古い日記を読み返して、かつての興奮を汲み取りながら、その傍らで情報の不足や記憶の欠落に苦笑するというのが私のひそかな楽しみだった。それらの記述は私のものであるものの、けっして現在の私のものではないので、そこでは無責任な観客と、いささか気恥ずかしい当事者の両方の気分を味わうことができる。
こうした回顧的で自閉的な趣味は、ともすれば年寄りの典型と思われかねないので、私はそれを秘密にしていた。もちろん、日記を見られるのが恥ずかしいという気持ちも、その傾向にいくらか寄与していたのだが。
性格上、日々の些事を日記に書き留めるといった例は稀で、そのため内容はたいてい旅行記だった。訪れた季節と土地の名前、それから風景や食事、見聞きした伝承の数々が興味のままに綴られている。そうした事柄が見開きの片面に記されていて、そこから先は写真だ。それらは褪せることなく数々の体験の息づかいを今でも確かに語っている。言うまでもなく、質という点では新聞用の写真と比べて劣っているものがほとんどだが、それはあまり気にならない。そうした風景の原型はおそらく私の記憶の奥底に眠っているのだから。写真の光はただ彼らを呼び起こす声であればよかった。
朱い手帳のページをめくりながら、私はそう考える。掃除の折に発見したのだが、状態から察するにここ数十年よりは昔の日記だった。今となっては懐かしい名前がいくつも見つけられた。
だが、そうした感慨も長くは続かなかった。数々の記述の中に、新聞の締切についての愚痴を発見してしまったのだ。昔も今も変わらないなと半ば呆れてから、私はようやく現実と向き合った。
そもそも、怠惰な私がわざわざ掃除を行う理由など、そう多くはないのだ。つまり、それは締切前の気分転換で、まさに私はそうした事態に直面していた。記事を書かなければ大会に間に合わないが、どうにも上手い考えが浮かばないという、あのいつもの錯覚が私を急き立てていた。
幸いにして、近頃どこかで異変が生じたというのは分かっていた。あの巫女や魔法使いたちが揃って姿を消していたのだから。果たしてそれが良い記事になるか否かは分からなかったが、そのようなことを悠長に判断している時間はもはや無かった。私は早速取材の計画を立てることにした。
異変の内容を知るに当たって、本質的に最も信頼が置けるのは博麗霊夢だったが、あれは警戒心が強くていけない。となると、やはり聞き出しやすいのは東風谷早苗だろう。霧雨魔理沙も悪くはないが、彼女は両者のいわば中間的な立ち位置で、ゆえに、優先順位は必然的に次点に留まる。今は急がなければならないのだ。
机の整理も程々に、私は取材道具を持って家を出た。
神社の上空から早苗の姿を確認しようとしたところ、私はその傍らに見慣れぬ人影を認めた。
「あら、先客?」と言いながら、私は守矢神社に降り立った。
先客は、早苗と会話している以上、直接的な敵意は無いと思われるものの、身に纏う空気が明らかに異質だった。敢えて喩えるならば、ちょうどこの神社の二柱に近いのかもしれないが、それとも違う。つまり、敵に回すと厄介そうだということで、距離を置くに越したことはない。私はひとまず取材用の笑顔を作ってやり過ごすことにした。
「ああ、こちらは――って、言ってもいいのかな……」と早苗は言いかけて思案する。話題になっている当の彼女は未だ口を開かない。
「取り込み中でしたら、待ちますが」
「お話はあらかた終わったので大丈夫ですよ」と早苗は返す。
「あら、そうなの」
「サグメさんもすぐに帰ると言っていましたし」
巫女の掌の示す先で、それはわずかに頷く。そうして屋根の下から明るみに出ると、彼女は翼を広げた。
「あなたは、天狗?」
去り際にただ一言だけ彼女が呟くのを、私は聞き逃さなかった。いや、聞き逃すことなどできなかった。
