※一部過激な表現を含みます。色んなことが許せる方だけお読みください※
弦楽器を中心とした室内楽を数多く作曲したルナサ氏であるが、中にはその意図を判じかねるような作品もいくつか残している。GMC(幻想郷音楽家協同組合)の理事並びにコンプライアンス委員会副委員長の職を辞して、最初に上梓したスコアブック「アメリカーノ」に収録された“二胡とヴァイオリンのための練習曲”もその一つだ。
このスコアブックに掲載された曲のほとんどは、同時に発売された同名のアルバムに収録されているのだが、この曲だけは実際に演奏された音源が存在しない。また、練習曲(エチュード)と銘打たれている割には、スコアを見る限り、演奏技術の向上を意図しているようには見えないし、何よりヴァイオリンのパート譜がなく、二胡が単体でふざけたような幼稚な旋律を繰り返すだけなのだ。
本紙の取材に対しルナサ氏は、この曲について何一つ語らず、また今後コンサート等で演奏する予定も無いとのことだ。編集部としては彼女の意図をぜひ知りたいものである。
妖精の寝息が響く執務室。
冬の終わりが近いのに、長引く寒さが厳しい。
レミリア・スカーレットはそんななか、報告書を暗澹たる気持ちで読んでいた。
「美鈴をここに呼んで、今すぐに」
ほどなく、ツナギ姿の美鈴がやってきた。庭園の手入れ中だったらしく、微かに土の匂いがする。
「お待たせいたしました」
「待ってない」
キョトンとする彼女を半眼で睨めつける。
「いつも言ってるでしょう。急ぎの時は急ぎだと言うから、そうでないときはゆっくりでいいと」
「え、ああ、いやあ……。別にそんなに急いだわけじゃないですけど。着替えてきた方が良かったですか?」
「そういうことじゃなくて、……もういい、本題に入るわ」
私が促すと、同席していた総務部労務課長――下級契約小悪魔が先ほどの報告書を美鈴に手渡す。
「読んでみなさい」
「?えーっと、『警備部長兼外勤スタッフ統括 紅美鈴の休暇取得状況調査』……??」
これは美鈴直属の妖精うろうろ(命名・私)に調査させたものだ。
「有給休暇実際取得率5% これどういうこと?毎月提出されてる報告書と大きく乖離しているけれど。調査によれば有給申請書を出しておきながら、普段となんら変わらず勤務している、とある。また、定休日についても、休出スタッフを手伝ったり、庭園の手入れをしたり、トレーニングしたり。たまに人里まで買い物に行くほかは全く休んでいないということだけど、いったいどうなっているの?」
「いや、別に何かを偽ったつもりは……」
美鈴は当惑した様子だ。
「休みって言ったって、特にやることがあるわけでもありませんし、スタッフを手伝ったり、花壇の手入れをするのは私なりの休日の過ごし方といいますか。なんなら居眠りとかもしてますし、そんなにカッチリ勤務してるかというと……。あと、トレーニングは普通に趣味ですし……」
「バカたれ」
「へ?」
「おたんこなす」
「なっ」
「責められる謂れはないと言いたげだな。お前も咲夜もとんだワーカホリックだ。管理者としての私の立場がない。就業規則読んで無いわけ?」
私は机の引き出しからページ幅と背幅の区別がつかない、ブロック状の紅魔館定款諸規定集を引きずり出し、投げつける。
「おわっとと!」
さらっとナイスキャッチしやがって。
「この報告書を読む限りでは、お前が休日だと主張する期間のほとんどを、客観的には勤務時間であると判断せざるを得ない。如何に休日の過ごし方が自由とはいえ、庭園の保守管理は業務6班の仕事の範疇だし、トレーニングも警備部の業務の一環よ。このような状況を看過していた総務部は厳重に指導しなければならないし、再発防止策を早急に策定させるわ。そして美鈴、貴方には今後このようなことがないように厳重注意を与えるとともに、過去の有給、休日手当について実態に見合うよう算出し直して、即座に取得するよう命じるわ」
「そんな大げさな……」
「悪魔である私に、契約を破れというのか?」
それは最大の侮辱だ。
「……畏まりました」
しぶしぶといった様子で、美鈴は執務室を出た。
************meiling
あんなに怒られるとは思わなかった。
私は、とばっちりで怒られる羽目になった労務課長のマネジアに詫びを入れてから警備部の詰所に戻った。
「うろちゃーん、ちょっとこっちおいでー」
外勤統括補佐、という大仰な役職を与えられているうろうろは、実質私の副官である。そんな腹心の部下からお嬢様へのまさかの告げ口でとんでもないことになってしまった。
うろうろは怒られるのが分かっているからか、半笑いで一定の距離を保ったまま一向に近づいてこない。
「今来れば怒らないから、さっさとこっちに来なさーい」
「やだー、絶対怒るものー。そういって怒らなかったことないものー」
よく分かってるじゃないか。
「ひとこと言ってくれればもっと柔らかい解決が出来てたでしょうが!」
素早く近づいてうろうろの首根っこを摑まえ、猫のようにぶら下げる。
「だってぇー、お嬢様がぁー」
「だってじゃな……い?」
何者かの気配を感じて振り返ると、詰所の入り口に目を輝かせてこちらを見ている妖精がいた。
「見いちゃった」
私は素早くうろうろを地面に降ろし、襟をポンポンと直してやる。
「も、もー、うろうろったら。襟が乱れてたわよー?」
何もしてませんアピール。
「うろうろはお嬢様の指示に従っていただけなのに、美鈴さんが暴行を……。お嬢様に報告しなければ」
楽しそうに呟く彼女はお嬢様の秘書のしいたけ(命名:お嬢様)だ。しいたけはお嬢様の直属なので私も、咲夜さんも、何なら妹様もコントロールできない。
「ち、ちがうから。パワハラとかじゃないから」
「ふふーん?」
しいたけは意味深に笑っている。
「お嬢様から伝言です『うろうろとじゃれてる暇があるなら必要な手続を早く済ませるように』とのことです」
なんでもお見通しというわけだ。
「これをどうぞ」
しいたけから受け取ったバインダーには、再計算された休日出勤手当と有給休暇日数が書かれていた。
「これ……マジ?」
休日手当は年収に近い額が書き込まれている。そして有給休暇は……。
「188日……」
「うち、有給の繰越限度15年なんでホントはもっとあるんですけど、お嬢様が最低限半分は消化させろというので、少なくともその日数は絶対休んでください」
しいたけは淡々と言う。
「バカンスじゃん、やったね!」
うろうろは黙ってろ。
労務課に行って188日分の有給休暇を申請。
休日出勤手当については額が大きいため、お嬢様の特別決裁によって手渡しで受け取った。
「私、こんなに長期間お休みもらっても……その間のお仕事は大丈夫でしょうか」
「どうにでもなる。お前や、咲夜や、なんなら私がいなくなっても仕事が回るように普段からBCP(事業継続計画)を作ってある。まさか、有給休暇の過少申告で使う羽目になるとは思わなかったが」
お嬢様は、そういうところでは少しドライだ。
情に厚いヒトなのは知っているが、仕事となれば替えの利かない存在などリスクでしかないと分かっている。それをこういって面と向かって言えてしまうのは、信頼の証なのだろうが。
「することないんですが」
「戻ってくるなとは言わないから、取り合えず紅魔館から離れてみたらどう?」
「うぇ?」
そういえばこの紅魔館が館ごと幻想入りして以来、そんなに長期間にわたって館を離れたことはなかった。
「だって、ここにいたら絶対なにかしら理由をつけて仕事をするでしょう。それとも、完全にゲストとして振舞うことができるというなら最大限もてなすけど」
「私にそんなこと出来ないのわかってるくせに」
「そうかな、そういう時代もあったでしょう?」
「……」
お嬢様――レミリアの方からその話題に触れるのは珍しいなと思った。
私はかつて、この館の門番ではなく、お客様だった時代がある。そのことをもうずいぶん長い間、私自身意識していなかったけれど。
「まあ、いいわ。ホントはうろうろのためでもあるのよ」
「え、ああ。あの子も今のポストについて結構経ってますからね」
妖精は妖怪と長く過ごし過ぎると自然から離れていってしまう。
「焼け石に水程度だけど、少し距離をとって様子見しましょう。ダメそうなら配置転換を考えるけど。とにかく、まああなたも少し羽休めしなさい。紅魔館を離れて、ね?」
紅魔館は、私にとっては殆ど存在の一部だ。
そのくらい、ここには沢山の思い出があり、暮らしてきた時間がある。良い思い出ばかりではない。いや寧ろ、最初の一時と、この幻想郷に来てからの穏やかな日々を除けば、辛いことばかりだったかもしれない。ひょっとしてレミリアは……お嬢様は、私に気を使って、ということなのだろうか。勿論諸々ほかの理由もすべて事実なんだろうけど。
仕事を離れて、紅魔館と距離を置いて。
そんなのどれくらいぶりだろう。
ざっくりとした業務の引継ぎを済ませて部屋で荷造りをする。
別に期間中、紅魔館に帰ってきてはいけないと言われたわけじゃないし、当面必要なものだけまとめていけばいいだろう。
そう思って、着替えやら、ちょっとした趣味の道具、日記、簡単な武具、少しの保存食をベッドの上にまとめ、さあカバンに詰めようと思ったところで、はて旅行鞄なんかどこにあったかなと手が止まる。この部屋になければ、それはあの場所だけだ。
紅魔館はもともと、大きな城であった。その中でも居住スペースであった館と、いくらかの城壁、塔の一部だけを幻想郷に移設している。私がこの紅魔館の客人だったころ、私の居室は館の東側の塔、その4階にあった。今ではあまり使っていないその塔に、私の部屋はまだ残されている。
中に入ると、きれいに掃除されていた。眺めはいいから、時々、私とお嬢様、あるいは妹様がディナーに使ったりしていて、手入れは行き届いている。さらに奥へ、扉を開けると簡素なベッドが置かれたこじんまりとした寝室がある。クローゼットを開けると、数着の旅行着と、大きな旅行鞄が収まっていた。今見ればアンティーク調の、当時は最新式だった無骨なものだ。
持ち上げると、持ち手がしっくりと来る。それだけで、何百年も前の時代を感じるようだった。
結局私は、そのまま塔で一晩過ごし、出発は翌日になった。
************reisen
「いいですか?決められた量を、定期的に、必ず、服用してくださいね」
「わかったわかった」
本当に分かってるんだろうか。結構強い薬だから万が一があっては困る。師匠に怒られるのは私なのだ。
目の前のPt、ルナサ・プリズムリバーは薬をもらったら、もう用は済んだとばかりのテンションである。自分の健康というものにあまり関心のないタイプに多い態度だ。まあ、ポルターガイストの健康とは何ぞやと問われても、私にはわからないけれど。
私は懐から取り出したメモ用紙に、服用の時期と量を書きつけて手渡す。用法容量はきちんと書かれた資料が薬袋に同封されているが、念のためだ。
「これを、必ず見えるところに貼っておいて下さいね」
「……わかったよ」
そういうと彼女は面倒くさそうにそれをカバンにしまった。
彼女には他にもストレス軽減用の薬とか、睡眠導入剤とかを過去に処方している。そのあたりのバランスを考えて薬を調合するのは本当に手間なのだ。そこのところをもうちょっと分かってほしい。
「ところでウサギさん」
「人里で変な呼び方しないで。鈴仙て呼んで」
「じゃあ鈴仙。薬代の回収だけど、私、最近家に帰ってないんだ。前に教えた住所に来られてもいないから請求書は職場の方に届けておいてくれないか」
「職場って……あの、中町のGMCの事務所ですか」
ルナサ・プリズムリバーは妖怪としての素性を明かしたまま、人里で働いている数少ない例外だ。最近何やら忙しいらしい。
「うん。いつもいるわけじゃないけど、不在の時は預けておいて」
そういうとルナサさんはいそいそと立ち去ってしまった。
目の下のクマが凄かったし、体重も減ってそうだし、できれば近いうちにまた永遠亭まで受診に来てほしいところだ。
************meiling
紅魔館を出て、行く当てがないではなかった。
正直路銀は余らせるほどあるし、人里に行ってしばらく贅沢するとか、妖怪の山まで旅行に行くのもありだと思うけど、とりあえずそれは後の楽しみにすればいい。
私は、紅魔館がある霧の湖の近くに、家を持っている。家といっても、掘っ立て小屋まで言わないが、まあ小さなログハウスのようなものだ。紅魔館でこんなにうまくやっていける今になって考えると、余計な保険を掛けたものだと思うが、幻想郷に来てすぐの頃は、情勢が安定したら出ていこうと思っていたのだ。
それからしばらくは、独りになりたいときなんか、たまに訪れていたのだが、もうこの何年もほったらかしにしていた。
かなり荒れているだろうが、時間はたっぷりあるし、補修や掃除をして、しばらくはそこを拠点にのんびりしようと思っていた。
ところがである。
小屋は霧の湖、紅魔館からはその外周を四分の一ほど回って、その岸から100メートルと少し森の中に入ったところにある。最後に来てから何年かたっているのに、場所を忘れていなかったのは僥倖だ。
と、小屋を視認したところで、違和感を感じた。周辺の落ち葉が通り道に沿って軽く掃かれて、小屋の外壁も塗りなおされたように綺麗だ。
誰か住んでるのだろうか。
一応その可能性も考慮はしていた。屋内にはさほど価値のあるものを置いていたわけでもないし、寧ろ、偶然たどり着いた誰かが中で休んだりすれば、小屋の寿命も延びるしいいだろうというつもりで、鍵もかけていなかった。
しかし、見る限り、私が最後に来た頃より綺麗になっているというのが驚きだ。気まぐれに住み着いたという感じではない。完全に計画的に定住するつもりで管理しているようだ。
紅魔館の牽制がぎりぎり及ぶ領域ではあるが、数年間放置していた小屋に所有権を主張するのもなんだし、様子見だけして誰か住んでる様子ならあきらめよう。
早速予定が狂ってしまった。
近寄ってみても、中から人間なり妖怪なりの気配は感じない。
ドアノブをひねると鍵はかかっていなかった。
「おじゃましまーす……」
ただいまと言いたいところだが、誰かいるなら誤解を招く。
中は薄暗い。
ここは森の中ではあるけれど、木々はまばらで日も差し込んでいるはずなのに。カーテンが閉め切られているらしい。日光が苦手なのか?
部屋はぶち抜きで17~8畳の一間だったはず。ちょうど長方形の長辺の真ん中から入る形だ。見回すと右側に簡易の水場と煮炊きができるコンロがある。ソファやテーブルなど、新たに持ち込まれているようだ。左側は少し狭くなっているように感じる。壁を作って二間にしたのだろうか。奥を確認しようとしたその時、
「うう……」
という人のうめき声のようなものが聞こえた。
上からだ。
梯子を上って5畳ほどのロフトがあるのだ。
「誰かいるの?」
私は声をかけながら梯子を上る。
ロフトの上にはベッドがあって、誰かがそのうえで蹲っていた。いや、寝てるのか? これで寝てるんだとしたら凄く寝相が、その……
「ううう……」
やっぱり何か体調が悪いっぽい。
「ちょっと、大丈夫ですか?」
ひっくり返して仰向けにすると、目があらぬ方向を向いている。全く焦点が合ってないし、口の端が汚れていて、ひょっとすると嘔吐しているかもしれない。恐らく女性で身長は低くはないが細身だ。運ぶのは容易だろうが、紅魔館まで運ぶべきか。
と声をかけながら考えていると、枕元に何やら薬らしきものが置いてあるのに気付いた。その女性をそのまま寝せて、カーテンを開く。
「あれ、ルナサさん?!」
どうやら女性は紅魔館でも何度かコンサートに呼んだことがあるルナサ・プリズムリバーだった。いや、今は驚いている場合ではない。
枕元の錠剤には特に薬名が見つからない。一緒に置いてあったメモ紙には、薬の服用間隔と服用量が書かれている。一緒にあった薬袋の日付と今日の日付、そのメモの内容をもとに残っている錠剤の数を数える。
「……余りが多い?」
焦りで手が震える。彼女の様子を見る限り状況は切迫しているようだ。恐らく問題は、薬の飲み忘れらしい。一度ロフトから降りて、水差しをとってくる。メモ紙を見ながら慎重に服用量を確かめた。
「ルナサさん、ルナサさん? 聞こえますか?」
「……」
だめだ完全に意識が飛んでしまっている。
唇に指を突っ込んで口蓋を開く。錠剤をできるだけ奥に押し込み、誤嚥しないように角度を調整しながら水を流し込んだ。少しむせたようだが、そのまま飲み込んでくれた。
症状が安定してくれるといいけど
************lunasa
意識がはっきりするのに、そう時間はかからない。だいたい服用から5分もしないうちに、覿面に効果を発揮する。
ただ、それはそれとして、状況は飲み込めず。
私はソファに腰かけて、どういう経緯でか、この私の別邸兼スタジオをてきぱきと掃除して回る美鈴の姿をぼーっと眺めていた。
「落ち着きましたか?」
「あ、うん。いや、まあある意味落ち着かないのだけれども」
マグカップに手渡されたミルクティーに息を吹きかけながら、正直なところを述べる。
「どうも助けてもらったようなのだけれど、美鈴さん? で、よかったかしら」
「あ、呼び捨てで構いませんよ。仕事できたわけじゃありませんし」
美鈴は屈託なく笑うと、自分の分のミルクティーを啜った。
「では、美鈴。いったい如何いうわけでここに? 仕事ではないということだけど」
「質問に質問を返しますが、ルナサさんはどういった経緯でここにいらっしゃるんですか?」
「私……?」
まさかそんなことを聞かれるとは思わなかった。
ここは我が家――プリズムリバー邸からそんなに離れていない。2年ほど前、周辺を散歩しているときに偶然見つけた空き家だった。
「ちょっと一人になれる場所が欲しいと思っていたところでね。恐らく紅魔館のシマの中だと思って、レミリアさんに確認をしたんだ」
「お嬢様に?」
美鈴は意外そうな顔をした。
「うん。周辺の人間や妖怪に確認してくれて、どうやら長く放置された空き家のようだから、好きにしていいってね。もし誰かとトラブルになったら、紅魔館が間に入ってくれるっていうから、ちょっとしたお礼金を包んで」
そうして、周辺を少し整備して、内装をいくらか弄った。録音兼練習用のスタジオが欲しかったから、ロフトの下のスペースを防音壁で囲って、3畳ほどの小さな部屋を新たに作った。
「そういうことでしたか」
「美鈴は、それで、どういうわけでここに?」
てっきりレミリアさんから様子見でも頼まれたのかと思ったのだが、そうであるならば私がここに住むことになった経緯を知らないのはおかしいし。
「いや実は、まさにその空き家の持ち主……今となっては、だった、というべきでしょうが、それが私なんです。ここ建てたの、私」
美鈴が自分を指さしながら笑っている。
「ええっ? それはまた、一体全体……」
美鈴は紅魔館で働く妖怪だったはず。レミリアさんは知らなかったのだろうか?
「まさかお嬢様の許可があってのことだったとは」
「いや、まさか貴方の家だったとは露知らず、とんだ無礼をしました。しかし、もうかなり手を入れてしまったし、立ち退くにしてもできれば少し時間を貰えると……」
そんなようなことを言いながら、算段を練っていると美鈴に慌てて止められた。
「そんなそんな。いいんですよ、何年も放置していたんですから。ましてやお嬢様が許可しているものを立ち退きなんてとんでもない。私の方こそ勝手に入ってすみませんでした」
お互いにひとしきり謝りあい、頭を下げあって、漸く話を進める方向でまとまる。
「美鈴が来てくれていなければ、割と危ないところだったし、本当に気にしないで」
状況もよくわからない中で、よく適切な処置をしてくれたものだと感心する。
「ああ、いや普通あんな状況に出くわしたら、誰でもそうしますって」
美鈴は笑いながらそう言った。
果たしてそうだろうか?
誰しも、面倒ごとにはかかわりたくないものだ。そういう発想は、誰かとのかかわりの中で生きてきて、そのことでたくさんのものを得てきたヒトにしかできないだろう。それに、この小屋にはかなり高価なものを無防備においていた。まあ、ストラディバリウスなんか盗んだところで、誰が買うんだって話かもしれないけれど。
「それより、いったい何の薬だったんですか……って、普通に聞いていいもんですかね」
「ああ」
通常、健康状態、既往症といったものは個人情報の最たるもので、他人にペラペラしゃべるものではない。とはいえ、訳も分からず、それでも処置をしてくれた相手だ。それを尋ねる権利は十分にあるものと考えるところだろう。
「それを説明するには少し長くなるんだけど、いいのかな」
「ええ、まあ。時間は持て余してるくらいなんで」
そういえば彼女は紅魔館で働いている身だ。
ここが、その昔美鈴が建てた小屋だということはすでに聞いたけれど、放置していたそれに今日、突然やってきた経緯はまだ分かっていない。失職したってことはないだろうが――そも、レミリアさんが彼女を手放すとは思えない――何かしら事情があるのだろう。
「じゃあ、……なんだろう、ゆっくりしていってというのも立場としておかしいが、まあくつろいでほしい」
「それじゃあ、お茶のお代わりを入れましょうかね」
私は、言わずと知れた三姉妹の長女だ。
それはもちろん、これまでに何度も紅魔館にも呼んでもらっているし、ご存知のことだろうけども。私たちプリズムリバー三姉妹は、この近くにある廃洋館に住んでいる。実の姉妹と離れ離れになり、いわくつきのマジックアイテムと、誰もいない洋館とともに幻想入りした少女が生んだポルターガイストだ。
私は鬱の音を、真ん中の妹は躁の音を、一番下の妹は幻想の音をつかさどって、毎日みんなで音楽を奏でて過ごしていた。
そんな彼女が亡くなって、もうずいぶん経つ。
私たちは彼女の思い出を大事にしながら、彼女のために音楽を奏で、また自分たちのためにも音楽を奏で続けた。
この幻想郷は最近とみに平和になってきて、私たちは誰もいない場所で、妖精相手にコンサートをやるばかりの毎日を通り過ぎ、たくさんの人間と妖怪と、その他のいろいろな連中に音楽を届けられるようになっていった。
人間にも、西洋音楽をやる連中が現れて、私は時折、彼らに手ほどきをするようになっていった。二番目の妹は、妖怪たちに重宝がられ、いろんな場所に出向いて、その手で幸せを配って歩いた。下の妹は音楽ビジネスに目覚め、精力的にコンサート活動をしている。それも人間や妖怪と一緒になって。
一度、妹たちと話しをしてみた。
この先私たちはどう過ごしていくのかって。
廃洋館でひたすらに音楽を奏で続けて、いつしか消えていくまでそうしているのか。
それはなんだか違うんじゃないかってことになった。実際、私たちは活動の幅を広げることで新しい曲の構想を思いついたり、演奏技術も向上したし、レイラを、……その、私たちを生んだ少女を慰めることができるようになったんじゃないかと思うようになった。
私たち自身がそれを楽しんでいたというのも大きい。
騒霊として生まれたからには、これからもその信条の向くままに音を鳴らし続けていきたい。そう思って、私たちはしばらくそれぞれ、自分の思うままに進んでみようということになった。
「だから、今、プリズムリバー邸で主に生活しているのは上の妹、メルランだけで、私は主に人里とここを行き来しているし、下の妹、リリカは根無し草というか、今どこで何をしているか分からないの」
「そういえば、プリズムリバーがそろってライブをやるのを暫く聞いていませんね」
美鈴はチョコレートをひとかけ齧って頷く。
「今私は、人里で音楽を生業とする人たちの組合の活動に参加しているんだ」
「職業音楽家協同組合、でしたっけ?」
「今はGMCと改名したんだ。いろいろあって」
私は西洋音楽を志す少数の演奏家たちにとって数少ない指導者だった。彼らと過ごすうちに、その他にも多くの音楽家の知り合いが増えた。聴衆の絶対数が少ないこの幻想郷において、演奏家、歌手、作曲家、楽器製作者、そういう人たちがプロとしてやっていくのは簡単じゃない。そこで彼らが組合を作ることになった時、私も協力することになった。西洋音楽特別顧問、なんて大仰な役職を頂いて、理事の一角に収まった。
そこまではよかったんだけど。
最近、楽器の付喪神が相次いで現れて、音楽業界が凄く盛り上がったんだ。それにええじゃないか騒動で娯楽の需要も増えて、急にバブルみたいな状況になった。
騒音被害への苦情なんかが出る中で、不祥事が起きてさあ大変。やれ責任者を追放しろ、コンプライアンス委員会を設立して再発防止策を作れ……。主要な理事が糾弾される中、理事会と距離があった私にコンプラ委員会のサブリーダーをやってくれとお鉢が回ってきたんだ。
「ほとんど名義貸しみたいな形で理事に名を連ねていただけだったのに……」
「なんというか、……災難でしたね」
美鈴が同情の目を向けていた。全くだよ。
「もともと個別の活動が多くなって妹たちと演奏ができてなかったんだ。そこへきてなんだかんだと忙しくなっちゃってね。私が鬱の音を操るのは知っているよね」
「ええ、人の気分を鎮めたり、落ち着かせたりする能力があると」
「そんなに便利なものでもないんだけどね。ある程度コントロールは聞くけれど、基本的には私の意図に関係なく、常にその効力は発揮されているんだ。それに、私の騒霊としての性質自体が鬱の感情に起因しているから、凄く乱暴な言い方をすると、私自身が重度の鬱病を患っているようなものだ」
「ええっ、でも、そんな風には……いや見た目に分かる類の話でもないんでしょうけど」
美鈴は途端に気づかわし気な空気を醸し出す。
なんというか、つくづく他者に気を使うヒトなんだなあ。
「いや、印象としては間違いないよ。あくまで例えるならば、という話であって、人間の鬱病とは全然違うものだから。それに、妹たちと一緒に演奏することで、そうした精神の変調はほとんど感じられないほどに落ち着かせることができるんだ」
メルランの躁の音と私の鬱の音は互いの性質を打ち消しあう。
「なるほど……。あ、だから?」
「そう。忙しくてその演奏の機会が作れなくて、私の精神がどんどん鬱側に寄って行ってしまってね。正直、仕事どころじゃなくなってしまったんだ。そこで永遠亭に行って、薬の力で対処しようとしたんだよ」
私は先ほど美鈴が飲ませてくれた錠剤を見せる。
「騒霊専用向精神薬。定期的に服用すればかなりまともな精神状態を維持できる優れものだよ」
服用から数分で効果が出て、長く持続する。
一日に二度服用すれば効果は切れることなく、それなりに正気でいられる。
「そうだとしたら、どうしてあんなことになっていたの? って、聞いてもいい?」
そう尋ねる美鈴は、自分のことでもないのに、どうしてかひどくおびえている様子だった。いや、実際そのようなことはないんだろうけど、私にはそんな風に見えた。
「つい、飲み忘れただけ。それだけよ」
だから、なんとなく、本当になんとなく、はぐらかしてしまった。
************meiling
なんだかんだ話し込むうちに日が傾いてきた。
手持ちの懐中時計を見ると、すでに5時を回っていた。
「私ばかり話してしまったけど、美鈴、貴方は今日どうするの。その荷物と装いを見る限り旅行か何かの途中のようだけれど、ひょっとしてここに泊まるつもりだったのでは?」
ルナサはそのように水を向けてくる。
「ええ、まさにそのつもりだったのだけど。今日は人里まで足を延ばして宿を調達するわ」
「どうして?」
「……どうして、とは?」
ルナサは心底不思議そうな顔をしている。
「ここは元々あなたの家だったんだろう。勿論、私もそれなりに手順を踏んで今ここにいるわけで、出て行けと言われても困るけど、でも私もまたあなたを追い出すほどのことはないように思う。美鈴、貴方が嫌だというのでなければ泊まっていってはどうかな」
彼女が一体何を考えているのかは正直分かりかねた。
そもそも彼女はそれほど積極的に他者とかかわろうとするタイプではなかったように記憶しているが、私の思い違いだったのか、あるいは薬の効果で社交的に?
