私がその異形の子を引き取ったのは、地霊殿に移り住んでまだ間もない頃の事でした。
地底にはかつて是非曲直庁の管轄する研究機関が幾つもあり、そこでは灼熱地獄の地質から怨霊の生態に至るまで、多岐に渡る研究が長らく行われていました。彼岸が地底から手を引いた後、大半の施設は閉鎖に追い込まれましたが、一部は旧都の研究者達に引き継がれ現在も運営が続けられています。
彼等の主たる関心は「生物」の分野にありました。彼等は地上の出身ですから、一風変わった地底の生物相を分類し記録するだけでも多くの知見が得られたのでしょう。地底の生まれではないものの、覚の最後の生き残りとして旧都に逃れていた私も、貴重なサンプルという事で様々な研究への協力を依頼されたものでした。どれも丁重にお断りしましたが。
しかし、彼等にとって最も重要な点は、地底が地上からあらゆる意味で切り離されている、という事でした。地上では妖怪の賢者が目を光らせている為、人間や妖怪の肉体を用いた生体実験など、幻想郷の秩序を乱しかねない所謂「アンダーグラウンド」な研究は厳しく規制されていたようで、そうしたものに手を出そうとするなら文字通り「地底に降りる」しかなかったのです。
結果、地底の研究施設は、とても外部に公表出来ないような忌まわしい実験の温床となっていました。
その子も、そんな実験の途上で生み出された生物でした。否、誤って生まれてしまった生物、と言うべきでしょう。
それは人間でも妖怪でもなく、動物ですらない奇妙な存在で、近縁な種族を持たない「未知の何か」でした。大きさは人間の赤ん坊程度、外見は脳や胃といった臓器に似ていますが、表面は癌化しているかのような黒ずんだ腫瘍でびっしりと覆われ、青い体液を頻りに流しています。手足のようなものは付いておらず、自力で体を動かす事も出来ません。目や口もなく、外部からの刺激に対して一切反応を示しません。腫瘍と流れ出る体液がなければ、生きているという事さえ分からないでしょう。
あまりに悍ましい姿、意志の疎通が全く図れないといった理由から、観察は早々に打ち切られ、その子は呆気なく処分される事が決まりました。
そこに偶然居合わせたのが私でした。勿論、覚のサンプルとして実験台になっていた訳ではありません。今はペットに任せていますが、当時の私は地霊殿の主という立場上、そういう施設にも査察の為に足を運ぶ機会があったのです。
案内役の者達は、是非その子を見たいという私を何度も引き止めました。彼等は私が実際にそれを目の当たりにすれば、その醜悪さに怯えてこうした研究自体を禁止もしくは弾圧するのではないかと危惧したのです。
笑ってしまいます。姿形の美醜など覚の私にとってはどうでもいい事です。ただ私は、そんな「ばけもの」にも心があるのかという事を知りたかったのです。
渋っていた彼等も私の機嫌を損ねたくはないらしく、結局折れて施設の最下層にあるその子の部屋まで導いてくれました。一人が重い扉の錠を外し、別の一人が私を中へ誘いました。
対面の瞬間を私は仔細に覚えています。その子は体液が零れないよう桶に入れられ、検査用の台にひっそりと置かれていました。それを目にした時、私の胸に湧いた驚愕が如何ばかりであったか、恐らく皆さんには想像も付かないでしょう。
当然ながらばけものの醜さに驚いたのではありません。私が見たのは心でした。そうです、その子には確かに心がありました。それも、これまでに出会ったどんな心よりも芳しく清らかな、美しい心が。
そこには、ばらの花園が果てしなく広がっていました。
紛れもなくばらの花でした。どの花の花弁も深い青色をしているのが、普通のばらと違う唯一の点でしょうか。ばけもの自身は園の片隅にいて、あの臓器のような姿ではなく、青虫にそっくりな体付きになっていました。体長はやはり人間の赤ん坊ほどでしたが、心の中では自由に動き回れるようで、のそのそと蠕動しながら垂れ下がった花に体を擦り付けています。戯れているのか、楽しげな感情が届いてきました。
視力もないのに一体どうしてこんなにも正確にばらを思い浮かべる事が出来るのか、それを訝しむ前に、私はばけものの心の花園にすっかり見惚れてしまいました。
何という皮肉でしょう。地獄の住人ですら目を背けるばけものに、これほど可憐で麗らかな心が備わっていようとは……そしてその心のたった一欠片さえ、他者に伝達する手段を有していないとは……。
