夢の中でまた逢いましょう
一.午睡と夢魔
最近悪夢を見るようになってしまった。
それはきんきんと凍てつく空気がまだまだ満ちる、年を越して数日も経っていない頃のことである。私は、けれど悪夢に魘される日々を送りつつもいつものように門番としての業務を遂行しつつ、昼食後にやってくる睡魔に抵抗せず門柱に寄りかかって午睡に耽っていた。
その日は空は雲一つなく、けれど昨日振り積もった雪は未だ溶けず、一面の銀世界は太陽の光をきらきらと反射して雪焼けの心配させた。下手すれば凍死するかもしれないという厳冬の晴れ空の下でも、しかし私にとってはなんてことはなく、体内の気を使い体温を一定に保っていた(ただしこれは栄養消費を加速させるので、それを抑える意味での厚着は欠かせない)。
もこもことした防寒着、下がることの無い体温、咲夜さんがくれたマフラーと手袋、ニット帽で包まれると、これが思いの外ベッドの中のような感覚を想起させて、私に心地良い睡眠を提供してくれていた。
だが、そんな時間をぶち壊すように、その悪夢は私の前に再びやってきた。さすがに昼間には現れないだろうと思っていたのに。
「そう睨まないでよ。もう四回目なんですから、美鈴」
私にそう言ったのは、もう時期も過ぎたサンタクロースみたいなナイトキャップに、白と黒と球体飾りの付いたなんとも不可思議な服装を身に纏う少女である。
名を《ドレミー・スイート》。彼女はそう名乗っていた。
二.星宙の中の茶会
気付くと私は座っている。いつもの服、いつもの姿で、雲のように真っ白にペンキで染められた木製の椅子に。目の前には同じように白く染められた丸い木製テーブルと温かいクリーム色のクロスがある。毎回そうなのだ。夢の中で目が覚めると(変な表現だが)こんな小洒落たカフェテーブルに着いていて、目の前にはあの青髪の女がにやにやとしている。
そのカフェは宇宙の中にあった。前にでこぼこのある無機質で大きな月、背に青、緑、白で構築された巨大な地球が見える。どちらも写真で見たものとそっくりそのままで、それらはまるで本物のようにじわじわと回転していた。地球の、遠くの影になった部分には、人間たちによる生活の光が網目のように張り巡らされている様が見て取れる。周りの宙には煌めく星々が一面にまるで零れた宝石のように散りばめられており、大小様々な金剛石、青玉、黄玉、紫水晶といった色鮮やかな宝石が、光のない暗黒のキャンバスに描かれた月と地球という絵画を見事な芸術品へと仕上げていた。本当に地球と月の間にあるようなその場所は、プラネタリウムというには些か星の煌めきが澄み、けれど実際の宇宙空間かと言うと、地上に似て重力を感じているのでそれはない、かなり摩訶不思議な空間であった。
「重力を肌で感じるのは、貴女が地上にいる証拠。重力は物理だけではなく、心にも作用するのだから」
そんなことを一番最初にドレミーが言っていた。彼女は今、磨き抜かれたポットから、湯気の立つ深く黒いコーヒーを汚れの無い白いセラミックのマグカップへと注いでいた。前回は緑茶を点て、その前は中国の工芸茶、そして一番最初は紅茶だった。これまで毎回一時間ほど、私は彼女とお茶をしている。
ドレミーは淹れたコーヒーを私の前、置かれたソーサーの上にことりと置いた。
「コーヒー、飲めるよね?」
「……知ってるくせに」
ドレミー・スイートは夢を見る。他人の夢を、だ。それはどんな秘密をも暴く力に似ているだろう。夢を他人に覗かれるとは、誰も思っていないのだから。
私は不機嫌な眉をそのままに、差し出されたコーヒーの香りを嗅いだ。香ばしい、独特で、一気に脳まで到達するようなな秘められたカフェインを思わせるあの匂いが鼻孔をくすぐり、抱いていた不満を少しばかり解きほぐした。
一口、口を湿らす程度に舐めて、私はようやく笑った。シニカルに、いやむしろヘイトフルに。
「夢の怪異が眠気覚ましのコーヒーを出すなんてね。よほど私を夢の世界に捕えておきたいの?」
「あら、そんな皮肉は考えていなかったわ」
ドレミーはふふと息を漏らし、緩く握った手を口に添えて静かに笑った。その仕草が私の苛立ちを静めていく。毒気を抜いてくる。どうしてか、私は静まっていく感情を不思議がりつつも、それを抑えられないでいた。そしてそれにさえ苛立ちを覚えなかった。きっと夢の世界で、目の前の少女が何かしているに違いないと思った。
「……それで、今日はどんな話をすればいいのかしら?」
