陽炎が跋扈している。
暑さが頭の中に潜り込み、思考を撹乱していた。いい加減にこの大きな尻尾が邪魔である。佐渡はこの幻想郷より涼しかった。ここで夏を迎えるのは何度目かになるが、未だに慣れない。縁側の日陰の中でうちわを動かして、ぼうっと蝉の声を聞いていた。
--数日前から寺でぬえの姿を見なくなった。またいつもの家出だろうと思い、この煩わしい暑さも相まって探しに行かなかった。しかし、以前に人里で行われる夏祭りには一緒に行こうと約束していたのだ。それまでには帰ってくるかと思っていたが、ぬえの姿を見かけるよりも先にその日がきてしまった。
約束をすっぽかされるのは金貸しをしていた身としても我慢ならない。そろそろ探しに行こうかと思い立っても日照りの陽炎を見ると足が立ち上がろうとしなかった。
じっとしていても仕方がないので指笛を吹いた。しばらくすると寺の垣根の向こうから狸が一匹這い出てくる。その狸も毛皮の暑さでダレていたのだが、仲間を集めてぬえを探してくるようにと伝え、懐から少しばかり金を取り出して与えた。これは、手下のマミたちがたまに人里に化けて行って、酒を買うための金である。金を受け取るとまた垣根の向こうへ消えていった。
仰天。入道雲が向こうに見えた。せめてこの上にきて日陰をつくれば良いものを……。
後ろに倒れて大の字になると床の冷たさが心地よかった。微睡んでから眠りに落ちるまで、そう長くはかからない。
振動を感じた。薄目を明けると狸が肩を揺すっている。空は波長の長い茜色。今は夕暮れだとわかった。
「うん? ぬえが見つかったか?」
狸の報告は場所を伝えるものだけではなかった。それが、妙なものである。説明はいまいち要領を得ない。
「……まあいい。ご苦労だったな」
また懐から金を出して与えた。今度は狸が帰るよりも早く、自分で外へ駆け出した。
ぬえが森にいるらしいことはわかった。しかし報告によると様子が変だそうだ。体調が悪いとか、そういった類のもので無いというのがまた足を速めさせた。
何か、奇妙な感じがする。想像だけが悪い方へと先行していた。
「ぬえ!」
森の真ん中で叫んでみても応答はなかった。気配すら感じない。まだ激しさを止めることのない胸の鼓動が痛かった。額にある汗を一度拭った。
木々の隙間から薄明が差し込んでいる。もう直接太陽は見えない。東の空から急速に闇が広がっていく。
生ぬるい、嫌な風が幽かに葉を揺らしていた。
「どこじゃ、ぬえ!」
頭上が闇に切り替わったその時、後ろで『ナニカ』が落ちた音がした。
「ぬえ!」
『ナニカ』を抱え上げた。否、紛れもない『ぬえ』である。そのはずである。
西から差し込む最後の薄明。それが照らし出した『ナニカ』の正体は、赤青の翼を持つ少女であった。いたって普通の少女であり、自分がよく知っている『ぬえ』である。
抱きかかえている自分の手が見える。後ろの木の根が見える。少女は、背後の景色が視認できるほど薄々と透けていた。
「何があったんじゃ! おい、しっかりしろ!」
強く揺すっても、閉ざされた目にかかっていた黒い髪の毛がはらりと落ちただけだった。呼吸もひそやかで弱々しく、生気が感じられない。
何も反応がないその少女に自分ができたことは、薄明すら消えた森の闇の中を、ひたすら寺に向かって抱えて走ることくらいであった。
勢い良く寺の戸を開くと音に気づいた門下の者が何人か出てきた。何があったのか理解出来ず硬直する者たちを鬼気迫る表情で怒鳴り散らし、布団を敷かせてぬえをそこに寝かせた。誰かが水を運んできたのとほぼ同時に、どこかに行っていた聖白蓮が帰ってきた。
「何事ですか?」
そう言って部屋に入ってきた白蓮も、ぬえの姿を見ると言葉を失った。他の者も皆同じような反応だった。無理もない。この半透明の姿からは死につながる衰弱を感じざるを得ない。
寺の中はひっくり返したような大騒ぎから一転して、冷静で覆われた焦りのような感情に包まれていた。ぬえは水を口に含ませると死んだように眠っていた状態から軽く呻いて苦々しい表情を浮かべた。意識はまだ戻っていない。半透明さが少し消え、先ほどより唇に血の気の色が戻ってきたような気もする。希望的観測かも知れないが。
特に何もできないまま、ぬえの横で座っていると白蓮が集まるようにと声をかけてきた。ぬえをこのままにしておくのも後ろ髪引かれる想いだったが、門下の者が面倒を見るというのでひとまず招集に応じることにした。
いつも重要な問題を話し合う時は決まって主要な門下のみを集めて一つの部屋に集まる。その部屋の戸をあけるとそこに居たのは毘沙門天の代理とそのお目付け役の鼠、入道使いの尼僧、舟幽霊、そして聖白蓮であった。空いている座布団が一枚あったのでそこに座った。空気は張り詰めて沈んでいる。
「全員揃いましたね。御存知の通り、どういうわけか『ぬえ』が不可思議な状態に陥っています。それに関して、まず私の心当たりを皆に伝えておきましょう」白蓮が口火を切った。「私は先ほどまで人里に赴いていました。諸用を済ませた帰りに通りがかった出店、今夜の祭りの屋台ですが、そこでぬえの話をしている者がいました。少々気になったので話を聞いてみると、どうやら『ぬえの正体がわかった』とか云うことでした。それが里中に広まっている、とも。その正体はいつものようにキメラだとかトラツグミだとか、個人によってまちまちなものでなく一つの固定的なもので……」
そこまで言うと白蓮は懐から写真を一枚取り出した。
「どうやらこの動物が正体なのだろうという噂が広まったらしいのです」
白蓮は取り出した写真を全員に表が見えるように持った。そこに映っていたのは、人々を恐怖させる大妖怪『鵺』の恐ろしい姿でも、寺の者たちがよく知っている少女の『ぬえ』でもなく、愛くるしい、狸に似た動物だった。
「レッサーパンダと云う動物だそうです」
ぬえの正体が恐怖を微塵も感じさせない、むしろ予想とは正反対の物として広まっていることにミスマッチを感じながら全員が黙り込んでしまった。緊張感が奇妙に揺らいでしまった。
「これが今回の『ぬえ』の――病状としておきましょうか。病状の原因だと考える理由の一つは、この噂が広まり始めたのが一週間と少し前であること。これはぬえの姿を見なくなった時期と重なります。もう一つは憶測になりますが、噂として広まっているこの状況は先の都市伝説異変と構造が非常に似ているという点です。都市伝説異変は未だに巫女が解決しきっていない。十分にその力が発揮されてしまう環境下に今の幻想郷はあると考えられます」
「ちょっといいですか?」一輪が手を挙げて白蓮を静止した。「今の話だとぬえが都市伝説異変の力に影響を受けてそのレッサーパンダとやらになってしまうと云う風に解釈したのですが、これは正しいですか?」
「私自身、確証はもてません。この場で憶測をあまり出すべきではないとは思いますが、あえて言えばぬえのあの姿を見てその程度の事態で済むとは考えていません。原因がもっと複合的に絡んであの病状を作り出していると感じています」
一輪の質問は核心を射ているし、白蓮の応答も後者が正しいと思った。
「……この寺に書物はないのか? ぬえに関して書かれているものは?」
「倉にあったと思いますよ。そういえば、あの子も以前自分で読んでいましたね……」
白蓮はそこまで言って口元に軽く手を当てて少し考えた。
「倉にある、あの子のことが書いてある書物をすべてここに持ってきてください」
今度は、はっきりとした重い発音だった。
一人ひとりがゆっくりと立ち上がり部屋から出ていった。倉の方へ進む足音が聞こえなくなった頃、無響な部屋の中には自分と白蓮しかいなかった。
「白蓮よ」
互いに目は合わせない。
「お主も全容は見えてきたのじゃろ?」
「……結論を出すにはいささか早計です。今は」
軽く睨みを効かせた目で白蓮の方を向いた。相手は下を向いたままだった。
足音が近づいてくる。
「今、あなたに話すべきでしょうか? 彼女たちにも話すべきでしょうか? 事態が悪転しないとも限らないのに」
返答に困っているうちに戸が開いた。白蓮との話はそこで終わりとなった。
部屋の中央に書物が積まれていった。
「随分早かったが、どうやって探したんじゃ?」
「ぬえが前自分で集めて読んだやつがそのまままとめておいてあったみたいです」
寅丸星が答えた。ムラサが置いた数冊を最後にして、全員が元いた席に戻った。
「マミゾウ」白蓮の声だ。「あなたの選択はこのまま賭けに出ることなのですか?」
「……考えもなしに賭けには出んよ。しかし、何もせずとも事態は悪化してゆく。賭けに出なければ終局は変わらんのじゃないか?」
周りのものが困惑のの目でこちらを見ている中、白蓮と自分はまっすぐに視線を捉えあわせていた。目を逸らしたのは相手側。ふう、と大きなため息を着いた。
「分かりました。協力しましょう」
白蓮が墨を硯に溶かし、筆を添えて全員に回した。白紙の紙も中央に寄せられた。
「手分けしてこの中からぬえに関する記述を探し出してください。見つけたらこの紙にその部分だけ抜き出すように」
白蓮の声でひとり一冊ずつ本を手に取り、『ぬえ』の文字を目で追いはじめた。
時計回りに紙が回された。始めてからニ刻ほど経っただろうか。思っていたよりも早く作業は終わった。今はぬえに関する記述の抜き出しを各々で回し読みしているところである。最後に自分が読み終えた紙を集まっている輪の中央に置いた。
「まことに不思議なやつじゃのぅ……」
ため息とともに独り言のように呟いた。
腕を組み、気を引き締め、顔を上げて語りを始める。
「儂の見解を述べようか。ぬえの病はやつ自身の性質に原因がある。里に広まっている噂は引き金にすぎんものじゃ」
「性質って?」一輪だった。
「『正体不明』のことだろうね」投げるように言ったのは小さな賢将だった。ナズーリンも何か感づいたのだろう。
「……儂は病の原因までは理解したつもりじゃが、解決法はまだわからんのじゃ。じゃから、ここで皆の知恵を借りたいと思う。よいか?」
全員が無言で首を縦に振った。
記述を抜き出した紙をすべて自分の方に寄せ、その中から数枚を取り出した。
