その年の幻想郷の冬はいつもどおりだった。
地表には真っ白な雪が降り積もり、森の木々はほとんどが葉を落とす。動物は凍える空気を避けてひっそりと日々を過ごし、普段は騒がしい草花の妖精たちも姿を消す。代わりに雪や冷気の妖精が雪玉や氷柱を投げつけあったり、冬眠した蛙を掘り返したりして遊び始める。
妖怪には人間よりも体のつくりが丈夫な者が多く、厳しい冬でもそれほど難儀はしない。人間に雪玉をぶつける、凍った沼地に迷い込ませるといった悪戯を企んで元気いっぱいに冬を過ごす。しかし、妖怪にも例外というものがあって、蟲妖怪のリグル・ナイトバグはその一例だった。
春や夏には友達の蟲たちとともに大はしゃぎで遊んで暮らすリグルだが、真冬になれば、友と同様に冬が去るのをじっと静かに耐えること以外の道はない。初冬のうちは頑張って日常を続けようとするが、さすがに真冬になると木の洞や洞窟に引きこもって退屈な日々を送らざるを得なくなる。
「寒い。殺人的な寒さだわ」
この年の冬も、リグルは天候を呪いつつ、真っ白な雪原の中で仮の家を探していた。淋しい冬ごもりをできる限り短くするため、リグルは限界まで厳しい気候に耐えようとする。まるでまだ秋が続いているかのように、頑張って一人で騒いで暮らすのだ。しかし、冬はリグルを待ってはくれず、そのうち寒さに耐えきれなくなる。諦めて冬ごもりのための洞窟を探し始める頃には、空を飛ぶことすらできないほどに寒さで疲れきった状態になってしまっているのが常だった。その冬も例外ではなく、
「足が霜焼けになりそう……」
などとぼやきながら、雪を踏みつけつつ、のろのろと歩みを進めていた。冬の夜はいつもよりも星がよく見えていたが、星に例えられるリグルの輝きは却って損なわれていたことだろう。
道中、妖精に雪玉を投げつけられた。雪玉はリグルの肩に当たり、雪原に転がり落ちた。衝撃で欠けた雪玉からは石ころが覗いていた。リグルは黙って歩き続けた。妖精を睨みつけることすらしなかった。
リグルが向かっていたのは幻想郷の辺縁部にある洞窟だった。リグルはここ数年、その洞窟を冬ごもりに利用していた。
「寒い……」
リグルが洞窟に着いた頃には、疲れの余りにぼやきの言葉も数少ないものとなっていた。洞窟は入り口からでは奥が見えない程度には長く、最奥では少しは寒さを紛らわせることができる。暗い洞窟の中を一歩踏み出していくごとに、
かつん、かつん
と足音が反響していった。
洞窟の中腹にまで至り、その日で百十四回目の
「寒い……」
という呟きの後、ある変化が起こった。リグルが洞窟に入って以来、洞窟の中では大きな生き物の気配は一切感じられなかった。時折、小さな蟲や鼠の類がリグルに驚いて逃げ出す音が聞こえるだけだった。しかし、先の一言の後に、急に何者かの気配を感じるようになったのである。気配は洞窟の奥から感じられた。奥の方へ歩いていくうちに気配は確実に強くなっていった。少なくとも、そこらの弱い妖怪の気配ではない。
リグルは警戒すべきだった。気配を絶つことができる何者かが、突然に自らの存在を誇示し始めたのだから。「彼」は誰かを待っていたのである。特にリグルのような者を。しかし、冷気と雪道に疲弊したリグルにそのようなことを考え込む余裕はなかった。そのため、考えもなしに
「誰かいるの?」
と奥の方に声をかけてしまったのである。
変化はあまりに大きかった。
リグルの声が洞窟の中を響いた瞬間、例の気配は著しく強まった。それだけでなく、洞窟の奥から奇妙な音が聞こえ始めたのである。
べた、べた、べた……
(え、何、これ)
その音は厭に湿り気を帯びていた。音は洞窟中を反響していたが、確実にリグルの元に近づいていた。それも恐ろしい速度で。
べた、べた、べた……
(まさか、これって……)
疲れと日頃の行いで鈍ったリグルの頭でも、この音の正体にはさすがにすぐに気がついた。
べた、べた、べた……
(……足音!)
