がんがらがん
がんがらがん…ブリキ缶などを打つ音。転じて、中身が空っぽなこと、内容がないことを言う。
幻想郷の冬は寒い。春も夏も秋も、ざわざわと喧しい人里の人間でさえ、冬は皆、家に閉じ篭って暖に身を任せている。
正月になると、少しは活気が戻る。然し幾らかの行事を終えると、誰も彼もまた、桜が顔を出す迄は、家の中で冬眠している。大人に対して子供と言えば、元気ばかりがあり余るので、冬であっても外で騒いで、囃子唄なぞ歌いながら、きゃいきゃいと笑い声を出す。
博麗霊夢が太陽を迎える神事も終えて数日して、六日ぶりの雪が降る。寒さは余計に身を刺して、人を炬燵や囲炉裏に追い込んでしまう。彼女も例外ではなかった。彼女は生来、怠け者の癖があるので、雪が降れば当然の如く、一日中でも炬燵に潜っている。
霊夢は誰が見ても分かり易い、だらしない顔で、炬燵の甘美な熱を貪っている。彼女は段々とうつらと微睡んで、もう寝入る直前まで体が惚けていた。然し忘れてはならないことがある。幻想郷の住人は天邪鬼で、彼女が何か必要な場面で姿を見せず、一人ぼうっと暇を満喫している場合のみ、騒がしい声を発しながら、博麗神社に姿を表す。霧雨魔理沙と言えば、正に筆頭であった。
室の襖がすうと引かれる。木材の擦れ合う音と、来客の第一声が、霊夢の意識を覚醒させた。
「よ、霊夢。新年おめでとう」
霊夢は何も言い返さなかった。柔かな魔理沙に対して、彼女は仏頂面であった。
「どうした、変な顔して」
「寝そうだったのに」
「何だ、そんなことか」
いそいそと魔理沙は、霊夢の正面に位置する様に、炬燵に潜り込んだ。彼女の顔も惚ける。冬の魔物は、人も妖怪も飲み込む魔性であった。
炬燵に反して冷たい室を感じて、彼女はミニ八卦炉を机の上に置いた。ミニ八卦炉は暖かな温風を吐き出して、炬燵と室の温度の距離を縮めて行く。
「あー、暖かい」
「寒いなら家、出なけりゃ良いのに」
「だってな、暇だし」
「魔法の研究は?」
「正月明けじゃあ、やる気も起きないぜ。だからこうして、神社に遊びに来るんだ」
「別に神社じゃなくったって良いじゃないの」
「何だ、不満か?」
「不満じゃあないけど」
「じゃ、良いじゃないか」
当然の様に魔理沙は、机の上の蜜柑籠から一つ取って、徐に剥き初めた。霊夢も倣って剥き初めた。二人は話すことも思い付かないので、暫く無言になった。無言が苦に成る間柄でもないので、二人共どうにか会話を捻り出そうとする様子の欠片もなかった。
室が段々と微温い温度になって行く。魔理沙はミニ八卦炉の温度を調節して、もう室の温度が上がらない様にした。
「そう言や、もう誰か来た?」
唐突に口を開いたのは魔理沙だった。
「針妙丸が」
「そうか、一番乗りじゃなかったかあ」
「そう言えば、あんた珍しく暫く来てなかったわね」
「ああ、風邪で一寸な」
「風邪?大丈夫なの?」
「もう治ったよ。何せ八意印の薬は効くから」
「へえ」
「鈴仙がさ、冬場は風邪の薬が売れるけど、売り歩くのは面倒だってさ」
「彼奴等、そんなことしてるんだ」
「知らなかったか?」
「うん。面倒は起こしてなかった?」
「いんや」
「そう、良かった」
雑話に身を任せている最中、二人は誰ぞ、外で砂利を擦る足音を聞いた。雪に吸収される小さな音も、ぼそぼそと喋る二人には良く聞こえた。裏の戸が、がらがらと引かれて、許可もなしに誰ぞ入り込んで来た。博麗神社に誰ぞ入り込んで来るのは、決して珍しくなかった。二人は誰ぞ部屋に入って来るまで、黙ることにした。
少し経って、襖がすうと開けられた。藤色の美しい髪が、頭巾から飛び出して見える来客は、珍しく入道を連れていなかった。
「明けましておめでとう御座いまーす、命蓮寺です。あ、魔理沙さんも」
「ああ、おめでとう」
「入道使い、おめでと。珍しいわね、神社に来るの」
「まあ、今日は入道、連れてないんですけどね」
「じゃあ、唯の「使い」か?」と魔理沙が軽く揶揄った。
「まあ、使いに来たのは正しいんですけどね、正月の挨拶に。はい、どうぞ。御煎餅ですよ」
雲居一輪はごそごそと袈裟の内側を探った。包が顔を出して、二人の前に現れる。包を机に置いて、一輪は魔理沙の左隣、炬燵に潜り込んだ。狭い炬燵では、隣り合うと肩が触れた。彼女も矢張り幸せそうな顔で、熱を実感する。命蓮寺と博麗神社はそこそこに遠い。飛んで来れば、尚さら寒い。顔が緩むのも仕方なかった。
霊夢が包を開けると、禍々しい色が顔を出した。紫の煎餅であった。
「え、何この煎餅」
「あ、知ってる。地底煎餅だろ」
「ええ、地底の知り合いが持って来たんですけど、多すぎまして」
「前に地霊殿に行ったんだけど、土産に貰ったんだ。美味かったから、一人で食っちまったよ」
「腐ってるんじゃないの」
「いや、元々そんな色ですよ」
じろじろと煎餅を眺める霊夢の表情からは、訝し味が滲み出ていた。
「之は薩摩芋のですね」
「他にも色々とあるんだよな。酒味とか、甘酒味とか、人肉味とかもあったっけ」
「甘酒味ってあんまり美味しくなさそうね」
(あ、そっちに突っ込むんだ、霊夢さん)と一輪は内心で恐ろしくなった。
薩摩芋味と分かれば、霊夢はばりばりと煎餅を齧った。魔理沙も倣って齧ると、気味の良い乾いた音が、二つ室に響く。
「あ、お茶は好きにして」
「ああ、どうも」
お茶を湯呑に注ぐ。飲む。博麗神社のお茶はやけに渋かった。一輪は少し面食らった。
「地底か、地底って何があるんだっけ」と霊夢が疑問を吐いた。
「さあ、私も偶に地霊殿に行く以外は大して知らんな」
「魔理沙さん、星熊の姐さんが住む辺りは兎も角、他の場所は行っちゃあ駄目ですよ」
「何でだ?」
「鬼は卑怯が嫌いですからね、闇討ち地味たことはされないでしょうが、街の端だとそうは行きませんから」
「へえ?どう言うことだ」
「何てったって、忌まれた妖怪の掃き溜めですから。私も地底に落とされた頃は、苦労しましたよ」
「掃き溜め何て、言えてるわね。あの中じゃあ、寧ろ鬼が変わってるんだわ」と茶を淹れながら、霊夢は目を細めた。
彼女が妖怪を語れば、真実味を帯びる。何より博麗の巫女だからこそであった。
「地底の端じゃあ、女は五回は強姦されてると思え、何て諺がありますよ」
「何だそりゃ」
「まあ、私と村紗は腕っ節が自慢だったので、大丈夫でしたけどね。魔理沙さんの様な乙女は、あんまり地底に行っちゃ駄目ですよ」
「乙女だって」と霊夢は可笑しそうに微笑んだ。
「喧しいわ」
「ああ、でもね。気の良い奴等も、ちゃんと住んでますからね」
「分かってるよ」
一輪の地底を庇う言葉は、愛着から来る思いであった。苦もあるにしろ、長年を過ごしたことには変わりなかった。住めば都と言う如く、喧嘩っ早い彼女にとっては、性に合う土地であった。
「地上も良いですけどね、長い間ずっと彼処に住んでましたから、一寸だけ懐かしくなることもあります」
「へえ、そうなのか」
「お酒、好きに飲めますから」と一輪はにやりとした。
「アハハハ結局そう言うのじゃない」
「仕方ないさ、寧ろ白蓮が間違ってんだ。幻想郷から酒を抜いたら何が残る?暇だけだ」
「言えてますね、アハハハ」
字の如く、姦しくなって来る。一輪の生来の明るい気質が、室の雰囲気を華やかにした。
「ま、お酒は何だ。宴会やらで飲めるから、良いんですけども」
「じゃあ何だ?他に入用か?」
「あー、煙草も阿片も少なくって。そもそも阿片は、地上じゃめっきりない様でねえ、困りますよ」
「阿片って何?」と霊夢が不思議がった。
「え?」
「魔理沙、知ってる?」
「いや、知らんな。それは何だ、美味いのか」
「いやあ、一寸」
「何だ?」
「一寸、エヘへへ」
「はっきりしないわね」
「一寸ね…」
もごもごと口を動かして、誤魔化す様に指を弄ぶ一輪は、明らかに不審であった。
しんしんと雪が降り注ぐ。暖められた室が、寒さに侵食される気配を霊夢は感じた。二人一妖に知る由もないが、雪は一輪が来たばかりの頃より勢いを増し、段々と地面に溶けず、白い輪郭を表し初めた。雪の粒が大きく形を表し、幻想郷に白が来る。
霊夢はもぞもぞと身を捩った。
「何だか背が冷えるわね」
「ああ、雪が強まったのかな」
「私が来たばかりは、そんなに強い雪じゃありませんでしたよ」
「魔理沙、魔理沙。ねえ、付けてよ」
霊夢はミニ八卦炉を指差した。
「弱い熱を出し続けるのは苦手なんだ、我慢しろ」
「けち」
「遠慮なし」
「まあまあ」
霊夢は仕方なしと言った風に、炬燵の中から這い出て、箪笥に向かって行った。下から二段目、半纏を二つ取り出した。真新しいの、古めかしいの。霊夢は襤褸を魔理沙に投げ渡した。襤褸は魔理沙が冬場に良く借りる、霊夢の古着であった。
「御免ね、魔理沙のしかないのよ」
「一輪、使うか?」と魔理沙が気を揉んだ。
「いえいえ、構いませんよ(当然の様に渡すんだなあ)」
二人の関係が何か奇妙で、一輪は内心で可笑しく思った。表情に出そうになって、彼女は一つ咳払いをした。
霊夢はいそいそと炬燵に戻ると、思い付いた様に一輪に目を向けた。
「ねえ、あの僧侶が正月明けの挨拶を他人に任せる何て、らしくないわね」
「ああ、私も思ったな、それは」
「ええ、それ何ですけど」
「どうした?」
「バイクって分かりますか」
「ああ、あの変な馬」
以前は香霖堂の雑誌でしか見たことのなかった、黒い金属馬を、魔理沙は想像した。
「姐さんったら冬場は滑りそうだからって乗らなかったのに、我慢が効かなくて」
「転んだか」
「そりゃもう派手に」
天狗の如く走る聖白蓮が、バイクから振り落とされすっ飛んで行く様を思い出して、一輪は苦い笑みを浮かべた。常人なら死を免れなかったろう。然し白蓮は持ち前の強靭さで、右足の骨折だけに留まっていた。布団で療養する白蓮をからかいに来た豊聡耳神子は、一輪の記憶に新しかった。
「会った頃は、あんな滅茶苦茶な奴とは思わなかったよ」
「そうかしら、妖怪を弟子にする僧侶って、どう考えても頭おかしいでしょ」
「妖怪神社の巫女が言うな」
「好きで妖怪神社やってるんじゃあないわ」
「と言うか、弟子の前で頭おかしいとか言うなよ」
「アハハハ変な御方だとは私も皆も思ってますよ。だから尊敬しているんです」
談笑が続く最中に、また裏の戸が引かれる音がした。足音は一輪よりも喧しかった。遠慮のなさから、二人一妖は誰ぞ来たか想像した。
「誰かしら」
「早苗かな」
「違うと思う」
「慌しそうな足音ですねえ」
答えは遂に知れず、誰ぞ襖を引いた。来客は巨大な鴉羽を背に備え、服の胸部中心に、赤い目玉の様な物体を引っ付かせていた。真っ黒い髪と、緑の蝶結が揺れた。
「また珍しい顔」と霊夢が目を丸くした。
霊夢が言う如く、彼女は珍しい来客であった。「変に地底に縁のある日ね」と霊夢が思っていると、霊烏路空が柔らかな声で彼女に話し掛けた。
「赤い方の巫女、明けましておめでとう」
「霊夢よ、博麗霊夢」
「何だって良いよ、分かるんだから」
「よう、空」
「あ、魔理沙。おめでとう」
「何であんたは覚えてるのよ」
「少しは地霊殿に行くからな、人付き合いの悪い奴と違って」
ぐさりと霊夢は芯を突かれた様に思った。誤魔化す様にばりばりと煎餅を齧ると、霊夢の目に一輪の驚いた様子が入った。彼女はじいと空を眺めていた。空もまた、一輪の顔を見て、少しきょとんとした。お互い目がかち合うと、二人は花が咲いた様に騒がしくなった。
「一輪じゃない!」
「空、久しぶりね」と一輪は心底の笑みを浮かべた。
空が一輪に駆け寄って、一輪が空の為に、炬燵から少し身を乗り出した。二妖はがしと久々の会合を喜ぶ様に抱擁して、お互いの背を叩いた。身を離すと、笑顔で顔を見合わせて、何か照れ臭そうには含羞んだ。
魔理沙は近場で黒い羽がばたついたので、少し鬱陶しそうにした。
「知り合いだったの」と霊夢は驚いた風もなく言った。
「千年も地底に住めば、大抵の奴は知ってますよ」
「一輪、一輪。後で会いに行こうと思ってたのに、何だか奇遇だわ」
「ええ、嬉しいわ」
「村紗は?」
「村紗は寺。折角だから帰りに顔、見せてやりなさいよ」
「丁度良いや、お寺に住んでるってのは聞いてたけど、場所が分からなかったの」
「分からないのに出てきたの?」と一輪は呆れた。
「おい空、座ってくれ。羽が邪魔で堪らんよ」と魔理沙が二人に声を掛けた。
「あ、御免なさい」
「良いさ、久しぶりに会ったんだろ」
