uɹnʇ ɹno⅄
My turn
紙面にインクがにじむ。
右利き。その誤った記述。
ため息が出る。
屑籠が微かな音を立てる。
uɹnʇ ʎW
Your turn
ふと顔を上げると、私はドレミーに囲まれていた。
「どうぞ、どうぞ」
ドレミーの一人がそう言って、頭を私の体にぐりぐりと押し付けた。
ほかのドレミーもどんどんそれに続いた。
(ところで、彼女たちがいつも被っている赤い三角帽子を外していることはもう言ったかしら。黒くてふわふわした耳が手の甲をちくちくと柔らかく刺して、くすぐったかったわ)
「どうぞ、どうぞ」
「どうぞ、どうぞ」
「どうぞ、どうぞ」
足が。
胸が。
顔が。
ドレミーのふさふさした黒い耳で覆われる。
ぎゅうぎゅうと喉の詰まる感じがして、息苦しさに咳き込んだ。
ドレミーはときどき『自炊』と称して、こうした悪ふざけをする。
だから、これが悪夢だとわかった。
uɹnʇ ɹno⅄
My turn
紙面にインクがにじむ。
あのふかふかした耳で体中を包まれる。それのどこが悪夢なのだろう。
触れると絨毛のふかふかした感触があって、つねると弾力に富んだ抵抗をする。
素敵な耳だ。かつては、よく手元で弄って遊んでいた。私が座っているとき、幼いドレミーはどこからともなくやってきて、帽子を脱いで膝にあがって来た。そこで耳を丹念に撫でてやると、彼女は背筋を伸ばして、私の手を押し上げようとする。
そんなドレミーも今では逆に、自分こそが座って私を手招くのだから、生意気だ。体格も腕力もすっかり育った彼女の膝元に、私はいつも押し込められる。
ドレミーのくせに、格好良いなんて、ほんと、生意気だと思う。
屑籠が微かな音を立てる。
uɹnʇ ʎW
Your turn
稀神サグメと獏ドレミーの関係は、鳥と卵のつながりだというのが、玉兎たちの見解だった。
ある二者の関係というものは、大抵がそうであるように――右手と左手の間に、利き手という二分の線が引かれるように――階層が存在する。
どちらが上か、どちらが先か、どちらが攻めか、どちらが優位か。
これらの意識に目的はない。相対の習慣性は呼吸に等しい。玉兎たちの無邪気な眼(まなこ)は、ただ比べる必要だけを知っている。
そのように、散りばめられた赤い光はサグメとドレミーに集束した。
サグメ様が上なのか。
ドレミー女史が先に手を出したのか。
サグメ様が白い蝋のような指先に、熱を灯して攻めたてるのか。
ドレミー女史が無防備な意識の世界で手綱を握り、温かい暗がりを優位に掻き分けてみせるのか。
ある玉兎が、声高にサグメ様こそと持論をかざす。すると、別の玉兎がドレミー女史の――胎内をやり過ごした誰もが知るところの――調教の手腕を思い出させようとする。
意見はやがて叫びとなり、一部が言葉よりも手足を振り回すようになると、残された玉兎は、鳥と卵の考えに縋った。
争いの火種が燃え盛るくらいなら、曖昧に煙を立てるに留まらせた方がいい。玉兎の対症的思考法は、常にこの結論を導き出す。
では仮に、勇気ある玉兎がこの真相を明かすべく、彼女たちの寝所に立ち向かったとしたら、そこには何が待っているのだろうか。
殺菌された滑らかな白い隔壁から零れる声の向こうに目をこらすと、サグメの両手がシーツを掴んでいるのがわかる。彼女は枕に顔を埋(うず)めて、漂白されたカバーを熱く湿らせている。
そのサグメの背に覆いかぶさり、片翼越しに首筋へ唇を落とす姿は誰あろう、正しく獏ドレミーその人で
uɹnʇ ɹno⅄
My turn
紙面にインクがにじむ。
染みは血痕のように醜い。
苛立っているのが、はっきりとわかる。
ドレミーが? 馬鹿馬鹿しい。
小さく、生意気だった、今でも生意気だけは続いているあの獏は、私が育てたようなものだというのに。
あんなにも憎たらしくて、にやにや笑って、でも素直で、優しくて、私の目を真っ直ぐに見るあの子が、そんなことをするはずはない。
屑籠が微かな音を立てる。
uɹnʇ ʎW
Your turn
「今日はいつにも増して饒舌ですね。そんなに気に入ったんですか、その子を?」
