「月、紅いわね」
「見られているから、きっと照れちゃっているのよ」
「どう、その実赤方偏移かもしれないわ」
「大発見。月は恒星だったって?」
「物理学はいつも仮説を提供するだけよ」
「なら断言してくれるエセ科学の方がいっとう素敵ね」
「あなたの信じる世界があなたを形作るの、それの正誤は関係ないわね」
「そうかしら。じゃあ……」
あの時、帰り道でくだらない会話をしながら――いや、彼女は楽しんでなんかいなかったのかもしれないが――こんな結末が視えていたのだろうか。だとしたらあの時から今まで、どんな心もちで過ごしていたのだろう。割切って楽しく過ごそうか、あるいは怨嗟に燃えながら周り全てを呪い尽くしてやろうか。まあどちらも意味はないだろう。
‐‐‐‐‐‐‐‐‐
「今度の月食、本格的に見たくない?」
「どこから見たって赤いわよ、家からでいいじゃない」
「大学から南にちょっと行くと林があるでしょう、この間調査していたら柵が一本だけ外れそうになっててね、多分抜けられるわよ」
「やだ、本当に犯罪じゃない」
「誰も困らないんだから犯罪にはならないわ」
某日某時刻、マエリベリー=ハーンの自宅にて。定例と化しつつある金曜の会合、もとい酒を呷るだけの極めて不毛な時間にアナーキスト気取りの相方がまた妙なことを誘ってきた。この子は疲れというものを知らないのだろうか。
「あなた一人で行きなさいよ」
「えー、寂しいじゃない。一緒に行きたいのよ――あ、柵を抜けられるかが心配?」
「怒るわよ」
「そう言って怒ったことないじゃない」
「経験則が確実じゃないことくらい承知でしょうに」
「じゃあ決まりね、ウテンケッコー」
「何よその呪文」
「ん、昔は今みたく天気を正確に読めなかったらしいわ。だから『雨が降ってもやりますよ』っていう意味』
「雨が降ってたら月が見えないじゃない」
「今週いっぱい晴れるわ、問題なし」
「――あなた、やっぱりどこか狂ってるわね」
「そのくらいじゃないと生きているとは言えないわ」
何故か勝ち誇っている。私は呆れて飲みかけだったビール(蓮子が言うにはアルコール入り野菜ジュース)を口に含み、何も言い返さなかった。どうせここで断ると後で何倍も面倒なことになるから、もう選択肢は私にはないのだ。でも嫌いじゃあない、彼女が多少強引で、私がそれに従ってついていく、そして時々思い留めたりする。バランスが取れているではないか。
「二十二時四十七分三十一秒」
「あら、ついに家の中からでも時間が見えるようになったの?」
「何言ってるのよ、そこに時計があるじゃない」
――――こういうところは嫌いだ。
決行当日、講義がお互いお昼からの一コマで共通していたことも幸いして、大学近くのカフェテラスで一服してから行くことになった。入ると客は相変わらずおらず、このお店の売り上げは私たちが支えているのなら多少の経営への口出しは許されるかしら、なんて考えつつ奥から二番目左――いつもの席に座った。店員さんはもう案内すらしてくれないが、気楽でいい。
「ミルクと砂糖入り、ブラックのお二つで?」
注文も覚えられているくらいには、年齢不詳の店主(おそらく女性)は白痴ではないらしい。なら潰れないためにもう少し企業努力をしてほしいが、あるいは金持ちが道楽でやっているお店なのかもしれないな、と私は思った。
「今日はレディーグレイをちょうだいな」
たまには予想を裏切らせないと人間はどんどん物事を考えなくなるものだ。紅茶は家でも飲めるが、善業を積んでおくのも悪くない。
「お、なら私は……プリンスオブウェールズってのを頂くわ。あとガトーショコラをひとつ」
「太るわよ」
「この時代に太ることなんてありえないわね、嗜好品は栄養調整されているのを知ってるでしょう?」
「ええ、三流ゴシップ誌で読んだ程度には知っているわ」
店主さんのふっふ、という笑いが聞こえてきた。ではそのように、と続けてバック・ヤードに茶葉を取りに行ったらしい足音、扉の開閉音がした後、店内は静寂――いや、シーリング・ファンの回る音のみが支配した。
「本当に行くの?」
「大丈夫、私に任せれば失敗はないわ」
「調子に乗っているとどこかで大コケするわよ」
