「今日も平和ですね~」
「そうね」
「こういう日は、お茶菓子を食べながらお茶を飲むというのも、なかなかおつなもんです」
「そうね」
「はたてさん、おかわり」
「何であんたは人の家に来て堂々とくつろいでんのよ」
「あいたっ」
振りかぶったクッションで射命丸文の頭を一撃して、姫街道はたての言葉が痛烈に室内に飛び交う。
とはいえ、ちゃんとお茶のおかわりを用意してあげるはたてである。
「いやぁ、だって、何か知らないけど、私の家に寝る場所がなくなってしまって」
「部屋の中、きちんと片付けろって、わたし、何度も言ってるよね?」
「……あ、いや、その……」
「……ったく」
あとであんたの家の片付けに行く、と宣言して、はたてはテーブルの上におせんべいも出してくる。
文は、だからといって萎縮することなく、早速手をおせんべいに伸ばして、それをばりばり。
「もうちょっと塩味強いほうが美味しいと思うんですけど」
「文句あるなら食べさせてやんない」
「あ、いえいえ。今のセリフは忘れてください」
そして。
「そういえば、あんた、今月の新聞は?」
「今月はあんまりネタがないんですよねー」
「うちも」
「だからといって、発刊しないというのはジャーナリストとしてあってはならないことで」
「人里の『美味しい飯屋』でも特集しようかな、って」
「ああ、そろそろ秋ですもんね」
秋と言えば、色んな秋が人それぞれにあれど、やはり一番有名な秋は『食欲の秋』である。
ここ、妖怪の山も、秋になれば木々が色づき、たくさんの山の幸に恵まれる。
秋を境目に体周りが豊かになってしまって、飛行速度が低下する天狗が出るのはしょっちゅうのことだ。
「秋、秋かぁ。
はたてさん、この前作ってくれた、栗の甘露煮、またお願いしますね」
「何であんたに、そんな手間のかかるものを何度も食べさせてやらないといけないのよ」
「美味しいお料理を『美味しい』と言って食べてくれる友人は貴重ですよ」
「そういうときだけ、自分の利点をアピールしないでほしいわ」
「またまた」
「それに、なんでも『美味しい』と言う相手には不自由してないし」
「椛さんって、料理を食べた後『まずい』って言うことあるんですかね」
「ご飯を食べる、それ自体に感謝してるみたいだしね」
と、そんな話をしていると、いきなり、『ばんっ』という激しい音を立てて姫海棠邸のドアが開いた。
何事かと視線をやると、そこには今、話題に出たくだんの人物が立っている。
「はたてさん、匿ってください!」
「は?」
いきなりよくわからないことを言って、その人物――犬走椛は、テーブルの下に避難する。
何事? と顔を見合わせる二人。
それからほとんど間を置かずに、開け放たれたドアの向こうに人影が舞い降りる。
「すいませーん。椛、いませんかー?」
「あれ? あなたは、えっと……」
「茜、だっけ。椛の友人の」
「はい。ごきげんよう、姫海棠さま」
恭しく頭を下げる。
彼女――茜は「椛は来ていませんか?」と二人に尋ねてくる。
文とはたては顔を見合わせた後、揃って、首を左右に振った。
「そうですか。それでは」
一礼し、礼儀正しく、茜は去っていく。
ドアが閉じられ、しばらくした後、
「椛、もういいわよ」
テーブルの下に隠れている椛に、はたてが声をかけた。
「何があったんですか?」
「何か悪いことでもして、お姉さん達に追い掛け回されてるの?」
「人のこと、子供扱いするのやめてくれませんか」
「とはいっても」
「まぁ、椛さんが、我々より子供でないかと言われると『そうではない』とは言えませんよね」
「がう!」
「はい、椛」
「いただきまーす」
怒る椛も、目の前に出て来るおせんべい一つで懐柔される。
美味しそうにおせんべい頬張る彼女を見て、はたてが『で、何があったの』と尋ねる。
「……いや、その……。
私もよくわからないんですよ」
「何でまた」
「えっと……うーん……」
首を傾げる椛。
つまるところ、と彼女が一同に語って聞かせるのは、確かに珍妙な話であった。
「何というか……。
うちの隊長が『椛には、最近、訓練が足りないな』と言い出してきて」
「椛、そういうの、真面目に受けてるんじゃないの?」
「最近、周りに負けがこんでるんですよ」
「白狼天狗連中はストイックなのが多いですからね。
俺より強いやつに会いに行く、とかなんとか」
「それで『じゃあ、椛と親しい奴らで椛を鍛えてやってくれ』って。隊長がやってくれればいいのに」
「あの人、真面目な人だと思っていたけど」
「切り替えが激しいというか、はっきりしてるんですよ。
真面目じゃない時は、ただのいい加減な人です」
しかし、そういう人物であるから、周りからは好かれているのだ、とも続ける。
白狼天狗の社会というやつにも興味が向くのか、文が『へぇ』と頷いている。
「で、追い掛け回されてる、と」
「……まぁ、それだけなら、普段の訓練の延長でよかったんですけど。
木ノ葉姉さまが、何か変なこと言い出して」
「木の葉……って、あの木ノ葉さん? へぇ……」
「何を言い出したんです?」
「それが……」
「『椛狩り』です」
いきなり、開いた窓から一本の矢が飛んできた。
それを、文はひょいと回避し、椛は手にしていたおせんべいを撃ち落とされてぽかんとする。
「ありゃ、茜さん」
「どうも」
窓の向こうに、先ほど、去っていったはずの茜の姿。
彼女は窓の縁によりかかり、椛を目を細めて見ている。
「何よ、椛狩り、って」
通常、『紅葉狩り』というのは見事な紅葉に染まった山々などを練り歩き、その美しい光景を眺め、堪能する秋の行楽の一つである。
しかるに、『椛狩り』というのは、言葉の音は同じでも何か物騒な響きを醸し出している。
「木ノ葉が言い出したのがそれでして。
『椛を捕まえた人は、一日、椛を好きに出来る』って」
「ははぁ。なるほど」
「わたしはそういうの、あまり興味がない……と言うか、悪ふざけは嫌いなのですが。
ただ、最近、椛のお勉強が足りてないのを思い出して。
それで、せっかくだから、『勉学の秋』を堪能させてあげようかと」
「お断りです、茜姉さん!」
「あ、こら! 逃げるな、椛! あなたが散々放置してる参考書、いっぱいあるんだからね!」
「茜姉さんの勉強は難しすぎてよくわからないんですー!」
「こらー!」
何やら騒ぎながら、椛は逃げ出し、茜はその後を追いかけていった。
残された文とはたては互いに顔を見合わせる。
「何か面白そうだけど……。
文、取材してきたら?」
「うーん……。それはそれで、椛さんに敵視されそうですからね。『助けてくれなかった』って。
あのお子様、一度、根に持ったら懐柔するの大変だし」
「まぁ、あの子、年上に好かれてるしね。
たまにはいいんじゃない?」
「はたてさんは助けに行ってあげないんですか?」
「木ノ葉さんが言い出したことなら手は出さない。あの人に何か言うの、わたしも苦手だし」
「あ、わかる」
というわけで、世の中の騒乱荒事大騒ぎが大好きな天狗二名は、今回は傍観者に徹することにしたようだ。
とはいえ、その視線は『さてどうしよう』という色をたたえているのだが。
「椛、待ちなさい!」
「嫌ですよ!
っていうか、遠慮なく矢を射掛けてきてそういうこと言いますか!」
「先端は丸めてあるから安心しなさい!」
「麻痺する薬塗ってるくせに!」
放たれる矢を片っ端から叩き落とし、椛。
この茜なる人物、簡単に言うと『白狼天狗の参謀役』である。
前方に突撃する、椛たちなどの後ろに控え、彼女たちが優勢に動けるように権謀術数を働かせる後方支援役だ。
それ故に、武器も弓矢である。その威力と鋭さは大したものなのだが、椛たちのように『前線担当』の者たちを相手にするには、少々、力強さが物足りない。
「あなたのご両親から、『椛にお勉強を教えてやってください』って頼まれてるんだから!
逃げるな!」
「じゃあ、もっと簡単な問題にしてくださいよ!」
「わたしがあなたくらいの年齢のときには、もうあれくらいの問題は解いていたわ!」
「自分と他人を同レベルにしないでください!」
そしてこの茜、頭がいい。どれくらい頭がいいかというと、白狼天狗といわず天狗社会の中で順列をつけても上位に食い込むくらいだ。
一方の椛はどんなものかというと、『考えるより先に体が動く』タイプであるため、茜との差は、天地とは言わないが雲泥の差くらいはあったりする。
そんな相手が『自分と同じくらいの頭脳を持つ』相手に対して出してくる問題だ。どれほど困難なものかは言うまでもないだろう。
「茜姉さん、勉強ばっかりしてるから、そういうところに気がまわらないんです!」
「さすが、周りからは『忠犬もみじ』と言われるだけはあるわね!」
「誰が犬ですか、誰が!」
撃たれた矢を手にした盾で弾き返し、反撃の一撃を一発。
自分に向かってくるそれを、弾道と勢いを一瞬で計算し、最小限の動きで回避する茜。
その間に生まれた間隙を使って逃げようとしていた椛の行動を先読みし、彼女の動く位置へと、己の回避動作と共に攻撃を放つ。
椛は慌てて、飛んでくる矢を刀で打ち払う。
「ああ、もう!」
猪突猛進、考えるより先に体が動く椛にとって、茜というのは天敵である。
仕掛ける攻撃はいなされ、じわじわと追い詰められていく。
自分と同じように力でぶつかってくる相手なら、まだ相対できるものの、こういう『頭のいい』相手は椛はとことん苦手であった。
「さあ、これで終わり! 今日は一日、わたしがみっちり家庭教師してあげるわ!」
椛の反撃を軽々かわし、その動作が続いている間――すなわち、自由な動きが制限されている、僅かな瞬間を狙って、茜の放つ矢が椛に迫る。
椛は『しまった』という表情を浮かべ、しかし、動かない体に言うことを聞かせることも出来ず、飛んでくる矢を見つめ――、
「ダメよ~、そういうの」
いきなり、降って湧いたのんびりした声が、椛に迫る矢を叩き落とす。
「竜胆!? 邪魔しないでよ!」
「そんなこと言わないで、茜ちゃん。
それに、茜ちゃん。いくら茜ちゃんが、わたしの大切なお友達でも、今回は椛ちゃんを譲ることは出来ないわ」
現れたのは、黒髪の背の高い女。
椛や茜とはまた雰囲気の違う、どちらかというと、おっとりした優しい印象の彼女は、
「わたしが椛ちゃんを捕まえて、美味しいごはん、お腹いっぱいおごってもらうのよ!」
「竜胆姉さんにご飯おごったりなんかしたら、私、破産しちゃいますよ!」
宣言する彼女の背中に向かって、椛は全力で反論した。
「……竜胆。あなた、それは無茶よ」
「どうして!? 秋だもの! 美味しいご飯がいっぱいな季節!