いずれにせよ、幾先に長大に横たわっていた退屈とは無縁でいられそうで、私にすれば否やはなかった。
「それでルナサさんが良いとおっしゃるなら」
「ルナサで結構」
「ではルナサ、ひとまず宜しく」
「こちらこそよろしくお願いするよ」
初日は食料調達の余裕がないと踏んで、食材を十分に持ってきていたのが幸いした。
いったいルナサがどのように暮らしているのか定かではないが、およそまともな食事をとっているとは思われない食糧庫の空き様に私はため息をついた。
ポルターガイストについての知識はさほど持っていないが、恐らく食事とは無縁の存在なのだろう。しかし、彼女たちが紅魔館のパーティに招かれた際、飲食をする様子は見たことがあるし、食べて食べられないこともまたないのだろう。
今日だけここに間借りする形になるのか、あるいはこれがしばらく続くのかは分からないが、できることならここに暫く留まって、彼女にある程度真っ当な食生活を送らせねばならないという謎の使命感を、私はひそかに感じていた。
「どうぞ、天津飯と麻婆豆腐です」
もともと一人暮らし用であったから、テーブルには一脚しかイスがなかったので、ルナサが増設したスタジオスペースから一脚持ってくることになった。テーブルクロスも何もないが、まあそれも素朴でいいだろう。
「いただき……うん?」
ルナサが天津飯を前に固まっている。
「あの、ひょっとして何か苦手なものでもあった?」
「ああ、いや、作ってもらったものに不満は言わないよ」
「いやいや、無理することないですよ。っていうかそんなにいやそうな顔されたらもう、気を遣われても遅いですって」
紅魔館でも、それ以前でも一応料理の腕はプロ級ということで通っていたから、自分の作ったモノをあからさまに忌避されるのは珍しい経験だ。あーもう、蓮華でつつくんじゃない。
「申し訳ない。どうしてもその、餡かけというのが苦手で」
なるほど。片栗粉でとろみをつけたもの全般を苦手とするヒトは少なくない。冷えていたり、ダマになっているようなのを最初に食べると苦手意識が付きやすいのだ。火の入れ方を間違うとドロッとなってしまうから。
「あー、仕方がありませんね。中身だけ少し残ってますから軽く炒め直して炒飯にでも……まだなにか?」
しゃべっている最中にもまた露骨に困った顔をするルナサに軽く呆れながら問いただす。
「いや、その、まあここまで来て取り繕っても仕方がないから言うけど、米もあまり……」
「……お米、苦手なんですか?」
うんうんと頷くルナサを見て、ピーマンを拒否る妖精メイドを思い出す。
米かー……。
私からすると信じがたい話だが、欧州の方には馴染みのない地域もある。基本、スティッキー(粘りのある)なものがダメ、というのはまあ、あるかもしれない。この分だとあんことかもダメだろうな。お嬢様が何でもオッケー過ぎて感覚がマヒしていた部分もあるかもしれない。納豆とか平気で食べるし。
「じゃあ、麻婆豆腐だけにしておきましょうか」
「ごめんね」
ルナサが申し訳なさそうにするのを見ると、しょうがないな、という気分になる。
「いえ、私も先に確認すべきでした」
ルナサは結構偏食家かもしれない。長女だし、仕事の時もしっかりしたヒトみたいだったから少し意外だ。
「じゃあ改めて頂きます。中華料理自体は好きなんだ。……ほんとだよ」
どうだろうか。片栗粉を使わない、米を使わないとなると中華でも結構幅は狭くなると思うが。
「はぁーむっ」
麻婆豆腐を口いっぱい頬張ったルナサは何となく子供っぽい。
もっちゃもっちゃと咀嚼している。
「んむ。これ美味し……っ!!!!!」
咀嚼の途中でルナサの動きが固まる。
あー、これ、あれか。
「ひょっとして辛いのもダメ?」
ルナサは静かに、うんうんと頷いた。完全に固まって、顔面から汗がふきだしている。代謝はいいらしい。
「あの、無理に飲み込まなくていいですからね。今デザートに作った杏仁豆腐を持ってきます!」
結局ルナサが食べたのは杏仁豆腐だけであり、更にその感想については「舌がビリビリして全く味を感じない」とのことであった。これが私でなくて恋人や夫婦であったならマジギレ間違いなし案件である。
「ちなみに、何だったら食べれるんですか?」
「パン……とか? オートミールとかは食べる。野菜はだいたいは食べるし、卵も火が通ってれば」
「……肉はどうです」
「焦げる寸前まで焼いたベーコンなら」
「魚介」
「むり」
……まじか。
いったい何を食べて生きてきたのか、と一瞬考えて、そもそもルナサは生きていないのだとすぐに思い当った。バカな問答をするところだった。それにしたって、食べられるたんぱく質、豆ぐらいしかないんじゃないのか。
「あ、お菓子はだいたい食べれる、よ?」
黙った私を見てルナサなりに自分の回答がまずいことに思い当たったらしく、あわてて付けたし、それでもなお判断を誤ったことを空気で察したようだ。
「ルナサ、精神の安定にはバランスのとれた食生活が不可欠です。ポルターガイストであるあなたに他の動物の常識がどれほどあてはまるか分かりませんが、ヒト型を取り、食事をとることが出来るという事実を鑑みるに、その影響は小さくないと思います」
「この年になって好き嫌いで怒られるとは思わなかった」
「そこで」
全部咄嗟の思い付きだ。
「私がルナサの食事と服薬の管理をします。代わりに、この家に私も住み込ませてください。期限はとりあえず1か月。以後必要なら定期的に更新ということでどうでしょう」
ルナサは私の方を見たままキョトンとしている。
「なにを、その、どうしたらそういう発想に?」
その問いを、私はあえてはぐらかしたのではない。
「別に、なんとなく、放っておけない気がしただけです。暇ですし」
本当に自分でも不思議だったのだ。
今でこそ紅魔館の従者として長いが、元々は誰かに仕えるような性格で無かったはずだ。
いつの間にかすっかり、そのようになってしまったのだろうか。
************lunasa
美鈴というのは非常に面白い妖怪である。
昨夜は何やら私の食の好みのことで怒らせてしまったようだが、ただそれも、気分を害したというよりは私の自己管理能力に対する心配の表れのようにも思われた。実はGMCの理事職を引き受けるようになってから事務の補佐をしてくれている妖怪の九十九弁々から、貴方は他人との会食に向いてないと苦言を呈されて、実際に会食の予定を喫茶店での面会に変更されたことが一度や二度ではなかったので、薄々そうなんじゃないかと気づいてはいたのだが。
そもそもこの小屋は改装費こそ負担したとはいえ、特に修繕を必要としない程度にはしっかりした作りだったし、私はそれを発見しただけで所有権を得てしまったのだ。如何に彼女の主人であるレミリアさんがそれを許可しているといっても、知らずのことであっただろうし、住まう代わりに食事の世話をするなんて言うのはこちらにしてみれば一方的に得をするだけなのだけど。
しかしその辺のことは美鈴の中では納得できていることのようで、私としてはそれを強く拒否することもできず、ほとんどなし崩しにこのような状況になっているのである。
揺り起こされると、既に食卓にはこんがりと焼きあがったトーストと、カリカリになるまで炒められたベーコンエッグ、ちょっとしたサラダが準備されている。
「おはようございます、ルナサ。いつもは何時頃起きてるんですか? 朝食は?」
美鈴は朝から元気爆発というか明朗快活というか。寝起きという概念が縁遠そうだ。
「おはよう美鈴。日によって起床時間はまちまちだよ」
昼過ぎだったり、夕方だったり、深夜だったりする。
そもそも就寝時刻、起床時刻、睡眠時間のすべてが常に流動的なので、決まった生活のリズムというものがないのだ。一日24時間という基礎単位に馴染めていない。
「あれだ、ほら、なんだっけ。そう、フレックスタイム制を導入しているの」
「フレックスな脳みそですね」
フレックスという言葉自体に悪い意味はないのに、なんとなくバカにされているのが雰囲気で分かってつらい。あれ、美鈴こんな感じなの。私が紅魔館で見ていた彼女は如何にも従者然としていて、かつ朗らかで優しいイメージだったんだけど。
「人里で仕事があるときはどうやって起きてたんですか」
「えーっと、起きてたというより、寝ないんだ。そういうとき」
「寝ない?」
美鈴は意味が分からないという顔。
「前の日、いや、昼夜も何もなかったから、必ずしも前の日でもなくて、その、寝るにあたって今寝たら約束の時間に起きないかもしれないというタイミングに、あの薬を飲むんだ。砕いて飲むと即効性があって、眠気がなくなるからそれで……!」
突然、美鈴に腕を掴まれて引っ張られる。
「痛っ」
「絶対やめてください、二度と、……そういうことをしないでください」
「あの、……美鈴?」
「いいですね?」
「ふぁい」
めっちゃ怖かった。
美鈴は手を放すと元の柔らかい雰囲気に戻って肩をすくめた。
「その様子では朝食、という概念すらあったもんだか怪しいですね。言っても怪異ですから健康とか栄養の話は二の次でしょうけど、メンタルに与える影響も大きいんですから、出来れば欠かさないほうがいいですよ」
「お、お金もかかるし……」
「私より稼いでるでしょう。それに、食事の周期がそれだけばらついていれば服薬に影響があるのは当然です。処方箋見る限り食後の薬みたいですから、食べずに飲むと胃に悪いですよ」
道理でいつも胃が痛いと思った。
「さあ、冷めないうちに食べちゃいましょう」
「あのー……」
たぶん呆れられるだろうなという確信があったのだけど、嘘をついても仕方ない。
「まだ何か問題が? 食べられないものは入ってないと思いますが」
「熱いの、苦手なんだ」
「……! ……っ!!」
美鈴が見えない何かと戦っている。ポルターガイストでもいるのかな。
「本当に、……あなたというヒトは、もおおおおお!」
なにやらジタバタしている美鈴を見ながら、私はベーコンにふうふうと息を吹きかけた。
美鈴は熱いの苦手じゃないみたいだし、冷める前に食べればいいのに。
私のイメージでは、世話焼きで、口うるさそうで、几帳面なのは寧ろ十六夜咲夜のほうだったのだが、こうなるとそれは美鈴の性質が伝染ったものなのではないかという疑惑が生まれてくる。まあ、あのメイドが何歳から紅魔館にいるのか定かではないが。
休暇を一括取得させられたという事情を昨晩聞いたところだが、のんびりした印象に反して仕事が好きなのかもしれない。
「はい、食後の薬です。一回2錠」
美鈴に水の入った竹製のコップと錠剤を手渡される。
ビビットカラーの粒を改めて見ると、なかなか口にするには躊躇する外観だ。
私の命綱であり、『足枷』でもあるそれを、ゆっくりと飲み下す。薬効が出るまで数分はかかるはずだが、早くも頭の中がすっきりしていく感覚がもたらされる。プラセボ効果というやつだろうか? ちょっと違うか。
屋内にいるのに天気が良くなったような錯覚がする。梅雨時に晴れ間が見えたような。手足が体に繋がっていて、血液が――はたして私に流れているのか知らないが――体を巡る。何でもないようなことが幸せに思えるといったのは外の世界の流行歌だったか。
「……目に見えて顔色が良くなりましたね」
「永遠亭の薬だからね。効き目は確かだ」
「それじゃあどうしてキチンと飲まないんですか」
美鈴が呆れたように笑いながら言う。
この薬が私にもたらすものの全てを彼女に話すべきか? 私はそのようには思えず、適当にはぐらかした。
「今日はどのような予定ですか?」
なんだか料理人というより、新しい秘書を雇ったような感じだ。美鈴はワインレッドのブラウス、ジーンズにブーツ――少なくとも私が済むようになって以降、ここは西洋風に土足だ――というラフな格好だが、俄然スーツを着せたくなる。眼鏡も似合いそう。
「ルナサ?」
半眼で睨まれ、思わず首をすくめる。
そんなに欲の漏れた表情をしていただろうか。タイトスカートでしゃがんでほしいと思ったのがばれたのか?
まあいい。仕事にかからなくては。
「今日はGMCコンプラ委員会の準備があるから、ずっとロフトで作業するよ」
ロフトにはベッドとライティングビューローがある。狭いけど、事務仕事に集中するにはいい環境だ。
「昨日の約束通りなら、昼食も美鈴が用意してくれるってことでいいのかな?」
「もちろん。何かご希望は?」
「軽いものがいいな。何ならサラダだけでもいい」
「分かりました」
いつもは食べないことも多いのだけど、要らないというとまた怒られそうだったのでやめた。私のテリトリーだったはずのスタジオ兼事務所は1日と経たず、美鈴に掌握されてしまった。泣ける。
「ところで美鈴、食材はどうしてるの」
作ってもらうところまでは、まあ納得したけれど、材料費の見合分くらいは払わないと流石に借りが大きいし、わざわざ里まで買いに行くようなら、ちょくちょく仕事で里に行く私が買ってきた方が効率もいいはずだ。現にこれまではそうしてきた。
「やっぱり鮮度のいいものを食べてもらいたいですから、朝から近くの知り合いを尋ねて買ってきました」
「近くの知り合い?」
「ええ」
そういえば紅魔館は里に馴染めず出奔してきた人間からみかじめ料――でいいんだろうか?――を徴収する代わりに妖怪に襲われないように保護しているんだったか。紅魔館の庇護下の人間を襲う――即ち紅魔館に喧嘩を売る――ようなバカは少ないから、霧の湖の周辺には僅かながら人間が住んでいるのだ。
朝食の野菜や卵はつまり朝採れということらしい。素材の味とかわかるような繊細な舌を持っていないので私にはもったいないように思うのだけど、美鈴の食事でもあるから気にすることもないか。
「材料費についてはルナサの分だけ切り分けて週に一回まとめて請求するということでどうでしょう」
「ええ、それでよろしく。あと、それ以外の時間はホント、自由にしててね。下に居てもいいし、出かけてもいいし」
「そうさせてもらいますね」
美鈴はそういうと、自前の旅行鞄から着替えらしきものを取り出し始めた。外に運動にでも行くのかもしれない。
ブリーフケースから要点の定まらない資料の束を取り出し、ライティングビューローの前に座る。収納スペースと机を兼用したこのコンパクトな家具を私は気に入っている。上部を開くとテーブル面が手前にスライドしてくる。この小屋に残されていたそう多くない家具のほとんどは、傷んでいたか、私の趣味に合わないという理由で破棄したのであるが、このビューローは他のものに比べて明らかに高級品だったし、きれいに保存されていたので、そのまま残しておいたのである。何より、このビューローにはちょっと複雑な念が憑いていた。
私は騒霊――ポルターガイストであるから、その本質は屋敷に憑く霊障である。そのため人の営みの中にある様々な物品、特に家具に付随する感情には敏感だ。このビューローには、大きな幸福と、それと同じほど大きな悲しみ、後悔、怒り、そしていくらかの未練が籠っていた。廃屋に残された年代物の家具だから、どんな謂れがあるのか気にはなったが、そう珍しい話でもないと思っていた。
しかし、この持ち主が美鈴だとなると話は変わってくる。紅魔館にあったいわくつきの逸品を持ちだしてきた可能性も捨てきれないが、美鈴がそういうものを勝手に持ち出すとは思えないし、かといってレミリアさんに許可を取っているなら美鈴が余所に家を持っていることが知られていないのはおかしい。美鈴の私物である可能性が一番高いのだ。
あのカラッとした、晴れた日に干したシーツのような彼女がその底に隠した澱みを、紅魔館の住民達は知っているのだろうか。彼女はレミリアさんと仲がいいみたいだし、現状に不満があるようにも思われない。だけど、誰にも内緒で建てられたこの隠れ家に何かが眠っているのではないか。
私は他者と関わることを好まない。薬が効いている間は気にならなくなる程度のことではあるが、それでも美鈴が暫く逗留することを了承したのはしぶしぶのことであった。元来彼女に権利があるであろうという事情、それを殊更に言い立てない程度の謙虚さ、そういったものを含めてのやむを得ない判断だった。
しかし私は今、彼女の裏側の片鱗を偶然にも垣間見ることになった。
それを暴きたいと望むのは悪趣味極まりないだろうが、私生活に土足で上がりこまれたのはこちらも同じだ。
そう考えると少し憂鬱だったこれからの日々が、俄然楽しみだ。
……他人に興味を抱くなんていつ以来だろう、いや、初めてかな。
************meiling
最近、トレーニングというと屋内だったり、館の周辺だったりが続いていたので、自然の中で体を動かす気持ちよさというのを久々に感じたような気がする。いつの間にやらすっかり洋館暮らしが板についてしまったが、元々は貧民街で幅を利かす野良妖怪だ。そういうことを思い出す機会も随分と減ったように思う。
戻ると、ルナサは変わらずロフトで仕事をしているようだった。
小屋の裏手には簡易なものだが風呂がある。私が作った時には本当に適当な水浴び場だったのだが、ルナサが改装したらしい。水は井戸から引いて、職業魔法使いが作る発熱符――懐炉の凄い奴を想像してほしい――で沸かす。一応薪でも沸かせるようにしてあるのは、辺境生活の知恵というやつだ。
軽く汗を流してから昼食の支度にとりかかる。
ルナサはサラダだけで構わないといったが、スープくらいは添えたいものだ。
鍋を火にかけ、油をひき、さいの目に切ったニンジン、玉ねぎ、ベーコンの類を炒める。キャベツやジャガイモを加え、6~7分中火で炒めたらつぶしたトマト、ひよこ豆、ニンニク、水を加えて煮る。ルナサは動物性たんぱく質を殆ど受け付けないので、可能な限り豆を食べさせていきたい。生まれは幻想郷だが、ルーツをたどればイギリスだというし、豆は嫌いじゃないだろう。
塩、コショウで味を調えて完成。コンソメを使いたいところだけど、手持ちの固形コンソメは鶏ガラ由来だし、ひょっとすると風味がダメかもしれない。味見をするとイマイチ深みが無いように感じられるが、どうやらルナサは食に関するこだわりが薄いようなので下手したら気づかないだろう。
サラダはトマト、キュウリをカットして、ちぎったレタスと混ぜる。
「ルナサー。昼食出来ましたよ。いったん切り上げませんか?」
ロフトに向かって声をかけるが返事がない。
梯子を上ると、ルナサは電卓を片手に何やら唸っている。
「ルナサ?」
「ひゃわ!」
肩に手を置くと、想定外のオーバーリアクションが返ってきた。こっちが驚いてしまう。
「な、なにかな」
「昼食。準備できましたよ。休憩にしませんか?」
「あ、ああ。そうしようか」
呼吸を整えながらうなずくルナサに、そこまで驚かなくてもと笑ってしまった。
「何をそんなに唸っていたんですか」
「うん?」
ルナサはサラダに塩、コショウ、オリーブオイル、酢を掛けながらこちらを見る。オリーブオイルは高級品だが、小屋には常備されていた。もっとそろえるものあるだろ。
「いや、そろばん片手に難しそうな顔してたじゃないですか。ああ、話せないような内容なら聞かなかったことにして下さい」
お嬢様と話すときは、大概まずい内容でも普通に相談していたので感覚がマヒしてしまう。
「いや、大した内容じゃないよ。GMCが持っている演奏施設の防音が良くなくて改修することになったんだけど、予算がバカ高くてね」
ルナサは眉間にしわを寄せる。
「音楽ブームに乗じて急に大きくなった組織だから、運営のノウハウが全然育っていなかったんだよ。私は非常勤理事だったから、今回こうやってコンプラ委員なんてやらされるようになって初めて実態が分かった。相見積もりはとってないし、まともな契約書も作ってない」
幻想郷の経済は外界に比べればやっぱりまだまだ原始的なところがあるけれど、明治の初頭までは外とつながっていたし、妖怪には優れた学者もいる。ちゃんと大きな商会や公的機関なんかは最低限度の商慣習を持っている。
「予算管理の杜撰さもそうだけど、この段階から改革していかないといけないのかと思うと先が長いなと思ってね」
「ご苦労様です」
十分に冷まされたミネストローネを口に運ぶ彼女は、紅魔館を立ち上げてすぐの頃のお嬢様によく似ている気がした。
「委員会はどのくらいの周期で?」
「不定期。今はだいたい週に1回くらいのペースで開かれてるけど、もう少し再発防止計画が進捗していけば、もっと間隔は長くなると思う」
今は立ち上がりの負担が重い時期ということだろう。
「次回は?」
「明後日。ああ、だから明後日は昼と夜は食事いらないから」
「わかりました」
なんだか新婚夫婦みたいなやり取りだな、と思って、そんな思い付きについ笑ってしまった。
「なに?」
「いえ」
ルナサは釈然としない面持ちでサラダを完食した。
味の感想は一言もなかったけれど、まあそろそろルナサのそういうところにも慣れてきた。
その日、ルナサは一日中机に向かっていて、何やら計算していたり、委員会の経費で借りたというタイプライターで長大な文書を書いたりしていた。
夕食にはシチューを。いちいち全部冷ましてから食べられるのは、作るほうとしては何とも言えない感じがあるが、咲夜も猫舌だったから慣れているといえば慣れている。食べ終わると早々にロフトに上がり、仕事に戻ってしまったので、私も危うく薬を飲ませ忘れるところだった。この調子ではやはり、誰かが見ていないと遠からずまた飲み忘れで倒れることになりかねないと思わされる。
夜は切りのいいところで仕事を切り上げさせ、半ば強引に寝かしつける形になった。というのも彼女、意識が続く限り仕事をして、気絶するように眠り、起きたタイミングでまた活動を再開していたようなのだ。そりゃ昼夜逆転にもなるし、生活リズムも何もあったもんじゃない。
ルナサがベッドで眠り、私はソファに陣取る。ソファといってもサイズ感はかなり大きく、寝心地は悪くない。ルナサが遠慮するかと思ったが特になんのコメントもなく不思議だったのだけど、しばらくして、どうやら彼女は私がどこに寝ているかという疑問すら持っていないのではという仮説にたどり着いたところだ。洋館では妹さんたちと生活していたはずだが、いまいち他者と生活するということに慣れていないように見える。
私のほうが後に寝て先に起きているから、差し当たって気にするタイミングが巡ってこなかったということなのだろう。日に日にルナサのどうしようもないところが明らかになってくるが、私はそれが嫌になるというよりは、何とかしなくてはという方向に考えてしまうのである。
妹さんたちも結構苦労していたのではないだろうか。
翌日もそんな調子であった。
ルナサは朝から作業をはじめ、私は外で新しい椅子を作った。
木工細工は昔から好きだし、本来はスタジオスペースで使う演奏用の椅子をいつまでもダイニングで使うのも良くない。夕食時には完成して、実際にそれに座って食事をとった。ルナサは特に言及せず、それもまた単に気づいていないだけなのだ。
お嬢様がなんにでも興味を持ってすぐに疑問をぶつけてくるタイプだったから非常に新鮮である。共同生活とは言いつつも、ルナサにとっては本当に自分のスペースでもう一人暮らしているというだけのことなのかもしれない。
この日新たに分かったことは、ルナサはコーヒーがやたら好きだということ。そのくせ胃が弱いということだ。濃ゆいコーヒーを飲んでは胃が痛い胃が痛いと言っている。これはもう普通にバカなんじゃないだろうか。
面白いのは、そういうルナサのおかしな振る舞いが、かっこよく演奏し、澄まし顔で受け答えする本来の彼女の魅力を全然減じないところである。
************benben
冬の気配が薄れて、森の中を歩くのも辛くなくなってきた。
私、九十九弁々が職音協に勤めて10か月近く経とうとしている。その間に組織名は改名され、担当部署は3度変更になり、今はコンプラ委員会の事務局として、実質的にはその副委員長であるルナサ先生の秘書のようなことをやっている。
元は月に一度の理事会にしか顔を出さなかったという彼女は、旧首脳部の中では比較的話が通じるという理由でコンプラ委員会に抜擢されてしまったということになっている。だが、委員長をはじめ、多くの外部有識者は報酬を貰っているのに、ルナサ先生は元々理事だったということで無給であるということを考えると、単に委員報酬を少しでも削減するための苦肉の策だったのではないかという邪推にも説得力が生まれてしまう。
私は彼女の演奏が好きだ。彼女の演奏を初めて聞いたのは、私が異変で付喪神になって間もない頃であった。だから、彼女が雑事に追われて本業に戻れていない今の状況は非常に不本意なのだ。少しでも早く彼女が演奏家として復帰できるよう支えたいのである。
ルナサ先生の別邸の前までたどり着いた。今日はGMCの理事会があり、そのまま午後にコンプラ委員会も開催される。
ドアを大きく3度ノックするが、集中すると周りに気が向かなくなる彼女がこれで出てきたことはなかった。。大方今日もそうだろうと思い、中に入ろうとした時、
「はーい、今出ます!」
という耳慣れない声が中から聞こえた。
え、誰?
「ほらルナサ、迎えの方来られましたよ。あー襟が曲がってますって、ほらこっち来て。書類は持ってますか? 里の通行証は? もう、顔擦っちゃダメ、メイクが落ちるから!」
聞いたことのない誰かがわちゃわちゃいう声と、ルナサ先生のあー、とかうー、とかいう声が交互に聞こえる。それから数十秒後、ガチャリとドアが開いた。
出てきたのはキチンとスーツを着て、髪も整えたルナサ先生であった。眠そうではあるが珍しく寝癖がはじけておらず、化粧で隠したのか目の下にクマもない。
「おはようございます、先生」
「ああ、おはよう弁々」
彼女の後ろからは、シックなエプロンを身にまとい、深紅の長髪が目立つ美人が先生の鞄を持って追いかけてくる。
「ルナサ、書類、忘れてます!」
そして私に気づくと
「ああ、九十九弁々さんですね。お世話になります」
「え、ええ。あの、先生の荷物、こちらでお預かりしますね」
謎の女性から鞄を受け取り、先生にチラチラと目線で説明を求めるが、一向に伝わらない。終いにはその女性のほうが先に私の意図を察して
「あー、私はルナサの、なんというか同居人で、食事の世話をしている、しい……使用人みたいなものです。紅美鈴と申します」
と挨拶をされた。
「ああ、ご丁寧にどうも」
それにしても一瞬、飼育係って言おうとしなかっただろうか。聞き違いか?
「そうだ、九十九さん。鞄の中にルナサの薬が一回分入れてありますから、夕食の後、ちゃんと服用したか確認してもらえますか?」
「美鈴、私はこどもじゃないんだよ?」
「わかりました。お任せください」
美鈴と目が合い、一瞬で通じ合うものがあった。
このヒトも先生に苦労させられているクチだ。間違いない。
「さあ、先生行きましょうか」
里の近くまでは飛行して移動する。
道すがら先生に聞いたところによれば、彼女は紅魔館の使用人らしい。紅魔館と聞けば、異変の時に出会った恐ろしいメイドを思い出すが、あれは聞くところによれば人間なのだそうだ。どちらかというと人間のようだった美鈴のほうが妖怪だと聞かされ、なんとなく釈然としないものがある。見かけじゃわからないものだ。
「それにしても意外です」
「なにが?」
先生はにべもない。
「いや、ルナサ先生はあまり誰かと仲良くしているイメージがなかったもので」
「喧嘩売ってるの?」
「いえ、そういうわけでは」
実際友達は少ないような。
「美鈴はなんというか、ルームメイトというか、別に何でもないよ」
「はー。そんなもんですかね」
先生みたいなヒトでも気まぐれに誰かと過ごすことがあるのだろうか。
************lunasa
帰り着いたのは深夜2時を回っていたように思う。
弁々や、ほか事務局職員に誘われ久々に飲みに行ったのだが、理事会とコンプラ委員会の愚痴を私がひたすらぶちまけるというわりと最悪な会になってしまった。まあ、話題を振ってきたのも、おいしいワインをたくさん用意したのも彼らだったので、ひょっとすると私のガス抜きのために企画してくれたのかもしれないが、それにしたって酷かった。
芸術とお金の関係は難しい。だけど切っても切り離せないものだ。それ故に間を取り持つ組織がちゃんとしていないといけないんだけど、ほかの理事はイマイチそのことが分かっていないし、コンプラ委員会の面々は兎に角GMCの責任を騒ぎ立てて、組織を縮小することしか頭にない。さっさと済ませて、いち演奏家の身分に戻りたいのだけど、途中で投げ出せるものでもないし、ことによっては私や、妹たち、弁々達にも影響する問題でもある。
扉に手をかけると、鍵はかかっていない。
中に入ると、明かりがついていて、美鈴がソファで本を読んでいた。
「まだ起きていたの?」
「お帰りなさい、ルナサ。ちょっと寝付けなくて」
「ただいま。美鈴でもそんなことがあるのか?」
それは純粋な疑問というより、いくらかの疑いから出た言葉であった。
本当は私の帰りを待っていたのではないか。
「ええ、時々」
美鈴はなんでもなさそうに答え、読みかけの本を閉じてテーブルに置いた。
「夜の薬は飲みましたか?」
「もちろん」
私は鞄を置いて外套を脱ぎ、水差しからコップ一杯の水を注ぐ。
「美鈴はどうしてそんなに私の心配をするの」
「どうしてって?」
美鈴は不思議そうに聞き返す。何か、当然のように思っていたことを不意に問いただされて困惑する感じであった。
「いや、普通は仕事でちょっと顔見知りになったぐらいの相手をそこまで心配しないでしょう? それに、住む場所だって、ここ以外に当てがないわけじゃないみたいなのに」
美鈴は肩をすくめる。
「さあ。私にもはっきりした意図があってしていることではありませんよ。ただ、何となく放っておけないような、そんな気がして」
「ふうん」
彼女が心の奥に抱える、何らかの体験がそうさせるのではないか。例えば、あのライティングビューローなのか、あるいはこの家の存在そのものなのか、分からないが。ひょっとして私に誰かを重ねているのだろうか、とか。そんなことを思わないではなかったが、私にはそこまで彼女に深入りするつもりはなかった。
彼女がいて困ることは今のところないし、寧ろ助かっている。美鈴は底抜けにおヒト好しで、ただ単に私を心配してくれている。彼女がここを去るまでそれでいいかと、この時は思った。
それからしばらくは似たような日々が続いた。
私は相変わらず机仕事か、里に顔を出し、美鈴は食事の準備のほか、部屋の掃除なんかもやってくれている。稀に気晴らしを兼ねてバイオリンの練習をすることもあったが、案の定いまいち気が入らなかった。
食事は色々とバリエーション豊富で、大変だろうに――他人事ではない――いつも美味しい。美鈴の中で、夕食は少しチャレンジしてもいいという謎ルールができたらしく、私が食べられなさそうなものを一品添えるのが定番になっている。大抵は予想通り食べられずに美鈴の食事が増えることになるのだが、私はこれで餃子が食べられるようになった。
美鈴は肉がダメなのに餃子がオッケーなのはおかしいと頻りに首をひねり、つくねやらハンバーグやらを食べさせようとしたが、他は全部だめだった。おかしいと言われても食べられるものは食べられるし、食べられないものは食べられない。
やる気がマイナスに振り切って仕事の手が止まった時には、美鈴の様子を見に行くことが多い。彼女は本を読んでいたり、外で何やら武術の修業をしていたりすることが多いが、それ以外にも多才というか多趣味というか、長年生きた妖怪にありがちなタイプのようだ。
凄く風流な水墨画を描いていたかと思ったら、また別の時には洋画を描いていたり。シカを仕留めて帰ってきたかと思えば、忘れた頃に剥製ができていたなんてことも。
ほかにも意外な特技があった。
二か月たって季節はいよいよ夏めいてきた朝、美鈴に寝癖を整えてもらっているときのことだ。
「最近、白髪が目立ってきたと思わない?」
「うーん……」
ここで即答しないのは優しさではあるが、嘘もつけないというのは美鈴のいいところだろう。
「まあ、元が金髪ですからそこまでじゃないですけど、傷みも結構ありますね」
仕事のストレスなのか、思うように音楽活動ができないせいか、あるいはその両方か。胃腸は元々弱いほうだけど、肌荒れとか、髪とかに影響は現れてくる。
「妹に心配かけたくないんだ」
私は今でも月に1度か2度の頻度で洋館に帰り、そういうときはリリカも帰ってきてお互いに近況報告をする。
「気になるようなら染めましょうか?」
美鈴がそのように提案してきた。
「え、髪染めできるの?」
幻想郷で髪を染めるなら、人里の理髪店でいくらかやっているところがあるくらいだがほとんどは白髪染め、つまり黒に染髪するだけで、私のような金髪に対応しているところは恐らくほとんどないだろう。
「やったことあるので。ちょっと必要な道具を紅魔館まで取りに戻らないといけませんが、必要なら行ってきますよ」
「美鈴は本当に多才だね」
「長く生き過ぎただけですよ」
翌日、美鈴は本当に道具を館まで取りに帰ってくれた。
テーブルの上にはビーカーやフラスコ、アルコールランプに、すり鉢、ナイフ、天秤など、得体のしれない道具が並び、よくわからない鉱物や、乾燥した植物などが煮たり焼いたり砕いたりされている。まるで錬金術師の実験室のようだ。
「当たらずとも遠からず、これは実際、ごくごく初歩の錬金術みたいなものです」
美鈴はそういうと、手際よく作業を進める。一度や二度体験したことがある、という程度の手つきには思われない。相当になれた様子だ。
「ルナサ、髪を一本貸してください。色の調整をしますから」
「ああ、うん。……、これでいいかな」
適当に切った髪の毛を一本美鈴に渡す。
「しばらくかかるので、もう少し待っててくださいね」
なんでも、ただ染めるだけではなく、髪の傷みを良くする成分も配合すると言っていたが、本当にそんなことができるならば、里の女性たちが放っておくまい。
一時間ほど待つと、白い泡上のものが入った桶と、金色の液体が入った瓶を持った美鈴に、小屋の外に呼び出された。
「ここに座ってくださいね」
外には、美鈴が手慰みで作ったという、それにしてはよくできた椅子が置かれている。私が腰かけると、美鈴は白い大きな布で、私の首から下をすっぽり覆ってしまった。まるで本当に理髪店に来たみたいだ。
「ちょっとじっとしててくださいね」
美鈴はそういいながら私の頭に謎の液体を刷毛のようなものを使って塗っていく。
「ちなみにどのくらいかかる?」
「2時間くらいですね」
地味に長い。
理髪店と違って鏡がないので何をされてるのかいまいちわからない。なんか泡状のものを髪全体に塗り込まれている。
「美鈴は何でヘアーカラーに慣れてるの?」
「別に慣れているというほどのことではないですけど」
「いや、慣れてるよ絶対。一回や二回やったことのある手つきじゃなかったもの」
仕事柄――今その仕事できてないけど――指先の動きには一家言ある私だ。
「実をいうと、染めてた時期があるんです」
「へぇ。その紅は地毛だよね」
実はその紅髪が染めてた結果だとしたらかなり驚きだが。
「ええ、今はやってないですよ。昔の話です」
私の髪を扱う美鈴の手つきは淀みない。
「何色に染めてたの」
「……青です。薄い青」
なんで青? という疑問が気軽に口を飛び出そうとする数瞬前に、美鈴の指にほんの少しだけ力が入るのを感じた。
ここが一つの分岐点だという予感がした。
興味はある。
だけど、私はそこに踏み込むことを選択しなかった。
「大変じゃない? 元の髪色とかなり違うし」
そうしなかったのは、結局のところ、他者と積極的にかかわることを避けてきた私のこれまでのやり方を、咄嗟に踏襲したに過ぎないのだろう。
「そうですね。一回思いっきり脱色した後、染め直してましたから」
美鈴の手つきにはもう不自然な硬さはなかった。
「それもあって、成分も考えたんですよ。そのままやったらすぐ髪が傷みますからね」
「その恩恵に私も預かるわけだ」
「おや、サービス料は弾んでくれますか」
「冗談じゃなく、かかった費用は請求してよね」
薬剤を髪に馴染ませたら、しばらく放置して、風呂場で髪を洗った。
驚くほどきれいに染まっている。それに凄くサラサラしている。
私は、自分でも久々に見る輝く髪を手で梳きながら、踏み込み損ねた美鈴の奥底に低劣な後悔を残したことを考えていた。
************meiling
夏の最も暑い時期を過ぎ、私とルナサのルームシェアが100日を過ぎるころ、ルナサの仕事には終わりが見え始め、彼女が楽器を触る姿を見ることも増えてきた。
私はと言えば、これといって何かをなすわけでもなく、漫然の日々を生きていて、休日の過ごし方の下手さを痛感していた。休日とはそもそも、労働と労働の狭間にあるものであって、まあ私だってこの長い休暇が明けたら紅魔館に戻って仕事をするわけだけど、それでも感覚的には休むというより、ただ生きている、生きているという感じだ。
豆料理のレパートリーがやたらと増えたのは成果と言えば成果か。帰ったら誰かに振舞ってやろう。
「ルナサ、夕食の時間ですよ」
「……ああ」
譜面台に向かっていたルナサは生返事だ。
最近のルナサは、ロフトの机に向かう時間より、下で椅子に座って、バイオリン片手に五線紙とにらめっこしている時間のほうが長い。
GMCの仕事に振り回されているときのほうが、大変そうではあったが生き生き――幽霊に使う形容詞ではないと思うが――していたし、明るかったような気がする。一方で、最近のほうが昔紅魔館で見かけたルナサに近いような感じもする。
「ルナサ?」
控えめにもう一度声をかける。
「……ごめん美鈴、夕食?」
「ええ、どうします?」
ルナサは譜面台にペンを置いた。
「いや、食べる」
ここしばらくは随分と打ち解けてきた感覚があった。
彼女にしては珍しく、軽口をたたくようなことも結構あったし、彼女の家族の話、二人の妹や、レイラ・プリズムリバーの話も少しずつだが聞くようになった。
「……」
「お味はどうですか。少し味付けを変えたんですが」
しかしこれでは逆戻り、いや、私が来たばかりの頃より酷いかもしれない。
「うん。……いいんじゃないかな」
無口になることが増えた。
音楽活動に比重を移すようになって、生来の彼女の性質が顔を出しているのか、あるいは所謂芸術家に特有のナイーブな期間に入っているのか、それは私にはわからないが、周りであれやこれやと口を出す私を疎んじている気配は少し感じる。
それから言葉少なに夕食を終えたルナサは、今度は少し録音したいと言って、ロフト下の防音スペースに籠ってしまった。
先に寝てていいと言われた手前、起きて待っていると無駄に気を使わせてしまうように思って、今日は早めに読書を切り上げた。
理由の分からないよそよそしさに戸惑いがあった。
遅くまで起きていたかと思えば、朝なかなか起きられなかったり、私が声をかけても反応が鈍かったり。薬を抜いているのではという疑いも持ったが、私自身が朝と夕、食後に彼女が薬を飲むところ確認しているのだ。やっぱり創作活動を再開して神経質になっているのだろう。
私はそう結論付けて、いくらかでも彼女が楽なスタンスでいられるように、明日からどのような食事を作ろうか、声を掛けようかなんてことを考えながら眠るのだった。
不思議なものだ。
どうして彼女のことを放っておけないと、こんなに強く思うのだろう。
この生活を始めてから何度も浮かんだその疑問を、改めてきちんと考えたことがないのは、愉快とは言い難い、自分の辿ってきた道に思い及びそうになるからなのだろうか。
数週間、そんなような日が続いた。
彼女は、コンプラ委員会が任務を完了して解散された暁には、久々にレコードを販売し、併せてワンマンコンサートを実施したいのだという。委員会の仕事にざっくりと目途がたった今、そこに向けて曲の作成や、練習に忙しいようだ。
ルナサの様子は相変わらずだった。
数日おきに復調して、しばらくは穏やかなのだが、段々とテンションが下がっていき、口数も少なくなっていく。ただ不思議と、作業は捗っているようだった。
だから私がそれに気づいたのは全くの偶然である。
「ごちそうさま」
ルナサはそう言うと、コップの水で薬を飲んだ。
「お粗末様でした」
私は食器を下げ、いつものように流しで洗い物を始める。
目の端でルナサがトイレに入るのが見えた。すぐに声を掛ければ何ら波風が立たなかったこのシチュエーションにおいて、私は少し遅れてちり紙の補充を忘れたことに気が付き、慌てて彼女を追いかける。そしてトイレのドアの前までたどり着いたとき、彼女がえずくのを聞いた。
私はそのままドアを引いた。この小屋のドアに鍵なんかない。
ルナサは口の端を拭いながら振り返った。
「ノックしてよ」
「そういうことだったんですね」
彼女は薬を飲んでいなかったのではなく、飲んですぐ吐いていたのだ。
私がいつも、食後に食器を洗うのに紛れて、音が分からないように。
「何でこんなことするんですか」
「……」
彼女は何も答えない。
私は彼女に騙されていたショックと、なぜ意図的に薬を抜いていたのかという困惑、そしてそれを相談してもらえなかった寂しさに打ちひしがれていた。
「ねえ、何とか言ってくださいよ」
「……ら……ったんだ」
ルナサが何事か呟く。
「え?」
「こうなるから言いたくなかった、って言ったんだよ」
言っている意味が分からない。
「こうなるって……?」
ルナサは私に少し近づいて言う。
「貴方、私が最初に向精神薬を飲んでるって聞いたとき、随分怖い顔をしてたんだよ。覚えてないかもしれないけど。私がきちんと薬を飲んだか、酷いときは口をのぞき込んでまで確認しようとするしさ」
それは確かに、今思えばやり過ぎだったかもしれない。
「鈴仙から聞いたよ。私が飲んでる薬について詳細を尋ねに言ったんだって? そんなに薬に嫌な思い出があるの? それはロフトのライティングビューロ―と何か関係がある? それとも昔、髪を染めていたことに関係があるの?」
不意に、ルナサが私の髪に手を伸ばした。咄嗟のことに反応が遅れる。
「何度か私が髪に触れようとした時、さり気なく避けたの気づいてたよ。……誰かの代替品にされるのは不愉快なんだよ!」
乱暴に髪を掴まれ、引っ張られる。
視界が真っ白になって、全身が押しつぶされるほどの恐怖に体が晒される。
誰かが不快な喚き声をあげていて、それが自分だと気づく頃には、私の意識がブラックアウトしていた。
************lunasa
気絶した美鈴をソファに寝かせ、自己嫌悪で押しつぶされそうになる。
ここまで強烈な反応を示すとは思わなかったにしても、髪に関する何らかの記憶が彼女にとってのなにかクリティカルなトラウマを構成しているであろうことは分かっていた。
不満自体はずっと前から私の胸に溜まっていたことだけど、それでも美鈴が自分を心配してくれて、あれこれと世話を焼いてくれていたのは紛れもない事実であり、その動機がなんであろうと、私が気にするべきことじゃない。
彼女と一緒に過ごす時間が増え、自分が彼女に惹かれていることに気づくのに時はかからなかった。同時に、彼女のそれは純粋な好意からくるものではなく、彼女の過去に起きた何らかの出来事に対する代償行為なのだということにも気付いてしまった。そのことからくるもやもやから、相談すればすぐに済むようなことを黙り、結果、徒に彼女を傷つける大失態をやらかしたのだ。
このまま出て行ってくれればいい。
そうして二度と帰ってこなければ、もう私が美鈴を傷つけることはないし、自業自得で苦しむ私が一人残るだけなのだから。
私はロフトに上がってベッドに横になった。
でも眠る気にはなれなくて、ずっと起きていた。
美鈴が起きる気配がして、しばらくして彼女が玄関から出ていくまで、ずっと起きていた。
************meiling
目が覚めて、恥ずかしさと、悲しみと、後悔とに襲われて、私は外に飛び出した。
しばらく闇雲に歩いて、何となく紅魔館への道をたどろうとしていることを自覚し、足が止まってしまった。だって、いったい誰に打ち明けられるだろう。溢れる悲しみを誰に注げばいい。
400年以上前のあの忌まわしい記憶を、私は誰にも話したことがないじゃないか。誰にも。誰にもだ。
思い返せばそれこそ、私がいざというときの逃げ場所を準備した理由だ。
幻想郷で、八雲紫をはじめとした賢者のバックアップもあり、戸惑いながらも根を下ろし、そうしてこの楽園での生活に馴染むころには、私はそのころを思い出すことがほとんどなくなっていた。あの小屋に逃げ込んで、苦しさを吐き出す必要もなかった。
だけど、吐き出さなかった色んなものは、決してなくなったわけじゃなかった。それがルナサには見えていたのかもしれない。
きっと傷つけてしまった。
私のエゴでルナサを振り回してしまったという想いは拭えなかった。
************lunasa
いつの間に眠ってしまったのだろうか。
気づけば朝陽が差し込み、ジュージューとベーコンエッグの焼ける匂いが漂う、いつもの朝がやってきていた。私もすっかり朝起きるのに慣れてしまったようだ。
……いや、何でいつもの朝がやってくる。あの夜の後に。
何食わぬ顔で始まろうとした一日に遅ればせながら困惑が吹きあがる。ロフトから見下ろすと、キッチンスペースでいそいそと朝食の準備をする美鈴の姿があった。
夢か何かを見ているのだろうか。それとも昨晩のことが夢なのだろうか。
ありもしないことを妄想しながら、梯子を下りる。
お湯を注いでコーヒーを淹れる美鈴の背に声をかける。
「……おはよう、美鈴」
「おはようございます、ルナサ」
振り返った美鈴の目元に、泣きはらしたような跡を見て、今日が昨日と地続きの現実なのだとバカみたいな常識に気づいた。
「「いただきます」」
トーストとベーコンエッグ、サラダ。
私と彼女の最初の朝食。
違うのは、ベーコンエッグが冷めていることと、お湯割りと言って差し支えないほど薄いアメリカンコーヒーが添えられていること。
4か月以上も一緒に暮らして、近づいた私と彼女の距離は、たったこれだけだ。
「昨日はごめん。貴方を傷つけるつもりは……まあ、あったからやったんだけど」
「あったんですか」
嘘をついても仕方ない。
「でも、それも含めて、ごめんなさい。無神経なことをしたわ」
そう私の謝罪を聞いた美鈴は、軽く笑って。
「貴方が無神経なのは、初めて会った日からよーく知ってます」
といった。え?
