珍しく風邪を引いた。
咳やくしゃみは出ないけれど、鼻水が止めどなく垂れてくるので息苦しいし、鼻をかみ過ぎて鼻の下がヒリヒリする。身体が火照って頭がぼーっとする。節々が痛む。身体が重くて、鉛でも入れられてしまったのではないかと錯覚してしまう程だ。吐き気があるので、とてもじゃあないけれど食事をしようと思えない。
私史上最高に体調が悪い。絶不調だわ。人里で流行っている風邪でも貰ってきてしまったのだろうか。
良いから寝なさい。と、お嬢様からお休みを言いつけられてから半日が経った。
この紅魔館で生活をするようになってから、これ程長い時間ベッドの上で過ごしたのは数える程しかなかったと記憶している。勿論、睡眠時間は除くわよ。
メイドという仕事は体力勝負だ。風邪なんて引いている暇なんてないのだ。そもそも、紅魔館で生活している者の中で風邪を引くのは人間である私ぐらいなもので、吸血鬼であるお嬢様と妹様は身体の丈夫さが売りの種族だし、パチュリー様は病弱で喘息持ちだけれど風邪は引かない。馬鹿は風邪を引かないと言う言葉を体で表現している美鈴、年中元気な小悪魔と妖精メイド達も風邪とは無縁だ。
普段は気にもしていないけれど、風邪を引くとやはり種族の差を感じてしまう。
そうして少しだけセンチな気分になる。
突然だけれど、私には恋人がいる。彼の名は仕事。いつ何時も彼の事を考えてしまう程にぞっこんなのだ。勿論風邪で倒れていても例外ではない。
妖精メイド達は私がいなくてもサボらずに働いているだろうか?
パチュリー様には小悪魔が付いているから問題ないだろうけれど、お嬢様と妹様のお世話は問題なくできているのだろうか? 食材の買い出しは昨日の昼に行ったので食べる物が無いなんて事態には陥らないだろう。それに妖精メイドの中には料理を教えている子がいるので、何かしらは作れるだろうけど栄養バランスまでは気にかけないだろう。
お掃除は大丈夫だろうか? お嬢様や妹様は気にされないけれど、パチュリー様は喘息持ちだから館内の埃は徹底的に取り除かなければいけない。妖精メイド達は掃除の最中でも平気で遊び出すような子ばかりだから不安でしょうがない。
お洗濯は大丈夫だろうか? 真っ白なベッドシーツと色物を一緒に洗ってはいないだろうか? お嬢様は真っ白なベッドシーツでないと寝付きが悪いのだ。
あぁ心配だ。少し様子を見に行こう。
ベッドから這い出て、スリッパを履く。少し寒気がするのでクローゼットからカーディガンを取り出して羽織った。
先日、人里で買った可愛らしいカーディガン。まだ衣替えをしていなかったので、クローゼットには夏物しかなく、お出かけ用にと買ったそのカーディガンに仕方なく袖を通した。
お嬢様とお散歩に出かける時や、美鈴と一緒に買い物に出かける時に羽織ろうと思って購入した少し値の張るカーディガン。私も不服だがカーディガンも不服に思っているだろう。病人を温める為に着られるなんてね。
熱があると思考回路が暴走してへんちくりんな事を考える。カーディガンの反乱が起こるかもしれないわ。なんて事を真剣に悩み始めた時、ノックの音が寝室に響いて私を冷静にさせてくれた。
「咲夜さん、具合どうですか?」と、ドアの隙間からひょっこりと顔を覗かせたのは美鈴だった。
そして私を見ると血相を変えて駆け寄ってくる。
「あーほら、寝てないと駄目ですよ。それともお手洗いですか?」
「半日ずっと寝ていたからもうすっかり回復したわ」
「それは良かったです」と、言いながらそっと私の額に手を当てる。
そして「まだ熱はあるみたいですね」と、言い私の手を引きベッドへと向かう。
「これくらいの熱は何ともないから」と、美鈴の手を振りほどきながら返す。