一緒にご飯をお腹いっぱい食べる! それってすごく幸せな季節だと思うの!」
「椛。
竜胆に捕まるか、わたしに捕まるか。選びなさい」
「どっちもいやです!」
白狼天狗前線部隊の中で、ひときわ勇猛果敢かつ勇躍一番槍をつける――それがこの竜胆である。
その実力は、はっきり言うなら椛よりも遥かに上だ。
椛にとっては、自分と同じく『考えるより先に体が動く』タイプの人物であり、得意とするものも似通っていることから付き合いやすい相手である。
そして、そんな彼女の特徴は、『一杯体を動かすために、一杯ご飯を食べる』であった。
椛もそれについては異論はない。椛もまた、一杯体を動かし、ご飯を一杯食べる人物であるからだ。
しかし、その量に関しては、竜胆のほうが椛よりも上である。しかもかなりのレベルで。
「そういうわけで、茜ちゃん。椛ちゃんは譲れないわ」
「椛。あなたにとって、どっちが幸せな選択肢か、わかろうものだと思うけど」
「うぐ……」
振り返る竜胆。
今は利害が対立しているから、茜との間に入ってもらえている状況であるが、間違いなく椛の『敵』である。
接近戦となれば勝ち目はない。
「それでも、私、今月は厳しいんです! 竜胆姉さん、ごめんなさい!」
「むっ。そうなのね。
じゃあ、力づくよ、椛ちゃん!」
「やれやれ。
まぁ、竜胆も、わたしの邪魔をするなら撃ち落とすまで」
「そうはいかないわよ、茜ちゃん」
取り出す薙刀。彼女はそれを振るって、椛へと迫ってくる。
そのスピードと鋭さはかくやと言うもの。
あっという間に距離を詰められ、一撃を食らう――ところに、茜が横から矢を放つ。
竜胆は手にした薙刀でそれを撃ち落とすと、すかさず茜に向かって一歩踏み込み、薙刀を突き出す。
「甘い」
両者の距離はかなり近いものとなっている。
遠距離を得意とする弓矢使いの茜がここまで接近するのは、簡単だ。至近距離からの攻撃でなければ、竜胆には当たらないからである。
「茜ちゃん、以前よりも鋭い技を身に着けたようね」
両者の視線が絡み合う。
その瞬間、生まれた隙を見逃さず、椛は逃げ出した。
「こら、待ちなさい、椛!」
「行かせないわよ、茜ちゃん! 人里に、美味しい焼肉のお店を見つけたの! お店一軒、食べ尽くすんだから!」
「あなた、それでよく太らないわね! 椛もそうだけど、不思議でならない!」
「椛ちゃん、今は逃げなさい! あとで捕まえに行くからね!」
「冗談、お断りですっ!」
何かもう敵か味方かわからないが、ともあれ、第三勢力状態の竜胆を全力で振り切るべく、椛は加速した。
後ろから飛んでくる矢は、竜胆が撃墜してくれる。
程なくしてその場から離れることに成功した椛は、一旦、山の中へと舞い降りて太い木の根元に身を隠す。
「冗談じゃないよ、全く。
茜姉さんのお勉強もそうだけど、竜胆姉さんと食事なんてしたら、私は餓死してしまう」
ちなみに本日の『椛狩り』の時間は、『夕暮れまで』となっている。
それまで椛が追手から逃げおおせることができれば『合格』である。何が『合格』なのかはわからないが。
「竜胆姉さんの嗅覚は私以上だし、茜姉さんの目も私以上だ。
とにかく離れよう。
……あ、そうだ。にとりのところに行こう。にとりなら、きっと助けてくれる」
白狼天狗というやつは、実に所属しているもの達の層が厚い。
その中で、椛はまだまだ下っ端なのだ。
『みんながお姉さん』の椛にとって、今、周囲の白狼天狗全てが恐ろしい敵となっている。
だからこそ、最初に『白狼天狗の上司』たる鴉天狗の文やはたてを訪ねたのだが、ダメだ、あいつら、役に立たない。
「もう絶対、『代わりに列並びして』とか言われてもやってあげないんだから」
そこでのへその曲げ方が、まだまだ子供の証左なのだが、椛がそれに気づくことはしばらくはないだろう。
さて、あとどれくらい逃げれば大丈夫だろうか。
今回の『椛狩り』に参加しているのは、自分が属する部隊の者たちのみ。
彼女たちの追撃をかわすのに最適な場所へと、椛は移動していく。
「……水の音」
彼女の耳がさらさらという川の音を捉えた。
よし、とうなずき、彼女は走り出す。
あともう少しで逃げられる――その思いが、彼女の警戒心を薄くした。
「椛ちゃん、みーっつけたぁ!」
「うわぁっ!?」
彼女の身を隠してくれる木々の間を抜けた瞬間、上空から黒い影が飛びかかってきた。
ぎりぎりで回避した椛。それまで椛が立っていた場所に、人影が舞い降りる。
「楓!?」
「むー! 違うでしょ、椛ちゃん!
『楓お姉ちゃん』でしょ!」
「楓を『お姉ちゃん』なんて言えるもんか!」
ちまっとしたロリっ娘がぷんすか怒っている。
両手に反りの入った短剣を携えた彼女――こんな見た目であるが、椛よりも年上の人物である。
「楓も、どこから聞きつけてきたんだ」
「なーいしょ。教えてあーげない」
けらけら笑いながら、楓が地面を蹴った。
その凄まじいスピードから放たれる一撃を、椛は盾を構えてぎりぎりで回避する。
盾の表面を剣の刃で滑りながら、空中でくるりと回転し、楓は地面に舞い降りる。
「逃さないよー。
椛ちゃんを捕まえて、楓と遊ぼう!」
「絶対にやだ!」
この人物、とにかく子供っぽい見た目と性格であるが、その実力は、やはり白狼天狗。
特にスピードに優れたその体捌きは竜胆ですら追いつくのがやっとという程であり、当然、椛では対策を取るのは不可能に近いほど。
「このっ!」
「椛ちゃんの攻撃は一直線すぎて見えやすい! 楓には当たらないのだー!」
「そんな動きを見切れるもんか!」
真横に振るう刃を軽々よけて、楓はいきなり空中に飛び上がり、着地し、背後から椛に襲いかかろうとする。
たまらず、椛は開けた空間から再び木々の間へと逃げ込む。
「これなら……ってぇ!?」
「逃がさないもーん!」
木々の間を素早く飛び交い、あっという間に接近してくる楓。
これはもう白狼天狗というよりは猿かなにかかと思うほどのその動きに、椛は一旦、足を止める。
「つっかまーえたぁ!」
飛びかかってきた彼女を盾で受け止め、そのまま、相手の勢いを利用して後ろへと放り投げる。
「ふぎゅ」
後ろから悲鳴。
恐らく、木立にでも激突したのだろう。
ともあれ、椛はその場から逃げ出していく。
「いったたたぁ……。
もう、椛ちゃん、お姉ちゃんに乱暴するなんて悪い子!」
楓が持ち直したようだ。
また、あの高速移動で彼女を追いかけてくる。
「ったくもう! 楓となんて付き合ってられないよ!」
仕事に真面目で忠実な白狼天狗。その中の異端児が、あの楓だ。
彼女は『遊ぶことが大好き』で、仕事なんていつもほったらかし。そして怒られるのも嫌いなものだから、いっつもどこかに雲隠れし、ほとぼりが冷めたら出てくるという活動をしている。
それ故か、とにかくすばしっこく、体力に優れている。楓と鬼ごっこなんてしようものなら、この世界を何周させられるかわかったものではない。そしてこちらの体力が尽きてへたりこんでいようとも、『まだまだ!』と楓は笑顔を絶やすことはないだろう。
すなわち、この逃亡劇、圧倒的に椛が不利ということになる。
「せいやっ!」
「危ないっ!」
椛だって身のこなしと素早さには自信を持っている。
だが、あっという間に両者の距離は迫り、楓の放つ一撃が、身をかわした椛の横を通り過ぎていく。
「とうっ!」
その勢いのまま、楓は目の前の大木を垂直に駆け上がり、空中で、生えている枝を足場かつ加速のための踏み台として利用し、椛に突っ込んでくる。
盾をかざし、椛は相手を受け止めようとする。
「だから、さっきも言ったよねー! 椛ちゃんは、動きが直線的でわかりやすい!」
楓は、椛の突き出した盾の上に着地すると、両手でそれを掴み上げ、
「もーらった!」
椛の手から盾を取り上げてしまった。
空中でくるくる回転し、椛の盾を放り投げた後、
「さあ、椛ちゃん、捕まえたよー!」
椛は剣を構え、相手の動きを見逃すまいと、両足でしっかりと地面を踏みしめる。
飛びかかってくる楓。
相手の構えた剣が一瞬、椛の視界から隠れるように銀色の線だけを残して動く。
「この……!」
破れかぶれで突き出した刃もひょいと軽くよけられ、楓の小さな手が椛に向かってくる。
そこへ、
「楓、いい加減にしなさい!」
響いた鋭い声と共に、楓の『ふぎゃ!』という悲鳴が響く。
「……え?」
周囲に張り巡らされた銀色の線。
それらが楓を捉えて縛り付け、空中に釘付けにしている。
「ったく……。どいつもこいつも」
そこに新たに現れたのは、この場には場違いな和服姿の女。
「あ……」
その彼女を見て、『救いの女神』を見るような視線を向ける椛。
「桔梗さん!」
「大丈夫だったの? 椛」
上げた声に、桔梗と呼ばれた彼女はため息混じりに答えるのだった。
「本当にもう。
隊長のやることは戦い以外はこれだから。椛に何かあったらどうするつもりよ。これだから、本当にいい加減な人は。あたしは、あんないい加減な奴、一回痛い目を見ればいいといつも言ってるのに」
「ま、まあまあ……」
『桔梗ちゃん、はーなーせー!』と暴れる楓をその場に残し、椛と桔梗は二人、その場を離れて桔梗の家に移動していた。
桔梗は『どうぞ』と椛にお茶とお菓子を出してくれる。