「まず『鵺』でいちばん有名な伝説といえば平家物語じゃろうな。概略は、夜な夜な近衛天皇を悩ませていた黒雲とともに現れる正体不明のモノノ怪を源頼政がまず矢で射抜き、次に手下のル猪早太が落ちてきたソレを取り押さえ9度太刀で切りつけて殺した』というものじゃな。その後そのモノノ怪を明かりで照らしてみると『頭は猿、躯は狸、尾は蛇、手足は虎』であった、と。仮にこれを『さるとらへび型のぬえ』としようか。『さるとらへび型』、つまり合成獣のようなモノノ怪として描かれている伝承は多く、外の世界には『鵺代』や『胴崎』、『羽平』、『尾平』と云う地名があるそうじゃ。これは『さるとらへび』の死体が降ってきたためこの名になったと言われておる。『さるとらへびは』完全に合成獣じゃし『鵺』としての共通項が多いから、おそらく同一のものとして捉えられておるのじゃろう。さらに、源平盛衰記では『頭は猿、躯は虎、尾は狐、手足は狸、鳴く声は鵺にぞ似たりける』とある。この源平盛衰記が里の噂に拍車をかけておるようじゃな」
白蓮が里から持ち帰った写真を手に取る。
「今回のレッサーパンダ説は白蓮の資料によると外の世界の新学説が元になっておる。『尾は狐』の部分からレッサーパンダ説が生まれた、とここまでがぬえの『姿』に関する話じゃ」
「この話と『ぬえ』があんな状態になったこと、どう関係するんですか?」寅丸星は前に身を乗り出して言った。
「うむ。この話をするのはちと気が重いんじゃがな……。妖怪とは『認識』を元にした『現象』にすぎない、そういった側面がある。これは理解できるか? 例えば儂の尾は佐渡にいた頃に『尾の大きな狸』と記録されてからどんどん大きくなったものじゃ。先の都市伝説異変にも噂が先で後に妖怪が生まれるという構造をとったものがいくつかある。学校の怪談は噂によって銅像やピアノが付喪神化したもの、番町皿屋敷のお菊という亡霊は怪談による創作で決定的なオカルトに変化したものじゃ。妖怪という存在はその出自や容姿が曖昧じゃから、『誰かの認識』に頼ることによってその存在を固定的なものとして活動するのじゃ。逆に、今回のようにその『認識』に疑問が挟まれば、姿形は疑問と同様にゆらぎを起こす。『ぬえ』の存在は今、キマイラのような『正体不明』とレッサーパンダという怪異の部分が欠落した『実在体』の狭間に沈んで居るのじゃろう。ヤツはどちら側にも立てず、矛盾によって消失へと向かっている。これが儂の見立てじゃ」
「でも私たちは『ぬえ』をあの不思議な翼を持った妖怪として認識しているはずですよね。姿はそれだけでは保てないのですか?」
ムラサは手を膝の上に軽く乗せた状態で綺麗な発音で言った。
「この寺の中で、ということならその通りじゃろう。儂が森のなかでぬえを見つけた時は気絶と云った感じじゃたが、寺に担ぎ込んだ時は昏睡と云った感じになった。ここにおることで幾許か症状が和らぐのは間違いない。しかし、里の人間たちの影響をいつ受けるとも限らんし、早急に回復したほうが良いことに変わりはないと思うておる」
そこまで言い終わると天井を仰いだ。どこまでこの話を続ければ良いのだろうかと思った。夜の帳は降りている。里ではもう祭りが始まっているだろう。ぬえがこんな状態でなければ今頃そこにいたのである。きっと、りんご飴をかじりながら笑顔をこちらに向ける『ぬえ』が自分の隣にいたのである。今、自分は畳の上に座っている。解決策を見いだせないまま、事象の説明を垂れているだけで何が変わるのだろうか。
「私に案があります」
白蓮はいつになく強い目で世界を見ていた。
「あの子に名前を与える、というのはどうでしょうか?」
その言葉の衝撃はまさに刹那的だった。考えもしなかった、そういう驚きを何か奇妙な感覚が打ち消した。口を開きかけて、やめた。何か喉の奥で小骨が支えているような違和感を拭いきれなかった。
「なぜ、名前を与えることでぬえの病が回復すると思ったんじゃ?」
「そもそも種族としての『鵺』という名前と同じ音を持っているがために里の噂に過剰に影響された、これが根本的な原因ではありませんか?」
「ふむ……」
そういうことか。自分は再び筆を取って思い当たる文字を三つ書いた。
「夜に鳥と書いた『鵺』。これが正体不明の妖怪と呼ばれていれるものに多く当てられる字じゃ。次に空に鳥と書く『鵼』。これは怪鳥を意味する。そしてひらがなの『ぬえ』。これが儂らの知っとるぬえを表すが、口伝えではこの三つに差はないし、文字化されてもよく混同される。これが過剰影響の原因だ、と?」
「それも一つの原因だと思います。なるほど、そういう考え方もありますね。私が言いたいのは、例えば天狗なら射命丸だとか姫海棠だとか、個人を識別するための名前を持っています。この場合天狗は酒飲みだという性質だとかはある程度共通しますが、そのなかでも下戸がいるとか、新聞を作るのがうまいとか、そういった個性は保護されています。あの子は正体不明の妖怪『鵺』の影響を全身で受けすぎている。新たな名前を与えて『鵺』という妖怪から遠ざければ影響もなくなる。そういう考えです。
矛盾はない。この案で十分やつを救えると思う。理性はそう言っているが、勘だけが歯止めをかけてくる。
視線を下に向けた。真新しい畳の目地は隙間なく編まれていた。だが、よく見れば何かのホコリが隙間に入り込んでいるのが分かる。
違和感の、正体は何か?
「聞くが、やつにどんな名前をつけるつもりじゃ?」
「そうですね、再び影響を受けることのないようにぬえとは一見関係のないような――仏様から何か名前をいただきましょうか」
「そこじゃな」
少々食い気味に言った。
「やつはもともと正体不明を依代とした、『鵺』という怪異によって存在してきたわけじゃろう? 新たな名前を与え、正体を明らかにし、存在を一限に固定した妖怪はもはや正体不明でなくなる。いざ名前を与えて正体不明の枷を外した時に、『ぬえ』という妖怪はどうなるかわからん。新たな妖怪として定義されたヤツは、『ぬえ』足り得るのか……。もし奴が『ぬえ』でなくなったなら、奴はそもそも存在できるのか……。そこに儂は引っかかっておったんじゃ」
「いいかげんにしてください!」
叫んだのは虎、毘沙門天の代理。獣としての本性か、今にも飛びかかってきそうな殺気を放っていた。横の鼠が止めていなければ今頃自分は組み伏せられていただろう。見開かれた目から、同じ獣として最大限の恐怖を感じた。
「さっきから黙って聞いていれば机上の空論ばかりを並べ立てて! あんたは何か、自分の思い通りに場を制御しようとしているように見える。私は聖様のお考えで十分『ぬえ』を救うことができると思った。何を待っているか知らないが、もうたくさんだ! そこまでして最悪の可能性を考えたいか!」
「星!」
空気を切り裂くような声。上気していた空気は一瞬で去った。声を上げた聖は誰かを睨みつけるでもなく、目を閉じて深く息を吸っていた。
「マミゾウの云うことに私は思い当たるところがあります。最悪の可能性を考えなければ、その最悪に陥った時に害を被るのは私たちではなく、あの子です。慎重な気持ちになるのはわかってあげてください」
虎は複雑な表情を浮かべて、白蓮のことを見ていた。一度白蓮の言葉を飲み込むように理解して、その後は下を向いた。
飼い主に牙を折られた獣のような姿を見て、少し悪いことをしたなと思った。
「ここまでの話をまとめましょうか」
白蓮はもう冷静だった。
「名前が『ぬえ』という妖怪の種族を表す言葉と同じ音であったがために、里の噂は正体はレッサーパンダ説に過剰に影響を受けてしまった。しかし改名はそもそもの存在否定に繋がりかねないから避けるべきである、と。しかし、このまま行けば自然消滅する可能性もあり早急に手を打つべき。言い換えれば、『ぬえ』の『正体不明さ』を取り除かずに正体がレッサーパンダだという説を認識から消し去れば良い。私の言っていること、合ってますか?」
誰も特に答えなかったが、首だけは縦に動いていた。
問題は洗い出された。だが、やはり解答は見えてこない。
「もう一度、皆でこれを読んでみませんか?」
一輪はそう言った。
指をさされていたコレこと、ぬえに関する記述の抜き出しが書かれた紙を中央に置き直した。
「平家物語はもう使えないじゃろう。あれは完全にレッサーパンダに塗り替えられてしまった。源平盛衰記などもってのほか。『ぬえ』はこういう昔の文献の記述によって正体不明さを獲得しておった。レッサーパンダが塗り替えたのが平家物語の文中の正体ならば、別の文中の正体不明さを流布すれば良さそうなんじゃがな……」
また諦めて手を組んで下を向いて考えようとしたときだった。
「なら、これはどうでしょう?」
ムラサは一枚だけ紙を持っていた。
そこには――
ほの暗い水の底すら笑えるほど暗い暗い世界の底。躯だけはどこまでも落ちていけるような気がしていた。もう天地もわからない。
自分は長い夢を見ていた気がする。
自分は平安の頃森に住み、夜になるとわざわざ天皇の寝ているところまで飛んで行って鳴いた。その時はわけの分からないやつに矢で射抜かれ、その後何度も切りつけられた。手足も躯も頭も、すべて別の動物だった正体不明。
そんな夢。
いや、その頃から少女の姿で、正体不明の種を適当にくっつけた動物を人間が恐怖しているのを遠くから眺めているだけだった気もする。
そんな夢。
いやいや、躯はほとんどが鳥で、怪鳥として恐れられていたじゃないか。矢で射抜かれた後、東に飛んだがそこで躯はバラバラになった。
そんな夢。
違う、私は母で、息子の処遇が不憫なのを嘆いて池の竜神に頼んで怪鳥になったんだ。結局、息子は昇進したからよかったか。
そんな夢。
これも違う。私はただのレッサーパンダ。少し大きかったから、妖怪と勘違いされただけ。その程度の存在。
そんな夢。
赤青の翼を持って、少女の姿をして、誰か仲間が居て、そいつらと一緒に笑って楽しく過ごしていた。
そんな夢。
そんな夢?
どうだったかな……。
私は鏡を持っていない。
誰かからそうだと言われれば、そうだと信じることしかできない。
洞窟の影が真実。そう思うしかないのだ。
"……ぬえ"
誰?
私を呼ぶのは誰?
