畳敷きに据えた土火鉢の上にぐらぐらと煮える猪鍋を、汗を拭いながらやっつけているおひい様。このくそ暑いのになぜももんじなんか……
「で? 用件はなんだよ。まさか飯をおごる為に来た訳じゃあるめぇ」
ぐい呑みに冷やをなみなみと注いで呷り、まだ口に残っている獣の肉を流し込むと、思い出したように聞いてきた。
「そもそもおごる気はありませんし、ここに連れてきたのはおひい様じゃないですか」
「人様の耳を憚るというから、わざわざ内緒話の出来るところに来てやったんじゃねぇか。それに私は文無しだ」
「さっきはどうしたんですか」
「そのさっきでオケラになっちまったんだよ」
私の少ない貯えがまたこうして消えて行く。もちろん嫌に決まっているが、何とはなしに嬉しく感じている自分が怨めしい。この人の恐ろしいところだ。餌食にされているのに、それが苦しくて気持ちがいい。
美しい寄生虫。おひい様にぴったりだ。どこぞの館の主より、よほど吸血鬼らしい。
ため息をつく私を尻目に、おひい様は蒔絵で星の描かれた煙管筒から、愛用の銀の延べ煙管を取り出して、蛇革の煙草入れにつっこみ器用に刻み煙草を詰めた後、パチンと鳴らした指先に灯る青い火を、火皿に添えてふかしはじめる。
このままではいつまでたっても進まない。おごり云々の話はこの際あとにして、とにかく本題に入ろう。
「旦那様が御病気を召していらっしゃるのは御存じですね?」
「風の噂で」
「近頃ご容態さらにすぐれず、白湯すら喉を通らぬ有り様ゆえ、霧雨屋一同気を揉んでおりましたところ、昨日私を内密にお呼びになり、ただ一言おおせられました」
「なんて?」
煙管をくわえたまま片目の端をクッとあげる。まるで先がもう分かったような反応。まぁ多分、本当に分かっているんだろう。
「おひい様を連れてこいと」
「へ~……」
腹の底からどうでもいいといった感じの声を上げて、煙管を灰吹きに打ち付ける。コン、といやに虚しい音が響いた。
ある程度予感めいたものはあったが、いやはやまさかここまで淡泊とは。如何に私がおひい様信者だからとて、今回といい何かと目に掛けて下さる旦那様が明日をも知れぬ身というのに、こうあっけらかんとされていては少々気が悪い。
「とても親の危篤を知らされた反応とは思えませんが?」
「勘当された私にとっちゃ、もう赤の他人だからなぁ」
「こんな事に理屈を持ち出さないで下さい」
段々と私の声は大きくなる。勘当娘を呼び戻す。ご自身の決断を自ら翻す旦那様の羞恥を、おひい様は少しも分かってない。さぞかし悩まれ、それでも一人娘に伝えたい事があるからこそ、断腸の思いで私に御命じになったのだ。
悪党な貴女が好きだ。でも、こんな中途半端に生冷たいおひい様なんて、ただ不愉快なだけじゃないか。
「今日か明日かという話なんです。なにがなんでもお連れ致しますからね!」
別に手がある訳ではない。おひい様を無理矢理その気にさせる力など、到底私には無いのだから。それでも食い下がれば苛つかせる事ぐらい出来るだろう。
ひょっとしたら殺してくれるかも知れない。旦那様の恩に報いつつ、心底まいっちまっているおひい様に殺される。嗚呼、それはとても良い事だ。
「まぁ落ち着けよ。折角の内緒話が台無しになるだろ。第一、もう種は割れてんだ。そう過剰だとかえって逆効果だぜ?」
勝手に鼻息を荒くしている私を手で制しながら、おひい様は急に訳の分からない事を言い出した。
「はい?」
「往生際が悪ぃな。あんまりべたべたと……うん?」
今度は私の顔を何やら覗き込んでいる。おひい様の双眸に写る二つの私。実際にはほんの五秒程だったろうが、猪鍋の臭気とうだる様な熱さがない交ぜになった座敷の中では、ずいぶん長く感じた。