その声を知覚した瞬間、私は一つの感覚に囚われたのだ。それは、『彼女を否定しなければならない』という衝動――気分や感情というよりは、むしろ原初的な本能に似ている。そのあまりに強い衝撃に際して碌に返事もできないでいると、彼女はまもなく白い風に包まれて消えた。後には羽の一片も残ってはいなかった。
結局、この日は早苗に異変のことを聞かないまま終わってしまった。早苗は彼女の依頼をこなさなければならなかったし、私の方も取材どころではなくなって、そうした計画は、帰宅して白い原稿用紙を目にするまで、頭からすっかり抜け落ちていた。まあ、仮に取材を行っていたとしても、どうせ記事にはできなかったのだろうが。私の全関心は、すでにある一点のみを指していたのだから。
私は幾夜もあの女のことだけを考えつづけていた。その像は目蓋の裏にさえ鮮明に刻まれていたために、やがて昼夜を問わず彼女を見ているような気分に陥らなければならなかった。道理も分からぬまま思考を支配されるのはなんとも不愉快なことである。それは社会による束縛とは異なっている。組織は確かに自由を奪いうるが、そこで差し出す自由はある程度好きに選ぶことができる。それはたとえば機転によって、あるいは単純に力によって。ゆえにそこでは最小限の不自由のもとで自由を楽しむことができる。主要な方針にさえ則っておけば、彼らは細かく詮索しないし、私にも利益がもたらされうるのだ。
それに対して彼女は私に不利益しかもたらさない。今や、あの印象に私のすべては囚われていた。それはひどく矛盾した二つの直感である。一つは、本来、私と彼女は出会うはずではなかったという直感。もう一つは、彼女は私にとってあまりに重大な存在であるという直感。だから、ひとたび知ってしまえばもう二度と引き返せない。たとえば記者が原稿に誤植を発見したとき、彼はそれを修正せずにいられるだろうか。私はそうした切実さに直面していた。
とはいえ、目下のところ私には新聞の締切があった。これもまた切実だった。私は要領の良い方であると自認しているが、限界はつねに存在している。二つの難題を同時に解くことはできない。私はしばらく考えて、採るべき方針を思いついた。
私は家を飛び出すと目的の場所へ向かった。同じ山の中なので、急がずともすぐに到着した。姫海棠はたての居宅である。
「ねえ、はたて。頼みがあるんだけど」
私は開け放たれた窓から呼びかける。
「なに、いきなり」
はたては椅子から降りると、窓の傍に来てそう問うた。
「最近、見慣れない侵入者がいなかったか、調べておいてくれる?」
「なにそれ。仕事の話?」
「私的な話」
いささか冗談めかした言い方だが、はたては十分に察したのか、「直接聞きに行けばいいのに」と呆れた顔を見せた。
「あれと顔を合わせても碌なことにならないわ」
「あんたもあの子も同じ天狗なんだから」
飽きるほど聞いた台詞だなと思った。もはやこちらも同じ返答をするだけだった。
「それ以外は違うのよ」
「まあいいわ。やっといてあげる」とはたては頷いた。思いがけず驚いた。「やけにあっさりね」
「私は友達想いだから」そう言ったはたての笑顔が、長い冬を明かす光のように思われて眩しい。私は反射的に顔を背けたくなるのを堪えて、慣れた微笑みを努めて作った。
「じゃあお願いね、出来るだけ急ぎで」と言い残し、私はすぐに帰った。最近の私の精神状態を鑑みるに、あそこに長居していても、余計な面倒を生んでしまいかねないと思った。
はたてからふたたび知らせがあったのは、それから三日後だった。使い魔として寄越された烏から、私は報告を受け取った。簡潔に結論を言えば、成果は無きに等しかった。少なくとも、あの白狼天狗やその同僚たちは、私の関心を占める彼女の姿を見ていないらしい。半ば予想はしていたので落胆はほとんど無かったものの、必然的に状況の進展も起きない。
結局、自分が動かなければならないのだ。遣いの烏を呼び出すと、私はごく短い言伝をそれに頼んだ。守矢神社の東風谷早苗に向けてである。またあの女に不意に出会ってしまうことを考えると、直接尋ねに行く気にはとてもなれなかった。