全力であちこち逃げ回っていたため、疲れている椛は、出されたあんころもちに笑顔でかぶりつく。
「大丈夫だったの? 椛」
「あはは……。
茜姉さんに竜胆姉さんに楓に……。追い回されて大変でした……」
「あの人達も、どうしてあんな悪ノリに付き合うのかしら。信じられない」
ぷりぷり怒る桔梗に、『まあまあ』と椛。
今のところ、彼女たちの振る舞いには迷惑していても、それ以外――今日のこの時以外ではかなりお世話になっているのも事実なのだ。椛としては、なるべく、今、敵対している者たちの間には波風立てたくはないのである。
「椛はそんなだからダメなのよ。言うべき時はしっかり言いなさい」
「桔梗さんは、結構、言うこと言う人だから……」
「あたしを見習えって言ってんじゃないの。迷惑なら迷惑だ、ってきっぱり言わないから、みんな調子に乗るのよ」
至極真っ当なことを言う、この桔梗。
今回の『椛狩り』企画において、『そんな馬鹿らしいことしてる暇があったら、他に何かやることあるでしょ』と、これまた至極当然のツッコミをした人物でもある。
「木ノ葉は、普段、真面目なくせに、たまに変なことを言う。隊長はそれを止めるべきでしょうに。逆もまた然りよ。
全くもう」
怒る桔梗に、椛も苦笑いを浮かべている。
確かに桔梗の言うことはもっともだ。というか、『そうだそうだ。もっといえ』である。
だが、天狗社会は縦社会。上からの命令と、上に従う心構えは絶対でもある。
だからこそ、『そんなことやらないでください』と全力で言えなかったのも、また事実であった。『え?』と思った瞬間には物事は決まっており、『決まったことなのだから』となし崩し的に今日の出来事は始まり、そして今に至る。
いかに不服であろうとも、いかに文句言いたくてたまらなくとも、そこには『限度』というものがある。
「椛。あんた、わかってるの? 一番困ってるの、あんたなのよ?」
「ええ、まぁ、それは……」
「そういう態度だから、誰も彼も調子に乗るのよ。
茜も参加してるんでしょ? ばっかじゃないの」
この桔梗、普段からこのように、仲間内に対して不平不満を述べるような人物ではない。
むしろ、普段は茜などと一緒になって椛を叱り飛ばす側である。
だが、今回はどういう風の吹き回しか。
全面的に椛の味方となってくれる彼女の存在は、ある意味、椛にとっては心強い。
「あたしが木ノ葉とかに言ってくるから。
椛。あんたはここにいて、じっとしてなさい」
「は、はい。ありがとうございます」
「別にお礼なんて言われる筋合いないわよ」
ふん、とそっぽを向く桔梗。
心なしか、その横顔には『照れ』のようなものが見える。
「ともあれ……」
――そう言って振り返ろうとした、その時だ。
「――言っとくけど、木ノ葉。いくらあんたでも、それに触ったら痛い目見るわよ」
え? という顔をして、辺りをきょろきょろ見回す椛。
彼女は白狼天狗。その役目は前線での戦闘と哨戒。故に目も耳もよく、周囲の気配を嗅ぎ取る感覚にも優れている。
だが、そのいずれの感覚も働かない。
「ドアを開ける、くらいのことは許してくれないかしら?」
ゆっくりと、家のドアが開いた。
その向こうに佇み、椛の視界に映る銀色の鋼線を挟んで微笑む、銀髪の絶世の美人。
彼女を睨みつけて、「不埒な侵入者は家に入れてやる趣味はないのよ」と桔梗。
「木ノ葉姉さま……」
佇む彼女。
その実力、見た目、性格、頭脳。あらゆるものが『白狼天狗』という種族の中でトップクラスに位置する、そして今回の騒動の主犯格でもある、
「あら、椛ちゃん。ここにいたのね」
木ノ葉、とは彼女のことである。
「木ノ葉。今回のバカみたいなこと、いい加減、終了の命令でも出したら?
隊長は『まぁ、あとのことは木ノ葉に任せる』って言ってたでしょ?」
「まだでしょ? 夕暮れまで」
「こういう下らないことしてる暇があったら、もっと他の有意義なことをしろって言ってるのよ」
「下らなくはないわ。
椛ちゃんが、最近、どうにも結果が奮わないことが多かったのは事実だもの。
みんな、椛ちゃんのために頑張ってるのよ」
「どうだか。
あんたを始めとして、自分のためのような気がするけれど」
「相変わらず、ひねくれてるわね。そういうところがかわいいんだけど」
「近づかないで」
一歩、足を前に踏み出した木ノ葉の足下を、何かが切り裂く。
木ノ葉はそれを見ることもせず、桔梗へと、その視線を真っ直ぐに向けている。
「桔梗。あなたの技がどういうもので、どんな攻撃かを知らないわたしだと思って?」
飛んできたと思われる桔梗の攻撃を、恐らく、木ノ葉はいなしたのだろう。
平然と佇む彼女を前に、桔梗が舌打ちする。
「椛、逃げなさい」
「へっ?」
「逃げなさいって言ってるの! ぐずぐずするな!」
「は、はい!」
「夕暮れまであと2時間ちょい! それまで捕まるんじゃないわよ!」
「わ、わかりました!」
大慌てで、椛は木ノ葉の佇むドアとは反対側の窓から外へと飛び出していく。
「それにしても、桔梗は素直じゃないわね。
椛ちゃんが心配で守ってあげてるだけって、ちゃんと言えばいいのに」
「な、何を言い出すのよ、いきなり! そんなことないわよ! 木ノ葉、あんた、頭がぼけたんじゃないの!?
と、とにかく、違うったら違うんだからね!」
「はいはい」
そんなやりとりが、椛の耳に届いていたのも暫くの間。
彼女はとにかく全力で桔梗の家を離れて、逃げ場を探して視線を彷徨わせる。
「えっと……」
桔梗の言う通り、夕暮れの時刻まではあとわずか。
誰も入ってこられない――言うなれば、誰も知らない隠れ家があれば、そこにこもっていれば時間の経過をただ待つだけで、今日の災厄は終わりを告げる。
だが、考えてみても、それが思いつかない。
「にとりのところ……は、ダメだ。楓がうろついてる可能性がある。
うーん……」
そこで、ぽん、と椛は手を打つ。
「よし、鍵山さまのところに避難しよう!」
普段、彼女とその他大勢の者たちが腰を据える場所。妖怪の山の大滝の一角に作られた、彼女たちの『休憩所』。
そこに程近く、優しく慈悲深い神様の住んでいるところがある。
いかな天狗とはいえ、相手が『神様』となると、流石に下手に出ざるを得ない。そして幸運なことに、その神様は、『ダメというものはダメ』という芯の強さを持っている。
そこに逃げ込めば、椛の安全は保証されるだろう。
「最初からそうすればよかった!」
一路、椛は最後の逃げ場を求めて空を行く。
こうして空を飛べば誰かに見つかる可能性は格段に上がるものの、とにかく『逃げ込んでしまえば勝ち』の追いかけっこ、足の速さこそ最も重視しなければならない。
ゴールに辿り着けば椛の勝ち。ようやく、『今日』が終わるのだ。
「あともう少し……」
視界の向こうに、滝の流れが見えてきた。
自分の足の速さなら、あともう少しで到着できる。
急げ、急げ、急げ。
――しかし、世の中、そんなに甘くない。
目の前にゴールが見えてくるということは、最後の難関が、ゴールの手前に立ちふさがるということになるのだ。
「そこまで」
「……うぐ……」
現れたのは、一番厄介な木ノ葉だった。
「……桔梗さんは……」
「あの子には、少しの間、おとなしくしてもらっているわ。
大丈夫、別に乱暴とかしてきたわけではないから」
にっこりと、優しく笑う木ノ葉。しかし、今はその笑顔ほど、椛にとって怖いものはない。
「他の子達も、まだ少しここに到着するには時間がかかりそうだし。
これはわたしの勝利かしらね?」
「ま、負けませんよ!」
「あら、そんなに嫌がらなくても。
今日一日、わたしにもふもふされてくれるだけでいいのに」
「子供扱いやめてください!」
木ノ葉にとって、椛とは、言ってみれば『可愛い子供』である。
年齢や見た目と言ったものをさておいても、成長期にあり、毎日頑張っている彼女のような『子供』は、実に母性愛と庇護欲をそそられるのだ。
しかし、この椛、自分を子供扱いする相手のことを嫌っている。と言うより、子供扱いされるのが嫌な、微妙なお年頃なのである。
そこで、木ノ葉が希望するのは『今日一日、椛を自分に甘えさせる』こと。
ある意味、一番実害のないそれであるが、椛にとっては何よりも『屈辱』なことだったりする。
……お子様というのは、色々と難しいものなのだ。
「それは残念。
それじゃ、椛ちゃん。それがどうしても嫌だというのなら、わたしから逃げてみないとダメよね?」
「……はい」
「よろしい。
さあ、ゴールはもうすぐそこよ」
椛は右手に握る剣に力を込めて、木ノ葉へと斬りかかる。
振り下ろすその一撃を、木ノ葉はその場から動くことなく、
「まだまだ」
左手で剣の腹を叩いて軌道をそらすと同時、接近していた椛の右手を掴んで後ろへと放り投げる。
「くっ……!」
「楓が言っていたわね。椛ちゃんの動きは直線的で、とてもわかりやすい、と。
あの子は子供っぽい子ではあるけれど、相手の技を見抜く目にとても長けている子よ。
ちゃんと『お姉ちゃん』って呼んであげないとダメじゃない」
「それはそれです!」
肩越しに振り向く木ノ葉に切りかかり、やっぱり椛の体は宙を飛ぶ。
空中で体勢を立て直し、もう一度、木ノ葉に向かっていく。
振り下ろす刃を、木ノ葉は片手でぴたりと受け止め、止める。