「……ぷっ……ククク……そうかそうか、ふふっ……成る程、オヤジがお前を選んだ理由が分かったよ」
無言の見つめ合いに今とばかりに張り切りだした蝉時雨を、再び退場へと追いやったのは、おひい様のこもった笑い声だった。
「さっきから何を言ってるんですか?」
「いや、何でもない。そうだな、仰る通りだぜ。父危篤の報を受けて一粒種が微動だにしないってんじゃあ、あんまり情がなさすぎる。行こうじゃないか」
「行くって……お店(たな)にですか?」
「ああ」
それだけ応えると、急な心変わりについていけない私を置いて、せっせと鍋をつつきはじめる。
理由は分からないがきっと碌でもない事に違いない。あの笑い方は、こちらの顔が引きつる様な悪ふざけを企んでいる時のヤツだ。
実にぞっとしないので、何とか真意を聞き出そうとその後も追求してみたが、のらりくらりとかわされる。そこに一々皮肉の応酬が挟まるものだから、気付いた時には勘定を終えて店の前に立っていた。
ちなみに、つつがなく私が支払らった。ほんと、いろんな意味で納得できない。
「さて、夜までどうするかな」
「夜?」
ぶつくさ言いながら財布をしまっている私に、いっそ清々しいほど感謝の言葉も気持ちもないまま、楊子をくわえたおひい様が呟く。
「お忍びで生家を尋ねようってんだ。こんな真っ昼間に玄関からとはいかねぇだろ?」
道理だ。道理なだけに胡散臭い。
「逃げはしないでしょうね? 私が傍にいた方がいい気がします」
「んん? なら一緒に適当な時間まで楽しむか?」
不意に、真正面からぎゅっと抱きすくめられて、顔を覗き込まれる。代名詞とも言える奇天烈な帽子の広いツバの下、おひい様のお顔で視界がいっぱいになった。
背骨に冷水を流し込まれた様な感覚のあと、痺れと共に一気に発火して行くのが分かる。
ダメだ。ここで頷くのは簡単だが、そしたら自分の強みを失う事になる。私がおひい様の興味を引いているのは、一重にまだ手に入っていないからだ。
それ以外の価値など私にはない。だから受け入れる訳には行かない。例え心の底から望んでいても。
「暑苦しいんで離れて下さい」
どぎまぎしながら何とか冷静に聞こえる声を搾りだす。早く腕を解いて、後先が考えられる内に。
「…………」
無言の視線をひたと見つめ返す。少しでも反らせば、多分帰ってこれない。全勢力を傾けて集中していると、ふっと口の端で笑った。
「そうマジになるなよ。冗談さ、冗談。 ……私にとっちゃな?」
するりと体を離す。なんだい。やっぱり全部別ってるんじゃないか。だがそう簡単にアンタの思い通りにはなってやらないぞ。
こっちの覚悟も知らないで、喚びだした箒に金髪をさっと閃かせて跨り、手をひらひら振るおひい様。
「安心しろよ。草木も眠る時分にゃあまた会えるぜ」
「だといいんですが」
疾風がカラカラに渇いた砂を巻き上げたかと思うと、既におひい様は蒼穹の中に点となっていった。
「はぁ……」
何度目か分からぬ溜息を漏らす。結局、来るか否かの確証は得られぬままだ。およそおひい様に関わる他の全てと同じ様に、この件も気紛れに左右されるのだろう。
何はともあれ、一応勤めは果たした訳だ。旦那様に首尾をご報告せねばなるまい。報告という程のものもないが、まぁ相手が相手だ。ありのままを言えば「宜なるかな」で納まるだろう。
少しでも旦那様のお心を励ます事が出来ればいいなぁ……等と帰路に着こうとした瞬間、懐に違和感を感じた。急いで服のあちこちを探ってみるが、いくら探しても無い。
「財布、スラれた……」
来ても絶対に許さない。そう決めた。
「で? 用件はなんだよ。まさか飯をおごる為に来た訳じゃあるめぇ」
