「お姉ちゃん、お姉ちゃん! 大変、大変! ものすごい大変!」
「ぐえっ。」
「あれ?
お姉ちゃん? お姉ちゃん、どこー?」
「……あの、こいし様。こいし様の足下……」
「あっ、お姉ちゃん! どうしてそんなところにいるの?」
「なんであなたは天井から落ちてくるの!?」
「普段とは違う登場の仕方をしようと思ってやってみました」
「普通にドアを開けて入ってきなさい!」
自分の後頭部に乗っている妹を振り払い、彼女――古明地さとりは声を荒らげる。
空中三回転をかまして床の上に『すたっ』と10.0な着地をするその妹――古明地こいしは振り返ると、
「大変なの!」
と、握りこぶしを上下にぶんぶんしながら言う。
一体、何が『大変』なのか。
まずはそれを具体的に説明しろ、とさとりが言うと、こいしは『そう言われると思って』とどこからともなく一枚の紙を取り出す。
そこには、『温泉施設に覗き魔発生』という文字が見出しとして書かれている。
「……新聞ね?」
普段、彼女の知り合いの天狗連中――ここ、地底とは違う場所にある『妖怪の山』というところに住んでいる、この世界随一の生きる迷惑たち――が発行している新聞とはまた違うものだ。
「……ふぅん?」
そこには、彼女たちが、この地底で経営する温泉旅館『ちれいでん』の記事が書かれている。
不名誉なことに『温泉施設で覗き魔が発生』という内容で。
「三日くらい前に、そういう話があったみたい」
「……まぁ、由々しき事態ではあるけれど」
「対策しよう!」
「……いやまぁ、うん」
「誰もが楽しめる温泉! そこに覗き! それだけで気分は最悪だよ!
お客さんが来なくなっちゃうよ、お姉ちゃん!」
「……いや、うん。それはそれでいいかなとも、お姉ちゃん、思っちゃうんだけどね……」
「だけど、さとり様。
あの温泉施設の収入、割りと馬鹿にならないですよ……」
「……はぁ」
ここはさとりの執務室。
そこで秘書の真似事……というか、秘書みたいな扱いで使っている火焔猫燐の言葉に、さとりは深い溜め息をつくのだった。
「覗き、ねぇ」
さて、こいしはさとりからのお墨付きをもらい、活動を始めた。
まずは『覗きの発生した温泉』の下見である。
ここ、地底は温泉が豊富である。それこそあっちこっちに色んな温泉が湧いている。
そこの一つ、『賽の河原温泉』がその現場であった。
ここは『賽の河原』の名前のごとく、地底を渡る大きな川に沿って作られた温泉である。一応、衝立などで周囲をガードしているものの、基本は『自然の中に出来た温泉』であるため、やろうとすればどこからでもその温泉を臨むことが出来る。
「こういう露天風呂に入るのに、ある程度、そういうのは覚悟すべきとはいえ。
ちょっと下品ではあるね」
こいしの横で、そんなコメントをするのは鬼の星熊勇儀という人物だ。
この彼女、ここ地底の治安維持のような役目を負っていると共に、『ちれいでん』建設の際に多大な貢献をした『職人連中』の総元締めでもある。
「覗きというからには、よっぽど下卑たことしていたんだろうけど」
「話によると――」
こいしが示すのは、『賽の河原』の対岸。
結構な幅のある川の向こう側、その茂みのところを彼女は指差し、
「あそこから、人の目が覗いていたらしい、って」
「ふぅん? となると犯人は人間じゃないね」
そこまでの距離は、前述のように結構なもの。人間の視力では、反対側の美女の素肌を堪能することは出来ないだろう。
「全く、情けない。
男なら……ああ、いや、女でもそうだけど、そういうことしなくていい相手を見つけりゃいいのにね」
「勇儀さん、それはね『言うは易く行うは難し』なんだよ」
腕組みして、何やらわかったような顔でうんうんと頷くこいし。
実際、世の中、世知辛いものなのだ。誰も彼もが幸せとは限らないのだ。女の子の手を握ったことなんて、子供の頃のフォークダンスだけ、という人間は多いのだ。
そんな彼ら、あるいは彼女らの境遇を責めることは出来ない。責めるべきは、そうした境遇を作った社会ではなく、ひねくれてしまった『犯人』の人格なのである。
――とりあえずそれはそれとして。
「どうしよう?」
「辺り全部を囲いで覆ってしまうのが一番だろうけど、それじゃ、露天風呂の意味がないしね」
「うん」
露天風呂というのは、周囲の景色を眺めるのを楽しみながら入るものだ。
景色の見えない露天風呂など露天風呂の意味がない。
それ故に、こういうものは、どうしても『覗き』という問題が絡んでくる。それをどうにかして対処するのがこいし達の役目である。
「あっち側に人が来られないようにする、とか」
「川の流れをいじってしまうのはよくない」
「じゃあ、あっち側にこっちを覗くことの出来ないよう、設備を作る。衝立とかもそうだけど」
「それよりはいっそ、脱衣場とかを作ってもいいかもしれない」
今現在、この温泉の脱衣場として使われているのは、簡素な木製の掘っ立て小屋である。
それが、温泉に隣接したところに置かれている。客はここで服を脱ぎ、河原を裸足で歩いて渡り、湯船に浸かるのだ。
「ああ。施設か」
ぽんとこいしは手を打った。
この河原の反対側に、ちょっとした建物を作ってしまい、それを外からの『ガード』とする。
施設はそんなに手の込んだものである必要はない。
服を脱ぐところ、休憩の出来るところ、その程度があればいいだろう。
そして当然、この温泉に面した側には窓は作らない。そんなものを作れば、今度はその施設が覗きのメッカとなってしまう。
「えーっと、予算は……」
「そんなに手の込んだものにはしないんだろう?
そこまでかかるものではないだろう」
「施設からこっちまで、川を渡る橋をかけたい」
「ふぅん」
たとえば向こうの施設で服を脱ぎ、裸になって橋を渡るのもいい。
あるいは、こちらに脱衣場を残したままにしておき、浴衣姿でからころと下駄を鳴らしながら橋を渡ってくるというのも、また風情がある。
「三途の川を渡って風呂に入りに行く、か。
それはそれで洒落がきいてるかもね」
元々、この温泉に入るには、目の前の川――すなわち、三途の川を渡って来なくてはいけない。
しかし、ここに至るまでの橋は、この場所からは少し離れた場所にかけられており、観光ルートからも若干外れているのだ。
故に、『地底温泉巡り』の中では些か人気の劣る場所でもある。逆に、『人が少なくて、ゆったりお湯に浸かれる場所』としても穴場的なスポットではあるのだが。
「よし、じゃあ、そうしてみよう」
「はーい。
じゃあ、あとで書類とか書いて持っていくから、見積書を出してね。勇儀さん」
「はいよ。
……って言っても、あたしは書類仕事なんてからっきしだからね。
誰か得意なやつに頼んでおくよ」
「はーい」
これでとりあえず、対策完了、とこいし。
これで無事、地底温泉の『覗き』はなくなるかと思ったのだが――。
「……こいし」
「……」
「はぁ……」
「おにょれ~……!」
それから、またしばらく後のことである。
確かに、『賽の河原温泉』での覗きはなくなった。
勇儀に頼んで作ってもらった『設備』の費用をペイしていくことがこれからの課題――そう思っていた矢先に、第二の事件発生である。
「今度は『火炎地獄』で覗きですか。
……あんなところで覗きなんて、そいつ、よっぽど肝が据わってるというか、違う方向に根性かけすぎというか」
また新たな『新聞』を握りしめるこいし。
燐が後ろから、その新聞の見出しを見て、『地底温泉で再び覗き発生』のフレーズに肩をすくめる。
「こいしちゃんへの挑戦状!」
そう叫んで、こいしは座っていたソファから立ち上がり、どこかへと走っていってしまった。
「さとり様……どうします?」
「……まぁ、好きにさせておいて。
映姫さまからも、『こういう事態を放置しておくのはよくありません。きちんと対策するように』とご指示を頂いているし……」
「……何でまた閻魔様から直々に」
「映姫さま曰く、『地底温泉は地霊殿の財政を著しく好転させ、地底に新たな産業と、それに伴う雇用、さらには経済の流れを生み出すと共に、閉鎖的な地であった地底に、地上との交流という新たな新風を吹き込む事に成功しました。これは紛れもない善行です。故に、古明地さとり、あなたのなすべきことは、より温泉稼業をもり立てること』と。
……わたしゃ、いつから旅館の女将が定職になったのかしらね」
「……ははは」
遠い目をして呻くさとりに、燐は引きつり笑いを返すので精一杯だった。
「……こりゃ、一体どこから覗いてたってんだか」
次なる覗き対策は、ここ、火炎地獄温泉にて始まった。