「そういう事は左右のスリッパを間違えずに履けてから言ってください」
慌てて足元を確認する。美鈴は変な所で鋭い。
「わかったわよ。大人しく寝るから一つだけお願いを聞いて」
「一緒に寝て欲しいんですか?」
「ナイフを刺されたい場所はどこ?」
「冗談ですよ。何ですか? お願いって」
「妖精メイド達がちゃんと仕事をしているか確認したいの」
「あぁ、そんな事ですか。どの子もサボらず一生懸命にやってくれていますよ。日頃の上司の指導の賜物ですね」
ベッドに腰掛け美鈴を見る。いつも気の抜けている顔をふにゃっとさせて更に気の抜けた笑顔を作った。
「この目で見ないと信じない。そんな顔をされていますね」
「疑り深いのよ」
「駄目ですよ。部下を信じてあげないと」
「そうしたいのだけれど、生憎居眠り癖の酷い部下がいてね」
「そんな奴には私からキツく言っておきます。兎に角、咲夜さんはまだ寝ていてください」
「わかったわよ。大人しく寝ているから」
その一言を聞くと美鈴はにっこりと笑顔を浮かべた。
美鈴は意外と頑固なのだ。こう言いだしたら説得するのに苦労するだろう。ちょっときついけど、時間を止めて逃げてやろうと考えた。
能力を発動させようと意識を集中させる。が、肩をポンっと突かれる。バランスを崩し、ベッドの上に仰向けに倒れてしまう。
「駄目と言ったら駄目です」
もうっと、頬を膨らませ毛布に潜り込む。
美鈴はその能力の所為か、察知能力が驚く程高い。
美鈴曰く、私の時間を操る能力に限らず、人間、妖怪は体内に流れる気を使い能力だったり技を発動させる。……らしい。
相手の気の流れを察知し攻撃を予測する。宣誓してからの攻撃が前提の弾幕ごっこでは余り活躍できい能力だが、スペルカード無しの純粋な格闘戦では強力な能力だと私は思っているし、実際に接近戦ではいつも手を抜かれている様に感じている。
「もうすぐ夕食の準備ができるのでお持ちしますね」
「食欲無い」
「まぁまぁ、何かしら口に入れないと良くないですから。我慢して食べてくださいね」
そう言うと美鈴は部屋から出て行った。
美鈴が戻ってこない事を確認してからこっそり能力を使おうとしたが、どうやら気の流れを乱すツボを突かれたようで上手く発動しない。美鈴は変なところで気が効くのだ。
仕方なくその優しさを甘んじて受けようと諦めて瞳を閉じた。
二、三十分後、再び美鈴が部屋にやって来た。先程と違い、左手にシルバーのトレイを乗せて。
「ご飯ですよ」
その一言と一緒に食欲を唆る香りが部屋中に広がる。どんなに体調が悪くて食欲が無くても、この香りを嗅いでしまうと嫌でもお腹の虫が鳴き声を上げてしまう。
「随分と良い匂い」
「えぇ、腕によりをかけて作りましたから。ささ、冷める前に召し上がってください」
トレイをテーブルに置くとゆっくりとベッドに歩み寄り、私の背中にそっと手を添えて起き上がらせてくれた。
スリッパの左右を間違えない様に履いて、カーディガンを羽織ってテーブルへと向かう。期待を胸に椅子に腰掛け、トレイに乗せられた美鈴の自信作を覗き込む。
「ハンバーグ……」
「咲夜さん好きでしょう?」
「好きだけど、こういう時ってもっと消化に良い物じゃない?」
「リゾットかお粥で悩んだのですが……」
「その二択からハンバーグに辿り着いたあなたの思考回路に脱帽よ」
「えへへ」と、右手で後頭部を摩る。
「褒めてないわよ」
「まぁまぁ、一口だけでも。おっと、お冷をお持ちするのを忘れていましたね。すぐに取ってきます」
そう言うと美鈴は颯爽と私の寝室から出て行った。
折角作ってくれたものだから一口位は食べてあげないとね。と、私は観念してナイフとフォークを手に取る。
