでも!」
瞬撃のローリングソバットで鼻っつらに足裏をめり込ませてやったのに小町は存外しぶとかった。
殺虫剤とか丸めた新聞紙の方が効果的だったかもしれない。
「その虫を見るような視線はマジ止めてください! 心が根こそぎへし折れそうです!?」
「てゆーかなんですかいきなり。脳に虫でも湧いたんですか? もし勤務中にも関わらず飲酒で酩酊してるというのなら二重の意味で首を切るので覚悟しなさい」
「飲んでません、誓って飲んでませんったら! だから話だけでも聞いてくださいって!?」
「むぅ」
思いがけず小町の瞳には、切実な、訴えるような輝きがあった。
不本意ながら小町が真剣なのは嘘ではなさそうだ。嘘を暴くプロの閻魔だからこそ信じざるを得ない。
「……それでどうしたというのですか? 言っておきますが貴女と結婚する気なんかこれっぽっちもありませんよ?」
「それはつれない……ああ、いや、あたいじゃなくてですね、いやあたいだってできるもんなら四季さまと結婚したいのですが、今回はそういうことではなく……」
「歯切れが悪いですね。何だというのです?」
「実は四季さまに紹介したい者がおりまして。ただその前に……ちょいとばかし話を聞いてもらえないでしょうか」
仕方ないですねと映姫が目で促すと、小町はこほんと咳払いをしつつ訥々と語り始めた。
無様で情けなくて。
一途でひたむきで。
閻魔に心を奪われてしまった――愚かな雄(おとこ)の話を。
§
物心ついた頃には、もう家族と呼べる者は誰もいなかった。
だがそれを淋しいと感じた事はない。
なにしろ生きる事は大変で、食うのも寝るのもやらねばならぬことが多すぎた。
天涯孤独な彼に対して里の者はみな親切にしてくれたが、それに甘えてばかりもいられない。
だから赤子時代を終えてからは、食い扶持を得るために毎日せっせと働いた。
何のために生きるのかなど、これまで一度も考えたこともなかった。
だからあの日、食い扶持を得るために無縁塚まで足を伸ばしたのも単なる日課に過ぎず。
何を期待したわけでも、
何か予感があったわけでもない。
ただ、いつも染み入るように静かな無縁塚がその日に限って妙に騒がしく、赤や青の眩い光がちかちかと明滅しているのに気付いて、こっそりと草場の影から覗いた瞬間――雷に撃たれたような衝撃に貫かれた。
宙に浮かぶ人影から眩い後光が差している。
赤と青の弾幕が激しく飛び交う中、黒い人影が右手に持った笏を振り下ろすと、一際眩い白光が天と地を繋いだ。その光に照らされて、影の顔が顕わになる。
意志の剛(つよ)い、碧色の瞳。
白光の眩しさ故に彼の目で認識できたのはそれだけであったが、それで十分だった。
その瞳の剛さに、彼は心を奪われた。
人影は誰かと戦っているらしい。
だが戦いの必死さのようなものは感じられず、人影の口元にも薄く微笑が浮いているように見えた。
眩さにも慣れ、身体つきから人影が女性であることも、各所に金をあしらった豪奢な服装も見て取れた。
その全てを美しいと思い、その全てを手に入れたいと思った。思ってしまった。
何かを欲しいと、心の底から思ったのはこれが初めてのことだった。
思わず足を踏み出して、近寄ろうと、もっと目に焼き付けようとしたところ、流れ弾を喰らって藪に転がりそのまま気を失った。
しばらくして目を覚ますと、もう人影も、誰の気配も残っていなかった。
がっくりと肩を落とし、未練たらしく無縁塚を走り回ってみたが見つからない。
その翌日も、翌々日も訪れたが、彼女の気配は豪も感じられなかった。
せめて、もう一度だけ――
それが何も持たず、何者でもなかった彼が、初めて抱いた望みである。
生きる意味も、死ぬ意味も、何もなかった彼が唯一抱いた願いである。
だから彼は、その瞬間から。
ただそれだけのために生きる――修羅となった。
§
「あー、そりゃ閻魔さまだねぇ。うん、あの格好はちょいと目立つしなぁ。間違いないでしょ、たぶん」
竹林で焚火を囲み、月を映した杯を満足そうに傾けながら、彼女は笑った。
彼女は俺の数少ない飲み友達で、あちこちに顔が利くせいか色んなことを識っている、とても頼りになる友人だ。あの人影を追って夜も昼も出鱈目に走り回っても埒が明かず、ようやく思いついて相談してみたら一発で答えが出た。本当に頼りになる友人だ。
「うん? どうすれば会えるかって? んー、そりゃ閻魔さまなんだし死んだら会えるんじゃない? って、ちょっストップストップ! なにいきなり焚火に飛び込もうとしてんのさ!? は? いやそりゃ死んだら会えるっていったけどさぁ、ちょいと思い切り良すぎんでしょ」
駄目なのかと問い掛けると、「駄目に決まってるでしょ、ったく」と呆れられてしまった。難しいものだ。
