木々の間を縫い、時に身体をぶつけながら、男はただ走る。
すでに息も絶え絶え。今すぐにでも止まり、座り込んで身体を休めなければ、まもなく限界を迎えることはわかっていた。
ひときわ巨大な樹木を見つけ、男はその陰に隠れるように身体を預ける。
森の静けさも、木々の香りも、男の心を休ませるものとはなり得なかった。
ただ、ぜえはあと荒く息をつき、ひたすらに酸素を求める。
かつてないほどに早鳴る鼓動は、しかし、なおも恐怖に竦もうとしているようだった。
戦場で、化け物退治で、危険から逃げたことは何度もある。
だが今、男の身に迫る危機は、かつて経験したそのどれよりも濃い死の気配を漂わせていた。
「忘れ物ですよ」
息を呑む。
その声は、疲労に弛緩した男の身体を、一瞬の内に極度の緊張状態へと変化させた。
どさ、と何かが足元に落ちる音。
男の傍らに投げ捨てられたそれは、かつて、ほんの少し前まで男の仲間だった青年だった。
今はもう、仲間ではない。
男にとっての仲間とは、首から下がない人間の死体の事を意味しない。
糞、役立たずが、死ぬならせめて足止めくらいしてから死ね。
胸中で毒づく男の背後、大樹の向こうから足音が迫る。
身を隠そうという意図のまるでない、呑気とすら思える足音だ。
普段の男なら、森でこんな足音を聞いたならば、密かに後をつけて襲う算段を立てた事だろう。
足音の方向が少し変わる。大樹を回りこむように移動を始めたのだ。
男は立ち上がり、身体の向きを変える。足音が回りこんでくるその方向に相対する。
すでに疲労は限界に来ている。一方、迫る足音には少しの乱れもない。
ここまでの追走は、相手の余裕を僅かに奪うこともなかったのだ。
同じ方向に逃げたはずのもう一人の仲間も、姿が見えない。隠れたか、離れたか。どちらにせよ役には立たないだろう。
糞が。もう一度胸中で毒づき、腰の剣を音を立てないように慎重に抜く。
どうせ逃げられないなら、こちらから仕掛けるしかない。
もし相手が、こちらが逃げることを想定していてくれたなら、逆に仕掛けることは奇襲になるはずだ。
精一杯の虚勢で頼りない希望に心を預け、男は足音の方向へ踏み出した。
があ、と吠えて、見えた人影へ躍りかかる。
人影は、襲い来る男に、ただ一瞥をくれただけだった。
人影が手首を返すような動作を取ると、右手に持つ長い得物が翻った。
振り回された柄は、男が渾身の力を込めて振り下ろした剣を、小枝を払うように容易く打ち払った。
長い柄はそのまま、石突を男の腹部にめり込ませた。身体がくの字に折れ曲がり、すさまじい衝撃に視界が揺らいだ。
人影が腕を持ち上げ、男の身体を軽々と宙に跳ね上げた。
上下の視界が逆さまになった時、ぶれた視界が元に戻り、自分でも不思議なほどにはっきりと、その光景を見る事ができた。
燃えるように赤い髪。緑の漢服に身を包む淡麗な装い。
そして、自らの首を目掛けて放たれる、青龍偃月刀の銀の閃きを。
倒れた男の身体と、そこから分かたれた首に一瞥をくれて、紅美鈴は青龍刀を払って刃についた血糊を飛ばす。
達人の技ならば、こんな風に血を刃に残すこと無く首を飛ばせるだろう。ある程度扱いに慣れても、やはり武器は苦手だ。
美鈴は、方角を変えてまた歩き出す。
木々の生い茂る森の中にあっては、北も南もあったものではない。しかし、地の気脈を感じ取る事で、美鈴にはある程度の方角の見当を付ける事ができる。
美鈴の歩く方向に、人間の気配がある。
その気配には、もはや息を殺す事もできないほどに怯えきった様子がありありと伺えた。
木々の隙間を抜けて美鈴がその姿を見つけると、同時に相手も美鈴を見つけた。
ひっ、と息を呑み、腰が抜けているのか立ち上がりもしないまま、後ずさって僅かばかりの距離をとった。
先に始末した男二人の仲間だ。三人の内、もっとも遠くから周囲の様子を伺うようにしていたのを覚えている。
ただ、女であったことは少し意外だった。
こういったハンター崩れというのは、身を持ち崩した傭兵や狩人の成れの果てが大半だからだ。
力づくで従わされているという雰囲気でもなかった。よほどに悪どい事をして居場所を失くしたか、元からよほどの奇人であるのか、そのどちらかだろう。
「……女なら、お嬢様方の食事になってもらうのも良いかもしれないわね」
美鈴の呟きに、女はびくりと大げさに身体を震わせた。
聞かせようと思った言葉ではなかったが、存外に耳が良いらしい。
もはや、女にとってそれは不幸でしかないのだろうが。
美鈴が一歩を踏み出すと、女は腰から短剣を抜き放って美鈴に向けた。
武器とするにはあまりに短く頼りない。探索や獣の解体に使うような代物だ。
女の背には矢筒があるが、肝心の弓がない。
恐らく、逃げる途中でどこかに落としたのだろう。
「お前たちのような連中は、どこにでも現れる」
今度ははっきりと聞かせる意図を持って、美鈴は言葉を紡いだ。
「吸血鬼退治という功名に魅せられた愚か者。どこで尾ひれがついたのやら、吸血鬼はお宝を溜め込んでいるからと奪いに来た者もいたわね。あるいは、人類の仇敵を倒さんと正義感を燃やす者もいた。そのような、お嬢様方の身辺を煩わせる害獣の末路は、貴女が想像している通りのものよ」
美鈴がさらに一歩を踏み出すと、それに合わせて女が後ずさる。美鈴の一歩の半分にも満たない距離を。
「もっとも、女なら違った末路もある。館に囲われ、お嬢様方に血液を提供する食料としての末路も。まあ、貴女の血はあまりおいしくなさそうだけど」
涙を浮かべて無益な後退を続けていた女が、不意に動きを止めた。
そして、短剣を後ろ手に持ち替えると、その刃を自らの喉に突き立てた。
「おや」
がは、と女が大量の血を吐く。
脱力して倒れこむ女に、美鈴は駆け寄った。
刃の半ば以上が喉を刺し貫き、動脈が切断されて大量の血がこぼれていた。
完全に致命傷だ。
(……脅かしすぎたか)
美鈴は女の側に膝をつくと、青竜刀を傍らに置いて右手を女の左胸にそえた。
軽く息を吸い、右手に気を集中させる。
ふ、と強い呼気と共に、女の左胸を鋭く打つ。
びくん、と女の身体が大きく跳ねる。
再び女が脱力した時、その呼吸は完全に停止していた。
どのみち始末する予定ではあっても、長く苦しませてやる理由もない。
薄く開きっぱなしの目をそっと閉じさせ、美鈴は立ち上がった。
女の死体を抱え上げ、踵を返す。
途中で男二人の身体と首も回収する。
森の獣に人間の味を覚えさせては、近隣に害をもたらしかねない。
それに、相手が何者であろうとも、遺体には相応の弔いが必要だ。
「いい場所に館を構えたものだね」
「……お世辞も過ぎれば皮肉になるものよ」
パイプをくゆらせて老紳士が語った言葉に、レミリア・スカーレットは陰鬱な面持ちで返す。
窓の外に目を向ける。月明かりに照らされるのは、針葉樹の味気ないシルエットばかりだ。
館を取り巻く高木林は、まるで檻のようだとレミリアは思う。
「『住めば都』とも言う。そう悲観したものでもないと思うのだが」
「貴方ほど達観できる気はしないわ」
余裕を崩さない老紳士に、レミリアは小さくため息をつく。
月の淡い光の中にあって、なお色濃く影を落とす二人。
夜を住処とし、影と共に生きる闇の眷属。それが彼女たちだ。
「意図したことでもないのに、随分と遠くまで来てしまったわ」
「以前は、リトアニアの東部あたりだったかね。館ごと引っ越す手腕には実に感服したものだ」
「北へ北へと逃げ続けて、今やフィンランドの北部。次は東に行って、ロシアあたりでも横切ってやろうかしらね」
冗談めかしてそう告げるも、レミリアの表情に晴れやかさはない。
そこにあるのは自嘲と、諦観と、あとは、少しの憤りだろうか。
人を魅惑し、生き血を吸い、捕らえて糧とする吸血鬼。
その脅威が人間を恐れさせ、惑わせたのは昔の話だ。
「人間は弱く、愚かで、儚い生き物。それが、これほどまでに我らの脅威となろうとは、誰も想像すらしていなかったよ」
老紳士の言葉には自戒と、いくらかの尊敬が込められているようだった。
「我ら夜の眷属は皆、競って人間を襲ったものだ。闇を祓う聖職者や優れた技を持つハンターが居ると聞けば、むしろ進んでその前に馳せ参じ、打ち倒して力を誇示し、あるいは血を吸い尽くして下僕にした。
だが、力ある者をどれほど殺しても、人間は一向にその数を減らす事はなく、力ある者はなお現れた。それも、以前の者をさらに超えた力を身につけて」
「……幾度と無く繰り返された戦いの中で、いつしか人間は、私たち闇の者を討伐することさえも可能にした。捕食者と餌食の関係は、いつしか逆転を起こし、人間は私たちを刈る者となった」
「そこまでは言い過ぎかもしれんがね。だが、一方的な狩りだったものが、対等な戦いに変わっていったのは事実だ」
技が人から人へ受け継がれ、闇を刈るハンターたちが台頭し始めると、吸血鬼をはじめとする怪物たちは急速にその数を減らす事になった。
何しろ、数があまりにも違いすぎる。百や二百を殺した程度では大勢に影響が無く、無尽蔵にも思える人という群衆の中から、怪物殺しの素養を持つ者はいくらでも現れた。
戦えば戦うほどに、怪物たちはその能力を解析されてゆき、終いには弱点を付かれて敗北する事になったのだ。
「そのうち、我らと生身で殴り合えるような者が出てきてもおかしくはないと思うよ」
そう語る老紳士の口調は、どこか楽しげですらあった。実際に笑みも浮かべていた。
「……よく笑っていられるわね」
人間に住処を追われる屈辱も、仲間を次々に失う恐れも、この老紳士にとっては過ぎた事なのだろう。
闇の者でも特に長い歴史を持つ者は、自らに振りかかる脅威をむしろ歓迎してる様子がある。
だが、レミリアはそうではなかった。
「君の憤慨と、それに対して何ら手を打てぬ悔しみは理解できる。君は、まだ500歳にも満たない若者だ。心に沸き立つ激情を抑えることは難しく、また、その激情を差し置いて逃げ回らねばならない現状は、さぞ不本意な事だろう。
だが、我らとて悠久の存在とはなり得ない。何者にも等しく訪れる滅びが、我らには『人間』という形を伴って現れたのだと、そう思うよ」
「……このヨーロッパにも、眷属はほとんどいなくなってしまった。まだ滅びていないのは、自らを封じて眠りについたわずかな者だけ。貴方はどうするの?」
「ふむ。人間の興隆にも少し興味はあるが、しばらくは眠ろうかと思っているよ。目が覚めるのは数年後か、幾億年後か、あるいは、そもそも目覚めないのかもしれんがね」
そう言って、老紳士は椅子から立ち上がった。
「いかがかね? 最後に一つ、全力での勝負というのは。森を東に抜けたあたりに、1万ヘクタールほどの空き地があっただろう」
「せっかくのお誘いだけど、遠慮しておくわ。気分じゃないの」
「そうかね。では、それは目覚めた後の楽しみにしておくとしよう」
「ええ、そうね。いつか、ね」
「その時が、もしも在るのならば」
その言葉を最後に、老紳士が身を翻す。
一瞬の後、その姿は一羽の蝙蝠に変貌していた。
蝙蝠はレミリアを一瞥し、会釈のように頭を軽く動かすと、そのまま夜の空へと飛び立っていった。
レミリアは椅子に腰掛けたまま、しばし佇んていた。
手を付けていなかった紅茶を、一口。
「……おいしくない」
いくら茶葉が良くても、淹れるモノの腕が悪ければ、味も香りも知れたものだ。
だが、紅茶を楽しめない理由がそれだけではないことを、レミリアは知っていた。
それが、老紳士の誘いを断ったのと、同じ理由である事も。
最後まで飲み干す気にならず、レミリアはカップを置いて席を立つ。
重苦しく音を立てる扉を開く。
「戻っていたのね」