肩を軽く揺すった。
少女は初めてこの世界を見るように、ゆっくりとまぶたを上げた。こんなに間近で見るのも久しぶりな気がする。長いまつげと純粋な目にひきこまれそうになっていた。
「ぬえ」
呼びかけでようやく焦点が定まった。
「マミゾウ……?」
「そうじゃ。大丈夫か?」
少女は少し考えたかと思うと、突然口元を引きつらせながら笑った。
「ねえ、私さっきまで夢を見てたみたいなんだ。昔のこと。今のこと。自分の正体が何だったのか、それがわからないの」
「……一つだけ、聞かせてくれんか?」
少女は自分の次の言葉を待つように虚ろな瞳をこちらへ向けていた。
「お前、前に『平家物語の鵺の正体は正体不明の種で、自分は遠くから眺めていただけ』と言ったな。なら、お前はその時その場に今の姿のまま存在していた。違うか?」
少女は首を傾けて目を逸らした。
「どうだったんだろうね。その記憶だって、私の夢が作り出したものかも知れないもの」
「記憶があるのか無いのか聞いておるんじゃ」
「あるよ。確かにある。でも記憶自体が不確か。正体不明の鵺の正体なんて存在しないのよ」
背筋が凍り付いた。その先を聞くのが怖い。言い知れぬ恐怖。何の恐怖だ。
恐怖の正体は、不明。
「……どういう意味じゃ?」
「前に自分のこと調べたときからずっと思ってたの。どうしてこんなにも伝承が多いのか、って。でもさ、全部が真実で、文献はその断片の集合体だとしたら?」
自分は言葉を失っていた。少女の微笑みが悪魔のように見える。手に、額に、背筋に、汗が焦らすように零れていった。
「源頼政は功績を讃えられることなく不遇の人生を送っていた。そこに天皇直々に妖怪退治の頼みが入るなんて妙じゃないかしら? そんなに都合のいい話はなくて、頼政は自力で地位向上を目指して策を練った。そこで出てきたのが妖怪退治。頼政は二度『ぬえ』を射抜いたのは知ってる? 二度目にぬえが現れた時に、黒雲の中のぬえの位置を探るために放ったのが鏑矢。鏑矢とは笛のような不思議な音を出して飛んでいく矢。そしてぬえの、鵺鳥の、トラツグミの鳴き声も笛のような不気味な音。これでわかるでしょ、天皇が夜な夜な恐れていた鳴き声は頼政によって作為的に生み出されたものだったということよ」
やめろ、と言うべきなのだろう。しかし声は出なかった。体だけが怒っている。手は自分の太ももを強く握りしめていた。
「赤蔵ヶ池の頼政の母がぬえになったという伝承も、『正体不明』のぬえにしては毛色の違う話よね。あれはぬえが頼政の功績になるために生み出されたという断片と息子思いの頼政の母の伝説が組み合わさってできたものにすぎないんじゃなくて? 四国には頼政の母の優しさがあっても、当の舞台の平安京にはぬえが生み出された妖怪であるということしか残らない」
そんなことまで考えているとは思いもしなかった。薄暗い部屋の中で、自分と少女以外には誰もいない。誰も助けには来ない。それでも自分は動けなかった。なぜこいつを助けてやれない?
「あの夜の全容は、まず頼政が夜な夜な鏑矢を放って怪鳥が存在すると天皇に思い込ませ、そこに自分が妖怪退治を買って出ることから始まったのよ。部下に猪早太しかつけなかったのは、信頼できる部下以外をつけて計画が露呈することを恐れたため。黒雲は煙か何かじゃないかしら。ともかく、そこに頼政は矢を放てばよかった。矢を放ったのを確認した猪早田は誰よりも早く妖怪が落ちた場所に駆け寄るふりをして、誰にもバレないように猿や虎や蛇の死体をくっつけた自作の合成獣を置いた。九度も太刀で切りつけたのはその接合部分を隠すため。あとは誰かに確認してもらえば、頼政が合成獣を射落として退治したようにみえる。頼政がその夜から鏑矢を放たなければ、怪異は去ったと天皇は思い込む。これで頼政は昇格、すべてうまくいったというわけよ」
歯を固く噛みしめた。相変わらず少女は苦痛に満ちた笑顔を浮かべていた。左手で自分の目のあたりを抑えて苦し紛れに言葉を発す。
「……それでお主はその頼政の狂言から生まれた妖怪にすぎない、と。そう思っておるわけじゃな? 正体不明の妖怪の正体は空っぽの嘘じゃと。ならば問うが、今儂の前にいるお前は誰だ?」
「だから、頼政の創り出した幻影よ」
「本気でそう言っておるのか?」
「どうかな。もう自分でもわからないもの……。何が真実か、なんて私にはわからない。もう消えてしまってもいいような気もする――」
我慢の限界だった。自分の右手が『ぬえ』の胸ぐらをつかんで無理やり引き起こした。顔を近づけてたまった怒りに任せて二つの目を睨みつけ、張り裂けんばかりの声で叫ぶ。
「消えてしまっても良い? ふざけるな! 白蓮もムラサも星もナズーリンも一輪も、そして儂も、お前と共に過ごして共に笑いたい、その一心でいま各々努力を尽くしておるんじゃぞ! 自分が勝手に消えたいと思うのはいいが、それを望まない者たちが、お前のことを思うておる者たちがいるんじゃぞ? そいつらを残して勝手に死のうなんざそれこそ都合が良すぎやせんか? さっきの話は強引すぎる。お前さんはここにおる。その事実は疑いようがない。たとえ幻想であろうとも、ここで過ごした記憶はお前さんのものに違いないはずじゃ。違うか!」
『ぬえ』のただ唖然としていた顔に微かな力が篭った。
自分の手をぬえが力なく掴んできた。胸ぐらを掴んでいた手を緩めると、倒れ込むようにぬえは頭を寄せてきた。
「私だって、皆と一緒にいたいよ。消えたくないよ……」
「そうか……」
顔を見なくてもわかる。掠れた、息も絶え絶えなか細い声が、小刻みに震える体が、ぬえの感情の機微をすべて伝えていた。
「ぬえよ」左手で腰を、右手で頭を抱き寄せた。「夏祭りに行こうか」
「無理だよ。こんな体じゃ行けやしない」
「いや、行くんじゃ。皆が準備しておるからの。ほら、お前さんも着替えんとな」
里は乱痴気騒ぎ、とまではいかないが夜にしては賑わっていた。
「よう、霊夢」
「なーんだ、魔理沙か」
声をかけてきたのが魔理沙であることと、着ている服がアサガオを模した浴衣であることと、綿菓子を持っていることを確認してから動かした視線だけをもとに戻した。
「どうした? やけにご機嫌斜めだが」
「どうもこうもないわよ。夏祭りは神社でやればお賽銭も場所代も入るけど里でやるとね……。しかも万が一の監視役ってことで呼ばれてるからには派手に騒げないし」
「去年の祭りの帰りに妖怪に襲われた人間が出たんだから仕方ないだろうな。ま、それ以前にお前のところの祭りは妖怪しかいなかったが」
魔理沙の言葉を無視して屋台の並ぶ通りをぼうっと見つめる。妖怪も混ざって楽しそうにしている。被害が出るまで仕事をする気も出ない。
「食うか?」
視界を遮る綿菓子。無言でかじりついた。
「あ、お前! ……節操のないやつだな」
「前に出すやつが悪い」
そう言って不服そうな魔理沙を一蹴した。綿菓子はいつも、材料の砂糖の量を見るとぼったくりではないかと思う。白い雲のようなその大きさとは裏腹に、十数粒砂糖しか入っていないのだ。口の中で小さくなった甘いかけらをしばらく舌で転がした。
後ろを流れる川の音の静けさと正面の祭りの喧騒が奇妙な双極をなしていた。もういっそのこと事件でも起きればいいのに。
「あれ、霊夢さんじゃないですか? 魔理沙さんも」
向こうから手を振って走ってきたのは小鈴ちゃんだった。走ってくる小鈴と違ってゆったりと歩いているが、阿求の姿も見えた。なんとなく面倒事が増えるような気がしてため息が出た。
「霊夢さんもいらしてたんですね」
「仕事として、だけどね」
阿求がようやく到着した。小鈴は普段なら絶対に買わないような小品をたくさん持っていた。たぶん出店で取ったものだろう。随分とお楽しみのようである。
「そろそろ花火の上がる時間ですよ」
「花火もするの? それは知らなかったわ」
空を見上げたが、星もまばらな真っ暗さ。夜はこの程度のものだと思った。
出店にいた人たちが川岸に集まってくるところを見ると、どうやら川の向こう側で花火を上げるらしい。自分もこのときくらいは、と思って川の方を向いた。
程なくして一発目の花火。菊のような形の、よくあるものだった。空が一瞬閃光して、音だけが遅れてくる。
「太古の人間が火を見て文明を感じたのと同じ気分だわ」
阿求は意味不明なことを言った。きっと、祭りの浮ついた気に当てられてネジが緩んでいるからに違いない。
二発目、三発目と次々に花火が上がった。そのたびに暗闇は照らされ、前の花火の白煙が浮かび上がる。はずだった。
何発目からか、空に黒煙が混ざり始めていた。
懐中のお札を確認する。
さて、何が始まるか。
三十発を過ぎた頃、黒煙は黒雲と言うのが適当なほど濃くなっていた。何人か気づき始めたものが出てきた。後ろから会話が聞こえてくる。
「何だあの黒い雲は?」
「ん? 黒雲と言ったらあの『鵺』だろうな」
「正体がレッサーパンダだったっていうあの? だとしたらいちどこの目で拝んでみてえな」
そういう笑い話。確かに最近『鵺』の話題が里にあふれていた。それと関係があるのだろうか。
そろそろ確認に行くべきか……。
「ちょっと行ってくるから、ここにいてね。魔理沙はこっちよろしく」
振り返ってそう言った。おう、と答えた魔理沙。
冷静に頷いた阿求。
空よりももっと下の方に視線を向けて何かに怯えている小鈴。
「小鈴ちゃん?」
呼びかけに返答はなく、震える指が川の上流を指していた。
「何よアレ……」
上流から、舟が一隻ゆっくりと下ってくる。船頭と、もう一つ。
アレは何か。
しっかりと認識できない。
ともかく、お札を取り出して構える。舟は止まることなくゆっくりと流れてくる。動き出そうとしたその時だった。
「すまんな」後ろから肩を掴まれた。「お前さんがここにいるとちと都合が悪いんじゃ」
視界が奪われ、一瞬の浮遊感。
地に足がついたような感覚を再び得たときにはどことも知れない森のなかにいた。
自分をあの場から引き離した犯人は未だ目の前にいた。
「どういうことか、説明くらいあるんでしょうね?」