足音の主らしき影がリグルの目に映った瞬間に、リグルは踵を返し、洞窟の出口に向かって駆け出した。
「何なのよ。もう」
相手は決して鈍足ではなかったが、リグルも足は遅くなかった。何度もつまずきそうにはなったが、洞窟の出口に着く頃にはある程度距離を離すことに成功していた。
(洞窟を出た! もう諦めてくれたらいいけど……)
雪に足を取られつつも洞窟から離れていったとき、リグルはそんなことを思ったが、その願いも虚しく、件の気配はより強さを増していった。
(やっぱり……)
足音はべたべたという湿ったものから、ざくざくという雪を押しつぶす物音に変わっていた。リグルは逃げつつも後ろを振り返った。リグルは妖怪の中でも夜目が利く方だったが、リグルの目でも気配の正体は判別しきれなかった。それはリグルよりも一回り大柄の人型だった。しかし、体中を暗いもやのようなものが包んでおり、輪郭が曖昧で、まるでもやが人の形をとって走っているかのようだった。
ざく、ざく、ざく……
(気配から見ると、蜂っぽくもあるし、蜘蛛みたいにも思えるし、蛙やトカゲ、蛇のような気配も感じる……。訳が分からないわ……。私と同じ蟲みたいだけど、格上っぽいから操ることもできないし……)
リグルは危機感を覚えていた。今はあの妖怪との距離はとれているが、この疲れた体ではいつかは追いつかれてしまうだろう。雪と葉の落ちた木々ばかりのこの場所では、姿を隠して逃げ延びるのも難しい。あの妖怪からも蟲に近い気配を感じるが、あのような強大な気配を持つ妖怪ならば、自分のように雪や冷気に消耗するなんてこともないかもしれない。そうすれば、最後は……。
ざく、ざく、ざく……
(見たところ飛べない妖怪のようね。こんな奴、冬じゃなかったら飛んで撒くことができたのに。いや、やっつけることだってできたはずよ)
リグルはもう一度振り返る。不運な妖精が、リグルに向かって走ってくる妖怪の体を避け損ねてぶつかった。妖精は小さな悲鳴を上げた。その四肢はばらばらに弾け飛び、きらきらと光る粉末に変わっていった。
(上手くいくかは分からないけど、やるしかない!)
リグルは覚悟を決めた。リグルは息を大きく吸い、奥歯を噛み締め、足を踏ん張って渾身の力を込めた。
「とりゃぁ!」
ざくっ
次の瞬間、リグルは空高く跳躍していた。リグルの体は枯れ木の枝の中を突っ切り、ふわりと宙を舞った。跳躍の頂点でリグルは体をひねって一回転をきめた。その瞬間、リグルの体は落下を始め、そのまま雪でいっぱいの地表に向かって落ちていった。リグルは落下の勢いのまま、槌を振り下ろすかのように足を雪原に叩きつけた。
どしゃっ
その衝撃で辺りの積雪は飛び散った。浮き上がった雪はリグルの身を隠す煙幕となった。あのもやで身を隠した妖怪が、リグルが先ほどまでいた場所にたどり着いた頃には、即席の雪の煙幕は晴れていた。しかし、リグルの姿は既に見えなくなっていたのである。
リグルがあの妖怪の目から姿をくらましたとき、一体どこに身を潜めたのか。それは積雪の中だった。
(どうして雪を避けるために洞窟に行ったのに、雪の中に隠れなきゃならなくなったんだろう……)