部屋を出て一歩目で立ち止まり、扉の傍らに気配なく立つ影に一瞥もくれず、言う。
「三匹です。いずれも、取るに足らない相手でした。仲間が街にいるという事も、恐らくないでしょう」
影――美鈴は微動だにせぬまま、口だけを動かして返答する。
「そう。それは厄介ね」
抑揚のない声でレミリアが返す。
美鈴が始末した相手は、せいぜい少しばかり鼻が効きそうだという程度の有象無象に過ぎなかった。
追い詰めた時の挙動からして、先遣隊とも思われない。
吸血鬼の情報を掴んだ事。美鈴が出向くほどの所まで辿り着いた事。
すべて、ただの偶然に過ぎないのだろう。
つまり、あの程度の連中でも、偶然が味方しさえすれば、ここを突き止めることができる。
それはすなわち、同じような何者かが、またここに来るという事でもあった。
そして、次に来る連中が、あのような雑魚である保証はどこにもないのだ。
「パチェに伝えておきなさい。また、力を借りる時が来ると」
「早計では? 野良犬が一度入り込んだだけです」
「準備まではさせなくて良いわ。けど、転移の術式は一朝一夕では成らない。遠からず必要になる事は知らせておくべきよ」
告げて、レミリアは歩み去ろうとする。
そこで初めて、美鈴は直立不動を解いて、レミリアに向き直った。
「こちらから打って出る事もできるでしょう」
そして、意図して強い口調を用いて言った。
「この近隣に街は一つだけです。頭を押さえれば支配は容易いでしょう。いくらか出来る者を見繕って下僕とすれば、さらなる進撃の足がかりともなり得ます」
「なって、それでどうするの?」
レミリアの返答は、冷ややかというよりは、乾いたものだった。
「それに、人間に打撃を与えるだけなら、そんな事をしなくても良い。
『あの娘』を解き放つだけで、このヨーロッパの人口を二割くらいは減らすことができるでしょう」
レミリアは窓へ、その向こうの夜空へと視線を向かわせた。
「でも、それで終わりよ。未曾有の大被害をもたらした吸血鬼が、どこかの誰かによって退治されたという、英雄譚が一つできるだけ」
美鈴は、同じ方を見なかった。
見ても、同じものは見えないと思ったから。
「……私は吸血が下手くそで、下僕を作ることも好まないから、人間をほとんど殺してこなかった。吸血鬼として異端だったのでしょう。
けれど、今はもう異端ではないわ。私を異端とした者たちは、もはやこの夜のどこにもいない」
何も言わず、主の言葉をただ享受する。
「お前は主に、『どうせ死ぬなら最後にひと暴れを』などという、自暴自棄の覚悟を望んでいるの?」
月明かりは振り向いたレミリアの姿を照らすには弱く、その表情は影に隠されていた。
ただ、瞳だけが、瞬くように赤い。
答えあぐねる美鈴を尻目に、レミリアはそのまま踵を返して歩き去った。
その姿が見えなくなっても、美鈴はただ、答えるべきだった言葉を探していた。
「寝る」
と言って寝室に向かうレミリアに付き従い、夜着に袖を通すのを手伝うのが自分の役目なのかといえば、おそらく違う。
違うが、しかし、他にそういった役目に通ずる者もいないので、結局は美鈴がやらざるを得ないのである。
寝室の扉を閉じ、中の気配が完全に寝入ったと確認する。
それから、玄関を通って館の外へ出向き、朝焼けの光も完全には届かない森を駆ける。
程なくして手頃な鹿を見つけ、一つ深呼吸。
気を吐き、十歩以上の距離を一呼吸の内に詰め、掌底を打ち込む。
鹿はもんどり打ったものの倒れはせず、一目散に逃げ出す。
だが、程なくして足取りが怪しくなり、そのまま倒れた。
美鈴は倒れた鹿に歩み寄り、その身体の中心を目掛けて今一度掌底を打ち込む。
大きく身体を跳ねさせ、やがて鹿が完全に沈黙したのを確認し、片手で抱え上げて館へと戻る。
館の庭で手際よく鹿を解体し、いくつかの部位に分けて袋に詰める。
その内の一つを手に、美鈴は館の調理場へと向かった。
「ほら、今日の報酬だよ」
美鈴がそう声をかけると、ぎゃあぎゃあ、と喚くような声がそこかしこにあがる。
餌だよ、と言わないだけ、自分は親切なのではないかと思う。
調理場に詰めているのは、インプやグレムリンといった低級妖魔の類だ。
大きくても人間の子供程度の体躯しかない、非力で頭も弱い連中だ。
一応は、食料を報酬に館で雇っている小間使いという事になるだろう。この館は大きいので、こういったお手伝いはどうしても必要だ。
しかし、できることは庭いじりや掃除程度がせいぜいで、お嬢様方の身の回りを世話などとてもできない。
重要なところは結局のところ、美鈴が一人で担当するしかないのが現状である。
(別に苦労というほどでもないけど、お嬢様の身辺に侍ることのできる者が一人くらい欲しいものね)
レミリアは下僕を作りたがらないので、どこぞの町娘を攫って身辺付きに、という訳にもいかない。
「まあ、言っても詮無い事か」
独りごちて、美鈴は再び館を出る。
日中は館の警備が任務である。
と言っても、森の深奥に佇むこの館を訪れる者などいないので、門前を離れて周辺の散策をするのが主だが。
森は勾配も多く、狩人でもそうそう奥地までは踏み込んでこない。
散策で何かを見つける事というのは、極めて稀なことだ。
「……おや」
稀なことであるから、時には、こうして妙なものを見つける事もある。
(……人間、にしては小さい気配。子供かしら)
森は木々を通じて気脈が幾重にも張り巡らされており、気を読める美鈴はそれを辿る事で、かなりの広範囲にわたって気配を探り当てることができる。
今の気配も、肉眼で捉えられぬほどの距離を(視界が効きにくいせいでもあるが)、地の気脈を通じて見つけたものだ。
気配の元へ歩いて行くと、薄手の布の端々から銀の髪色を覗かせる、人間の赤子がいた。
「捨て子か」
側に座り、赤子に話しかけるように美鈴は言った。
言葉を理解したわけでもないだろうが、赤子は美鈴の顔を見て、呑気にも笑ってみせた。
何の気なしに歩み寄り、その様子を観察する。
透けるような銀色の髪。仄かに朱の差した頬はいかにも健康そうで、充分な世話を受けて育てられたと見受けられる。
それが、こうして森の遥か奥地に捨てられているという状況と、いかにもそぐわないと思えた。
(……ん?)
気配はこの赤子の他にはない。
だが、周囲を見やる美鈴の目に、もう一つ人の影が映り込んだ。
「……なるほど」
気配がないのは当然だった。
その人影は、すでに事切れていたのだから。
人影は娘だった。赤子の侍女か、もしかすると母親だろうか。
娘の脇腹には半ばから折れた矢が突き刺さっており、出血と消耗が死因となったようだ。
それほどの重傷を負って、なおこんな所までたどり着くのは、尋常ならざる執念のなせる業だろうか。
再び、美鈴は周囲の気配を探る。
数匹、おそらくは人間の気配。
慎重に歩きながら周囲を探っている様子がある。
恐らく、この娘に突き刺さった矢、その使い手だろう。
理由は分からないが、武装した人間どもに追われて、この娘はここまで逃げてきたようだ。
年端もいかない赤子を連れて。
改めて、赤子の様子を伺う。
髪の色が違うからか、あまり娘と似ているようには見えない。
肌も白く、雪の細工のようですらある。
常人には見られない容姿。概してそうした者は、周囲から排斥されるものらしい。
娘がこの赤子を連れ出して、こんな所まで逃げてきたのも、そうした理由なのだろうか?
「ふむ」
美鈴は頬に手を当てて、少し考える。
そして、赤子の前に屈み込み、そっと抱きかかえた。
赤子はキャッキャと笑って、小さい手を美鈴へと伸ばす。
軽くその手を触ってやると、美鈴は空いている腕で娘の遺体を抱え、館への道を一足飛びに駆け出した。
図書館の中はいつも気温が変わらない。
蔵書が痛まないよう、ここの主が魔法で常に調整を行っているためだと言う。
「……育て方? 人間の?」
だったら、このカビ臭い空気もキレイにすればいいのに、と美鈴はいつも思う。
「ここでなら、おおよそ必要な情報は揃うかと思いまして」
美鈴の言葉に、図書館の主――パチュリー・ノーレッジは胡散臭そうに目を細めた。
「吸血鬼用の家畜でも飼うつもり?」
言いながら、パチュリーは側の大机にさっと右手をかざす。
大きな魔法陣がその上に浮かび上がると、パチュリーは指を細かく動かして、何か操作するような仕草を見せた。
「……BX357の棚。ヒューマンの本は上の方に固まっているはずよ」
程なくしてそう告げたパチュリーは、それきり美鈴に興味を失ったかのように椅子に座り直した。
いつもそっけないが、蔵書の知識を求められて断る事はない彼女である。
礼を言って、示された棚の場所を探す。
「……あんまりよくわからないし、適当に何冊か借りればいいか」
パチュリーに聞かれたら怒られそうな事を言いながら、美鈴は数冊の本を手に図書館を辞する。
まだ明るい窓の外、新しい簡素な墓に目線をやってから、自室の向かいにある部屋の戸を開ける。
中では、小さなグレムリンの個体が、赤子に馬乗りにされて倒れていた。
「……なんともまあ、元気な子供だこと」
美鈴が館へと連れ帰った赤子は、人からすれば異様な風体のインプやグレムリンにも何ら物怖じする様子がない。
そういった者どもを恐れるには、幼すぎるのだろう。
美鈴は別のインプに借りてきた本を渡し「これを参考に世話をして。死なせないようにね」と告げた。
愉快そうにキャッキャと笑う赤子に背を向け、部屋を出る。
あのまま森に放置すれば、赤子は程なく命を落としただろう。
別に、それに同情したというわけではない。
理不尽な理由で死ぬ者も、幼くして命を落とす者も、取り立てて珍しいという事はないし、まして相手は人間である。
どちらかと言うと、興味があるのはその血だ。
レミリアお嬢様曰く、数奇な運命を持つ者の血は、特別な味わいを持つようになるらしい。
人には稀な容姿。森の奥地で守る者もなく、死を待つばかりの所を美鈴に見つけられた赤子。
子供のうちは無理でも、成長すればお嬢様方の『食料』として良質な存在となるかも知れない。
人間は弱く、脆い。
閉塞した館の空気を変える存在を、あの赤子に期待するのは難しいかも知れない。
しかし、持て余すなら処分はいつでもできる。
何か良き影響があれば良いし、無くても血の安定供給に役立つのなら、悪くはない。
美鈴は自室に戻って、少し休息を取ることにする。
もうすぐ日が暮れる。お嬢様の目覚めの時間だ。
「すぐに死ぬのがオチだと思うけどなあ」
地下室の主――フランドール・スカーレットは、開口一番にそう言った。
館の地下室に幽閉されている――と言うか、自分から引きこもっているこのお嬢様の姿を、誰かが目にする事は少ない。
そして、その誰かが美鈴以外の人物である事は、全くない。
その美鈴にしても、この地下室を訪れるのは数カ月に一度という程度の事だ。
「……こもっていらっしゃる割には、お耳の聡い事で」
フランドールは地下からほとんど出てこない。
部屋で本ばかり読んでいて、たまに新しい本を図書館に探しに行く時も、図書館の主と会話を交わす事はほとんどないという。
図書館の一角に『フランドール行き』の本棚があって、定期的に新しい本がそこに補充され、フランドールはたまに出向いて読み終わった本を戻し、新しい本を持っていく。
そういうシステムが出来上がっているらしい。
そんな風に、誰と話すでもない生活を長く続けるのは、精神的に不健康だろうと美鈴は思う。
だからこうして、たまに部屋の手入れという名目で地下を訪れるようにしているのだ。
「人間なんて脆いし、育つの遅いし、無駄に賢しいし、ペット向きじゃないでしょ」