せめてばけものが鳴き声の一つでも発せられたなら、或いは身を揺する程度の動きでも出来たなら、人はそれを通して僅かであれ風にざわめくばらの茂みを感じ取った事でしょう。例え心を読めなくとも、その挙措の端々から甘く冷たい花粉を嗅ぎ、葉と棘の譜面をなぞって、この子の真の価値を窺い知った事でしょう。
しかしばけものには声も言葉もなく、歩く事も手を伸ばす事も叶わず、一匹の同胞さえいないのです。ばけものの肉体は一個の沈黙でした。絶対的な静けさでした。固く閉ざされた扉でした。
私は不意に気付きました。この小さな石の扉を開く事が出来るのは私だけなのだ、と。私は現在生き残っているただ一人の覚です。私の他にこの子の心を見る者はもういません。此処は広大な「秘密の花園」で、私はその最初で最後の来訪者なのです。此処にある全てが私だけのもの……。そう考えるとひどく愉快になりました。そして、「ある事」を思い立ったのです。それは忽ち私の思考を占め、私は常にない高揚感に胸を躍らせながら、ばけもののいる台の方へ近付いていきました。
ばけものには視覚も嗅覚もありませんでしたが、音や気配を感知する器官は何処かに存在しているらしく、私の足音を聴き取ったようでした。と、花園に細長い影が現れました。私の投影なのでしょう。ばけもの、もとい青虫は花と戯れるのを止めて、こちらによたよたと這い寄ってきました。遊んで欲しい、という思いが読み取れます。
服が汚れるのも構わず、私は検査台の桶から体液塗れのばけものを抱き上げました。
「いいわ、私が遊んであげる……。だから貴方も私の相手をしてね」
その途端、花園に強い風が吹き、花びらが一斉に舞い上がりました。私の腕の中で青虫が、体の側面に生えた無数の疣足をばたつかせます。この子は私の言葉を理解しているのです。引き攣るように体節をうねらせながら、可愛いばけものは全身であどけない喜びを表していました。
かくしてこの子は、私にとって初めての「ペット」になったのです。
ばけものを地霊殿に迎えてから、私の生活は随分変わりました。
何からお話しすればいいかしら。そう、まずは食事について。といってもこの子は何も食べません。地底の瘴気を養分にしているのか、それで平気らしいのです。ただ心の中ではよくばらの葉を食んでおり、「美味しい」や「不味い」に相当する快・不快の感情を見せる事があります。ですから私も食事を取る時間はなるべくこの子に合わせるようにしています。
殺風景なリビングの食卓に着き、ばけものを隣の椅子に置いて目を瞑れば、ほら、私は花園の柔らかな土の上に座っているのです。そうして時折ひらひら降ってくる花びらを紅茶に浮かべたり、葉を食べ終えて休んでいる青虫の背を撫でてやったりしながら、彼方までばらに埋め尽くされた真っ青な景色を眺めるのが好きでした。まるで、いつか本の挿絵で見た海のよう……。
しかしそれとは裏腹に、花園から見上げる空はいつも真っ赤な夕暮れでした。逢魔が時、恐ろしい魔に出逢う時間。魔が覚の私なら、このちっぽけなばけものは、さしずめ魔に連れ去られてしまったかよわい少女といった所でしょう。尤もこの子自身は、自分があの施設から連れ去られた事を露とも知らずにいるのですが。
床に就く時も私はこの子と一緒でした。ベッドに寝かせる訳にはいかないので、脇のテーブルに布を敷いて横たえてやります。もし来客でもあれば悪趣味極まりないオブジェだと思われるかもしれません。
夕焼けの下に寝そべり、眠りに落ちるまで青虫と過ごしていると、何とも言えぬ不思議な、懐かしさに似た気分に襲われる事があります。
この常闇の地底に降りてからの日々を、私の生涯における「夜」と表現するならば、夕暮れの空は、まだ私が地上にいた頃の「光射す時代」を思い出させてくれる唯一のよすがです。例えそれが闇の間近に迫りつつある暮色だとしても、私はそれを見ている間だけ、ほんの少し若返ったような気になれるのです。
どこかで地獄鴉が鳴いています。私はその声を、帰り道を急ぐ子供のような心で聴きながら静かに瞼を閉じるのでした。
毎日欠かさずばけものを連れて行く場所があります。地霊殿の中庭です。灼熱地獄跡の真上に位置している為か、痩せさらばえた地底の土地の中でも殊更荒廃が甚だしく、草一本生えていない寒々しい所です。庭、と呼ぶのも烏滸がましいでしょう。