私がそう訊ねると、ドレミーはそうねぇと零しながら机に肘をついた。気だるげで、いっそ呆れさえ含んでいるような雰囲気があったが、それでも彼女の眠たげな瞳には、何か秘められた意志があることを私は感じていた。
「まだ思い出せないの? 昔の記憶」
「思い出せないですねぇ」
私はいつも通り、朗らかに微笑んでコーヒーを飲んだ。けれども心の中では、彼女に対する明確な不満がまた募り始めていた。
三.記憶の夢
私は記憶喪失である――と言って信じてくれる者は、恐らくこの世界でも数えるくらいしかいないだろう。今思いつく限りでは仕える主、レミリア・スカーレット。その妹君フランドール・スカーレット。そして私の旧知を名乗った眼前の少女、ドレミー・スイートくらいだった。
これまでの茶会で、ドレミーはずっと私の過去について聞きたがっていた。どうやら旧知といってもほんの少しだけ知り合っていたというだけで、彼女自身私がどう生きていたのかは知らなかったらしい。そして私が記憶喪失だと告げると、彼女は順々に私の来歴を聞きだし始めた。そうして記憶を遡らせて、私の失われた部分を引っ張り上げようとしているのだ。
だがドレミー・スイートと出会い、共に過去を掘り出す作業は、私に強烈な忌避感と恐怖心を生み出した。これまで何とも思ってはいなかったのに、旧知という、私の昔を知る存在に出会うことで、正解へと導くことのできる存在の登場で、私の中でそれらが明示化されたらしかった。
恥ずかしさからか、怖れからか、それは分からないが、とにかく今、私は忘れるほど秘密にしたいらしい過去を探られているのだった。
だからこれは、私にとって悪夢なのだ。嫌な夢なのだ。
「そもそも私は貴女と本当に知り合いだったの? 確かに獏は中華の瑞獣で、貴女という存在は昔からいたとしても、だからって私と貴女じゃ、住む世界が違うでしょうに」
「夢は、意識ある者なら誰でも生まれます。それは意識の中に夢魂があるから。だから私と貴女は繋がっていたんですよ」
ドレミーは相変わらず笑みを崩さない。その表情と、彼女の眠たげな瞳には底の知れなさがあって私の心をささくれ立たせる。なんだかおちょくられているようで、面白くない。
「まぁ、それはそうなんだろうけど……じゃあ夢の世界ってのは、貴女一人が管理してるの?」
「いいえ。獏は他にももっといますよ。それぞれが夢の世界で、己の規律に従って、夢を管理していますけれどね」
「あー、思い出した……昔知り合いだった獏もそんなこと言ってた気がする」
「それは私ではないの?」
「違うと思う。三〇〇年くらい前の話だから」
それは、割と最近である。記憶喪失と言っても五〇〇年くらい前の記憶はまだ残っているのだ。肝心なのはそれ以前であり、ドレミー・スイートが知りたがっている記憶はその中の初期の部分にあるという。大体四〇〇〇年くらい前の話らしい。
その頃から生きているということは、実は私はかなり曖昧だが一応自覚していた。しかしどだい無理な話であろう。そもそも記憶喪失じゃなかったとしても、覚えているかも怪しいぐらいの過去だ。何をしていたかさえも、覚えていないのではないだろうか。
単純に記憶喪失とさっきは表現したが、少し事情は複雑だ。恐らく五〇〇年前に何かがあって私は記憶を喪失したが、妖怪としての幸からかそれが今でも微かにそれが零れてくる、それが私の現状であった。
「貴女と私が親友とかそういう深い仲だったら、まだ違ったのかもねぇ」
その言葉にドレミーは苦笑する。さすがにそんな物でもなかったか、と私も釣られて苦笑した。その笑いには馬鹿馬鹿しい話をして笑われたことを恥じ、それを隠す意味合いもあった。
「どちらかというと私は貴女に嫌われていたと思います」
彼女の言葉に意表を突かれてしまい、私は眉を上げて驚く。
「そうなの? 意外ね、貴女とは気が合いそうだと思ったけど」
どこかのんびりした所とか、同郷なところとかが、ちょっとした共通項で、最初はそう思っていた。無論、毎回のように〝嫌がらせ〟をする彼女に対して、私はもう気が合うとは思えなかったが。
「昔の貴女は、今とはちょっと違う雰囲気を持っていたからね」
ぴくりと、そこで私は強張ってしまう。それは単なる知的な好奇心ではなく、その言葉が私の心の中の、忌避すべき危険な部分に触れた、その反射だった。