「あのねー、アンタはその閻魔さまに惚れてんでしょ? 嫁にしたいんでしょ? 自殺なんかしたらそっこー地獄逝きよ。つか会うまでもなく死神に三途の河へ叩き込まれておしまいよ。そんなのヤでしょ?」
それは確かに困る。
だが会うことしか考えていなかった俺は、嫁にしたいのだろうと言われて激しく狼狽してしまった。焦げた髭の臭いと相まってどうにも落ち着かない気分になる。
「うん? 会えるだけで十分だって? ちょっとなーに情けないこといってんのさ。雄なら夢はでっかく持ちなさいよね。応援してるからさー」
大分酔いが回っているのか、彼女はからからと笑いつつ俺の背中をばしばし叩いた。
痛い。
が、その痛みが俺に火を着ける。
やってやろうと、そう思わせてくれる。
だが悲しいことに俺は大層頭が悪い。どうすればいいのか解らない。
「そうねぇ。私も直に会ったことはないけど、偶に里へ説教しにくるって噂もあるのよね。よくわかんないけど、もっと善行を積めとかなんとか。だから善行とやらを積めばいいんじゃない? え、具体的にはですって? んー、んー、んーーー、人を助けたりとかかなぁ、よくわかんないけど」
ふむ、人を助ければいいのか。
よし、早速やるとしよう。
「え、おいちょっと何処いくのよ! ってこら待ちなさいってばー!」
彼女の声を遥か置き去りに、俺は里へと向かって疾る。心躍る。胸躍る。やるべきことが定まれば、あとはただ突っ走るだけだ。
身を裂くような冷たい風も、行く手を阻む濃い竹林も、全てが俺を祝福しているようだ。
気合一発月に吠え、牙を剥くような笑みを浮かべ、俺は里へと走り続けた。
§
甘かった。
見通しがあまりにも悪すぎた。というより前など全然見ちゃいなかった。
前にも言ったが、俺は頭が悪い。
おまけに不器用で笠ひとつ編めやしない。
取り柄と言えば、頑丈な身体くらいのものだ。
そもそも助けるとはどういうことなのか。
腹を減らした者に飯でも奢れば、それは確かに助けたと言えるだろう。
だが自慢じゃないが、この里で一番食うに困っている者といえば俺のことだ。俺を見た瞬間一目で解るのか、里の者はいつも俺に食い物を分けてくれた。
俺に食い物を分けてくれた人々は、死んだら彼女に会えるのだろうか。ちょっと羨ましい。
それでも何かないかと里中廻ってみたが、そもそも困っているのかいないのか、俺にはよく解らなかった。一度だけ親子連れの後ろを歩いている時、子供がお守りを落としたのに気付かず歩み去ろうとしていたので、拾って追い掛けたら親子共々「ありがとう」と言われた。これで人を救ったことになるのだろうか。よく解らない。
その後、何日も、何週間も、何ヶ月も、ちまちま善行とやらを積んでみたが、これで本当に良いのか、どれだけ積めば良いのか、まるで、まるで、見当もつかない。
焦る。
そわそわし、ぞわぞわする。
心は疾れと命じているのに、身体を何処に向ければいいのか解らない。
そうして一年も過ぎた頃、ようやく俺は気が付いた。
善行を積むだけでは駄目だ。
俺は、俺を殺す方法も、考えねばならない。
§
用心棒になる。
考えて考えて考え抜いた結論がこれだ。
死ぬことも厭わず誰かを助ければ、それは間違いなく善行だろう。その結果生命を落とせば一石二鳥である。この妙案を思いついた時、俺は思わず叫んでしまった。
が、すぐに落ち込んだ。
里の者を助けるために戦う。それはいい。
戦って死ぬ。これも簡単だ。
だが助けるためには敵を倒さなければならない。敵を倒さないまま俺が死んだら助けることができなくなってしまうからだ。それはただの無駄死にだ。自殺となにも変わらない。
だがこれも自慢ではないが、俺は喧嘩が弱い。
猫にすら負ける有様だ。カブトムシなら勝てるだろうが、カブトムシに襲われて困ってる人などいない。
どうすればいいか、考えて考えて考え抜いた先に、俺はようやく答えを得た。
弱いなら――強くなればいい。
猫よりも、カブトムシよりも、誰よりも強くなれば良いのだ。
思い立ったが吉日。俺は里を出て山に籠った。
強くなったと確信できるその日まで、俺はもう戻らない。
§
あれからどれだけ経ったのだろう。
何度も太陽が昇って沈み、何度も春と夏と秋と冬が廻り、猪や熊や妖怪に襲われ、何度も何度も死に掛けて、死ねば楽になる、彼女に会えると諦めそうになり、その度にあの碧い瞳を思い出しては己を奮い立たせた。
昔の記憶はどんどん薄らいでいったが、それでも彼女の姿だけは覚えている。
瞼を閉じれば昨日のことのように思い出せる。
それだけで何でも出来る気がした。
実際に何でも出来た。
今の俺には猪も熊も妖怪さえも近づかない。
身体も大きくなり、力も強くなり、技も心も極限まで磨き抜いた。