しかし、影を放って館内の様子を探っているらしく(美鈴は一度もそれに気付けた事が無いが)、フランドールは妙に館の事情に詳しかった。
「その代わり、その血は吸血鬼のお嬢様方にとって大切なものになります」
美鈴は話しながら、部屋の調度品をさっと手入れしていく。
本棚と机と寝台以外ほとんど使われないので、掃除のしがいがあるとは言えない。
「それに、あれで案外たくましいみたいでして」
インプ達の育児は、まあ予想通りに粗末なもので、お嬢様方用の血を間違って与えそうになった事もある。
しかしそれでも、美鈴がたまに様子を見に行けば、嬉しそうに寄ってきて脚にしがみついてきた。
乱暴に扱わない事を強く言って聞かせていたからか、大きな怪我を負う事も無く順調に育っているようだ。
むしろ、グレムリン達をおもちゃ代わりに引きずり回すくらいに、元気そのものだった。
「ふーん。変なの」
「そうですね。親を恋しがるような素振りも無いですし、環境の変化に妙に適応が早いと言うか……」
「貴女のことよ。まあ、その子供も変だとは思うけど」
フランドールは美鈴を真っ直ぐに――彼女にしては珍しいことに――見て、言った。
「なーんか、随分楽しそうじゃない。たかだか人間一匹増えたくらいの事で」
「楽しそう、ですか?」
美鈴は自分の頬に手をやる。別に、にやけていたりはしなかったと思うが。
「ちょっとの変化に一喜一憂できる単純さが羨ましいわー」
「でしたら、妹様もちょっとした変化を日常に取り入れてみては? 試しに外に出てみるとか」
「この辺は寒いから嫌」
そう言うと、フランドールは寝台に転がって本を開いた。
こうなると、もう何を言っても無駄だ。美鈴は手早く部屋の手入れを済ませて、会釈を残して部屋を後にした。
「うーむ」
改めて頬に手をやり、美鈴は考える。
あの赤子を拾ったのは、ただの気まぐれだ。
興味も期待も無いではないが、どちらにせよ、さほど深く考えての事ではなかった。
美鈴は、特に人間を嫌っているわけではない。
人間どものせいで館ごと逃げ回る羽目になっているのには辟易するし、どこからか湧いてくるハンター気取りの連中には不愉快を覚えるが、どちらも自然現象のようなものだ。
人間であろうとなかろうと、邪魔なものは邪魔だし、そうでないものはそうではない。
しかし、だからといって特に好む理由もない。
あの赤子がすくすくと育っている事は、一つの命として考えれば微笑ましい事だし、その行く末を思えば哀れとも言える。
その成長を見守る事を、楽しいと思う理由があるだろうか。
「環境の変化に対して、人は自ずと期待を抱くものよ。その結果が悪い方に傾かなければ、感情はポジティブな方向に向かうでしょう」
パチュリーは抑揚のない声でそう語る。
「期待と結果、ですか。まあ、健康に育っているのは結構なことだとは思いますが……」
血を提供させるなり、館の雑用をさせるなり、何にせよきちんと成長してもらわねばならない。
そういう意味では、あの赤子は美鈴の期待に今のところは応えていると言えるのだろう。
「腑に落ちない?」
そう言ってから初めて、パチュリーは美鈴に向き直った。
「……あの子の様子を見に行く時に、特に何かを思ったりしないんですよ。もしかするとインプ達が何かやらかして、あっけなく死んでいたりしてもおかしくないと思うんですが、あまり、そういう事が心配にならないと言いますか」
「最初はそうでも、接している内に親心が芽生えたりしたかも知れないわよ」
「そうであれば、未だに名前もつけず放任してはおかないでしょう」
美鈴は、あの赤子に特別な感情を持っていない。
少なくとも自分ではそう思っている。
「動物であれ物であれ、近くに接し続けるものには自然と愛着も湧くものじゃない?」
「まあ、それは否定しませんがね」
フランドールは美鈴に「楽しそう」といった。
実際、そうなのかもしれない。
赤子という存在が日々にもたらした変化は、沈みがちだった美鈴の心を軽くする効果があったかもしれない。
だが、その変化は、実際に楽しさを感じるほどの事だろうか。
それが美鈴には疑問でならなかった。
赤子の部屋を自室の向かいに設けたのは、何かがあった時にすぐ向かえた方が良かろうという判断による。
しかし実際のところ、赤子の身に何かがあった所で、暇でもなければわざわざ駆けつけたりはしないようにも思われた。
何かを飼育する者として、ふさわしい態度とは言えないだろう。
美鈴は戸を開き、赤子の部屋に踏み入る。
インプの一体に馬乗りになり、赤子はキャッキャと笑っていた。
乗られている方は遊び相手に疲れたのか、ぐったりと四肢を投げ出している。
ものの分別もつかぬ年頃とは言え、よくもこう楽しそうにしていられるものだ。
部屋の外を通り掛かる時には、泣いている声もよく聞こえてくるので、赤子らしい生活を満喫しているという事かもしれない。
赤子は美鈴を見つけると、おぼつかないながらもひとり歩きで寄ってきて、脚にしがみつく。
この赤子は日々世話をしているインプ達のことを、どうもオモチャ扱いしているフシがある。
一方、美鈴に対しては、こうして甘えるように擦り寄ってくる。
人間と同等の容姿を持つ美鈴のことを、家族とでも思っているのだろうか。
赤子をそっと抱き上げる。
無邪気に笑うその顔を、目の前に持ってくる。
「私達は、そのうちお前を喰うんだぞー……」
小さくささやく。
赤子が理解した様子は、もちろんない。
美鈴が様子を見に来る時、赤子はいつも楽しそうにしている。
それと同じくらい、よく泣いてもいるようだし、騒がしさはこの部屋から途絶える事がない。
ふと思い立ち、美鈴は赤子をソファに座らせて、窓辺に向かい外を見る。
館の周囲は雑多に草が生い茂り、その外は針葉樹に囲まれている。
門の内側は雑草を適当に刈っただけで、手入れの行き届いた風景とは言えない。
花の一つもなければ、獣や虫もあまり寄り付かない。
館の中に目を向ければ、決まった時間に館内の掃除がある以外は、いつも閑散としている。
主のレミリアは日夜自室で物思いに耽り、フランドールは地下室にこもり、パチュリーは図書館でただ本を読む。
この館には音がなく、そして色がなかった。
広い館の中で、この部屋だけが、命の音をやかましく鳴らしている。
美鈴は窓を離れ、もう一度赤子を抱き上げ、頭をそっと撫でてやる。
赤子は嬉しそうにキャッキャと笑った。いつものように。
「……なんで?」
ただ疑問だという表情で、レミリアはそう言った。
「お嬢様もたまには身体を動かされませんと」
笑顔で誘う美鈴に「気分じゃない」と返すレミリア。
だが、美鈴は「そうおっしゃらずに」と食い下がる。
「それに、私も日々の修行を欠かしておりません。以前のように軽くあしらえるとはお思いにならないで頂きたいですね」
「……私としては、それも疑問なのだけどね。今さらいくらか身体を鍛えて何になるというのやら」
「まあまあ、ここは一つ胸を貸していただくという事で、どうか」
はあ、とレミリアはため息を一つ。
「お前がそんなに食い下がるのは珍しいね。何かあったの?」
「あったと言えばありましたし、無かったと言えば無かったのでしょう」
何よそれ、と言いながらレミリアは立ち上がる。
「ま、お前がそこまで言うのなら、付き合ってやらなくもないけれど……」
軽い足取りで美鈴の横を通り過ぎようとして、立ち止まる。
その足元から赤黒い妖気が立ち上り、渦巻く妖力の奔流が美鈴をも巻き込んだ。
「このところ私は機嫌が良くない。手加減を期待するなよ?」
「それは重畳。では、私も怪我を負わせぬような気遣いをしなくて良さそうですね」
ギロリ、と紅い瞳で美鈴を睨みつけ、レミリアは部屋を出ていく。
美鈴はその後に続いた。
手合わせをしてください。美鈴がレミリアに言ったのはそれだけだ。
勝ち負けの取り決めは無い。命の保証さえも。
「得物は使わないの?」
森を東に抜けた空き地に降り立ち、美鈴に背を向けたままレミリアは問いかける。
「私にとっては、武器を取るのは手加減になります。お望みでしたら使いますが?」
美鈴は手を後ろに組み、直立の姿勢で返す。
「何をそんなに挑発したがっているのか知らないけど……」
声だけは軽い調子のまま、レミリアが振り返る。
「そんなにお望みなら、全力で壊してやろう」
そう言って、レミリアは大地を蹴る。
十メートル以上はあろう距離を、一呼吸の内に詰める。
そして、引いた左腕を突き出す。空気を斬り裂くほどの速度で。
美鈴は右手側、レミリアの左腕の外へと身体を傾けて拳を回避する。
風圧が美鈴の長い髪を大きく揺らした。
拳を突き出した勢いを、レミリアは左足を前に出して止める。
背後へと回った美鈴へ、握った右手を振り回して叩きつける。
美鈴は畳んだ右足を高く上げて、そのぶん回しを受け止めた。
不安定な片足立ちで自分の攻撃を受け止められたことに、レミリアが少なからず驚愕を表情に映す
美鈴は上げた右足を大きく踏み出し、身体を沈める。
右肩をレミリアの身体に押し付け、鋭く突き出す。
僅かな動作だったが、見合わぬ派手さでレミリアの身体がふっ飛ばされた。
数メートルの距離を飛んだレミリアが、着地して身体を起こす。
美鈴は再び直立不動の姿勢に戻る。
ここに至るまで、美鈴は一度として後ろに組んだ手を解かなかった。
「……私を舐めているか、美鈴?」
「これが全力という事であれば、そうなるでしょう」
レミリアは無表情に美鈴を見つめていた。
ただ、大いなる怒気をはらんで、赤黒い妖気が周囲を包むように広がった。
満月の明かりに照らされた広場が、レミリアの妖気によって暗闇へと近づく。
その中で、レミリアの両目だけが、紅く、鋭く輝いていた。
妖気の奔流が生み出す闇に溶けるように、レミリアの姿が消える。
一瞬の後、美鈴の頭上、濃さを増した闇の中からレミリアの姿が這い出る。
妖気を纏わせた拳を、思い切り美鈴の頭目掛けて繰り出す。
美鈴は、レミリアの方に一瞥もくれず、身体を正面へと深く倒す。
空を切ったレミリアの一撃が生み出す余波が、地の草を放射状に揺らがせた。
美鈴は倒した身体を片手で支え、前転の要領で身体を回転させると、揃えた両足での鋭い蹴りを上方へと繰り出す。
「ぐっ!」
蹴りは闇に包まれたレミリアの身体を的確に捉えた。
そのまま、美鈴は腕の力だけで跳躍すると、空中で身を翻し後ろ蹴りを放つ。
鈍い音と共に、空中に浮いたレミリアがふっ飛ばされる。
美鈴は片足で着地し、再び両手を後ろに組む。
レミリアは空中でくるりと身体を一回転し、軽い調子で着地した。
後ろ蹴りを受け止めた右腕を軽く振る。
「あまり調子に――」
レミリアが言い終わる前に、今度は美鈴が前に出る。
一足飛びに距離を詰め、右足を軽く上げて前蹴りの構え。
しかしそれはフェイントで、さらに踏み込んで身体を沈め水面蹴りを放つ。
脚を払われ、レミリアの身体が浮く。
倒れないよう、とっさに右手を地に突く。
美鈴はしゃがんだ姿勢を起こし、右足を上げる。
天を突くように高く掲げられた脚を、レミリアの首元目掛けて振り下ろす。
ばし、と。
その一撃を、レミリアは空いていた左手で軽く受け止めた。
「!!」
「調子に乗るな、と言おうとしたんだ」
驚愕に目を見開く美鈴に、レミリアは不敵な笑みで返した。
脚を突いて身体を起こしつつ、レミリアは左腕をぐるりと振り回した。
その手に掴んだ美鈴の身体ごと。
そのまま、背後の地面に叩きつける。
「ぐっ……!!」
美鈴は両手を地面に突き、かろうじて顔面から地面に激突するのは回避した。
冗談じみた膂力だ。そのまま叩きつけられていたら、美鈴の身体で地面に穴ができたかもしれない。
ふ、とレミリアは軽く笑う。