狼狽する私を尻目に、美鈴はトーストを齧った。
「どうして戻ってきてくれたの?」
自分で発言しておきながら、「戻ってきて〝くれた゛」という言い回しに女々しさを感じてほとほと嫌になる。出ていけばいいなんて自分に嘘をついて。結局戻ってきてほしかったんじゃないか。
「今週の分の食費、まだ請求していませんでした」
彼女は悪戯っぽく笑った。それが冗談でしかないことは、目が教えてくれる。
「本当はここを出て、紅魔館に戻ろうとも思いました。でも、私もまだ謝っていませんでしたから。ルナサ、私の個人的感情で振り回してごめんなさい。貴方が心配だと言いながら、その実、自分の不安を紛らわしたかっただけなのだったのだと思います。貴方が昨日言った通り」
「そんな」
美鈴が謝ることなんて、何もないのに。
「それにまだ答えてもらっていません。どうして薬を吐いていたのか。今度こそ聞かせてくれますよね。私も今度は覚悟を決めてそう聞きましょう。あなたの疑問にも答えますから」
美鈴はそういうと、胸に手を当てて微笑んだ。
かなわないと、そう思った。
「この薬飲むとね、気分が凄く良くなるし、意識もはっきりするんだ。他人と話すのも苦痛じゃなくなるし、仕事の段取りも良くなる」
「そうですね。……ん?」
美鈴が一旦待ってとばかりに掌を出す。
「私と話すの苦痛だったんですか?」
嘘だろ、という表情をしている。
「いやいや、美鈴といる間は殆どずっと薬飲んでたし、ずっと楽しかったよ。その前に紅魔館で何度かあった時も、あんまり踏み込んでこないタイプだから、苦手じゃなかった。元々、会話自体が全般的にダメなんだよ。それだけ」
フォローのつもりが余計酷い感じだ。
「うーん、それはそれで……いや、遮ってごめんなさい。続けて?」
「うん。まあそういうわけで、里で仕事するときとかも非常に役に立って良かったんだけど、副作用というか、デメリットもある。……なに?」
美鈴がまたストップをかける。
「ちょこちょこ止めてすみません。里で行商中の鈴仙さんに伺ったんですが、あの薬には胃腸炎と血糖値の低下、過剰摂取時の錯乱ぐらいしか副作用らしい副作用はないと聞いたんですが」
ある時からやけにデザートが充実したのはそのせいか……。
「いや、うん。そう。厳密には薬の副作用じゃあない。むしろ本来の作用が問題だったんだ」
副作用に対する本作用、という表現が正しいのかわからないけど。
「本来の作用?」
「鬱状態の解消、だよ。人間なんかにとっては、鬱状態を回復する薬を飲むと、仕事に復帰できたりするのかもしれないけれど、そこはそれ、私は鬱の音のポルターガイストだからね。正確な理由は分からないけど、薬が効いている間、曲の着想が全く出てこないんだ」
それは私にとっては致命的な――死んでるんだけどさ――問題だった。
「曲が出てこない、ペンが進まない。それだけじゃない、演奏もダメなんだ。本来の表現ができないんだ。通り一遍のだれにでもできるような演奏にしかならない。演奏家ルナサ・プリズムリバーとして、やっていけないんだよ」
美鈴は、ただ黙って私の話を聞いていた。
「美鈴がここにきて、私が症状の悪化で昏倒していたのは、そのことに気づいて、薬を抜いているときだったんだ。薬の効果が薄れてくると、幸いなことに私の音楽家としてのセンスも戻ってくる。でも、全く飲まなきゃそれはそれで私の体がもたない。ちょうどあの時は加減を失敗して、飲まな過ぎた時だったんだよ」
本当に死んでいたかもしれなかったし、あの時は美鈴が来てくれて本当に助かったのだ。
「そうだったんですね」
「どうして言ってくれなかった、なんて、聞かないでよね」
そういうと美鈴は少し後悔するような顔で頷いた。
「最初はさ、美鈴がいてくれれば、独りでは危なかったけど、安全に薬の量を調整することができるんじゃないかと思ったんだ。だけど、貴方は私の薬の服用量を随分と神経質に管理していたし、一度、うっかり忘れたふりをして薬を飲むのをごまかそうとした時、凄く怒ったの覚えてる?」
こちらが驚くほどの剣幕だった。普段温厚な印象があるから、そのギャップもあって結構衝撃的だったし、それが美鈴が私に世話を焼くのに、何か過去の出来事が関係しているという確信を私に与えたのだ。
「ええ、覚えてます」
「そのうち、GMCのほうの仕事が忙しくなっちゃったのもあって、暫くは美鈴に管理してもらいながら、そっちを片付けるのを優先しようと思ったんだ」
その間はすごく平和だった。
毎日気分がすっきりしていて、美鈴と一緒に生活するのは楽しくて、それは騒霊としてこの世に生まれてからほとんど初めてのことで。レイラと一緒に過ごしていたころを思い出すくらい、幸せな日々だったんだ。
「だけどやっぱり、おやすみを言ってベッドに潜って、睡魔に襲われるまでの短い間に、いつも誰かが囁いた。『ずっとこのままで良いわけない』って」
それは私の本能だったのだろう。
私の騒霊としての存在意義。
「一度、薬の処方に来た鈴仙に相談したことはある。でも、感性まで薬で制御するのは難しいと言われたよ。鬱状態の解消は、薬がまさに目的とする方向性であって、それを抑えてしまうのは、結局薬を飲まないのと変わらない、私の精神状態と音楽家としての感性はトレードオフだと言われたよ」
「それで、GMCの仕事に目途がついてから、定期的に薬を吐き出すようにしたんですね」
美鈴の目に、それでも非難が滲む。
私の裏切りはそのくらい、彼女の信用を損ねるものだった。加えて、私に美鈴を裏切らせた原因もまた彼女にあると、今私はそういっているのだ。恩知らずにもほどがある。
「ああ。黙っていて悪かったよ」
本当に申し訳なかった。結局、誰かと一緒に生きるということを主体的に選択してこなかった私の幼さが、そうさせたのだ。
それでも美鈴は微笑んだ。
「それをルナサが相談できる私でなかったのも悪かったんです。私もごめんなさい。貴方のことを表層的にしか分かっていなかった」
私たち二人は目を見合わせ、黙って。
そうして笑った。
私たちの間には冷え切った朝食がテーブルに並んでいる。
冷めてるっていうのはつまり、私好みということだ。
「……朝食、食べちゃいましょうか」
「うん。いただきます」
食後。
テーブルには水差しとコップ、錠剤が二つ。
私と美鈴はまた向かい合って座っていた。
「美鈴」
「はい」
いやそんなに畏まった顔されても困るんだけど。
そういうところが彼女のいいところだ。
「貴方が覚悟を決めて戻ってきてくれたんだから、私もそのつもりで、これからのことを相談したいんだ。聞いてくれるよね」
「もちろん。そのために戻ってきたんですから」
錠剤2粒をつまんで、目線の高さに持ち上げる。
「コレのことだけど、今のところ無くなったらまともにやっていけないのは確かで、今後も服用することについてはもう仕方がないと思う」
「そうですね。うん」
1粒をテーブルに戻す。
「でも、1回2錠、一日2回の服用をそのまま続けるのはダメ。結局それで私が存在意義を失うなら、意味が無いんだもの」
美鈴はしぶしぶといった様子で頷く。
「それは、うん。そうですね」
「そこで、なんだけど。鈴仙が言うには、この薬は別に抗生物質みたいに、服用を途中でやめたり、減らしたりしても、それ自体で悪影響が出ることはないらしい。依存症も、少なくとも身体依存はない。過剰摂取だけは止められたけど、状況を見て服用量を減らすのは医学的には問題ないんだって」
美鈴の方をちらっと見ると、過剰摂取、といったところでピクッと反応したので私も戦々恐々としている。
「もちろん、量の調整は家族の監督の下でやれと釘を刺されたけどね」
「実際には黙ってやっていたわけですが」
「うう、ごめんてば」
「いえ、冗談です。その件についてはさっき話が付きましたしね。それで、今後は私も一緒にその調整を進めていけばいいんですね」
美鈴はグッとこぶしを握ってやる気を漲らせている。
「こんなこと、お願いしてもいいのかな」
普通は気軽に頼めるようなことではない。相手だって責任は取りたくないだろうし。
「なに言ってるんですか。家族の健康を気遣うのは当然でしょう?」
美鈴は何をいまさら、という顔で笑っていた。
「え、家族……、家族?」
私にとっての家族はレイラ、メルラン、リリカ。
生みの親であり、あるいは姉妹であり。
……美鈴はどちらでもないし、そうでない家族と言ったら。
急激に顔に熱が集まってくる。
「なに水臭いこと言ってるんですか。ひょっとして食事の世話の代わりに泊めるとかって、建前をまだ堅持するんですか」
建前て。
「一緒に頑張りましょう。私が支えてあげます。いや、私にも支えさせてください。ルナサ」
「うん、ありがとう。……ありがとう、美鈴」
まともに顔見られないよ。
取りあえず、朝はそのまま、夜は服用量を2錠から1錠に減らしてしばらく様子を見ることにした。美鈴の前で今朝の分を飲む。
「取りあえずは少しずつ、か。でも美鈴もいつもまでも居られるわけじゃないし、ある程度のところで見切りはつけないといけないね」
「必要なら後半年くらいは居られますよ」
美鈴が何でもないように言う。半年?
「え、待って待って。紅魔館に戻らなくていいの?」
「最低限取得しろと言われたのが188日間だったんですけど、実際はその倍以上残ってるんですよ。取得率が下がるからできればもっと消化してくれと言われてるくらいで」
「まず有給というシステムを持ってる組織が幻想郷にどれくらいあるかとか、そういうところを聞いちゃダメなのかな」
紅魔館は人里の最先端の更に先を言ってると、いつかレミリアさんも言っていたけど。
「だから、ルナサが望むなら症状が安定するまで付き合いますから。もう下手に遠慮されるほうが嫌なので、正直にお願いしますね」
反論しづらいように先手を打たれてしまった。
「でも、そこまでになると、私からもレミリアさんに一回挨拶に行かないと拙いのでは」
吸血鬼の従者を個人的な理由で長々と借りパクというのは非常に危ない感じが今更ながらしてきた。そういう意味で言ったわけだが……。
「ええっ!? お嬢様にご挨拶なんて、いや、嫌じゃないんですよ。でもちょっと早いのではっていうか、心の準備とかその他諸々……」
おいおいおい何一人でテンパってんだこいつぅ~。
……めっちゃ恥ずかしくて顔から火が出そう。
不意打ちでそういうことしでかすのホント卑怯だと思います。
美鈴が落ち着くのに数分が経過した。
「ほんと、独りで舞い上がってスイマセン。もう、ややこしい言い方しないで下さいよ」
耳まで真っ赤になっていじける姿が尋常じゃなくあざといのだけれど、それを指摘する余裕が私の方にもないので、これはお互いなかったことにしておこう、という感じだ。
「でも、そういうことなら、一度紅魔館にいらっしゃいませんか」
美鈴は気を取り直した様子でそう言った。
「え? でも、いいの?」
「もちろん。私も別に紅魔館に帰ってくるなと言われてるわけじゃないので。それに、お嬢様なら何かいい知恵をお持ちかもしれません。ルナサさんのことにもきっと協力してくれます」
確かに彼女は他人の不幸に協力を惜しまないヒトではある。その分、そうやってできた繋がりをビジネスに利用することに躊躇がないところもあるけれど。
「それに……」
美鈴は一度言葉を溜めた。
「……それに、まだ私の方は話していないじゃないですか。私の隠し事」
「美鈴、でも、それは……」
ううん、と、彼女は首を振る。
「私がどうして貴方を放っておけないのか。どうして此処に小屋を建てたのか。……私がどうして昔、髪を染めていたのか。貴方が知りたがっていたことを、私も全部話します」
彼女の目には、決意の光があった。
「それ、私が聞いても、いいの?」
「ええ、聞いてください。実はそのことを直接私に聞いてきたの、ルナサが初めてなんです。決して聞かれたい質問ではなかったけれど、でも、誰も聞かないから、誰にも言えなかったの。愉快な話でも何でもないけれど、出来れば貴方に聞いてほしい」
それって、紅魔館のヒト達が彼女に気を使っていて、逆に私は無神経だったってだけのことなんだろうけど、だけど仮にどんな理由だろうと、彼女が背負った荷物を少しでも私に分けてもらえるなら、それは願ってもないことだから。
************meiling
実際に紅魔館に行くことになったのは、それから三日後のことだ。
その間、朝2錠夜1錠で経過を診たけれど、余り成果は芳しくなかった。ルナサは鬱の音をほとんど取り戻せておらず、一方で寝起きが悪くなった。まだメリットとデメリットが釣り合っていない状態だ。
でも、ことを急ぐつもりはなかった。
ふたりでしっくりと腰を据えて向き合っていけばいいことが分かっているからだ。
私はその日、一足先に紅魔館へ向かった。
食材の調達のついでに言付けだけはしておいたが、館に行って部屋の準備や夕食の手配――ルナサの場合はこれが手間だ――、それにお嬢様にも直接話を通しておく必要がある。
紅魔館の門をくぐると、やはり帰ってきたという感覚になる。
一方で、ルナサと暮らす小屋にも、出かけている、という感覚はないので、なんだか帰る場所を二つ持ってしまったようで不思議だ。ちょっとした背徳感がある。
妖精メイドをはじめ、職場の仲間と廊下ですれ違うたびに足が止まってしまう。ちょっとした近況報告が耳に心地よい。あまり長く一緒にいすぎると忘れてしまうことがたくさんあった。
「しいたけ、お嬢様は?」
業務一班の控室に詰めていた彼女に確認すると、執務室にいるということで、彼女を伴って向かう。
私たち妖怪の時間感覚においては、本当にわずかな間離れていただけなのに、懐かしさのようなものがあった。
「久しぶり、美鈴。元気?」
「おかげさまで」
お嬢様は書き物の手を止めることなくフランクに話しかけてくる。
彼女の方には少しも変ったところはないみたいだ。
「ちょこちょこ聞いてはいるけど、プリズムリバーのルナサと一緒に住んでるんだって?」
「はい。いろいろありまして」
「意外に近くにいるんだねえ。てっきり竹林か山の方にでも行って、仙人のような生活をしてると思ってたよ」
「私ってそういうイメージですか」
お嬢様はそうだねえと笑った。
「しかし、小屋の件は悪かった。まさか貴方が外に拠点を持っていたとは気付かなかった」
「いえ、それはこちらこそ黙っていてすみません。実際ほとんど使うことがなくて、半ば放棄してたようなものですから」
まさかこんな経緯で露見するとは思わなかった。
「その辺の話をルナサにはしたのかな」
「いえ、今日するつもりです」
「そうか……」
お嬢様はペンを止めて顔を上げた。
「そういうことならディナーは二人のほうがいいね。私は夕方に時間を空けておくから、彼女が到着したら談話室で少し話そうか」
「ありがとうございます。……別にお嬢様に隠し事をするつもりはないのですが」
お嬢様の出生前後に起きた出来事に関わる話がほとんどだ。いつか掻い摘んで話したことはあったが、言っていないことのほうが多い。
「いいよ。私やフランには言いづらいことなんだろうと察しはついてる。むしろそれもあって、今まで相談にも乗ってやれずに申し訳なかったと思ってるよ」
本当に器の大きな主人に育ったものだ。
お嬢様がそういうヒトだから、私は紅魔館に残ろうと思ったのだ。
「それで、夕食はどこで? 本館の中ホールと鏡の間以外なら空いてるけど」
「東塔の4階を使わせ頂きたいのですが」
お嬢様は少し黙って軽くうなずいた。
「今も昔も、あれは美鈴の部屋なんだから、自由にしなさい」
厨房にルナサの偏狭な食の好みをどうにか伝えた帰り。
廊下で、本当に珍しく妹様と遭遇した。
魔理沙や霊夢など友人を連れているわけでもなく、メイドとふたりだけだ。
「あら美鈴。随分見かけなかったけど、どうしたの」
「お久しぶりですフラン様。ちょっといろいろありまして」
お嬢様に怒られて10年分の有休をとっているという話をすると何がツボに入ったのか、ケラケラと爆笑していた。
「傑作だね、うん。まあ羽を伸ばすといいよ」
「ありがとうございます。フラン様はどちらに?」
「うん? 散歩だよ、ただの散歩。屋内だけどね」
地下に籠る彼女を見ると、私にも暗い記憶ばかりがよぎるから、最近の活動的な姿を見ると、いくらか救われた気分になる。
「それで? 今日はディナーだって?」
「ええ」
「私もそのルナサってヒト見たいなー。どこでやるの」
私が東塔の4階だと告げると、妹様は意外そうな顔をした。
「へぇ? 美鈴、私とお姉以外、あの部屋に招いたことないじゃない。ふぅん」
彼女は意味深な顔をしながら、へー、とかほー、とか言っている。
「ふ、フラン様?」
「じゃあルナサっていうのは、美鈴が色々預けられる相手なんだね」
「いや、まあそう、……なのかな?」
改めてそう言われると、なんだか頼りなくもあるけれど。
「良かった。美鈴にもそういう相手が出来たのね。大事にしなきゃね」
妹様は私の肩をポンと叩くと、そのまま歩いていく。
彼女の従者が私に会釈して、それを追いかけた。
申し訳ないというお嬢様と、良かったと祝福する妹様。ふたりは揃ってこそ姉妹だなあと、誰目線なのかよくわからない納得をしていた。
************lunasa
館につくと、盛大な歓迎を受けた。
何、これ……?
メイドさん達が十数人単位で両側に並んでようこそいらっしゃいませときた。
新手の嫌がらせかもしれないとビクビクしながら案内される。そも、紅魔館でパーティーが開催されるときに、演奏隊として呼ばれる場合は、何時も業者の搬入用の裏口から入っていたのだ。それがこの扱いの差。
それとも正面から入る客はみんなこの歓待を受けているのか?
