かの吸血鬼は語った。
――理不尽こそが、運命の本質だと。
星は、自らの影で光を覆い隠す。
月がこうして、姿をギロチンの刃のように変えるのもまた、重力に引かれて廻り、落ち続ける星達の見せる表情のひとつなのだ。寝間着のようなゆったりとした装束を身に纏う魔女は、地下階から、天井に空いた穴を通じて、空を見上げた。その魔女の帽子には、今、星空にあるのと同じ、黄色く、白く、輝くような、ぼんやりとした、月の意匠が拵えられていた。
(今頃、バルコニーで紅茶でも嗜んでいるのかしら?)
彼女はそう、自らの住まう館について思いを馳せた。
紅魔館。そう呼ばれるこの紅色の染み付いた洋館には、この魔女――地下に広がる大図書館の魔道書、そのすべてを管理するほどの強力な魔の眷属――を配下にするような、更に上位の、絶大なる存在が住み着いていた。
その名は、レミリア・スカーレット。
「これは、甘い。……血液よりも。上出来ね」
吐き出した息は冷たく、樹木がようやく陽気から脱却し、葉を落とし始めた時期だというのに、すでに呼気は凝固して、銀の煙となって輝いた。熱い、注ぎたての紅茶より沸き立つ熱気が、大気に触れて凍結したのではない……彼女の息が、秋の風を凍らせたのだ。悪魔、吸血鬼、人ならざるぬくもりを持つ彼女は、そう呼ばれる。
「気に入って頂けたら幸いです」
返答を行ったのは人間だった。バルコニーにはたったひとりの主を饗すためのテーブルとアンティークチェアーが置かれていた。もちろん拵えられた家具達を支配するのはレミリア・スカーレットだ。声はその傍ら、メイド服を着た従者によるものだった。
――レミリアの名は、その地、幻想郷では広く知られていた。何しろ、以前、大きな異変を引き起こした脅威の内の、そのひとりであるからだ。“名が知られている” それなのにも関わらず、悪魔としての力が衰えない吸血鬼は、本当に、『スカーレット』などという名で生まれたのだろうか? 彼女は、“運命を操る力”を持つと自称している………………
従者は、その名を敵対者として叫んだ過去を持っていた。銀のナイフを持ち、その、人でありながら“時を止め” “その空間を自由に移動できる”異能を駆使して、かの脅威に立ち向かった。――何故、今、その彼女、十六夜咲夜がここで銀のソーサーを持ち、吸血鬼に対して、柔和な声で語り掛け、毒のない紅茶を淹れ、その視線を三日月に向かって外したり出来るのかは、当の彼女にしか判らなかった。
ともかくも、月光は明るく、僅かな隙間を縫って降り注ぐ薄光の中でさえも、その光景ははっきりと輪郭を持って浮かび上がっていた。
「ところで、ひとつ気になることがあるのよ――」
従者にしか判別できないくらい微かな表情の変化のあと、レミリアは話し始めた。月のもとでは無敵となる吸血鬼を悩ましめるほどの異常が、起きつつあった。
……それは、焦げ跡。今、門番が守っている正門の直後に存在する前庭に黒く、確実に爪痕を残している。焼けた植物の臭気が、まるでマンドラゴラの悲鳴のよう、館を包んでいた。
「あの事ですね」 ――十六夜咲夜もそれを知っていた。地下の魔女、パチュリー・ノーレッジも、門番である紅美鈴も、それに気付いていた。しかし、
「ええ。原因が掴めないのは、私の、“運命”の沽券に関わるわ」
誰一人、その理由を識らなかった。大図書館の知恵を持ってすら、辿りつけない境地にある。その問題とは、すでにまた、発火を始めていた。
「今日は休まれてはどうでしょう?」
提案に従うよう、無言でレミリアは腰を上げた。息を長く吐き出し、遠い月夜を眺め、やがてもったいぶるよう、低く呟いた。
「――そうするわ」
影はゆっくりと去っていった。バルコニーから怪物の姿は居なくなり、ずるずると這い出てきた朧雲が三日月を蝕んでいく。辺りは黒く沈んだ。中で、話し声が聴こえる。――吸血鬼と従者が、再び夜、目覚めたあとの予定を決めるようとしている会話だ。
「――――起きがけのプリン、何味がいいですか?」
「イチゴ味! ―――――」
……その瞬間、紅魔館は唐突に爆発した。
「咲夜、ごめん。調査、お願い。いますぐ」
「……はい」
黒焦げになった二人は煤を咳出して払い、瓦礫だらけになった紅魔館を振り返った。
夜明け前。まず咲夜が向かったのは知恵の宝庫、大図書館だった。埃で満たされた暗澹たる魔書棚が、彼女たち二人を見下ろしていた。通路の合流点に幾つか点在する、書のめちゃくちゃに積まれたテーブルで語り合う。
「今月に入ってもう8回目です。パチュリー様、何か知りませんか?」
問われた魔女は、詠唱に適したやや早口な声でそれに答えた。
「魔理沙のせいかもしれないわ……何もかも」
「霧雨魔理沙ですか」
月明かりが丸く、降り注いでいた。大図書館の天井には人間ちょうど一人分の穴が開いている。以前、霧雨魔理沙という人間の泥棒(魔法使い)が強襲してきた時に穿たれた穴だ。ふと、咲夜はパチュリーが三日月の飾りのついたナイトキャップを外している事に気がついた。目を凝らすと、頭には、大きなたんこぶが1個ついていた。爆発によって生じた瓦礫が落ちてきて当たったらしい。
「きっと全部アレのせいよ。大図書館が荒らされるのも、館が意味もなく爆発するのも、私の頭が痛いのも、お布団がちょっと湿っぽいのも」
「……たまには干しましょうよ」
「外に出すと爆発に巻き込まれて黒焦げになっちゃうじゃない」
面倒くさそうに魔女は手をパタパタと振った。
まず得たのは霧雨魔理沙という人間の魔法使いの手掛かりだった。幻想郷に越してきて以来、彼女はちょくちょく大図書館に訪れては魔導書を盗んだりビームを撃ったりして迷惑を掛けてくる極悪人だ。奴ならば爆発物を仕掛けるのも訳ないかもしれない。
目の敵にしているにしては対策をあまり取らないパチュリーに対して、咲夜はそういう性的嗜好もあるのだろうとすでに納得していたので、これ以上話を引き延ばすことはせず、彼女は大図書館をあとにした。
魔理沙は『魔法の森』という、魔法使いにとってはこれ以上ない研究の場に家を構えている。咲夜はそこに歩みを向ける前に、門番に会い、館の詳しい状況を再確認することにした。
「最近、ここを通ったものは居ない? 霧雨魔理沙とかさ」
紅美鈴は、紅魔館の門番を任せられるほどの腕っ節の強さがある。紅魔館では身体能力で彼女の右に出るものはなく、その目が相手の姿を捉えていなくとも、気配だけで格闘できる――つまり武術の達人であった。そんな彼女が、魔理沙をおいそれと見逃すわけがない。
「魔理沙は2日前に来てそれっきりですよ? 他に侵入者は特にないはず……」
今、彼女の頭には、ナイフが3本突き刺さっていた。激しい戦闘のあと……ではなく、不意打ちによって作られた傷だ。しかし、武道を極めた彼女にとって、急所を外すのは簡単であった。ふらつく事なく、しっかりと大地を踏みしめ、倒れる気配がない。どう見ても刺さった刃が脳に達しているように見えるが、そこは達人の某でどうにかなって平気なのだろう。ちなみに、ナイフは咲夜のもので、居眠りをしていた門番へのペナルティとして与えたものだ。
「ありがと美鈴。私は少し紅魔館を出るわ」
「いってらっしゃいませ咲夜さん」
その姿が視界から消えた途端、すぐにも直立で入眠姿勢に入った美鈴を、戻ってきた咲夜は歪みきった表情で見下ろして、足元にしなる竹を利用したワイヤートラップを敷き、満足そうに紅魔館をあとにした。
魔法の森に入り込み、その、寂れた住居の扉をノックする。時刻は朝焼け、そろそろ人間達が起床を始める時間である。
霧雨魔法店、と描かれた家はそれから何分も沈黙を保っていた。ノックの音を激しくしたり、声を掛けても応答がないので、痺れを切らした咲夜はその玄関を蹴破ることにした。緊急時だ。仕方がない。
しかし、住居はもぬけの殻だった。台所、研究室、物置、寝室も持ち主の性格を表すように、想像以上の散らかりようだったが、標的の姿はなかった。せっかくなので盗まれたと思しき魔導書を4~5冊見繕って小脇に抱え、店をあとにすることにした。が、
「あら」
玄関に朝の逆光を背に人影が立ち竦んでいた。一人、いや影はもうひとつある。咲夜と同じくらいの背の女性に、小さな人型……妖精のように飛ぶ、人形一体だ。
「咲夜じゃない。どうしたのこんなところで」
彼女は顔見知りだった。アリス・マーガトロイド。魔法の森の特性を理解していて利用する中のひとり、魔理沙よりも魔の眷属寄りの人形遣いで、話のわかる人間だ。
「アリスか。いえ、魔理沙を探しているのよ」
何も事情を隠す必要はない。友好的に接すれば、それが返ってくると咲夜は知っていた。今はできるだけ情報を集めたい。
「魔理沙ねえ、……こんな朝から出掛けるって事は、きっと霊夢のところね」
(霊夢か……) 咲夜は思った。面倒だ、と。
幻想郷の平定を保っている博麗神社という場がある。博麗霊夢とは、紅魔館が起こした異変を解決した、怪物を倒す“人間の怪物”である。霧雨魔理沙、アリス・マーガトロイド、博麗霊夢の三人は大体同じ生活環を共有していて、ひとりに接触する事は、別のメンバーにも関係を持つという事と同意義であった。予想はしていたが、彼女は障害になりうる――――
今は敵対関係が解かれ、出会い即退治、とはならなくなったものの、館が爆発する珍事に見舞われていると知られたら、ひやかしのひとつでも上乗せされるだろう。しかも、彼女、博麗の巫女の霊夢は、身の回りで被害が起こらなければ、一切動こうとしないのである。
つまり、非協力的。
「それで、何の用なの? 咲夜が魔理沙を探すなんて珍しいわ」
「紅魔館のことで少々」
「あ、判ったわ。きっと爆発したんでしょ。夜中になんか聴こえたわよ?」
わざとなのか天然なのか、明るい表情でアリスは云う。
「……恥ずかしながら」
「大変そうね。怪我なかった?」
「…………」
咲夜は沈黙した。態度から察するに、距離を取られている。
アリス、魔理沙がひとりでいるところであれば、捜査に巻き込むことも可能なはずだが、霊夢と揃ってしまうと、二人は彼女と神社の縁側で涼むことを選ぶだろう。
――――紅魔館は爆発するもの、なって当たり前、と覚えられているのだ。優先順位は下の下。嗚呼、なんて時代だ!
「お気になさらず」
言って、咲夜のお腹が、ぐう、と空腹の鐘を告げた。アリスの手には焼かれたばかりでろう香ばしく匂いを発散するパンのバスケットがあり、寝起きの身体が反応してしまったようだ。
「あっ。お腹減ってるんなら霊夢のところで食べましょう。えっと、決して魔理沙と一緒に食べようと思ってたわけじゃなくて、みんなで食べようと作ったパンだから、うんと、あの、魔理沙が食べたいって言ってたからちょっと甘くなってるけど、咲夜の口にもきっと合うと思うわ」
……まあ、まだ魔理沙が犯人と決まったわけではない。特殊な嗜好を持ったアリスの台詞を頭の片隅に追いやって、自分を何とか鼓舞して、咲夜は足並み揃えて博麗神社に向かうことにした。
「可燃物でも溜め込んでるんじゃないの?」
博麗神社ではその言葉が一番の手掛かりであった。発言者は霊夢。咲夜はアリスの展開したパンを頬張りながら、魔導書を盗み返そうとする魔理沙の手を軽いステップで避けていた。
「…………そんなの最初に考えたわ」
ロクな答えがなかった。レミリアの寝室にクモの玩具を投げ込んだとか、魔導書は借りてるだけで盗んでないとか、美味しい紅茶の淹れ方を教えてほしいとか、お賽銭入れてきなさいとか、世間話以上の情報を与えられることはなかった。魔理沙だけを絞め上げれば紅魔館に来館した時の行動ぐらいは判るだろうが、この様子では恐らく、無関係だろう。掴み掛かろうとした魔理沙の額を掌で、はたいていなす。
「それを返すんだぜ……マジで……返すんだぜ……」
門番のよう、武術の達人ではないから、ナイフは使わなかった。そのかわり、取り返した魔導書の中にひとつに、彼女にとって最重要らしき本――つまり私物を混ぜておいた。これさえあれば簡単に魔理沙の口が割れる……はずであった。
「で、魔理沙。本当に何も知らないの?」 嘲笑のよう口元を歪ませて咲夜は問い正した。必ず、真実を云うはずだ。
「当たり前だ。ビームで破壊する事はあるが、そんな爆発なんて物騒な真似は絶対にしない! だから約束通り、日記を、返すんだぜっ」
回答を耳にして、心底残念そうに咲夜はため息を吐き、「そう、」とだけ呟いた。話を聴き終わったらやることはあとひとつ。
「もう用はないわ。アリス。パンありがと」
「どういたしまして」
アリスからの声を待たず、咲夜は“能力”を使用して、3人の前から瞬間にして姿を消した。時間を止めて、瞬きをする時間よりも短く、吸血鬼の住処へと駆け戻っていく。
「私の日記ぃ――――!」
こうして叫ぶ魔理沙の悲痛な訴えは山彦となって、紅魔館前で門番を叩き起こした咲夜の背中で何度も響き出した。しなった竹が美鈴の顔面を痛烈に打ち付けて、その声に応えるよう、小気味良い音が浮き立った。時刻は早朝。そろそろ熟睡期間に入り始めたレミリアが、夢の中でプリンと追いかけっこしている時間――――
終始寝ずの読書を続けているパチュリーの前に訪れた咲夜は、調べた出来事をかの知識の魔女に相談した。何かが進展するわけでもない情報量、また、いつ爆発するかも判別できない恐怖、主からの期待と不甲斐なさがその完璧過ぎるメイド長を焦らせていた。
見兼ねた魔女は、ぽつり、こう言った。
「これは、一度皆で話し合って話を整理したほうが、解決が早い問題かもしれないわね」 彼女がチラ、と目配せすると、咲夜は持っていた魔導書を本の山の隣にそっと置いて、
「やはりそうですか……。あ、これ差し上げます」 例の日記を差し出した。
「ええ。今日の夜にでも集まって、一回考え……お、おお! お……コ、コホン。今日の夜にでも集まって一回考え直しましょう」
彼女の思考、もとい嗜好がわかるわけではないが、咲夜は彼女の目の輝きから、やり遂げた、と儚かな満足感を味わうことができた。
「それでは、今すぐにでも場を用意しましょう」
「そうね、今日の夜にでも集まって……え? 今?」
問い返した時すでに咲夜の姿はそこにはなかった――――
「お嬢様、お嬢様……――――」
揺り起こすその手は暖かく、人間の体温を持っている。太陽が傾き始めて、枕元では傍らに置かれたトレイの上で、作りたての苺プリンが甘い匂いを漂わせている。
……事はなかった。
窓のない彼女の部屋に明かりが灯った。ランタンから火を与えられて、首を6叉に分けられた蝋燭が淡く、青白い吸血鬼の顔を照らし始めた。朝――時は隔てず、今は人間の朝だ。
「ん……ンぅ――……咲夜、もうちょっと……」
カーテン付きの大きなベッドの上に横えられた、東欧由来の土入り棺桶の中で、ふわふわのフリルに囲まれたレミリアが寝返りをうった。起きようとする意志を見せない主に、咲夜は顔を近づけ、耳元でこう呟いた。
「苺プリンに、足が生えますよ?」 そして間髪入れず、その柔らかい耳たぶを歯を立てて甘噛みした。
「ぎゃあ!」
何が起きているのか、寝ぼけ頭を混乱させたレミリアは、寄り添う咲夜に頭突きをする勢いで飛び起きた。次いで、「何!? 足? プリンマン!? プリンマンなの!?」 と目をキョロキョロさせて状況確認を行った。彼女に一番初めに答えたのは、館外で囀る雀の鳴き声だった。
「お嬢様。異常事――」
「そんなことよりお腹減ったわ」
「いえ、今は一刻も――」
「プリンよ。苺プリンこそ起きがけの吸血鬼の嗜みよ!」
言葉を被せられて、まあ可愛いからこれでもいいか、と内心咲夜が納得し始めたその刹那、何事も無く、紅魔館は爆発した。
バルコニーに続き、レミリアの部屋まで粉微塵となり、跡では、吸血鬼と従者がまたもや煤だらけになって茫然自失に立ち尽くしていた。
「…………咲夜の言いたい事が理解できたわ。今すぐ紅魔館大会議を始めるわ」
「受け入れて戴き有難く存じます」
「あれ……なんか、身体、軽い……」
朝の光に蒸発しかけたレミリアをさっと日陰に移し、朝夕の時差ボケを歯磨きで解消させてから、すぐにも咲夜は行動を開始した。館の雑用をこなす妖精メイド以外の、ある程度重い役割と責任を受け持った5人――自分とレミリアを含め、パチュリー・ノーレッジ、紅美鈴、図書館の司書小悪魔を中央ホールに接した大広間に集める。実はあとひとり、紅魔館で最も強力な悪魔が地下には居たはずだが、咲夜は彼女を呼ばなかった。それは下手をすれば、爆発の元凶にすらなる、劇薬であるからだ。
「さ、始めましょう」
ふっ、と接ぎ火をした蝋燭の炎を吹き消して、咲夜が主であるレミリアの隣に寄り添うと、その準備は終わった。長方形の広間の大部分を占めているロングテーブルには、6叉の燭台が無数に、埋め尽くすように無数に置かれ、その全てに火は灯されて、光はユラユラと揺らめいており、5人、全員の影が、それに従って大きく蠢いていた。暖炉側、テーブルの中央奥には姿勢を崩したレミリアがゆったりと座り、咲夜はその真横に、そこから左右に分かれるようにして、残り3人が場を囲んでいる。
「……拍手はないの?」
主催者が不満そうに口を尖らせると、周りからはまばらに、ぱち、ぱち、と薪が燃えて朽ちるような低い調子の歓迎が起こった。反応を見て、それでも若干満足そうにレミリアは、背にある吸血鬼の羽根をパタつかせて、すぐにも本題を提示した――
「咲夜、お願い」 人任せな態度はそのままに。
コホン、と場の切り替えを意識した咳払いをして、咲夜は引き継いでみせる。これこそ出来るメイドだ。来て、ただちに目を開けつつ脳だけ睡眠状態に入った門番とは違う。
「最近、紅魔館の爆発が頻発しています。これについての対策、または原因究明をお嬢様が望んでいます。何か変わったことや、良いアイデアが浮かんだものは挙手をして意見を述べてください。そして今の話を聞いていた者も挙手をしてください」
それについて賛同したものは4人。設問を行った咲夜、その主のレミリアも挙手を行っているのだから、ひとり、明らかに場に反した行動を選んだものが居る。その彼女は――椅子に座り、微動だにしない、瞬きすらなく、ただ一点を凝視している――まさに正気を失った表情をしており、隣り合った者は異常を察して、更にそれが周囲へと伝わり、火により映った影は驚きに歪み、大広間に密閉された空気が、段々と淀んでいくのを、みなが感じ始めた。
だが、その制裁は一瞬であった。疑わしきものは粛清される。“時を止められる”従者が居るこの場では、なおさら、時間を隔てない。1本の短刀が、出現した。それは空を切るのではなく、すでに結果だけを運んでいた。額を割るよう致命的に、また、刃が大脳縦裂を分断するよう深く、差し込まれる。……しかし、敵対者は死ななかった。何故ならば――――――
「何するんですか咲夜さん!」
「……あなたが居眠りしてたからよ」
彼女とは武術の達人であり、また謀反の意もなく、ただ眠っていただけであったからだ。
「どうしてバレた……けど咲夜さんも悪いんですよ。咲夜さんが夜中に叩き起こしたから今寝るしかなくてですね……」
「言い訳はよろしい。紅魔館は24時間勤務よ」
「なんてブラックなんだ……」
茶番を長く続ける訳にはいかない。咲夜は時を早めるよう、その投擲をした直後の指で、美鈴を指してこう告げた。
「ペナルティよ。あなたが最初に意見を発しなさい」
「えっ……。けど私、寝てたから何も聞いて……」
「察して。気合で」
「えっ」
とりあえず美鈴は頭にナイフを刺したまま椅子を立ち上がり、その場で構えを取ってみせた。中腰になり、両足を踏みしめ、脇を締めて握り拳を作る。顎を引き、地平線を眺めるよう全体視を利用し、いつどこから攻められても対応できるよう意識を集中した。踵より大地の“気”を吸い上げて、丹田で撹拌した後、背面、打撃に使用する筋肉に広く行き渡らせる。やがて凝縮したエネルギーは光となり、青白く、大広間に集結した蝋燭の光をも吸収してひとつの奔流となっていく。それは龍の形へと変化していき、膨大となった気脈は紅魔館全体を振動させ始める。
(ヤバい……ここまで気合入れたけどさっぱり解らない……!)