左手に持ったフォークをハンバーグにそっと差し込む。と、同時に肉汁が溢れ出る。肉の脂が溶け込んだ肉汁はキラキラと輝きながら止めどなく溢れ出る。
右手に持ったナイフで一口の大きさに切る。ハンバーグは驚く程柔らかく、力を入れずに切り分ける事が出来た。断面から立ち上る蒸気を吸い込むと鼻が詰まっているのにも関わらず、スパイスの香りがしっかりと感じ取れた。クミンとターメリックの良い香りだ。消化器の機能を助ける働きがあるので、弱っている私にも食べやすい様に多めに入れてあるのだろう。気が利く美鈴らしいと思った。
さて、お味の方は……。
私は期待を胸にハンバーグを口へと運んだ。
歯応えは驚く程柔らかい。一、二回程噛んだだけで肉の塊は溶けてしまう。赤身と脂身のバランスが良く、こってりしすぎない配合になっている。口の中に広がる肉の旨みとスパイスの香りが混ざり合って鼻腔へと抜けていく。
飲み込んだ後に残るのは飴色になる迄炒めた玉葱の甘みだった。
「美味しい」と、無意識の内に呟いていた。
美鈴が聞いたら調子に乗りそうだと思い、慌てて周りに誰もいなかった事を確認する。
ぽつりと机の上に水滴が落ちた。
嫌だ。涎でも垂らしてしまったのだろうかと、慌てて口元を拭うが涎は付いていなかった。
ぽつり、またぽつりと水滴が落ちる。頬に手を当てると暖かい液体が人差し指をつたい、手の甲へと流れた。
「涙?」
なぜ泣いているのだろうか? 理由もわからずに私は涙を流しながらハンバーグを食べ続けた。
ハンバーグを半分ほど食べ終えた頃に美鈴は戻って来た。
もちろん、涙を流しながらハンバーグを食べる私を見て驚いた事は言わなくてもわかってもらえるだろう。
「そんなに私の作ったハンバーグが美味しかったですか?」
「えぇ、美味しい」
その返事を聞くと美鈴は黙り込み、何かを考える様に右手を顎にあて首を捻った。
「風邪っ引きの咲夜さんは素直で可愛いですね。いっそこのままずっと風邪を引いていて下さい。毎日優しく看病して差し上げますので」
言葉よりも先に手が出てしまい、美鈴の額にはナイフが刺さっていた。
「少し褒めたからって調子に乗らないの」
額のナイフを抜きながら美鈴はにこにこと笑顔を浮かべる。
「照れ隠しにナイフを投げるのは駄目ですよ。人間相手なら死んでいます」
「相手は選んで投げているつもりよ」
「おぉ、つまり私は咲夜さんに選ばれた相手という事ですね」
懲りずに悪戯な笑顔を浮かべる美鈴に追加のナイフを投げつける。
結局、ハンバーグはぺろりと食べきることができたが、食べ終わるまで何本も美鈴にナイフを投げつけたので少し疲れた。
「残さず全部食べられましたね。偉いです」
美鈴のその一言を聞いて蘇る一つの記憶。
あぁ、そうか。私が泣いてしまった理由がわかった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
今から十数年前の古い記憶。
どんよりと曇った空の下、レミリアお嬢様に手を引かれ歩く。そして、たどり着いた紅いお屋敷の前でこう言われた。
「今日からここがお前のお家だよ」
見上げるほど大きな門。その先に広がる美しい庭園。私はここが天国なのではないかと錯覚してしまった。赤い花々が行儀良く咲いていて、何匹もの蝶が舞っていた。そして庭園を見下ろすように聳える紅い大きい館。
突然、ここが家だと言われても実感が沸かなかった。そもそも吸血鬼に連れてこられた時点で私はある程度の覚悟を決めていたのだ。
親もいないし、空腹を紛らわす為にゴミだって漁った。スラムの子だと罵られたり指さしされる事は日常茶飯事だった。だから、お嬢様にこの手を取られた時に少し先の未来を想像したのだ。まだ私と大して歳が変わらなそうなこの吸血鬼に血を吸われて死んでしまうのだろうと。