バイオリンケースを持たずに来たのが初めてだから、気が弱くなっているだけかもしれない。
談話室だという豪奢な部屋に入ると、美鈴とレミリアさんがソファで談笑していた。
「どうもお招きいただきまして、ありがとうございます」
つい固くなってしまう。
レミリアさんは立ち上がると鷹揚に頷いて。
「こちらこそ来てくれてありがとう。美鈴から貴方のことを色々と聞いていたところよ」
「色々と」というところで何か妙なアクセントがあったような気がする。美鈴は何を色々と話したのだろうか。美鈴に視線を向けると、すっ、と視線を外された。おい。
レミリアさんは仕事着なのだろうか、白のブラウスに仕立ての良いジャケットを着こなしている。美鈴は何時もとはうってかわって、淡いグリーンのイブニングドレスでお姫様然としていた。正装してきてくれと言われたのでコンサート用の黒のドレスを着てきたけれど、浮くんじゃないかという心配は杞憂だった。流石紅魔館だなあ。
「さあ、座って。夕食までしばらく寛いでくれたまえ」
レミリアさんに促され、私もソファにかける。レミリアさんの正面で、コの字の側面に座る美鈴の斜め前だ。
「何時も紅魔館でパーティーの度に呼んでしまって悪いね。凄く評判がいいから変えづらいんだ」
「いえ。何時もお声掛けくださって感謝しています」
ほかのコンサートと比べても紅魔館での仕事は払いがいい。それに、最低でも年に1~2回は呼んでもらえるから大いに助かっている。ある意味でうちの楽団の事実上のパトロンと言ってもいいかもしれない。
「今は姉妹揃っての活動は休止中だっけ? 残念だけど、いろんな方向性を模索することが必要な時期もあるんだろうね」
「妹達は上手くやっているようなんですが、私はなかなか」
ひとりだけずっと空回りしているような状況だ。
「そうそう、美鈴から聞いたよ、体調が思わしくないと。私では役に立たないかもしれないが、うちの地下には腕のいい魔女もいる。偏屈だけど力になってくれるだろう」
誰かに手を差し伸べることを少しも苦に思っていないというような態度である。生まれの差なのか、器の差なのか。美鈴に視線をやると、凄いドヤ顔をしていた。うちの主人はすごいだろう、お前とは器が違うんだと言いたげだ。いや、さすがに後半は私の被害妄想だろうけど。
「ありがとうございます。とても助かります」
「妖怪は大概、何かしらの弱さを抱えているし、その弱さが存在の根幹と密接に繋がっていることも多い。のっぺらぼうとコミュニケーションをとるために、顔に顔の絵を描いたら死んでしまったという話を幻想郷に来て聞いたときには、さすがに出鱈目だと思ったけどね」
「まあ、極端な例でしょうけど、ない話じゃないのが怖いところですね」
美鈴も相槌を打つ。
初めて聞いたそんなの……。
それから暫くは雑談だったのだけど、ふとレミリアさんがこんなことを聞いた。
「そういえばメルランはどうしているの? 彼女も今、別々に活動しているんでしょ?」
「私も何か引っかかってることがあったんですけど、それです。ルナサ、メルランさんは大丈夫なんでしょうか」
私もふたりに指摘されるまですっかり忘れたいたけれど、それを正直に話すとまた美鈴から、貴方は他人に興味がなさすぎるとかって怒られそうだ。
「メルランとは月いち位であっているけど、そういえば躁状態で困っているという話は聞かなかったわ」
彼女の方は私ほど深刻ではなかったはずだが、私と離れている間は注意散漫になったり、不眠症だったりと悩みを抱えていたはずだ。
「メルランさんも薬を服用してるんでしょうか。でも鈴仙さんは特にそういう話はしてなかったなあ」
美鈴は首をかしげる。
「いやいや。処方の内容を漏らさないのは基本でしょう。むしろ美鈴にルナサの薬の詳細を教えたほうが問題だわ。まあ、あのウサギからすれば、美鈴はルナサの同居人という位置づけで一線は守ってるつもりかもね」
レミリアさんがそれをバッサリと切る。
ほんとだよ鈴仙、普通に美鈴に教えるんじゃないよ、という非難は結果状況が好転した今になると、いささか勢いを失うが。
「でもメルランは私と違って、ソロでもずっと音楽活動をしていたはず。何かしら鎮静剤のようなものを使っているのなら、状況は一緒でしょう。彼女の躁の音だって、その本質から生み出されているのだもの」
「だとしたら、何か薬に頼らない方法で精神を整えているんだろう。何かそれらしいことを言っていなかったかい?」
レミリアさんの言葉に、メルランとの会話を思い起こしていく。
妖怪の山の宴会にあちこち呼ばれて大盛況だが、盛り上がり過ぎて2回に1回は大規模な抗争に発展しかける話。自殺の名所で定期的に演奏会を開いて里の福祉団体から謝金を貰っている話。里の外で思いっきり演奏をしていると興奮した妖精が集まってきて軽い異変になる話。
……インパクトの大きい話が多すぎてそればかり思い出してしまう。実際、余りに胃が痛くなる内容が多いのでメルランの話を話半分に聞き流していた側面もあるのだ。
「何かないんですか、他に」
「そういわれても……あ」
そういえばこんな話をしていなかったか。
「メルランは興行でお面の面霊気と仲良くなって、その縁で里の近くの何とかって寺に出入りしているとか、そんなようなことを言ってた気がする」
「神社で能を奉納していた秦こころだね」
レミリアさんがすぐに補足をする。
「寺というのは命蓮寺のことだろう。あそこでは定期的に読経会だかなんだか言って、妖怪がだれでも自由にお経を聞いて行ける会を開いていると聞いたことがあるし、それかな。あるいは、妖怪向けの座禅体験講習を始めたとこの間の新聞に書いてあったし、なにかそういう手段を使っているのかもしれん」
うーん、詳細は思い出せないけど、メルランも姿勢が~とか呼吸が~というような話をしていたような気がする。あれは座禅のことだったんだろうか。
「まあ詳細は今度会ったときにでも尋ねればいいとして、ルナサ。重要なのは、薬以外にも精神状態を整える手段があるかもしれないということだ。無論、メルランの場合は気持ちを静めるためだから座禅だったのであって、気持ちを高揚させるためにはまた何か別の方法を考えないといけないだろうね」
「なるほど。そうかもしれませんね」
力にはなれないだろうと言いながら、これだ。レミリアさんには良いヒントを貰った。
「もちろん、当面は薬と併用ということになるだろうけど、身体操術については美鈴がこの上なく専門だから、力を合わせて上手いことやってくれ」
「そうですね。ルナサ、頑張りましょう」
「ありがとうございます」
本当に。
しばらくすると、妖精メイドが夕食の準備ができたと告げに来た。
「おっと、結構話し込んでしまったね。食事を楽しんできてちょうだい」
レミリアさんが促し、美鈴が先行する。
「いえいえ、色々と相談に乗っていただいて、本当にありがとうございます。それに、なんというか美鈴さんをお借りするような形になってしまって」
危うく言う機会を逃しそうになったことを伝えておく。
するとレミリアさんは美鈴が部屋を出たのを確認すると、私を引き寄せて言った。
「うちの従者に食事の世話をさせて、その上ソファに寝せてるんだって?」
「い、いやそれはっ! その……!」
一瞬で全身から冷や汗をかいた。美鈴、話したのか。
「ホントはベッドで一緒に寝たいって言ってたよ」
「えっ……、いや、それレミリアさんが今考えたでしょう!」
レミリアさんは私を見てにやりと笑った。
少しでも本気にしてしまって恥ずかしい。
「まあ、冗談はさておき、ルナサ。貴方がその気なら貸すんじゃなくて、やったっていいんだよ」
美鈴のことを言っているのだと気づくのに少しかかった。
「でもその代わり、美鈴のことを支えてやってくれ。私たちは家族だ。みんな美鈴のことを大事に思ってる。だけど、彼女はこの紅魔館そのものに呪われているんだ。彼女を真に開放し、分かってやれるものは誰もいないんだ、この館には誰も」
レミリアさんは今まで見たこともないほど真剣な表情をしていた。
「今夜これから、美鈴はいろんなことを貴方に話すだろう。私も、妹も、パチェも咲夜もみんな、聞いたことのない話もあると思うし、楽しい話じゃないと思う。それでもちゃんと聞いてやって欲しい。どうか彼女を、受け止めてやってくれないか。お願いします、どうか」
そうしてレミリアさんは深々と頭を下げた。
「……もちろん、そのつもりです。頭を上げてください」
私は絞り出すように言葉を吐き出した。
「私もそうしたい。私なんかにどれだけのことができるか分かりませんが、話を聞くぐらいならいくらでも。彼女にはたくさん助けられたし、それに、そんな貸し借りの話だけじゃなくて、私自身、美鈴のことが大事なのです。だから……」
「ありがとう。さあもう行って、美鈴が待ってる」
レミリアさんはそう言って私を促した。
「いい夜を、ルナサ・プリズムリバー」
塔を上ると、シックにまとめられた部屋にテーブルが置かれ、晩餐の準備ができていた。窓からは人里にともる明かりが僅かに煌めいて見えた。妖精メイドのエスコートで席に着く。メイドたちはそのまま退席した。
「さて、私の身の上話をしましょうか。食事の前がいいですか、それとも後?」
美鈴が早速本題に入った。
できるだけ事務的に済ませたいような気が、少しした。
「どちらでも、美鈴の良いほうでいいよ」
「そうですか。普通なら、料理が冷めないように、話は後にするんでしょうけど。私たちの場合は逆ですね。どうやら料理は冷ましておいてという指示を、厨房では冷めてても気にしないという気休めとして受け取ったみたいです」
テーブルの料理にはまだ僅かに湯気が立っている。
「それじゃあ、厨房には申し訳ないけれど」
「ええ、先に話をしましょうか」
美鈴は長く、息を吐いた。
「このお話は昔お嬢様にごく掻い摘んでお話したことがある程度のもので、他には誰にも話したことがありません。そういう意味で非常に恥ずかしいというか、なんだか複雑な思いです。でもこういう機会でもなければ誰にも話すこともなかったでしょうし、ひと思いに全部吐き出してしまおうと思います」
美鈴はそう切り出した。
「せっかくだから、悲しい話だけじゃなくって、楽しかったころも含めて、私の身の上話を、全部聞いてくれますか。ちょっと長くなるかもしれないけれど」
「いいよ。美鈴が話したいことを話したいだけ聞かせて頂戴」
私がそう言うと、彼女は安心したように、長い長い昔話を始めた。
「いまから6~700年ほど前になるでしょうか。私は大陸の、いまは中国と呼ばれている場所におりました。具体的な地名はいまでは失われてしまったようですが、比較的内陸に位置する大きな街でした。私自身の出自はここではそれほど大事でもないので伏せさせてもらうことにして。当時の私は近辺の妖怪たちの寄せ集めのような組織を、いま思えば分不相応ながら、束ねる立場でした。名前は何と言ったか。黒龍会とか、そんな感じだったかな。ひょっとしたら字が違うかもしれませんが、とにかくそういう名前の組織でした」
「もともとその街は恐ろしく治安の悪い街で、人間たちは徒党を組んで縄張り争いをしているし、妖怪も多い地域で、それはもう荒んでいました。私はその近辺ではそこそこに名が知れていたので、多くの妖怪が名を上げるために私を殺す機会をうかがっていた。それを次から次へぶちのめしてるうちに、敵よりも勝手に私を祀り上げる連中のほうが多くなっていました。黒龍会という名前もそういう連中の誰かがいつの間にか名乗り出して、もう収拾がつかないありさまで。仕方なく私が戒律を作り、階級を作り、他の組織とのゴタゴタに出張っていったり。人間たちの中でも特に大きな一団を選んで後ろ盾になったのもその頃です。
「そいつらに街を治めさせて、生け贄を提供させたりして。酷い有様なりに街は支配されていきました。その頃には私もいっぱしの大妖怪気取りでしたが、今思えばお嬢様のほうがよほど上手くやっていますね。最初のうちは自分は根なし草が性に合うなんて言ってたのに、気付けば街を牛耳る黒幕みたいになって、そういう自分に違和感が無くなっていました。
まあ、結果的にそれが私とスカーレット家をつなぐきっかけになったわけですし、お嬢様は運命というのかもしれません」
若い頃はやんちゃしてた、みたいなよくあるノリで街を支配していた話をされるとは思わなかった。
「お嬢様のご両親のことはなにかご存知ですか? 」
美鈴はそう続ける。
「いや、聞いたことがないよ」
「当時スカーレットの当主はお嬢様の父君、つまり先代ということですが、その方が統治しておられました。名前は、止めましょう。読みや綴りが大変ややこしいので彼もめったにフルネームを名乗ることはありませんでした。ファーストネームはドイツ語読み、ミドルネームはフランス語読みなんですが、これはスカーレットの領地がドイツとフランスの中間あたりにあった名残でして、あの頃は国境というのも曖昧でしたからね。領地の名前が英語読みなのは英国に所縁のある土地だったとか、本当かうそか分かりませんけど」
話が逸れました、と美鈴が詫びる。
「それで、何の話かと言いますと、先代の彼が何の因果か私の牛耳っていた街にたどり着いたわけです。それが私とスカーレットを結ぶ縁でした。
「彼は両親、つまりお嬢様の祖父母ですが、その方々が無くなって以来、兄弟もなく一人でスカーレット領を治めておりました。臣下達がいろいろと縁談を持ってきていたのですが、すげなく断っておりました。彼は客観的にも、私の目から見ても非常にかっこいいお方でした。まあお嬢様と妹様の父君ですから不細工なはずがないのですが。顔立ちはお嬢様によく似ていましたよ。ただお嬢様の髪は母親譲りで、……その話はあとです。彼の髪は煌めく金髪でした。妹様はそれを受け継いでおいでです」
「それで彼が縁談を突っぱねて懸想していたのはスカーレット領のはずれに居を構えていた、非常に優秀で美しい魔女でした。ああ、魔女と言っても、魔法を使うからそう呼ばれていただけで、種族は同じく吸血鬼でした。お気づきと思いますが彼女がお嬢様の母君となられる方です。彼女の名前も、今は意味がありませんし、魔女で通しましょう。彼女も旧家の出であったようですが、実家を出奔して一人暮らしをしていたので姓はついぞ名乗りませんでした」
「それで先代は縁談を断って彼女に幾度も求婚していました。彼はほしいと思ったものは必ず手に入れるヒトでした。この辺りはお嬢様にも受け継がれていますね。それで魔女は初めのうちはすげなく断っていたそうですが、毎日のようにやってくる彼に次第に心を許すようになったと言っていました。しかしここで悲劇が二人を襲うことになったのです。
「このまま順当に結婚して二人を生むと、私が出てくることはなかったんですが」
私も聞きながら、このまま先代とその魔女とが結婚してレミリアさんが、と考えていたが、これは美鈴の身の上話という話だったではないか。
「その頃は妖怪同士、そして妖怪と人間との争いが最も激しかったころでもありました。特に教会は悪魔払い、魔女狩り、吸血鬼殺しに躍起になっていました。スカーレットは欧州に名をとどろかす領地の一つでしたから、教会も下手に争わないようにしておりました。
「しかしここにきて教会はスカーレットに付け入る隙を見つけてしまった。先代がいつも従者の一人もつけずに領地の端まで出かけているのが見つかってしまったのです。それで教会は魔女を攫って、さらにそれを奪還に来た先代を殺し、スカーレット領を丸ごと教会のものにしようと画策しました。
「この案はほぼ成功したと言えます。目の前で魔女を連れ去られた彼は教会の思うつぼ、単身でそれを追いかけたのです。ただ思いのほか追撃の手が苛烈だったために、教会側は当初の予定以上に東へ東へと逃げることになりました。それでも結果的に教会は彼に深手を負わせた。後から来る教会の援軍を前に西へ戻ることもできず、さらに東へのがれてきた彼が辿り着いたのが、そう。私のいた街だったのです」
「ちなみにそこまでの過程は先代本人から聞いたものです。後先を考えない方でした」
そう話す美鈴は言葉の割にはそのヒトを懐かしむようで、彼女はその先代のことを慕っていたのだろうということが、容易に察せられた。なんとなく胸がざわつく感じもあるが、昔話に何を濁っているんだと自嘲する。
「深手を負ったとはいえ、流石に恐れられる吸血鬼。人間を襲い、血を吸うことで傷はたちどころに癒えました。すぐにでも反撃に転じたかったとはこの後の彼の弁ですが、同じ轍を踏むような愚かな行動を彼は慎んだのです。
「とにかく吸血鬼が旅をするのに必要なのは吸血鬼ではない種族の下僕というのが常識です。昼間に教会のヴァンパイアハンターに襲われてはかないませんからね。まあ人間を操って見張らせるのが手っ取り早いのですが、それで満足する彼ではありませんでした。周辺の地理に長けていて、名前の知れた強力な妖怪、美人なら尚良いと言っていました」
「あくまで彼がそう言っていたんですよ?」
美鈴は慌ててそう付け足した。
美鈴が美人なことは、別に誰も否定しやしないと思うけど。
「異変を察知したのは私の部下が報告をしてきたときです。組織傘下の妖怪が、素性の知れない男に次々とやられていると聞いて私は最初、また彼我の実力差も分からない馬鹿が出てきたかと思ったのです。馬鹿は私だったんですけど。自分が前線に出ないようになって勘が鈍っていたんでしょう」
「数日後、組織は壊滅一歩手前でした。彼が私の前に顕れたときには私の部下はほとんど残っていませんでした。ここにきて漸く、本当に漸く私はかつての勘を取り戻し、自分の負けを予感しました。
「初めのうちは私が優勢に進めていました。彼は私の使うはじめて見る体術に戸惑っているようでした。しかしそれは恐れているというより、自分の獲物が思いのほか大きいと気づいて期待に胸を膨らませる狩人の心持だったでしょう。とにかく私は負けたのです」
「……負けて、まあ包み隠さず言えば、モノにされたわけです」
「それって、つまり、そういうことよね」
慎重に問いただす。
「ええ。ご想像の通りで間違っていないと思います」
それが彼女と紅魔館の因縁なのかと少し思ったが、そうではない様子だ。
「ここまではよくある話で、別に引きずってるわけじゃありませんよ。当時は結構ショックだったかもしれませんが、今となっては必要な出会いだったのでしょう。あのまま調子に乗って勢力を広げていればいずれは同じことになっていたでしょうし、そういう意味では、彼でよかったのかもしれません」
「言っときますけど実はお嬢様の本当の母親は……とか、そういうややこしい話じゃないですからね」
「いや、そこまでは思わなかったよ」
恐ろしいことをサラッと言わないでほしい。
「まあ、そういうこともあって私は彼に『ついてこい』と言われたわけです。いま思うとほとんど言いなりでした。大妖怪とまで謳われた私が、ほとんど人間の生娘も同然で。
「しかし井の中の蛙とはよく言ったもので、私は世界の広さを知ることができた。そうしてこの人についていけばもっと広い世界を知ることができるんじゃないか、自分ももっと高みへ登れるんじゃないかという気持ちもありまして、ついていく決心をしたのです」
長いですけど、まだ続きます。
と美鈴が続ける。
「私は先代に同行して西へ西へと移動していきました。夜中に移動して昼は潜伏していました。昼の潜伏中に周囲を警戒するのが私の役目。夜間の移動中には言葉を教えてもらったり、スカーレット領のことについて聞いたりしました。彼が懸想した女を助けるために旅をしているのだと聞いたときは流石にイラっとしましたけど」
出会いは悲惨だったが、この時点でその先代と美鈴には、いわゆる男女の仲に近いものがあったようだ。
「魔女の救出は滞りなく成功しました。街を出て1年は経っていたでしょう。私にとってヴァンパイアハンターたちとの戦いはまた新たな挑戦で、非常に生を実感させてくれるスリリングな体験でした。私が最も妖怪らしかったのはあの頃かもしれません。そうして魔女を連れて、私たちは教会からの逃避行を始めたのです」
「初めて魔女にあった時の感想は、一言でいえば美しい、そんな感じでした。顔立ちはいまの妹様がもうちょっと大人びたような感じで、髪ははっとするほど透き通った蒼色でした。女の私が見とれるくらいでした。それからしばらく一緒に過ごすうちに、私と魔女はお互いにどんなことでも隠さず話しあえる親友となりました。私の人生で初めての親友です。
「先代はそのことを知っていて、私と魔女を平等に扱うようにしていました。こっちが恐縮するくらい。だって妻にするのは魔女だって断言していて、魔女もそれを受け入れていたのに。それでも彼は私を一人前の女性として扱ったし、恋人のように接することもあった。そうして魔女もそれを当然だと思っていたんです。あの頃は幸せでした。教会の追手を振りはらったり、人間に化けて街で遊んだり。
「私たちは馬車を用立てて走り続けました。夜は彼が、昼は私が御者となって。何時でも整備された道を行くことはできませんでしたし、教会を巻くために何度も行き先を変えたから、いつまでたっても目的地に近付かない日もありました。でもひょっとしたら私たちはそれを望んでいたのかも、なんて今は思います」
本当にかけがえのない日々だったんだろう。
それは聞いているだけで伝わってきた。だけども、この後に何が控えているのか、その気配だけで気持ちが暗くなる。「魔女」の髪の色を聞いて、不安の色は濃くなった。
「この先のことを思うと本当にあのまま3人でいつまでも旅をしていられたらよかったのかもしれないと、そう思ってしまう。
「でも、いつまでも旅を続けるなんてことできるはずもありません。当然です。スカーレット領はもう3年近く領主不在のままでした。過去の威光と財政的なたくわえで暫くは乗り切れても、そのうち教会か、あるいは近隣の妖怪によっていつ乗っ取られてもおかしくない状況だったのです」
「しかし実際私たちがスカーレット領にようやくたどり着いたとき、領地は整然として守り抜かれていました。領民も臣下も先代公が必ず戻ってくると信じていたのです。私はあらためて彼のカリスマを思い知らされました。領内に入ったとき彼はは蝙蝠の先触れを出していたのですが、それから館の前の広場に着くころには、領主の帰宅を知って駆け付けてきた多くの人間の領民と、妖怪の臣下達であふれかえっていました。
「スカーレット領は隠れ里の統治によって成り立っていました。人間たちを中央政府や教会勢力による重税から守り、周辺の妖怪とオオカミから羊を守る。その代わりに生産物の一部と、若い娘の血がささげられる。とはいっても殺すわけじゃないんですよ? お嬢様の少食は遺伝でして、先代も血を飲みほして領民を徒に減らすことを良しとはしませんでした。それゆえの領民たちの歓待だったのです」
「季節が収穫期だったこともあり、その日は本当に盛大な宴が催され、館も村もお祭り騒ぎでした。先代はみんなの前で正式に魔女を妻と迎えることを宣言しました。魔女は直前まで私も一緒でなければいけないと訴えていましたが、私が必死に諭しましたし、先代の説得もあって折れたようでした。けじめはつけなければなりませんでした。
「仮に彼が私のことも平等に愛してくれたとしても妻と呼ぶべき人は一人でなくてはならないと思ったのです。元来は下僕であった私にとっては妾ですら勿体ない地位だったのですから。
館の中には魔女のための部屋が設けられました。いまお嬢様が寝室に使っておられるところがその部屋でした。まあ咲夜さんがいろいろいじってるので本当のところは分かりませんけれど。そして魔女はその隣に私の部屋をおくものと思っていたようで、先代もそうしようかといっていましたが私は洋館暮らしにもなれないし、ということでそれを辞退し、東の塔の上層階を自室としていただきました。そうです。ここです」
美鈴は、両手を広げて部屋を指した。
どこか物語めいていた話が、今ここにある現実につながっていることを私はふと思い出す。
「それから数十年間私たちはそれなりに平和に暮らしていました。もちろんあの旅をしていたころのようにはいきませんでしたけれど。魔女は格式ばった会食にはどうにもなれないといつも愚痴をこぼしていました。私は公的にはできるだけ顔を出さないように、自室でひっそりと暮らしていました。それでも週に一度先代は私の部屋で夕食をとり、二人で過ごしました。それを待つ間、私の趣味は増えました。木工細工、楽器の演奏、料理に、服飾。
「それに、先代が外交にいったり遠征に行っているときはいつも魔女がやってきて二人でいろんなことを話しました。東洋のことをいろいろ教えてあげると魔女は目を輝かせて話に聞き入って。私たちはごくまれに旅行に行くこともありました。もちろん大勢の護衛やら世話係やらがついてきていたので、昔とは全然違っていましたけれど。それでもフランス、ドイツ、見たことのない場所を歩くのは心の踊る体験でした」
「そんな日々の末に、ある転機がやってきました。
「魔女が子供を身ごもったのです。それが分かったときの周囲の驚きようといったらありませんでした。吸血鬼同士の交配は非常に子を為す確率が低いことはご存知ですか。そもそも吸血鬼は寿命が長く子孫を作る必要性が薄いし、吸血で簡単に仲間が増やせます。それゆえ吸血鬼の子どもは珍しく、また強い魔力を持って生まれてくるのです。先代は子供みたいにはしゃいでいました。長らく一人で戦っていたから家族というものにあこがれがあったのでしょう。魔女はいつも以上に周囲から丁重に扱われて、ちょっとめんどくさそうではありましたけれど、やっぱり嬉しそうでした」
「そうして生まれてきたのが、ええ、もう御承知の通り。お嬢様、レミリア・スカーレット様です。村では3日間続く祭りが開かれました。先代はできるだけ館を開けることがないようにしてはいましたが、緊張関係の中、領民と家族を守るためには遠征に行かねばならないこともありました。そんな時にはお嬢様は私が預かることが多かったですね。たぶん覚えてらっしゃらないでしょうけど。私は彼の子を身ごもることはなかったけれど、でも彼が自分の命より大切にしている一人娘を信頼して私に預けてくれることは、素直に嬉しかった」
「しかしその5年後、すべてが変わってしまいました」
私はその悲劇の断片を、噂に耳にしたことがあるかもしれない。
だって、レミリアさんが生まれた5年後に起こることくらい私にもわかる。
フランドール・スカーレット。
紅魔館のすべての転換点となったという彼女を、私は幾度かパーティーで見かけたことがある。
「吸血鬼同士の子どもが同じ夫婦からふたりも生まれるというのは、本当に稀なことです。お嬢様の時に輪をかけて、館も領地も盛り上がっていました。それがどれだけ危険なことか誰も知らなった。妹様は、お嬢様以上に濃く、強く、吸血鬼の力を受け継いでいた。それはとても赤子に御しきれるような力ではありませんでした。
「お産の時、妹様を取り上げたのは私でした。先代も立ち会っていました。その私たちの目の前で、魔女は妹様の魔力の暴走で、跡形も無くなったのです」
相当に柔らかく表現していてなお、それは恐ろしい話だった。
「今更ですけどごめんなさい。食事の場で話す内容ではないですね」
「いいよ。満腹で聞かされたらそれはそれでキツそうだし。気にしないで全部聞かせて」
私が先を促し、彼女は頷いた。
「先代はその日からおかしくなってしまった。いや、それは当然のことなんです。あんな光景を目にすれば誰だって。……最も喜ばしいはずだった日が、一瞬で、最も呪わしい日に変わってしまったのです。彼は最愛の妻を目の前で失った。それも、最愛の娘の手によって。
「怒りや、悲しみのぶつけどころが無くなって、彼は半狂乱になり、教会勢力や、周辺の領地を一方的に突然侵略したり、領民や家臣をを惨殺するようになりました。唯一、同じ場所で、同じ光景を見た私が正気を失わずに済んだのは、その腕の中に産声を上げる妹様がいたからです。いっそ私も狂ってしまえれば楽だったのかもしれません。でもそれは許されないことでした。私は、万が一にも彼が妹様を傷付けないように、地下牢に隠し、秘密裏にその世話をしました」
「大変だったのは先代を、彼を止めることでした。彼の記憶は混濁していて、私や魔女のことを忘れていることもあったし、そうかと思うと、魔女が死んだことだけを忘れていて、館中を歩き回って彼女を捜し歩いたりもしていました。そして、時々怒りに満ちた表情で外へ出かけていき、殺戮の限りを尽くして戻ってきました。
「お抱えの医者が調合した薬を彼に飲ませるのは私の役割でした。彼はごくわずかの間、正気に戻り、深い悲しみに暮れながら、自分が正気を失っている間の館や領地の運営のこと、お嬢様や妹様の今後のことを指示書に書き付け、また狂気へと戻っていった。彼は正気に戻ることのあまりの苦しみに耐えかね、薬を飲まなくなることも増えました。
「それも仕方がなかったのかもしれません。私だってすべてを忘れていられるのなら、どうして苦しい現実に戻ろうと思うでしょうか。……それでも彼は父親として、薬を飲み続けるべきだったのです」
美鈴が何を恐れていたのか、どうしてあんなにも私に世話を焼いたのかが分かった。彼女は私に、先代スカーレット公を重ねていたのだ。
「あるとき彼は、薬を一度に大量に服用し、生死の境を彷徨いました。自殺するつもりだったのか、あるいはたくさん飲めば完全に正気に戻れると思ったのか分かりませんが。とにかく、それ以後、安全のために彼に薬を飲ませないことになりました。
「それから状況は加速度的に悪くなっていきました。彼の臣下の多くがその凶行を止められず、館を去っていったのです。薬を作っていた医者もいなくなり、館に残ったのは彼の死後、領地や財産を我が物にしようとする連中ばかりでした。彼らは先代に危険なことをさせたがり、外部への侵略は益々酷くなりました。誤算だったのは、彼が強すぎてなかなか死ななかったことでしょう。まともな者は悉く離れ、残ったのはお嬢様と妹様を残して離れられなかった私だけ。
「さらに悪いことが重なりました。お嬢様が成長するにつれて、母親である魔女とどんどん似てきたのです」
そこまで聞いて、私にはすべて合点がいった。
それはあまりに辛い記憶であるはずだ。
もう止めるべきだと思った。
「美鈴、もう分かった。その先はやめましょう。もういいの」
「いいえ、全部吐き出させてください。お願いです。そうしてくれると言ったでしょう」
悲壮な面持ちの彼女にかけるべき言葉は、私にはもう無い。
「私の見ている前で、彼はお嬢様と魔女を間違えて呼びました。そうして、奴は、お嬢様の髪を撫でながら、……勃起していたのです。
「その場に私がいて本当に幸運だった。いえ、もう十分すぎるほどに不幸だったのだから、そんなもの幸運のうちになんか入らないですけどね。とにかく私はすぐにお嬢様を引き離して、生前の魔女に教わった錬金術の真似事で、お嬢様の髪を黒く染めました。それでしばらく様子を見たのですが、彼は魔女の名を呼びながら館を徘徊し続けていた。お嬢様を隔離すべきだといっても、そんなことに関心を持つ部下はもういません。髪色はかえても、お嬢様の顔立ちは母親に似すぎていた。だから私は、彼の方を隔離することにした。自分の髪を魔女とそっくりに染めて、彼女がそうしていたように、彼を誘ったのです。この部屋に」
美鈴は、奥の扉にチラと目線をやった。
あちらが、寝室なのだろう。
「彼は情熱的に私を抱きました。魔女の名前を呼びながら。愛していたヒトに、大好きだった親友と間違われながらそうされるのは、耐えがたい苦痛でした。私のなけなしのプライドもズタズタです。しかも始末の悪いことに、彼は時々、本当に時々、不意に正気に戻ったんですよ。そうすると、私が彼を騙したことに怒り、私の紛い物の蒼髪を掴んで壁に叩き付けるんです。そのあと、自分のしたことを涙ながらに詫び、殺してくれと懇願しました。
「そうできたなら、そうしてあげたかった。でもそんな状態の彼でも、いなくなれば領地も領民もふたりの娘も、命はない。あっという間に周辺に攻め滅ぼされるのは間違いありませんでした。既に散々恨みを買った後ですから。
「早く完全な狂人に堕ちてくれればいいものを、時々昔のままの顔を見せるから、私はぶつけどころのない悲しみを抱えて、ひたすらに凌辱に耐えるしかなかったのです」
「彼が完全に壊れてしまうまでに、100年はかかったでしょうか。もはや戦うことと殺すことしか頭になくなった彼は少なくとも魔女の面影を探さなくなった。私は髪を染め戻して塔を出ました。待っていたのは奸臣達による冷遇でした。体を使って領主に取り入ろうとした淫売扱いです。私自身、もうそんな気分でしたから、何とも思いませんでしたけど、館を放逐されることだけは避けなくてはいけなかった。
「私は門番に身をやつし、時折妹様の様子を見に行くだけの日々を過ごすようになりました。それからは、心穏やかに過ごせました。ふたりの成長を見守りながら、もう終わったような自分の生活をダラダラと生きていました」
美鈴は涙を流すことはなかった。
悲しみを乗り越えたわけではないのだろうけど、それでも今笑えるだけの幸せもあったのだ。私がそう信じたいだけかもしれないが。
「ここから先は楽しい話ばかりですよ。家出したお嬢様がパチュリー様を連れ帰ってきたりして、恐ろしい戦乱の歴史の陰で、ほのぼのと生きていました。
「周りの勢力から反転攻勢を受け、進退窮まった先代の取り巻きが幻想郷に攻め込んだのは、まあここの方々には迷惑以外の何物でもなかったのでしょうけれど、私たちにとっては本当に僥倖としか言いようがありません。賢者たちの粛正によって、今いる私たち以外が皆殺しにされたとき、私は呪縛から解き放たれたのです。
「お話はおしまい」
美鈴はそこまで言って、ちょっと無理をして微笑んだ。
