Coolier - 新生・東方創想話

Ceci n'est pas une cigarette.

2016/10/02 22:44:28
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 青いカーテンの隙間から射してくる陽光が眼に入り、目を閉じると緑や赤の糸くずが走り回った。一度冷めてしまった睡眠の情熱は蓮子を明かりへと投企した。蛍光灯もつけず、明かりは陽光だけだった。携帯が着信ありと、ちかちか緑の光を発していた。彼女はそれをうっとうしく思いつつも、目を閉じたときの緑の糸くずが想起されて手に取るべきかを迷った。数日来、布団の上から動いた記憶がなかった。意識的には動こうとせず、ただ生理的な排泄の時に少し立ち上がる程度だった。きっと、大学の研究室か、おおかたメリーあたりからの連絡だろうと思うと、それも別にどうでもよくなった。だいたい連絡してくるのは研究室のAとかFだろうし、メリーなら尚更自分の性格を知ってのことだろうと思うと、携帯を見る理由も認められなかった。自分の汗が染み込んだ布団から立ち上ってくる体臭に、僅かに嗅覚が意識された。
 蓮子はうろんげに、数日変えていないスカートのポケットに右手を突っ込み、箱を取り出した。その、右手に持ったものを凝視する、というよりただ漫然と眺めた。箱は陽光をランダムに反射して彼女の瞳孔を不規則に刺した。彼女は、それが自分では無く誰かに見られているように感じて、急に布団から飛び上がった。部屋は自分ひとり、それ以外居る理由がない。卒然と監視されているような、不安感に襲われた。自然と右手に力が入り、もともと皺の入っていた箱が潰され、さらに皺が深くなった。深くなり、増えた皺は尚更に光を反射した。不安感は宵闇のように増え続け、耐えきれなくなった彼女は携帯を掴むと壁に力の限り放り投げた。鈍い音がして携帯は壁にぶつかり、床に落ちた。緑の光が止まることはなかった。動悸が自分の耳に響き、全身の汗が粘つくものに変わり、息が浅くなって口腔が渇くことを彼女は自分で感じた。床に足を置いて力を入れても立ち上がるためには三度の躊躇が必要だった。よろめきながら台所までたどり着き、コップに水を溜めて一気に流し込んだ。水は口腔を湿らせること無く滝のように食道から腹へ下っていった。満ち足りず、二杯目を飲み下したところで食道が詰まり、腹から上へ昇ってくる感覚に襲われた。彼女はそのままシンクに顔を突っ込み、今さっき含んだ液体を吐き出した。同時に、粘度の高い酸味と苦味のある液体が口腔を通り、酸臭が鼻腔を刺激した。腹が三回、四回とうねっていた。右手に握った箱は強く潰されて、左手で腹を押さえた。蓮子は自分が滑稽だと思った。誰もいないのに誰かに見られている不安感に駆られ、にもかかわらず孤独に身を投じ、光無く、この数日を過ごした自分がまるで社会不適合者だと自嘲した。全身が痺れ、胸を内側から叩かれているような痛みに、苦しみより寧ろ笑いが出た。そう演じているような自分を見た。右手の箱は床に打ち投げられ、またひどく不規則に陽光を反射していた。シンクに吐き出した黄褐色の液体が、銀色を反射してぬらぬらと光っていた。
 シンクに一匹のヤモリが張り付いていた。彼女はヤモリと視線が合った気がした。身のうちに、ぐらぐらとわだかまりが燃えてくるのを感覚した。唾液と胃液で汚れた唇を歪め、ヤモリを捕らえた。ヤモリは抵抗することなく、あっけなく掌中に収まり、彼女はそれの尾を人差し指と親指でつまんでぶら下げた。ヤモリは手足をばたつかせたが、むなしく空を切った。彼女は自分に、これは練習だと言い聞かせてライターを取った。何回かこすると、ようやく火が付いた。赤と青の炎は揺らめき、それが練習だと彼女の暗示を強めた。炎をヤモリの頭に近付けると、いよいよヤモリは抵抗し、全身を暴れさせ、しかし炎から逃げることは出来ず、段々と肉が焼け焦げる臭いが充満した。それに耐えきれず、彼女は息を止めた。それは逆に視覚を強調させるにはたらき、ヤモリが焼け焦げていく様をしっかりと瞳孔に刻み込んだ。もはや一匹の生命は抵抗も止め、ただ手足は重力に従うままだった。頭がすべて焼けると、指を離して自分の吐瀉物の中にヤモリだったものを打ち捨てた。不快な臭いだけが残ったが、彼女は思い立って、服を脱ぎ捨て、数日ぶりのシャワーを浴びることにした。