烏を送ってまもなく、東風谷早苗は風のように訪れた。
玄関の扉を開けるや否や、「何かあったんですか?」と彼女は問う。
「ただの取材よ。ちょっとした事情でこちらからは出向けなかったっていうだけ」
お茶とお菓子を用意しながら、私は平静を繕って返す。
「いいですよ。取材されるのは嫌いじゃないですし」
「それは良かったです」
そうしたやり取りをしながら、私たちは向かい合って腰を下ろす。私は最初の言葉を少し迷ってから口にした。
「最近起きた異変について、お話を伺いたいな、と思いまして」
「あら、気付いていたんですか」
早苗はすんなりと口を割った。初めの方さえ上手くいけば、後はどうとでもなるだろう。私はそうしたことを考えながら、無害な記者の態度を装う。
「詳しくは知りません。だから聞きたいのよ」
「そうですね……しかしどこから話せばよいのやら」
「思い出すがままに話してください。それをまとめるのが記者の仕事ですから」
彼女は頷くと、一つ一つの言葉を探りながらおもむろに、しかし次第にいつもの陽気な速度を伴いながら、異変のあらましを語りはじめた。
月の神々による幻想郷の侵略について。月を怨む者による月面襲撃について。その者への勝利について。そして先日の、夢の世界での決着について……。彼女は妖怪退治を楽しむ気質があったが、それでも今回は多少の疲労と困惑の色が窺えた。異変の本質的な部分について、ところどころ要領を得ない説明が含まれるのもそのせいだろう。まあ、彼女をはじめとする人間、とくに巫女のような類は、異変に際して理屈よりも直感や義務感で動いている場合の方が多いので、仕方のない話だとは思うが。
一連の説明の中で、早苗はとりわけ二つの事柄を強調していた。一つは月面旅行についての話で、機械の蜘蛛やロケットについて熱弁が振るわれた。おそらくある種の人々にとっては興味深い話なのだろうが、私はどうにもその魅力を理解できなかった。せいぜい河童の購読者向けに、いくらか紙面を割いてやってもいいだろうという程度の気持ちにしかなれない。
しかし、もう一つの話は別だった。それは私の注意をこれ以上なく引きつけた。天津神と国津神について――つまり、あの白い翼の女について、早苗は語った。私は逸る気持ちを悟られないように気を付けながら、彼女のあらゆる言葉に耳を澄ませた。
「彼女の名前は稀神サグメと言います。神奈子様は、天探女と呼んでいましたね。私も詳しくは分かっていないのですが、言葉で運命を変える力を持っているとか」
不透明で曖昧だったあの日の否定衝動が、早苗の言葉を受けて明確な像を結びはじめる。つまるところ、あれは神に対する叛逆の本能だったのだろう。私の思考を支配しつづける稀神サグメの像が、形式と内容の両面において確固たるものになったのだ。
「なるほど、それで無口だったのね」
不自然な沈黙を避けようとして、私は無難な相槌を返した。発せられた声こそかろうじて普段の調子を保っていたが、喉はほとんど罅割れているように感じられて、慌てて湯呑みに手を伸ばした。自身の緊張が知られていないかと、早苗の視線を窺ってみたが、どうやら心配はなさそうだった。彼女はもう自身の繰り広げた弾幕戦の回想に夢中になっていた。
そうして夕陽の朱が部屋を満たすまで、私たちは取材を続けていた。最後の方はほとんど単なる世間話に移っていた気がするが、それはそれで良い気晴らしだった。
「今日はありがとうございました。また何かありましたら」
そう言いながら、私は早苗を見送った。彼女の姿が見えなくなった後に、早苗に告げたお礼の言葉が、私の素朴な心情を驚くほど自然に表現していたのだと気付いて恥ずかしくなった。
空の半分が紫色に冷める頃には、すでに私の表情も元の平静を取り戻していた。不意に吹き込んだ風が私をさらに落ち着かせる。見れば、夕陽は暗雲に蝕まれつつあった。一雨来るかもしれないなと思った。
