そいつのもとへ話題が届くころには、その話題はもう、終わっている。そういう層が、幻想郷にはある。
広いネットワークもなければ、動向を注目されるような影響力もない。私がたまっているところが、そこだ。
この間、初めて能動的に行動した。天邪鬼による反逆異変。力が止めどなく湧いてくるのがわかった。いつになく、高揚した。もしもこの異変が遂げられれば、私もここに留まれるかもしれない。その期待に突き動かされ、初めて巫女の前に飛び出した。結末はもう思い出したくもない。私は、ヒエラルキーがひっくり返りでもしないと巫女の前に立ちふさがることができない、自分の非力を恥じるべきだったのだろう。
私はぼんやりと、浮かんだ満月を見上げていた。くだらない序列に縛られない巫女に叩きのめされた節々が痛んだ。漲っていた力がふと消え去って、私は、私を突き動かしたあらゆる衝動が、現れたときと同じように、跡形もなく霧散したのに気付いた。私たち、非力な妖怪に与えられた、舞台に立つ初めての、おそらく最後の機会は、そのようにして終わった。
新月の夜が私は一番好きだ。狼女として生をうけた私の、もっとも狼らしくない夜。”妖怪らしくあること”はあの晩から、私にとっては重荷となっていた。それを意識しなくていい、唯一この晩が私には安息となっていた。翳す腕のつるりとした光沢を、何とはなしに見上げた。
もういいのだ、私は、と、自分に言い聞かせている。私は例えば命蓮寺の連中とは違う。千年間封じられた指導者を迎えに行くような物語を持ち合わせていない。地上を焼き尽くそうとする、復讐に燃える親友もいない。それどころか、英雄譚を要求された小人族の末裔でさえないのだ。今泉影狼は何者でも、ない。
か細い星明かりでは影はできない。だから、竹が作る影が動いたとき、人間が迷い込んだのだと思った。提灯を持って竹林をさまよう人間が近づいているのだと。私に気付くようなら適当に出口へ案内してやればいいだろう。でなければ放っておこう。顔に影がかかったので私は身体を起こした。
「こんな夜更けに、診療所へ? それとも」
言葉を切ったのは、自分の意志でではない。そいつの、珍妙な服装ゆえだ。診療所の薬師を思い出すような、原色を基調とした、赤と青の模様。そして、
「あれ」
そいつは、私よりずっと小さい。見た目は幼い少女に見える。新月の私は夜目が利かない。赤と青なんて色合いまではっきりと区別できるはずがなかった。いつのまにか頭上には月がのぼっていた。妙に輪郭がはっきりしたものが、それも二つ。スポットライトのように私たち二人を照らしている。
無意識に腕をさする。肌の感覚は変わらない。つるりとしたままだった。
「あたいはクラウンピース。道に迷っちゃったのよ」
クラウンピース。地獄で使役されていた妖精。そして、月の都を恐慌に突き落とした鉄砲玉。私が知っているということは、とっくに終わった話だということだ。幻想郷へ降りてきていたのか、と思う。
「お姉さんはなんなの? 人間の匂いはしないけど」
「うるさいな。狼女は定休日だから、会いたかったら月を改めて」
ふうん、とクラウンピースは鼻を鳴らした。そして、私の周りをぐるりと、回る。また視界に入ったとき、クラウンピースは左手に火のついていないトーチ、松明を握っていた。
「お姉さんは狂気が足りなくてつまんない。満月が二つものぼった晩だというのに、何を常識ぶっているの」
「あいにく、本物志向でね。あんなイミテーションじゃノれないわ」
そう返してみたはいいものの、そこからどうしようという見通しは私にはまったくなかった。気分は地図も見ずにしばらく歩いてから、はたと我に返って途方に暮れる、あの瞬間にも似ていた。クラウンピースが道を知っていてくれないだろうか、と勝手な期待を抱く。クラウンピースは首を傾げると、「じゃあ、もうちょっとお膳立てしたげる」と言った。何をしたのか、松明にひとりでに灯がともった。それを見ていると、ふつふつと、何かが沸き上がってくるのを感じた。それはあの晩の高揚感とも似ていた。
「どうかしら、面白く踊ってくれる気になった?」
高揚感はどんどん強くなって、すぐに狂おしいほどの焦燥感に成長していた。不思議な気分だった。荒んだような言葉が次から次へと湧き出してくる一方で、この場をより見栄えのいいものに育てようという強い意志がそれを完全にコントロールしていた。私は指を指した。
「私は面白くなってなんてやらない。あんたが面白くなったらいいんじゃないの」
「どういうこと?」
夜空を見上げる。月はいつの間にか三つに増えていた。本物? 偽物? そんなことはどうでも良い。そこに満月がある、それに駆り立てられなければ、狼女は名乗れないだろう。一つの月は私たち二人を包むように、残った二つは私と、クラウンピースとのそれぞれを小さな円に照らす。足元に出来た濃い影から、ぐるるぅ、と喜び勇む唸り声が聞こえる。あれ以来ご無沙汰だったから、私のオオカミたちも血に飢えているみたいだった。
「けしかけてくれた報いよ、私に、踊らされなさい!」
彼らを――幻想となったニホンオオカミたちを――解き放つ。狼たちが私の影から飛び出して、クラウンピースへ向かっていく。先頭の一、二頭を、クラウンピースがひらりと身をよじってかわすのが見えた。私も後を追って地面を蹴った。牙をむく。自然に、両手と両足で地面を掴んでいた。頭上の月は二人を追従して照らし続けた。そこは、今だけは、私とクラウンピースだけのための舞台だった。