 蓮子がその箱を拾ったのは、大学の講義の直後だった。量子的もつれが云々、マルチバースが云々、気付けば90分は終わっており、講堂はにわかに騒々しくなった。蓮子は仕舞っていたペンケースを取り出すのに机の中に手を突っ込んだ。その時、明らかに自分のペンケースではないものに触れた。彼女はそれを恐る恐るつまんで引き出した。引き出したものは、青い、メッキのある箱だった。そして箱の下半分には『喫煙は、あなたにとって……』と記されていた。彼女の視線を受けると、青いメッキが蛍光灯を反射した。決して自分のものではなかったが、自分の脳の奥が痺れ、一瞬何も聞こえなくなった。持つ右手が震え、背中は汗で湿っていた。ほんの須臾の間だったが、自分の意識がその青いメッキに吸い込まれていき、同化し、青いメッキを見ている自分を見ている感覚が去来した。視野は青一色に染まった。誰かが自分の後ろに座る音で意識が揺り戻された。無意識に、彼女はその箱を持ったまま、右手をスカートのポケットに突っ込んでいた。気付いたときには遅く、焦燥感から彼女は周りを見渡した。意味の無い騒々しさが耳に入り込んできて、思考を奪った。カクテルパーティのように、いちいちその会話を聞き取ることが出来た。方々から聞こえる会話は、より一層自分に向いている気がして、寧ろ自分が誰とも喋っていない孤独を強調させた。彼女はそのまま鞄を胸元に抱えて、なるべく落ち着いた風体を装って講堂を出ようとした。机の間に数人がたむろして何かを喋っており、声をかけられたが、何か返事をして曖昧に過ぎていった。足先が奇妙に痙攣していた。入れ違いになって、男子学生の集団が席を探していた。蓮子は自分の太ももに当たるものに意識を持って行かれた。あの箱は誰かが忘れいったものであり、もしかすると彼らはそれを取りに戻ってきたのかも知れない、しかしここで自分が戻って返したとなると、自分は置いてあるものをとる手癖の悪い女だと思われかねない。不安から、足早に講堂から離れようと廊下を進んだ。すれ違う人間が、自分に視線を遣っているように思えた。
『私ではない。見られているのは私ではない。……』
 努めて彼女は自分に言い聞かせながら、早々に大学を出なければならない義務感に駆られた。理性的な判断であったのかもしれない。廊下から外へ出ると、湿り気のある空気が身肌に纏わり付いた。自身の汗もあって、彼女は余計に不快を示した。出入り口を出てすぐ、数メートル先に喫煙所があった。男子学生数名と女子学生数名が紫煙をくゆらせていた。煙は立ち上って青い空に広がり、そして消えていく。ただ彼らの周りには白い靄が絡みついていた。ひとりが煙を吐くと、その靄が濃くなる。その濃くなった分だけ、蓮子は息苦しさを増し、そして息苦しさが増した分だけ自分の意識が摩耗していった。意識が摩耗するにつれて、外界への感触が麻痺するような感覚に囚われた。朦朧とする頭の中で、自分がまだ何かを見て、息をしているという冷静な行為を忘れていなかったことに気付いた。単純に、彼らの中にこの箱の持ち主が居るかもしれないという考えが頭の中を駆け巡った。それに思い至ると、息苦しさはますます強まり、一刻も早くここから立ち去るために大学の出入構口へと急いだ。視野は人間も、木々も、草花も流れてまとめて一条の線として写りながら、ただ何処からも誰からも孤立するために自分の部屋へと急いだ。その間の記憶は無意識なほどに無く、気付けば部屋の鍵を開けていた。金属の擦れるかん高い音で、ここが自分のマンションの、自分の部屋だということに意識が追いついた。