佐渡出身の化け狸は不敵な笑みを浮かべていた。
霊夢は一瞬で姿を消した。背後に立っていた奴には心当たりがある。が、今は一般人の安全を最優先すべきだろう。
「ほら、全員逃げろ! いや、寺子屋に集まれ!」
散り散りに逃げられては守るものも守れない。とにかくそう叫んだ。阿求と小鈴の手を取って自分も走り始めた。
「なんなんだアレは……」
「自分の亡霊なんて気味が悪いわ……」
阿求はそう口にした。
「なんだって? お前の亡霊?」
走るのをやめた。
「そうよ、阿礼から今までのが全部乗ってるなんて気味が悪い」
「お前にはそう見えたのか……」
私の目に見えたものと、違う。
「小鈴、お前は何に見えた?」
「……阿求の、死に装束」
「私の? 他の九人は?」
二人は顔を見合わせていた。
私が見たのは、どういうわけか血にまみれた霊夢の姿。目は、妖怪退治している時のあいつの恐ろしい目。きっとあれは、妖怪をxした時の……。
ともかく、寺子屋まで走るか……。
二人の手を取って再び走り出した。自分の位置より下流にいた人間も騒ぎに気づいて逃げ始めていた。
追い越していった男達の会話が聞こえた。
「あれはなんなんだよ!」
「知るか! あんなでかい蜘蛛……思い出すだけでもおぞましい」
「蜘蛛? 何言ってんだ、でかい蛇だったじゃねえか」
男達の会話は噛み合わないままだった。
近くにいた親子の会話。
「なんであんたがあんな舟に乗ってるように見えたのかねぇ」
「何言ってるの? 虎が乗ってたよ」
あの舟に乗っていた何かはなかなか一致しない。
見るものによって姿を変える。
正体不明の何か。
心当たりは十分にあるが、動機はよくわからなかった。
レッサーパンダだと思われていた『鵺』が再び正体不明の妖怪へと変化した。
『ぬえ』は、何が目的なのだろうか。
霊夢がどこかへ消えてしまった今、自分があれを退治しに行ったほうが良いのではないかと思った。
しかしそれも寺子屋に押し寄せた人々を見て、こいつらを守ることが最優先だと思い直した。
「で、あんたらは何が目的なのよ?」
お札をいつでも投げられるように構えていた。
狸は煙管に火をつけ、それをゆっくりと吸った。
「里で『鵺』の正体がレッサーパンダだという説が流れたじゃろう? その噂が『ぬえ』のやつに過剰な影響を与えておっての、その状態を解消しにきた」
「舟にその『ぬえ』を乗せて流すことで? 理解不能ね」
「妖怪、怪異としての『鵺』の伝承はレッサーパンダに概ね塗り替えられてしまった。そこに無理やり人間の認識を上書きしようとしても『あれはレッサーパンダなんだ』と嘲笑されて失敗するおそれがある。じゃから、死後の『鵺』を扱った能楽の鵺の演目を元にすることにしたんじゃ。僧に身の上を語った『鵺』の亡霊は最後に波の狭間に消えてゆく。そこに一手間、恐怖を加えてやったまでじゃ。人間の根源的な感情、恐怖で認識を塗り替えてしまえば、再び正体不明の妖怪『ぬえ』になることができる。そういう構造じゃよ」
「やけにおしゃべりね。私はあんたを片付けてとっととその『ぬえ』も退治しなきゃならないんだけど?」
「あいにく儂の目的は足止めなんじゃ。諦めてくれ」
マミゾウの木の葉が四方に飛んだ。森の影が一瞬揺らぐ。おそらく、幻術でも貼ったのだろう。
「なあ、今回は里の人間に直接的な危害を加えたわけでもないし、見逃してくれんかのう?」
「残念ね」一枚御札を投げた。「私が巫女でないか、あんたが妖怪でなければそうできたかもしれないけど、あいにくどちらでもない」
「お前さんも難儀じゃな」
投げた札は煙管に刺さって止まっていた。
狸は煙管を逆さまにして灰を落とした。
「楽園に縛られた巫女か。止められるとは思っておらんかったしの。いいぞ、かかってこい。どちらにせよ里の人間を恐怖の底に叩き落としたその責任は誰かが取らねばならんしの」
煙管が宙を舞った。ソレが地面に落ちたのが合図になった。
舟は水を割って進み続けている。
白装束を左前に着せられた時はどうなるかと思ったが、森で意識を失ったときよりずっと気分は良くなった。
「これ、『ぬえ』のお葬式なのよね?」
「間違っても三途の河まで行かないでよね。私はまだ生きてるみたいなんだから」
ムラサはクスリ、と少しだけ笑った。本物の幽霊である分、彼岸に近いのはムラサの方だと思った。そう見えるような微笑み方だった。
ムラサはいつもの水兵の服装ではなかった。ピンクの椿をあしらった白っぽい浴衣なのだ。なんとなく、その意味を考えていた。
ムラサは櫂を舟に置いた。もともと川の下りである。それでも舟は真っすぐ進んだ。
闇の波長が、舳先の波間で偏向し、静寂の中にうなりを作り出していた。
「私、『ぬえ』が消えちゃったらどうしようって、怖かったのよ」
そう言ってムラサは私の前で膝を折って腰のあたりに抱きついてきた。バランスを崩して舟の底に倒れ込む
「消えたら許さなかったわよ」
怒りを含めようとした声の裏側に安堵が混ざり合い不安定になる。
感情の激流がムラサを飲み込んでいた。
「ごめん。今は、もう、大丈夫だから。泣かないで。ね?」
ムラサの顔を見た。目の奥に怒りを。瞳の表に涙を。口元に笑みを。ムラサは感情の間に溺れていた。血の池のように。
私は、どうすべきなのだろうか。
激流はやがて溢れ出す。それが涙。凝縮された感情の結晶。
幽霊が故の白い肌に、水底より黒い瞳、生き物であることの証としての血より艶やかな口。私はよくムラサに流されてしまう。溺れてしまう。今も溺れかけている。
ムラサの頭に手を回し。顔をこちらへ引き寄せた。
耳元でささやく。
「ありがとう」
舟は進み続けている。
頬に、軽く口付けを。
舟は幽かに方向を変えた。
別に、その一瞬で何が変わったというわけではない。
今の私にできることは、ムラサのために消えないことくらいだった。
私にかかった呪いとも言うべき現象はもう終わったのだ。消えることはない。
あとは、抱きしめることくらいしかできないのだ。
舟は岸にゆっくりと乗り上げた。
「ムラサ、ちょっとだけ付き合ってくれるかな?」
まだ私は礼を言わなければならないのだ。
「マミゾウを迎えに行かないと」
ムラサの手を取って舟を降りた。事前の計画ならば私が気絶していた森の辺りにマミゾウは居るはずである。
森へ向かって歩く。
夜は深みを増して。
花火はもう上がっていない。
夜の深みは底へ。
やがて朝が来る。
森の木にもたれかかるようにしてマミゾウは座っていた。
「マミゾウ」
声をかけると驚いたように顔を上げた。少し眠っていたようである。
「おお、ぬえか。ムラサも。うまくいったようじゃな……」
マミゾウは何かに満足したような目をしていた。
「ほら、帰ろうよ。皆待ってるはずだから」
ムラサが左肩、私が右肩を支えてマミゾウを起き上がらせた。
外傷は大した事なさそうだった。
「巫女も多少は手加減してくれたようじゃがの……。流石にこたえる。帰ったら酒が飲みたいのぉ」
冗談を言えるほどには元気のようだ。
「ねえマミゾウ」
「なんじゃ?」
「一緒にお祭りに行くって約束、破ってゴメンね」
「そんなことか……。確かに、落とし前はつけてもらわんとな。実は祭りにムラサも付いてくる予定だったんじゃぞ? ムラサ、やっぱりその浴衣よく似合っておるな」
ムラサが嬉しそうに笑っているのがちょっとだけ見えた。本当に、よく似合っていると思う。
「ま、そういうわけじゃ。お前さんに皆振り回された。ちゃんと借りは返すんじゃぞ」
森を抜けた。寺までもう少しである。
「ぬえはりんご飴楽しみにしとったのに残念じゃったの」
そう言ってマミゾウは笑った。
むう、たしかに食べたかったけどね。
「いいよ、また来年でも」
道の奥から影が迫ってきた。里の人間かと思って警戒する。
その人間はこちらに近づいてきた。そして、私の前に立ち、りんご飴を目の高さに掲げた。私にあげる、というサインらしい。
りんご飴を受け取ると、人間は煙とともに姿を消した。
「え、どこ行ったの?」
「あら、下よ」
ムラサの言葉通り、下を向いた。そこにいたのは狸であった。
「持つべきものは優秀な部下、といったところかの?」
マミゾウは笑っていた。そう言えば部下によく報酬としてお金を渡していたし、買い物くらい造作も無いのだろう。
「ほれ、食べい」
りんご飴を一口かじる。赤い水晶が砕け、果肉の甘さが口の中を満たす。そう、コレが好きなのだ。でも、少し食べにくいから飴を舐めて溶かしてからまたかじろうか。
「儂は」マミゾウが私のりんご飴を奪った。「コレで十分じゃ」
私が「あ」と言っている間にりんご飴は一口かじられた。
どうして私が妙に恥ずかしくならないといけないのか……。
マミゾウはこういうことを平気でするからよくわからない。
返されたりんご飴をしかたなくまた舐めた。
最後にどうしようかと思っていた長い階段まで辿り着いた。この先をマミゾウを抱えてムラサと二人で登りきる自信はない。
「お疲れ様」
そう言って出てきたのは聖と星とナズーリンと一輪だった。聖は優しい笑顔でいた。
マミゾウを星に任せる。星は軽々しくマミゾウを背負った。
「さあ、帰りましょうか」
皆で、一段ずつ階段を上る。上りきれば、そこはお寺。私たちの場所。
「あの、みんな」
全員が足を止めて私の方を見た。
「その、ありがとう……」
もう、恥ずかしくて顔を上げていられなくなった。普段から悪行ばかり積んでいると、感謝の言葉もこっ恥ずかしくなる。
聖は顔を伏せている私の頭に手をおいて、強めの力でかき乱した。
「迷惑をかけたのは確かです。お礼を言えたのは良いことです。なにより、あなたが無事ならそれが一番良いことです。もう、いいんですよ。さ、帰りましょう」
私は、どうも恵まれているようだ。
石の階段を一歩上がる。
帰ろう。
暑さが頭の中に潜り込み、思考を撹乱していた。いい加減にこの大きな尻尾が邪魔である。佐渡はこの幻想郷より涼しかった。ここで夏を迎えるのは何度目かになるが、未だに慣れない。縁側の日陰の中でうちわを動かして、ぼうっと蝉の声を聞いていた。