ところが連れてこられた一室で私は勘違いに気付いたのだ。
東洋の民族衣装を纏った赤毛のお姉さんがそこにはいて、この屋敷の家事を切り盛りしていると自己紹介された。見ているこちらまで脱力してしまう様な気の抜けた笑顔を浮かべたその人は自分を、美鈴お姉さんとでも呼んで下さいね。と、少しだけ照れ臭そうに笑った。
「あらら、顔も服も泥だらけですね。女の子がこんなに汚れて可哀想に。お風呂に案内するので汚れを落としましょう」
彼女は笑顔を私に向けると、お腹空いてませんか? と、気の抜けたその笑顔を更にふにゃっとさせた。
その問いに私はどんな返事をしたのかはっきりと覚えていないのだけれど、お風呂から上がった私に彼女はハンバーグを作ってくれたのだ。
「人間の子供が何を食べるのかわからなかったので、図書館でレシピ借りて作りました。お口に合えば良いんですが……」
温かい食事をするのは何年ぶりだろうか? 私の記憶の中では数えるほどしかなかったと記憶していた。この世にこんな美味しい食べ物があったのか。と、私は目を丸くして美鈴を見上げた。
「どうですか?」
「美味しい」
「えへへ、腕によりをかけて作りましたから。さあさぁ、おかわりも用意してありますから沢山食べてくださいね」
口一杯にハンバーグを頬張りながら私は首を大きく縦に振って美鈴に返事をした。
そして、あっという間にハンバーグを平らげた。満腹感で満たされると何故だか涙が溢れてきた。
人にこんなに親切にしてもらった事は今の今まで無かったし、お腹一杯になるまで食事ができた事も人生で初めての経験だった。優しい笑顔を向けてくれる人に出会ったのも初めてだった。
なんだか良く分からない感情が沸き上がり、胸が苦しかった。
「ご飯を食べ終えたら、ごちそうさまでした。と、言います。さぁ、私に続いて」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「ごちそうさまでした。美鈴お姉さん」と、幼い頃の様に言ってみる。
横目に映った美鈴は少しだけ恥ずかしそうに、優しいその顔をいつかの様にふにゃっとさせた。
咳やくしゃみは出ないけれど、鼻水が止めどなく垂れてくるので息苦しいし、鼻をかみ過ぎて鼻の下がヒリヒリする。身体が火照って頭がぼーっとする。節々が痛む。身体が重くて、鉛でも入れられてしまったのではないかと錯覚してしまう程だ。吐き気があるので、とてもじゃあないけれど食事をしようと思えない。
私史上最高に体調が悪い。絶不調だわ。人里で流行っている風邪でも貰ってきてしまったのだろうか。
良いから寝なさい。と、お嬢様からお休みを言いつけられてから半日が経った。
この紅魔館で生活をするようになってから、これ程長い時間ベッドの上で過ごしたのは数える程しかなかったと記憶している。勿論、睡眠時間は除くわよ。
メイドという仕事は体力勝負だ。風邪なんて引いている暇なんてないのだ。そもそも、紅魔館で生活している者の中で風邪を引くのは人間である私ぐらいなもので、吸血鬼であるお嬢様と妹様は身体の丈夫さが売りの種族だし、パチュリー様は病弱で喘息持ちだけれど風邪は引かない。馬鹿は風邪を引かないと言う言葉を体で表現している美鈴、年中元気な小悪魔と妖精メイド達も風邪とは無縁だ。
普段は気にもしていないけれど、風邪を引くとやはり種族の差を感じてしまう。
そうして少しだけセンチな気分になる。
突然だけれど、私には恋人がいる。彼の名は仕事。いつ何時も彼の事を考えてしまう程にぞっこんなのだ。勿論風邪で倒れていても例外ではない。
妖精メイド達は私がいなくてもサボらずに働いているだろうか?
