仰げば桜、色は紫、並び重なる罪の花。
桜の下には彼岸花、赤い大地は彼岸花。
霞む先から小柄な権威が現れた。
『そう、貴方は少し、自分勝手過ぎる』
閻魔が桜の空をくつがえす。
『まず、この場で裁かれよ!
月に置いてきた仲間の恨みと共に!』
「………………」
夜が明けて、私はいつもの時間に目が覚めた。
数度まばたきをして、今見えているものがいつもの天井であることを確かめる。首を起こしてみれば、今日も私の腕やお腹は子兎たちによって四方から枕にされていた。この子たちももう起きる時間だが、それでも刺激しないように優しくお布団に着地させ、私は欠伸をしながら体を起こす。そしてそろりと大部屋から抜け出した。
たった今見ていたのは、あの閻魔様にお説教される夢だった。あの華やかな異変の日々は何度思い出しても感慨深い。
あの時は、真面目に頑張って生きていたというのに、それでも駄目だ、地獄行き、とか言われてしまった。他にも、過去の罪と向き合え、裁かれろ、善行を積め、散々な言われようだった。
しかし、それでは明日からどう生きよう、などと考えても、結局あれから生活そのものには変化はない。健全な薬学の行使が罪なわけはなく、私は相変わらず師匠のもとで仕事に励む日々を送っている。
そして、今日は人里へ置き薬を配達しに行く日だ。
自室で着替えを終える頃には子兎たちもわらわらと起き出してきていた。厨房で朝ご飯の支度がはじまる。私もそこに混じって手伝いつつ、ついでにお弁当と水筒を拵える。
朝ご飯の支度は年長組の子兎たちが中心になって動いているが、見た目を除いて子兎とは到底呼べないとびきり最年長、てゐの姿は見当たらない。しかし私はそのことに関して特に思うことはなく、むしろあれがいた場合、今日はいるんだ、という感想すら出てくるだろう。毎朝のことなので子兎たちはわざわざ監督される必要などなく、てゐはだいたい週一のペースで手入れをするように現れるくらいだ。
私も子兎たちの流れにお任せしているので指図をするようなことはしない。あせあせと頑張っている年少組の子兎を気にかけてあげるくらいだ。
それがここ永遠亭のいつもの朝の光景である。
ただ、今日は少しだけいつもと違った。
「────鈴仙」
てゐが私を探しにきたのだ。
「おはようさん、まだいたね」
「おはよう、どうしたの?」
「いやね、今日は人里まで行くんでしょ?」
「ええ」
「うーん……」
「……なに?」
「いや、たぶんなんでもない。気をつけてね。私がいるかはわからないから」
「…………そう、わかった」
会話はそこで終わった。手を止めて凝視する私をかわし、てゐも朝ご飯の支度を手伝いはじめた。
どこの家庭もそうであるように、朝はなんだかんだで慌ただしい。うちはこれだけ数がいるからなおさらだ。支度も手間なら片付けも手間である。溜めるわけにはいかない。私に仕事が詰まっているのもやはり毎日のことであり、そこにかこつけててゐはいつの間にか姿を消してしまい、さっきは何を言い淀んだのかを問いただすことはできなかった。察するに、てゐも虫の知らせ程度にしか把握していないのかもしれない。
今日はてゐに似合わぬ不吉な予感がしたが、休むわけにもいかなかった。
私は人里を目指して飛び跳ねて、竹林を抜け出した。
人間の変装をしているため空を行くことはできない。だから、目立ちにくい地上を跳ねてゆく。一歩はおよそ十メートル前後。その都度落ち葉が舞い上がる。道に合わせてくねくね折れ進み、私の瞳で前方周囲の赤外線などを拾い、主に人間との遭遇を警戒する。竹林と人里の往復程度ならもう慣れたものである。
帰ったら今日も師匠の手伝いが待っている。慌てて急ぐこともないが、せっかくお小遣いをもらっているのだ。たまには茶店で一服していきたいところである。前回チェックした甘味処では秋の新作を出していたはずだ。
期待に胸が膨らみ脚は軽やかになる。このペースなら十分余裕ができるだろう。