昔の私を想像すること――そう思うだけで、心の中に一陣の薄ら寒い風が吹く。知りたくないという子供の我儘にも似た不格好な感情が、ぶくぶくと膨らんで私の中を埋め尽くし、胸を裂いて飛び出しそうになる。
「……へぇ、どんなんだったの?」
でも、そんな言葉が出てしまった。これは会話が止まってしまう、気まずくなってしまう、会話を続けようという私の良心から出てしまった言葉だった。そしてその裏で、この会話が進めば、もしかしたらもうこの悪夢を見ずに済むかもしれないという、迂闊な期待が潜んでいた。
言った瞬間につくづく後悔してしまう。そして止めろという言葉が喉に詰まる。嫌悪と期待の間で、私は息と胸を詰まらせる。
「貴女は眠らなかったから。だから夢を見ず、それでいていつも怒っているようで、とても悲しそうでしたよ」
それを聞いた途端私の中で、何か不愉快で粘着質な心的物質が零れ、脳の中心に滲み込んでそこが痺れた気がした。私の恐怖が怒りを伴って揺らめく炎のように沸き上がった。そしてそれと同時に何かとてつもない悲しみを私は思い出した。その感情が重圧となって心に圧し掛かり、私の目頭はじわりと熱くなっていた。
「う……」
呻いて、私は慌てて俯き目を覆い、涙を袖で拭う。今日はいつにも増して感情の高ぶりが激しい。体内の気が乱れているので、呼吸でそれを整える。動揺や不安といった精神的な衝撃が、やがて私の中で静かになりを潜めていくまで、けれどドレミーはずっと穏やかに微笑んでいた。その微笑は、まるで私の中の秘密に触れてやったぞと言わんばかりの得意げな笑みに見えて、私を苛立たせた。
「大丈夫ですか」
しばらくしてからそう言って、彼女は私に手拭いを差し出してくる。淡いライムグリーンの、どこか爽やかな、滑らかで細やかな刺繍の入ったハンカチだった。無碍にも出来ずそれを取ろうとすると、辺りの景色が変わっている事に気付いた。一面の銀河が、今や雪山のロッジの中のようになってしまっている。目の前のテーブルも掛けていた椅子も、まっさらな白色から暗い茶色へ。部屋を暖めるレンガの暖炉には橙色の優しげな火の明かりが灯っており、ぱちぱちと燃料の爆ぜる音をまるで楽器のように静かに響かせていた。屋内で目立つ光はそれだけで、後は丸い窓から入る月光が、影の中で道か柱のように差していた。窓の外は変わらず宇宙であったが、どこか寒い空気が私の肌を刺し、暖炉の暖かさがそれを打ち消していく。
熊皮の敷物、膝掛けの掛かった暗い色のロッキングチェア、立て掛けられた狩猟道具、小さな本棚に詰まった書籍、書き物机におかれた書きかけの手紙、編みかけのマフラー……軽く見回るだけでむせ返るような生活の匂いがある。原始的で、でも知性も感じさせる人間の営みの気配だ。それは私をことのほか安心させる。人間という存在の温もりを思い出させる。するとまた、私の中でその悲しみが膨らんで苦しくなった。
私はしばらく、そんな世界の中で、嗚咽を堪えていた。
四.逆鱗
ドレミーがまたコーヒーを淹れてくれた。今度はポットからの出来ていたコーヒーではなく、暗い銀色の金属製ドリッパーと薄茶色のペーパーフィルターに挽いた豆とお湯を注いで抽出したもの。手を変え品を変え、獏は私を誘惑してくる。
「落ち着きましたか」
落ち着いたからこそコーヒーを入れたのだろうに。私は言葉を発さずに頷くだけだった。ことり、と静かに置かれたコーヒーの香りは、先ほどとは違う物になっている。鼻にこびりつくことなく、それは私を落ち着かせて、意識の沈静と覚醒を促してくる。本当に芸が細かい妖怪だ。
「何か、嫌な物でも思い出しましたか」
聞かないでくれと言いたかったが、言えなかった。そんな気力が、もう私の中で全く湧いてこなかった。私は自分がどうなってしまったのか分からず、そんな疑問も追究するほどの元気も無くなって、ただドレミーの言葉に曖昧ながらも頷くしかなかった。頷く方が、否定するより煩わしさがないとなんとなく思ってしまった。
「残念ながら、その苦しみを私は食べる事が出来ません。それは悪夢ではないのだから。貴女の、現実の記憶なのですから」
分かっている。当たり前のことを突きつけられて、私の中にまたふつふつと反抗心のような気力がわき始める。この世界では、何故だか感情をうまくコントロールできない。私の心が、そのまま外気に晒されているような気がする。隠すことも覆うものも奪われてしまっている。それがまた、私の心に細波を立てた。
少しして、私の中に言葉を発する程の気力が戻ってきたので、私は口を開いた。
