端渓硯に水を差し、墨を磨る。心を静かにして、一心に作業に向き合う。やがて満足の行く出来の墨汁が出来上がる。筆を取り、墨に浸す。筆を和紙にあてがい、濃淡を見て力の加減をする。
書の道については王羲之を手本として、日々鍛錬している。昔、空海に手解きを受けようとしたこともあったが、ついぞ叶わなかった。
手先を捏ねる様にはね、止める所では墨を滲ませる。老境の域に辿り着くとまでは行かずとも、その境地にまでは至らんとして筆を走らせる。
やがて、満足の行く出来の作品が出来上がった。静かな心の中に、微かに自負心の温みが現れる。
その時だった、自室の前が何やら騒がしい。私は立ち上がり障子を開いた。
永遠亭の渡り廊下を妹紅がずしずしと歩いてくる。その背後には鈴仙が首ったけにかじりついて引き摺られていた。
やれやれ、煩いのが来た。先程から掴んだままだった筆を筆置きの上においた。
妹紅は部屋の前で仁王立ちになって、光の無い目で部屋の中を睨めつける。
妹紅は無言だ。いくら普段殺したり殺されたりの仲だとはいえ、そこまで不躾な態度ではこちらも腹が立つ。
「下賤ね。貴女には書を楽しむ心は永遠に理解できないのでしょう」
「そんなものは犬にでも喰わせてやればいい。殺しに来たぜ輝夜」
妹紅に引き摺られているままの鈴仙は、慌てて私達二人の間に立ちふさがる。
「やめてください姫さま! これ以上、永遠亭の中で喧嘩するのは止める様に師匠も言ってたでしょう! 妹紅もやめなさい! 後で怒られるのは私なのよ!?」
妹紅はそんな鈴仙を無視するかのように、私の書いた書を踏みにじった。
「どうやら灰燼と化したいらしいわね、妹紅」
「それはテメェの方だ」
手をかざし炎を纏わせる妹紅。私は蓬莱の玉の枝を取り出した。
「新難題『金閣寺の一枚天井』!」
「蓬莱『凱風快晴 フジヤマヴォルケイノ』!」
二人の間で巻き起こった奔流は、建物を崩れさせ屋根を吹き飛ばした。こうして、永遠亭の一角は無残にも崩壊したのだった。
私は、永遠亭の診療室で永琳と向い合って座っている。永琳は眉根をひくつかせて、こめかみを揉んでいる。
「……妹紅と争う時は約束を決めて、竹林でやるように言いましたよね? 姫さま?」
「……」
「今年に入って何回、永遠亭の修繕が必要になったのか覚えていますか? 姫さま?」
「……三回かしら?」
「十八回目です」
「……」
永琳が、明らかに苛立っているのが分かる。まぁ、確かに私に非がある事は明らかだが、そこまで神経質になる事はないだろうに。
「鈴仙を見てください。主に従うのが従者の務めとはいえ、こう何度も怪我をさせられていてはたまったものではないのです」
永琳が示す先には、全身包帯ぐるぐる巻きで耳だけ出してベットに横たわる鈴仙があった。
「私の事は良いんです師匠。あまり姫さまを責めないでください」
「あなたは黙っていなさい鈴仙。最近の姫さまはあまりにも目に余ります」
「そうさね、優曇華はどんくさいだけだわ」
因幡てゐは窓際でもたれ掛かりながらゲラゲラと笑っている。
「妹紅が攻め込んで来た時には屋敷の兎達はみんな逃げ出してたさね。怪我したのは優曇華だけさ。いちいち喧嘩に首を突っ込む方が悪いんだわ」
永琳は忌々しげにてゐを睨みつけた。
「てゐ、あなたは兎達の中心的な立場なのよ? 率先して姫さまと妹紅を止める様にしないとどうするのですか?」
「わたしは怪我するのや怖いのは嫌」
「……てゐ」
てゐは窓からぴょんと外に飛び出した。脱兎の如く駆け出していく。
「じゃねー、優曇華。師匠が怖いからわたしは逃げる。また見舞いに来るからねー」
「待ちなさい、てゐ! てゐ!!」
窓際に駆け寄って行く永琳。その視線の先にてゐはもういなかった。
私は、その震える背中に声を掛けた。
「永琳、てゐには何言っても無駄よ。あれで有能な地上の兎達の頭なんだから、やりたいようにやらせるのが一番だわ」
「姫さま……、何が原因でこういう事になっているか理解していますか?」
「……」
「謹慎です! 食事は兎に届けさせます。しばらくは屋敷からも出られないものと考えてください!」
私は自室に戻り、座布団を敷いて座り込んでいた。苛々する。
「まったく! 永琳の奴!」
天気が良く、初夏の日差しが障子越しにも分かる。こんな天気のいい日に部屋に監禁されているのも腹立たしい。
「信じられないわ! 私は被害者なのよ。私は妹紅が襲い掛かって来るから対処してるだけなのよ!」
そこで私は頷いた。そうか、妹紅が居なければいいのだ。
「そうか……そうね、妹紅が全部悪いんだわ。そもそも妹紅が居なければこんな事にはならないのよ!」
私の中で、ある名案が浮かんだ。私は立ち上がり、書院造りの戸棚から硯と和紙を取り出して計画を練ることにした。
数日経ったある日の夜。私は兎達に水で満たした盥を用意させた。こんな満月の夜は、水鏡は神秘の力を持つ。私の持つ宝玉「蓬莱の玉の枝」で過去の真実の姿を現すことが出来る。これで妹紅の過去を覗いてみる事にした。
水鏡になって満月を映している盥に、蓬莱の玉の枝を浸す。水鏡は淡い輝きを放ち始めた。水鏡は過去の妹紅の姿を映し出した。
私に求婚して失敗して没落した藤原不比等。その娘の藤原妹紅は、私に復讐する為に、帝に贈られた不死の薬を追って富士山に登る。 富士山の主神、木花咲耶姫に唆された妹紅は薬を飲み、不死の蓬莱人になる。
初めの三百年は全ての者に忌み嫌われ、次の三百年は出会うもの全てを滅ぼそうとした。そのあとの三百年は何事もどうでも良くなり、そして、仇である私と出会った。
血と惨劇に彩られた三百年。そこに妹紅は生き甲斐を見出したのであった。
まったく、身勝手な話だ。巻き込まれている私の気持ちも考えて欲しい。昔っから、私の周りをうろちょろして、何かといえば邪魔ばかりしてきた妹紅の気持ちなど知る由もないが。
しかし、なるほど。直接的とはいわないにしろ私が帝と翁に贈った蓬莱の薬が関与している訳か。
私が考えている計画はこうだ。永遠と須臾を操る能力を使い過去へ飛び、妹紅が蓬莱の薬を飲むのを阻止するのだ。蓬莱人で無くなった妹紅は自然と寿命で消えて、私の前には現れなくなる。
完璧な計画だ。私は頬が緩むのを感じた。
私は背嚢に必要になりそうな道具や、乾飯などちょっとした食料を詰め込んで、出掛ける準備をした。
準備が出来たので、引き戸を開けて永遠亭の庭を通りかかると庭ではてゐが他の兎達と縄を綯っていた。背嚢を背負う私を認めると、てゐは声を掛けてきた。
「姫さま、お出かけかい?」
「てゐ。しばらく家を空けるわ。数日は戻らないかも」
「ふーん、ご達者で」
「止めないの?」
「姫さまは言っても聞かないでしょ。師匠や優曇華に気づかれる前に屋敷を出た方が良いよ」
「それもそうね。じゃあね、てゐ。餞別はいらないわ」
「あいよー」
出会ったのがてゐで良かった。これが鈴仙だったなら、誤魔化すのに時間が掛かっただろう。迷いの竹林に向かう私の足取りには迷いは無かった。
数時間後、私は迷いの竹林の中程を目的の物を探しながらさまよっていた。
「うーん、見つからないわね」
額を流れる汗を手ぬぐいで拭った。
「刻の繋がりが薄くなっているところさえ見つかればいいんだけどな……。永夜返しをひっくり返せばいいだけだし……」
その時だった、私のそばの竹林が、轟音と共に空に吹き飛ばされたのだ。
「うわっ、なによ!」
「……見つけた、輝夜」
私が慌てて振り返ると、弓をつがえている永琳と、息も絶え絶えの鈴仙。縄でぐるぐる巻きにされたてゐが居た。
「さぁ、帰りましょう姫様。今ならお仕置きも大したことにはなりません」
永琳の表情を見ると、微笑みでも浮かべている様に穏やかだが、唇の端が震えている。……いけない、本気でキレている。
鈴仙は膝に手をついて息も絶え絶えだ。手には縛られたてゐの縄の一端を握っている。
「はぁ……はぁ……、早く謝ってください姫さま! 師匠は力をセーブする気が全くありません! てゐ! なんで出て行く前に止めなかったのよ!」
縛られたてゐは暢気な口調で飄々と話しだす。
「止めるだけ無駄さね。あの年頃の若者は言葉に出来ないモヤモヤしたものを何かにぶつけたいと何時も考えてるのさ。たまには旅に出させてみるのが親心ってやつだ」
「姫さまはあなたより遥かに年上よ!」
「てゐ、貴女の処分は後でで決めます。それよりも姫様? なんで逃げ出そうとしているのですか? 動かないで下さい」
永琳が持つ弓がきりりと引き絞られる。不味い、弓を手にしている所が危ない。昔、月の使者から救い出された時に見たことがあるが、あの弓は小さな山位なら吹き飛ばす程の威力があるのだ。
「無駄よ永琳。私は目的を果たすまでは帰らない」
「では仕方ないですね……、手足を砕いて家に連れ戻すほか無いようです」
永琳の手元から矢が放たれた。私はとっさに飛び退いた。先ほどまで、私が居た地点の大地が抉られる。本気じゃないか! 手足が砕かれるどころではない、巻き込まれたらミンチだ。
「つっ!! 仕方ないわね! 汚れるのが嫌だったけど!」
駆け出して、頭から竹林の中に飛び込む。再び、左隣の竹林が抉れて飛んでゆく。私は、脇目もふらず竹林の中を疾走した。
「はぁ……はぁ……まいたかしら?」
遠くでは、まだ永琳の放つ矢の破壊音が聞こえる。ここにも長くは留まることは出来ないだろう。
辺りを見渡すと、月に照らされた舞台の様な神秘的な空間が広がっていた。竹林の影の具合によるものか、地面が浮かび上がって見える。
「ここがそうね……」
以前、明けない夜の異変後から、迷いの竹林の中に局所的に偽の月が出てくる場所が現れるようになっていたのだ。そこは異変の副作用で時の繋がりが薄くなり、白夜の様に薄く夜が引き伸ばされていた。
私は、空を見上げると、偽の月を見据えた。
月の影を蹴って、夜空に舞い上がる。
身体の芯の部分に力を入れて、永遠と須臾の力を逆転させる。永夜を反転させる。時の流れを逆流させる。
偽の月を蹴破った。永夜返しの流れが反転するのを感じる。硝子が砕ける様な音がして、私の身体は暗闇に飲まれていった。
目が醒めると草むらの中で寝転んでいた。露が顔に当たって目を覚ます。体を起こすと節々が痛む。
「いたた……結構時間を遡ったみたいね」
辺りは林の中にぽっかりと開けた空間で誰もいない。人気がある所まで移動しないといけないだろう。
やがて、林の端にあった獣道をぶらぶらと歩き始める。遠景に人里が見えた。そこまでいけば何かしらの手掛かりは掴めるだろう。
しばらくして、人里の付近に辿り着く。
「ここはひょっとして!」
遠い日の記憶が蘇る。見渡してみれば、辺りの光景は懐かしい過去の日の物だった。
私は過去の記憶を元に、翁の家へ向かった。
立派な垣根を持つ屋敷の入り口に辿り着いた。勢いで来てしまったが、考えてみれば今の時代は、私が月の使者を殺して幻想郷に逃げ込んだ頃だ。翁と媼の前に姿を出すわけにはいかないだろう。しかし、一目でも翁と媼に会いたくて、ここまで来てしまった。
垣根を分けて屋敷を覗きこむ。そこにはしょんぼりと縁側に座り込む、老人と老女が居た。
「おじいさん……おばあさん……」
肩を落として座り込む二人を、私は見ていることしか出来なかった。飛び出して行きたい口惜しい気持ちはあれど、実際にはそうするわけにもいかず、滲む涙を袖で拭った。
気分を切り替えて、周りの住人に蓬莱の薬の聞き込みをすることにした。
近くを歩いていた、柴を担いだ男を呼び止める。存外に話し好きな男だったらしく、翁が貰った壺を、帝が取り上げて富士山で焼くという事を聞いた。
礼を言って男から離れる。やはり富士山か。登るのに苦労するだろうが仕方ない。私は蓬莱の薬を追って、富士山を登る覚悟を決めた。
富士山麓に何とか辿り着いた。辺りは鬱蒼とした木々で日光が遮られ薄暗い。飛んで行けば簡単に来れたが、幻想郷以外でそんな目立つ事をするわけにもいかずに徒歩で十日程かけて訪れた。ふくらはぎがパンパンだ。これから山を登るとなると億劫になる。こんな時は、妹紅の顔を思い浮かべる。あの憎たらしい顔を思い浮かべて、折角仕上げた書を踏みにじられた事などを思い出すと、不思議と黒元気が湧いてくる。
富士山の頂上を望み、歩き始める。
麓には樹木がまだ生えているが、登るに連れて岩しか無くなった。酸素も薄くて、息苦しい。
誤解されがちだが蓬莱人といえども、苦しいものは苦しいのである。死なないだけであって、中途半端に苦しいと半永久的にもがき苦しむはめになる。
なので、現状、蓬莱人の頑丈さに云わせて無茶な登山をしているが、体力的にはすでに限界を突破していた。
「んっ……なにか見えた!」
富士山の八合目を超える辺りで人の集団の様なものが見えた。
妹紅の過去の記憶を見て知っているが、あれは蓬莱の薬を富士山の山頂で焼くために、帝に使わされた兵士達だ。あれを妹紅も後を付けているはず。
岩陰に隠れて兵士達の視線をやり過ごす。窺い見ると行列の後ろ側に少女の姿も見える。すでに妹紅は兵士達と合流しているようだ。山頂まで私はこっそりと付けることにした。
やがて山頂に辿り着いた。兵士達が高台の岩の上で話している。私は、岩陰で潜伏している。ここからの展開は知っている。蓬莱の薬を焼こうとする兵士達の前に、咲耶姫が現れて止めに来るはずだ。
蓬莱の薬は知っているが、月の製法で作られたそれは霊域に持ち込むには強力過ぎるのだ。富士山で焼くと、火山が活性化して手を付けられなくなるだろう。
タイミングとしてはここだ。ここで蓬莱の薬を取り上げないと、妹紅が薬を飲んでしまう。私は、やきもきしながら兵士達のやりとりを見ていた。
しばらく待った。咲耶姫は現れなかった。
何をしているんだ、早く止めないと本当に火口で薬を焼いてしまう。妹紅に薬を飲ませない以前に、大災害が発生してしまう。
蓬莱の薬に紐を巻き付けて火口に投げ込もうとしている。ええい、ままよ。私は兵士達の前に飛び出した。
「その薬を火口に投げ込むのは止めなさい!」
突如現れた私を、兵士達は胡乱な目で見つめている。
「……誰だ、お前は?」
「私は……この山の主神の咲耶姫よ!」
兵士達の間に動揺が広がる。士官と思しき、一人の男が後ろから出てきた。
「私は岩笠というものだが、なぜ火口で薬を焼いてはいけないのだ? 我々は帝の勅命でやって来たのだ。このままほいほいと帰るわけにもいかない」
「貴方なら知っているでしょうが、その薬は不死の霊薬。神である私の力を上回っているので、ここで焼くと火山が活性化してしまう。山の噴火を止めることができなくなるわ。悪いことは言わないから、私に薬を渡しなさい」
岩笠と名乗った男は首を傾げて、返事をする。
「確かにそれは不死の霊薬。火山で焼いてはいけないというのは分かるが、なぜ咲耶姫どのに渡さないといけないのですか?」
「貴方の知らない事情が沢山あるのよ。私も薬を取り戻すために、十日もかけて富士山まで来たのよ。今更、諦めるわけにはいかないわ」
岩笠は渋い顔をする。
「咲耶姫どの。先程も言ったように我々は帝の勅命で動いているのだ。それをどこの誰とも分からぬ者に渡すわけにはいかないのだ」
「ごちゃごちゃと煩わしいわね! 黙って、蓬莱の薬を渡せばいいのよ!」
「おい! 岩笠が言っているのは、どこの馬の骨とも分からないお前には渡せないということだ!」
岩笠のとなりに黒髪のおかっぱの少女がやって来ている。敵意を込めた目で私を睨みつけていた。
「だれよ貴女? 私はさっきも言ったように咲耶姫。この山の主神よ」
「私は藤原妹紅。藤原不比等の娘だ。訳あって、この山を登っている」
見知った面影の少女だった。どうやらこの時代の妹紅は私の顔は見たことが無いらしい。あいも変わらず憎たらしい顔だ。
「小憎たらしいガキね。大人の会話に口を挟むのはやめなさい」
「そっちこそ大して私と年齢差なさそうじゃないか! 不死の薬だとしてどうするつもりなんだ? 口八丁で取り上げて、悪辣な成金にでも売り払うつもりじゃないだろうな?」
噛み付くようにして、妹紅は睨みつけてくる。ムカつく。元々、蓬莱の薬だって私がおじいさんと帝に与えたものではないか。私がどうしようと勝手だ。
私と妹紅が睨み合っていると、毒気を抜かれたように岩笠は兵士達に向き帰った。
「仕方ないな、今日はここで一泊するぞ。積み荷に関しては明日、また対応を考える。妹紅よ、そんな顔をしてないでこちらに来なさい」
名前を呼ばれた妹紅は悔しそうに顔をしかめた後、後ろを向いて歩み去った。
妹紅と岩笠の関係は分からないが、岩笠は随分と妹紅に気を使っているように見えるし、妹紅も岩笠の言う事を聞いているようだ。
兵士達は登山の積み荷を解いて、鍋の準備などをしている。縄状になった味噌や野菜などを捌いて今では良い香りのする湯気が立ち上っている。
ぎゅるると腹が鳴る。蓬莱人なので空腹で死ぬことはないのだが、空腹が辛いことには変わりないのだ。私も兵士達がたむろっている一角から離れて、乾飯などを用意する。小さく火をおこし、背負っていた背嚢から水と小さな鍋を用意して湯を沸かす。
「…………」
貧相な食事だが文句を言ってはいけない。乾飯に湯を掛け、ふやかして食べる。愛想も何もない食感が口に広がる。
背後からは賑やかな声が聴こえる。
「……うるさいなぁ」
思わず振り返って睨みつけると、妹紅と目があった。何を思ったのか、立ち上がってこちらにやって来た。私の前の小さな焚き火を見ると、呆れて話しかけてきた。
「なぁ……何やってるんだよ? 木花咲耶姫が、一人寂しく乾飯だけで食事かよ。どこからやって来たか知らないが、旅やつれもしてるみたいだし、ハッタリにしてもすぎるんじゃないか?」
今までになく優しげな声で話しかける妹紅の態度にプライドが傷ついた。元はといえば、アンタのせいでこんな過去の僻地の富士山頂まで来る羽目になったんじゃないか、と喉元まででかかったが、低い唸り声として発せられるだけだった。
「……うるさいわね。私が木花咲耶姫なのは違いないわよ。人にはそれぞれ事情ってやつがあるのよ。ほっといてほしいわね」
さぞかし凄惨な様子が滲んでいたのだろう、妹紅はたじろいで黙ってしまった。
「このまま遭難されても寝覚めが悪いしな、ちょっと待ってろ」
妹紅は立ち上がって、兵士達の所に向かって走っていった。しばらくして、器を持って帰ってくる。
「ほら、食べろ」
妹紅が押し付ける様にして渡した器には、野菜がタップリと入った温い汁物が入っていた。
「貴女、これ……」
「岩笠は変な奴でな。積み荷を狙ってやって来た私も、何故か同行して一緒に帰る事になっている。あと一人同行者が増えても文句は言わないんじゃないかと思うんだ」
焚き火を見つめながら妹紅は話している。その落ち着いた様子に私は反抗する気が削がれていた。
「私は、礼は言わないわよ」
「分かってるよ。お前は咲耶姫だものな」