ドレミー様の微笑みが、サグメ様を越えてわたしに向けられます。
この方は普段から笑みを絶やさず、丁寧な物腰でわたしたち玉兎にも分け隔てなく接してくださいます。美しく笑うドレミー様は、面と向かいあえばこちらが落ち着かず、サグメ様のような冒しがたい気品をこの方もまた備えているのだと、感じずにはいられません。
「だって、ねえ、綺麗な声でしょう?」とサグメ様が答えます。いつものように、わたしの口を通して。
わたしは気恥ずかしさのような、うれしさのような、ふるえるほどの昂揚がそのようにこみ上げるのを堪えるように、身を縮ませるので精いっぱいでした。襟元の丸いバッジ、奏兎であることを示すわたしの誇りが、そんな不甲斐ないわが身を矯めるように、燦然たる輝きを放っていました。
わたしはそれまで、自分の声に関心を払ったことなどありませんでした。
ですが、ただ手放すことのない持ち物とだけ考えていたそれは、サグメ様がわたしを奏兎に選んでくださった時より、他の何物にも代えがたいわたしの宝となりました。
「あなたの声が一番に澄んでいたわ」
サグメ様はわたしの口を通じて、その理由を明かしてくださいました。
わたしは胸のうちが、ほっとあたたかくなるのを感じました。それはずっと続いていて、これが幸せなのだとようやく自覚できたのは、お役目に就いていくらか後のことでした。
わたしのお役目とは、サグメ様の声となることです。
サグメ様は言葉で事物を捻じ曲げる特異なお力のために、その発言には一分の隙も許されない方でした。そして、聡明なサグメ様はご自分のお立場を完全に理解されていました。そのために、地位に影を落とすことなく、しかし不要な気を払うこともなく、いかなる発話も言語行為となり得る舌禍を克服するための手段を講じられたのです。
それが奏兎。発声機構の代替物です。
わたしの耳はサグメ様の思考帯域に同調し、わたしの声帯はサグメ様の意志に基づき、わたしの声はサグメ様の言葉に尽くし、わたしの舌はサグメ様の唇をなぞります。それこそがわたしの務めなのです。
外科的な処置の苦痛も、自分自身の発声を生涯手放すことになる覚悟も、サグメ様の声となることを思えば些事に過ぎません。
わたしは震えるほどに幸せでした。サグメ様の言葉がわたしの口蓋に通じる時、心は歓喜に打たれます。繰り返すたびに、その思いはいっそう募りました。いつしか、ひそかな快楽を抱くまでに。
それがいつから現れたのかはわかりません。徐々に色づいたのでなく、こんこんと湧き出たのでもなく、ただ初めからずっと待っていたものに、ふとした偶然からようやく巡り会えたかのように、そのよろこびはありました。
サグメ様の声が、世界を揺るがす一言一句が、わたしに重なり、あの方の神性を霧散させる。その瞬間、ただ一匹の玉兎である自分が、月の女神を独り占めにしているという果てしのない愉悦を、不遜にも抱くようになったのです。
uɹnʇ ɹno⅄
My turn
紙面にインクがにじむ。
その響きは懐かしい。思い出すのにも時間がかかった。あれは素晴らしいものだった。
過去の手触りを感じていると、再び傍らに誰かを置いておきたいという気分になる。奏兎はキャンディのように、私の唇に幸福を描いてくれた。
だが、費用対効果の面において奏兎は劇薬の味わいをもたらすようで、玉兎はキャンディを舐め溶かすように費やすものではないと、八意様より警告された。そして代わりに差し出されたのが、獏の幼体と子育てだった。
あの頃は一番に忙しく、時間は夢のように過ぎていった。奏兎たちの献身も、今となっては頼りない輪郭に揺れている。
彼女たちはもういない。
屑籠が微かな音を立てる。
uɹnʇ ʎW
Your turn
「あなたって人は……」
ドレミーは顔を覆った。
「ジャムだけをすっかり舐めてしまって。これは紅茶と合わせるためのものなんですよ」
「でも甘くて美味しかったわ。それで十分じゃない?」
スプーンに残ったジャムの欠片を舌で掬い、サクメはにこやかに微笑
uɹnʇ ɹno⅄
My turn
紙面にインクがにじむ。
どちら様?