「コケてもただでは立ち上がらない」
「言うは易し」
「これまた安い返しね」
「あの店主さん、何歳だと思う?」
「サア、三十もいってないんじゃないかな」
再び扉の開く音がして話題の店主が帰ってきた。コーヒーだとサイフォン式だったが紅茶はフレンチプレスらしい。マッチを擦り、固形燃料に火を付け、湯を沸かしている。
「十五時三十九分二十秒」
「今日はシーリング・ファンを見ても時間がわかるようになったのね」
蓮子はきょとんとした顔で私を見つめてきたが、すぐに合点が行ったような、心底愉快そうな顔で笑いだした。物理学に触れるとこんな症状が出るなんて知らなかった。そうか、そういえばそうだ、としきりに繰り返し呟いているが、先に人の顔を見て笑ったことに関しての釈明はないのか。
「あのねメリー」
「なによ」
「シーリング・ファンの奥に時計が掛けてあるのよ」
――――やっぱり嫌いだ。
「プリンスオブウェールズ、レディーグレイ、それとガトーショコラですわ」
「あ、どうも」
いつの間にか淹れ終わったらしく注文したそれが運ばれてきた。コトリ、カタリ、とソーサーを置く音がして、ガトーショコラを二つ差し出してきた。
「あの、私は頼んでないのですが」
「サービスと、店主が言っておりまして。私からも普段からのご愛顧と洒脱な小噺への敬意です、受け取ってください」
「……では、いただきます」
なんだか狐につままれたような、妙な気分だがお礼というなら無碍にすることもできない――。
「太るわよ」
「うるさい」
今日の蓮子はなんだか楽しそうで、口がよく回る。小噺をする破目に陥るのは全部蓮子のせいだが、気づいているのだろうか。
「あの人、店主さんじゃなかったのね」
「叙述トリックかもしれないわ。『店主』と『私』が同一人物である可能性は拭いきれない」
「メリットがないわ」
「人間は得てして合理的ではないものよ」
「それは蓮子を見て入ればわかるわ」
「なんでよ」
「それよりこの後はどうするの? まだ時間はけっこうあるけれど」
「暗くなると獣道は――」
はっとしたように、店主か店員か、件の女中を見遣ってから声を低くして蓮子は続ける。
「――ちょっと危ないから明るいうちに行きましょう。晩御飯になりそうなものもどこかで適当に見繕ってね」
「月食はいつからなの?」
「だいたい十九時ごろから始まって二十三時くらいに一番紅くなるらしいわ」
「じゃあ半分野宿みたいなものじゃない」
「言い方の問題でしょう」
「虫とか猪とか鵺とか、ツチノコとか出ないわよね」
「後ろ二つに関しては出てきて欲しいけどね、でも多分全部出ないわ。……あ、美味しい」
能天気にガトーショコラを頬張って喜んでいる。こうして見ると子供みたいだが、どうしてこうもパンクなのだろうか――いや、子供だからこそなのかもしれない。危なっかしくて困る、なんて保護者みたいな感情を抱きながら私もガトーショコラを口に運んだ。単体だけなら甘すぎるだろうが、紅茶ないしコーヒーと一緒ならちょうどいい。なかなかウマく計算されているな、と私も舌を巻いた。
結局カフェを出たのは十六時二十分ほどだった。わがままを聞いてやったのだからと無理やり蓮子に払わせたら人間じゃないと罵られたが、正直お互い様だ。でもその反応を見る限りではあんまりに可哀想なので、後で返そうとは思う。
蓮子に付いて三十分くらいは歩いただろうか、途中で食糧を買った時間を含めると一時間ちょっとくらいか。到着してまず思ったのは『騙された』だ。何が林だ、これは山や森と形容するべき代物ではないか。絶対にさっきの紅茶代は返さないぞと、心に誓った。
「この森であってるの?」
「ええ、この林よ。ちょっと歩けば不法侵入スポットがあるはず」
もうこの先蓮子の『ちょっと』を信用することはないだろうな、と思いながら半ばヤケになって歩いた。生きて帰ってこられるだろうか。不法侵入スポットとやらはつまるところ補修が間に合っていない箇所らしく、腐食した鉄柵が「俺の職務は全うしたぞ」と言わんばかりに立ち塞がっていた。ナムサン、今から君は鉄柵から只の錆びた鉄網に成り下るが許して欲しい、恨むならこの世紀の大犯罪者である宇佐見連子を恨みたまえ。