けれど私はその中庭を何より気に入っていました。廃獄の荒地、世界で最も美しさから遠い場所。それがこの子を連れた私の目には、ええそうです、まるであべこべに映るのです。この子が傍にいるだけで、荒野はぺらりと裏返されて、聖書の言葉を借りるなら「蜜の流れる地」に早変わりしてしまいます。これほど鮮やかなめくるめく転調があるでしょうか。私の庭には花も庭師も要りません。悪魔も触れるを厭うばけものが、私の至上の花であり最高の庭師なのですから。
私が殊にこの景色を好むのは、あるいは覚という種族のせいかもしれません。覚の読心能力とは、即ち他者の建前と本音を暴く力です。外面は身綺麗に取り繕っていても、内心に爛れた悪意を湛えている者の何と多い事か。そのような乖離を覗くに付け、心というものに対する失望を弥が上にも深めていた私にとって、この子の存在がどれほど慰めになったか分かりません……。
晶洞石、と呼ばれる鉱石をご存知でしょうか。一見ただの石ころのように見えますが、割ってみると中は空洞になっており、瑪瑙や水晶の美しい結晶がびっしり生えているという珍しい石です。どうでしょう、まるでこの子のようではありませんか。
私はかねがね決めあぐねていたこの子の名前を、その鉱石から採って「こいし」にしようと考えました。そう申し上げれば違和感を覚える方もおられるかもしれません。つまらない石ころが内側に絢爛な結晶を抱いている、という様を表したいのなら、「小石」ではどうにも片手落ちです。これではこの子の皮相を述べているに過ぎず、大事な部分が一切伝わらない名前ではないか、と。
その通り。だからこそ敢えて「こいし」を選んだのです。私はこの子の「結晶」を、あの花園を誰にも秘密のまま独り占めし続ける為に、いわば小石という人の見向きもしないヴェールで包み隠してしまう為に、このような灰色の名前を授ける事にしたのです。横暴だと謗られても無理はありません。しかし何も知らないこの子は、私が花園で「こいし、こいし」と呼ぶと、すぐに嬉しがって応じるようになりました。
「こいし」
くるり。
「こいし」
ころり。
こいしはころりころりとやって来て、差し伸べた私の手を上機嫌で甘噛みするのです。ふふ、可愛い子。今日は何をして遊びましょうか……。
こいしと暮らし始めてしばらく経ったある日の事です。いつものように花園を散策していたら、ねえ、とこいしに呼び止められました。私に何か見せたいものがあるらしく、一緒に来て、と言って、私を草の深く繁った奥の方へ招きました。
夕焼けの光もほとんど届かない、ばらの森の木下闇。こいしが指し示したそこには、苔生した石積みの井戸がありました。日陰になっているせいか周囲の空気は心なしか肌寒く、何処となく不気味な印象を受けます。
「いつからこんなものが……」
尋ねると、気付いたらあった、だそうです。何でもこの井戸には水が貯まっていて、時々水面に奇妙なものが映るのだといいます。
「どんなもの?」
こいしはかぶりを振るような仕草をして、知らないもの、と答えました。
心の中の井戸。
今にして思えば、というより後世の心理学の概念を参照すれば、それは「集合的無意識」のようなものだったのかもしれません。生物が進化の過程で蓄積してきた膨大な情報の貯水池。こいしが時々それを覗き込んでいたのだとしたら、色々な事に辻褄が合います。一度も目にした事がない筈の、ばらという植物を何故想像出来るのか。夕暮れを何故再現出来るのか。そして私の言葉を何故理解出来るのか。無意識の水脈という壮大な図書館の一端を、この子は井戸を通して垣間見ていたのではないでしょうか。
私は井戸の前に立ち、そっと水面を見下ろしてみました。黒い影がぼんやり映っています。「人型」というものを知らないこいしは、私の事をこのような曖昧な姿で捉えているのです。
私の影は、初め降り落ちる花びらの波紋に揺れているばかりでしたが、やがて波紋の拍子から外れて独りでに震え出し、見る間に形を変えて具体性のある像を成しました。
それは、おどろおどろしい顔をした見知らぬ老婆でした。と思うと、再び震えながら変形し、今度は見知らぬ少女が現れました。更に次いで精悍な男性が。どうも様々な人型が無秩序に映し出されているようです。
こいしも同じものが水面に瞬いているのを見て、これが何なのか気にかかって私を呼んだのでしょう。
「これはね、人間というの」
人間?