屑籠が微かな音を立てる。
uɹnʇ ʎW
Your turn
「見ますよ」
黒い空と月の下、白く小さな丸いテーブルの向こうに浮かぶ、意外そうな相手の表情をみとめて、ドレミーは続けた。
「悪夢を食べていますからね。私も悪夢にうなされないと消化できないのです」
サグメは一度頷いた。
彼女の指先が、テーブルのふちをコツコツと叩いた。そして、思い出したように口を開いた。
「でも苦しくないの?」
「もちろん、苦しいですよ。だけど、ふつうの食物では通り抜けるだけですからね。ここであなたと一緒に食べたり飲んだりしたものは、私の口に入って喉を通りますけど、お腹におさまることは決してありません。それらは私がこの夢の中で生み出したものですから、同化してすぐに跡形もなく、綺麗さっぱりなくなります。結局、自分の体に重みをつけるには、余所から持ってくるしかないのですよ」
「捨てられたらって思ったことはないかしら、ドレミー?」
訊ねたサグメの手は、唇から喉元に泳いでいった。それから、また口元を漂った。
「つまり、そういう自分を」
「それは、サグメさん、あなたと同じだと思いますよ」
「そう」
「そうです」
二人の間に沈黙が泳いだ。
それは口をつぐむことによって搾り出た重苦しいものではなく、眠りのようにあるべくして訪れたものだった。
やがて、寄り添うように佇んでいた沈黙は、突然なんの前触れもなく消え去った。
そのことを、ドレミーとサグメは同時に察した。相手が自分と同じように知ったことさえも。
ドレミーは深く息を吸い込み、胸のうちに沈むものを追い出すように、長くながく息を吐いた。
「プロメテウスをご存じですか?」
「ギリシャ神話ね」
ドレミーの問いかけに、サグメは頷いた。
落ち着いた、低い声音で、ドレミーは話し始めた。
「彼は神々から火を盗み、その罰として永劫続く痛みと苦しみを与えられた。私はこの話を初めて知ったとき、疑問に思いました。何故私は、という疑問です」
そこまで言って、ドレミーは唇を薄く引き結んだ。
彼女の拳は、一度開かれ、無言のうちに再び白く強張った。
ドレミーは拳を硬くしたままに、言葉を継いだ。
「私は生きるために悪夢を食べ、悪夢にうなされ、悪夢を消化します。ほかの誰のためでもない、自分のためにですよ。でも私はこの罰を受けて、代わりになにがあると言うのですか。どこに罪があるのです? 私はその答えを、ずっと見つけられずにいました」
サグメは自分でも訳が分からず、夢中で手をテーブルの上に伸ばしていた。縋るような手つきで、何かを掴もうとするように。
「あなたと出会うまでは」
ドレミーの視線は、まっすぐにサグメを貫いた。
いつの間にか、サグメの細い指にはドレミーの指が添えられ、それからしっかりと握られる。
「ドレミー?」
「わかったんです」
サグメの呼びかけには答えず、ドレミーの口からはこぼれるように、言葉が溢れだしていく。
「あなたがいて、そのときようやく、答えが私の中にやってきました。疑問が氷解すると、すべてが望んだままの形であることに気付きました。思えば、当然だった。あまりにも重い罪のせいで、先に罰があっただけ。そのために私は悪夢に苦しみ、ふさわしい罰が与えられた。本当に、それだけのことだったの」
ドレミーはもう口を開かなかった。無音のため息が、話すべきことは残っていないと告げていた。サグメにはそう感じられた。
二人の手はテーブルの中央でつながっている。二つの腕と一つの熱が、月のように丸い円形の平板を横切っていた。
二人はそのまま、身じろぎもせずにいた。
夜が明けつつあった。
だがこの夢が閉じようと、指先を包む熱の在り処が失われはしないことを、彼女たちは知っていた。
uɹnʇ ɹno⅄
My turn
紙面にインクがにじむ。
思うにあなた方の勘違いは、ドレミーと私の間にこそ蔓延っている気がしてならない。
彼女と私を結ぶものがただの、親と子のような真っ直ぐな線でしかないにも関わらず、あなた方はそれを複雑に編み込み、丹念に捻じ曲げ、歪な形に整える。
その試みへの執着がいったい何に起因するのか、私にはまるでわからない。わかりたくもない。いくら考え
屑籠が微かな音を立てる。
uɹnʇ ʎW
Your turn
ようと、無駄だからだ。
しかし、気にならないといえば嘘になる。
uɹnʇ ɹno⅄
My turn
紙面にインクがにじむ。
そうだった。時折このような割り込みがあるのだから、油断ならない。
訂正しよう。
これらの事態はいくら考えようと無駄であり、そして、あなた方の存在を気に留める必要は一切ないのだと。
屑籠が微かな音を立てる。
uɹnʇ ʎW
Your turn
これらの事態とは?