リグルの作戦は単純なものだった。雪の煙幕で姿を隠し、雪の中に潜り込んで遠くに逃げたと見せかけて、相手が諦めるか、別の場所を探しに行くのを待つというものだった。冷たい雪の中に身を隠すという諸刃の作戦である。リグルは完全に雪の中に埋もれており、目視だけではリグルの居場所はつかめない状態になっていた。リグルは黒いマントにくるまりながら、震えを抑えつつ、じっと息を殺していた。
ざく……ざく……
(寒い。とにかく寒い。でも、今は耐えるしかない。隙をついて逃げれば私の勝利よ……)
この作戦は寒さとの戦いだった。最悪凍死してしまうし、うっかり見つかってしまったときに体がかちこちに凍えていたらもはや逃げることはできない。しかし、リグルの期待も虚しく、妖怪はまだ近くをうろついているようだった。
ざく……ざく……
(さっさとどっかに行けばいいのに、何でまだうろうろしているのよ)
近くから聞こえる雪を踏む足音と、マントを通り抜けて体を突き刺す寒さがリグルを追い詰めていった。十数分も経過した頃だろうか。
ざ……ざ……
(……眠い……)
リグルは途方もない眠気を感じていた。頭の中に霧がかかっているようだった。既に手足の感覚は薄れ、普段から回らない思考はさらにぎこちないものになっていた。あの妖怪の雪を踏む足音も、徐々にぼやけて聞こえるようになっていった。体温が低くなったことで、体が機能を停止し始めていたのである。
ざ……ざ……
(……まだあいつはいる。でも、雪の中に隠れたせいで凍って死んじゃったら、馬鹿にされても文句は言えないわね……)
さすがのリグルも、この状況で意識を失えば、どんな未来が待っているか、想像がついていた。それでも、感覚は時間がたつごとに薄れ、皮膚を刺す寒さの感覚ですら消えかかっていた。まぶたはだんだんと重くなり、いつもならば蛍火のように輝いていた瞳も鮮やかさを失っていった。もはや時間の問題だった。
ざ……ざ……
(……もう、だめかも……)
そんなときである。
ざしゃっ
不意に、凍りつきかけたリグルの耳に何か物音が響いた。それは地面に何か固いものを打ちつけたような大きな音だった。その物音が刺激となって、まぶたの落ちかけていたリグルは少しばかり気力を取り戻すことができた。
薄らいだ感覚の中でも、リグルは確かに感じ取った。あの妖怪の気配は薄らいでいる。リグルとあの妖怪との間に、明らかに距離が開いているのだ。あの妖怪には気配を殺す能力があったが、気配を殺しきるには、あの妖怪と自分との距離があまりにも近すぎたはずだ。
(……やった! 勝った!)
どうやら諦めたようだ。それか、別の場所を探しに行ったか。相手が十分に離れた後に、こっそりと抜け出せば無事に逃げ出すことができるだろう。そのようにリグルは考えた。リグルは感覚が戻ってくるのを感じた。雪の刺すような冷たさも今となっては福音のようだった。
(危なかった。もうちょっとで自滅するところだったわ。でも、これで私の勝利よ!)
しかし、感覚が戻るにつれて、リグルは知りたくなかったことを認識することになる。
ぶぶぶぶぶぶぶ……
(この音……まさか……)
それは小さな音だったが、空から聞こえてきた。リグルにはすぐにそれが羽音だと分かった。恐ろしく巨大な羽虫が上空を旋回していれば似たような音が聞こえたことだろう。相手がリグルから距離をとったのは確かだが、それはただ空に飛び上がったというだけのことだった。リグルは相手がまだ諦めていないと悟った。
ぶぶぶぶぶぶぶ……
(嘘! なんで飛べるのよ!)