「生き物の中の一種族。貴方や私も生き物なのよ」
貴方も人間?
「私は妖怪。覚といって、人間によく似ているけれど違う種族よ」
私の体がぶれ始め、黒い影から先ほどの老婆に、少女に、男性に、と矢継ぎ早に変化していきます。こいしの心が私に対するイメージを修正しようとしているのでしょう。
「私に近いのは二番目かしら」
するとまた少女に。私も些か興が乗って、覚は胸元に大きな眼球があるのだとか、私の髪は菫色で背丈は低い方だとか、あれこれ口出しをして私らしい容姿に近付くようこいしの心を誘導してみました。
少なからず時間を掛けて、ようやく何とか面影を感じるような少女が出来上がり、そうそう、私はこういう形をしているのよ、とこいしを抱き上げて言うと、こいしは私の感触を確かめるように小さな頭をふにふにと押し付けてきて、これが貴方なんだね……、と感慨深げに呟きました。
第三の眼が侵入者の気配を感知したのはその時でした。私は咄嗟にこいしを地面に降ろして現実へ帰り、ベッドから跳ね起きて寝室を見回しました。閉めた筈のドアが開いており、遠ざかっていく心が一つ。肝試し感覚で忍び込んできた旧都の若造です。明確な敵意や害意はないようですが、こいしを見られてしまいました。普段ならもっと早く察知していたのに……。こいしの心にのめり込み過ぎて、外への注意が疎かになっていました。
花園に戻ると、外界の面倒な雑事など夢想だにしないこいしが、どうしたの? と無邪気に私を見上げました。
「何でもないわ。貴方は気にしなくていいの」
あの井戸を訪れてから、私はこいしに乞われるままに妖怪の事や覚の事、私自身の事を話して聞かせるようになりました。こいしは自分を花園に住む矮小な青虫だと思っていて、私が過去に出逢った妖怪達の逸話を語る度に、遠いものを仰ぎ見るような憧憬の念を浮かべてじっと聞き入るのでした。
覚妖怪について知りたいと言うので、心を読むという特徴を挙げると、心とは何? とこいしは首を傾げました。無意識の井戸は心の定義までは教えてくれなかったようです。とはいえ私とて「心とは何か」という問いに対する歯切れのいい答えを用意している訳ではありません。この花園が丸々貴方の心よ、と言えば簡単なのでしょうが、それは止めておきました。こいしは此処を本物の「世界」だと信じ切っているのですから。
色々悩んだ挙げ句、「入り口のない庭、みたいなものよ」と解説してみると、ますます分からないという顔をされてしまいました。
またこいしは、妖怪が空を飛ぶと聞いて、貴方も飛べる? と尋ねてきました。空のない地底に来て以来、「飛んでいる」という感覚は稀薄になっていく一方でしたが、無論出来るには出来ます。尤もこいしの心の中でも同じ要領で飛べる保証はなかったので、ひとまず軽く宙に浮いてみた所、どうやら上手くいくようでした。
するとこいしはそれだけで目を輝かせ、私が何か途方もない奇蹟でも起こしたかのように、もう一回やって、とせがみます。私は得意になってもっと高く飛んでみせます。ばらの樹々の間を揺蕩いながら、ふと、このまま上空へ昇っていけば花園を一望出来るのだ、という事に思い至りました。全体でどれくらいの広さなのか、どんな地形なのか、園の尽きる地点はどうなっているのか。空の上からなら全てが見晴らせます。あの井戸のように、まだ私やこいし自身も知らない不思議な遺物がそこかしこに見出せるかもしれません。茨が蔓延っていて歩いていけない場所にも、空路を使えば容易く辿り着く事が出来ます。
どうして今までその事に考えが及ばなかったのでしょう? 早速こいしの元に降りていき、この素敵な思い付きを提案すると、こいしも心と体を弾ませて賛意を表しました。