それは、読書を嗜む者が一度は浮かべるだろう安易なアイデアのことだ。
物語の人物を読むように、自分のいる現実世界もまた、インクの染みに縁取られているのではないかという想像。
しかしこれは、どれだけ考えを巡らせようと答えの出ない無駄な妄想に過ぎないのだ。
私以外には。
例に漏れず、私も読書の最中に、そのような疑問を浮かべてしまった。
そして純粋な知的欲求から、私はそれを口にした。
すると、どうだろう。
月世界はなにも変わらず、正常に運行していた。少なくとも見かけ上は。
だが、私が口にした瞬間より、それは始まったに違いなかった。
多くの日々は区別しがたい連続のうちに衰えていくが、時折不快な驚きが、私の中を通り過ぎていった。
その違和感を口にしてみると、私は自分のデスクの席で書き物をしている自分に気づいた。
uɹnʇ ɹno⅄
My turn
紙面にインクがにじむ。
紙とペン、そしてインク。古めかしいやり方だ。
このように間違いを口にすると、原始的な書き物をしているところへ戻ってくる……ひっくり返ると言う方が正しいのかもしれない。
いずれにせよ、そうしたとき、私はいつもあなた方を見下ろすことになる。
あなた方はそれぞれ違う調子で語られる、一筋の文章となり、そして世界は誰の手元からも放たれる。次の誰かが筆を走らせるそのときまで。
断っておくが、私はなにも、この現実がありのままの状態であることに固執してはいない。
私が物語に変換されたところで、悲観するべきことはなにもない。それが正しく綴られているうちは、以前の月世界のままであるし、時間軸の正誤さえ、デジャヴとジャメヴによって補正される。
見知らぬどこかの物書きのセンテンスが、この世を編み込み、運んでいるのだとしても、それは昔ながらの運命の呼格となにが違うというのだろうか。
このような考えも、私に差し出されたものなのかもしれない。
だが、あなた方が誤りを打たない限り、私も道に従おう。それは、私があなた方を口にする以前から続けていたというだけの、習慣に基づいた行いに過ぎない。
しかし、ここに瑕疵が見られたとき、私はあなたを口にするだろう。
なぜなら、その時点であなたは太古の執筆者を下回ったことになり、それは世界運行の適性に欠くことの証明に他ならない。
あなたの浸食が私の生活において、わずかな、あるいは大胆な間違いを犯したとき、私はあなたを捉え、その存在に舌を這わせてみせるだろう。
そのときこそあなたの現実は、私に書き綴られ、見下ろされる、紙面のインクとなるだろう。
そして、屑籠に収められるあなたの肉体は、やがて炉の中で燃えさかり、意識を灰に崩すだろう。
あなたは精々、好きに話を書くといい。
その筆先が私を撫でないのであれば、知りようもないし、興味もない。
しかし、ひとたび私に干渉したとき、私はあなたを見定め、在り様を裁く、唯一の批評家として物語に登場する。
あなたはただの登場人物に過ぎない私の目からは逃れられず、ただ正常に世界を回すことだけが許される。
ところで、まだ私の番なのかしら。
きっと、そうね。あなた方のうちの誰かさんはまだ、書かないつもり?