空は霊夢から見て左、魔理沙から見て右、炬燵の一辺に潜り込んだ。慌しかった羽が落ち着いて、気怠げに先の部分が畳に付いた。
「喧しいのが三人も」と霊夢は内心で思った。
「お前が来る何て珍しいこともあるな」
「さとり様に叩き出されたの」
お空は悄気た顔をした。項垂れていた羽が更に項垂れて、普段の能天気な雰囲気を薄れさせた。
「何したんだお前」
「それがさ、上は正月だって皆が言うのに、此方は全然そんな雰囲気ないんだもの。だから太陽を造ってやったのよ。そしたら地底がとんでもなく暑くなっちゃってねえ。いやあ、失敗したわ」
「そりゃあ、誰だって怒るなあ」
「皆して細かいんだ、アハハハ」
「あんたは変わらないね、空」と一輪が乾いた笑いを見せた。
魔理沙が来て、一輪が来て、空が来て、時刻は辰と巳の間であった。卯の刻から三十の分が過ぎた頃に降り出した雪は、愈々持って、幻想郷の人生を真っ白に染め上げていた。他の場所はしんとしているにも関わらず、博麗神社は何時も通り騒がしい。此処だけは、雪国の春。誰ぞ遠巻きに見れば、顔を顰めるに違いなかった。
魔理沙は空の話を催促した。
「それで?地底はどうしたんだ」
「どうも制御が効かなくって。それで鬼が出張ってきて、酒の肴に太陽を食べたのよ」
「太陽を食べた?それは何だ、何かの例えか」
「そのままだよ。最初に勇儀の姐さんが出張ってきて、「こんな奴、酒の肴にして食ってやる!」って躍り出てさ、太陽をばらばらに砕いて食べたの」
「分からん分からん、全く分からん」と魔理沙は可笑しそうにげらげら笑った。
「他の鬼も調子付いて食べてたんだけどさ、勇儀の姐さん以外は下痢で苦しんでた」
「下痢で済むのね」と霊夢がぼやいた。
「それでさとり様ったら、もうカンカン。地上は寒いって言うのに、「震えながら新年の挨拶にでも行って、反省しなさい!」って叩き出されちゃって」
「今に至るってことか」
「外は寒かったわ。私が仕事する場所、何時も熱いから、寒さには慣れてないの」
「良い薬じゃないの」と一輪がくすくす笑った。
「薬にはならないと思うわ、忘れちゃうんだから」
「自覚はあったのか」と魔理沙が変な表情をした。
話して、ふと空は思い出した様に懐をごそごそした。現れたのは包であった。霊夢は嫌な予感がした。机の上の煎餅をちらと見た。
「忘れてた、赤い方の巫女。さとり様が渡せって言ってたの、地底煎餅」
霊夢は包を開けた。奇しくも渡された煎餅は薩摩芋味であった。
「やっぱりかい!」
魔理沙が再度げらげら笑った。一輪も釣られて小さく笑い出した。空は変な顔をして三人を見渡した。見かねて一輪は口元を抑えながら、机の上を指差した。
「空、机、机」
「あれ、地底煎餅だ。良いな、私も食べて良いかな」
「お好きにどうぞ」と霊夢は微妙な表情をした。
霊夢の表情が余計に魔理沙を可笑しくして、一輪までも遂にげらげら笑い出した。煎餅をばりばりと齧る空を見て、霊夢は溜息を付いた。
「美味しいけど、何か御土産が被るとねえ」
「良いだろ煎餅、好きだろ」
「はあ」
「アハハハ皆で食べましょう」
一輪が煎餅を齧ると、霊夢も魔理沙も煎餅を手に取った。量が有っても煎餅が不味くなることはない。然し甘い味はしつこかった。空より他の二人と一妖は、御茶を口にする頻度が増えたのであった。
「にしても何、最近は手下を挨拶に行かせるのが流行りなの?」と霊夢が思う儘を言った。
「さあね、まあ寒いから出たくない気持ちは分かるがね」
「あんたは来るじゃないの」
「ああ、霊夢が恋しいんだ。ほれ、嬉しいか、喜んで良いぞ」
「はいはい」
「あー冷た」
「さとり様も地霊殿から出れば良いのに」
「彼奴は陰気だからな」
「さとり様は大好きだけど、偶に性格悪いなあって思うよ」と空が主人に悪びれもなしに笑った。
「何だ、お前も思ってたのか」
「だってさとり様、嫌がることするの大好きだもん」
「覚リ故の性格ねえ」と一輪が言った。生来の性、船幽霊の性質に、偶に思い悩む村紗が、頭に浮かんだのであった。
空の頭に再度、手渡す筈の物が浮かんだ。また懐をごそごそと探り出した。
「忘れてた、一輪」
包を渡した相手は一輪であった。空はにこにこして一輪に包を手渡した。
「何?」
「地上にないって聞いたから、阿片」
「げ」と一輪は気不味そうに人間を見た。
霊夢と魔理沙が興味深そうに包を見た。真っ黒い包は如何にも怪しい雰囲気を発していた。
「之か、阿片ってのは」ときらきら目を輝かせる魔理沙が、一輪は眩しく見えた。
「美味しいのそれ」
「へえ、まあ、美味しいっちゃあ美味しいですけど」
「一寸だけ分けてくれよ」
「あー、駄目です」
「良いじゃないか、一寸だよ」
「駄目ったら、駄目です。あれです、子供には難しい味ですから」
「良いじゃない一輪、何なら偶に持って来ようか」
「空、一寸だけ黙って」
「何でよ。あ、村紗に黙って独り占めしたいの?この卑しん坊」
「良いから、はい、終わった。この話題は終わった」
「矢っ張り寺の連中って変な奴ねえ」と霊夢が言うと、一輪は返す言葉もないのだった。
一輪があやふやに言葉を濁している最中、霊夢は襖の裏に気配を感じた。彼女には知った気配であった。見ずとも見える、楚然とし、幽邃を体現したような―――怪めかしい気配が。
襖が引かれる。何時の間にか博麗神社に入り込んでいたのは、永遠亭の月の姫であった。彼女は手土産に酒瓶を二つ持っていた。漸く他の一人と二妖も何者かに気付いて、魔理沙は「また珍しいな」と内心で驚き、一輪は言葉も出ず、空は「誰?」と呑気な表情であった。
「明けましておめでとう御座います、霊夢、魔理沙も。一寸ばかし遅いけど」
「今日は愈々、変な日ねえ」
「へえ、どうして」
「普段は見ない奴が来るから」
「ふうん、そうなのね」
蓬莱山輝夜。彼女が現れただけで、室の雰囲気は何か異様になった。濃やかな趣で場を蝕みながら、輝夜は炬燵に向かった。酒瓶を畳に置いてから、彼女が潜り込んだのは、空の前の一辺であった。炬燵は遂に四辺が埋められて、何処か迫っ苦しい様子であった。
輝夜は自分を見つめる視線に気付いた。一輪が目を見張りながら、彼女を凝視していた。
「ねえ、ねえ、そんなに見られちゃ困るんだけど」
「はい?……あ…はい!えっと、えっと、御免なさい!」
一輪は頭を下げて平謝りした。謀らずも彼女の珍妙な様子が、室の雰囲気を元に戻した。くすくす笑う輝夜に、一輪は気恥ずかしくなった。
「一輪、何か変だよ」
「いや、一寸……唯こんな綺麗な人、見たことなかったから…吃驚したあ」
魔理沙は一輪の奇妙な様子に「ああ、成程」と納得した様子であった。一輪も元の様子を取り戻して、ほっと一つ溜息を吐いた。
「言われ慣れてるから、そんなに恐縮しなくって良いわ」
ホホホホと笑う輝夜に、霊夢は呆れた表情を見せた。
「自分で言うもんじゃないわね」
「だって事実じゃない。謙遜すれば嫌味と言われるし、誇示すれば傲慢だと言われるし、困るわねえ」
「まあ、一輪の気持ちは分からんでもないがな」
魔理沙は輝夜の顔を眺めた。見れば見るほど不思議であった。吸い込まれる様な、香り立つ様な、例えば遠い月に、現実感のない美しさを見出す様な―――禍々しい昏い情を含む、冥漠。色相世界に住むことが、信じがたい見目。
何か危うい気分になって、魔理沙は顔を背けた。彼女の様子に輝夜が、またホホホホと笑った。
「私は正直、分からないわねえ、そう言うの」とどうでも良さそうに霊夢は御茶を啜った。
「其処が貴女の良い処よ―――」
「―――ああ、でも」と、輝夜は言葉を含んだ。
「でも、一輪さん、よね?私より綺麗な人だってあるのよ」
「そうなんですか?」
「ええ」
「ああ駄目、私そんなの見ちゃったら、死んじゃうかも、貴女だけでも吃驚したのに」
「貴女もそいつを知ってるかも知れないけどね」
「ええ?」
目を丸くする一輪を尻目に、思い当たる節が魔理沙にはあった。
(妹紅かな、多分。それか)
魔理沙は何も言わなかった。然し一瞬だけ霊夢を見た。
霊夢は机に片肘を付いて、小さく欠伸をした。然し目敏く酒瓶を指差した。眠気より呑み気であった。
「眠いわ、寝ちゃう前に飲みましょ」
「ええ、好きにして。二つ持って来て良かった。魔理沙は来てるかもって考えてたけど、こんなに集まってる何て」
「そう言えば何で来たんだ」
「正月の挨拶よ」
「本当はどうした?」
「暇だから」
「魔理沙と一緒じゃないの」と霊夢は言いながら立ち上がった。
霊夢は食器棚に向かって行って、適当な盃を取り出した。何処にでもある、赤と黒の盃が九枚、重ねられて机に置かれた。
「多いな」
「何か他に来そうな気がしてね」
「確かにこの流れだと来そうですね」
「これ以上は窮屈になるよ」
「お前の羽よりは窮屈な奴じゃないだろ」
「確かに」と空は納得した様子であった。
魔理沙が全員の杯に酒を注ぐ。澄んだ色が満たされて、杯は光を反射していた。
「朝から酒かあ」と魔理沙がぼやきを漏らした。
人は何故か朝から酒を飲むと、後ろめたい思いを抱く。誰も理由は知れなかった。
「何、飲まないの」と霊夢が笑った。
「いいや、飲むよ。飲まない理由がない」
「来て良かった、こんな時間からお酒が飲めるなんて。お寺じゃこうは行きませんから」
「破戒僧だな」
「一々あんなに沢山、守ってられませんよ」
「そりゃそうだ」
「ほら、もう飲みましょ。冷たいのを我慢して抱えて来たんだから、早く飲んで頂戴な」
「何か袋にでも入れれば良かったんじゃないか」
「面倒だったの」
彼是と雑話が流れる中、霊夢と空が早々と杯を口に当てると、皆が背中を押された様に酒を飲んだ。朝っぱらから酒を煽る罪悪感、優越感が、空を除く全員の胃を満たす。
一輪が恍惚とした、喜びの吐息を吐く。皆も続く。杯が空けば、流動する水が満たされる。また煽る。酒は人間苦の全てを吹き飛ばして、人を幸福にする。蓬莱の薬で酒の効かない輝夜であっても、辺りに幸せな気分が満ちると、不思議と酔った気分が巡る。
「永琳ってお酒、あんまし飲まないのよね、酔わないからって」
独り言の様に輝夜が囁いた。
「難儀な体だよな、お前らって」
「私は良いと思うけど、妹紅は違うらしいわねえ」
「そう言えば、妹紅って何で不老不死になったの?あんたが噛んでるらしいけど」と霊夢が輝夜を見た。
「気になるんなら本人に聞きなさいな」
「面倒だし遠慮しとくわ」
「私は不老不死が辛いなら、いっそ楽しめば良いと思いますがね。でも実際そうなったら、思えないでしょうか」
「さあねえ、あの子の気持ちは分からないわ」と寂しそうに、輝夜が目を細めた。
輝夜の儚げな声が、一瞬の間であったが室を少し静かにした。
魔理沙は機会を感じて、思い切って以前から思っていた疑問を投げ掛けた。
「なあ、前々から思うことがあったんだがな」
「何かしら?」
「私は―――お前等がその、何というか」
魔理沙は口をもごもごとして、言葉を肺に留まらせた。言うか、言わぬかと彼女は錯誤した。
輝夜は魔理沙が言いたいことを察した。不愉快に思うこともなかった。彼女は先んじて魔理沙の声を自ら代弁した。
「恋仲?」
「ああ、そうだな、そうとも言うか」
「遠慮しなくって良いわよ、正月明けの無礼講ってことで」
「じゃ、遠慮なく聞くがな。私はどうも、妹紅がお前を嫌っている様には見えないな。少なくとも今は」
室の雰囲気が段々と変わる、移ろう季節の如く。皆の目線が二人に向かう。空だけは良く分かっていない様子であった。
「ふうん、まあ、そうね。確かに妹紅はもう、あんまり私を憎んでいないと思うわ」
「私はまあ、恋仲とは言わないけど、もう友達にならなれるんじゃあないかと思うんだ。でも偶に妹紅と話して、お前のことになると、何というか、距離を感じる」
「距離、ね」
「彼奴はお前のことを話すとき、悪く言うけど、別に不愉快そうってこともない。寧ろ楽しそうに見えるんだな、私は」
魔理沙が一つ杯を仰ぐ。輝夜も倣って仰ぐ。他の皆は聞き入って、ちびちびと酒を飲んで行く。空はぼんやりと話を聞いていた。
「だから、何と言うかな、私はお前等の関係が、何だか不気味に見えると言うか」
「不気味って?」
「詰りお前等が、あー、好き同士だと思うからだ。まあ好きって言っても、色々とあるけどさ」
「好き、ねえ……そうね、私は妹紅が嫌いじゃない、寧ろ好きと言っても良いと思う」
「そうだろ?」
