……返ってくる声はなく、ただ柔らかくて。
ベッドの上で寝返りをしたとき、ふとした偶然で、目が冴えてしまった。予想外の時間に起きてしまい、私は、再入眠を求めて何度も空想を繰り返す。
その取り留めのない、青だか、白だか判らない意識の隅っこで、考えていた数式や民間伝承が融け合って、やがてひとつの夢の奔流になるのを、待ち望んでいた。
しかし、太陽は、マンションの一室の、広げられた白いカーテンの刺繍の薄くなった部分から、早くも私に挨拶をしてきたのだ。
これが、今日のこと。日曜日のこと。
「それで、ずっと違和感があるのよ」
意識を人間社会のレベルまで引き上げた私は、宇佐見蓮子という名前を思い出して、間もなく家から繰り出し、待ち合わせ場所であったカフェ『MUSICOPHILIA』に漂い着いたのだった。
テーブル席の向かいには……誰も居ない。
「まだ暖かいし、地下鉄に揺られて仮眠でも摂る?」
答えは私の、真隣の席から訪れた。彼女、マエリベリー・ハーン(通称メリー)とは、ある利便性の面から、このような席配置にする事が多い。
「一日乗車券はあるから悪くないけど……、眠るのは夜でも出来るんだし、遠慮しておく」
テーブルには、この京都市内のマップと、自分達でアタリをつけた赤ペンの丸印、そして、大量の付箋が付けられたスクラップブックが載せられていた。これらを確認するために、私達は恋人のような親密さの距離を持つのだった。
私達二人は、秘封倶楽部というオカルトサークルに所属して、手近な怪異を調査したり、適当な旅行を体験したりしている。返答を待たずに、私は話を続けた。
「それでさ。違和感の話なんだけど、まるでこの世界が、今までとはまったく違う世界みたいに感じるのよ」
ウェイトレスがコーヒーとカフェオレを持ってきて、簡素な会釈と挨拶のあと、机の、空いた部分にそっと置いた。従業員が去ってから、まるで秘密話をするように、遅れてメリーは口を開く。
「よくあることじゃない? ……――っなんて、体調的な理由で話を終わらせるのはつまらないわね。蓮子も私につられて、幻想世界の観測が出来るようになったとか? あと、今日は珍しくブラックコーヒーなのね」
「まだ寝てるような気分だからさ、醒まさなきゃって思って……うぁ、苦。私もメリーみたいに色々視えればなー」
砂糖もクリーミングパウダーも入れずに口に運んだアイスコーヒーは、私の寝ぼけ眼の舌を、強くビリビリと痺れさせた。苦く、黒い液体。これが豆の出汁で、人間専用の飲料水だというのだから、歴史は複雑である。
「蓮子大丈夫? 頭痛くなったりしない? ここ“オルタナ”じゃなくて“ストレート”のお店なのよ? アレなら交換しようか?」
「いーややだ。せっかく高価いものを頼んだんだし、貴重な経験を味わわなきゃ。頭痛薬も持ってきてるしね」
「……なんだか本末転倒な気がするわ」
例えば、何百年も前のお酒は、今ではとても飲めないほどに奇妙な味がしたらしい。何もかもが安価の代替品(オルタナ)で済ませられるようになったのは、進歩の弊害だろうか――いや、コストの削減がイコールで資源の節約に繋がるようになっただけだ。
いまほど、無駄が、枯れた技術が高価になった時代は、恐らく無い。カフェ内には、リアルな香りと、その品がある。
「メリーは“向こう側”に行ったとき、何か変な感じとかある?」
ふと気になって、私は聞いてみる。メリーは、普通の大学生の私と違って、霊能力というか、才能というか、特殊な知覚を持っている。
「結界のさきかぁー。あまり奇妙だとは感じないのよね。なんか、当たり前って感じ」
彼女はそれを“結界”と呼ぶ。あの世とこの世の境目なのか、風水で云う気脈のフシなのか、ともかく曖昧な何かが判るようだ。
「じゃあ、いまの私ってどう?」
「当たり前な感じ」
当然なものは、幾つもある。待ち合わせ場所の珈琲店は、先週、火曜日に、ストレートを味わってみたいという希望から生じた。店内では注文通りの品が出されて、私達は、これまでに、他のカフェでもそうしたように座り、道具を広げ、一日の予定を考える。
通信端末ではなく、実際に会って決めようと云うのが、何年も前に結んだ約束であった。一週間ごとに、思いゝゝのオカルトを持ち寄って、互いの成果を見せ合うのが、秘封倶楽部の距離感としては最適だった。私達はこれから、行動する。
メリーは、気付いていない。
メリーは、このおかしさに、気付いていない。
「それじゃ、決めた通りに行きましょう」
彼女の言葉は、嗚呼、私の耳に、『二度』 聴こえていた。
「予定通りにするんじゃなかったの?」
「予定通りにするんじゃなかったの?」
私が、二回、言った。それはまるで別の世界から付き従った影が、私になろうとして鸚鵡返ししているようであった。
地下鉄に向かう足には、褐色のスエードブーツが履かれている。私はいつも被っている、白いリボン付きの黒ハットを少し持ち上げて、続けて彼女をしっかりと見た。日本人の私とは違い、メリーは金髪碧眼で、その髪をナイトキャップのようなフリル帽でまとめている。一瞥もくれずに、こう返してきた。
「むしろ私があなたに問いたいくらいよ。何でそんな面白そうな事を言ってくれないのよ」
「たまにはオカルト関係なく、普通のデートしましょう」