焚き火の小さな熱は、零下の富士山頂で凍える私を温めてくれる。空を眺めると、無数もの星が私達を見つめていた。
それから夜半まで時間が過ぎて、私は焚き火のそばでうつらうつらと船を漕いでいた。兵士達も交換で見張りを立てて、仮眠を取っている様だ。
結局、妹紅は黙ってなんにも言わず、私が食事を取るのを見て岩笠の所に帰っていった。あんな態度の妹紅を見て、少し毒気が薄れたかなとは思うけど、ここ三〇〇年程の恨み辛みはそれだけでは解消されないのだ。蓬莱の薬は取り返して、妹紅にはここで消え去ってもらう。
「……さむい」
気温は零下を下回っているようだ。焚き火に枯れ枝を放り込む。炎のなかで枯れ枝が爆ぜる。白い息を吐いて両手を温める。
その時だった、背後で気配が動いた。
「なに?」
この気配は覚えがある。巨大な質量を人型に押し込めた様な神々しい気配。八坂神奈子などの守矢の神々と同質のものだ。
まさか、本物の木花咲耶姫が帰ってきたのだろうか? だとしたら話を合わせておく必要があるな。あの日の水鏡で見た光景だと、この後、咲耶姫に唆されて妹紅は蓬莱の薬を飲むことになる。それは阻止しなければならない。
私は兵士達の様子をこっそりと窺い、何もないことを確認して、後ろの気配の元へ向かった。
誰もいない荒れ地まで来た私は、誰ともなく声を掛けた。
「誰か私に用があるみたいね。こそこそ隠れてないで出てきたらどうかしら?」
岩陰から一人の女性が現れた。前髪で目を隠して、着ている服も野暮ったくて陰気な印象だ。
「気付いていたのね。やれやれ、こんな所まで来た甲斐があるってものだわ」
女性は肩をすくめて、ふるふると首を振った。
「咲耶姫……では無いみたいね。でも、貴女のその様子だと神々の眷属ではあるみたいだけど」
「石長姫といいます。木花咲耶姫の姉で、八ヶ岳の主神をしています」
「ふむ? で、その石長姫が私に何のようかしら?」
石長姫は呆れた様に空を見上げた。
「貴女、自分がどれだけ危険な事をやっているのか分かっているのでしょうか? わざわざ富士山にやって来て、咲耶姫の名前を騙るなんて! 咲耶姫が所用で帰っているのでなければすぐさまにでも焼き殺されるでしょうよ」
あちゃー、この様子だと結構前から気付かれていたみたいだな。
「これは一種の方便みたいなものだわ。こんな肝心なときに居ない咲耶姫が悪いのよ。あそこにいる連中が持っている蓬莱の薬を火口に放り込まれたら、火山が活性化して手がつけられなくなるわよ」
「そんな事は知っています。貴女の素性も。帝に求婚されたのに月へ帰ったかぐや姫でしょう? しかもこの時代の者ではありませんね? 私が分からないのは貴女の思惑だけ。どうしてこんな危険を冒してまで富士の山を登るのでしょうか?」
流石に神々の眷属ならばそんな事まで知っているのか。逆に話が早いかもしれない。
「へえ、詳しいのね。私は別に神様達の邪魔をするつもりは無いわよ。ただ、あそこにいる兵士達が持っている蓬莱の薬を取り戻したいだけ」
「たしか、貴女、帝と竹取の翁に恩返しで不死の霊薬を贈ったのではなかったですか? 神々の間でも噂になってましたよ。それをわざわざ取り返すのですか?」
「んーまぁね。正確には妹紅に飲ませなければいいんだけれど」
「妹紅というのは、あの兵士達の中にいる娘のことですか? 先程までは随分と仲良さそうにしていたようですが……」
「誰があんな奴! 今ここで殺さないだけ有情というものよ! ここで咲耶姫が唆して妹紅に薬を飲ませたせいで、私は三〇〇年近く付きまとわれて、事ある毎に邪魔されてきたのよ!」
若干ヒートアップしてしまった。石長姫がちょっと引き気味だ。
「はぁ、なんとなく貴女の思惑が分かってきました。あの妹紅という娘はここで不死の力を得るのですね。わざわざ未来から富士山頂まで妨害に来たというのが、気が長すぎるとは思わなくもないのですが……」
「余計なお世話よ。で、咲耶姫にもそれを協力してもらいたいのだけれども」
石長姫の目に険のある光が宿る。何か悪いことでも言っただろうか?
「止めておきなさい。咲耶姫に助力を求めるというのが愚の骨頂です。一時的に手を貸してくれはするかもしれないが、代償に首が回らなくなるのが目に見えてます」
「……貴女と咲耶姫は姉妹よね。そこまで言う事も無いと思うのだけど?」
「あの女と姉妹だということで、どれだけ私が苦しんできた事か! あの女の嫉妬のせいで住んでいる山を砕かれ、事ある毎に比較され、天孫様にあることないこと吹きこまれて、私だけ恥をかかされたのです!」
「急に怒り出さないでよ。そんなに咲耶姫ってのは性格が歪んでいる奴なの?」
「助力を求めるというならば私が助けます。咲耶姫に助けを求めるのは止めなさい。利用されて、一時の娯楽に使われるのがオチです」
石長姫は憎悪からにじみ出る醜さに包まれていた。私は内心、その醜さを辟易していた。しかし、協力してくれるというならば利用できるかもしれない。
「それならば協力してもらおうかしら? どういう算段で蓬莱の薬を取り返すの?」
「咲耶姫が帰ってくるまでに何とかしましょう。蓬莱の薬を八ヶ岳に納めてもらえる様に頼んだら良いのではないでしょうか? あそこなら私の霊域なのでどうにでもすることが出来ます。逆に言うと、ここに留まり続けるのは不味いのです」
「咲耶姫は今どこにいるの?」
「瓊々杵命《ににぎのみこと》と共に高天原に行っています」
そう簡単に目の前の女神を信じるわけにはいかないが、これはチャンスかもしれない。私だけでは岩笠を始めとする連中は信用してくれないが、石長姫がいるならば信用するはずだ。いざとなれば神通力で脅してやればいい。イチコロで怯えて渡してくれるだろう。
「……いいわ。貴女を信用するわ石長姫。貴女の言うとおりにする」
石長姫は、得たりとばかりに大きく頷いた。
次の日、朝餉の支度を早々に済ませ、岩笠と兵士達は集まっている。蓬莱の薬を取り返す機会を逃してはいけないので、私も近寄って聞き耳を立てる。
岩笠は落ち着いた様子で皆を見渡し、話を始める。
「さて、昨日のごたごたから一晩経った。我々は帝から勅命を頂き、この薬を富士の山で焼き尽くすように命じられている。ところが、富士の山の主神、木花咲耶姫を名乗る少女が現れて、この山で焼くと天変地異が起きると言った。……無論、帝の命は何よりも尊いものである。しかし、天変地異が起きるような事があっても困る。何か、良い意見はないだろうか?」
どうやら兵士達の意見を募っているらしい。丁度いい機会なので、私は石長姫のいる岩場に目をやり、咳払いをした。
「ちょっといいかしら岩笠? それについては私から言いたいことがあるわ。私の姉の石長姫が来ているの。石長姫、ちょっと貴女の意見を言ってやりなさい!」
岩笠は私の方を目を細める様にして見つめ、兵士達は割れるように振り返った。
石長姫は岩場から姿を現すと、貫禄を示して佇んでいる。その姿は神の威信を誇示するのに十分なものだった。
「確かに不死の霊薬の様ですね。その力が強すぎるが故に、富士の火口で焼けば噴火を引き起こすでしょう。不死の属性を持つものであれば私の八ヶ岳で供養しましょう。そのほうが無益な異変を起こさずに済む方法です」
石長姫の威厳に叩頭してしまう兵士も居た。岩笠は悩み込む様に顎に手をやり、やがて口を開いた。
「我々は月に一番近い山で薬を燃やすように言われている。八ヶ岳では富士山に比べて高さが足りないのではないか?」
石長姫は意を得たりとばかりに微笑み、答えた。
「元々は八ヶ岳の方が高い山だったのです。それに不死不変ならば私のほうが得意としている分野です。咲耶姫に任せるよりは私のほうに任せた方がいい結果を出せるでしょう」
岩笠は腕を組んで頷いた。
「いいだろう。石長姫、貴女に任せよう」
兵士の間で歓声が上がる。辺りに住む農民を集めた兵士だったのかもしれない。それだけに、富士山が噴火してしまうと甚大な被害を受けるので、心の中では蓬莱の薬を焼くことが不安だったのだろう。
「では、石長姫。八ヶ岳に行くことにする。咲耶姫よ、色々と済まなかった。我らは、帝の意には逆らうことが出来ないのだ。早くにこの事が分かっているならば、無礼を働かずに済んだものを……」
岩笠は頭を下げた。
「いいのよ別に。分かってくれたなら。そう、私は噴火で民が苦しむのを見過ごせなかっただけ。神々の務めとして民を守っただけよ」
私はそう言って胸を張った。石長姫はジト目で私を睨みつけているが、いちいち意に介するものではない。
気を取り直したように、石長姫は私に耳打ちする。
「早く行きましょう。咲耶姫にここで騒いでいる事を気付かれたら、私の立場も面倒なことになるのです」
「なによ? 姉妹なんでしょ? そこまでせっかちになること無いじゃない」
「咲耶姫の事を、よく知らないからそんな事を言えるのです。私でさえ、富士の山で咲耶姫に見咎められると、嫌味を言われるだけではすみません。早急に山を降りなくてはなりません」
兵士達は急いで荷を畳んでいる。私達も岩笠の旅団に混じる事にした。妹紅も兵士達と一緒になって荷を積み上げていたが、私を認めるとこちらにゆっくりと歩いてきながら話しかける。
「よう、お前のお陰で八ヶ岳に登る事になったらしいな」
「必要な事よ。富士山で薬を焼けば、大災害になるわ。八ヶ岳に登るのは、事を穏便に済ませる為の一番の方法よ」
「ふーん、まぁいいさ。私も付いて行く」
「なによ、まだ薬を狙っているの?」
晴れ晴れとした笑顔で妹紅は言う。
「いや、輝夜への恨みは消えた。ただ、岩笠とお前たちのやる事を終わりまで見届けたい。輝夜が最後まで執心していた薬が焼けて消えればお父様も目を覚ますかもしれない」
私は意外に思うしか無かった。執念深い妹紅が簡単に諦めるなんて。目的としていたのは妹紅の抹殺だが、簡単に済んでしまい拍子抜けしていた。
「お父様が目を覚ますって、藤原不比等はそんなに輝夜姫に狂恋していたって事?」
「そうだ。あれだけ優れた政治家だったお父様が、輝夜に出会ってから変わってしまった。特に手酷く振られた後は、部屋に篭って出てこなくなってしまった。おかげで一族は離散さ」
「恨んでいないの?」
「輝夜の事か? 当然、恨んでいないはずが無い。奴のせいで、末の娘だった私まで路頭に迷う事になった。だが、末席とはいえ誇り高き貴族の一員である私が、未練たらしく怨恨を引きずり続けるのは相応しくない。未練を断ち切るため、一族の代表として私はここに来たのだ」
またしても、私は意外に思っていた。妹紅は自らの出自に帰属意識なんて持っていたのか。あの粗野なだけの妹紅から貴族の誇りなどという言葉が聞けるとは思わなかった。普段は生きているか死んでいるか分からないような荒廃した生活を送り、私との抗争を行うときだけ殺気立ってやって来る。そんな妹紅の腹の中をここまで聞いたのは始めてかも知れない。
「妹紅」
「ん、なんだ真剣な顔して?」
「聞きたいことがあるの。貴女、不死の力を手に入れたら何がしたい?」
「なんだよ急に……。そんな事考えた事が無いな。普通の人間として普通に死ぬ。それが自然の摂理だろ。永久に生きていくなんて、退屈で気が狂いそうだと思うな」
「そう……」
私は妹紅に何を期待しているのだろう? これが当然のはずだ。憎たらしい妹紅を消し去る為に、私はこの世界に戻ってきた。だけれども、いざその時になると言葉に出来ない引っ掛かりを覚える。
無駄な思案を打ち消して、苦笑いするしか無かった。私の中にこんな所があったとは。
日は昇り続けちょうど真上に懸かる頃、旅団は富士山頂を出発する事になった。
岩笠は一段と高くなった岩の上に立ち、皆を振り返り一声張り上げた。
「皆! 準備は出来たな? それでは山を下りるぞ!」
応!と兵士達は鬨の声を上げる。第一団が、山頂の入り口に向かって歩き出す。
「やれやれ、これで安心ね」
「まったくです」
私と石長姫は、帰還する兵士達を見届けながら、頷きあった。
「これだけの人数が山を降りるとしたら、二三日と言った所でしょうか」
石長姫は、頤に手をやって考え込んでいる。
「八ヶ岳に着くまでには一週間は掛かりそうね。準備するには丁度いいぐらいです」
私はうんざりして首を振った。
「私は飛んでいっていい? 身体の頑丈さに無理言わせて歩いているけど、限界に近いのよね」
「駄目ですよ。一緒に歩いて行くのです。私達を信頼して付いてきているのに勝手な行動は許されません」
私はそこにしゃがみ込んだ。怠くて怠くてとても耐えきれそうになかった。
「まったくもう……しかたないですね」
石長姫は空を見上げた。その表情に影が走る。
「……どうやら急がないといけなくなったみたいですね……」
先程まで晴天だった天候が急に曇り始める。
巨大な気配! まさか……。
兵士達がざわめき立つ。雷鳴が轟き、周囲に雷光が瞬く。曇天の雲が割れて、そこから一人の女性が降りてきた。
「木花咲耶姫!」
咲耶姫は服装を仙女の服でまとめ、玲瓏な面持ちで歩みを進める。顔立ちは整っており、兵士達の中でも初心なものは思わず俯いてしまう。それ以外のものは食い入る様に見つめていた。目を細め、口元を隠すと、鈴の音の様な声で話し始めた。
「これは随分と……酷い事をしてくれましたわね。主が居ない間に寝処を荒らすとは……。不快な匂いが立ち込めていますわ。これは全部、焼いて清めなければいけませんわね」
鈴のような声は小さなはずなのに、聴くものの心を捕らえ、その場にいる者全てが恍惚として金縛りの様に動けなくなっていた。
咲耶姫は高く手を掲げる。その先の上空には、業火の如き大火球が地上の全てを食い尽くさんとして燃えたぎっている。
私は、身体に活を入れて、咲耶姫の神通力を解いた。駆け出して、皆の前に立ち塞がる。
「ちょっと! 何するつもりよ!?」
「知れたこと。不浄な猿どももろとも寝処を焼き清めるのですわ。あらあら、そこにいるのはお姉様ではないですか? 何時からそこに居られるのですか?」
「……咲耶姫。私の領分ではないと分かっていますが、ここにいるのは、帝の意向で不死の霊薬を処分するために、八ヶ岳へ向かう者達です。私に身柄を預けてもらえはくれないだろうか?」
石長姫は片手で私を制すると、身を乗り出すようにして咲耶姫に訴えかけた。
咲耶姫は、口元を袖で隠すと、考え込む様に視線を巡らせる。
「あらあら、これは……、面倒な因果を抱え込んだ者をかばっているのですね。お姉様。永遠の月の罪人、蓬来山輝夜。わざわざ未来から私の山にまで来てくれたのね。貴女、運命を書き換えるつもりね? 勇敢ですこと。神々の領域で戯けた遊びをするなんて、輪廻の輪を外れたものを懲らしめる方法も無いわけでは無いのよ?」
咲耶姫の声音がおどけた様子から、怒気を含んだものに変わる。
「汚らわしい! これは私への当て付けですかお姉様! 月の霊薬などと言う私の霊域を汚す危険物を持ち込ませた挙句、私の名を騙って帝の命を受けるものを謀ろうとは!」
石長姫の表情が曇る。焦りを隠せぬまま返答する。
「それは……成り行き上というか、事を穏便に済ませるために必要だったのだ」
「言い訳は聞きたくないですわ。貴女は、以前に醜い自分に対して、私が美しいからと当てこすりをしてきた事もあるではないですか!」
「それは今、何も関係ないじゃないですか! 貴女こそ、私に富士より高い山は相応しくないと、八ヶ岳を砕いて低くしたこともあるではないですか!」
「まだ根に持っていたのですわね! 富士の権威を失墜させるために、こんな謀りまでするなんて、心根まで醜いですわ!」
私は、呆気にとられて咲耶姫と石長姫の言い合いを見ていた。石長姫の表情が憎悪に染まる。咲耶姫はヒステリックに叫び続ける。周囲を見ると、二人の神通力が山の自然にまで干渉しているようだ。雲の流れが急激に早くなり、富士山の火口が鳴動している。
「瓊々杵命にまで醜いと追い返された石女がお情けだけで山の神をやっているなんて、姉妹として恥ずかしいですわ」
「貴女こそお父様の本当の意思を知らないで、人間たちの命を儚くしてしまっている時点で天孫の嫁として失格よ」
不味い、ヒートアップしているのか? 二人の言い争いに連動して雷が鳴り響き、地崩れが起こっている。二人の周囲を淡い炎が覆い包み、破壊的な力の対流が発生している。
兵士達も気が付いたのか、混乱と動揺が広がっている。ざわめき、破壊的力場の発生している二人から離れようと慌てていた。
「ちょっと……石長姫!」
「止めないで下さい。この女はここで殺しておかないと私の存在意義に関わります」
石長姫の表情は憎悪で彩られている。まさしく鬼女の表情だった。
私が石長姫の肩に触れようとしたとき、富士の火口が爆発した。
大量の火山弾が周囲に降り注ぐ。同時に咲耶姫を取り巻いていた炎が炸裂して、青い炎が辺りに引火する。
石長姫は炎に包まれた。髪の毛や肉が焼ける蛋白質が焦げる臭いが辺りに漂うが、そんな状態にも関わらず石長姫は咲耶姫の元に歩んでいく。
「変わらずの力を持つ私に、そんな攻撃が効くと思っているのですか」
石長姫は咲耶姫の首を掴むとばきりと嫌な音がした。首の骨を砕いたのだ。
華奢な身体をした咲耶姫はその場に崩れ落ちる。口元には一筋の血が流れている。
顔の一部から骨が露出するほど焼け焦げた石長姫はそれを見て哄笑する。
「はははははははははははははは! 呆気無い! 私はこんな女を恐れていたのか! 積年の恨みがこれで終わると思うな! その身、千に裂いて鳥葬にしてやろう」
その時、不思議な光景が網膜に飛び込んできた。
咲耶姫の死体に煙が立ったと思うと、一瞬にして豪炎に包まれたのだ。死体は数千度にもなりそうな炎で一気に炭になった。
呆気にとられた様子で見ていると、灰は風によって一箇所に集められて、灰の中から人が立ち上がった。
「変わらずの力がなんですって? 萌え出づる植物は流転して何度でも蘇るのですわよ」
そこには、怪我一つしていない咲耶姫が凍えるような微笑で立ち尽くしていた。
咲耶姫は手をかざすと、火球を石長姫に向けて打ち出す。石長姫は背後に吹き飛ばされた。
「どだい場所が悪かったですわね。私の霊域で私に喧嘩を売るとは。どんな岩でも溶岩になるまで焼きつくして差し上げましょう」
「咲耶姫っ!!!!」
ついていけない。この二人凄残な殺し合いをして、死をも超越して延々と殺し合うつもりだ。
未来での私と妹紅も殺し合いはするが、一度殺した相手は手を出さないという不文律はある。出会った当初は険悪だったが、永遠ともいえる時間のルーチンワークとも言える殺し合いの中で慣れ合いの空気ができたのは否定出来ない。だが、この二人は今ここでお互いの存在を消し去ろうとする殺し合いだ。
それに周囲に与える被害に全くお構いなしだ。咲耶姫が放った炎や火山弾で、同じ場所にいた兵士達に燃え移っている。火山弾に頭を砕かれた死体や、炎上したあとくすぶっている死体が辺りに散乱している。
そう言えば、岩笠と妹紅は?