「妹紅も屹度、私が好きよ」
「お前等の好きがどう言う意味か知らんが、まあ私は兎に角、そう言う風に、変な奴等だなあと、思っていたんだよ」
魔理沙が捲し立てると、室がしんと成った。皆は何か手持ち無沙汰になった。然し空が言葉を切り込んだ。
「つまり妹紅って奴と輝夜は、素直じゃないんだ」
無邪気な言葉に、輝夜はぽかんとして、次の間には可笑しそうに笑い出した。皆が輝夜を見ても、彼女は暫く笑うのであった。アハハハ、アハハハと暫く室に響き渡った。声が静まると、輝夜と空の視線が合わさった。
「素直じゃない、素直じゃないね。そう、そうかも知れないわ」
「何か私、変なこと言った?」
「いえ、いえ。貴女は正しい、私も妹紅も素直じゃないんだわ、屹度」
「気付けて良かったね」
「ええ、そうね。ねえ貴女、名前を聞いてなかったわね、何て言うの?」
「霊烏路空よ」
「私は蓬莱山輝夜」
「変な名前ね」
「貴女こそ」
「そうなのかな、そうかも」
「そうよ」
何故か一瞬の間に、奇妙な友情が出来上がった。二人が盛り上がって話し出すと、霊夢はぼやくのであった。
「変な奴ばっかり」
「言えてるな」
「あんたが発端でしょ」
「そうだったかな」
「恋の話って、素敵ですよね」と一輪が茶化した。
「恋なのか、之」
「屹度そうですよ」
「なら良いか」
室は活気を取り戻した。女心と秋の空。諺の如く、一変して静けさは彼方に消えて行った。冬の寒さは最早、幻の様に感じる空気であった。
一瓶が空になった頃、巳の刻が過ぎた。輝夜の持ち込んだ酒は強かった。蟒蛇の霊夢と、来ているやも知れぬ魔理沙を考えて選ばれた酒だった。然しまだまだ飲めるのが、幻想郷の人妖の厄介な処。誰も一輪がもう一瓶を開けても、咎めやしなかった。
少し、少しと酔いが巡り、世も巡る。淑やかさよ、何処へ。瀟洒よ、今は顔を下げよ。
一輪が酒を自分の杯に注ぐ最中であった。室の襖を誰ぞ引いた。今日で五人目の来客になると、霊夢はもう驚かなかった。誰でも来いと言った風で構えていた。
来客は小さかった。青と白の壷装束と、奇妙な笠が、彼女を見たことのない者の目線を引いた。皆には喜ばしいことに、彼女は一升瓶を三つも、袋に入れて抱えていた。「酒に縁のある日ね」と一輪は思うのであった。
来客は驚いた。あんまり人が多かったからであった。
「おや、随分と人数が揃ってるじゃないか」
「あ、神様だ。明けましておめでとう御座います、神様」と酔いが回っている空が呂律を乱して言った。
「空か、元気にしてたかい」
「はい、じゃんじゃん核融合してます!原子が引っ付きます!」
「そりゃ良かった、でも酔って暴発したりしないでおくれよ」
「らい丈夫、酔ってないし」
「そうかい」
洩矢諏訪子は少し室を見渡して、空の隣、炬燵に潜り込んだ。酒瓶の袋を畳に置くと、ゆったりとして、彼女も他の来客と同じ様に、熱に身を委ねた。人よりも妖怪よりも神よりも、炬燵が上位種であると証明された瞬間であった。
「今日は珍しい客しか来ない、珍し日和だわ」
「神が来たんだから、喜ぶが良いさ」
「商売敵じゃねえ」
「あの、この御方は何方でしょうか」
霊夢と諏訪子の会話に、口を挟んだのは一輪であった。
「諏訪子は山の神だ。ほら、早苗の神社」
「早苗さんの。へえ、他に神様が住んでいらっしゃいましたか。あ、雲居一輪です、どうぞ宜しくお願いします」と一輪は頭を下げた。
「宜しくね。ああ、そう恐縮しなくって良いよ、堅苦しいのは嫌いだから」
「此奴は普段は表に顔を出さないんだ、知らないのも無理はない」
「へえ」
興味深そうに言う輝夜に、諏訪子が目を向ける。目は爬虫類の様に鋭かった。
「あんた月の香りがするね」
「あら、お嫌い?」
「好きじゃあないね、天の奴等の匂いだ。彼奴等、何もしない癖に偉そうだから」
「否定は出来ないわね、確かに月の御上は、やる気を見せないし」
「鈴仙とか言ったっけ。あの兎ん処に月の姫が住んでるって、早苗が言ってたよ。あんたがそれかい」
「ええ、蓬莱山輝夜よ、宜しくね」
「諏訪子だよ、洩矢諏訪子」
土着の民、月の民。思う処があるのか、火花が散った。
「おいおい、こんな場所で喧嘩は止めてくれ」
「そうよ、私に追い出されたくなかったらね」
霊夢は少し酔って来たのか、強気にへらへら笑った。然し目は本気であった。
「そりゃ困るね。まあ良いさ、別に本気じゃない。一寸ばかし揶揄っただけだよ」
諏訪子は杯を取って、並々と酒を注いで行った。「童が酒を飲んでる様にしか見えないわね」と一輪は思った。序で頭に浮かぶのは、友人の布都であった。
美味そうに酒を飲み干してから、諏訪子は口を開いた。霊夢を見てにやにやとした。
「それにしても、相変わらずこの神社は参拝客が来てないねえ」
霊夢はむっとして反論した。
「何よ」
「別に?唯それで巫女ってのはどうかと思ってね」
「実はこの前な、あんまり賽銭がないから、賽銭箱が拗ねて飛んで行った処だよ」
魔理沙が冗談を言った。
「飛んでないっての!」
霊夢がぎゃあと声を荒げた。然し実際に参拝客も来ていないので、賽銭箱が飛んで行っても不思議ではない有様だった。
「早苗を見習いなよ、あんなに立派になって」
おいおいと諏訪子が泣き真似をした。
「私だって頑張ってるし」
霊夢はぶつくさ言った。
「あんたもウチを見習ってさ、一寸は布教活動に精を出したらどう」
「だって…」
「だって何だい」
「面倒臭いんだもの」
「知ってたよ、ああ、知ってた」と魔理沙は慣れた風に言った。
「もう一寸だけ脇を開ければ人気が出るんじゃあないですか」と一輪がくすくす笑った。
「そんなはしたない真似、嫌。私は楽をして稼ぎたいの」
「じゃあ逸そ私に祈るかい、神頼みだよ。土下座、土下座、パン、パンって」
「礼じゃないんかい」と魔理沙が諏訪子の冗談にくすりと笑った。
「昔の人間は頭を深々と下げたってのに、近頃の奴は駄目だ。もっと敬えば良いんだ」
「こんな神じゃ下げる頭もないわね」
「無理矢理に下げさせるんだよ、それが支配ってもんだ」
「おー怖」と魔理沙が揶揄った。
一輪は神の本音が飛び出て来たので、ひやりとなって、少し身震いした。普通に話を聞く二人も彼女からすれば理解し難くって、引き攣った笑いを見せるしかなかった。
「まあ私は裏方だし、別にそんなことする必要もないんだけどさ」
「此処に来たのもそれか?」
「彼奴等が参拝客の相手に張り切っても、此方はすることないからね。暇で遊びに来たんだよ」
「この神社、暇潰しの休憩所じゃないんだけど」と霊夢がじとりと皆を眺めた。
「私はそう思ってたぜ」
「あんたは穀潰しでしょうが!」
「ハハハハ上手い上手い」
「まあまあそんなに荒れなさんなって。ほら、神様が酌するから」
けろけろ笑いながら、諏訪子は霊夢の杯に酒を注ぐ。巫女の杯に酒を注ぐ神。上下の縁がないにしろ、馴れ馴れしく会話する二人は奇妙であった。
「ああそう言えば」
諏訪子が話題を吹っ掛けた。
「霊夢、変な奴等が来たろ」
「変な奴って何奴よ、変な奴しかいないじゃない」
「あれだよ、月の」
「純狐とへカーティアね」と輝夜が気付いた。
「まあ名前は兎も角ね、あれは一寸だけ注意しなよ」
「そんなの分かってるわよ」
広大な宇宙、夢の路線、ひょんな敵対関係を霊夢は思い出す。二人は明らかに、今迄のどんな異変の敵よりも強大であった。
「あの変なTシャツの野郎、ふらふらしてたら偶然にも会ったんだがね。ありゃ西の神だ」
「西って?」
「希臘だよ」
「ギリシャ?あの変なのが」と魔理沙は思わず声を荒げた。
「ああ、あの変なのが」
「驚いたな」
「そんなに凄いの?」と霊夢が不思議がった。
「凄いぞ」
「どう言う風に」
「変態の集まりだ」
「うーん、分かんない」
「あの変な奴は格好で変態だって分かるだろ」
「それは分かる」
「屹度な、あんなのが沢山だ」
「成程ね、確かに凄いわ」
「うん、凄いんだ」
一輪と空は話に全く付いて行けなかった。輝夜は二人一神の会話をくすくす笑いながら聞いていたが、途中で弁解する気になったので、口を挟んだ。
「一寸、ねえ、くくっ。確かにあの二人は変だけど、まあ良い人よ」
「話したのか?」と魔理沙が問うた。
「あの異変の後に来たのよ、鈴仙に連れられて」
兎が二人の強大な怪物を引き連れる、滑稽な光景を輝夜は思い返した。
「確かにあの二人は危険だろうけど、でもまあ、幻想郷を滅茶苦茶にはしないと思うわ。此処を気に入ってる様だったし」
「まあ何だって良いわ、馬鹿をしたらぼこぼこにすりゃあ良いんだから」と霊夢がしゃっくりをして言った。酔いが程々に巡っている様子であった。
「何れにせよ、あの格好は腹が痛くなる」
「貴女ねえ、へカーティアを揶揄い過ぎよ、くくっ、く。まあ私も思ってたんだけどさあ」
「ほれ人のこと言えたもんじゃない」
「だって頭に変なの乗っけてるし、良く考えればスカートも変だし、ふ、ふふふ、アッハハハ!」
「Tシャツもな、顔は……美人だけど、だから余計に変だな」
ツボに填ったのか、輝夜が大爆笑を起こした。二人一神も釣られて爆笑した。酒に流されているとは言えど、他人を酒の肴にすることの、悲しきかな。相変わらず一輪と空は話に付いて行くことが出来ないのであった。
「西かあ」と諏訪子は何か複雑な様子であった。
「西がどうしたんだ」
「偶に思うんだね、私は。ペルリの船を逸そのこと、我々が吹き飛ばしちまったら、どうなっていたかって」
「ペルリって何だ」
「神々にも色々とあるんだ」
「色々って何よ」と霊夢は巫女だからなのか、唯の好奇心からか分からないが、彼女の言葉に興味を持った。
「人間は心配しなくて良い」
下らない話を諏訪子は切って、誰かが続いて、中身のない話を続けて行った。酔いに流れて宙空に乗って、言葉は走って行く。意思のない雪の如く、会話が降って落ちる。
霊夢が新しく酒瓶を開けると、同じ頃に裏の戸を叩く音がした。今日に成って初めての礼儀を守る客だったので、霊夢は逆に驚くのだった。
「博麗霊夢、博麗霊夢、留守か!」
少し高い、童の様な声が響いた。彼女を知る者は、来客の正体を察した。
「いやいや、結構な人数の気配がするな、勝手に上がるぞ!お邪魔します!」
霊夢は謀られた気分になって、情けない顔をした。幻想郷の住人に期待した自分を阿呆だと思うのであった。
足音は軽かった。のしのしと廊下を歩く風であった。襖がぴしゃりと開かれ、威勢の良い声が響く。狩衣、烏帽子を纏った者は、正体を察した一輪や霊夢の予想と一致した。
「明けましておめでとう御座います!で良いんだったかの」
「喧しいのが増えた」と霊夢が物部布都を見た。
「喧しいとは失礼な、我は道士だ、故に分を弁えることの出来る者だ」
「だったら無許可に入り込んだりしないでしょう」と一輪が手を軽く振った。
「や、之は雲居殿、新年おめでとう」
「おめでとう」
布都も他の者と同じ様に手土産を持っていた。彼女は机に袋を置いて、少し全員を見渡した。
「このけったいな風体の布団に、何故に皆して潜り込んでおるのだ」
「炬燵だよ、知らないのか」
「知らんな」
「まあ入れよ、入れば分かる」
「そうか、まあ物は試しだ。其処な美しい人、隣に入っても構わぬか」
「ええ、どうぞ」
「すまんな、では失礼する」
輝夜が少し体を左に動かすと、布都は炬燵に入った。一刹那!彼女を何か名状し難い幸福が襲った。優美な、然し堕落を思わせる邪悪な幸福が。
「おお、おお……之は」と布都は既に道士らしさが抜けてしまった。
「気に入る速度が凄いな、お前」
「之は何だ、何か凄い、良く分からぬが」
「河童が作った、良く分からない便利な物よ」と霊夢が言った。
「河童、河童とな。うーん、妖怪の癖に中々どうして、素晴らしいではないか、之は」
少し前までは妖怪を訝しんでいた布都も、幾分か幻想郷に馴れると、妖怪に対する考えを改めた。空を見て騒がなかったのも、この為であった。
「ああ、いかんな、こんなことでは」
「あんた何しに来たのよ」
「ああ、そうだった。霊夢殿、太子様が忙しいのでな、代りに新年の挨拶に来たのだ」
布都は持ち込んだ袋を指差した。
「それは太子様からだ」
袋の中には酒が入っていた。
「お酒ね」
「酒ばっかりだな」
「お主、酒好きだそうだな」
「そうだけど、何で知ってるの」
「太子様が言っていたぞ、お主は酒への欲望が半端ではないとな」