果たして夜とともに訪れた雨は、見る間にその勢いを増していった。初めの方こそ、月は曇天を透かして円い影を落としていたが、今や仰ぎ見れども一様に暗い天蓋が覆うのみである。久しく変化の無い空のいったい何が楽しいのか、自分でも不思議だったが、私はしばらくそうした景色を眺めていた。あるいは窓を頻りに打つ雨の一つ一つが、私の視線をことごとく縫い止めたのかもしれない。彼らの弾ける音とともに、私は瞬く光の粒子を直感した。空想上の満月を除いて、それらはこの夜の唯一の光源だった。それがなければ、雨夜はあまりに寂しすぎる。深呼吸をして、ゆっくりと滴の道を指でなぞった。つくづく似合わない感傷だなと思う。私は空から目を背けると、灯りを消して雨と別れた。そのまま寝床に潜り込み、早々に眠ることにしたのだ。明日の朝にはきっと晴れていると信じて。遠ざかる雨音を聞きながら、私は眠りに就いた。
そして私は柔らかな光に包まれて目覚めた。最初は朝が来たのだと思った。しかし、それは違っていた。その光はやがて失われて、暗闇になったからだ。それらの交替が繰り返される薄明の霧の中に私はいた。
起き上がろうと思い、布団があるべき空間へ手を伸ばすも、そこには何も無かった。奇妙なのはそれだけではない。そもそも先の時点で、私は気付かぬ内に起き上がっていたのだ。ちょうど、横の物も視点を変えれば縦になるように。何もかもが分からなかったが、私は少し歩いてみることにした。好奇心が勝ったのだ。進むにつれ、白く立ち込める霧は次第に晴れた。
そこで私は知ったのだが、どうやら今いる空間は、自分の家でもなければ、山の中でもないらしい。道は一様に平らで、おそらく草原という表現が最も近い。他に人の気配はいっさい感じられないというのに、それはよく手入れが行き届いているように見えた。
そうして、霧が完全に去った頃だろうか、そこで私は足を止めなければならなかった。天から永遠に降り注ぐ滝が、この草原の先を隔てていたのだ。
私は諦めて、滝の傍に腰を下ろして彼岸へ目を凝らした。向こう側には明滅する球体があった。私はそれを月と呼んだ。月を越えては何も見えなかった。つまり、この空間の限界は空の果てと似ているのだと思った。
月は徐々に膨張しているように見えたが、すぐにそれは誤りだと分かった。月は異常な速度でこちらに接近していた。そしてこの事実は、もはや言うまでもなく重大な問題を示していた。世界の果てがまもなくやって来るのだ。
もちろん、急いで逃げるべきだという考えが真っ先に思い浮かんだ。しかし、それは同様の早さで却下された。理由は単純である。月は想像されうるあらゆる速度を超越していたのだ。草木と砂の煙を轍として月は駆けた。私は立ち上がり、真っ直ぐそれを見つめた。
そして月が滝を割った瞬間、私は覚悟して月へと飛び込んだ。だが、予想された衝撃はいっさい訪れなかった。私は自然とその内部に溶け入っていた。顔を上げると、優美に整った西洋風の一室が視界に広がった。
いつもの癖で、その光景に何度かシャッターを切ったが、写真は一つも現像されなかった。私は諦めてカメラを仕舞う。その音のせいだろうか、テーブルの傍で書物を読み耽っていた青髪の女性がこちらに気付いた。彼女は私を手招いて、対面のソファに誘った。私は応じた。
腰を下ろすと、彼女は「疲れていませんか?」と尋ねた。「少し」と私は答える。すると目の前には紅茶が現れていた。女の微笑を窺うに、彼女が用意したのだろうか。紅魔館のメイドのようだなと思った。
「今のはどうやってしたの」
「まあ、こんな感じです」
今度は彼女の側にティーカップが現れた。分からない。
「どんな感じ」
「あんな感じですよ」と彼女は窓の外を指す。しかしそこには草原があるのみだった。
「何も無いじゃない」
「何も無いですね」
見ればテーブルからティーカップが消えていた。いよいよふざけているなと思った。