万が一にも手が滑ったりしないように、こいしのうねうね動く体節をしっかり抱き留め、慎重に上昇します。小柄な樹を飛び越え、大柄な樹の天辺を目指して。あれを越えたら視野は一気に広がるでしょう。こいしは私の腕にちょんと頭を載せ、刻々と移り変わる空中の風景にすっかり目を奪われています。
が、中程まで来た辺りで、私は言い知れぬ不安が芽生えるのを自覚しました。果たしてそれは、後一歩で森を抜けるという所で現実のものとなりました。
「ごめんなさいこいし。掴まっていてね」
私はそこで息を切らし、こいしを庇う格好で真っ逆さまに墜落してしまいました。
こいしの重みが加わった為か、それともここではやはり空を飛ぶのにも何かしら別の「こつ」が必要なのでしょうか。
取り敢えず私はこいしが無事で安堵したのですが、こいしの方はひどく落ち込んでいました。私が墜落したのはこいしを抱えていたせいだ、と思っているのです。
「貴方のせいじゃないわ。私は飛ぶのが下手だからどの道失敗していたでしょう」
しかしこいしはうるうると首を振って言うのです。
ごめんね、私にも空を飛ぶ力があればよかったのに。ちゃんと歩ける足があればよかったのに。そうしたら抱っこされなくても付いていけるし、貴方に迷惑を掛ける事もないのにね。
馬鹿ね……。私は愛しい青虫の触角にキスをして、「迷惑な訳があるもんですか。私は好きで貴方といるのよ」と噛んで含めるように言ってやりました。こいしは俯いて、でも、と続けます。
貴方は遠くまで行けるんだから、私の事は置いていっていいんだよ。無理して私と一緒にいなくてもいいんだよ。私は平気。ずっとここで暮らしてきたんだもの。
「何言ってるの。貴方がいなくちゃ何処に行ってもつまらないわ。もういいのよ、私は貴方とお喋りしているだけで幸せなんだから」
分かった? 念を押すと、こいしはやっと小さく頷きました。
その日は妖怪の話は打ち切りにして、こいしが落ち着いて寝付くまで、傍らでうろ覚えの子守唄を歌って過ごしました。
近頃、ある噂が旧都で囁かれています。私に関する噂です。曰く「古明地さとりの心臓は地霊殿の最奥部で厳重に保管されている。心臓を破壊しない限りさとりは死なない」。心臓、ですか。大方、先日の侵入者がこいしの見た目からそんな勘違いをして、周囲に吹聴したのが尾鰭付きで広まったのでしょう。
けれども心臓という見方はあながち間違いではないかもしれません。私が生きている実感を持てるのは、今となってはこいしといる時くらいなものなのですから。
いずれにせよただの風説です。かと言って看過する事も出来かねました。噂を鵜呑みにした一部の者が、愚かにも地霊殿に刺客を差し向けてきたのです。その心臓とやらを刺し貫いて私を亡き者にしようというのでしょう。旧都には私の存在を快く思っていない輩が大勢いて、以前から暗殺者の断りなき訪問を受ける事は度々ありました。無論、私の探知能力の前ではどんな奇襲も児戯同然でしたが。
しかしこいしが狙われるとなれば話は別です。私一人なら隠れる事や反撃する事は造作もありませんが、動けないこいしと共に逃げるのは少々骨が折れます。噂の通り、こいしを何処か目立たない場所に隠しておこうかとも考えたものの、敵に見つかった場合手の打ちようがありません。検討の末、倉庫から背負い籠を調達してきて、敵襲の際はこいしをそれに入れて持ち運ぶ事にしました。
全く、あの時侵入者を逃がさずにきちんと処分しておけば、こんな厄介な事態には陥らなくて済んだものを。
貴方は何だか最近疲れているみたい。
こいしはそう言って、私の太股をさするように優しく這い回りました。そうかしら、と素知らぬ顔で受け流しましたが、疲れているのは事実でした。