ふと、美鈴の視界に、閃くものがあった。それはレミリアと咲夜の髪が、少し焦げていること――
つまり、紅魔館は爆発した――――!
「もしかしたら、可燃物が、あるからではないですか?」 そして、何事もなかったかのように普通に着席する。
「それは霊夢にも言われたわ。紅魔館の生計を立てているものが酒類なのだから可燃物はあって当たり前」
「……――え? 初耳ですよ咲夜さんそれ」 美鈴が返す。
すると、
「知らなかったの美鈴?」 パチュリーが言い、
「てっきりツッコミ待ちなのかと」 小悪魔が続け、
「あなた、自分が毎日食べているものが自然に沸いて出ているものだとでも思ってたの?」 咲夜が呆れ、
「そもそも紅魔館が何故あなた達全員を必要としているか、その本当の意味を理解していないようね」 レミリアが意味深なことを呟く。
「私だけ仲間はずれだったんですか!?」 嘆く美鈴に、
「そもそも暇のない門番のあなたが酒をどうにか出来るとは思ってないわ」 と答えて、そこで咲夜は違和感に気づく。レミリアはあなた達全員と宣った。つまり美鈴も含まれている、という事。にも関わらず、当の本人はワイン造りについて一切教えられていなかった。この矛盾は何を示唆しているのか。
「……ん? お嬢様、それは一体どういう意味ですか……?」
興味本位、というより何か重要な見落としがあるような気がした。帳簿と微妙に合わないワイン樽の内容量、入荷した原材料の葡萄が必ず1房なくなる現象、果ては紅魔館の爆発に関しての大きな秘密が、そこに隠されている気がした。
レミリアは、述べる。
「パチェの持つ大図書館に所蔵された知識は、発酵に大きな影響を与える。咲夜の“時”の能力はビンテージワインの完成を早め、こあ(小悪魔)の魅了はワインを人間の里に流通させる際に重要。そして、みりんはみりん風調味料と分けるために本みりんという呼称を使う……紅美鈴(ホン・メイリン)……あなたが酒の妖怪だという事は、すでにわかっているわ。紅魔館は、アルコールの為に機能しているのよ!」
「えっ」
「えっ」
「えっ」
「皆さん、知らなかったんですか?」 唯一真実を知り得ていたのは、流通を担当している小悪魔だけだった。
「お嬢様……それ、冗談ですよね?」 おずおずと咲夜は聞き直した。紅魔館の目的が、運命が傾きつつあった。
「結構本気なのよ。アルコールというのは神事や、祝い事、特別なときに扱われたり、日常的に摂取して生活環に取り込まれるアイテムなのよ。その流通を牛耳るという事は、日常と信仰に影響を与える、すなわち、人間の支配に繋がるの。生計を立てるために始めた事業だけど、こあと色々と相談している内に発見したのよ。真の理由という、“マインド・ビッグバン”(発想)に!」
従者と主の間に当惑が引き起こされている間、また、大図書館の主従関係にも同じような展開が訪れていた。
「朝方、こあが居ない時間帯があると思ってたけど、そんな事をしてたのね……」
「すみませんパチュリー様」 どうやら、酒類の運び役については、レミリアと小悪魔のみ把握している出来事であったようだ。
このあと、酒造についてブラックボックス化している部分に対して話題のメスが入ったのだが、それは爆発に対抗できるほどの情報を齎さなかった。手掛かりは、そこには無かった。
「私、酒の妖怪だったんですか?」
「知らん」
その応答を最後にして、流れの転換が求められた。このままでは、せっかくの会合が有耶無耶になってしまう。危機感を覚え始めた紅魔館の主、レミリアは、こう、切り出した。
「――爆発そのものへの対抗策はどう? 例えば、爆発しても大丈夫なように、館自体を強化するとか?」
「それは……」 だが、咲夜に即答されてしまう。「それは、実はもう行っているのです。紅魔館の壁と壁との間に隙間を開けておいて、その空間を、私の能力で捻じ曲げて距離を稼ぐことで爆発の威力を軽減する手法を使っているのですが……」
「そこまでしてもまだこんなに威力があるのね……それに部屋の中の物は守れないわけだし、ハァ……」
落胆し、その吸血鬼の影は縮こまって、大広間に沈黙が訪れた。万策尽きたわけではない。ただ、一度きっかけを失うと、歯車は、運命の歯車はたちまち動きを止めてしまう。誰か、誰か、喋れ……そんな意志を込めた目線がレミリアから咲夜へと投げ掛けられ、それは、門番を経て、続いて魔女に、司書に、そして再び統括する吸血鬼の元へと、巡り巡っていく。二周、三周、と回送を重ねる内、ついに、流れに割って入る者が訪れた。
「爆発が物理的なものでも、魔法的なものでも、原因と結果の法則はあるでしょ? まずカテゴリで分けて、選択肢を減らしたほうが良いよね?」
渡りに船――目を輝かせて発言者を探したレミリアの目に、信じられない姿が飛び込んできた。誰でもない。その言葉を扱った人物は、5人の内、その誰でもなかったのだ。吸血鬼である自らと同じように背中から翼を――そうでありながら、まして血縁者、妹でありながら、異色の、7色の宝石状の羽根を持った、第6の、招かれざる客。地下に居るはずの、幽閉したはずの、爆発など簡単に引き起こせる“破壊の力の化身”悪魔、正真正銘の悪魔――フランドール・スカーレットが、ひょっこり、まるで日常的に存在する妖精メイドのように紛れ込んでいた。
「ふ……フラン!? どうして此処に……」 問うのは、勿論、レミリアだった。驚きを隠せず、アンティークチェアーの肘掛けに下ろした腕が滑って、半身が傾く。別角度から眺めても、やはり、彼女は存在していた。訪れていた。
「うんと、それは、そろそろ美鈴とマリカ(※サンスクリット語で花飾り職人の意。転じてお花摘み)で遊ぶ時間なんだけど、なかなか来なかったから探してたの」
「めいりぃぃぃぃいぃいいいいいんッッッッ!!!」
「いやあああああああああああああああああああ!」
転び出した運命は、加速し、ひとりの犠牲者を、まず出した。
――――かのように思えた。
仕事サボって何をしている! その、咲夜からの言葉の礫は、銀製のナイフへと表現方法を変え、美鈴の周囲に“時間”ごと固定されたはずであった。だが、意外。それ以上刃先は進まず、脅しだけで行為は終わりを迎えた。それは、人物、フランドールが、最も手掛かりから遠いと思われた彼女が、機知に富んだ発言を行ったからである。そう、すでに、その発言は、きっかけは、運命の歯車は、【真実】へと動き出していたのだ。
「なるほど、一理あるわね」 呼び水となったのは、パチュリーのこの一言であった。困惑する小悪魔も、怯える美鈴も、処刑開始のスイッチを押しかけた咲夜も、そろそろ苺プリンを食べたいなと思い始めたレミリアも、場に居る全員が彼女に視線を集めた。
「まさか、マリオがカートする事(※マリオとは軍神マルスを由来とする名であり、転じて大マリウス率いる軍とチャリオットレースの“熱狂”を掛けたスラングである事は吸血鬼界では常識である)が……」
「美鈴。そこじゃないわ。用法の方よ。――つまり、一度、どんな状況で爆発したか、データ化してみる価値はありそうって事よ。咲夜、覚えているだけ、書き出してみて」
「爆発箇所と被害者も一緒にあると便利かも」
パチュリーとフランドールの提案に相槌を打ち、咲夜は一枚の羊皮紙に黒インクを走らせていった。一ヶ月、たった8回の爆発。
しかし、それを纏めるのは至難の業だった。
「時間帯、場所、タイミング……全部バラバラですね」 咲夜が呟く。新しく得られた情報は、共通点があまりにも少なかった。
「共通してるのは、私と咲夜は必ず被害者に含まれてるって事ね」 主、レミリアが云う。と、
「あの、……お嬢様って、爆発できるスペルカード持ってませんでした?」 美鈴がひとつの可能性を引き出す。
「『きゅうけつ鬼ごっこ』のこと? 私が爆発を垂れ流すなんて有り得ないわ。スペカ自身が何らかの影響を受けて暴発……も無いようね」 と懐から謎のカードを出してレミリアは返した。
「スペルカードって物質的なものでしたっけ?」
「いいのよ細かい事は」
しばらく会話を続けると、羊皮紙を見て、ずっと考え込んでいたフランドールがある結論を導き出した。
「爆発そのものがランダム性を持ってるの。トリガーは別にあるかもしれないけれど、原因はおそらく――――幻想郷」
「えっ」
「えっ」
「えっ」
「えっ」
「あり得る仮説ね。根拠は弦理論?」 パチュリーだけが返す。
「うん。幻想郷って、博麗大結界によって外界と断絶してるよね? つまり世界の法則を歪めてまで存在している。万物の法則――この世界では、負荷を掛けると必ず何処かに辻褄合わせが起きるの。つまり、その“宇宙の恒常性”がたまたま紅魔館を出口にしてるって事」
「もしそうなら、トリガーさえ潰せば、紅魔館でない場所にピンチが移動するはず……――――」
「待って、待って待ってパチェ、フラン。全く話が見えないわ!」
展開に着いていけない4人は、その長であるレミリアを代表者として異議を唱えた。爆発が宇宙――マインド・ビッグバン――によるものなんて到底信じられない。そもそも、何故突然、……『突然、爆発が起こるようになった?』 と疑問を巡らせている内に、ある事に気付く。
“紅魔館に爆発していない時期はない”
確かに、定期的な爆破はあった、と吸血鬼は回想した。しかし、今ほどの頻度では……、だが、宇宙の法則ならば、宇宙の法則が乱れているのならば、当たり前の出来事ではないか。
レミリアは【真実】に辿り着いた。
「……わかったわ! 紅魔館は爆発する!」
「さすがですわお嬢様! 前の言葉と内容がなにひとつ繋がってない気がするけれど、とりあえずさすがですわ!」
「となると、あとは“トリガー”を特定するだけね……」
何故か話は通じている風になって、大会議は大詰めを迎えた。すでに小悪魔と美鈴に入り込める領域ではなく、半分睡眠状態になったりパチュリーのお腹の肉をもにもにし始めたが、すでに残りの4人は、――フランドールが飽きて、眠りこけようとするひとりの顔に羊皮紙のために使った万年筆で落書きを始めたので残り3人は、目に見えぬ異変を、法として、実在する現象として、結実させる段階にまで、ついに辿り着きつつあった。
「咲夜、思い返してみて。爆発する前、何があったのか……どんな変化があって、爆発が起こったのか……――――! ウフフ」
腹肉へのこそばゆさで半笑いになったパチュリーに応えるよう、咲夜は思考を深く、深く記憶の渦へと潜り込ませた。何があったか、どのような……――、吸血鬼レミリアがそこに居て、威厳を保ち、そしてプリンを、美味しそうにむさぼり食い、やがて、そして、爆、発――――――!??
「ハッ!? まさか……そんな………………」
「何か解ったの!? 咲夜!」
到達した究極は、咲夜にとっては無慈悲なるものだった。事実として認識するには、あまりに残酷。あまりに、痛苦。しかし、従者には、伝える義務があるのだ。例え、どんな理不尽な運命でも、“運命を操る”吸血鬼が主であるからこそ、不安と、また、打ち克てる期待を持って、謂うのだ。震える唇を噛み締め、息を呑み、目を見開いて、やがて来る心の衝撃に備えて、冷や汗が鼻筋を伝い、舌上に落ちる、それまでに、発しなければ。
咲夜は、唱えた。
「爆発は、お嬢様のカリスマがブレイクした瞬間に、訪れます」
「な、なんですって――――!」 宣告は、レミリアを椅子より立ち上がらせるほどの衝撃を持って迎えられた。
(カリスマに、ブレイクする瞬間があったなんて……!)
「思い返して見てください。爆発を。苺プリンによって笑顔が更にほぐれたとき、パケツプリンを初めて見て踊り出したとき、プリンマンに糖分の摂り過ぎを注意されたので腹いせに1口かじったとき……――――」
「つまり……、宇宙は、プリンを異端だと!?」
「はい……残念ながら……もう、紅魔館を爆発から救うには、お嬢様がプリンを食べるのを……」
「それは断るわ苺プリン咲夜! 例え伝承法で数世代記憶や能力を引き継ぎつつを時代を跨ぎながらカンバーランドだけは絶対に滅亡させるとしても咲夜、プリンだけは、それだけは苺プリン。絶対に譲れないわ苺プリン!」
「お嬢様……」
「パチュリー苺プリンもそうよね? プリンのない世界など……苺プリンにしてしまえばプリンプリン」
「お嬢様、苺プリンに拘り過ぎです……」
悪夢の時間は訪れようとしていた。真実が、真実として受け入れられる瞬間。それは現象だ。宇宙が廻り、膨大なる相対性の計算の上に訪れた、たったひとつの歪み。しかし、受け入れるのだ。“運命の相剋者レミリア”として、自ら、向かうのだ。
彼女は答えた。腹の虫で。
そして従者は察した。彼女の求めているものを。
「そろそろ休憩します? おやつは苺プリンですよ」
「わぁい!」
紅魔館は、甘みを待たず爆発した。
指折りではもう数えられないほどの、何度目かの煤まみれ。爆発の法則を実証してしまった6人は、茫然自失としていた。やがて、最も賢いものが声を上げた。パチュリー・ノーレッジである。
「咲夜。レミィ。爆発せず、かつプリンを食せる、私に良い考えがあるわ」
大図書館にある魔導書のそのほとんどは、宇宙に対する闘いの歴史であった。魔法とは、科学と似ている。法則を見つけ出し、再現し、解析する。弦理論によって発散される異常現象を止める方法は、その、あらゆる書に描かれた、文法に糸口があった。それこそ魔法の詠唱。魔女パチュリーであるからこそ、見つける事が出来たのだった。
その、方法とは――――――――
それは、長き闘争の跡であった。
染み付いた熱は大気を焦がし、未だ陽炎が漂っている。歪んだ光の中に、黒き翼をたたえた幼き少女と、銀に煌めく髪を持つ従者が佇んでいた。彼女はまるで、何者かを待つように、焦土と化したその館の広間にあったとは思えないような、真新しい玉座に仰々しく座り込み、足を組んで、時を、赤く、濁る眼で、過ぎる時達を、見据えていた。
やがて運命は訪れるだろう――
レミリア・スカーレットには、視えていた。これまで何度も訪れ、そのたびに我が住処を破壊していったものの脅威が――――
人間と怪異、妖怪の闘いは今や領土全域に達していた。霧の立ち込める湖から、吸血鬼の徘徊する庭、館の裏手までの広大な領域で、それは勃発する。寝室、バルコニー、やがて館の中心である大広間にまで侵食し、もはや、黒。
灰と火の混じった跡が、黒く、戦場を彩っている。レミリアは、次に訪れるであろう脅威を見透かしたように、重々しく口を開いた。
「“卵”は?」
声は呪文となり、問われた従者を縛り付ける。場には、5人の、吸血鬼に魅入られし者共が犇めいていた。瀟洒なるメイド十六夜咲夜、七曜の魔女パチュリー・ノーレッジ、東洋最強の武術家ホン・メイリン、魔の淵より這いよる名も無き小悪魔、悪魔の妹フランドール・スカーレット。みな、その言葉の意を理解し、また、待ち望んでいた。
「は。此処に」
十六夜咲夜が、焦熱の中より、それを場に現した。人間である自分と、力以外の全てを認めないメイリンを含めない、4つ分の“赤い”欠片だ。まるで晩餐に並べられる供物のように、銀色のトレーに載せられ、差し出される。
「何という甘美な輝きなの」 魔女が、高密度魔術によって五芒星のサインが浮かび上がったその瞳を輝かせた。提示されたるは“内臓”――すなわち、英語圏で“pudding”を示す古き伝承により囁かれ続けた吸血鬼用の呪物である。赤い、血に染まったかのよう形成された“甘み”は、観る者すべてを魅了するほどの弾力によって、ふるふると震えている。
「ああ、我が手にも、ついに……!」 小悪魔はその、人間をラードの塊のように引き裂いてしまう鋭い爪を戦慄かせ、眼前に物体を歓迎した。悪魔の饗宴は始まろうとしていた。沈黙を保つメイリンが、彼女達の肉体を羨ましげにチラと一瞬覗き見て、そして目を逸らす。これより、最も凄惨な光景が、此処に訪れるのだ。
――――それは世にもおぞましい、魔界の食事風景であった。
「さあ、わらわの眷属達よ。“ストローベリィ”を饗す。此れに依り、再び我ら魔属の時代の到来とするのだ!」
ずるり……銀製のスプーンは、いとも容易く“それ”の上辺を抉り落とす。赤く、粘性のある液体が糸を引き、その塊が彼女達の口内に消えていくさまは、悪魔達の勝利を示唆していた。その恐るべき味は、人間にとっては、正に苺や、生クリームを使われたデザートのように感じたに違いない……。
“pudding”の製法は冒涜的でかつ、文明開闢以来、人類が積み重ねてきた恐るべき闇の秘法を使わなければならない。まず南アメリカに少数存在するトトナコ族の持つ秘儀により育てられた特殊なラン科の植物の種を採取する。それは、気の遠くなるような時間と精霊の力を繰り返し与えることで、宇宙的な色彩と悪魔でさえ魅了する香りを放つようになるのだ。これを“ヴァニラ”と呼ぶ。“ヴァニラ”を2cm大に切り分けたあと、縦半分に割り、種子とそれ以外を分けておく。次に大窯だ。拷問で人間の皮膚を焼くことも出来るほどに赤熱し、草木を灰にするほどの火力に耐えられる器が必要である。それも鋼の中でも最も不純物が少ないとされる希少な、または職人の手により鍛造された超硬鋼の大窯だ。そこに50gの乳――それは、皮肉な事に神が人間に遣わさせた恩恵のひとつ――、40gの“キャスターシュガー”(向精神性があるとされ、また脳の細胞へと置き換わる絶対の物質)、“ヴァニラ”の全てを放り込み、ひとつに撹拌させる。地獄の業火に大窯を焚べて、溶液の表面にまるでマグマのような劇的反応が生まれるまでクロノスと睨み合うのだ。その間に魔術師らしき第四の腕を使い、“卵”……これは言うまでもない、吸血鬼ならば誰もが知る、“朝を告げる者”の落とし身、それを3個破砕し、黄金色に輝く内容物を足なき聖杯【bowl】に堕としておく。無慈悲にもその太陽のような黄金を潰し、更に邪教的な発想として大窯より白く濁った溶液を聖杯へと移し、悪魔性まぜこぜ“デーモンキングクレイドル”するのだ。そして、――これは、脂肪分のみをエンチャントした生命の原理に逆らう“乳”、まるで生クリームのようになった生クリームそのものを濾しながら注いでいく。……撹拌を続けると銀河の紋様が消えるだろう。滑らかになるという異変は、すでに意志が宿っているという証拠であり、それが眠りを欲するままに与えねばならない段階に到達する。何者にも触れられぬよう、新しき外界の空気を遮断し、凍えるような、密室性の高い【タルタロス】へと隔離し、5時間後の偉大なる目覚めを待つのだ。
摂氏130度。人間ならばもはや生命を保てない世界を、加熱し、作り出す必要がある。創造者の思惑に応じた“型”に覚醒しつつある生命の“4元素”(つまり、乳と卵とシュガーとヴァニラの生成物)を流し込み、5mmほどの湯を張った天板(コスモロジーに則ってデザインされた錬金術道具)に配置する。あとは40分。その、生命が、灼熱の地獄の中を彷徨い続ける2400秒に呪詛の6文字(『O』 『I』 『Si』 『K』 『NÅ』 『Re』)を唱えきって、ようやく完成を迎える、高位、かつ選ばれし者にしか知りえぬ、究極の魔法的行為なのである。
そしてこれは、“ストローベリィ”。その恐るべき魔術の結晶を更にアレンジした、血のように赤く染まった究極を超える究極なのだ。
力が漲るのを感じていた――――
食すほどに、無限の魔力が漲ってくる。聖戦の跡に張り詰めた邪悪なる6人の影が、闇となり成長し、紅魔館という世界観を覆い隠していく…………カオスが、生まれる。
「はは…………フフハハハハハハ! ついに、ついに克服したのだ!我ら妖怪を悩ませる、あの忌まわしき“現象”に!」
そう、起こらなかったのだ。当たり前のようにあった、悪魔達の忌避する、爆発的現象が――もはや、誰も彼女達を止められるものは居ない。支配者のカリスマは保たれ、ついに、紅魔の、戦慄の夜が――――訪れる!