「そこな薬屋さん、ちょっとすいません」
しかし、予定していた薬の配達を思惑通りに早く終え、目当ての店の暖簾をくぐる、その直前、私は呼び留められてしまった。
今朝の嫌な予感が色濃くなってゆく。
振り向けば、襟巻をした着物の女性がそこにいた。見た目は人間だが、この波長は人間のそれではない。妖怪か。
「会えてよかった。私は赤蛮奇。いきなりで悪いけど、急患を診にきてはもらえませんかい?」
「急患?」
頼みにきたこいつは妖怪だが、見たところ相当人里に馴染んでいる。ならば急患はおそらく人間だろう。私は医者ではなく薬師、しかも見習いではあるが、急患と聞いておいて蔑ろにするわけにはいかない。何より妖怪と懇意にしていようと患者が人間ならば、それは大事な仕事の内である。
「いいですよ、場所は?」
「……霧の湖」
「湖!?」
予想外の地名を聞かされ、ついて行こうとした足が思わず止まった。患者が人間だという前提は間違いかもしれない。
「私らじゃどうにもならないんだ。ねえ頼むよ。お礼はちゃんとするからさあ」
「ちょっと待って。急患って具体的に誰がどういう容態になってるの?」
「それが……わからないんだ」
「はい?」
「誰かもわからない上に近づけないんだ。意識がないみたいだから助けてあげたいんだよ」
「近づけないってどういう────」
「実際に見てもらわなきゃ話にならない。時間が惜しいんだよ。それに……」
赤蛮奇は声を落として続ける。
「私も人里に縁を持ってるし、ここで揉めてあんまり人目を惹きたくはないんだ。あなたもそうでしょ兎さん。……ほんとに弱ってるんだよ。この通りだ。お願いします」
「……思い出した。あなた、竹林のあれと一緒にいるところを見たことあったわ」
「ああ影狼ね。さっきも一緒にいたよ。そろそろ竹林に着く頃かな。ここらであなたが見つからないなら永遠亭に直接頼みにいってもらうつもりだったんだ」
「……ハァ、わかった。行くから案内して。その影狼さんにはすぐに連絡はつくの?」
「ええもちろん、助かるよ、こっちだ」
今朝のてゐの様子を鑑みるに、このままついて行けば間違いなく厄介事が待っている。その確信がありながらも私は話を受けない訳にはいかなかった。脅し混じりの言い方をされて正直腹に据えかねたが、自分が人里まで来ているというのにわざわざ師匠を出張らせることは避けたかったのだ。
去り際に甘味処を一瞥すると、その脇には看板が立てられていた。
曰わく、期間限定の甘味は今日までらしい。
まあ、そんなもんだろう。
そうして私は霧の湖にやってきた。
そこで、私は絶句した。
人里を出たところで赤蛮奇の首が飛び上がったことに対して、ではない。その首が増えてどこかと交信をはじめたことにでもなく、湖畔の岩の上に人魚が座っていたことにでも、そこにも同じく生首が漂っていたことにでもない。人間の振りをした飛頭蛮が淡水に棲む人魚と仲良くしていようとも、そんなものは驚くに値しない。
「おーい、ひめー、連れてきたよー」
「あ、蛮ちゃん、ありがとう。はじめまして兎さん、わかさぎ姫と申します。早速お願いしたいのがあれなんですけど……」
私の長い耳は赤蛮奇と人魚の声を素通りさせ、私の赤い眼はめまいを起こしてもなお、ある一点に釘付けにされている。その一点とは例の急患がいる水面なのだが、人魚に指し示される前から私はその存在を感知し、同時に絶望していた。
理由が知りたい。
純狐さんが、土左衛門になっていた。
「兎さん?」
肩を叩かれ、やっと赤蛮奇たちのことを思い出した。
「あ、えっと、ねえ、いつから?」
「気づいてからもう二時間くらい経ってるかな」
「あのヒトの周り、とっても水が綺麗なのよ。綺麗すぎて逆に困ってるの。もう真水、純水すぎて息もできないわ。真水は別に広がってるわけじゃないけど、流れに乗って移動してるし、恐いからせめて陸にどかしたいんだけど、結界? みたいなのが邪魔して近づけないのよ」