 蓮子は靴を打ち捨てて布団の上に座り込んだ。ここには自分以外の誰も居ない。そう思うと急に全身が冷ややかになった。こういう焦燥感に苛まれることは分かっていた。たかだかタバコ1箱のために、そういう行為をしてしまった自分が馬鹿馬鹿しく思えてきた。今までも幾度か、他人に見られればマズいことはしてきた。墓地に入り込んで見るとか、遺跡調査の名目を立ててみるとか、いずれにしても自分に不利益になるようなことかどうかという判断はしかねるが、今回ばかりは不利益にしかならない可能性が高かった。右ポケットから箱を取り出すと、それをまじまじと眺めた。すでに空は薄暗く、僅かな夕日で青いメッキはきらきらと目に映った。一本だけ取りだしてみると、数センチの白い筒は思っている以上に軽く、これが本当に人間に害をもたらすのかと不審と思えた。試しに茶色い側を口に含んでみると、えぐい香りに眉をしかめた。ニコチンは交感神経節に作用して云々、と彼女は一般教養で習ったような事を思い出しては納得して、箱を机の上に置いた。口に残る残滓をすすぐために台所で二三度うがいをして、夜食を買いに外へ出た。コンビニに入ると、帰宅時のサラリーマンや学生がばらばらと、各々の目的の通りに動いていた。パン類を横目に見ながら通り過ぎ、弁当に目を遣った。そして弁当を通り過ぎ、カップ麺売り場に足を運んだ。ひとりのサラリーマンがカップ麺を眺めていた。普段食べ慣れたカップ麺を手に取った時、そのサラリーマンの胸ポケットからライターが出ているのが見えた。『タバコを吸うには、ライターが要るのか……』カップ麺を手にレジへと向かおうとするすがら、文具売り場の下の段にライターが並んでいた。カラフルな百数十円のものから、金属質の数百円のものまでがあり、自然とそこに視線が行った。『スカートのポケットだと座ったときに怖いから、シャツの胸ポケットに入れるのだったら目立たない色の方が良いのかも知れない……そうすると、金属のものよりこの透明や白いライターの方が……』そこまで考えて、自分がタバコを吸おうとしていることに愕然とした。しかし、その欲求を止める術は無かった。すすいできたはずの口腔に再びあの独特の苦味が復活し、口寂しさが募ってきた。彼女は白いライターを手に取り、レジへと向かった。並んでいる時間すら何かの喪失感に繋がっていた。小銭で支払ってコンビニを出ると、入り口に置いてある吸い殻入れに意識が持って行かれ、そこからはタバコの香りが漂っていた。ポケットに手を入れて、箱を持ってきていなかったことを後悔した。ライターを持っていたから、店員や、それを見た人間は自分がタバコを吸うのだろうと思ったのだろう、と考えながら、帰路を急いだ。
 既に夜になっており、街頭が道を照らしていた。彼女は手に持った袋から、ライターを取り出した。ライターはすっぽりと手に収まり、元々そうであったかのように馴染んだ。薄暗い住宅街の路地で、彼女はその感覚を感慨深く思いながら、そして自身があの煙を吸うことを妄想しながら歩いた。それは、ある種の愉悦で、初体験で、自分の中にある、ある部分を補うような快楽だと思われた。恐らく未来形で語られるその初体験は、やがて自分にとって過去形となるだろう。あの細い白い筒先に丁寧に火を付けて、燃えた煙を肺いっぱいに吸うことを夢想した。きっと、初めは噎せるだろうとか、煙のにおいには慣れないだろうが、少しずつでも吸って行くことで慣れてくるだろう……。夢想は次第に大きくなり、そして沈澱していたところを、住宅の犬が彼女に向かって吠えてきた。突然の騒音に夢想から引き戻され、現実に自分に牙を向けて吠える犬に向かった。体が一瞬強ばったが、次の瞬間にはその住宅の門を激しく叩いていた。自分でも聞き取れない罵声を犬に向かって浴びせながら、大きな音を立てて門を揺さ振ると、犬は益々警戒を増して強く自分に吠えかかってきた。苛立ちがつのり、罵声は怒号に変わって、異変に気付いた家人が出てきた。夫婦の妻が犬を宥め、夫が蓮子の方に向かって同じく怒声をあげた。何かを言われ、何かを言い返し、そして手に持っていたカップ麺を男に叩き付け、門を蹴りつけて立ち去った。後ろの方から怒声と、犬の耳に触る声が響き渡り、蓮子はライターを持ったまま駆けだしていた。