そして、今度は右手も添えて美鈴の脚を掴み直すと、勢い良く振り回し始めた。
風船のように軽々と、猛烈な勢いをつけて美鈴の身体を投擲する。
「――――っ!!!」
声にならない悲鳴を上げ、それでも、美鈴は投擲された方向へと身体の向きを直す。
視界の先には大木。両手両足を前に突き出し、受け身を取る。
美鈴の身体の何倍もの太さを持つ大木が、衝撃で大きく揺らぐ。
その背中に、肩を突き出したレミリアの体当たりがめり込んだ。
「がっ……は……!」
衝撃が、先にも増して大木を揺らがせる。
肺の中の空気を全て吐き出し、美鈴の視界が明滅した。
「…………ッ!」
美鈴は歯を食いしばり、上半身を捻って肘を打ち下ろす。
背中を打ち据えられ、レミリアは勢い良く地面に突っ伏した。
続けざまに美鈴は蹴りを繰り出す。
が、これは素早く飛び起きたレミリアの身体を捉えず、空を切る。
「ようやく腕を使ったな」
まるで普段と変わらない調子で、レミリアはそう言った。
蹴りは躱されたが、肘はまともに入っている。
それに、何の痛痒も覚えていないかのように。
対する美鈴は、腰を落とし両足を開く構えをとって、油断なくレミリアを見据える。
本当は、先の蹴りに続いてすぐさま追撃をかけるつもりだった。
だが、背中に負ったダメージが思った以上に深刻で、脚を踏み出す事ができなかった。
「……そうやって、したり顔で笑っていらっしゃる方が、お嬢様らしいですよ」
ぴく、とレミリアが笑みを消して反応する。
「まさか、そんな話がしたかったのか?」
「さあ、どうでしょうか」
その言葉と共に、美鈴は駆け出した。
上半身をほとんど動かさない、ごく小さな駆け足。
それでも、彼我の距離を一瞬の内に詰め、レミリアに肉薄する。
鼻息がかかるほどの至近距離。そこで止まり、二人は視線を合わせた。
美鈴のほうが遥かに身長が高い。レミリアは自然と見上げる形になる。
レミリアは右手を貫手に構え、美鈴の脇腹目掛けて突きを放つ。
その肘の内側を美鈴の左手が押さえ、貫手を止める。
レミリアは貫手を開き、美鈴の左腕を掴んだ。
そのまま、骨を握りつぶしてやろうと力を込める。
力が加わった瞬間、美鈴は左腕を捻るようにして引く。
腕の方に力を集中していたレミリアは、勢いに思わず身体のバランスを崩す。
美鈴は左の足先をレミリアの脚に引っ掛けると、思い切り跳ね上げた。
レミリアの身体が勢い良く浮き、上下逆さまの姿勢で中空に放り出される。
脚を降ろし、背を向け、軸足を引く。
「はっ!」
裂帛の気合と共に、背中からの体当たり――鉄山靠を放つ。
それは、浮いたレミリアの身体を正面から捉え、吹っ飛ばした。
「……うぐっ!?」
否。吹っ飛んではいない。
レミリアの両手が、それぞれ美鈴の右腕と、左肩を掴んでいた。
鉄山靠を食らって吹っ飛ぶ瞬間、美鈴の身体を掴まえて踏ん張ったのだ。
レミリアはそのまま空中で身体を丸め、揃えた両足を美鈴の背中目掛けて蹴り出した。
「ぐあっ!!」
威力をもろに受け、ふっ飛ばされて転がった。
手をつきすぐに立ち上がろうとするが、二度目の背中への直撃は深いダメージを残しており、膝立ちでかろうじて身体を起こすに留まった。
一方、レミリアも着地はしたものの、すぐに立ち上がらずしゃがみこんだままだった。
ちらと美鈴に一瞥をくれると、口元を拭い血の混じった唾を吐き捨てた。
正面から美鈴の技を喰らい、さしもの夜の王も無傷ではいられなかったようだ。
美鈴ほどには深刻なダメージでは無かっただろうが。
ゆるり、と、レミリアが立ち上がる。
月明かりを背に浴びて影を濃くした中、瞳だけが妖しく輝いている。
美鈴は、話しかけようとしてやめた。
会話で時間を稼げば、少しでもダメージの回復を待つ事はできる。
そのような姑息は、美しくないと思った。
この瞳は、それを許さないと。
レミリアが地面を蹴る。
小さく鋭い跳躍から、空中で一回転。その勢いを乗せて爪を振り下ろす。
美鈴は立ち上がりつつ身体を半回転させ、爪の軌道から逸らす。
打ち下ろされた爪は地面に打ち付けられ、衝撃とともに地面を穿った。
レミリアと美鈴の視線が再び交わる。
着地したレミリアが、地面を抉った右腕をさらに振り回し、美鈴へと繰り出す。
美鈴は下がらず、逆に一歩を踏み出した。
今度は完全に密着し、腕の軌道の内側へと身体を滑り込ませた。
美鈴は左拳を握り、そっとレミリアの腹部に押し付けた。
握りを強くし、気を吐き、小さく突き出す。
僅かな動作でも充分な『気』を乗せたそれは、どんな武器よりも鋭い破壊力を生み出す。
吸血鬼、レミリア・スカーレットの身体をも穿つ威力を。
実際には、その拳は、レミリアの身体を軽く押しただけだった。
レミリアは左手で無造作に美鈴の頭を掴む。
そのまま、勢い良く地面に叩きつける。
美鈴の頭が大地を穿ち、そのまま大の字に倒れる。
美鈴が身体に充足させた『気』の力。
恐るべき破壊力を、あるいは鋼の防御力を生み出すそれらは、レミリアの攻撃を受け続ける中で消耗し、もはや底をついていた。
もし、最後の一撃が充分な『気』を伴っていたなら、倒れていたのはレミリアの方だったかもしれない。
完全に沈黙した美鈴の頭を離し、レミリアは深く息をつく。
そのまま、ぺたんと地面に座り込んだ。
「……本当に、お前の頑丈さには呆れるよ」
ぽつり、とレミリアが声をかける。
沈黙していた美鈴の目がぱちくりと開き、ふふ、と小さく笑った。
「褒め言葉と受け取っても?」
「良い」
気の力を使い果たしてなお、この耐久力。
これが、レミリアが美鈴をもっとも評価する点だった。
「結局、何がしたかったのよ」
ちらと美鈴を見やり、レミリアはそう問いかける。
「楽しくなかったですか?」
美鈴は夜空を見上げたまま、問い返す。
「私は楽しいです」
何が、とレミリアが返す前に、美鈴は言葉を継ぐ。
「私は身体を動かすのが好きです。毎日コツコツと鍛錬を積んで、少しづつ強くなるのが楽しいです」
レミリアに語るというよりは、ただ自分の想いを言葉にしたいのだというように、美鈴は続けた。
「かつては手も足も出なかったレミリアお嬢様を相手に、膝をつかせるまでの力を身につけました。そうやって、自分の成長を実感できる事は、何にも勝る喜びです」
「……単純だな」
「単純でなければ、それは楽しさではないでしょう」
美鈴は夜空に手を伸ばす。何かを掴もうとするかのように。
「私には、手に入れられないものが沢山あります」
ぎゅ、と手を握る。
「私の脚は思ったように速くはなく、拳は思ったほどに強くはない。目指す高みは遥かに遠いし、大切な人たちは暗い顔をして、その憂いを晴らす事もできません。
でも、最近思うのです。そんな事は、些細なことではないかと」
握った手をぱっと開き、美鈴はまた大の字になる。
「本当は、多分、私はそんな大層な事を考えていないのです。ただ、訓練が好きで、強くなるのが楽しくて、強くなったと実感するのが嬉しいだけ。皆が暗い顔をしてると楽しくないなあ、とか、考えているのはその程度のことです」
ふ、とレミリアが笑う。
「その方が、お前らしいんじゃないか」
「私もそう思います」
そう返して、美鈴は顔をレミリアに向けた。
「お嬢様はどうですか? 楽しいことは、ありますか?」
その言葉に、レミリアは何かを言い返そうとした。
何も言葉は出なかったし、自分が何を言おうとしたのかも、分からなかった。
「お嬢様は、花がお好きでしたね。それなら、館の庭を花畑にしてみてはいかがでしょう? 季節ごとに様々な花が咲いて、きっととても綺麗ですよ。
お嬢様は、紅茶がお好きでしたね。誰かに上手な淹れ方を覚えさせてみましょうか? 毎日の紅茶が日々の楽しみになれば、生活にも張りが出ると思います。
お嬢様は、本を読まれないのでしたね。パチュリー様に、おすすめの本を聞いてみてはいかがですか? 新しい趣味が見つかるかもしれませんよ」
レミリアは美鈴から目を逸らして、ただ正面を見つめていた。
何か、返すべき言葉が出てくると思っていた。自分はそんなに惨めな日々を送っていはいないと。
美鈴の言葉は、レミリアに対してというよりは、己を含めた館の全てのものに向けているように思えた。
だから、何も言えなかったのかもしれない。
「お嬢様は私よりずっと、未来のことがお見えになる。私には及びもつかない憂いが、そこにはあるのかもしれません。
では、その憂いを前に、花は色あせ、紅茶の香りは失せるものでしょうか?」
「……いいや、そんな事はないさ」
ようやく口に上ったのは、ひどく簡単な同意の言葉だった。
「いつか訪れる、誰にも等しく訪れる滅びを想い、目の前の日々を暗澹と過ごすのは愚かなことだ。生き物も死に物も、最後に訪れるものに違いなどない」
「では、大事なのは、それまでに何を為したかという事でしょうか?」
「それも違う。何を為し、何を為さなかったかなど、本人の主観の問題でしかない。お前が……」
逸らした目を、レミリアはもう一度美鈴に向けた。
美鈴は、ずっとレミリアを見ていた。
「お前が納得すれば良いのだ。自分はこれで良いのだと。
そこに己への欺瞞や、他者への無為な見栄がなければ良い」
己自身も、培った何もかも、いずれ失われる事。それは運命だった。
何者も運命を変えることができないように、運命もまた、何を変えることも、何をもたらすこともない。
希望も絶望も、喜びも悲しみも、全て運命とは関係ない、全く別の所にあるものだ。
「お前の納得する己とはなんだ?」
どこか悪戯っぽく微笑んで、レミリアは問う。
「私は、私の大切な人たちが笑顔でいられれば良いと思います。もちろん、私自身も含めて」
「そうか」
レミリアは夜空を見上げた。先程までの美鈴と同じように。
「私も同じだ」
同じものを見て、きっと、同じことを想っている。
レミリアはすっと立ち上がりながら、美鈴に声をかける。
「そんな事を言い出すのは、赤子の世話で母性でも目覚めたから?」
「そうだとしたら、私の言葉はあの子の言葉も同然ですね」
「……それはなんか不愉快ね」
半眼で眉をひそめるレミリア。ようやっと立ち上がる美鈴に手を貸す事もなく、そのまま歩き出す。
が、すぐに立ち止まり、肩越しに美鈴を振り返る。
「今日はもういいから、戻ったらしっかり身体を休めなさい。明日から花畑づくりに紅茶の準備と、仕事が大幅に増えるんだから」
「……花はともかく、紅茶は苦手ですねえ。インプ達にやらせるのでは今までと同じですし、いっそ、あの子に仕込んではどうですか? ついでに今から家事全般を教えていけば、立派な使用人になるでしょう」
「いつになるのよ。気の長い話ね」
「だからこそ良い。そうではないですか?」
「違いないわ」
その言葉と共に、レミリアは夜の空に飛び立った。
いずれあの赤子に何かをさせるのなら、ただ生かしておくだけではなく、きちんと教育しなければいけない。
「私一人じゃ無理があるし、パチュリー様にも協力を仰がないとなあ。それに、名前も考えないと」
いっそ、レミリアお嬢様に考えてもらおうか、と美鈴は思う。
あれで凝り性なお嬢様は、きっと似合う名前を一生懸命考えるだろう。
明日から忙しくなる。訓練の時間を削ることにもなるかもしれない。
でも、嫌だとは、少しも思わなかった。
レミリアの後を追い、美鈴は飛び立って館へと戻る。
夜はまだ長い。けれど、その道程は暗闇ではなかった。
すでに息も絶え絶え。今すぐにでも止まり、座り込んで身体を休めなければ、まもなく限界を迎えることはわかっていた。
ひときわ巨大な樹木を見つけ、男はその陰に隠れるように身体を預ける。
森の静けさも、木々の香りも、男の心を休ませるものとはなり得なかった。