「お嬢様と今楽しく暮らせているのも、貴方に出会えたのも、みんなこれまでがあったからなんです。だから、辛いことも、悲しいこともだんだんと割の合う不幸に変わっていきます」
過去を変えることはできない。
しかし、過去の意味や、評価を変えることはできる。
過去はそれにつながる現在や、この先の未来から振り返るしかないものだから。
「美鈴、……こんなこと、その、私が言う役割じゃないんだろうけど」
「なんですか?」
彼女はこの先も当分、紅魔館の誰にもこの話をできないだろう。
だから彼女たちに代わって、私が言うのだ。
「これまでずっと、ありがとう。よく頑張ったね」
美鈴は初めて涙を見せた。
この先は冷めた食事を食べながら話したことだ。
「それで、あの小屋はどうして建てたの?」
その話は出てこなかった。
「ああ、あれは、吸血鬼異変が終わってすぐに建てたものです。ちなみに、ロフトにあったライティングビューローは、いつか魔女からプレゼントされて、すっとこの部屋にあったもの。紅魔館には大切な家族がたくさんいるけれど、それでもあんまり悲しいことが多かったから、いつか出ていこうと思っていたんです。お嬢様をトップとした新生紅魔館がきちんと軌道に乗るまでは、それを手伝って、もう大丈夫だと思ったらそれで手を引こうと思っていた」
「でもそうはならなかったんだね」
私がそう言うと、美鈴は笑顔で答えた。
「もう悲しい思い出よりも、楽しい思い出、嬉しい出来事のほうがずっとずっと多くなってしまったんです。数百年過ごした悪夢のような場所だけど、ほんの十年足らずで、それを全部塗り替えてもらったんですよ。みんなに」
「紅魔館は本当に、いいヒト達ばかりだね」
「みんな、の中には当然ルナサも入っているんですよ」
美鈴は当然のようにそう言う。
「え、どうして?」
「私にとってこの部屋はもう、大切なお嬢様や妹様と、そしてあなたと過ごしたかけがえのない場所になりましたから。たった今から」
そうやって素敵に笑えるあなただから、どんな苦しみも乗り越えてこられたんだろう。
************meiling
翌日、小屋に戻っての夜のこと。
歯を磨いてソファで寝ようとしたところ、いつも使っている毛布が無くなっていた。
「ルナサー、私の毛布知りません……か?」
ロフトに上がると、ルナサのベッドに私の毛布も一緒に掛かっていた。
「まだ寒い季節じゃないでしょうに、風邪ですか?」
私が心配すると、ライティングビューローに座っていたルナサは
「やっぱりレミリアさんが嘘を……いや、鈍いだけか?」
と、何やらぶつぶつ呟いている。
「……ルナサ?」
「い、いや、美鈴は私の使用人じゃないんだし、いつまでもソ、ソファに寝せてるのはどうかなあと思って」
「でも、ルナサはどこに寝るんですか」
「おおう……。できれば、私もベッドに寝たいなあ」
ルナサの動きがぎこちなく、何となく顔も赤い。
そこまできて、ようやく私にも彼女の意図が読めた。
「……お嬢様になにか吹き込まれましたね?」
「いや、そんなことは……まあ、あるけど。でもそれだけじゃなくて、私もせっかく一緒に住んでるんだし、一緒に寝たらどう、かな? なあーんて、思っ、てみたりなんかしちゃって?」
言葉をちょっとずつ区切りながらこちらの反応をうかがうのは鬱陶しいからやめてほしい。
「いいですよ。一緒に寝ましょうか」
「ぃやった、あでも、あれだよ? なんにもしないし、髪にも触れませんので、ほんと」
気を使ってくれているのだろう。
……ちょっと使いすぎのような気もするが。
「なんにもしないんですか?」
「えっ……?」
固まるルナサを見るのも愉快だ。
「言ったでしょう。私は、嫌なことは全部上書きしていくタイプなんです」
「うん。……うん?」
「これから誰に触れられても、思い出すのが貴方なら、いいなと思って」
それからルナサはどうしたかは、誰にも内緒だ。
そんなこんなありまして。
露骨に場面を転換していきますよ。
ルナサの精神は薬なしでもかなり安定するようになった。
秋が過ぎ、冬が気配を濃くし始めた頃には、一日1錠で十分に持つようになったし、彼女の創作活動も、問題ない程度に捗っていた。
それはコレのおかげである。
「さあルナサ、今日も始めますよ」
「いやだよ、寒いよ。屋内ですればいいじゃない」
「屋外で体を動かすことに意味があるんです」
さむがるルナサを引っ張り出して、私は椅子に腰かけ、二胡を構える。
「さあ今日も元気に体を動かしましょう!」
「いぇーい!!」
ルナサは早くも自棄になっている。
私が考案し、永遠亭の永琳女史の監修を受けて作った向精神体操だ。
音楽に合わせて体を動かし、同時に呼吸法も取り入れて、体とこころのバランスを整えるための体操である。ぶっちゃけラジオ体操の凄い版みたいなものである。
あくまでルナサが霊であるから効果がある方法だが、運動と精神に密接な関係があるのはよく知られていることだし、太極拳をベースにちょっとオカルティックな儀式的なステップも盛り込んでいる。永琳女史によれば人間の患者に対しても一定の効果を発揮したそうで、是非論文にまとめたいとおっしゃっていた。もちろん、ルナサのように劇的に効きはしないだろうけど、誰もが少しでも心穏やかに過ごせるならそれが私には一番うれしいことである。
「はい、いっちにー、さんっしー」
間の抜けた音楽に合わせて、ルナサが手足を交差する。
体操というのは本格的にやると結構な運動量である。
楽器が二胡なのは単に、私が一番うまく弾ける楽器がそれだというだけのこと。
ルナサは自分の本質にある心と向かい合って、乗り越えていく。
私は自分の奥底にあった過去を吐き出し、解き放たれていく。
ふたりで時間をかけてゆっくりと。
自分を許して、過去を許して、相手を許して。
誰もがそうして、日々許されて生きていく、
私たちの場合は、この二胡の音色に合わせて。
弦楽器を中心とした室内楽を数多く作曲したルナサ氏であるが、中にはその意図を判じかねるような作品もいくつか残している。GMC(幻想郷音楽家協同組合)の理事並びにコンプライアンス委員会副委員長の職を辞して、最初に上梓したスコアブック「アメリカーノ」に収録された“二胡とヴァイオリンのための練習曲”もその一つだ。
このスコアブックに掲載された曲のほとんどは、同時に発売された同名のアルバムに収録されているのだが、この曲だけは実際に演奏された音源が存在しない。また、練習曲(エチュード)と銘打たれている割には、スコアを見る限り、演奏技術の向上を意図しているようには見えないし、何よりヴァイオリンのパート譜がなく、二胡が単体でふざけたような幼稚な旋律を繰り返すだけなのだ。
本紙の取材に対しルナサ氏は、この曲について何一つ語らず、また今後コンサート等で演奏する予定も無いとのことだ。編集部としては彼女の意図をぜひ知りたいものである。
(月刊 音天楽地7月号 二ツ岩出版)
妖精の寝息が響く執務室。
冬の終わりが近いのに、長引く寒さが厳しい。
レミリア・スカーレットはそんななか、報告書を暗澹たる気持ちで読んでいた。
「美鈴をここに呼んで、今すぐに」
ほどなく、ツナギ姿の美鈴がやってきた。庭園の手入れ中だったらしく、微かに土の匂いがする。
「お待たせいたしました」
「待ってない」
キョトンとする彼女を半眼で睨めつける。
「いつも言ってるでしょう。急ぎの時は急ぎだと言うから、そうでないときはゆっくりでいいと」
「え、ああ、いやあ……。別にそんなに急いだわけじゃないですけど。着替えてきた方が良かったですか?」
「そういうことじゃなくて、……もういい、本題に入るわ」
私が促すと、同席していた総務部労務課長――下級契約小悪魔が先ほどの報告書を美鈴に手渡す。
「読んでみなさい」
「?えーっと、『警備部長兼外勤スタッフ統括 紅美鈴の休暇取得状況調査』……??」
これは美鈴直属の妖精うろうろ(命名・私)に調査させたものだ。
「有給休暇実際取得率5% これどういうこと?毎月提出されてる報告書と大きく乖離しているけれど。調査によれば有給申請書を出しておきながら、普段となんら変わらず勤務している、とある。また、定休日についても、休出スタッフを手伝ったり、庭園の手入れをしたり、トレーニングしたり。たまに人里まで買い物に行くほかは全く休んでいないということだけど、いったいどうなっているの?」
「いや、別に何かを偽ったつもりは……」
美鈴は当惑した様子だ。
「休みって言ったって、特にやることがあるわけでもありませんし、スタッフを手伝ったり、花壇の手入れをするのは私なりの休日の過ごし方といいますか。なんなら居眠りとかもしてますし、そんなにカッチリ勤務してるかというと……。あと、トレーニングは普通に趣味ですし……」
「バカたれ」
「へ?」
「おたんこなす」
「なっ」
「責められる謂れはないと言いたげだな。お前も咲夜もとんだワーカホリックだ。管理者としての私の立場がない。就業規則読んで無いわけ?」
私は机の引き出しからページ幅と背幅の区別がつかない、ブロック状の紅魔館定款諸規定集を引きずり出し、投げつける。
「おわっとと!」
さらっとナイスキャッチしやがって。
「この報告書を読む限りでは、お前が休日だと主張する期間のほとんどを、客観的には勤務時間であると判断せざるを得ない。如何に休日の過ごし方が自由とはいえ、庭園の保守管理は業務6班の仕事の範疇だし、トレーニングも警備部の業務の一環よ。このような状況を看過していた総務部は厳重に指導しなければならないし、再発防止策を早急に策定させるわ。そして美鈴、貴方には今後このようなことがないように厳重注意を与えるとともに、過去の有給、休日手当について実態に見合うよう算出し直して、即座に取得するよう命じるわ」
「そんな大げさな……」
「悪魔である私に、契約を破れというのか?」
それは最大の侮辱だ。
「……畏まりました」
しぶしぶといった様子で、美鈴は執務室を出た。
************meiling
あんなに怒られるとは思わなかった。
私は、とばっちりで怒られる羽目になった労務課長のマネジアに詫びを入れてから警備部の詰所に戻った。
「うろちゃーん、ちょっとこっちおいでー」
外勤統括補佐、という大仰な役職を与えられているうろうろは、実質私の副官である。そんな腹心の部下からお嬢様へのまさかの告げ口でとんでもないことになってしまった。
うろうろは怒られるのが分かっているからか、半笑いで一定の距離を保ったまま一向に近づいてこない。
「今来れば怒らないから、さっさとこっちに来なさーい」
「やだー、絶対怒るものー。そういって怒らなかったことないものー」
よく分かってるじゃないか。
「ひとこと言ってくれればもっと柔らかい解決が出来てたでしょうが!」
素早く近づいてうろうろの首根っこを摑まえ、猫のようにぶら下げる。
「だってぇー、お嬢様がぁー」
「だってじゃな……い?」
何者かの気配を感じて振り返ると、詰所の入り口に目を輝かせてこちらを見ている妖精がいた。
「見いちゃった」
私は素早くうろうろを地面に降ろし、襟をポンポンと直してやる。
「も、もー、うろうろったら。襟が乱れてたわよー?」
何もしてませんアピール。
「うろうろはお嬢様の指示に従っていただけなのに、美鈴さんが暴行を……。お嬢様に報告しなければ」
楽しそうに呟く彼女はお嬢様の秘書のしいたけ(命名:お嬢様)だ。しいたけはお嬢様の直属なので私も、咲夜さんも、何なら妹様もコントロールできない。
「ち、ちがうから。パワハラとかじゃないから」
「ふふーん?」
しいたけは意味深に笑っている。
「お嬢様から伝言です『うろうろとじゃれてる暇があるなら必要な手続を早く済ませるように』とのことです」
なんでもお見通しというわけだ。
「これをどうぞ」
しいたけから受け取ったバインダーには、再計算された休日出勤手当と有給休暇日数が書かれていた。
「これ……マジ?」
休日手当は年収に近い額が書き込まれている。そして有給休暇は……。
「188日……」
「うち、有給の繰越限度15年なんでホントはもっとあるんですけど、お嬢様が最低限半分は消化させろというので、少なくともその日数は絶対休んでください」
しいたけは淡々と言う。
「バカンスじゃん、やったね!」
うろうろは黙ってろ。
労務課に行って188日分の有給休暇を申請。
休日出勤手当については額が大きいため、お嬢様の特別決裁によって手渡しで受け取った。
「私、こんなに長期間お休みもらっても……その間のお仕事は大丈夫でしょうか」
「どうにでもなる。お前や、咲夜や、なんなら私がいなくなっても仕事が回るように普段からBCP(事業継続計画)を作ってある。まさか、有給休暇の過少申告で使う羽目になるとは思わなかったが」
お嬢様は、そういうところでは少しドライだ。
情に厚いヒトなのは知っているが、仕事となれば替えの利かない存在などリスクでしかないと分かっている。それをこういって面と向かって言えてしまうのは、信頼の証なのだろうが。
「することないんですが」
「戻ってくるなとは言わないから、取り合えず紅魔館から離れてみたらどう?」
「うぇ?」
そういえばこの紅魔館が館ごと幻想入りして以来、そんなに長期間にわたって館を離れたことはなかった。
「だって、ここにいたら絶対なにかしら理由をつけて仕事をするでしょう。それとも、完全にゲストとして振舞うことができるというなら最大限もてなすけど」
「私にそんなこと出来ないのわかってるくせに」
「そうかな、そういう時代もあったでしょう?」
「……」
お嬢様――レミリアの方からその話題に触れるのは珍しいなと思った。
私はかつて、この館の門番ではなく、お客様だった時代がある。そのことをもうずいぶん長い間、私自身意識していなかったけれど。
「まあ、いいわ。ホントはうろうろのためでもあるのよ」
「え、ああ。あの子も今のポストについて結構経ってますからね」
妖精は妖怪と長く過ごし過ぎると自然から離れていってしまう。
「焼け石に水程度だけど、少し距離をとって様子見しましょう。ダメそうなら配置転換を考えるけど。とにかく、まああなたも少し羽休めしなさい。紅魔館を離れて、ね?」
紅魔館は、私にとっては殆ど存在の一部だ。
そのくらい、ここには沢山の思い出があり、暮らしてきた時間がある。良い思い出ばかりではない。いや寧ろ、最初の一時と、この幻想郷に来てからの穏やかな日々を除けば、辛いことばかりだったかもしれない。ひょっとしてレミリアは……お嬢様は、私に気を使って、ということなのだろうか。勿論諸々ほかの理由もすべて事実なんだろうけど。
仕事を離れて、紅魔館と距離を置いて。
そんなのどれくらいぶりだろう。
ざっくりとした業務の引継ぎを済ませて部屋で荷造りをする。
別に期間中、紅魔館に帰ってきてはいけないと言われたわけじゃないし、当面必要なものだけまとめていけばいいだろう。
そう思って、着替えやら、ちょっとした趣味の道具、日記、簡単な武具、少しの保存食をベッドの上にまとめ、さあカバンに詰めようと思ったところで、はて旅行鞄なんかどこにあったかなと手が止まる。この部屋になければ、それはあの場所だけだ。
紅魔館はもともと、大きな城であった。その中でも居住スペースであった館と、いくらかの城壁、塔の一部だけを幻想郷に移設している。私がこの紅魔館の客人だったころ、私の居室は館の東側の塔、その4階にあった。今ではあまり使っていないその塔に、私の部屋はまだ残されている。
中に入ると、きれいに掃除されていた。眺めはいいから、時々、私とお嬢様、あるいは妹様がディナーに使ったりしていて、手入れは行き届いている。さらに奥へ、扉を開けると簡素なベッドが置かれたこじんまりとした寝室がある。クローゼットを開けると、数着の旅行着と、大きな旅行鞄が収まっていた。今見ればアンティーク調の、当時は最新式だった無骨なものだ。
持ち上げると、持ち手がしっくりと来る。それだけで、何百年も前の時代を感じるようだった。
結局私は、そのまま塔で一晩過ごし、出発は翌日になった。
************reisen
「いいですか?決められた量を、定期的に、必ず、服用してくださいね」
「わかったわかった」
本当に分かってるんだろうか。結構強い薬だから万が一があっては困る。師匠に怒られるのは私なのだ。
目の前のPt、ルナサ・プリズムリバーは薬をもらったら、もう用は済んだとばかりのテンションである。自分の健康というものにあまり関心のないタイプに多い態度だ。まあ、ポルターガイストの健康とは何ぞやと問われても、私にはわからないけれど。
私は懐から取り出したメモ用紙に、服用の時期と量を書きつけて手渡す。用法容量はきちんと書かれた資料が薬袋に同封されているが、念のためだ。
「これを、必ず見えるところに貼っておいて下さいね」
「……わかったよ」
そういうと彼女は面倒くさそうにそれをカバンにしまった。
彼女には他にもストレス軽減用の薬とか、睡眠導入剤とかを過去に処方している。そのあたりのバランスを考えて薬を調合するのは本当に手間なのだ。そこのところをもうちょっと分かってほしい。
「ところでウサギさん」
「人里で変な呼び方しないで。鈴仙て呼んで」
「じゃあ鈴仙。薬代の回収だけど、私、最近家に帰ってないんだ。前に教えた住所に来られてもいないから請求書は職場の方に届けておいてくれないか」
「職場って……あの、中町のGMCの事務所ですか」
ルナサ・プリズムリバーは妖怪としての素性を明かしたまま、人里で働いている数少ない例外だ。最近何やら忙しいらしい。
「うん。いつもいるわけじゃないけど、不在の時は預けておいて」
そういうとルナサさんはいそいそと立ち去ってしまった。
目の下のクマが凄かったし、体重も減ってそうだし、できれば近いうちにまた永遠亭まで受診に来てほしいところだ。
************meiling
紅魔館を出て、行く当てがないではなかった。
正直路銀は余らせるほどあるし、人里に行ってしばらく贅沢するとか、妖怪の山まで旅行に行くのもありだと思うけど、とりあえずそれは後の楽しみにすればいい。
私は、紅魔館がある霧の湖の近くに、家を持っている。家といっても、掘っ立て小屋まで言わないが、まあ小さなログハウスのようなものだ。紅魔館でこんなにうまくやっていける今になって考えると、余計な保険を掛けたものだと思うが、幻想郷に来てすぐの頃は、情勢が安定したら出ていこうと思っていたのだ。
それからしばらくは、独りになりたいときなんか、たまに訪れていたのだが、もうこの何年もほったらかしにしていた。
かなり荒れているだろうが、時間はたっぷりあるし、補修や掃除をして、しばらくはそこを拠点にのんびりしようと思っていた。
ところがである。
小屋は霧の湖、紅魔館からはその外周を四分の一ほど回って、その岸から100メートルと少し森の中に入ったところにある。最後に来てから何年かたっているのに、場所を忘れていなかったのは僥倖だ。
と、小屋を視認したところで、違和感を感じた。周辺の落ち葉が通り道に沿って軽く掃かれて、小屋の外壁も塗りなおされたように綺麗だ。
誰か住んでるのだろうか。
一応その可能性も考慮はしていた。屋内にはさほど価値のあるものを置いていたわけでもないし、寧ろ、偶然たどり着いた誰かが中で休んだりすれば、小屋の寿命も延びるしいいだろうというつもりで、鍵もかけていなかった。
しかし、見る限り、私が最後に来た頃より綺麗になっているというのが驚きだ。気まぐれに住み着いたという感じではない。完全に計画的に定住するつもりで管理しているようだ。
紅魔館の牽制がぎりぎり及ぶ領域ではあるが、数年間放置していた小屋に所有権を主張するのもなんだし、様子見だけして誰か住んでる様子ならあきらめよう。
早速予定が狂ってしまった。
近寄ってみても、中から人間なり妖怪なりの気配は感じない。
ドアノブをひねると鍵はかかっていなかった。
「おじゃましまーす……」
ただいまと言いたいところだが、誰かいるなら誤解を招く。
中は薄暗い。
ここは森の中ではあるけれど、木々はまばらで日も差し込んでいるはずなのに。カーテンが閉め切られているらしい。日光が苦手なのか?
部屋はぶち抜きで17~8畳の一間だったはず。ちょうど長方形の長辺の真ん中から入る形だ。見回すと右側に簡易の水場と煮炊きができるコンロがある。ソファやテーブルなど、新たに持ち込まれているようだ。左側は少し狭くなっているように感じる。壁を作って二間にしたのだろうか。奥を確認しようとしたその時、
「うう……」
という人のうめき声のようなものが聞こえた。
上からだ。
梯子を上って5畳ほどのロフトがあるのだ。
「誰かいるの?」
私は声をかけながら梯子を上る。
ロフトの上にはベッドがあって、誰かがそのうえで蹲っていた。いや、寝てるのか? これで寝てるんだとしたら凄く寝相が、その……
「ううう……」
やっぱり何か体調が悪いっぽい。
「ちょっと、大丈夫ですか?」
ひっくり返して仰向けにすると、目があらぬ方向を向いている。全く焦点が合ってないし、口の端が汚れていて、ひょっとすると嘔吐しているかもしれない。恐らく女性で身長は低くはないが細身だ。運ぶのは容易だろうが、紅魔館まで運ぶべきか。
と声をかけながら考えていると、枕元に何やら薬らしきものが置いてあるのに気付いた。その女性をそのまま寝せて、カーテンを開く。
「あれ、ルナサさん?!」
どうやら女性は紅魔館でも何度かコンサートに呼んだことがあるルナサ・プリズムリバーだった。いや、今は驚いている場合ではない。
枕元の錠剤には特に薬名が見つからない。一緒に置いてあったメモ紙には、薬の服用間隔と服用量が書かれている。一緒にあった薬袋の日付と今日の日付、そのメモの内容をもとに残っている錠剤の数を数える。
「……余りが多い?」
焦りで手が震える。彼女の様子を見る限り状況は切迫しているようだ。恐らく問題は、薬の飲み忘れらしい。一度ロフトから降りて、水差しをとってくる。メモ紙を見ながら慎重に服用量を確かめた。
「ルナサさん、ルナサさん? 聞こえますか?」
「……」
だめだ完全に意識が飛んでしまっている。
唇に指を突っ込んで口蓋を開く。錠剤をできるだけ奥に押し込み、誤嚥しないように角度を調整しながら水を流し込んだ。少しむせたようだが、そのまま飲み込んでくれた。
症状が安定してくれるといいけど
************lunasa
意識がはっきりするのに、そう時間はかからない。だいたい服用から5分もしないうちに、覿面に効果を発揮する。
ただ、それはそれとして、状況は飲み込めず。
私はソファに腰かけて、どういう経緯でか、この私の別邸兼スタジオをてきぱきと掃除して回る美鈴の姿をぼーっと眺めていた。
「落ち着きましたか?」
「あ、うん。いや、まあある意味落ち着かないのだけれども」
マグカップに手渡されたミルクティーに息を吹きかけながら、正直なところを述べる。
「どうも助けてもらったようなのだけれど、美鈴さん? で、よかったかしら」
「あ、呼び捨てで構いませんよ。仕事できたわけじゃありませんし」
美鈴は屈託なく笑うと、自分の分のミルクティーを啜った。
「では、美鈴。いったい如何いうわけでここに? 仕事ではないということだけど」
「質問に質問を返しますが、ルナサさんはどういった経緯でここにいらっしゃるんですか?」
「私……?」
まさかそんなことを聞かれるとは思わなかった。
ここは我が家――プリズムリバー邸からそんなに離れていない。2年ほど前、周辺を散歩しているときに偶然見つけた空き家だった。
「ちょっと一人になれる場所が欲しいと思っていたところでね。恐らく紅魔館のシマの中だと思って、レミリアさんに確認をしたんだ」
「お嬢様に?」
美鈴は意外そうな顔をした。
「うん。周辺の人間や妖怪に確認してくれて、どうやら長く放置された空き家のようだから、好きにしていいってね。もし誰かとトラブルになったら、紅魔館が間に入ってくれるっていうから、ちょっとしたお礼金を包んで」
そうして、周辺を少し整備して、内装をいくらか弄った。録音兼練習用のスタジオが欲しかったから、ロフトの下のスペースを防音壁で囲って、3畳ほどの小さな部屋を新たに作った。
「そういうことでしたか」
「美鈴は、それで、どういうわけでここに?」
てっきりレミリアさんから様子見でも頼まれたのかと思ったのだが、そうであるならば私がここに住むことになった経緯を知らないのはおかしいし。
「いや実は、まさにその空き家の持ち主……今となっては、だった、というべきでしょうが、それが私なんです。ここ建てたの、私」
美鈴が自分を指さしながら笑っている。
「ええっ? それはまた、一体全体……」
美鈴は紅魔館で働く妖怪だったはず。レミリアさんは知らなかったのだろうか?
「まさかお嬢様の許可があってのことだったとは」
「いや、まさか貴方の家だったとは露知らず、とんだ無礼をしました。しかし、もうかなり手を入れてしまったし、立ち退くにしてもできれば少し時間を貰えると……」
そんなようなことを言いながら、算段を練っていると美鈴に慌てて止められた。
「そんなそんな。いいんですよ、何年も放置していたんですから。ましてやお嬢様が許可しているものを立ち退きなんてとんでもない。私の方こそ勝手に入ってすみませんでした」
お互いにひとしきり謝りあい、頭を下げあって、漸く話を進める方向でまとまる。
「美鈴が来てくれていなければ、割と危ないところだったし、本当に気にしないで」
状況もよくわからない中で、よく適切な処置をしてくれたものだと感心する。
「ああ、いや普通あんな状況に出くわしたら、誰でもそうしますって」
美鈴は笑いながらそう言った。
果たしてそうだろうか?
誰しも、面倒ごとにはかかわりたくないものだ。そういう発想は、誰かとのかかわりの中で生きてきて、そのことでたくさんのものを得てきたヒトにしかできないだろう。それに、この小屋にはかなり高価なものを無防備においていた。まあ、ストラディバリウスなんか盗んだところで、誰が買うんだって話かもしれないけれど。
「それより、いったい何の薬だったんですか……って、普通に聞いていいもんですかね」
「ああ」
通常、健康状態、既往症といったものは個人情報の最たるもので、他人にペラペラしゃべるものではない。とはいえ、訳も分からず、それでも処置をしてくれた相手だ。それを尋ねる権利は十分にあるものと考えるところだろう。
「それを説明するには少し長くなるんだけど、いいのかな」
「ええ、まあ。時間は持て余してるくらいなんで」
そういえば彼女は紅魔館で働いている身だ。
ここが、その昔美鈴が建てた小屋だということはすでに聞いたけれど、放置していたそれに今日、突然やってきた経緯はまだ分かっていない。失職したってことはないだろうが――そも、レミリアさんが彼女を手放すとは思えない――何かしら事情があるのだろう。
「じゃあ、……なんだろう、ゆっくりしていってというのも立場としておかしいが、まあくつろいでほしい」
「それじゃあ、お茶のお代わりを入れましょうかね」
私は、言わずと知れた三姉妹の長女だ。
それはもちろん、これまでに何度も紅魔館にも呼んでもらっているし、ご存知のことだろうけども。私たちプリズムリバー三姉妹は、この近くにある廃洋館に住んでいる。実の姉妹と離れ離れになり、いわくつきのマジックアイテムと、誰もいない洋館とともに幻想入りした少女が生んだポルターガイストだ。
私は鬱の音を、真ん中の妹は躁の音を、一番下の妹は幻想の音をつかさどって、毎日みんなで音楽を奏でて過ごしていた。
そんな彼女が亡くなって、もうずいぶん経つ。
私たちは彼女の思い出を大事にしながら、彼女のために音楽を奏で、また自分たちのためにも音楽を奏で続けた。
この幻想郷は最近とみに平和になってきて、私たちは誰もいない場所で、妖精相手にコンサートをやるばかりの毎日を通り過ぎ、たくさんの人間と妖怪と、その他のいろいろな連中に音楽を届けられるようになっていった。
人間にも、西洋音楽をやる連中が現れて、私は時折、彼らに手ほどきをするようになっていった。二番目の妹は、妖怪たちに重宝がられ、いろんな場所に出向いて、その手で幸せを配って歩いた。下の妹は音楽ビジネスに目覚め、精力的にコンサート活動をしている。それも人間や妖怪と一緒になって。
一度、妹たちと話しをしてみた。
この先私たちはどう過ごしていくのかって。
廃洋館でひたすらに音楽を奏で続けて、いつしか消えていくまでそうしているのか。
それはなんだか違うんじゃないかってことになった。実際、私たちは活動の幅を広げることで新しい曲の構想を思いついたり、演奏技術も向上したし、レイラを、……その、私たちを生んだ少女を慰めることができるようになったんじゃないかと思うようになった。
私たち自身がそれを楽しんでいたというのも大きい。
騒霊として生まれたからには、これからもその信条の向くままに音を鳴らし続けていきたい。そう思って、私たちはしばらくそれぞれ、自分の思うままに進んでみようということになった。
「だから、今、プリズムリバー邸で主に生活しているのは上の妹、メルランだけで、私は主に人里とここを行き来しているし、下の妹、リリカは根無し草というか、今どこで何をしているか分からないの」
「そういえば、プリズムリバーがそろってライブをやるのを暫く聞いていませんね」
美鈴はチョコレートをひとかけ齧って頷く。
「今私は、人里で音楽を生業とする人たちの組合の活動に参加しているんだ」
「職業音楽家協同組合、でしたっけ?」
「今はGMCと改名したんだ。いろいろあって」
私は西洋音楽を志す少数の演奏家たちにとって数少ない指導者だった。彼らと過ごすうちに、その他にも多くの音楽家の知り合いが増えた。聴衆の絶対数が少ないこの幻想郷において、演奏家、歌手、作曲家、楽器製作者、そういう人たちがプロとしてやっていくのは簡単じゃない。そこで彼らが組合を作ることになった時、私も協力することになった。西洋音楽特別顧問、なんて大仰な役職を頂いて、理事の一角に収まった。
そこまではよかったんだけど。
最近、楽器の付喪神が相次いで現れて、音楽業界が凄く盛り上がったんだ。それにええじゃないか騒動で娯楽の需要も増えて、急にバブルみたいな状況になった。
騒音被害への苦情なんかが出る中で、不祥事が起きてさあ大変。やれ責任者を追放しろ、コンプライアンス委員会を設立して再発防止策を作れ……。主要な理事が糾弾される中、理事会と距離があった私にコンプラ委員会のサブリーダーをやってくれとお鉢が回ってきたんだ。
「ほとんど名義貸しみたいな形で理事に名を連ねていただけだったのに……」
「なんというか、……災難でしたね」
美鈴が同情の目を向けていた。全くだよ。
「もともと個別の活動が多くなって妹たちと演奏ができてなかったんだ。そこへきてなんだかんだと忙しくなっちゃってね。私が鬱の音を操るのは知っているよね」
「ええ、人の気分を鎮めたり、落ち着かせたりする能力があると」
「そんなに便利なものでもないんだけどね。ある程度コントロールは聞くけれど、基本的には私の意図に関係なく、常にその効力は発揮されているんだ。それに、私の騒霊としての性質自体が鬱の感情に起因しているから、凄く乱暴な言い方をすると、私自身が重度の鬱病を患っているようなものだ」
「ええっ、でも、そんな風には……いや見た目に分かる類の話でもないんでしょうけど」
美鈴は途端に気づかわし気な空気を醸し出す。
なんというか、つくづく他者に気を使うヒトなんだなあ。
「いや、印象としては間違いないよ。あくまで例えるならば、という話であって、人間の鬱病とは全然違うものだから。それに、妹たちと一緒に演奏することで、そうした精神の変調はほとんど感じられないほどに落ち着かせることができるんだ」
メルランの躁の音と私の鬱の音は互いの性質を打ち消しあう。
「なるほど……。あ、だから?」
「そう。忙しくてその演奏の機会が作れなくて、私の精神がどんどん鬱側に寄って行ってしまってね。正直、仕事どころじゃなくなってしまったんだ。そこで永遠亭に行って、薬の力で対処しようとしたんだよ」
私は先ほど美鈴が飲ませてくれた錠剤を見せる。
「騒霊専用向精神薬。定期的に服用すればかなりまともな精神状態を維持できる優れものだよ」
服用から数分で効果が出て、長く持続する。
一日に二度服用すれば効果は切れることなく、それなりに正気でいられる。
「そうだとしたら、どうしてあんなことになっていたの? って、聞いてもいい?」
そう尋ねる美鈴は、自分のことでもないのに、どうしてかひどくおびえている様子だった。いや、実際そのようなことはないんだろうけど、私にはそんな風に見えた。
「つい、飲み忘れただけ。それだけよ」
だから、なんとなく、本当になんとなく、はぐらかしてしまった。
************meiling
なんだかんだ話し込むうちに日が傾いてきた。
手持ちの懐中時計を見ると、すでに5時を回っていた。
「私ばかり話してしまったけど、美鈴、貴方は今日どうするの。その荷物と装いを見る限り旅行か何かの途中のようだけれど、ひょっとしてここに泊まるつもりだったのでは?」
ルナサはそのように水を向けてくる。
「ええ、まさにそのつもりだったのだけど。今日は人里まで足を延ばして宿を調達するわ」
「どうして?」
「……どうして、とは?」
ルナサは心底不思議そうな顔をしている。
「ここは元々あなたの家だったんだろう。勿論、私もそれなりに手順を踏んで今ここにいるわけで、出て行けと言われても困るけど、でも私もまたあなたを追い出すほどのことはないように思う。美鈴、貴方が嫌だというのでなければ泊まっていってはどうかな」
彼女が一体何を考えているのかは正直分かりかねた。
そもそも彼女はそれほど積極的に他者とかかわろうとするタイプではなかったように記憶しているが、私の思い違いだったのか、あるいは薬の効果で社交的に?