 部屋に戻ってくると、激しい動悸と息切れに、玄関に背を預けて座り込んだ。苛立ちは止むこと無く、寧ろ増幅されていった。拳で一度扉を叩いて、息を整えた。部屋に置きっ放しにしていた携帯電話の、通知を表す緑の明かりがちかちかと光っているのが見えた。靴を脱いでライターを机の上に置き、携帯を見ると通知は研究室のAとF、そしてメリーからだった。AとFには別個に研究室を休んだことを謝罪し、教授にメールを送った。メリーには、また学校で会おうとだけ返事をしてベッドに座り込んだ。走ったからか、体中が汗で湿っており、シャツが張り付いていた。手足は重く、動かすのも億劫だった。根を張りかけた腰を上げ、汗だらけになったシャツと下着を洗濯機に放り込んでシャワーを浴びた。シャワーは纏わり付いた汗を流し、頭の髄に残っていた苛立ちをすすぐように落としていった。排水溝に水が流れ込み、空洞に水が落ちていく音がした。ひととおり体を拭いて下着を着けてから、彼女は冷蔵庫からビールを取り出してベッドに座った。缶を開けると、破裂する音とともに気泡が弾けた。カーテンの隙間から月光が差し込み、部屋を照らしていた。薄暗い部屋の中で、月光を反射した箱が青く輝いていた。蓮子は箱を手に取ると、月光に当てて僅かに皺が入って乱雑に反射する光に見とれ、そして網膜に青を焼き付けてビールを一気に仰いだ。冷え切った、苦味のある液体が口腔から喉元を通って、かすかに鼻腔に麦の香りを通らせた。少し遅れて頭が茫洋として、自然と口元がにやけていた。箱の中からまた一本、タバコを取り出すとまじまじと見つめた。このたった一本が人間を幸福にすることは、まるでこの一本の、細長い筒によって人間が支配されているようだった。この中に、人間を操るための物質が入っていて、自分たちの意志でこれを摂取することで、あやふやな脳を刺激するのだろうと考えた。大学の、校舎の喫煙所でたむろしていた学生たちは皆楽しそうだった。彼ら、彼女らはここから出てくる煙に脳を支配される状態になっていて、幸福な凶人になってコミュニケーションを取っていたのだろう。それがどれほどの幸福かは分からないが、それが分かっていれば、自分があそこまで取り乱すことも無く、平然とやり過ごすことが出来たのだろう。疲労に加えてアルコールのためか、意識が朦朧とし始め、体が温まり始めたころ、急激な眠気が彼女に飛来した。段々に視界がぼやけ、月光を反射する箱はまるで夜空のように光り、蓮子の網膜には夜空が焼き付いて、そのまま彼女は布団に倒れ込んだ。

 目が覚めると、時刻はすでに昼過ぎだった。全身に鉛が乗っかっているかのような重さから、今から大学へ行くのも憚られ、携帯を持って研究室に休むことを伝えた。メリーには単にサボるだけだから、と伝えた。箱は手に持ったまま寝たせいで歪つに皺が入っていた。陽光を反射するそれを蓮子はうっとりと眺め、二三度愛撫するとそれを胸に抱きしめ、胎児のように膝を抱えてみると、燃やしていないタバコの苦い香りが鼻腔をくすぐった。同時に、彼女は咳き込んだ。そこで自分の体が異様に熱いのと、頭痛を感じた。風邪をひいたと判断するには充分であった。風邪薬は買っていなかったはずだから、少し薬局に行って風邪薬を買おうと立ち上がり、習慣のように、しかし緩慢と着替えをした。机の上に置いた箱が目に入った。コンビニの時のことを思い出し、箱を右ポケットに入れると、右側の太ももに触感が生まれた。それは、それがそこにあるという実感を伴って彼女に意識を取り戻させた。外に出ると、西に傾き始めた陽がコンクリートを明るくしていた。頭の髄に靄がかかったように、視線は左右をふらふらとしながら歩いた。平日の昼だからか、あまり人間を見かけなかった。自分が視線を外しているだけなのかもしれなかった。どれくらい歩いたかまで判然とせぬまま、昨夜訪れたコンビニに足を踏み入れた。コンビニの中は冷房が利いており、今の彼女には少し寒すぎた。