「何ブツブツ言ってるのよ」
「え、いや、楽しみだなあって」
「……ま、何でもいいけどさ」
よっ、ほっ、と鞄から取り出した玄翁で叩いていたら、バギンと折れて向こう側へ倒れてしまった。ぽっかりと網目がなくなり、這えば入れる程度には穴ができたのをしばし眺めた後、蓮子は勇み足(這い?)でずりずりと入っていってしまった。
「ちょっと、早く来てよ」
「わかってるってば、ほら、私の鞄持ってて」
鞄を渡して、汚れる覚悟をして、地面に伏せた。草や土の匂いがして、不意にそう遠くない過去を想像してしまった。野原を駆け回って遊ぶ子供の姿だ。もっともこの科学世紀にそんなことをしているのはよっぽどの物好きだけだろうが――。
「……メリー?」
「ああ、ごめんなさい、今行くわ」
もそもそと芋虫のように進み柵を抜ける。立ち上がりぱたぱたと埃を払いつつ鞄を受け取る。洋服が破れてしまうかと思ったが、幸い無事なようだった。――――見つかればこれで私も前科者。我ながら即興にしては感情がよく表れたいい川柳だと思う。
「さあ。不法侵入者さん、冒険の始まりよ」
「ええ。不法侵入者さん、お供致しますわ」
道中は薄暗く、かなり暑かった。周りは背高く育った木々ばかりで、こんなところで月が見られるのか不安にすらなったが、そもそも私はそこまでここで見たいとは思っていなかったのだから構わないだろう。見られることに越したことはないが。
――そういえば。
あのときの想像は、自然に祝福されているように遊んでいた子供たちは本当に想像だったのだろうか。昔々にここで遊んでいた子供たちだったのでは、この森の記憶のようなものを垣間見てしまったのではないだろうか。正解はわからない。わからないなら推察も自由だ。
「もうちょっとで開けた場所に出るわ、そこなら見られるはずよ」
「ええ、ありがとう」
ふと我に返ると、体から汗が出ているのがわかった。ずいぶん登った――本来『林』なら登ったなどおかしいが――ように思えた。
でも、何でこんな所まで来たのだろう。高いところ、ロマンチックな所ならいくらでも思いつくだろうに、敢えてここというにはやはり別の目的があるのだろうか。私が乗り気でないように見えたろうあの時にも妙に食い下がってきたが、となれば私が必要ということか。まさか本当に淋しいからではあるまい。別に他の友人を誘えばいいだけだ。
……友人、蓮子にいるのかな。聞いたことないし、私以外にいないとか?
「あったあった! ほら、あそこ!」
先を進んでいた蓮子が叫び、振り返った。指さしているところには、確かに開けた場が、何故かくり抜かれた様に暗がりの空が見える場があった。興奮もあるだろう、彼女の顔にも汗が見られたが気にも留めていないようだ。あの不気味な瞳は生き生きとして、本当に楽しんでいる、楽しみにしていることが伝わってくるほどに輝いていて、私は彼女に友人がいないのではと不安に感じたのがやや野暮なように思えた。私にこんな顔を見せてくれるのなら大した問題ではないだろう。後で紅茶代を返してやろう。
「ふう、着いた着いた。思ったよりかかったわね」
「ええ、あんまりに歩くから喉が乾いたわ。ビール買ったわよね?」
「アルコール入り野菜ジュースなら」
「はいはい、下らないこと言わないでいいから」
鞄にしまった飲み物をごそごそと探りながら一緒に歩く。ちょうど中央あたりに着いたときにビールらしき容器を探り当て、まず蓮子に渡した。ありがと、と言うやいなや地べたに座り込んで封を開けてしまった。ぷしゅう、と耳に心地良い音が辺りに響き、ぐいぐいと飲んでいく。絵に描いたような「良い飲みっぷり」だったが、私も我慢の限界、(蓮子はみっともなく胡坐だが)脚を伸ばして座り、同じく封を開けた。
「あぁ、何がこんなに美味しいのかしら。妖しげな薬品でも入ってるとか?」
「ちょっと、私はまだ飲んでなかったんだけど」
協調性とは宇佐見蓮子の対義語か、なんて一瞬間思ったが、口をつけるとあそこまではしたなく飲んでしまった気持ちもわかる。妖しげな薬品ってアルコールのことかしら、あるいはアヘンやそれらのもの?