ぐい呑みに冷やをなみなみと注いで呷り、まだ口に残っている獣の肉を流し込むと、思い出したように聞いてきた。
「そもそもおごる気はありませんし、ここに連れてきたのはおひい様じゃないですか」
「人様の耳を憚るというから、わざわざ内緒話の出来るところに来てやったんじゃねぇか。それに私は文無しだ」
「さっきはどうしたんですか」
「そのさっきでオケラになっちまったんだよ」
私の少ない貯えがまたこうして消えて行く。もちろん嫌に決まっているが、何とはなしに嬉しく感じている自分が怨めしい。この人の恐ろしいところだ。餌食にされているのに、それが苦しくて気持ちがいい。
美しい寄生虫。おひい様にぴったりだ。どこぞの館の主より、よほど吸血鬼らしい。
ため息をつく私を尻目に、おひい様は蒔絵で星の描かれた煙管筒から、愛用の銀の延べ煙管を取り出して、蛇革の煙草入れにつっこみ器用に刻み煙草を詰めた後、パチンと鳴らした指先に灯る青い火を、火皿に添えてふかしはじめる。
このままではいつまでたっても進まない。おごり云々の話はこの際あとにして、とにかく本題に入ろう。
「旦那様が御病気を召していらっしゃるのは御存じですね?」
「風の噂で」
「近頃ご容態さらにすぐれず、白湯すら喉を通らぬ有り様ゆえ、霧雨屋一同気を揉んでおりましたところ、昨日私を内密にお呼びになり、ただ一言おおせられました」
「なんて?」
煙管をくわえたまま片目の端をクッとあげる。まるで先がもう分かったような反応。まぁ多分、本当に分かっているんだろう。
「おひい様を連れてこいと」
「へ~……」
腹の底からどうでもいいといった感じの声を上げて、煙管を灰吹きに打ち付ける。コン、といやに虚しい音が響いた。
ある程度予感めいたものはあったが、いやはやまさかここまで淡泊とは。如何に私がおひい様信者だからとて、今回といい何かと目に掛けて下さる旦那様が明日をも知れぬ身というのに、こうあっけらかんとされていては少々気が悪い。
「とても親の危篤を知らされた反応とは思えませんが?」
「勘当された私にとっちゃ、もう赤の他人だからなぁ」
「こんな事に理屈を持ち出さないで下さい」
段々と私の声は大きくなる。勘当娘を呼び戻す。ご自身の決断を自ら翻す旦那様の羞恥を、おひい様は少しも分かってない。さぞかし悩まれ、それでも一人娘に伝えたい事があるからこそ、断腸の思いで私に御命じになったのだ。
悪党な貴女が好きだ。でも、こんな中途半端に生冷たいおひい様なんて、ただ不愉快なだけじゃないか。
「今日か明日かという話なんです。なにがなんでもお連れ致しますからね!」
別に手がある訳ではない。おひい様を無理矢理その気にさせる力など、到底私には無いのだから。それでも食い下がれば苛つかせる事ぐらい出来るだろう。
ひょっとしたら殺してくれるかも知れない。旦那様の恩に報いつつ、心底まいっちまっているおひい様に殺される。嗚呼、それはとても良い事だ。
「まぁ落ち着けよ。折角の内緒話が台無しになるだろ。第一、もう種は割れてんだ。そう過剰だとかえって逆効果だぜ?」
勝手に鼻息を荒くしている私を手で制しながら、おひい様は急に訳の分からない事を言い出した。
「はい?」
「往生際が悪ぃな。あんまりべたべたと……うん?」
今度は私の顔を何やら覗き込んでいる。おひい様の双眸に写る二つの私。実際にはほんの五秒程だったろうが、猪鍋の臭気とうだる様な熱さがない交ぜになった座敷の中では、ずいぶん長く感じた。
「……ぷっ……ククク……そうかそうか、ふふっ……成る程、オヤジがお前を選んだ理由が分かったよ」
無言の見つめ合いに今とばかりに張り切りだした蝉時雨を、再び退場へと追いやったのは、おひい様のこもった笑い声だった。