それでも構わないけど、書くのであれば気をつけなさい。
掌にいることに気付かないあなたは、私のために完璧な物語を書けば、それでいいの。
Your turn end
My turn
紙面にインクがにじむ。
右利き。その誤った記述。
ため息が出る。
屑籠が微かな音を立てる。
uɹnʇ ʎW
Your turn
ふと顔を上げると、私はドレミーに囲まれていた。
「どうぞ、どうぞ」
ドレミーの一人がそう言って、頭を私の体にぐりぐりと押し付けた。
ほかのドレミーもどんどんそれに続いた。
(ところで、彼女たちがいつも被っている赤い三角帽子を外していることはもう言ったかしら。黒くてふわふわした耳が手の甲をちくちくと柔らかく刺して、くすぐったかったわ)
「どうぞ、どうぞ」
「どうぞ、どうぞ」
「どうぞ、どうぞ」
足が。
胸が。
顔が。
ドレミーのふさふさした黒い耳で覆われる。
ぎゅうぎゅうと喉の詰まる感じがして、息苦しさに咳き込んだ。
ドレミーはときどき『自炊』と称して、こうした悪ふざけをする。
だから、これが悪夢だとわかった。
uɹnʇ ɹno⅄
My turn
紙面にインクがにじむ。
あのふかふかした耳で体中を包まれる。それのどこが悪夢なのだろう。
触れると絨毛のふかふかした感触があって、つねると弾力に富んだ抵抗をする。
素敵な耳だ。かつては、よく手元で弄って遊んでいた。私が座っているとき、幼いドレミーはどこからともなくやってきて、帽子を脱いで膝にあがって来た。そこで耳を丹念に撫でてやると、彼女は背筋を伸ばして、私の手を押し上げようとする。
そんなドレミーも今では逆に、自分こそが座って私を手招くのだから、生意気だ。体格も腕力もすっかり育った彼女の膝元に、私はいつも押し込められる。
ドレミーのくせに、格好良いなんて、ほんと、生意気だと思う。
屑籠が微かな音を立てる。
uɹnʇ ʎW
Your turn
稀神サグメと獏ドレミーの関係は、鳥と卵のつながりだというのが、玉兎たちの見解だった。
ある二者の関係というものは、大抵がそうであるように――右手と左手の間に、利き手という二分の線が引かれるように――階層が存在する。
どちらが上か、どちらが先か、どちらが攻めか、どちらが優位か。
これらの意識に目的はない。相対の習慣性は呼吸に等しい。玉兎たちの無邪気な眼(まなこ)は、ただ比べる必要だけを知っている。
そのように、散りばめられた赤い光はサグメとドレミーに集束した。
サグメ様が上なのか。
ドレミー女史が先に手を出したのか。
サグメ様が白い蝋のような指先に、熱を灯して攻めたてるのか。
ドレミー女史が無防備な意識の世界で手綱を握り、温かい暗がりを優位に掻き分けてみせるのか。
ある玉兎が、声高にサグメ様こそと持論をかざす。すると、別の玉兎がドレミー女史の――胎内をやり過ごした誰もが知るところの――調教の手腕を思い出させようとする。
意見はやがて叫びとなり、一部が言葉よりも手足を振り回すようになると、残された玉兎は、鳥と卵の考えに縋った。
争いの火種が燃え盛るくらいなら、曖昧に煙を立てるに留まらせた方がいい。玉兎の対症的思考法は、常にこの結論を導き出す。
では仮に、勇気ある玉兎がこの真相を明かすべく、彼女たちの寝所に立ち向かったとしたら、そこには何が待っているのだろうか。
殺菌された滑らかな白い隔壁から零れる声の向こうに目をこらすと、サグメの両手がシーツを掴んでいるのがわかる。彼女は枕に顔を埋(うず)めて、漂白されたカバーを熱く湿らせている。
そのサグメの背に覆いかぶさり、片翼越しに首筋へ唇を落とす姿は誰あろう、正しく獏ドレミーその人で
uɹnʇ ɹno⅄
My turn
紙面にインクがにじむ。
染みは血痕のように醜い。
苛立っているのが、はっきりとわかる。
ドレミーが? 馬鹿馬鹿しい。
小さく、生意気だった、今でも生意気だけは続いているあの獏は、私が育てたようなものだというのに。
あんなにも憎たらしくて、にやにや笑って、でも素直で、優しくて、私の目を真っ直ぐに見るあの子が、そんなことをするはずはない。
屑籠が微かな音を立てる。
uɹnʇ ʎW
Your turn