「おお、良い飲みっぷりですな」
「――ふぅ、ああもう、こんなところまで連れまわして」
「人のせいにしちゃいけませんな、メリー嬢」
「だって私と来なきゃいけなかったんでしょ?」
「あはは、やっぱバレてる? ここって昔は名のある神社だかお寺だかがあったらしくてさ。何か視えたら教えてよ」
「そんなことだろうと思ったわ。この場所知ってるってことはどうせ何回かここまで来てるんでしょ?」
「いや、入ったのは初めてよ」
「じゃあ何でもうちょっとだって分かったの?」
くいくいとお互いビールを飲みながら、つまむ物を鞄から並べつつ答えを待った。
「そんなの、ああでも言わないとメリーが頑張れないでしょ」
――――もう絶対に紅茶代は返さない。
その後、飲み食いして、最近の専攻がどうなってきたとか、やれあの教授はだめだとか話していたら、割に暗くなっていた。
「十八時五十三分六秒」
「今度はどこに時計があるの?」
「何言ってるのよ、上にあるじゃない」
確かに、くり抜かれた様にまん丸なそれは時計の縁のようにも見えた、おそらく蓮子が見たら時計そのものだったのだろう。私には星がいくつか輝いているようにしか視えないが――。
「――うえ、ちょっとぐいぐい飲みすぎたかも」
「えー、戻さないでよ?」
「大丈夫だとは思うけど……先に何か食べたからの方がよかったかしら」
「今更遅いって。お水とか買ってきてないの?」
そういって呑気に私の鞄を探っている、だが私はだんだん頭までふらふらしてきて――。
「うぇ……」
「え、ちょっとメリー! お水、お水!」
およそか弱い乙女が出してはいけないだろう声を発して仰向けに倒れてしまった。そのまま水を飲ませようとしてくる蓮子。馬鹿か、溺れる。手で払っていると、次は眠気が襲ってきた。抵抗することなんてできないだろう、そのまま流れに任せて目を閉じて、本当に妖しげな薬品が入っていたのかもな、と思ったところで意識が途絶えてしまった。
目が覚めたとき、そこにいたのは蓮子ではなかった。
あのカフェテラスの店主だか店員だかの人物だったのだ。
「あら、目が覚めまして?」
「はい、ありがと――、違う、何であなたが」
「何でかは自分に訊きなさいな、夢かも現実かもわからないなら答えに意味はないけれど」
「やだ、私また変な世界にいるの?」
「変かどうかは極めて主観的ですわ。そんな尺度は意味がないって勉強しているのでしょう?」
「そうだけど……いや、何で知ってるの?」
「敢えて答えるなら……あの月のせいかしら」
そう言って彼女は上を向いた。
月。
そうだ、私は月を視にきた……何でだっけ。おぼつかない思考をこねくり回し、何気なく私も上を見ると――。
ギラギラと紅い月が視界に映った。何故かそのとき、ある画家の絵を思い出した。
鬼の形相でこちらを睨み付ける人間、いや、元人間。その口には鮮血が、その手に抱えるは肉塊、よく見ると四肢がある……説明では『狂気に囚われ自らの子供を食らっている』とあったはず。
いや、こんなこと考えている場合ではない、さっきから頭が働かない、どこからどこまで現実なんだろう、夢なんだろう。
「あの月はね、あの紅はね、あの星は、あの空はね。破滅の象徴よ。これを視られたあなたはとても幸運ね」
「何を言ってるのかわからない……」
「いいえ、わかっているはずよ。ここは現実、あちらも現実。ならばどちらも夢でしょう? 何が起きてもおかしくないのよ」
いつの間にか、彼女はコーヒーカップを片手に持っていた。この世で最も黒い物質と比べても遜色ないくらいに漆黒の――いや、違う考えることが違う、何が起きてるの?
「さ、飲んで」
「いらな、い……」
「妖しげな薬品なんか入ってないわ、ほら」
ぐいぐいと近づけてくる――真っ黒なのにあの時の紅茶と同じ香りがして、暴れたら服が汚れてしまうなど、何故かやたらに気にしてしまって、口に含んだものを吐き出すなんてはしたないと思ってしまって、私は。
飲んでしまった。
味はやっぱりコーヒーだし、何だかよくわからなくなってきた、何に抵抗しているのだろう? 私を殺すならもう殺しているはずだから、この人は敵ではないのかな?
