大学生にとって金曜日とは神の国の到来にも等しい。すなわち土日というお休みがあり、怠惰堕落を体現できるというわけだ。一時は四日間の労働と三日間の休日という方策も打ち出されていたが、私は反対だった。多ければそれでよいわけではなく、むしろお休みは質が大切なのだから。もっとも科学の時代にそんな精神論を振り回す者はあまり多くないが。
と、いうことである。
きっと恋人でもいたら食事に出かけて、新茶道でも嗜むのだろう。それはそれで一つの幸せだ。否定したり肯定したり、旧時代的な価値観の押し付け合いはもうブームではないのだから双方が双方の幸せの形を認めるということが肝要で――。
「なーにをうんうん唸ってるわけ?」
背後から声がした。
「え、声出てた?」
「顔見れば分かるわよ」
「顔見てなかったじゃない」
「顔と後頭部に明確な境界なんてないと思うけど」
「屁理屈」
「誰の影響かしら」
応酬しつつ振返り、見やると金髪の女性――この世にたった二人の部員、その片割れ――、マエリベリーが料理をしている。
そう、我々は金曜の浮かれに任せて毎週彼女宅にて食事をしているのである。決して私が一方的に押しかけている訳ではなく、お互いが了承して約束を守って食事をしているのである。
「ね、ね、今日は何を作ってるの?」
「里芋の煮っ転がし」
「おばあちゃんみたいね」
「いいでしょ、好きなのよ――あ、お米炊けてるからよそってくれない?」
「よし、『卯東京でお米をよそうことに関して、宇佐見蓮子の右に出る者なし』と言わしめた私の実力、しかと見せてやるわよ」
「ついに虚言癖まで発症しちゃったかあ」
「うるさいなあ……っと、あちち」
炊飯器の蓋を開ける。かぱっと音が聞こえ、ほわっと湯気が立ち、ほうっと良い香りが立ち込める。中には蓬莱の玉の枝も真っ青な照り輝く白米が鎮座していた。
この酉京都では合成食料がほぼ全てであるから、それこそ白米のようなものは一部のセレブリティしか好まない。実際味も栄養も大差ないのだから。
しかし、卯東京では話が違う。
あの捨てられた街、栄枯盛衰の代名詞、凍りついた永遠の都でもそこで暮らしを営む人間はいる。必然的に半ロストテクノロジーと化している第一次産業も未だに生きているのだ。それを私が郷帰りした折に幾分か拝借している、そういうことだ。
まさかこの旧式炊飯器も、こんなところに連れてこられるなんて思ってなかったろう。なかなかに感慨深いものである。
「よし、こんなものかしらね」
「お、出来た?」
「ええ――ほら、てきぱき動いて。お茶碗運んでちょうだいな」
「わかってるってば。取り皿とお箸も持っていくよ?」
「お願い。机の上片付けてあるわよね?」
「オブコース、ついでに綺麗に拭いておいたわよ」
メリーがおかずを持っていき、ことりと置いた。私も次いでお箸やお茶碗を運んで、かたん、ぱちんと揃えていく。
私は食事そのものよりは、この準備の段階が、お互いが息を合わせてやれることをやる、そんな時間がとっても好きなのだと思う。着実に完成の瞬間に近づいていく食卓、家中に漂う香り、それらを全身で感じながら、今日も頑張ったなあと思いつつ椅子に座る。
「よし」
顔を合わせる。心なしかメリーは笑顔だった。きっと私もだろう。
「せーの」
いただきます。
‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐
「ごちそうさまでした」
「ごちそうさまでした」
お皿を各々が軽くすすぎ、洗浄機に食べさせる。大きく口を開ける彼――あるいは彼女にとっては今から食事と同時に一仕事だ。踵を返してソファに向かい、ばふりと倒れこむ。
「うー、美味しかった。おなか一杯だ」
「ちょっとー、私も座りたいんだけど。それにそんな生活してると虫になっちゃうわよ」
「せめて牛にしてよ。グレゴール某じゃないんだからさ」
「ほら、起きて」
「ちぇっ」
もそもそと(結局虫のように)動いて何とか起き上がり、背もたれに体を預けた。じわりと眠気が全身に広がり、何回か瞬いて必死に意識を留めようとする。