いずれにせよ、幾先に長大に横たわっていた退屈とは無縁でいられそうで、私にすれば否やはなかった。
「それでルナサさんが良いとおっしゃるなら」
「ルナサで結構」
「ではルナサ、ひとまず宜しく」
「こちらこそよろしくお願いするよ」
初日は食料調達の余裕がないと踏んで、食材を十分に持ってきていたのが幸いした。
いったいルナサがどのように暮らしているのか定かではないが、およそまともな食事をとっているとは思われない食糧庫の空き様に私はため息をついた。
ポルターガイストについての知識はさほど持っていないが、恐らく食事とは無縁の存在なのだろう。しかし、彼女たちが紅魔館のパーティに招かれた際、飲食をする様子は見たことがあるし、食べて食べられないこともまたないのだろう。
今日だけここに間借りする形になるのか、あるいはこれがしばらく続くのかは分からないが、できることならここに暫く留まって、彼女にある程度真っ当な食生活を送らせねばならないという謎の使命感を、私はひそかに感じていた。
「どうぞ、天津飯と麻婆豆腐です」
もともと一人暮らし用であったから、テーブルには一脚しかイスがなかったので、ルナサが増設したスタジオスペースから一脚持ってくることになった。テーブルクロスも何もないが、まあそれも素朴でいいだろう。
「いただき……うん?」
ルナサが天津飯を前に固まっている。
「あの、ひょっとして何か苦手なものでもあった?」
「ああ、いや、作ってもらったものに不満は言わないよ」
「いやいや、無理することないですよ。っていうかそんなにいやそうな顔されたらもう、気を遣われても遅いですって」
紅魔館でも、それ以前でも一応料理の腕はプロ級ということで通っていたから、自分の作ったモノをあからさまに忌避されるのは珍しい経験だ。あーもう、蓮華でつつくんじゃない。
「申し訳ない。どうしてもその、餡かけというのが苦手で」
なるほど。片栗粉でとろみをつけたもの全般を苦手とするヒトは少なくない。冷えていたり、ダマになっているようなのを最初に食べると苦手意識が付きやすいのだ。火の入れ方を間違うとドロッとなってしまうから。
「あー、仕方がありませんね。中身だけ少し残ってますから軽く炒め直して炒飯にでも……まだなにか?」
しゃべっている最中にもまた露骨に困った顔をするルナサに軽く呆れながら問いただす。
「いや、その、まあここまで来て取り繕っても仕方がないから言うけど、米もあまり……」
「……お米、苦手なんですか?」
うんうんと頷くルナサを見て、ピーマンを拒否る妖精メイドを思い出す。
米かー……。
私からすると信じがたい話だが、欧州の方には馴染みのない地域もある。基本、スティッキー(粘りのある)なものがダメ、というのはまあ、あるかもしれない。この分だとあんことかもダメだろうな。お嬢様が何でもオッケー過ぎて感覚がマヒしていた部分もあるかもしれない。納豆とか平気で食べるし。
「じゃあ、麻婆豆腐だけにしておきましょうか」
「ごめんね」
ルナサが申し訳なさそうにするのを見ると、しょうがないな、という気分になる。
「いえ、私も先に確認すべきでした」
ルナサは結構偏食家かもしれない。長女だし、仕事の時もしっかりしたヒトみたいだったから少し意外だ。
「じゃあ改めて頂きます。中華料理自体は好きなんだ。……ほんとだよ」
どうだろうか。片栗粉を使わない、米を使わないとなると中華でも結構幅は狭くなると思うが。
「はぁーむっ」
麻婆豆腐を口いっぱい頬張ったルナサは何となく子供っぽい。
もっちゃもっちゃと咀嚼している。
「んむ。これ美味し……っ!!!!!」
咀嚼の途中でルナサの動きが固まる。
あー、これ、あれか。
「ひょっとして辛いのもダメ?」
ルナサは静かに、うんうんと頷いた。完全に固まって、顔面から汗がふきだしている。代謝はいいらしい。
「あの、無理に飲み込まなくていいですからね。今デザートに作った杏仁豆腐を持ってきます!」
結局ルナサが食べたのは杏仁豆腐だけであり、更にその感想については「舌がビリビリして全く味を感じない」とのことであった。これが私でなくて恋人や夫婦であったならマジギレ間違いなし案件である。
「ちなみに、何だったら食べれるんですか?」
「パン……とか? オートミールとかは食べる。野菜はだいたいは食べるし、卵も火が通ってれば」
「……肉はどうです」
「焦げる寸前まで焼いたベーコンなら」
「魚介」
「むり」
……まじか。
いったい何を食べて生きてきたのか、と一瞬考えて、そもそもルナサは生きていないのだとすぐに思い当った。バカな問答をするところだった。それにしたって、食べられるたんぱく質、豆ぐらいしかないんじゃないのか。
「あ、お菓子はだいたい食べれる、よ?」
黙った私を見てルナサなりに自分の回答がまずいことに思い当たったらしく、あわてて付けたし、それでもなお判断を誤ったことを空気で察したようだ。
「ルナサ、精神の安定にはバランスのとれた食生活が不可欠です。ポルターガイストであるあなたに他の動物の常識がどれほどあてはまるか分かりませんが、ヒト型を取り、食事をとることが出来るという事実を鑑みるに、その影響は小さくないと思います」
「この年になって好き嫌いで怒られるとは思わなかった」
「そこで」
全部咄嗟の思い付きだ。
「私がルナサの食事と服薬の管理をします。代わりに、この家に私も住み込ませてください。期限はとりあえず1か月。以後必要なら定期的に更新ということでどうでしょう」
ルナサは私の方を見たままキョトンとしている。
「なにを、その、どうしたらそういう発想に?」
その問いを、私はあえてはぐらかしたのではない。
「別に、なんとなく、放っておけない気がしただけです。暇ですし」
本当に自分でも不思議だったのだ。
今でこそ紅魔館の従者として長いが、元々は誰かに仕えるような性格で無かったはずだ。
いつの間にかすっかり、そのようになってしまったのだろうか。
************lunasa
美鈴というのは非常に面白い妖怪である。
昨夜は何やら私の食の好みのことで怒らせてしまったようだが、ただそれも、気分を害したというよりは私の自己管理能力に対する心配の表れのようにも思われた。実はGMCの理事職を引き受けるようになってから事務の補佐をしてくれている妖怪の九十九弁々から、貴方は他人との会食に向いてないと苦言を呈されて、実際に会食の予定を喫茶店での面会に変更されたことが一度や二度ではなかったので、薄々そうなんじゃないかと気づいてはいたのだが。
そもそもこの小屋は改装費こそ負担したとはいえ、特に修繕を必要としない程度にはしっかりした作りだったし、私はそれを発見しただけで所有権を得てしまったのだ。如何に彼女の主人であるレミリアさんがそれを許可しているといっても、知らずのことであっただろうし、住まう代わりに食事の世話をするなんて言うのはこちらにしてみれば一方的に得をするだけなのだけど。
しかしその辺のことは美鈴の中では納得できていることのようで、私としてはそれを強く拒否することもできず、ほとんどなし崩しにこのような状況になっているのである。
揺り起こされると、既に食卓にはこんがりと焼きあがったトーストと、カリカリになるまで炒められたベーコンエッグ、ちょっとしたサラダが準備されている。
「おはようございます、ルナサ。いつもは何時頃起きてるんですか? 朝食は?」
美鈴は朝から元気爆発というか明朗快活というか。寝起きという概念が縁遠そうだ。
「おはよう美鈴。日によって起床時間はまちまちだよ」
昼過ぎだったり、夕方だったり、深夜だったりする。
そもそも就寝時刻、起床時刻、睡眠時間のすべてが常に流動的なので、決まった生活のリズムというものがないのだ。一日24時間という基礎単位に馴染めていない。
「あれだ、ほら、なんだっけ。そう、フレックスタイム制を導入しているの」
「フレックスな脳みそですね」
フレックスという言葉自体に悪い意味はないのに、なんとなくバカにされているのが雰囲気で分かってつらい。あれ、美鈴こんな感じなの。私が紅魔館で見ていた彼女は如何にも従者然としていて、かつ朗らかで優しいイメージだったんだけど。
「人里で仕事があるときはどうやって起きてたんですか」
「えーっと、起きてたというより、寝ないんだ。そういうとき」
「寝ない?」
美鈴は意味が分からないという顔。
「前の日、いや、昼夜も何もなかったから、必ずしも前の日でもなくて、その、寝るにあたって今寝たら約束の時間に起きないかもしれないというタイミングに、あの薬を飲むんだ。砕いて飲むと即効性があって、眠気がなくなるからそれで……!」
突然、美鈴に腕を掴まれて引っ張られる。
「痛っ」
「絶対やめてください、二度と、……そういうことをしないでください」
「あの、……美鈴?」
「いいですね?」
「ふぁい」
めっちゃ怖かった。
美鈴は手を放すと元の柔らかい雰囲気に戻って肩をすくめた。
「その様子では朝食、という概念すらあったもんだか怪しいですね。言っても怪異ですから健康とか栄養の話は二の次でしょうけど、メンタルに与える影響も大きいんですから、出来れば欠かさないほうがいいですよ」
「お、お金もかかるし……」
「私より稼いでるでしょう。それに、食事の周期がそれだけばらついていれば服薬に影響があるのは当然です。処方箋見る限り食後の薬みたいですから、食べずに飲むと胃に悪いですよ」
道理でいつも胃が痛いと思った。
「さあ、冷めないうちに食べちゃいましょう」
「あのー……」
たぶん呆れられるだろうなという確信があったのだけど、嘘をついても仕方ない。
「まだ何か問題が? 食べられないものは入ってないと思いますが」
「熱いの、苦手なんだ」
「……! ……っ!!」
美鈴が見えない何かと戦っている。ポルターガイストでもいるのかな。
「本当に、……あなたというヒトは、もおおおおお!」
なにやらジタバタしている美鈴を見ながら、私はベーコンにふうふうと息を吹きかけた。
美鈴は熱いの苦手じゃないみたいだし、冷める前に食べればいいのに。
私のイメージでは、世話焼きで、口うるさそうで、几帳面なのは寧ろ十六夜咲夜のほうだったのだが、こうなるとそれは美鈴の性質が伝染ったものなのではないかという疑惑が生まれてくる。まあ、あのメイドが何歳から紅魔館にいるのか定かではないが。
休暇を一括取得させられたという事情を昨晩聞いたところだが、のんびりした印象に反して仕事が好きなのかもしれない。
「はい、食後の薬です。一回2錠」
美鈴に水の入った竹製のコップと錠剤を手渡される。
ビビットカラーの粒を改めて見ると、なかなか口にするには躊躇する外観だ。
私の命綱であり、『足枷』でもあるそれを、ゆっくりと飲み下す。薬効が出るまで数分はかかるはずだが、早くも頭の中がすっきりしていく感覚がもたらされる。プラセボ効果というやつだろうか? ちょっと違うか。
屋内にいるのに天気が良くなったような錯覚がする。梅雨時に晴れ間が見えたような。手足が体に繋がっていて、血液が――はたして私に流れているのか知らないが――体を巡る。何でもないようなことが幸せに思えるといったのは外の世界の流行歌だったか。
「……目に見えて顔色が良くなりましたね」
「永遠亭の薬だからね。効き目は確かだ」
「それじゃあどうしてキチンと飲まないんですか」
美鈴が呆れたように笑いながら言う。
この薬が私にもたらすものの全てを彼女に話すべきか? 私はそのようには思えず、適当にはぐらかした。
「今日はどのような予定ですか?」
なんだか料理人というより、新しい秘書を雇ったような感じだ。美鈴はワインレッドのブラウス、ジーンズにブーツ――少なくとも私が済むようになって以降、ここは西洋風に土足だ――というラフな格好だが、俄然スーツを着せたくなる。眼鏡も似合いそう。
「ルナサ?」
半眼で睨まれ、思わず首をすくめる。
そんなに欲の漏れた表情をしていただろうか。タイトスカートでしゃがんでほしいと思ったのがばれたのか?
まあいい。仕事にかからなくては。
「今日はGMCコンプラ委員会の準備があるから、ずっとロフトで作業するよ」
ロフトにはベッドとライティングビューローがある。狭いけど、事務仕事に集中するにはいい環境だ。
「昨日の約束通りなら、昼食も美鈴が用意してくれるってことでいいのかな?」
「もちろん。何かご希望は?」
「軽いものがいいな。何ならサラダだけでもいい」
「分かりました」
いつもは食べないことも多いのだけど、要らないというとまた怒られそうだったのでやめた。私のテリトリーだったはずのスタジオ兼事務所は1日と経たず、美鈴に掌握されてしまった。泣ける。
「ところで美鈴、食材はどうしてるの」
作ってもらうところまでは、まあ納得したけれど、材料費の見合分くらいは払わないと流石に借りが大きいし、わざわざ里まで買いに行くようなら、ちょくちょく仕事で里に行く私が買ってきた方が効率もいいはずだ。現にこれまではそうしてきた。
「やっぱり鮮度のいいものを食べてもらいたいですから、朝から近くの知り合いを尋ねて買ってきました」
「近くの知り合い?」
「ええ」
そういえば紅魔館は里に馴染めず出奔してきた人間からみかじめ料――でいいんだろうか?――を徴収する代わりに妖怪に襲われないように保護しているんだったか。紅魔館の庇護下の人間を襲う――即ち紅魔館に喧嘩を売る――ようなバカは少ないから、霧の湖の周辺には僅かながら人間が住んでいるのだ。
朝食の野菜や卵はつまり朝採れということらしい。素材の味とかわかるような繊細な舌を持っていないので私にはもったいないように思うのだけど、美鈴の食事でもあるから気にすることもないか。
「材料費についてはルナサの分だけ切り分けて週に一回まとめて請求するということでどうでしょう」
「ええ、それでよろしく。あと、それ以外の時間はホント、自由にしててね。下に居てもいいし、出かけてもいいし」
「そうさせてもらいますね」
美鈴はそういうと、自前の旅行鞄から着替えらしきものを取り出し始めた。外に運動にでも行くのかもしれない。
ブリーフケースから要点の定まらない資料の束を取り出し、ライティングビューローの前に座る。収納スペースと机を兼用したこのコンパクトな家具を私は気に入っている。上部を開くとテーブル面が手前にスライドしてくる。この小屋に残されていたそう多くない家具のほとんどは、傷んでいたか、私の趣味に合わないという理由で破棄したのであるが、このビューローは他のものに比べて明らかに高級品だったし、きれいに保存されていたので、そのまま残しておいたのである。何より、このビューローにはちょっと複雑な念が憑いていた。
私は騒霊――ポルターガイストであるから、その本質は屋敷に憑く霊障である。そのため人の営みの中にある様々な物品、特に家具に付随する感情には敏感だ。このビューローには、大きな幸福と、それと同じほど大きな悲しみ、後悔、怒り、そしていくらかの未練が籠っていた。廃屋に残された年代物の家具だから、どんな謂れがあるのか気にはなったが、そう珍しい話でもないと思っていた。
しかし、この持ち主が美鈴だとなると話は変わってくる。紅魔館にあったいわくつきの逸品を持ちだしてきた可能性も捨てきれないが、美鈴がそういうものを勝手に持ち出すとは思えないし、かといってレミリアさんに許可を取っているなら美鈴が余所に家を持っていることが知られていないのはおかしい。美鈴の私物である可能性が一番高いのだ。
あのカラッとした、晴れた日に干したシーツのような彼女がその底に隠した澱みを、紅魔館の住民達は知っているのだろうか。彼女はレミリアさんと仲がいいみたいだし、現状に不満があるようにも思われない。だけど、誰にも内緒で建てられたこの隠れ家に何かが眠っているのではないか。
私は他者と関わることを好まない。薬が効いている間は気にならなくなる程度のことではあるが、それでも美鈴が暫く逗留することを了承したのはしぶしぶのことであった。元来彼女に権利があるであろうという事情、それを殊更に言い立てない程度の謙虚さ、そういったものを含めてのやむを得ない判断だった。
しかし私は今、彼女の裏側の片鱗を偶然にも垣間見ることになった。
それを暴きたいと望むのは悪趣味極まりないだろうが、私生活に土足で上がりこまれたのはこちらも同じだ。
そう考えると少し憂鬱だったこれからの日々が、俄然楽しみだ。
……他人に興味を抱くなんていつ以来だろう、いや、初めてかな。
************meiling
最近、トレーニングというと屋内だったり、館の周辺だったりが続いていたので、自然の中で体を動かす気持ちよさというのを久々に感じたような気がする。いつの間にやらすっかり洋館暮らしが板についてしまったが、元々は貧民街で幅を利かす野良妖怪だ。そういうことを思い出す機会も随分と減ったように思う。
戻ると、ルナサは変わらずロフトで仕事をしているようだった。
小屋の裏手には簡易なものだが風呂がある。私が作った時には本当に適当な水浴び場だったのだが、ルナサが改装したらしい。水は井戸から引いて、職業魔法使いが作る発熱符――懐炉の凄い奴を想像してほしい――で沸かす。一応薪でも沸かせるようにしてあるのは、辺境生活の知恵というやつだ。
軽く汗を流してから昼食の支度にとりかかる。
ルナサはサラダだけで構わないといったが、スープくらいは添えたいものだ。
鍋を火にかけ、油をひき、さいの目に切ったニンジン、玉ねぎ、ベーコンの類を炒める。キャベツやジャガイモを加え、6~7分中火で炒めたらつぶしたトマト、ひよこ豆、ニンニク、水を加えて煮る。ルナサは動物性たんぱく質を殆ど受け付けないので、可能な限り豆を食べさせていきたい。生まれは幻想郷だが、ルーツをたどればイギリスだというし、豆は嫌いじゃないだろう。
塩、コショウで味を調えて完成。コンソメを使いたいところだけど、手持ちの固形コンソメは鶏ガラ由来だし、ひょっとすると風味がダメかもしれない。味見をするとイマイチ深みが無いように感じられるが、どうやらルナサは食に関するこだわりが薄いようなので下手したら気づかないだろう。
サラダはトマト、キュウリをカットして、ちぎったレタスと混ぜる。
「ルナサー。昼食出来ましたよ。いったん切り上げませんか?」
ロフトに向かって声をかけるが返事がない。
梯子を上ると、ルナサは電卓を片手に何やら唸っている。
「ルナサ?」
「ひゃわ!」
肩に手を置くと、想定外のオーバーリアクションが返ってきた。こっちが驚いてしまう。
「な、なにかな」
「昼食。準備できましたよ。休憩にしませんか?」
「あ、ああ。そうしようか」
呼吸を整えながらうなずくルナサに、そこまで驚かなくてもと笑ってしまった。
「何をそんなに唸っていたんですか」
「うん?」
ルナサはサラダに塩、コショウ、オリーブオイル、酢を掛けながらこちらを見る。オリーブオイルは高級品だが、小屋には常備されていた。もっとそろえるものあるだろ。
「いや、そろばん片手に難しそうな顔してたじゃないですか。ああ、話せないような内容なら聞かなかったことにして下さい」
お嬢様と話すときは、大概まずい内容でも普通に相談していたので感覚がマヒしてしまう。
「いや、大した内容じゃないよ。GMCが持っている演奏施設の防音が良くなくて改修することになったんだけど、予算がバカ高くてね」
ルナサは眉間にしわを寄せる。
「音楽ブームに乗じて急に大きくなった組織だから、運営のノウハウが全然育っていなかったんだよ。私は非常勤理事だったから、今回こうやってコンプラ委員なんてやらされるようになって初めて実態が分かった。相見積もりはとってないし、まともな契約書も作ってない」
幻想郷の経済は外界に比べればやっぱりまだまだ原始的なところがあるけれど、明治の初頭までは外とつながっていたし、妖怪には優れた学者もいる。ちゃんと大きな商会や公的機関なんかは最低限度の商慣習を持っている。
「予算管理の杜撰さもそうだけど、この段階から改革していかないといけないのかと思うと先が長いなと思ってね」
「ご苦労様です」
十分に冷まされたミネストローネを口に運ぶ彼女は、紅魔館を立ち上げてすぐの頃のお嬢様によく似ている気がした。
「委員会はどのくらいの周期で?」
「不定期。今はだいたい週に1回くらいのペースで開かれてるけど、もう少し再発防止計画が進捗していけば、もっと間隔は長くなると思う」
今は立ち上がりの負担が重い時期ということだろう。
「次回は?」
「明後日。ああ、だから明後日は昼と夜は食事いらないから」
「わかりました」
なんだか新婚夫婦みたいなやり取りだな、と思って、そんな思い付きについ笑ってしまった。
「なに?」
「いえ」
ルナサは釈然としない面持ちでサラダを完食した。
味の感想は一言もなかったけれど、まあそろそろルナサのそういうところにも慣れてきた。
その日、ルナサは一日中机に向かっていて、何やら計算していたり、委員会の経費で借りたというタイプライターで長大な文書を書いたりしていた。
夕食にはシチューを。いちいち全部冷ましてから食べられるのは、作るほうとしては何とも言えない感じがあるが、咲夜も猫舌だったから慣れているといえば慣れている。食べ終わると早々にロフトに上がり、仕事に戻ってしまったので、私も危うく薬を飲ませ忘れるところだった。この調子ではやはり、誰かが見ていないと遠からずまた飲み忘れで倒れることになりかねないと思わされる。
夜は切りのいいところで仕事を切り上げさせ、半ば強引に寝かしつける形になった。というのも彼女、意識が続く限り仕事をして、気絶するように眠り、起きたタイミングでまた活動を再開していたようなのだ。そりゃ昼夜逆転にもなるし、生活リズムも何もあったもんじゃない。
ルナサがベッドで眠り、私はソファに陣取る。ソファといってもサイズ感はかなり大きく、寝心地は悪くない。ルナサが遠慮するかと思ったが特になんのコメントもなく不思議だったのだけど、しばらくして、どうやら彼女は私がどこに寝ているかという疑問すら持っていないのではという仮説にたどり着いたところだ。洋館では妹さんたちと生活していたはずだが、いまいち他者と生活するということに慣れていないように見える。
私のほうが後に寝て先に起きているから、差し当たって気にするタイミングが巡ってこなかったということなのだろう。日に日にルナサのどうしようもないところが明らかになってくるが、私はそれが嫌になるというよりは、何とかしなくてはという方向に考えてしまうのである。
妹さんたちも結構苦労していたのではないだろうか。
翌日もそんな調子であった。
ルナサは朝から作業をはじめ、私は外で新しい椅子を作った。
木工細工は昔から好きだし、本来はスタジオスペースで使う演奏用の椅子をいつまでもダイニングで使うのも良くない。夕食時には完成して、実際にそれに座って食事をとった。ルナサは特に言及せず、それもまた単に気づいていないだけなのだ。
お嬢様がなんにでも興味を持ってすぐに疑問をぶつけてくるタイプだったから非常に新鮮である。共同生活とは言いつつも、ルナサにとっては本当に自分のスペースでもう一人暮らしているというだけのことなのかもしれない。
この日新たに分かったことは、ルナサはコーヒーがやたら好きだということ。そのくせ胃が弱いということだ。濃ゆいコーヒーを飲んでは胃が痛い胃が痛いと言っている。これはもう普通にバカなんじゃないだろうか。
面白いのは、そういうルナサのおかしな振る舞いが、かっこよく演奏し、澄まし顔で受け答えする本来の彼女の魅力を全然減じないところである。
************benben
冬の気配が薄れて、森の中を歩くのも辛くなくなってきた。
私、九十九弁々が職音協に勤めて10か月近く経とうとしている。その間に組織名は改名され、担当部署は3度変更になり、今はコンプラ委員会の事務局として、実質的にはその副委員長であるルナサ先生の秘書のようなことをやっている。
元は月に一度の理事会にしか顔を出さなかったという彼女は、旧首脳部の中では比較的話が通じるという理由でコンプラ委員会に抜擢されてしまったということになっている。だが、委員長をはじめ、多くの外部有識者は報酬を貰っているのに、ルナサ先生は元々理事だったということで無給であるということを考えると、単に委員報酬を少しでも削減するための苦肉の策だったのではないかという邪推にも説得力が生まれてしまう。
私は彼女の演奏が好きだ。彼女の演奏を初めて聞いたのは、私が異変で付喪神になって間もない頃であった。だから、彼女が雑事に追われて本業に戻れていない今の状況は非常に不本意なのだ。少しでも早く彼女が演奏家として復帰できるよう支えたいのである。
ルナサ先生の別邸の前までたどり着いた。今日はGMCの理事会があり、そのまま午後にコンプラ委員会も開催される。
ドアを大きく3度ノックするが、集中すると周りに気が向かなくなる彼女がこれで出てきたことはなかった。。大方今日もそうだろうと思い、中に入ろうとした時、
「はーい、今出ます!」
という耳慣れない声が中から聞こえた。
え、誰?
「ほらルナサ、迎えの方来られましたよ。あー襟が曲がってますって、ほらこっち来て。書類は持ってますか? 里の通行証は? もう、顔擦っちゃダメ、メイクが落ちるから!」
聞いたことのない誰かがわちゃわちゃいう声と、ルナサ先生のあー、とかうー、とかいう声が交互に聞こえる。それから数十秒後、ガチャリとドアが開いた。
出てきたのはキチンとスーツを着て、髪も整えたルナサ先生であった。眠そうではあるが珍しく寝癖がはじけておらず、化粧で隠したのか目の下にクマもない。
「おはようございます、先生」
「ああ、おはよう弁々」
彼女の後ろからは、シックなエプロンを身にまとい、深紅の長髪が目立つ美人が先生の鞄を持って追いかけてくる。
「ルナサ、書類、忘れてます!」
そして私に気づくと
「ああ、九十九弁々さんですね。お世話になります」
「え、ええ。あの、先生の荷物、こちらでお預かりしますね」
謎の女性から鞄を受け取り、先生にチラチラと目線で説明を求めるが、一向に伝わらない。終いにはその女性のほうが先に私の意図を察して
「あー、私はルナサの、なんというか同居人で、食事の世話をしている、しい……使用人みたいなものです。紅美鈴と申します」
と挨拶をされた。
「ああ、ご丁寧にどうも」
それにしても一瞬、飼育係って言おうとしなかっただろうか。聞き違いか?
「そうだ、九十九さん。鞄の中にルナサの薬が一回分入れてありますから、夕食の後、ちゃんと服用したか確認してもらえますか?」
「美鈴、私はこどもじゃないんだよ?」
「わかりました。お任せください」
美鈴と目が合い、一瞬で通じ合うものがあった。
このヒトも先生に苦労させられているクチだ。間違いない。
「さあ、先生行きましょうか」
里の近くまでは飛行して移動する。
道すがら先生に聞いたところによれば、彼女は紅魔館の使用人らしい。紅魔館と聞けば、異変の時に出会った恐ろしいメイドを思い出すが、あれは聞くところによれば人間なのだそうだ。どちらかというと人間のようだった美鈴のほうが妖怪だと聞かされ、なんとなく釈然としないものがある。見かけじゃわからないものだ。
「それにしても意外です」
「なにが?」
先生はにべもない。
「いや、ルナサ先生はあまり誰かと仲良くしているイメージがなかったもので」
「喧嘩売ってるの?」
「いえ、そういうわけでは」
実際友達は少ないような。
「美鈴はなんというか、ルームメイトというか、別に何でもないよ」
「はー。そんなもんですかね」
先生みたいなヒトでも気まぐれに誰かと過ごすことがあるのだろうか。
************lunasa
帰り着いたのは深夜2時を回っていたように思う。
弁々や、ほか事務局職員に誘われ久々に飲みに行ったのだが、理事会とコンプラ委員会の愚痴を私がひたすらぶちまけるというわりと最悪な会になってしまった。まあ、話題を振ってきたのも、おいしいワインをたくさん用意したのも彼らだったので、ひょっとすると私のガス抜きのために企画してくれたのかもしれないが、それにしたって酷かった。
芸術とお金の関係は難しい。だけど切っても切り離せないものだ。それ故に間を取り持つ組織がちゃんとしていないといけないんだけど、ほかの理事はイマイチそのことが分かっていないし、コンプラ委員会の面々は兎に角GMCの責任を騒ぎ立てて、組織を縮小することしか頭にない。さっさと済ませて、いち演奏家の身分に戻りたいのだけど、途中で投げ出せるものでもないし、ことによっては私や、妹たち、弁々達にも影響する問題でもある。
扉に手をかけると、鍵はかかっていない。
中に入ると、明かりがついていて、美鈴がソファで本を読んでいた。
「まだ起きていたの?」
「お帰りなさい、ルナサ。ちょっと寝付けなくて」
「ただいま。美鈴でもそんなことがあるのか?」
それは純粋な疑問というより、いくらかの疑いから出た言葉であった。
本当は私の帰りを待っていたのではないか。
「ええ、時々」
美鈴はなんでもなさそうに答え、読みかけの本を閉じてテーブルに置いた。
「夜の薬は飲みましたか?」
「もちろん」
私は鞄を置いて外套を脱ぎ、水差しからコップ一杯の水を注ぐ。
「美鈴はどうしてそんなに私の心配をするの」
「どうしてって?」
美鈴は不思議そうに聞き返す。何か、当然のように思っていたことを不意に問いただされて困惑する感じであった。
「いや、普通は仕事でちょっと顔見知りになったぐらいの相手をそこまで心配しないでしょう? それに、住む場所だって、ここ以外に当てがないわけじゃないみたいなのに」
美鈴は肩をすくめる。
「さあ。私にもはっきりした意図があってしていることではありませんよ。ただ、何となく放っておけないような、そんな気がして」
「ふうん」
彼女が心の奥に抱える、何らかの体験がそうさせるのではないか。例えば、あのライティングビューローなのか、あるいはこの家の存在そのものなのか、分からないが。ひょっとして私に誰かを重ねているのだろうか、とか。そんなことを思わないではなかったが、私にはそこまで彼女に深入りするつもりはなかった。
彼女がいて困ることは今のところないし、寧ろ助かっている。美鈴は底抜けにおヒト好しで、ただ単に私を心配してくれている。彼女がここを去るまでそれでいいかと、この時は思った。
それからしばらくは似たような日々が続いた。
私は相変わらず机仕事か、里に顔を出し、美鈴は食事の準備のほか、部屋の掃除なんかもやってくれている。稀に気晴らしを兼ねてバイオリンの練習をすることもあったが、案の定いまいち気が入らなかった。
食事は色々とバリエーション豊富で、大変だろうに――他人事ではない――いつも美味しい。美鈴の中で、夕食は少しチャレンジしてもいいという謎ルールができたらしく、私が食べられなさそうなものを一品添えるのが定番になっている。大抵は予想通り食べられずに美鈴の食事が増えることになるのだが、私はこれで餃子が食べられるようになった。
美鈴は肉がダメなのに餃子がオッケーなのはおかしいと頻りに首をひねり、つくねやらハンバーグやらを食べさせようとしたが、他は全部だめだった。おかしいと言われても食べられるものは食べられるし、食べられないものは食べられない。
やる気がマイナスに振り切って仕事の手が止まった時には、美鈴の様子を見に行くことが多い。彼女は本を読んでいたり、外で何やら武術の修業をしていたりすることが多いが、それ以外にも多才というか多趣味というか、長年生きた妖怪にありがちなタイプのようだ。
凄く風流な水墨画を描いていたかと思ったら、また別の時には洋画を描いていたり。シカを仕留めて帰ってきたかと思えば、忘れた頃に剥製ができていたなんてことも。
ほかにも意外な特技があった。
二か月たって季節はいよいよ夏めいてきた朝、美鈴に寝癖を整えてもらっているときのことだ。
「最近、白髪が目立ってきたと思わない?」
「うーん……」
ここで即答しないのは優しさではあるが、嘘もつけないというのは美鈴のいいところだろう。
「まあ、元が金髪ですからそこまでじゃないですけど、傷みも結構ありますね」
仕事のストレスなのか、思うように音楽活動ができないせいか、あるいはその両方か。胃腸は元々弱いほうだけど、肌荒れとか、髪とかに影響は現れてくる。
「妹に心配かけたくないんだ」
私は今でも月に1度か2度の頻度で洋館に帰り、そういうときはリリカも帰ってきてお互いに近況報告をする。
「気になるようなら染めましょうか?」
美鈴がそのように提案してきた。
「え、髪染めできるの?」
幻想郷で髪を染めるなら、人里の理髪店でいくらかやっているところがあるくらいだがほとんどは白髪染め、つまり黒に染髪するだけで、私のような金髪に対応しているところは恐らくほとんどないだろう。
「やったことあるので。ちょっと必要な道具を紅魔館まで取りに戻らないといけませんが、必要なら行ってきますよ」
「美鈴は本当に多才だね」
「長く生き過ぎただけですよ」
翌日、美鈴は本当に道具を館まで取りに帰ってくれた。
テーブルの上にはビーカーやフラスコ、アルコールランプに、すり鉢、ナイフ、天秤など、得体のしれない道具が並び、よくわからない鉱物や、乾燥した植物などが煮たり焼いたり砕いたりされている。まるで錬金術師の実験室のようだ。
「当たらずとも遠からず、これは実際、ごくごく初歩の錬金術みたいなものです」
美鈴はそういうと、手際よく作業を進める。一度や二度体験したことがある、という程度の手つきには思われない。相当になれた様子だ。
「ルナサ、髪を一本貸してください。色の調整をしますから」
「ああ、うん。……、これでいいかな」
適当に切った髪の毛を一本美鈴に渡す。
「しばらくかかるので、もう少し待っててくださいね」
なんでも、ただ染めるだけではなく、髪の傷みを良くする成分も配合すると言っていたが、本当にそんなことができるならば、里の女性たちが放っておくまい。
一時間ほど待つと、白い泡上のものが入った桶と、金色の液体が入った瓶を持った美鈴に、小屋の外に呼び出された。
「ここに座ってくださいね」
外には、美鈴が手慰みで作ったという、それにしてはよくできた椅子が置かれている。私が腰かけると、美鈴は白い大きな布で、私の首から下をすっぽり覆ってしまった。まるで本当に理髪店に来たみたいだ。
「ちょっとじっとしててくださいね」
美鈴はそういいながら私の頭に謎の液体を刷毛のようなものを使って塗っていく。
「ちなみにどのくらいかかる?」
「2時間くらいですね」
地味に長い。
理髪店と違って鏡がないので何をされてるのかいまいちわからない。なんか泡状のものを髪全体に塗り込まれている。
「美鈴は何でヘアーカラーに慣れてるの?」
「別に慣れているというほどのことではないですけど」
「いや、慣れてるよ絶対。一回や二回やったことのある手つきじゃなかったもの」
仕事柄――今その仕事できてないけど――指先の動きには一家言ある私だ。
「実をいうと、染めてた時期があるんです」
「へぇ。その紅は地毛だよね」
実はその紅髪が染めてた結果だとしたらかなり驚きだが。
「ええ、今はやってないですよ。昔の話です」
私の髪を扱う美鈴の手つきは淀みない。
「何色に染めてたの」
「……青です。薄い青」
なんで青? という疑問が気軽に口を飛び出そうとする数瞬前に、美鈴の指にほんの少しだけ力が入るのを感じた。
ここが一つの分岐点だという予感がした。
興味はある。
だけど、私はそこに踏み込むことを選択しなかった。
「大変じゃない? 元の髪色とかなり違うし」
そうしなかったのは、結局のところ、他者と積極的にかかわることを避けてきた私のこれまでのやり方を、咄嗟に踏襲したに過ぎないのだろう。
「そうですね。一回思いっきり脱色した後、染め直してましたから」
美鈴の手つきにはもう不自然な硬さはなかった。
「それもあって、成分も考えたんですよ。そのままやったらすぐ髪が傷みますからね」
「その恩恵に私も預かるわけだ」
「おや、サービス料は弾んでくれますか」
「冗談じゃなく、かかった費用は請求してよね」
薬剤を髪に馴染ませたら、しばらく放置して、風呂場で髪を洗った。
驚くほどきれいに染まっている。それに凄くサラサラしている。
私は、自分でも久々に見る輝く髪を手で梳きながら、踏み込み損ねた美鈴の奥底に低劣な後悔を残したことを考えていた。
************meiling
夏の最も暑い時期を過ぎ、私とルナサのルームシェアが100日を過ぎるころ、ルナサの仕事には終わりが見え始め、彼女が楽器を触る姿を見ることも増えてきた。
私はと言えば、これといって何かをなすわけでもなく、漫然の日々を生きていて、休日の過ごし方の下手さを痛感していた。休日とはそもそも、労働と労働の狭間にあるものであって、まあ私だってこの長い休暇が明けたら紅魔館に戻って仕事をするわけだけど、それでも感覚的には休むというより、ただ生きている、生きているという感じだ。
豆料理のレパートリーがやたらと増えたのは成果と言えば成果か。帰ったら誰かに振舞ってやろう。
「ルナサ、夕食の時間ですよ」
「……ああ」
譜面台に向かっていたルナサは生返事だ。
最近のルナサは、ロフトの机に向かう時間より、下で椅子に座って、バイオリン片手に五線紙とにらめっこしている時間のほうが長い。
GMCの仕事に振り回されているときのほうが、大変そうではあったが生き生き――幽霊に使う形容詞ではないと思うが――していたし、明るかったような気がする。一方で、最近のほうが昔紅魔館で見かけたルナサに近いような感じもする。
「ルナサ?」
控えめにもう一度声をかける。
「……ごめん美鈴、夕食?」
「ええ、どうします?」
ルナサは譜面台にペンを置いた。
「いや、食べる」
ここしばらくは随分と打ち解けてきた感覚があった。
彼女にしては珍しく、軽口をたたくようなことも結構あったし、彼女の家族の話、二人の妹や、レイラ・プリズムリバーの話も少しずつだが聞くようになった。
「……」
「お味はどうですか。少し味付けを変えたんですが」
しかしこれでは逆戻り、いや、私が来たばかりの頃より酷いかもしれない。
「うん。……いいんじゃないかな」
無口になることが増えた。
音楽活動に比重を移すようになって、生来の彼女の性質が顔を出しているのか、あるいは所謂芸術家に特有のナイーブな期間に入っているのか、それは私にはわからないが、周りであれやこれやと口を出す私を疎んじている気配は少し感じる。
それから言葉少なに夕食を終えたルナサは、今度は少し録音したいと言って、ロフト下の防音スペースに籠ってしまった。
先に寝てていいと言われた手前、起きて待っていると無駄に気を使わせてしまうように思って、今日は早めに読書を切り上げた。
理由の分からないよそよそしさに戸惑いがあった。
遅くまで起きていたかと思えば、朝なかなか起きられなかったり、私が声をかけても反応が鈍かったり。薬を抜いているのではという疑いも持ったが、私自身が朝と夕、食後に彼女が薬を飲むところ確認しているのだ。やっぱり創作活動を再開して神経質になっているのだろう。
私はそう結論付けて、いくらかでも彼女が楽なスタンスでいられるように、明日からどのような食事を作ろうか、声を掛けようかなんてことを考えながら眠るのだった。
不思議なものだ。
どうして彼女のことを放っておけないと、こんなに強く思うのだろう。
この生活を始めてから何度も浮かんだその疑問を、改めてきちんと考えたことがないのは、愉快とは言い難い、自分の辿ってきた道に思い及びそうになるからなのだろうか。
数週間、そんなような日が続いた。
彼女は、コンプラ委員会が任務を完了して解散された暁には、久々にレコードを販売し、併せてワンマンコンサートを実施したいのだという。委員会の仕事にざっくりと目途がたった今、そこに向けて曲の作成や、練習に忙しいようだ。
ルナサの様子は相変わらずだった。
数日おきに復調して、しばらくは穏やかなのだが、段々とテンションが下がっていき、口数も少なくなっていく。ただ不思議と、作業は捗っているようだった。
だから私がそれに気づいたのは全くの偶然である。
「ごちそうさま」
ルナサはそう言うと、コップの水で薬を飲んだ。
「お粗末様でした」
私は食器を下げ、いつものように流しで洗い物を始める。
目の端でルナサがトイレに入るのが見えた。すぐに声を掛ければ何ら波風が立たなかったこのシチュエーションにおいて、私は少し遅れてちり紙の補充を忘れたことに気が付き、慌てて彼女を追いかける。そしてトイレのドアの前までたどり着いたとき、彼女がえずくのを聞いた。
私はそのままドアを引いた。この小屋のドアに鍵なんかない。
ルナサは口の端を拭いながら振り返った。
「ノックしてよ」
「そういうことだったんですね」
彼女は薬を飲んでいなかったのではなく、飲んですぐ吐いていたのだ。
私がいつも、食後に食器を洗うのに紛れて、音が分からないように。
「何でこんなことするんですか」
「……」
彼女は何も答えない。
私は彼女に騙されていたショックと、なぜ意図的に薬を抜いていたのかという困惑、そしてそれを相談してもらえなかった寂しさに打ちひしがれていた。
「ねえ、何とか言ってくださいよ」
「……ら……ったんだ」
ルナサが何事か呟く。
「え?」
「こうなるから言いたくなかった、って言ったんだよ」
言っている意味が分からない。
「こうなるって……?」
ルナサは私に少し近づいて言う。
「貴方、私が最初に向精神薬を飲んでるって聞いたとき、随分怖い顔をしてたんだよ。覚えてないかもしれないけど。私がきちんと薬を飲んだか、酷いときは口をのぞき込んでまで確認しようとするしさ」
それは確かに、今思えばやり過ぎだったかもしれない。
「鈴仙から聞いたよ。私が飲んでる薬について詳細を尋ねに言ったんだって? そんなに薬に嫌な思い出があるの? それはロフトのライティングビューロ―と何か関係がある? それとも昔、髪を染めていたことに関係があるの?」
不意に、ルナサが私の髪に手を伸ばした。咄嗟のことに反応が遅れる。
「何度か私が髪に触れようとした時、さり気なく避けたの気づいてたよ。……誰かの代替品にされるのは不愉快なんだよ!」
乱暴に髪を掴まれ、引っ張られる。
視界が真っ白になって、全身が押しつぶされるほどの恐怖に体が晒される。
誰かが不快な喚き声をあげていて、それが自分だと気づく頃には、私の意識がブラックアウトしていた。
************lunasa
気絶した美鈴をソファに寝かせ、自己嫌悪で押しつぶされそうになる。
ここまで強烈な反応を示すとは思わなかったにしても、髪に関する何らかの記憶が彼女にとってのなにかクリティカルなトラウマを構成しているであろうことは分かっていた。
不満自体はずっと前から私の胸に溜まっていたことだけど、それでも美鈴が自分を心配してくれて、あれこれと世話を焼いてくれていたのは紛れもない事実であり、その動機がなんであろうと、私が気にするべきことじゃない。
彼女と一緒に過ごす時間が増え、自分が彼女に惹かれていることに気づくのに時はかからなかった。同時に、彼女のそれは純粋な好意からくるものではなく、彼女の過去に起きた何らかの出来事に対する代償行為なのだということにも気付いてしまった。そのことからくるもやもやから、相談すればすぐに済むようなことを黙り、結果、徒に彼女を傷つける大失態をやらかしたのだ。
このまま出て行ってくれればいい。
そうして二度と帰ってこなければ、もう私が美鈴を傷つけることはないし、自業自得で苦しむ私が一人残るだけなのだから。
私はロフトに上がってベッドに横になった。
でも眠る気にはなれなくて、ずっと起きていた。
美鈴が起きる気配がして、しばらくして彼女が玄関から出ていくまで、ずっと起きていた。
************meiling
目が覚めて、恥ずかしさと、悲しみと、後悔とに襲われて、私は外に飛び出した。
しばらく闇雲に歩いて、何となく紅魔館への道をたどろうとしていることを自覚し、足が止まってしまった。だって、いったい誰に打ち明けられるだろう。溢れる悲しみを誰に注げばいい。
400年以上前のあの忌まわしい記憶を、私は誰にも話したことがないじゃないか。誰にも。誰にもだ。
思い返せばそれこそ、私がいざというときの逃げ場所を準備した理由だ。
幻想郷で、八雲紫をはじめとした賢者のバックアップもあり、戸惑いながらも根を下ろし、そうしてこの楽園での生活に馴染むころには、私はそのころを思い出すことがほとんどなくなっていた。あの小屋に逃げ込んで、苦しさを吐き出す必要もなかった。
だけど、吐き出さなかった色んなものは、決してなくなったわけじゃなかった。それがルナサには見えていたのかもしれない。
きっと傷つけてしまった。
私のエゴでルナサを振り回してしまったという想いは拭えなかった。
************lunasa
いつの間に眠ってしまったのだろうか。
気づけば朝陽が差し込み、ジュージューとベーコンエッグの焼ける匂いが漂う、いつもの朝がやってきていた。私もすっかり朝起きるのに慣れてしまったようだ。
……いや、何でいつもの朝がやってくる。あの夜の後に。
何食わぬ顔で始まろうとした一日に遅ればせながら困惑が吹きあがる。ロフトから見下ろすと、キッチンスペースでいそいそと朝食の準備をする美鈴の姿があった。
夢か何かを見ているのだろうか。それとも昨晩のことが夢なのだろうか。
ありもしないことを妄想しながら、梯子を下りる。
お湯を注いでコーヒーを淹れる美鈴の背に声をかける。
「……おはよう、美鈴」
「おはようございます、ルナサ」
振り返った美鈴の目元に、泣きはらしたような跡を見て、今日が昨日と地続きの現実なのだとバカみたいな常識に気づいた。
「「いただきます」」
トーストとベーコンエッグ、サラダ。
私と彼女の最初の朝食。
違うのは、ベーコンエッグが冷めていることと、お湯割りと言って差し支えないほど薄いアメリカンコーヒーが添えられていること。
4か月以上も一緒に暮らして、近づいた私と彼女の距離は、たったこれだけだ。
「昨日はごめん。貴方を傷つけるつもりは……まあ、あったからやったんだけど」
「あったんですか」
嘘をついても仕方ない。
「でも、それも含めて、ごめんなさい。無神経なことをしたわ」
そう私の謝罪を聞いた美鈴は、軽く笑って。
「貴方が無神経なのは、初めて会った日からよーく知ってます」
といった。え?