メリーの残像が『二言目』を付け加えている。
今は、多様性の時代だ。私の、白のワイシャツに黒のロングスカートを重ねて、上に化学繊維のマントを羽織るファッションはすでに百五十年も前に終わったものであるし、メリーの、ナイトキャップに紫のドレスなんかは、四百年以上前の流行を参考にしている。
地下鉄構内の人間達は、私達なんかよりもっと奇抜で、もう存在しない国の軍服に身を包んだ一般人すら歩いている。つまり、女同士のデートは、そう、珍しいものでもないのだが、やはり、例えそれが幻聴であっても、言葉として聴こえてしまうと、恥ずかしさが込み上げてきてしまう。
「……? アレ、私なにか変なこと謂ったかしら?」
「照れてる蓮子、かわいい」
言葉に詰まって俯いた私に向かって、不思議そうに、メリーは顔を覗き込んでくる。
「ううん。例の“二回目”のせい」
「ううん。例の“二回目”のせい」
「そう。けど、変よねぇ。自分自身のだけは、ただの山彦なんて。大丈夫? 私怖いこと言ってない? 頭痛くなったりはしない?」
「いいのよ。もうちょっと正直になっても。早く治るといいわね。やっぱり電車の中で眠っちゃう?」
メリーの異能力が影響しているのだろうか? 時間が、長く感じる。この、遅れてくる言葉は、もうひとつの世界の私なのか。それとも願望が、無意識中を這い回っているだけだろうか。
「大丈夫。少し、幸福なだけ」
「大丈夫。少し、幸福なだけ」
「…………――私、二度目に、何を云ってるのかしら。多分、教えてくれないわよね?」
「そう? 大変になったら言ってね。いつでも肩を貸してあげる」
「部分的になら、いいかな」
「部分的になら、いいかな」
何故だろう。私は、随分前の言語論を、ひとつ思い出した。
『言葉というのは音楽のようなものであり、その流れは、違和感のないように、自動的に調整されている。例外はなく、自問自答だけでなく、第三者との対話でも、ある程度の規則性を持った“定形”から、その会話を組み立てているに過ぎない。パロディが普遍的なのはこのためである』
私はこれから、メリーの実験に付き合うことになる。
それは人体実験で、いつ消えるかもわからない、この“二言目”というオカルトの調査だ。方法は、ごく簡単。
それは、普遍性を持って行われなければならない。当たり前の動き、当たり前の娯楽。二人の仲睦まじい人間がするような、デート、というものに酷似していた。
――その映画は、酷いものだった。
黎明期には、単館で上映される、穴あきと糸くずだらけのフィルムによって供給が為されていたらしいが、私がつい先程まで観ていた現代劇は、形容しがたいレベルに質の悪いシロモノだった。
「蓮子、大丈夫? 顔色悪いわよ?」
「ごめんなさい。合わなかった?」
理由は様々だ。海外の単純娯楽B級映画ならば、このぼやけた脳も、そのあまりの退屈さに休まるだろうと二人で考えたのが、まず、甘かった。軽い頭痛が生まれている。
「平気。少し変な気分なだけ」
「平気。少し変な気分なだけ」
返す。やはり私の言葉は変わってない。しかし、変化はあって、そのせいで私は90分も苦しむハメになったのだった。
「ごめんなさい。映画、合わなかった?」
「そういう事もあるのね。酷い棒読みの吹き替えだったけど、それを二回も繰り返すものね」
嗚呼。私は、身動きには出さず、頭を抱えた。
言葉は、まるで台本を呼んでいるように、次の、来るであろう台詞を、早回ししていたのだ。
「あ。違うの。二言目の性質がいつの間にか、変わっててさ」
「あ。違うの。二言目の性質がいつの間にか、変わっててさ」
情報が錯綜して、何がなんだか、判らなくなってくる。余計なものだと切り捨てていた、自分自身の確固とした声に、少し安堵するほどだ。二重音声の映画は、五月蝿くて仕方がなかった。
「そういう事もあるのね。酷い棒読みだったけど、それを二回も繰り返されたらキツイものね」
「もう帰って休む? 考えれば考えるほど辛そうだわ」
余分な言葉の残像が、次のメリーの台詞を教えてくれる。脳機能が異常に優れているのか、それとも、本当に未来から訪れた、日常的な怪異のどれよりも優るオカルトの声なのか。
意識しても止まらず、変わらず、ただ自然に、なりゆきに、それは変化して、そして囁いてくる。
「うん。ただ、私の問題だから、気にしなくていいよ」
「うん。ただ、私の問題だから、気にしなくていいよ」
自分がどちらに答えているのか。どちらが本物のメリーなのか。私は、彼女の唇を見て、狂いそうな意識を現実に留めた。
「けど。考えれば考えるほど辛そう。もう帰って休みましょう?」
「うーん。心配。本当に無理そうだったら、タクシー拾って無理にでも連れ帰るからね」
しかし、この狂気の世界は、まさにオカルトの、メリーがこれまで体験してきた世界に、限りなく近いのだ。いつ消えるかもしれない幻惑を、出来る今だからこそ、探求したい。私は鞄の中から、頭痛薬を取り出した。
「心配しなくていいわ。むしろここまで来たら意地でもこのオカルトの“真実”を暴いてやるわ」
私は、次に起こる山彦の声と、メリーの台詞を知っていた。
……此処で私が、急に奇声を上げるみたいな、突飛な行動を取ったら、未来はどう変わるのだろうか?