「……失くした記憶はきっと、私が嫌で、忘れたかった記憶だったんだわ。じゃなきゃ、こんなに苦しくなることなんて、ない」
「そう、なのでしょうね」
「もう私の過去を探るのはやめて。自分でも分からない、何かとてつもない爆薬みたいなものが、この先に眠っている感じがする。これが爆発したら、どうなるか自分でも分からない」
「……それは出来ません」
何故? そう訪ねる代わりに、私は彼女を睨んでいた。軽く睨むつもりが、恐ろしく力が入ってしまう。きっと今私は物凄い形相になってしまっている。それでもドレミーは臆せずに私と目を合わせて言葉を突きつけてきた。そしてここにきて初めて、彼女の笑みが消えた。眠たげだった眼にも真摯に細まり、内に秘めていた固い決意が表に出たようだった。
「私は思い出してほしい。そして終わらせたいのです。私が抱いた、長い悔恨の歴史を」
「貴女が? 私に対して? 何を悔やむって言うのよ」
「言えません。貴女が思い出さずに終わらせるのは、違うと思うから」
「あのねぇ、私と貴女にどんな遺恨があるか知らないけれど、これ以上はもう我慢の限界なんだけど」
自然と語気が荒くなってしまう。理性が働かない。怒りが、じわじわと染みだすように発露していく。机の下で拳を握って、私はその怒りを静かに止めていた。
「夢の世界に閉じ込めて、私を殺すつもりならそうしなさいな。私は貴女に抵抗できるほど強くないんだから、こんな回りくどいことをしなくても一瞬よ。それとも余程の苦しみを与えないと気が済まないほどの恨みがあるのかしら?」
ドレミーは強く首を振り、私の言葉を否定する。その力強さにまた私はムッとした。まるで、彼女の何もかもが許せなくなっているようだった。ここまで他人を許せないと思ったことは無いかもしれない。
「違います。私は別に、貴女に復讐をしたいわけじゃありません」
「ならなんなのよ。失った、思い出せない他人の記憶を嫌でも思い出させようとするなんて、復讐以外の何でもないじゃない」
「それは、本当に失っているのですか? 思い出せないのですか? ただ、貴女が恐怖に怯えて、目を逸らしているだけではありませんか?」
見透かしたようなこと言う。ざらざらの紙やすりで神経を逆撫でされた気分だ。私の怒りは今ので大幅に膨らんだぞ。気付いているのかドレミー・スイート。
「知らないわよ。でも私は本当に思い出したくなと思ってるわ」
「目を背けることも大切ですが、どうか一度だけでも、向き合ってはいただけませんか」
余りにもしつこすぎる。もう声も聞きたくなくなって、私は彼女から視線を外して窓の外を眺めた。少しでも気が紛れるならなんだってしよう。このままでは彼女に襲いかかってしまいそうだった。
そうしてそっぽを向いた私に、ドレミー・スイートはわずかばかりの溜息を吐いた。呆れているというよりも、それは悲しげに私の耳へと届く。
「何故貴女は……昔の貴女なら、こんな程度のことに怯えはしなかったのに……」
だがもう、駄目だった。
「黙れ!」
私は彼女の言葉にたまらなく怒りを覚えて、思わず手元にあったコーヒーを彼女へとぶちまけてしまった。熱さで湯気が立っているにも関わらず、ドレミー・スイートはそれを身動き一つせず、目を瞑り黙って受け止めた。
「……すみません」
ドレミーが謝罪しても私の怒りは収まらない。何も言わずにまず謝罪したことか、あるいは彼女の態度から感じる誠実さ、真摯さみたいなものが、私の怒りの根本であったかもしれなかった。だから彼女が謝る姿は、私を苛立たせることしかしなかった。
「いい加減にしろ! 私でもない癖に知った風な口を利いて、人の心にずかずか入りこもうとしておいて、謝れば済むなんて思うな!」
怒鳴って、私はカップを床へと放った。硬質な音を立ててセラミックのカップが粉々に割れてしまう。かなり力が籠ってしまっていた。
だが、そうしてここまできておいて、私は何故か自分が違うような存在に思え始めていた。
理性が感情から乖離していくようだった。普段の自分であればこんな事は絶対にしない。なのに今は、自分ではない何者かが激怒し、暴れようとしている。自分勝手で、思いやりの無い子供じみた存在が自分の裡にいるような気がして、困惑してしまう。
ドレミーが静かに顔周りを拭いて目を開く。しかしその顔には深い悲しみとの謝意の心が残っていた。