 風邪薬を手に取ると、財布を出すために鞄に手を入れた。財布を取り出すと、そこで、自分があるミスを犯している可能性に至った。鞄の中に目を通し、左右のポケットに手を入れた。右側のポケットにはあの箱の触感があったが、ひとつ、火を付けるためのライターを持ってくるのを忘れていた。しようのないミスに自分に腹が立った。それをミスと言うのか分からないが、店内から吸い殻入れが目に入り、ひとつ舌打ちをして、逡巡して同じライターを手に取った。会計を済ませると、店を出てすぐに喫煙所に足を運んだ。昼休みか営業かのサラリーマンがひとり、そこで煙を吸っていた。彼女はそれに何故か動揺をした。さっきまでは認められなかったからか、自分が見落としていたのか分からないが、自分の初体験がここで行われることに少しの躊躇を感じたが、近づいた以上、吸わなければならないという義務感が彼女に到来した。近づくと、サラリーマンは蓮子を一瞥して少しだけ脇に逸れた。恐る恐る青い箱を手にした。ポケットの中のそれに触った瞬間、手から腕が、そして肩までが麻痺したように固まった。ポケットの中で微妙に箱が潰れる触感があった。無理矢理に腕を引き上げて箱を出すと、手が震え、指先が意志を無視して箱が滑り落ちた。滑り落ちている間、彼女は呆然とその光景を見るしかなかった。物が落ちるのは結果として後戻りのできない、圧倒的な現象の力だった。軽い音を立てて箱が落ちると、サラリーマンが少しだけこちらを見た気がした。そこで、彼女は急に、この青い箱が自分から離れた恐怖に襲われた。元はと言えばこの箱は自分の物ではなかった。コンビニの店員が、サラリーマンが、自転車で出かける女性が、はしゃぐ子どもたちが、皆自分を見ているような恐懼に、全身から汗が染み出てきた。堪えがたい視線の束が自分を見つめている。『このタバコは元々誰の物だったのだろう、私と同じ講義を受けていた学生か、喫煙所でたむろしていた学生か、教員か、もしかすると隣のサラリーマンのものだったのかもしれない、あるいは私の知らない誰かの、知らない誰かの……』突如として去来した罪悪感と不信感に、自分から離れたタバコの箱が、その青い輝きを瞳孔に映し、そこに映った彼女自身が自身を見つめて、鏡写しで己の心を見透かされた気持ちになり、不安と焦燥の入り交じった感覚が彼女に満ちあふれた。あの、とサラリーマンが青い箱を拾い、呆然としていた蓮子に声をかけた。彼女はそれに触れると、震えた手で受け取ってポケットに突っ込み、早口で何事かだけ行って、足早にそこから去ろうとした。風邪で朦朧とした状態で、よろめきながら歩くと、風景がねじ曲がり、遠くの方に犬の吠える声が聞こえた。力なく自分の部屋の鍵を開けると、大量の水で風邪薬を流し込んだ。苦い顆粒が舌に残り、余計に水を飲むこととなった。そして曖昧な意識のままにベッドに倒れ込んだ。
 そこから数日、彼女はほとんどベッドから起き上がることなく終日を過ごした。