研究は順調だった。前頭葉が痛みに暴れ回っていた時間帯は、あんなにも秒針の遅さを怨めしく感じていたのだけれど、薬の効果が現れ始めてからは、目まぐるしく変化を続ける出来事に、まるで電車の中より覗いた景色のような、憧憬さえ覚える夢中さに支配されていて、気が付くと、もうすでに夕暮れの光に照らされていた。
いくつか、普段は行かないような娯楽施設を回るうち、私はこのオカルト現象の内容を、メリーにすべて話すようになっていた。
まず言葉の山彦から始まって、カフェ内の、よりそうなって欲しいと思うような恋愛衝動、続いて映画館での未来予知したような声、地下鉄内で起こった性別の逆転、京都水族館での、世にも珍しい魚類との会話――――彼ら物言わぬ魚達は、私達の相談のうしろに付いてくるように、意見を言い合ってきた。
『例えば、私達が童話のように作られた人格であるとして、君ら秘封倶楽部は、我々に何を与えてくれるのかな?』
最も印象深かったのは、その、誰かも知れぬ魚群の中のどれかひとつの質問であって、私達は苦笑いをしながら、彼らに手を振って別れを告げるしか無かった。声は老人のように思えた。
色々な声を聴いた。メリーはときに逞しく、ときに怖ろしげに震えて、ときに狂って、その『二言目』を付け加える。動物は、声帯が発達していないせいか、ボディランゲージのあと、哲学的な問い掛けをしてくる。猫は常に人間に選択を迫り、犬は必ずどこか遠くへと向かっていた。鳥どもは監視の外に出るなと声を揃えて忠告してきて、やがて、唐突に声は途絶えたので、時間切れなのか、それとも寡黙なのか、植物の思考は聴けずじまいだった。
もし私が、数百年も痩せた土壌の貧弱な栄養素を啜るだけの植物として産まれたのなら、この眼の前の、黒い帽子とナイトキャップの女に、何を伝えるだろうか。目も耳もなく、呼吸だけは出来て…………――――
「ねぇ、蓮子。これにしましょう」
「蓮子。蓮子。蓮子。蓮子」
メリーの、何度も名前を呼ぶその異常なリズムが、私を現実に引き戻した。水族館の帰り際、売店に寄っておみやげを物色していたのだった。そういえば。
すでに頭痛薬は切れて、痛みが光になって視界内を回っていた。私は答えようとする。
「……うん。良いね。それ」
「……うん。良いね。それ」
喉に詰まって、研鑽しそこねた出来損ないの言葉が、煩わしい事に二度も繰り返された。私に訪れた幸運なオカルト体験は、今や悪夢のように無秩序に、発生と消失を続ける責め苦であった。自分以外の声は、なにひとつとして、信じるに値する一貫性を持たない。
いや、自分自身すらも――――分裂してしまったように感じる。
「サメとイルカ、あと細長いけどチンアナゴ。どれにする?」
「蓮子。蓮子。蓮子。蓮子。蓮子。蓮子」
壊れたレコードのように彼女が呼ぶ。またこの現象も、あと数十分もすれば置き換わるのであろう。見遣る。メリーを。
唇の動きから、判る。何を言って、何を求めて、何を伝えたいか。私は、手を伸ばし……サメやイルカの沈殿した……マペットのコーナーへと……流暢さが失われ、腕がぎこちなく、たった数十センチの距離が、遥か海岸線の彼方に思えてくる。
確かに、メリーと共に行う、新種のオカルトは、主導権を握るのが私の耳だったせいか、時間を忘れるほど楽しかった。
しかし。
しかし。思う。
幾多の『二言目』を通じて、生まれた疑念がある。
“真実とは、何なのだろう?”
例えば、物理の世界では、熱や電気に伝導率があるように、言葉にも伝わる比率があって、相手が、最も必要とする意味だけならまだしも、巨大になった言語機能の流暢さを補うために、どこぞの言語論のよう、テンプレートに当て嵌めた予定調和を、脳味噌の庭で《独り》転がしているだけだとしたら……?
伝わるまでに、切り捨てられた声は、何%あるのだろう。
私は、メリーとどれだけ話していられているのだろうか?