--数日前から寺でぬえの姿を見なくなった。またいつもの家出だろうと思い、この煩わしい暑さも相まって探しに行かなかった。しかし、以前に人里で行われる夏祭りには一緒に行こうと約束していたのだ。それまでには帰ってくるかと思っていたが、ぬえの姿を見かけるよりも先にその日がきてしまった。
約束をすっぽかされるのは金貸しをしていた身としても我慢ならない。そろそろ探しに行こうかと思い立っても日照りの陽炎を見ると足が立ち上がろうとしなかった。
じっとしていても仕方がないので指笛を吹いた。しばらくすると寺の垣根の向こうから狸が一匹這い出てくる。その狸も毛皮の暑さでダレていたのだが、仲間を集めてぬえを探してくるようにと伝え、懐から少しばかり金を取り出して与えた。これは、手下のマミたちがたまに人里に化けて行って、酒を買うための金である。金を受け取るとまた垣根の向こうへ消えていった。
仰天。入道雲が向こうに見えた。せめてこの上にきて日陰をつくれば良いものを……。
後ろに倒れて大の字になると床の冷たさが心地よかった。微睡んでから眠りに落ちるまで、そう長くはかからない。
振動を感じた。薄目を明けると狸が肩を揺すっている。空は波長の長い茜色。今は夕暮れだとわかった。
「うん? ぬえが見つかったか?」
狸の報告は場所を伝えるものだけではなかった。それが、妙なものである。説明はいまいち要領を得ない。
「……まあいい。ご苦労だったな」
また懐から金を出して与えた。今度は狸が帰るよりも早く、自分で外へ駆け出した。
ぬえが森にいるらしいことはわかった。しかし報告によると様子が変だそうだ。体調が悪いとか、そういった類のもので無いというのがまた足を速めさせた。
何か、奇妙な感じがする。想像だけが悪い方へと先行していた。
「ぬえ!」
森の真ん中で叫んでみても応答はなかった。気配すら感じない。まだ激しさを止めることのない胸の鼓動が痛かった。額にある汗を一度拭った。
木々の隙間から薄明が差し込んでいる。もう直接太陽は見えない。東の空から急速に闇が広がっていく。
生ぬるい、嫌な風が幽かに葉を揺らしていた。
「どこじゃ、ぬえ!」
頭上が闇に切り替わったその時、後ろで『ナニカ』が落ちた音がした。
「ぬえ!」
『ナニカ』を抱え上げた。否、紛れもない『ぬえ』である。そのはずである。
西から差し込む最後の薄明。それが照らし出した『ナニカ』の正体は、赤青の翼を持つ少女であった。いたって普通の少女であり、自分がよく知っている『ぬえ』である。
抱きかかえている自分の手が見える。後ろの木の根が見える。少女は、背後の景色が視認できるほど薄々と透けていた。
「何があったんじゃ! おい、しっかりしろ!」
強く揺すっても、閉ざされた目にかかっていた黒い髪の毛がはらりと落ちただけだった。呼吸もひそやかで弱々しく、生気が感じられない。
何も反応がないその少女に自分ができたことは、薄明すら消えた森の闇の中を、ひたすら寺に向かって抱えて走ることくらいであった。
勢い良く寺の戸を開くと音に気づいた門下の者が何人か出てきた。何があったのか理解出来ず硬直する者たちを鬼気迫る表情で怒鳴り散らし、布団を敷かせてぬえをそこに寝かせた。誰かが水を運んできたのとほぼ同時に、どこかに行っていた聖白蓮が帰ってきた。
「何事ですか?」
そう言って部屋に入ってきた白蓮も、ぬえの姿を見ると言葉を失った。他の者も皆同じような反応だった。無理もない。この半透明の姿からは死につながる衰弱を感じざるを得ない。
寺の中はひっくり返したような大騒ぎから一転して、冷静で覆われた焦りのような感情に包まれていた。ぬえは水を口に含ませると死んだように眠っていた状態から軽く呻いて苦々しい表情を浮かべた。意識はまだ戻っていない。半透明さが少し消え、先ほどより唇に血の気の色が戻ってきたような気もする。希望的観測かも知れないが。
特に何もできないまま、ぬえの横で座っていると白蓮が集まるようにと声をかけてきた。ぬえをこのままにしておくのも後ろ髪引かれる想いだったが、門下の者が面倒を見るというのでひとまず招集に応じることにした。
いつも重要な問題を話し合う時は決まって主要な門下のみを集めて一つの部屋に集まる。その部屋の戸をあけるとそこに居たのは毘沙門天の代理とそのお目付け役の鼠、入道使いの尼僧、舟幽霊、そして聖白蓮であった。空いている座布団が一枚あったのでそこに座った。空気は張り詰めて沈んでいる。
「全員揃いましたね。御存知の通り、どういうわけか『ぬえ』が不可思議な状態に陥っています。それに関して、まず私の心当たりを皆に伝えておきましょう」白蓮が口火を切った。「私は先ほどまで人里に赴いていました。諸用を済ませた帰りに通りがかった出店、今夜の祭りの屋台ですが、そこでぬえの話をしている者がいました。少々気になったので話を聞いてみると、どうやら『ぬえの正体がわかった』とか云うことでした。それが里中に広まっている、とも。その正体はいつものようにキメラだとかトラツグミだとか、個人によってまちまちなものでなく一つの固定的なもので……」
そこまで言うと白蓮は懐から写真を一枚取り出した。
「どうやらこの動物が正体なのだろうという噂が広まったらしいのです」
白蓮は取り出した写真を全員に表が見えるように持った。そこに映っていたのは、人々を恐怖させる大妖怪『鵺』の恐ろしい姿でも、寺の者たちがよく知っている少女の『ぬえ』でもなく、愛くるしい、狸に似た動物だった。
「レッサーパンダと云う動物だそうです」
ぬえの正体が恐怖を微塵も感じさせない、むしろ予想とは正反対の物として広まっていることにミスマッチを感じながら全員が黙り込んでしまった。緊張感が奇妙に揺らいでしまった。
「これが今回の『ぬえ』の――病状としておきましょうか。病状の原因だと考える理由の一つは、この噂が広まり始めたのが一週間と少し前であること。これはぬえの姿を見なくなった時期と重なります。もう一つは憶測になりますが、噂として広まっているこの状況は先の都市伝説異変と構造が非常に似ているという点です。都市伝説異変は未だに巫女が解決しきっていない。十分にその力が発揮されてしまう環境下に今の幻想郷はあると考えられます」
「ちょっといいですか?」一輪が手を挙げて白蓮を静止した。「今の話だとぬえが都市伝説異変の力に影響を受けてそのレッサーパンダとやらになってしまうと云う風に解釈したのですが、これは正しいですか?」
「私自身、確証はもてません。この場で憶測をあまり出すべきではないとは思いますが、あえて言えばぬえのあの姿を見てその程度の事態で済むとは考えていません。原因がもっと複合的に絡んであの病状を作り出していると感じています」
一輪の質問は核心を射ているし、白蓮の応答も後者が正しいと思った。
「……この寺に書物はないのか? ぬえに関して書かれているものは?」
「倉にあったと思いますよ。そういえば、あの子も以前自分で読んでいましたね……」
白蓮はそこまで言って口元に軽く手を当てて少し考えた。
「倉にある、あの子のことが書いてある書物をすべてここに持ってきてください」
今度は、はっきりとした重い発音だった。
一人ひとりがゆっくりと立ち上がり部屋から出ていった。倉の方へ進む足音が聞こえなくなった頃、無響な部屋の中には自分と白蓮しかいなかった。
「白蓮よ」
互いに目は合わせない。
「お主も全容は見えてきたのじゃろ?」
「……結論を出すにはいささか早計です。今は」
軽く睨みを効かせた目で白蓮の方を向いた。相手は下を向いたままだった。
足音が近づいてくる。
「今、あなたに話すべきでしょうか? 彼女たちにも話すべきでしょうか? 事態が悪転しないとも限らないのに」
返答に困っているうちに戸が開いた。白蓮との話はそこで終わりとなった。
部屋の中央に書物が積まれていった。
「随分早かったが、どうやって探したんじゃ?」
「ぬえが前自分で集めて読んだやつがそのまままとめておいてあったみたいです」
寅丸星が答えた。ムラサが置いた数冊を最後にして、全員が元いた席に戻った。
「マミゾウ」白蓮の声だ。「あなたの選択はこのまま賭けに出ることなのですか?」
「……考えもなしに賭けには出んよ。しかし、何もせずとも事態は悪化してゆく。賭けに出なければ終局は変わらんのじゃないか?」
周りのものが困惑のの目でこちらを見ている中、白蓮と自分はまっすぐに視線を捉えあわせていた。目を逸らしたのは相手側。ふう、と大きなため息を着いた。
「分かりました。協力しましょう」
白蓮が墨を硯に溶かし、筆を添えて全員に回した。白紙の紙も中央に寄せられた。
「手分けしてこの中からぬえに関する記述を探し出してください。見つけたらこの紙にその部分だけ抜き出すように」
白蓮の声でひとり一冊ずつ本を手に取り、『ぬえ』の文字を目で追いはじめた。
時計回りに紙が回された。始めてからニ刻ほど経っただろうか。思っていたよりも早く作業は終わった。今はぬえに関する記述の抜き出しを各々で回し読みしているところである。最後に自分が読み終えた紙を集まっている輪の中央に置いた。
「まことに不思議なやつじゃのぅ……」
ため息とともに独り言のように呟いた。
腕を組み、気を引き締め、顔を上げて語りを始める。
「儂の見解を述べようか。ぬえの病はやつ自身の性質に原因がある。里に広まっている噂は引き金にすぎんものじゃ」
「性質って?」一輪だった。
「『正体不明』のことだろうね」投げるように言ったのは小さな賢将だった。ナズーリンも何か感づいたのだろう。
「……儂は病の原因までは理解したつもりじゃが、解決法はまだわからんのじゃ。じゃから、ここで皆の知恵を借りたいと思う。よいか?」
全員が無言で首を縦に振った。
記述を抜き出した紙をすべて自分の方に寄せ、その中から数枚を取り出した。