目を凝らして探してみると、居た。岩笠は足を怪我しているのか、足を引きずりながら歩いている。妹紅は、そんな岩笠に肩を貸して並んで富士の山頂の出口に向かって歩いている。岩笠が担いでいるのは蓬莱の薬だろう。
私は、二人に向かって走った。何がしたかったのかは分からない。妹紅を消すために過去に来たはずなのに、神々の争いに巻き込まれる事になってしまった。争っている二人の思惑通りには進ませない。それだけの考えで走った。
「岩笠!」
「……あぁ、お前か。我々は撤退する。お前も早く逃げた方がいい」
岩笠は、憔悴し切っている。妹紅は、私を睨みつけていた。
「咲耶姫、では無いようだな。お前が何者なのかは知らないが、神々を騙る様な事をすべきでは無いな」
「岩笠、口を利くな。こいつが全ての元凶の様なものだ。おい、さっさと立ち去れ!」
妹紅は振り返りもせずに、岩笠とともに歩みを進める。私は、手を伸ばしかけたが、どうすることも出来ずに見送るしかなかった。
あの殺し合っている二人を止めるしか無い。私は覚悟を決めて、荷物の中から蓬莱の玉の枝を取り出した。
状勢は咲耶姫が有利なままで進めている様だ。相手は炎の眷属の神だ。水の力で対抗するしか無いはずだ。力を蓬莱の玉の枝に込める。
「咲耶姫!」
「あら、月の姫? 貴女も焼き尽くされたいのですね」
こんな状況にも関わらず、咲耶姫はそよ風の様な笑みを私に送ってくる。咲耶姫が手をかざすと、灼熱地獄の業火の如き大火球を放ってきた。
神宝の力を借りる。
「神宝『サラマンダーシールド』!」
炎の塊が私を直撃するが、一切焼けずに後ろへやり過ごす。次の神宝の力を取り出す。
「神宝『ブリリアントドラゴンバレッタ』!」
龍神の力を借りて、暴風雨を巻き起こす。弾丸のような雨が顔を打つ。溶岩が冷やされて、辺りで大量の水蒸気が立ち上る。
「あらあら、なかなかやりますわね。でも、私に攻撃する手段がない以上、ジリ貧ですわ」
そうなのだ。火の力を打ち消すことは出来ても、咲耶姫を倒す手段がない。
こうなったら蓬莱人の不死を利用して刺し違えるしかないか? しかし、石長姫がそれをしても、あちらも不死なので全くケリが付かなかった。
永遠と須臾を操る力。それしかない。力を使い、咲耶姫を時の流れから切り離す。閉じた時間軸に幽閉するのだ。問題は力の行使をするために集中する時間を、咲耶姫を相手にしながら稼ぐことができるかということだ。
……ここは彼女を頼るしかないか。
石長姫を見た。身体中が焼け爛れ、一部は炭化している。そんな状態で動けるのかと思えるほどだが、痛みなどを感じている様子は全く無い。憎しみを込めた視線で咲耶姫を睨みつけている。
「ねぇ石長姫、協力してくれない?」
「……なんですか? 今更、私に何を頼るのですか?」
「時間を稼いでくれない? 永遠の時間の牢獄を作って、咲耶姫をそこに閉じ込めるのよ」
「……どれぐらい、時間がかかるのですか?」
「五分よ。ところでそんな身体で戦って大丈夫なの?」
「変わらずの力がある限りは私は不滅です。炎で私を滅ぼす事は出来ません」
振り返り、咲耶姫を見つめる。相変わらず妖艶とも言える笑みで、炎をもてあそんでいる。
「消し炭になる覚悟は出来ました? いい加減、貴方達と遊ぶのにも飽きてきましたわ。全力で魂まで焼き尽くしてあげる」
咲耶姫のかざした掌から、轟音と共に大火球がいくつも放たれる。
石長姫が私の前に立ちはだかる。
火球が炸裂して、何度も爆発が起こる。
爆炎が収まった後、前を向くと石長姫が走りだしていた。
「貴女は先程言った方法を急いで下さい! ここは私が時間を稼ぎます!」
石長姫は貫手で咲耶姫を襲う。
「お姉様。しつこいですわね。肉体はもういらないですわね」
咲耶姫が手を振り下ろすと、猛烈な火柱が立ち上がる。
爆炎に当てられて、石長姫の身体が吹き飛ばされる。身体が真っ黒に炭化している。
真っ黒に炭化した肢体のまま、再び立ち上がり咲耶姫に突撃する。
私は身体の中心に力を込める。永遠と須臾を操る力で時が閉じた空間を転移させる。目測で咲耶姫の位置を特定して力を移す。時間の流れを掴み、それをコントロールするために集中する。
「……あと少し……!」
時間の檻が完成しようとしている。私は極限まで集中した。
その時だった。身体が金縛りの様に動かなくなった。
「何かしようとしているようですわね。無駄ですわ、こちらはとっくに察しています」
咲耶姫だ。神通力で私を縛ったらしい。
集中力が限界だ。完成した時間の檻が崩れていく。あと少しなのに!
「先に貴女を滅ぼした方が良いようね」
咲耶姫が指をかざすと炎の槍が現れた。振りかぶるとこちらに投げつけた。
動けない! 神通力を破る程の力が残っていない。このままでは槍に貫かれる!
身体に衝撃を感じた。身体が横倒しに倒れる。
強く閉じていた目を開く。
身体に痛みは無い。慌てて胴体を確認したが槍は貫いていない様だ。
振り返ると、そこには少女が倒れていた。
「……妹紅!」
「……よかった、その様子だと無事だな……」
妹紅が私をかばったのか!? 妹紅の腹部から大量の血が流れている。私は手で押さえたが、それにもかかわらず血は流れ出ていく。
「なんでこんな馬鹿な事を!」
「おまえ、輝夜だろ……? 輝夜が私以外に殺されるなんて認めたくないんだよ……」
妹紅は咳き込むと大量の血を吐く。
「馬鹿!! 貴女、今死ぬと本当に死ぬのよ!」
「いいんだよ、私にはもとより行き場なんてなかった。死んだとしても顧みる者なんて誰もいない。ここに来たのも死に場を探すようなものだ……」
妹紅は満たされた様に微笑む。役目を全て終えて、天に帰る様な面持ちだ。
涙が溢れる。私の中の感情を持て余していた。妹紅に救われた。それは自尊心からしても許されるものではないのに、泣きたくなんて無いのに、熱い涙が次から次から湧いてくる。えづいて苦しい声を引き出す。
「なに勝手に満たされて、勝手に死のうとしてるのよ! 認めない! 認めないわよそんな事! 生きて苦しみなさい!」
妹紅は弱々しく微笑むと意識を失った。顔面が蒼白だ、じきに脈も消えるだろう。
涙を拭うと、蓬莱の玉の枝を握り立ち上がった。未だ争っている石長姫と咲耶姫の姉妹を見据える。
真っ黒に炭化して異形の者となった石長姫は、まだ咲耶姫に喰らいついている。咲耶姫は高笑いをしながら炎を繰り出している。
今なら間に合う。時の牢獄を再び再構築する。精神の中で形を成していたそれを具現化する。
咲耶姫がこちらに気付いた。
「あら、まだ生きていたのですね」
咲耶姫はこちらに向き直ると、両手を空にかざし、今までに無いぐらいの大火球を作り出す。
「でも、消えなさい」
「咲耶姫!」
殆ど炭となった石長姫が後ろから咲耶姫に組み付く。羽交い締めにした。
「蓬来山輝夜! 今だ! 私ごと咲耶姫を封じなさい!」
組み付かれた咲耶姫は焦ったようにもがく。
「離しなさい! 私は神なのよ! 富士の主神である私にこんな事をするとただじゃ済まないわよ!」
「輝夜! いいから早く!」
精神を集中させる。時の檻は完成していた。
「いい加減しつこいのよ! この性悪サディスト女! 永遠より長い、神からも見放された時間の牢獄に、永久に封じられなさい!!」
咲耶姫に向けてかざした掌を握りしめる。
半透明の灰色の球体が咲耶姫に向けて収縮する。
閉じ込められた咲耶姫が内側から激しく叩くが、構わず私は時間の流れを断ち切った。
辺りに硝子が砕ける様な激しい音が響く。咲耶姫と石長姫を乗せた時間軸が現在の時間軸から流離して虚空に流れていく。
そして、全てが終わった後に私は膝から崩れ落ちた。
「おい、大丈夫か!? 起きろ!」
瞼を開く。気を失っていたらしい。閉ざされていた思考に世界の情報が飛び込んでくる。
身を起こした。頭が痛い。集中しすぎたのか? 力が殆ど残っていない。そうか、永遠と須臾を操る力を使って、時間軸を切り離すなんて無茶な行為をしたんだった。これだけ力を使い果たして私は現代に戻れるんだろうか?
取り留めのない思考をまとめて、私に呼びかけている者の顔を見た。
「……岩笠」
「大丈夫か? 随分と長い間、気を失っていたんだぞ?」
抱き起こされて周囲を確認すると、散々たる様子を目の当たりにした。
いまだ流れ出る溶岩流が辺りに硫黄臭と水蒸気を撒き散らしている。溶岩流に巻き込まれ兵士達が焼死していた。火山弾や咲耶姫が放った火炎弾で焼け死んだ兵士達の死体が辺りに散乱している。地獄と呼んでも差し支えのない光景だ。
「皆死んだようだ。私だけ生き残ってしまった」
「これからどうするつもりなの?」
「さてな、帝のもとに戻り復命しようにも、これだけの損害を出してしまったら、私の首一つでは足りないだろう。大陸にツテがあるから亡命でもするさ。それより君はどうするのかね?」
私は……。
「……妹紅は?」
「妹紅か……あの子は……」
岩笠が視線をやった先を見ると、妹紅が胸に手を組んで横たわっていた。
「可哀想に、この子も弔ってやらないといけないだろう」
岩笠は目を閉じて両手を合わせた。
私はどんな表情をしていただろう? 寝ぼけていた頭が一気に覚醒して、慌てて立ち上がった。
急いで妹紅の元に駆け寄った。
「……なにふざけているのよ。起きなさいよ! こんな所で死んだふりをしてるんじゃないわよ! 妹紅!!」
妹紅の身体を揺さぶったが、一切反応がなかった。腹部には大きな刺し傷があり、大量の血が流れた跡がある。呼吸はとっくに止まっていた。
私は妹紅の死体の胸ぐらをつかみ上げ、吊るし上げようとした。
「アンタが死ぬわけないじゃない! いつだって勝手に復活して私に面倒ばかり掛けにくるじゃないの! なんでこんな所で死ぬのよ、妹紅!!」
「もうよさないか!」
岩笠が、私と妹紅の間に割り込んで止めにかかる。
「落ち着け。大切な人が死んで取り乱すのは分かるが、もう戻ってこない。とっくに死んでいるんだ」
「コイツはそんな奴じゃないのよ! 何時だってどんなに殺しても憎たらしい顔で復活して来るのよ!」
「? 何を言っているのだ? とにかく落ち着け」
岩笠は不審そうな顔だが、慎重になだめてくれる。私は滲んだ涙がうっとおしくて、袖で何度も拭った。
「死んだ者は戻ってこないのだ。悲しいかも知れないが、涙を拭け」
「だから、私とコイツはそんな関係じゃない!」
岩笠が慰めてくれるが、悔しくて涙が溢れる。
その時、岩笠が背負っていた、あるものが目に付いた。
「蓬莱の薬……」
思考が急回転を始める。蓬莱の薬は魂の限界を崩壊させる薬で、死を退ける。ひょっとして死んだばかりの妹紅ならば、魂が近くにあるので蘇る事も可能なのじゃないか?