「ええ、味方でもないけど。危害は加えないわ」
――そ うか、それならよかった
「こちらで起きるなら、あちらでも起こりうるわよ」
――起きる、そうか、私は起きなきゃいけない
「じきに起きるわ。起きたらあの子に伝えるのよ」
――あの子。あの子、そうだ、蓮子。
「大丈夫、起きるまでは寝ていればいいわ」
眠ることがここまで怖いなんて。
目が覚めたとき、あの人はいなくなっていて、蓮子がいてくれた。
「メリー、メリー! 大丈夫?」
「蓮、子……」
「ほら、落ち着いて。お水飲む?」
「う……うぅ……怖かった、うぇぇ……」
「ちょっと、メリー……よしよし、あなたも泣いたりするのね」
「あの人……あの人が……」
「あの人? 誰のことよ」
「…………誰だっけ」
「こら、お芝居じゃないんだから」
「でも蓮子に伝えることがある――あったはず……」
「メリー、私の顔を見て」
ぐい、とお互いを正対させてきたが、蓮子はずいぶん真剣な面持ちだった。私は多分ぐじゃぐじゃな顔をしていただろう。
「おかえり、メリー」
「……うん、ただいま。ありがとう、蓮子」
「月、綺麗に紅くなってるわよ」
そうか、私たちは月を視にきた――。
「ああ! そう、月、紅い!」
「わ、急に大声出さないでよ」
「あの人が言ってたの! 破滅の象徴って、起きるかもしれないって」
「はぁ?」
「だから、だから、月が、星が――」
「メリー!」
蓮子が大声で私を呼んだことなんて、いや、あったかもしれないが珍しい。
「――な、何」
「正直ちょっと不安よ、大丈夫……いや、今日は帰りましょう」
「でも、せっかく見にきたのに」
「もうピークは過ぎたわよ。ずーっと寝てたんだから。大丈夫、タクシー呼ぶから帰りましょう?」
「……いいの?」
「メリーの方が大事よ。ほら、歩ける?」
結局二人ですぐ下山して、道中必死に蓮子は話しかけてくれた。なんとか普段どおりに返答できたと思うが、多分蓮子はそれも見抜いているだろう。下山できた後も、ちょっと怪しまれるかもしれないと言ったので五分ほど歩いてからタクシーを呼んだ。
『いい、家に着いたらすぐに私に連絡して。そうしたらシャワーでも浴びて横になりなさい。明日、明後日はゆっくり休んでね』と車内で忠告され、頷きはしたがなんとか家に着いたときにはもうふらふらだった。一応帰宅の旨を知らせ、シャワーを浴びることもできずにベッドまで四つん這いで向かい、そこで精根尽き果てた私はすぐ死んだように眠ったのだった。
その日は、夢を見なかった。
思えば、あのときの会話が始まりだったのだと、後で知ることになるのだが。
「見られているから、きっと照れちゃっているのよ」
「どう、その実赤方偏移かもしれないわ」
「大発見。月は恒星だったって?」
「物理学はいつも仮説を提供するだけよ」
「なら断言してくれるエセ科学の方がいっとう素敵ね」
「あなたの信じる世界があなたを形作るの、それの正誤は関係ないわね」
「そうかしら。じゃあ……」
あの時、帰り道でくだらない会話をしながら――いや、彼女は楽しんでなんかいなかったのかもしれないが――こんな結末が視えていたのだろうか。だとしたらあの時から今まで、どんな心もちで過ごしていたのだろう。割切って楽しく過ごそうか、あるいは怨嗟に燃えながら周り全てを呪い尽くしてやろうか。まあどちらも意味はないだろう。
‐‐‐‐‐‐‐‐‐
「今度の月食、本格的に見たくない?」
「どこから見たって赤いわよ、家からでいいじゃない」
「大学から南にちょっと行くと林があるでしょう、この間調査していたら柵が一本だけ外れそうになっててね、多分抜けられるわよ」
「やだ、本当に犯罪じゃない」
「誰も困らないんだから犯罪にはならないわ」
某日某時刻、マエリベリー=ハーンの自宅にて。定例と化しつつある金曜の会合、もとい酒を呷るだけの極めて不毛な時間にアナーキスト気取りの相方がまた妙なことを誘ってきた。この子は疲れというものを知らないのだろうか。
「あなた一人で行きなさいよ」
「えー、寂しいじゃない。一緒に行きたいのよ――あ、柵を抜けられるかが心配?」
「怒るわよ」
「そう言って怒ったことないじゃない」
「経験則が確実じゃないことくらい承知でしょうに」
「じゃあ決まりね、ウテンケッコー」
「何よその呪文」
「ん、昔は今みたく天気を正確に読めなかったらしいわ。だから『雨が降ってもやりますよ』っていう意味』
「雨が降ってたら月が見えないじゃない」