「うわ、すっごい眠たいかも」
「ほれほれ、せめて帰って歯くらい磨きなさい」
「んー、たぶん無理」
子供じゃないんだから、とメリーがぼやきつつ頬っぺたをぺちぺち叩いてくる。
「ずいぶん顔が熱いわね。あなた風邪とか引いてない?」
「この時代に引くわけないでしょ」
「じゃあごはん食べたせいかしら……それだと本当に子供みたいね」
ふふふ、と顔を背けて笑っている。何だ何だ、自分は大人みたいな口ぶりで言いよって。
「悪口」
「はいはい、ごめんなさい」
「私が子供なら大人のメリーさんが面倒見るべきだと思います」
「えー、文字通り面倒」
「これ以上動く気力はないので今日はここで寝ます」
「すっごい邪魔」
「いいっていいって、起きたらふらっと出て行くからさ。オートロックだし」
「わがまま」
「子供ですからね、へへん」
ふう、と息をついてメリーは洗面所へ行ってしまった。子供だなんだと言い放題言ってくれた仕返しだ。
「蓮子ー、こっち来て」
「……やだー」
「歯磨かないと虫歯になっちゃうわよー」
「この時代にならないってば」
適当にあしらっていたら、ついにメリーがやってきて私の腕を掴んできた。
「ほら、洗面所行くわよ」
「大丈夫だってば」
「私が磨いてあげるから」
「……は?」
「歯」
「いや、そうじゃなくて――」
ぐいっと引っ張られ、ソファから剥がされた私はずるずると引きずられて洗面所へ向かうこととなってしまった。
「はい、コップはこれ使って。まずぐちゅぐちゅぺーして」
「ちょ、ちょっと待ってよメリー」
「あなたが言い出したんじゃない、『面倒見てー』って」
「そうだけど、そういうことじゃない」
「大丈夫、歯磨き粉はバナナ味のやつ使うから」
「……怒ってる?」
「ぜーんぜん。ほら、口ゆすいで」
「……絶対怒ってるなあ……」
仕方ない、と晩ごはんで一杯な腹をくくり、水を口に含んだ。頬を膨らまして水を行き渡らせ、なるべく綺麗な口内を見せようと決めた。
この年になって他人に歯を磨いてもらうことになるとは。なんだか複雑な心持ちであるが、残念なことに向こうは本気なようだ。
水を吐き出すと、メリーがタオルを渡してくれた。
「ちょっと待ってね」
そう言い、メリーは食卓の方に向かう。口の周りを拭いていると、がたがた音を立てながら帰ってきた。
「椅子。ここ座って」
「……とっても恥ずかしいんだけど」
「別に虫歯があっても引いたりしないわよ」
「どうしてこんなことになったんだろう……」
「ほら、お口開けて。あー」
「……あー」
「よし、じっとしててね」
メリーが不慣れな様子で歯ブラシを挿し込んできた。まあ手馴れた感じでやってこられてもなおさら困るが。
ふわりとバナナの風味がして、なんだかどんな感情を抱くのか正解なのかわからなくなってしまった。
「なんだ、ずいぶん綺麗じゃない」
「んー……」
「すぐ終わらせるから、我慢して」
まず初めに右の奥歯からやるらしく、そこに歯ブラシを当ててきた。ほんのわずかだが私の体が強張るのが自分でも認識できた。
ついに意を決したようにメリーが歯ブラシを動かしてきた。しゃこしゃこ、しゃかしゃか。時々かつりと歯にプラスチック部分が当たる音、それらが小気味よいリズムで続く。
(あれ、思ってたより気持ちいいかも……)
ブラッシングされるペットのような、持ち主の手でじっくりと手入れされる革靴のような。
陳腐な言い回しだが、愛情ってやつだろうか。この場合は友情か、まあどっちでもいいけど。
右奥からいつの間にか対象は前歯の辺りになっており、噛合せの部分を磨けば次は裏側、同じ動き、同じ方法で繰り返される行為にもかかわらず私は慣れることが出来ずにいた。そもそも歯の裏側って日常では人に見られること皆無な場所だろうに――。
まどろんでいるとき特有のよくわからないことを考えていた。黄金のまどろみが眼に溜まっていた。
(なんでこんなことになってるんだっけ……?)