ただ、ぜえはあと荒く息をつき、ひたすらに酸素を求める。
かつてないほどに早鳴る鼓動は、しかし、なおも恐怖に竦もうとしているようだった。
戦場で、化け物退治で、危険から逃げたことは何度もある。
だが今、男の身に迫る危機は、かつて経験したそのどれよりも濃い死の気配を漂わせていた。
「忘れ物ですよ」
息を呑む。
その声は、疲労に弛緩した男の身体を、一瞬の内に極度の緊張状態へと変化させた。
どさ、と何かが足元に落ちる音。
男の傍らに投げ捨てられたそれは、かつて、ほんの少し前まで男の仲間だった青年だった。
今はもう、仲間ではない。
男にとっての仲間とは、首から下がない人間の死体の事を意味しない。
糞、役立たずが、死ぬならせめて足止めくらいしてから死ね。
胸中で毒づく男の背後、大樹の向こうから足音が迫る。
身を隠そうという意図のまるでない、呑気とすら思える足音だ。
普段の男なら、森でこんな足音を聞いたならば、密かに後をつけて襲う算段を立てた事だろう。
足音の方向が少し変わる。大樹を回りこむように移動を始めたのだ。
男は立ち上がり、身体の向きを変える。足音が回りこんでくるその方向に相対する。
すでに疲労は限界に来ている。一方、迫る足音には少しの乱れもない。
ここまでの追走は、相手の余裕を僅かに奪うこともなかったのだ。
同じ方向に逃げたはずのもう一人の仲間も、姿が見えない。隠れたか、離れたか。どちらにせよ役には立たないだろう。
糞が。もう一度胸中で毒づき、腰の剣を音を立てないように慎重に抜く。
どうせ逃げられないなら、こちらから仕掛けるしかない。
もし相手が、こちらが逃げることを想定していてくれたなら、逆に仕掛けることは奇襲になるはずだ。
精一杯の虚勢で頼りない希望に心を預け、男は足音の方向へ踏み出した。
があ、と吠えて、見えた人影へ躍りかかる。
人影は、襲い来る男に、ただ一瞥をくれただけだった。
人影が手首を返すような動作を取ると、右手に持つ長い得物が翻った。
振り回された柄は、男が渾身の力を込めて振り下ろした剣を、小枝を払うように容易く打ち払った。
長い柄はそのまま、石突を男の腹部にめり込ませた。身体がくの字に折れ曲がり、すさまじい衝撃に視界が揺らいだ。
人影が腕を持ち上げ、男の身体を軽々と宙に跳ね上げた。
上下の視界が逆さまになった時、ぶれた視界が元に戻り、自分でも不思議なほどにはっきりと、その光景を見る事ができた。
燃えるように赤い髪。緑の漢服に身を包む淡麗な装い。
そして、自らの首を目掛けて放たれる、青龍偃月刀の銀の閃きを。
倒れた男の身体と、そこから分かたれた首に一瞥をくれて、紅美鈴は青龍刀を払って刃についた血糊を飛ばす。
達人の技ならば、こんな風に血を刃に残すこと無く首を飛ばせるだろう。ある程度扱いに慣れても、やはり武器は苦手だ。
美鈴は、方角を変えてまた歩き出す。
木々の生い茂る森の中にあっては、北も南もあったものではない。しかし、地の気脈を感じ取る事で、美鈴にはある程度の方角の見当を付ける事ができる。
美鈴の歩く方向に、人間の気配がある。
その気配には、もはや息を殺す事もできないほどに怯えきった様子がありありと伺えた。
木々の隙間を抜けて美鈴がその姿を見つけると、同時に相手も美鈴を見つけた。
ひっ、と息を呑み、腰が抜けているのか立ち上がりもしないまま、後ずさって僅かばかりの距離をとった。
先に始末した男二人の仲間だ。三人の内、もっとも遠くから周囲の様子を伺うようにしていたのを覚えている。
ただ、女であったことは少し意外だった。
こういったハンター崩れというのは、身を持ち崩した傭兵や狩人の成れの果てが大半だからだ。
力づくで従わされているという雰囲気でもなかった。よほどに悪どい事をして居場所を失くしたか、元からよほどの奇人であるのか、そのどちらかだろう。
「……女なら、お嬢様方の食事になってもらうのも良いかもしれないわね」
美鈴の呟きに、女はびくりと大げさに身体を震わせた。
聞かせようと思った言葉ではなかったが、存外に耳が良いらしい。
もはや、女にとってそれは不幸でしかないのだろうが。
美鈴が一歩を踏み出すと、女は腰から短剣を抜き放って美鈴に向けた。
武器とするにはあまりに短く頼りない。探索や獣の解体に使うような代物だ。
女の背には矢筒があるが、肝心の弓がない。
恐らく、逃げる途中でどこかに落としたのだろう。
「お前たちのような連中は、どこにでも現れる」
今度ははっきりと聞かせる意図を持って、美鈴は言葉を紡いだ。
「吸血鬼退治という功名に魅せられた愚か者。どこで尾ひれがついたのやら、吸血鬼はお宝を溜め込んでいるからと奪いに来た者もいたわね。あるいは、人類の仇敵を倒さんと正義感を燃やす者もいた。そのような、お嬢様方の身辺を煩わせる害獣の末路は、貴女が想像している通りのものよ」
美鈴がさらに一歩を踏み出すと、それに合わせて女が後ずさる。美鈴の一歩の半分にも満たない距離を。
「もっとも、女なら違った末路もある。館に囲われ、お嬢様方に血液を提供する食料としての末路も。まあ、貴女の血はあまりおいしくなさそうだけど」
涙を浮かべて無益な後退を続けていた女が、不意に動きを止めた。
そして、短剣を後ろ手に持ち替えると、その刃を自らの喉に突き立てた。
「おや」
がは、と女が大量の血を吐く。
脱力して倒れこむ女に、美鈴は駆け寄った。
刃の半ば以上が喉を刺し貫き、動脈が切断されて大量の血がこぼれていた。
完全に致命傷だ。
(……脅かしすぎたか)
美鈴は女の側に膝をつくと、青竜刀を傍らに置いて右手を女の左胸にそえた。
軽く息を吸い、右手に気を集中させる。
ふ、と強い呼気と共に、女の左胸を鋭く打つ。
びくん、と女の身体が大きく跳ねる。
再び女が脱力した時、その呼吸は完全に停止していた。
どのみち始末する予定ではあっても、長く苦しませてやる理由もない。
薄く開きっぱなしの目をそっと閉じさせ、美鈴は立ち上がった。
女の死体を抱え上げ、踵を返す。
途中で男二人の身体と首も回収する。
森の獣に人間の味を覚えさせては、近隣に害をもたらしかねない。
それに、相手が何者であろうとも、遺体には相応の弔いが必要だ。
「いい場所に館を構えたものだね」
「……お世辞も過ぎれば皮肉になるものよ」
パイプをくゆらせて老紳士が語った言葉に、レミリア・スカーレットは陰鬱な面持ちで返す。
窓の外に目を向ける。月明かりに照らされるのは、針葉樹の味気ないシルエットばかりだ。
館を取り巻く高木林は、まるで檻のようだとレミリアは思う。
「『住めば都』とも言う。そう悲観したものでもないと思うのだが」
「貴方ほど達観できる気はしないわ」
余裕を崩さない老紳士に、レミリアは小さくため息をつく。
月の淡い光の中にあって、なお色濃く影を落とす二人。
夜を住処とし、影と共に生きる闇の眷属。それが彼女たちだ。
「意図したことでもないのに、随分と遠くまで来てしまったわ」
「以前は、リトアニアの東部あたりだったかね。館ごと引っ越す手腕には実に感服したものだ」
「北へ北へと逃げ続けて、今やフィンランドの北部。次は東に行って、ロシアあたりでも横切ってやろうかしらね」
冗談めかしてそう告げるも、レミリアの表情に晴れやかさはない。
そこにあるのは自嘲と、諦観と、あとは、少しの憤りだろうか。
人を魅惑し、生き血を吸い、捕らえて糧とする吸血鬼。
その脅威が人間を恐れさせ、惑わせたのは昔の話だ。
「人間は弱く、愚かで、儚い生き物。それが、これほどまでに我らの脅威となろうとは、誰も想像すらしていなかったよ」
老紳士の言葉には自戒と、いくらかの尊敬が込められているようだった。
「我ら夜の眷属は皆、競って人間を襲ったものだ。闇を祓う聖職者や優れた技を持つハンターが居ると聞けば、むしろ進んでその前に馳せ参じ、打ち倒して力を誇示し、あるいは血を吸い尽くして下僕にした。
だが、力ある者をどれほど殺しても、人間は一向にその数を減らす事はなく、力ある者はなお現れた。それも、以前の者をさらに超えた力を身につけて」
「……幾度と無く繰り返された戦いの中で、いつしか人間は、私たち闇の者を討伐することさえも可能にした。捕食者と餌食の関係は、いつしか逆転を起こし、人間は私たちを刈る者となった」
「そこまでは言い過ぎかもしれんがね。だが、一方的な狩りだったものが、対等な戦いに変わっていったのは事実だ」
技が人から人へ受け継がれ、闇を刈るハンターたちが台頭し始めると、吸血鬼をはじめとする怪物たちは急速にその数を減らす事になった。
何しろ、数があまりにも違いすぎる。百や二百を殺した程度では大勢に影響が無く、無尽蔵にも思える人という群衆の中から、怪物殺しの素養を持つ者はいくらでも現れた。
戦えば戦うほどに、怪物たちはその能力を解析されてゆき、終いには弱点を付かれて敗北する事になったのだ。
「そのうち、我らと生身で殴り合えるような者が出てきてもおかしくはないと思うよ」
そう語る老紳士の口調は、どこか楽しげですらあった。実際に笑みも浮かべていた。
「……よく笑っていられるわね」
人間に住処を追われる屈辱も、仲間を次々に失う恐れも、この老紳士にとっては過ぎた事なのだろう。
闇の者でも特に長い歴史を持つ者は、自らに振りかかる脅威をむしろ歓迎してる様子がある。
だが、レミリアはそうではなかった。
「君の憤慨と、それに対して何ら手を打てぬ悔しみは理解できる。君は、まだ500歳にも満たない若者だ。心に沸き立つ激情を抑えることは難しく、また、その激情を差し置いて逃げ回らねばならない現状は、さぞ不本意な事だろう。
だが、我らとて悠久の存在とはなり得ない。何者にも等しく訪れる滅びが、我らには『人間』という形を伴って現れたのだと、そう思うよ」
「……このヨーロッパにも、眷属はほとんどいなくなってしまった。まだ滅びていないのは、自らを封じて眠りについたわずかな者だけ。貴方はどうするの?」
「ふむ。人間の興隆にも少し興味はあるが、しばらくは眠ろうかと思っているよ。目が覚めるのは数年後か、幾億年後か、あるいは、そもそも目覚めないのかもしれんがね」
そう言って、老紳士は椅子から立ち上がった。
「いかがかね? 最後に一つ、全力での勝負というのは。森を東に抜けたあたりに、1万ヘクタールほどの空き地があっただろう」
「せっかくのお誘いだけど、遠慮しておくわ。気分じゃないの」
「そうかね。では、それは目覚めた後の楽しみにしておくとしよう」
「ええ、そうね。いつか、ね」
「その時が、もしも在るのならば」
その言葉を最後に、老紳士が身を翻す。
一瞬の後、その姿は一羽の蝙蝠に変貌していた。
蝙蝠はレミリアを一瞥し、会釈のように頭を軽く動かすと、そのまま夜の空へと飛び立っていった。
レミリアは椅子に腰掛けたまま、しばし佇んていた。
手を付けていなかった紅茶を、一口。
「……おいしくない」
いくら茶葉が良くても、淹れるモノの腕が悪ければ、味も香りも知れたものだ。
だが、紅茶を楽しめない理由がそれだけではないことを、レミリアは知っていた。
それが、老紳士の誘いを断ったのと、同じ理由である事も。
最後まで飲み干す気にならず、レミリアはカップを置いて席を立つ。
重苦しく音を立てる扉を開く。
「戻っていたのね」
部屋を出て一歩目で立ち止まり、扉の傍らに気配なく立つ影に一瞥もくれず、言う。
「三匹です。いずれも、取るに足らない相手でした。仲間が街にいるという事も、恐らくないでしょう」
影――美鈴は微動だにせぬまま、口だけを動かして返答する。
「そう。それは厄介ね」
抑揚のない声でレミリアが返す。