名前通り、業火に焼かれる大地を見下ろす、崖の上の温泉である。
足下には真っ赤に焼けた溶岩がそこかしこに覗く大地。そこから時折、間欠泉のように噴き上がるマグマの柱が見ものとされる、『地獄巡りツアー』の名所の一つである。
その、赤く焼けた大地を一望できる崖の上に作られた温泉が、『火炎地獄温泉』。崖に隣接したところまでが湯船となっており、柵から身を乗り出すと、足下に燃え滾る溶岩を臨むことが出来る絶景の温泉として有名であった。
「えーっと……」
こいしは辺りを見渡しながら、その『覗きスポット』を探す。
「あれ!」
程なくして、それが見つかった。
崖の上、周囲は溶岩という天然の要塞の中、一つだけ、風穴が空いている。
「ははぁ……」
そこに連れてこられたのは、これまたこいし達の友人であり、彼女たちの『温泉稼業』を応援している黒谷ヤマメという土蜘蛛の妖怪である。
こいしが示したのは、この崖よりも少し背の低い台地である。
だが、その周囲に至る道はなく、また、近くに大きな溶岩の噴出口があることから『危険。立入禁止』とされている場所だ。
しかし、そこからだと、柵に寄りかかって身を乗り出す湯浴み客を絶好の眺めで臨むことが出来る。
ちなみに当然のことであるが、この『火炎地獄温泉』も露天風呂である関係上、周囲に『覗きが出来るようなルート』は構築していない。そこはまさに『穴場』だった。
「こりゃ、ある意味、命がけだ」
炎の噴出口は、ある程度の時間を置いて、定期的に真っ赤に焼けた溶岩を噴き出す。
当然、その『時間』は管理されているのだが、しかし、そこは自然が相手。時折、予定してなかった時間に炎の柱が立つことも、日に一度や二度はある。
もし、そのタイミングにその場に居合わせようならば、骨も残らずこの世から消滅することだろう。
「そんなことに人生かけるなら、もっと他のことに使えばいいのに。
そしたらモテると思うよ。絶対」
ひょいと肩をすくめて、ヤマメ。
そういう情熱を別のところに向ければ、人間(人間でなくとも)もっと大きくなれるものだ、ということを言いたいらしい。
「うーにゅ……。
どうしよう、ヤマメさん?」
「これはもう素直に、あそこを立ち入り禁止にするしかないんじゃない?」
「今も立入禁止だよ?」
「だから、もっと簡単にさ。
地面をなくしてしまえばいい」
「ああ、なるほど」
ぽんと手を打つこいし。
よーし、と空中に飛び上がった彼女は、気合一発、強烈な一撃を地面へと叩き込む。
その一撃は台地をふっ飛ばし、見事に地形を変えてみせた。
「……ま、観光の目玉は一つ減るけど、この辺りなら似たような景色は色々あるし。大丈夫でしょ、多分」
自分に向かってVサイン突き出してくるこいしに適当に手を振りつつ、苦笑するヤマメであった。
――ところが、である。
「くっ……! これでは堂々巡りのいたちごっこ……!」
またもや出てきた、あの『新聞』。
それには、またもや新たな覗きスポットが開拓されたことが記載されていた。
今度の覗きスポットは『針の山地獄温泉』。
残酷な光景が展開される、地底随一の恐怖スポットであるのだが、良質な鍼治療を受けられるということで一躍有名になった場所でもある。
「……ほんと、懲りないですねぇ」
苦笑いを浮かべる燐。
一方のこいしとしては、こうも次から次へとネタを披露されると色々と悔しいところがあるのか、手にした新聞を、珍しくテーブルの上に叩きつけるほどの怒りを表明する。
「こうなったら! 犯人さんを捕まえるしかないっ!」
そう宣言するこいしである。
さとりは『まぁ、それが一番手っ取り早いでしょうね』とうなずくだけだ。
次から次へと開拓される『覗きスポット』。一つ一つ潰していくのでは埒が明かない。
となれば、それを行おうとする不埒者をとっ捕まえて、見せしめにしてしまうのが一番早い。
しかし、だ。
「覗きの名所になってしまったところなんて、人を入れられないでしょ」
人の入っていない温泉など、誰が覗きに来るのか。
さとりの言葉に、こいしは『大丈夫だよ!』と返す。
「お姉ちゃん、世の中には『囮捜査』という言葉があります!
そう! こいしちゃんが囮となって、犯人さんを捕まえてみせます!」
「……」
呆れ顔のさとり。
燐も同じ気持ちなのか、微妙な笑みを浮かべてただ立ち尽くすだけだ。
「待ってろ、犯人さん! こいしちゃんを怒らせた罪は重たいのだ!」
何やらやる気満々のこいし。
この彼女を止めるのは、今、この場にいるものには……どころか、この世界どこを探したっていないことだろう。
それほど、こいしという人物は『奇想天外』なのだから。
「どっから覗いてたっていうんだい」
「あの辺りらしいよ」
例の『針の山地獄温泉』を眺める位置に潜む、勇儀とヤマメ。
ヤマメが示すのは、その温泉を遠くに臨むことの出来る、針山の先端という微妙な位置である。
「ああ……確かに、遮るものが何もない」
手をかざしてそれを眺めれば、そこから温泉までは一直線。視界を遮るものはなく、『絶景』を拝むことの出来るポイントとなっている。
「よく見つけるもんだ」
感心して頷く勇儀に、『確かに』とヤマメが同意する。
「反対側にはパルスィたちがいるんだろ?」
「そうだね。
ついでにいうと、逃走経路になりそうなところには、勇儀が人を配置した」
「奴らも『そういう卑怯なことをする男は許しちゃおけねぇ!』って怒り心頭だったからね」
「相手が男とは限らないよ。美女かもしれない」
「女が女の裸見て、何が楽しいってんだ」
「あの温泉を利用するのは女性だけではありません」
「おお」
なるほど、と手を打つ勇儀。
それはともあれ、彼女たちの視線の先には温泉、そして例の『覗きスポット』。
そこを見据えるのだが、犯人らしき人物は現れない。
「ふっふっふ……!
逃げられそうなところ、場所、その全てを封鎖した、この完璧な布陣!
犯人さんは、もう逃げられないのです!」
「ちょっとこいし! 立つんじゃありません!」
すっぽんぽんの状態で仁王立ちするこいしに、例の場所からは見えない位置に隠れているさとりが声を上げる。
もし、犯人がこの温泉を覗いていようものなら、こいしは全力全開モードなのだ。
「大丈夫だよ、お姉ちゃん。今のところ、犯人さんいないから」
「いやそういうことじゃなくて!
せめてバスタオルくらいは巻いたらどうなの!」
「お湯にタオルをつけるのはマナー違反」
「限度がある!」
しかし、『地霊殿温泉稼業』を考案し、右肩上がりの軌道に載せ、今の時点でも次から次へと新しい企画を考え出して人を呼び込む『責任者』にとっては、その程度など瑣末ごとである。
彼女たち、ひいては自分たちの『資源』が何であるかわかっているのだから、その『資源』を何よりも大切にせねばならない。
そのためならば、ある程度の犠牲はつきものである――ということをしたり顔で語るこいしに、さとりはため息をついた。
「さあ、犯人さん、来るなら来い!」
「……お燐。あの子に『羞恥心』というものを教えるのはどうしたらいいと思う?」
「お空にそれ教えるのとどっちが難しいですかね」
「……ああ、そういうことね」
要するに『結論:無理』ということである。
それから待つこと、およそ三十分。
「う~……」
こいしが湯船の中で唸っている。
地底の温泉は、基本的にお湯の温度が高めである。この温泉も例外ではない。
そこに三十分もの間、浸かっているのだ。
「こいし。一度、外に出たら?」
「う~……」
未だ、犯人は現れない。
この状況を察したのか、それとも、『こいしみたいなぺたんこに興味はねぇぜ!』なのか。
あちこちに潜んでいる、今回の協力者と連絡を取り合っても、一向に『ヤツは現れない』の回答ばかり。
これはどうやら失敗か。
さとりがもう一度、『こいし、今日はやめましょう』と声をかけると、こいしも渋々……なのか、とりあえずという形で湯船から立ち上がり――、
「あっ!」
その瞳が、何かを捉えた。
『え?』と振り返るさとり。だが、次の瞬間には、こいしは湯船から飛び出し『犯人さん、見つけたー!』と空をかっ飛んでいく。
――すっぽんぽんの状態で。
「ちょ、こいしぃぃぃぃぃぃ!?」
慌ててさとりがバスタオル片手に立ち上がり、彼女の後を追いかける。
「お、おいおい。なんだなんだ」
「勇儀、あっちだ」
「あっち、って……」
「あっち。あの針の山。ほら、あの位置からも、温泉が見える」
「ああ、本当だ……って、あんな都合よく針が高さを揃えてるってか」
「よく見つけたもんだよ、ほんと。
あーあー、こちらヤマメ。犯人が現れたよ。全員、集合!