「冗談がお好きなようで」
「まさか」
彼女はふたたび同じ物を出した。勧められるままに私はそれに手を伸ばす。持ち上げると同時にカップを消したりしないだろうかと疑ったが、彼女は否定した。私は警戒して、小さく一口だけを飲んだ。
「美味しい」と思わず声が漏れる。「それは良かったです」と彼女は得意げな表情だった。
「そろそろここにも慣れましたか」
「そうかもしれない」と私は答えた。それから気になって、「ここってどこ?」と問うた。
「端的に言えば、夢です」
私は驚いた。普段は夢を見ないものだから、その可能性はすっかり思考の外にあった。
「私の夢? あなたの夢?」
「それはこれから分かりますよ」
彼女の答えに私は首を傾げた。どうにも曖昧で判然としない言い方だった。そうしている内に、彼女は誰かを呼んだ。背の高い家具が遮っていたため気付かなかったが、この部屋には別の住人が存在していたのだ。
「ああ、上手く行ったのね、ドレミー」
そう言いながら、それは姿を現した。忘れるべくもない、稀神サグメがそこにいた。歓喜と憎悪とがたちまち私を襲った。
「どうしてあなたが――」
辛うじて言葉になったのはそこまでで、それから先は行動として表されるはずだった。しかし、青髪の女が立ち上がる私を制した。
「それもこれから分かることです。落ち着いてください」
彼女はいやに冷静な声で言った。私は大いに不満を込めて睨んでみたが、彼女は退かなかった。
「ひとまず揃ったところで自己紹介といきましょうか。その方が、話が早くて済みます」
そう言って、彼女はドレミー・スイートと名乗った。そこで私は、早苗が獏についていくらか話していたのを思い出した。きっと彼女がそれなのだろう。
皆が一通り名乗り終えると、早速ドレミーは現在の状況について説明を始めた。
「現象を端的に説明するならば、一種の夢の結合です」
彼女は角砂糖を二つ取り出して、それらをくっつけてみせる。
「『思ひつつ』と言いましょう。互いが互いのイメージを正確かつ明確に描いて眠るとき、こうした現象はしばしば起こりえます」
「ですが」と紅茶に砂糖を溶かしながら、ドレミーは続ける。「これからあなたたちが体験する現象は、非常に稀です。夢の共有、あるいは融合とでも言えば適当でしょうか」
彼女の説明を私は上手く飲み込むことができなかった。もちろんいっさい想像がつかないわけではなかったが、それでも大半は霧のように不明だった。
「まあ実際にやってみれば分かることです」とドレミーはぞんざいに言葉を切った。私はすかさず尋ねる。
「待って。どうしてそんなことをしなければいけないのか、まだ分からないわ」
「最近、あなたの夢見がひどく悪いんですよ」
気付いていないのですか、と問いたげな薄い微笑とともに、彼女は言った。
「まったく身に覚えが無いわ。そもそも夢なんて見ませんし」
「覚えていないだけです。あなたは悪夢ばかり見るものだから、だいたい目覚める前に私が処理しているのよ。そうでなくとも、あなたはあまり良い睡眠を取っていないでしょう。妖怪は精神的な存在ですから、それを支える睡眠と夢は人間以上に大切です」
心配しているのか呆れているのか掴めない口調で獏は語る。そうした態度こそ信用ならなかったが、語られた内容自体は確かに的を射ているように思えた。
「ああ、つまりカウンセリングのようなものね」と私は返した。
「そういうことです。それで、あなたの悪夢を解消するために色々考えていたのですが、どうやら彼女――稀神サグメと関係があるらしく、お願いしてこのような場を設けた次第です」
「そういうことだから、早く解決してしまいましょう。確か時間の余裕はそこまで無いんでしょう、ドレミー?」と稀神サグメはドレミーを窺う。彼女は答えた。「結局のところ、夢ですから。起きてしまえばすべて終わってしまいます」