「すみません。勝手が過ぎました。確かに、貴女が思い出したくない記憶をしつこく思い出させようとするのは無神経でした」
そしてそこで頭を下げられて、私の怒りはとうとう、嘘のようにすっと成りを潜めてしまった。代わりに残ったのは困惑していた方の感覚だけだ。どうなってるんだ私は。おかしい、ここまで情緒不安定ではなかったはずだ。なのに、今日は何か変だ。
怒鳴る気力をみるみる失くしてばつが悪く口を噤み、言葉を発せずにいると、ドレミーが顔を上げた。そこに悲しみを踏み越えた先の真剣さが宿っている。その鋭さは私に息を呑ませた。
「ですがこれだけは信じてください。私は貴女に嫌がらせをするために来たわけじゃありません。私は貴女に……いえ私は、貴女とただ、ただまた昔みたいに話たかっただけなんです」
旧知だという、その言葉に嘘偽りはないのかもしれない。そう感じさせるだけの強さが彼女の瞳には宿っていた。私は途端に激怒したことを後悔した。自分の事ばかり考えて、彼女の事を何一つ思っていなかった。それを恥じ、この状況をどうにかしなければという焦りが生まれてくる。居た堪れないという感情が私の膝と太腿を震わせた。
「私の我儘だということは分かっていました。そしてそれが貴女を苛立たせているということも。でも、何も知らない貴女に私の願いを打ち明けても、私が納得できないと思ったんです。そして過去を忘れ、それを失ってしまっている貴女と話し、私は焦り、度が過ぎてしまった。本当に……ごめんなさい」
そう言って頭を下げられても、私は困る事しかできない。彼女を焦らせたことは申し訳なく思うし、思い出せない自分を恥じてさえいる。過去を掘り返すことに怯えと怒りを感じていた自分が嘘のように、私は今、過去を思い出さなければならないんじゃないかという自責の念に駆られていた。それには何処か、彼女を悲しませたくないという思いが滲んでいるような気がした
「……そういえば昔も、これと同じようなことがありました。きっとあの時も私のしつこさが、貴女を傷つけていた。それで、拒絶された。忘れないようにしてたはずなのに、いつの間にか忘れて、私は二の轍を踏んでしまったみたいです。本当に忘れていたのは私だったなんて、とんだお笑い草ですね」
悲しげに、けれどもそれを誤魔化すように、ドレミーは自嘲して笑った。それは全くその下を隠せていないマスクのようで、だから釣られて私も悲しくなってしまう。笑えない。もう、私は色々なことがあり過ぎて胸が張り裂けそうだった。この場から逃げ出したくてしょうがなかった。恥ずかしく、居た堪れなく、悲しくて、苦しかった。
「私も、そろそろ身を引こうと思います。さすがにこうなってしまっては、夢であっても取り返しはつきません。もしそうしてしまったら、これは私にとって永遠に払えない悪夢になってしまう……貴女にもしつこく悪夢を見させてしまったようで、本当に申し訳ありませんでした」
ドレミーはもう一度だけ頭を下げて、それから立ち上がって、ロッジの扉へと歩き出す。待ってくれ、と言おうとして声が詰まる。息が詰まる。心臓がばくばくと大きく脈を打つ。これでは駄目だという不安と焦りが、私の頭の中をぐちゃぐちゃに掻きまわしていく。混乱して、私の視線は宙を目まぐるしく彷徨う。唇が戦慄いて、身体が震える。
「せめて今夜は、良い夢を見ていただけるよう努めます……さようなら」
しかしその後ろ姿を見て、言葉を聞いた時。
私の中で、抑えつけられていた何かが弾けるような感覚があった。
――それは何処だったのだろう。
色褪せの無い建物で、埃もない、その周りは清涼な空気鮮やかな蓮の花と葉が敷き詰められている。清水の流れていく音の聞こえる、四阿のような中で、私はずっと、もうずっとのこと、遠方を睨んでいた。
「どうして貴女は眠らないのですか?」
後ろから彼女の声がした。
「どうして貴女は人を嫌うのですか?」
これは、彼女が知りたがっていた、昔の私の記憶だろうか。
「お眠りください。貴女の心に付いた傷も、さすればよく癒えましょうに」
私はなんと答えたのだろう。でもきっと、拒絶の言葉を吐いたのだろう。
「夢を見てください。さすれば悲しみも消えましょう」
同情するな。見下すな。私とお前とでは違う。自然とそんな言葉が頭を過った。
「私は……」
失せろ。と、きっと今、私はそう言った。
「……さようなら」
別れの言葉を聞いて、私はやっと、その場から去っていく彼女の背中を私は見る――
五.二人の夢