「……岩笠、その薬を渡しなさい」
「これか? 何に使うつもりだ?」
岩笠は不思議そうな顔をする。
「一応、私にはもう不要の物だが、帝が直々に廃棄するように仰られるようなものだぞ」
「それは元々、私の持ち物よ。私が帝と翁に贈った贈り物。どう使おうかなんて私の勝手よ!」
「ふむ、高貴な方であると想像はしていたが、かぐや姫だったか」
岩笠は背負っていた蓬莱の薬を下ろすと、私に手渡した。
「不死の霊薬だぞ。……まさか使う気か?」
私がここに来た元々の目的は、妹紅を抹殺する為だった。妹紅がここで蓬莱の薬を飲む運命を上書きする為にここに来たのだ。
だが、結局のところ運命は変える事は出来ないらしい。私のプライドに掛けて、妹紅のこの死に様は認めることが出来ない。咲耶姫と石長姫の憎悪に巻き込まれて、妹紅は殺された様なものだ。しかも、私を庇って死んだ。不愉快だ。
妹紅は私が殺す。私のものだ。それ以外は認められない。
「決意なんてとっくに出来ている。妹紅はここで生き返る。妹紅は私にとって必要なのよ」
薬壺の蓋を開く。月の薬草の香りが辺りに漂う。薬を口に含む。尋常じゃない苦味が溢れる。やはり以前に飲んだ時もそうだが、飲みやすさを考慮されては生成されていないらしい。
「意識を失っていると楽なものね」
妹紅の身体を抱き起こすと、唇を重ねた。
舌先で口をこじ開けると、口移しで蓬莱の薬を妹紅に飲ませた。喉元が動く。薬を飲み込んでいく。
「……ぷは、飲んだわね。さぁ、蘇りなさい妹紅!」
蓬莱の薬の反応が始まる。青白い輝きが妹紅の身体から放たれる。魂が変性して膨大なエネルギーを生み出す。妹紅の指がぴくりと動く。
「……ん」
妹紅の顔に色みがさす。胸が微かに上下に動く。
やがて、微かに瞼を開いた。
「……ここは……私は死んだはずじゃ……」
「妹紅!」
私は妹紅を抱きしめる。妹紅は腕の中でもがく。
「おっ……おい、いきなりなんだよ! どこ触ってんだよ!」
「うっさいわね! こんな時ぐらいいいでしょ!」
最初はじたばたと暴れていた妹紅だが、やがて大人しくなった。
「何かしらないが、お前が私を助けてくれたのか、輝夜?」
「私はアンタを失うのを認めたくないだけよ。戻ってきて良かった……」
「……勝手な奴だな。私の寿命は永遠なんだろ? ……その長い時間を、私はどう生きればいい?」
「私の事だけを思っていればいいのよ。私がそうであるように」
無論、殺し合いの事なのだが、私と妹紅を繋ぐ絆はそれだけしかない。
私は妹紅の身体を離した。岩笠に顔を向ける。
「すまない岩笠、妹紅の事をお願いしていい? 私は帰らないといけないのよ」
岩笠は、妹紅と私の両方の顔を見て答える。
「大陸で逃避行しなければならないが、一人ぐらいなら連れがいても問題あるまい。一緒に行くか? 妹紅?」
妹紅は岩笠の顔を伺うと、小さく頷いた。
「ならば準備しよう。私達の立場上、いつ追手がかかるか分からない。急ぐぞ妹紅」
「頼むわ岩笠。妹紅、それでいいのね?」
「あぁ、お前とはいつ会えるようになるか分からないけどね」
私は富士山頂を振り返った。未だ悪夢の様な光景が残されている。だが、私たちは歩き出さないといけない。新たな運命は回り始めたのだ。
なんやかんやの艱難辛苦を乗り越えて、私は永遠亭に帰ってきた。途中、力尽きて道端で行き倒れてしまったが、親切な人に助けてもらって、なんとか二度めの時間旅行を終えることができた。今回の教訓は、思い付きで時間旅行なんてしてはいけないということだ。
杖にすがりつく様にして永遠亭の門に辿り着くと、庭から賑やかな声が聞こえる。
軽い足音がして振り返ると、てゐが笑顔で出迎えてくれた。
「おやぁ、姫様。旅から帰ってきたのかい?」
「ええ、てゐ。心配を掛けたわね」
「心配してるのは師匠と優曇華だけさね。師匠なんて、心配のあまり寝こんじまった。鬼の霍乱って奴だね。すぐに顔を見せに行ってやりな。それで、探していた自分は見つかったかい?」
「探して見つかるようなのは、本当の自分じゃないわよ。くたびれ儲けの旅だったわ」
「土産はないのかい?」
「餞別ケチったじゃないの。そんなものないわよ」
「いけずだなー。まぁいいや。私は忙しいから、またね」
てゐは、はだしの軽い音で庭先に駆けてゆく。庭先では兎達が餅を突いていた。
診療所の引き戸を開くと、鈴仙が驚いたように立っていた。
「姫さま! 今までどこに行っていたのですか!?」
「ちょっと野暮用で平安時代まで行ってたの。永琳いる?」
「何を言っているのですか! 師匠は心労で倒れてしまって、診療所は休診です!」
鈴仙はぷりぷりと怒っている。私はバツが悪くなってしまい、顎を掻いた。
「永琳そんなに悪いの?」
「いえ、蓬莱人なので身体の具合は問題ないのですが、姫さまがいないストレスで、寝床から起き上がることも出来なくなったみたいです」
あちゃー。これはお小言の一つも覚悟しないといけないみたいだな。
「ところで、私が旅に出てどれぐらいの日にちが経ったの?」
「もう一月は経っています。師匠のお世話もしないといけないし、薬の行商も行かないといけないし、私も過労で倒れてしまいそうですよ!」
「ふーん、苦労かけるわね。悪かったわね、鈴仙」
「本気で言ってるのですか! もうっ!」
鈴仙は頬を膨らませて、離れの方へ行ってしまった。やれやれ、あそこまで怒ると鈴仙はしつこい。後で機嫌でもとってやろう。
「永琳、居る?」
永琳の部屋の前で、ふすま越しに声を掛ける。かなりの間、待たされた後に中から声がした。
「入ってください」
一応、頭を下げて反省した振りをしながら中に入った。
永琳は、仕事用の服装とは違う私服で、布団を腰まで掛けて身を起こしていた。表情は温度を感じさせないぐらいに冷たい。
「随分と長いお出かけでしたね」
永琳は冷たい声を出す。上目つかいで表情を盗み見るが、目さえ合わせてくれない。
「ちょっと自分自身を見直そうと思って遠くまで旅に出てたのよ。自分探しの旅ってやつ?」
はははと笑うが笑い声は部屋の沈黙に飲まれていった。気まずい。
「それで、気は済みましたか?」
「……一応ね」
「どれだけ私が心配したか分かりますか? 姫さま?」
「……分かってるわよ」
こうなれば、永琳の怒りを受け止めるために首をすくめるしか無かった。
「一応、私も過干渉ではないかと思っているのですが、貴女の身は貴女一人の物ではないのです。ある程度の自由は認めているはずです。月から逃げていた頃とは違い、今では身を隠す必要は無い。とは言え、いつどこで何が起きるかは私でも保証できないのですよ」
「……」
「心配している私の事を考えろ、と言っている訳ではないのです。ただ、心配する従者の事を慮っても良いではないですか、姫さま」
永琳は無表情のままだったが、その頬を涙が伝った。
「本当に心配で心配で仕方なかったのです、輝夜。貴女の身に何かがあったら、死ぬことすら出来ないこの身で、どう償えばいいのかばかり必死に考えていました」
「永琳……」
手をあげられるよりも、無言で泣かれる方が辛かった。信じられないぐらいの長い付き合いだが、永琳を泣かせてしまったのは初めてかもしれない。
今頃になって取り返しの付かない事をしてしまったと焦りが出てくる。
「あの……永琳……」
「お願いします、輝夜。次に何処かへ行くときには私なり、鈴仙なりを同伴させてください。不躾なお願いだとは分かっていますが、何卒お願いします」
永琳は深々と頭を下げた。
卑怯だ。こんな言われ方をしたら断ることなんて出来ないではないか。
「頭を上げてよ、永琳。分かったわよ。次からはそうする」
永琳の顔から深刻さが薄れた。
「分かっていただけましたか。従者たる身で過ぎたることを言い過ぎました。何も姫さまを束縛するつもりはありません。ただ、共に生きる立場の者を慮って頂ければと思っただけです」
永琳や鈴仙は、従者と言えども家族同然の付き合いの者達だ。まぁ、ちょっと私を束縛しすぎの所はあるかもしれないけど、その心遣いまでうっとおしく思うことはいけないだろう。改めて、今回の旅の不毛さを思い知らされる。
「さて、姫さま。部屋を出ていただけませんか? 着替えをして診察所のカルテの見直しでもしようと思います」
「もう起きて大丈夫なの?」
「姫さまの顔を見たら、憂鬱な思いも消えました。もう大丈夫です」
「そうね。ただ、無理はいけないわよ。蓬莱人といえども身体は養生すべきだわ」
「ええ」
私は部屋を出た。永琳はもう大丈夫だろう。冷静さを取り戻した永琳なら、これまでどおり辣腕で永遠亭を切り盛りする事だろう。
途端に暇になった私は、もう一人の蓬莱人の事に思い至る。妹紅はどうしているのだろう? 過去で消し去ることができなかったから、今でも健在だろう。たまにはこちらから出向いてやっても良いかもしれない。
通りかかった鈴仙に妹紅の事を尋ねる。
「妹紅ですか? たまに見かけますが、永遠亭の方まで来ることはないですね。いつもの竹林の炭焼き小屋の方に居るんじゃないですか?」
「何か変わった噂は聞かなかった?」
「いえ、特には」
過去が多少なりとも変わったのだから、妹紅にも変化があったかもしれないと思ったのだが、別に変わりないらしい。
「それよりも姫さま。師匠に聞きましたが、次に旅に出るときには、私がお付き添い致します。また一人で出て行っちゃ駄目ですよ?」
「あぁ、それね。しばらく旅なんてしたくもないわよ。永琳の様子はどうだった?」
「姫さまと再会して、ご機嫌な様子でした。一月間、私一人で永遠亭を切り盛りしてたことを褒めてくれたんですよ」
「ふーん、良かったわね」
鈴仙の機嫌も直ったらしい。暇つぶしに人里にでも出て、鈴仙が機嫌を直しそうな物でも見積もろうかと思ったか、当てが外れた。
「暇だから妹紅の所でも行ってみようかしら?」
「いつものですか? 夕餉までには戻ってきてくださいね」
鈴仙も、永琳が復活して忙しそうだ。私が引き止め続けるのも野暮だろう。仕事が上手く回っているのなら、私は口出しする気も術も無い。
永遠亭から竹林にぶらぶらと出かける。竹林はいつもと変わらず、深々と茂っていて、時折トンビが鳴き声を発する。竹林を風が吹き抜けて額の熱を冷ます。
四半刻ほど歩いて、妹紅の炭焼き小屋に辿り着いた。妹紅は、炭焼きと迷いの竹林で遭難した人を助けて謝礼で暮らしているのだ。いかにも、アイツにお似合いな貧乏臭い生き方だと思う。
炭焼き小屋の入り口から洞窟の様な内部を覗く。薄暗い室内に妹紅は居ないようだ。その時、裏手から唐竹を打ち割る音が聞こえた。竹炭にするために竹を切っているのだろう。小屋の裏手に回ることにした。
居た。背中をこちらに向け座り込んで、ナタを振り上げて竹を切っている。
一瞬、声を掛けようかとも思ったが、普通に呼ぶのも友達みたいでなんか癪だ。私は弾幕を叩きつけようと、力を込めて手をかざした。
次の瞬間、ナタが唸りを上げて飛んでくる。それは首の皮一枚をかすめて、背後の壁に突き刺さった。
「ご挨拶ね、妹紅」
「何しに来た、輝夜」
妹紅は座った目で陽炎のように立ち上がる。ばきりと指を鳴らしながら、炎を拳に纏わせた。
私はいつでも放てる様に神宝を展開させた。
「別に。アンタが私が居なくて寂しがってるかと思って、わざわざこんな貧乏臭い所まで出向いてやったのよ」
「働きもせず食っちゃ寝してるお前に何が分かる。テメエの面を見なくて済んで、心の洗濯が捗っていたんだ。返せよ、私の貴重な仕事時間」
「あら、私は高等遊民ってやつよ。せこせこ小銭をかき集めないと、人並み以下の生活を維持できない乞食が。口を利くだけ有難いと思いなさい」
「上等だ。その減らず口、二度と叩けないようにしてやる」
あれ? なんで妹紅と戦う展開になってるんだ? 条件反射で戦闘態勢に入っているけど、当初の目的と違う気がする。
飛びかかろうとする妹紅を手で制する。
「待った。今ここで、貴女の貧乏人生を終わらせてもいいのだけど、今日はちょっと趣向を変えて、少し、昔話をしましょう」
「なんだ? 怖気づいたのか? お前の言う事を聞く理由は無いな」
「岩笠のその後を知りたいのよ」
今にも爆炎を放とうとしていた妹紅が、ぴたりと止まった。むず痒い様な表情をして、渋々、炎を消した。
「なぜ今更、あの時の話をしないといけないんだ? お互い、恥ずかしい過去は蒸し返したくないだろ」
「貴女の命を救ったのは私なのよ。その後を知る権利はあるわ」
妹紅は視線を宙に彷徨わせる。迷っている様な、困っている様な、初めて見せる表情だ。
「……分かったよ。確かにお前が言う事にも一理ある」
妹紅は振り返り、切り株の所まで行くとドカリと腰を下ろした。
「で? 何を知りたい?」
「富士山頂で貴女が蓬莱人になった後に、岩笠と大陸に渡ったでしょ。それからどんな人生を送ったの?」
本当に恥ずかしい事を聞くなと言い、妹紅は頭をバリバリと掻いた。
私はひとまず神妙な顔をして、話を聞く姿勢を見せた。
「あれから私と岩笠は、海を渡り大陸に行った。追手を撒いたり、荒れる海を乗り越えたりと、それだけでも結構な冒険だった。大陸に渡った後も、言葉も通じない異国の地で一文無しで放り出されたんだ。人並みに食うことが出来るようになるには時間がかかった。だけど、岩笠が一生懸命働いてな。数年後にはそれなりの生活が出来るようになっていた」
妹紅は思い出すような目をする。
「人並みに生活できるようになっても、私は周りの人々から浮いていた。周りの人々を一切信用できなかったんだ。貴族時代にちやほやしていた連中が、没落した途端、手のひらを返すように無視したことが、私の中で尾を引いていたんだな。だけど、岩笠がそんな私の頑なな心を砕いてくれた。岩笠はその時、商才があったらしく店を持って商店の主になっていた。岩笠は私に商売の手解きをすることで、人とどう付き合えば良いのか、どんな風に胸襟を開けば良いのかを教えてくれた。それで、貴族ぐらしで人とのつきあい方なんて知らなかった私も、色んな人に心を開けるようになっていったんだ」
妹紅はどう話していいかを迷っている様だ。私は手で話を促した。
「やがて岩笠が嫁を娶ったんだ。めでたい事だけど、私は岩笠が取られるような気がして、気が気じゃなかった。だけど嫁が本当に優しい人でな、岩笠の連れ子として私を可愛がってくれた。やがて、岩笠の嫁にも子供が出来た。愛情が新しく生まれる子供に奪われるのでは無いかと思っていたが、岩笠も、その嫁も、私たちに等しく愛情を注いでくれた。それから長い月日が経つが、蓬莱人である私は全く歳を取らないんだ。私も、最初は家を出るべきか悩んだ。家の中に化物が居るようなものだからな。だが、岩笠が説得してくれることで、私は家族に蓬莱人として受け入れられたんだ」
それは……。
「貴女、家族が居るの?」
「ああ。もうとっくに何代も代替わりしているがな。大陸には岩笠の一族がいる。一族が住むのは大きな街になっているよ。岩笠の死も私と家族で看取ったんだ。穏やかな最期だったよ。それから私は家を出た。老いもせず死にもしない不死者が居続けるのは不気味だったからな。それから私は岩笠の一族を影から支える事にしたんだ。農耕技術や作物などを支那各地から集めて、旅人の振りをして一族の者に伝えていた。色んな所を旅した。天竺から崑崙まで、大陸のありとあらゆる所を巡った」
私はある事が気になった。蓬莱人ならば一度は通る道だ。
「ねえ、妹紅。周りの人が寿命でどんどん死んでいくのに、不死である己を呪わなかったの?」
「初めの内は呪ったさ。だがな、築きあげてきた絆が私を支えてくれた。人は生き、一夜の夢の如く生涯を送り、死んでゆく。それを目の当たりにした私は無常を感じたものだ。それでも人は生きた人生に関わった人たちの中に記憶を残す。それが網目の様に人々を結びつけ、一つの大きな人格を作り出す。それが絆だ。私は人々の中に居る限り、孤独を感じなかった。支えてくれる全ての人達に恩返しをする事。それが私の存在意義だ」
以前の妹紅は不死の運命を呪い、出会うもの全てを滅ぼし、そして虚無感で塞ぎこんでいた。私には、永琳という隣で支えてくれる者が居たのでそんな事に陥らずに済んだ。妹紅は不死である者の壁を乗り越えたのだ。岩笠との旅が妹紅を変えたのだろう。
私は一気に徒労感に襲われた。私が妹紅を滅ぼすためにした旅が妹紅を救ったのだ。あの苦労は何だったんだろう?