ああ、あと、男連中は悪いんだけど来ないでね。代わりに周囲の道を塞いで。
理由? こいしが全裸!」
ヤマメと勇儀は潜んでいた場所から飛び出すと、こいしの後を追って地面を走る。
空を飛べば相手から見つかりやすい。一方、この『針の山地獄』は、周囲に立ち並ぶ無数の針のおかげで見通しの悪い地域である。そのため、地面を移動する彼女たちは、必然的にこいしに隠れて移動することが出来る。
「ちょっと、ヤマメ! 何でこいしが裸で空を飛んでるのよ!」
「まぁ、あの子だしねぇ」
「いや、そうだろうけど……。
……さとりも、ほんっと、大変でしょうね」
彼女たちとは違う場所に隠れていた水橋パルスィが二人に合流する。
パルスィも『何でこいしは裸なの』という点に疑問と共にさとりの心労を慮っているようだ。
「けど、これだけ周囲で見張ってんのに、よくあの場所に辿り着けたもんだ」
「観光は止めてないしね。
大方、観光客に紛れてたんでしょ」
地面を蹴って、ヤマメが周囲の針を利用しながら、自慢の蜘蛛の糸を使って空中を自由自在に移動していく。
「すばしっこいな」
「本当よね」
そんなことは出来ない勇儀とパルスィは、やがて、ヤマメに遅れること数分で目的地に到着する。
「誰かいたような跡があるね」
「おのれー! 犯人さんめ!」
「……さとり、大丈夫かい?」
その場をつぶさに見て回るヤマメ。
拳を握りしめて怒りを表現する、バスタオル姿のこいし。
そして、肩でぜーはーぜーはー息をしながら、地面の上でへたり込んでいるさとり。
その状況を見て、ぽつりとつぶやく勇儀という状態だ。
「どこからここにやってきたのかしら」
「あっちじゃないかな」
パルスィが、手を目元にかざして周囲を見やる。
その横で、燐が左手側を指差す。
「あっちの通路は観光ルート。そこから、この道を移動して、あそこの通行止めを乗り越えてやってきたんだろう」
「……なるほどね」
「大した根性だよ、全く」
そこまでして『風呂を覗きたい』と願う執念、誠にあっぱれである。
問題は、『その執念を別のことに使え』と、誰からも満場一致でツッコミの入る、間違ったリビドーの存在なのだが。
「あっちの方に人は配置してなかったのか」
「いや、あたしがしてた。
ただ、その裏をかかれた。ちょうど死角になるような道を辿ってきている」
「……へぇ」
「地底の地理にも詳しいのか。
となると、犯人は地底の奴なんですかね? さとり様」
「はー……はー……!」
「……まぁ、まだ無理ですね」
日頃の運動不足がたたって、ものも言えないくらい疲れているさとりに、燐の顔には苦笑い。
「いや、そうでもないかもしれない」
「と言うと?」
「この辺りの地形なんてものは、観光ガイドに書いてある。
ってことは、何度も何度もここを見に来ていれば、自然と覚えるってことだ。
立入禁止と書いてはいても、乗り越えたり、無視して歩いていくことだって出来る」
もちろん、それで何かあっても知ったことではない、と勇儀。
しかし、そういう『放置』を逆手に、好奇心で、あるいは何らかの目的を持って自分勝手な行動を取る輩は必ず存在する。
今回の相手は、もしかしたら『そういうやつ』なのかもしれない、と彼女は言った。
「こうまで覗きが多発するとなると、温泉の風評被害も大きくなりそうね。
だからこそ、こいしがやる気を出しているのだろうけど」
「このスポットは潰した。ってことは、やっこさんは別の場所を探してくる」
恐らく、その時が『最後の勝負』となるだろう。
ヤマメの言葉に、一同、真剣な顔を見せる。
その中で、一人、未だに立ち上がれないさとりは『……体を鍛えよう』と、そのとき、心から思っていたとか。
――最後の決戦の舞台。
それが用意されたのは、つい最近、地底にて開拓された『目玉の温泉』である、
「今度こそは捕まえてみせるよ!」
こいしの上げる声が反響して回る、ここは『鍾乳洞温泉』であった。
地底に至るまでの通路から少し道を外れた先にある、広大な鍾乳洞。そこの一角に作られたのが、この温泉である。
地底の温泉街に至るまでの間に一服、というものから、この見事な景色を眺めるためにやってくる客まで数多。
そこで『敵』を待ち構えるのは、やはりこいしであった。
「こんな逃げ場のないところで」
前回と同じように、姿を潜めている燐。
隣には、バスタオルを構えたさとりもいる。
――この鍾乳洞温泉、入口から出口までは一本道。途中、鍾乳石の陰や暗がり、あるいは小さな穴など隠れるところは多いものの、基本的に逃げ道はそれしかない。
こんなところで『覗きスポット』を見つける方も見つける方だが、わざわざそれを世間一般に知らしめて、こいしに『挑戦する』のは色々とぶっ飛んでいると言わざるをえない。
よっぽど、自分の逃げ足か、それとも隠れ身のスキルに自信があるのだろう。
だからこそ、こいしの方も、もっとやる気満々である。
「本当に来るのかね?」
「来るでしょ、多分だけど。
前回の警戒を、向こうは見ているはずだし。あれだけの包囲網を突破したっていう自負があるんだから、今回も同じこと、やってくるさ」
前回と同じように、『犯人を捕まえる役』に抜擢されている勇儀とヤマメ。
彼女たちは温泉の近くの岩陰に身を隠し、チャンスを伺っている。
――時間が過ぎていく。
この温泉、鍾乳洞の空気が冷たいため、お湯は熱めでも長く入っていられる。こいしも、おかげで、前回のようにうなることなく元気いっぱいきょろきょろ辺りを見回している。
「こいしにゃ、自信があるんだろう」
勇儀が小さくつぶやいた。
温泉経営者として、不埒な『客』には天罰をくださなくてはならないという使命感もそうだが、今回のこの『ステージ』は、自分たちに対して有利すぎるステージである。
ここで捕まえてこそ、という意識と『ここで捕まえられなくてどうする』という二つの意識を、こいしは持っているに違いない。
「勇儀は、この道をしっかり見張っていてね」
「ああ、わかってる」
外に続く唯一の道。
ここを通らなければ、外には出られない。
ここに張っていれば、外から入ってくる相手も内から出ていく相手も見張ることが出来る。
すなわち、自分たちの目に晒されないで移動することは不可能なのだ。
待つことしばし。
「出てきませんね」
燐が小さな声でつぶやく。
しかし、前回もそう言っていたのに『犯人』はやってきた。
今回も油断はできないだろう。
待つことも仕事なのだ。
更に時間が経過する。
いい加減、周囲の張り詰めていた気配も緩んでくる。
やはり今回は来ないのか? 相手も無謀だということに気づいたのか? 今回は、一旦、やめておくか?