「コラァァ――――――――ッッッ!!」
吸血鬼の赤き霧を引き裂いて、太陽光を背にした人影が、そう、人間であるにも関わらず“空を飛ぶことのできる”者が、苺宴会《ヴァルプルギスの夜》に割って入る。彼女は、赤と白、神に祝福されし二色のハレの衣を纏い、光の内より降り立った。
「……来たか――――“ハクレイ”!」
「また変なこと始めて! アンタ達のせいで紫に『博麗大結界の帳尻合わせが紅魔館で爆発化してるみたいだから何とかして』、とか訳わかんない事云われて、余計な異変解決するハメになったじゃない!」
「えっ……妹様の仮説ってマジだったんですか?」
「美鈴、メッ!」 勢いのままに反応した美鈴を従者、咲夜が眼で制する。銀のナイフに手を掛けている――その臨戦態勢を暗に感じ取って、“ドラゴンオーラ・メイリン”は大地を揺るがすほどの震脚を行った。眼前の脅威に牽制をし、更に闘いへの意思表示をするためだ。
「……それは真か? ではうぬとの闘いは避けられぬな」
「えっ、ちょ、待って……何? アンタ達。えっ……」
「さしもの巫女も、我ら選ばれし6の軍勢には臆するようだな」 チラ、と目配せをして、美鈴は確認を取った。咲夜の表情からそれが正解だと判ると、ハアッ! と無意味に気を吐いてみる。
「えと、とりあえず、全員ぶん殴ればいい?」 把握できる状況を集めてみても、何が何だか分からない。霊夢の目に見えるものは、爆破されてところどころ穴の開いた紅魔館に、何故かその焼け跡に集まってプリンパーティを行っているレミリ――
「我は――自らの力で蘇るのでは無い。慾深な人間共によって」
「わらわか我か、一人称くらい統一しなさい!」
「…………我は、自らの力で蘇るのでは無い。慾深な人間共によって蘇るのだ。力こそが正義なのだからな」
(何事もなかったかのように続けた――!)
「お嬢様は、『異変は紅魔館によって起こるのではなく、幻想郷の歪みによって生じているので、こうして対策を練っていた』 と言っております」
(しかも翻訳された――――!)
「……い、いや、惑わされないわよ。現に全員集合してるじゃない! それに、それは良からぬ事を企んでいる顔だわ!」 霊夢は何とか会話に対応していく。
「しかし魔界の手は長く、そして冷たい。わらわは背中を押すだけだ。“卵”は逃れられぬ死の運命に弑逆するための布石よ」
「お嬢様は、『爆発はこれまでも定期的に起こっていた。どうやら自分の溢れ出るカリスマ性に問題があるようなので、その引き金を探すために実験をしていた』 と言っております」
「~~ッ! 何? 私がそんな戯れ言を信じるとでも? 見なさい! 時計塔らへんに次元の狭間みたいなの出来てるでしょ!? あれがあなた達の仕業じゃなかったらなんなのよ!」
博麗霊夢に選択肢は残されていなかった。闘争か、敗走か。たったひとりで、6人もの悪魔共に敵うだろうか。いや、そうでなければならない。紅霧異変にて、立ち塞がるあらゆる怪異を薙ぎ倒していったように、彼女には、吸血鬼が畏怖するだけの力が、つまり“正義”と嘯く事の出来るほどの支配力が、ある。自然を、心を、星を破壊するだけの危うい力が、人間には秘められているのだ。問答によって、霊夢の心中に、ある疑念が生じる。
(これは、とても…………、面倒……!)
「原初の情動とは面白きものだな。ふむ。わらわの司る理知は赤の狭間。かの未知を識らざるは愚者の業よ。則ち此れ、禍福は糾える縄の如し――力とは、また、ひとつに爻わる性質を持つのだ。“ハクレイ”よ」
「お嬢様は、『次元の狭間なんて初耳だわ。うーん。あれを今封じても原因の除去にはならないから、その奥にある元凶を叩きましょう。乗りかかった船ってヤツだから、協力してあげてもいいわ』と言っております」
「なんで、アンタんトコの問題を私メインで解決するみたいな流れになってんの!?」
「其れは貴様の業だ。人間よ。呪うのならば博麗の巫女として生まれし我が運――――」
「分かった、分かったわよもう! 覚えてなさい! この異変終わったら全員あとでお説教するわ!」 運命の強制力が働いた。
「お嬢様は、『紫に頼まれて来たのはあなたの方でしょ? 巫女は巫女の仕事をまっと……』 と言っております」
(そこも訳すんだ……)
今すぐにでも吸血鬼達の頭を叩き回したい、そんな少しばかりの残心を振り切って、霊夢は上空、時計塔に出現した黒、その怪異の隙間に乗り込んでいった。後ろに、紅魔館メンバーが続く。
ズ、と闇が動いた。それは音であった。吸血鬼レミリア・スカーレットが玉座より立ち上がり、身の丈ほどの黒い翼を広げる、その闇の胎動が、音となって、耳鳴りのような衝撃と化して、確かに周囲に響き渡った。眼前に捧げられた“pudding”をゆっくりと、巫女の姿が見えなくなっても味わうようにゆっくりと飲み干し、やがて黒き、魔力に満ちた息を吐き出すと、上位吸血鬼には太陽なぞ問題にならぬとでも云うように空を見上げ、悠然と飛び立った。従者もそれを追い、レミリア――主は、連れ合おうとする残り4人の眷属に号令を浴びせかけた。
「パチェ、貴女はこあとフランと一緒に館を守ってて」
「もとよりそのつもりよ。いってらっしゃい、レミィ」 動かない大図書館はその答えをすぐにも返した。
「えー! 私も行きたい」 フランドールが不満を洩らすも、
「妹様、これは陽動作戦よ。レミィが次元の狭間から敵を追い出すから、一番強いあなたが出てきた黒幕を破砕するの」 と、囁くように耳打ちをしたパチュリーの説得によって事なきを得た。
「レミリア様、咲夜さん、お気をつけて!」
「いや、美鈴。あなたも来るのよ」
「えっ」
メイドならではの思いつきか、それとも策があるのか、巻き込まれる形となって、眠りに就こうとしていた美鈴がそれに連なる。
ちょうど紅魔館の人数は半々となった。怪異の元凶に向かうものは4人。博麗霊夢、レミリア・スカーレット、十六夜咲夜、紅美鈴――――――――しかし、みな知る由もなかった。今まさに、誰にも知られず、紅魔館内に忍び込み、自らの目的達成のために蠢くひとつの影があることを……。
深い、深い、眠りの中にあるようだった。
重力は感じず、身体に流れる血の鼓動が、どこか気持ち悪く、煩わしさを浮かび上がらせてくる。何よりも、開いた眼の行く先で演じられる、妙な幻覚が、咲夜を悩ませていた。
「はい、出来ましたよ。“咲夜”」
それを行っていたのは美鈴であった。今現在と同じ、変わらぬ姿をした、しかし、薄汚れたメイド服を着込んでいる。彼女の前に居るのは――卸したての、子供サイズのエプロンドレスを着せられて、無表情で立ち竦んでいるそれは――――自分自身だ。咲夜は、子供の自分と、それの世話をしている美鈴を、俯瞰的に見ていた。
「……どうして?」 何もかもを忘れてしまって、呆けたような声を、子供の彼女が口にする。目の下には大きなクマが出てきおり、何日も眠っていないような、虚ろな瞳で振り返る。
「私には、わかりません。けれど、すぐに慣れます」 美鈴は、訛りの少ない、ゆったりとした優しい口調で返した。咲夜には、見覚えのある光景だった。深い、記憶の中に沈んだ、出来事。
「ああ、来る。また、ギザギザしたのが……――」
頭を抱えた幼い自分は、しゃがみ込み、突然に強烈な奇声を上げ始めた。ナイフで同じ金属を引っ掻くような、悲痛な叫びだ。涙や鼻水、嘔吐物を吐き散らし、やがて白目を剥いて無動状態になった、ガリガリに痩せた身体を、美鈴はそっと抱き上げ、館の中を駆けて行った。紅魔館――それも幻想郷を訪れる、かなり前の――――……
嗚呼。十六夜咲夜は、幻覚の中で溜息を吐いた。誰か見せているのか、それとも、自ら望んで見ているのか。場所は大鏡のある衣装室から、窓のない寝室に変わっていた。
『どう……? ……の子は…………?』 話し声が、断片的に再生される。レミリアと、美鈴の、声だ。
『まだ、………ーダナムの……断症状が…………』
『……そう……………私を……百年も追………から、………には、是非とも………なってもら………』
『それは、慈悲ですか? それとも、報復ですか?』 最後の一文は、より大きく、はっきりとした形で残っている。
その言葉の意味を、咲夜は理解していた。
“どうして子供であるのに、すでに白髪なのか”
“どうして人間であるのに、時を止められるのか”
“どうして生きているのに、成長も、死ぬ瞬間も来ないのか”
長い、長い、――本当に長い期間の彷徨があった。旅であった。彼女の“親”は両手では数えられないほどに、そしてそれらの老いと死も、両手で数えられないほどに。
死なぬ永遠として“秘密の園”では麻薬と暗殺を覚えさせられた。人としての感情はそこで失った。光の子供として“乾坤の一族”に拾われた時は、怪物とそれに対する闘い方を知った。その時、人で無い者としての立場も失った。終わりを見せず、審判の時をひたすらに待ち続ける長き宗教闘争に巻き込まれ、何もかもを失い、慰みものや代替物として過ごす時もあった。
『私は、フラン。貴女は?』 朧気な映像として、歳を経ない、幼き吸血鬼の顔が浮かび上がってきた。
『わたしの名前は…………』
(私は、そこで口を閉ざす) 咲夜には解っていた。何故、答えられないのか。何百年も前に、自分を産んだ親は、誰なのだ?
孤児として、虚ろに大陸を流れていき、行き着いたのは女の内臓を抜き取って10ポンドに変える仕事だ。××リカ人医師が、その“東の果て”と呼ばれる地区で、標本を集めたがっていたのだ。白髪の殺人鬼は、名も知らぬ、鼻が爛れて、指先の腐り落ちた、アルコールと煤、栗の花の混じった臭いのする男の元で、蒐集を行っていた。目的は無く、“ローダナム”だけが、秘密の園で味わったことのある、薬物的快楽だけが、彼女の意志を支えていた。同僚はみな、その粗悪な薬で鼻腔や舌、やがて脳までも壊されていったが、その、子供だけは変わらぬ姿で、まるで怪異、幽霊のように、そこに居着いていたのだった。
『あなたの名前は咲夜。今日から、……そうね、こんなに月も大きいから、十六夜咲夜と名乗りなさい』
偶然か、はたまた奇跡か、ついに邂逅した吸血鬼の圧倒的膂力によって、東の果てで打ちのめされた少女は、紅魔館に幽閉された。薬によって錯乱した彼女と楽しそうに会話したのは、怪物の妹、フランドールであった。
『人間って、生まれ落ちた時はみな恐ろしくて泣くんでしょ? 貴女の幻覚と、私、どっちが恐ろしいかな?』
やがて、――――少女は生き延びた。
味のしない食事が、香りと甘みに満たされて、光の少ない館で、燭台の明かりを頼りにして、メイドを束ねる侍女長であった美鈴のもとへと、自らの意志で歩いていけるようになった。
『怖い夢を見た? それじゃあ、今日は私と一緒のベッドで眠りましょう』
知的好奇心は、地下にある、大図書館にも向かうようになり、そこで、閉ざされた密室であるそこで、これまで彷徨ってきたはずの“世界”に対して興味を持った。広大なる宇宙は、書の中に存在した。まさしくそれは、御伽話に語られる“幻想”――――
『これ? 魔導書よ。あなたにはまだ早いでしょうけど……そうね。特別に、一冊ずつなら、貸してあげる。こあ!』
『はーい。――――ふむふむ。子供が喜びそうな本……そうですね。これとかどうでしょう。《トリストラム・シャンディの生涯と意見》』
レミリア・スカーレット曰く、理不尽、不条理こそが運命の本質であるそうだ。何が起きたのか、何が起きているのか、どうして――――……神の奇跡のような、その瞬間は唐突に訪れ、そして、何事もなかったかのように、時は不可思議にも過ぎていった。
数百年という空虚を重ねてもまだ進まなかった咲夜の身体の時計が、吸血鬼達の異常なる介抱によって、人間と同じ成長を始めたのだった。背伸びをしても届かなかった魔女や司書、当時のメイド長と肩を並べるようになり、あらゆる家事に熟達するようになって、美鈴が自ら身を引いて門番をすることを名乗り出て、それから数年掛けて生えかけのぼうぼうの中庭を2人で剪定し合い、やがて吸血鬼の紅茶を選別するように――――
咲夜の目の前にあった光景が、再び過去へと差し替わる。
『紅魔館が、ひどい目にあったら、わたしが、まもるから』
『“咲夜”は良い子ですね。けど、もうすこし私達に頼ってもいいんですよ?』 相手は、始めの回想と同じく、美鈴だ。
『それじゃダメなの。ほら、なにが起こるかわからないから。運命は、理不尽だから。《爆発》とか、そういうのが起きるかも』
気負う子供の彼女に真正面から向かって、様々な仕事をこなして、薄汚れてしまったエプロンをした美鈴が、優しく頭を撫でてくれていた。 『そのときは、お願いしますね』
――――その途端、意識が戻った。
腕が動かない。足が動かない。首に巻き付いた黒く冷たい感触が、咲夜に状況を知らせてきた。磔にされた幼い、一匹の吸血鬼が、歪んだ空間でぐったりと項垂れている。闇を捉えるは、闇。中空に浮遊する黒い霧から伸びた距離感の無い触手が、レミリアを、美鈴を、そして自分をも、雁字搦めに拘束していた。
世界はねじれ、紅魔館の失われた内装らしき赤絨毯の敷かれた階段や廊下が、溶けた金属のように姿を変えて周囲に浮かんで漂っている。ひとり、その中で、紅白の巫女が次々と襲いかかる触手達と延々と戦い続けていた。
「霊夢!」 思わず咲夜は叫んだ。何が起きているのか、全く理解できていなかった。歪みによって作られた領域に入り込んだ、その刹那、凄まじいスピードと正確さを持って、“何か”が起きたのだ。そして長い夢を、見せられた。敵は一体、何なのだ?
「咲夜!? 起きたのね? もし出来るなら、私が引き付けている間に、外に助けを呼びに行って! コイツ、攻撃が効かない!」
大幣を使って飛びかかる黒を水のように弾き飛ばし、霊夢は云い放った。しかし、身体は動かない――――――ナイフはすべて抜き取られてしまったようで武器はなく、かつ、人間の膂力では打破できないほどに拘束力は強い。出来るのは、能力。
“時を操り、空間を操る”程度の能力。
「霊夢! 私が能力を使ってヤツの攻撃を『ずらす』から、その隙に、この拘束を――――ッッ!」
「わかったわ! やってみる!」
退魔針を取り出した霊夢は、放射状にそれを投げてみせる。牽制の針は咲夜の捕らえられている方角へと向かったが、途中でそれはあっさりと阻まれた。必然的に、闇は、彼女と霊夢の間に集中して固まる。あろうことか、霊夢は、その、最も突破が困難な場所へと空を蹴って進んでいく――空間をずらすのは、そのタイミング!
直進する高速度の触手を、ほんの僅かに、咲夜のずらしたほんの僅かな空間を頼りに、グレイズしていく。霊夢の大幣は、咲夜を拘束するその闇の形成物に、触れる寸前にまで届く――あと、握り拳ひとつ分。もう、少し。あとコンマ1秒あれば……届く!
しかし、この策は、対峙している“闇”が、咲夜の能力を何も知らない場合だけに、限られていた。
「嘘ッッ――――!」
拘束さえ解ければ、あとは時を止めるだけ。……だった。だが闇は驚く素振りもなしに、機械的に霊夢を捉えてしまっていた。
次の瞬間、霊夢は小規模の爆発によって意識を失った。
理不尽だ。咲夜はそう感じた。黒い触手は、蜘蛛の糸のように空間に無数の枝を伸ばし、4人を無表情に見つめている。見た限り、破壊しても再生し、幾らでも長さを持ち、博麗の巫女の攻撃は効かず、更に爆発も起こせるようだ。今できること、それは、もはや叫ぶだけしか無かった。
「霊夢! 美鈴! お嬢様! 大丈夫ですか! 生きていたら返事をしてください!」
届かない。みな、眠っている……――何故、殺さない? 人間や妖怪の道理で測れるのか、そもそも、意志などあるのか? 力が徐々に抜けていくのがわかる。無理に精神を昂ぶらせても、肉で形成された自身の躰は、やがて来るだろう苦痛を恐れて、段々と感覚、感情、動きを鈍らせていく。
「霊夢! 美鈴! お嬢様!」
幾度も問い掛ける。もはや、彼女達が起きたとしても、救われる瞬間なぞ来ない――錆びついた脳は、希望を失っていた。ただ、彼女達を声を交わせば、安心して死んでいけるのではないか? そんな、唾棄すべき下らない言葉が、じわじわと耳の奥で大きくなっていく。
「美鈴……お嬢様…………」
もはやニュアンスは変わっていた。どれほどの時間が経ったのか、大気の流れも、季節の匂いも、日々を隔てる光すら無い、カオスが延々と広がっていた。紅魔館の残骸から覗くどこかの光景では、絵の具のように混じりあった原色が、眩いばかりの白か、もしくは昏く錯覚を催す黒のような、色とはいえぬ視覚現象の中で、けたたましく踊っている。水の流れの如きノイズが肌を泡立たせ、無数の人間の囁き声を立ち昇らせる。咲夜は、懐中銀時計の、針の進むほんの幽かな振動が、胸の奥で揺れているのを感じていた。その、規則正しいリズムのおかげで、彼女が生まれた時より持っていたその、銀時計の刻む今のおかげで、ひとりだけ覚醒出来たのかもしれない。
吸血鬼や人間を巻き込んだ怪異は、まるでオブジェと化して、動こうとしない。このまま永劫の時を、過ごすのか。
――――いや、有り得ない。十六夜咲夜が、レミリア・スカーレットが、紅美鈴が、まるで共依存するように紅魔館という体制を保ち続けている理由。それは、
「お嬢さ――――」 再び、問い掛ける。
「…………大きな声でなくとも、聞こえているわ。咲夜」
怪物と、人間の間に、あるはずもない信頼関係が、ひとつの“幻想”として存在するからだ。
「咲夜さん……聞こえましたよ。あなたの、声が」
二人は眼を開き、困惑する従者と視線を合わせた。奇跡ではない。当たり前の、紅茶の中に注がれたミルクのような、咲夜の声は、カオスに秩序を与える、一雫であった。そして、
「ずっと見ているのでしょう? 出てきなさい」 レミリアの言葉を呼び水として、その“存在”は確定した。
「ありがとう。お前の呼び声によって、私は顕現できた」
靄となっていた中核の黒い何者かが、輪郭を得ていく。その姿は、まるで写し身だった。レミリアの悪魔の翼を持ち、美鈴の長い髪、そして闇が晴れていくと、あろうことか、咲夜と全く同じ顔をしていたのだった。それは、誰ともつかぬ低い声で謂う。
「私は、お前達だ。お前達が望むからこそ私は存在できる」
「あんた何なのよ。答えなさい!」 言い終わらない内に、レミリアの周囲に魔力が凝集し、赤い魔法陣が4つ出来上がる。中心より飛び出した悪魔の槍は、かの標的、咲夜の表情をした怪物へと向かうが、割って入った黒い触手にすべて弾かれてしまう。
「確かに、私を生み出したのがお前達なのだから、その攻撃は、巫女と違って私に通るだろう。届けば、の話だが」
直接当てることさえできれば――咲夜は思った。霊夢の時と同じく、拘束さえ――しかし、望みは薄い。
「答えようか」 余裕を持って、それは自分を語り出す。
「私は紅魔館だ。……否、正確には“紅魔館に望まれたもの”だ。長年、付喪神として力を蓄えたが、かねてより幻想郷には歪があり、其れを触媒に成長させてもらった」
――咲夜は愕然とした。それは、その言葉の意味する出来事の発端は、恐らく、自分達にあるのだ。平和過ぎる幻想郷で、妖怪としての力を保ち続けるのは難しい。かつて“爆発”を危機として表現したように、何らかの騒動、闘争が無ければ、多くの人間を恐れさせ、支配するような“カリスマ性”を持たなければ、いつか、決して遠くない未来、妖怪は人間達に負け、やがて畏れられなくなり、その存在は消失するだろう。つまり、彼――彼女かも知れないが――そのカオスは、より長い紅魔館の繁栄のために、爆発を起こしていたのだ。
「しかし、お前達は緩やかに死んでいった。遥か昔、お前達が望んだような危機――爆発――を起こさなければならなかった」
「……馬鹿馬鹿しい。私達を見くびってるの? あなたの存在は、ただただ迷惑なだけだわ」 レミリアの影が、鋭角の翼を持った蝙蝠へと変化して、……だが次は飛び掛かる間もなく触手に封殺されてしまう。
「現に、歪みを取り入れた私に敵わないのがその衰退の証拠だ」
「そうとは限りません!」
大地からでなく、自身の身中より氣を膨張させた美鈴が、生命の輝きを持って闇の触手を振り払った。空中を蹴って、それに立ち向かう。しかし、次々と襲い掛かる黒い腕片は、樹木の皮を剥がしていくように彼女の勢いと光を削いでいく。ようやく辿り着いた瞬間には敵の細腕一本で止められてしまい、再び黒の拘束に絡め取られてしまう。
「そして私には解っていた。歪みを集めていれば、何者かが止めに来るだろう。そうすれば私が観測され、存在として昇華される。より、これまでとは比べものにならないほど近い位置で、曖昧であった付喪神の意識から脱却して、より狡猾に、より老獪に、存在意義を謳歌できる。幻想郷に“危機を訪れさせられる”」
一拍置いて、
「私が常なる敵となれば、意義と、目的を与えられる」
「――――あなたが何を言っているか、私にはわからないわ。あなたの意志は、ただの欲望を、それっぽくすり替えただけ。要するに、爆発させたいだけなのよ」 抵抗をひとつも許されていないレミリアが、気丈にも反論する。
「本当にそう思うか?」 それは、無表情で問い返した。
「そうよ。私達を殺せていないのがその証拠よ。あなたは結局、紅魔館の爆発という、“システム”なのよ」
「本当にそう思うか? ……私が、お前達を消去して、その代替物を置く事で、紅魔館として存続してもか?」
「愚問よ。出来るものならやってみなさい」
何を確信しているのか、笑みすら浮かべてレミリアは言い放った。創造主――主には、何者も逆らえないという吸血鬼ゆえの高慢さがそう云わせたのか。しかし、怪物は、その黒い触手をレミリアではなく、咲夜の方へと伸ばしていった。
「咲夜さん!」 その行為は、最も彼女に関わりの深い、美鈴の悲痛な叫びで表された。触手の先端は黒曜石のように尖り、その胸の正面に充てがわれる。胸骨――人体の血液の約30%を作る骨髄が存在する――の下部、第四肋骨から剣状突起にかけての部位に、突き通らないほどの、弱く、しかし痛みを最大限引き出す程度には調整された力で、加圧が行われる。神経を引き裂かれるような感覚に見舞われた咲夜は、奥歯を砕くような勢いで噛み締めて、その挑発に耐え続ける。
「……つまらない虚勢ね。人間の、弱い従者から苛虐して、いつでも殺せるアピール? 私を殺しきれてから、そうしなさい」 レミリアの言葉は、敵への嘲笑のためではない。真意は、従者を身をもってかばうため……――ですらない。咲夜は、そのサインを見逃さなかった。今すぐにでも瞼を降ろして、意識を遠い脳髄の奥へと追いやろうとしている体幹に逆らって、それを、一瞬の、だが信頼に足るレミリアの意思表示、主の命令を見極める。
(サ・ク・ヤ・イ・マ・ハ・タ……咲夜、今は耐えて) 音節にならない部分で、レミリアの唇はそう、動いていた。
「さすが私の創造主。安い挑発は通用せぬな。実を謂うと、殺せないのではなく、殺すのが惜しいのだ。妖怪数匹の命と表現すると取るに足らぬが、母体となれば別」
(そ・の・と・き……その時が来たら、あなたがあいつを、どうするか、考えて) 彼女は何らかの未来を、予見している。そして、今は全貌の見えないひとつの選択を、咲夜に託していたのだった。意図を受け取ると、咲夜を支配していた痛みが単なる往復の刺激へと変化し、苦しみに茹だっていた思考に冷水が注入される。打開策。運命を操る力はないが、その従者は、吸血鬼がどのように糸を繰り、物語の絵図を紡いでいったか、幾つも、幾つも、見てきている。カオスを見渡し、光の筋道を思い浮かべていく。
「母体? ――――まさかっ!」 猶予は、もはや少ない。
レミリアは気付いてしまった。自分達と同じような姿形を取った怪物が、何を求めているのか。五体を得る理由、意志を発散させ、拘束し、圧倒的な優勢を植え付けてまで、生かす理由。
………………つまり、求めているのだ。
「そう、紅魔館の支店の建設と、その爆発だ!」
「――――――――は?」
「もう一度云う。紅魔館の支店と、その爆発だ!」
(に・か・い……二回言った!?)