狼狽する私を尻目に、美鈴はトーストを齧った。
「どうして戻ってきてくれたの?」
自分で発言しておきながら、「戻ってきて〝くれた゛」という言い回しに女々しさを感じてほとほと嫌になる。出ていけばいいなんて自分に嘘をついて。結局戻ってきてほしかったんじゃないか。
「今週の分の食費、まだ請求していませんでした」
彼女は悪戯っぽく笑った。それが冗談でしかないことは、目が教えてくれる。
「本当はここを出て、紅魔館に戻ろうとも思いました。でも、私もまだ謝っていませんでしたから。ルナサ、私の個人的感情で振り回してごめんなさい。貴方が心配だと言いながら、その実、自分の不安を紛らわしたかっただけなのだったのだと思います。貴方が昨日言った通り」
「そんな」
美鈴が謝ることなんて、何もないのに。
「それにまだ答えてもらっていません。どうして薬を吐いていたのか。今度こそ聞かせてくれますよね。私も今度は覚悟を決めてそう聞きましょう。あなたの疑問にも答えますから」
美鈴はそういうと、胸に手を当てて微笑んだ。
かなわないと、そう思った。
「この薬飲むとね、気分が凄く良くなるし、意識もはっきりするんだ。他人と話すのも苦痛じゃなくなるし、仕事の段取りも良くなる」
「そうですね。……ん?」
美鈴が一旦待ってとばかりに掌を出す。
「私と話すの苦痛だったんですか?」
嘘だろ、という表情をしている。
「いやいや、美鈴といる間は殆どずっと薬飲んでたし、ずっと楽しかったよ。その前に紅魔館で何度かあった時も、あんまり踏み込んでこないタイプだから、苦手じゃなかった。元々、会話自体が全般的にダメなんだよ。それだけ」
フォローのつもりが余計酷い感じだ。
「うーん、それはそれで……いや、遮ってごめんなさい。続けて?」
「うん。まあそういうわけで、里で仕事するときとかも非常に役に立って良かったんだけど、副作用というか、デメリットもある。……なに?」
美鈴がまたストップをかける。
「ちょこちょこ止めてすみません。里で行商中の鈴仙さんに伺ったんですが、あの薬には胃腸炎と血糖値の低下、過剰摂取時の錯乱ぐらいしか副作用らしい副作用はないと聞いたんですが」
ある時からやけにデザートが充実したのはそのせいか……。
「いや、うん。そう。厳密には薬の副作用じゃあない。むしろ本来の作用が問題だったんだ」
副作用に対する本作用、という表現が正しいのかわからないけど。
「本来の作用?」
「鬱状態の解消、だよ。人間なんかにとっては、鬱状態を回復する薬を飲むと、仕事に復帰できたりするのかもしれないけれど、そこはそれ、私は鬱の音のポルターガイストだからね。正確な理由は分からないけど、薬が効いている間、曲の着想が全く出てこないんだ」
それは私にとっては致命的な――死んでるんだけどさ――問題だった。
「曲が出てこない、ペンが進まない。それだけじゃない、演奏もダメなんだ。本来の表現ができないんだ。通り一遍のだれにでもできるような演奏にしかならない。演奏家ルナサ・プリズムリバーとして、やっていけないんだよ」
美鈴は、ただ黙って私の話を聞いていた。
「美鈴がここにきて、私が症状の悪化で昏倒していたのは、そのことに気づいて、薬を抜いているときだったんだ。薬の効果が薄れてくると、幸いなことに私の音楽家としてのセンスも戻ってくる。でも、全く飲まなきゃそれはそれで私の体がもたない。ちょうどあの時は加減を失敗して、飲まな過ぎた時だったんだよ」
本当に死んでいたかもしれなかったし、あの時は美鈴が来てくれて本当に助かったのだ。
「そうだったんですね」
「どうして言ってくれなかった、なんて、聞かないでよね」
そういうと美鈴は少し後悔するような顔で頷いた。
「最初はさ、美鈴がいてくれれば、独りでは危なかったけど、安全に薬の量を調整することができるんじゃないかと思ったんだ。だけど、貴方は私の薬の服用量を随分と神経質に管理していたし、一度、うっかり忘れたふりをして薬を飲むのをごまかそうとした時、凄く怒ったの覚えてる?」
こちらが驚くほどの剣幕だった。普段温厚な印象があるから、そのギャップもあって結構衝撃的だったし、それが美鈴が私に世話を焼くのに、何か過去の出来事が関係しているという確信を私に与えたのだ。
「ええ、覚えてます」
「そのうち、GMCのほうの仕事が忙しくなっちゃったのもあって、暫くは美鈴に管理してもらいながら、そっちを片付けるのを優先しようと思ったんだ」
その間はすごく平和だった。
毎日気分がすっきりしていて、美鈴と一緒に生活するのは楽しくて、それは騒霊としてこの世に生まれてからほとんど初めてのことで。レイラと一緒に過ごしていたころを思い出すくらい、幸せな日々だったんだ。
「だけどやっぱり、おやすみを言ってベッドに潜って、睡魔に襲われるまでの短い間に、いつも誰かが囁いた。『ずっとこのままで良いわけない』って」
それは私の本能だったのだろう。
私の騒霊としての存在意義。
「一度、薬の処方に来た鈴仙に相談したことはある。でも、感性まで薬で制御するのは難しいと言われたよ。鬱状態の解消は、薬がまさに目的とする方向性であって、それを抑えてしまうのは、結局薬を飲まないのと変わらない、私の精神状態と音楽家としての感性はトレードオフだと言われたよ」
「それで、GMCの仕事に目途がついてから、定期的に薬を吐き出すようにしたんですね」
美鈴の目に、それでも非難が滲む。
私の裏切りはそのくらい、彼女の信用を損ねるものだった。加えて、私に美鈴を裏切らせた原因もまた彼女にあると、今私はそういっているのだ。恩知らずにもほどがある。
「ああ。黙っていて悪かったよ」
本当に申し訳なかった。結局、誰かと一緒に生きるということを主体的に選択してこなかった私の幼さが、そうさせたのだ。
それでも美鈴は微笑んだ。
「それをルナサが相談できる私でなかったのも悪かったんです。私もごめんなさい。貴方のことを表層的にしか分かっていなかった」
私たち二人は目を見合わせ、黙って。
そうして笑った。
私たちの間には冷え切った朝食がテーブルに並んでいる。
冷めてるっていうのはつまり、私好みということだ。
「……朝食、食べちゃいましょうか」
「うん。いただきます」
食後。
テーブルには水差しとコップ、錠剤が二つ。
私と美鈴はまた向かい合って座っていた。
「美鈴」
「はい」
いやそんなに畏まった顔されても困るんだけど。
そういうところが彼女のいいところだ。
「貴方が覚悟を決めて戻ってきてくれたんだから、私もそのつもりで、これからのことを相談したいんだ。聞いてくれるよね」
「もちろん。そのために戻ってきたんですから」
錠剤2粒をつまんで、目線の高さに持ち上げる。
「コレのことだけど、今のところ無くなったらまともにやっていけないのは確かで、今後も服用することについてはもう仕方がないと思う」
「そうですね。うん」
1粒をテーブルに戻す。
「でも、1回2錠、一日2回の服用をそのまま続けるのはダメ。結局それで私が存在意義を失うなら、意味が無いんだもの」
美鈴はしぶしぶといった様子で頷く。
「それは、うん。そうですね」
「そこで、なんだけど。鈴仙が言うには、この薬は別に抗生物質みたいに、服用を途中でやめたり、減らしたりしても、それ自体で悪影響が出ることはないらしい。依存症も、少なくとも身体依存はない。過剰摂取だけは止められたけど、状況を見て服用量を減らすのは医学的には問題ないんだって」
美鈴の方をちらっと見ると、過剰摂取、といったところでピクッと反応したので私も戦々恐々としている。
「もちろん、量の調整は家族の監督の下でやれと釘を刺されたけどね」
「実際には黙ってやっていたわけですが」
「うう、ごめんてば」
「いえ、冗談です。その件についてはさっき話が付きましたしね。それで、今後は私も一緒にその調整を進めていけばいいんですね」
美鈴はグッとこぶしを握ってやる気を漲らせている。
「こんなこと、お願いしてもいいのかな」
普通は気軽に頼めるようなことではない。相手だって責任は取りたくないだろうし。
「なに言ってるんですか。家族の健康を気遣うのは当然でしょう?」
美鈴は何をいまさら、という顔で笑っていた。
「え、家族……、家族?」
私にとっての家族はレイラ、メルラン、リリカ。
生みの親であり、あるいは姉妹であり。
……美鈴はどちらでもないし、そうでない家族と言ったら。
急激に顔に熱が集まってくる。
「なに水臭いこと言ってるんですか。ひょっとして食事の世話の代わりに泊めるとかって、建前をまだ堅持するんですか」
建前て。
「一緒に頑張りましょう。私が支えてあげます。いや、私にも支えさせてください。ルナサ」
「うん、ありがとう。……ありがとう、美鈴」
まともに顔見られないよ。
取りあえず、朝はそのまま、夜は服用量を2錠から1錠に減らしてしばらく様子を見ることにした。美鈴の前で今朝の分を飲む。
「取りあえずは少しずつ、か。でも美鈴もいつもまでも居られるわけじゃないし、ある程度のところで見切りはつけないといけないね」
「必要なら後半年くらいは居られますよ」
美鈴が何でもないように言う。半年?
「え、待って待って。紅魔館に戻らなくていいの?」
「最低限取得しろと言われたのが188日間だったんですけど、実際はその倍以上残ってるんですよ。取得率が下がるからできればもっと消化してくれと言われてるくらいで」
「まず有給というシステムを持ってる組織が幻想郷にどれくらいあるかとか、そういうところを聞いちゃダメなのかな」
紅魔館は人里の最先端の更に先を言ってると、いつかレミリアさんも言っていたけど。
「だから、ルナサが望むなら症状が安定するまで付き合いますから。もう下手に遠慮されるほうが嫌なので、正直にお願いしますね」
反論しづらいように先手を打たれてしまった。
「でも、そこまでになると、私からもレミリアさんに一回挨拶に行かないと拙いのでは」
吸血鬼の従者を個人的な理由で長々と借りパクというのは非常に危ない感じが今更ながらしてきた。そういう意味で言ったわけだが……。
「ええっ!? お嬢様にご挨拶なんて、いや、嫌じゃないんですよ。でもちょっと早いのではっていうか、心の準備とかその他諸々……」
おいおいおい何一人でテンパってんだこいつぅ~。
……めっちゃ恥ずかしくて顔から火が出そう。
不意打ちでそういうことしでかすのホント卑怯だと思います。
美鈴が落ち着くのに数分が経過した。
「ほんと、独りで舞い上がってスイマセン。もう、ややこしい言い方しないで下さいよ」
耳まで真っ赤になっていじける姿が尋常じゃなくあざといのだけれど、それを指摘する余裕が私の方にもないので、これはお互いなかったことにしておこう、という感じだ。
「でも、そういうことなら、一度紅魔館にいらっしゃいませんか」
美鈴は気を取り直した様子でそう言った。
「え? でも、いいの?」
「もちろん。私も別に紅魔館に帰ってくるなと言われてるわけじゃないので。それに、お嬢様なら何かいい知恵をお持ちかもしれません。ルナサさんのことにもきっと協力してくれます」
確かに彼女は他人の不幸に協力を惜しまないヒトではある。その分、そうやってできた繋がりをビジネスに利用することに躊躇がないところもあるけれど。
「それに……」
美鈴は一度言葉を溜めた。
「……それに、まだ私の方は話していないじゃないですか。私の隠し事」
「美鈴、でも、それは……」
ううん、と、彼女は首を振る。
「私がどうして貴方を放っておけないのか。どうして此処に小屋を建てたのか。……私がどうして昔、髪を染めていたのか。貴方が知りたがっていたことを、私も全部話します」
彼女の目には、決意の光があった。
「それ、私が聞いても、いいの?」
「ええ、聞いてください。実はそのことを直接私に聞いてきたの、ルナサが初めてなんです。決して聞かれたい質問ではなかったけれど、でも、誰も聞かないから、誰にも言えなかったの。愉快な話でも何でもないけれど、出来れば貴方に聞いてほしい」
それって、紅魔館のヒト達が彼女に気を使っていて、逆に私は無神経だったってだけのことなんだろうけど、だけど仮にどんな理由だろうと、彼女が背負った荷物を少しでも私に分けてもらえるなら、それは願ってもないことだから。
************meiling
実際に紅魔館に行くことになったのは、それから三日後のことだ。
その間、朝2錠夜1錠で経過を診たけれど、余り成果は芳しくなかった。ルナサは鬱の音をほとんど取り戻せておらず、一方で寝起きが悪くなった。まだメリットとデメリットが釣り合っていない状態だ。
でも、ことを急ぐつもりはなかった。
ふたりでしっくりと腰を据えて向き合っていけばいいことが分かっているからだ。
私はその日、一足先に紅魔館へ向かった。
食材の調達のついでに言付けだけはしておいたが、館に行って部屋の準備や夕食の手配――ルナサの場合はこれが手間だ――、それにお嬢様にも直接話を通しておく必要がある。
紅魔館の門をくぐると、やはり帰ってきたという感覚になる。
一方で、ルナサと暮らす小屋にも、出かけている、という感覚はないので、なんだか帰る場所を二つ持ってしまったようで不思議だ。ちょっとした背徳感がある。
妖精メイドをはじめ、職場の仲間と廊下ですれ違うたびに足が止まってしまう。ちょっとした近況報告が耳に心地よい。あまり長く一緒にいすぎると忘れてしまうことがたくさんあった。
「しいたけ、お嬢様は?」
業務一班の控室に詰めていた彼女に確認すると、執務室にいるということで、彼女を伴って向かう。
私たち妖怪の時間感覚においては、本当にわずかな間離れていただけなのに、懐かしさのようなものがあった。
「久しぶり、美鈴。元気?」
「おかげさまで」
お嬢様は書き物の手を止めることなくフランクに話しかけてくる。
彼女の方には少しも変ったところはないみたいだ。
「ちょこちょこ聞いてはいるけど、プリズムリバーのルナサと一緒に住んでるんだって?」
「はい。いろいろありまして」
「意外に近くにいるんだねえ。てっきり竹林か山の方にでも行って、仙人のような生活をしてると思ってたよ」
「私ってそういうイメージですか」
お嬢様はそうだねえと笑った。
「しかし、小屋の件は悪かった。まさか貴方が外に拠点を持っていたとは気付かなかった」
「いえ、それはこちらこそ黙っていてすみません。実際ほとんど使うことがなくて、半ば放棄してたようなものですから」
まさかこんな経緯で露見するとは思わなかった。
「その辺の話をルナサにはしたのかな」
「いえ、今日するつもりです」
「そうか……」
お嬢様はペンを止めて顔を上げた。
「そういうことならディナーは二人のほうがいいね。私は夕方に時間を空けておくから、彼女が到着したら談話室で少し話そうか」
「ありがとうございます。……別にお嬢様に隠し事をするつもりはないのですが」
お嬢様の出生前後に起きた出来事に関わる話がほとんどだ。いつか掻い摘んで話したことはあったが、言っていないことのほうが多い。
「いいよ。私やフランには言いづらいことなんだろうと察しはついてる。むしろそれもあって、今まで相談にも乗ってやれずに申し訳なかったと思ってるよ」
本当に器の大きな主人に育ったものだ。
お嬢様がそういうヒトだから、私は紅魔館に残ろうと思ったのだ。
「それで、夕食はどこで? 本館の中ホールと鏡の間以外なら空いてるけど」
「東塔の4階を使わせ頂きたいのですが」
お嬢様は少し黙って軽くうなずいた。
「今も昔も、あれは美鈴の部屋なんだから、自由にしなさい」
厨房にルナサの偏狭な食の好みをどうにか伝えた帰り。
廊下で、本当に珍しく妹様と遭遇した。
魔理沙や霊夢など友人を連れているわけでもなく、メイドとふたりだけだ。
「あら美鈴。随分見かけなかったけど、どうしたの」
「お久しぶりですフラン様。ちょっといろいろありまして」
お嬢様に怒られて10年分の有休をとっているという話をすると何がツボに入ったのか、ケラケラと爆笑していた。
「傑作だね、うん。まあ羽を伸ばすといいよ」
「ありがとうございます。フラン様はどちらに?」
「うん? 散歩だよ、ただの散歩。屋内だけどね」
地下に籠る彼女を見ると、私にも暗い記憶ばかりがよぎるから、最近の活動的な姿を見ると、いくらか救われた気分になる。
「それで? 今日はディナーだって?」
「ええ」
「私もそのルナサってヒト見たいなー。どこでやるの」
私が東塔の4階だと告げると、妹様は意外そうな顔をした。
「へぇ? 美鈴、私とお姉以外、あの部屋に招いたことないじゃない。ふぅん」
彼女は意味深な顔をしながら、へー、とかほー、とか言っている。
「ふ、フラン様?」
「じゃあルナサっていうのは、美鈴が色々預けられる相手なんだね」
「いや、まあそう、……なのかな?」
改めてそう言われると、なんだか頼りなくもあるけれど。
「良かった。美鈴にもそういう相手が出来たのね。大事にしなきゃね」
妹様は私の肩をポンと叩くと、そのまま歩いていく。
彼女の従者が私に会釈して、それを追いかけた。
申し訳ないというお嬢様と、良かったと祝福する妹様。ふたりは揃ってこそ姉妹だなあと、誰目線なのかよくわからない納得をしていた。
************lunasa
館につくと、盛大な歓迎を受けた。
何、これ……?
メイドさん達が十数人単位で両側に並んでようこそいらっしゃいませときた。
新手の嫌がらせかもしれないとビクビクしながら案内される。そも、紅魔館でパーティーが開催されるときに、演奏隊として呼ばれる場合は、何時も業者の搬入用の裏口から入っていたのだ。それがこの扱いの差。
それとも正面から入る客はみんなこの歓待を受けているのか?