そこからどう動いたのか、自分でも分からなかった。気付くと私は彼女の手を掴んでいた。まるで今の光景と過去の光景が重なって、その時の感情が私を突き動かしたかのように。そう、きっとあの時私は、彼女を引き止めたかったのだ。でもそれをしなかった。そして、それを後悔した。だからこれは、その悪夢の続きになっているらしい。
私の行動はドレミーの足を止め、そして彼女を驚かせたようだった。目を見開いてこちらを振り返る彼女と、それを見つめる私で、静かな沈黙が続いた。
「……えっと」
やがて零れた彼女の言葉に、私は我に返った。今までずっと放心していたような感覚で、恥ずかしく、思わず頬がかぁっと熱くなった。
私はゆっくりと彼女の手を離して、それからまた椅子に掛けた。どっと疲れが押し寄せて少し荒っぽくなってしまったが、気にしていられるほどの余裕はなかった。
「今、少しだけ思い出した……」
そう言うと、ドレミーはまた驚いたように目を開いて、それから踵を返して私の対面へとも戻ってくる。戻ってきてくれて、私はホッと安堵する。その過程で、コーヒーで汚れていた彼女の身体がふとした瞬間に元に戻っていた。夢の世界だから、覆水も盆に返るのだろうと一人で納得する。
身なりを整えて、ドレミー・スイートは着席した。真剣な面差しで彼女は私を見つめてくる。そう見詰められるとなんだか照れくさかったが、私は私の言葉に真剣になってくれた彼女に感謝し、失礼の無いように表情を引き締めた。
「多分、これはその時の続きなんだと思う」
我ながら要領を得ない言葉を選んでしまったと思う。だがドレミーは確かに頷いてくれた。言葉で伝えずとも通じ合えた気がして、私の心の曇りが晴れる。
「具体的なことは全然だけど、とりあえず私は貴女の声を聞いて、貴女の事を疎ましく思っていた」
「はい」
「それで、貴女が去ろうとしていた時、でも私は、貴女を引き止めたかったみたい」
ドレミーが驚いて表情を崩した。私の言葉は、彼女にとっては思いもよらない物のようだった。
けど、私は何故彼女を引き止めたかったのだろうか? 自問する。回顧した時に沸き、抱いた私の感情は、一体どんなものだったのか。一瞬の光景の中で様々な感覚がフラッシュバックした。それらを私は頭の中で思い返し、丁寧に一つずつ、まるで綺麗な礫を集めるように拾い上げていく。そうして言葉を紡ぎ上げる。貴女に伝える為の言葉を。
「私はきっと、貴女と友達になりたかったんだわ」
すとん、と、その拾い上げた感情が一つ腑に落ちて、私の中で整理がついた。ドレミーは驚き続ける。けれど、私の言葉は、まだそこでは止まらない。
「でも、私は貴女に憧れていたから、同じような立ち場にはなれないと思っていたんだ」
彼女に憧れていたというよりは〝夢〟という物に憧れていたのかもしれない。夢とは、輝かしい目標で、安息の領域で、病みを払い傷を癒してくれるから。
すとんすとんと、一つずつ感情が組み上がっていく。
「だって貴女は夢の世界を守っていて、それは凄いことで、けど私は、私は……」
そこでまた、風が吹いた。私の中で恐怖が心を這いまわる。指先が震えて、見ると、その手が血で塗れているように見えて、すると自然と私の頬が緩んでいた。
私は笑っていたのだ。恐らく、酷く自嘲的に。
「私には夢を見る資格がなかったから」
それは何かゾッとするほどに私の心の何処かに引っかかりつつも、具体的な記憶がないので、どうにも虚ろに響くと感じた。でも存外、その言葉をドレミーは重く捉えているようで、彼女は私から視線を逸らして少し痛みを堪えるような面持ちになった。私はその事を申し訳なく思う。彼女は私の言葉に、少し自責の混じる複雑な念を抱いているようだった。
「でももう、私は違う」
今、私の中に一筋の光が差している。その光は暗闇を強く引き裂いて、私を導いていた。それに誘われて、自分の口が勝手に動いていく。でも止める気はなかった。その勝手な気持ちと、私が抱く気持ちは、多分同じだったから。
悪夢を終わらせるために。
「だから、私と友達になってほしいの。ドレミー」
顔を上げて、彼女は私を見た。悔恨の痛みは失せ、また驚きの表情を浮かべている。驚き過ぎていて、出す言葉が見つからないという風だ。夢の中で眠たげな目をしている彼女をそんな風に驚かせたことは、私を少しだけ得意気にさせる。
「……貴女から先にそう言われるとは、思いも及びませんでした」
そう。どうやら私は勘違いをしていたみたいだ。