リグルは知らなかった。「彼」は長い眠りから目を覚ましたばかりであり、まだ記憶に曖昧なところがあった。そのため、ついさっきまでは空の飛び方を思い出していなかったのである。飛び方を思い出した今となっては、「彼」が飛ばない理由は無かった。上空からの方が探しやすいためである。しかし、リグルにはまだ自分には勝算があると考えていた。
(さすがにこの寒さじゃ、あんな奴だってまともに感じ取れないはずよ)
リグルは寒さのために、蟲に備わる触角を筆頭とした様々な器官が不調だった。その中には人間以上に敏感に匂いや温度などを感知する器官もあった。どうやら蟲に近いらしい相手も、おそらくはそれに近いものを持っているだろう。いくら強大な相手とはいえ、感覚器官は脆弱なものであるし、弱点も似通っているはずだ。冷気に包まれた環境で、雪の中にいる相手を匂いや温度の違いで判別するのは難しいに違いない。
ぶぶぶぶぶぶぶ……
(大丈夫、勝てるわ)
しかし、リグルは気がついていなかった。「彼」は蜂でもあり、蛾でもあり、蜘蛛でもあり、蛇でもあった。様々な器官を同時に兼ね備えた「彼」は、総合的にはリグル以上に鋭敏で、それでいて汎用的な感覚を備えていた。そのうえ、「彼」にはその優れた感覚器官を十分に働かせることができる理由があったのである。
決着は一瞬でついた。リグルの位置を見定めた「彼」は、目標に向かって急降下した。そして、地表ぎりぎりのところで上手く速度を落とすと、リグルのいる積雪に向かって腕を突っ込んだのである。
リグルが目を覚ましたとき、そこに見えたのは暗闇だった。どこからかすえた臭いがする。
(ここは、どこ? あの世? それとも、あいつのおなかの中? 私、死んだの?)
時間が経つにつれて、リグルは感覚が徐々に蘇ってきているのを感じた。そのおかげで、リグルの頭に情報が増えていった。自分はどうやらほんのりと暖かい所にいる。もはや凍えてはいない。怪我をしているわけでもない。ただ、体が動かないし、妙に息が苦しい。全身に圧迫感がある。それだけではない。空気が淀んでいる。冬の冷たくとも清々しい空気とは全く違う。重い液体が体中を撫でているような奇妙な感覚もある。周囲は相変わらず真っ暗だ。明かり一つ見えない。そして、声が聞こえる。
(声?)
それは大勢の人間の声だった。若い男、年老いた女、幼い子供。様々な人間の声だった。性別も年齢も様々である。しかし、一つだけ共通点があった。それは、どの声も等しく憎悪を孕んでいるということだった。
「お前のせいでお前さえいなければ許さないお前の子供も孫も生かしてはおけない俺の娘を返せ仇を討ってやるもがき苦しめ地獄に落ちろ」
(何? 何なのこれ?)
どういうわけか誰も彼も自分に憎しみをぶつけている。リグル自身が妖怪である以上、大勢の人間から恨みを買っていても不思議ではない。当然ながら人間を食い殺した経験もある。しかし、リグルには自分を責める声に全く聞き覚えがなかった。
(誰? 誰なの? 私が何をしたっていうの?)