そんな気配が漂う中、
「……あれ?」
つと、勇儀は隣に潜んでいたはずのヤマメがいないことに気がついた。
あいつはどこへ行ったのか? 周囲に、勇儀が視線をやった、その時である。
「いた!」
こいしが声を上げた。
そして、温泉から飛び上が――ろうとして、さとりに捕まってバスタオルを装備させられている。
瞬間、勇儀の視界に映る、一瞬の黒い影。
「奴か!」
そいつはどこに潜んでいたのか、こいしの声に反応して行動していた。
あっという間に移動し、外へと逃げていこうとする。
そうはいくかと道を塞ぐ一同をあざ笑う形で、
「……何!?」
姿を消す。
出口に続く道に張っていた、勇儀の仲間たちも目を白黒させている。
辺りを探しても、どこにも『奴』が潜んでいる気配はない。
これは一体、どういうことだ。
うろたえる一同。
そこに、
「ほい、捕まえた」
ヤマメの声が響いた。
「……ヤマメ?」
「ほい。何? 勇儀」
「あ、いや……」
彼女の腕の先――垂れ下がる、白い蜘蛛糸に捕まっているのは一人の年若い天狗の男性であった。
彼は両手両足を縛られ、口元に猿轡を噛まされ、ついでに天狗の一番の武器である羽も縛り付けられて、身動きの出来ない状態で地面の上に転がされる。
「さすがヤマメさん! お見事!」
「でしょ?」
やってくるこいし。
彼女は満面の笑みを浮かべて、ヤマメとハイタッチする。
「えっと……。
……何がどうなってんだ?」
勇儀のつぶやきに、ヤマメが『簡単なことさ』と返す。
「この天狗のお兄さんは、外に続く道を通ってやってきた。
そして、あたし達の目に触れないところに隠れていた。
それをあたしが見つけた。そんだけ」
「いやいや、ヤマメ。道はこの一つしか……」
「ないはずだ。そうだろう?
けど、違う。
この鍾乳洞にはあちこちに小さな、細い穴が開いている。その中には外に続くものもある。このお兄さんは、そこから入ってきたのさ」
そして、そうした、誰の目にもつかない小さな『隠れ家』に隠れて、一同をやり過ごそうとしたのだという。
しかし、そこはヤマメ。仮にも『蜘蛛』である彼女にとって、そんな小賢しい技は通用しない。
己の武器である蜘蛛糸を周囲に細く張り巡らせ、この空間に続く『道』全てに『鳴子』を仕掛けたのだ。
「んで、そのときにひっついた糸を辿って追いかけて、隠れていたところをこの通り」
ぴんと指で弾くそれは、目に見えないくらいに細く、しかし強靭な糸。
蜘蛛の武器を侮ってはいけない、と彼女は大笑した。
「空の下じゃ、あたしは天狗にゃかなわない。
けれど、この狭い地底の地ならば、あたしに勝てる天狗なんていやしないさ」
Vサインを突き出す彼女に、やれやれ、と勇儀は肩をすくめてみせる。
そうして、その視線は、ヤマメの足下でふん縛られている天狗へと。
「……ま、そういうことならそれでいいか。
さて、と。
おい、天狗。お前、何のつもりでこんなことをした?」
肩をすくめた後、勇儀は足下に転がる天狗に顔を近づける。
彼は勇儀を見た後、『ふっふっふ』と不敵に笑う。
「何だ、態度がでかいな」
「……当然だ。
俺は、確かにこうして捕まった。その点に関してはあんた達の勝利だ。認めよう。
だが、俺は勝利したのだ!」
理論が全く意味不明である。
もう少しわかりやすく言え、と呻く勇儀に、
「わからぬか! ならば教えてやろう!
我が趣味は、各地の温泉スポットを巡り、覗きスポットを発見すること!
それを誰が利用しようとも、その後、何が起ころうとも関係ない!
覗きスポットを見つけた時点で、俺の勝利げはぁ」
勝ち誇って宣言する彼を踏み潰したのはこいしである。
両足でどすんと頭の上に一撃。流石にそれは効いたのか、天狗のお兄さんは動かなくなる。
「なるほど。
この新聞って、『覗きがあった』じゃなくて『覗きスポット見つけたよ』っていう広報誌だったのか……」
手に持った新聞を見て、燐がうめいた。
天狗という輩は、実に意味がわからない。わけがわからない。何のために生きてんだかわからなくなるレベルで、こういう意味不明なことをやらかす。
しかし、天狗というのはそういうものだ。彼ら彼女らは、己が持っている『ジャーナリスト魂』の下、それを満たすために活動する『イキモノ』なのである。この青年にとっては、『覗きスポットを見つける』ことがそうだった――ただ、それだけのことなのだ。
「……こいし、どうする?」
「んっとねー」
ひょいと彼の頭の上から飛び降りるこいし。
この彼の生殺与奪権を握るこいしは、にんまりと笑う。
その笑みを見て、さとりは『あ、この子、また何か悪巧みを考えたな』と、読めないはずの我が妹の心を旗幟鮮明に見通していたのだった。
「……まぁ、今回はヤマメのお手柄だったのね」
「そういうことさ」
地底の町並みの一角。
そこの酒場に、一同の姿がある。
勇儀にヤマメ、パルスィ、そしてヤマメと仲のいい妖怪のキスメの、合計四人である。
彼女たちはテーブルを囲み、今回の一件のあらましと、そしてその行く末を語っている。
「しかし、天狗というやつは厄介なものね」
「さとりさんの知り合いの天狗たちは、割りと付き合いやすい奴らだけどね。
まぁ、あいつらは本音のところはただのデバガメでけたたましいだけだし」
「それでいて、力も無駄にあるから鬱陶しい。
嫌いな奴らじゃないけれど、敵に回すとめんどくさくて、味方にすると鬱陶しいってところかね」
「悪い印象しか持ってないみたいじゃない」
「あたしと酒を飲めない奴には、あたしはいいイメージ持たないよ」
「じゃあ、わたしもその中のひとりになってしまうわね。光栄だわ」
「まあまあ」
冗談を口にして笑う勇儀は、『いやしかし』と言葉を続ける。
「こいしの奴は、なんというか、こっちの想像以上のことを平然とやらかすもんだ」
「うーん……。この作りだとこうなるか~……。
じゃあ、こうしたら?」
「いやいや、それだと、こっちから」
「ああ、そっかぁ。
お兄さん、すごいね!」
「……燐」
「言いたいことはわかります」
古明地さとりの執務室。
そこに、新たな顔が増えていた。
先日の覗き事件の主犯格……というか、騒動の原因となったあの天狗が、今、こいしと共に『露天風呂の設計図』を前にしてあーでもないこーでもないと打ち合わせをしている。
彼はこいしによって、『ちれいでんの非常勤勤務』として雇われることとなった。
その条件は、『今後、地底の温泉を拡充していく際に、プライバシー配慮の観点から覗きなどを撃滅したい。そのため、今まで培ってきたそのスキルを遺憾なく発揮してくれるのであれば、今回の狼藉は水に流す』というものである。
彼はその提案を快諾した。あんだけ余裕こいていたものの、自分の周囲には怒りをたたえた鬼たちがずらりと並んだことで、さすがに恐怖を覚えたのかもしれない。
ともあれ、彼の罪はそれで帳消しとなり、そして今、彼が保有する『露天風呂の覗きスポットを瞬時に見つける程度の能力』を遺憾なく発揮し、こいしの提案してくる『新しい露天風呂』の設計のお手伝いをしているというわけである。
「うーん……。
そうなると、こういう風にしたほうがいいかな?」
「確かに、それならば覗きは撲滅できるでしょうけれど、内側から景色を見るのが難しくなると思います。
それよりはむしろ、この辺りの植え込みをこんな感じにして……」
「ああ、なるほど! これならいいかも!」
「……燐」
「まぁ……役に立ってるみたいだし、いいんじゃないでしょうか……」
さとりはため息をついた。
今日までに、この数日間で、何度のため息をついたのか、もうわからない。
ため息は一度つくごとに幸せが一つ逃げていくと言われているが、してみると、自分にはもう幸せは来ないんじゃないだろうか。
そのくらいの勢いで、彼女はため息をついていた。
「よーっし、次の温泉はこういう感じでいこう!
ありがとう、お兄さん!」
「いえいえ。また自分の力が必要な時は声をかけてください」
「うん。
あ、今日のお礼はいつもの口座に振り込んでおくからね」
「ありがとうございます!」
そんな感じで、今日も絶好調の『ちれいでん』の経営は続くのである。
「ぐえっ。」
「あれ?