「今日はいつにも増して饒舌ですね。そんなに気に入ったんですか、その子を?」
ドレミー様の微笑みが、サグメ様を越えてわたしに向けられます。
この方は普段から笑みを絶やさず、丁寧な物腰でわたしたち玉兎にも分け隔てなく接してくださいます。美しく笑うドレミー様は、面と向かいあえばこちらが落ち着かず、サグメ様のような冒しがたい気品をこの方もまた備えているのだと、感じずにはいられません。
「だって、ねえ、綺麗な声でしょう?」とサグメ様が答えます。いつものように、わたしの口を通して。
わたしは気恥ずかしさのような、うれしさのような、ふるえるほどの昂揚がそのようにこみ上げるのを堪えるように、身を縮ませるので精いっぱいでした。襟元の丸いバッジ、奏兎であることを示すわたしの誇りが、そんな不甲斐ないわが身を矯めるように、燦然たる輝きを放っていました。
わたしはそれまで、自分の声に関心を払ったことなどありませんでした。
ですが、ただ手放すことのない持ち物とだけ考えていたそれは、サグメ様がわたしを奏兎に選んでくださった時より、他の何物にも代えがたいわたしの宝となりました。
「あなたの声が一番に澄んでいたわ」
サグメ様はわたしの口を通じて、その理由を明かしてくださいました。
わたしは胸のうちが、ほっとあたたかくなるのを感じました。それはずっと続いていて、これが幸せなのだとようやく自覚できたのは、お役目に就いていくらか後のことでした。
わたしのお役目とは、サグメ様の声となることです。
サグメ様は言葉で事物を捻じ曲げる特異なお力のために、その発言には一分の隙も許されない方でした。そして、聡明なサグメ様はご自分のお立場を完全に理解されていました。そのために、地位に影を落とすことなく、しかし不要な気を払うこともなく、いかなる発話も言語行為となり得る舌禍を克服するための手段を講じられたのです。
それが奏兎。発声機構の代替物です。
わたしの耳はサグメ様の思考帯域に同調し、わたしの声帯はサグメ様の意志に基づき、わたしの声はサグメ様の言葉に尽くし、わたしの舌はサグメ様の唇をなぞります。それこそがわたしの務めなのです。
外科的な処置の苦痛も、自分自身の発声を生涯手放すことになる覚悟も、サグメ様の声となることを思えば些事に過ぎません。
わたしは震えるほどに幸せでした。サグメ様の言葉がわたしの口蓋に通じる時、心は歓喜に打たれます。繰り返すたびに、その思いはいっそう募りました。いつしか、ひそかな快楽を抱くまでに。
それがいつから現れたのかはわかりません。徐々に色づいたのでなく、こんこんと湧き出たのでもなく、ただ初めからずっと待っていたものに、ふとした偶然からようやく巡り会えたかのように、そのよろこびはありました。
サグメ様の声が、世界を揺るがす一言一句が、わたしに重なり、あの方の神性を霧散させる。その瞬間、ただ一匹の玉兎である自分が、月の女神を独り占めにしているという果てしのない愉悦を、不遜にも抱くようになったのです。
uɹnʇ ɹno⅄
My turn
紙面にインクがにじむ。
その響きは懐かしい。思い出すのにも時間がかかった。あれは素晴らしいものだった。
過去の手触りを感じていると、再び傍らに誰かを置いておきたいという気分になる。奏兎はキャンディのように、私の唇に幸福を描いてくれた。
だが、費用対効果の面において奏兎は劇薬の味わいをもたらすようで、玉兎はキャンディを舐め溶かすように費やすものではないと、八意様より警告された。そして代わりに差し出されたのが、獏の幼体と子育てだった。
あの頃は一番に忙しく、時間は夢のように過ぎていった。奏兎たちの献身も、今となっては頼りない輪郭に揺れている。
彼女たちはもういない。
屑籠が微かな音を立てる。
uɹnʇ ʎW
Your turn
「あなたって人は……」
ドレミーは顔を覆った。
「ジャムだけをすっかり舐めてしまって。これは紅茶と合わせるためのものなんですよ」
「でも甘くて美味しかったわ。それで十分じゃない?」
スプーンに残ったジャムの欠片を舌で掬い、サクメはにこやかに微笑
uɹnʇ ɹno⅄
My turn
紙面にインクがにじむ。
どちら様?