「――ちょっと、蓮子」
「ふぁ……」
「間抜けな声出してないで、一回お口ゆすいで」
名前を呼ばれて意識が戻ってきたというか、いつの間にか目を瞑っていたらしい。言われたまま再び口をゆすぎ、『多分とんでもなくだらしない顔をしていただろうなあ』と思った。
「じゃあ次、いーして」
「いー」
ほとんど抵抗なく従ってしまっているが、あくまで円滑に進めることで屈辱の時間を短く済ませようというそれである。きっとそうだ。
再び右奥に歯ブラシを当ててきたメリーは、先ほどよりはかなり慣れてきたように思えた。いつの間にか主導権を握られている。
「……ん……」
「あ、痛かった?」
「んー」
声を出せない手前、否定するのも首をわずかに振ることでしかできない。というか痛みなんて初めからまったく感じていない。痛ければもっと抵抗できただろうが、存外にこれが快感ですらあるということに驚いているくらいだ。
もしや私が知らないだけで、メリーには歯磨きの才能があったのでは? そう考えてしまうほど心地いいものであった。
「はい、次は左ね」
「……」
「もう一回いーして」
「……いー」
自分でやっていたらただの洗浄に過ぎないのに、他人に任せるのは楽だし気持ちいいものなんだなあ。今度メリーにやってあげようかしら。
でろんと椅子に座り四肢を投げ出し、寝る直前のように惚けていながらそんなことを考えていた。
「――もしもーし、蓮子、終わったわよ」
「んぁ……」
「綺麗になったから、ぐちゅぐちゅぺーしてソファ行きなさい」
どのくらい歯を磨かれていたのだろうか。十分ほど、あるいはもっとだろうか。ふわふわとした恍惚感に包まれながら口をゆすぎ、タオルで顔についた水を拭いていた。
「蓮子、途中何回か寝てなかった?」
「寝てないから」
「それにしてはずいぶん気持ちよさそうな顔してたけどなあ」
「歯磨きに集中してたんじゃないの」
「顔見れば分かるわよ」
「――すけべ」
ぷいっとメリーの横を歩いて、足早にその場を去りソファへと向かった。実際半分寝ていたようなものだったし、気持ちよかったことも認めるけれど、そんなに顔に出ていたとは。不覚。
ごはんを食べた後と同じく、ソファにぼふりとなだれ込んだがほとんど眠気はなくなっていた。いや、寝てたんだからそりゃそうなんだけどさ。
片付け終わったかメリーも戻ってきた。椅子を抱えて、重そうによいしょよいしょと運んでいる。食卓につけたところでメリーはその椅子に座る。もうソファの占有は誰の手にあるかお互い理解しているようだが、眠たくはないことを伝えたほうがいいだろうか。
「ねぇ蓮子」
「……何よ」
「言うかどうかとっても迷ったんだけどね」
「何、早く言ってよ」
「……あーとかいーとか、わざわざ声にしなくてよかったのよ」
間。
自分の顔が赤くなっていくのが分かったくらいに、熱を持ったことが分かった。
がばりと飛び起き、赤い顔を隠すことすらせず、精一杯の怒りを表明するために顔を合わせた。
「――先に言ってよ、ばかぁ!」
心なしかメリーは笑顔だった。
と、いうことである。
きっと恋人でもいたら食事に出かけて、新茶道でも嗜むのだろう。それはそれで一つの幸せだ。否定したり肯定したり、旧時代的な価値観の押し付け合いはもうブームではないのだから双方が双方の幸せの形を認めるということが肝要で――。
「なーにをうんうん唸ってるわけ?」
背後から声がした。
「え、声出てた?」
「顔見れば分かるわよ」
「顔見てなかったじゃない」
「顔と後頭部に明確な境界なんてないと思うけど」