一瞬戸惑ったが、レミリアは、その言葉の裏に隠された意味を見出して戦慄した。その怪異は、博麗大結界の歪みより生まれた“存在するだけで”カオスを巻き起こす物体だ。その誕生は、紅魔館そのものであり、母体――つまり乱立させた館から、同一種族を生み出すことによって“妖怪としての概念の定着”を行おうとしているのだ。
「お前達は居るだけで紅魔館を産み出す。こんな便利な母体を始末するのは気が引けてな」
「なんて……――卑劣な」
(ば・か・じ……馬ッッ鹿じゃないの?) 失われた声を聴いて、咲夜はレミリアの苦労を知った。“そのとき”を待つという事は、つまり、時間稼ぎをしなければならないという事。幸い、主君が引き付けてくれているおかげか、敵は会話に夢中となり、胸の直前で、こっそりと空間を歪める隙が生まれて、咲夜の痛みはほぼ解消されるに至っていた。
「さあ、私にも“苺プリン”を差し出すのだ。ストローベリィと名を騙る事でまんまと隠し通せると思ったのか? お前達吸血鬼の主なエネルギー源なのは判っているぞ」
「まさかコイツ…………!」
(あの暗黒プリンパーティをそのまま真に受けたというの!?) 続く言葉を失い、唇の動きが失われたのにも関わらず、咲夜にはもはや、レミリアの心の動きを補完するのは容易だった。相対する敵、カオスの具現は、やはり生まれたばかりであり、そのために白痴であった。隙があるとすればそこで、しかし、その無知さは、同時に危うさの裏返しでもあった。
「そうだ。私はお前達の持つあらゆるモノを取り込み、完全なる具現化を終える。すでに歪みと同化した私にとって、幻想郷は、これほどの、ただの末端の歪みですらこれほどの、強大な力が手に入る、謂うなれば巨大な核実験場なのだ」
「……」 レミリアは唐突に押し黙った。その怪異の本質――方法はなんであれ、それは歪みより生じて、自ら幻想郷に危機を作り出し、その事象によって更なる歪みを引き起こすという、永久的に広がり続ける破滅のスパイラルに気付いたからだ。例えば、その存在自身が“子供のように無邪気に”、生まれた時からある、その欲望を発散させ続けたら――つまり、紅魔館の危機を演出し続けたら、――――あとに残るのは無。
「……残念ながら、あなたの苺プリンはお預けよ。何しろ、もう、全部平らげちゃったもの」 時は近づいていた。レミリアが何を予期したのかは、咲夜には知らされていない。それが良いものか、悪いものかさえも。
「――――時間稼ぎをしているのは解っているぞ?」 敵は、黒い触手を引き連れて、レミリアの前へと移動していった。余裕の笑みを、従者そっくりの顔に浮かべて、その眼を近接させる。「吸血鬼の消化機能はどうなっているのだろうな」 云うと、咲夜の時と同じく、先鋭化した棘を生成し始め、今度は吸血鬼の腹、ちょうど肉の薄くなった臍の上に当てて、誰とも似ない、邪に崩れた表情を投げ掛けた。「無ければ、喰らえばよいのだ」
「咲夜!」 レミリアが大きく声を上げた。
「助けを請うても誰も来んぞ。ここはすでに、高密度魔力で閉鎖したからな」 応えるのは怪異だけ。
「咲夜! 美鈴!」 もう一度。しかし誰からも答えはない。
「見捨てられたようだな」 その黒い塊は、絶望とともにレミリアの柔肌を裂いていく。表皮に侵入し、その下の――――
――――だが、意味合いが違っていた。
悲痛な懇願に見えたそのレミリアの叫びは、紅魔館の従者二人、十六夜咲夜と紅美鈴にとっては、合図であった。主君の見た《運命の到来》を示す天使のラッパであった。その音色は、大理石を内側からカチ割るような、空間全土の震撼によって齎された。
「私の――――」 神の奇跡のような瞬間、いや、魔女の必然であった。それは超密度魔術障壁を破壊し、地上へと飛び出す勢いで――大図書館の天井をぶち破ったのと同じスピードで、その、黒と、白の混ざった、人間は、姿を現す。
「私の日記返せええぇぇぇぇぇぇ――――――!!」
爆発し、霊夢が訪れたあと、紅魔館の物色を始めていた第三の人物は、霧雨魔理沙、普通の魔法使いであった。
「何!?」 不意をつかれて視線と触手の矛先をずらしたその怪異の隙を、レミリアは見逃さなかった。犬歯を剥き出しにして、無防備になった首筋に食らいつく。
「ぐっ」 咄嗟に離れようとした敵に対して、
「あいつよ! あれがあなたの日記を奪ったの!」 咲夜の言葉が牽制を仕掛ける。それは、「なんだかわからんがわかったぜ!」 魔理沙の行動を誘導し、大量の星弾を発生させた。
「不意をついたようだが、私に部外者の攻撃は通用しない!」
霊夢が行ったように、本体へのダメージは一切ない。だが、黒い触手に対しては、大きな効力を発揮する。バラ撒かれた弾幕は、咲夜に結びついている拘束を、まるで導かれるように溶かし尽くした。
「――これで、あなたも終わりよ」 自由になった身体で、触手を足がかりにして咲夜は跳躍した。向かう先には、ひたすらに気を練り、今にもそれを爆発させんとする美鈴が居る。
「お前ひとりで何かできるわけがない! 武器も失ったはず!」黒い闇はもはや拘束するための形状ではなかった。怪異が知るかぎりの凶悪な鋭さを形成して、咲夜に躍りかかる。
「いいえ」 その刹那、時が止まった。
能力の中でひとり、切り取られた写真の一幕を進んでいく。傷付けるための刃は今や足場へと変わり、軽快なステップで彼女は飛び、やがて美鈴の前にまで辿り着いた。
必要なのは彼女――――――――の頭に突き刺さったままになっていた銀のナイフ。
膨大な氣が込められ、静止した世界の中でもただひとつ光を放ち続けるナイフを抜き出し、咲夜は最後の選択に迫られた。
(あなたが、あいつを、どうするか、考えて)
君主レミリア・スカーレットの言葉を思い返す。
未来は無数に分岐している。人間には、思い馳せるしかない。例えば――自分と同じ顔をした怪物の白い腹を裂き、二度と起き上がれないように死の石を詰めてやるか?
……例えば、倫敦の腐りきった路上から灰かぶりの娘を誘拐して、手厚く看護して大人になるまで育ててやるか?
例えば、持て余したカオスを苺の食物で懐柔して、鬼退治と云わんばかりに幻想郷に反旗を翻すか? 例えば歪みが具現化した今こそ知恵の実が熟した時期だと判断して、大結界もろとも取り払い毒林檎としか思えぬ文明を迎合するか。例えば怪異を懐柔して未だ見ぬ混沌の世界を手中に収めるべく亀の背に乗るか、例えば力及ばぬ娘はそのまま野垂れ死んで真珠の涙を流すのか例えば……、例えば―――――
運命はまるで世界樹のように、複数の枝葉を伸ばし、咲夜の、停止によって無限となり、かつ始動するまでの僅かな時間の盃を、迷いで一杯にしてしまった。彼女はそうしても構わないし、選ばずともやがて結末は訪れる。
想像力は自在だ。だからこそ――――運命は理不尽。語られた戯曲は、引用された原典より派生した結末のひとつなのかもしれない。彼女の判断、選択もまた、可能性の欠片に過ぎないだろう。銀のナイフは煌めきを増した。
それは、カオスの空間で唯一放たれていた光が、力学によって一定の軌道を持ち、乱反射した、目にも止まらぬ一閃であった。
咲夜のナイフは、怪物の喉元を正確に切り裂いていた。
そして、時は動き出す。
「――――――――ッッッ!」
圧縮された時空間に傷が刻まれる。発声器官を奪われた異変は、瞳を溢れんばかりに見開いて、すぐにも咲夜から距離を取るために後ろに飛び去った。空間を占有していた黒い触手は形状と性質を変化させ、本体を守るためにひとつに収束していく。闇は溶けるように彼女に纏わりつき、辛うじて頭部と胴体をつなぎ留めた。が、すでに拘束を解かれた三人――霊夢、美鈴、レミリアが目前に迫っていた。
「……く……ぁ…………!」
声を絞り出し、怪異は、その向きを空間のより深い場所、攻撃も人の手も妖怪の力でさえも届かない深淵へと変更した。しかし、あろうことか進行方向から光弾が放たれる。
「蒐集家は一度決めた獲物を逃さないぜ」 魔理沙が先回りし、その退路を断っていた。そして追い詰めた咲夜が背後から、もう一度、銀の一閃を繰り出す。手応えは――、無かった。
闇雲を斬りつけたように、黒い塊はバラバラになって離散した。触手の残骸を使って作り出した偽物――気付いた時には、その怪物の核となる人型は、包囲網を抜けていた。能力によって赤く発色した眼を咲夜がその位置に向けた時にはもう遅い。敵は、魔理沙の破壊した空間の大穴――すなわち幻想郷に逃げ込もうとしていた。
(間に合うか――――――?)
再度、時を凍りつかせる。もし、その化物が幻想郷に戻ったら、まずは自分の力の源を確保するだろう……それは紅魔館の爆発によって成される。持てる意志を最大限に引き出し、咲夜は大きく、空を蹴った。一歩、二歩……三歩、四、五、六、七
瞬間、閃いた剣撃は――――浅い!
カオスはついに幻想郷の大気に触れた。矮小な付喪神として、眼も耳もない意識と感情だけの世界から、生きとし生けるものの持つ活力を得て具象化した彼女は、その鮮やかさを、光を身に受けた。未だ暮れない、高く昇った太陽。風がその闇の黒の隙間を縫うように吹き抜けていった。
「あ」 ――想像力は、自在だ。何を思ったのか、異変の二本足、その歩みは止まっていた。眼下に燻ぶる紅魔館を見つけるのが、ほんの少しだけ遅れてしまった。
「パチュリー様! 妹様!」 隙を突くように、空間の割れ目から咲夜が脱して号令を掛けた。“嘘が本当になる” フランに囁いたパチュリーの嘘が、予想外の帰結を迎えたのだった。意気揚々と準備していたフランドールの凶悪な破壊の力が、一気に襲い掛かる。
超遠距離から飛来した赤黒い灼熱の杖は、その暗黒を、瞬きをする暇もなく粉々に分散さしめた。だがそれで終わりではない。散らばった雲ひとつひとつが、その“妖怪”だ。
咲夜は、謂う。
「これで貴女は、一回休みね」
「…………たしは………………だ。次は、……また………」
主の唇を読んでその心を察したように、咲夜には、その同じ顔をした怪物が最後に何を言ったのか、声でなく、感覚で知ることが出来た。仮にも、同じ時を過ごし、願いのひとつ――それが迷惑なものであったとしても――を叶えてくれた相手なのだ。
(私は満足だ。次は、また同じ姿形でなく、もっと望まれた私として生まれよう)
彼女の目的は、危機を起こし、紅魔館を存続させること。その輪に、彼女自身は含まれていない。それは現象であり、止めなければ臨界点に達するまで広がり、制御すれば途端に消沈する。目的は達成される。紅魔館の強き力は観測され、彼女は、
――――不要となる。暫くの間。
「傷魂『ソウルスカルプチュア』」
その怪異を“貴女”と呼び、咲夜はスペルカードを宣言した。これはカオスでなく、ルール側にあるものの、せめてもの餞だった。銀のナイフが、三日月のような軌跡を持って、幾重も、幾重も、周遊して残存した影を振り払っていった。
……そよ風が木々を凪いでいた。紅魔館には、待ち望んだ静寂が訪れた。
かつて吸血鬼異変という出来事があった。信仰が弱まり、夜闇の恐怖は火の強さに負けて、存在が希薄になった妖怪達を、外来種である吸血鬼が瞬く間に支配していった異変だ。その際、博麗霊夢によって作られた幻想郷のルールが、『スペルカードルール』であり、これは公正な決闘法であった。
大結界の綻びは修正され、破損した紅魔館は再建を始めた。幻想郷に住まう人間達に、あくびの出るような日常が戻ってきた。――そもそもの話、里の人間のほとんどは、これに気付いて居ないという有様であった。
知られなければ、何も、無かった事になる。
大凡の顛末を知る内の三人は、博麗神社で暇を潰していた。
「で、何であんたが此処に居座ってるの?」
「今、館を作ってる途中で寝床がないのよ」
従者も連れ添わず、その吸血鬼は神社の庭先に西洋パラソルとアンティークチェアーを置いて、優雅に、作り置かれた麦茶を飲んでいた。
「魔理沙の家とかが空いてるじゃない!」
「あんなトコ、散らかってて寝違えちゃうわ」
「……で、レミリア、私の日記知ってるか?」
「知らん」 言い寄る魔理沙を一瞥もせず声で追い返して、レミリア・スカーレットは時間の経過を、ただ、眺めていた。
「けど、皆大変だったわね。私も加勢すればよかったかしら?」 蚊帳の外だったアリスが軒下で並んだ霊夢に謂う。遠くで鳶が鳴いていた。
「起きた事はもう起きた事。アリス、あなたが暇なら、あれを追い出すのを協力してくれない?」
妖怪退治が生業である博麗霊夢が、明確に拒否しないのは、何故だろうか? 霊夢の中にある個人的感情のせいか、レミリアの力を畏れてか、それとも雰囲気がただ、緩いだけだからか。
奇妙な共生は未だ続いている。それは、建造中の紅魔館でも同じであった。
「咲夜さん。この丸太、ここで良いですか?」
「ええ。……美鈴、そろそろ休憩しましょうか」
妖精メイドを総動員した紅魔館は、今幻想郷で最も賑やかな場所となっていた。重労働を担う二人の従者を除いて、みな遊び半分で、語らい、競い、こだわり、各々の思う形に樹木や石材を加工していく。妖精が集まった老木が生命の息吹を与えられて、再び青い葉をつけるように、切り倒すだけの人間には難しいであろう、成長し、剪定し、風化し、凝縮される工程が、その広い庭では、季節を集めたのか如く色鮮やかに行われていた。
「さ、みんな。作業はやめておやつにしましょう」
咲夜が二度手を叩き、時間を知らしめると、加工途中で横たわった建材がテーブルになり、中庭は天然で巨大なテラスに早変わりした。何十匹もの気まぐれな妖精が、思い思いの話を披露して、目前に霧の湖を控えたその館は、更に騒がしくなった。
やがて、焼け焦げた中央ホールから無数の、妖精の人数ぴったりに把握された量の焼きプリンを持って咲夜が現れ、その軽い宴は最高潮を迎えた。まだまだ作業はなかほど。何もかもが簡単なものだと高を括り、楽しくいかなければ。
「えっ!?」
その喧騒の中で、ひとり、困惑に駆られるものが居た。美鈴だ。
「何その驚きようは」
素っ頓狂な声を上げた彼女の隣に座り込むようにして、咲夜が問い掛けた。例えば、それは作業の進展度合いの事では無い。爆発の怪が終結して、ようやく腰を落ち着けるだろうと安堵した途端、事件後初の爆発が身内――フランドールによって起こされた事や、彼女を諌めるためにパチュリーと小悪魔が大図書館で文字通りの余計な世話を焼いている事でも無い。例えば、それは、妖精達のために咲夜の用意した謎の菓子類――スーパーカリフラジリスティックエクスピアリドーシャスケーキやハイカラシティー(HIGH KARASHI TEA)というどこ原産かわからないような紅茶の品種の事でも無い。
それは、人間ならではの、容易な優しさだ。
「いえ。私にもプリンをくれるなんて……」
美鈴に直接差し出されたのは、作りたての苺プリンだった。
「別に。思い出しただけ」 素っ気ないようなふりをして、咲夜は視線を遠く、なるべく相手の姿が見えない方向へと逸らした。
「えへへ。ありがとうございます咲夜さん」
「私はメイド長としての職務を全うしただけよ」
そっぽを向き表情を見せようとしない咲夜に対して、美鈴は、ある事に気付いてしまった。当然で、けれど不自然な事。
「あ。咲夜さんの分は?」
「そんなもの無いわ。今回はある意味――……私のせいでもあるのだから」 過ぎるのは、いつかの光景だ。何故、忘れていたんだろうと後悔するような、何気ない配慮や、願い。時間の中で、止まったり、進んだり出来る彼女は、今、過ぎゆく雲を、照れ隠しのためか、いや、幸福を感じたせいか――――両親や親戚の姿を見て覚えていけるような学習した充実感は咲夜には元々なく、自分自身も、その感情が何なのか、良く解っていなかったが、ただ、浸っていたい平穏が、今、あって、空白になった心は、意味もなく、理不尽に、空を眺めていたいと思っていた。
「じゃあ、私のと、半分こしましょう」
そして、振り向くと、隣で、いつかの従者が、幼い時見たような、笑顔で彼女の“その時”を待っていた。
――――それから、少し後の話。
「それで、咲夜さんに聴きたいことがあるんですけど、私がアルコールの妖怪って、さすがに冗談ですよね?」
「えっ」
「えっ……って。そこは否定してくださいよ」
「……………………」
「――――ちょ、何でそこで黙るんですか!」
「疑うのなら、確かめてみればいいじゃない」
スッ、と咲夜は建造中の台座に置かれた、ハイカラシティーをスライドして寄越した。つまり、アルコールの妖怪ならば、紅茶すらお酒に出来るだろうと、そう云う気なのだろう。
「いやさすがにそれは……」
「いいから」
「判りましたよ。でも咲夜さん。あんまり茶化しすぎると、いつか冗談じゃなくなりますよ!」
頬をぷくっと膨らませて不満そうに、しかし真面目に美鈴は、常日頃の鍛錬と同じように氣を練り込み、そして、
「あっ」
「えっ?」
「えっ」
「えっ」
――――――理不尽こそが、運命の本質であるように。
完
――理不尽こそが、運命の本質だと。
星は、自らの影で光を覆い隠す。
月がこうして、姿をギロチンの刃のように変えるのもまた、重力に引かれて廻り、落ち続ける星達の見せる表情のひとつなのだ。寝間着のようなゆったりとした装束を身に纏う魔女は、地下階から、天井に空いた穴を通じて、空を見上げた。その魔女の帽子には、今、星空にあるのと同じ、黄色く、白く、輝くような、ぼんやりとした、月の意匠が拵えられていた。
(今頃、バルコニーで紅茶でも嗜んでいるのかしら?)