そうして、ドレミーは私たちを向かい合わせに立たせると、二人の手を捉えて説明を始めた。
「夢を共有する方法はいくつかあります。たとえば現実で行う場合は相手の目に手を当てたりするのですが、夢の中ではどこに触れようと構いません。ここでは、全身はただ夢を見るための感官なので」
そして、私とサグメとを交互に見ながら、「手でも繋いでみるのが無難かと」と彼女は促した。
間を置くことなく「嫌」と私は返した。サグメも同様に首を振って却下していた。
ドレミーはため息を吐くと、わずかな怒りを滲ませて言った。
「あなたの悪夢に私はもううんざりしているんですよ。とにかく一回くらい我慢してください」
「それに」と今度はサグメの方へ向き直り、彼女はさらに呆れた微笑を向けた。
「ねえ、サグメ、あなたにも責任はあるんだから、少しは仲良くしてくださいよ」
私たちは互いを見つめた。もっとも私の方はほとんど睨みつけるようにしていたのだが。そのまま長い時間が経った。ドレミーは辛抱強く私たちを離さなかった。やがて、サグメの方から手が差し出された。「きっと何度でも同じことになるわ」
『同じことをする』ではないのか、という言葉が出掛かったが、抑えた。「それもそうね」とだけ呟いて、私は彼女の手を握った。
ドレミーは安堵して、私たちから手を離した。「それでは、最後に注意をしておきますが、これは精神への負担が大きい行為です。ですので、現実時間基準で十分を限度とします。それ以上は精神を病みます」
私は少なからず驚いた。そんなにわずかな時間で解決するのだろうか。ドレミーは私の表情を察して、言葉を続けた。
「安心してください。夢というのは――想像というのは――非常に素早いものです。あなたの想像力が淀みなく進めば、きっとそれで満足の行く結果が得られると思います」
未だに確証は持てなかったが、今は彼女に従うしかない。私は頷いた。
「三つ数えたら、私が二人の夢を繋ぎます。絶対に、手を離さないように」
私はサグメと目を合わせた。彼女は冷静だった。私もいくらか落ち着いて、固く手を握り直した。
「では――三、二、一」
乾いた拍手が一度鳴った。その音に弾かれるようにして、私たちの意識は彼方へと飛ばされた。月の明滅が急速に遠ざかり、消えた。
気付けば、私たち二人は先程とは別の空間にいた。そこは雑多な空間だった。あらゆる物が曖昧になっている。あるいは混雑している。無数の異なる演奏会の中心に放り込まれたようだった。
「ここがどこだか分かる?」と私は尋ねた。サグメは首を振った。
「でも、ここが夢なら、なすべきことは分かるわ」と彼女は返した。
私がその意を掴めずにいると、混雑した物の中から、不意に竹林のイメージが膨らみはじめた。それは急速に場を支配すると、ある種の物語が始まった。永遠亭の住人の物語が。月の姫と月の頭脳の語らいが。
「なるほど」と私は理解した。
「『夢の共有』とドレミーは言っていたわ。たぶんここでは、互いの想像が空間を創るのでしょう。そしてその中に、あなたの悪夢への答えがある」
そして、私たちは様々な夢を幾度も再生した。私は夢など滅多に見ないと思っていたが、彼女の数々のイメージに触発されて、忘れ去られた夢たちがおのずと展開された。海は山へ、夜は朝へ、白は黒へ……想像は絶えず移り変わっていった。初めは一度に一つの夢しか見ることが出来なかったが、徐々にそれは数を増し、時には十の夢を同時に判別して私たちは見た。そしてそれらは、例外なく次の連想をたちまち導いた。想像力の速度を私は知った。そこには夢を覗かれることへの羞恥やサグメへの嫌悪が割り込める余地などいっさい無かった。
私もサグメも長く生きているので、夢の源泉は無限に尽きぬように思われた。事実、これまで蘇った無数の夢に一つとして同じ物は無かった。しかし、速度は突如として停止した。あらゆる夢を貫いて、射殺される雉のイメージが空間を覆い尽くした。
――この鳥は鳴く声がひどく不吉です。射殺してしまいなさい。