美鈴が始末した相手は、せいぜい少しばかり鼻が効きそうだという程度の有象無象に過ぎなかった。
追い詰めた時の挙動からして、先遣隊とも思われない。
吸血鬼の情報を掴んだ事。美鈴が出向くほどの所まで辿り着いた事。
すべて、ただの偶然に過ぎないのだろう。
つまり、あの程度の連中でも、偶然が味方しさえすれば、ここを突き止めることができる。
それはすなわち、同じような何者かが、またここに来るという事でもあった。
そして、次に来る連中が、あのような雑魚である保証はどこにもないのだ。
「パチェに伝えておきなさい。また、力を借りる時が来ると」
「早計では? 野良犬が一度入り込んだだけです」
「準備まではさせなくて良いわ。けど、転移の術式は一朝一夕では成らない。遠からず必要になる事は知らせておくべきよ」
告げて、レミリアは歩み去ろうとする。
そこで初めて、美鈴は直立不動を解いて、レミリアに向き直った。
「こちらから打って出る事もできるでしょう」
そして、意図して強い口調を用いて言った。
「この近隣に街は一つだけです。頭を押さえれば支配は容易いでしょう。いくらか出来る者を見繕って下僕とすれば、さらなる進撃の足がかりともなり得ます」
「なって、それでどうするの?」
レミリアの返答は、冷ややかというよりは、乾いたものだった。
「それに、人間に打撃を与えるだけなら、そんな事をしなくても良い。
『あの娘』を解き放つだけで、このヨーロッパの人口を二割くらいは減らすことができるでしょう」
レミリアは窓へ、その向こうの夜空へと視線を向かわせた。
「でも、それで終わりよ。未曾有の大被害をもたらした吸血鬼が、どこかの誰かによって退治されたという、英雄譚が一つできるだけ」
美鈴は、同じ方を見なかった。
見ても、同じものは見えないと思ったから。
「……私は吸血が下手くそで、下僕を作ることも好まないから、人間をほとんど殺してこなかった。吸血鬼として異端だったのでしょう。
けれど、今はもう異端ではないわ。私を異端とした者たちは、もはやこの夜のどこにもいない」
何も言わず、主の言葉をただ享受する。
「お前は主に、『どうせ死ぬなら最後にひと暴れを』などという、自暴自棄の覚悟を望んでいるの?」
月明かりは振り向いたレミリアの姿を照らすには弱く、その表情は影に隠されていた。
ただ、瞳だけが、瞬くように赤い。
答えあぐねる美鈴を尻目に、レミリアはそのまま踵を返して歩き去った。
その姿が見えなくなっても、美鈴はただ、答えるべきだった言葉を探していた。
「寝る」
と言って寝室に向かうレミリアに付き従い、夜着に袖を通すのを手伝うのが自分の役目なのかといえば、おそらく違う。
違うが、しかし、他にそういった役目に通ずる者もいないので、結局は美鈴がやらざるを得ないのである。
寝室の扉を閉じ、中の気配が完全に寝入ったと確認する。
それから、玄関を通って館の外へ出向き、朝焼けの光も完全には届かない森を駆ける。
程なくして手頃な鹿を見つけ、一つ深呼吸。
気を吐き、十歩以上の距離を一呼吸の内に詰め、掌底を打ち込む。
鹿はもんどり打ったものの倒れはせず、一目散に逃げ出す。
だが、程なくして足取りが怪しくなり、そのまま倒れた。
美鈴は倒れた鹿に歩み寄り、その身体の中心を目掛けて今一度掌底を打ち込む。
大きく身体を跳ねさせ、やがて鹿が完全に沈黙したのを確認し、片手で抱え上げて館へと戻る。
館の庭で手際よく鹿を解体し、いくつかの部位に分けて袋に詰める。
その内の一つを手に、美鈴は館の調理場へと向かった。
「ほら、今日の報酬だよ」
美鈴がそう声をかけると、ぎゃあぎゃあ、と喚くような声がそこかしこにあがる。
餌だよ、と言わないだけ、自分は親切なのではないかと思う。
調理場に詰めているのは、インプやグレムリンといった低級妖魔の類だ。
大きくても人間の子供程度の体躯しかない、非力で頭も弱い連中だ。
一応は、食料を報酬に館で雇っている小間使いという事になるだろう。この館は大きいので、こういったお手伝いはどうしても必要だ。
しかし、できることは庭いじりや掃除程度がせいぜいで、お嬢様方の身の回りを世話などとてもできない。
重要なところは結局のところ、美鈴が一人で担当するしかないのが現状である。
(別に苦労というほどでもないけど、お嬢様の身辺に侍ることのできる者が一人くらい欲しいものね)
レミリアは下僕を作りたがらないので、どこぞの町娘を攫って身辺付きに、という訳にもいかない。
「まあ、言っても詮無い事か」
独りごちて、美鈴は再び館を出る。
日中は館の警備が任務である。
と言っても、森の深奥に佇むこの館を訪れる者などいないので、門前を離れて周辺の散策をするのが主だが。
森は勾配も多く、狩人でもそうそう奥地までは踏み込んでこない。
散策で何かを見つける事というのは、極めて稀なことだ。
「……おや」
稀なことであるから、時には、こうして妙なものを見つける事もある。
(……人間、にしては小さい気配。子供かしら)
森は木々を通じて気脈が幾重にも張り巡らされており、気を読める美鈴はそれを辿る事で、かなりの広範囲にわたって気配を探り当てることができる。
今の気配も、肉眼で捉えられぬほどの距離を(視界が効きにくいせいでもあるが)、地の気脈を通じて見つけたものだ。
気配の元へ歩いて行くと、薄手の布の端々から銀の髪色を覗かせる、人間の赤子がいた。
「捨て子か」
側に座り、赤子に話しかけるように美鈴は言った。
言葉を理解したわけでもないだろうが、赤子は美鈴の顔を見て、呑気にも笑ってみせた。
何の気なしに歩み寄り、その様子を観察する。
透けるような銀色の髪。仄かに朱の差した頬はいかにも健康そうで、充分な世話を受けて育てられたと見受けられる。
それが、こうして森の遥か奥地に捨てられているという状況と、いかにもそぐわないと思えた。
(……ん?)
気配はこの赤子の他にはない。
だが、周囲を見やる美鈴の目に、もう一つ人の影が映り込んだ。
「……なるほど」
気配がないのは当然だった。
その人影は、すでに事切れていたのだから。
人影は娘だった。赤子の侍女か、もしかすると母親だろうか。
娘の脇腹には半ばから折れた矢が突き刺さっており、出血と消耗が死因となったようだ。
それほどの重傷を負って、なおこんな所までたどり着くのは、尋常ならざる執念のなせる業だろうか。
再び、美鈴は周囲の気配を探る。
数匹、おそらくは人間の気配。
慎重に歩きながら周囲を探っている様子がある。
恐らく、この娘に突き刺さった矢、その使い手だろう。
理由は分からないが、武装した人間どもに追われて、この娘はここまで逃げてきたようだ。
年端もいかない赤子を連れて。
改めて、赤子の様子を伺う。
髪の色が違うからか、あまり娘と似ているようには見えない。
肌も白く、雪の細工のようですらある。
常人には見られない容姿。概してそうした者は、周囲から排斥されるものらしい。
娘がこの赤子を連れ出して、こんな所まで逃げてきたのも、そうした理由なのだろうか?
「ふむ」
美鈴は頬に手を当てて、少し考える。
そして、赤子の前に屈み込み、そっと抱きかかえた。
赤子はキャッキャと笑って、小さい手を美鈴へと伸ばす。
軽くその手を触ってやると、美鈴は空いている腕で娘の遺体を抱え、館への道を一足飛びに駆け出した。
図書館の中はいつも気温が変わらない。
蔵書が痛まないよう、ここの主が魔法で常に調整を行っているためだと言う。
「……育て方? 人間の?」
だったら、このカビ臭い空気もキレイにすればいいのに、と美鈴はいつも思う。
「ここでなら、おおよそ必要な情報は揃うかと思いまして」
美鈴の言葉に、図書館の主――パチュリー・ノーレッジは胡散臭そうに目を細めた。
「吸血鬼用の家畜でも飼うつもり?」
言いながら、パチュリーは側の大机にさっと右手をかざす。
大きな魔法陣がその上に浮かび上がると、パチュリーは指を細かく動かして、何か操作するような仕草を見せた。
「……BX357の棚。ヒューマンの本は上の方に固まっているはずよ」
程なくしてそう告げたパチュリーは、それきり美鈴に興味を失ったかのように椅子に座り直した。
いつもそっけないが、蔵書の知識を求められて断る事はない彼女である。
礼を言って、示された棚の場所を探す。
「……あんまりよくわからないし、適当に何冊か借りればいいか」
パチュリーに聞かれたら怒られそうな事を言いながら、美鈴は数冊の本を手に図書館を辞する。
まだ明るい窓の外、新しい簡素な墓に目線をやってから、自室の向かいにある部屋の戸を開ける。
中では、小さなグレムリンの個体が、赤子に馬乗りにされて倒れていた。
「……なんともまあ、元気な子供だこと」
美鈴が館へと連れ帰った赤子は、人からすれば異様な風体のインプやグレムリンにも何ら物怖じする様子がない。
そういった者どもを恐れるには、幼すぎるのだろう。
美鈴は別のインプに借りてきた本を渡し「これを参考に世話をして。死なせないようにね」と告げた。
愉快そうにキャッキャと笑う赤子に背を向け、部屋を出る。
あのまま森に放置すれば、赤子は程なく命を落としただろう。
別に、それに同情したというわけではない。
理不尽な理由で死ぬ者も、幼くして命を落とす者も、取り立てて珍しいという事はないし、まして相手は人間である。
どちらかと言うと、興味があるのはその血だ。
レミリアお嬢様曰く、数奇な運命を持つ者の血は、特別な味わいを持つようになるらしい。
人には稀な容姿。森の奥地で守る者もなく、死を待つばかりの所を美鈴に見つけられた赤子。
子供のうちは無理でも、成長すればお嬢様方の『食料』として良質な存在となるかも知れない。
人間は弱く、脆い。
閉塞した館の空気を変える存在を、あの赤子に期待するのは難しいかも知れない。
しかし、持て余すなら処分はいつでもできる。
何か良き影響があれば良いし、無くても血の安定供給に役立つのなら、悪くはない。
美鈴は自室に戻って、少し休息を取ることにする。
もうすぐ日が暮れる。お嬢様の目覚めの時間だ。
「すぐに死ぬのがオチだと思うけどなあ」
地下室の主――フランドール・スカーレットは、開口一番にそう言った。
館の地下室に幽閉されている――と言うか、自分から引きこもっているこのお嬢様の姿を、誰かが目にする事は少ない。
そして、その誰かが美鈴以外の人物である事は、全くない。
その美鈴にしても、この地下室を訪れるのは数カ月に一度という程度の事だ。
「……こもっていらっしゃる割には、お耳の聡い事で」
フランドールは地下からほとんど出てこない。
部屋で本ばかり読んでいて、たまに新しい本を図書館に探しに行く時も、図書館の主と会話を交わす事はほとんどないという。
図書館の一角に『フランドール行き』の本棚があって、定期的に新しい本がそこに補充され、フランドールはたまに出向いて読み終わった本を戻し、新しい本を持っていく。
そういうシステムが出来上がっているらしい。
そんな風に、誰と話すでもない生活を長く続けるのは、精神的に不健康だろうと美鈴は思う。
だからこうして、たまに部屋の手入れという名目で地下を訪れるようにしているのだ。
「人間なんて脆いし、育つの遅いし、無駄に賢しいし、ペット向きじゃないでしょ」
しかし、影を放って館内の様子を探っているらしく(美鈴は一度もそれに気付けた事が無いが)、フランドールは妙に館の事情に詳しかった。
「その代わり、その血は吸血鬼のお嬢様方にとって大切なものになります」
美鈴は話しながら、部屋の調度品をさっと手入れしていく。
本棚と机と寝台以外ほとんど使われないので、掃除のしがいがあるとは言えない。