「屁理屈」
「誰の影響かしら」
応酬しつつ振返り、見やると金髪の女性――この世にたった二人の部員、その片割れ――、マエリベリーが料理をしている。
そう、我々は金曜の浮かれに任せて毎週彼女宅にて食事をしているのである。決して私が一方的に押しかけている訳ではなく、お互いが了承して約束を守って食事をしているのである。
「ね、ね、今日は何を作ってるの?」
「里芋の煮っ転がし」
「おばあちゃんみたいね」
「いいでしょ、好きなのよ――あ、お米炊けてるからよそってくれない?」
「よし、『卯東京でお米をよそうことに関して、宇佐見蓮子の右に出る者なし』と言わしめた私の実力、しかと見せてやるわよ」
「ついに虚言癖まで発症しちゃったかあ」
「うるさいなあ……っと、あちち」
炊飯器の蓋を開ける。かぱっと音が聞こえ、ほわっと湯気が立ち、ほうっと良い香りが立ち込める。中には蓬莱の玉の枝も真っ青な照り輝く白米が鎮座していた。
この酉京都では合成食料がほぼ全てであるから、それこそ白米のようなものは一部のセレブリティしか好まない。実際味も栄養も大差ないのだから。
しかし、卯東京では話が違う。
あの捨てられた街、栄枯盛衰の代名詞、凍りついた永遠の都でもそこで暮らしを営む人間はいる。必然的に半ロストテクノロジーと化している第一次産業も未だに生きているのだ。それを私が郷帰りした折に幾分か拝借している、そういうことだ。
まさかこの旧式炊飯器も、こんなところに連れてこられるなんて思ってなかったろう。なかなかに感慨深いものである。
「よし、こんなものかしらね」
「お、出来た?」
「ええ――ほら、てきぱき動いて。お茶碗運んでちょうだいな」
「わかってるってば。取り皿とお箸も持っていくよ?」
「お願い。机の上片付けてあるわよね?」
「オブコース、ついでに綺麗に拭いておいたわよ」
メリーがおかずを持っていき、ことりと置いた。私も次いでお箸やお茶碗を運んで、かたん、ぱちんと揃えていく。
私は食事そのものよりは、この準備の段階が、お互いが息を合わせてやれることをやる、そんな時間がとっても好きなのだと思う。着実に完成の瞬間に近づいていく食卓、家中に漂う香り、それらを全身で感じながら、今日も頑張ったなあと思いつつ椅子に座る。
「よし」
顔を合わせる。心なしかメリーは笑顔だった。きっと私もだろう。
「せーの」
いただきます。
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「ごちそうさまでした」
「ごちそうさまでした」
お皿を各々が軽くすすぎ、洗浄機に食べさせる。大きく口を開ける彼――あるいは彼女にとっては今から食事と同時に一仕事だ。踵を返してソファに向かい、ばふりと倒れこむ。
「うー、美味しかった。おなか一杯だ」
「ちょっとー、私も座りたいんだけど。それにそんな生活してると虫になっちゃうわよ」
「せめて牛にしてよ。グレゴール某じゃないんだからさ」
「ほら、起きて」
「ちぇっ」
もそもそと(結局虫のように)動いて何とか起き上がり、背もたれに体を預けた。じわりと眠気が全身に広がり、何回か瞬いて必死に意識を留めようとする。
「うわ、すっごい眠たいかも」
「ほれほれ、せめて帰って歯くらい磨きなさい」
「んー、たぶん無理」
子供じゃないんだから、とメリーがぼやきつつ頬っぺたをぺちぺち叩いてくる。
「ずいぶん顔が熱いわね。あなた風邪とか引いてない?」
「この時代に引くわけないでしょ」
「じゃあごはん食べたせいかしら……それだと本当に子供みたいね」