お姉ちゃん? お姉ちゃん、どこー?」
「……あの、こいし様。こいし様の足下……」
「あっ、お姉ちゃん! どうしてそんなところにいるの?」
「なんであなたは天井から落ちてくるの!?」
「普段とは違う登場の仕方をしようと思ってやってみました」
「普通にドアを開けて入ってきなさい!」
自分の後頭部に乗っている妹を振り払い、彼女――古明地さとりは声を荒らげる。
空中三回転をかまして床の上に『すたっ』と10.0な着地をするその妹――古明地こいしは振り返ると、
「大変なの!」
と、握りこぶしを上下にぶんぶんしながら言う。
一体、何が『大変』なのか。
まずはそれを具体的に説明しろ、とさとりが言うと、こいしは『そう言われると思って』とどこからともなく一枚の紙を取り出す。
そこには、『温泉施設に覗き魔発生』という文字が見出しとして書かれている。
「……新聞ね?」
普段、彼女の知り合いの天狗連中――ここ、地底とは違う場所にある『妖怪の山』というところに住んでいる、この世界随一の生きる迷惑たち――が発行している新聞とはまた違うものだ。
「……ふぅん?」
そこには、彼女たちが、この地底で経営する温泉旅館『ちれいでん』の記事が書かれている。
不名誉なことに『温泉施設で覗き魔が発生』という内容で。
「三日くらい前に、そういう話があったみたい」
「……まぁ、由々しき事態ではあるけれど」
「対策しよう!」
「……いやまぁ、うん」
「誰もが楽しめる温泉! そこに覗き! それだけで気分は最悪だよ!
お客さんが来なくなっちゃうよ、お姉ちゃん!」
「……いや、うん。それはそれでいいかなとも、お姉ちゃん、思っちゃうんだけどね……」
「だけど、さとり様。
あの温泉施設の収入、割りと馬鹿にならないですよ……」
「……はぁ」
ここはさとりの執務室。
そこで秘書の真似事……というか、秘書みたいな扱いで使っている火焔猫燐の言葉に、さとりは深い溜め息をつくのだった。
「覗き、ねぇ」
さて、こいしはさとりからのお墨付きをもらい、活動を始めた。
まずは『覗きの発生した温泉』の下見である。
ここ、地底は温泉が豊富である。それこそあっちこっちに色んな温泉が湧いている。
そこの一つ、『賽の河原温泉』がその現場であった。
ここは『賽の河原』の名前のごとく、地底を渡る大きな川に沿って作られた温泉である。一応、衝立などで周囲をガードしているものの、基本は『自然の中に出来た温泉』であるため、やろうとすればどこからでもその温泉を臨むことが出来る。
「こういう露天風呂に入るのに、ある程度、そういうのは覚悟すべきとはいえ。
ちょっと下品ではあるね」
こいしの横で、そんなコメントをするのは鬼の星熊勇儀という人物だ。
この彼女、ここ地底の治安維持のような役目を負っていると共に、『ちれいでん』建設の際に多大な貢献をした『職人連中』の総元締めでもある。
「覗きというからには、よっぽど下卑たことしていたんだろうけど」
「話によると――」
こいしが示すのは、『賽の河原』の対岸。
結構な幅のある川の向こう側、その茂みのところを彼女は指差し、
「あそこから、人の目が覗いていたらしい、って」
「ふぅん? となると犯人は人間じゃないね」
そこまでの距離は、前述のように結構なもの。人間の視力では、反対側の美女の素肌を堪能することは出来ないだろう。
「全く、情けない。
男なら……ああ、いや、女でもそうだけど、そういうことしなくていい相手を見つけりゃいいのにね」
「勇儀さん、それはね『言うは易く行うは難し』なんだよ」
腕組みして、何やらわかったような顔でうんうんと頷くこいし。
実際、世の中、世知辛いものなのだ。誰も彼もが幸せとは限らないのだ。女の子の手を握ったことなんて、子供の頃のフォークダンスだけ、という人間は多いのだ。
そんな彼ら、あるいは彼女らの境遇を責めることは出来ない。責めるべきは、そうした境遇を作った社会ではなく、ひねくれてしまった『犯人』の人格なのである。
――とりあえずそれはそれとして。
「どうしよう?」
「辺り全部を囲いで覆ってしまうのが一番だろうけど、それじゃ、露天風呂の意味がないしね」
「うん」
露天風呂というのは、周囲の景色を眺めるのを楽しみながら入るものだ。
景色の見えない露天風呂など露天風呂の意味がない。
それ故に、こういうものは、どうしても『覗き』という問題が絡んでくる。それをどうにかして対処するのがこいし達の役目である。
「あっち側に人が来られないようにする、とか」
「川の流れをいじってしまうのはよくない」
「じゃあ、あっち側にこっちを覗くことの出来ないよう、設備を作る。衝立とかもそうだけど」
「それよりはいっそ、脱衣場とかを作ってもいいかもしれない」
今現在、この温泉の脱衣場として使われているのは、簡素な木製の掘っ立て小屋である。
それが、温泉に隣接したところに置かれている。客はここで服を脱ぎ、河原を裸足で歩いて渡り、湯船に浸かるのだ。
「ああ。施設か」
ぽんとこいしは手を打った。
この河原の反対側に、ちょっとした建物を作ってしまい、それを外からの『ガード』とする。
施設はそんなに手の込んだものである必要はない。
服を脱ぐところ、休憩の出来るところ、その程度があればいいだろう。
そして当然、この温泉に面した側には窓は作らない。そんなものを作れば、今度はその施設が覗きのメッカとなってしまう。
「えーっと、予算は……」
「そんなに手の込んだものにはしないんだろう?
そこまでかかるものではないだろう」
「施設からこっちまで、川を渡る橋をかけたい」
「ふぅん」
たとえば向こうの施設で服を脱ぎ、裸になって橋を渡るのもいい。
あるいは、こちらに脱衣場を残したままにしておき、浴衣姿でからころと下駄を鳴らしながら橋を渡ってくるというのも、また風情がある。
「三途の川を渡って風呂に入りに行く、か。
それはそれで洒落がきいてるかもね」
元々、この温泉に入るには、目の前の川――すなわち、三途の川を渡って来なくてはいけない。
しかし、ここに至るまでの橋は、この場所からは少し離れた場所にかけられており、観光ルートからも若干外れているのだ。
故に、『地底温泉巡り』の中では些か人気の劣る場所でもある。逆に、『人が少なくて、ゆったりお湯に浸かれる場所』としても穴場的なスポットではあるのだが。
「よし、じゃあ、そうしてみよう」
「はーい。
じゃあ、あとで書類とか書いて持っていくから、見積書を出してね。勇儀さん」
「はいよ。
……って言っても、あたしは書類仕事なんてからっきしだからね。
誰か得意なやつに頼んでおくよ」
「はーい」
これでとりあえず、対策完了、とこいし。
これで無事、地底温泉の『覗き』はなくなるかと思ったのだが――。
「……こいし」
「……」
「はぁ……」
「おにょれ~……!」
それから、またしばらく後のことである。
確かに、『賽の河原温泉』での覗きはなくなった。
勇儀に頼んで作ってもらった『設備』の費用をペイしていくことがこれからの課題――そう思っていた矢先に、第二の事件発生である。
「今度は『火炎地獄』で覗きですか。
……あんなところで覗きなんて、そいつ、よっぽど肝が据わってるというか、違う方向に根性かけすぎというか」
また新たな『新聞』を握りしめるこいし。
燐が後ろから、その新聞の見出しを見て、『地底温泉で再び覗き発生』のフレーズに肩をすくめる。
「こいしちゃんへの挑戦状!」
そう叫んで、こいしは座っていたソファから立ち上がり、どこかへと走っていってしまった。
「さとり様……どうします?」
「……まぁ、好きにさせておいて。
映姫さまからも、『こういう事態を放置しておくのはよくありません。きちんと対策するように』とご指示を頂いているし……」
「……何でまた閻魔様から直々に」
「映姫さま曰く、『地底温泉は地霊殿の財政を著しく好転させ、地底に新たな産業と、それに伴う雇用、さらには経済の流れを生み出すと共に、閉鎖的な地であった地底に、地上との交流という新たな新風を吹き込む事に成功しました。これは紛れもない善行です。故に、古明地さとり、あなたのなすべきことは、より温泉稼業をもり立てること』と。
……わたしゃ、いつから旅館の女将が定職になったのかしらね」
「……ははは」
遠い目をして呻くさとりに、燐は引きつり笑いを返すので精一杯だった。
「……こりゃ、一体どこから覗いてたってんだか」
次なる覗き対策は、ここ、火炎地獄温泉にて始まった。
名前通り、業火に焼かれる大地を見下ろす、崖の上の温泉である。