「そう、なんだ……」
声が詰まる。
漂う土左衛門はうつ伏せ。頭飾りも胸の装飾も着けていないようであり、着物は黒一色。そしてまだ顔を見ていない。なので人違いであることを切に願ったが、説明を聞く限りそのわずかな望みも期待するだけ無駄だろう。結界は置いておくとして、どう考えても、純狐さんが純化の力を垂れ流しているのだ。
「結界なら、巫女に頼めばよかったんじゃ?」
「え、巫女? やだよ。ついでに退治されるのが目に見えてるじゃん」
「それにあの魔法使いがね、あなたが一番適任だって言ってたわ」
「……魔法使い? 魔理沙?」
「そうそう……あ、紹介したのは内緒なんだっけ」
「…………あっそう」
あのお調子者がここにいたらしい。人里で聞かされた曖昧な説明の仕方もきっとあいつの入れ知恵に違いない。しかも単純に私が純狐さんと仲がいいとでも思っているのか、私に押しつけて逃げたときた。純狐さんを知る者なら誰でも無理はないかもしれないが、私にだって心の準備というものが必要だ。次に会った時にはどうしてくれようか。
「あのう……、あなたならなんとかできるって本当ですか?」
「…………」
漂う純狐さんは岸から次第に離れようとしている。このひとが溺死するとは思えないが、いたずらに害を振りまくなら放ってはおけない。
だがこのひとを本当にどうにかできるのは純狐さんの友人のあの神様であり、次に考えられるのはうちの師匠だ。しかし一番出てきてほしい神様が現れる気配はない。ならば師匠に泣きつきたいところだが、それはそれで情けないし後が怖い。それならこの妖怪どもをのして逃げるのが一番楽ではあるが、あの神様が気づいてやってくるまで純狐さんがこのまま安定している保証はどこにもない。
つまり、私が腹をくくるしかないようだ。
「お礼には本気で期待させてもらうからね!」
泳ぎは苦手だなんて言ってもいられない。薬の籠を下ろし、笠をとる。駆け足で岸辺を回り込むと、私の眼にも確かに厳めしい結界が見てとれた。
このひとは本当にわからないことだらけだ。なぜ結界をまとった純狐さんがこんな所で漂流しているのかもまったくわからないし、この結界にどんな仕掛けがあるのかもわからない。私も湖に入ると、すぐに退避できるよう警戒しながら慎重に近づく。
ところが、ただ近づいた、たったのそれだけであっさりと結界は解き放たれてしまった。
「あれっ!?」
声をあげたのは赤蛮奇の空飛ぶ生首だ。私は振り返ってそれを見つめる。
「いやいやっ、私たちじゃ本当にどうにもできなかったんだって!」
赤蛮奇は私の視線を非難と受け取ったようだがそうではない。せめて笑ってほしくて、同情してほしくて私は視線を送ったのだ。
結界は専門ではないが、それでもわかることもある。おそらく、条件を満たしたから結界が解除されたのだ。結果から考えて、仮にこの結界の解除には特定の人物の接近が必要だったとして、特定のというのは気を失った純狐さんを任せることのできる人物、つまり、そう、信頼、もしくはそれに準じている人物なのだとすると、ああ、涙が出そうになる。
純狐さんは結界がなくなっても変わらず動かない。気を取り直し、とりあえず仰向けにして顔をのぞくと、このひとはやっぱりもちろん純狐さんで、まるで死んだように眠っていた。
引き揚げは思ったよりも難航した。
自慢の脚力も泳ぎには分が悪く、岸に手をかける前に息があがってしまっている。手助けを期待した人魚はというと、岩の陰からこっそり見ているだけでその気はまるでないようだ。陸に上げる際も、純狐さんの服はとんでもなく水を吸っていて重かったのに、赤蛮奇も生首が遠巻きに眺めるばかり。身体にいたってはどこにも見当たらない。
純狐さんをやっとのことで安静に横たえさせられた時にはもう、恨み言を言う元気はすっかりなくなっていた。
息を整えつつ純狐さんの様子をうかがう。