彼女はそう、自らの住まう館について思いを馳せた。
紅魔館。そう呼ばれるこの紅色の染み付いた洋館には、この魔女――地下に広がる大図書館の魔道書、そのすべてを管理するほどの強力な魔の眷属――を配下にするような、更に上位の、絶大なる存在が住み着いていた。
その名は、レミリア・スカーレット。
「これは、甘い。……血液よりも。上出来ね」
吐き出した息は冷たく、樹木がようやく陽気から脱却し、葉を落とし始めた時期だというのに、すでに呼気は凝固して、銀の煙となって輝いた。熱い、注ぎたての紅茶より沸き立つ熱気が、大気に触れて凍結したのではない……彼女の息が、秋の風を凍らせたのだ。悪魔、吸血鬼、人ならざるぬくもりを持つ彼女は、そう呼ばれる。
「気に入って頂けたら幸いです」
返答を行ったのは人間だった。バルコニーにはたったひとりの主を饗すためのテーブルとアンティークチェアーが置かれていた。もちろん拵えられた家具達を支配するのはレミリア・スカーレットだ。声はその傍ら、メイド服を着た従者によるものだった。
――レミリアの名は、その地、幻想郷では広く知られていた。何しろ、以前、大きな異変を引き起こした脅威の内の、そのひとりであるからだ。“名が知られている” それなのにも関わらず、悪魔としての力が衰えない吸血鬼は、本当に、『スカーレット』などという名で生まれたのだろうか? 彼女は、“運命を操る力”を持つと自称している………………
従者は、その名を敵対者として叫んだ過去を持っていた。銀のナイフを持ち、その、人でありながら“時を止め” “その空間を自由に移動できる”異能を駆使して、かの脅威に立ち向かった。――何故、今、その彼女、十六夜咲夜がここで銀のソーサーを持ち、吸血鬼に対して、柔和な声で語り掛け、毒のない紅茶を淹れ、その視線を三日月に向かって外したり出来るのかは、当の彼女にしか判らなかった。
ともかくも、月光は明るく、僅かな隙間を縫って降り注ぐ薄光の中でさえも、その光景ははっきりと輪郭を持って浮かび上がっていた。
「ところで、ひとつ気になることがあるのよ――」
従者にしか判別できないくらい微かな表情の変化のあと、レミリアは話し始めた。月のもとでは無敵となる吸血鬼を悩ましめるほどの異常が、起きつつあった。
……それは、焦げ跡。今、門番が守っている正門の直後に存在する前庭に黒く、確実に爪痕を残している。焼けた植物の臭気が、まるでマンドラゴラの悲鳴のよう、館を包んでいた。
「あの事ですね」 ――十六夜咲夜もそれを知っていた。地下の魔女、パチュリー・ノーレッジも、門番である紅美鈴も、それに気付いていた。しかし、
「ええ。原因が掴めないのは、私の、“運命”の沽券に関わるわ」
誰一人、その理由を識らなかった。大図書館の知恵を持ってすら、辿りつけない境地にある。その問題とは、すでにまた、発火を始めていた。
「今日は休まれてはどうでしょう?」
提案に従うよう、無言でレミリアは腰を上げた。息を長く吐き出し、遠い月夜を眺め、やがてもったいぶるよう、低く呟いた。
「――そうするわ」
影はゆっくりと去っていった。バルコニーから怪物の姿は居なくなり、ずるずると這い出てきた朧雲が三日月を蝕んでいく。辺りは黒く沈んだ。中で、話し声が聴こえる。――吸血鬼と従者が、再び夜、目覚めたあとの予定を決めるようとしている会話だ。
「――――起きがけのプリン、何味がいいですか?」
「イチゴ味! ―――――」
……その瞬間、紅魔館は唐突に爆発した。
「咲夜、ごめん。調査、お願い。いますぐ」
「……はい」
黒焦げになった二人は煤を咳出して払い、瓦礫だらけになった紅魔館を振り返った。
夜明け前。まず咲夜が向かったのは知恵の宝庫、大図書館だった。埃で満たされた暗澹たる魔書棚が、彼女たち二人を見下ろしていた。通路の合流点に幾つか点在する、書のめちゃくちゃに積まれたテーブルで語り合う。
「今月に入ってもう8回目です。パチュリー様、何か知りませんか?」
問われた魔女は、詠唱に適したやや早口な声でそれに答えた。
「魔理沙のせいかもしれないわ……何もかも」
「霧雨魔理沙ですか」
月明かりが丸く、降り注いでいた。大図書館の天井には人間ちょうど一人分の穴が開いている。以前、霧雨魔理沙という人間の泥棒(魔法使い)が強襲してきた時に穿たれた穴だ。ふと、咲夜はパチュリーが三日月の飾りのついたナイトキャップを外している事に気がついた。目を凝らすと、頭には、大きなたんこぶが1個ついていた。爆発によって生じた瓦礫が落ちてきて当たったらしい。
「きっと全部アレのせいよ。大図書館が荒らされるのも、館が意味もなく爆発するのも、私の頭が痛いのも、お布団がちょっと湿っぽいのも」
「……たまには干しましょうよ」
「外に出すと爆発に巻き込まれて黒焦げになっちゃうじゃない」
面倒くさそうに魔女は手をパタパタと振った。
まず得たのは霧雨魔理沙という人間の魔法使いの手掛かりだった。幻想郷に越してきて以来、彼女はちょくちょく大図書館に訪れては魔導書を盗んだりビームを撃ったりして迷惑を掛けてくる極悪人だ。奴ならば爆発物を仕掛けるのも訳ないかもしれない。
目の敵にしているにしては対策をあまり取らないパチュリーに対して、咲夜はそういう性的嗜好もあるのだろうとすでに納得していたので、これ以上話を引き延ばすことはせず、彼女は大図書館をあとにした。
魔理沙は『魔法の森』という、魔法使いにとってはこれ以上ない研究の場に家を構えている。咲夜はそこに歩みを向ける前に、門番に会い、館の詳しい状況を再確認することにした。
「最近、ここを通ったものは居ない? 霧雨魔理沙とかさ」
紅美鈴は、紅魔館の門番を任せられるほどの腕っ節の強さがある。紅魔館では身体能力で彼女の右に出るものはなく、その目が相手の姿を捉えていなくとも、気配だけで格闘できる――つまり武術の達人であった。そんな彼女が、魔理沙をおいそれと見逃すわけがない。
「魔理沙は2日前に来てそれっきりですよ? 他に侵入者は特にないはず……」
今、彼女の頭には、ナイフが3本突き刺さっていた。激しい戦闘のあと……ではなく、不意打ちによって作られた傷だ。しかし、武道を極めた彼女にとって、急所を外すのは簡単であった。ふらつく事なく、しっかりと大地を踏みしめ、倒れる気配がない。どう見ても刺さった刃が脳に達しているように見えるが、そこは達人の某でどうにかなって平気なのだろう。ちなみに、ナイフは咲夜のもので、居眠りをしていた門番へのペナルティとして与えたものだ。
「ありがと美鈴。私は少し紅魔館を出るわ」
「いってらっしゃいませ咲夜さん」
その姿が視界から消えた途端、すぐにも直立で入眠姿勢に入った美鈴を、戻ってきた咲夜は歪みきった表情で見下ろして、足元にしなる竹を利用したワイヤートラップを敷き、満足そうに紅魔館をあとにした。
魔法の森に入り込み、その、寂れた住居の扉をノックする。時刻は朝焼け、そろそろ人間達が起床を始める時間である。
霧雨魔法店、と描かれた家はそれから何分も沈黙を保っていた。ノックの音を激しくしたり、声を掛けても応答がないので、痺れを切らした咲夜はその玄関を蹴破ることにした。緊急時だ。仕方がない。
しかし、住居はもぬけの殻だった。台所、研究室、物置、寝室も持ち主の性格を表すように、想像以上の散らかりようだったが、標的の姿はなかった。せっかくなので盗まれたと思しき魔導書を4~5冊見繕って小脇に抱え、店をあとにすることにした。が、
「あら」
玄関に朝の逆光を背に人影が立ち竦んでいた。一人、いや影はもうひとつある。咲夜と同じくらいの背の女性に、小さな人型……妖精のように飛ぶ、人形一体だ。
「咲夜じゃない。どうしたのこんなところで」
彼女は顔見知りだった。アリス・マーガトロイド。魔法の森の特性を理解していて利用する中のひとり、魔理沙よりも魔の眷属寄りの人形遣いで、話のわかる人間だ。
「アリスか。いえ、魔理沙を探しているのよ」
何も事情を隠す必要はない。友好的に接すれば、それが返ってくると咲夜は知っていた。今はできるだけ情報を集めたい。
「魔理沙ねえ、……こんな朝から出掛けるって事は、きっと霊夢のところね」
(霊夢か……) 咲夜は思った。面倒だ、と。
幻想郷の平定を保っている博麗神社という場がある。博麗霊夢とは、紅魔館が起こした異変を解決した、怪物を倒す“人間の怪物”である。霧雨魔理沙、アリス・マーガトロイド、博麗霊夢の三人は大体同じ生活環を共有していて、ひとりに接触する事は、別のメンバーにも関係を持つという事と同意義であった。予想はしていたが、彼女は障害になりうる――――
今は敵対関係が解かれ、出会い即退治、とはならなくなったものの、館が爆発する珍事に見舞われていると知られたら、ひやかしのひとつでも上乗せされるだろう。しかも、彼女、博麗の巫女の霊夢は、身の回りで被害が起こらなければ、一切動こうとしないのである。
つまり、非協力的。
「それで、何の用なの? 咲夜が魔理沙を探すなんて珍しいわ」
「紅魔館のことで少々」
「あ、判ったわ。きっと爆発したんでしょ。夜中になんか聴こえたわよ?」
わざとなのか天然なのか、明るい表情でアリスは云う。
「……恥ずかしながら」
「大変そうね。怪我なかった?」
「…………」
咲夜は沈黙した。態度から察するに、距離を取られている。
アリス、魔理沙がひとりでいるところであれば、捜査に巻き込むことも可能なはずだが、霊夢と揃ってしまうと、二人は彼女と神社の縁側で涼むことを選ぶだろう。
――――紅魔館は爆発するもの、なって当たり前、と覚えられているのだ。優先順位は下の下。嗚呼、なんて時代だ!
「お気になさらず」
言って、咲夜のお腹が、ぐう、と空腹の鐘を告げた。アリスの手には焼かれたばかりでろう香ばしく匂いを発散するパンのバスケットがあり、寝起きの身体が反応してしまったようだ。
「あっ。お腹減ってるんなら霊夢のところで食べましょう。えっと、決して魔理沙と一緒に食べようと思ってたわけじゃなくて、みんなで食べようと作ったパンだから、うんと、あの、魔理沙が食べたいって言ってたからちょっと甘くなってるけど、咲夜の口にもきっと合うと思うわ」
……まあ、まだ魔理沙が犯人と決まったわけではない。特殊な嗜好を持ったアリスの台詞を頭の片隅に追いやって、自分を何とか鼓舞して、咲夜は足並み揃えて博麗神社に向かうことにした。
「可燃物でも溜め込んでるんじゃないの?」
博麗神社ではその言葉が一番の手掛かりであった。発言者は霊夢。咲夜はアリスの展開したパンを頬張りながら、魔導書を盗み返そうとする魔理沙の手を軽いステップで避けていた。
「…………そんなの最初に考えたわ」
ロクな答えがなかった。レミリアの寝室にクモの玩具を投げ込んだとか、魔導書は借りてるだけで盗んでないとか、美味しい紅茶の淹れ方を教えてほしいとか、お賽銭入れてきなさいとか、世間話以上の情報を与えられることはなかった。魔理沙だけを絞め上げれば紅魔館に来館した時の行動ぐらいは判るだろうが、この様子では恐らく、無関係だろう。掴み掛かろうとした魔理沙の額を掌で、はたいていなす。
「それを返すんだぜ……マジで……返すんだぜ……」
門番のよう、武術の達人ではないから、ナイフは使わなかった。そのかわり、取り返した魔導書の中にひとつに、彼女にとって最重要らしき本――つまり私物を混ぜておいた。これさえあれば簡単に魔理沙の口が割れる……はずであった。
「で、魔理沙。本当に何も知らないの?」 嘲笑のよう口元を歪ませて咲夜は問い正した。必ず、真実を云うはずだ。
「当たり前だ。ビームで破壊する事はあるが、そんな爆発なんて物騒な真似は絶対にしない! だから約束通り、日記を、返すんだぜっ」
回答を耳にして、心底残念そうに咲夜はため息を吐き、「そう、」とだけ呟いた。話を聴き終わったらやることはあとひとつ。
「もう用はないわ。アリス。パンありがと」
「どういたしまして」
アリスからの声を待たず、咲夜は“能力”を使用して、3人の前から瞬間にして姿を消した。時間を止めて、瞬きをする時間よりも短く、吸血鬼の住処へと駆け戻っていく。
「私の日記ぃ――――!」
こうして叫ぶ魔理沙の悲痛な訴えは山彦となって、紅魔館前で門番を叩き起こした咲夜の背中で何度も響き出した。しなった竹が美鈴の顔面を痛烈に打ち付けて、その声に応えるよう、小気味良い音が浮き立った。時刻は早朝。そろそろ熟睡期間に入り始めたレミリアが、夢の中でプリンと追いかけっこしている時間――――
終始寝ずの読書を続けているパチュリーの前に訪れた咲夜は、調べた出来事をかの知識の魔女に相談した。何かが進展するわけでもない情報量、また、いつ爆発するかも判別できない恐怖、主からの期待と不甲斐なさがその完璧過ぎるメイド長を焦らせていた。
見兼ねた魔女は、ぽつり、こう言った。
「これは、一度皆で話し合って話を整理したほうが、解決が早い問題かもしれないわね」 彼女がチラ、と目配せすると、咲夜は持っていた魔導書を本の山の隣にそっと置いて、
「やはりそうですか……。あ、これ差し上げます」 例の日記を差し出した。
「ええ。今日の夜にでも集まって、一回考え……お、おお! お……コ、コホン。今日の夜にでも集まって一回考え直しましょう」
彼女の思考、もとい嗜好がわかるわけではないが、咲夜は彼女の目の輝きから、やり遂げた、と儚かな満足感を味わうことができた。
「それでは、今すぐにでも場を用意しましょう」
「そうね、今日の夜にでも集まって……え? 今?」
問い返した時すでに咲夜の姿はそこにはなかった――――
「お嬢様、お嬢様……――――」
揺り起こすその手は暖かく、人間の体温を持っている。太陽が傾き始めて、枕元では傍らに置かれたトレイの上で、作りたての苺プリンが甘い匂いを漂わせている。
……事はなかった。
窓のない彼女の部屋に明かりが灯った。ランタンから火を与えられて、首を6叉に分けられた蝋燭が淡く、青白い吸血鬼の顔を照らし始めた。朝――時は隔てず、今は人間の朝だ。
「ん……ンぅ――……咲夜、もうちょっと……」
カーテン付きの大きなベッドの上に横えられた、東欧由来の土入り棺桶の中で、ふわふわのフリルに囲まれたレミリアが寝返りをうった。起きようとする意志を見せない主に、咲夜は顔を近づけ、耳元でこう呟いた。
「苺プリンに、足が生えますよ?」 そして間髪入れず、その柔らかい耳たぶを歯を立てて甘噛みした。
「ぎゃあ!」
何が起きているのか、寝ぼけ頭を混乱させたレミリアは、寄り添う咲夜に頭突きをする勢いで飛び起きた。次いで、「何!? 足? プリンマン!? プリンマンなの!?」 と目をキョロキョロさせて状況確認を行った。彼女に一番初めに答えたのは、館外で囀る雀の鳴き声だった。
「お嬢様。異常事――」
「そんなことよりお腹減ったわ」
「いえ、今は一刻も――」
「プリンよ。苺プリンこそ起きがけの吸血鬼の嗜みよ!」
言葉を被せられて、まあ可愛いからこれでもいいか、と内心咲夜が納得し始めたその刹那、何事も無く、紅魔館は爆発した。
バルコニーに続き、レミリアの部屋まで粉微塵となり、跡では、吸血鬼と従者がまたもや煤だらけになって茫然自失に立ち尽くしていた。
「…………咲夜の言いたい事が理解できたわ。今すぐ紅魔館大会議を始めるわ」
「受け入れて戴き有難く存じます」
「あれ……なんか、身体、軽い……」
朝の光に蒸発しかけたレミリアをさっと日陰に移し、朝夕の時差ボケを歯磨きで解消させてから、すぐにも咲夜は行動を開始した。館の雑用をこなす妖精メイド以外の、ある程度重い役割と責任を受け持った5人――自分とレミリアを含め、パチュリー・ノーレッジ、紅美鈴、図書館の司書小悪魔を中央ホールに接した大広間に集める。実はあとひとり、紅魔館で最も強力な悪魔が地下には居たはずだが、咲夜は彼女を呼ばなかった。それは下手をすれば、爆発の元凶にすらなる、劇薬であるからだ。
「さ、始めましょう」
ふっ、と接ぎ火をした蝋燭の炎を吹き消して、咲夜が主であるレミリアの隣に寄り添うと、その準備は終わった。長方形の広間の大部分を占めているロングテーブルには、6叉の燭台が無数に、埋め尽くすように無数に置かれ、その全てに火は灯されて、光はユラユラと揺らめいており、5人、全員の影が、それに従って大きく蠢いていた。暖炉側、テーブルの中央奥には姿勢を崩したレミリアがゆったりと座り、咲夜はその真横に、そこから左右に分かれるようにして、残り3人が場を囲んでいる。
「……拍手はないの?」
主催者が不満そうに口を尖らせると、周りからはまばらに、ぱち、ぱち、と薪が燃えて朽ちるような低い調子の歓迎が起こった。反応を見て、それでも若干満足そうにレミリアは、背にある吸血鬼の羽根をパタつかせて、すぐにも本題を提示した――
「咲夜、お願い」 人任せな態度はそのままに。
コホン、と場の切り替えを意識した咳払いをして、咲夜は引き継いでみせる。これこそ出来るメイドだ。来て、ただちに目を開けつつ脳だけ睡眠状態に入った門番とは違う。
「最近、紅魔館の爆発が頻発しています。これについての対策、または原因究明をお嬢様が望んでいます。何か変わったことや、良いアイデアが浮かんだものは挙手をして意見を述べてください。そして今の話を聞いていた者も挙手をしてください」
それについて賛同したものは4人。設問を行った咲夜、その主のレミリアも挙手を行っているのだから、ひとり、明らかに場に反した行動を選んだものが居る。その彼女は――椅子に座り、微動だにしない、瞬きすらなく、ただ一点を凝視している――まさに正気を失った表情をしており、隣り合った者は異常を察して、更にそれが周囲へと伝わり、火により映った影は驚きに歪み、大広間に密閉された空気が、段々と淀んでいくのを、みなが感じ始めた。
だが、その制裁は一瞬であった。疑わしきものは粛清される。“時を止められる”従者が居るこの場では、なおさら、時間を隔てない。1本の短刀が、出現した。それは空を切るのではなく、すでに結果だけを運んでいた。額を割るよう致命的に、また、刃が大脳縦裂を分断するよう深く、差し込まれる。……しかし、敵対者は死ななかった。何故ならば――――――
「何するんですか咲夜さん!」
「……あなたが居眠りしてたからよ」
彼女とは武術の達人であり、また謀反の意もなく、ただ眠っていただけであったからだ。
「どうしてバレた……けど咲夜さんも悪いんですよ。咲夜さんが夜中に叩き起こしたから今寝るしかなくてですね……」
「言い訳はよろしい。紅魔館は24時間勤務よ」
「なんてブラックなんだ……」
茶番を長く続ける訳にはいかない。咲夜は時を早めるよう、その投擲をした直後の指で、美鈴を指してこう告げた。
「ペナルティよ。あなたが最初に意見を発しなさい」
「えっ……。けど私、寝てたから何も聞いて……」
「察して。気合で」
「えっ」
とりあえず美鈴は頭にナイフを刺したまま椅子を立ち上がり、その場で構えを取ってみせた。中腰になり、両足を踏みしめ、脇を締めて握り拳を作る。顎を引き、地平線を眺めるよう全体視を利用し、いつどこから攻められても対応できるよう意識を集中した。踵より大地の“気”を吸い上げて、丹田で撹拌した後、背面、打撃に使用する筋肉に広く行き渡らせる。やがて凝縮したエネルギーは光となり、青白く、大広間に集結した蝋燭の光をも吸収してひとつの奔流となっていく。それは龍の形へと変化していき、膨大となった気脈は紅魔館全体を振動させ始める。
(ヤバい……ここまで気合入れたけどさっぱり解らない……!)