「今週いっぱい晴れるわ、問題なし」
「――あなた、やっぱりどこか狂ってるわね」
「そのくらいじゃないと生きているとは言えないわ」
何故か勝ち誇っている。私は呆れて飲みかけだったビール(蓮子が言うにはアルコール入り野菜ジュース)を口に含み、何も言い返さなかった。どうせここで断ると後で何倍も面倒なことになるから、もう選択肢は私にはないのだ。でも嫌いじゃあない、彼女が多少強引で、私がそれに従ってついていく、そして時々思い留めたりする。バランスが取れているではないか。
「二十二時四十七分三十一秒」
「あら、ついに家の中からでも時間が見えるようになったの?」
「何言ってるのよ、そこに時計があるじゃない」
――――こういうところは嫌いだ。
決行当日、講義がお互いお昼からの一コマで共通していたことも幸いして、大学近くのカフェテラスで一服してから行くことになった。入ると客は相変わらずおらず、このお店の売り上げは私たちが支えているのなら多少の経営への口出しは許されるかしら、なんて考えつつ奥から二番目左――いつもの席に座った。店員さんはもう案内すらしてくれないが、気楽でいい。
「ミルクと砂糖入り、ブラックのお二つで?」
注文も覚えられているくらいには、年齢不詳の店主(おそらく女性)は白痴ではないらしい。なら潰れないためにもう少し企業努力をしてほしいが、あるいは金持ちが道楽でやっているお店なのかもしれないな、と私は思った。
「今日はレディーグレイをちょうだいな」
たまには予想を裏切らせないと人間はどんどん物事を考えなくなるものだ。紅茶は家でも飲めるが、善業を積んでおくのも悪くない。
「お、なら私は……プリンスオブウェールズってのを頂くわ。あとガトーショコラをひとつ」
「太るわよ」
「この時代に太ることなんてありえないわね、嗜好品は栄養調整されているのを知ってるでしょう?」
「ええ、三流ゴシップ誌で読んだ程度には知っているわ」
店主さんのふっふ、という笑いが聞こえてきた。ではそのように、と続けてバック・ヤードに茶葉を取りに行ったらしい足音、扉の開閉音がした後、店内は静寂――いや、シーリング・ファンの回る音のみが支配した。
「本当に行くの?」
「大丈夫、私に任せれば失敗はないわ」
「調子に乗っているとどこかで大コケするわよ」
「コケてもただでは立ち上がらない」
「言うは易し」
「これまた安い返しね」
「あの店主さん、何歳だと思う?」
「サア、三十もいってないんじゃないかな」
再び扉の開く音がして話題の店主が帰ってきた。コーヒーだとサイフォン式だったが紅茶はフレンチプレスらしい。マッチを擦り、固形燃料に火を付け、湯を沸かしている。
「十五時三十九分二十秒」
「今日はシーリング・ファンを見ても時間がわかるようになったのね」
蓮子はきょとんとした顔で私を見つめてきたが、すぐに合点が行ったような、心底愉快そうな顔で笑いだした。物理学に触れるとこんな症状が出るなんて知らなかった。そうか、そういえばそうだ、としきりに繰り返し呟いているが、先に人の顔を見て笑ったことに関しての釈明はないのか。
「あのねメリー」
「なによ」
「シーリング・ファンの奥に時計が掛けてあるのよ」
――――やっぱり嫌いだ。
「プリンスオブウェールズ、レディーグレイ、それとガトーショコラですわ」
「あ、どうも」
いつの間にか淹れ終わったらしく注文したそれが運ばれてきた。コトリ、カタリ、とソーサーを置く音がして、ガトーショコラを二つ差し出してきた。
「あの、私は頼んでないのですが」
「サービスと、店主が言っておりまして。私からも普段からのご愛顧と洒脱な小噺への敬意です、受け取ってください」
「……では、いただきます」
なんだか狐につままれたような、妙な気分だがお礼というなら無碍にすることもできない――。
「太るわよ」
「うるさい」
今日の蓮子はなんだか楽しそうで、口がよく回る。小噺をする破目に陥るのは全部蓮子のせいだが、気づいているのだろうか。
「あの人、店主さんじゃなかったのね」
「叙述トリックかもしれないわ。『店主』と『私』が同一人物である可能性は拭いきれない」
「メリットがないわ」
「人間は得てして合理的ではないものよ」
「それは蓮子を見て入ればわかるわ」
「なんでよ」
「それよりこの後はどうするの? まだ時間はけっこうあるけれど」
「暗くなると獣道は――」
はっとしたように、店主か店員か、件の女中を見遣ってから声を低くして蓮子は続ける。