ふふふ、と顔を背けて笑っている。何だ何だ、自分は大人みたいな口ぶりで言いよって。
「悪口」
「はいはい、ごめんなさい」
「私が子供なら大人のメリーさんが面倒見るべきだと思います」
「えー、文字通り面倒」
「これ以上動く気力はないので今日はここで寝ます」
「すっごい邪魔」
「いいっていいって、起きたらふらっと出て行くからさ。オートロックだし」
「わがまま」
「子供ですからね、へへん」
ふう、と息をついてメリーは洗面所へ行ってしまった。子供だなんだと言い放題言ってくれた仕返しだ。
「蓮子ー、こっち来て」
「……やだー」
「歯磨かないと虫歯になっちゃうわよー」
「この時代にならないってば」
適当にあしらっていたら、ついにメリーがやってきて私の腕を掴んできた。
「ほら、洗面所行くわよ」
「大丈夫だってば」
「私が磨いてあげるから」
「……は?」
「歯」
「いや、そうじゃなくて――」
ぐいっと引っ張られ、ソファから剥がされた私はずるずると引きずられて洗面所へ向かうこととなってしまった。
「はい、コップはこれ使って。まずぐちゅぐちゅぺーして」
「ちょ、ちょっと待ってよメリー」
「あなたが言い出したんじゃない、『面倒見てー』って」
「そうだけど、そういうことじゃない」
「大丈夫、歯磨き粉はバナナ味のやつ使うから」
「……怒ってる?」
「ぜーんぜん。ほら、口ゆすいで」
「……絶対怒ってるなあ……」
仕方ない、と晩ごはんで一杯な腹をくくり、水を口に含んだ。頬を膨らまして水を行き渡らせ、なるべく綺麗な口内を見せようと決めた。
この年になって他人に歯を磨いてもらうことになるとは。なんだか複雑な心持ちであるが、残念なことに向こうは本気なようだ。
水を吐き出すと、メリーがタオルを渡してくれた。
「ちょっと待ってね」
そう言い、メリーは食卓の方に向かう。口の周りを拭いていると、がたがた音を立てながら帰ってきた。
「椅子。ここ座って」
「……とっても恥ずかしいんだけど」
「別に虫歯があっても引いたりしないわよ」
「どうしてこんなことになったんだろう……」
「ほら、お口開けて。あー」
「……あー」
「よし、じっとしててね」
メリーが不慣れな様子で歯ブラシを挿し込んできた。まあ手馴れた感じでやってこられてもなおさら困るが。
ふわりとバナナの風味がして、なんだかどんな感情を抱くのか正解なのかわからなくなってしまった。
「なんだ、ずいぶん綺麗じゃない」
「んー……」
「すぐ終わらせるから、我慢して」
まず初めに右の奥歯からやるらしく、そこに歯ブラシを当ててきた。ほんのわずかだが私の体が強張るのが自分でも認識できた。
ついに意を決したようにメリーが歯ブラシを動かしてきた。しゃこしゃこ、しゃかしゃか。時々かつりと歯にプラスチック部分が当たる音、それらが小気味よいリズムで続く。
(あれ、思ってたより気持ちいいかも……)
ブラッシングされるペットのような、持ち主の手でじっくりと手入れされる革靴のような。
陳腐な言い回しだが、愛情ってやつだろうか。この場合は友情か、まあどっちでもいいけど。
右奥からいつの間にか対象は前歯の辺りになっており、噛合せの部分を磨けば次は裏側、同じ動き、同じ方法で繰り返される行為にもかかわらず私は慣れることが出来ずにいた。そもそも歯の裏側って日常では人に見られること皆無な場所だろうに――。
まどろんでいるとき特有のよくわからないことを考えていた。黄金のまどろみが眼に溜まっていた。
(なんでこんなことになってるんだっけ……?)