リグルの問いかけに答える者は無かった。声は憎悪を振りまきながらも、だんだんと支離滅裂な言葉に変化していった。周囲の空気の淀みも悪化するばかりであり、しまいには、リグルの口に泥のような気体が入り込んで肺を満たし始めた。
気がつくと、声は一つの言葉を叫んでいた。それぞれがめいめいに叫んでいたはずの声は、たった一つの言葉を繰り返していた。皆が声を合わせていた。
「死ね」
「死ね」
「死ね」
「死ね」
「死ね」
(あ……ああ……)
リグルはもはや呼吸ができなかった。心臓は今までになく激しく鼓動しているというのに、生暖かく重い気体が滞って肺には何も入ってこない。圧迫感はいまだに収まらず、周囲は相変わらず真っ暗闇である。もはやどうにもならない。絶望感だけがそこにあった。憎悪の声の中、リグルは自身が徐々に憔悴しているのを感じた。
「死ね」
「死ね」
「死ね」
「死ね」
「死ね」
(……)
そのとき、リグルは人間たちの憎しみにあふれる声の中に、一瞬、別の音を聞いた。それは風の音だった。冬の幻想郷に吹きつける、容赦ない冷たい風。ときには仲間の命を奪う風。しかし、その風のおかげで、リグルは気を取り戻すことができたのである。
「運が良かった、本当に」
リグルは再び逃走を始めていた。風の音を聞いたとき、リグルは必死に手足を揺り動かした。そのおかげでリグルはあの妖怪の拘束から解放された。リグルはあのもやをまとった妖怪に抱きつかれていたのである。リグルを苛んでいたのは、妖怪の周囲に漂っていたもやだったのだ。
(相手も油断していたようね。本気で力を込めていたら、腕を振りほどけなかったかもしれない)
リグルはあの妖怪から解放されて初めて、相手が自分の居場所を正確に突き止めた理由を理解した。あの妖怪は、羽を高速で動かすときに発生する熱を使って、自分の体を温めていたのである。そのおかげで、あの妖怪は自分の感覚器官を正常に動かすことができたのだ。リグルが抱擁の最中に感じていた暖かさの正体は、あの妖怪の高まった体温であった。
(あいつが偶然にも私を温めてくれたから動けるようになれたみたいね。凍えたままだったら一体どうなっていたんだろう……)
ぶぶぶぶぶぶぶ……
妖怪は諦めることなく空からリグルを追跡していた。リグルは相手が襲いかかりにくいように木が密集している所を選んで逃げていた。頭上を広がる木の枝のおかげで、何とか捕まらずに済んでいた。
リグルはあのときの抱擁を思い出していた。リグルの服にはいまだに黒いぬたのようなものがこびりついていた。それにはあのときに覚えた怖気が残っていた。洗濯すれば汚れは落ちるかもしれないが、あの厭らしい感覚だけは残るのではないか。リグルはそう考えずにはいられなかった。
(あれに捕まったときに聞こえた声。あれは一体……)
リグルは知らなかったが、「彼」のもやに込められていたのは呪いだった。様々な人間が込めた、他者の苦痛と死を願う呪詛である。精神的な要素の強い妖怪にとって、呪いはときには人間以上に猛毒となる。長く触れていれば致命的なものになっていただろう。「彼」は呪いから生まれた存在なのである。
ぶぶぶぶぶぶぶ……
(もう一度、あれに抱きつかれるくらいだった、死んだ方がましよ)
リグルは後ろの方を見上げた。枯れ木の枝の合間からはあの妖怪の姿が見えた。響く羽音が示すとおり、件の妖怪の体からは大きな透明な羽が生えていた。その蜂に似た羽は、それ以外の部分と同じようにもやのようなものをまとっていた。
(まだ追ってきている)
リグルは思案した。一体、自分はいつまで逃げ続ければいいのだろう。もはや体力はほとんど残っていない。逃げ続けることもできないし、さっきのようにどこかに隠れ潜むことも難しい。別の洞窟や廃屋などに逃げ込んだところで、あれを撒くことはできないのではないか。