広いネットワークもなければ、動向を注目されるような影響力もない。私がたまっているところが、そこだ。
この間、初めて能動的に行動した。天邪鬼による反逆異変。力が止めどなく湧いてくるのがわかった。いつになく、高揚した。もしもこの異変が遂げられれば、私もここに留まれるかもしれない。その期待に突き動かされ、初めて巫女の前に飛び出した。結末はもう思い出したくもない。私は、ヒエラルキーがひっくり返りでもしないと巫女の前に立ちふさがることができない、自分の非力を恥じるべきだったのだろう。
私はぼんやりと、浮かんだ満月を見上げていた。くだらない序列に縛られない巫女に叩きのめされた節々が痛んだ。漲っていた力がふと消え去って、私は、私を突き動かしたあらゆる衝動が、現れたときと同じように、跡形もなく霧散したのに気付いた。私たち、非力な妖怪に与えられた、舞台に立つ初めての、おそらく最後の機会は、そのようにして終わった。
新月の夜が私は一番好きだ。狼女として生をうけた私の、もっとも狼らしくない夜。”妖怪らしくあること”はあの晩から、私にとっては重荷となっていた。それを意識しなくていい、唯一この晩が私には安息となっていた。翳す腕のつるりとした光沢を、何とはなしに見上げた。
もういいのだ、私は、と、自分に言い聞かせている。私は例えば命蓮寺の連中とは違う。千年間封じられた指導者を迎えに行くような物語を持ち合わせていない。地上を焼き尽くそうとする、復讐に燃える親友もいない。それどころか、英雄譚を要求された小人族の末裔でさえないのだ。今泉影狼は何者でも、ない。
か細い星明かりでは影はできない。だから、竹が作る影が動いたとき、人間が迷い込んだのだと思った。提灯を持って竹林をさまよう人間が近づいているのだと。私に気付くようなら適当に出口へ案内してやればいいだろう。でなければ放っておこう。顔に影がかかったので私は身体を起こした。
「こんな夜更けに、診療所へ? それとも」
言葉を切ったのは、自分の意志でではない。そいつの、珍妙な服装ゆえだ。診療所の薬師を思い出すような、原色を基調とした、赤と青の模様。そして、
「あれ」
そいつは、私よりずっと小さい。見た目は幼い少女に見える。新月の私は夜目が利かない。赤と青なんて色合いまではっきりと区別できるはずがなかった。いつのまにか頭上には月がのぼっていた。妙に輪郭がはっきりしたものが、それも二つ。スポットライトのように私たち二人を照らしている。
無意識に腕をさする。肌の感覚は変わらない。つるりとしたままだった。
「あたいはクラウンピース。道に迷っちゃったのよ」
クラウンピース。地獄で使役されていた妖精。そして、月の都を恐慌に突き落とした鉄砲玉。私が知っているということは、とっくに終わった話だということだ。幻想郷へ降りてきていたのか、と思う。
「お姉さんはなんなの? 人間の匂いはしないけど」
「うるさいな。狼女は定休日だから、会いたかったら月を改めて」
ふうん、とクラウンピースは鼻を鳴らした。そして、私の周りをぐるりと、回る。また視界に入ったとき、クラウンピースは左手に火のついていないトーチ、松明を握っていた。
「お姉さんは狂気が足りなくてつまんない。満月が二つものぼった晩だというのに、何を常識ぶっているの」
「あいにく、本物志向でね。あんなイミテーションじゃノれないわ」
そう返してみたはいいものの、そこからどうしようという見通しは私にはまったくなかった。気分は地図も見ずにしばらく歩いてから、はたと我に返って途方に暮れる、あの瞬間にも似ていた。クラウンピースが道を知っていてくれないだろうか、と勝手な期待を抱く。クラウンピースは首を傾げると、「じゃあ、もうちょっとお膳立てしたげる」と言った。何をしたのか、松明にひとりでに灯がともった。それを見ていると、ふつふつと、何かが沸き上がってくるのを感じた。それはあの晩の高揚感とも似ていた。
「どうかしら、面白く踊ってくれる気になった?」
高揚感はどんどん強くなって、すぐに狂おしいほどの焦燥感に成長していた。不思議な気分だった。荒んだような言葉が次から次へと湧き出してくる一方で、この場をより見栄えのいいものに育てようという強い意志がそれを完全にコントロールしていた。私は指を指した。
「私は面白くなってなんてやらない。あんたが面白くなったらいいんじゃないの」
「どういうこと?」
夜空を見上げる。月はいつの間にか三つに増えていた。本物? 偽物? そんなことはどうでも良い。そこに満月がある、それに駆り立てられなければ、狼女は名乗れないだろう。一つの月は私たち二人を包むように、残った二つは私と、クラウンピースとのそれぞれを小さな円に照らす。足元に出来た濃い影から、ぐるるぅ、と喜び勇む唸り声が聞こえる。あれ以来ご無沙汰だったから、私のオオカミたちも血に飢えているみたいだった。
「けしかけてくれた報いよ、私に、踊らされなさい!」
彼らを――幻想となったニホンオオカミたちを――解き放つ。狼たちが私の影から飛び出して、クラウンピースへ向かっていく。先頭の一、二頭を、クラウンピースがひらりと身をよじってかわすのが見えた。私も後を追って地面を蹴った。牙をむく。自然に、両手と両足で地面を掴んでいた。頭上の月は二人を追従して照らし続けた。そこは、今だけは、私とクラウンピースだけのための舞台だった。
想像するだに美しい。
ただちょっと駆け足すぎる気もしました
でも面白かったです