「さっきから何を言ってるんですか?」
「いや、何でもない。そうだな、仰る通りだぜ。父危篤の報を受けて一粒種が微動だにしないってんじゃあ、あんまり情がなさすぎる。行こうじゃないか」
「行くって……お店(たな)にですか?」
「ああ」
それだけ応えると、急な心変わりについていけない私を置いて、せっせと鍋をつつきはじめる。
理由は分からないがきっと碌でもない事に違いない。あの笑い方は、こちらの顔が引きつる様な悪ふざけを企んでいる時のヤツだ。
実にぞっとしないので、何とか真意を聞き出そうとその後も追求してみたが、のらりくらりとかわされる。そこに一々皮肉の応酬が挟まるものだから、気付いた時には勘定を終えて店の前に立っていた。
ちなみに、つつがなく私が支払らった。ほんと、いろんな意味で納得できない。
「さて、夜までどうするかな」
「夜?」
ぶつくさ言いながら財布をしまっている私に、いっそ清々しいほど感謝の言葉も気持ちもないまま、楊子をくわえたおひい様が呟く。
「お忍びで生家を尋ねようってんだ。こんな真っ昼間に玄関からとはいかねぇだろ?」
道理だ。道理なだけに胡散臭い。
「逃げはしないでしょうね? 私が傍にいた方がいい気がします」
「んん? なら一緒に適当な時間まで楽しむか?」
不意に、真正面からぎゅっと抱きすくめられて、顔を覗き込まれる。代名詞とも言える奇天烈な帽子の広いツバの下、おひい様のお顔で視界がいっぱいになった。
背骨に冷水を流し込まれた様な感覚のあと、痺れと共に一気に発火して行くのが分かる。
ダメだ。ここで頷くのは簡単だが、そしたら自分の強みを失う事になる。私がおひい様の興味を引いているのは、一重にまだ手に入っていないからだ。
それ以外の価値など私にはない。だから受け入れる訳には行かない。例え心の底から望んでいても。
「暑苦しいんで離れて下さい」
どぎまぎしながら何とか冷静に聞こえる声を搾りだす。早く腕を解いて、後先が考えられる内に。
「…………」
無言の視線をひたと見つめ返す。少しでも反らせば、多分帰ってこれない。全勢力を傾けて集中していると、ふっと口の端で笑った。
「そうマジになるなよ。冗談さ、冗談。 ……私にとっちゃな?」
するりと体を離す。なんだい。やっぱり全部別ってるんじゃないか。だがそう簡単にアンタの思い通りにはなってやらないぞ。
こっちの覚悟も知らないで、喚びだした箒に金髪をさっと閃かせて跨り、手をひらひら振るおひい様。
「安心しろよ。草木も眠る時分にゃあまた会えるぜ」
「だといいんですが」
疾風がカラカラに渇いた砂を巻き上げたかと思うと、既におひい様は蒼穹の中に点となっていった。
「はぁ……」
何度目か分からぬ溜息を漏らす。結局、来るか否かの確証は得られぬままだ。およそおひい様に関わる他の全てと同じ様に、この件も気紛れに左右されるのだろう。
何はともあれ、一応勤めは果たした訳だ。旦那様に首尾をご報告せねばなるまい。報告という程のものもないが、まぁ相手が相手だ。ありのままを言えば「宜なるかな」で納まるだろう。
少しでも旦那様のお心を励ます事が出来ればいいなぁ……等と帰路に着こうとした瞬間、懐に違和感を感じた。急いで服のあちこちを探ってみるが、いくら探しても無い。
「財布、スラれた……」
来ても絶対に許さない。そう決めた。
が、いかんせん短いのが気になりまする。書き溜めていないのであればまあ仕方なしなところではありますが、やはりがっつり読みたいものです。
物足りなさはあるけど期待を込めてこの点数で、勝手に続きを待っときます
しかし妙に面白さの片鱗を感じさせます。前作で期待したのは間違ってなかったと信じます
是非とも続きを