噂を耳にしてから一週間が経ち、既に幾度かの襲撃をやり過ごしていました。今この瞬間も、敵の目を盗んで数ある客室の一つに身を潜めているのです。向こうは三人。二人は現在私の寝室を物色しており、後の一人はエントランスにいるようです。
当分こちらに接近してくる様子はなさそうなので、こいしを籠から出して休息を取っています。こう頻繁に攻めてこられると、流石にこれまでのように花園でこいしの相手ばかりしてはいられません。当のこいしは私たちがどういう状況に置かれているかなど勿論把握しておらず、私がこいしを背負って逃げている時も、普段の散歩だと思い込んでいるくらいです。こいしの心象風景だけは常に、時間が止まっているかのように凪いでいます。
それでも私が憔悴している事は何となく察したようです。この所こいしはしょっちゅう例の井戸に通っていて、今日も本当は行きたがっていたのに、予定を変更して私の世話を焼いてくれているのです。
「私なら大丈夫よ、あっちの方に行きましょうか」
井戸のある方向をそれとなく示しても、ううん、いいの、と断って、私の為に綺麗な形の葉を集めて持ってきてくれます。こいしにとっては大事な食料なのに。ありがとうね、とこいしの頭を撫でながら、これからどうしようかと溜め息混じりに考えました。
そろそろ潮時なのでしょうか。かつて私は人々に忌み嫌われて地上を去りました。同様に地底を去るべき時が来ているのでしょうか。しかし次はどこを目指せばいいのでしょう。地上も地底も駄目なら、いよいよ地獄かしら。
ある雨の晩でした。正直に申し上げれば、その日の私はひどく参っていたのです。部屋に戻るや否や返り血を浴びた顔と髪をタオルで拭い、着替えを済ませました。出来れば湯も浴びたい所でしたが、疲労と警戒心が勝り、部屋を再び出る気力は湧きませんでした。
館の中は静まり返っていました。先刻から本降りになった雨が屋根の上を歩き回る音の他には、何の叫びも囁きも聴こえません。私はベッドの下から籠を取り出し、こいしを膝に載せると、重い瞼を閉じて花園へ降り立ちました。
どこへ行っていたの?
こいしはいつになく陽気に私を出迎えました。私に是非話したい事があるらしく、随分興奮しています。思考を読んでみると、前に井戸で目にした人型の映像がちかちかと明滅していました。
あのね、あのね、やっと分かったの。
抑え切れない嬉しさからか、ぐるぐると私の周囲を踊るように回りながらこいしは言うのです。
これでずっと一緒に遊べるよ。もうどんなに遠くへだって行けるんだよ。今度は私が連れてってあげるね……。
私はその時、こいしが何を言おうとしているのかを吟味するより先に、こんな状況でも暢気に遊ぶ事を考えているこいしについ苛立ちを覚えてしまいました。
「貴方はいいわね、気楽で」
気付けばそんな言葉が口を衝いて出ていました。何と理不尽な八つ当たりでしょう? こいしが外界の出来事を認識できないのは決してこいしのせいではないのに。しかし一旦言葉にすると、度重なる敵襲で鬱積していた暗い感情が溢れ出すのを止める術はありませんでした。
私は身勝手な怒りの中で、初めて花園に冷めた目を向けました。あれほど私を喜ばせた花々や夕焼けが、今や無慈悲な現実を隠蔽するお為ごかしの書き割りに見えてならないのです。能天気な者を揶揄する近年の表現に「脳がお花畑」というものがありますが、まさしくそうした思いをその瞬間、私はこいしの花園に対して抱いてしまったのです。
こいしは私が急に突き放した態度を取った事に困惑し、いたく狼狽えていました。理由も分からず、ごめんね、ごめんね、と言いながら私の足に縋り付いてきます。 しかし私は苛立ちの収まらぬままにこいしを置いて踵を返し、足音も荒く花園を脱け出しました。