パチュリー様には小悪魔が付いているから問題ないだろうけれど、お嬢様と妹様のお世話は問題なくできているのだろうか? 食材の買い出しは昨日の昼に行ったので食べる物が無いなんて事態には陥らないだろう。それに妖精メイドの中には料理を教えている子がいるので、何かしらは作れるだろうけど栄養バランスまでは気にかけないだろう。
お掃除は大丈夫だろうか? お嬢様や妹様は気にされないけれど、パチュリー様は喘息持ちだから館内の埃は徹底的に取り除かなければいけない。妖精メイド達は掃除の最中でも平気で遊び出すような子ばかりだから不安でしょうがない。
お洗濯は大丈夫だろうか? 真っ白なベッドシーツと色物を一緒に洗ってはいないだろうか? お嬢様は真っ白なベッドシーツでないと寝付きが悪いのだ。
あぁ心配だ。少し様子を見に行こう。
ベッドから這い出て、スリッパを履く。少し寒気がするのでクローゼットからカーディガンを取り出して羽織った。
先日、人里で買った可愛らしいカーディガン。まだ衣替えをしていなかったので、クローゼットには夏物しかなく、お出かけ用にと買ったそのカーディガンに仕方なく袖を通した。
お嬢様とお散歩に出かける時や、美鈴と一緒に買い物に出かける時に羽織ろうと思って購入した少し値の張るカーディガン。私も不服だがカーディガンも不服に思っているだろう。病人を温める為に着られるなんてね。
熱があると思考回路が暴走してへんちくりんな事を考える。カーディガンの反乱が起こるかもしれないわ。なんて事を真剣に悩み始めた時、ノックの音が寝室に響いて私を冷静にさせてくれた。
「咲夜さん、具合どうですか?」と、ドアの隙間からひょっこりと顔を覗かせたのは美鈴だった。
そして私を見ると血相を変えて駆け寄ってくる。
「あーほら、寝てないと駄目ですよ。それともお手洗いですか?」
「半日ずっと寝ていたからもうすっかり回復したわ」
「それは良かったです」と、言いながらそっと私の額に手を当てる。
そして「まだ熱はあるみたいですね」と、言い私の手を引きベッドへと向かう。
「これくらいの熱は何ともないから」と、美鈴の手を振りほどきながら返す。
「そういう事は左右のスリッパを間違えずに履けてから言ってください」
慌てて足元を確認する。美鈴は変な所で鋭い。
「わかったわよ。大人しく寝るから一つだけお願いを聞いて」
「一緒に寝て欲しいんですか?」
「ナイフを刺されたい場所はどこ?」
「冗談ですよ。何ですか? お願いって」
「妖精メイド達がちゃんと仕事をしているか確認したいの」
「あぁ、そんな事ですか。どの子もサボらず一生懸命にやってくれていますよ。日頃の上司の指導の賜物ですね」
ベッドに腰掛け美鈴を見る。いつも気の抜けている顔をふにゃっとさせて更に気の抜けた笑顔を作った。
「この目で見ないと信じない。そんな顔をされていますね」
「疑り深いのよ」
「駄目ですよ。部下を信じてあげないと」
「そうしたいのだけれど、生憎居眠り癖の酷い部下がいてね」
「そんな奴には私からキツく言っておきます。兎に角、咲夜さんはまだ寝ていてください」
「わかったわよ。大人しく寝ているから」
その一言を聞くと美鈴はにっこりと笑顔を浮かべた。
美鈴は意外と頑固なのだ。こう言いだしたら説得するのに苦労するだろう。ちょっときついけど、時間を止めて逃げてやろうと考えた。
能力を発動させようと意識を集中させる。が、肩をポンっと突かれる。バランスを崩し、ベッドの上に仰向けに倒れてしまう。
「駄目と言ったら駄目です」
もうっと、頬を膨らませ毛布に潜り込む。
美鈴はその能力の所為か、察知能力が驚く程高い。
美鈴曰く、私の時間を操る能力に限らず、人間、妖怪は体内に流れる気を使い能力だったり技を発動させる。……らしい。
相手の気の流れを察知し攻撃を予測する。宣誓してからの攻撃が前提の弾幕ごっこでは余り活躍できい能力だが、スペルカード無しの純粋な格闘戦では強力な能力だと私は思っているし、実際に接近戦ではいつも手を抜かれている様に感じている。
「もうすぐ夕食の準備ができるのでお持ちしますね」