足下には真っ赤に焼けた溶岩がそこかしこに覗く大地。そこから時折、間欠泉のように噴き上がるマグマの柱が見ものとされる、『地獄巡りツアー』の名所の一つである。
その、赤く焼けた大地を一望できる崖の上に作られた温泉が、『火炎地獄温泉』。崖に隣接したところまでが湯船となっており、柵から身を乗り出すと、足下に燃え滾る溶岩を臨むことが出来る絶景の温泉として有名であった。
「えーっと……」
こいしは辺りを見渡しながら、その『覗きスポット』を探す。
「あれ!」
程なくして、それが見つかった。
崖の上、周囲は溶岩という天然の要塞の中、一つだけ、風穴が空いている。
「ははぁ……」
そこに連れてこられたのは、これまたこいし達の友人であり、彼女たちの『温泉稼業』を応援している黒谷ヤマメという土蜘蛛の妖怪である。
こいしが示したのは、この崖よりも少し背の低い台地である。
だが、その周囲に至る道はなく、また、近くに大きな溶岩の噴出口があることから『危険。立入禁止』とされている場所だ。
しかし、そこからだと、柵に寄りかかって身を乗り出す湯浴み客を絶好の眺めで臨むことが出来る。
ちなみに当然のことであるが、この『火炎地獄温泉』も露天風呂である関係上、周囲に『覗きが出来るようなルート』は構築していない。そこはまさに『穴場』だった。
「こりゃ、ある意味、命がけだ」
炎の噴出口は、ある程度の時間を置いて、定期的に真っ赤に焼けた溶岩を噴き出す。
当然、その『時間』は管理されているのだが、しかし、そこは自然が相手。時折、予定してなかった時間に炎の柱が立つことも、日に一度や二度はある。
もし、そのタイミングにその場に居合わせようならば、骨も残らずこの世から消滅することだろう。
「そんなことに人生かけるなら、もっと他のことに使えばいいのに。
そしたらモテると思うよ。絶対」
ひょいと肩をすくめて、ヤマメ。
そういう情熱を別のところに向ければ、人間(人間でなくとも)もっと大きくなれるものだ、ということを言いたいらしい。
「うーにゅ……。
どうしよう、ヤマメさん?」
「これはもう素直に、あそこを立ち入り禁止にするしかないんじゃない?」
「今も立入禁止だよ?」
「だから、もっと簡単にさ。
地面をなくしてしまえばいい」
「ああ、なるほど」
ぽんと手を打つこいし。
よーし、と空中に飛び上がった彼女は、気合一発、強烈な一撃を地面へと叩き込む。
その一撃は台地をふっ飛ばし、見事に地形を変えてみせた。
「……ま、観光の目玉は一つ減るけど、この辺りなら似たような景色は色々あるし。大丈夫でしょ、多分」
自分に向かってVサイン突き出してくるこいしに適当に手を振りつつ、苦笑するヤマメであった。
――ところが、である。
「くっ……! これでは堂々巡りのいたちごっこ……!」
またもや出てきた、あの『新聞』。
それには、またもや新たな覗きスポットが開拓されたことが記載されていた。
今度の覗きスポットは『針の山地獄温泉』。
残酷な光景が展開される、地底随一の恐怖スポットであるのだが、良質な鍼治療を受けられるということで一躍有名になった場所でもある。
「……ほんと、懲りないですねぇ」
苦笑いを浮かべる燐。
一方のこいしとしては、こうも次から次へとネタを披露されると色々と悔しいところがあるのか、手にした新聞を、珍しくテーブルの上に叩きつけるほどの怒りを表明する。
「こうなったら! 犯人さんを捕まえるしかないっ!」
そう宣言するこいしである。
さとりは『まぁ、それが一番手っ取り早いでしょうね』とうなずくだけだ。
次から次へと開拓される『覗きスポット』。一つ一つ潰していくのでは埒が明かない。
となれば、それを行おうとする不埒者をとっ捕まえて、見せしめにしてしまうのが一番早い。
しかし、だ。
「覗きの名所になってしまったところなんて、人を入れられないでしょ」
人の入っていない温泉など、誰が覗きに来るのか。
さとりの言葉に、こいしは『大丈夫だよ!』と返す。
「お姉ちゃん、世の中には『囮捜査』という言葉があります!
そう! こいしちゃんが囮となって、犯人さんを捕まえてみせます!」
「……」
呆れ顔のさとり。
燐も同じ気持ちなのか、微妙な笑みを浮かべてただ立ち尽くすだけだ。
「待ってろ、犯人さん! こいしちゃんを怒らせた罪は重たいのだ!」
何やらやる気満々のこいし。
この彼女を止めるのは、今、この場にいるものには……どころか、この世界どこを探したっていないことだろう。
それほど、こいしという人物は『奇想天外』なのだから。
「どっから覗いてたっていうんだい」
「あの辺りらしいよ」
例の『針の山地獄温泉』を眺める位置に潜む、勇儀とヤマメ。
ヤマメが示すのは、その温泉を遠くに臨むことの出来る、針山の先端という微妙な位置である。
「ああ……確かに、遮るものが何もない」
手をかざしてそれを眺めれば、そこから温泉までは一直線。視界を遮るものはなく、『絶景』を拝むことの出来るポイントとなっている。
「よく見つけるもんだ」
感心して頷く勇儀に、『確かに』とヤマメが同意する。
「反対側にはパルスィたちがいるんだろ?」
「そうだね。
ついでにいうと、逃走経路になりそうなところには、勇儀が人を配置した」
「奴らも『そういう卑怯なことをする男は許しちゃおけねぇ!』って怒り心頭だったからね」
「相手が男とは限らないよ。美女かもしれない」
「女が女の裸見て、何が楽しいってんだ」
「あの温泉を利用するのは女性だけではありません」
「おお」
なるほど、と手を打つ勇儀。
それはともあれ、彼女たちの視線の先には温泉、そして例の『覗きスポット』。
そこを見据えるのだが、犯人らしき人物は現れない。
「ふっふっふ……!
逃げられそうなところ、場所、その全てを封鎖した、この完璧な布陣!
犯人さんは、もう逃げられないのです!」
「ちょっとこいし! 立つんじゃありません!」
すっぽんぽんの状態で仁王立ちするこいしに、例の場所からは見えない位置に隠れているさとりが声を上げる。
もし、犯人がこの温泉を覗いていようものなら、こいしは全力全開モードなのだ。
「大丈夫だよ、お姉ちゃん。今のところ、犯人さんいないから」
「いやそういうことじゃなくて!
せめてバスタオルくらいは巻いたらどうなの!」
「お湯にタオルをつけるのはマナー違反」
「限度がある!」
しかし、『地霊殿温泉稼業』を考案し、右肩上がりの軌道に載せ、今の時点でも次から次へと新しい企画を考え出して人を呼び込む『責任者』にとっては、その程度など瑣末ごとである。
彼女たち、ひいては自分たちの『資源』が何であるかわかっているのだから、その『資源』を何よりも大切にせねばならない。
そのためならば、ある程度の犠牲はつきものである――ということをしたり顔で語るこいしに、さとりはため息をついた。
「さあ、犯人さん、来るなら来い!」
「……お燐。あの子に『羞恥心』というものを教えるのはどうしたらいいと思う?」
「お空にそれ教えるのとどっちが難しいですかね」
「……ああ、そういうことね」
要するに『結論:無理』ということである。
それから待つこと、およそ三十分。
「う~……」
こいしが湯船の中で唸っている。
地底の温泉は、基本的にお湯の温度が高めである。この温泉も例外ではない。
そこに三十分もの間、浸かっているのだ。
「こいし。一度、外に出たら?」
「う~……」
未だ、犯人は現れない。
この状況を察したのか、それとも、『こいしみたいなぺたんこに興味はねぇぜ!』なのか。
あちこちに潜んでいる、今回の協力者と連絡を取り合っても、一向に『ヤツは現れない』の回答ばかり。
これはどうやら失敗か。
さとりがもう一度、『こいし、今日はやめましょう』と声をかけると、こいしも渋々……なのか、とりあえずという形で湯船から立ち上がり――、
「あっ!」
その瞳が、何かを捉えた。
『え?』と振り返るさとり。だが、次の瞬間には、こいしは湯船から飛び出し『犯人さん、見つけたー!』と空をかっ飛んでいく。
――すっぽんぽんの状態で。
「ちょ、こいしぃぃぃぃぃぃ!?」
慌ててさとりがバスタオル片手に立ち上がり、彼女の後を追いかける。
「お、おいおい。なんだなんだ」
「勇儀、あっちだ」
「あっち、って……」
「あっち。あの針の山。ほら、あの位置からも、温泉が見える」
「ああ、本当だ……って、あんな都合よく針が高さを揃えてるってか」
「よく見つけたもんだよ、ほんと。
あーあー、こちらヤマメ。犯人が現れたよ。全員、集合!