布都の言葉に皆が揃って吹き出した。霊夢だけは顔を赤らめた。
「何よ、良いじゃないの別に」
「だってあんた、酒欲、酒欲って」と諏訪子が机をばんばんと叩いた。
「矢っ張り赤い方の巫女って、お燐が言う様にだらしないんだ」
空にさえ言われるので、流石の霊夢も恥辱を感じた。然しだらしのないのも的を射た事実なので、返す言葉もないのだった。霊夢は遂に開き直った。
「良いじゃない、良いじゃないの、美味しいんだから!」
霊夢は自棄を起こして酒を煽った。更に注いで、更に飲んだ。皆も流石に笑い過ぎたと思ったのか、平謝りをして、同じ様に酒を口に入れた。
「我は何か間違ったか」
「全て正解だよ、気にしなくて良い」
諏訪子が言うと、布都は彼女の気配に気付いて、神妙な顔付きに変わった。
「其処な御方は、もしや神か」
「もしやじゃないよ、洩矢だよ。洩矢諏訪子って言うの」
「や、我は物部布都と申します。然しモリヤとな。あの神社の祭神が八坂とは、変に思うていましたが、詰まり貴女が真の祭神になるのですか」
「いや、二人で一人だよ。まあ何だ、複雑なのさ。あんまり気にしないでおくれ」
「之はご無礼を。決して神の事情を聞き出そうとは」
「気にしないで良いよ。ほら、酌してやるからそれ持ちな」
「や、之はどうも」
「あ、あんた仙人だろう、酒は良いのかい」
「普段は絶っておりますが、多少なら」
諏訪子が杯に酒を満たす。格好の為か、何処か神事めいた雰囲気が漂っていた。彼女も見目に反して酒に強かった。度数の高い酒も容易く飲み干した。
「絶つって何だ?」
魔理沙が問い掛けた。
「仙人は五穀を絶たねばいかんのだ」
「そりゃあ辛いな」
「なあに、人を脱して仙人に足を踏み込んでしまえば、多少は大丈夫だ。そうだ魔理沙殿、太子様がお主を見込んでおったぞ」
「そう言や前に誘われた様な」
魔理沙の頭に面の妖怪の異変が浮かんだ。序であの頃の神子の、例の可笑しな身構えも思い出した。
「才能のある者は何時でも歓迎している」
「折角だけど遠慮しとくよ」
「何故だ」
「和食派だから」
「そうか、なら残念だが仕方ないな」
「今ので納得するのね」と一輪が変な顔をした。
「そうだ、雲居殿はどうか」
「何度も言ってるじゃないの、駄目だって」
「お主も中々の才があるぞ」
「そりゃ有難い言葉だけどね、私は結構よ、お寺のことがあるもの」
「お主、破戒僧じゃないか」
布都は一輪の手元の杯をじいと見た。一輪は痛い処を突かれた顔をした。
「良いの良いの、別に彼処が好きなだけで、戒律は別に拘ってないの」
一輪は開き直って取り繕った。
「そうか、なら仕方ないな」
「ええ、仕方ないわ」
「良く考えれば、あの僧侶も太子様と喧嘩をしている処を見る」
「そうよ、ウチはね、真っ先に手が出る破戒僧の集まりなの。だから良いのよ、戒律を破っても」
「その理屈はどう考えても変だ」と魔理沙はげんなりした。
会話の最中、空は布都が自分をちらと見ていたことに気が付いた。二人の目線が衝突するには、そう時間が掛からなかった。
「お主」と布都はこの際、声を掛けることにした。
「何?」
「お主は妖怪か?」
「うん」
「変だな、お主からこう、何というか、神々しい力を感じるのだ」
諏訪子が「ああ」と納得した様に声を出した。
「其奴はね、私等が八咫烏を降ろしたんだ」
布都はぎょっとした。
「八咫烏とな!」
「わ、吃驚した」と輝夜は急に大声を出した布都に驚いた。
布都は急に頭を下げた。今度は皆がぎょっとした。
「申し訳ない、挨拶もなしにご無礼を」
「え?え?」と空は困惑した。
「こんな神社におりますとは、思いませんでした故」
「こんな神社って何よ」
「こんな神社じゃないか」と魔理沙が言った。
「神様、何か変だよ、この人」
「気にすることないよ、あんたは踏ん反り返っていれば良いんだ」
「ええ?ええ?」と空はきょろきょろする他なかった。
地獄鴉に頭を下げる仙人。正しく異様な光景と言う他もなかった。布都が恭しく空の杯に酒を注いだ。余計に空は混乱した。もう意味不明になった。然し助け舟とも言うべきか、襖が引かれて、新たな来客が現れた。彼女は皆が騒いでいる間に、入り込んだのであった。来客は華人服と、白い洋袴を身に纏っていた。例の如く、彼女の手土産は酒、洋酒であった。
「何だ之」
紅美鈴は新年の挨拶も忘れて、室を見て困惑した。
「美鈴じゃないか」
「あ、泥棒」
「違う、今日は違う」
「明日は?」
「明日は分からん」
美鈴は諦めた様に溜息を吐いた。何時ものことであった。彼女は洋酒の入った袋を机に置いた。もう霊夢の隣しか空いてなかったので、彼女は其処に潜り込んだ。
「あー、暖かい」
「遂に席が埋まっちゃった」と霊夢が言った。
「足が窮屈だな」
総勢二人一蓬莱人三妖一神一仙人。之は最早、此岸の集まりなのか。良識の有る者なら目を疑う光景が出来上がった。彼女等は多少なりとも良識が欠けているので、誰も狂わないのは幸いであった。
「この集まりは何ですかね一体」
「知らない、勝手に集まって来たの」
「そもそも何かしてることもなし」と魔理沙が辺りを見た。
美鈴は深く考えない様に努めた。初対面の者の為に、適当な挨拶をして霊夢を見た。
「どうぞ、お嬢様から」と洋酒を指差した。
「ワインかあ」
「グラスあったか?」
「人数分もないわ」
「じゃあ盃で良いだろう」
風情もへったくれもない洋酒の飲み方であった。「ああ、折角お嬢様の送ったワインが粗雑に」と美鈴はとほほとする他なかった。然しグラスがない以上は仕方ないと諦めた。
もう美鈴と輝夜の他はそこそこに酔っていた。然し誰も飲むのを止めなかった。幻想郷の酒の流儀は、人数が集まってしまえば潰れる迄、只管に飲むことであった。何故かと言うと、潰れないとずっと喧しいが、潰れてしまえば静かになるからであった。鳴き続ける郭公は、幻想郷では酒で殺すのが常であった。
「で、何でレミリアか咲夜じゃなくてお前が来たんだ」と魔理沙は殆ど酔いが巡った様子で言った。
「私が来るのは変かな」
「お前を邪険にするんじゃなくてな、今日は珍しい奴ばっかり来るもんだから」
「ああ、そう言うことね」
美鈴は納得した。
「私も此処に着く迄は分からなかったんですがね、着いてから分かりましたよ」
「何が」
「面倒臭い奴が多そうだから代りに行けって」
「運命って奴か」
「多分ですが」
レミリアとしては霊夢と魔理沙だけなら別に行っても良かったが、当日になって見えた運命は、神社の喧しさを予見していた。然し他の来客の為に日付を変えるのも癪だったので、美鈴を向かわせたのであった。
「まあ寒い中の門番も辛いので、良かったと言えば良かったんですが」
「お前は冬でも寝てるじゃないか」
「我慢をしてるだけで、寒くないこともないんです」
美鈴は自分を見つめる視線に気付いた。布都が彼女を眺めていた。
「えーっと、何ですかね」
「お主も中々、良さそうだ」
「何がですか」
「お主、仙人を目指さんか」
「ええ?」
「今の話を聞けば何だ、寒い中で門の番をしているそうじゃないか。そんな根性があるなら、我々と共に時間を有益に使わぬか」
「はあ、折角ですが遠慮します」
「何故だ」
「彼処が気に入ってるんで」
「そうか、なら仕方ないな」
「あんた今日は振られてばっかりねえ」と一輪がくすくす笑った。
「ううむ、上手くいかんなあ」
布都は唸った。今日で三度の勧誘失敗であった。
「此処の住人は皆、どうにも芯がしっかりしていて、誰も仙人になりたがらなくていかん」
「良いことじゃないの」
「我々は困るのだ、雲居殿。民を導くのが我々の使命なのだから」
「芯がしっかりしてるなら、もう導かなくて良いんじゃないのか」
「そうなのかの」
「芯がしっかりしてるんじゃなくて、何も考えてないだけでしょ」と霊夢が最もなことを言った。
もう午の刻が迫っていた。見えない太陽が頂点に近付く。
只管に雑話が続く。彼女等の知れぬ間に、雪が止みそうになった。風は密かに、結晶は冷やかに、雲は長閑に。
正月明けに、様々な憐れが生まれ、消えて行く。
「―――で、水蜜は言ったの!「私の一輪に触れるな!」ってね。私を不意打ちした奴は、錨に吹っ飛ばされて、粉々の肉片になってしまったわ!」
「へえ、あの船長が」
「水蜜はねえ、本当は格好良いのよ、分かる?」
「分かった、分かったよ。だからそんな絡まんでくれ、酔い過ぎだ」
北を見れば花妖怪が散歩している。
「―――それで早苗が神奈子をうっかりばらばらにしてね、いや私は遠くから見てただけだったけど、あれは笑ったよ。多分あれより面白いことはもう今後ないんじゃないかな」
「奇跡って凄いね、神様」
東を見れば人形師が正月明けの気怠い時期にも関わらず、魔法の研究を続けている。
「―――だから太子様は、本当に民を思うておるのだ。和を以て尊しと為す。あの言葉を、確かに太子様は昔、優しい笑みで仰った」
南を見れば賢者が惰眠を貪っている。
「―――妹紅の笑みに、思わず身震いしたわ。「お前は死ぬ瞬間、本当に綺麗ね」って心底、嬉しそうに言うんだから」
「うわ」
「まあ、それは逆も同じだけど」
「もっと悪い」
西を見れば―――可哀想な死神が見える、彼女は年寄りを彼岸に送る仕事で忙しかった。彼女は餅が嫌いになった。
「明けましておめでとう御座います……何よ、之」
「おお、妖夢だ」
「そう言えば冥界のは、来てなかったわね」
魂魄妖夢は後退る。皆が酒で赤らめた顔をしているからだ。彼女は知っていた。潰れかけの幻想郷の住人は、とても面倒臭い奴等だと、知っていたのだ。
彼女は手土産を置いて、逃げられなかった。魔理沙ががしりと彼女の肩を掴んだ。
「どうした、何で逃げるんだ」
「何でだろう、考えて」
「ああ、分かる、分かるよ。詰まりお前は酔った奴等に絡まれたくないんだろう」
「そうよ」
「実は杯が一つ余ってるんだ」
「話し、聞いてる?」
「聞いてるよ、流すけどな」
魔理沙はぐいと妖夢を引っ張った。彼女は諦めた。
皆は知る由もなかったが、最後の来客は少し話題に上がっていた者であった。来客にとって、自分が虚仮にされていたことを知らないのは幸いであった。
「へカーティア、之は?」
「知らないわよ」
死屍累々。誰も彼も炬燵の中で爆睡していた。眠りは深く、誰も最後の来客に気付けなかった。
「どうしますか」
「純狐はどうしたいの」
「はあ、私は何となく着いて来ただけですから」
「じゃあ良いか、日を改めましょ」
「手土産はどうしますか」
「置いとけば良いんじゃないの」
「ではそうしましょうか」
彼女の判断は正しかった。幻想郷の住人は潰れてしまうと、簡単には起きないからであった。
室は嘘の様に静かであった。然し忘れてはならないことがある。何故なら正月明けの喧しさ程度は嵐の前の静けさで、春になれば更に騒がしいからだ。
机に一つ袋が置かれた。最後の来客は消えて行った。
魔理沙が目を覚ますと、室は暗かった。既に夕方であった。辺りを見ると、誰も彼も帰ったのか、もう霊夢しか見えなかった。彼女の頭に鈍い痛みが走った。
「飲み過ぎた」
誰が置いたのか、水差しがあったので、彼女は杯に水を入れて飲んだ。
「魔理沙?」
「ああ、起きたか」
霊夢も目を覚ました。彼女も頭の鈍痛に襲われた。痛みが酷いので、彼女は思わず頭を抱えた。
「頭いったい」
「ほれ、水だ」
「何してたかあんまし覚えてないや」
「私もだ」
霊夢は水を飲むと、少しぼうっとした。何かする気が起こる筈もなかった。二人は机に突っ伏す他なかった。
「片付け、どうする?」
「うーん、疲れたし、眠い」
「じゃあ明日にするか」
「うん」
再び二人は微睡んで行く。暗い室が、二人を冬の眠りに誘った。
「ああ、魔理沙」
「うん?」
「言ってなかった」
「どうした」
「明けましておめでと、お休み」
唐突だったので、魔理沙はきょとんとした。然しすぐに何時もの不敵な態度に戻った。霊夢はもう寝そうになって、顔を伏せていた。
「ああ、お休み」
「うん」
夜は並べて、言もなし。
がんがらがん 終わり
がんがらがん…ブリキ缶などを打つ音。転じて、中身が空っぽなこと、内容がないことを言う。
幻想郷の冬は寒い。春も夏も秋も、ざわざわと喧しい人里の人間でさえ、冬は皆、家に閉じ篭って暖に身を任せている。
正月になると、少しは活気が戻る。然し幾らかの行事を終えると、誰も彼もまた、桜が顔を出す迄は、家の中で冬眠している。大人に対して子供と言えば、元気ばかりがあり余るので、冬であっても外で騒いで、囃子唄なぞ歌いながら、きゃいきゃいと笑い声を出す。