俺は強くなったのだろうか。
無敵の用心棒になれたのだろうか。
誰であろうと救うことが、できるのだろうか。
確信は――まだ、ない。
だからその後も己を苛め抜いた。
誰も、何も、近づかないくらい強くなっても、まだ鍛えることを止められなかった。鍛えて鍛えて鍛え抜いた先に何があるか知らず、知らない以上確かめる術は鍛え続ける他なく、何年も何十年も過ぎ去って――俺は自分の身体が少しずつ満足に動かなくなってきたことに気が付いた。
忘れていた。
生命には『寿命』というものがあるのだ。
困った。どうしよう。
俺が本当に強くなれたのか、未だ確信は持てない。だがこのまま手をこまねいていては、寿命で俺は死んでしまう。死んだら誰も助けられない。それでは意味がない。
悩んで悩んで悩み抜いて、己を鍛える方法以外のことを何十年か振りに考えて、ようやく俺は思い至った。
そうだ。俺には友人がいる。
長い黒髪が美しい、何でも識ってる彼女がいる。彼女に聞けば俺が強くなったかどうか解るだろう、どうすれば人を救えるのかもきっと教えてくれるに違いない。
思い立った瞬間、俺は駆け出していた。
木々を薙ぎ倒し、嵐さえ巻き起こし、里に向かって一直線に駆けていった。
『教えてくれ影狼。
俺は――強くなれたかい?』
§
「里には……辿り着けなかったそうです。異変を察知した里の人間が総出で迎え討ったようで」
「そう、ですか」
反撃は、なかったそうだ。
稲妻を纏った碧色の巨狼は、一切抵抗しないまま呆気なく人間に討たれた。事切れる瞬間の哀切の咆哮は、幻想郷の隅々まで響き渡ったという。
「で、これが『彼』です。影狼から必ず四季さまに渡すよう頼まれました」
小町が懐に隠していた魂を映姫に差し出した。
生前の体色と同じ、鮮やかな碧玉の魂。
映姫の眼差しを前に、怯えるような、恥じるような、そんな風に弱々しく光を明滅させていた彼は、映姫の指先に突かれ、驚いたように跳ね、そして顔を上げたその先に。
あの日、見たままの、剛(つよ)い瞳。
「まったく……貴方は少し性急すぎる。
善行の意味も知らぬまま無策で突っ走り、誰にも追いつけない速度で、誰にも辿り着けない処まで、とうとう疾り抜けてしまった。
これでは誰にも理解されず、誰とも解り合うことが出来ない。
貴方は少しだけ足を緩め、ゆっくりと周囲を見渡せば良かったのです。
そうすれば貴方はきっと、貴方の願った無敵の用心棒になれたことでしょう。多くの人を救い、多くの人に愛された、幸せな生涯を全うすることができたでしょう。
そう、貴方の罪はその視野の狭さ。
貴方は結局何も成し遂げることなく、何も得ることができないまま、儚く消えるが定め」
映姫の、閻魔の瞳に射抜かれて、魂はしゅんと小さく縮こまった。
何も成し遂げることなく。
何も得ることができないまま、消える。
それはとても悲しくて、苦しいことだけど。
何も得ることができなかった――ことはない。
あの瞳を、輝きを、声を。
こんなにも近く感じることが出来たのだから。
――俺はもう、何も思い残すことはない。
満足して満足して満足しきってしまって、昇天だか成仏だかしようとした瞬間に、ぐっと頭を押さえつけられた。
「だーかーらー、勝手に自己完結するなと言っているのです! 閻魔たるこの私が罪を罪のまま放置するわけないでしょう! 貴方の罪は重すぎる、改めるまで千年だろうと一万年だろうと付き合ってやろうじゃないですか! とりあえず私の家に行きましょう。その性根を徹底的に叩き直してやりますから覚悟しなさい!」
そう言って彼女は、ぷいっと背中を向けてしまった。よく解らないがどうやら怒らせてしまったようだ。彼女が怒っている。それは困る。困って困って困り果てて周囲を見渡すと、紅い髪の死神がにんまり笑ってこう言った。
「四季さまはね……アンタと家族になろうって言ってるのさ」
§
映姫の屋敷には広くて立派な庭がある。
その庭の一番日当たりが良い場所には『しゃばら』とネームプレートの付いた立派な犬小屋があって、其処には小さな雷狼がいつも幸せそうな顔で眠っている、そうだ。
《終》
キャラクターの直向さが読む手を早くさせ、また読み直して、気付かされる。
楽しませていただきました。
面白かったです。
面白かったです
男が実は狼だったってのが上手い。こういうのは幻想郷ならではだなあ。
もう少し腰を据えて書いて頂きたかった
若干の違和感を感じるはずの文章が、勢いにぐいぐい押されてそのまま突っ切りました。
この胸に残る爽快感、ほんと素晴らしい作品を読ませていただきました。
ぐいぐいと話に引き込まれました。
最後の最後で「彼」は想いを果たせたんですね。
面白かったです。