「食欲無い」
「まぁまぁ、何かしら口に入れないと良くないですから。我慢して食べてくださいね」
そう言うと美鈴は部屋から出て行った。
美鈴が戻ってこない事を確認してからこっそり能力を使おうとしたが、どうやら気の流れを乱すツボを突かれたようで上手く発動しない。美鈴は変なところで気が効くのだ。
仕方なくその優しさを甘んじて受けようと諦めて瞳を閉じた。
二、三十分後、再び美鈴が部屋にやって来た。先程と違い、左手にシルバーのトレイを乗せて。
「ご飯ですよ」
その一言と一緒に食欲を唆る香りが部屋中に広がる。どんなに体調が悪くて食欲が無くても、この香りを嗅いでしまうと嫌でもお腹の虫が鳴き声を上げてしまう。
「随分と良い匂い」
「えぇ、腕によりをかけて作りましたから。ささ、冷める前に召し上がってください」
トレイをテーブルに置くとゆっくりとベッドに歩み寄り、私の背中にそっと手を添えて起き上がらせてくれた。
スリッパの左右を間違えない様に履いて、カーディガンを羽織ってテーブルへと向かう。期待を胸に椅子に腰掛け、トレイに乗せられた美鈴の自信作を覗き込む。
「ハンバーグ……」
「咲夜さん好きでしょう?」
「好きだけど、こういう時ってもっと消化に良い物じゃない?」
「リゾットかお粥で悩んだのですが……」
「その二択からハンバーグに辿り着いたあなたの思考回路に脱帽よ」
「えへへ」と、右手で後頭部を摩る。
「褒めてないわよ」
「まぁまぁ、一口だけでも。おっと、お冷をお持ちするのを忘れていましたね。すぐに取ってきます」
そう言うと美鈴は颯爽と私の寝室から出て行った。
折角作ってくれたものだから一口位は食べてあげないとね。と、私は観念してナイフとフォークを手に取る。
左手に持ったフォークをハンバーグにそっと差し込む。と、同時に肉汁が溢れ出る。肉の脂が溶け込んだ肉汁はキラキラと輝きながら止めどなく溢れ出る。
右手に持ったナイフで一口の大きさに切る。ハンバーグは驚く程柔らかく、力を入れずに切り分ける事が出来た。断面から立ち上る蒸気を吸い込むと鼻が詰まっているのにも関わらず、スパイスの香りがしっかりと感じ取れた。クミンとターメリックの良い香りだ。消化器の機能を助ける働きがあるので、弱っている私にも食べやすい様に多めに入れてあるのだろう。気が利く美鈴らしいと思った。
さて、お味の方は……。
私は期待を胸にハンバーグを口へと運んだ。
歯応えは驚く程柔らかい。一、二回程噛んだだけで肉の塊は溶けてしまう。赤身と脂身のバランスが良く、こってりしすぎない配合になっている。口の中に広がる肉の旨みとスパイスの香りが混ざり合って鼻腔へと抜けていく。
飲み込んだ後に残るのは飴色になる迄炒めた玉葱の甘みだった。
「美味しい」と、無意識の内に呟いていた。
美鈴が聞いたら調子に乗りそうだと思い、慌てて周りに誰もいなかった事を確認する。
ぽつりと机の上に水滴が落ちた。
嫌だ。涎でも垂らしてしまったのだろうかと、慌てて口元を拭うが涎は付いていなかった。
ぽつり、またぽつりと水滴が落ちる。頬に手を当てると暖かい液体が人差し指をつたい、手の甲へと流れた。
「涙?」
なぜ泣いているのだろうか? 理由もわからずに私は涙を流しながらハンバーグを食べ続けた。
ハンバーグを半分ほど食べ終えた頃に美鈴は戻って来た。
もちろん、涙を流しながらハンバーグを食べる私を見て驚いた事は言わなくてもわかってもらえるだろう。
「そんなに私の作ったハンバーグが美味しかったですか?」
「えぇ、美味しい」
その返事を聞くと美鈴は黙り込み、何かを考える様に右手を顎にあて首を捻った。
「風邪っ引きの咲夜さんは素直で可愛いですね。いっそこのままずっと風邪を引いていて下さい。毎日優しく看病して差し上げますので」
言葉よりも先に手が出てしまい、美鈴の額にはナイフが刺さっていた。
「少し褒めたからって調子に乗らないの」
額のナイフを抜きながら美鈴はにこにこと笑顔を浮かべる。
「照れ隠しにナイフを投げるのは駄目ですよ。人間相手なら死んでいます」
「相手は選んで投げているつもりよ」