「せいっ!」
その瞬間、椛は剣から手を離して、左手で木ノ葉の肩を一撃した。
だが、木ノ葉は笑うだけで揺るがない。
それなりの勢いと威力の乗った拳だったのだが、木ノ葉はそれで全くダメージを受けた様子もなく、手を後ろに引こうとする椛の動きに倣って少しだけ前方に移動し、肘で彼女のみぞおちを一撃した。
「げほっ……」
吹っ飛ばされ、ダメージに呻く椛。
木ノ葉は椛から奪った剣を彼女に投げ返して、
「さあ、どうしたの? もう諦めた?」
「ま、まだまだ!」
余裕の表情を見せる木ノ葉に、椛は歯を食いしばって、再び向かっていく。
繰り出す攻撃の殆どを軽々いなされ、よけられ、反撃に致命的な攻撃を叩き込まれる。
両者の力の差は絶対。どう頑張っても覆ることはない。
「竜胆に力を習い、茜に智慧を学び、楓に速さを与えられ、桔梗に技を仕込まれる。
さあ、もう終わり?」
変わらず、優しい笑みを崩さない木ノ葉に、椛は剣を両手で構え直すと向かっていく。
大上段から振り下ろすその一撃を、木ノ葉は右手で止めると、すかさず左手で剣を一撃し、へし折ってしまう。
「さあ、諦める?」
武器を失っても、椛の勢いは止まらない。
左手で相手を捕まえ、思いっきり、木ノ葉の頭に頭突きを入れる。
「お見事。いい目をしている。
だけど残念、まだまだ頑張らないと」
自分の顔の前で引き締まった鋭い面構えの椛ににこっと微笑むと、彼女の後頭部を捉えて、木ノ葉は椛に頭突きを返した。
ぐらりとよろめく彼女。
倒れそうになる椛に手を差し出し、「さて、わたしの勝ちのようね」と木ノ葉は笑い、
「まあまあ。そこまでにしてあげてくださいな」
舞う一陣――いや、二つの風に、『これはこれは』と表情を変える。
「鴉天狗さま方ではございませんか」
木ノ葉の手を払い、気絶した椛を抱きとめたのははたて。
相手の動きを制限し、わずかに追い払ったのは文。
両者がその場へと割り込んでいた。
「どうしてこのような戯れに」
「さあ、何ででしょうね。
最初は『関わるのやめとこう』ってはたてさんと話していたんだけど」
「そういえば、そろそろ晩御飯の時間が近いでしょ。
せっかくだから、秋なのだし、色々と料理を作ろうかと思って」
「その時に、ふと思ったんですよ。
『あ、食べる役がいない』ってね」
「なるほど」
「この場は、私に免じて、なーんて。ダメですかね?」
「それは……困りましたね」
微笑み、困った仕草をする木ノ葉。
「わたしとしては、鴉天狗さま方のお言葉に逆らうつもりは毛頭なく。
しかし、この場で、不合格となった子を見逃すことも出来ず」
「あなた達は聡明な種族でしょう? 上司の命令には逆らわず、ただ黙って頷く方が得策だと、本能レベルで理解しているはずでは?」
「全くその通りです。
ただ、ご存知ですか? 我が種族は、意外と冷徹だということを」
「それは存じておりますよ。
だから言ってるんです。この子は私達のものなんだから、黙って手を引け、ってね」
「左様で」
突き出された拳の一撃を、文は紙一重でよけてみせる。
「さすがは」
「その言葉はこちらも言わせてもらいますよ。
様々な武器を使いこなし、勇敢かつ勇猛。勇気に溢れた白狼天狗。
その中で、一つ珍しく、武器に頼らず徒手空拳をもって舞う一族がいるとね」
続く蹴りも身を低くして回避し、上から降ってくる打ち下ろしを左手でガードする。
「正直、ほら、上下の関係厳しい天狗社会において、身内のいざこざとはいえ、トラブルを巻き起こすのは良くないと思うんですよ」
「ええ、それは仰る通りです」
「だから、こういうことは、身内でけりつけてほしいんですよね」
「承知しておりますよ」
「――だそうなので。
椛、これ貸してあげるから、しっかりとどめ刺してきなさい」
文は腰から引き抜いた風扇を後ろへと放り投げる。
その彼女の背後から、白い風が一つ、空を舞う。
「意外と部下思いなんですね」
「というより、便利な小間使いがいなくなるとめんどくさくなるだけよ」
「烏の舌は一枚だけなのに、鴉となると二枚に増えるのですか?」
「さあ?」
それは文の背中を踏み台にして飛び上がり、手に持った風扇を使って風の刃を巻き起こし、上段からの一撃を木ノ葉へと見舞うことに成功する。
渦巻く風は剣となり、木ノ葉を後ろに吹き飛ばし、下がらせる。
「ほら、椛さん。逃げるチャンスですよ」
体勢を大きく崩し、立ち直れないでいる木ノ葉。
その木ノ葉に一撃を食らわした椛の肩を、文はぽんと叩いた。
「……あの……」
「逃げないでいいんですか?」
椛は文に扇を返すと、ぺこりと頭を下げて、滝の方へと向かって飛んでいく。
それを見送った二人は、やれやれ、と肩をすくめた。
「意外と、木ノ葉さん、あなたっておちゃめなところあるのかしら?」
「あら。
単に、可愛い子には旅と苦労と特訓と、そして周りからの愛情をたっぷりと注いであげないと、って思ってるだけですよ」
「それは立派な育児方針ですね」
ひょいと木ノ葉は起き上がる。
そして、ん~、と軽く伸びをしてから、『さて』と視線を辺りに巡らせる。
「夕暮れも間近。これはうまく逃げ切れるかしら」
「何だ。最初から、椛を逃がすつもりでいたんじゃない」
「まさか。私は『手加減』という言葉は嫌いです。
しかし、『手心を加える』のはそう嫌いではない。ついでに言うなら、70点までが合格なら、一生懸命頑張った子には、たとえ50点であろうとも『合格』をあげたくなるだけです」
「木ノ葉さん、そんなに素敵な女性なのに、何で未だに結婚してないんですかね」
「これがなかなか。
思惑渦巻く大人の世界では、いい相手はなかなか見つからないもので」
「椛も、あんまり子供子供したことしてるとふてくされるわよ」
「けれど、子供は子供ですから」
「それは確かに」
「正解だ」
三人は互いに顔を見合わせると、一度、大きく声を上げて笑った。
そして、それぞれにその場を離れていく。
山の端に太陽が隠れていき、世界が夕焼け色に染まっていく。
夕暮れがすぎるまで、もうあと少し、といったところだろうか。
「へぇ。そんなことがあったんだ。
椛、散々だったね」
「大変だったよ、全く」
「いきなり『鍵山さま、助けてください』ってもみもみちゃんが飛び込んできた時は、何事かと思ったわ」
「……鍵山さま、その呼び方やめてください」
「あら、かわいいのに」
なでなでと頭をなでられて、しかし、大恩ある相手に噛み付くことも出来ず、なされるがままの椛。
――『椛狩り』も終わって、いつもの日常。
あの滝の陰にある、彼女たちの休憩所に集まって、椛は友人一同と将棋に興じている。
「けど、『椛狩り』かぁ。なかなかセンスがいいね」
「冗談じゃないよ」
「まぁ、だけど、何か学ぶこともあったんじゃない?」
ぱちんと駒を進める。
椛は「どうかなぁ……」とつぶやき、自分の駒を相手の陣地へ。
「それに結局、文さん達に助けてもらったんじゃん。
ちゃんとお礼した?」
「したよ。にとりと一緒にしないで」
「あたしは、受けた恩は忘れないよ。金が絡んできたら尚更ね。
ほい王手」
「甘い。まだまだ」
「んー、この程度はダメか」
両者の実力伯仲な将棋を横で見ながら、「もみもみちゃんは、お姉さん達に愛されてるのね」と一言コメント。
途端、椛は顔をかーっと赤くして、
「そ、そんなことありません!」
と大声を上げて反論する。
しかし、そんな抗議などどこ吹く風で、
「みんながそうやって悪ノリに参加してくれるということは、なんだかんだで、もみもみちゃんと『付き合う』ことが楽しいからだと思うわよ?」
「桔梗さんは『そんな馬鹿なこと』って言ってました!」
「だけど助けてくれたんでしょ? やっぱりかわいがられてんじゃん」
「う、うるさいなぁ!」
なんだかんだで、このように、周りから愛されて可愛がられる椛が、先ほどまでとは遥かに簡単かつ単純な手で王手をかけられ、『参りました』と頭を下げるのはまた別の話である。
「そうね」
「こういう日は、お茶菓子を食べながらお茶を飲むというのも、なかなかおつなもんです」
「そうね」
「はたてさん、おかわり」
「何であんたは人の家に来て堂々とくつろいでんのよ」
「あいたっ」
振りかぶったクッションで射命丸文の頭を一撃して、姫街道はたての言葉が痛烈に室内に飛び交う。
とはいえ、ちゃんとお茶のおかわりを用意してあげるはたてである。
「いやぁ、だって、何か知らないけど、私の家に寝る場所がなくなってしまって」
「部屋の中、きちんと片付けろって、わたし、何度も言ってるよね?」
「……あ、いや、その……」
「……ったく」
あとであんたの家の片付けに行く、と宣言して、はたてはテーブルの上におせんべいも出してくる。
文は、だからといって萎縮することなく、早速手をおせんべいに伸ばして、それをばりばり。
「もうちょっと塩味強いほうが美味しいと思うんですけど」
「文句あるなら食べさせてやんない」
「あ、いえいえ。今のセリフは忘れてください」
そして。
「そういえば、あんた、今月の新聞は?」
「今月はあんまりネタがないんですよねー」
「うちも」
「だからといって、発刊しないというのはジャーナリストとしてあってはならないことで」
「人里の『美味しい飯屋』でも特集しようかな、って」