「――ちょっと危ないから明るいうちに行きましょう。晩御飯になりそうなものもどこかで適当に見繕ってね」
「月食はいつからなの?」
「だいたい十九時ごろから始まって二十三時くらいに一番紅くなるらしいわ」
「じゃあ半分野宿みたいなものじゃない」
「言い方の問題でしょう」
「虫とか猪とか鵺とか、ツチノコとか出ないわよね」
「後ろ二つに関しては出てきて欲しいけどね、でも多分全部出ないわ。……あ、美味しい」
能天気にガトーショコラを頬張って喜んでいる。こうして見ると子供みたいだが、どうしてこうもパンクなのだろうか――いや、子供だからこそなのかもしれない。危なっかしくて困る、なんて保護者みたいな感情を抱きながら私もガトーショコラを口に運んだ。単体だけなら甘すぎるだろうが、紅茶ないしコーヒーと一緒ならちょうどいい。なかなかウマく計算されているな、と私も舌を巻いた。
結局カフェを出たのは十六時二十分ほどだった。わがままを聞いてやったのだからと無理やり蓮子に払わせたら人間じゃないと罵られたが、正直お互い様だ。でもその反応を見る限りではあんまりに可哀想なので、後で返そうとは思う。
蓮子に付いて三十分くらいは歩いただろうか、途中で食糧を買った時間を含めると一時間ちょっとくらいか。到着してまず思ったのは『騙された』だ。何が林だ、これは山や森と形容するべき代物ではないか。絶対にさっきの紅茶代は返さないぞと、心に誓った。
「この森であってるの?」
「ええ、この林よ。ちょっと歩けば不法侵入スポットがあるはず」
もうこの先蓮子の『ちょっと』を信用することはないだろうな、と思いながら半ばヤケになって歩いた。生きて帰ってこられるだろうか。不法侵入スポットとやらはつまるところ補修が間に合っていない箇所らしく、腐食した鉄柵が「俺の職務は全うしたぞ」と言わんばかりに立ち塞がっていた。ナムサン、今から君は鉄柵から只の錆びた鉄網に成り下るが許して欲しい、恨むならこの世紀の大犯罪者である宇佐見連子を恨みたまえ。
「何ブツブツ言ってるのよ」
「え、いや、楽しみだなあって」
「……ま、何でもいいけどさ」
よっ、ほっ、と鞄から取り出した玄翁で叩いていたら、バギンと折れて向こう側へ倒れてしまった。ぽっかりと網目がなくなり、這えば入れる程度には穴ができたのをしばし眺めた後、蓮子は勇み足(這い?)でずりずりと入っていってしまった。
「ちょっと、早く来てよ」
「わかってるってば、ほら、私の鞄持ってて」
鞄を渡して、汚れる覚悟をして、地面に伏せた。草や土の匂いがして、不意にそう遠くない過去を想像してしまった。野原を駆け回って遊ぶ子供の姿だ。もっともこの科学世紀にそんなことをしているのはよっぽどの物好きだけだろうが――。
「……メリー?」
「ああ、ごめんなさい、今行くわ」
もそもそと芋虫のように進み柵を抜ける。立ち上がりぱたぱたと埃を払いつつ鞄を受け取る。洋服が破れてしまうかと思ったが、幸い無事なようだった。――――見つかればこれで私も前科者。我ながら即興にしては感情がよく表れたいい川柳だと思う。
「さあ。不法侵入者さん、冒険の始まりよ」
「ええ。不法侵入者さん、お供致しますわ」
道中は薄暗く、かなり暑かった。周りは背高く育った木々ばかりで、こんなところで月が見られるのか不安にすらなったが、そもそも私はそこまでここで見たいとは思っていなかったのだから構わないだろう。見られることに越したことはないが。
――そういえば。
あのときの想像は、自然に祝福されているように遊んでいた子供たちは本当に想像だったのだろうか。昔々にここで遊んでいた子供たちだったのでは、この森の記憶のようなものを垣間見てしまったのではないだろうか。正解はわからない。わからないなら推察も自由だ。
「もうちょっとで開けた場所に出るわ、そこなら見られるはずよ」
「ええ、ありがとう」
ふと我に返ると、体から汗が出ているのがわかった。ずいぶん登った――本来『林』なら登ったなどおかしいが――ように思えた。
でも、何でこんな所まで来たのだろう。高いところ、ロマンチックな所ならいくらでも思いつくだろうに、敢えてここというにはやはり別の目的があるのだろうか。私が乗り気でないように見えたろうあの時にも妙に食い下がってきたが、となれば私が必要ということか。まさか本当に淋しいからではあるまい。別に他の友人を誘えばいいだけだ。
……友人、蓮子にいるのかな。聞いたことないし、私以外にいないとか?