「おぉ、つまり私は咲夜さんに選ばれた相手という事ですね」
懲りずに悪戯な笑顔を浮かべる美鈴に追加のナイフを投げつける。
結局、ハンバーグはぺろりと食べきることができたが、食べ終わるまで何本も美鈴にナイフを投げつけたので少し疲れた。
「残さず全部食べられましたね。偉いです」
美鈴のその一言を聞いて蘇る一つの記憶。
あぁ、そうか。私が泣いてしまった理由がわかった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
今から十数年前の古い記憶。
どんよりと曇った空の下、レミリアお嬢様に手を引かれ歩く。そして、たどり着いた紅いお屋敷の前でこう言われた。
「今日からここがお前のお家だよ」
見上げるほど大きな門。その先に広がる美しい庭園。私はここが天国なのではないかと錯覚してしまった。赤い花々が行儀良く咲いていて、何匹もの蝶が舞っていた。そして庭園を見下ろすように聳える紅い大きい館。
突然、ここが家だと言われても実感が沸かなかった。そもそも吸血鬼に連れてこられた時点で私はある程度の覚悟を決めていたのだ。
親もいないし、空腹を紛らわす為にゴミだって漁った。スラムの子だと罵られたり指さしされる事は日常茶飯事だった。だから、お嬢様にこの手を取られた時に少し先の未来を想像したのだ。まだ私と大して歳が変わらなそうなこの吸血鬼に血を吸われて死んでしまうのだろうと。
ところが連れてこられた一室で私は勘違いに気付いたのだ。
東洋の民族衣装を纏った赤毛のお姉さんがそこにはいて、この屋敷の家事を切り盛りしていると自己紹介された。見ているこちらまで脱力してしまう様な気の抜けた笑顔を浮かべたその人は自分を、美鈴お姉さんとでも呼んで下さいね。と、少しだけ照れ臭そうに笑った。
「あらら、顔も服も泥だらけですね。女の子がこんなに汚れて可哀想に。お風呂に案内するので汚れを落としましょう」
彼女は笑顔を私に向けると、お腹空いてませんか? と、気の抜けたその笑顔を更にふにゃっとさせた。
その問いに私はどんな返事をしたのかはっきりと覚えていないのだけれど、お風呂から上がった私に彼女はハンバーグを作ってくれたのだ。
「人間の子供が何を食べるのかわからなかったので、図書館でレシピ借りて作りました。お口に合えば良いんですが……」
温かい食事をするのは何年ぶりだろうか? 私の記憶の中では数えるほどしかなかったと記憶していた。この世にこんな美味しい食べ物があったのか。と、私は目を丸くして美鈴を見上げた。
「どうですか?」
「美味しい」
「えへへ、腕によりをかけて作りましたから。さあさぁ、おかわりも用意してありますから沢山食べてくださいね」
口一杯にハンバーグを頬張りながら私は首を大きく縦に振って美鈴に返事をした。
そして、あっという間にハンバーグを平らげた。満腹感で満たされると何故だか涙が溢れてきた。
人にこんなに親切にしてもらった事は今の今まで無かったし、お腹一杯になるまで食事ができた事も人生で初めての経験だった。優しい笑顔を向けてくれる人に出会ったのも初めてだった。
なんだか良く分からない感情が沸き上がり、胸が苦しかった。
「ご飯を食べ終えたら、ごちそうさまでした。と、言います。さぁ、私に続いて」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「ごちそうさまでした。美鈴お姉さん」と、幼い頃の様に言ってみる。
横目に映った美鈴は少しだけ恥ずかしそうに、優しいその顔をいつかの様にふにゃっとさせた。
あと飯テロ。お腹が空きましたw
会話でのやり取りの中に、二人の親しさをひしひしと感じました
美鈴が素敵で理想的なお姉さんですね。
とっても暖かでハンバーグが美味しいお話、ごちそうさまでした。
サクサクめーりんとかなくてもいいんですよー
せかくなら幼少期の話をもう少し掘り下げても良かったかなぁと思いました。
お礼ついでに脱字の報告を。
”弾幕ごっこでは余り活躍できい能力だが”←できない能力だが
今後も素敵な美鈴話を期待せずにはいられませんね。