――――――が。
「蓮子。ねえ。蓮子?」
その瞬間、何もかもが吹き飛んだ。
言葉はたった一度しか聴こえず、かつ、手に暖かさが伝わってきた。私は気付く。途中で止まってしまったその手を、彼女が、握っている。頭骨内で跳ね回っていた痛棘が溶けていって、まるで身体が浮いたかのような錯覚に囚われる。
文字に書き起こすとチープだが、なにもかもが快癒した。悩みも、苦痛も、いつの間にか冷えきっていた手の滞りも、何もかも。
どうでも良くなった。
「わ。すっごい手が冷たい。暖めるわ」
「大丈夫? すごく手が冷たい……」
一瞬は、すぐにも通り過ぎていた。再び、以前のような『二言目』は蘇って、私の耳奥に、じわじわと泥水のように痛みを染み込ませてくる。
ただ、違う事がひとつある。私は、今、新しく、経験した。
「「どうしたの? 蓮子」」 私の心を覗き込んだメリーに、
宇佐見蓮子は照れながら、それを、二回、言った。マエリベリー・ハーンの暖かい手自身が、薬になるうるであろうと云う、希望的観測も甚だしい、今さっき、起きたオカルトの変化を。
メリーは優しく笑いかけて、次のような意味を持つ声を、私に掛けてきてくれた。“そうする”
私はこうして、帰宅までの67分、彼女の手に繋がれるのだった。
二匹の色違いのイルカが、水色のマイバックの中で揺れていた。もうすぐ分かれ道。地下鉄電車内では、心地良い振動が、朝からずっと蓄積してきた、鬱屈と幸福の混ざった白黒の睡魔を、猛スピードで意識と混ぜ合わせ始めていて、夢現の境界は揺らいでいた。
私は、カフェのよう、メリーの隣に座り、あと僅かのときを、手を繋いで待っている。ふと、不安に駆られて、云う。
「ごめんねメリー。何か巻き込んじゃったみたいで」
「ごめんねメリー。何か巻き込んじゃったみたいで」
今日という日は、思いもよらぬ未来であった。予定通りなら、今頃、貴船か伏見稲荷にでも寄った帰りになっていて、二人とも歩き疲れて眠っていただろう。中途半端な眠気に、納得の行かないオカルトの探求成果。わからないまま、私は日々を越えようとしている。
「蓮子。気にしなくていいのよ。私、すっごく楽しかったわ」
「謝らないで。むしろ、感謝したいくらいなんだし」
眠ってしまえば、きっと、頭痛も氷解して、私は今みたいに、内省的になって、情けなく苦笑いするなんて、無くなるだろう。
しかし、“暗い嵐の夜”のよう、最悪で、不安で、不安で、眠れず、私は何故だか、打ち明けている。
「……けど、結局、オカルトの解明も空振りだったし、こう、私、何してるんだろって思って」
「……けど、結局、オカルトの解明も空振りだったし、こう、私、何してるんだろって思って」
嗚呼。煩わしい。自分の台詞が、鬱陶しく私の言葉に呼応してくる。手は冷えていた。数分後には、外気に触れ、もっと機能性を失うだろう。喪失、離別、無駄、億劫、メリーの手がある内は、まるで天上の音楽を聴くよう、私は前を向けるが、かの天使が去ったのち、再び頭痛が襲ってきたら――――
フフ、と彼女はそこで微笑ってみせた。
「何を言ってるのよ。これまで一回たりとして、オカルトを解明できた冒険なんてあった?」
「何もわからずに終わるってことは、蓮子のそれも、立派なオカルトの仲間入りよ。秘封倶楽部に起きた怪」
――――――ああ、私は、幸せものだ。
肩の力が抜けて、惚けてしまって、私は彼女の唇の動きを見逃していた。真実を見極めようとせず、目を瞑ると、私は、二人のメリーから、祝福を受けている。
「メリー。ありがと」
「メリー。ありがと」
私は、別次元の私ともに、その手を握り返した。血潮が巡る。
「あ、そうだ。ひとつ、考えたことがあるのよ」
僅か60秒の、短い提案だった。地下鉄は目的地に止まり、私は降りなければならない。離れなければならない。メリーは水色のマイバックを漁って、流暢にそれを取り出した。
彼女は、そう謂う。
『マペット、交換しましょう。私が青で、蓮子がピンク。手を握って楽になるのなら、私の手だと思って、ね。こうやって……』
嗚呼。感触を覚えている。マペットの柔らかい毛並みで、甘噛みするように――――
『朝、これが私だと思って、挨拶をすれば……』
想う。不思議に感じる。メリーには、私と同じく『二言目』が聞こえていたのだろうか。私は結局、ひとつだけ言いそびれていた。それは不安の大元で、継続的で、そして自分の力では、どうにもならない、運命のようなものだった。不安。
“もしも、明日からも、同じ症状が出続けるなら……”
たった一日ですら、苦痛を抑えるので精一杯だった。本当は、ずっと傍にいて欲しい? 治療のため? 幸福のため?