これはドレミー・スイートだけが願った夢ではない。
これは私も望んだ夢だったのだ。
古い知り合いと、出来るなら和解し、旧知を温めたいという、私の忘れていた願い。それが夢となった。そしてそれは、おそらく今叶った。
「ありがとうドレミー。これでようやく、悪夢から目覚める事が出来そうです」
気持ちの整理がついて、私はようやくいつもの私を取り戻した気分になった。私の言葉を聞いて、ドレミーの表情がこぼれんばかりの笑みを浮かべた。それはこれまで見たことがないくらい嬉しげで、まるで花が咲くような可愛らしい物だった。
「こちらこそ、ありがとうございます。そう言っていただけることが、私にとって何よりの喜びです。ようやく私も、長らく抱えていた一つの悪夢を食べる事が出来ますわ」
いつの間にか彼女の後ろに浮かんでいたピンク色のスライムが、ぐにぐにとはしゃぐように形を変えていた。
六.夢で見る夢
私は一つ、今までの全ての事を追い出すように息を吐いた。それから気分を変える為にドレミーに提案をすることにした。
「最後にさ、もう一度だけお茶をしませんか?」
「是非」
彼女は嬉しそうに頷いてくれたので、私も嬉しくなった。そんな風に即答されたら、身も心も軽くなってしまう。
「じゃあ、いきなり厚かましいと思うけど、ちょっと場所を変えませんか? さすがにここでこのままというのもねぇ」
「貴女の夢なのですから、如何様にでも」
なら、私は思う。もうすっかり懐かしくなってしまった、春の紅魔館の四阿を。白い大理石、噴水、私が育てた花たちと、誇らしいあの真紅の館を。
すると途端に場所は切り替わった。思った通りの世界が広がった。空には雲一つない夜空が広がっていて、先ほど見ていた宝石のような星々が再び顔を見せる。夢の世界は夜の世界。黒い宇宙は夜の空なのだ。
四阿の中、冷たい石のテーブルに青いチェックのクロスを乗せて、その上に白磁のティーセットとお気に入りの茶葉の入った瓶を。私はそれらから紅茶を淹れる。二つ、最初を私に、最後を彼女に。作法だけだが、蒸らす時間は気にしなくても、夢であるのだから未来も過去も関係無い。
「手慣れていますね」
「昔取った杵柄って奴です」
ドレミーは結構関心していたようだった。一回目の時、私に紅茶を振舞ってくれた彼女へ、これはちょっとした意趣返しである。
「ミルクと砂糖は?」
「ストレートで」
「畏まりました」
私は静かに紅茶を彼女へと差し出した。彼女はそれの香りを嗅いで芳香を楽しんでくれる。
「これは、オレンジの香り……?」
「私が育てた茶葉とオレンジをミックスしたハーブティーなのよ」
「手作りのブレンドハーブティーですか、これまた、恐れ入ります」
彼女は手に持ったカップをすっと口へ近付けて、唇を付けてカップを傾ける。熱さはきっと丁度良い物になっていることだろう。何せ、夢なのだから。
紅茶を口に含み、それを喉へと落として、残った余韻を味わってから、彼女は私を見て微笑する。
「とても美味しいです」
「それは何より」
私も席に着き、淹れた紅茶を飲む。ドレミーも私と一緒に紅茶をもう一度飲む。同じ時間を同じように共有して、私たちは通じ合う。
味も、音も、空気も、景色も、雰囲気も、それは私にとって心地よいものだった。まるで夢のようだ――いやこの表現は矛盾しているだろうけど、まぁ構わない。
さて、気分転換もそこそこに、私は言わなければならないことを切り出した。
「貴女には、色々面倒をかけてしまいました。本当に、ごめんなさい」
私は頭を下げる。これまでの態度や、先ほどのコーヒーの事。お茶を振舞って謝る程度では到底、済む話ではないだろう。叱責される覚悟を持って、私は深く頭を下げ続けた。
「いいえいいえ。私も貴女を怒らせてしましたから、おあいこですよ」
「え? ……いや、う~ん。そんなものかな?」
「そんなものです」
意気込んだ割にあっさりと解決してしまったのが微妙に腑に落ちないが、しかしまぁ彼女が言っているので、この話は水に流すとしよう。いつまでも引きずる私ではないのだ。
「それにしても結構頑なに、私の過去を知りたがったてましたね。……というか、何か昔も、貴女についは強情で意地っ張りっていう感想を抱いてた気がする」
「実際、そう怒鳴られてました」