ふと、美鈴の視界に、閃くものがあった。それはレミリアと咲夜の髪が、少し焦げていること――
つまり、紅魔館は爆発した――――!
「もしかしたら、可燃物が、あるからではないですか?」 そして、何事もなかったかのように普通に着席する。
「それは霊夢にも言われたわ。紅魔館の生計を立てているものが酒類なのだから可燃物はあって当たり前」
「……――え? 初耳ですよ咲夜さんそれ」 美鈴が返す。
すると、
「知らなかったの美鈴?」 パチュリーが言い、
「てっきりツッコミ待ちなのかと」 小悪魔が続け、
「あなた、自分が毎日食べているものが自然に沸いて出ているものだとでも思ってたの?」 咲夜が呆れ、
「そもそも紅魔館が何故あなた達全員を必要としているか、その本当の意味を理解していないようね」 レミリアが意味深なことを呟く。
「私だけ仲間はずれだったんですか!?」 嘆く美鈴に、
「そもそも暇のない門番のあなたが酒をどうにか出来るとは思ってないわ」 と答えて、そこで咲夜は違和感に気づく。レミリアはあなた達全員と宣った。つまり美鈴も含まれている、という事。にも関わらず、当の本人はワイン造りについて一切教えられていなかった。この矛盾は何を示唆しているのか。
「……ん? お嬢様、それは一体どういう意味ですか……?」
興味本位、というより何か重要な見落としがあるような気がした。帳簿と微妙に合わないワイン樽の内容量、入荷した原材料の葡萄が必ず1房なくなる現象、果ては紅魔館の爆発に関しての大きな秘密が、そこに隠されている気がした。
レミリアは、述べる。
「パチェの持つ大図書館に所蔵された知識は、発酵に大きな影響を与える。咲夜の“時”の能力はビンテージワインの完成を早め、こあ(小悪魔)の魅了はワインを人間の里に流通させる際に重要。そして、みりんはみりん風調味料と分けるために本みりんという呼称を使う……紅美鈴(ホン・メイリン)……あなたが酒の妖怪だという事は、すでにわかっているわ。紅魔館は、アルコールの為に機能しているのよ!」
「えっ」
「えっ」
「えっ」
「皆さん、知らなかったんですか?」 唯一真実を知り得ていたのは、流通を担当している小悪魔だけだった。
「お嬢様……それ、冗談ですよね?」 おずおずと咲夜は聞き直した。紅魔館の目的が、運命が傾きつつあった。
「結構本気なのよ。アルコールというのは神事や、祝い事、特別なときに扱われたり、日常的に摂取して生活環に取り込まれるアイテムなのよ。その流通を牛耳るという事は、日常と信仰に影響を与える、すなわち、人間の支配に繋がるの。生計を立てるために始めた事業だけど、こあと色々と相談している内に発見したのよ。真の理由という、“マインド・ビッグバン”(発想)に!」
従者と主の間に当惑が引き起こされている間、また、大図書館の主従関係にも同じような展開が訪れていた。
「朝方、こあが居ない時間帯があると思ってたけど、そんな事をしてたのね……」
「すみませんパチュリー様」 どうやら、酒類の運び役については、レミリアと小悪魔のみ把握している出来事であったようだ。
このあと、酒造についてブラックボックス化している部分に対して話題のメスが入ったのだが、それは爆発に対抗できるほどの情報を齎さなかった。手掛かりは、そこには無かった。
「私、酒の妖怪だったんですか?」
「知らん」
その応答を最後にして、流れの転換が求められた。このままでは、せっかくの会合が有耶無耶になってしまう。危機感を覚え始めた紅魔館の主、レミリアは、こう、切り出した。
「――爆発そのものへの対抗策はどう? 例えば、爆発しても大丈夫なように、館自体を強化するとか?」
「それは……」 だが、咲夜に即答されてしまう。「それは、実はもう行っているのです。紅魔館の壁と壁との間に隙間を開けておいて、その空間を、私の能力で捻じ曲げて距離を稼ぐことで爆発の威力を軽減する手法を使っているのですが……」
「そこまでしてもまだこんなに威力があるのね……それに部屋の中の物は守れないわけだし、ハァ……」
落胆し、その吸血鬼の影は縮こまって、大広間に沈黙が訪れた。万策尽きたわけではない。ただ、一度きっかけを失うと、歯車は、運命の歯車はたちまち動きを止めてしまう。誰か、誰か、喋れ……そんな意志を込めた目線がレミリアから咲夜へと投げ掛けられ、それは、門番を経て、続いて魔女に、司書に、そして再び統括する吸血鬼の元へと、巡り巡っていく。二周、三周、と回送を重ねる内、ついに、流れに割って入る者が訪れた。
「爆発が物理的なものでも、魔法的なものでも、原因と結果の法則はあるでしょ? まずカテゴリで分けて、選択肢を減らしたほうが良いよね?」
渡りに船――目を輝かせて発言者を探したレミリアの目に、信じられない姿が飛び込んできた。誰でもない。その言葉を扱った人物は、5人の内、その誰でもなかったのだ。吸血鬼である自らと同じように背中から翼を――そうでありながら、まして血縁者、妹でありながら、異色の、7色の宝石状の羽根を持った、第6の、招かれざる客。地下に居るはずの、幽閉したはずの、爆発など簡単に引き起こせる“破壊の力の化身”悪魔、正真正銘の悪魔――フランドール・スカーレットが、ひょっこり、まるで日常的に存在する妖精メイドのように紛れ込んでいた。
「ふ……フラン!? どうして此処に……」 問うのは、勿論、レミリアだった。驚きを隠せず、アンティークチェアーの肘掛けに下ろした腕が滑って、半身が傾く。別角度から眺めても、やはり、彼女は存在していた。訪れていた。
「うんと、それは、そろそろ美鈴とマリカ(※サンスクリット語で花飾り職人の意。転じてお花摘み)で遊ぶ時間なんだけど、なかなか来なかったから探してたの」
「めいりぃぃぃぃいぃいいいいいんッッッッ!!!」
「いやあああああああああああああああああああ!」
転び出した運命は、加速し、ひとりの犠牲者を、まず出した。
――――かのように思えた。
仕事サボって何をしている! その、咲夜からの言葉の礫は、銀製のナイフへと表現方法を変え、美鈴の周囲に“時間”ごと固定されたはずであった。だが、意外。それ以上刃先は進まず、脅しだけで行為は終わりを迎えた。それは、人物、フランドールが、最も手掛かりから遠いと思われた彼女が、機知に富んだ発言を行ったからである。そう、すでに、その発言は、きっかけは、運命の歯車は、【真実】へと動き出していたのだ。
「なるほど、一理あるわね」 呼び水となったのは、パチュリーのこの一言であった。困惑する小悪魔も、怯える美鈴も、処刑開始のスイッチを押しかけた咲夜も、そろそろ苺プリンを食べたいなと思い始めたレミリアも、場に居る全員が彼女に視線を集めた。
「まさか、マリオがカートする事(※マリオとは軍神マルスを由来とする名であり、転じて大マリウス率いる軍とチャリオットレースの“熱狂”を掛けたスラングである事は吸血鬼界では常識である)が……」
「美鈴。そこじゃないわ。用法の方よ。――つまり、一度、どんな状況で爆発したか、データ化してみる価値はありそうって事よ。咲夜、覚えているだけ、書き出してみて」
「爆発箇所と被害者も一緒にあると便利かも」
パチュリーとフランドールの提案に相槌を打ち、咲夜は一枚の羊皮紙に黒インクを走らせていった。一ヶ月、たった8回の爆発。
しかし、それを纏めるのは至難の業だった。
「時間帯、場所、タイミング……全部バラバラですね」 咲夜が呟く。新しく得られた情報は、共通点があまりにも少なかった。
「共通してるのは、私と咲夜は必ず被害者に含まれてるって事ね」 主、レミリアが云う。と、
「あの、……お嬢様って、爆発できるスペルカード持ってませんでした?」 美鈴がひとつの可能性を引き出す。
「『きゅうけつ鬼ごっこ』のこと? 私が爆発を垂れ流すなんて有り得ないわ。スペカ自身が何らかの影響を受けて暴発……も無いようね」 と懐から謎のカードを出してレミリアは返した。
「スペルカードって物質的なものでしたっけ?」
「いいのよ細かい事は」
しばらく会話を続けると、羊皮紙を見て、ずっと考え込んでいたフランドールがある結論を導き出した。
「爆発そのものがランダム性を持ってるの。トリガーは別にあるかもしれないけれど、原因はおそらく――――幻想郷」
「えっ」
「えっ」
「えっ」
「えっ」
「あり得る仮説ね。根拠は弦理論?」 パチュリーだけが返す。
「うん。幻想郷って、博麗大結界によって外界と断絶してるよね? つまり世界の法則を歪めてまで存在している。万物の法則――この世界では、負荷を掛けると必ず何処かに辻褄合わせが起きるの。つまり、その“宇宙の恒常性”がたまたま紅魔館を出口にしてるって事」
「もしそうなら、トリガーさえ潰せば、紅魔館でない場所にピンチが移動するはず……――――」
「待って、待って待ってパチェ、フラン。全く話が見えないわ!」
展開に着いていけない4人は、その長であるレミリアを代表者として異議を唱えた。爆発が宇宙――マインド・ビッグバン――によるものなんて到底信じられない。そもそも、何故突然、……『突然、爆発が起こるようになった?』 と疑問を巡らせている内に、ある事に気付く。
“紅魔館に爆発していない時期はない”
確かに、定期的な爆破はあった、と吸血鬼は回想した。しかし、今ほどの頻度では……、だが、宇宙の法則ならば、宇宙の法則が乱れているのならば、当たり前の出来事ではないか。
レミリアは【真実】に辿り着いた。
「……わかったわ! 紅魔館は爆発する!」
「さすがですわお嬢様! 前の言葉と内容がなにひとつ繋がってない気がするけれど、とりあえずさすがですわ!」
「となると、あとは“トリガー”を特定するだけね……」
何故か話は通じている風になって、大会議は大詰めを迎えた。すでに小悪魔と美鈴に入り込める領域ではなく、半分睡眠状態になったりパチュリーのお腹の肉をもにもにし始めたが、すでに残りの4人は、――フランドールが飽きて、眠りこけようとするひとりの顔に羊皮紙のために使った万年筆で落書きを始めたので残り3人は、目に見えぬ異変を、法として、実在する現象として、結実させる段階にまで、ついに辿り着きつつあった。
「咲夜、思い返してみて。爆発する前、何があったのか……どんな変化があって、爆発が起こったのか……――――! ウフフ」
腹肉へのこそばゆさで半笑いになったパチュリーに応えるよう、咲夜は思考を深く、深く記憶の渦へと潜り込ませた。何があったか、どのような……――、吸血鬼レミリアがそこに居て、威厳を保ち、そしてプリンを、美味しそうにむさぼり食い、やがて、そして、爆、発――――――!??
「ハッ!? まさか……そんな………………」
「何か解ったの!? 咲夜!」
到達した究極は、咲夜にとっては無慈悲なるものだった。事実として認識するには、あまりに残酷。あまりに、痛苦。しかし、従者には、伝える義務があるのだ。例え、どんな理不尽な運命でも、“運命を操る”吸血鬼が主であるからこそ、不安と、また、打ち克てる期待を持って、謂うのだ。震える唇を噛み締め、息を呑み、目を見開いて、やがて来る心の衝撃に備えて、冷や汗が鼻筋を伝い、舌上に落ちる、それまでに、発しなければ。
咲夜は、唱えた。
「爆発は、お嬢様のカリスマがブレイクした瞬間に、訪れます」
「な、なんですって――――!」 宣告は、レミリアを椅子より立ち上がらせるほどの衝撃を持って迎えられた。
(カリスマに、ブレイクする瞬間があったなんて……!)
「思い返して見てください。爆発を。苺プリンによって笑顔が更にほぐれたとき、パケツプリンを初めて見て踊り出したとき、プリンマンに糖分の摂り過ぎを注意されたので腹いせに1口かじったとき……――――」
「つまり……、宇宙は、プリンを異端だと!?」
「はい……残念ながら……もう、紅魔館を爆発から救うには、お嬢様がプリンを食べるのを……」
「それは断るわ苺プリン咲夜! 例え伝承法で数世代記憶や能力を引き継ぎつつを時代を跨ぎながらカンバーランドだけは絶対に滅亡させるとしても咲夜、プリンだけは、それだけは苺プリン。絶対に譲れないわ苺プリン!」
「お嬢様……」
「パチュリー苺プリンもそうよね? プリンのない世界など……苺プリンにしてしまえばプリンプリン」
「お嬢様、苺プリンに拘り過ぎです……」
悪夢の時間は訪れようとしていた。真実が、真実として受け入れられる瞬間。それは現象だ。宇宙が廻り、膨大なる相対性の計算の上に訪れた、たったひとつの歪み。しかし、受け入れるのだ。“運命の相剋者レミリア”として、自ら、向かうのだ。
彼女は答えた。腹の虫で。
そして従者は察した。彼女の求めているものを。
「そろそろ休憩します? おやつは苺プリンですよ」
「わぁい!」
紅魔館は、甘みを待たず爆発した。
指折りではもう数えられないほどの、何度目かの煤まみれ。爆発の法則を実証してしまった6人は、茫然自失としていた。やがて、最も賢いものが声を上げた。パチュリー・ノーレッジである。
「咲夜。レミィ。爆発せず、かつプリンを食せる、私に良い考えがあるわ」
大図書館にある魔導書のそのほとんどは、宇宙に対する闘いの歴史であった。魔法とは、科学と似ている。法則を見つけ出し、再現し、解析する。弦理論によって発散される異常現象を止める方法は、その、あらゆる書に描かれた、文法に糸口があった。それこそ魔法の詠唱。魔女パチュリーであるからこそ、見つける事が出来たのだった。
その、方法とは――――――――
それは、長き闘争の跡であった。
染み付いた熱は大気を焦がし、未だ陽炎が漂っている。歪んだ光の中に、黒き翼をたたえた幼き少女と、銀に煌めく髪を持つ従者が佇んでいた。彼女はまるで、何者かを待つように、焦土と化したその館の広間にあったとは思えないような、真新しい玉座に仰々しく座り込み、足を組んで、時を、赤く、濁る眼で、過ぎる時達を、見据えていた。
やがて運命は訪れるだろう――
レミリア・スカーレットには、視えていた。これまで何度も訪れ、そのたびに我が住処を破壊していったものの脅威が――――
人間と怪異、妖怪の闘いは今や領土全域に達していた。霧の立ち込める湖から、吸血鬼の徘徊する庭、館の裏手までの広大な領域で、それは勃発する。寝室、バルコニー、やがて館の中心である大広間にまで侵食し、もはや、黒。
灰と火の混じった跡が、黒く、戦場を彩っている。レミリアは、次に訪れるであろう脅威を見透かしたように、重々しく口を開いた。
「“卵”は?」
声は呪文となり、問われた従者を縛り付ける。場には、5人の、吸血鬼に魅入られし者共が犇めいていた。瀟洒なるメイド十六夜咲夜、七曜の魔女パチュリー・ノーレッジ、東洋最強の武術家ホン・メイリン、魔の淵より這いよる名も無き小悪魔、悪魔の妹フランドール・スカーレット。みな、その言葉の意を理解し、また、待ち望んでいた。
「は。此処に」
十六夜咲夜が、焦熱の中より、それを場に現した。人間である自分と、力以外の全てを認めないメイリンを含めない、4つ分の“赤い”欠片だ。まるで晩餐に並べられる供物のように、銀色のトレーに載せられ、差し出される。
「何という甘美な輝きなの」 魔女が、高密度魔術によって五芒星のサインが浮かび上がったその瞳を輝かせた。提示されたるは“内臓”――すなわち、英語圏で“pudding”を示す古き伝承により囁かれ続けた吸血鬼用の呪物である。赤い、血に染まったかのよう形成された“甘み”は、観る者すべてを魅了するほどの弾力によって、ふるふると震えている。
「ああ、我が手にも、ついに……!」 小悪魔はその、人間をラードの塊のように引き裂いてしまう鋭い爪を戦慄かせ、眼前に物体を歓迎した。悪魔の饗宴は始まろうとしていた。沈黙を保つメイリンが、彼女達の肉体を羨ましげにチラと一瞬覗き見て、そして目を逸らす。これより、最も凄惨な光景が、此処に訪れるのだ。
――――それは世にもおぞましい、魔界の食事風景であった。
「さあ、わらわの眷属達よ。“ストローベリィ”を饗す。此れに依り、再び我ら魔属の時代の到来とするのだ!」
ずるり……銀製のスプーンは、いとも容易く“それ”の上辺を抉り落とす。赤く、粘性のある液体が糸を引き、その塊が彼女達の口内に消えていくさまは、悪魔達の勝利を示唆していた。その恐るべき味は、人間にとっては、正に苺や、生クリームを使われたデザートのように感じたに違いない……。
“pudding”の製法は冒涜的でかつ、文明開闢以来、人類が積み重ねてきた恐るべき闇の秘法を使わなければならない。まず南アメリカに少数存在するトトナコ族の持つ秘儀により育てられた特殊なラン科の植物の種を採取する。それは、気の遠くなるような時間と精霊の力を繰り返し与えることで、宇宙的な色彩と悪魔でさえ魅了する香りを放つようになるのだ。これを“ヴァニラ”と呼ぶ。“ヴァニラ”を2cm大に切り分けたあと、縦半分に割り、種子とそれ以外を分けておく。次に大窯だ。拷問で人間の皮膚を焼くことも出来るほどに赤熱し、草木を灰にするほどの火力に耐えられる器が必要である。それも鋼の中でも最も不純物が少ないとされる希少な、または職人の手により鍛造された超硬鋼の大窯だ。そこに50gの乳――それは、皮肉な事に神が人間に遣わさせた恩恵のひとつ――、40gの“キャスターシュガー”(向精神性があるとされ、また脳の細胞へと置き換わる絶対の物質)、“ヴァニラ”の全てを放り込み、ひとつに撹拌させる。地獄の業火に大窯を焚べて、溶液の表面にまるでマグマのような劇的反応が生まれるまでクロノスと睨み合うのだ。その間に魔術師らしき第四の腕を使い、“卵”……これは言うまでもない、吸血鬼ならば誰もが知る、“朝を告げる者”の落とし身、それを3個破砕し、黄金色に輝く内容物を足なき聖杯【bowl】に堕としておく。無慈悲にもその太陽のような黄金を潰し、更に邪教的な発想として大窯より白く濁った溶液を聖杯へと移し、悪魔性まぜこぜ“デーモンキングクレイドル”するのだ。そして、――これは、脂肪分のみをエンチャントした生命の原理に逆らう“乳”、まるで生クリームのようになった生クリームそのものを濾しながら注いでいく。……撹拌を続けると銀河の紋様が消えるだろう。滑らかになるという異変は、すでに意志が宿っているという証拠であり、それが眠りを欲するままに与えねばならない段階に到達する。何者にも触れられぬよう、新しき外界の空気を遮断し、凍えるような、密室性の高い【タルタロス】へと隔離し、5時間後の偉大なる目覚めを待つのだ。
摂氏130度。人間ならばもはや生命を保てない世界を、加熱し、作り出す必要がある。創造者の思惑に応じた“型”に覚醒しつつある生命の“4元素”(つまり、乳と卵とシュガーとヴァニラの生成物)を流し込み、5mmほどの湯を張った天板(コスモロジーに則ってデザインされた錬金術道具)に配置する。あとは40分。その、生命が、灼熱の地獄の中を彷徨い続ける2400秒に呪詛の6文字(『O』 『I』 『Si』 『K』 『NÅ』 『Re』)を唱えきって、ようやく完成を迎える、高位、かつ選ばれし者にしか知りえぬ、究極の魔法的行為なのである。
そしてこれは、“ストローベリィ”。その恐るべき魔術の結晶を更にアレンジした、血のように赤く染まった究極を超える究極なのだ。
力が漲るのを感じていた――――
食すほどに、無限の魔力が漲ってくる。聖戦の跡に張り詰めた邪悪なる6人の影が、闇となり成長し、紅魔館という世界観を覆い隠していく…………カオスが、生まれる。
「はは…………フフハハハハハハ! ついに、ついに克服したのだ!我ら妖怪を悩ませる、あの忌まわしき“現象”に!」
そう、起こらなかったのだ。当たり前のようにあった、悪魔達の忌避する、爆発的現象が――もはや、誰も彼女達を止められるものは居ない。支配者のカリスマは保たれ、ついに、紅魔の、戦慄の夜が――――訪れる!