ああ、あと、男連中は悪いんだけど来ないでね。代わりに周囲の道を塞いで。
理由? こいしが全裸!」
ヤマメと勇儀は潜んでいた場所から飛び出すと、こいしの後を追って地面を走る。
空を飛べば相手から見つかりやすい。一方、この『針の山地獄』は、周囲に立ち並ぶ無数の針のおかげで見通しの悪い地域である。そのため、地面を移動する彼女たちは、必然的にこいしに隠れて移動することが出来る。
「ちょっと、ヤマメ! 何でこいしが裸で空を飛んでるのよ!」
「まぁ、あの子だしねぇ」
「いや、そうだろうけど……。
……さとりも、ほんっと、大変でしょうね」
彼女たちとは違う場所に隠れていた水橋パルスィが二人に合流する。
パルスィも『何でこいしは裸なの』という点に疑問と共にさとりの心労を慮っているようだ。
「けど、これだけ周囲で見張ってんのに、よくあの場所に辿り着けたもんだ」
「観光は止めてないしね。
大方、観光客に紛れてたんでしょ」
地面を蹴って、ヤマメが周囲の針を利用しながら、自慢の蜘蛛の糸を使って空中を自由自在に移動していく。
「すばしっこいな」
「本当よね」
そんなことは出来ない勇儀とパルスィは、やがて、ヤマメに遅れること数分で目的地に到着する。
「誰かいたような跡があるね」
「おのれー! 犯人さんめ!」
「……さとり、大丈夫かい?」
その場をつぶさに見て回るヤマメ。
拳を握りしめて怒りを表現する、バスタオル姿のこいし。
そして、肩でぜーはーぜーはー息をしながら、地面の上でへたり込んでいるさとり。
その状況を見て、ぽつりとつぶやく勇儀という状態だ。
「どこからここにやってきたのかしら」
「あっちじゃないかな」
パルスィが、手を目元にかざして周囲を見やる。
その横で、燐が左手側を指差す。
「あっちの通路は観光ルート。そこから、この道を移動して、あそこの通行止めを乗り越えてやってきたんだろう」
「……なるほどね」
「大した根性だよ、全く」
そこまでして『風呂を覗きたい』と願う執念、誠にあっぱれである。
問題は、『その執念を別のことに使え』と、誰からも満場一致でツッコミの入る、間違ったリビドーの存在なのだが。
「あっちの方に人は配置してなかったのか」
「いや、あたしがしてた。
ただ、その裏をかかれた。ちょうど死角になるような道を辿ってきている」
「……へぇ」
「地底の地理にも詳しいのか。
となると、犯人は地底の奴なんですかね? さとり様」
「はー……はー……!」
「……まぁ、まだ無理ですね」
日頃の運動不足がたたって、ものも言えないくらい疲れているさとりに、燐の顔には苦笑い。
「いや、そうでもないかもしれない」
「と言うと?」
「この辺りの地形なんてものは、観光ガイドに書いてある。
ってことは、何度も何度もここを見に来ていれば、自然と覚えるってことだ。
立入禁止と書いてはいても、乗り越えたり、無視して歩いていくことだって出来る」
もちろん、それで何かあっても知ったことではない、と勇儀。
しかし、そういう『放置』を逆手に、好奇心で、あるいは何らかの目的を持って自分勝手な行動を取る輩は必ず存在する。
今回の相手は、もしかしたら『そういうやつ』なのかもしれない、と彼女は言った。
「こうまで覗きが多発するとなると、温泉の風評被害も大きくなりそうね。
だからこそ、こいしがやる気を出しているのだろうけど」
「このスポットは潰した。ってことは、やっこさんは別の場所を探してくる」
恐らく、その時が『最後の勝負』となるだろう。
ヤマメの言葉に、一同、真剣な顔を見せる。
その中で、一人、未だに立ち上がれないさとりは『……体を鍛えよう』と、そのとき、心から思っていたとか。
――最後の決戦の舞台。
それが用意されたのは、つい最近、地底にて開拓された『目玉の温泉』である、
「今度こそは捕まえてみせるよ!」
こいしの上げる声が反響して回る、ここは『鍾乳洞温泉』であった。
地底に至るまでの通路から少し道を外れた先にある、広大な鍾乳洞。そこの一角に作られたのが、この温泉である。
地底の温泉街に至るまでの間に一服、というものから、この見事な景色を眺めるためにやってくる客まで数多。
そこで『敵』を待ち構えるのは、やはりこいしであった。
「こんな逃げ場のないところで」
前回と同じように、姿を潜めている燐。
隣には、バスタオルを構えたさとりもいる。
――この鍾乳洞温泉、入口から出口までは一本道。途中、鍾乳石の陰や暗がり、あるいは小さな穴など隠れるところは多いものの、基本的に逃げ道はそれしかない。
こんなところで『覗きスポット』を見つける方も見つける方だが、わざわざそれを世間一般に知らしめて、こいしに『挑戦する』のは色々とぶっ飛んでいると言わざるをえない。
よっぽど、自分の逃げ足か、それとも隠れ身のスキルに自信があるのだろう。
だからこそ、こいしの方も、もっとやる気満々である。
「本当に来るのかね?」
「来るでしょ、多分だけど。
前回の警戒を、向こうは見ているはずだし。あれだけの包囲網を突破したっていう自負があるんだから、今回も同じこと、やってくるさ」
前回と同じように、『犯人を捕まえる役』に抜擢されている勇儀とヤマメ。
彼女たちは温泉の近くの岩陰に身を隠し、チャンスを伺っている。
――時間が過ぎていく。
この温泉、鍾乳洞の空気が冷たいため、お湯は熱めでも長く入っていられる。こいしも、おかげで、前回のようにうなることなく元気いっぱいきょろきょろ辺りを見回している。
「こいしにゃ、自信があるんだろう」
勇儀が小さくつぶやいた。
温泉経営者として、不埒な『客』には天罰をくださなくてはならないという使命感もそうだが、今回のこの『ステージ』は、自分たちに対して有利すぎるステージである。
ここで捕まえてこそ、という意識と『ここで捕まえられなくてどうする』という二つの意識を、こいしは持っているに違いない。
「勇儀は、この道をしっかり見張っていてね」
「ああ、わかってる」
外に続く唯一の道。
ここを通らなければ、外には出られない。
ここに張っていれば、外から入ってくる相手も内から出ていく相手も見張ることが出来る。
すなわち、自分たちの目に晒されないで移動することは不可能なのだ。
待つことしばし。
「出てきませんね」
燐が小さな声でつぶやく。
しかし、前回もそう言っていたのに『犯人』はやってきた。
今回も油断はできないだろう。
待つことも仕事なのだ。
更に時間が経過する。
いい加減、周囲の張り詰めていた気配も緩んでくる。
やはり今回は来ないのか? 相手も無謀だということに気づいたのか? 今回は、一旦、やめておくか?