長時間水面に突っ伏していたにも関わらず、今は人間のように脈があり、熱を持ち、息をしている。そのくせ水を飲み込んでいないのか、吐き出す気配はない。純狐さんは霊的な種族を名乗っていた。そのあたりの生命としての理解はまったく及ばないが、これなら救命処置は必要なさそうである。
肩を撫でおろし、湖を見渡した。
改めて探してみても脱げている装飾は何も見られなかった。
「鈴仙……?」
か細い声がして、視線を戻す。純狐さんが目を覚まそうとしていた。
純狐さんははたりと瞬く。慈しみに満ち満ちる眼差しが私へ向けられている。私の頬に右手が添えられ、濡れて張りついていた私の髪が優しくかきわけられた。純狐さんは狂気の瞳の存在を知らないかのように私の眼を見つめ続け、やがて左手が私のうなじへと添えられると、私は膝を崩し、純狐さんの胸元へゆるやかに頭を寄せた。
引き倒されてはいない。まるで自分の意志で体を預けたような感覚が残っている。
声は出ない。怯えもない。抵抗する気もない。
とても透き通った匂いと心地よい胸元が、私をただただ和ませていた。
胸から鼓動が伝わってくる。
顔は見えないが、寝息が聞こえてくる。
そのどこまでも安息な呼吸は私の呼吸をも深く落ち着かせ、心安らかなる私もまた、まぶたを下ろすことにした。
「なにしてんだい」
不意に、誰かの声が私を現実へ引き戻した。
「せっかく予定を変えて来てやったってのに……。お楽しみの時間は日が暮れてからにしてよ」
「…………?」
「ほら起きな! 寝ぼけてないで、風邪ひくよ!」
「うえっわったっ痛っ、な、なに? なによ?」
慌てて振り返るように見上げると、てゐが、私のお尻をひっぱたいていた。
ひとまず、純狐さんは永遠亭で引き取ることにした。姫様と師匠に話を通すのはこれからだが、たぶん大丈夫だろう。
てゐを連れてきてくれたのは赤蛮奇の生首を引き連れた狼女、今泉影狼だった。ご近所さんの彼女に私の籠を背負わせ、私は依然眠りつづける純狐さんを負ぶって運ぶ。濡れた服は、水の波長を操り気化させることで乾かしたため、かなり軽くなっていた。
しかしそれにも関わらず、純狐さんの体は意外に重かった。およそ肉の重さではない。凝縮された霊力が満遍なく全身に行き渡っているように感じられる。先ほど引き揚げるのに苦労したのも当然であり、やっと永遠亭に着いた頃には流石の私も疲れ果てていた。人間の出歩く範囲を迂回せざるを得なかったのが辛い。
そして、永遠亭の門前では師匠が待ってくれていた。おそらくさっさと先に帰ったてゐが伝えてくれたのだろう。師匠は苦虫をつぶしたような顔で愛想笑いをしようとしている。珍しい師匠が見れた、などと思っていたら、師匠は私が説明する前に「今日は自由にしていい」と突き放し、影狼から薬の籠だけ受けとると屋敷に戻ってしまうのであった。
「じゃあ私も帰るわ。ありがとね。また今度お礼に伺わせてもらうから」
助けられた側のくせして影狼も長居は無用とばかりに言うだけ言って帰ってしまう。恨み言をぶつける相手すらもいなくなり、ため息が出てしまう。私は純狐さんを軽く背負いなおし、すごすごと門をくぐることにした。
起きる気配のない純狐さんをとりあえず客間に運ぶ。廊下を歩く間ずっと響いてしまっていた重い足音を聞きつけたのか、次は姫様が顔をのぞかせた。
姫様は「あらっ」と楽しそうに驚いた声を漏らし、純狐さんの寝顔と助けを求める私の困り顔を交互に見る。そしてにこやかな口に人差し指を当てて「しーっ」と手振りすると、私の頭を撫でてから黙って去っていった。
姫様からも許可がおりたということにしよう。
そんなこんなで畳の上に純狐さんを寝かせ、ようやくひと息つけられるようになった。ひとまずこれで様子見として自分の部屋で着替えてこようかと、そう私は思った。しかしその頭とは裏腹に、この場を離れる気にはなぜだかならない。
見ると、いつの間にか純狐さんの指先が私の手首に回っていた。掴まれてはいない。そして、引っかかっているだけのその指を、私は振りほどく気にはなったりしない。