博麗霊夢が太陽を迎える神事も終えて数日して、六日ぶりの雪が降る。寒さは余計に身を刺して、人を炬燵や囲炉裏に追い込んでしまう。彼女も例外ではなかった。彼女は生来、怠け者の癖があるので、雪が降れば当然の如く、一日中でも炬燵に潜っている。
霊夢は誰が見ても分かり易い、だらしない顔で、炬燵の甘美な熱を貪っている。彼女は段々とうつらと微睡んで、もう寝入る直前まで体が惚けていた。然し忘れてはならないことがある。幻想郷の住人は天邪鬼で、彼女が何か必要な場面で姿を見せず、一人ぼうっと暇を満喫している場合のみ、騒がしい声を発しながら、博麗神社に姿を表す。霧雨魔理沙と言えば、正に筆頭であった。
室の襖がすうと引かれる。木材の擦れ合う音と、来客の第一声が、霊夢の意識を覚醒させた。
「よ、霊夢。新年おめでとう」
霊夢は何も言い返さなかった。柔かな魔理沙に対して、彼女は仏頂面であった。
「どうした、変な顔して」
「寝そうだったのに」
「何だ、そんなことか」
いそいそと魔理沙は、霊夢の正面に位置する様に、炬燵に潜り込んだ。彼女の顔も惚ける。冬の魔物は、人も妖怪も飲み込む魔性であった。
炬燵に反して冷たい室を感じて、彼女はミニ八卦炉を机の上に置いた。ミニ八卦炉は暖かな温風を吐き出して、炬燵と室の温度の距離を縮めて行く。
「あー、暖かい」
「寒いなら家、出なけりゃ良いのに」
「だってな、暇だし」
「魔法の研究は?」
「正月明けじゃあ、やる気も起きないぜ。だからこうして、神社に遊びに来るんだ」
「別に神社じゃなくったって良いじゃないの」
「何だ、不満か?」
「不満じゃあないけど」
「じゃ、良いじゃないか」
当然の様に魔理沙は、机の上の蜜柑籠から一つ取って、徐に剥き初めた。霊夢も倣って剥き初めた。二人は話すことも思い付かないので、暫く無言になった。無言が苦に成る間柄でもないので、二人共どうにか会話を捻り出そうとする様子の欠片もなかった。
室が段々と微温い温度になって行く。魔理沙はミニ八卦炉の温度を調節して、もう室の温度が上がらない様にした。
「そう言や、もう誰か来た?」
唐突に口を開いたのは魔理沙だった。
「針妙丸が」
「そうか、一番乗りじゃなかったかあ」
「そう言えば、あんた珍しく暫く来てなかったわね」
「ああ、風邪で一寸な」
「風邪?大丈夫なの?」
「もう治ったよ。何せ八意印の薬は効くから」
「へえ」
「鈴仙がさ、冬場は風邪の薬が売れるけど、売り歩くのは面倒だってさ」
「彼奴等、そんなことしてるんだ」
「知らなかったか?」
「うん。面倒は起こしてなかった?」
「いんや」
「そう、良かった」
雑話に身を任せている最中、二人は誰ぞ、外で砂利を擦る足音を聞いた。雪に吸収される小さな音も、ぼそぼそと喋る二人には良く聞こえた。裏の戸が、がらがらと引かれて、許可もなしに誰ぞ入り込んで来た。博麗神社に誰ぞ入り込んで来るのは、決して珍しくなかった。二人は誰ぞ部屋に入って来るまで、黙ることにした。
少し経って、襖がすうと開けられた。藤色の美しい髪が、頭巾から飛び出して見える来客は、珍しく入道を連れていなかった。
「明けましておめでとう御座いまーす、命蓮寺です。あ、魔理沙さんも」
「ああ、おめでとう」
「入道使い、おめでと。珍しいわね、神社に来るの」
「まあ、今日は入道、連れてないんですけどね」
「じゃあ、唯の「使い」か?」と魔理沙が軽く揶揄った。
「まあ、使いに来たのは正しいんですけどね、正月の挨拶に。はい、どうぞ。御煎餅ですよ」
雲居一輪はごそごそと袈裟の内側を探った。包が顔を出して、二人の前に現れる。包を机に置いて、一輪は魔理沙の左隣、炬燵に潜り込んだ。狭い炬燵では、隣り合うと肩が触れた。彼女も矢張り幸せそうな顔で、熱を実感する。命蓮寺と博麗神社はそこそこに遠い。飛んで来れば、尚さら寒い。顔が緩むのも仕方なかった。
霊夢が包を開けると、禍々しい色が顔を出した。紫の煎餅であった。
「え、何この煎餅」
「あ、知ってる。地底煎餅だろ」
「ええ、地底の知り合いが持って来たんですけど、多すぎまして」
「前に地霊殿に行ったんだけど、土産に貰ったんだ。美味かったから、一人で食っちまったよ」
「腐ってるんじゃないの」
「いや、元々そんな色ですよ」
じろじろと煎餅を眺める霊夢の表情からは、訝し味が滲み出ていた。
「之は薩摩芋のですね」
「他にも色々とあるんだよな。酒味とか、甘酒味とか、人肉味とかもあったっけ」
「甘酒味ってあんまり美味しくなさそうね」
(あ、そっちに突っ込むんだ、霊夢さん)と一輪は内心で恐ろしくなった。
薩摩芋味と分かれば、霊夢はばりばりと煎餅を齧った。魔理沙も倣って齧ると、気味の良い乾いた音が、二つ室に響く。
「あ、お茶は好きにして」
「ああ、どうも」
お茶を湯呑に注ぐ。飲む。博麗神社のお茶はやけに渋かった。一輪は少し面食らった。
「地底か、地底って何があるんだっけ」と霊夢が疑問を吐いた。
「さあ、私も偶に地霊殿に行く以外は大して知らんな」
「魔理沙さん、星熊の姐さんが住む辺りは兎も角、他の場所は行っちゃあ駄目ですよ」
「何でだ?」
「鬼は卑怯が嫌いですからね、闇討ち地味たことはされないでしょうが、街の端だとそうは行きませんから」
「へえ?どう言うことだ」
「何てったって、忌まれた妖怪の掃き溜めですから。私も地底に落とされた頃は、苦労しましたよ」
「掃き溜め何て、言えてるわね。あの中じゃあ、寧ろ鬼が変わってるんだわ」と茶を淹れながら、霊夢は目を細めた。
彼女が妖怪を語れば、真実味を帯びる。何より博麗の巫女だからこそであった。
「地底の端じゃあ、女は五回は強姦されてると思え、何て諺がありますよ」
「何だそりゃ」
「まあ、私と村紗は腕っ節が自慢だったので、大丈夫でしたけどね。魔理沙さんの様な乙女は、あんまり地底に行っちゃ駄目ですよ」
「乙女だって」と霊夢は可笑しそうに微笑んだ。
「喧しいわ」
「ああ、でもね。気の良い奴等も、ちゃんと住んでますからね」
「分かってるよ」
一輪の地底を庇う言葉は、愛着から来る思いであった。苦もあるにしろ、長年を過ごしたことには変わりなかった。住めば都と言う如く、喧嘩っ早い彼女にとっては、性に合う土地であった。
「地上も良いですけどね、長い間ずっと彼処に住んでましたから、一寸だけ懐かしくなることもあります」
「へえ、そうなのか」
「お酒、好きに飲めますから」と一輪はにやりとした。
「アハハハ結局そう言うのじゃない」
「仕方ないさ、寧ろ白蓮が間違ってんだ。幻想郷から酒を抜いたら何が残る?暇だけだ」
「言えてますね、アハハハ」
字の如く、姦しくなって来る。一輪の生来の明るい気質が、室の雰囲気を華やかにした。
「ま、お酒は何だ。宴会やらで飲めるから、良いんですけども」
「じゃあ何だ?他に入用か?」
「あー、煙草も阿片も少なくって。そもそも阿片は、地上じゃめっきりない様でねえ、困りますよ」
「阿片って何?」と霊夢が不思議がった。
「え?」
「魔理沙、知ってる?」
「いや、知らんな。それは何だ、美味いのか」
「いやあ、一寸」
「何だ?」
「一寸、エヘへへ」
「はっきりしないわね」
「一寸ね…」
もごもごと口を動かして、誤魔化す様に指を弄ぶ一輪は、明らかに不審であった。
しんしんと雪が降り注ぐ。暖められた室が、寒さに侵食される気配を霊夢は感じた。二人一妖に知る由もないが、雪は一輪が来たばかりの頃より勢いを増し、段々と地面に溶けず、白い輪郭を表し初めた。雪の粒が大きく形を表し、幻想郷に白が来る。
霊夢はもぞもぞと身を捩った。
「何だか背が冷えるわね」
「ああ、雪が強まったのかな」
「私が来たばかりは、そんなに強い雪じゃありませんでしたよ」
「魔理沙、魔理沙。ねえ、付けてよ」
霊夢はミニ八卦炉を指差した。
「弱い熱を出し続けるのは苦手なんだ、我慢しろ」
「けち」
「遠慮なし」
「まあまあ」
霊夢は仕方なしと言った風に、炬燵の中から這い出て、箪笥に向かって行った。下から二段目、半纏を二つ取り出した。真新しいの、古めかしいの。霊夢は襤褸を魔理沙に投げ渡した。襤褸は魔理沙が冬場に良く借りる、霊夢の古着であった。
「御免ね、魔理沙のしかないのよ」
「一輪、使うか?」と魔理沙が気を揉んだ。
「いえいえ、構いませんよ(当然の様に渡すんだなあ)」
二人の関係が何か奇妙で、一輪は内心で可笑しく思った。表情に出そうになって、彼女は一つ咳払いをした。
霊夢はいそいそと炬燵に戻ると、思い付いた様に一輪に目を向けた。
「ねえ、あの僧侶が正月明けの挨拶を他人に任せる何て、らしくないわね」
「ああ、私も思ったな、それは」
「ええ、それ何ですけど」
「どうした?」
「バイクって分かりますか」
「ああ、あの変な馬」
以前は香霖堂の雑誌でしか見たことのなかった、黒い金属馬を、魔理沙は想像した。
「姐さんったら冬場は滑りそうだからって乗らなかったのに、我慢が効かなくて」
「転んだか」
「そりゃもう派手に」
天狗の如く走る聖白蓮が、バイクから振り落とされすっ飛んで行く様を思い出して、一輪は苦い笑みを浮かべた。常人なら死を免れなかったろう。然し白蓮は持ち前の強靭さで、右足の骨折だけに留まっていた。布団で療養する白蓮をからかいに来た豊聡耳神子は、一輪の記憶に新しかった。
「会った頃は、あんな滅茶苦茶な奴とは思わなかったよ」
「そうかしら、妖怪を弟子にする僧侶って、どう考えても頭おかしいでしょ」
「妖怪神社の巫女が言うな」
「好きで妖怪神社やってるんじゃあないわ」
「と言うか、弟子の前で頭おかしいとか言うなよ」
「アハハハ変な御方だとは私も皆も思ってますよ。だから尊敬しているんです」
談笑が続く最中に、また裏の戸が引かれる音がした。足音は一輪よりも喧しかった。遠慮のなさから、二人一妖は誰ぞ来たか想像した。
「誰かしら」
「早苗かな」
「違うと思う」
「慌しそうな足音ですねえ」
答えは遂に知れず、誰ぞ襖を引いた。来客は巨大な鴉羽を背に備え、服の胸部中心に、赤い目玉の様な物体を引っ付かせていた。真っ黒い髪と、緑の蝶結が揺れた。
「また珍しい顔」と霊夢が目を丸くした。
霊夢が言う如く、彼女は珍しい来客であった。「変に地底に縁のある日ね」と霊夢が思っていると、霊烏路空が柔らかな声で彼女に話し掛けた。
「赤い方の巫女、明けましておめでとう」
「霊夢よ、博麗霊夢」
「何だって良いよ、分かるんだから」
「よう、空」
「あ、魔理沙。おめでとう」
「何であんたは覚えてるのよ」
「少しは地霊殿に行くからな、人付き合いの悪い奴と違って」
ぐさりと霊夢は芯を突かれた様に思った。誤魔化す様にばりばりと煎餅を齧ると、霊夢の目に一輪の驚いた様子が入った。彼女はじいと空を眺めていた。空もまた、一輪の顔を見て、少しきょとんとした。お互い目がかち合うと、二人は花が咲いた様に騒がしくなった。
「一輪じゃない!」
「空、久しぶりね」と一輪は心底の笑みを浮かべた。
空が一輪に駆け寄って、一輪が空の為に、炬燵から少し身を乗り出した。二妖はがしと久々の会合を喜ぶ様に抱擁して、お互いの背を叩いた。身を離すと、笑顔で顔を見合わせて、何か照れ臭そうには含羞んだ。
魔理沙は近場で黒い羽がばたついたので、少し鬱陶しそうにした。
「知り合いだったの」と霊夢は驚いた風もなく言った。
「千年も地底に住めば、大抵の奴は知ってますよ」
「一輪、一輪。後で会いに行こうと思ってたのに、何だか奇遇だわ」
「ええ、嬉しいわ」
「村紗は?」
「村紗は寺。折角だから帰りに顔、見せてやりなさいよ」
「丁度良いや、お寺に住んでるってのは聞いてたけど、場所が分からなかったの」
「分からないのに出てきたの?」と一輪は呆れた。
「おい空、座ってくれ。羽が邪魔で堪らんよ」と魔理沙が二人に声を掛けた。
「あ、御免なさい」
「良いさ、久しぶりに会ったんだろ」
空は霊夢から見て左、魔理沙から見て右、炬燵の一辺に潜り込んだ。慌しかった羽が落ち着いて、気怠げに先の部分が畳に付いた。
「喧しいのが三人も」と霊夢は内心で思った。
「お前が来る何て珍しいこともあるな」
「さとり様に叩き出されたの」
お空は悄気た顔をした。項垂れていた羽が更に項垂れて、普段の能天気な雰囲気を薄れさせた。
「何したんだお前」