「まず『鵺』でいちばん有名な伝説といえば平家物語じゃろうな。概略は、夜な夜な近衛天皇を悩ませていた黒雲とともに現れる正体不明のモノノ怪を源頼政がまず矢で射抜き、次に手下のル猪早太が落ちてきたソレを取り押さえ9度太刀で切りつけて殺した』というものじゃな。その後そのモノノ怪を明かりで照らしてみると『頭は猿、躯は狸、尾は蛇、手足は虎』であった、と。仮にこれを『さるとらへび型のぬえ』としようか。『さるとらへび型』、つまり合成獣のようなモノノ怪として描かれている伝承は多く、外の世界には『鵺代』や『胴崎』、『羽平』、『尾平』と云う地名があるそうじゃ。これは『さるとらへび』の死体が降ってきたためこの名になったと言われておる。『さるとらへびは』完全に合成獣じゃし『鵺』としての共通項が多いから、おそらく同一のものとして捉えられておるのじゃろう。さらに、源平盛衰記では『頭は猿、躯は虎、尾は狐、手足は狸、鳴く声は鵺にぞ似たりける』とある。この源平盛衰記が里の噂に拍車をかけておるようじゃな」
白蓮が里から持ち帰った写真を手に取る。
「今回のレッサーパンダ説は白蓮の資料によると外の世界の新学説が元になっておる。『尾は狐』の部分からレッサーパンダ説が生まれた、とここまでがぬえの『姿』に関する話じゃ」
「この話と『ぬえ』があんな状態になったこと、どう関係するんですか?」寅丸星は前に身を乗り出して言った。
「うむ。この話をするのはちと気が重いんじゃがな……。妖怪とは『認識』を元にした『現象』にすぎない、そういった側面がある。これは理解できるか? 例えば儂の尾は佐渡にいた頃に『尾の大きな狸』と記録されてからどんどん大きくなったものじゃ。先の都市伝説異変にも噂が先で後に妖怪が生まれるという構造をとったものがいくつかある。学校の怪談は噂によって銅像やピアノが付喪神化したもの、番町皿屋敷のお菊という亡霊は怪談による創作で決定的なオカルトに変化したものじゃ。妖怪という存在はその出自や容姿が曖昧じゃから、『誰かの認識』に頼ることによってその存在を固定的なものとして活動するのじゃ。逆に、今回のようにその『認識』に疑問が挟まれば、姿形は疑問と同様にゆらぎを起こす。『ぬえ』の存在は今、キマイラのような『正体不明』とレッサーパンダという怪異の部分が欠落した『実在体』の狭間に沈んで居るのじゃろう。ヤツはどちら側にも立てず、矛盾によって消失へと向かっている。これが儂の見立てじゃ」
「でも私たちは『ぬえ』をあの不思議な翼を持った妖怪として認識しているはずですよね。姿はそれだけでは保てないのですか?」
ムラサは手を膝の上に軽く乗せた状態で綺麗な発音で言った。
「この寺の中で、ということならその通りじゃろう。儂が森のなかでぬえを見つけた時は気絶と云った感じじゃたが、寺に担ぎ込んだ時は昏睡と云った感じになった。ここにおることで幾許か症状が和らぐのは間違いない。しかし、里の人間たちの影響をいつ受けるとも限らんし、早急に回復したほうが良いことに変わりはないと思うておる」
そこまで言い終わると天井を仰いだ。どこまでこの話を続ければ良いのだろうかと思った。夜の帳は降りている。里ではもう祭りが始まっているだろう。ぬえがこんな状態でなければ今頃そこにいたのである。きっと、りんご飴をかじりながら笑顔をこちらに向ける『ぬえ』が自分の隣にいたのである。今、自分は畳の上に座っている。解決策を見いだせないまま、事象の説明を垂れているだけで何が変わるのだろうか。
「私に案があります」
白蓮はいつになく強い目で世界を見ていた。
「あの子に名前を与える、というのはどうでしょうか?」
その言葉の衝撃はまさに刹那的だった。考えもしなかった、そういう驚きを何か奇妙な感覚が打ち消した。口を開きかけて、やめた。何か喉の奥で小骨が支えているような違和感を拭いきれなかった。
「なぜ、名前を与えることでぬえの病が回復すると思ったんじゃ?」
「そもそも種族としての『鵺』という名前と同じ音を持っているがために里の噂に過剰に影響された、これが根本的な原因ではありませんか?」
「ふむ……」
そういうことか。自分は再び筆を取って思い当たる文字を三つ書いた。
「夜に鳥と書いた『鵺』。これが正体不明の妖怪と呼ばれていれるものに多く当てられる字じゃ。次に空に鳥と書く『鵼』。これは怪鳥を意味する。そしてひらがなの『ぬえ』。これが儂らの知っとるぬえを表すが、口伝えではこの三つに差はないし、文字化されてもよく混同される。これが過剰影響の原因だ、と?」
「それも一つの原因だと思います。なるほど、そういう考え方もありますね。私が言いたいのは、例えば天狗なら射命丸だとか姫海棠だとか、個人を識別するための名前を持っています。この場合天狗は酒飲みだという性質だとかはある程度共通しますが、そのなかでも下戸がいるとか、新聞を作るのがうまいとか、そういった個性は保護されています。あの子は正体不明の妖怪『鵺』の影響を全身で受けすぎている。新たな名前を与えて『鵺』という妖怪から遠ざければ影響もなくなる。そういう考えです。
矛盾はない。この案で十分やつを救えると思う。理性はそう言っているが、勘だけが歯止めをかけてくる。
視線を下に向けた。真新しい畳の目地は隙間なく編まれていた。だが、よく見れば何かのホコリが隙間に入り込んでいるのが分かる。
違和感の、正体は何か?
「聞くが、やつにどんな名前をつけるつもりじゃ?」
「そうですね、再び影響を受けることのないようにぬえとは一見関係のないような――仏様から何か名前をいただきましょうか」
「そこじゃな」
少々食い気味に言った。
「やつはもともと正体不明を依代とした、『鵺』という怪異によって存在してきたわけじゃろう? 新たな名前を与え、正体を明らかにし、存在を一限に固定した妖怪はもはや正体不明でなくなる。いざ名前を与えて正体不明の枷を外した時に、『ぬえ』という妖怪はどうなるかわからん。新たな妖怪として定義されたヤツは、『ぬえ』足り得るのか……。もし奴が『ぬえ』でなくなったなら、奴はそもそも存在できるのか……。そこに儂は引っかかっておったんじゃ」
「いいかげんにしてください!」
叫んだのは虎、毘沙門天の代理。獣としての本性か、今にも飛びかかってきそうな殺気を放っていた。横の鼠が止めていなければ今頃自分は組み伏せられていただろう。見開かれた目から、同じ獣として最大限の恐怖を感じた。
「さっきから黙って聞いていれば机上の空論ばかりを並べ立てて! あんたは何か、自分の思い通りに場を制御しようとしているように見える。私は聖様のお考えで十分『ぬえ』を救うことができると思った。何を待っているか知らないが、もうたくさんだ! そこまでして最悪の可能性を考えたいか!」
「星!」
空気を切り裂くような声。上気していた空気は一瞬で去った。声を上げた聖は誰かを睨みつけるでもなく、目を閉じて深く息を吸っていた。
「マミゾウの云うことに私は思い当たるところがあります。最悪の可能性を考えなければ、その最悪に陥った時に害を被るのは私たちではなく、あの子です。慎重な気持ちになるのはわかってあげてください」
虎は複雑な表情を浮かべて、白蓮のことを見ていた。一度白蓮の言葉を飲み込むように理解して、その後は下を向いた。
飼い主に牙を折られた獣のような姿を見て、少し悪いことをしたなと思った。
「ここまでの話をまとめましょうか」
白蓮はもう冷静だった。
「名前が『ぬえ』という妖怪の種族を表す言葉と同じ音であったがために、里の噂は正体はレッサーパンダ説に過剰に影響を受けてしまった。しかし改名はそもそもの存在否定に繋がりかねないから避けるべきである、と。しかし、このまま行けば自然消滅する可能性もあり早急に手を打つべき。言い換えれば、『ぬえ』の『正体不明さ』を取り除かずに正体がレッサーパンダだという説を認識から消し去れば良い。私の言っていること、合ってますか?」
誰も特に答えなかったが、首だけは縦に動いていた。
問題は洗い出された。だが、やはり解答は見えてこない。
「もう一度、皆でこれを読んでみませんか?」
一輪はそう言った。
指をさされていたコレこと、ぬえに関する記述の抜き出しが書かれた紙を中央に置き直した。
「平家物語はもう使えないじゃろう。あれは完全にレッサーパンダに塗り替えられてしまった。源平盛衰記などもってのほか。『ぬえ』はこういう昔の文献の記述によって正体不明さを獲得しておった。レッサーパンダが塗り替えたのが平家物語の文中の正体ならば、別の文中の正体不明さを流布すれば良さそうなんじゃがな……」
また諦めて手を組んで下を向いて考えようとしたときだった。
「なら、これはどうでしょう?」
ムラサは一枚だけ紙を持っていた。
そこには――
ほの暗い水の底すら笑えるほど暗い暗い世界の底。躯だけはどこまでも落ちていけるような気がしていた。もう天地もわからない。
自分は長い夢を見ていた気がする。
自分は平安の頃森に住み、夜になるとわざわざ天皇の寝ているところまで飛んで行って鳴いた。その時はわけの分からないやつに矢で射抜かれ、その後何度も切りつけられた。手足も躯も頭も、すべて別の動物だった正体不明。
そんな夢。
いや、その頃から少女の姿で、正体不明の種を適当にくっつけた動物を人間が恐怖しているのを遠くから眺めているだけだった気もする。
そんな夢。
いやいや、躯はほとんどが鳥で、怪鳥として恐れられていたじゃないか。矢で射抜かれた後、東に飛んだがそこで躯はバラバラになった。
そんな夢。
違う、私は母で、息子の処遇が不憫なのを嘆いて池の竜神に頼んで怪鳥になったんだ。結局、息子は昇進したからよかったか。
そんな夢。
これも違う。私はただのレッサーパンダ。少し大きかったから、妖怪と勘違いされただけ。その程度の存在。
そんな夢。
赤青の翼を持って、少女の姿をして、誰か仲間が居て、そいつらと一緒に笑って楽しく過ごしていた。
そんな夢。
そんな夢?
どうだったかな……。
私は鏡を持っていない。
誰かからそうだと言われれば、そうだと信じることしかできない。
洞窟の影が真実。そう思うしかないのだ。
"……ぬえ"
誰?
私を呼ぶのは誰?