ああ、そういうことか。そう曖昧に納得した。
風が笹を鳴らす。
ここは静かな部屋。
障子が柔らかい光を内へ灯す。
安心して眠る純狐さん。
影をかけて見守る私。
指には手が添えられる。
優しい時間がここにある。
すうっと、障子が開いた。
師匠が戻ってきた。
「ウドンゲ、お風呂がもうすぐ沸くから入れてあげなさい」
言葉が出なかった。
浴場までに通りがかった子兎を片っ端から誘い込み、私は純狐さんの湯浴みに臨む。子兎たちは眠りつづけるお客さんを不思議がるばかりで何者なのかは理解していないが、それくらいの方が怖がらせるよりもずっといいだろう。
私が後ろから支え、あとは子兎たちに世話をさせる。これならいい加減起きるだろうという期待も虚しく、純狐さんは目覚めない。仕方がないので湯船で私にもたれさせ、子兎たちは自由にさせた。普段よりも早い時間のお風呂だからか、子兎たちははしゃぎ気味だ。キャイキャイ騒ぐその姿を眺めていると次第に頭がからっぽになり、大きなため息が溢れ出てくる。お風呂のおかげで私もようやく余裕が出てきたらしい。
明日は、今日師匠の手伝いができなかった分を取り返さなければならない。しかし明日も、もしかしたら明後日も、純狐さんは目覚めないかも知れない。そうなれば迂闊にそばを離れることもできはしない。
「(そうなったら、いっそのこと師匠に封印してもらおうか…………なーんてね……)」
そんな物騒なことを考えていると、ふと気づけば子兎たちは湯船で遊ぶのをやめ、私たちの前に集まっていた。はじめはなんとなく遠慮していても、眠りつづけるお客さんがやはり気になっていたのだろう。一様にポウッと純狐さんを見つめている。
そしてひとりふたりと私たちに寄り添いはじめると、あっという間に兎団子のできあがりである。
「(このひと、ただ眠ってるだけなのになあ……)」
ちらりと純狐さんの横顔をのぞく。その表情は読むまでもなく安らぎに満ちている。第一印象だった底知れぬ迫力は欠片もない。
このひとも、死との縁が途絶えた方だ。命を老いさせ死に至らしめる穢れ、それを払拭する純粋なる力の持ち主だ。
そういえば、このひとに気に入られてから思っていたことがある。それは、また目の前に死から逃れる方法が転がり込んできてしまった、ということだ。まるで私が試されているかのような状況になったと思えてしまう。
私には、永遠を生きるという選択肢があった。姫様と師匠、おふたりに仕えるにあたって永遠をも共にするという選択だ。もしそれを提案すれば逆に師匠に殺されかねない話ではある。だからという訳ではないが、私はその選択の肝、蓬莱の薬を求めることはないと誓っている。
だからこそ、私は地上の兎なのである。
声高に宣言する度胸はないけれど、穢れを受け入れた私は姫様たちと地上で生き、いずれは背負った罪とともに仲間のもとへ還ると、そう決めているのだ。
それなのにだ。私は純狐さんに出会ってしまった。
純狐さんに頼めば、私は穢れを清めてもらうことが可能だろう。所詮それは死を遠ざけるだけの延命であり、そこに永遠はなかろうとも、それは永遠に通じる手段であることには変わりがない。
つまり、私の覚悟がなかったことになる。
今朝見た夢が今日の出来事の予兆のようにも思えてきた。まるで見張られているかのようだ。
あの閻魔様のお説教はいまだに尾を引いている。おかげで今も私は私の罪を忘れることはない。
しかし、今の暮らしも私は愛している。やはりこの幸せを手放したくはない、それこそ永遠に、そう思ってしまうのも偽れない私の本心である。
私は純狐さんの髪に顔をうずめた。