「どうしたらいいの……」
口から漏れた言葉は震えていた。それは寒さのためだけではなかった。
疲労と焦燥感、そして再び忍び寄ってくる絶望感は、リグルからもともと乏しい判断力と注意力を根こそぎ奪っていた。恐ろしい羽音からただ逃れるためだけに足を動かしていた。だから、走っていた方向に深い沼があったことにリグルは全く気づいていなかった。水面には氷が張っていたが、リグルが足を踏み入れたときにはあっさりと砕け散った。
がしゃん
(あ……)
とぷん
気がついたときにはもう遅かった。走っていたときの勢いのままリグルは倒れこみ、そのまま沼の冷たい水の中に沈んでいった。
……
冬の沼の水は残酷なまでに冷たく、生命の気配がまるで感じられなかった。冷たい水は生命に必要なものすべてを奪っていった。まず音が聞こえなくなり、そのうち温度の感覚も薄らいでいった。上下の感覚も曖昧になり、沈んでいるのか、浮かんでいるのかの区別もつかなくなっていった。
リグルは奇妙な安堵感を覚えていた。冷たい淀みの中で、空虚なものと一体になっていく。あの妖怪の抱きつかれたときとはまるで逆の感覚だった。
(もう、こんなところにまで、あいつは追ってこないよね)
あの妖怪の腕から完全に逃れることができるというのも安堵感の一因だった。凍える水の中にまで意図的に飛び込んでくる蟲はいない。冷たい死の後にまで追跡できる者は存在しない。リグルはそう考えていた。抱擁されたときの呪いの記憶がリグルの脳裏をよぎる。
……
(こんな最期でも悪くない。あいつに捕まるくらいなら……)
リグルは深い沼の底に沈んでいった。リグルは最後に目を開けようと思った。生ある世界を目に焼き付けようと思ったのだ。漂う泥で何も見えないかもしれない。もはや眼球もまともに動かないかもしれない。絶望的な死しか残されてはいないかもしれない。今のリグルにはそれでも十分だった。
(さよなら、みんな)
そこにはもやをまとった妖怪の姿があった。
「やっぱり神社で飲むお茶はうまいなあ」
炬燵に入りながら、魔理沙は下らない独り言を呟いた。魔理沙が手に持っている湯飲みは、魔理沙自身が家主の許可無しに、勝手に近くの戸棚から引っ張り出してきたものである。その向かい側では、家主である霊夢が同じく炬燵に潜り込んでいた。ただ、霊夢は座布団を枕にして寝転がっていた。
「何よ、いきなり」
霊夢は露骨に面倒くさがっている態度をとった。魔理沙が社殿に入り込んできたときから、霊夢は頭どころか指一本動かしていなかった。
「何だよ、せっかくお友達が遊びに来てやったというのに」
「だから何の用よ」
「外は寒い。キノコもとれない。魔法の実験もはかどらない」
「つまり暇つぶしに来たのね」
「霊夢だって暇なんじゃないの。つきあってくれてもいいだろ」
魔理沙は炬燵の上に置かれた蜜柑に手を伸ばしていた。
「昨日まで忙しかったの。だから今は疲れているの。休みたいのよ」
「何、異変でもあったのか」
「異変ってほどじゃないけど」
「良かったら話を聞かせてくれよ。暇だし」
魔理沙は蜜柑の筋を取りながら、霊夢に話を促した。霊夢は相変わらず寝転んだままである。
「ほら、リグルっていう妖怪がいるでしょ」
「リグル……。ああ、そういえばいたな。そんな奴」
「そいつらがこんな真冬に蟲を叩き起こして大暴れさせていたのよ」
「寒い中大変だったね」
「まあ、冬だから弱っていて、黙らせるのは難しくなかったんだけど、神社の中にまで蟲が入ってきてね。棚の後ろに隠れたり障子紙を食い散らかしたりして、掃除が大変だったのよ」
「そういえば、昨日はやけに家の中にムカデやらヤスデやらが出てきた大変だったけど、そのせいか」