「何だよ嫌そうな顔して。私の存在意義がそんなに不満か?」
「……んー、いやね、己の愚行をこれほど恥じるのも初めてかもしれない。私が貴女を救ったのか……」
私の中には一つ、恐れがあった。妹紅は全てが変わってしまったのだろうか? 勝手に救われて、勝手に悟ってしまったならば私はもう一度、旅に出ることも厭わない。
質問が口をついて出た。
「ねぇ妹紅。あの富士山頂で蘇った後、私の事をどう思ってたの?」
竹林をまた風が吹き抜ける。妹紅は長い沈黙の後で立ち上がった。
「なあ、輝夜?」
「なによ」
「まだるっこしい話はもう飽きた。いい加減、殺らないか?」
「最後の質問に答えていないじゃない。貴女は私への恨みは無くなった訳? 悟ったならば仏にでもなればいいじゃない。こうしてまた、幻想郷で私に対峙している理由はどうしてかしら?」
妹紅はうつむく。そして、静かな声で切り出す。
「岩笠との旅を経験した私にとって、父上の恨みはもう過去のことだ。あの時から私は死に場所を求めていた。蓬莱の薬を取り返して、華々しく散れればいいかと思っていた。だが、死を経て蘇った時にお前から言われた。『私を永遠に想っていろ』と。旅を終えて、お前の事を探してた。私は安穏な悟りより……」
妹紅が輝きを増した。鳳凰の翼が現れる。火の粉の様に羽根を散らす。
「……お前の事を、殺したいほど想っている」
私はその幻想的な光景を見つめていた。
なんだ、安心した。何も変わっていないじゃないか。
時を越え、運命を上書きしてさえ、憎悪と殺意を交わし合う、そんな日常は変わらない。
血がたぎる。戦闘の興奮に子供のように歓喜する。そんな血なまぐさい日常こそが私たちには相応しい。
やれやれと横着な私は蓬莱の玉の枝を手にした。炎を纏う妹紅に目を向ける。そして、優しく微笑んだ。
「私もよ。妹紅」
書の道については王羲之を手本として、日々鍛錬している。昔、空海に手解きを受けようとしたこともあったが、ついぞ叶わなかった。
手先を捏ねる様にはね、止める所では墨を滲ませる。老境の域に辿り着くとまでは行かずとも、その境地にまでは至らんとして筆を走らせる。
やがて、満足の行く出来の作品が出来上がった。静かな心の中に、微かに自負心の温みが現れる。
その時だった、自室の前が何やら騒がしい。私は立ち上がり障子を開いた。
永遠亭の渡り廊下を妹紅がずしずしと歩いてくる。その背後には鈴仙が首ったけにかじりついて引き摺られていた。
やれやれ、煩いのが来た。先程から掴んだままだった筆を筆置きの上においた。
妹紅は部屋の前で仁王立ちになって、光の無い目で部屋の中を睨めつける。
妹紅は無言だ。いくら普段殺したり殺されたりの仲だとはいえ、そこまで不躾な態度ではこちらも腹が立つ。
「下賤ね。貴女には書を楽しむ心は永遠に理解できないのでしょう」
「そんなものは犬にでも喰わせてやればいい。殺しに来たぜ輝夜」
妹紅に引き摺られているままの鈴仙は、慌てて私達二人の間に立ちふさがる。
「やめてください姫さま! これ以上、永遠亭の中で喧嘩するのは止める様に師匠も言ってたでしょう! 妹紅もやめなさい! 後で怒られるのは私なのよ!?」
妹紅はそんな鈴仙を無視するかのように、私の書いた書を踏みにじった。
「どうやら灰燼と化したいらしいわね、妹紅」
「それはテメェの方だ」
手をかざし炎を纏わせる妹紅。私は蓬莱の玉の枝を取り出した。
「新難題『金閣寺の一枚天井』!」
「蓬莱『凱風快晴 フジヤマヴォルケイノ』!」
二人の間で巻き起こった奔流は、建物を崩れさせ屋根を吹き飛ばした。こうして、永遠亭の一角は無残にも崩壊したのだった。
私は、永遠亭の診療室で永琳と向い合って座っている。永琳は眉根をひくつかせて、こめかみを揉んでいる。
「……妹紅と争う時は約束を決めて、竹林でやるように言いましたよね? 姫さま?」
「……」
「今年に入って何回、永遠亭の修繕が必要になったのか覚えていますか? 姫さま?」
「……三回かしら?」
「十八回目です」
「……」
永琳が、明らかに苛立っているのが分かる。まぁ、確かに私に非がある事は明らかだが、そこまで神経質になる事はないだろうに。
「鈴仙を見てください。主に従うのが従者の務めとはいえ、こう何度も怪我をさせられていてはたまったものではないのです」
永琳が示す先には、全身包帯ぐるぐる巻きで耳だけ出してベットに横たわる鈴仙があった。
「私の事は良いんです師匠。あまり姫さまを責めないでください」
「あなたは黙っていなさい鈴仙。最近の姫さまはあまりにも目に余ります」
「そうさね、優曇華はどんくさいだけだわ」
因幡てゐは窓際でもたれ掛かりながらゲラゲラと笑っている。
「妹紅が攻め込んで来た時には屋敷の兎達はみんな逃げ出してたさね。怪我したのは優曇華だけさ。いちいち喧嘩に首を突っ込む方が悪いんだわ」
永琳は忌々しげにてゐを睨みつけた。
「てゐ、あなたは兎達の中心的な立場なのよ? 率先して姫さまと妹紅を止める様にしないとどうするのですか?」
「わたしは怪我するのや怖いのは嫌」
「……てゐ」
てゐは窓からぴょんと外に飛び出した。脱兎の如く駆け出していく。
「じゃねー、優曇華。師匠が怖いからわたしは逃げる。また見舞いに来るからねー」
「待ちなさい、てゐ! てゐ!!」
窓際に駆け寄って行く永琳。その視線の先にてゐはもういなかった。
私は、その震える背中に声を掛けた。
「永琳、てゐには何言っても無駄よ。あれで有能な地上の兎達の頭なんだから、やりたいようにやらせるのが一番だわ」
「姫さま……、何が原因でこういう事になっているか理解していますか?」
「……」
「謹慎です! 食事は兎に届けさせます。しばらくは屋敷からも出られないものと考えてください!」
私は自室に戻り、座布団を敷いて座り込んでいた。苛々する。
「まったく! 永琳の奴!」
天気が良く、初夏の日差しが障子越しにも分かる。こんな天気のいい日に部屋に監禁されているのも腹立たしい。
「信じられないわ! 私は被害者なのよ。私は妹紅が襲い掛かって来るから対処してるだけなのよ!」
そこで私は頷いた。そうか、妹紅が居なければいいのだ。
「そうか……そうね、妹紅が全部悪いんだわ。そもそも妹紅が居なければこんな事にはならないのよ!」
私の中で、ある名案が浮かんだ。私は立ち上がり、書院造りの戸棚から硯と和紙を取り出して計画を練ることにした。
数日経ったある日の夜。私は兎達に水で満たした盥を用意させた。こんな満月の夜は、水鏡は神秘の力を持つ。私の持つ宝玉「蓬莱の玉の枝」で過去の真実の姿を現すことが出来る。これで妹紅の過去を覗いてみる事にした。
水鏡になって満月を映している盥に、蓬莱の玉の枝を浸す。水鏡は淡い輝きを放ち始めた。水鏡は過去の妹紅の姿を映し出した。
私に求婚して失敗して没落した藤原不比等。その娘の藤原妹紅は、私に復讐する為に、帝に贈られた不死の薬を追って富士山に登る。 富士山の主神、木花咲耶姫に唆された妹紅は薬を飲み、不死の蓬莱人になる。
初めの三百年は全ての者に忌み嫌われ、次の三百年は出会うもの全てを滅ぼそうとした。そのあとの三百年は何事もどうでも良くなり、そして、仇である私と出会った。
血と惨劇に彩られた三百年。そこに妹紅は生き甲斐を見出したのであった。
まったく、身勝手な話だ。巻き込まれている私の気持ちも考えて欲しい。昔っから、私の周りをうろちょろして、何かといえば邪魔ばかりしてきた妹紅の気持ちなど知る由もないが。
しかし、なるほど。直接的とはいわないにしろ私が帝と翁に贈った蓬莱の薬が関与している訳か。
私が考えている計画はこうだ。永遠と須臾を操る能力を使い過去へ飛び、妹紅が蓬莱の薬を飲むのを阻止するのだ。蓬莱人で無くなった妹紅は自然と寿命で消えて、私の前には現れなくなる。
完璧な計画だ。私は頬が緩むのを感じた。
私は背嚢に必要になりそうな道具や、乾飯などちょっとした食料を詰め込んで、出掛ける準備をした。
準備が出来たので、引き戸を開けて永遠亭の庭を通りかかると庭ではてゐが他の兎達と縄を綯っていた。背嚢を背負う私を認めると、てゐは声を掛けてきた。
「姫さま、お出かけかい?」
「てゐ。しばらく家を空けるわ。数日は戻らないかも」
「ふーん、ご達者で」
「止めないの?」
「姫さまは言っても聞かないでしょ。師匠や優曇華に気づかれる前に屋敷を出た方が良いよ」
「それもそうね。じゃあね、てゐ。餞別はいらないわ」
「あいよー」
出会ったのがてゐで良かった。これが鈴仙だったなら、誤魔化すのに時間が掛かっただろう。迷いの竹林に向かう私の足取りには迷いは無かった。
数時間後、私は迷いの竹林の中程を目的の物を探しながらさまよっていた。
「うーん、見つからないわね」
額を流れる汗を手ぬぐいで拭った。
「刻の繋がりが薄くなっているところさえ見つかればいいんだけどな……。永夜返しをひっくり返せばいいだけだし……」
その時だった、私のそばの竹林が、轟音と共に空に吹き飛ばされたのだ。
「うわっ、なによ!」
「……見つけた、輝夜」
私が慌てて振り返ると、弓をつがえている永琳と、息も絶え絶えの鈴仙。縄でぐるぐる巻きにされたてゐが居た。
「さぁ、帰りましょう姫様。今ならお仕置きも大したことにはなりません」
永琳の表情を見ると、微笑みでも浮かべている様に穏やかだが、唇の端が震えている。……いけない、本気でキレている。
鈴仙は膝に手をついて息も絶え絶えだ。手には縛られたてゐの縄の一端を握っている。
「はぁ……はぁ……、早く謝ってください姫さま! 師匠は力をセーブする気が全くありません! てゐ! なんで出て行く前に止めなかったのよ!」
縛られたてゐは暢気な口調で飄々と話しだす。
「止めるだけ無駄さね。あの年頃の若者は言葉に出来ないモヤモヤしたものを何かにぶつけたいと何時も考えてるのさ。たまには旅に出させてみるのが親心ってやつだ」
「姫さまはあなたより遥かに年上よ!」
「てゐ、貴女の処分は後でで決めます。それよりも姫様? なんで逃げ出そうとしているのですか? 動かないで下さい」
永琳が持つ弓がきりりと引き絞られる。不味い、弓を手にしている所が危ない。昔、月の使者から救い出された時に見たことがあるが、あの弓は小さな山位なら吹き飛ばす程の威力があるのだ。
「無駄よ永琳。私は目的を果たすまでは帰らない」
「では仕方ないですね……、手足を砕いて家に連れ戻すほか無いようです」
永琳の手元から矢が放たれた。私はとっさに飛び退いた。先ほどまで、私が居た地点の大地が抉られる。本気じゃないか! 手足が砕かれるどころではない、巻き込まれたらミンチだ。
「つっ!! 仕方ないわね! 汚れるのが嫌だったけど!」
駆け出して、頭から竹林の中に飛び込む。再び、左隣の竹林が抉れて飛んでゆく。私は、脇目もふらず竹林の中を疾走した。
「はぁ……はぁ……まいたかしら?」
遠くでは、まだ永琳の放つ矢の破壊音が聞こえる。ここにも長くは留まることは出来ないだろう。
辺りを見渡すと、月に照らされた舞台の様な神秘的な空間が広がっていた。竹林の影の具合によるものか、地面が浮かび上がって見える。
「ここがそうね……」
以前、明けない夜の異変後から、迷いの竹林の中に局所的に偽の月が出てくる場所が現れるようになっていたのだ。そこは異変の副作用で時の繋がりが薄くなり、白夜の様に薄く夜が引き伸ばされていた。
私は、空を見上げると、偽の月を見据えた。
月の影を蹴って、夜空に舞い上がる。
身体の芯の部分に力を入れて、永遠と須臾の力を逆転させる。永夜を反転させる。時の流れを逆流させる。
偽の月を蹴破った。永夜返しの流れが反転するのを感じる。硝子が砕ける様な音がして、私の身体は暗闇に飲まれていった。
目が醒めると草むらの中で寝転んでいた。露が顔に当たって目を覚ます。体を起こすと節々が痛む。
「いたた……結構時間を遡ったみたいね」
辺りは林の中にぽっかりと開けた空間で誰もいない。人気がある所まで移動しないといけないだろう。
やがて、林の端にあった獣道をぶらぶらと歩き始める。遠景に人里が見えた。そこまでいけば何かしらの手掛かりは掴めるだろう。
しばらくして、人里の付近に辿り着く。
「ここはひょっとして!」
遠い日の記憶が蘇る。見渡してみれば、辺りの光景は懐かしい過去の日の物だった。
私は過去の記憶を元に、翁の家へ向かった。
立派な垣根を持つ屋敷の入り口に辿り着いた。勢いで来てしまったが、考えてみれば今の時代は、私が月の使者を殺して幻想郷に逃げ込んだ頃だ。翁と媼の前に姿を出すわけにはいかないだろう。しかし、一目でも翁と媼に会いたくて、ここまで来てしまった。
垣根を分けて屋敷を覗きこむ。そこにはしょんぼりと縁側に座り込む、老人と老女が居た。
「おじいさん……おばあさん……」
肩を落として座り込む二人を、私は見ていることしか出来なかった。飛び出して行きたい口惜しい気持ちはあれど、実際にはそうするわけにもいかず、滲む涙を袖で拭った。
気分を切り替えて、周りの住人に蓬莱の薬の聞き込みをすることにした。
近くを歩いていた、柴を担いだ男を呼び止める。存外に話し好きな男だったらしく、翁が貰った壺を、帝が取り上げて富士山で焼くという事を聞いた。
礼を言って男から離れる。やはり富士山か。登るのに苦労するだろうが仕方ない。私は蓬莱の薬を追って、富士山を登る覚悟を決めた。
富士山麓に何とか辿り着いた。辺りは鬱蒼とした木々で日光が遮られ薄暗い。飛んで行けば簡単に来れたが、幻想郷以外でそんな目立つ事をするわけにもいかずに徒歩で十日程かけて訪れた。ふくらはぎがパンパンだ。これから山を登るとなると億劫になる。こんな時は、妹紅の顔を思い浮かべる。あの憎たらしい顔を思い浮かべて、折角仕上げた書を踏みにじられた事などを思い出すと、不思議と黒元気が湧いてくる。
富士山の頂上を望み、歩き始める。
麓には樹木がまだ生えているが、登るに連れて岩しか無くなった。酸素も薄くて、息苦しい。
誤解されがちだが蓬莱人といえども、苦しいものは苦しいのである。死なないだけであって、中途半端に苦しいと半永久的にもがき苦しむはめになる。
なので、現状、蓬莱人の頑丈さに云わせて無茶な登山をしているが、体力的にはすでに限界を突破していた。
「んっ……なにか見えた!」
富士山の八合目を超える辺りで人の集団の様なものが見えた。
妹紅の過去の記憶を見て知っているが、あれは蓬莱の薬を富士山の山頂で焼くために、帝に使わされた兵士達だ。あれを妹紅も後を付けているはず。
岩陰に隠れて兵士達の視線をやり過ごす。窺い見ると行列の後ろ側に少女の姿も見える。すでに妹紅は兵士達と合流しているようだ。山頂まで私はこっそりと付けることにした。
やがて山頂に辿り着いた。兵士達が高台の岩の上で話している。私は、岩陰で潜伏している。ここからの展開は知っている。蓬莱の薬を焼こうとする兵士達の前に、咲耶姫が現れて止めに来るはずだ。
蓬莱の薬は知っているが、月の製法で作られたそれは霊域に持ち込むには強力過ぎるのだ。富士山で焼くと、火山が活性化して手を付けられなくなるだろう。
タイミングとしてはここだ。ここで蓬莱の薬を取り上げないと、妹紅が薬を飲んでしまう。私は、やきもきしながら兵士達のやりとりを見ていた。
しばらく待った。咲耶姫は現れなかった。
何をしているんだ、早く止めないと本当に火口で薬を焼いてしまう。妹紅に薬を飲ませない以前に、大災害が発生してしまう。
蓬莱の薬に紐を巻き付けて火口に投げ込もうとしている。ええい、ままよ。私は兵士達の前に飛び出した。
「その薬を火口に投げ込むのは止めなさい!」
突如現れた私を、兵士達は胡乱な目で見つめている。
「……誰だ、お前は?」
「私は……この山の主神の咲耶姫よ!」
兵士達の間に動揺が広がる。士官と思しき、一人の男が後ろから出てきた。
「私は岩笠というものだが、なぜ火口で薬を焼いてはいけないのだ? 我々は帝の勅命でやって来たのだ。このままほいほいと帰るわけにもいかない」
「貴方なら知っているでしょうが、その薬は不死の霊薬。神である私の力を上回っているので、ここで焼くと火山が活性化してしまう。山の噴火を止めることができなくなるわ。悪いことは言わないから、私に薬を渡しなさい」
岩笠と名乗った男は首を傾げて、返事をする。
「確かにそれは不死の霊薬。火山で焼いてはいけないというのは分かるが、なぜ咲耶姫どのに渡さないといけないのですか?」
「貴方の知らない事情が沢山あるのよ。私も薬を取り戻すために、十日もかけて富士山まで来たのよ。今更、諦めるわけにはいかないわ」
岩笠は渋い顔をする。
「咲耶姫どの。先程も言ったように我々は帝の勅命で動いているのだ。それをどこの誰とも分からぬ者に渡すわけにはいかないのだ」
「ごちゃごちゃと煩わしいわね! 黙って、蓬莱の薬を渡せばいいのよ!」
「おい! 岩笠が言っているのは、どこの馬の骨とも分からないお前には渡せないということだ!」
岩笠のとなりに黒髪のおかっぱの少女がやって来ている。敵意を込めた目で私を睨みつけていた。
「だれよ貴女? 私はさっきも言ったように咲耶姫。この山の主神よ」
「私は藤原妹紅。藤原不比等の娘だ。訳あって、この山を登っている」
見知った面影の少女だった。どうやらこの時代の妹紅は私の顔は見たことが無いらしい。あいも変わらず憎たらしい顔だ。
「小憎たらしいガキね。大人の会話に口を挟むのはやめなさい」
「そっちこそ大して私と年齢差なさそうじゃないか! 不死の薬だとしてどうするつもりなんだ? 口八丁で取り上げて、悪辣な成金にでも売り払うつもりじゃないだろうな?」
噛み付くようにして、妹紅は睨みつけてくる。ムカつく。元々、蓬莱の薬だって私がおじいさんと帝に与えたものではないか。私がどうしようと勝手だ。
私と妹紅が睨み合っていると、毒気を抜かれたように岩笠は兵士達に向き帰った。
「仕方ないな、今日はここで一泊するぞ。積み荷に関しては明日、また対応を考える。妹紅よ、そんな顔をしてないでこちらに来なさい」
名前を呼ばれた妹紅は悔しそうに顔をしかめた後、後ろを向いて歩み去った。
妹紅と岩笠の関係は分からないが、岩笠は随分と妹紅に気を使っているように見えるし、妹紅も岩笠の言う事を聞いているようだ。
兵士達は登山の積み荷を解いて、鍋の準備などをしている。縄状になった味噌や野菜などを捌いて今では良い香りのする湯気が立ち上っている。
ぎゅるると腹が鳴る。蓬莱人なので空腹で死ぬことはないのだが、空腹が辛いことには変わりないのだ。私も兵士達がたむろっている一角から離れて、乾飯などを用意する。小さく火をおこし、背負っていた背嚢から水と小さな鍋を用意して湯を沸かす。
「…………」
貧相な食事だが文句を言ってはいけない。乾飯に湯を掛け、ふやかして食べる。愛想も何もない食感が口に広がる。
背後からは賑やかな声が聴こえる。
「……うるさいなぁ」
思わず振り返って睨みつけると、妹紅と目があった。何を思ったのか、立ち上がってこちらにやって来た。私の前の小さな焚き火を見ると、呆れて話しかけてきた。
「なぁ……何やってるんだよ? 木花咲耶姫が、一人寂しく乾飯だけで食事かよ。どこからやって来たか知らないが、旅やつれもしてるみたいだし、ハッタリにしてもすぎるんじゃないか?」
今までになく優しげな声で話しかける妹紅の態度にプライドが傷ついた。元はといえば、アンタのせいでこんな過去の僻地の富士山頂まで来る羽目になったんじゃないか、と喉元まででかかったが、低い唸り声として発せられるだけだった。
「……うるさいわね。私が木花咲耶姫なのは違いないわよ。人にはそれぞれ事情ってやつがあるのよ。ほっといてほしいわね」