「それがさ、上は正月だって皆が言うのに、此方は全然そんな雰囲気ないんだもの。だから太陽を造ってやったのよ。そしたら地底がとんでもなく暑くなっちゃってねえ。いやあ、失敗したわ」
「そりゃあ、誰だって怒るなあ」
「皆して細かいんだ、アハハハ」
「あんたは変わらないね、空」と一輪が乾いた笑いを見せた。
魔理沙が来て、一輪が来て、空が来て、時刻は辰と巳の間であった。卯の刻から三十の分が過ぎた頃に降り出した雪は、愈々持って、幻想郷の人生を真っ白に染め上げていた。他の場所はしんとしているにも関わらず、博麗神社は何時も通り騒がしい。此処だけは、雪国の春。誰ぞ遠巻きに見れば、顔を顰めるに違いなかった。
魔理沙は空の話を催促した。
「それで?地底はどうしたんだ」
「どうも制御が効かなくって。それで鬼が出張ってきて、酒の肴に太陽を食べたのよ」
「太陽を食べた?それは何だ、何かの例えか」
「そのままだよ。最初に勇儀の姐さんが出張ってきて、「こんな奴、酒の肴にして食ってやる!」って躍り出てさ、太陽をばらばらに砕いて食べたの」
「分からん分からん、全く分からん」と魔理沙は可笑しそうにげらげら笑った。
「他の鬼も調子付いて食べてたんだけどさ、勇儀の姐さん以外は下痢で苦しんでた」
「下痢で済むのね」と霊夢がぼやいた。
「それでさとり様ったら、もうカンカン。地上は寒いって言うのに、「震えながら新年の挨拶にでも行って、反省しなさい!」って叩き出されちゃって」
「今に至るってことか」
「外は寒かったわ。私が仕事する場所、何時も熱いから、寒さには慣れてないの」
「良い薬じゃないの」と一輪がくすくす笑った。
「薬にはならないと思うわ、忘れちゃうんだから」
「自覚はあったのか」と魔理沙が変な表情をした。
話して、ふと空は思い出した様に懐をごそごそした。現れたのは包であった。霊夢は嫌な予感がした。机の上の煎餅をちらと見た。
「忘れてた、赤い方の巫女。さとり様が渡せって言ってたの、地底煎餅」
霊夢は包を開けた。奇しくも渡された煎餅は薩摩芋味であった。
「やっぱりかい!」
魔理沙が再度げらげら笑った。一輪も釣られて小さく笑い出した。空は変な顔をして三人を見渡した。見かねて一輪は口元を抑えながら、机の上を指差した。
「空、机、机」
「あれ、地底煎餅だ。良いな、私も食べて良いかな」
「お好きにどうぞ」と霊夢は微妙な表情をした。
霊夢の表情が余計に魔理沙を可笑しくして、一輪までも遂にげらげら笑い出した。煎餅をばりばりと齧る空を見て、霊夢は溜息を付いた。
「美味しいけど、何か御土産が被るとねえ」
「良いだろ煎餅、好きだろ」
「はあ」
「アハハハ皆で食べましょう」
一輪が煎餅を齧ると、霊夢も魔理沙も煎餅を手に取った。量が有っても煎餅が不味くなることはない。然し甘い味はしつこかった。空より他の二人と一妖は、御茶を口にする頻度が増えたのであった。
「にしても何、最近は手下を挨拶に行かせるのが流行りなの?」と霊夢が思う儘を言った。
「さあね、まあ寒いから出たくない気持ちは分かるがね」
「あんたは来るじゃないの」
「ああ、霊夢が恋しいんだ。ほれ、嬉しいか、喜んで良いぞ」
「はいはい」
「あー冷た」
「さとり様も地霊殿から出れば良いのに」
「彼奴は陰気だからな」
「さとり様は大好きだけど、偶に性格悪いなあって思うよ」と空が主人に悪びれもなしに笑った。
「何だ、お前も思ってたのか」
「だってさとり様、嫌がることするの大好きだもん」
「覚リ故の性格ねえ」と一輪が言った。生来の性、船幽霊の性質に、偶に思い悩む村紗が、頭に浮かんだのであった。
空の頭に再度、手渡す筈の物が浮かんだ。また懐をごそごそと探り出した。
「忘れてた、一輪」
包を渡した相手は一輪であった。空はにこにこして一輪に包を手渡した。
「何?」
「地上にないって聞いたから、阿片」
「げ」と一輪は気不味そうに人間を見た。
霊夢と魔理沙が興味深そうに包を見た。真っ黒い包は如何にも怪しい雰囲気を発していた。
「之か、阿片ってのは」ときらきら目を輝かせる魔理沙が、一輪は眩しく見えた。
「美味しいのそれ」
「へえ、まあ、美味しいっちゃあ美味しいですけど」
「一寸だけ分けてくれよ」
「あー、駄目です」
「良いじゃないか、一寸だよ」
「駄目ったら、駄目です。あれです、子供には難しい味ですから」
「良いじゃない一輪、何なら偶に持って来ようか」
「空、一寸だけ黙って」
「何でよ。あ、村紗に黙って独り占めしたいの?この卑しん坊」
「良いから、はい、終わった。この話題は終わった」
「矢っ張り寺の連中って変な奴ねえ」と霊夢が言うと、一輪は返す言葉もないのだった。
一輪があやふやに言葉を濁している最中、霊夢は襖の裏に気配を感じた。彼女には知った気配であった。見ずとも見える、楚然とし、幽邃を体現したような―――怪めかしい気配が。
襖が引かれる。何時の間にか博麗神社に入り込んでいたのは、永遠亭の月の姫であった。彼女は手土産に酒瓶を二つ持っていた。漸く他の一人と二妖も何者かに気付いて、魔理沙は「また珍しいな」と内心で驚き、一輪は言葉も出ず、空は「誰?」と呑気な表情であった。
「明けましておめでとう御座います、霊夢、魔理沙も。一寸ばかし遅いけど」
「今日は愈々、変な日ねえ」
「へえ、どうして」
「普段は見ない奴が来るから」
「ふうん、そうなのね」
蓬莱山輝夜。彼女が現れただけで、室の雰囲気は何か異様になった。濃やかな趣で場を蝕みながら、輝夜は炬燵に向かった。酒瓶を畳に置いてから、彼女が潜り込んだのは、空の前の一辺であった。炬燵は遂に四辺が埋められて、何処か迫っ苦しい様子であった。
輝夜は自分を見つめる視線に気付いた。一輪が目を見張りながら、彼女を凝視していた。
「ねえ、ねえ、そんなに見られちゃ困るんだけど」
「はい?……あ…はい!えっと、えっと、御免なさい!」
一輪は頭を下げて平謝りした。謀らずも彼女の珍妙な様子が、室の雰囲気を元に戻した。くすくす笑う輝夜に、一輪は気恥ずかしくなった。
「一輪、何か変だよ」
「いや、一寸……唯こんな綺麗な人、見たことなかったから…吃驚したあ」
魔理沙は一輪の奇妙な様子に「ああ、成程」と納得した様子であった。一輪も元の様子を取り戻して、ほっと一つ溜息を吐いた。
「言われ慣れてるから、そんなに恐縮しなくって良いわ」
ホホホホと笑う輝夜に、霊夢は呆れた表情を見せた。
「自分で言うもんじゃないわね」
「だって事実じゃない。謙遜すれば嫌味と言われるし、誇示すれば傲慢だと言われるし、困るわねえ」
「まあ、一輪の気持ちは分からんでもないがな」
魔理沙は輝夜の顔を眺めた。見れば見るほど不思議であった。吸い込まれる様な、香り立つ様な、例えば遠い月に、現実感のない美しさを見出す様な―――禍々しい昏い情を含む、冥漠。色相世界に住むことが、信じがたい見目。
何か危うい気分になって、魔理沙は顔を背けた。彼女の様子に輝夜が、またホホホホと笑った。
「私は正直、分からないわねえ、そう言うの」とどうでも良さそうに霊夢は御茶を啜った。
「其処が貴女の良い処よ―――」
「―――ああ、でも」と、輝夜は言葉を含んだ。
「でも、一輪さん、よね?私より綺麗な人だってあるのよ」
「そうなんですか?」
「ええ」
「ああ駄目、私そんなの見ちゃったら、死んじゃうかも、貴女だけでも吃驚したのに」
「貴女もそいつを知ってるかも知れないけどね」
「ええ?」
目を丸くする一輪を尻目に、思い当たる節が魔理沙にはあった。
(妹紅かな、多分。それか)
魔理沙は何も言わなかった。然し一瞬だけ霊夢を見た。
霊夢は机に片肘を付いて、小さく欠伸をした。然し目敏く酒瓶を指差した。眠気より呑み気であった。
「眠いわ、寝ちゃう前に飲みましょ」
「ええ、好きにして。二つ持って来て良かった。魔理沙は来てるかもって考えてたけど、こんなに集まってる何て」
「そう言えば何で来たんだ」
「正月の挨拶よ」
「本当はどうした?」
「暇だから」
「魔理沙と一緒じゃないの」と霊夢は言いながら立ち上がった。
霊夢は食器棚に向かって行って、適当な盃を取り出した。何処にでもある、赤と黒の盃が九枚、重ねられて机に置かれた。
「多いな」
「何か他に来そうな気がしてね」
「確かにこの流れだと来そうですね」
「これ以上は窮屈になるよ」
「お前の羽よりは窮屈な奴じゃないだろ」
「確かに」と空は納得した様子であった。
魔理沙が全員の杯に酒を注ぐ。澄んだ色が満たされて、杯は光を反射していた。
「朝から酒かあ」と魔理沙がぼやきを漏らした。
人は何故か朝から酒を飲むと、後ろめたい思いを抱く。誰も理由は知れなかった。
「何、飲まないの」と霊夢が笑った。
「いいや、飲むよ。飲まない理由がない」
「来て良かった、こんな時間からお酒が飲めるなんて。お寺じゃこうは行きませんから」
「破戒僧だな」
「一々あんなに沢山、守ってられませんよ」
「そりゃそうだ」
「ほら、もう飲みましょ。冷たいのを我慢して抱えて来たんだから、早く飲んで頂戴な」
「何か袋にでも入れれば良かったんじゃないか」
「面倒だったの」
彼是と雑話が流れる中、霊夢と空が早々と杯を口に当てると、皆が背中を押された様に酒を飲んだ。朝っぱらから酒を煽る罪悪感、優越感が、空を除く全員の胃を満たす。
一輪が恍惚とした、喜びの吐息を吐く。皆も続く。杯が空けば、流動する水が満たされる。また煽る。酒は人間苦の全てを吹き飛ばして、人を幸福にする。蓬莱の薬で酒の効かない輝夜であっても、辺りに幸せな気分が満ちると、不思議と酔った気分が巡る。
「永琳ってお酒、あんまし飲まないのよね、酔わないからって」
独り言の様に輝夜が囁いた。
「難儀な体だよな、お前らって」
「私は良いと思うけど、妹紅は違うらしいわねえ」
「そう言えば、妹紅って何で不老不死になったの?あんたが噛んでるらしいけど」と霊夢が輝夜を見た。
「気になるんなら本人に聞きなさいな」
「面倒だし遠慮しとくわ」
「私は不老不死が辛いなら、いっそ楽しめば良いと思いますがね。でも実際そうなったら、思えないでしょうか」
「さあねえ、あの子の気持ちは分からないわ」と寂しそうに、輝夜が目を細めた。
輝夜の儚げな声が、一瞬の間であったが室を少し静かにした。
魔理沙は機会を感じて、思い切って以前から思っていた疑問を投げ掛けた。
「なあ、前々から思うことがあったんだがな」
「何かしら?」
「私は―――お前等がその、何というか」
魔理沙は口をもごもごとして、言葉を肺に留まらせた。言うか、言わぬかと彼女は錯誤した。
輝夜は魔理沙が言いたいことを察した。不愉快に思うこともなかった。彼女は先んじて魔理沙の声を自ら代弁した。
「恋仲?」
「ああ、そうだな、そうとも言うか」
「遠慮しなくって良いわよ、正月明けの無礼講ってことで」
「じゃ、遠慮なく聞くがな。私はどうも、妹紅がお前を嫌っている様には見えないな。少なくとも今は」
室の雰囲気が段々と変わる、移ろう季節の如く。皆の目線が二人に向かう。空だけは良く分かっていない様子であった。
「ふうん、まあ、そうね。確かに妹紅はもう、あんまり私を憎んでいないと思うわ」
「私はまあ、恋仲とは言わないけど、もう友達にならなれるんじゃあないかと思うんだ。でも偶に妹紅と話して、お前のことになると、何というか、距離を感じる」
「距離、ね」
「彼奴はお前のことを話すとき、悪く言うけど、別に不愉快そうってこともない。寧ろ楽しそうに見えるんだな、私は」
魔理沙が一つ杯を仰ぐ。輝夜も倣って仰ぐ。他の皆は聞き入って、ちびちびと酒を飲んで行く。空はぼんやりと話を聞いていた。
「だから、何と言うかな、私はお前等の関係が、何だか不気味に見えると言うか」
「不気味って?」
「詰りお前等が、あー、好き同士だと思うからだ。まあ好きって言っても、色々とあるけどさ」
「好き、ねえ……そうね、私は妹紅が嫌いじゃない、寧ろ好きと言っても良いと思う」
「そうだろ?」
「妹紅も屹度、私が好きよ」
「お前等の好きがどう言う意味か知らんが、まあ私は兎に角、そう言う風に、変な奴等だなあと、思っていたんだよ」
魔理沙が捲し立てると、室がしんと成った。皆は何か手持ち無沙汰になった。然し空が言葉を切り込んだ。
「つまり妹紅って奴と輝夜は、素直じゃないんだ」