「それに、あれで案外たくましいみたいでして」
インプ達の育児は、まあ予想通りに粗末なもので、お嬢様方用の血を間違って与えそうになった事もある。
しかしそれでも、美鈴がたまに様子を見に行けば、嬉しそうに寄ってきて脚にしがみついてきた。
乱暴に扱わない事を強く言って聞かせていたからか、大きな怪我を負う事も無く順調に育っているようだ。
むしろ、グレムリン達をおもちゃ代わりに引きずり回すくらいに、元気そのものだった。
「ふーん。変なの」
「そうですね。親を恋しがるような素振りも無いですし、環境の変化に妙に適応が早いと言うか……」
「貴女のことよ。まあ、その子供も変だとは思うけど」
フランドールは美鈴を真っ直ぐに――彼女にしては珍しいことに――見て、言った。
「なーんか、随分楽しそうじゃない。たかだか人間一匹増えたくらいの事で」
「楽しそう、ですか?」
美鈴は自分の頬に手をやる。別に、にやけていたりはしなかったと思うが。
「ちょっとの変化に一喜一憂できる単純さが羨ましいわー」
「でしたら、妹様もちょっとした変化を日常に取り入れてみては? 試しに外に出てみるとか」
「この辺は寒いから嫌」
そう言うと、フランドールは寝台に転がって本を開いた。
こうなると、もう何を言っても無駄だ。美鈴は手早く部屋の手入れを済ませて、会釈を残して部屋を後にした。
「うーむ」
改めて頬に手をやり、美鈴は考える。
あの赤子を拾ったのは、ただの気まぐれだ。
興味も期待も無いではないが、どちらにせよ、さほど深く考えての事ではなかった。
美鈴は、特に人間を嫌っているわけではない。
人間どものせいで館ごと逃げ回る羽目になっているのには辟易するし、どこからか湧いてくるハンター気取りの連中には不愉快を覚えるが、どちらも自然現象のようなものだ。
人間であろうとなかろうと、邪魔なものは邪魔だし、そうでないものはそうではない。
しかし、だからといって特に好む理由もない。
あの赤子がすくすくと育っている事は、一つの命として考えれば微笑ましい事だし、その行く末を思えば哀れとも言える。
その成長を見守る事を、楽しいと思う理由があるだろうか。
「環境の変化に対して、人は自ずと期待を抱くものよ。その結果が悪い方に傾かなければ、感情はポジティブな方向に向かうでしょう」
パチュリーは抑揚のない声でそう語る。
「期待と結果、ですか。まあ、健康に育っているのは結構なことだとは思いますが……」
血を提供させるなり、館の雑用をさせるなり、何にせよきちんと成長してもらわねばならない。
そういう意味では、あの赤子は美鈴の期待に今のところは応えていると言えるのだろう。
「腑に落ちない?」
そう言ってから初めて、パチュリーは美鈴に向き直った。
「……あの子の様子を見に行く時に、特に何かを思ったりしないんですよ。もしかするとインプ達が何かやらかして、あっけなく死んでいたりしてもおかしくないと思うんですが、あまり、そういう事が心配にならないと言いますか」
「最初はそうでも、接している内に親心が芽生えたりしたかも知れないわよ」
「そうであれば、未だに名前もつけず放任してはおかないでしょう」
美鈴は、あの赤子に特別な感情を持っていない。
少なくとも自分ではそう思っている。
「動物であれ物であれ、近くに接し続けるものには自然と愛着も湧くものじゃない?」
「まあ、それは否定しませんがね」
フランドールは美鈴に「楽しそう」といった。
実際、そうなのかもしれない。
赤子という存在が日々にもたらした変化は、沈みがちだった美鈴の心を軽くする効果があったかもしれない。
だが、その変化は、実際に楽しさを感じるほどの事だろうか。
それが美鈴には疑問でならなかった。
赤子の部屋を自室の向かいに設けたのは、何かがあった時にすぐ向かえた方が良かろうという判断による。
しかし実際のところ、赤子の身に何かがあった所で、暇でもなければわざわざ駆けつけたりはしないようにも思われた。
何かを飼育する者として、ふさわしい態度とは言えないだろう。
美鈴は戸を開き、赤子の部屋に踏み入る。
インプの一体に馬乗りになり、赤子はキャッキャと笑っていた。
乗られている方は遊び相手に疲れたのか、ぐったりと四肢を投げ出している。
ものの分別もつかぬ年頃とは言え、よくもこう楽しそうにしていられるものだ。
部屋の外を通り掛かる時には、泣いている声もよく聞こえてくるので、赤子らしい生活を満喫しているという事かもしれない。
赤子は美鈴を見つけると、おぼつかないながらもひとり歩きで寄ってきて、脚にしがみつく。
この赤子は日々世話をしているインプ達のことを、どうもオモチャ扱いしているフシがある。
一方、美鈴に対しては、こうして甘えるように擦り寄ってくる。
人間と同等の容姿を持つ美鈴のことを、家族とでも思っているのだろうか。
赤子をそっと抱き上げる。
無邪気に笑うその顔を、目の前に持ってくる。
「私達は、そのうちお前を喰うんだぞー……」
小さくささやく。
赤子が理解した様子は、もちろんない。
美鈴が様子を見に来る時、赤子はいつも楽しそうにしている。
それと同じくらい、よく泣いてもいるようだし、騒がしさはこの部屋から途絶える事がない。
ふと思い立ち、美鈴は赤子をソファに座らせて、窓辺に向かい外を見る。
館の周囲は雑多に草が生い茂り、その外は針葉樹に囲まれている。
門の内側は雑草を適当に刈っただけで、手入れの行き届いた風景とは言えない。
花の一つもなければ、獣や虫もあまり寄り付かない。
館の中に目を向ければ、決まった時間に館内の掃除がある以外は、いつも閑散としている。
主のレミリアは日夜自室で物思いに耽り、フランドールは地下室にこもり、パチュリーは図書館でただ本を読む。
この館には音がなく、そして色がなかった。
広い館の中で、この部屋だけが、命の音をやかましく鳴らしている。
美鈴は窓を離れ、もう一度赤子を抱き上げ、頭をそっと撫でてやる。
赤子は嬉しそうにキャッキャと笑った。いつものように。
「……なんで?」
ただ疑問だという表情で、レミリアはそう言った。
「お嬢様もたまには身体を動かされませんと」
笑顔で誘う美鈴に「気分じゃない」と返すレミリア。
だが、美鈴は「そうおっしゃらずに」と食い下がる。
「それに、私も日々の修行を欠かしておりません。以前のように軽くあしらえるとはお思いにならないで頂きたいですね」
「……私としては、それも疑問なのだけどね。今さらいくらか身体を鍛えて何になるというのやら」
「まあまあ、ここは一つ胸を貸していただくという事で、どうか」
はあ、とレミリアはため息を一つ。
「お前がそんなに食い下がるのは珍しいね。何かあったの?」
「あったと言えばありましたし、無かったと言えば無かったのでしょう」
何よそれ、と言いながらレミリアは立ち上がる。
「ま、お前がそこまで言うのなら、付き合ってやらなくもないけれど……」
軽い足取りで美鈴の横を通り過ぎようとして、立ち止まる。
その足元から赤黒い妖気が立ち上り、渦巻く妖力の奔流が美鈴をも巻き込んだ。
「このところ私は機嫌が良くない。手加減を期待するなよ?」
「それは重畳。では、私も怪我を負わせぬような気遣いをしなくて良さそうですね」
ギロリ、と紅い瞳で美鈴を睨みつけ、レミリアは部屋を出ていく。
美鈴はその後に続いた。
手合わせをしてください。美鈴がレミリアに言ったのはそれだけだ。
勝ち負けの取り決めは無い。命の保証さえも。
「得物は使わないの?」
森を東に抜けた空き地に降り立ち、美鈴に背を向けたままレミリアは問いかける。
「私にとっては、武器を取るのは手加減になります。お望みでしたら使いますが?」
美鈴は手を後ろに組み、直立の姿勢で返す。
「何をそんなに挑発したがっているのか知らないけど……」
声だけは軽い調子のまま、レミリアが振り返る。
「そんなにお望みなら、全力で壊してやろう」
そう言って、レミリアは大地を蹴る。
十メートル以上はあろう距離を、一呼吸の内に詰める。
そして、引いた左腕を突き出す。空気を斬り裂くほどの速度で。
美鈴は右手側、レミリアの左腕の外へと身体を傾けて拳を回避する。
風圧が美鈴の長い髪を大きく揺らした。
拳を突き出した勢いを、レミリアは左足を前に出して止める。
背後へと回った美鈴へ、握った右手を振り回して叩きつける。
美鈴は畳んだ右足を高く上げて、そのぶん回しを受け止めた。
不安定な片足立ちで自分の攻撃を受け止められたことに、レミリアが少なからず驚愕を表情に映す
美鈴は上げた右足を大きく踏み出し、身体を沈める。
右肩をレミリアの身体に押し付け、鋭く突き出す。
僅かな動作だったが、見合わぬ派手さでレミリアの身体がふっ飛ばされた。
数メートルの距離を飛んだレミリアが、着地して身体を起こす。
美鈴は再び直立不動の姿勢に戻る。
ここに至るまで、美鈴は一度として後ろに組んだ手を解かなかった。
「……私を舐めているか、美鈴?」
「これが全力という事であれば、そうなるでしょう」
レミリアは無表情に美鈴を見つめていた。
ただ、大いなる怒気をはらんで、赤黒い妖気が周囲を包むように広がった。
満月の明かりに照らされた広場が、レミリアの妖気によって暗闇へと近づく。
その中で、レミリアの両目だけが、紅く、鋭く輝いていた。
妖気の奔流が生み出す闇に溶けるように、レミリアの姿が消える。
一瞬の後、美鈴の頭上、濃さを増した闇の中からレミリアの姿が這い出る。
妖気を纏わせた拳を、思い切り美鈴の頭目掛けて繰り出す。
美鈴は、レミリアの方に一瞥もくれず、身体を正面へと深く倒す。
空を切ったレミリアの一撃が生み出す余波が、地の草を放射状に揺らがせた。
美鈴は倒した身体を片手で支え、前転の要領で身体を回転させると、揃えた両足での鋭い蹴りを上方へと繰り出す。
「ぐっ!」
蹴りは闇に包まれたレミリアの身体を的確に捉えた。
そのまま、美鈴は腕の力だけで跳躍すると、空中で身を翻し後ろ蹴りを放つ。
鈍い音と共に、空中に浮いたレミリアがふっ飛ばされる。
美鈴は片足で着地し、再び両手を後ろに組む。
レミリアは空中でくるりと身体を一回転し、軽い調子で着地した。
後ろ蹴りを受け止めた右腕を軽く振る。
「あまり調子に――」
レミリアが言い終わる前に、今度は美鈴が前に出る。
一足飛びに距離を詰め、右足を軽く上げて前蹴りの構え。
しかしそれはフェイントで、さらに踏み込んで身体を沈め水面蹴りを放つ。
脚を払われ、レミリアの身体が浮く。
倒れないよう、とっさに右手を地に突く。
美鈴はしゃがんだ姿勢を起こし、右足を上げる。
天を突くように高く掲げられた脚を、レミリアの首元目掛けて振り下ろす。
ばし、と。
その一撃を、レミリアは空いていた左手で軽く受け止めた。
「!!」
「調子に乗るな、と言おうとしたんだ」
驚愕に目を見開く美鈴に、レミリアは不敵な笑みで返した。
脚を突いて身体を起こしつつ、レミリアは左腕をぐるりと振り回した。
その手に掴んだ美鈴の身体ごと。
そのまま、背後の地面に叩きつける。
「ぐっ……!!」
美鈴は両手を地面に突き、かろうじて顔面から地面に激突するのは回避した。
冗談じみた膂力だ。そのまま叩きつけられていたら、美鈴の身体で地面に穴ができたかもしれない。
ふ、とレミリアは軽く笑う。
そして、今度は右手も添えて美鈴の脚を掴み直すと、勢い良く振り回し始めた。
風船のように軽々と、猛烈な勢いをつけて美鈴の身体を投擲する。
「――――っ!!!」
声にならない悲鳴を上げ、それでも、美鈴は投擲された方向へと身体の向きを直す。
視界の先には大木。両手両足を前に突き出し、受け身を取る。