さぞかし凄惨な様子が滲んでいたのだろう、妹紅はたじろいで黙ってしまった。
「このまま遭難されても寝覚めが悪いしな、ちょっと待ってろ」
妹紅は立ち上がって、兵士達の所に向かって走っていった。しばらくして、器を持って帰ってくる。
「ほら、食べろ」
妹紅が押し付ける様にして渡した器には、野菜がタップリと入った温い汁物が入っていた。
「貴女、これ……」
「岩笠は変な奴でな。積み荷を狙ってやって来た私も、何故か同行して一緒に帰る事になっている。あと一人同行者が増えても文句は言わないんじゃないかと思うんだ」
焚き火を見つめながら妹紅は話している。その落ち着いた様子に私は反抗する気が削がれていた。
「私は、礼は言わないわよ」
「分かってるよ。お前は咲耶姫だものな」
焚き火の小さな熱は、零下の富士山頂で凍える私を温めてくれる。空を眺めると、無数もの星が私達を見つめていた。
それから夜半まで時間が過ぎて、私は焚き火のそばでうつらうつらと船を漕いでいた。兵士達も交換で見張りを立てて、仮眠を取っている様だ。
結局、妹紅は黙ってなんにも言わず、私が食事を取るのを見て岩笠の所に帰っていった。あんな態度の妹紅を見て、少し毒気が薄れたかなとは思うけど、ここ三〇〇年程の恨み辛みはそれだけでは解消されないのだ。蓬莱の薬は取り返して、妹紅にはここで消え去ってもらう。
「……さむい」
気温は零下を下回っているようだ。焚き火に枯れ枝を放り込む。炎のなかで枯れ枝が爆ぜる。白い息を吐いて両手を温める。
その時だった、背後で気配が動いた。
「なに?」
この気配は覚えがある。巨大な質量を人型に押し込めた様な神々しい気配。八坂神奈子などの守矢の神々と同質のものだ。
まさか、本物の木花咲耶姫が帰ってきたのだろうか? だとしたら話を合わせておく必要があるな。あの日の水鏡で見た光景だと、この後、咲耶姫に唆されて妹紅は蓬莱の薬を飲むことになる。それは阻止しなければならない。
私は兵士達の様子をこっそりと窺い、何もないことを確認して、後ろの気配の元へ向かった。
誰もいない荒れ地まで来た私は、誰ともなく声を掛けた。
「誰か私に用があるみたいね。こそこそ隠れてないで出てきたらどうかしら?」
岩陰から一人の女性が現れた。前髪で目を隠して、着ている服も野暮ったくて陰気な印象だ。
「気付いていたのね。やれやれ、こんな所まで来た甲斐があるってものだわ」
女性は肩をすくめて、ふるふると首を振った。
「咲耶姫……では無いみたいね。でも、貴女のその様子だと神々の眷属ではあるみたいだけど」
「石長姫といいます。木花咲耶姫の姉で、八ヶ岳の主神をしています」
「ふむ? で、その石長姫が私に何のようかしら?」
石長姫は呆れた様に空を見上げた。
「貴女、自分がどれだけ危険な事をやっているのか分かっているのでしょうか? わざわざ富士山にやって来て、咲耶姫の名前を騙るなんて! 咲耶姫が所用で帰っているのでなければすぐさまにでも焼き殺されるでしょうよ」
あちゃー、この様子だと結構前から気付かれていたみたいだな。
「これは一種の方便みたいなものだわ。こんな肝心なときに居ない咲耶姫が悪いのよ。あそこにいる連中が持っている蓬莱の薬を火口に放り込まれたら、火山が活性化して手がつけられなくなるわよ」
「そんな事は知っています。貴女の素性も。帝に求婚されたのに月へ帰ったかぐや姫でしょう? しかもこの時代の者ではありませんね? 私が分からないのは貴女の思惑だけ。どうしてこんな危険を冒してまで富士の山を登るのでしょうか?」
流石に神々の眷属ならばそんな事まで知っているのか。逆に話が早いかもしれない。
「へえ、詳しいのね。私は別に神様達の邪魔をするつもりは無いわよ。ただ、あそこにいる兵士達が持っている蓬莱の薬を取り戻したいだけ」
「たしか、貴女、帝と竹取の翁に恩返しで不死の霊薬を贈ったのではなかったですか? 神々の間でも噂になってましたよ。それをわざわざ取り返すのですか?」
「んーまぁね。正確には妹紅に飲ませなければいいんだけれど」
「妹紅というのは、あの兵士達の中にいる娘のことですか? 先程までは随分と仲良さそうにしていたようですが……」
「誰があんな奴! 今ここで殺さないだけ有情というものよ! ここで咲耶姫が唆して妹紅に薬を飲ませたせいで、私は三〇〇年近く付きまとわれて、事ある毎に邪魔されてきたのよ!」
若干ヒートアップしてしまった。石長姫がちょっと引き気味だ。
「はぁ、なんとなく貴女の思惑が分かってきました。あの妹紅という娘はここで不死の力を得るのですね。わざわざ未来から富士山頂まで妨害に来たというのが、気が長すぎるとは思わなくもないのですが……」
「余計なお世話よ。で、咲耶姫にもそれを協力してもらいたいのだけれども」
石長姫の目に険のある光が宿る。何か悪いことでも言っただろうか?
「止めておきなさい。咲耶姫に助力を求めるというのが愚の骨頂です。一時的に手を貸してくれはするかもしれないが、代償に首が回らなくなるのが目に見えてます」
「……貴女と咲耶姫は姉妹よね。そこまで言う事も無いと思うのだけど?」
「あの女と姉妹だということで、どれだけ私が苦しんできた事か! あの女の嫉妬のせいで住んでいる山を砕かれ、事ある毎に比較され、天孫様にあることないこと吹きこまれて、私だけ恥をかかされたのです!」
「急に怒り出さないでよ。そんなに咲耶姫ってのは性格が歪んでいる奴なの?」
「助力を求めるというならば私が助けます。咲耶姫に助けを求めるのは止めなさい。利用されて、一時の娯楽に使われるのがオチです」
石長姫は憎悪からにじみ出る醜さに包まれていた。私は内心、その醜さを辟易していた。しかし、協力してくれるというならば利用できるかもしれない。
「それならば協力してもらおうかしら? どういう算段で蓬莱の薬を取り返すの?」
「咲耶姫が帰ってくるまでに何とかしましょう。蓬莱の薬を八ヶ岳に納めてもらえる様に頼んだら良いのではないでしょうか? あそこなら私の霊域なのでどうにでもすることが出来ます。逆に言うと、ここに留まり続けるのは不味いのです」
「咲耶姫は今どこにいるの?」
「瓊々杵命《ににぎのみこと》と共に高天原に行っています」
そう簡単に目の前の女神を信じるわけにはいかないが、これはチャンスかもしれない。私だけでは岩笠を始めとする連中は信用してくれないが、石長姫がいるならば信用するはずだ。いざとなれば神通力で脅してやればいい。イチコロで怯えて渡してくれるだろう。
「……いいわ。貴女を信用するわ石長姫。貴女の言うとおりにする」
石長姫は、得たりとばかりに大きく頷いた。
次の日、朝餉の支度を早々に済ませ、岩笠と兵士達は集まっている。蓬莱の薬を取り返す機会を逃してはいけないので、私も近寄って聞き耳を立てる。
岩笠は落ち着いた様子で皆を見渡し、話を始める。
「さて、昨日のごたごたから一晩経った。我々は帝から勅命を頂き、この薬を富士の山で焼き尽くすように命じられている。ところが、富士の山の主神、木花咲耶姫を名乗る少女が現れて、この山で焼くと天変地異が起きると言った。……無論、帝の命は何よりも尊いものである。しかし、天変地異が起きるような事があっても困る。何か、良い意見はないだろうか?」
どうやら兵士達の意見を募っているらしい。丁度いい機会なので、私は石長姫のいる岩場に目をやり、咳払いをした。
「ちょっといいかしら岩笠? それについては私から言いたいことがあるわ。私の姉の石長姫が来ているの。石長姫、ちょっと貴女の意見を言ってやりなさい!」
岩笠は私の方を目を細める様にして見つめ、兵士達は割れるように振り返った。
石長姫は岩場から姿を現すと、貫禄を示して佇んでいる。その姿は神の威信を誇示するのに十分なものだった。
「確かに不死の霊薬の様ですね。その力が強すぎるが故に、富士の火口で焼けば噴火を引き起こすでしょう。不死の属性を持つものであれば私の八ヶ岳で供養しましょう。そのほうが無益な異変を起こさずに済む方法です」
石長姫の威厳に叩頭してしまう兵士も居た。岩笠は悩み込む様に顎に手をやり、やがて口を開いた。
「我々は月に一番近い山で薬を燃やすように言われている。八ヶ岳では富士山に比べて高さが足りないのではないか?」
石長姫は意を得たりとばかりに微笑み、答えた。
「元々は八ヶ岳の方が高い山だったのです。それに不死不変ならば私のほうが得意としている分野です。咲耶姫に任せるよりは私のほうに任せた方がいい結果を出せるでしょう」
岩笠は腕を組んで頷いた。
「いいだろう。石長姫、貴女に任せよう」
兵士の間で歓声が上がる。辺りに住む農民を集めた兵士だったのかもしれない。それだけに、富士山が噴火してしまうと甚大な被害を受けるので、心の中では蓬莱の薬を焼くことが不安だったのだろう。
「では、石長姫。八ヶ岳に行くことにする。咲耶姫よ、色々と済まなかった。我らは、帝の意には逆らうことが出来ないのだ。早くにこの事が分かっているならば、無礼を働かずに済んだものを……」
岩笠は頭を下げた。
「いいのよ別に。分かってくれたなら。そう、私は噴火で民が苦しむのを見過ごせなかっただけ。神々の務めとして民を守っただけよ」
私はそう言って胸を張った。石長姫はジト目で私を睨みつけているが、いちいち意に介するものではない。
気を取り直したように、石長姫は私に耳打ちする。
「早く行きましょう。咲耶姫にここで騒いでいる事を気付かれたら、私の立場も面倒なことになるのです」
「なによ? 姉妹なんでしょ? そこまでせっかちになること無いじゃない」
「咲耶姫の事を、よく知らないからそんな事を言えるのです。私でさえ、富士の山で咲耶姫に見咎められると、嫌味を言われるだけではすみません。早急に山を降りなくてはなりません」
兵士達は急いで荷を畳んでいる。私達も岩笠の旅団に混じる事にした。妹紅も兵士達と一緒になって荷を積み上げていたが、私を認めるとこちらにゆっくりと歩いてきながら話しかける。
「よう、お前のお陰で八ヶ岳に登る事になったらしいな」
「必要な事よ。富士山で薬を焼けば、大災害になるわ。八ヶ岳に登るのは、事を穏便に済ませる為の一番の方法よ」
「ふーん、まぁいいさ。私も付いて行く」
「なによ、まだ薬を狙っているの?」
晴れ晴れとした笑顔で妹紅は言う。
「いや、輝夜への恨みは消えた。ただ、岩笠とお前たちのやる事を終わりまで見届けたい。輝夜が最後まで執心していた薬が焼けて消えればお父様も目を覚ますかもしれない」
私は意外に思うしか無かった。執念深い妹紅が簡単に諦めるなんて。目的としていたのは妹紅の抹殺だが、簡単に済んでしまい拍子抜けしていた。
「お父様が目を覚ますって、藤原不比等はそんなに輝夜姫に狂恋していたって事?」
「そうだ。あれだけ優れた政治家だったお父様が、輝夜に出会ってから変わってしまった。特に手酷く振られた後は、部屋に篭って出てこなくなってしまった。おかげで一族は離散さ」
「恨んでいないの?」
「輝夜の事か? 当然、恨んでいないはずが無い。奴のせいで、末の娘だった私まで路頭に迷う事になった。だが、末席とはいえ誇り高き貴族の一員である私が、未練たらしく怨恨を引きずり続けるのは相応しくない。未練を断ち切るため、一族の代表として私はここに来たのだ」
またしても、私は意外に思っていた。妹紅は自らの出自に帰属意識なんて持っていたのか。あの粗野なだけの妹紅から貴族の誇りなどという言葉が聞けるとは思わなかった。普段は生きているか死んでいるか分からないような荒廃した生活を送り、私との抗争を行うときだけ殺気立ってやって来る。そんな妹紅の腹の中をここまで聞いたのは始めてかも知れない。
「妹紅」
「ん、なんだ真剣な顔して?」
「聞きたいことがあるの。貴女、不死の力を手に入れたら何がしたい?」
「なんだよ急に……。そんな事考えた事が無いな。普通の人間として普通に死ぬ。それが自然の摂理だろ。永久に生きていくなんて、退屈で気が狂いそうだと思うな」
「そう……」
私は妹紅に何を期待しているのだろう? これが当然のはずだ。憎たらしい妹紅を消し去る為に、私はこの世界に戻ってきた。だけれども、いざその時になると言葉に出来ない引っ掛かりを覚える。
無駄な思案を打ち消して、苦笑いするしか無かった。私の中にこんな所があったとは。
日は昇り続けちょうど真上に懸かる頃、旅団は富士山頂を出発する事になった。
岩笠は一段と高くなった岩の上に立ち、皆を振り返り一声張り上げた。
「皆! 準備は出来たな? それでは山を下りるぞ!」
応!と兵士達は鬨の声を上げる。第一団が、山頂の入り口に向かって歩き出す。
「やれやれ、これで安心ね」
「まったくです」
私と石長姫は、帰還する兵士達を見届けながら、頷きあった。
「これだけの人数が山を降りるとしたら、二三日と言った所でしょうか」
石長姫は、頤に手をやって考え込んでいる。
「八ヶ岳に着くまでには一週間は掛かりそうね。準備するには丁度いいぐらいです」
私はうんざりして首を振った。
「私は飛んでいっていい? 身体の頑丈さに無理言わせて歩いているけど、限界に近いのよね」
「駄目ですよ。一緒に歩いて行くのです。私達を信頼して付いてきているのに勝手な行動は許されません」
私はそこにしゃがみ込んだ。怠くて怠くてとても耐えきれそうになかった。
「まったくもう……しかたないですね」
石長姫は空を見上げた。その表情に影が走る。
「……どうやら急がないといけなくなったみたいですね……」
先程まで晴天だった天候が急に曇り始める。
巨大な気配! まさか……。
兵士達がざわめき立つ。雷鳴が轟き、周囲に雷光が瞬く。曇天の雲が割れて、そこから一人の女性が降りてきた。
「木花咲耶姫!」
咲耶姫は服装を仙女の服でまとめ、玲瓏な面持ちで歩みを進める。顔立ちは整っており、兵士達の中でも初心なものは思わず俯いてしまう。それ以外のものは食い入る様に見つめていた。目を細め、口元を隠すと、鈴の音の様な声で話し始めた。
「これは随分と……酷い事をしてくれましたわね。主が居ない間に寝処を荒らすとは……。不快な匂いが立ち込めていますわ。これは全部、焼いて清めなければいけませんわね」
鈴のような声は小さなはずなのに、聴くものの心を捕らえ、その場にいる者全てが恍惚として金縛りの様に動けなくなっていた。
咲耶姫は高く手を掲げる。その先の上空には、業火の如き大火球が地上の全てを食い尽くさんとして燃えたぎっている。
私は、身体に活を入れて、咲耶姫の神通力を解いた。駆け出して、皆の前に立ち塞がる。
「ちょっと! 何するつもりよ!?」
「知れたこと。不浄な猿どももろとも寝処を焼き清めるのですわ。あらあら、そこにいるのはお姉様ではないですか? 何時からそこに居られるのですか?」
「……咲耶姫。私の領分ではないと分かっていますが、ここにいるのは、帝の意向で不死の霊薬を処分するために、八ヶ岳へ向かう者達です。私に身柄を預けてもらえはくれないだろうか?」
石長姫は片手で私を制すると、身を乗り出すようにして咲耶姫に訴えかけた。
咲耶姫は、口元を袖で隠すと、考え込む様に視線を巡らせる。
「あらあら、これは……、面倒な因果を抱え込んだ者をかばっているのですね。お姉様。永遠の月の罪人、蓬来山輝夜。わざわざ未来から私の山にまで来てくれたのね。貴女、運命を書き換えるつもりね? 勇敢ですこと。神々の領域で戯けた遊びをするなんて、輪廻の輪を外れたものを懲らしめる方法も無いわけでは無いのよ?」
咲耶姫の声音がおどけた様子から、怒気を含んだものに変わる。
「汚らわしい! これは私への当て付けですかお姉様! 月の霊薬などと言う私の霊域を汚す危険物を持ち込ませた挙句、私の名を騙って帝の命を受けるものを謀ろうとは!」
石長姫の表情が曇る。焦りを隠せぬまま返答する。
「それは……成り行き上というか、事を穏便に済ませるために必要だったのだ」
「言い訳は聞きたくないですわ。貴女は、以前に醜い自分に対して、私が美しいからと当てこすりをしてきた事もあるではないですか!」
「それは今、何も関係ないじゃないですか! 貴女こそ、私に富士より高い山は相応しくないと、八ヶ岳を砕いて低くしたこともあるではないですか!」
「まだ根に持っていたのですわね! 富士の権威を失墜させるために、こんな謀りまでするなんて、心根まで醜いですわ!」
私は、呆気にとられて咲耶姫と石長姫の言い合いを見ていた。石長姫の表情が憎悪に染まる。咲耶姫はヒステリックに叫び続ける。周囲を見ると、二人の神通力が山の自然にまで干渉しているようだ。雲の流れが急激に早くなり、富士山の火口が鳴動している。
「瓊々杵命にまで醜いと追い返された石女がお情けだけで山の神をやっているなんて、姉妹として恥ずかしいですわ」
「貴女こそお父様の本当の意思を知らないで、人間たちの命を儚くしてしまっている時点で天孫の嫁として失格よ」
不味い、ヒートアップしているのか? 二人の言い争いに連動して雷が鳴り響き、地崩れが起こっている。二人の周囲を淡い炎が覆い包み、破壊的な力の対流が発生している。
兵士達も気が付いたのか、混乱と動揺が広がっている。ざわめき、破壊的力場の発生している二人から離れようと慌てていた。
「ちょっと……石長姫!」
「止めないで下さい。この女はここで殺しておかないと私の存在意義に関わります」
石長姫の表情は憎悪で彩られている。まさしく鬼女の表情だった。
私が石長姫の肩に触れようとしたとき、富士の火口が爆発した。
大量の火山弾が周囲に降り注ぐ。同時に咲耶姫を取り巻いていた炎が炸裂して、青い炎が辺りに引火する。
石長姫は炎に包まれた。髪の毛や肉が焼ける蛋白質が焦げる臭いが辺りに漂うが、そんな状態にも関わらず石長姫は咲耶姫の元に歩んでいく。
「変わらずの力を持つ私に、そんな攻撃が効くと思っているのですか」
石長姫は咲耶姫の首を掴むとばきりと嫌な音がした。首の骨を砕いたのだ。
華奢な身体をした咲耶姫はその場に崩れ落ちる。口元には一筋の血が流れている。
顔の一部から骨が露出するほど焼け焦げた石長姫はそれを見て哄笑する。
「はははははははははははははは! 呆気無い! 私はこんな女を恐れていたのか! 積年の恨みがこれで終わると思うな! その身、千に裂いて鳥葬にしてやろう」
その時、不思議な光景が網膜に飛び込んできた。
咲耶姫の死体に煙が立ったと思うと、一瞬にして豪炎に包まれたのだ。死体は数千度にもなりそうな炎で一気に炭になった。
呆気にとられた様子で見ていると、灰は風によって一箇所に集められて、灰の中から人が立ち上がった。
「変わらずの力がなんですって? 萌え出づる植物は流転して何度でも蘇るのですわよ」
そこには、怪我一つしていない咲耶姫が凍えるような微笑で立ち尽くしていた。
咲耶姫は手をかざすと、火球を石長姫に向けて打ち出す。石長姫は背後に吹き飛ばされた。
「どだい場所が悪かったですわね。私の霊域で私に喧嘩を売るとは。どんな岩でも溶岩になるまで焼きつくして差し上げましょう」
「咲耶姫っ!!!!」
ついていけない。この二人凄残な殺し合いをして、死をも超越して延々と殺し合うつもりだ。
未来での私と妹紅も殺し合いはするが、一度殺した相手は手を出さないという不文律はある。出会った当初は険悪だったが、永遠ともいえる時間のルーチンワークとも言える殺し合いの中で慣れ合いの空気ができたのは否定出来ない。だが、この二人は今ここでお互いの存在を消し去ろうとする殺し合いだ。
それに周囲に与える被害に全くお構いなしだ。咲耶姫が放った炎や火山弾で、同じ場所にいた兵士達に燃え移っている。火山弾に頭を砕かれた死体や、炎上したあとくすぶっている死体が辺りに散乱している。
そう言えば、岩笠と妹紅は?