「ああ、そろそろ秋ですもんね」
秋と言えば、色んな秋が人それぞれにあれど、やはり一番有名な秋は『食欲の秋』である。
ここ、妖怪の山も、秋になれば木々が色づき、たくさんの山の幸に恵まれる。
秋を境目に体周りが豊かになってしまって、飛行速度が低下する天狗が出るのはしょっちゅうのことだ。
「秋、秋かぁ。
はたてさん、この前作ってくれた、栗の甘露煮、またお願いしますね」
「何であんたに、そんな手間のかかるものを何度も食べさせてやらないといけないのよ」
「美味しいお料理を『美味しい』と言って食べてくれる友人は貴重ですよ」
「そういうときだけ、自分の利点をアピールしないでほしいわ」
「またまた」
「それに、なんでも『美味しい』と言う相手には不自由してないし」
「椛さんって、料理を食べた後『まずい』って言うことあるんですかね」
「ご飯を食べる、それ自体に感謝してるみたいだしね」
と、そんな話をしていると、いきなり、『ばんっ』という激しい音を立てて姫海棠邸のドアが開いた。
何事かと視線をやると、そこには今、話題に出たくだんの人物が立っている。
「はたてさん、匿ってください!」
「は?」
いきなりよくわからないことを言って、その人物――犬走椛は、テーブルの下に避難する。
何事? と顔を見合わせる二人。
それからほとんど間を置かずに、開け放たれたドアの向こうに人影が舞い降りる。
「すいませーん。椛、いませんかー?」
「あれ? あなたは、えっと……」
「茜、だっけ。椛の友人の」
「はい。ごきげんよう、姫海棠さま」
恭しく頭を下げる。
彼女――茜は「椛は来ていませんか?」と二人に尋ねてくる。
文とはたては顔を見合わせた後、揃って、首を左右に振った。
「そうですか。それでは」
一礼し、礼儀正しく、茜は去っていく。
ドアが閉じられ、しばらくした後、
「椛、もういいわよ」
テーブルの下に隠れている椛に、はたてが声をかけた。
「何があったんですか?」
「何か悪いことでもして、お姉さん達に追い掛け回されてるの?」
「人のこと、子供扱いするのやめてくれませんか」
「とはいっても」
「まぁ、椛さんが、我々より子供でないかと言われると『そうではない』とは言えませんよね」
「がう!」
「はい、椛」
「いただきまーす」
怒る椛も、目の前に出て来るおせんべい一つで懐柔される。
美味しそうにおせんべい頬張る彼女を見て、はたてが『で、何があったの』と尋ねる。
「……いや、その……。
私もよくわからないんですよ」
「何でまた」
「えっと……うーん……」
首を傾げる椛。
つまるところ、と彼女が一同に語って聞かせるのは、確かに珍妙な話であった。
「何というか……。
うちの隊長が『椛には、最近、訓練が足りないな』と言い出してきて」
「椛、そういうの、真面目に受けてるんじゃないの?」
「最近、周りに負けがこんでるんですよ」
「白狼天狗連中はストイックなのが多いですからね。
俺より強いやつに会いに行く、とかなんとか」
「それで『じゃあ、椛と親しい奴らで椛を鍛えてやってくれ』って。隊長がやってくれればいいのに」
「あの人、真面目な人だと思っていたけど」
「切り替えが激しいというか、はっきりしてるんですよ。
真面目じゃない時は、ただのいい加減な人です」
しかし、そういう人物であるから、周りからは好かれているのだ、とも続ける。
白狼天狗の社会というやつにも興味が向くのか、文が『へぇ』と頷いている。
「で、追い掛け回されてる、と」
「……まぁ、それだけなら、普段の訓練の延長でよかったんですけど。
木ノ葉姉さまが、何か変なこと言い出して」
「木の葉……って、あの木ノ葉さん? へぇ……」
「何を言い出したんです?」
「それが……」
「『椛狩り』です」
いきなり、開いた窓から一本の矢が飛んできた。
それを、文はひょいと回避し、椛は手にしていたおせんべいを撃ち落とされてぽかんとする。
「ありゃ、茜さん」
「どうも」
窓の向こうに、先ほど、去っていったはずの茜の姿。
彼女は窓の縁によりかかり、椛を目を細めて見ている。
「何よ、椛狩り、って」
通常、『紅葉狩り』というのは見事な紅葉に染まった山々などを練り歩き、その美しい光景を眺め、堪能する秋の行楽の一つである。
しかるに、『椛狩り』というのは、言葉の音は同じでも何か物騒な響きを醸し出している。
「木ノ葉が言い出したのがそれでして。
『椛を捕まえた人は、一日、椛を好きに出来る』って」
「ははぁ。なるほど」
「わたしはそういうの、あまり興味がない……と言うか、悪ふざけは嫌いなのですが。
ただ、最近、椛のお勉強が足りてないのを思い出して。
それで、せっかくだから、『勉学の秋』を堪能させてあげようかと」
「お断りです、茜姉さん!」
「あ、こら! 逃げるな、椛! あなたが散々放置してる参考書、いっぱいあるんだからね!」
「茜姉さんの勉強は難しすぎてよくわからないんですー!」
「こらー!」
何やら騒ぎながら、椛は逃げ出し、茜はその後を追いかけていった。
残された文とはたては互いに顔を見合わせる。
「何か面白そうだけど……。
文、取材してきたら?」
「うーん……。それはそれで、椛さんに敵視されそうですからね。『助けてくれなかった』って。
あのお子様、一度、根に持ったら懐柔するの大変だし」
「まぁ、あの子、年上に好かれてるしね。
たまにはいいんじゃない?」
「はたてさんは助けに行ってあげないんですか?」
「木ノ葉さんが言い出したことなら手は出さない。あの人に何か言うの、わたしも苦手だし」
「あ、わかる」
というわけで、世の中の騒乱荒事大騒ぎが大好きな天狗二名は、今回は傍観者に徹することにしたようだ。
とはいえ、その視線は『さてどうしよう』という色をたたえているのだが。
「椛、待ちなさい!」
「嫌ですよ!
っていうか、遠慮なく矢を射掛けてきてそういうこと言いますか!」
「先端は丸めてあるから安心しなさい!」
「麻痺する薬塗ってるくせに!」
放たれる矢を片っ端から叩き落とし、椛。
この茜なる人物、簡単に言うと『白狼天狗の参謀役』である。
前方に突撃する、椛たちなどの後ろに控え、彼女たちが優勢に動けるように権謀術数を働かせる後方支援役だ。
それ故に、武器も弓矢である。その威力と鋭さは大したものなのだが、椛たちのように『前線担当』の者たちを相手にするには、少々、力強さが物足りない。
「あなたのご両親から、『椛にお勉強を教えてやってください』って頼まれてるんだから!
逃げるな!」
「じゃあ、もっと簡単な問題にしてくださいよ!」
「わたしがあなたくらいの年齢のときには、もうあれくらいの問題は解いていたわ!」
「自分と他人を同レベルにしないでください!」
そしてこの茜、頭がいい。どれくらい頭がいいかというと、白狼天狗といわず天狗社会の中で順列をつけても上位に食い込むくらいだ。
一方の椛はどんなものかというと、『考えるより先に体が動く』タイプであるため、茜との差は、天地とは言わないが雲泥の差くらいはあったりする。
そんな相手が『自分と同じくらいの頭脳を持つ』相手に対して出してくる問題だ。どれほど困難なものかは言うまでもないだろう。
「茜姉さん、勉強ばっかりしてるから、そういうところに気がまわらないんです!」
「さすが、周りからは『忠犬もみじ』と言われるだけはあるわね!」
「誰が犬ですか、誰が!」
撃たれた矢を手にした盾で弾き返し、反撃の一撃を一発。
自分に向かってくるそれを、弾道と勢いを一瞬で計算し、最小限の動きで回避する茜。
その間に生まれた間隙を使って逃げようとしていた椛の行動を先読みし、彼女の動く位置へと、己の回避動作と共に攻撃を放つ。
椛は慌てて、飛んでくる矢を刀で打ち払う。
「ああ、もう!」
猪突猛進、考えるより先に体が動く椛にとって、茜というのは天敵である。
仕掛ける攻撃はいなされ、じわじわと追い詰められていく。
自分と同じように力でぶつかってくる相手なら、まだ相対できるものの、こういう『頭のいい』相手は椛はとことん苦手であった。
「さあ、これで終わり! 今日は一日、わたしがみっちり家庭教師してあげるわ!」
椛の反撃を軽々かわし、その動作が続いている間――すなわち、自由な動きが制限されている、僅かな瞬間を狙って、茜の放つ矢が椛に迫る。
椛は『しまった』という表情を浮かべ、しかし、動かない体に言うことを聞かせることも出来ず、飛んでくる矢を見つめ――、
「ダメよ~、そういうの」
いきなり、降って湧いたのんびりした声が、椛に迫る矢を叩き落とす。
「竜胆!? 邪魔しないでよ!」
「そんなこと言わないで、茜ちゃん。
それに、茜ちゃん。いくら茜ちゃんが、わたしの大切なお友達でも、今回は椛ちゃんを譲ることは出来ないわ」
現れたのは、黒髪の背の高い女。
椛や茜とはまた雰囲気の違う、どちらかというと、おっとりした優しい印象の彼女は、
「わたしが椛ちゃんを捕まえて、美味しいごはん、お腹いっぱいおごってもらうのよ!」
「竜胆姉さんにご飯おごったりなんかしたら、私、破産しちゃいますよ!」
宣言する彼女の背中に向かって、椛は全力で反論した。
「……竜胆。あなた、それは無茶よ」
「どうして!? 秋だもの! 美味しいご飯がいっぱいな季節!