――不思議な鳥が来て、杜の梢にとまっております。
二つの言葉が響き渡り、せめぎ合っていた。稀神サグメの声だと思ったが、傍らの彼女はただ口元を隠して慄いているだけだ。
言葉が繰り返されるたびに、雉は射抜かれた。射手もまた、まもなく射抜かれた。残されたのはただ一人、過去の稀神サグメだけだった。
「どういうこと」と私は呟く。サグメは言葉を失っていた。うずくまる彼女の肩を揺らすと、「どうして」と彼女は小さく零した。
辺りを見渡すと、過去のサグメが雉の亡骸を抱いてくずおれていた。私はそうした彼女の背中を見て、ある相違に気が付いた。過去のサグメも現在と同じく片翼だったが、彼女にはまさに今、左の翼が形成されつつあったのだ。
しかし、それはもはや翼と呼ぶには歪だった。それは一種の川のように、黒い液体となって溢れ出していた。永遠に止むことのない涙や血とほとんど混ざり合って、流れ出るその黒は巨大な翼を地に描いた。
そしてその黒翼を見た瞬間、私は思わず連想してしまった。天狗となる前の、一介の烏だった頃の記憶を。それに呼応して、夢の続きは始まった。サグメの左の翼は、地に打ち棄てられてなお穢れと霊力とを宿していたために、神の羽の一つ一つはやがて無数の鴉へと反転した。そして、その中に私は私を見つけた。私は自分の無知に驚いた。それから先のことは、おおかた覚えている通りの歴史だった。長く生きた鴉は妖怪に、鴉天狗に成り果てた。天狗がしばしば神とも妖怪とも捉えられるのは、この起源のせいなのだろう。
「大丈夫?」と今度はサグメが私を心配した。そこで私ははじめて自分が蒼褪めているのだと分かった。
「そちらこそ」と私はつとめて平気な振りをした。
「もう良くなったわ。ありがとう」と彼女も笑顔を作った。
「それにしても、今のは夢じゃないと思うのだけど。どちらかと言えば、過去の事実?」
先程の光景について考えている内に、そうした疑問が自然と言葉となって発せられた。サグメも同様に悩んでいたが、しばらくすると彼女は答えてみせた。
「一種の夢判断をしているのよ」
それから、「ドレミーの話によると」と前置きして彼女は続ける。
「夢というのは、無意識的な現象だけど、私たちは目覚めているときも、実はその無意識の領域から影響を受けているの。忘れ去られた記憶も、その点では夢と変わらない。そして、そうした物があまりに強くなったときには――」
「悪夢となって、あるいは病となって現れる」
私の推測を彼女は認めた。
「じゃあ、あれはそうした記憶だったのね」
「そうね。だけど、忘れられない記憶」
彼女は目を伏せて黙った。ややあって、「ねえ、聞いてくれる?」とサグメは口を開いた。私は頷いた。
「実を言うと、私はあの時の自分の言葉を覚えていないの。だから人々を通してしか、それを確かめる術は無かった。でも、それはけっして一意には定まらない」
私は彼女の言葉を容易に理解することができた。天狗にまつわる伝承はあまりに多い。先に見た、サグメに由来する私の起源さえも、おそらく諸説の一つにすぎないのだ。ゆえに私たちは、確固たる同一性を永遠に持つことが出来ない。
「そこで、私は逆にそれを利用しようと考えた。未確定の事象ならば、私は言葉で運命を逆転させることができた。そしてそれは、未来だけでなく、過去にも効果が及びうる」
歯車のイメージが私たちを取り巻いた。もし運命が、列をなす歯車の形をしているならば、その内の一つの逆転は二つの方向へ及ぶはずだと彼女は言った。
「事実としての過去は確定しているけれど、神や妖怪の過去は不定だわ。それらは信仰や伝承――つまり解釈の上で揺れているから」
そして彼女は運命を変えるべく幾度も言葉を吐いた。自身を穢れから決別させ、月の都を守るのだという大義のために、利己心は見事に隠された。言葉の数だけ歯車は巡り、結合し、無数の解釈は神々に連なる鎖となった。