無邪気な言葉に、輝夜はぽかんとして、次の間には可笑しそうに笑い出した。皆が輝夜を見ても、彼女は暫く笑うのであった。アハハハ、アハハハと暫く室に響き渡った。声が静まると、輝夜と空の視線が合わさった。
「素直じゃない、素直じゃないね。そう、そうかも知れないわ」
「何か私、変なこと言った?」
「いえ、いえ。貴女は正しい、私も妹紅も素直じゃないんだわ、屹度」
「気付けて良かったね」
「ええ、そうね。ねえ貴女、名前を聞いてなかったわね、何て言うの?」
「霊烏路空よ」
「私は蓬莱山輝夜」
「変な名前ね」
「貴女こそ」
「そうなのかな、そうかも」
「そうよ」
何故か一瞬の間に、奇妙な友情が出来上がった。二人が盛り上がって話し出すと、霊夢はぼやくのであった。
「変な奴ばっかり」
「言えてるな」
「あんたが発端でしょ」
「そうだったかな」
「恋の話って、素敵ですよね」と一輪が茶化した。
「恋なのか、之」
「屹度そうですよ」
「なら良いか」
室は活気を取り戻した。女心と秋の空。諺の如く、一変して静けさは彼方に消えて行った。冬の寒さは最早、幻の様に感じる空気であった。
一瓶が空になった頃、巳の刻が過ぎた。輝夜の持ち込んだ酒は強かった。蟒蛇の霊夢と、来ているやも知れぬ魔理沙を考えて選ばれた酒だった。然しまだまだ飲めるのが、幻想郷の人妖の厄介な処。誰も一輪がもう一瓶を開けても、咎めやしなかった。
少し、少しと酔いが巡り、世も巡る。淑やかさよ、何処へ。瀟洒よ、今は顔を下げよ。
一輪が酒を自分の杯に注ぐ最中であった。室の襖を誰ぞ引いた。今日で五人目の来客になると、霊夢はもう驚かなかった。誰でも来いと言った風で構えていた。
来客は小さかった。青と白の壷装束と、奇妙な笠が、彼女を見たことのない者の目線を引いた。皆には喜ばしいことに、彼女は一升瓶を三つも、袋に入れて抱えていた。「酒に縁のある日ね」と一輪は思うのであった。
来客は驚いた。あんまり人が多かったからであった。
「おや、随分と人数が揃ってるじゃないか」
「あ、神様だ。明けましておめでとう御座います、神様」と酔いが回っている空が呂律を乱して言った。
「空か、元気にしてたかい」
「はい、じゃんじゃん核融合してます!原子が引っ付きます!」
「そりゃ良かった、でも酔って暴発したりしないでおくれよ」
「らい丈夫、酔ってないし」
「そうかい」
洩矢諏訪子は少し室を見渡して、空の隣、炬燵に潜り込んだ。酒瓶の袋を畳に置くと、ゆったりとして、彼女も他の来客と同じ様に、熱に身を委ねた。人よりも妖怪よりも神よりも、炬燵が上位種であると証明された瞬間であった。
「今日は珍しい客しか来ない、珍し日和だわ」
「神が来たんだから、喜ぶが良いさ」
「商売敵じゃねえ」
「あの、この御方は何方でしょうか」
霊夢と諏訪子の会話に、口を挟んだのは一輪であった。
「諏訪子は山の神だ。ほら、早苗の神社」
「早苗さんの。へえ、他に神様が住んでいらっしゃいましたか。あ、雲居一輪です、どうぞ宜しくお願いします」と一輪は頭を下げた。
「宜しくね。ああ、そう恐縮しなくって良いよ、堅苦しいのは嫌いだから」
「此奴は普段は表に顔を出さないんだ、知らないのも無理はない」
「へえ」
興味深そうに言う輝夜に、諏訪子が目を向ける。目は爬虫類の様に鋭かった。
「あんた月の香りがするね」
「あら、お嫌い?」
「好きじゃあないね、天の奴等の匂いだ。彼奴等、何もしない癖に偉そうだから」
「否定は出来ないわね、確かに月の御上は、やる気を見せないし」
「鈴仙とか言ったっけ。あの兎ん処に月の姫が住んでるって、早苗が言ってたよ。あんたがそれかい」
「ええ、蓬莱山輝夜よ、宜しくね」
「諏訪子だよ、洩矢諏訪子」
土着の民、月の民。思う処があるのか、火花が散った。
「おいおい、こんな場所で喧嘩は止めてくれ」
「そうよ、私に追い出されたくなかったらね」
霊夢は少し酔って来たのか、強気にへらへら笑った。然し目は本気であった。
「そりゃ困るね。まあ良いさ、別に本気じゃない。一寸ばかし揶揄っただけだよ」
諏訪子は杯を取って、並々と酒を注いで行った。「童が酒を飲んでる様にしか見えないわね」と一輪は思った。序で頭に浮かぶのは、友人の布都であった。
美味そうに酒を飲み干してから、諏訪子は口を開いた。霊夢を見てにやにやとした。
「それにしても、相変わらずこの神社は参拝客が来てないねえ」
霊夢はむっとして反論した。
「何よ」
「別に?唯それで巫女ってのはどうかと思ってね」
「実はこの前な、あんまり賽銭がないから、賽銭箱が拗ねて飛んで行った処だよ」
魔理沙が冗談を言った。
「飛んでないっての!」
霊夢がぎゃあと声を荒げた。然し実際に参拝客も来ていないので、賽銭箱が飛んで行っても不思議ではない有様だった。
「早苗を見習いなよ、あんなに立派になって」
おいおいと諏訪子が泣き真似をした。
「私だって頑張ってるし」
霊夢はぶつくさ言った。
「あんたもウチを見習ってさ、一寸は布教活動に精を出したらどう」
「だって…」
「だって何だい」
「面倒臭いんだもの」
「知ってたよ、ああ、知ってた」と魔理沙は慣れた風に言った。
「もう一寸だけ脇を開ければ人気が出るんじゃあないですか」と一輪がくすくす笑った。
「そんなはしたない真似、嫌。私は楽をして稼ぎたいの」
「じゃあ逸そ私に祈るかい、神頼みだよ。土下座、土下座、パン、パンって」
「礼じゃないんかい」と魔理沙が諏訪子の冗談にくすりと笑った。
「昔の人間は頭を深々と下げたってのに、近頃の奴は駄目だ。もっと敬えば良いんだ」
「こんな神じゃ下げる頭もないわね」
「無理矢理に下げさせるんだよ、それが支配ってもんだ」
「おー怖」と魔理沙が揶揄った。
一輪は神の本音が飛び出て来たので、ひやりとなって、少し身震いした。普通に話を聞く二人も彼女からすれば理解し難くって、引き攣った笑いを見せるしかなかった。
「まあ私は裏方だし、別にそんなことする必要もないんだけどさ」
「此処に来たのもそれか?」
「彼奴等が参拝客の相手に張り切っても、此方はすることないからね。暇で遊びに来たんだよ」
「この神社、暇潰しの休憩所じゃないんだけど」と霊夢がじとりと皆を眺めた。
「私はそう思ってたぜ」
「あんたは穀潰しでしょうが!」
「ハハハハ上手い上手い」
「まあまあそんなに荒れなさんなって。ほら、神様が酌するから」
けろけろ笑いながら、諏訪子は霊夢の杯に酒を注ぐ。巫女の杯に酒を注ぐ神。上下の縁がないにしろ、馴れ馴れしく会話する二人は奇妙であった。
「ああそう言えば」
諏訪子が話題を吹っ掛けた。
「霊夢、変な奴等が来たろ」
「変な奴って何奴よ、変な奴しかいないじゃない」
「あれだよ、月の」
「純狐とへカーティアね」と輝夜が気付いた。
「まあ名前は兎も角ね、あれは一寸だけ注意しなよ」
「そんなの分かってるわよ」
広大な宇宙、夢の路線、ひょんな敵対関係を霊夢は思い出す。二人は明らかに、今迄のどんな異変の敵よりも強大であった。
「あの変なTシャツの野郎、ふらふらしてたら偶然にも会ったんだがね。ありゃ西の神だ」
「西って?」
「希臘だよ」
「ギリシャ?あの変なのが」と魔理沙は思わず声を荒げた。
「ああ、あの変なのが」
「驚いたな」
「そんなに凄いの?」と霊夢が不思議がった。
「凄いぞ」
「どう言う風に」
「変態の集まりだ」
「うーん、分かんない」
「あの変な奴は格好で変態だって分かるだろ」
「それは分かる」
「屹度な、あんなのが沢山だ」
「成程ね、確かに凄いわ」
「うん、凄いんだ」
一輪と空は話に全く付いて行けなかった。輝夜は二人一神の会話をくすくす笑いながら聞いていたが、途中で弁解する気になったので、口を挟んだ。
「一寸、ねえ、くくっ。確かにあの二人は変だけど、まあ良い人よ」
「話したのか?」と魔理沙が問うた。
「あの異変の後に来たのよ、鈴仙に連れられて」
兎が二人の強大な怪物を引き連れる、滑稽な光景を輝夜は思い返した。
「確かにあの二人は危険だろうけど、でもまあ、幻想郷を滅茶苦茶にはしないと思うわ。此処を気に入ってる様だったし」
「まあ何だって良いわ、馬鹿をしたらぼこぼこにすりゃあ良いんだから」と霊夢がしゃっくりをして言った。酔いが程々に巡っている様子であった。
「何れにせよ、あの格好は腹が痛くなる」
「貴女ねえ、へカーティアを揶揄い過ぎよ、くくっ、く。まあ私も思ってたんだけどさあ」
「ほれ人のこと言えたもんじゃない」
「だって頭に変なの乗っけてるし、良く考えればスカートも変だし、ふ、ふふふ、アッハハハ!」
「Tシャツもな、顔は……美人だけど、だから余計に変だな」
ツボに填ったのか、輝夜が大爆笑を起こした。二人一神も釣られて爆笑した。酒に流されているとは言えど、他人を酒の肴にすることの、悲しきかな。相変わらず一輪と空は話に付いて行くことが出来ないのであった。
「西かあ」と諏訪子は何か複雑な様子であった。
「西がどうしたんだ」
「偶に思うんだね、私は。ペルリの船を逸そのこと、我々が吹き飛ばしちまったら、どうなっていたかって」
「ペルリって何だ」
「神々にも色々とあるんだ」
「色々って何よ」と霊夢は巫女だからなのか、唯の好奇心からか分からないが、彼女の言葉に興味を持った。
「人間は心配しなくて良い」
下らない話を諏訪子は切って、誰かが続いて、中身のない話を続けて行った。酔いに流れて宙空に乗って、言葉は走って行く。意思のない雪の如く、会話が降って落ちる。
霊夢が新しく酒瓶を開けると、同じ頃に裏の戸を叩く音がした。今日に成って初めての礼儀を守る客だったので、霊夢は逆に驚くのだった。
「博麗霊夢、博麗霊夢、留守か!」
少し高い、童の様な声が響いた。彼女を知る者は、来客の正体を察した。
「いやいや、結構な人数の気配がするな、勝手に上がるぞ!お邪魔します!」
霊夢は謀られた気分になって、情けない顔をした。幻想郷の住人に期待した自分を阿呆だと思うのであった。
足音は軽かった。のしのしと廊下を歩く風であった。襖がぴしゃりと開かれ、威勢の良い声が響く。狩衣、烏帽子を纏った者は、正体を察した一輪や霊夢の予想と一致した。
「明けましておめでとう御座います!で良いんだったかの」
「喧しいのが増えた」と霊夢が物部布都を見た。
「喧しいとは失礼な、我は道士だ、故に分を弁えることの出来る者だ」
「だったら無許可に入り込んだりしないでしょう」と一輪が手を軽く振った。
「や、之は雲居殿、新年おめでとう」
「おめでとう」
布都も他の者と同じ様に手土産を持っていた。彼女は机に袋を置いて、少し全員を見渡した。
「このけったいな風体の布団に、何故に皆して潜り込んでおるのだ」
「炬燵だよ、知らないのか」
「知らんな」
「まあ入れよ、入れば分かる」
「そうか、まあ物は試しだ。其処な美しい人、隣に入っても構わぬか」
「ええ、どうぞ」
「すまんな、では失礼する」
輝夜が少し体を左に動かすと、布都は炬燵に入った。一刹那!彼女を何か名状し難い幸福が襲った。優美な、然し堕落を思わせる邪悪な幸福が。
「おお、おお……之は」と布都は既に道士らしさが抜けてしまった。
「気に入る速度が凄いな、お前」
「之は何だ、何か凄い、良く分からぬが」
「河童が作った、良く分からない便利な物よ」と霊夢が言った。
「河童、河童とな。うーん、妖怪の癖に中々どうして、素晴らしいではないか、之は」
少し前までは妖怪を訝しんでいた布都も、幾分か幻想郷に馴れると、妖怪に対する考えを改めた。空を見て騒がなかったのも、この為であった。
「ああ、いかんな、こんなことでは」
「あんた何しに来たのよ」
「ああ、そうだった。霊夢殿、太子様が忙しいのでな、代りに新年の挨拶に来たのだ」
布都は持ち込んだ袋を指差した。
「それは太子様からだ」
袋の中には酒が入っていた。
「お酒ね」
「酒ばっかりだな」
「お主、酒好きだそうだな」
「そうだけど、何で知ってるの」
「太子様が言っていたぞ、お主は酒への欲望が半端ではないとな」
布都の言葉に皆が揃って吹き出した。霊夢だけは顔を赤らめた。
「何よ、良いじゃないの別に」
「だってあんた、酒欲、酒欲って」と諏訪子が机をばんばんと叩いた。
「矢っ張り赤い方の巫女って、お燐が言う様にだらしないんだ」
空にさえ言われるので、流石の霊夢も恥辱を感じた。然しだらしのないのも的を射た事実なので、返す言葉もないのだった。霊夢は遂に開き直った。