屑籠が微かな音を立てる。
uɹnʇ ʎW
Your turn
「見ますよ」
黒い空と月の下、白く小さな丸いテーブルの向こうに浮かぶ、意外そうな相手の表情をみとめて、ドレミーは続けた。
「悪夢を食べていますからね。私も悪夢にうなされないと消化できないのです」
サグメは一度頷いた。
彼女の指先が、テーブルのふちをコツコツと叩いた。そして、思い出したように口を開いた。
「でも苦しくないの?」
「もちろん、苦しいですよ。だけど、ふつうの食物では通り抜けるだけですからね。ここであなたと一緒に食べたり飲んだりしたものは、私の口に入って喉を通りますけど、お腹におさまることは決してありません。それらは私がこの夢の中で生み出したものですから、同化してすぐに跡形もなく、綺麗さっぱりなくなります。結局、自分の体に重みをつけるには、余所から持ってくるしかないのですよ」
「捨てられたらって思ったことはないかしら、ドレミー?」
訊ねたサグメの手は、唇から喉元に泳いでいった。それから、また口元を漂った。
「つまり、そういう自分を」
「それは、サグメさん、あなたと同じだと思いますよ」
「そう」
「そうです」
二人の間に沈黙が泳いだ。
それは口をつぐむことによって搾り出た重苦しいものではなく、眠りのようにあるべくして訪れたものだった。
やがて、寄り添うように佇んでいた沈黙は、突然なんの前触れもなく消え去った。
そのことを、ドレミーとサグメは同時に察した。相手が自分と同じように知ったことさえも。
ドレミーは深く息を吸い込み、胸のうちに沈むものを追い出すように、長くながく息を吐いた。
「プロメテウスをご存じですか?」
「ギリシャ神話ね」
ドレミーの問いかけに、サグメは頷いた。
落ち着いた、低い声音で、ドレミーは話し始めた。
「彼は神々から火を盗み、その罰として永劫続く痛みと苦しみを与えられた。私はこの話を初めて知ったとき、疑問に思いました。何故私は、という疑問です」
そこまで言って、ドレミーは唇を薄く引き結んだ。
彼女の拳は、一度開かれ、無言のうちに再び白く強張った。
ドレミーは拳を硬くしたままに、言葉を継いだ。
「私は生きるために悪夢を食べ、悪夢にうなされ、悪夢を消化します。ほかの誰のためでもない、自分のためにですよ。でも私はこの罰を受けて、代わりになにがあると言うのですか。どこに罪があるのです? 私はその答えを、ずっと見つけられずにいました」
サグメは自分でも訳が分からず、夢中で手をテーブルの上に伸ばしていた。縋るような手つきで、何かを掴もうとするように。
「あなたと出会うまでは」
ドレミーの視線は、まっすぐにサグメを貫いた。
いつの間にか、サグメの細い指にはドレミーの指が添えられ、それからしっかりと握られる。
「ドレミー?」
「わかったんです」
サグメの呼びかけには答えず、ドレミーの口からはこぼれるように、言葉が溢れだしていく。
「あなたがいて、そのときようやく、答えが私の中にやってきました。疑問が氷解すると、すべてが望んだままの形であることに気付きました。思えば、当然だった。あまりにも重い罪のせいで、先に罰があっただけ。そのために私は悪夢に苦しみ、ふさわしい罰が与えられた。本当に、それだけのことだったの」
ドレミーはもう口を開かなかった。無音のため息が、話すべきことは残っていないと告げていた。サグメにはそう感じられた。
二人の手はテーブルの中央でつながっている。二つの腕と一つの熱が、月のように丸い円形の平板を横切っていた。
二人はそのまま、身じろぎもせずにいた。
夜が明けつつあった。
だがこの夢が閉じようと、指先を包む熱の在り処が失われはしないことを、彼女たちは知っていた。
uɹnʇ ɹno⅄
My turn
紙面にインクがにじむ。
思うにあなた方の勘違いは、ドレミーと私の間にこそ蔓延っている気がしてならない。
彼女と私を結ぶものがただの、親と子のような真っ直ぐな線でしかないにも関わらず、あなた方はそれを複雑に編み込み、丹念に捻じ曲げ、歪な形に整える。
その試みへの執着がいったい何に起因するのか、私にはまるでわからない。わかりたくもない。いくら考え
屑籠が微かな音を立てる。
uɹnʇ ʎW
Your turn
ようと、無駄だからだ。
しかし、気にならないといえば嘘になる。
uɹnʇ ɹno⅄
My turn
紙面にインクがにじむ。
そうだった。時折このような割り込みがあるのだから、油断ならない。
訂正しよう。
これらの事態はいくら考えようと無駄であり、そして、あなた方の存在を気に留める必要は一切ないのだと。
屑籠が微かな音を立てる。
uɹnʇ ʎW
Your turn
これらの事態とは?