「漬物や乾物まで駄目になっちゃって。お茶も蜜柑もわざわざ買い直したのよ」
「あ、はい。大事に食べます」
魔理沙は蜜柑を口に放り込んだ。
「そういえば、あともう一人、蟲の妖怪がいたけど、名前は忘れちゃったわ。ひどく無口な雄の妖怪だったんだけど」
「へえ、どんな奴だったんだ」
「多分、毒蟲を使った呪術から生まれた妖怪ね。呪いが制御されずにだだ漏れだったからすぐに分かったわ」
「呪術に使われていた毒蟲が、飼い主が死んだかどうかして自由になり、それが年月を経て妖怪になった、というところか」
「多分ね」
「蟲ってだけで気持ち悪いのに、下手に近づくと呪いまでかかりそうだ。関わりたくないな。それにしても、そんな奴、幻想郷にいたっけ」
「最近、幻想郷に来た妖怪みたいね」
「それで、どうしてこんな時期に蟲妖怪たちが暴れていたんだ」
「それが、運命の出会いだったんだって」
「運命の出会い?」
魔理沙は茶をすすった。
「その妖怪は仲間の蟲妖怪に会ったことがなかったらしいのよ。幻想郷に来てからも侘しさと虚しさのあまりに人生に嫌気がさして、洞窟に閉じこもっていたんだって」
「蟲妖怪は軒並み衰退しているから不思議じゃないな。幻想郷でもリグルで強い方だし」
「そんなときに偶然にリグルと出会って、仲間に初めて会えてすごく感激したらしいわ。そのときに気分が盛り上がって、つい騒ぎたくなっちゃって、ということなんだって」
「なるほど。それで運命の出会いね。一目惚れでもしたのかね。冬だけど春が来たんだな。めでたいもんだ」
「リグルはリグルでその妖怪は命の恩人だったらしいわよ。妙に顔が引きつっていたけど」
「命の恩人? 鶴の恩返しみたく罠にでもかかっていたのかな。モウセンゴケに引っかかっていたとか? それともタヌキモ?」
「凍えそうになったときに温めて介抱してくれたんだって。それも二回も」
「介抱って、一体何をしたんだろう。妖怪がおかゆでも作ったのかな」
「さあ。炬燵に入れてあげたりお茶や蜜柑をご馳走したりでもしたんじゃないの」
魔理沙は咳払いをする。
「それにしても、こんな寒い冬に下らないことで騒ぎを起こされたらたまったもんじゃないな」
「そうね。ついでに今いるお邪魔蟲さんもさっさと帰ってくれないかしら」
「私の場合、蟲は蟲でも引っ付き蟲だぜ。さっさと帰るなんてつまんないことするもんか、と」
魔理沙は蜜柑の皮をゴミ箱にむかって投げつけた。狙いはわずかに逸れた。蜜柑の皮は寝転がる霊夢の頭の上に着地した。
「あ、やべ」
霊夢はむくりと起き上がった。蜜柑の皮はいまだに霊夢の額のところに引っかかっていた。霊夢の周囲に不穏な気配が漂い始めた。
「どうやら、蟲は蟲でも駆除すべき害蟲さんのようね」
「さすがにまずい。これはもうあれしかないな」
魔理沙は懐から八卦炉を取り出す。霊夢の周囲にお祓いの道具が浮遊する。
「そうね、あれしかないわね」
霊夢の頭から蜜柑の皮が落ちたその刹那、二人は同時に炬燵から飛び出した。二人は神社の境内に躍り出ると、一瞬のうちに上空へ飛び上がった。ふわりと浮かんだ二人の周囲をお札やらレーザーやらが飛び交う。
「寒いからさっさと叩きのめさせてもらうわよ」
「霊夢こそ、最近開発した新必殺技の被験者第一号になってもらうぜ」
色とりどりの弾幕が神社の上空を覆う。花火のようなそれは、二人が寒さに耐えかねて炬燵に転がり込むまで続いた。
その年の幻想郷の冬はやはりいつもどおりだったのである。
ホラーを謳ってる作品にそういう感想を抱いていいのか疑問ではありますが。
全体的に息を吐かせぬシーンばかりなので、もうちょっとメリハリというか、展開に波が欲しかったような気もします。
前半と後半のギャップを狙っていたのなら、パニックホラー部分のホラー成分がもう少し欲しかったところ。