目を凝らして探してみると、居た。岩笠は足を怪我しているのか、足を引きずりながら歩いている。妹紅は、そんな岩笠に肩を貸して並んで富士の山頂の出口に向かって歩いている。岩笠が担いでいるのは蓬莱の薬だろう。
私は、二人に向かって走った。何がしたかったのかは分からない。妹紅を消すために過去に来たはずなのに、神々の争いに巻き込まれる事になってしまった。争っている二人の思惑通りには進ませない。それだけの考えで走った。
「岩笠!」
「……あぁ、お前か。我々は撤退する。お前も早く逃げた方がいい」
岩笠は、憔悴し切っている。妹紅は、私を睨みつけていた。
「咲耶姫、では無いようだな。お前が何者なのかは知らないが、神々を騙る様な事をすべきでは無いな」
「岩笠、口を利くな。こいつが全ての元凶の様なものだ。おい、さっさと立ち去れ!」
妹紅は振り返りもせずに、岩笠とともに歩みを進める。私は、手を伸ばしかけたが、どうすることも出来ずに見送るしかなかった。
あの殺し合っている二人を止めるしか無い。私は覚悟を決めて、荷物の中から蓬莱の玉の枝を取り出した。
状勢は咲耶姫が有利なままで進めている様だ。相手は炎の眷属の神だ。水の力で対抗するしか無いはずだ。力を蓬莱の玉の枝に込める。
「咲耶姫!」
「あら、月の姫? 貴女も焼き尽くされたいのですね」
こんな状況にも関わらず、咲耶姫はそよ風の様な笑みを私に送ってくる。咲耶姫が手をかざすと、灼熱地獄の業火の如き大火球を放ってきた。
神宝の力を借りる。
「神宝『サラマンダーシールド』!」
炎の塊が私を直撃するが、一切焼けずに後ろへやり過ごす。次の神宝の力を取り出す。
「神宝『ブリリアントドラゴンバレッタ』!」
龍神の力を借りて、暴風雨を巻き起こす。弾丸のような雨が顔を打つ。溶岩が冷やされて、辺りで大量の水蒸気が立ち上る。
「あらあら、なかなかやりますわね。でも、私に攻撃する手段がない以上、ジリ貧ですわ」
そうなのだ。火の力を打ち消すことは出来ても、咲耶姫を倒す手段がない。
こうなったら蓬莱人の不死を利用して刺し違えるしかないか? しかし、石長姫がそれをしても、あちらも不死なので全くケリが付かなかった。
永遠と須臾を操る力。それしかない。力を使い、咲耶姫を時の流れから切り離す。閉じた時間軸に幽閉するのだ。問題は力の行使をするために集中する時間を、咲耶姫を相手にしながら稼ぐことができるかということだ。
……ここは彼女を頼るしかないか。
石長姫を見た。身体中が焼け爛れ、一部は炭化している。そんな状態で動けるのかと思えるほどだが、痛みなどを感じている様子は全く無い。憎しみを込めた視線で咲耶姫を睨みつけている。
「ねぇ石長姫、協力してくれない?」
「……なんですか? 今更、私に何を頼るのですか?」
「時間を稼いでくれない? 永遠の時間の牢獄を作って、咲耶姫をそこに閉じ込めるのよ」
「……どれぐらい、時間がかかるのですか?」
「五分よ。ところでそんな身体で戦って大丈夫なの?」
「変わらずの力がある限りは私は不滅です。炎で私を滅ぼす事は出来ません」
振り返り、咲耶姫を見つめる。相変わらず妖艶とも言える笑みで、炎をもてあそんでいる。
「消し炭になる覚悟は出来ました? いい加減、貴方達と遊ぶのにも飽きてきましたわ。全力で魂まで焼き尽くしてあげる」
咲耶姫のかざした掌から、轟音と共に大火球がいくつも放たれる。
石長姫が私の前に立ちはだかる。
火球が炸裂して、何度も爆発が起こる。
爆炎が収まった後、前を向くと石長姫が走りだしていた。
「貴女は先程言った方法を急いで下さい! ここは私が時間を稼ぎます!」
石長姫は貫手で咲耶姫を襲う。
「お姉様。しつこいですわね。肉体はもういらないですわね」
咲耶姫が手を振り下ろすと、猛烈な火柱が立ち上がる。
爆炎に当てられて、石長姫の身体が吹き飛ばされる。身体が真っ黒に炭化している。
真っ黒に炭化した肢体のまま、再び立ち上がり咲耶姫に突撃する。
私は身体の中心に力を込める。永遠と須臾を操る力で時が閉じた空間を転移させる。目測で咲耶姫の位置を特定して力を移す。時間の流れを掴み、それをコントロールするために集中する。
「……あと少し……!」
時間の檻が完成しようとしている。私は極限まで集中した。
その時だった。身体が金縛りの様に動かなくなった。
「何かしようとしているようですわね。無駄ですわ、こちらはとっくに察しています」
咲耶姫だ。神通力で私を縛ったらしい。
集中力が限界だ。完成した時間の檻が崩れていく。あと少しなのに!
「先に貴女を滅ぼした方が良いようね」
咲耶姫が指をかざすと炎の槍が現れた。振りかぶるとこちらに投げつけた。
動けない! 神通力を破る程の力が残っていない。このままでは槍に貫かれる!
身体に衝撃を感じた。身体が横倒しに倒れる。
強く閉じていた目を開く。
身体に痛みは無い。慌てて胴体を確認したが槍は貫いていない様だ。
振り返ると、そこには少女が倒れていた。
「……妹紅!」
「……よかった、その様子だと無事だな……」
妹紅が私をかばったのか!? 妹紅の腹部から大量の血が流れている。私は手で押さえたが、それにもかかわらず血は流れ出ていく。
「なんでこんな馬鹿な事を!」
「おまえ、輝夜だろ……? 輝夜が私以外に殺されるなんて認めたくないんだよ……」
妹紅は咳き込むと大量の血を吐く。
「馬鹿!! 貴女、今死ぬと本当に死ぬのよ!」
「いいんだよ、私にはもとより行き場なんてなかった。死んだとしても顧みる者なんて誰もいない。ここに来たのも死に場を探すようなものだ……」
妹紅は満たされた様に微笑む。役目を全て終えて、天に帰る様な面持ちだ。
涙が溢れる。私の中の感情を持て余していた。妹紅に救われた。それは自尊心からしても許されるものではないのに、泣きたくなんて無いのに、熱い涙が次から次から湧いてくる。えづいて苦しい声を引き出す。
「なに勝手に満たされて、勝手に死のうとしてるのよ! 認めない! 認めないわよそんな事! 生きて苦しみなさい!」
妹紅は弱々しく微笑むと意識を失った。顔面が蒼白だ、じきに脈も消えるだろう。
涙を拭うと、蓬莱の玉の枝を握り立ち上がった。未だ争っている石長姫と咲耶姫の姉妹を見据える。
真っ黒に炭化して異形の者となった石長姫は、まだ咲耶姫に喰らいついている。咲耶姫は高笑いをしながら炎を繰り出している。
今なら間に合う。時の牢獄を再び再構築する。精神の中で形を成していたそれを具現化する。
咲耶姫がこちらに気付いた。
「あら、まだ生きていたのですね」
咲耶姫はこちらに向き直ると、両手を空にかざし、今までに無いぐらいの大火球を作り出す。
「でも、消えなさい」
「咲耶姫!」
殆ど炭となった石長姫が後ろから咲耶姫に組み付く。羽交い締めにした。
「蓬来山輝夜! 今だ! 私ごと咲耶姫を封じなさい!」
組み付かれた咲耶姫は焦ったようにもがく。
「離しなさい! 私は神なのよ! 富士の主神である私にこんな事をするとただじゃ済まないわよ!」
「輝夜! いいから早く!」
精神を集中させる。時の檻は完成していた。
「いい加減しつこいのよ! この性悪サディスト女! 永遠より長い、神からも見放された時間の牢獄に、永久に封じられなさい!!」
咲耶姫に向けてかざした掌を握りしめる。
半透明の灰色の球体が咲耶姫に向けて収縮する。
閉じ込められた咲耶姫が内側から激しく叩くが、構わず私は時間の流れを断ち切った。
辺りに硝子が砕ける様な激しい音が響く。咲耶姫と石長姫を乗せた時間軸が現在の時間軸から流離して虚空に流れていく。
そして、全てが終わった後に私は膝から崩れ落ちた。
「おい、大丈夫か!? 起きろ!」
瞼を開く。気を失っていたらしい。閉ざされていた思考に世界の情報が飛び込んでくる。
身を起こした。頭が痛い。集中しすぎたのか? 力が殆ど残っていない。そうか、永遠と須臾を操る力を使って、時間軸を切り離すなんて無茶な行為をしたんだった。これだけ力を使い果たして私は現代に戻れるんだろうか?
取り留めのない思考をまとめて、私に呼びかけている者の顔を見た。
「……岩笠」
「大丈夫か? 随分と長い間、気を失っていたんだぞ?」
抱き起こされて周囲を確認すると、散々たる様子を目の当たりにした。
いまだ流れ出る溶岩流が辺りに硫黄臭と水蒸気を撒き散らしている。溶岩流に巻き込まれ兵士達が焼死していた。火山弾や咲耶姫が放った火炎弾で焼け死んだ兵士達の死体が辺りに散乱している。地獄と呼んでも差し支えのない光景だ。
「皆死んだようだ。私だけ生き残ってしまった」
「これからどうするつもりなの?」
「さてな、帝のもとに戻り復命しようにも、これだけの損害を出してしまったら、私の首一つでは足りないだろう。大陸にツテがあるから亡命でもするさ。それより君はどうするのかね?」
私は……。
「……妹紅は?」
「妹紅か……あの子は……」
岩笠が視線をやった先を見ると、妹紅が胸に手を組んで横たわっていた。
「可哀想に、この子も弔ってやらないといけないだろう」
岩笠は目を閉じて両手を合わせた。
私はどんな表情をしていただろう? 寝ぼけていた頭が一気に覚醒して、慌てて立ち上がった。
急いで妹紅の元に駆け寄った。
「……なにふざけているのよ。起きなさいよ! こんな所で死んだふりをしてるんじゃないわよ! 妹紅!!」
妹紅の身体を揺さぶったが、一切反応がなかった。腹部には大きな刺し傷があり、大量の血が流れた跡がある。呼吸はとっくに止まっていた。
私は妹紅の死体の胸ぐらをつかみ上げ、吊るし上げようとした。
「アンタが死ぬわけないじゃない! いつだって勝手に復活して私に面倒ばかり掛けにくるじゃないの! なんでこんな所で死ぬのよ、妹紅!!」
「もうよさないか!」
岩笠が、私と妹紅の間に割り込んで止めにかかる。
「落ち着け。大切な人が死んで取り乱すのは分かるが、もう戻ってこない。とっくに死んでいるんだ」
「コイツはそんな奴じゃないのよ! 何時だってどんなに殺しても憎たらしい顔で復活して来るのよ!」
「? 何を言っているのだ? とにかく落ち着け」
岩笠は不審そうな顔だが、慎重になだめてくれる。私は滲んだ涙がうっとおしくて、袖で何度も拭った。
「死んだ者は戻ってこないのだ。悲しいかも知れないが、涙を拭け」
「だから、私とコイツはそんな関係じゃない!」
岩笠が慰めてくれるが、悔しくて涙が溢れる。
その時、岩笠が背負っていた、あるものが目に付いた。
「蓬莱の薬……」
思考が急回転を始める。蓬莱の薬は魂の限界を崩壊させる薬で、死を退ける。ひょっとして死んだばかりの妹紅ならば、魂が近くにあるので蘇る事も可能なのじゃないか?