一緒にご飯をお腹いっぱい食べる! それってすごく幸せな季節だと思うの!」
「椛。
竜胆に捕まるか、わたしに捕まるか。選びなさい」
「どっちもいやです!」
白狼天狗前線部隊の中で、ひときわ勇猛果敢かつ勇躍一番槍をつける――それがこの竜胆である。
その実力は、はっきり言うなら椛よりも遥かに上だ。
椛にとっては、自分と同じく『考えるより先に体が動く』タイプの人物であり、得意とするものも似通っていることから付き合いやすい相手である。
そして、そんな彼女の特徴は、『一杯体を動かすために、一杯ご飯を食べる』であった。
椛もそれについては異論はない。椛もまた、一杯体を動かし、ご飯を一杯食べる人物であるからだ。
しかし、その量に関しては、竜胆のほうが椛よりも上である。しかもかなりのレベルで。
「そういうわけで、茜ちゃん。椛ちゃんは譲れないわ」
「椛。あなたにとって、どっちが幸せな選択肢か、わかろうものだと思うけど」
「うぐ……」
振り返る竜胆。
今は利害が対立しているから、茜との間に入ってもらえている状況であるが、間違いなく椛の『敵』である。
接近戦となれば勝ち目はない。
「それでも、私、今月は厳しいんです! 竜胆姉さん、ごめんなさい!」
「むっ。そうなのね。
じゃあ、力づくよ、椛ちゃん!」
「やれやれ。
まぁ、竜胆も、わたしの邪魔をするなら撃ち落とすまで」
「そうはいかないわよ、茜ちゃん」
取り出す薙刀。彼女はそれを振るって、椛へと迫ってくる。
そのスピードと鋭さはかくやと言うもの。
あっという間に距離を詰められ、一撃を食らう――ところに、茜が横から矢を放つ。
竜胆は手にした薙刀でそれを撃ち落とすと、すかさず茜に向かって一歩踏み込み、薙刀を突き出す。
「甘い」
両者の距離はかなり近いものとなっている。
遠距離を得意とする弓矢使いの茜がここまで接近するのは、簡単だ。至近距離からの攻撃でなければ、竜胆には当たらないからである。
「茜ちゃん、以前よりも鋭い技を身に着けたようね」
両者の視線が絡み合う。
その瞬間、生まれた隙を見逃さず、椛は逃げ出した。
「こら、待ちなさい、椛!」
「行かせないわよ、茜ちゃん! 人里に、美味しい焼肉のお店を見つけたの! お店一軒、食べ尽くすんだから!」
「あなた、それでよく太らないわね! 椛もそうだけど、不思議でならない!」
「椛ちゃん、今は逃げなさい! あとで捕まえに行くからね!」
「冗談、お断りですっ!」
何かもう敵か味方かわからないが、ともあれ、第三勢力状態の竜胆を全力で振り切るべく、椛は加速した。
後ろから飛んでくる矢は、竜胆が撃墜してくれる。
程なくしてその場から離れることに成功した椛は、一旦、山の中へと舞い降りて太い木の根元に身を隠す。
「冗談じゃないよ、全く。
茜姉さんのお勉強もそうだけど、竜胆姉さんと食事なんてしたら、私は餓死してしまう」
ちなみに本日の『椛狩り』の時間は、『夕暮れまで』となっている。
それまで椛が追手から逃げおおせることができれば『合格』である。何が『合格』なのかはわからないが。
「竜胆姉さんの嗅覚は私以上だし、茜姉さんの目も私以上だ。
とにかく離れよう。
……あ、そうだ。にとりのところに行こう。にとりなら、きっと助けてくれる」
白狼天狗というやつは、実に所属しているもの達の層が厚い。
その中で、椛はまだまだ下っ端なのだ。
『みんながお姉さん』の椛にとって、今、周囲の白狼天狗全てが恐ろしい敵となっている。
だからこそ、最初に『白狼天狗の上司』たる鴉天狗の文やはたてを訪ねたのだが、ダメだ、あいつら、役に立たない。
「もう絶対、『代わりに列並びして』とか言われてもやってあげないんだから」
そこでのへその曲げ方が、まだまだ子供の証左なのだが、椛がそれに気づくことはしばらくはないだろう。
さて、あとどれくらい逃げれば大丈夫だろうか。
今回の『椛狩り』に参加しているのは、自分が属する部隊の者たちのみ。
彼女たちの追撃をかわすのに最適な場所へと、椛は移動していく。
「……水の音」
彼女の耳がさらさらという川の音を捉えた。
よし、とうなずき、彼女は走り出す。
あともう少しで逃げられる――その思いが、彼女の警戒心を薄くした。
「椛ちゃん、みーっつけたぁ!」
「うわぁっ!?」
彼女の身を隠してくれる木々の間を抜けた瞬間、上空から黒い影が飛びかかってきた。
ぎりぎりで回避した椛。それまで椛が立っていた場所に、人影が舞い降りる。
「楓!?」
「むー! 違うでしょ、椛ちゃん!
『楓お姉ちゃん』でしょ!」
「楓を『お姉ちゃん』なんて言えるもんか!」
ちまっとしたロリっ娘がぷんすか怒っている。
両手に反りの入った短剣を携えた彼女――こんな見た目であるが、椛よりも年上の人物である。
「楓も、どこから聞きつけてきたんだ」
「なーいしょ。教えてあーげない」
けらけら笑いながら、楓が地面を蹴った。
その凄まじいスピードから放たれる一撃を、椛は盾を構えてぎりぎりで回避する。
盾の表面を剣の刃で滑りながら、空中でくるりと回転し、楓は地面に舞い降りる。
「逃さないよー。
椛ちゃんを捕まえて、楓と遊ぼう!」
「絶対にやだ!」
この人物、とにかく子供っぽい見た目と性格であるが、その実力は、やはり白狼天狗。
特にスピードに優れたその体捌きは竜胆ですら追いつくのがやっとという程であり、当然、椛では対策を取るのは不可能に近いほど。
「このっ!」
「椛ちゃんの攻撃は一直線すぎて見えやすい! 楓には当たらないのだー!」
「そんな動きを見切れるもんか!」
真横に振るう刃を軽々よけて、楓はいきなり空中に飛び上がり、着地し、背後から椛に襲いかかろうとする。
たまらず、椛は開けた空間から再び木々の間へと逃げ込む。
「これなら……ってぇ!?」
「逃がさないもーん!」
木々の間を素早く飛び交い、あっという間に接近してくる楓。
これはもう白狼天狗というよりは猿かなにかかと思うほどのその動きに、椛は一旦、足を止める。
「つっかまーえたぁ!」
飛びかかってきた彼女を盾で受け止め、そのまま、相手の勢いを利用して後ろへと放り投げる。
「ふぎゅ」
後ろから悲鳴。
恐らく、木立にでも激突したのだろう。
ともあれ、椛はその場から逃げ出していく。
「いったたたぁ……。
もう、椛ちゃん、お姉ちゃんに乱暴するなんて悪い子!」
楓が持ち直したようだ。
また、あの高速移動で彼女を追いかけてくる。
「ったくもう! 楓となんて付き合ってられないよ!」
仕事に真面目で忠実な白狼天狗。その中の異端児が、あの楓だ。
彼女は『遊ぶことが大好き』で、仕事なんていつもほったらかし。そして怒られるのも嫌いなものだから、いっつもどこかに雲隠れし、ほとぼりが冷めたら出てくるという活動をしている。
それ故か、とにかくすばしっこく、体力に優れている。楓と鬼ごっこなんてしようものなら、この世界を何周させられるかわかったものではない。そしてこちらの体力が尽きてへたりこんでいようとも、『まだまだ!』と楓は笑顔を絶やすことはないだろう。
すなわち、この逃亡劇、圧倒的に椛が不利ということになる。
「せいやっ!」
「危ないっ!」
椛だって身のこなしと素早さには自信を持っている。
だが、あっという間に両者の距離は迫り、楓の放つ一撃が、身をかわした椛の横を通り過ぎていく。
「とうっ!」
その勢いのまま、楓は目の前の大木を垂直に駆け上がり、空中で、生えている枝を足場かつ加速のための踏み台として利用し、椛に突っ込んでくる。
盾をかざし、椛は相手を受け止めようとする。
「だから、さっきも言ったよねー! 椛ちゃんは、動きが直線的でわかりやすい!」
楓は、椛の突き出した盾の上に着地すると、両手でそれを掴み上げ、
「もーらった!」
椛の手から盾を取り上げてしまった。
空中でくるくる回転し、椛の盾を放り投げた後、
「さあ、椛ちゃん、捕まえたよー!」
椛は剣を構え、相手の動きを見逃すまいと、両足でしっかりと地面を踏みしめる。
飛びかかってくる楓。
相手の構えた剣が一瞬、椛の視界から隠れるように銀色の線だけを残して動く。
「この……!」
破れかぶれで突き出した刃もひょいと軽くよけられ、楓の小さな手が椛に向かってくる。
そこへ、
「楓、いい加減にしなさい!」
響いた鋭い声と共に、楓の『ふぎゃ!』という悲鳴が響く。
「……え?」
周囲に張り巡らされた銀色の線。
それらが楓を捉えて縛り付け、空中に釘付けにしている。
「ったく……。どいつもこいつも」
そこに新たに現れたのは、この場には場違いな和服姿の女。
「あ……」
その彼女を見て、『救いの女神』を見るような視線を向ける椛。
「桔梗さん!」
「大丈夫だったの? 椛」
上げた声に、桔梗と呼ばれた彼女はため息混じりに答えるのだった。
「本当にもう。