「良いじゃない、良いじゃないの、美味しいんだから!」
霊夢は自棄を起こして酒を煽った。更に注いで、更に飲んだ。皆も流石に笑い過ぎたと思ったのか、平謝りをして、同じ様に酒を口に入れた。
「我は何か間違ったか」
「全て正解だよ、気にしなくて良い」
諏訪子が言うと、布都は彼女の気配に気付いて、神妙な顔付きに変わった。
「其処な御方は、もしや神か」
「もしやじゃないよ、洩矢だよ。洩矢諏訪子って言うの」
「や、我は物部布都と申します。然しモリヤとな。あの神社の祭神が八坂とは、変に思うていましたが、詰まり貴女が真の祭神になるのですか」
「いや、二人で一人だよ。まあ何だ、複雑なのさ。あんまり気にしないでおくれ」
「之はご無礼を。決して神の事情を聞き出そうとは」
「気にしないで良いよ。ほら、酌してやるからそれ持ちな」
「や、之はどうも」
「あ、あんた仙人だろう、酒は良いのかい」
「普段は絶っておりますが、多少なら」
諏訪子が杯に酒を満たす。格好の為か、何処か神事めいた雰囲気が漂っていた。彼女も見目に反して酒に強かった。度数の高い酒も容易く飲み干した。
「絶つって何だ?」
魔理沙が問い掛けた。
「仙人は五穀を絶たねばいかんのだ」
「そりゃあ辛いな」
「なあに、人を脱して仙人に足を踏み込んでしまえば、多少は大丈夫だ。そうだ魔理沙殿、太子様がお主を見込んでおったぞ」
「そう言や前に誘われた様な」
魔理沙の頭に面の妖怪の異変が浮かんだ。序であの頃の神子の、例の可笑しな身構えも思い出した。
「才能のある者は何時でも歓迎している」
「折角だけど遠慮しとくよ」
「何故だ」
「和食派だから」
「そうか、なら残念だが仕方ないな」
「今ので納得するのね」と一輪が変な顔をした。
「そうだ、雲居殿はどうか」
「何度も言ってるじゃないの、駄目だって」
「お主も中々の才があるぞ」
「そりゃ有難い言葉だけどね、私は結構よ、お寺のことがあるもの」
「お主、破戒僧じゃないか」
布都は一輪の手元の杯をじいと見た。一輪は痛い処を突かれた顔をした。
「良いの良いの、別に彼処が好きなだけで、戒律は別に拘ってないの」
一輪は開き直って取り繕った。
「そうか、なら仕方ないな」
「ええ、仕方ないわ」
「良く考えれば、あの僧侶も太子様と喧嘩をしている処を見る」
「そうよ、ウチはね、真っ先に手が出る破戒僧の集まりなの。だから良いのよ、戒律を破っても」
「その理屈はどう考えても変だ」と魔理沙はげんなりした。
会話の最中、空は布都が自分をちらと見ていたことに気が付いた。二人の目線が衝突するには、そう時間が掛からなかった。
「お主」と布都はこの際、声を掛けることにした。
「何?」
「お主は妖怪か?」
「うん」
「変だな、お主からこう、何というか、神々しい力を感じるのだ」
諏訪子が「ああ」と納得した様に声を出した。
「其奴はね、私等が八咫烏を降ろしたんだ」
布都はぎょっとした。
「八咫烏とな!」
「わ、吃驚した」と輝夜は急に大声を出した布都に驚いた。
布都は急に頭を下げた。今度は皆がぎょっとした。
「申し訳ない、挨拶もなしにご無礼を」
「え?え?」と空は困惑した。
「こんな神社におりますとは、思いませんでした故」
「こんな神社って何よ」
「こんな神社じゃないか」と魔理沙が言った。
「神様、何か変だよ、この人」
「気にすることないよ、あんたは踏ん反り返っていれば良いんだ」
「ええ?ええ?」と空はきょろきょろする他なかった。
地獄鴉に頭を下げる仙人。正しく異様な光景と言う他もなかった。布都が恭しく空の杯に酒を注いだ。余計に空は混乱した。もう意味不明になった。然し助け舟とも言うべきか、襖が引かれて、新たな来客が現れた。彼女は皆が騒いでいる間に、入り込んだのであった。来客は華人服と、白い洋袴を身に纏っていた。例の如く、彼女の手土産は酒、洋酒であった。
「何だ之」
紅美鈴は新年の挨拶も忘れて、室を見て困惑した。
「美鈴じゃないか」
「あ、泥棒」
「違う、今日は違う」
「明日は?」
「明日は分からん」
美鈴は諦めた様に溜息を吐いた。何時ものことであった。彼女は洋酒の入った袋を机に置いた。もう霊夢の隣しか空いてなかったので、彼女は其処に潜り込んだ。
「あー、暖かい」
「遂に席が埋まっちゃった」と霊夢が言った。
「足が窮屈だな」
総勢二人一蓬莱人三妖一神一仙人。之は最早、此岸の集まりなのか。良識の有る者なら目を疑う光景が出来上がった。彼女等は多少なりとも良識が欠けているので、誰も狂わないのは幸いであった。
「この集まりは何ですかね一体」
「知らない、勝手に集まって来たの」
「そもそも何かしてることもなし」と魔理沙が辺りを見た。
美鈴は深く考えない様に努めた。初対面の者の為に、適当な挨拶をして霊夢を見た。
「どうぞ、お嬢様から」と洋酒を指差した。
「ワインかあ」
「グラスあったか?」
「人数分もないわ」
「じゃあ盃で良いだろう」
風情もへったくれもない洋酒の飲み方であった。「ああ、折角お嬢様の送ったワインが粗雑に」と美鈴はとほほとする他なかった。然しグラスがない以上は仕方ないと諦めた。
もう美鈴と輝夜の他はそこそこに酔っていた。然し誰も飲むのを止めなかった。幻想郷の酒の流儀は、人数が集まってしまえば潰れる迄、只管に飲むことであった。何故かと言うと、潰れないとずっと喧しいが、潰れてしまえば静かになるからであった。鳴き続ける郭公は、幻想郷では酒で殺すのが常であった。
「で、何でレミリアか咲夜じゃなくてお前が来たんだ」と魔理沙は殆ど酔いが巡った様子で言った。
「私が来るのは変かな」
「お前を邪険にするんじゃなくてな、今日は珍しい奴ばっかり来るもんだから」
「ああ、そう言うことね」
美鈴は納得した。
「私も此処に着く迄は分からなかったんですがね、着いてから分かりましたよ」
「何が」
「面倒臭い奴が多そうだから代りに行けって」
「運命って奴か」
「多分ですが」
レミリアとしては霊夢と魔理沙だけなら別に行っても良かったが、当日になって見えた運命は、神社の喧しさを予見していた。然し他の来客の為に日付を変えるのも癪だったので、美鈴を向かわせたのであった。
「まあ寒い中の門番も辛いので、良かったと言えば良かったんですが」
「お前は冬でも寝てるじゃないか」
「我慢をしてるだけで、寒くないこともないんです」
美鈴は自分を見つめる視線に気付いた。布都が彼女を眺めていた。
「えーっと、何ですかね」
「お主も中々、良さそうだ」
「何がですか」
「お主、仙人を目指さんか」
「ええ?」
「今の話を聞けば何だ、寒い中で門の番をしているそうじゃないか。そんな根性があるなら、我々と共に時間を有益に使わぬか」
「はあ、折角ですが遠慮します」
「何故だ」
「彼処が気に入ってるんで」
「そうか、なら仕方ないな」
「あんた今日は振られてばっかりねえ」と一輪がくすくす笑った。
「ううむ、上手くいかんなあ」
布都は唸った。今日で三度の勧誘失敗であった。
「此処の住人は皆、どうにも芯がしっかりしていて、誰も仙人になりたがらなくていかん」
「良いことじゃないの」
「我々は困るのだ、雲居殿。民を導くのが我々の使命なのだから」
「芯がしっかりしてるなら、もう導かなくて良いんじゃないのか」
「そうなのかの」
「芯がしっかりしてるんじゃなくて、何も考えてないだけでしょ」と霊夢が最もなことを言った。
もう午の刻が迫っていた。見えない太陽が頂点に近付く。
只管に雑話が続く。彼女等の知れぬ間に、雪が止みそうになった。風は密かに、結晶は冷やかに、雲は長閑に。
正月明けに、様々な憐れが生まれ、消えて行く。
「―――で、水蜜は言ったの!「私の一輪に触れるな!」ってね。私を不意打ちした奴は、錨に吹っ飛ばされて、粉々の肉片になってしまったわ!」
「へえ、あの船長が」
「水蜜はねえ、本当は格好良いのよ、分かる?」
「分かった、分かったよ。だからそんな絡まんでくれ、酔い過ぎだ」
北を見れば花妖怪が散歩している。
「―――それで早苗が神奈子をうっかりばらばらにしてね、いや私は遠くから見てただけだったけど、あれは笑ったよ。多分あれより面白いことはもう今後ないんじゃないかな」
「奇跡って凄いね、神様」
東を見れば人形師が正月明けの気怠い時期にも関わらず、魔法の研究を続けている。
「―――だから太子様は、本当に民を思うておるのだ。和を以て尊しと為す。あの言葉を、確かに太子様は昔、優しい笑みで仰った」
南を見れば賢者が惰眠を貪っている。
「―――妹紅の笑みに、思わず身震いしたわ。「お前は死ぬ瞬間、本当に綺麗ね」って心底、嬉しそうに言うんだから」
「うわ」
「まあ、それは逆も同じだけど」
「もっと悪い」
西を見れば―――可哀想な死神が見える、彼女は年寄りを彼岸に送る仕事で忙しかった。彼女は餅が嫌いになった。
「明けましておめでとう御座います……何よ、之」
「おお、妖夢だ」
「そう言えば冥界のは、来てなかったわね」
魂魄妖夢は後退る。皆が酒で赤らめた顔をしているからだ。彼女は知っていた。潰れかけの幻想郷の住人は、とても面倒臭い奴等だと、知っていたのだ。
彼女は手土産を置いて、逃げられなかった。魔理沙ががしりと彼女の肩を掴んだ。
「どうした、何で逃げるんだ」
「何でだろう、考えて」
「ああ、分かる、分かるよ。詰まりお前は酔った奴等に絡まれたくないんだろう」
「そうよ」
「実は杯が一つ余ってるんだ」
「話し、聞いてる?」
「聞いてるよ、流すけどな」
魔理沙はぐいと妖夢を引っ張った。彼女は諦めた。
皆は知る由もなかったが、最後の来客は少し話題に上がっていた者であった。来客にとって、自分が虚仮にされていたことを知らないのは幸いであった。
「へカーティア、之は?」
「知らないわよ」
死屍累々。誰も彼も炬燵の中で爆睡していた。眠りは深く、誰も最後の来客に気付けなかった。
「どうしますか」
「純狐はどうしたいの」
「はあ、私は何となく着いて来ただけですから」
「じゃあ良いか、日を改めましょ」
「手土産はどうしますか」
「置いとけば良いんじゃないの」
「ではそうしましょうか」
彼女の判断は正しかった。幻想郷の住人は潰れてしまうと、簡単には起きないからであった。
室は嘘の様に静かであった。然し忘れてはならないことがある。何故なら正月明けの喧しさ程度は嵐の前の静けさで、春になれば更に騒がしいからだ。
机に一つ袋が置かれた。最後の来客は消えて行った。
魔理沙が目を覚ますと、室は暗かった。既に夕方であった。辺りを見ると、誰も彼も帰ったのか、もう霊夢しか見えなかった。彼女の頭に鈍い痛みが走った。
「飲み過ぎた」
誰が置いたのか、水差しがあったので、彼女は杯に水を入れて飲んだ。
「魔理沙?」
「ああ、起きたか」
霊夢も目を覚ました。彼女も頭の鈍痛に襲われた。痛みが酷いので、彼女は思わず頭を抱えた。
「頭いったい」
「ほれ、水だ」
「何してたかあんまし覚えてないや」
「私もだ」
霊夢は水を飲むと、少しぼうっとした。何かする気が起こる筈もなかった。二人は机に突っ伏す他なかった。
「片付け、どうする?」
「うーん、疲れたし、眠い」
「じゃあ明日にするか」
「うん」
再び二人は微睡んで行く。暗い室が、二人を冬の眠りに誘った。
「ああ、魔理沙」
「うん?」
「言ってなかった」
「どうした」
「明けましておめでと、お休み」
唐突だったので、魔理沙はきょとんとした。然しすぐに何時もの不敵な態度に戻った。霊夢はもう寝そうになって、顔を伏せていた。
「ああ、お休み」
「うん」
夜は並べて、言もなし。
がんがらがん 終わり
新年早々にこのssに出会えたことに感謝を。
曲がりなりにも結界の管理者たるものに対して挨拶に来る面子の意外性があって、それはそれで読んでい面白かったです。
一人また一人と人物が来るたびに、お前が来るんかい!ってなりました。
一箇所誤字報告です
「仙人は五穀を経たねばいかんのだ」
→「仙人は五穀を断たねばいかんのだ」 かと
とても楽しめました
あっちゃこちゃに愛と可笑しみと目出たいのが溢れていて大変縁起の良い作品でした。
幻想郷は住人が増えてもちっとも変わりません。
旬の小説は旬のうちに読むに限る。
嗚呼こういう物語が私も書きたひ
とても面白かったです。
中々に珍しい組み合わせなのに会話がピタリとハマったようでとてもしっくりきました。
非常に良かったです。