バイオリンケースを持たずに来たのが初めてだから、気が弱くなっているだけかもしれない。
談話室だという豪奢な部屋に入ると、美鈴とレミリアさんがソファで談笑していた。
「どうもお招きいただきまして、ありがとうございます」
つい固くなってしまう。
レミリアさんは立ち上がると鷹揚に頷いて。
「こちらこそ来てくれてありがとう。美鈴から貴方のことを色々と聞いていたところよ」
「色々と」というところで何か妙なアクセントがあったような気がする。美鈴は何を色々と話したのだろうか。美鈴に視線を向けると、すっ、と視線を外された。おい。
レミリアさんは仕事着なのだろうか、白のブラウスに仕立ての良いジャケットを着こなしている。美鈴は何時もとはうってかわって、淡いグリーンのイブニングドレスでお姫様然としていた。正装してきてくれと言われたのでコンサート用の黒のドレスを着てきたけれど、浮くんじゃないかという心配は杞憂だった。流石紅魔館だなあ。
「さあ、座って。夕食までしばらく寛いでくれたまえ」
レミリアさんに促され、私もソファにかける。レミリアさんの正面で、コの字の側面に座る美鈴の斜め前だ。
「何時も紅魔館でパーティーの度に呼んでしまって悪いね。凄く評判がいいから変えづらいんだ」
「いえ。何時もお声掛けくださって感謝しています」
ほかのコンサートと比べても紅魔館での仕事は払いがいい。それに、最低でも年に1~2回は呼んでもらえるから大いに助かっている。ある意味でうちの楽団の事実上のパトロンと言ってもいいかもしれない。
「今は姉妹揃っての活動は休止中だっけ? 残念だけど、いろんな方向性を模索することが必要な時期もあるんだろうね」
「妹達は上手くやっているようなんですが、私はなかなか」
ひとりだけずっと空回りしているような状況だ。
「そうそう、美鈴から聞いたよ、体調が思わしくないと。私では役に立たないかもしれないが、うちの地下には腕のいい魔女もいる。偏屈だけど力になってくれるだろう」
誰かに手を差し伸べることを少しも苦に思っていないというような態度である。生まれの差なのか、器の差なのか。美鈴に視線をやると、凄いドヤ顔をしていた。うちの主人はすごいだろう、お前とは器が違うんだと言いたげだ。いや、さすがに後半は私の被害妄想だろうけど。
「ありがとうございます。とても助かります」
「妖怪は大概、何かしらの弱さを抱えているし、その弱さが存在の根幹と密接に繋がっていることも多い。のっぺらぼうとコミュニケーションをとるために、顔に顔の絵を描いたら死んでしまったという話を幻想郷に来て聞いたときには、さすがに出鱈目だと思ったけどね」
「まあ、極端な例でしょうけど、ない話じゃないのが怖いところですね」
美鈴も相槌を打つ。
初めて聞いたそんなの……。
それから暫くは雑談だったのだけど、ふとレミリアさんがこんなことを聞いた。
「そういえばメルランはどうしているの? 彼女も今、別々に活動しているんでしょ?」
「私も何か引っかかってることがあったんですけど、それです。ルナサ、メルランさんは大丈夫なんでしょうか」
私もふたりに指摘されるまですっかり忘れたいたけれど、それを正直に話すとまた美鈴から、貴方は他人に興味がなさすぎるとかって怒られそうだ。
「メルランとは月いち位であっているけど、そういえば躁状態で困っているという話は聞かなかったわ」
彼女の方は私ほど深刻ではなかったはずだが、私と離れている間は注意散漫になったり、不眠症だったりと悩みを抱えていたはずだ。
「メルランさんも薬を服用してるんでしょうか。でも鈴仙さんは特にそういう話はしてなかったなあ」
美鈴は首をかしげる。
「いやいや。処方の内容を漏らさないのは基本でしょう。むしろ美鈴にルナサの薬の詳細を教えたほうが問題だわ。まあ、あのウサギからすれば、美鈴はルナサの同居人という位置づけで一線は守ってるつもりかもね」
レミリアさんがそれをバッサリと切る。
ほんとだよ鈴仙、普通に美鈴に教えるんじゃないよ、という非難は結果状況が好転した今になると、いささか勢いを失うが。
「でもメルランは私と違って、ソロでもずっと音楽活動をしていたはず。何かしら鎮静剤のようなものを使っているのなら、状況は一緒でしょう。彼女の躁の音だって、その本質から生み出されているのだもの」
「だとしたら、何か薬に頼らない方法で精神を整えているんだろう。何かそれらしいことを言っていなかったかい?」
レミリアさんの言葉に、メルランとの会話を思い起こしていく。
妖怪の山の宴会にあちこち呼ばれて大盛況だが、盛り上がり過ぎて2回に1回は大規模な抗争に発展しかける話。自殺の名所で定期的に演奏会を開いて里の福祉団体から謝金を貰っている話。里の外で思いっきり演奏をしていると興奮した妖精が集まってきて軽い異変になる話。
……インパクトの大きい話が多すぎてそればかり思い出してしまう。実際、余りに胃が痛くなる内容が多いのでメルランの話を話半分に聞き流していた側面もあるのだ。
「何かないんですか、他に」
「そういわれても……あ」
そういえばこんな話をしていなかったか。
「メルランは興行でお面の面霊気と仲良くなって、その縁で里の近くの何とかって寺に出入りしているとか、そんなようなことを言ってた気がする」
「神社で能を奉納していた秦こころだね」
レミリアさんがすぐに補足をする。
「寺というのは命蓮寺のことだろう。あそこでは定期的に読経会だかなんだか言って、妖怪がだれでも自由にお経を聞いて行ける会を開いていると聞いたことがあるし、それかな。あるいは、妖怪向けの座禅体験講習を始めたとこの間の新聞に書いてあったし、なにかそういう手段を使っているのかもしれん」
うーん、詳細は思い出せないけど、メルランも姿勢が~とか呼吸が~というような話をしていたような気がする。あれは座禅のことだったんだろうか。
「まあ詳細は今度会ったときにでも尋ねればいいとして、ルナサ。重要なのは、薬以外にも精神状態を整える手段があるかもしれないということだ。無論、メルランの場合は気持ちを静めるためだから座禅だったのであって、気持ちを高揚させるためにはまた何か別の方法を考えないといけないだろうね」
「なるほど。そうかもしれませんね」
力にはなれないだろうと言いながら、これだ。レミリアさんには良いヒントを貰った。
「もちろん、当面は薬と併用ということになるだろうけど、身体操術については美鈴がこの上なく専門だから、力を合わせて上手いことやってくれ」
「そうですね。ルナサ、頑張りましょう」
「ありがとうございます」
本当に。
しばらくすると、妖精メイドが夕食の準備ができたと告げに来た。
「おっと、結構話し込んでしまったね。食事を楽しんできてちょうだい」
レミリアさんが促し、美鈴が先行する。
「いえいえ、色々と相談に乗っていただいて、本当にありがとうございます。それに、なんというか美鈴さんをお借りするような形になってしまって」
危うく言う機会を逃しそうになったことを伝えておく。
するとレミリアさんは美鈴が部屋を出たのを確認すると、私を引き寄せて言った。
「うちの従者に食事の世話をさせて、その上ソファに寝せてるんだって?」
「い、いやそれはっ! その……!」
一瞬で全身から冷や汗をかいた。美鈴、話したのか。
「ホントはベッドで一緒に寝たいって言ってたよ」
「えっ……、いや、それレミリアさんが今考えたでしょう!」
レミリアさんは私を見てにやりと笑った。
少しでも本気にしてしまって恥ずかしい。
「まあ、冗談はさておき、ルナサ。貴方がその気なら貸すんじゃなくて、やったっていいんだよ」
美鈴のことを言っているのだと気づくのに少しかかった。
「でもその代わり、美鈴のことを支えてやってくれ。私たちは家族だ。みんな美鈴のことを大事に思ってる。だけど、彼女はこの紅魔館そのものに呪われているんだ。彼女を真に開放し、分かってやれるものは誰もいないんだ、この館には誰も」
レミリアさんは今まで見たこともないほど真剣な表情をしていた。
「今夜これから、美鈴はいろんなことを貴方に話すだろう。私も、妹も、パチェも咲夜もみんな、聞いたことのない話もあると思うし、楽しい話じゃないと思う。それでもちゃんと聞いてやって欲しい。どうか彼女を、受け止めてやってくれないか。お願いします、どうか」
そうしてレミリアさんは深々と頭を下げた。
「……もちろん、そのつもりです。頭を上げてください」
私は絞り出すように言葉を吐き出した。
「私もそうしたい。私なんかにどれだけのことができるか分かりませんが、話を聞くぐらいならいくらでも。彼女にはたくさん助けられたし、それに、そんな貸し借りの話だけじゃなくて、私自身、美鈴のことが大事なのです。だから……」
「ありがとう。さあもう行って、美鈴が待ってる」
レミリアさんはそう言って私を促した。
「いい夜を、ルナサ・プリズムリバー」
塔を上ると、シックにまとめられた部屋にテーブルが置かれ、晩餐の準備ができていた。窓からは人里にともる明かりが僅かに煌めいて見えた。妖精メイドのエスコートで席に着く。メイドたちはそのまま退席した。
「さて、私の身の上話をしましょうか。食事の前がいいですか、それとも後?」
美鈴が早速本題に入った。
できるだけ事務的に済ませたいような気が、少しした。
「どちらでも、美鈴の良いほうでいいよ」
「そうですか。普通なら、料理が冷めないように、話は後にするんでしょうけど。私たちの場合は逆ですね。どうやら料理は冷ましておいてという指示を、厨房では冷めてても気にしないという気休めとして受け取ったみたいです」
テーブルの料理にはまだ僅かに湯気が立っている。
「それじゃあ、厨房には申し訳ないけれど」
「ええ、先に話をしましょうか」
美鈴は長く、息を吐いた。
「このお話は昔お嬢様にごく掻い摘んでお話したことがある程度のもので、他には誰にも話したことがありません。そういう意味で非常に恥ずかしいというか、なんだか複雑な思いです。でもこういう機会でもなければ誰にも話すこともなかったでしょうし、ひと思いに全部吐き出してしまおうと思います」
美鈴はそう切り出した。
「せっかくだから、悲しい話だけじゃなくって、楽しかったころも含めて、私の身の上話を、全部聞いてくれますか。ちょっと長くなるかもしれないけれど」
「いいよ。美鈴が話したいことを話したいだけ聞かせて頂戴」
私がそう言うと、彼女は安心したように、長い長い昔話を始めた。
「いまから6~700年ほど前になるでしょうか。私は大陸の、いまは中国と呼ばれている場所におりました。具体的な地名はいまでは失われてしまったようですが、比較的内陸に位置する大きな街でした。私自身の出自はここではそれほど大事でもないので伏せさせてもらうことにして。当時の私は近辺の妖怪たちの寄せ集めのような組織を、いま思えば分不相応ながら、束ねる立場でした。名前は何と言ったか。黒龍会とか、そんな感じだったかな。ひょっとしたら字が違うかもしれませんが、とにかくそういう名前の組織でした」
「もともとその街は恐ろしく治安の悪い街で、人間たちは徒党を組んで縄張り争いをしているし、妖怪も多い地域で、それはもう荒んでいました。私はその近辺ではそこそこに名が知れていたので、多くの妖怪が名を上げるために私を殺す機会をうかがっていた。それを次から次へぶちのめしてるうちに、敵よりも勝手に私を祀り上げる連中のほうが多くなっていました。黒龍会という名前もそういう連中の誰かがいつの間にか名乗り出して、もう収拾がつかないありさまで。仕方なく私が戒律を作り、階級を作り、他の組織とのゴタゴタに出張っていったり。人間たちの中でも特に大きな一団を選んで後ろ盾になったのもその頃です。
「そいつらに街を治めさせて、生け贄を提供させたりして。酷い有様なりに街は支配されていきました。その頃には私もいっぱしの大妖怪気取りでしたが、今思えばお嬢様のほうがよほど上手くやっていますね。最初のうちは自分は根なし草が性に合うなんて言ってたのに、気付けば街を牛耳る黒幕みたいになって、そういう自分に違和感が無くなっていました。
まあ、結果的にそれが私とスカーレット家をつなぐきっかけになったわけですし、お嬢様は運命というのかもしれません」
若い頃はやんちゃしてた、みたいなよくあるノリで街を支配していた話をされるとは思わなかった。
「お嬢様のご両親のことはなにかご存知ですか? 」
美鈴はそう続ける。
「いや、聞いたことがないよ」
「当時スカーレットの当主はお嬢様の父君、つまり先代ということですが、その方が統治しておられました。名前は、止めましょう。読みや綴りが大変ややこしいので彼もめったにフルネームを名乗ることはありませんでした。ファーストネームはドイツ語読み、ミドルネームはフランス語読みなんですが、これはスカーレットの領地がドイツとフランスの中間あたりにあった名残でして、あの頃は国境というのも曖昧でしたからね。領地の名前が英語読みなのは英国に所縁のある土地だったとか、本当かうそか分かりませんけど」
話が逸れました、と美鈴が詫びる。
「それで、何の話かと言いますと、先代の彼が何の因果か私の牛耳っていた街にたどり着いたわけです。それが私とスカーレットを結ぶ縁でした。
「彼は両親、つまりお嬢様の祖父母ですが、その方々が無くなって以来、兄弟もなく一人でスカーレット領を治めておりました。臣下達がいろいろと縁談を持ってきていたのですが、すげなく断っておりました。彼は客観的にも、私の目から見ても非常にかっこいいお方でした。まあお嬢様と妹様の父君ですから不細工なはずがないのですが。顔立ちはお嬢様によく似ていましたよ。ただお嬢様の髪は母親譲りで、……その話はあとです。彼の髪は煌めく金髪でした。妹様はそれを受け継いでおいでです」
「それで彼が縁談を突っぱねて懸想していたのはスカーレット領のはずれに居を構えていた、非常に優秀で美しい魔女でした。ああ、魔女と言っても、魔法を使うからそう呼ばれていただけで、種族は同じく吸血鬼でした。お気づきと思いますが彼女がお嬢様の母君となられる方です。彼女の名前も、今は意味がありませんし、魔女で通しましょう。彼女も旧家の出であったようですが、実家を出奔して一人暮らしをしていたので姓はついぞ名乗りませんでした」
「それで先代は縁談を断って彼女に幾度も求婚していました。彼はほしいと思ったものは必ず手に入れるヒトでした。この辺りはお嬢様にも受け継がれていますね。それで魔女は初めのうちはすげなく断っていたそうですが、毎日のようにやってくる彼に次第に心を許すようになったと言っていました。しかしここで悲劇が二人を襲うことになったのです。
「このまま順当に結婚して二人を生むと、私が出てくることはなかったんですが」
私も聞きながら、このまま先代とその魔女とが結婚してレミリアさんが、と考えていたが、これは美鈴の身の上話という話だったではないか。
「その頃は妖怪同士、そして妖怪と人間との争いが最も激しかったころでもありました。特に教会は悪魔払い、魔女狩り、吸血鬼殺しに躍起になっていました。スカーレットは欧州に名をとどろかす領地の一つでしたから、教会も下手に争わないようにしておりました。
「しかしここにきて教会はスカーレットに付け入る隙を見つけてしまった。先代がいつも従者の一人もつけずに領地の端まで出かけているのが見つかってしまったのです。それで教会は魔女を攫って、さらにそれを奪還に来た先代を殺し、スカーレット領を丸ごと教会のものにしようと画策しました。
「この案はほぼ成功したと言えます。目の前で魔女を連れ去られた彼は教会の思うつぼ、単身でそれを追いかけたのです。ただ思いのほか追撃の手が苛烈だったために、教会側は当初の予定以上に東へ東へと逃げることになりました。それでも結果的に教会は彼に深手を負わせた。後から来る教会の援軍を前に西へ戻ることもできず、さらに東へのがれてきた彼が辿り着いたのが、そう。私のいた街だったのです」
「ちなみにそこまでの過程は先代本人から聞いたものです。後先を考えない方でした」
そう話す美鈴は言葉の割にはそのヒトを懐かしむようで、彼女はその先代のことを慕っていたのだろうということが、容易に察せられた。なんとなく胸がざわつく感じもあるが、昔話に何を濁っているんだと自嘲する。
「深手を負ったとはいえ、流石に恐れられる吸血鬼。人間を襲い、血を吸うことで傷はたちどころに癒えました。すぐにでも反撃に転じたかったとはこの後の彼の弁ですが、同じ轍を踏むような愚かな行動を彼は慎んだのです。
「とにかく吸血鬼が旅をするのに必要なのは吸血鬼ではない種族の下僕というのが常識です。昼間に教会のヴァンパイアハンターに襲われてはかないませんからね。まあ人間を操って見張らせるのが手っ取り早いのですが、それで満足する彼ではありませんでした。周辺の地理に長けていて、名前の知れた強力な妖怪、美人なら尚良いと言っていました」
「あくまで彼がそう言っていたんですよ?」
美鈴は慌ててそう付け足した。
美鈴が美人なことは、別に誰も否定しやしないと思うけど。
「異変を察知したのは私の部下が報告をしてきたときです。組織傘下の妖怪が、素性の知れない男に次々とやられていると聞いて私は最初、また彼我の実力差も分からない馬鹿が出てきたかと思ったのです。馬鹿は私だったんですけど。自分が前線に出ないようになって勘が鈍っていたんでしょう」
「数日後、組織は壊滅一歩手前でした。彼が私の前に顕れたときには私の部下はほとんど残っていませんでした。ここにきて漸く、本当に漸く私はかつての勘を取り戻し、自分の負けを予感しました。
「初めのうちは私が優勢に進めていました。彼は私の使うはじめて見る体術に戸惑っているようでした。しかしそれは恐れているというより、自分の獲物が思いのほか大きいと気づいて期待に胸を膨らませる狩人の心持だったでしょう。とにかく私は負けたのです」
「……負けて、まあ包み隠さず言えば、モノにされたわけです」
「それって、つまり、そういうことよね」
慎重に問いただす。
「ええ。ご想像の通りで間違っていないと思います」
それが彼女と紅魔館の因縁なのかと少し思ったが、そうではない様子だ。
「ここまではよくある話で、別に引きずってるわけじゃありませんよ。当時は結構ショックだったかもしれませんが、今となっては必要な出会いだったのでしょう。あのまま調子に乗って勢力を広げていればいずれは同じことになっていたでしょうし、そういう意味では、彼でよかったのかもしれません」
「言っときますけど実はお嬢様の本当の母親は……とか、そういうややこしい話じゃないですからね」
「いや、そこまでは思わなかったよ」
恐ろしいことをサラッと言わないでほしい。
「まあ、そういうこともあって私は彼に『ついてこい』と言われたわけです。いま思うとほとんど言いなりでした。大妖怪とまで謳われた私が、ほとんど人間の生娘も同然で。
「しかし井の中の蛙とはよく言ったもので、私は世界の広さを知ることができた。そうしてこの人についていけばもっと広い世界を知ることができるんじゃないか、自分ももっと高みへ登れるんじゃないかという気持ちもありまして、ついていく決心をしたのです」
長いですけど、まだ続きます。
と美鈴が続ける。
「私は先代に同行して西へ西へと移動していきました。夜中に移動して昼は潜伏していました。昼の潜伏中に周囲を警戒するのが私の役目。夜間の移動中には言葉を教えてもらったり、スカーレット領のことについて聞いたりしました。彼が懸想した女を助けるために旅をしているのだと聞いたときは流石にイラっとしましたけど」
出会いは悲惨だったが、この時点でその先代と美鈴には、いわゆる男女の仲に近いものがあったようだ。
「魔女の救出は滞りなく成功しました。街を出て1年は経っていたでしょう。私にとってヴァンパイアハンターたちとの戦いはまた新たな挑戦で、非常に生を実感させてくれるスリリングな体験でした。私が最も妖怪らしかったのはあの頃かもしれません。そうして魔女を連れて、私たちは教会からの逃避行を始めたのです」
「初めて魔女にあった時の感想は、一言でいえば美しい、そんな感じでした。顔立ちはいまの妹様がもうちょっと大人びたような感じで、髪ははっとするほど透き通った蒼色でした。女の私が見とれるくらいでした。それからしばらく一緒に過ごすうちに、私と魔女はお互いにどんなことでも隠さず話しあえる親友となりました。私の人生で初めての親友です。
「先代はそのことを知っていて、私と魔女を平等に扱うようにしていました。こっちが恐縮するくらい。だって妻にするのは魔女だって断言していて、魔女もそれを受け入れていたのに。それでも彼は私を一人前の女性として扱ったし、恋人のように接することもあった。そうして魔女もそれを当然だと思っていたんです。あの頃は幸せでした。教会の追手を振りはらったり、人間に化けて街で遊んだり。
「私たちは馬車を用立てて走り続けました。夜は彼が、昼は私が御者となって。何時でも整備された道を行くことはできませんでしたし、教会を巻くために何度も行き先を変えたから、いつまでたっても目的地に近付かない日もありました。でもひょっとしたら私たちはそれを望んでいたのかも、なんて今は思います」
本当にかけがえのない日々だったんだろう。
それは聞いているだけで伝わってきた。だけども、この後に何が控えているのか、その気配だけで気持ちが暗くなる。「魔女」の髪の色を聞いて、不安の色は濃くなった。
「この先のことを思うと本当にあのまま3人でいつまでも旅をしていられたらよかったのかもしれないと、そう思ってしまう。
「でも、いつまでも旅を続けるなんてことできるはずもありません。当然です。スカーレット領はもう3年近く領主不在のままでした。過去の威光と財政的なたくわえで暫くは乗り切れても、そのうち教会か、あるいは近隣の妖怪によっていつ乗っ取られてもおかしくない状況だったのです」
「しかし実際私たちがスカーレット領にようやくたどり着いたとき、領地は整然として守り抜かれていました。領民も臣下も先代公が必ず戻ってくると信じていたのです。私はあらためて彼のカリスマを思い知らされました。領内に入ったとき彼はは蝙蝠の先触れを出していたのですが、それから館の前の広場に着くころには、領主の帰宅を知って駆け付けてきた多くの人間の領民と、妖怪の臣下達であふれかえっていました。
「スカーレット領は隠れ里の統治によって成り立っていました。人間たちを中央政府や教会勢力による重税から守り、周辺の妖怪とオオカミから羊を守る。その代わりに生産物の一部と、若い娘の血がささげられる。とはいっても殺すわけじゃないんですよ? お嬢様の少食は遺伝でして、先代も血を飲みほして領民を徒に減らすことを良しとはしませんでした。それゆえの領民たちの歓待だったのです」
「季節が収穫期だったこともあり、その日は本当に盛大な宴が催され、館も村もお祭り騒ぎでした。先代はみんなの前で正式に魔女を妻と迎えることを宣言しました。魔女は直前まで私も一緒でなければいけないと訴えていましたが、私が必死に諭しましたし、先代の説得もあって折れたようでした。けじめはつけなければなりませんでした。
「仮に彼が私のことも平等に愛してくれたとしても妻と呼ぶべき人は一人でなくてはならないと思ったのです。元来は下僕であった私にとっては妾ですら勿体ない地位だったのですから。
館の中には魔女のための部屋が設けられました。いまお嬢様が寝室に使っておられるところがその部屋でした。まあ咲夜さんがいろいろいじってるので本当のところは分かりませんけれど。そして魔女はその隣に私の部屋をおくものと思っていたようで、先代もそうしようかといっていましたが私は洋館暮らしにもなれないし、ということでそれを辞退し、東の塔の上層階を自室としていただきました。そうです。ここです」
美鈴は、両手を広げて部屋を指した。
どこか物語めいていた話が、今ここにある現実につながっていることを私はふと思い出す。
「それから数十年間私たちはそれなりに平和に暮らしていました。もちろんあの旅をしていたころのようにはいきませんでしたけれど。魔女は格式ばった会食にはどうにもなれないといつも愚痴をこぼしていました。私は公的にはできるだけ顔を出さないように、自室でひっそりと暮らしていました。それでも週に一度先代は私の部屋で夕食をとり、二人で過ごしました。それを待つ間、私の趣味は増えました。木工細工、楽器の演奏、料理に、服飾。
「それに、先代が外交にいったり遠征に行っているときはいつも魔女がやってきて二人でいろんなことを話しました。東洋のことをいろいろ教えてあげると魔女は目を輝かせて話に聞き入って。私たちはごくまれに旅行に行くこともありました。もちろん大勢の護衛やら世話係やらがついてきていたので、昔とは全然違っていましたけれど。それでもフランス、ドイツ、見たことのない場所を歩くのは心の踊る体験でした」
「そんな日々の末に、ある転機がやってきました。
「魔女が子供を身ごもったのです。それが分かったときの周囲の驚きようといったらありませんでした。吸血鬼同士の交配は非常に子を為す確率が低いことはご存知ですか。そもそも吸血鬼は寿命が長く子孫を作る必要性が薄いし、吸血で簡単に仲間が増やせます。それゆえ吸血鬼の子どもは珍しく、また強い魔力を持って生まれてくるのです。先代は子供みたいにはしゃいでいました。長らく一人で戦っていたから家族というものにあこがれがあったのでしょう。魔女はいつも以上に周囲から丁重に扱われて、ちょっとめんどくさそうではありましたけれど、やっぱり嬉しそうでした」
「そうして生まれてきたのが、ええ、もう御承知の通り。お嬢様、レミリア・スカーレット様です。村では3日間続く祭りが開かれました。先代はできるだけ館を開けることがないようにしてはいましたが、緊張関係の中、領民と家族を守るためには遠征に行かねばならないこともありました。そんな時にはお嬢様は私が預かることが多かったですね。たぶん覚えてらっしゃらないでしょうけど。私は彼の子を身ごもることはなかったけれど、でも彼が自分の命より大切にしている一人娘を信頼して私に預けてくれることは、素直に嬉しかった」
「しかしその5年後、すべてが変わってしまいました」
私はその悲劇の断片を、噂に耳にしたことがあるかもしれない。
だって、レミリアさんが生まれた5年後に起こることくらい私にもわかる。
フランドール・スカーレット。
紅魔館のすべての転換点となったという彼女を、私は幾度かパーティーで見かけたことがある。
「吸血鬼同士の子どもが同じ夫婦からふたりも生まれるというのは、本当に稀なことです。お嬢様の時に輪をかけて、館も領地も盛り上がっていました。それがどれだけ危険なことか誰も知らなった。妹様は、お嬢様以上に濃く、強く、吸血鬼の力を受け継いでいた。それはとても赤子に御しきれるような力ではありませんでした。
「お産の時、妹様を取り上げたのは私でした。先代も立ち会っていました。その私たちの目の前で、魔女は妹様の魔力の暴走で、跡形も無くなったのです」
相当に柔らかく表現していてなお、それは恐ろしい話だった。
「今更ですけどごめんなさい。食事の場で話す内容ではないですね」
「いいよ。満腹で聞かされたらそれはそれでキツそうだし。気にしないで全部聞かせて」
私が先を促し、彼女は頷いた。
「先代はその日からおかしくなってしまった。いや、それは当然のことなんです。あんな光景を目にすれば誰だって。……最も喜ばしいはずだった日が、一瞬で、最も呪わしい日に変わってしまったのです。彼は最愛の妻を目の前で失った。それも、最愛の娘の手によって。
「怒りや、悲しみのぶつけどころが無くなって、彼は半狂乱になり、教会勢力や、周辺の領地を一方的に突然侵略したり、領民や家臣をを惨殺するようになりました。唯一、同じ場所で、同じ光景を見た私が正気を失わずに済んだのは、その腕の中に産声を上げる妹様がいたからです。いっそ私も狂ってしまえれば楽だったのかもしれません。でもそれは許されないことでした。私は、万が一にも彼が妹様を傷付けないように、地下牢に隠し、秘密裏にその世話をしました」
「大変だったのは先代を、彼を止めることでした。彼の記憶は混濁していて、私や魔女のことを忘れていることもあったし、そうかと思うと、魔女が死んだことだけを忘れていて、館中を歩き回って彼女を捜し歩いたりもしていました。そして、時々怒りに満ちた表情で外へ出かけていき、殺戮の限りを尽くして戻ってきました。
「お抱えの医者が調合した薬を彼に飲ませるのは私の役割でした。彼はごくわずかの間、正気に戻り、深い悲しみに暮れながら、自分が正気を失っている間の館や領地の運営のこと、お嬢様や妹様の今後のことを指示書に書き付け、また狂気へと戻っていった。彼は正気に戻ることのあまりの苦しみに耐えかね、薬を飲まなくなることも増えました。
「それも仕方がなかったのかもしれません。私だってすべてを忘れていられるのなら、どうして苦しい現実に戻ろうと思うでしょうか。……それでも彼は父親として、薬を飲み続けるべきだったのです」
美鈴が何を恐れていたのか、どうしてあんなにも私に世話を焼いたのかが分かった。彼女は私に、先代スカーレット公を重ねていたのだ。
「あるとき彼は、薬を一度に大量に服用し、生死の境を彷徨いました。自殺するつもりだったのか、あるいはたくさん飲めば完全に正気に戻れると思ったのか分かりませんが。とにかく、それ以後、安全のために彼に薬を飲ませないことになりました。
「それから状況は加速度的に悪くなっていきました。彼の臣下の多くがその凶行を止められず、館を去っていったのです。薬を作っていた医者もいなくなり、館に残ったのは彼の死後、領地や財産を我が物にしようとする連中ばかりでした。彼らは先代に危険なことをさせたがり、外部への侵略は益々酷くなりました。誤算だったのは、彼が強すぎてなかなか死ななかったことでしょう。まともな者は悉く離れ、残ったのはお嬢様と妹様を残して離れられなかった私だけ。
「さらに悪いことが重なりました。お嬢様が成長するにつれて、母親である魔女とどんどん似てきたのです」
そこまで聞いて、私にはすべて合点がいった。
それはあまりに辛い記憶であるはずだ。
もう止めるべきだと思った。
「美鈴、もう分かった。その先はやめましょう。もういいの」
「いいえ、全部吐き出させてください。お願いです。そうしてくれると言ったでしょう」
悲壮な面持ちの彼女にかけるべき言葉は、私にはもう無い。
「私の見ている前で、彼はお嬢様と魔女を間違えて呼びました。そうして、奴は、お嬢様の髪を撫でながら、……勃起していたのです。
「その場に私がいて本当に幸運だった。いえ、もう十分すぎるほどに不幸だったのだから、そんなもの幸運のうちになんか入らないですけどね。とにかく私はすぐにお嬢様を引き離して、生前の魔女に教わった錬金術の真似事で、お嬢様の髪を黒く染めました。それでしばらく様子を見たのですが、彼は魔女の名を呼びながら館を徘徊し続けていた。お嬢様を隔離すべきだといっても、そんなことに関心を持つ部下はもういません。髪色はかえても、お嬢様の顔立ちは母親に似すぎていた。だから私は、彼の方を隔離することにした。自分の髪を魔女とそっくりに染めて、彼女がそうしていたように、彼を誘ったのです。この部屋に」
美鈴は、奥の扉にチラと目線をやった。
あちらが、寝室なのだろう。
「彼は情熱的に私を抱きました。魔女の名前を呼びながら。愛していたヒトに、大好きだった親友と間違われながらそうされるのは、耐えがたい苦痛でした。私のなけなしのプライドもズタズタです。しかも始末の悪いことに、彼は時々、本当に時々、不意に正気に戻ったんですよ。そうすると、私が彼を騙したことに怒り、私の紛い物の蒼髪を掴んで壁に叩き付けるんです。そのあと、自分のしたことを涙ながらに詫び、殺してくれと懇願しました。
「そうできたなら、そうしてあげたかった。でもそんな状態の彼でも、いなくなれば領地も領民もふたりの娘も、命はない。あっという間に周辺に攻め滅ぼされるのは間違いありませんでした。既に散々恨みを買った後ですから。
「早く完全な狂人に堕ちてくれればいいものを、時々昔のままの顔を見せるから、私はぶつけどころのない悲しみを抱えて、ひたすらに凌辱に耐えるしかなかったのです」
「彼が完全に壊れてしまうまでに、100年はかかったでしょうか。もはや戦うことと殺すことしか頭になくなった彼は少なくとも魔女の面影を探さなくなった。私は髪を染め戻して塔を出ました。待っていたのは奸臣達による冷遇でした。体を使って領主に取り入ろうとした淫売扱いです。私自身、もうそんな気分でしたから、何とも思いませんでしたけど、館を放逐されることだけは避けなくてはいけなかった。
「私は門番に身をやつし、時折妹様の様子を見に行くだけの日々を過ごすようになりました。それからは、心穏やかに過ごせました。ふたりの成長を見守りながら、もう終わったような自分の生活をダラダラと生きていました」
美鈴は涙を流すことはなかった。
悲しみを乗り越えたわけではないのだろうけど、それでも今笑えるだけの幸せもあったのだ。私がそう信じたいだけかもしれないが。
「ここから先は楽しい話ばかりですよ。家出したお嬢様がパチュリー様を連れ帰ってきたりして、恐ろしい戦乱の歴史の陰で、ほのぼのと生きていました。
「周りの勢力から反転攻勢を受け、進退窮まった先代の取り巻きが幻想郷に攻め込んだのは、まあここの方々には迷惑以外の何物でもなかったのでしょうけれど、私たちにとっては本当に僥倖としか言いようがありません。賢者たちの粛正によって、今いる私たち以外が皆殺しにされたとき、私は呪縛から解き放たれたのです。
「お話はおしまい」
美鈴はそこまで言って、ちょっと無理をして微笑んだ。
「お嬢様と今楽しく暮らせているのも、貴方に出会えたのも、みんなこれまでがあったからなんです。だから、辛いことも、悲しいこともだんだんと割の合う不幸に変わっていきます」
過去を変えることはできない。
しかし、過去の意味や、評価を変えることはできる。
過去はそれにつながる現在や、この先の未来から振り返るしかないものだから。
「美鈴、……こんなこと、その、私が言う役割じゃないんだろうけど」
「なんですか?」
彼女はこの先も当分、紅魔館の誰にもこの話をできないだろう。
だから彼女たちに代わって、私が言うのだ。
「これまでずっと、ありがとう。よく頑張ったね」
美鈴は初めて涙を見せた。
この先は冷めた食事を食べながら話したことだ。
「それで、あの小屋はどうして建てたの?」
その話は出てこなかった。
「ああ、あれは、吸血鬼異変が終わってすぐに建てたものです。ちなみに、ロフトにあったライティングビューローは、いつか魔女からプレゼントされて、すっとこの部屋にあったもの。紅魔館には大切な家族がたくさんいるけれど、それでもあんまり悲しいことが多かったから、いつか出ていこうと思っていたんです。お嬢様をトップとした新生紅魔館がきちんと軌道に乗るまでは、それを手伝って、もう大丈夫だと思ったらそれで手を引こうと思っていた」
「でもそうはならなかったんだね」
私がそう言うと、美鈴は笑顔で答えた。
「もう悲しい思い出よりも、楽しい思い出、嬉しい出来事のほうがずっとずっと多くなってしまったんです。数百年過ごした悪夢のような場所だけど、ほんの十年足らずで、それを全部塗り替えてもらったんですよ。みんなに」
「紅魔館は本当に、いいヒト達ばかりだね」
「みんな、の中には当然ルナサも入っているんですよ」
美鈴は当然のようにそう言う。
「え、どうして?」
「私にとってこの部屋はもう、大切なお嬢様や妹様と、そしてあなたと過ごしたかけがえのない場所になりましたから。たった今から」
そうやって素敵に笑えるあなただから、どんな苦しみも乗り越えてこられたんだろう。
************meiling
翌日、小屋に戻っての夜のこと。
歯を磨いてソファで寝ようとしたところ、いつも使っている毛布が無くなっていた。
「ルナサー、私の毛布知りません……か?」
ロフトに上がると、ルナサのベッドに私の毛布も一緒に掛かっていた。
「まだ寒い季節じゃないでしょうに、風邪ですか?」
私が心配すると、ライティングビューローに座っていたルナサは
「やっぱりレミリアさんが嘘を……いや、鈍いだけか?」
と、何やらぶつぶつ呟いている。
「……ルナサ?」
「い、いや、美鈴は私の使用人じゃないんだし、いつまでもソ、ソファに寝せてるのはどうかなあと思って」
「でも、ルナサはどこに寝るんですか」
「おおう……。できれば、私もベッドに寝たいなあ」
ルナサの動きがぎこちなく、何となく顔も赤い。
そこまできて、ようやく私にも彼女の意図が読めた。
「……お嬢様になにか吹き込まれましたね?」
「いや、そんなことは……まあ、あるけど。でもそれだけじゃなくて、私もせっかく一緒に住んでるんだし、一緒に寝たらどう、かな? なあーんて、思っ、てみたりなんかしちゃって?」
言葉をちょっとずつ区切りながらこちらの反応をうかがうのは鬱陶しいからやめてほしい。
「いいですよ。一緒に寝ましょうか」
「ぃやった、あでも、あれだよ? なんにもしないし、髪にも触れませんので、ほんと」
気を使ってくれているのだろう。
……ちょっと使いすぎのような気もするが。
「なんにもしないんですか?」
「えっ……?」
固まるルナサを見るのも愉快だ。
「言ったでしょう。私は、嫌なことは全部上書きしていくタイプなんです」
「うん。……うん?」
「これから誰に触れられても、思い出すのが貴方なら、いいなと思って」
それからルナサはどうしたかは、誰にも内緒だ。
そんなこんなありまして。
露骨に場面を転換していきますよ。
ルナサの精神は薬なしでもかなり安定するようになった。
秋が過ぎ、冬が気配を濃くし始めた頃には、一日1錠で十分に持つようになったし、彼女の創作活動も、問題ない程度に捗っていた。
それはコレのおかげである。
「さあルナサ、今日も始めますよ」
「いやだよ、寒いよ。屋内ですればいいじゃない」
「屋外で体を動かすことに意味があるんです」
さむがるルナサを引っ張り出して、私は椅子に腰かけ、二胡を構える。
「さあ今日も元気に体を動かしましょう!」
「いぇーい!!」
ルナサは早くも自棄になっている。
私が考案し、永遠亭の永琳女史の監修を受けて作った向精神体操だ。
音楽に合わせて体を動かし、同時に呼吸法も取り入れて、体とこころのバランスを整えるための体操である。ぶっちゃけラジオ体操の凄い版みたいなものである。
あくまでルナサが霊であるから効果がある方法だが、運動と精神に密接な関係があるのはよく知られていることだし、太極拳をベースにちょっとオカルティックな儀式的なステップも盛り込んでいる。永琳女史によれば人間の患者に対しても一定の効果を発揮したそうで、是非論文にまとめたいとおっしゃっていた。もちろん、ルナサのように劇的に効きはしないだろうけど、誰もが少しでも心穏やかに過ごせるならそれが私には一番うれしいことである。
「はい、いっちにー、さんっしー」
間の抜けた音楽に合わせて、ルナサが手足を交差する。
体操というのは本格的にやると結構な運動量である。
楽器が二胡なのは単に、私が一番うまく弾ける楽器がそれだというだけのこと。
ルナサは自分の本質にある心と向かい合って、乗り越えていく。
私は自分の奥底にあった過去を吐き出し、解き放たれていく。
ふたりで時間をかけてゆっくりと。
自分を許して、過去を許して、相手を許して。
誰もがそうして、日々許されて生きていく、
私たちの場合は、この二胡の音色に合わせて。
オマージュ元は七年前の作品だし、わからない人も多いかも。
レミリアがカリスマ全開なのが大変よかったです。
おぜうネーミングセンスも素晴らしい。
ディテールの細かさやら美鈴が本当に良くできているところやら
ひたすら面白かった
一点だけ、もう少し美鈴の絶望を先代が狂ったところで味わいたいなと思いました 贅沢ですかね
序文からどんどん引き込まれていく自分がありました。
この作品を読めてほんと良かったです。
素敵な作品でしたありがとうございます
色んな感情がないまぜに成ってる、層の厚い作品でした。ニヤケと感傷が留まらないって、トンでも作品ですね(笑)
ちょっと変わったカップリングに最初抵抗がありましたけれど、作者様のお陰でルナサの事が好きになれそうです。