眠るのが、怖ろしい。結果を知るのが、恐い。
“もし、オカルトが、私を別世界に放り込んでしまったら”
メリーには、私のその失われた『二言目』が聞こえていたのだろうか? 最後の提案は、まるで心を読まれていたようだった。
交換したイルカは、今、私の手を包んでいる。
――――嗚呼。
独りで家路を急ぎ、マンションの高層階へと戻り、明日を迎える支度を済ませて、文明の電灯を消して、瞼の奥に残る残像を、やがて体温で暖かくなってくるベッドの中で見つめて、思う。
私のこの約束は、この悩みは、メリーにも当て嵌まるんだ。
きっと今頃、同じように、オカルトを持ったメリーは、枕元に今日のマペットを置いて、ゆっくりと、目を閉じているんだ。
そうして、人間には深い眠りが訪れて、ふと、気付く時には、
「おはよう。メリー」 「おはよう。蓮子」
返ってくる声はなく、ただ柔らかくて。
ベッドの上で寝返りをしたとき、ふとした偶然で、目が冴えてしまった。予想外の時間に起きてしまい、私は、再入眠を求めて何度も空想を繰り返す。
その取り留めのない、青だか、白だか判らない意識の隅っこで、考えていた数式や民間伝承が融け合って、やがてひとつの夢の奔流になるのを、待ち望んでいた。
しかし、太陽は、マンションの一室の、広げられた白いカーテンの刺繍の薄くなった部分から、早くも私に挨拶をしてきたのだ。
これが、今日のこと。日曜日のこと。
「それで、ずっと違和感があるのよ」
意識を人間社会のレベルまで引き上げた私は、宇佐見蓮子という名前を思い出して、間もなく家から繰り出し、待ち合わせ場所であったカフェ『MUSICOPHILIA』に漂い着いたのだった。
テーブル席の向かいには……誰も居ない。
「まだ暖かいし、地下鉄に揺られて仮眠でも摂る?」
答えは私の、真隣の席から訪れた。彼女、マエリベリー・ハーン(通称メリー)とは、ある利便性の面から、このような席配置にする事が多い。
「一日乗車券はあるから悪くないけど……、眠るのは夜でも出来るんだし、遠慮しておく」
テーブルには、この京都市内のマップと、自分達でアタリをつけた赤ペンの丸印、そして、大量の付箋が付けられたスクラップブックが載せられていた。これらを確認するために、私達は恋人のような親密さの距離を持つのだった。
私達二人は、秘封倶楽部というオカルトサークルに所属して、手近な怪異を調査したり、適当な旅行を体験したりしている。返答を待たずに、私は話を続けた。
「それでさ。違和感の話なんだけど、まるでこの世界が、今までとはまったく違う世界みたいに感じるのよ」
ウェイトレスがコーヒーとカフェオレを持ってきて、簡素な会釈と挨拶のあと、机の、空いた部分にそっと置いた。従業員が去ってから、まるで秘密話をするように、遅れてメリーは口を開く。
「よくあることじゃない? ……――っなんて、体調的な理由で話を終わらせるのはつまらないわね。蓮子も私につられて、幻想世界の観測が出来るようになったとか? あと、今日は珍しくブラックコーヒーなのね」
「まだ寝てるような気分だからさ、醒まさなきゃって思って……うぁ、苦。私もメリーみたいに色々視えればなー」
砂糖もクリーミングパウダーも入れずに口に運んだアイスコーヒーは、私の寝ぼけ眼の舌を、強くビリビリと痺れさせた。苦く、黒い液体。これが豆の出汁で、人間専用の飲料水だというのだから、歴史は複雑である。
「蓮子大丈夫? 頭痛くなったりしない? ここ“オルタナ”じゃなくて“ストレート”のお店なのよ? アレなら交換しようか?」
「いーややだ。せっかく高価いものを頼んだんだし、貴重な経験を味わわなきゃ。頭痛薬も持ってきてるしね」
「……なんだか本末転倒な気がするわ」
例えば、何百年も前のお酒は、今ではとても飲めないほどに奇妙な味がしたらしい。何もかもが安価の代替品(オルタナ)で済ませられるようになったのは、進歩の弊害だろうか――いや、コストの削減がイコールで資源の節約に繋がるようになっただけだ。
いまほど、無駄が、枯れた技術が高価になった時代は、恐らく無い。カフェ内には、リアルな香りと、その品がある。
「メリーは“向こう側”に行ったとき、何か変な感じとかある?」
ふと気になって、私は聞いてみる。メリーは、普通の大学生の私と違って、霊能力というか、才能というか、特殊な知覚を持っている。
「結界のさきかぁー。あまり奇妙だとは感じないのよね。なんか、当たり前って感じ」
彼女はそれを“結界”と呼ぶ。あの世とこの世の境目なのか、風水で云う気脈のフシなのか、ともかく曖昧な何かが判るようだ。
「じゃあ、いまの私ってどう?」
「当たり前な感じ」
当然なものは、幾つもある。待ち合わせ場所の珈琲店は、先週、火曜日に、ストレートを味わってみたいという希望から生じた。店内では注文通りの品が出されて、私達は、これまでに、他のカフェでもそうしたように座り、道具を広げ、一日の予定を考える。
通信端末ではなく、実際に会って決めようと云うのが、何年も前に結んだ約束であった。一週間ごとに、思いゝゝのオカルトを持ち寄って、互いの成果を見せ合うのが、秘封倶楽部の距離感としては最適だった。私達はこれから、行動する。
メリーは、気付いていない。
メリーは、このおかしさに、気付いていない。
「それじゃ、決めた通りに行きましょう」
彼女の言葉は、嗚呼、私の耳に、『二度』 聴こえていた。
「予定通りにするんじゃなかったの?」
「予定通りにするんじゃなかったの?」
私が、二回、言った。それはまるで別の世界から付き従った影が、私になろうとして鸚鵡返ししているようであった。