そんな気配が漂う中、
「……あれ?」
つと、勇儀は隣に潜んでいたはずのヤマメがいないことに気がついた。
あいつはどこへ行ったのか? 周囲に、勇儀が視線をやった、その時である。
「いた!」
こいしが声を上げた。
そして、温泉から飛び上が――ろうとして、さとりに捕まってバスタオルを装備させられている。
瞬間、勇儀の視界に映る、一瞬の黒い影。
「奴か!」
そいつはどこに潜んでいたのか、こいしの声に反応して行動していた。
あっという間に移動し、外へと逃げていこうとする。
そうはいくかと道を塞ぐ一同をあざ笑う形で、
「……何!?」
姿を消す。
出口に続く道に張っていた、勇儀の仲間たちも目を白黒させている。
辺りを探しても、どこにも『奴』が潜んでいる気配はない。
これは一体、どういうことだ。
うろたえる一同。
そこに、
「ほい、捕まえた」
ヤマメの声が響いた。
「……ヤマメ?」
「ほい。何? 勇儀」
「あ、いや……」
彼女の腕の先――垂れ下がる、白い蜘蛛糸に捕まっているのは一人の年若い天狗の男性であった。
彼は両手両足を縛られ、口元に猿轡を噛まされ、ついでに天狗の一番の武器である羽も縛り付けられて、身動きの出来ない状態で地面の上に転がされる。
「さすがヤマメさん! お見事!」
「でしょ?」
やってくるこいし。
彼女は満面の笑みを浮かべて、ヤマメとハイタッチする。
「えっと……。
……何がどうなってんだ?」
勇儀のつぶやきに、ヤマメが『簡単なことさ』と返す。
「この天狗のお兄さんは、外に続く道を通ってやってきた。
そして、あたし達の目に触れないところに隠れていた。
それをあたしが見つけた。そんだけ」
「いやいや、ヤマメ。道はこの一つしか……」
「ないはずだ。そうだろう?
けど、違う。
この鍾乳洞にはあちこちに小さな、細い穴が開いている。その中には外に続くものもある。このお兄さんは、そこから入ってきたのさ」
そして、そうした、誰の目にもつかない小さな『隠れ家』に隠れて、一同をやり過ごそうとしたのだという。
しかし、そこはヤマメ。仮にも『蜘蛛』である彼女にとって、そんな小賢しい技は通用しない。
己の武器である蜘蛛糸を周囲に細く張り巡らせ、この空間に続く『道』全てに『鳴子』を仕掛けたのだ。
「んで、そのときにひっついた糸を辿って追いかけて、隠れていたところをこの通り」
ぴんと指で弾くそれは、目に見えないくらいに細く、しかし強靭な糸。
蜘蛛の武器を侮ってはいけない、と彼女は大笑した。
「空の下じゃ、あたしは天狗にゃかなわない。
けれど、この狭い地底の地ならば、あたしに勝てる天狗なんていやしないさ」
Vサインを突き出す彼女に、やれやれ、と勇儀は肩をすくめてみせる。
そうして、その視線は、ヤマメの足下でふん縛られている天狗へと。
「……ま、そういうことならそれでいいか。
さて、と。
おい、天狗。お前、何のつもりでこんなことをした?」
肩をすくめた後、勇儀は足下に転がる天狗に顔を近づける。
彼は勇儀を見た後、『ふっふっふ』と不敵に笑う。
「何だ、態度がでかいな」
「……当然だ。
俺は、確かにこうして捕まった。その点に関してはあんた達の勝利だ。認めよう。
だが、俺は勝利したのだ!」
理論が全く意味不明である。
もう少しわかりやすく言え、と呻く勇儀に、
「わからぬか! ならば教えてやろう!
我が趣味は、各地の温泉スポットを巡り、覗きスポットを発見すること!
それを誰が利用しようとも、その後、何が起ころうとも関係ない!
覗きスポットを見つけた時点で、俺の勝利げはぁ」
勝ち誇って宣言する彼を踏み潰したのはこいしである。
両足でどすんと頭の上に一撃。流石にそれは効いたのか、天狗のお兄さんは動かなくなる。
「なるほど。
この新聞って、『覗きがあった』じゃなくて『覗きスポット見つけたよ』っていう広報誌だったのか……」
手に持った新聞を見て、燐がうめいた。
天狗という輩は、実に意味がわからない。わけがわからない。何のために生きてんだかわからなくなるレベルで、こういう意味不明なことをやらかす。
しかし、天狗というのはそういうものだ。彼ら彼女らは、己が持っている『ジャーナリスト魂』の下、それを満たすために活動する『イキモノ』なのである。この青年にとっては、『覗きスポットを見つける』ことがそうだった――ただ、それだけのことなのだ。
「……こいし、どうする?」
「んっとねー」
ひょいと彼の頭の上から飛び降りるこいし。
この彼の生殺与奪権を握るこいしは、にんまりと笑う。
その笑みを見て、さとりは『あ、この子、また何か悪巧みを考えたな』と、読めないはずの我が妹の心を旗幟鮮明に見通していたのだった。
「……まぁ、今回はヤマメのお手柄だったのね」
「そういうことさ」
地底の町並みの一角。
そこの酒場に、一同の姿がある。
勇儀にヤマメ、パルスィ、そしてヤマメと仲のいい妖怪のキスメの、合計四人である。
彼女たちはテーブルを囲み、今回の一件のあらましと、そしてその行く末を語っている。
「しかし、天狗というやつは厄介なものね」
「さとりさんの知り合いの天狗たちは、割りと付き合いやすい奴らだけどね。
まぁ、あいつらは本音のところはただのデバガメでけたたましいだけだし」
「それでいて、力も無駄にあるから鬱陶しい。
嫌いな奴らじゃないけれど、敵に回すとめんどくさくて、味方にすると鬱陶しいってところかね」
「悪い印象しか持ってないみたいじゃない」
「あたしと酒を飲めない奴には、あたしはいいイメージ持たないよ」
「じゃあ、わたしもその中のひとりになってしまうわね。光栄だわ」
「まあまあ」
冗談を口にして笑う勇儀は、『いやしかし』と言葉を続ける。
「こいしの奴は、なんというか、こっちの想像以上のことを平然とやらかすもんだ」
「うーん……。この作りだとこうなるか~……。
じゃあ、こうしたら?」
「いやいや、それだと、こっちから」
「ああ、そっかぁ。
お兄さん、すごいね!」
「……燐」
「言いたいことはわかります」
古明地さとりの執務室。
そこに、新たな顔が増えていた。
先日の覗き事件の主犯格……というか、騒動の原因となったあの天狗が、今、こいしと共に『露天風呂の設計図』を前にしてあーでもないこーでもないと打ち合わせをしている。
彼はこいしによって、『ちれいでんの非常勤勤務』として雇われることとなった。
その条件は、『今後、地底の温泉を拡充していく際に、プライバシー配慮の観点から覗きなどを撃滅したい。そのため、今まで培ってきたそのスキルを遺憾なく発揮してくれるのであれば、今回の狼藉は水に流す』というものである。
彼はその提案を快諾した。あんだけ余裕こいていたものの、自分の周囲には怒りをたたえた鬼たちがずらりと並んだことで、さすがに恐怖を覚えたのかもしれない。
ともあれ、彼の罪はそれで帳消しとなり、そして今、彼が保有する『露天風呂の覗きスポットを瞬時に見つける程度の能力』を遺憾なく発揮し、こいしの提案してくる『新しい露天風呂』の設計のお手伝いをしているというわけである。
「うーん……。
そうなると、こういう風にしたほうがいいかな?」
「確かに、それならば覗きは撲滅できるでしょうけれど、内側から景色を見るのが難しくなると思います。
それよりはむしろ、この辺りの植え込みをこんな感じにして……」
「ああ、なるほど! これならいいかも!」
「……燐」
「まぁ……役に立ってるみたいだし、いいんじゃないでしょうか……」
さとりはため息をついた。
今日までに、この数日間で、何度のため息をついたのか、もうわからない。
ため息は一度つくごとに幸せが一つ逃げていくと言われているが、してみると、自分にはもう幸せは来ないんじゃないだろうか。
そのくらいの勢いで、彼女はため息をついていた。
「よーっし、次の温泉はこういう感じでいこう!
ありがとう、お兄さん!」
「いえいえ。また自分の力が必要な時は声をかけてください」
「うん。
あ、今日のお礼はいつもの口座に振り込んでおくからね」
「ありがとうございます!」
そんな感じで、今日も絶好調の『ちれいでん』の経営は続くのである。
あと目玉の温泉を本当に目玉浮いてたりする温泉なのかと勘違いせてしまった
地底の温泉でもそら無いわな
一話完結、という言葉が相応しい綺麗なまとまりでした。
さとりさまマジ苦労人