肩を軽く揺すった。
少女は初めてこの世界を見るように、ゆっくりとまぶたを上げた。こんなに間近で見るのも久しぶりな気がする。長いまつげと純粋な目にひきこまれそうになっていた。
「ぬえ」
呼びかけでようやく焦点が定まった。
「マミゾウ……?」
「そうじゃ。大丈夫か?」
少女は少し考えたかと思うと、突然口元を引きつらせながら笑った。
「ねえ、私さっきまで夢を見てたみたいなんだ。昔のこと。今のこと。自分の正体が何だったのか、それがわからないの」
「……一つだけ、聞かせてくれんか?」
少女は自分の次の言葉を待つように虚ろな瞳をこちらへ向けていた。
「お前、前に『平家物語の鵺の正体は正体不明の種で、自分は遠くから眺めていただけ』と言ったな。なら、お前はその時その場に今の姿のまま存在していた。違うか?」
少女は首を傾けて目を逸らした。
「どうだったんだろうね。その記憶だって、私の夢が作り出したものかも知れないもの」
「記憶があるのか無いのか聞いておるんじゃ」
「あるよ。確かにある。でも記憶自体が不確か。正体不明の鵺の正体なんて存在しないのよ」
背筋が凍り付いた。その先を聞くのが怖い。言い知れぬ恐怖。何の恐怖だ。
恐怖の正体は、不明。
「……どういう意味じゃ?」
「前に自分のこと調べたときからずっと思ってたの。どうしてこんなにも伝承が多いのか、って。でもさ、全部が真実で、文献はその断片の集合体だとしたら?」
自分は言葉を失っていた。少女の微笑みが悪魔のように見える。手に、額に、背筋に、汗が焦らすように零れていった。
「源頼政は功績を讃えられることなく不遇の人生を送っていた。そこに天皇直々に妖怪退治の頼みが入るなんて妙じゃないかしら? そんなに都合のいい話はなくて、頼政は自力で地位向上を目指して策を練った。そこで出てきたのが妖怪退治。頼政は二度『ぬえ』を射抜いたのは知ってる? 二度目にぬえが現れた時に、黒雲の中のぬえの位置を探るために放ったのが鏑矢。鏑矢とは笛のような不思議な音を出して飛んでいく矢。そしてぬえの、鵺鳥の、トラツグミの鳴き声も笛のような不気味な音。これでわかるでしょ、天皇が夜な夜な恐れていた鳴き声は頼政によって作為的に生み出されたものだったということよ」
やめろ、と言うべきなのだろう。しかし声は出なかった。体だけが怒っている。手は自分の太ももを強く握りしめていた。
「赤蔵ヶ池の頼政の母がぬえになったという伝承も、『正体不明』のぬえにしては毛色の違う話よね。あれはぬえが頼政の功績になるために生み出されたという断片と息子思いの頼政の母の伝説が組み合わさってできたものにすぎないんじゃなくて? 四国には頼政の母の優しさがあっても、当の舞台の平安京にはぬえが生み出された妖怪であるということしか残らない」
そんなことまで考えているとは思いもしなかった。薄暗い部屋の中で、自分と少女以外には誰もいない。誰も助けには来ない。それでも自分は動けなかった。なぜこいつを助けてやれない?
「あの夜の全容は、まず頼政が夜な夜な鏑矢を放って怪鳥が存在すると天皇に思い込ませ、そこに自分が妖怪退治を買って出ることから始まったのよ。部下に猪早太しかつけなかったのは、信頼できる部下以外をつけて計画が露呈することを恐れたため。黒雲は煙か何かじゃないかしら。ともかく、そこに頼政は矢を放てばよかった。矢を放ったのを確認した猪早田は誰よりも早く妖怪が落ちた場所に駆け寄るふりをして、誰にもバレないように猿や虎や蛇の死体をくっつけた自作の合成獣を置いた。九度も太刀で切りつけたのはその接合部分を隠すため。あとは誰かに確認してもらえば、頼政が合成獣を射落として退治したようにみえる。頼政がその夜から鏑矢を放たなければ、怪異は去ったと天皇は思い込む。これで頼政は昇格、すべてうまくいったというわけよ」
歯を固く噛みしめた。相変わらず少女は苦痛に満ちた笑顔を浮かべていた。左手で自分の目のあたりを抑えて苦し紛れに言葉を発す。
「……それでお主はその頼政の狂言から生まれた妖怪にすぎない、と。そう思っておるわけじゃな? 正体不明の妖怪の正体は空っぽの嘘じゃと。ならば問うが、今儂の前にいるお前は誰だ?」
「だから、頼政の創り出した幻影よ」
「本気でそう言っておるのか?」
「どうかな。もう自分でもわからないもの……。何が真実か、なんて私にはわからない。もう消えてしまってもいいような気もする――」
我慢の限界だった。自分の右手が『ぬえ』の胸ぐらをつかんで無理やり引き起こした。顔を近づけてたまった怒りに任せて二つの目を睨みつけ、張り裂けんばかりの声で叫ぶ。
「消えてしまっても良い? ふざけるな! 白蓮もムラサも星もナズーリンも一輪も、そして儂も、お前と共に過ごして共に笑いたい、その一心でいま各々努力を尽くしておるんじゃぞ! 自分が勝手に消えたいと思うのはいいが、それを望まない者たちが、お前のことを思うておる者たちがいるんじゃぞ? そいつらを残して勝手に死のうなんざそれこそ都合が良すぎやせんか? さっきの話は強引すぎる。お前さんはここにおる。その事実は疑いようがない。たとえ幻想であろうとも、ここで過ごした記憶はお前さんのものに違いないはずじゃ。違うか!」
『ぬえ』のただ唖然としていた顔に微かな力が篭った。
自分の手をぬえが力なく掴んできた。胸ぐらを掴んでいた手を緩めると、倒れ込むようにぬえは頭を寄せてきた。
「私だって、皆と一緒にいたいよ。消えたくないよ……」
「そうか……」
顔を見なくてもわかる。掠れた、息も絶え絶えなか細い声が、小刻みに震える体が、ぬえの感情の機微をすべて伝えていた。
「ぬえよ」左手で腰を、右手で頭を抱き寄せた。「夏祭りに行こうか」
「無理だよ。こんな体じゃ行けやしない」
「いや、行くんじゃ。皆が準備しておるからの。ほら、お前さんも着替えんとな」
里は乱痴気騒ぎ、とまではいかないが夜にしては賑わっていた。
「よう、霊夢」
「なーんだ、魔理沙か」
声をかけてきたのが魔理沙であることと、着ている服がアサガオを模した浴衣であることと、綿菓子を持っていることを確認してから動かした視線だけをもとに戻した。
「どうした? やけにご機嫌斜めだが」
「どうもこうもないわよ。夏祭りは神社でやればお賽銭も場所代も入るけど里でやるとね……。しかも万が一の監視役ってことで呼ばれてるからには派手に騒げないし」
「去年の祭りの帰りに妖怪に襲われた人間が出たんだから仕方ないだろうな。ま、それ以前にお前のところの祭りは妖怪しかいなかったが」
魔理沙の言葉を無視して屋台の並ぶ通りをぼうっと見つめる。妖怪も混ざって楽しそうにしている。被害が出るまで仕事をする気も出ない。
「食うか?」
視界を遮る綿菓子。無言でかじりついた。
「あ、お前! ……節操のないやつだな」
「前に出すやつが悪い」
そう言って不服そうな魔理沙を一蹴した。綿菓子はいつも、材料の砂糖の量を見るとぼったくりではないかと思う。白い雲のようなその大きさとは裏腹に、十数粒砂糖しか入っていないのだ。口の中で小さくなった甘いかけらをしばらく舌で転がした。
後ろを流れる川の音の静けさと正面の祭りの喧騒が奇妙な双極をなしていた。もういっそのこと事件でも起きればいいのに。
「あれ、霊夢さんじゃないですか? 魔理沙さんも」
向こうから手を振って走ってきたのは小鈴ちゃんだった。走ってくる小鈴と違ってゆったりと歩いているが、阿求の姿も見えた。なんとなく面倒事が増えるような気がしてため息が出た。
「霊夢さんもいらしてたんですね」
「仕事として、だけどね」
阿求がようやく到着した。小鈴は普段なら絶対に買わないような小品をたくさん持っていた。たぶん出店で取ったものだろう。随分とお楽しみのようである。
「そろそろ花火の上がる時間ですよ」
「花火もするの? それは知らなかったわ」
空を見上げたが、星もまばらな真っ暗さ。夜はこの程度のものだと思った。
出店にいた人たちが川岸に集まってくるところを見ると、どうやら川の向こう側で花火を上げるらしい。自分もこのときくらいは、と思って川の方を向いた。
程なくして一発目の花火。菊のような形の、よくあるものだった。空が一瞬閃光して、音だけが遅れてくる。
「太古の人間が火を見て文明を感じたのと同じ気分だわ」
阿求は意味不明なことを言った。きっと、祭りの浮ついた気に当てられてネジが緩んでいるからに違いない。
二発目、三発目と次々に花火が上がった。そのたびに暗闇は照らされ、前の花火の白煙が浮かび上がる。はずだった。
何発目からか、空に黒煙が混ざり始めていた。
懐中のお札を確認する。
さて、何が始まるか。
三十発を過ぎた頃、黒煙は黒雲と言うのが適当なほど濃くなっていた。何人か気づき始めたものが出てきた。後ろから会話が聞こえてくる。
「何だあの黒い雲は?」
「ん? 黒雲と言ったらあの『鵺』だろうな」
「正体がレッサーパンダだったっていうあの? だとしたらいちどこの目で拝んでみてえな」
そういう笑い話。確かに最近『鵺』の話題が里にあふれていた。それと関係があるのだろうか。
そろそろ確認に行くべきか……。
「ちょっと行ってくるから、ここにいてね。魔理沙はこっちよろしく」
振り返ってそう言った。おう、と答えた魔理沙。
冷静に頷いた阿求。
空よりももっと下の方に視線を向けて何かに怯えている小鈴。
「小鈴ちゃん?」
呼びかけに返答はなく、震える指が川の上流を指していた。
「何よアレ……」
上流から、舟が一隻ゆっくりと下ってくる。船頭と、もう一つ。
アレは何か。
しっかりと認識できない。
ともかく、お札を取り出して構える。舟は止まることなくゆっくりと流れてくる。動き出そうとしたその時だった。
「すまんな」後ろから肩を掴まれた。「お前さんがここにいるとちと都合が悪いんじゃ」
視界が奪われ、一瞬の浮遊感。
地に足がついたような感覚を再び得たときにはどことも知れない森のなかにいた。
自分をあの場から引き離した犯人は未だ目の前にいた。
「どういうことか、説明くらいあるんでしょうね?」
佐渡出身の化け狸は不敵な笑みを浮かべていた。