隊長のやることは戦い以外はこれだから。椛に何かあったらどうするつもりよ。これだから、本当にいい加減な人は。あたしは、あんないい加減な奴、一回痛い目を見ればいいといつも言ってるのに」
「ま、まあまあ……」
『桔梗ちゃん、はーなーせー!』と暴れる楓をその場に残し、椛と桔梗は二人、その場を離れて桔梗の家に移動していた。
桔梗は『どうぞ』と椛にお茶とお菓子を出してくれる。
全力であちこち逃げ回っていたため、疲れている椛は、出されたあんころもちに笑顔でかぶりつく。
「大丈夫だったの? 椛」
「あはは……。
茜姉さんに竜胆姉さんに楓に……。追い回されて大変でした……」
「あの人達も、どうしてあんな悪ノリに付き合うのかしら。信じられない」
ぷりぷり怒る桔梗に、『まあまあ』と椛。
今のところ、彼女たちの振る舞いには迷惑していても、それ以外――今日のこの時以外ではかなりお世話になっているのも事実なのだ。椛としては、なるべく、今、敵対している者たちの間には波風立てたくはないのである。
「椛はそんなだからダメなのよ。言うべき時はしっかり言いなさい」
「桔梗さんは、結構、言うこと言う人だから……」
「あたしを見習えって言ってんじゃないの。迷惑なら迷惑だ、ってきっぱり言わないから、みんな調子に乗るのよ」
至極真っ当なことを言う、この桔梗。
今回の『椛狩り』企画において、『そんな馬鹿らしいことしてる暇があったら、他に何かやることあるでしょ』と、これまた至極当然のツッコミをした人物でもある。
「木ノ葉は、普段、真面目なくせに、たまに変なことを言う。隊長はそれを止めるべきでしょうに。逆もまた然りよ。
全くもう」
怒る桔梗に、椛も苦笑いを浮かべている。
確かに桔梗の言うことはもっともだ。というか、『そうだそうだ。もっといえ』である。
だが、天狗社会は縦社会。上からの命令と、上に従う心構えは絶対でもある。
だからこそ、『そんなことやらないでください』と全力で言えなかったのも、また事実であった。『え?』と思った瞬間には物事は決まっており、『決まったことなのだから』となし崩し的に今日の出来事は始まり、そして今に至る。
いかに不服であろうとも、いかに文句言いたくてたまらなくとも、そこには『限度』というものがある。
「椛。あんた、わかってるの? 一番困ってるの、あんたなのよ?」
「ええ、まぁ、それは……」
「そういう態度だから、誰も彼も調子に乗るのよ。
茜も参加してるんでしょ? ばっかじゃないの」
この桔梗、普段からこのように、仲間内に対して不平不満を述べるような人物ではない。
むしろ、普段は茜などと一緒になって椛を叱り飛ばす側である。
だが、今回はどういう風の吹き回しか。
全面的に椛の味方となってくれる彼女の存在は、ある意味、椛にとっては心強い。
「あたしが木ノ葉とかに言ってくるから。
椛。あんたはここにいて、じっとしてなさい」
「は、はい。ありがとうございます」
「別にお礼なんて言われる筋合いないわよ」
ふん、とそっぽを向く桔梗。
心なしか、その横顔には『照れ』のようなものが見える。
「ともあれ……」
――そう言って振り返ろうとした、その時だ。
「――言っとくけど、木ノ葉。いくらあんたでも、それに触ったら痛い目見るわよ」
え? という顔をして、辺りをきょろきょろ見回す椛。
彼女は白狼天狗。その役目は前線での戦闘と哨戒。故に目も耳もよく、周囲の気配を嗅ぎ取る感覚にも優れている。
だが、そのいずれの感覚も働かない。
「ドアを開ける、くらいのことは許してくれないかしら?」
ゆっくりと、家のドアが開いた。
その向こうに佇み、椛の視界に映る銀色の鋼線を挟んで微笑む、銀髪の絶世の美人。
彼女を睨みつけて、「不埒な侵入者は家に入れてやる趣味はないのよ」と桔梗。
「木ノ葉姉さま……」
佇む彼女。
その実力、見た目、性格、頭脳。あらゆるものが『白狼天狗』という種族の中でトップクラスに位置する、そして今回の騒動の主犯格でもある、
「あら、椛ちゃん。ここにいたのね」
木ノ葉、とは彼女のことである。
「木ノ葉。今回のバカみたいなこと、いい加減、終了の命令でも出したら?
隊長は『まぁ、あとのことは木ノ葉に任せる』って言ってたでしょ?」
「まだでしょ? 夕暮れまで」
「こういう下らないことしてる暇があったら、もっと他の有意義なことをしろって言ってるのよ」
「下らなくはないわ。
椛ちゃんが、最近、どうにも結果が奮わないことが多かったのは事実だもの。
みんな、椛ちゃんのために頑張ってるのよ」
「どうだか。
あんたを始めとして、自分のためのような気がするけれど」
「相変わらず、ひねくれてるわね。そういうところがかわいいんだけど」
「近づかないで」
一歩、足を前に踏み出した木ノ葉の足下を、何かが切り裂く。
木ノ葉はそれを見ることもせず、桔梗へと、その視線を真っ直ぐに向けている。
「桔梗。あなたの技がどういうもので、どんな攻撃かを知らないわたしだと思って?」
飛んできたと思われる桔梗の攻撃を、恐らく、木ノ葉はいなしたのだろう。
平然と佇む彼女を前に、桔梗が舌打ちする。
「椛、逃げなさい」
「へっ?」
「逃げなさいって言ってるの! ぐずぐずするな!」
「は、はい!」
「夕暮れまであと2時間ちょい! それまで捕まるんじゃないわよ!」
「わ、わかりました!」
大慌てで、椛は木ノ葉の佇むドアとは反対側の窓から外へと飛び出していく。
「それにしても、桔梗は素直じゃないわね。
椛ちゃんが心配で守ってあげてるだけって、ちゃんと言えばいいのに」
「な、何を言い出すのよ、いきなり! そんなことないわよ! 木ノ葉、あんた、頭がぼけたんじゃないの!?
と、とにかく、違うったら違うんだからね!」
「はいはい」
そんなやりとりが、椛の耳に届いていたのも暫くの間。
彼女はとにかく全力で桔梗の家を離れて、逃げ場を探して視線を彷徨わせる。
「えっと……」
桔梗の言う通り、夕暮れの時刻まではあとわずか。
誰も入ってこられない――言うなれば、誰も知らない隠れ家があれば、そこにこもっていれば時間の経過をただ待つだけで、今日の災厄は終わりを告げる。
だが、考えてみても、それが思いつかない。
「にとりのところ……は、ダメだ。楓がうろついてる可能性がある。
うーん……」
そこで、ぽん、と椛は手を打つ。
「よし、鍵山さまのところに避難しよう!」
普段、彼女とその他大勢の者たちが腰を据える場所。妖怪の山の大滝の一角に作られた、彼女たちの『休憩所』。
そこに程近く、優しく慈悲深い神様の住んでいるところがある。
いかな天狗とはいえ、相手が『神様』となると、流石に下手に出ざるを得ない。そして幸運なことに、その神様は、『ダメというものはダメ』という芯の強さを持っている。
そこに逃げ込めば、椛の安全は保証されるだろう。
「最初からそうすればよかった!」
一路、椛は最後の逃げ場を求めて空を行く。
こうして空を飛べば誰かに見つかる可能性は格段に上がるものの、とにかく『逃げ込んでしまえば勝ち』の追いかけっこ、足の速さこそ最も重視しなければならない。
ゴールに辿り着けば椛の勝ち。ようやく、『今日』が終わるのだ。
「あともう少し……」
視界の向こうに、滝の流れが見えてきた。
自分の足の速さなら、あともう少しで到着できる。
急げ、急げ、急げ。
――しかし、世の中、そんなに甘くない。
目の前にゴールが見えてくるということは、最後の難関が、ゴールの手前に立ちふさがるということになるのだ。
「そこまで」
「……うぐ……」
現れたのは、一番厄介な木ノ葉だった。
「……桔梗さんは……」
「あの子には、少しの間、おとなしくしてもらっているわ。
大丈夫、別に乱暴とかしてきたわけではないから」
にっこりと、優しく笑う木ノ葉。しかし、今はその笑顔ほど、椛にとって怖いものはない。
「他の子達も、まだ少しここに到着するには時間がかかりそうだし。
これはわたしの勝利かしらね?」
「ま、負けませんよ!」
「あら、そんなに嫌がらなくても。
今日一日、わたしにもふもふされてくれるだけでいいのに」
「子供扱いやめてください!」
木ノ葉にとって、椛とは、言ってみれば『可愛い子供』である。
年齢や見た目と言ったものをさておいても、成長期にあり、毎日頑張っている彼女のような『子供』は、実に母性愛と庇護欲をそそられるのだ。
しかし、この椛、自分を子供扱いする相手のことを嫌っている。と言うより、子供扱いされるのが嫌な、微妙なお年頃なのである。
そこで、木ノ葉が希望するのは『今日一日、椛を自分に甘えさせる』こと。
ある意味、一番実害のないそれであるが、椛にとっては何よりも『屈辱』なことだったりする。
……お子様というのは、色々と難しいものなのだ。
「それは残念。
それじゃ、椛ちゃん。それがどうしても嫌だというのなら、わたしから逃げてみないとダメよね?」
「……はい」
「よろしい。