 シャワーを浴びて着替えると、彼女は自分の意識がはっきりし始めるのを自覚した。シンクの水を流して排泄物を落とした。焼け焦げたヤモリの死体をビニールに入れ、ゴミ箱へと棄てた。そして、この箱の正体を知らない、どこかへ行こうと決心した。醜く潰れた青い箱を拾い上げると、自身を監視していたそれをポケットにしまい込んだ。胸ポケットにはライターを入れ、鞄に着替えを詰め込んだ。そのまま駅に向かった。人は少なく、あまり視線を気にすることもなかった。乗り継いで空港へと向かった。空港で、適当に国内線を選び、適当な場所を指定した。なるべく遠方が良いと思ったが、それは財布との交渉だった。チケットを取って検査所を抜けると、待合もまた、人影はまばらだった。待合室には等間隔で4台のテレビが置いてあり、それぞれが違う番組を流していた。ニュースと、バラエティーと、何か芸人が喋っている、そのすべてが蓮子にとって不愉快だった。耳に入る音、目に入る映像、そのすべてが自分に向いているような、液晶の向こう側からこちら側へ無理矢理にこじ開けて入り込んでくるような視線と音声が彼女を苛立たせた。それに見入っている子どもがおり、携帯をのぞき込んでいる青年がおり、しかし大音量のテレビは待合室のどこであってもその音を響かせていた。彼女はほとほと嫌気が差してきた。わざわざ誰にも知らない場所に行くのに、誰もが知っているテレビが、映像が、音声が流れていて、それが自分の監視を強めているような観念を認めていた。静かな場所を探そうと待合室を歩くと、隔離された部屋があった。ガラス張りで、一枚扉を隔てて待合室から隔離された部屋だった。そこにはsmoking areaの文字があった。スカートのポケットの中の、歪つに潰れた箱が太ももに触れて主張してきた。胸ポケットのライターが、僅かに重さを感じさせた。ガラスの向こうには3つの吸い殻入れが並んで、対面になるように長椅子が配置されていた。そこには誰も居なかった。蓮子は手をかざして自動扉を開けると、その中に一歩を踏み入れた。椅子に座ると自動扉が閉まった。テレビの雑音はくぐもってほとんど聞こえなくなっていた。誰も居ない、隔絶された部屋は、喫煙者のための部屋だった。彼女は、そこが自分の安寧の場所だと、脳の芯が判然とするようになった。掃除されたばかりで吸い殻は無かったが、染みついたタバコの残り香が鼻腔を突いた。今ではそれが心地よいとさえ思えた。スカートのポケットから青い箱を取り出すと、無残に潰れた箱の面には『喫煙は、あなたにとって……』と記されている。その箱の中から一本を取りだして、口に咥えた。タバコは少々折れ曲がっていたが、口に入る独特のえぐい触感は変わりが無かった。彼女はライターを取り出して、火をつけた。それは、さっき練習した時と同じように赤と青で、燃やす対象を探すように揺らめいていた。彼女は火の先を筒の先に近付け、火が燃え移るのを確認するとライターの火を消して、また胸ポケットにしまった。そして、その筒の先から立ち上る白い煙をゆっくりと目で追いかけると、それは幾何学的には見えない模様を作って薄らぎ、霧散した。ゆっくりと息を吸うと、咥えた先が赤く燃え、煙が口腔に入り込んできた。それは口腔を刺激し、喉の手前までを小さな針で刺したように痛めた。そうしながら、彼女は何かをしながらも、何も考えていない状態に陥っている自分を見つめた。静寂の中に煙と香りが漂い、茫洋と煙と落ちていく灰を見つめ、そして何かから解放された瞬間に立ち会った気がした。『体には悪いものが、精神には都合が良いのは何の皮肉だろう……』吸い殻入れに、灰が落ちた。
9364文字

twitter: https://twitter.com/arg_Aikawa_
有河隆道
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コメント



0.90簡易評価
2.10名前が無い程度の能力削除
抑揚のない文章と内容を低スペースに詰め込んでるだけなので、読みにくいだけでなくひたすら薄い。
作者の自己満足しかない作品でした。
5.70名前が無い程度の能力削除
この息継ぎのない感じ、嫌いじゃないです。
もうすこし読者さんに配慮をするともっといいかもしれませんね。
今後に期待。
6.80名前が無い程度の能力削除
胸の奥を握られる感触のする文でした。とても好きです。