最後に振り返った時、こいしは寂しそうに私を見上げながら佇んで、赤い空から降り頻る青い音にさらさらと打たれていました。
この夜の事を思い返す度、私は胸を引き裂かれる心地がします。可哀想なこいし、私の奇しきばらの園、誰よりも健気で眩い心を持っていたあの子に、何故あんな暴言を投げ付けてしまったのでしょう? 何故すぐに駆け寄って「嘘よ、冗談よ」と言ってやらなかったのでしょう? 何故あの子の話を真面目に聞いてやらなかったのでしょう? 長い歳月を経た今でも私は後悔に苛まれています。最早何もかも遅いのに。何一つ、取り戻す事など出来はしないのに。
翌日、目を覚ますと籠からこいしがいなくなっていました。一瞬頭が真っ白になり、そして起こりうる唯一の事態が脳裏をよぎりました。
私の眠っている間に侵入者がやって来て、こいしを連れ去ったのだ、と。
第三の眼で館内を捜索しましたが、こいしの心も侵入者の心も見当たりません。雨も止んでいます。雨音が聴こえない事さえ、あるまじき不在のように感じられました。
地霊殿にはいない。
ならば館の外に連れ出されたのだ、と判断し、私はよろめく足でベッドを蹴って駆け出しました。こいしが館内の何処かで殺され棄てられているという、真っ先に想定すべき可能性には頑なに目を瞑りながら。
廊下を走り、階段を降り、中庭に隣接する回廊の半ばまで来て、私は不意に足を止めました。
一面錆色をした中庭の地肌に、白く輝くものが見えたからです。
私の目は憑かれたようにそこへ釘付けになりました。
それは少女でした。
素裸で地面に横たわっている少女でした。大して存在する気がないかのように、透き通りそうなほど色の薄いその痩身を無造作に闇夜に晒している、髪も皮膚も碧白く蒼白い、一人の少女でした。
思わず私は息を呑んでいました。
何という事でしょう……。少女の胸には第三の眼が、紛う方なき覚の証が備わっていたのです。
少女は眠っているようでした。
私はほとんど茫然自失の態で少女を見下ろし、ふとその手に握られているものに気付きました。
そして、全てを理解しました。
「貴方なのね」
少女は私の声に応えるようにゆっくりと目を開き、私を見据えました。しばらくそのまま不思議そうな顔をしていましたが、やがて私の方に手を伸ばそうとして、その拍子に掌にあったものが零れ落ちました。青い、一輪のばらでした。私はそれを摘まみ上げ、少女の手を取って、どちらも自分の頬に強く押し当てました。
ああ、ああ……この子は、こいしは、妖怪になったのです。何者でもないばけものだったこいしは、私と同じ覚になったのです……。
井戸へ通っていたのはその方法を学ぶ為だったのでしょう。学ぶといっても、井戸に映し出されるアトランダムな情報の群れから目当ての知識を手に入れるなど、雲を掴むような話です。恐らくこいしは通ううちに、いつしか自らの意志で井戸を制御する力を、つまり「無意識を操る程度の能力」を開花させていたのかもしれません。
あの日、こいしがあんなに喜び勇んでいたのは、遂に「妖怪になる方法」が分かったのだという事を私に伝えたかったからなのでしょう。
けれどこいしは知りませんでした。知りうる筈がなかったのです。妖怪に変化した時、自分の身に何が起こるのかを。
こいしは覚になりました。私の目の前にいる少女の体には、既に強大ですらある妖力の片鱗が窺えます。しかし彼女の胸の瞳は、第三の眼は、固く瞑られていました。
少女の心は空っぽでした。全き空白でした。自分の事も、私の事も、私達の日々も、花園も、丸切り跡形もなくなっていました。花弁の一枚さえ残ってはいませんでした。ただ茫洋とした無意識の海が、細波を立てながらどこまでも続いているばかりでした。