美鈴の身体の何倍もの太さを持つ大木が、衝撃で大きく揺らぐ。
その背中に、肩を突き出したレミリアの体当たりがめり込んだ。
「がっ……は……!」
衝撃が、先にも増して大木を揺らがせる。
肺の中の空気を全て吐き出し、美鈴の視界が明滅した。
「…………ッ!」
美鈴は歯を食いしばり、上半身を捻って肘を打ち下ろす。
背中を打ち据えられ、レミリアは勢い良く地面に突っ伏した。
続けざまに美鈴は蹴りを繰り出す。
が、これは素早く飛び起きたレミリアの身体を捉えず、空を切る。
「ようやく腕を使ったな」
まるで普段と変わらない調子で、レミリアはそう言った。
蹴りは躱されたが、肘はまともに入っている。
それに、何の痛痒も覚えていないかのように。
対する美鈴は、腰を落とし両足を開く構えをとって、油断なくレミリアを見据える。
本当は、先の蹴りに続いてすぐさま追撃をかけるつもりだった。
だが、背中に負ったダメージが思った以上に深刻で、脚を踏み出す事ができなかった。
「……そうやって、したり顔で笑っていらっしゃる方が、お嬢様らしいですよ」
ぴく、とレミリアが笑みを消して反応する。
「まさか、そんな話がしたかったのか?」
「さあ、どうでしょうか」
その言葉と共に、美鈴は駆け出した。
上半身をほとんど動かさない、ごく小さな駆け足。
それでも、彼我の距離を一瞬の内に詰め、レミリアに肉薄する。
鼻息がかかるほどの至近距離。そこで止まり、二人は視線を合わせた。
美鈴のほうが遥かに身長が高い。レミリアは自然と見上げる形になる。
レミリアは右手を貫手に構え、美鈴の脇腹目掛けて突きを放つ。
その肘の内側を美鈴の左手が押さえ、貫手を止める。
レミリアは貫手を開き、美鈴の左腕を掴んだ。
そのまま、骨を握りつぶしてやろうと力を込める。
力が加わった瞬間、美鈴は左腕を捻るようにして引く。
腕の方に力を集中していたレミリアは、勢いに思わず身体のバランスを崩す。
美鈴は左の足先をレミリアの脚に引っ掛けると、思い切り跳ね上げた。
レミリアの身体が勢い良く浮き、上下逆さまの姿勢で中空に放り出される。
脚を降ろし、背を向け、軸足を引く。
「はっ!」
裂帛の気合と共に、背中からの体当たり――鉄山靠を放つ。
それは、浮いたレミリアの身体を正面から捉え、吹っ飛ばした。
「……うぐっ!?」
否。吹っ飛んではいない。
レミリアの両手が、それぞれ美鈴の右腕と、左肩を掴んでいた。
鉄山靠を食らって吹っ飛ぶ瞬間、美鈴の身体を掴まえて踏ん張ったのだ。
レミリアはそのまま空中で身体を丸め、揃えた両足を美鈴の背中目掛けて蹴り出した。
「ぐあっ!!」
威力をもろに受け、ふっ飛ばされて転がった。
手をつきすぐに立ち上がろうとするが、二度目の背中への直撃は深いダメージを残しており、膝立ちでかろうじて身体を起こすに留まった。
一方、レミリアも着地はしたものの、すぐに立ち上がらずしゃがみこんだままだった。
ちらと美鈴に一瞥をくれると、口元を拭い血の混じった唾を吐き捨てた。
正面から美鈴の技を喰らい、さしもの夜の王も無傷ではいられなかったようだ。
美鈴ほどには深刻なダメージでは無かっただろうが。
ゆるり、と、レミリアが立ち上がる。
月明かりを背に浴びて影を濃くした中、瞳だけが妖しく輝いている。
美鈴は、話しかけようとしてやめた。
会話で時間を稼げば、少しでもダメージの回復を待つ事はできる。
そのような姑息は、美しくないと思った。
この瞳は、それを許さないと。
レミリアが地面を蹴る。
小さく鋭い跳躍から、空中で一回転。その勢いを乗せて爪を振り下ろす。
美鈴は立ち上がりつつ身体を半回転させ、爪の軌道から逸らす。
打ち下ろされた爪は地面に打ち付けられ、衝撃とともに地面を穿った。
レミリアと美鈴の視線が再び交わる。
着地したレミリアが、地面を抉った右腕をさらに振り回し、美鈴へと繰り出す。
美鈴は下がらず、逆に一歩を踏み出した。
今度は完全に密着し、腕の軌道の内側へと身体を滑り込ませた。
美鈴は左拳を握り、そっとレミリアの腹部に押し付けた。
握りを強くし、気を吐き、小さく突き出す。
僅かな動作でも充分な『気』を乗せたそれは、どんな武器よりも鋭い破壊力を生み出す。
吸血鬼、レミリア・スカーレットの身体をも穿つ威力を。
実際には、その拳は、レミリアの身体を軽く押しただけだった。
レミリアは左手で無造作に美鈴の頭を掴む。
そのまま、勢い良く地面に叩きつける。
美鈴の頭が大地を穿ち、そのまま大の字に倒れる。
美鈴が身体に充足させた『気』の力。
恐るべき破壊力を、あるいは鋼の防御力を生み出すそれらは、レミリアの攻撃を受け続ける中で消耗し、もはや底をついていた。
もし、最後の一撃が充分な『気』を伴っていたなら、倒れていたのはレミリアの方だったかもしれない。
完全に沈黙した美鈴の頭を離し、レミリアは深く息をつく。
そのまま、ぺたんと地面に座り込んだ。
「……本当に、お前の頑丈さには呆れるよ」
ぽつり、とレミリアが声をかける。
沈黙していた美鈴の目がぱちくりと開き、ふふ、と小さく笑った。
「褒め言葉と受け取っても?」
「良い」
気の力を使い果たしてなお、この耐久力。
これが、レミリアが美鈴をもっとも評価する点だった。
「結局、何がしたかったのよ」
ちらと美鈴を見やり、レミリアはそう問いかける。
「楽しくなかったですか?」
美鈴は夜空を見上げたまま、問い返す。
「私は楽しいです」
何が、とレミリアが返す前に、美鈴は言葉を継ぐ。
「私は身体を動かすのが好きです。毎日コツコツと鍛錬を積んで、少しづつ強くなるのが楽しいです」
レミリアに語るというよりは、ただ自分の想いを言葉にしたいのだというように、美鈴は続けた。
「かつては手も足も出なかったレミリアお嬢様を相手に、膝をつかせるまでの力を身につけました。そうやって、自分の成長を実感できる事は、何にも勝る喜びです」
「……単純だな」
「単純でなければ、それは楽しさではないでしょう」
美鈴は夜空に手を伸ばす。何かを掴もうとするかのように。
「私には、手に入れられないものが沢山あります」
ぎゅ、と手を握る。
「私の脚は思ったように速くはなく、拳は思ったほどに強くはない。目指す高みは遥かに遠いし、大切な人たちは暗い顔をして、その憂いを晴らす事もできません。
でも、最近思うのです。そんな事は、些細なことではないかと」
握った手をぱっと開き、美鈴はまた大の字になる。
「本当は、多分、私はそんな大層な事を考えていないのです。ただ、訓練が好きで、強くなるのが楽しくて、強くなったと実感するのが嬉しいだけ。皆が暗い顔をしてると楽しくないなあ、とか、考えているのはその程度のことです」
ふ、とレミリアが笑う。
「その方が、お前らしいんじゃないか」
「私もそう思います」
そう返して、美鈴は顔をレミリアに向けた。
「お嬢様はどうですか? 楽しいことは、ありますか?」
その言葉に、レミリアは何かを言い返そうとした。
何も言葉は出なかったし、自分が何を言おうとしたのかも、分からなかった。
「お嬢様は、花がお好きでしたね。それなら、館の庭を花畑にしてみてはいかがでしょう? 季節ごとに様々な花が咲いて、きっととても綺麗ですよ。
お嬢様は、紅茶がお好きでしたね。誰かに上手な淹れ方を覚えさせてみましょうか? 毎日の紅茶が日々の楽しみになれば、生活にも張りが出ると思います。
お嬢様は、本を読まれないのでしたね。パチュリー様に、おすすめの本を聞いてみてはいかがですか? 新しい趣味が見つかるかもしれませんよ」
レミリアは美鈴から目を逸らして、ただ正面を見つめていた。
何か、返すべき言葉が出てくると思っていた。自分はそんなに惨めな日々を送っていはいないと。
美鈴の言葉は、レミリアに対してというよりは、己を含めた館の全てのものに向けているように思えた。
だから、何も言えなかったのかもしれない。
「お嬢様は私よりずっと、未来のことがお見えになる。私には及びもつかない憂いが、そこにはあるのかもしれません。
では、その憂いを前に、花は色あせ、紅茶の香りは失せるものでしょうか?」
「……いいや、そんな事はないさ」
ようやく口に上ったのは、ひどく簡単な同意の言葉だった。
「いつか訪れる、誰にも等しく訪れる滅びを想い、目の前の日々を暗澹と過ごすのは愚かなことだ。生き物も死に物も、最後に訪れるものに違いなどない」
「では、大事なのは、それまでに何を為したかという事でしょうか?」
「それも違う。何を為し、何を為さなかったかなど、本人の主観の問題でしかない。お前が……」
逸らした目を、レミリアはもう一度美鈴に向けた。
美鈴は、ずっとレミリアを見ていた。
「お前が納得すれば良いのだ。自分はこれで良いのだと。
そこに己への欺瞞や、他者への無為な見栄がなければ良い」
己自身も、培った何もかも、いずれ失われる事。それは運命だった。
何者も運命を変えることができないように、運命もまた、何を変えることも、何をもたらすこともない。
希望も絶望も、喜びも悲しみも、全て運命とは関係ない、全く別の所にあるものだ。
「お前の納得する己とはなんだ?」
どこか悪戯っぽく微笑んで、レミリアは問う。
「私は、私の大切な人たちが笑顔でいられれば良いと思います。もちろん、私自身も含めて」
「そうか」
レミリアは夜空を見上げた。先程までの美鈴と同じように。
「私も同じだ」
同じものを見て、きっと、同じことを想っている。
レミリアはすっと立ち上がりながら、美鈴に声をかける。
「そんな事を言い出すのは、赤子の世話で母性でも目覚めたから?」
「そうだとしたら、私の言葉はあの子の言葉も同然ですね」
「……それはなんか不愉快ね」
半眼で眉をひそめるレミリア。ようやっと立ち上がる美鈴に手を貸す事もなく、そのまま歩き出す。
が、すぐに立ち止まり、肩越しに美鈴を振り返る。
「今日はもういいから、戻ったらしっかり身体を休めなさい。明日から花畑づくりに紅茶の準備と、仕事が大幅に増えるんだから」
「……花はともかく、紅茶は苦手ですねえ。インプ達にやらせるのでは今までと同じですし、いっそ、あの子に仕込んではどうですか? ついでに今から家事全般を教えていけば、立派な使用人になるでしょう」
「いつになるのよ。気の長い話ね」
「だからこそ良い。そうではないですか?」
「違いないわ」
その言葉と共に、レミリアは夜の空に飛び立った。
いずれあの赤子に何かをさせるのなら、ただ生かしておくだけではなく、きちんと教育しなければいけない。
「私一人じゃ無理があるし、パチュリー様にも協力を仰がないとなあ。それに、名前も考えないと」
いっそ、レミリアお嬢様に考えてもらおうか、と美鈴は思う。
あれで凝り性なお嬢様は、きっと似合う名前を一生懸命考えるだろう。
明日から忙しくなる。訓練の時間を削ることにもなるかもしれない。
でも、嫌だとは、少しも思わなかった。
レミリアの後を追い、美鈴は飛び立って館へと戻る。
夜はまだ長い。けれど、その道程は暗闇ではなかった。
続きも読みたくなる雰囲気でしたね
贅沢を言わせてもらうと、レミリア戦がやや冗長で退屈な印象でした。
動きが想像できる丁寧な描写で良かったのですが、日常パートが無駄なく楽しめたため、
引き込まれるはずの戦闘場面で逆に中だるみをするような違和感があったのだと思います。
いずれにせよ今後の投稿も楽しみにしています。
吸血鬼の老紳士からどこぞの拳で語る髭ダンディの香りが…
特に美鈴。
美鈴が生きていたら、実際にこう喋るんじゃないかというリアリティに圧倒された。
単純だけど、その自分の単純さを理解しているカッコいい美鈴だった。