さあ、ゴールはもうすぐそこよ」
椛は右手に握る剣に力を込めて、木ノ葉へと斬りかかる。
振り下ろすその一撃を、木ノ葉はその場から動くことなく、
「まだまだ」
左手で剣の腹を叩いて軌道をそらすと同時、接近していた椛の右手を掴んで後ろへと放り投げる。
「くっ……!」
「楓が言っていたわね。椛ちゃんの動きは直線的で、とてもわかりやすい、と。
あの子は子供っぽい子ではあるけれど、相手の技を見抜く目にとても長けている子よ。
ちゃんと『お姉ちゃん』って呼んであげないとダメじゃない」
「それはそれです!」
肩越しに振り向く木ノ葉に切りかかり、やっぱり椛の体は宙を飛ぶ。
空中で体勢を立て直し、もう一度、木ノ葉に向かっていく。
振り下ろす刃を、木ノ葉は片手でぴたりと受け止め、止める。
「せいっ!」
その瞬間、椛は剣から手を離して、左手で木ノ葉の肩を一撃した。
だが、木ノ葉は笑うだけで揺るがない。
それなりの勢いと威力の乗った拳だったのだが、木ノ葉はそれで全くダメージを受けた様子もなく、手を後ろに引こうとする椛の動きに倣って少しだけ前方に移動し、肘で彼女のみぞおちを一撃した。
「げほっ……」
吹っ飛ばされ、ダメージに呻く椛。
木ノ葉は椛から奪った剣を彼女に投げ返して、
「さあ、どうしたの? もう諦めた?」
「ま、まだまだ!」
余裕の表情を見せる木ノ葉に、椛は歯を食いしばって、再び向かっていく。
繰り出す攻撃の殆どを軽々いなされ、よけられ、反撃に致命的な攻撃を叩き込まれる。
両者の力の差は絶対。どう頑張っても覆ることはない。
「竜胆に力を習い、茜に智慧を学び、楓に速さを与えられ、桔梗に技を仕込まれる。
さあ、もう終わり?」
変わらず、優しい笑みを崩さない木ノ葉に、椛は剣を両手で構え直すと向かっていく。
大上段から振り下ろすその一撃を、木ノ葉は右手で止めると、すかさず左手で剣を一撃し、へし折ってしまう。
「さあ、諦める?」
武器を失っても、椛の勢いは止まらない。
左手で相手を捕まえ、思いっきり、木ノ葉の頭に頭突きを入れる。
「お見事。いい目をしている。
だけど残念、まだまだ頑張らないと」
自分の顔の前で引き締まった鋭い面構えの椛ににこっと微笑むと、彼女の後頭部を捉えて、木ノ葉は椛に頭突きを返した。
ぐらりとよろめく彼女。
倒れそうになる椛に手を差し出し、「さて、わたしの勝ちのようね」と木ノ葉は笑い、
「まあまあ。そこまでにしてあげてくださいな」
舞う一陣――いや、二つの風に、『これはこれは』と表情を変える。
「鴉天狗さま方ではございませんか」
木ノ葉の手を払い、気絶した椛を抱きとめたのははたて。
相手の動きを制限し、わずかに追い払ったのは文。
両者がその場へと割り込んでいた。
「どうしてこのような戯れに」
「さあ、何ででしょうね。
最初は『関わるのやめとこう』ってはたてさんと話していたんだけど」
「そういえば、そろそろ晩御飯の時間が近いでしょ。
せっかくだから、秋なのだし、色々と料理を作ろうかと思って」
「その時に、ふと思ったんですよ。
『あ、食べる役がいない』ってね」
「なるほど」
「この場は、私に免じて、なーんて。ダメですかね?」
「それは……困りましたね」
微笑み、困った仕草をする木ノ葉。
「わたしとしては、鴉天狗さま方のお言葉に逆らうつもりは毛頭なく。
しかし、この場で、不合格となった子を見逃すことも出来ず」
「あなた達は聡明な種族でしょう? 上司の命令には逆らわず、ただ黙って頷く方が得策だと、本能レベルで理解しているはずでは?」
「全くその通りです。
ただ、ご存知ですか? 我が種族は、意外と冷徹だということを」
「それは存じておりますよ。
だから言ってるんです。この子は私達のものなんだから、黙って手を引け、ってね」
「左様で」
突き出された拳の一撃を、文は紙一重でよけてみせる。
「さすがは」
「その言葉はこちらも言わせてもらいますよ。
様々な武器を使いこなし、勇敢かつ勇猛。勇気に溢れた白狼天狗。
その中で、一つ珍しく、武器に頼らず徒手空拳をもって舞う一族がいるとね」
続く蹴りも身を低くして回避し、上から降ってくる打ち下ろしを左手でガードする。
「正直、ほら、上下の関係厳しい天狗社会において、身内のいざこざとはいえ、トラブルを巻き起こすのは良くないと思うんですよ」
「ええ、それは仰る通りです」
「だから、こういうことは、身内でけりつけてほしいんですよね」
「承知しておりますよ」
「――だそうなので。
椛、これ貸してあげるから、しっかりとどめ刺してきなさい」
文は腰から引き抜いた風扇を後ろへと放り投げる。
その彼女の背後から、白い風が一つ、空を舞う。
「意外と部下思いなんですね」
「というより、便利な小間使いがいなくなるとめんどくさくなるだけよ」
「烏の舌は一枚だけなのに、鴉となると二枚に増えるのですか?」
「さあ?」
それは文の背中を踏み台にして飛び上がり、手に持った風扇を使って風の刃を巻き起こし、上段からの一撃を木ノ葉へと見舞うことに成功する。
渦巻く風は剣となり、木ノ葉を後ろに吹き飛ばし、下がらせる。
「ほら、椛さん。逃げるチャンスですよ」
体勢を大きく崩し、立ち直れないでいる木ノ葉。
その木ノ葉に一撃を食らわした椛の肩を、文はぽんと叩いた。
「……あの……」
「逃げないでいいんですか?」
椛は文に扇を返すと、ぺこりと頭を下げて、滝の方へと向かって飛んでいく。
それを見送った二人は、やれやれ、と肩をすくめた。
「意外と、木ノ葉さん、あなたっておちゃめなところあるのかしら?」
「あら。
単に、可愛い子には旅と苦労と特訓と、そして周りからの愛情をたっぷりと注いであげないと、って思ってるだけですよ」
「それは立派な育児方針ですね」
ひょいと木ノ葉は起き上がる。
そして、ん~、と軽く伸びをしてから、『さて』と視線を辺りに巡らせる。
「夕暮れも間近。これはうまく逃げ切れるかしら」
「何だ。最初から、椛を逃がすつもりでいたんじゃない」
「まさか。私は『手加減』という言葉は嫌いです。
しかし、『手心を加える』のはそう嫌いではない。ついでに言うなら、70点までが合格なら、一生懸命頑張った子には、たとえ50点であろうとも『合格』をあげたくなるだけです」
「木ノ葉さん、そんなに素敵な女性なのに、何で未だに結婚してないんですかね」
「これがなかなか。
思惑渦巻く大人の世界では、いい相手はなかなか見つからないもので」
「椛も、あんまり子供子供したことしてるとふてくされるわよ」
「けれど、子供は子供ですから」
「それは確かに」
「正解だ」
三人は互いに顔を見合わせると、一度、大きく声を上げて笑った。
そして、それぞれにその場を離れていく。
山の端に太陽が隠れていき、世界が夕焼け色に染まっていく。
夕暮れがすぎるまで、もうあと少し、といったところだろうか。
「へぇ。そんなことがあったんだ。
椛、散々だったね」
「大変だったよ、全く」
「いきなり『鍵山さま、助けてください』ってもみもみちゃんが飛び込んできた時は、何事かと思ったわ」
「……鍵山さま、その呼び方やめてください」
「あら、かわいいのに」
なでなでと頭をなでられて、しかし、大恩ある相手に噛み付くことも出来ず、なされるがままの椛。
――『椛狩り』も終わって、いつもの日常。
あの滝の陰にある、彼女たちの休憩所に集まって、椛は友人一同と将棋に興じている。
「けど、『椛狩り』かぁ。なかなかセンスがいいね」
「冗談じゃないよ」
「まぁ、だけど、何か学ぶこともあったんじゃない?」
ぱちんと駒を進める。
椛は「どうかなぁ……」とつぶやき、自分の駒を相手の陣地へ。
「それに結局、文さん達に助けてもらったんじゃん。
ちゃんとお礼した?」
「したよ。にとりと一緒にしないで」
「あたしは、受けた恩は忘れないよ。金が絡んできたら尚更ね。
ほい王手」
「甘い。まだまだ」
「んー、この程度はダメか」
両者の実力伯仲な将棋を横で見ながら、「もみもみちゃんは、お姉さん達に愛されてるのね」と一言コメント。
途端、椛は顔をかーっと赤くして、
「そ、そんなことありません!」
と大声を上げて反論する。
しかし、そんな抗議などどこ吹く風で、
「みんながそうやって悪ノリに参加してくれるということは、なんだかんだで、もみもみちゃんと『付き合う』ことが楽しいからだと思うわよ?」
「桔梗さんは『そんな馬鹿なこと』って言ってました!」
「だけど助けてくれたんでしょ? やっぱりかわいがられてんじゃん」
「う、うるさいなぁ!」
なんだかんだで、このように、周りから愛されて可愛がられる椛が、先ほどまでとは遥かに簡単かつ単純な手で王手をかけられ、『参りました』と頭を下げるのはまた別の話である。
まさに風物詩
これはあれですよ、もう数年していろいろめざめて年上キラーの名をほしいままにする椛が(ry