地下鉄に向かう足には、褐色のスエードブーツが履かれている。私はいつも被っている、白いリボン付きの黒ハットを少し持ち上げて、続けて彼女をしっかりと見た。日本人の私とは違い、メリーは金髪碧眼で、その髪をナイトキャップのようなフリル帽でまとめている。一瞥もくれずに、こう返してきた。
「むしろ私があなたに問いたいくらいよ。何でそんな面白そうな事を言ってくれないのよ」
「たまにはオカルト関係なく、普通のデートしましょう」
メリーの残像が『二言目』を付け加えている。
今は、多様性の時代だ。私の、白のワイシャツに黒のロングスカートを重ねて、上に化学繊維のマントを羽織るファッションはすでに百五十年も前に終わったものであるし、メリーの、ナイトキャップに紫のドレスなんかは、四百年以上前の流行を参考にしている。
地下鉄構内の人間達は、私達なんかよりもっと奇抜で、もう存在しない国の軍服に身を包んだ一般人すら歩いている。つまり、女同士のデートは、そう、珍しいものでもないのだが、やはり、例えそれが幻聴であっても、言葉として聴こえてしまうと、恥ずかしさが込み上げてきてしまう。
「……? アレ、私なにか変なこと謂ったかしら?」
「照れてる蓮子、かわいい」
言葉に詰まって俯いた私に向かって、不思議そうに、メリーは顔を覗き込んでくる。
「ううん。例の“二回目”のせい」
「ううん。例の“二回目”のせい」
「そう。けど、変よねぇ。自分自身のだけは、ただの山彦なんて。大丈夫? 私怖いこと言ってない? 頭痛くなったりはしない?」
「いいのよ。もうちょっと正直になっても。早く治るといいわね。やっぱり電車の中で眠っちゃう?」
メリーの異能力が影響しているのだろうか? 時間が、長く感じる。この、遅れてくる言葉は、もうひとつの世界の私なのか。それとも願望が、無意識中を這い回っているだけだろうか。
「大丈夫。少し、幸福なだけ」
「大丈夫。少し、幸福なだけ」
「…………――私、二度目に、何を云ってるのかしら。多分、教えてくれないわよね?」
「そう? 大変になったら言ってね。いつでも肩を貸してあげる」
「部分的になら、いいかな」
「部分的になら、いいかな」
何故だろう。私は、随分前の言語論を、ひとつ思い出した。
『言葉というのは音楽のようなものであり、その流れは、違和感のないように、自動的に調整されている。例外はなく、自問自答だけでなく、第三者との対話でも、ある程度の規則性を持った“定形”から、その会話を組み立てているに過ぎない。パロディが普遍的なのはこのためである』
私はこれから、メリーの実験に付き合うことになる。
それは人体実験で、いつ消えるかもわからない、この“二言目”というオカルトの調査だ。方法は、ごく簡単。
それは、普遍性を持って行われなければならない。当たり前の動き、当たり前の娯楽。二人の仲睦まじい人間がするような、デート、というものに酷似していた。
――その映画は、酷いものだった。
黎明期には、単館で上映される、穴あきと糸くずだらけのフィルムによって供給が為されていたらしいが、私がつい先程まで観ていた現代劇は、形容しがたいレベルに質の悪いシロモノだった。
「蓮子、大丈夫? 顔色悪いわよ?」
「ごめんなさい。合わなかった?」
理由は様々だ。海外の単純娯楽B級映画ならば、このぼやけた脳も、そのあまりの退屈さに休まるだろうと二人で考えたのが、まず、甘かった。軽い頭痛が生まれている。
「平気。少し変な気分なだけ」
「平気。少し変な気分なだけ」
返す。やはり私の言葉は変わってない。しかし、変化はあって、そのせいで私は90分も苦しむハメになったのだった。
「ごめんなさい。映画、合わなかった?」
「そういう事もあるのね。酷い棒読みの吹き替えだったけど、それを二回も繰り返すものね」
嗚呼。私は、身動きには出さず、頭を抱えた。
言葉は、まるで台本を呼んでいるように、次の、来るであろう台詞を、早回ししていたのだ。
「あ。違うの。二言目の性質がいつの間にか、変わっててさ」
「あ。違うの。二言目の性質がいつの間にか、変わっててさ」
情報が錯綜して、何がなんだか、判らなくなってくる。余計なものだと切り捨てていた、自分自身の確固とした声に、少し安堵するほどだ。二重音声の映画は、五月蝿くて仕方がなかった。
「そういう事もあるのね。酷い棒読みだったけど、それを二回も繰り返されたらキツイものね」
「もう帰って休む? 考えれば考えるほど辛そうだわ」
余分な言葉の残像が、次のメリーの台詞を教えてくれる。脳機能が異常に優れているのか、それとも、本当に未来から訪れた、日常的な怪異のどれよりも優るオカルトの声なのか。
意識しても止まらず、変わらず、ただ自然に、なりゆきに、それは変化して、そして囁いてくる。
「うん。ただ、私の問題だから、気にしなくていいよ」
「うん。ただ、私の問題だから、気にしなくていいよ」
自分がどちらに答えているのか。どちらが本物のメリーなのか。私は、彼女の唇を見て、狂いそうな意識を現実に留めた。
「けど。考えれば考えるほど辛そう。もう帰って休みましょう?」
「うーん。心配。本当に無理そうだったら、タクシー拾って無理にでも連れ帰るからね」
しかし、この狂気の世界は、まさにオカルトの、メリーがこれまで体験してきた世界に、限りなく近いのだ。いつ消えるかもしれない幻惑を、出来る今だからこそ、探求したい。私は鞄の中から、頭痛薬を取り出した。
「心配しなくていいわ。むしろここまで来たら意地でもこのオカルトの“真実”を暴いてやるわ」
私は、次に起こる山彦の声と、メリーの台詞を知っていた。
……此処で私が、急に奇声を上げるみたいな、突飛な行動を取ったら、未来はどう変わるのだろうか?