ドレミーはふふと、また緩く握った手を口に添えて笑った。その仕草は先ほどと同じように私の心を静めていく。さっきはドレミーが私に対して何かしているのだろうと疑っていたが、どうやらそれは違ったようで、私は単にその仕草が好きなだけだったようだ。昔も、そして今も、そうなのだろう。
「昔の私か……」
考えるとまた、寒い風が心に吹く。今はまだ、思い出せそうも無い。
「怒っていて、眠らなかったなんて、今じゃ想像もつかないわ」
「そうなってしまうだけの何かが、あの頃あったのでしょう。貴女は心身ともに傷ついていて、酷い有様でした。貴女は語ることがなかったので、私も全てを知るわけではありません。けれど貴女は変わられた――いやきっと、今のあなたこそが、本来の貴女だったのでしょう。あの頃に垣間見た優しさを、貴女はまだ持っておられるのだから」
ドレミーは眠たげな目を細めて、懐かしむように微笑する。私はついその表情に見蕩れてしまった。どうやら彼女の笑みは私の不意を突くのが上手いようだ。
「……だから私は、そんな貴女に夢を見て欲しかった」
「大丈夫。今はもう、居眠りばっかりするから」
「それはそれで駄目だと思いますけどね」
私たちは静かに笑い合った。
それから紅茶を口に含んで、私は何となく自分の中で眠気が満ちてくるのを感じた。安心して緊張が途切れたせいだろうか。それともハーブの効能か。出そうになったあくびを堪える。眠りたくないのに、その睡魔は私をどんどん蝕んでいく。
「そろそろ起きなくちゃいけないみたいですね」
「残念……ようやく貴女と打ち解けられたと思ったのに」
「また会えますよ。貴女が眠り、私を呼ぶのであれば」
「そっか」
なら、また近いうちに貴女とお茶をしよう。今度はもっと楽しい話をしよう。こうして出会えた運命に感謝をしながら、大切な時間を作ろう。そんな夢を見て、飲みかけのカップを置き、私は椅子の背に身を預けた。
「それじゃあ、またね」
「ええ――夢の中で、また逢いましょう」
瞼が重くなっていく。霞んでいく視界の中で、私はずっと嬉しそうに微笑む彼女を、最後まで見ていた。
七.現から見る夢
「ん……」
ぼんやりと、意識が暗闇から浮上してきて、私は目を覚ました……ように思えたのだが、全身の感覚が鈍く、私は動けないでいた。首が重く、瞼も開けることが出来ない。気を流して無理矢理目を開き、首を上げると、どさどさどさっと雪が地面に落ちた。いつの間にか空はどんよりと鈍色に曇り、小雨のようにぱらぱらと雪を降らせていた。顔や防寒着が雪に塗れ、首から下は芯まで冷たくなっていて思うように動かせなくなっていたのだ。
私はまず体内で気を循環させ、体温を一時的に微熱くらいまで上げた。それから徐々に動くようになった手をじわじわと動かして顔に纏わりつく雪を払った。
がちがちと震える奥歯を噛みしめて、私は体内の気を一気に回転、加速させる。私に纏わりついていた雪が、気の生み出した力の流れによって弾け飛ぶ。その流れの一部を使って体温をさらに上げて、私は辛うじて凍えるぐらいの状態にまで身体を回復させた。
「あ、危うく凍死する事だったわ……」
どうやら夢にのめり込み過ぎたようだ。これで死んでしまっては元も子もない。今度彼女と会う時は、もっと周りに気をつけなければならないだろう。
私はふぅと一息吐いて居住まいを正し、もう一度門柱に寄りかかった。寝ていたのに、まるで宇宙を旅してきたような疲労が残っている。でもそれは心地の良い疲労だった。今日はよく眠れそうである。
私は見上げる。どんよりと灰を敷き詰めて曇る空の、その向こう側を。
彼女はきっとそこにいる。あの月と地球と星の見える宙の中で、あの眠たげな瞳で、のんびりと世界の夢を見守っている。
だからいつでも会いに行ける。しかしそれで安堵することはなく、その事実はむしろ逆に私を急かしていた。
こんなにも眠るのが待ち遠しいと思ったのは、本当に久しぶりだ。
『いつも寝ているのに?』
心の中で、彼女がにやにやと笑いながらそんなことを言った。私は心の中で「うるさい」と返した。
雪は依然として止む気配がない。世界の酷さを覆いつくすように、それは白いヴェールとして積もっていく。
でも夜は晴れて欲しいと私は願った。星空を見れば、眠る前に必ず彼女を思い出せるから。
そしていつかは、昔の自分を思い出して、そして改めて、彼女と友人になれたらと思う。
彼女もきっと、同じように考えてくれるだろう。
私は目を瞑りながら、そんな夢を描いていた。
―了―
美鈴の過去話ってなんかいいよね
面白かったです