それは、読書を嗜む者が一度は浮かべるだろう安易なアイデアのことだ。
物語の人物を読むように、自分のいる現実世界もまた、インクの染みに縁取られているのではないかという想像。
しかしこれは、どれだけ考えを巡らせようと答えの出ない無駄な妄想に過ぎないのだ。
私以外には。
例に漏れず、私も読書の最中に、そのような疑問を浮かべてしまった。
そして純粋な知的欲求から、私はそれを口にした。
すると、どうだろう。
月世界はなにも変わらず、正常に運行していた。少なくとも見かけ上は。
だが、私が口にした瞬間より、それは始まったに違いなかった。
多くの日々は区別しがたい連続のうちに衰えていくが、時折不快な驚きが、私の中を通り過ぎていった。
その違和感を口にしてみると、私は自分のデスクの席で書き物をしている自分に気づいた。
uɹnʇ ɹno⅄
My turn
紙面にインクがにじむ。
紙とペン、そしてインク。古めかしいやり方だ。
このように間違いを口にすると、原始的な書き物をしているところへ戻ってくる……ひっくり返ると言う方が正しいのかもしれない。
いずれにせよ、そうしたとき、私はいつもあなた方を見下ろすことになる。
あなた方はそれぞれ違う調子で語られる、一筋の文章となり、そして世界は誰の手元からも放たれる。次の誰かが筆を走らせるそのときまで。
断っておくが、私はなにも、この現実がありのままの状態であることに固執してはいない。
私が物語に変換されたところで、悲観するべきことはなにもない。それが正しく綴られているうちは、以前の月世界のままであるし、時間軸の正誤さえ、デジャヴとジャメヴによって補正される。
見知らぬどこかの物書きのセンテンスが、この世を編み込み、運んでいるのだとしても、それは昔ながらの運命の呼格となにが違うというのだろうか。
このような考えも、私に差し出されたものなのかもしれない。
だが、あなた方が誤りを打たない限り、私も道に従おう。それは、私があなた方を口にする以前から続けていたというだけの、習慣に基づいた行いに過ぎない。
しかし、ここに瑕疵が見られたとき、私はあなたを口にするだろう。
なぜなら、その時点であなたは太古の執筆者を下回ったことになり、それは世界運行の適性に欠くことの証明に他ならない。
あなたの浸食が私の生活において、わずかな、あるいは大胆な間違いを犯したとき、私はあなたを捉え、その存在に舌を這わせてみせるだろう。
そのときこそあなたの現実は、私に書き綴られ、見下ろされる、紙面のインクとなるだろう。
そして、屑籠に収められるあなたの肉体は、やがて炉の中で燃えさかり、意識を灰に崩すだろう。
あなたは精々、好きに話を書くといい。
その筆先が私を撫でないのであれば、知りようもないし、興味もない。
しかし、ひとたび私に干渉したとき、私はあなたを見定め、在り様を裁く、唯一の批評家として物語に登場する。
あなたはただの登場人物に過ぎない私の目からは逃れられず、ただ正常に世界を回すことだけが許される。
ところで、まだ私の番なのかしら。
きっと、そうね。あなた方のうちの誰かさんはまだ、書かないつもり?
それでも構わないけど、書くのであれば気をつけなさい。
掌にいることに気付かないあなたは、私のために完璧な物語を書けば、それでいいの。
Your turn end
読み直してみるとなるほどと思うところもあったり。よかったです
具体的な感想を述べるのが難しいのですが、不思議に魅力的なお話でした
幻想的というか夢幻的で凄かったです
読者の裏をかいて魅せることに執着しすぎているような
最近そういうの多い気がして、もっとまっすぐに魅せてほしい、と思います