研究は順調だった。前頭葉が痛みに暴れ回っていた時間帯は、あんなにも秒針の遅さを怨めしく感じていたのだけれど、薬の効果が現れ始めてからは、目まぐるしく変化を続ける出来事に、まるで電車の中より覗いた景色のような、憧憬さえ覚える夢中さに支配されていて、気が付くと、もうすでに夕暮れの光に照らされていた。
いくつか、普段は行かないような娯楽施設を回るうち、私はこのオカルト現象の内容を、メリーにすべて話すようになっていた。
まず言葉の山彦から始まって、カフェ内の、よりそうなって欲しいと思うような恋愛衝動、続いて映画館での未来予知したような声、地下鉄内で起こった性別の逆転、京都水族館での、世にも珍しい魚類との会話――――彼ら物言わぬ魚達は、私達の相談のうしろに付いてくるように、意見を言い合ってきた。
『例えば、私達が童話のように作られた人格であるとして、君ら秘封倶楽部は、我々に何を与えてくれるのかな?』
最も印象深かったのは、その、誰かも知れぬ魚群の中のどれかひとつの質問であって、私達は苦笑いをしながら、彼らに手を振って別れを告げるしか無かった。声は老人のように思えた。
色々な声を聴いた。メリーはときに逞しく、ときに怖ろしげに震えて、ときに狂って、その『二言目』を付け加える。動物は、声帯が発達していないせいか、ボディランゲージのあと、哲学的な問い掛けをしてくる。猫は常に人間に選択を迫り、犬は必ずどこか遠くへと向かっていた。鳥どもは監視の外に出るなと声を揃えて忠告してきて、やがて、唐突に声は途絶えたので、時間切れなのか、それとも寡黙なのか、植物の思考は聴けずじまいだった。
もし私が、数百年も痩せた土壌の貧弱な栄養素を啜るだけの植物として産まれたのなら、この眼の前の、黒い帽子とナイトキャップの女に、何を伝えるだろうか。目も耳もなく、呼吸だけは出来て…………――――
「ねぇ、蓮子。これにしましょう」
「蓮子。蓮子。蓮子。蓮子」
メリーの、何度も名前を呼ぶその異常なリズムが、私を現実に引き戻した。水族館の帰り際、売店に寄っておみやげを物色していたのだった。そういえば。
すでに頭痛薬は切れて、痛みが光になって視界内を回っていた。私は答えようとする。
「……うん。良いね。それ」
「……うん。良いね。それ」
喉に詰まって、研鑽しそこねた出来損ないの言葉が、煩わしい事に二度も繰り返された。私に訪れた幸運なオカルト体験は、今や悪夢のように無秩序に、発生と消失を続ける責め苦であった。自分以外の声は、なにひとつとして、信じるに値する一貫性を持たない。
いや、自分自身すらも――――分裂してしまったように感じる。
「サメとイルカ、あと細長いけどチンアナゴ。どれにする?」
「蓮子。蓮子。蓮子。蓮子。蓮子。蓮子」
壊れたレコードのように彼女が呼ぶ。またこの現象も、あと数十分もすれば置き換わるのであろう。見遣る。メリーを。
唇の動きから、判る。何を言って、何を求めて、何を伝えたいか。私は、手を伸ばし……サメやイルカの沈殿した……マペットのコーナーへと……流暢さが失われ、腕がぎこちなく、たった数十センチの距離が、遥か海岸線の彼方に思えてくる。
確かに、メリーと共に行う、新種のオカルトは、主導権を握るのが私の耳だったせいか、時間を忘れるほど楽しかった。
しかし。
しかし。思う。
幾多の『二言目』を通じて、生まれた疑念がある。
“真実とは、何なのだろう?”
例えば、物理の世界では、熱や電気に伝導率があるように、言葉にも伝わる比率があって、相手が、最も必要とする意味だけならまだしも、巨大になった言語機能の流暢さを補うために、どこぞの言語論のよう、テンプレートに当て嵌めた予定調和を、脳味噌の庭で《独り》転がしているだけだとしたら……?
伝わるまでに、切り捨てられた声は、何%あるのだろう。
私は、メリーとどれだけ話していられているのだろうか?