「……岩笠、その薬を渡しなさい」
「これか? 何に使うつもりだ?」
岩笠は不思議そうな顔をする。
「一応、私にはもう不要の物だが、帝が直々に廃棄するように仰られるようなものだぞ」
「それは元々、私の持ち物よ。私が帝と翁に贈った贈り物。どう使おうかなんて私の勝手よ!」
「ふむ、高貴な方であると想像はしていたが、かぐや姫だったか」
岩笠は背負っていた蓬莱の薬を下ろすと、私に手渡した。
「不死の霊薬だぞ。……まさか使う気か?」
私がここに来た元々の目的は、妹紅を抹殺する為だった。妹紅がここで蓬莱の薬を飲む運命を上書きする為にここに来たのだ。
だが、結局のところ運命は変える事は出来ないらしい。私のプライドに掛けて、妹紅のこの死に様は認めることが出来ない。咲耶姫と石長姫の憎悪に巻き込まれて、妹紅は殺された様なものだ。しかも、私を庇って死んだ。不愉快だ。
妹紅は私が殺す。私のものだ。それ以外は認められない。
「決意なんてとっくに出来ている。妹紅はここで生き返る。妹紅は私にとって必要なのよ」
薬壺の蓋を開く。月の薬草の香りが辺りに漂う。薬を口に含む。尋常じゃない苦味が溢れる。やはり以前に飲んだ時もそうだが、飲みやすさを考慮されては生成されていないらしい。
「意識を失っていると楽なものね」
妹紅の身体を抱き起こすと、唇を重ねた。
舌先で口をこじ開けると、口移しで蓬莱の薬を妹紅に飲ませた。喉元が動く。薬を飲み込んでいく。
「……ぷは、飲んだわね。さぁ、蘇りなさい妹紅!」
蓬莱の薬の反応が始まる。青白い輝きが妹紅の身体から放たれる。魂が変性して膨大なエネルギーを生み出す。妹紅の指がぴくりと動く。
「……ん」
妹紅の顔に色みがさす。胸が微かに上下に動く。
やがて、微かに瞼を開いた。
「……ここは……私は死んだはずじゃ……」
「妹紅!」
私は妹紅を抱きしめる。妹紅は腕の中でもがく。
「おっ……おい、いきなりなんだよ! どこ触ってんだよ!」
「うっさいわね! こんな時ぐらいいいでしょ!」
最初はじたばたと暴れていた妹紅だが、やがて大人しくなった。
「何かしらないが、お前が私を助けてくれたのか、輝夜?」
「私はアンタを失うのを認めたくないだけよ。戻ってきて良かった……」
「……勝手な奴だな。私の寿命は永遠なんだろ? ……その長い時間を、私はどう生きればいい?」
「私の事だけを思っていればいいのよ。私がそうであるように」
無論、殺し合いの事なのだが、私と妹紅を繋ぐ絆はそれだけしかない。
私は妹紅の身体を離した。岩笠に顔を向ける。
「すまない岩笠、妹紅の事をお願いしていい? 私は帰らないといけないのよ」
岩笠は、妹紅と私の両方の顔を見て答える。
「大陸で逃避行しなければならないが、一人ぐらいなら連れがいても問題あるまい。一緒に行くか? 妹紅?」
妹紅は岩笠の顔を伺うと、小さく頷いた。
「ならば準備しよう。私達の立場上、いつ追手がかかるか分からない。急ぐぞ妹紅」
「頼むわ岩笠。妹紅、それでいいのね?」
「あぁ、お前とはいつ会えるようになるか分からないけどね」
私は富士山頂を振り返った。未だ悪夢の様な光景が残されている。だが、私たちは歩き出さないといけない。新たな運命は回り始めたのだ。
なんやかんやの艱難辛苦を乗り越えて、私は永遠亭に帰ってきた。途中、力尽きて道端で行き倒れてしまったが、親切な人に助けてもらって、なんとか二度めの時間旅行を終えることができた。今回の教訓は、思い付きで時間旅行なんてしてはいけないということだ。
杖にすがりつく様にして永遠亭の門に辿り着くと、庭から賑やかな声が聞こえる。
軽い足音がして振り返ると、てゐが笑顔で出迎えてくれた。
「おやぁ、姫様。旅から帰ってきたのかい?」
「ええ、てゐ。心配を掛けたわね」
「心配してるのは師匠と優曇華だけさね。師匠なんて、心配のあまり寝こんじまった。鬼の霍乱って奴だね。すぐに顔を見せに行ってやりな。それで、探していた自分は見つかったかい?」
「探して見つかるようなのは、本当の自分じゃないわよ。くたびれ儲けの旅だったわ」
「土産はないのかい?」
「餞別ケチったじゃないの。そんなものないわよ」
「いけずだなー。まぁいいや。私は忙しいから、またね」
てゐは、はだしの軽い音で庭先に駆けてゆく。庭先では兎達が餅を突いていた。
診療所の引き戸を開くと、鈴仙が驚いたように立っていた。
「姫さま! 今までどこに行っていたのですか!?」
「ちょっと野暮用で平安時代まで行ってたの。永琳いる?」
「何を言っているのですか! 師匠は心労で倒れてしまって、診療所は休診です!」
鈴仙はぷりぷりと怒っている。私はバツが悪くなってしまい、顎を掻いた。
「永琳そんなに悪いの?」
「いえ、蓬莱人なので身体の具合は問題ないのですが、姫さまがいないストレスで、寝床から起き上がることも出来なくなったみたいです」
あちゃー。これはお小言の一つも覚悟しないといけないみたいだな。
「ところで、私が旅に出てどれぐらいの日にちが経ったの?」
「もう一月は経っています。師匠のお世話もしないといけないし、薬の行商も行かないといけないし、私も過労で倒れてしまいそうですよ!」
「ふーん、苦労かけるわね。悪かったわね、鈴仙」
「本気で言ってるのですか! もうっ!」
鈴仙は頬を膨らませて、離れの方へ行ってしまった。やれやれ、あそこまで怒ると鈴仙はしつこい。後で機嫌でもとってやろう。
「永琳、居る?」
永琳の部屋の前で、ふすま越しに声を掛ける。かなりの間、待たされた後に中から声がした。
「入ってください」
一応、頭を下げて反省した振りをしながら中に入った。
永琳は、仕事用の服装とは違う私服で、布団を腰まで掛けて身を起こしていた。表情は温度を感じさせないぐらいに冷たい。
「随分と長いお出かけでしたね」
永琳は冷たい声を出す。上目つかいで表情を盗み見るが、目さえ合わせてくれない。
「ちょっと自分自身を見直そうと思って遠くまで旅に出てたのよ。自分探しの旅ってやつ?」
はははと笑うが笑い声は部屋の沈黙に飲まれていった。気まずい。
「それで、気は済みましたか?」
「……一応ね」
「どれだけ私が心配したか分かりますか? 姫さま?」
「……分かってるわよ」
こうなれば、永琳の怒りを受け止めるために首をすくめるしか無かった。
「一応、私も過干渉ではないかと思っているのですが、貴女の身は貴女一人の物ではないのです。ある程度の自由は認めているはずです。月から逃げていた頃とは違い、今では身を隠す必要は無い。とは言え、いつどこで何が起きるかは私でも保証できないのですよ」
「……」
「心配している私の事を考えろ、と言っている訳ではないのです。ただ、心配する従者の事を慮っても良いではないですか、姫さま」
永琳は無表情のままだったが、その頬を涙が伝った。
「本当に心配で心配で仕方なかったのです、輝夜。貴女の身に何かがあったら、死ぬことすら出来ないこの身で、どう償えばいいのかばかり必死に考えていました」
「永琳……」
手をあげられるよりも、無言で泣かれる方が辛かった。信じられないぐらいの長い付き合いだが、永琳を泣かせてしまったのは初めてかもしれない。
今頃になって取り返しの付かない事をしてしまったと焦りが出てくる。
「あの……永琳……」
「お願いします、輝夜。次に何処かへ行くときには私なり、鈴仙なりを同伴させてください。不躾なお願いだとは分かっていますが、何卒お願いします」
永琳は深々と頭を下げた。
卑怯だ。こんな言われ方をしたら断ることなんて出来ないではないか。
「頭を上げてよ、永琳。分かったわよ。次からはそうする」
永琳の顔から深刻さが薄れた。
「分かっていただけましたか。従者たる身で過ぎたることを言い過ぎました。何も姫さまを束縛するつもりはありません。ただ、共に生きる立場の者を慮って頂ければと思っただけです」
永琳や鈴仙は、従者と言えども家族同然の付き合いの者達だ。まぁ、ちょっと私を束縛しすぎの所はあるかもしれないけど、その心遣いまでうっとおしく思うことはいけないだろう。改めて、今回の旅の不毛さを思い知らされる。
「さて、姫さま。部屋を出ていただけませんか? 着替えをして診察所のカルテの見直しでもしようと思います」
「もう起きて大丈夫なの?」
「姫さまの顔を見たら、憂鬱な思いも消えました。もう大丈夫です」
「そうね。ただ、無理はいけないわよ。蓬莱人といえども身体は養生すべきだわ」
「ええ」
私は部屋を出た。永琳はもう大丈夫だろう。冷静さを取り戻した永琳なら、これまでどおり辣腕で永遠亭を切り盛りする事だろう。
途端に暇になった私は、もう一人の蓬莱人の事に思い至る。妹紅はどうしているのだろう? 過去で消し去ることができなかったから、今でも健在だろう。たまにはこちらから出向いてやっても良いかもしれない。
通りかかった鈴仙に妹紅の事を尋ねる。
「妹紅ですか? たまに見かけますが、永遠亭の方まで来ることはないですね。いつもの竹林の炭焼き小屋の方に居るんじゃないですか?」
「何か変わった噂は聞かなかった?」
「いえ、特には」
過去が多少なりとも変わったのだから、妹紅にも変化があったかもしれないと思ったのだが、別に変わりないらしい。
「それよりも姫さま。師匠に聞きましたが、次に旅に出るときには、私がお付き添い致します。また一人で出て行っちゃ駄目ですよ?」
「あぁ、それね。しばらく旅なんてしたくもないわよ。永琳の様子はどうだった?」
「姫さまと再会して、ご機嫌な様子でした。一月間、私一人で永遠亭を切り盛りしてたことを褒めてくれたんですよ」
「ふーん、良かったわね」
鈴仙の機嫌も直ったらしい。暇つぶしに人里にでも出て、鈴仙が機嫌を直しそうな物でも見積もろうかと思ったか、当てが外れた。
「暇だから妹紅の所でも行ってみようかしら?」
「いつものですか? 夕餉までには戻ってきてくださいね」
鈴仙も、永琳が復活して忙しそうだ。私が引き止め続けるのも野暮だろう。仕事が上手く回っているのなら、私は口出しする気も術も無い。
永遠亭から竹林にぶらぶらと出かける。竹林はいつもと変わらず、深々と茂っていて、時折トンビが鳴き声を発する。竹林を風が吹き抜けて額の熱を冷ます。
四半刻ほど歩いて、妹紅の炭焼き小屋に辿り着いた。妹紅は、炭焼きと迷いの竹林で遭難した人を助けて謝礼で暮らしているのだ。いかにも、アイツにお似合いな貧乏臭い生き方だと思う。
炭焼き小屋の入り口から洞窟の様な内部を覗く。薄暗い室内に妹紅は居ないようだ。その時、裏手から唐竹を打ち割る音が聞こえた。竹炭にするために竹を切っているのだろう。小屋の裏手に回ることにした。
居た。背中をこちらに向け座り込んで、ナタを振り上げて竹を切っている。
一瞬、声を掛けようかとも思ったが、普通に呼ぶのも友達みたいでなんか癪だ。私は弾幕を叩きつけようと、力を込めて手をかざした。
次の瞬間、ナタが唸りを上げて飛んでくる。それは首の皮一枚をかすめて、背後の壁に突き刺さった。
「ご挨拶ね、妹紅」
「何しに来た、輝夜」
妹紅は座った目で陽炎のように立ち上がる。ばきりと指を鳴らしながら、炎を拳に纏わせた。
私はいつでも放てる様に神宝を展開させた。
「別に。アンタが私が居なくて寂しがってるかと思って、わざわざこんな貧乏臭い所まで出向いてやったのよ」
「働きもせず食っちゃ寝してるお前に何が分かる。テメエの面を見なくて済んで、心の洗濯が捗っていたんだ。返せよ、私の貴重な仕事時間」
「あら、私は高等遊民ってやつよ。せこせこ小銭をかき集めないと、人並み以下の生活を維持できない乞食が。口を利くだけ有難いと思いなさい」
「上等だ。その減らず口、二度と叩けないようにしてやる」
あれ? なんで妹紅と戦う展開になってるんだ? 条件反射で戦闘態勢に入っているけど、当初の目的と違う気がする。
飛びかかろうとする妹紅を手で制する。
「待った。今ここで、貴女の貧乏人生を終わらせてもいいのだけど、今日はちょっと趣向を変えて、少し、昔話をしましょう」
「なんだ? 怖気づいたのか? お前の言う事を聞く理由は無いな」
「岩笠のその後を知りたいのよ」
今にも爆炎を放とうとしていた妹紅が、ぴたりと止まった。むず痒い様な表情をして、渋々、炎を消した。
「なぜ今更、あの時の話をしないといけないんだ? お互い、恥ずかしい過去は蒸し返したくないだろ」
「貴女の命を救ったのは私なのよ。その後を知る権利はあるわ」
妹紅は視線を宙に彷徨わせる。迷っている様な、困っている様な、初めて見せる表情だ。
「……分かったよ。確かにお前が言う事にも一理ある」
妹紅は振り返り、切り株の所まで行くとドカリと腰を下ろした。
「で? 何を知りたい?」
「富士山頂で貴女が蓬莱人になった後に、岩笠と大陸に渡ったでしょ。それからどんな人生を送ったの?」
本当に恥ずかしい事を聞くなと言い、妹紅は頭をバリバリと掻いた。
私はひとまず神妙な顔をして、話を聞く姿勢を見せた。
「あれから私と岩笠は、海を渡り大陸に行った。追手を撒いたり、荒れる海を乗り越えたりと、それだけでも結構な冒険だった。大陸に渡った後も、言葉も通じない異国の地で一文無しで放り出されたんだ。人並みに食うことが出来るようになるには時間がかかった。だけど、岩笠が一生懸命働いてな。数年後にはそれなりの生活が出来るようになっていた」
妹紅は思い出すような目をする。
「人並みに生活できるようになっても、私は周りの人々から浮いていた。周りの人々を一切信用できなかったんだ。貴族時代にちやほやしていた連中が、没落した途端、手のひらを返すように無視したことが、私の中で尾を引いていたんだな。だけど、岩笠がそんな私の頑なな心を砕いてくれた。岩笠はその時、商才があったらしく店を持って商店の主になっていた。岩笠は私に商売の手解きをすることで、人とどう付き合えば良いのか、どんな風に胸襟を開けば良いのかを教えてくれた。それで、貴族ぐらしで人とのつきあい方なんて知らなかった私も、色んな人に心を開けるようになっていったんだ」
妹紅はどう話していいかを迷っている様だ。私は手で話を促した。
「やがて岩笠が嫁を娶ったんだ。めでたい事だけど、私は岩笠が取られるような気がして、気が気じゃなかった。だけど嫁が本当に優しい人でな、岩笠の連れ子として私を可愛がってくれた。やがて、岩笠の嫁にも子供が出来た。愛情が新しく生まれる子供に奪われるのでは無いかと思っていたが、岩笠も、その嫁も、私たちに等しく愛情を注いでくれた。それから長い月日が経つが、蓬莱人である私は全く歳を取らないんだ。私も、最初は家を出るべきか悩んだ。家の中に化物が居るようなものだからな。だが、岩笠が説得してくれることで、私は家族に蓬莱人として受け入れられたんだ」
それは……。
「貴女、家族が居るの?」
「ああ。もうとっくに何代も代替わりしているがな。大陸には岩笠の一族がいる。一族が住むのは大きな街になっているよ。岩笠の死も私と家族で看取ったんだ。穏やかな最期だったよ。それから私は家を出た。老いもせず死にもしない不死者が居続けるのは不気味だったからな。それから私は岩笠の一族を影から支える事にしたんだ。農耕技術や作物などを支那各地から集めて、旅人の振りをして一族の者に伝えていた。色んな所を旅した。天竺から崑崙まで、大陸のありとあらゆる所を巡った」
私はある事が気になった。蓬莱人ならば一度は通る道だ。
「ねえ、妹紅。周りの人が寿命でどんどん死んでいくのに、不死である己を呪わなかったの?」
「初めの内は呪ったさ。だがな、築きあげてきた絆が私を支えてくれた。人は生き、一夜の夢の如く生涯を送り、死んでゆく。それを目の当たりにした私は無常を感じたものだ。それでも人は生きた人生に関わった人たちの中に記憶を残す。それが網目の様に人々を結びつけ、一つの大きな人格を作り出す。それが絆だ。私は人々の中に居る限り、孤独を感じなかった。支えてくれる全ての人達に恩返しをする事。それが私の存在意義だ」
以前の妹紅は不死の運命を呪い、出会うもの全てを滅ぼし、そして虚無感で塞ぎこんでいた。私には、永琳という隣で支えてくれる者が居たのでそんな事に陥らずに済んだ。妹紅は不死である者の壁を乗り越えたのだ。岩笠との旅が妹紅を変えたのだろう。
私は一気に徒労感に襲われた。私が妹紅を滅ぼすためにした旅が妹紅を救ったのだ。あの苦労は何だったんだろう?
「何だよ嫌そうな顔して。私の存在意義がそんなに不満か?」
「……んー、いやね、己の愚行をこれほど恥じるのも初めてかもしれない。私が貴女を救ったのか……」
私の中には一つ、恐れがあった。妹紅は全てが変わってしまったのだろうか? 勝手に救われて、勝手に悟ってしまったならば私はもう一度、旅に出ることも厭わない。
質問が口をついて出た。
「ねぇ妹紅。あの富士山頂で蘇った後、私の事をどう思ってたの?」
竹林をまた風が吹き抜ける。妹紅は長い沈黙の後で立ち上がった。
「なあ、輝夜?」
「なによ」
「まだるっこしい話はもう飽きた。いい加減、殺らないか?」
「最後の質問に答えていないじゃない。貴女は私への恨みは無くなった訳? 悟ったならば仏にでもなればいいじゃない。こうしてまた、幻想郷で私に対峙している理由はどうしてかしら?」
妹紅はうつむく。そして、静かな声で切り出す。
「岩笠との旅を経験した私にとって、父上の恨みはもう過去のことだ。あの時から私は死に場所を求めていた。蓬莱の薬を取り返して、華々しく散れればいいかと思っていた。だが、死を経て蘇った時にお前から言われた。『私を永遠に想っていろ』と。旅を終えて、お前の事を探してた。私は安穏な悟りより……」
妹紅が輝きを増した。鳳凰の翼が現れる。火の粉の様に羽根を散らす。
「……お前の事を、殺したいほど想っている」
私はその幻想的な光景を見つめていた。
なんだ、安心した。何も変わっていないじゃないか。
時を越え、運命を上書きしてさえ、憎悪と殺意を交わし合う、そんな日常は変わらない。
血がたぎる。戦闘の興奮に子供のように歓喜する。そんな血なまぐさい日常こそが私たちには相応しい。
やれやれと横着な私は蓬莱の玉の枝を手にした。炎を纏う妹紅に目を向ける。そして、優しく微笑んだ。
「私もよ。妹紅」