「コラァァ――――――――ッッッ!!」
吸血鬼の赤き霧を引き裂いて、太陽光を背にした人影が、そう、人間であるにも関わらず“空を飛ぶことのできる”者が、苺宴会《ヴァルプルギスの夜》に割って入る。彼女は、赤と白、神に祝福されし二色のハレの衣を纏い、光の内より降り立った。
「……来たか――――“ハクレイ”!」
「また変なこと始めて! アンタ達のせいで紫に『博麗大結界の帳尻合わせが紅魔館で爆発化してるみたいだから何とかして』、とか訳わかんない事云われて、余計な異変解決するハメになったじゃない!」
「えっ……妹様の仮説ってマジだったんですか?」
「美鈴、メッ!」 勢いのままに反応した美鈴を従者、咲夜が眼で制する。銀のナイフに手を掛けている――その臨戦態勢を暗に感じ取って、“ドラゴンオーラ・メイリン”は大地を揺るがすほどの震脚を行った。眼前の脅威に牽制をし、更に闘いへの意思表示をするためだ。
「……それは真か? ではうぬとの闘いは避けられぬな」
「えっ、ちょ、待って……何? アンタ達。えっ……」
「さしもの巫女も、我ら選ばれし6の軍勢には臆するようだな」 チラ、と目配せをして、美鈴は確認を取った。咲夜の表情からそれが正解だと判ると、ハアッ! と無意味に気を吐いてみる。
「えと、とりあえず、全員ぶん殴ればいい?」 把握できる状況を集めてみても、何が何だか分からない。霊夢の目に見えるものは、爆破されてところどころ穴の開いた紅魔館に、何故かその焼け跡に集まってプリンパーティを行っているレミリ――
「我は――自らの力で蘇るのでは無い。慾深な人間共によって」
「わらわか我か、一人称くらい統一しなさい!」
「…………我は、自らの力で蘇るのでは無い。慾深な人間共によって蘇るのだ。力こそが正義なのだからな」
(何事もなかったかのように続けた――!)
「お嬢様は、『異変は紅魔館によって起こるのではなく、幻想郷の歪みによって生じているので、こうして対策を練っていた』 と言っております」
(しかも翻訳された――――!)
「……い、いや、惑わされないわよ。現に全員集合してるじゃない! それに、それは良からぬ事を企んでいる顔だわ!」 霊夢は何とか会話に対応していく。
「しかし魔界の手は長く、そして冷たい。わらわは背中を押すだけだ。“卵”は逃れられぬ死の運命に弑逆するための布石よ」
「お嬢様は、『爆発はこれまでも定期的に起こっていた。どうやら自分の溢れ出るカリスマ性に問題があるようなので、その引き金を探すために実験をしていた』 と言っております」
「~~ッ! 何? 私がそんな戯れ言を信じるとでも? 見なさい! 時計塔らへんに次元の狭間みたいなの出来てるでしょ!? あれがあなた達の仕業じゃなかったらなんなのよ!」
博麗霊夢に選択肢は残されていなかった。闘争か、敗走か。たったひとりで、6人もの悪魔共に敵うだろうか。いや、そうでなければならない。紅霧異変にて、立ち塞がるあらゆる怪異を薙ぎ倒していったように、彼女には、吸血鬼が畏怖するだけの力が、つまり“正義”と嘯く事の出来るほどの支配力が、ある。自然を、心を、星を破壊するだけの危うい力が、人間には秘められているのだ。問答によって、霊夢の心中に、ある疑念が生じる。
(これは、とても…………、面倒……!)
「原初の情動とは面白きものだな。ふむ。わらわの司る理知は赤の狭間。かの未知を識らざるは愚者の業よ。則ち此れ、禍福は糾える縄の如し――力とは、また、ひとつに爻わる性質を持つのだ。“ハクレイ”よ」
「お嬢様は、『次元の狭間なんて初耳だわ。うーん。あれを今封じても原因の除去にはならないから、その奥にある元凶を叩きましょう。乗りかかった船ってヤツだから、協力してあげてもいいわ』と言っております」
「なんで、アンタんトコの問題を私メインで解決するみたいな流れになってんの!?」
「其れは貴様の業だ。人間よ。呪うのならば博麗の巫女として生まれし我が運――――」
「分かった、分かったわよもう! 覚えてなさい! この異変終わったら全員あとでお説教するわ!」 運命の強制力が働いた。
「お嬢様は、『紫に頼まれて来たのはあなたの方でしょ? 巫女は巫女の仕事をまっと……』 と言っております」
(そこも訳すんだ……)
今すぐにでも吸血鬼達の頭を叩き回したい、そんな少しばかりの残心を振り切って、霊夢は上空、時計塔に出現した黒、その怪異の隙間に乗り込んでいった。後ろに、紅魔館メンバーが続く。
ズ、と闇が動いた。それは音であった。吸血鬼レミリア・スカーレットが玉座より立ち上がり、身の丈ほどの黒い翼を広げる、その闇の胎動が、音となって、耳鳴りのような衝撃と化して、確かに周囲に響き渡った。眼前に捧げられた“pudding”をゆっくりと、巫女の姿が見えなくなっても味わうようにゆっくりと飲み干し、やがて黒き、魔力に満ちた息を吐き出すと、上位吸血鬼には太陽なぞ問題にならぬとでも云うように空を見上げ、悠然と飛び立った。従者もそれを追い、レミリア――主は、連れ合おうとする残り4人の眷属に号令を浴びせかけた。
「パチェ、貴女はこあとフランと一緒に館を守ってて」
「もとよりそのつもりよ。いってらっしゃい、レミィ」 動かない大図書館はその答えをすぐにも返した。
「えー! 私も行きたい」 フランドールが不満を洩らすも、
「妹様、これは陽動作戦よ。レミィが次元の狭間から敵を追い出すから、一番強いあなたが出てきた黒幕を破砕するの」 と、囁くように耳打ちをしたパチュリーの説得によって事なきを得た。
「レミリア様、咲夜さん、お気をつけて!」
「いや、美鈴。あなたも来るのよ」
「えっ」
メイドならではの思いつきか、それとも策があるのか、巻き込まれる形となって、眠りに就こうとしていた美鈴がそれに連なる。
ちょうど紅魔館の人数は半々となった。怪異の元凶に向かうものは4人。博麗霊夢、レミリア・スカーレット、十六夜咲夜、紅美鈴――――――――しかし、みな知る由もなかった。今まさに、誰にも知られず、紅魔館内に忍び込み、自らの目的達成のために蠢くひとつの影があることを……。
深い、深い、眠りの中にあるようだった。
重力は感じず、身体に流れる血の鼓動が、どこか気持ち悪く、煩わしさを浮かび上がらせてくる。何よりも、開いた眼の行く先で演じられる、妙な幻覚が、咲夜を悩ませていた。
「はい、出来ましたよ。“咲夜”」
それを行っていたのは美鈴であった。今現在と同じ、変わらぬ姿をした、しかし、薄汚れたメイド服を着込んでいる。彼女の前に居るのは――卸したての、子供サイズのエプロンドレスを着せられて、無表情で立ち竦んでいるそれは――――自分自身だ。咲夜は、子供の自分と、それの世話をしている美鈴を、俯瞰的に見ていた。
「……どうして?」 何もかもを忘れてしまって、呆けたような声を、子供の彼女が口にする。目の下には大きなクマが出てきおり、何日も眠っていないような、虚ろな瞳で振り返る。
「私には、わかりません。けれど、すぐに慣れます」 美鈴は、訛りの少ない、ゆったりとした優しい口調で返した。咲夜には、見覚えのある光景だった。深い、記憶の中に沈んだ、出来事。
「ああ、来る。また、ギザギザしたのが……――」
頭を抱えた幼い自分は、しゃがみ込み、突然に強烈な奇声を上げ始めた。ナイフで同じ金属を引っ掻くような、悲痛な叫びだ。涙や鼻水、嘔吐物を吐き散らし、やがて白目を剥いて無動状態になった、ガリガリに痩せた身体を、美鈴はそっと抱き上げ、館の中を駆けて行った。紅魔館――それも幻想郷を訪れる、かなり前の――――……
嗚呼。十六夜咲夜は、幻覚の中で溜息を吐いた。誰か見せているのか、それとも、自ら望んで見ているのか。場所は大鏡のある衣装室から、窓のない寝室に変わっていた。
『どう……? ……の子は…………?』 話し声が、断片的に再生される。レミリアと、美鈴の、声だ。
『まだ、………ーダナムの……断症状が…………』
『……そう……………私を……百年も追………から、………には、是非とも………なってもら………』
『それは、慈悲ですか? それとも、報復ですか?』 最後の一文は、より大きく、はっきりとした形で残っている。
その言葉の意味を、咲夜は理解していた。
“どうして子供であるのに、すでに白髪なのか”
“どうして人間であるのに、時を止められるのか”
“どうして生きているのに、成長も、死ぬ瞬間も来ないのか”
長い、長い、――本当に長い期間の彷徨があった。旅であった。彼女の“親”は両手では数えられないほどに、そしてそれらの老いと死も、両手で数えられないほどに。
死なぬ永遠として“秘密の園”では麻薬と暗殺を覚えさせられた。人としての感情はそこで失った。光の子供として“乾坤の一族”に拾われた時は、怪物とそれに対する闘い方を知った。その時、人で無い者としての立場も失った。終わりを見せず、審判の時をひたすらに待ち続ける長き宗教闘争に巻き込まれ、何もかもを失い、慰みものや代替物として過ごす時もあった。
『私は、フラン。貴女は?』 朧気な映像として、歳を経ない、幼き吸血鬼の顔が浮かび上がってきた。
『わたしの名前は…………』
(私は、そこで口を閉ざす) 咲夜には解っていた。何故、答えられないのか。何百年も前に、自分を産んだ親は、誰なのだ?
孤児として、虚ろに大陸を流れていき、行き着いたのは女の内臓を抜き取って10ポンドに変える仕事だ。××リカ人医師が、その“東の果て”と呼ばれる地区で、標本を集めたがっていたのだ。白髪の殺人鬼は、名も知らぬ、鼻が爛れて、指先の腐り落ちた、アルコールと煤、栗の花の混じった臭いのする男の元で、蒐集を行っていた。目的は無く、“ローダナム”だけが、秘密の園で味わったことのある、薬物的快楽だけが、彼女の意志を支えていた。同僚はみな、その粗悪な薬で鼻腔や舌、やがて脳までも壊されていったが、その、子供だけは変わらぬ姿で、まるで怪異、幽霊のように、そこに居着いていたのだった。
『あなたの名前は咲夜。今日から、……そうね、こんなに月も大きいから、十六夜咲夜と名乗りなさい』
偶然か、はたまた奇跡か、ついに邂逅した吸血鬼の圧倒的膂力によって、東の果てで打ちのめされた少女は、紅魔館に幽閉された。薬によって錯乱した彼女と楽しそうに会話したのは、怪物の妹、フランドールであった。
『人間って、生まれ落ちた時はみな恐ろしくて泣くんでしょ? 貴女の幻覚と、私、どっちが恐ろしいかな?』
やがて、――――少女は生き延びた。
味のしない食事が、香りと甘みに満たされて、光の少ない館で、燭台の明かりを頼りにして、メイドを束ねる侍女長であった美鈴のもとへと、自らの意志で歩いていけるようになった。
『怖い夢を見た? それじゃあ、今日は私と一緒のベッドで眠りましょう』
知的好奇心は、地下にある、大図書館にも向かうようになり、そこで、閉ざされた密室であるそこで、これまで彷徨ってきたはずの“世界”に対して興味を持った。広大なる宇宙は、書の中に存在した。まさしくそれは、御伽話に語られる“幻想”――――
『これ? 魔導書よ。あなたにはまだ早いでしょうけど……そうね。特別に、一冊ずつなら、貸してあげる。こあ!』
『はーい。――――ふむふむ。子供が喜びそうな本……そうですね。これとかどうでしょう。《トリストラム・シャンディの生涯と意見》』
レミリア・スカーレット曰く、理不尽、不条理こそが運命の本質であるそうだ。何が起きたのか、何が起きているのか、どうして――――……神の奇跡のような、その瞬間は唐突に訪れ、そして、何事もなかったかのように、時は不可思議にも過ぎていった。
数百年という空虚を重ねてもまだ進まなかった咲夜の身体の時計が、吸血鬼達の異常なる介抱によって、人間と同じ成長を始めたのだった。背伸びをしても届かなかった魔女や司書、当時のメイド長と肩を並べるようになり、あらゆる家事に熟達するようになって、美鈴が自ら身を引いて門番をすることを名乗り出て、それから数年掛けて生えかけのぼうぼうの中庭を2人で剪定し合い、やがて吸血鬼の紅茶を選別するように――――
咲夜の目の前にあった光景が、再び過去へと差し替わる。
『紅魔館が、ひどい目にあったら、わたしが、まもるから』
『“咲夜”は良い子ですね。けど、もうすこし私達に頼ってもいいんですよ?』 相手は、始めの回想と同じく、美鈴だ。
『それじゃダメなの。ほら、なにが起こるかわからないから。運命は、理不尽だから。《爆発》とか、そういうのが起きるかも』
気負う子供の彼女に真正面から向かって、様々な仕事をこなして、薄汚れてしまったエプロンをした美鈴が、優しく頭を撫でてくれていた。 『そのときは、お願いしますね』
――――その途端、意識が戻った。
腕が動かない。足が動かない。首に巻き付いた黒く冷たい感触が、咲夜に状況を知らせてきた。磔にされた幼い、一匹の吸血鬼が、歪んだ空間でぐったりと項垂れている。闇を捉えるは、闇。中空に浮遊する黒い霧から伸びた距離感の無い触手が、レミリアを、美鈴を、そして自分をも、雁字搦めに拘束していた。
世界はねじれ、紅魔館の失われた内装らしき赤絨毯の敷かれた階段や廊下が、溶けた金属のように姿を変えて周囲に浮かんで漂っている。ひとり、その中で、紅白の巫女が次々と襲いかかる触手達と延々と戦い続けていた。
「霊夢!」 思わず咲夜は叫んだ。何が起きているのか、全く理解できていなかった。歪みによって作られた領域に入り込んだ、その刹那、凄まじいスピードと正確さを持って、“何か”が起きたのだ。そして長い夢を、見せられた。敵は一体、何なのだ?
「咲夜!? 起きたのね? もし出来るなら、私が引き付けている間に、外に助けを呼びに行って! コイツ、攻撃が効かない!」
大幣を使って飛びかかる黒を水のように弾き飛ばし、霊夢は云い放った。しかし、身体は動かない――――――ナイフはすべて抜き取られてしまったようで武器はなく、かつ、人間の膂力では打破できないほどに拘束力は強い。出来るのは、能力。
“時を操り、空間を操る”程度の能力。
「霊夢! 私が能力を使ってヤツの攻撃を『ずらす』から、その隙に、この拘束を――――ッッ!」
「わかったわ! やってみる!」
退魔針を取り出した霊夢は、放射状にそれを投げてみせる。牽制の針は咲夜の捕らえられている方角へと向かったが、途中でそれはあっさりと阻まれた。必然的に、闇は、彼女と霊夢の間に集中して固まる。あろうことか、霊夢は、その、最も突破が困難な場所へと空を蹴って進んでいく――空間をずらすのは、そのタイミング!
直進する高速度の触手を、ほんの僅かに、咲夜のずらしたほんの僅かな空間を頼りに、グレイズしていく。霊夢の大幣は、咲夜を拘束するその闇の形成物に、触れる寸前にまで届く――あと、握り拳ひとつ分。もう、少し。あとコンマ1秒あれば……届く!
しかし、この策は、対峙している“闇”が、咲夜の能力を何も知らない場合だけに、限られていた。
「嘘ッッ――――!」
拘束さえ解ければ、あとは時を止めるだけ。……だった。だが闇は驚く素振りもなしに、機械的に霊夢を捉えてしまっていた。
次の瞬間、霊夢は小規模の爆発によって意識を失った。
理不尽だ。咲夜はそう感じた。黒い触手は、蜘蛛の糸のように空間に無数の枝を伸ばし、4人を無表情に見つめている。見た限り、破壊しても再生し、幾らでも長さを持ち、博麗の巫女の攻撃は効かず、更に爆発も起こせるようだ。今できること、それは、もはや叫ぶだけしか無かった。
「霊夢! 美鈴! お嬢様! 大丈夫ですか! 生きていたら返事をしてください!」
届かない。みな、眠っている……――何故、殺さない? 人間や妖怪の道理で測れるのか、そもそも、意志などあるのか? 力が徐々に抜けていくのがわかる。無理に精神を昂ぶらせても、肉で形成された自身の躰は、やがて来るだろう苦痛を恐れて、段々と感覚、感情、動きを鈍らせていく。
「霊夢! 美鈴! お嬢様!」
幾度も問い掛ける。もはや、彼女達が起きたとしても、救われる瞬間なぞ来ない――錆びついた脳は、希望を失っていた。ただ、彼女達を声を交わせば、安心して死んでいけるのではないか? そんな、唾棄すべき下らない言葉が、じわじわと耳の奥で大きくなっていく。
「美鈴……お嬢様…………」
もはやニュアンスは変わっていた。どれほどの時間が経ったのか、大気の流れも、季節の匂いも、日々を隔てる光すら無い、カオスが延々と広がっていた。紅魔館の残骸から覗くどこかの光景では、絵の具のように混じりあった原色が、眩いばかりの白か、もしくは昏く錯覚を催す黒のような、色とはいえぬ視覚現象の中で、けたたましく踊っている。水の流れの如きノイズが肌を泡立たせ、無数の人間の囁き声を立ち昇らせる。咲夜は、懐中銀時計の、針の進むほんの幽かな振動が、胸の奥で揺れているのを感じていた。その、規則正しいリズムのおかげで、彼女が生まれた時より持っていたその、銀時計の刻む今のおかげで、ひとりだけ覚醒出来たのかもしれない。
吸血鬼や人間を巻き込んだ怪異は、まるでオブジェと化して、動こうとしない。このまま永劫の時を、過ごすのか。
――――いや、有り得ない。十六夜咲夜が、レミリア・スカーレットが、紅美鈴が、まるで共依存するように紅魔館という体制を保ち続けている理由。それは、
「お嬢さ――――」 再び、問い掛ける。
「…………大きな声でなくとも、聞こえているわ。咲夜」
怪物と、人間の間に、あるはずもない信頼関係が、ひとつの“幻想”として存在するからだ。
「咲夜さん……聞こえましたよ。あなたの、声が」
二人は眼を開き、困惑する従者と視線を合わせた。奇跡ではない。当たり前の、紅茶の中に注がれたミルクのような、咲夜の声は、カオスに秩序を与える、一雫であった。そして、
「ずっと見ているのでしょう? 出てきなさい」 レミリアの言葉を呼び水として、その“存在”は確定した。
「ありがとう。お前の呼び声によって、私は顕現できた」
靄となっていた中核の黒い何者かが、輪郭を得ていく。その姿は、まるで写し身だった。レミリアの悪魔の翼を持ち、美鈴の長い髪、そして闇が晴れていくと、あろうことか、咲夜と全く同じ顔をしていたのだった。それは、誰ともつかぬ低い声で謂う。
「私は、お前達だ。お前達が望むからこそ私は存在できる」
「あんた何なのよ。答えなさい!」 言い終わらない内に、レミリアの周囲に魔力が凝集し、赤い魔法陣が4つ出来上がる。中心より飛び出した悪魔の槍は、かの標的、咲夜の表情をした怪物へと向かうが、割って入った黒い触手にすべて弾かれてしまう。
「確かに、私を生み出したのがお前達なのだから、その攻撃は、巫女と違って私に通るだろう。届けば、の話だが」
直接当てることさえできれば――咲夜は思った。霊夢の時と同じく、拘束さえ――しかし、望みは薄い。
「答えようか」 余裕を持って、それは自分を語り出す。
「私は紅魔館だ。……否、正確には“紅魔館に望まれたもの”だ。長年、付喪神として力を蓄えたが、かねてより幻想郷には歪があり、其れを触媒に成長させてもらった」
――咲夜は愕然とした。それは、その言葉の意味する出来事の発端は、恐らく、自分達にあるのだ。平和過ぎる幻想郷で、妖怪としての力を保ち続けるのは難しい。かつて“爆発”を危機として表現したように、何らかの騒動、闘争が無ければ、多くの人間を恐れさせ、支配するような“カリスマ性”を持たなければ、いつか、決して遠くない未来、妖怪は人間達に負け、やがて畏れられなくなり、その存在は消失するだろう。つまり、彼――彼女かも知れないが――そのカオスは、より長い紅魔館の繁栄のために、爆発を起こしていたのだ。
「しかし、お前達は緩やかに死んでいった。遥か昔、お前達が望んだような危機――爆発――を起こさなければならなかった」
「……馬鹿馬鹿しい。私達を見くびってるの? あなたの存在は、ただただ迷惑なだけだわ」 レミリアの影が、鋭角の翼を持った蝙蝠へと変化して、……だが次は飛び掛かる間もなく触手に封殺されてしまう。
「現に、歪みを取り入れた私に敵わないのがその衰退の証拠だ」
「そうとは限りません!」
大地からでなく、自身の身中より氣を膨張させた美鈴が、生命の輝きを持って闇の触手を振り払った。空中を蹴って、それに立ち向かう。しかし、次々と襲い掛かる黒い腕片は、樹木の皮を剥がしていくように彼女の勢いと光を削いでいく。ようやく辿り着いた瞬間には敵の細腕一本で止められてしまい、再び黒の拘束に絡め取られてしまう。
「そして私には解っていた。歪みを集めていれば、何者かが止めに来るだろう。そうすれば私が観測され、存在として昇華される。より、これまでとは比べものにならないほど近い位置で、曖昧であった付喪神の意識から脱却して、より狡猾に、より老獪に、存在意義を謳歌できる。幻想郷に“危機を訪れさせられる”」
一拍置いて、
「私が常なる敵となれば、意義と、目的を与えられる」
「――――あなたが何を言っているか、私にはわからないわ。あなたの意志は、ただの欲望を、それっぽくすり替えただけ。要するに、爆発させたいだけなのよ」 抵抗をひとつも許されていないレミリアが、気丈にも反論する。
「本当にそう思うか?」 それは、無表情で問い返した。
「そうよ。私達を殺せていないのがその証拠よ。あなたは結局、紅魔館の爆発という、“システム”なのよ」
「本当にそう思うか? ……私が、お前達を消去して、その代替物を置く事で、紅魔館として存続してもか?」
「愚問よ。出来るものならやってみなさい」
何を確信しているのか、笑みすら浮かべてレミリアは言い放った。創造主――主には、何者も逆らえないという吸血鬼ゆえの高慢さがそう云わせたのか。しかし、怪物は、その黒い触手をレミリアではなく、咲夜の方へと伸ばしていった。
「咲夜さん!」 その行為は、最も彼女に関わりの深い、美鈴の悲痛な叫びで表された。触手の先端は黒曜石のように尖り、その胸の正面に充てがわれる。胸骨――人体の血液の約30%を作る骨髄が存在する――の下部、第四肋骨から剣状突起にかけての部位に、突き通らないほどの、弱く、しかし痛みを最大限引き出す程度には調整された力で、加圧が行われる。神経を引き裂かれるような感覚に見舞われた咲夜は、奥歯を砕くような勢いで噛み締めて、その挑発に耐え続ける。
「……つまらない虚勢ね。人間の、弱い従者から苛虐して、いつでも殺せるアピール? 私を殺しきれてから、そうしなさい」 レミリアの言葉は、敵への嘲笑のためではない。真意は、従者を身をもってかばうため……――ですらない。咲夜は、そのサインを見逃さなかった。今すぐにでも瞼を降ろして、意識を遠い脳髄の奥へと追いやろうとしている体幹に逆らって、それを、一瞬の、だが信頼に足るレミリアの意思表示、主の命令を見極める。
(サ・ク・ヤ・イ・マ・ハ・タ……咲夜、今は耐えて) 音節にならない部分で、レミリアの唇はそう、動いていた。
「さすが私の創造主。安い挑発は通用せぬな。実を謂うと、殺せないのではなく、殺すのが惜しいのだ。妖怪数匹の命と表現すると取るに足らぬが、母体となれば別」
(そ・の・と・き……その時が来たら、あなたがあいつを、どうするか、考えて) 彼女は何らかの未来を、予見している。そして、今は全貌の見えないひとつの選択を、咲夜に託していたのだった。意図を受け取ると、咲夜を支配していた痛みが単なる往復の刺激へと変化し、苦しみに茹だっていた思考に冷水が注入される。打開策。運命を操る力はないが、その従者は、吸血鬼がどのように糸を繰り、物語の絵図を紡いでいったか、幾つも、幾つも、見てきている。カオスを見渡し、光の筋道を思い浮かべていく。
「母体? ――――まさかっ!」 猶予は、もはや少ない。
レミリアは気付いてしまった。自分達と同じような姿形を取った怪物が、何を求めているのか。五体を得る理由、意志を発散させ、拘束し、圧倒的な優勢を植え付けてまで、生かす理由。
………………つまり、求めているのだ。
「そう、紅魔館の支店の建設と、その爆発だ!」
「――――――――は?」
「もう一度云う。紅魔館の支店と、その爆発だ!」
(に・か・い……二回言った!?)