――――――が。
「蓮子。ねえ。蓮子?」
その瞬間、何もかもが吹き飛んだ。
言葉はたった一度しか聴こえず、かつ、手に暖かさが伝わってきた。私は気付く。途中で止まってしまったその手を、彼女が、握っている。頭骨内で跳ね回っていた痛棘が溶けていって、まるで身体が浮いたかのような錯覚に囚われる。
文字に書き起こすとチープだが、なにもかもが快癒した。悩みも、苦痛も、いつの間にか冷えきっていた手の滞りも、何もかも。
どうでも良くなった。
「わ。すっごい手が冷たい。暖めるわ」
「大丈夫? すごく手が冷たい……」
一瞬は、すぐにも通り過ぎていた。再び、以前のような『二言目』は蘇って、私の耳奥に、じわじわと泥水のように痛みを染み込ませてくる。
ただ、違う事がひとつある。私は、今、新しく、経験した。
「「どうしたの? 蓮子」」 私の心を覗き込んだメリーに、
宇佐見蓮子は照れながら、それを、二回、言った。マエリベリー・ハーンの暖かい手自身が、薬になるうるであろうと云う、希望的観測も甚だしい、今さっき、起きたオカルトの変化を。
メリーは優しく笑いかけて、次のような意味を持つ声を、私に掛けてきてくれた。“そうする”
私はこうして、帰宅までの67分、彼女の手に繋がれるのだった。
二匹の色違いのイルカが、水色のマイバックの中で揺れていた。もうすぐ分かれ道。地下鉄電車内では、心地良い振動が、朝からずっと蓄積してきた、鬱屈と幸福の混ざった白黒の睡魔を、猛スピードで意識と混ぜ合わせ始めていて、夢現の境界は揺らいでいた。
私は、カフェのよう、メリーの隣に座り、あと僅かのときを、手を繋いで待っている。ふと、不安に駆られて、云う。
「ごめんねメリー。何か巻き込んじゃったみたいで」
「ごめんねメリー。何か巻き込んじゃったみたいで」
今日という日は、思いもよらぬ未来であった。予定通りなら、今頃、貴船か伏見稲荷にでも寄った帰りになっていて、二人とも歩き疲れて眠っていただろう。中途半端な眠気に、納得の行かないオカルトの探求成果。わからないまま、私は日々を越えようとしている。
「蓮子。気にしなくていいのよ。私、すっごく楽しかったわ」
「謝らないで。むしろ、感謝したいくらいなんだし」
眠ってしまえば、きっと、頭痛も氷解して、私は今みたいに、内省的になって、情けなく苦笑いするなんて、無くなるだろう。
しかし、“暗い嵐の夜”のよう、最悪で、不安で、不安で、眠れず、私は何故だか、打ち明けている。
「……けど、結局、オカルトの解明も空振りだったし、こう、私、何してるんだろって思って」
「……けど、結局、オカルトの解明も空振りだったし、こう、私、何してるんだろって思って」
嗚呼。煩わしい。自分の台詞が、鬱陶しく私の言葉に呼応してくる。手は冷えていた。数分後には、外気に触れ、もっと機能性を失うだろう。喪失、離別、無駄、億劫、メリーの手がある内は、まるで天上の音楽を聴くよう、私は前を向けるが、かの天使が去ったのち、再び頭痛が襲ってきたら――――
フフ、と彼女はそこで微笑ってみせた。
「何を言ってるのよ。これまで一回たりとして、オカルトを解明できた冒険なんてあった?」
「何もわからずに終わるってことは、蓮子のそれも、立派なオカルトの仲間入りよ。秘封倶楽部に起きた怪」
――――――ああ、私は、幸せものだ。
肩の力が抜けて、惚けてしまって、私は彼女の唇の動きを見逃していた。真実を見極めようとせず、目を瞑ると、私は、二人のメリーから、祝福を受けている。
「メリー。ありがと」
「メリー。ありがと」
私は、別次元の私ともに、その手を握り返した。血潮が巡る。
「あ、そうだ。ひとつ、考えたことがあるのよ」
僅か60秒の、短い提案だった。地下鉄は目的地に止まり、私は降りなければならない。離れなければならない。メリーは水色のマイバックを漁って、流暢にそれを取り出した。
彼女は、そう謂う。
『マペット、交換しましょう。私が青で、蓮子がピンク。手を握って楽になるのなら、私の手だと思って、ね。こうやって……』
嗚呼。感触を覚えている。マペットの柔らかい毛並みで、甘噛みするように――――
『朝、これが私だと思って、挨拶をすれば……』
想う。不思議に感じる。メリーには、私と同じく『二言目』が聞こえていたのだろうか。私は結局、ひとつだけ言いそびれていた。それは不安の大元で、継続的で、そして自分の力では、どうにもならない、運命のようなものだった。不安。
“もしも、明日からも、同じ症状が出続けるなら……”
たった一日ですら、苦痛を抑えるので精一杯だった。本当は、ずっと傍にいて欲しい? 治療のため? 幸福のため?
眠るのが、怖ろしい。結果を知るのが、恐い。
“もし、オカルトが、私を別世界に放り込んでしまったら”
メリーには、私のその失われた『二言目』が聞こえていたのだろうか? 最後の提案は、まるで心を読まれていたようだった。
交換したイルカは、今、私の手を包んでいる。
――――嗚呼。
独りで家路を急ぎ、マンションの高層階へと戻り、明日を迎える支度を済ませて、文明の電灯を消して、瞼の奥に残る残像を、やがて体温で暖かくなってくるベッドの中で見つめて、思う。
私のこの約束は、この悩みは、メリーにも当て嵌まるんだ。
きっと今頃、同じように、オカルトを持ったメリーは、枕元に今日のマペットを置いて、ゆっくりと、目を閉じているんだ。
そうして、人間には深い眠りが訪れて、ふと、気付く時には、
「おはよう。メリー」 「おはよう。蓮子」
返ってくる声はなく、ただ柔らかくて。