こいしは肉体に数多の欠損を抱えていました。妖怪化して人型の姿を得ても、当然それらの欠損が回復する訳ではありません。妖怪は精神を主体とする存在です。それ故、妖怪になったこいしの欠損は肉体ではなく、精神に現れたのではないでしょうか。
これは後から組み立てた私の推測に過ぎません。真実はばらの園と共に地獄よりも深い水の底に沈み、二度と辿り着く事は叶わないのです。
しかし、花園の大地が罅割れ、井戸の下を流れていた無意識の水脈があちこちで猛り狂ったように地表に噴き出す、そんな光景がいつも私の瞼に浮かびます。それは氾濫して洪水となり、ばらを、空を、あの子を飲み込み、情け容赦なく押し流していくのです……。
あの子……。私の忌まわしき力に初めて意義を与えてくれたあの子。私と空を飛ぶのを楽しみにしていたあの子。私がこいしと呼んでいた、あの醜く愛おしいばけもの。どんな花よりも美しい、一匹のみすぼらしい青虫……。
我に返ると、少女が私の濡れた頬をぺたぺたと触っていました。雪や氷に触れるように、好奇と躊躇の混ざり合った手付きで。
私は込み上げる感情を抑え、少女をそっと抱き寄せて、
「こいし、こいし」
と呼び掛けました。
此処にいるこいしに向けて、もう何処にもいないこいしに向けて、私は掠れる声で呼び掛けました。
勿論返事はありませんでした。けれど少女は私に抱き締められたまま、いきなりふんわりと……、その場に浮かび上がったのです。
まるで蝶がばらの花から飛び立つように。
少女は青虫だった頃の事を一切覚えていません。この行為にも別段意味や理由はないのでしょう。脈絡のない無意識の反応に過ぎぬのでしょう。それでも私は、少女に手を取られるようにして中庭の真上へ、地底の空なき空へと昇っていく途上で、こう思わずにはいられませんでした。
私達は「二人で一緒に空を飛ぶ」というささやかな、本当にささやかな夢を今、確かに果たしているのだ、と。
そうして、中庭も地霊殿も、旧都さえ風景の一隅に収まるような高みに到り、花も咲かず陽射しも注がぬ荒涼とした地底世界を眼下に収めながら私は、あの子が遺してくれたこの子に寄り添い、微かに闇を照らしている街の灯りを、小さなばらの花々を観るようにいつまでもいつまでも眺め続けていたのです。
久しぶりに創想話らしいssを読めたこと、感謝します
色々と想像が膨らむのもまたよし
文章が恐ろしいほどうまい……
さとりの心情がこれでもかと言うほどに表現されていて素晴らしかったです
それでいて後書きで色んな解釈ができるように広げるのも心にくい演出です
非常に良いものを読ませていただきました
目から鱗
あとがきの嘘か真か不明な所も含めて
これを読んだあとのこいしちゃんとさとりお姉ちゃんの会話が気になります
素晴らしい作品でした。
あとがきもイイ!
どうしようもない作品だ。
さとり様がすごく感情豊かに描かれていて、魅力的でした。
その最後までの癖の強い内容と展開を呑み込めば、理解の出来る感動の強さに戸惑うばかりです
親は子を想うけれど、子もまた親を想って行動するわけで、
想い・想われというのはなかなか“視線”の合わないものですね。
でもそこはさとり様の言葉じゃないですが、
「恋し子(の)意思」
と受け入れることが大切なのかも。
青虫が「覚の姿」を選んだのは、他でもない青虫自身の「想い」なんですから。
なにわともあれ、良いクリスマスプレゼントでした。
作者さん、ありがとう
惚れた。
あれよあれよという間に最後まで読んでしまった
素敵な読了感を味合わせてくれて、本当にありがとうございます。
幸せ。
この作品に出会えたことに感謝します
こいしという存在に対する様々な考察の中で一番好みなものでした
読めてよかったです
たった少ない言葉で、ここまで、人身を揺さぶれるのは驚きでした。