「でも、結果は見ての通り。私は未だに半分のままで、あなたたち天狗や天邪鬼といった妖怪が生まれた。私は結局、罪を増やしただけだった」
鴉がすべて飛び去った後、わずかに残された左翼の骨格は、長い時間を掛けて童の姿を象った。白と黒とが混ざった髪に、妖怪であることを示す角と罪の赤色が覗く。私たちはすでに例の彼女を思い浮かべていた。鬼人正邪がそこに生まれていた。
「ああ、道理で」と私は納得した。神の骨を肉体としながらも、その身はすでに穢れの病に侵されている。鬼人正邪が妖怪としてあまりに脆弱なのは、自然な話だった。
そこですべての夢は霧消した。ただ広大な宇宙だけが私たちを取り巻いていた。
「あの子に対しても、あなたたちに対しても、私は取り返しの付かないことをしたと思っているわ。だから、ごめんなさい」
サグメは頭を下げた。私は困惑した。彼女がなぜ謝罪しているのか、正直理解できなかった。私はしばらく考えた後に、一つの結論を出し、口を開いた。
「なぜあなたのことが気に入らないのか、私はずっと考えていた。でも、今分かった」
天に叛く天狗の本能なのか、産み落とされたことへの復讐なのか、あるいはただ個人として気に食わないのか……色々と考えられる要因はあったが、結局のところ答えは簡単なことだった。深く息を吸って、私は叫んだ。
「そういうところが嫌い」
サグメは驚いた表情でこちらを見ていた。まだ分かっていないのかと苛立って、私は勢いに任せて言った。
「言葉で運命を変えるなんて、特別でも何でもない。誰でもしていることよ。それを自分一人の自由だと考えることも、ましてその結果について勝手な罪悪感ばかり抱いているのも、ただの思い上がりで、傲慢にすぎない」
私の言葉を受けて、サグメはわずかに頬を緩めた。まったく腹立たしいことだと思ったが、なぜか私はそれが嬉しくて、知れず笑顔が零れるのを抑えきれない。
「改めて私はあなたに叛きます。あなたよりも上手く、私は言葉で運命を変えてみせる」
「では、きっと最後の呪いをあなたに贈りましょう。その道に幸いあれ!」
この上ない自然な笑顔で、二人はそう誓った。
遠雷が聞こえる。暗い宇宙を成す夢の空間は、その光によって引き裂かれつつあった。逸れゆく星々の向こうに草原の燃えている様が見える。そこには白い霧も永遠の滝も存在しない。すべての水は雨となって燎原へ降り注いでいた。変わらないのは月だけだ。あの部屋の中で、ドレミーがこちらに手を振っている。私たちは頷くと、どちらからともなく手をほどいた。
そして、今度こそ私は目覚めた。薄暗い部屋の中に、朝日が差し込んでいた。
「悪夢……ではないようね」と私は呟く。奇妙な夢の全容は、今でも明確に思い出せた。私は傍らにあったあの古い日記を急いで開くと、その空白に夢の記憶を断片的に書き付けておいた。
それから顔を洗い、服を着替えて外出の支度を整える。新聞記事はまず写真からだ。私は夢で撮ったいくつかの写真のことを考えていた。あれをなんとか現像して、記事にしようと思った。普通なら一笑に付される企てだろうが、きっと上手くいくという妙な確信が私にはあった。おそらく、昨夜の出来事に限っては、夢であって夢ではない――あるいは、夢と現実は、そこまで厳しく分かたれた物ではないのだと私は感じていた。幻想郷と外の世界が、曖昧に繋がっているように。私たちの過去と未来が、緩やかに連続しているように。
そうと決まれば、一刻も早く試さなければならない。私は家を飛び出した。
羽ばたく翼を、降り残した雨の一滴が濡らす。私は速度を上げた。天から山の全景を見下ろしながら、私は考える。河童の元か、天狗の印刷所か、行き先の候補はいくつかあったが、やはり目指す場所はすでに一つに定まっていた。
まずは、はたてに会いに行こう。彼女となら、私はまた夢を見られると思った。
空音氏の幻想的なお話が好きです。
サグメさんは悩み多き方ですね。
素敵な夢を覗かせていただきました