「――ちょっと、蓮子」
「ふぁ……」
「間抜けな声出してないで、一回お口ゆすいで」
名前を呼ばれて意識が戻ってきたというか、いつの間にか目を瞑っていたらしい。言われたまま再び口をゆすぎ、『多分とんでもなくだらしない顔をしていただろうなあ』と思った。
「じゃあ次、いーして」
「いー」
ほとんど抵抗なく従ってしまっているが、あくまで円滑に進めることで屈辱の時間を短く済ませようというそれである。きっとそうだ。
再び右奥に歯ブラシを当ててきたメリーは、先ほどよりはかなり慣れてきたように思えた。いつの間にか主導権を握られている。
「……ん……」
「あ、痛かった?」
「んー」
声を出せない手前、否定するのも首をわずかに振ることでしかできない。というか痛みなんて初めからまったく感じていない。痛ければもっと抵抗できただろうが、存外にこれが快感ですらあるということに驚いているくらいだ。
もしや私が知らないだけで、メリーには歯磨きの才能があったのでは? そう考えてしまうほど心地いいものであった。
「はい、次は左ね」
「……」
「もう一回いーして」
「……いー」
自分でやっていたらただの洗浄に過ぎないのに、他人に任せるのは楽だし気持ちいいものなんだなあ。今度メリーにやってあげようかしら。
でろんと椅子に座り四肢を投げ出し、寝る直前のように惚けていながらそんなことを考えていた。
「――もしもーし、蓮子、終わったわよ」
「んぁ……」
「綺麗になったから、ぐちゅぐちゅぺーしてソファ行きなさい」
どのくらい歯を磨かれていたのだろうか。十分ほど、あるいはもっとだろうか。ふわふわとした恍惚感に包まれながら口をゆすぎ、タオルで顔についた水を拭いていた。
「蓮子、途中何回か寝てなかった?」
「寝てないから」
「それにしてはずいぶん気持ちよさそうな顔してたけどなあ」
「歯磨きに集中してたんじゃないの」
「顔見れば分かるわよ」
「――すけべ」
ぷいっとメリーの横を歩いて、足早にその場を去りソファへと向かった。実際半分寝ていたようなものだったし、気持ちよかったことも認めるけれど、そんなに顔に出ていたとは。不覚。
ごはんを食べた後と同じく、ソファにぼふりとなだれ込んだがほとんど眠気はなくなっていた。いや、寝てたんだからそりゃそうなんだけどさ。
片付け終わったかメリーも戻ってきた。椅子を抱えて、重そうによいしょよいしょと運んでいる。食卓につけたところでメリーはその椅子に座る。もうソファの占有は誰の手にあるかお互い理解しているようだが、眠たくはないことを伝えたほうがいいだろうか。
「ねぇ蓮子」
「……何よ」
「言うかどうかとっても迷ったんだけどね」
「何、早く言ってよ」
「……あーとかいーとか、わざわざ声にしなくてよかったのよ」
間。
自分の顔が赤くなっていくのが分かったくらいに、熱を持ったことが分かった。
がばりと飛び起き、赤い顔を隠すことすらせず、精一杯の怒りを表明するために顔を合わせた。
「――先に言ってよ、ばかぁ!」
心なしかメリーは笑顔だった。
さんざん甘えておいて無自覚だった部分を指摘されて無性に恥ずかしがる
素晴らしい金曜日の夜ですね
こうして読んでる今は日曜日の夜ですが……