一瞬戸惑ったが、レミリアは、その言葉の裏に隠された意味を見出して戦慄した。その怪異は、博麗大結界の歪みより生まれた“存在するだけで”カオスを巻き起こす物体だ。その誕生は、紅魔館そのものであり、母体――つまり乱立させた館から、同一種族を生み出すことによって“妖怪としての概念の定着”を行おうとしているのだ。
「お前達は居るだけで紅魔館を産み出す。こんな便利な母体を始末するのは気が引けてな」
「なんて……――卑劣な」
(ば・か・じ……馬ッッ鹿じゃないの?) 失われた声を聴いて、咲夜はレミリアの苦労を知った。“そのとき”を待つという事は、つまり、時間稼ぎをしなければならないという事。幸い、主君が引き付けてくれているおかげか、敵は会話に夢中となり、胸の直前で、こっそりと空間を歪める隙が生まれて、咲夜の痛みはほぼ解消されるに至っていた。
「さあ、私にも“苺プリン”を差し出すのだ。ストローベリィと名を騙る事でまんまと隠し通せると思ったのか? お前達吸血鬼の主なエネルギー源なのは判っているぞ」
「まさかコイツ…………!」
(あの暗黒プリンパーティをそのまま真に受けたというの!?) 続く言葉を失い、唇の動きが失われたのにも関わらず、咲夜にはもはや、レミリアの心の動きを補完するのは容易だった。相対する敵、カオスの具現は、やはり生まれたばかりであり、そのために白痴であった。隙があるとすればそこで、しかし、その無知さは、同時に危うさの裏返しでもあった。
「そうだ。私はお前達の持つあらゆるモノを取り込み、完全なる具現化を終える。すでに歪みと同化した私にとって、幻想郷は、これほどの、ただの末端の歪みですらこれほどの、強大な力が手に入る、謂うなれば巨大な核実験場なのだ」
「……」 レミリアは唐突に押し黙った。その怪異の本質――方法はなんであれ、それは歪みより生じて、自ら幻想郷に危機を作り出し、その事象によって更なる歪みを引き起こすという、永久的に広がり続ける破滅のスパイラルに気付いたからだ。例えば、その存在自身が“子供のように無邪気に”、生まれた時からある、その欲望を発散させ続けたら――つまり、紅魔館の危機を演出し続けたら、――――あとに残るのは無。
「……残念ながら、あなたの苺プリンはお預けよ。何しろ、もう、全部平らげちゃったもの」 時は近づいていた。レミリアが何を予期したのかは、咲夜には知らされていない。それが良いものか、悪いものかさえも。
「――――時間稼ぎをしているのは解っているぞ?」 敵は、黒い触手を引き連れて、レミリアの前へと移動していった。余裕の笑みを、従者そっくりの顔に浮かべて、その眼を近接させる。「吸血鬼の消化機能はどうなっているのだろうな」 云うと、咲夜の時と同じく、先鋭化した棘を生成し始め、今度は吸血鬼の腹、ちょうど肉の薄くなった臍の上に当てて、誰とも似ない、邪に崩れた表情を投げ掛けた。「無ければ、喰らえばよいのだ」
「咲夜!」 レミリアが大きく声を上げた。
「助けを請うても誰も来んぞ。ここはすでに、高密度魔力で閉鎖したからな」 応えるのは怪異だけ。
「咲夜! 美鈴!」 もう一度。しかし誰からも答えはない。
「見捨てられたようだな」 その黒い塊は、絶望とともにレミリアの柔肌を裂いていく。表皮に侵入し、その下の――――
――――だが、意味合いが違っていた。
悲痛な懇願に見えたそのレミリアの叫びは、紅魔館の従者二人、十六夜咲夜と紅美鈴にとっては、合図であった。主君の見た《運命の到来》を示す天使のラッパであった。その音色は、大理石を内側からカチ割るような、空間全土の震撼によって齎された。
「私の――――」 神の奇跡のような瞬間、いや、魔女の必然であった。それは超密度魔術障壁を破壊し、地上へと飛び出す勢いで――大図書館の天井をぶち破ったのと同じスピードで、その、黒と、白の混ざった、人間は、姿を現す。
「私の日記返せええぇぇぇぇぇぇ――――――!!」
爆発し、霊夢が訪れたあと、紅魔館の物色を始めていた第三の人物は、霧雨魔理沙、普通の魔法使いであった。
「何!?」 不意をつかれて視線と触手の矛先をずらしたその怪異の隙を、レミリアは見逃さなかった。犬歯を剥き出しにして、無防備になった首筋に食らいつく。
「ぐっ」 咄嗟に離れようとした敵に対して、
「あいつよ! あれがあなたの日記を奪ったの!」 咲夜の言葉が牽制を仕掛ける。それは、「なんだかわからんがわかったぜ!」 魔理沙の行動を誘導し、大量の星弾を発生させた。
「不意をついたようだが、私に部外者の攻撃は通用しない!」
霊夢が行ったように、本体へのダメージは一切ない。だが、黒い触手に対しては、大きな効力を発揮する。バラ撒かれた弾幕は、咲夜に結びついている拘束を、まるで導かれるように溶かし尽くした。
「――これで、あなたも終わりよ」 自由になった身体で、触手を足がかりにして咲夜は跳躍した。向かう先には、ひたすらに気を練り、今にもそれを爆発させんとする美鈴が居る。
「お前ひとりで何かできるわけがない! 武器も失ったはず!」黒い闇はもはや拘束するための形状ではなかった。怪異が知るかぎりの凶悪な鋭さを形成して、咲夜に躍りかかる。
「いいえ」 その刹那、時が止まった。
能力の中でひとり、切り取られた写真の一幕を進んでいく。傷付けるための刃は今や足場へと変わり、軽快なステップで彼女は飛び、やがて美鈴の前にまで辿り着いた。
必要なのは彼女――――――――の頭に突き刺さったままになっていた銀のナイフ。
膨大な氣が込められ、静止した世界の中でもただひとつ光を放ち続けるナイフを抜き出し、咲夜は最後の選択に迫られた。
(あなたが、あいつを、どうするか、考えて)
君主レミリア・スカーレットの言葉を思い返す。
未来は無数に分岐している。人間には、思い馳せるしかない。例えば――自分と同じ顔をした怪物の白い腹を裂き、二度と起き上がれないように死の石を詰めてやるか?
……例えば、倫敦の腐りきった路上から灰かぶりの娘を誘拐して、手厚く看護して大人になるまで育ててやるか?
例えば、持て余したカオスを苺の食物で懐柔して、鬼退治と云わんばかりに幻想郷に反旗を翻すか? 例えば歪みが具現化した今こそ知恵の実が熟した時期だと判断して、大結界もろとも取り払い毒林檎としか思えぬ文明を迎合するか。例えば怪異を懐柔して未だ見ぬ混沌の世界を手中に収めるべく亀の背に乗るか、例えば力及ばぬ娘はそのまま野垂れ死んで真珠の涙を流すのか例えば……、例えば―――――
運命はまるで世界樹のように、複数の枝葉を伸ばし、咲夜の、停止によって無限となり、かつ始動するまでの僅かな時間の盃を、迷いで一杯にしてしまった。彼女はそうしても構わないし、選ばずともやがて結末は訪れる。
想像力は自在だ。だからこそ――――運命は理不尽。語られた戯曲は、引用された原典より派生した結末のひとつなのかもしれない。彼女の判断、選択もまた、可能性の欠片に過ぎないだろう。銀のナイフは煌めきを増した。
それは、カオスの空間で唯一放たれていた光が、力学によって一定の軌道を持ち、乱反射した、目にも止まらぬ一閃であった。
咲夜のナイフは、怪物の喉元を正確に切り裂いていた。
そして、時は動き出す。
「――――――――ッッッ!」
圧縮された時空間に傷が刻まれる。発声器官を奪われた異変は、瞳を溢れんばかりに見開いて、すぐにも咲夜から距離を取るために後ろに飛び去った。空間を占有していた黒い触手は形状と性質を変化させ、本体を守るためにひとつに収束していく。闇は溶けるように彼女に纏わりつき、辛うじて頭部と胴体をつなぎ留めた。が、すでに拘束を解かれた三人――霊夢、美鈴、レミリアが目前に迫っていた。
「……く……ぁ…………!」
声を絞り出し、怪異は、その向きを空間のより深い場所、攻撃も人の手も妖怪の力でさえも届かない深淵へと変更した。しかし、あろうことか進行方向から光弾が放たれる。
「蒐集家は一度決めた獲物を逃さないぜ」 魔理沙が先回りし、その退路を断っていた。そして追い詰めた咲夜が背後から、もう一度、銀の一閃を繰り出す。手応えは――、無かった。
闇雲を斬りつけたように、黒い塊はバラバラになって離散した。触手の残骸を使って作り出した偽物――気付いた時には、その怪物の核となる人型は、包囲網を抜けていた。能力によって赤く発色した眼を咲夜がその位置に向けた時にはもう遅い。敵は、魔理沙の破壊した空間の大穴――すなわち幻想郷に逃げ込もうとしていた。
(間に合うか――――――?)
再度、時を凍りつかせる。もし、その化物が幻想郷に戻ったら、まずは自分の力の源を確保するだろう……それは紅魔館の爆発によって成される。持てる意志を最大限に引き出し、咲夜は大きく、空を蹴った。一歩、二歩……三歩、四、五、六、七
瞬間、閃いた剣撃は――――浅い!
カオスはついに幻想郷の大気に触れた。矮小な付喪神として、眼も耳もない意識と感情だけの世界から、生きとし生けるものの持つ活力を得て具象化した彼女は、その鮮やかさを、光を身に受けた。未だ暮れない、高く昇った太陽。風がその闇の黒の隙間を縫うように吹き抜けていった。
「あ」 ――想像力は、自在だ。何を思ったのか、異変の二本足、その歩みは止まっていた。眼下に燻ぶる紅魔館を見つけるのが、ほんの少しだけ遅れてしまった。
「パチュリー様! 妹様!」 隙を突くように、空間の割れ目から咲夜が脱して号令を掛けた。“嘘が本当になる” フランに囁いたパチュリーの嘘が、予想外の帰結を迎えたのだった。意気揚々と準備していたフランドールの凶悪な破壊の力が、一気に襲い掛かる。
超遠距離から飛来した赤黒い灼熱の杖は、その暗黒を、瞬きをする暇もなく粉々に分散さしめた。だがそれで終わりではない。散らばった雲ひとつひとつが、その“妖怪”だ。
咲夜は、謂う。
「これで貴女は、一回休みね」
「…………たしは………………だ。次は、……また………」
主の唇を読んでその心を察したように、咲夜には、その同じ顔をした怪物が最後に何を言ったのか、声でなく、感覚で知ることが出来た。仮にも、同じ時を過ごし、願いのひとつ――それが迷惑なものであったとしても――を叶えてくれた相手なのだ。
(私は満足だ。次は、また同じ姿形でなく、もっと望まれた私として生まれよう)
彼女の目的は、危機を起こし、紅魔館を存続させること。その輪に、彼女自身は含まれていない。それは現象であり、止めなければ臨界点に達するまで広がり、制御すれば途端に消沈する。目的は達成される。紅魔館の強き力は観測され、彼女は、
――――不要となる。暫くの間。
「傷魂『ソウルスカルプチュア』」
その怪異を“貴女”と呼び、咲夜はスペルカードを宣言した。これはカオスでなく、ルール側にあるものの、せめてもの餞だった。銀のナイフが、三日月のような軌跡を持って、幾重も、幾重も、周遊して残存した影を振り払っていった。
……そよ風が木々を凪いでいた。紅魔館には、待ち望んだ静寂が訪れた。
かつて吸血鬼異変という出来事があった。信仰が弱まり、夜闇の恐怖は火の強さに負けて、存在が希薄になった妖怪達を、外来種である吸血鬼が瞬く間に支配していった異変だ。その際、博麗霊夢によって作られた幻想郷のルールが、『スペルカードルール』であり、これは公正な決闘法であった。
大結界の綻びは修正され、破損した紅魔館は再建を始めた。幻想郷に住まう人間達に、あくびの出るような日常が戻ってきた。――そもそもの話、里の人間のほとんどは、これに気付いて居ないという有様であった。
知られなければ、何も、無かった事になる。
大凡の顛末を知る内の三人は、博麗神社で暇を潰していた。
「で、何であんたが此処に居座ってるの?」
「今、館を作ってる途中で寝床がないのよ」
従者も連れ添わず、その吸血鬼は神社の庭先に西洋パラソルとアンティークチェアーを置いて、優雅に、作り置かれた麦茶を飲んでいた。
「魔理沙の家とかが空いてるじゃない!」
「あんなトコ、散らかってて寝違えちゃうわ」
「……で、レミリア、私の日記知ってるか?」
「知らん」 言い寄る魔理沙を一瞥もせず声で追い返して、レミリア・スカーレットは時間の経過を、ただ、眺めていた。
「けど、皆大変だったわね。私も加勢すればよかったかしら?」 蚊帳の外だったアリスが軒下で並んだ霊夢に謂う。遠くで鳶が鳴いていた。
「起きた事はもう起きた事。アリス、あなたが暇なら、あれを追い出すのを協力してくれない?」
妖怪退治が生業である博麗霊夢が、明確に拒否しないのは、何故だろうか? 霊夢の中にある個人的感情のせいか、レミリアの力を畏れてか、それとも雰囲気がただ、緩いだけだからか。
奇妙な共生は未だ続いている。それは、建造中の紅魔館でも同じであった。
「咲夜さん。この丸太、ここで良いですか?」
「ええ。……美鈴、そろそろ休憩しましょうか」
妖精メイドを総動員した紅魔館は、今幻想郷で最も賑やかな場所となっていた。重労働を担う二人の従者を除いて、みな遊び半分で、語らい、競い、こだわり、各々の思う形に樹木や石材を加工していく。妖精が集まった老木が生命の息吹を与えられて、再び青い葉をつけるように、切り倒すだけの人間には難しいであろう、成長し、剪定し、風化し、凝縮される工程が、その広い庭では、季節を集めたのか如く色鮮やかに行われていた。
「さ、みんな。作業はやめておやつにしましょう」
咲夜が二度手を叩き、時間を知らしめると、加工途中で横たわった建材がテーブルになり、中庭は天然で巨大なテラスに早変わりした。何十匹もの気まぐれな妖精が、思い思いの話を披露して、目前に霧の湖を控えたその館は、更に騒がしくなった。
やがて、焼け焦げた中央ホールから無数の、妖精の人数ぴったりに把握された量の焼きプリンを持って咲夜が現れ、その軽い宴は最高潮を迎えた。まだまだ作業はなかほど。何もかもが簡単なものだと高を括り、楽しくいかなければ。
「えっ!?」
その喧騒の中で、ひとり、困惑に駆られるものが居た。美鈴だ。
「何その驚きようは」
素っ頓狂な声を上げた彼女の隣に座り込むようにして、咲夜が問い掛けた。例えば、それは作業の進展度合いの事では無い。爆発の怪が終結して、ようやく腰を落ち着けるだろうと安堵した途端、事件後初の爆発が身内――フランドールによって起こされた事や、彼女を諌めるためにパチュリーと小悪魔が大図書館で文字通りの余計な世話を焼いている事でも無い。例えば、それは、妖精達のために咲夜の用意した謎の菓子類――スーパーカリフラジリスティックエクスピアリドーシャスケーキやハイカラシティー(HIGH KARASHI TEA)というどこ原産かわからないような紅茶の品種の事でも無い。
それは、人間ならではの、容易な優しさだ。
「いえ。私にもプリンをくれるなんて……」
美鈴に直接差し出されたのは、作りたての苺プリンだった。
「別に。思い出しただけ」 素っ気ないようなふりをして、咲夜は視線を遠く、なるべく相手の姿が見えない方向へと逸らした。
「えへへ。ありがとうございます咲夜さん」
「私はメイド長としての職務を全うしただけよ」
そっぽを向き表情を見せようとしない咲夜に対して、美鈴は、ある事に気付いてしまった。当然で、けれど不自然な事。
「あ。咲夜さんの分は?」
「そんなもの無いわ。今回はある意味――……私のせいでもあるのだから」 過ぎるのは、いつかの光景だ。何故、忘れていたんだろうと後悔するような、何気ない配慮や、願い。時間の中で、止まったり、進んだり出来る彼女は、今、過ぎゆく雲を、照れ隠しのためか、いや、幸福を感じたせいか――――両親や親戚の姿を見て覚えていけるような学習した充実感は咲夜には元々なく、自分自身も、その感情が何なのか、良く解っていなかったが、ただ、浸っていたい平穏が、今、あって、空白になった心は、意味もなく、理不尽に、空を眺めていたいと思っていた。
「じゃあ、私のと、半分こしましょう」
そして、振り向くと、隣で、いつかの従者が、幼い時見たような、笑顔で彼女の“その時”を待っていた。
――――それから、少し後の話。
「それで、咲夜さんに聴きたいことがあるんですけど、私がアルコールの妖怪って、さすがに冗談ですよね?」
「えっ」
「えっ……って。そこは否定してくださいよ」
「……………………」
「――――ちょ、何でそこで黙るんですか!」
「疑うのなら、確かめてみればいいじゃない」
スッ、と咲夜は建造中の台座に置かれた、ハイカラシティーをスライドして寄越した。つまり、アルコールの妖怪ならば、紅茶すらお酒に出来るだろうと、そう云う気なのだろう。
「いやさすがにそれは……」
「いいから」
「判りましたよ。でも咲夜さん。あんまり茶化しすぎると、いつか冗談じゃなくなりますよ!」
頬をぷくっと膨らませて不満そうに、しかし真面目に美鈴は、常日頃の鍛錬と同じように氣を練り込み、そして、
「あっ」
「えっ?」
「えっ」
「えっ」
――――――理不尽こそが、運命の本質であるように。
完
問題は作者だけが楽しいということですがね。