「……純狐さん、あなたは死を拒絶しているそうですが、あなたはその時間を持て余しているのでしょうか。今はあなたの性質が死を遠ざけているだけで、いずれは死を迎えられるのでしょうか。私は穢れを受け入れたわけでして、それはつまり、罪を忘れることなく、いずれは地獄行きだろうと寿命も受け入れるつもりなわけなのです。だから、純狐さんが私を気に入ってくれるのは……正直、複雑です。…………私、何が言いたいんでしょうね。ごめんなさい、まだまとまりそうにありません」
半端になった私は独白をそこで終えた。
純狐さんは、寝言のひとつも漏らすことなくただ眠る。
「ほらほらー、交代の時間よー、後がつっかえてるわよーん」
突然、どこかで聞いたことのあるような声が浴場に響いた。眠りかけていた兎団子がびくりと震える。
「おいしそうな兎鍋だこと。まったく、純狐も急にいなくなったと思ったら、まさかこんな極楽にいたとはねえ」
「ほーらおまえたち! 湯あたりする前に上がっちゃいな!」
聞き慣れない声に続き、てゐの号令も飛んでくる。
「待っててゐちゃん。その子たち自分じゃ動けないだろうから私に任せて」
突然子兎たちはポンポンと湯船から浮き上がり、脱衣所の方へと飛ばされはじめた。てゐはバスタオルを広げて次々にそれを受け止めてゆく。ついには私も浮かび上がり、なすすべなく飛ばされた。しかしその先で待っていたのは優しいタオルではなく、てゐのドロップキックであった。
「ぶえっ!」
「なに寝ぼけてんのさ! お風呂で寝させたら危ないっていつも言ってんじゃん!」
「あっはははは!」
「ご、ごめん……」
「あー可笑し。えっとあなたは鈴仙だったわね。迷惑かけたわ、今日はありがとね」
鼻をおさえて顔を上げると、青い髪に地球装備のアバンギャルドでパンクな神様、ヘカーティア・ラピスラズリが浴場に立っていた。知らない間に純狐さんのお迎えは到着していたのだ。
「へ、ヘカーティアさん。お久しぶりです。その、あの、さっきのは……」
「んー? さっきの? 何か恥ずかしい詩でも歌ってたのかしら?」
「いや、あー、そのー……はい。あのっ、そういえば貴方は地────」
「何にも聞いてないわ」
「え?」
「だから、私はそのことで相談には乗ってあげられないの。私の耳は地獄耳。だけど、ここは地上よ。オンとオフはきっちり分けなきゃね」
「そういうものなんですか」
「そういうものなのよん。…………ごめんね」
「…………」
入れ替わりで皆がお風呂に入る間、私は純狐さんとふたり、客間で待つことになった。純狐さんはさり気なく私を放してくれなかったし、放してくれないと私も離れる気にならないのだ。ヘカーティアさん曰わく、和みきった純狐さんの純化の力が周囲へ作用しているとのこと。見かねた師匠に待機の許可を出していただき、私の代わりに師匠手ずから料理を振る舞うことになった。
普段から役割分担がはっきりしていた分、ただ待つだけになるとかえって落ち着かないものである。しかしそれもはじめだけだろう。今は純狐さんがいる。
縁側に出した座椅子で私は脚を伸ばし、純狐さんの頭をお腹に乗せてゆったりと抱きかかえる。そして厚手のタオルケットを体にかけてあげた。
沈む太陽が空の色を変え、シルエットになった竹林が宵闇に馴染んでゆく。流れる風は火照る体に心地よい。
ここには夕餉を準備する音も、子兎たちの笑い声も届かない。
眠っていてもいいし起きていてもいい自由な時間。身動きこそとれないが、退屈することのない落ち着いた時間。
静かにコップを置き、月を待ちのぞむ。
今日は忘れられない心のしこりによくよく手が届く日だ。昔の仲間への悼み。今の仲間への感謝。その狭間で再発したわだかまりは、ゆっくり融けて、再び形を決めてゆく。崩れた積み木を拾い集めるようにして、私は言葉を並べはじめた。
「────純狐さん、ありがとうございます……」
月が上り、竹林のシルエットが再び浮かび上がってきた頃、この客間にも料理が運ばれてきた。ささやかな酒宴のはじまりだ。
もちろん、純狐さんはそこでも眠ったままである。
「簡単に言えば、純狐のこれは燃え尽き症候群よ。昂ぶって自分を純化させるたびにこうなんのよね。一回こうなったら最低でも半年はこのままよ」