霊夢は一瞬で姿を消した。背後に立っていた奴には心当たりがある。が、今は一般人の安全を最優先すべきだろう。
「ほら、全員逃げろ! いや、寺子屋に集まれ!」
散り散りに逃げられては守るものも守れない。とにかくそう叫んだ。阿求と小鈴の手を取って自分も走り始めた。
「なんなんだアレは……」
「自分の亡霊なんて気味が悪いわ……」
阿求はそう口にした。
「なんだって? お前の亡霊?」
走るのをやめた。
「そうよ、阿礼から今までのが全部乗ってるなんて気味が悪い」
「お前にはそう見えたのか……」
私の目に見えたものと、違う。
「小鈴、お前は何に見えた?」
「……阿求の、死に装束」
「私の? 他の九人は?」
二人は顔を見合わせていた。
私が見たのは、どういうわけか血にまみれた霊夢の姿。目は、妖怪退治している時のあいつの恐ろしい目。きっとあれは、妖怪をxした時の……。
ともかく、寺子屋まで走るか……。
二人の手を取って再び走り出した。自分の位置より下流にいた人間も騒ぎに気づいて逃げ始めていた。
追い越していった男達の会話が聞こえた。
「あれはなんなんだよ!」
「知るか! あんなでかい蜘蛛……思い出すだけでもおぞましい」
「蜘蛛? 何言ってんだ、でかい蛇だったじゃねえか」
男達の会話は噛み合わないままだった。
近くにいた親子の会話。
「なんであんたがあんな舟に乗ってるように見えたのかねぇ」
「何言ってるの? 虎が乗ってたよ」
あの舟に乗っていた何かはなかなか一致しない。
見るものによって姿を変える。
正体不明の何か。
心当たりは十分にあるが、動機はよくわからなかった。
レッサーパンダだと思われていた『鵺』が再び正体不明の妖怪へと変化した。
『ぬえ』は、何が目的なのだろうか。
霊夢がどこかへ消えてしまった今、自分があれを退治しに行ったほうが良いのではないかと思った。
しかしそれも寺子屋に押し寄せた人々を見て、こいつらを守ることが最優先だと思い直した。
「で、あんたらは何が目的なのよ?」
お札をいつでも投げられるように構えていた。
狸は煙管に火をつけ、それをゆっくりと吸った。
「里で『鵺』の正体がレッサーパンダだという説が流れたじゃろう? その噂が『ぬえ』のやつに過剰な影響を与えておっての、その状態を解消しにきた」
「舟にその『ぬえ』を乗せて流すことで? 理解不能ね」
「妖怪、怪異としての『鵺』の伝承はレッサーパンダに概ね塗り替えられてしまった。そこに無理やり人間の認識を上書きしようとしても『あれはレッサーパンダなんだ』と嘲笑されて失敗するおそれがある。じゃから、死後の『鵺』を扱った能楽の鵺の演目を元にすることにしたんじゃ。僧に身の上を語った『鵺』の亡霊は最後に波の狭間に消えてゆく。そこに一手間、恐怖を加えてやったまでじゃ。人間の根源的な感情、恐怖で認識を塗り替えてしまえば、再び正体不明の妖怪『ぬえ』になることができる。そういう構造じゃよ」
「やけにおしゃべりね。私はあんたを片付けてとっととその『ぬえ』も退治しなきゃならないんだけど?」
「あいにく儂の目的は足止めなんじゃ。諦めてくれ」
マミゾウの木の葉が四方に飛んだ。森の影が一瞬揺らぐ。おそらく、幻術でも貼ったのだろう。
「なあ、今回は里の人間に直接的な危害を加えたわけでもないし、見逃してくれんかのう?」
「残念ね」一枚御札を投げた。「私が巫女でないか、あんたが妖怪でなければそうできたかもしれないけど、あいにくどちらでもない」
「お前さんも難儀じゃな」
投げた札は煙管に刺さって止まっていた。
狸は煙管を逆さまにして灰を落とした。
「楽園に縛られた巫女か。止められるとは思っておらんかったしの。いいぞ、かかってこい。どちらにせよ里の人間を恐怖の底に叩き落としたその責任は誰かが取らねばならんしの」
煙管が宙を舞った。ソレが地面に落ちたのが合図になった。
舟は水を割って進み続けている。
白装束を左前に着せられた時はどうなるかと思ったが、森で意識を失ったときよりずっと気分は良くなった。
「これ、『ぬえ』のお葬式なのよね?」
「間違っても三途の河まで行かないでよね。私はまだ生きてるみたいなんだから」
ムラサはクスリ、と少しだけ笑った。本物の幽霊である分、彼岸に近いのはムラサの方だと思った。そう見えるような微笑み方だった。
ムラサはいつもの水兵の服装ではなかった。ピンクの椿をあしらった白っぽい浴衣なのだ。なんとなく、その意味を考えていた。
ムラサは櫂を舟に置いた。もともと川の下りである。それでも舟は真っすぐ進んだ。
闇の波長が、舳先の波間で偏向し、静寂の中にうなりを作り出していた。
「私、『ぬえ』が消えちゃったらどうしようって、怖かったのよ」
そう言ってムラサは私の前で膝を折って腰のあたりに抱きついてきた。バランスを崩して舟の底に倒れ込む
「消えたら許さなかったわよ」
怒りを含めようとした声の裏側に安堵が混ざり合い不安定になる。
感情の激流がムラサを飲み込んでいた。
「ごめん。今は、もう、大丈夫だから。泣かないで。ね?」
ムラサの顔を見た。目の奥に怒りを。瞳の表に涙を。口元に笑みを。ムラサは感情の間に溺れていた。血の池のように。
私は、どうすべきなのだろうか。
激流はやがて溢れ出す。それが涙。凝縮された感情の結晶。
幽霊が故の白い肌に、水底より黒い瞳、生き物であることの証としての血より艶やかな口。私はよくムラサに流されてしまう。溺れてしまう。今も溺れかけている。
ムラサの頭に手を回し。顔をこちらへ引き寄せた。
耳元でささやく。
「ありがとう」
舟は進み続けている。
頬に、軽く口付けを。
舟は幽かに方向を変えた。
別に、その一瞬で何が変わったというわけではない。
今の私にできることは、ムラサのために消えないことくらいだった。
私にかかった呪いとも言うべき現象はもう終わったのだ。消えることはない。
あとは、抱きしめることくらいしかできないのだ。
舟は岸にゆっくりと乗り上げた。
「ムラサ、ちょっとだけ付き合ってくれるかな?」
まだ私は礼を言わなければならないのだ。
「マミゾウを迎えに行かないと」
ムラサの手を取って舟を降りた。事前の計画ならば私が気絶していた森の辺りにマミゾウは居るはずである。
森へ向かって歩く。
夜は深みを増して。
花火はもう上がっていない。
夜の深みは底へ。
やがて朝が来る。
森の木にもたれかかるようにしてマミゾウは座っていた。
「マミゾウ」
声をかけると驚いたように顔を上げた。少し眠っていたようである。
「おお、ぬえか。ムラサも。うまくいったようじゃな……」
マミゾウは何かに満足したような目をしていた。
「ほら、帰ろうよ。皆待ってるはずだから」
ムラサが左肩、私が右肩を支えてマミゾウを起き上がらせた。
外傷は大した事なさそうだった。
「巫女も多少は手加減してくれたようじゃがの……。流石にこたえる。帰ったら酒が飲みたいのぉ」
冗談を言えるほどには元気のようだ。
「ねえマミゾウ」
「なんじゃ?」
「一緒にお祭りに行くって約束、破ってゴメンね」
「そんなことか……。確かに、落とし前はつけてもらわんとな。実は祭りにムラサも付いてくる予定だったんじゃぞ? ムラサ、やっぱりその浴衣よく似合っておるな」
ムラサが嬉しそうに笑っているのがちょっとだけ見えた。本当に、よく似合っていると思う。
「ま、そういうわけじゃ。お前さんに皆振り回された。ちゃんと借りは返すんじゃぞ」
森を抜けた。寺までもう少しである。
「ぬえはりんご飴楽しみにしとったのに残念じゃったの」
そう言ってマミゾウは笑った。
むう、たしかに食べたかったけどね。
「いいよ、また来年でも」
道の奥から影が迫ってきた。里の人間かと思って警戒する。
その人間はこちらに近づいてきた。そして、私の前に立ち、りんご飴を目の高さに掲げた。私にあげる、というサインらしい。
りんご飴を受け取ると、人間は煙とともに姿を消した。
「え、どこ行ったの?」
「あら、下よ」
ムラサの言葉通り、下を向いた。そこにいたのは狸であった。
「持つべきものは優秀な部下、といったところかの?」
マミゾウは笑っていた。そう言えば部下によく報酬としてお金を渡していたし、買い物くらい造作も無いのだろう。
「ほれ、食べい」
りんご飴を一口かじる。赤い水晶が砕け、果肉の甘さが口の中を満たす。そう、コレが好きなのだ。でも、少し食べにくいから飴を舐めて溶かしてからまたかじろうか。
「儂は」マミゾウが私のりんご飴を奪った。「コレで十分じゃ」
私が「あ」と言っている間にりんご飴は一口かじられた。
どうして私が妙に恥ずかしくならないといけないのか……。
マミゾウはこういうことを平気でするからよくわからない。
返されたりんご飴をしかたなくまた舐めた。
最後にどうしようかと思っていた長い階段まで辿り着いた。この先をマミゾウを抱えてムラサと二人で登りきる自信はない。
「お疲れ様」
そう言って出てきたのは聖と星とナズーリンと一輪だった。聖は優しい笑顔でいた。
マミゾウを星に任せる。星は軽々しくマミゾウを背負った。
「さあ、帰りましょうか」
皆で、一段ずつ階段を上る。上りきれば、そこはお寺。私たちの場所。
「あの、みんな」
全員が足を止めて私の方を見た。
「その、ありがとう……」
もう、恥ずかしくて顔を上げていられなくなった。普段から悪行ばかり積んでいると、感謝の言葉もこっ恥ずかしくなる。
聖は顔を伏せている私の頭に手をおいて、強めの力でかき乱した。
「迷惑をかけたのは確かです。お礼を言えたのは良いことです。なにより、あなたが無事ならそれが一番良いことです。もう、いいんですよ。さ、帰りましょう」
私は、どうも恵まれているようだ。
石の階段を一歩上がる。
帰ろう。
ぬえちゃんレッサーパンダ説からこういった話ができるとは凄いです。
いきなりレイマリ出て来てびっくりしましたが、仲良さそうな描写が見れて満足です。
来年も氏の作品を楽しみにしてます。
ぬえの載る文献にも興味が沸いた
良い感じ
気弱になっているぬえをマミゾウが叱り飛ばすシーンが特に良かったです
大事に想っているのが伝わって来るようでした
面白かったです