「へえ、半年も」
純狐さんは今はヘカーティアさんに膝枕されている。そのヘカーティアさんの頭は金髪で、月を乗せている。向かいには姫様と師匠が座り、会話を弾ませていた。そういえばてゐの姿が見当たらない。てゐのことだし適当に理由を見つけてさっさと退席したのだろうか。
「そう、途中で目を覚ますこともあるけど、完全に覚醒する目安はそれくらいね。ま、後でそっちの私が持って帰るから安心して」
「ええ、そもそもうちのバカガキどもにイタズラされて純狐が流れ出しちゃったのが発端なのよ。ほんとにお騒がせしたわ。次はないから」
言葉を継いだのもヘカーティアさん、こちらは赤い髪に異界を乗せ、やはり相変わらずのラフな格好をしている。
一方、
「あー。はー。へえ。もう飲め、ま……」
「貴方は私のお酒を断った。それだけの理由で貴方を地獄へ堕としましょう」
「まだ飲めます!!」
私はというと、ようやく純狐さんから解放されたと思いきや、今度は地球のヘカーティアさんに潰されそうになっていた。あの独り言を聞いておいて地獄をちらつかせるとは冗談がきつすぎる。何がオンオフきっちりだっ。さっきのあれは本当にただの建て前だったのかっ。
とはいえ、今は限界まで酔っ払っておきたいところだったからこれはこれでちょうどいい。
「イナバをあんまりいじめてやらないでくださいませ」
「いやーん、だってこの子すっごいいじり甲斐あるんだもん」
「お酒なら私もお付き合いできますわ。さあ、こちらのものも美味しゅうございますよ」
ああ、姫様、姫様は今日も優しくお美しい。こんなにへべれけな私なんかにも気を回してくださる。
「ウドンゲには明日も仕事がありますからね。そろそろ休んでもらわなきゃ」
ああ、師匠、私の作業効率を最大限まで引き上げてくれるその気遣い、素敵です。
しかしっ────
「でもですね師匠っ、姫様も! 今日はこの機会に、お伝えしたいことがあるんです!」
「おっ! 元気だねー、はいはい飲んで飲んで」
「いっ!? い、いただきまっ……」
「ちょっと、やっぱり飲み過ぎよ」
「あ゛ー…………だいじょーふ、大丈夫です……!」
いくら飲みすぎと言われようとも、むしろ飲みすぎるくらいでなければ言えないことができたのだ。
私は素面。
狂気の国に生まれ、狂気の瞳を持つ兵士として育ち、それでも狂えなかった半端者。
しかし何がどれだけ半端であろうと私はまだまだ生きねばならない。
そうなれば、この先も永遠の魅力に心が揺らぐこともあるだろう。
だから、揺れの止まった今だからこそ、私は私を宣言するのだ。
そのためのお酒だ。
狂えないならせめて酔おう。酔って酔って顔まで真っ赤にしてしまおう。
これから宣うのは酔っぱらいのあれ。本心、あるいはただの戯言。
どうせ記憶が飛んでいることになるのだ。恥ずかしむことなど何もない。
さあ、立って。
さあ、それいけ!
「姫様!! 私、死にますからあ!
師匠!! 私、それまで働き倒しますからあ!
きっちり寿命を全うさせていただきますんでえ、
その時になったらちゃあーんとお休み、くださいよお!?」
姫様は驚いているだろうか。
師匠は呆れているだろうか。
もはや人の顔も定かではない。
それでもまだ純狐さんにも一言告げたくて、都合よく目覚めてくれない純狐さんに白々しくも驚いて、代わりにヘカーティアさんへ言葉を託そうとして、色違いで同じポーズの三人に今さらながら戸惑って、私はすでに限界を超えていて、足をもつらせ私は純狐さんの上にダイブした。
そこで私の記憶は終わっている。
いや、目の前いっぱいに広がる純狐さんの寝顔に見とれて、綺麗だな────と、改めて思った。
そんなところで、今度こそ私は眠りに落ちるのでした。
なんかこう
青春小説っぽい感じだなーと、読後に思いました
うどんげの成長物語、そんな印象を受けました
純狐さん起きて!