「あったあった! ほら、あそこ!」
先を進んでいた蓮子が叫び、振り返った。指さしているところには、確かに開けた場が、何故かくり抜かれた様に暗がりの空が見える場があった。興奮もあるだろう、彼女の顔にも汗が見られたが気にも留めていないようだ。あの不気味な瞳は生き生きとして、本当に楽しんでいる、楽しみにしていることが伝わってくるほどに輝いていて、私は彼女に友人がいないのではと不安に感じたのがやや野暮なように思えた。私にこんな顔を見せてくれるのなら大した問題ではないだろう。後で紅茶代を返してやろう。
「ふう、着いた着いた。思ったよりかかったわね」
「ええ、あんまりに歩くから喉が乾いたわ。ビール買ったわよね?」
「アルコール入り野菜ジュースなら」
「はいはい、下らないこと言わないでいいから」
鞄にしまった飲み物をごそごそと探りながら一緒に歩く。ちょうど中央あたりに着いたときにビールらしき容器を探り当て、まず蓮子に渡した。ありがと、と言うやいなや地べたに座り込んで封を開けてしまった。ぷしゅう、と耳に心地良い音が辺りに響き、ぐいぐいと飲んでいく。絵に描いたような「良い飲みっぷり」だったが、私も我慢の限界、(蓮子はみっともなく胡坐だが)脚を伸ばして座り、同じく封を開けた。
「あぁ、何がこんなに美味しいのかしら。妖しげな薬品でも入ってるとか?」
「ちょっと、私はまだ飲んでなかったんだけど」
協調性とは宇佐見蓮子の対義語か、なんて一瞬間思ったが、口をつけるとあそこまではしたなく飲んでしまった気持ちもわかる。妖しげな薬品ってアルコールのことかしら、あるいはアヘンやそれらのもの?
「おお、良い飲みっぷりですな」
「――ふぅ、ああもう、こんなところまで連れまわして」
「人のせいにしちゃいけませんな、メリー嬢」
「だって私と来なきゃいけなかったんでしょ?」
「あはは、やっぱバレてる? ここって昔は名のある神社だかお寺だかがあったらしくてさ。何か視えたら教えてよ」
「そんなことだろうと思ったわ。この場所知ってるってことはどうせ何回かここまで来てるんでしょ?」
「いや、入ったのは初めてよ」
「じゃあ何でもうちょっとだって分かったの?」
くいくいとお互いビールを飲みながら、つまむ物を鞄から並べつつ答えを待った。
「そんなの、ああでも言わないとメリーが頑張れないでしょ」
――――もう絶対に紅茶代は返さない。
その後、飲み食いして、最近の専攻がどうなってきたとか、やれあの教授はだめだとか話していたら、割に暗くなっていた。
「十八時五十三分六秒」
「今度はどこに時計があるの?」
「何言ってるのよ、上にあるじゃない」
確かに、くり抜かれた様にまん丸なそれは時計の縁のようにも見えた、おそらく蓮子が見たら時計そのものだったのだろう。私には星がいくつか輝いているようにしか視えないが――。
「――うえ、ちょっとぐいぐい飲みすぎたかも」
「えー、戻さないでよ?」
「大丈夫だとは思うけど……先に何か食べたからの方がよかったかしら」
「今更遅いって。お水とか買ってきてないの?」
そういって呑気に私の鞄を探っている、だが私はだんだん頭までふらふらしてきて――。
「うぇ……」
「え、ちょっとメリー! お水、お水!」
およそか弱い乙女が出してはいけないだろう声を発して仰向けに倒れてしまった。そのまま水を飲ませようとしてくる蓮子。馬鹿か、溺れる。手で払っていると、次は眠気が襲ってきた。抵抗することなんてできないだろう、そのまま流れに任せて目を閉じて、本当に妖しげな薬品が入っていたのかもな、と思ったところで意識が途絶えてしまった。
目が覚めたとき、そこにいたのは蓮子ではなかった。
あのカフェテラスの店主だか店員だかの人物だったのだ。
「あら、目が覚めまして?」
「はい、ありがと――、違う、何であなたが」
「何でかは自分に訊きなさいな、夢かも現実かもわからないなら答えに意味はないけれど」
「やだ、私また変な世界にいるの?」
「変かどうかは極めて主観的ですわ。そんな尺度は意味がないって勉強しているのでしょう?」
「そうだけど……いや、何で知ってるの?」
「敢えて答えるなら……あの月のせいかしら」
そう言って彼女は上を向いた。
月。
そうだ、私は月を視にきた……何でだっけ。おぼつかない思考をこねくり回し、何気なく私も上を見ると――。
ギラギラと紅い月が視界に映った。何故かそのとき、ある画家の絵を思い出した。
鬼の形相でこちらを睨み付ける人間、いや、元人間。その口には鮮血が、その手に抱えるは肉塊、よく見ると四肢がある……説明では『狂気に囚われ自らの子供を食らっている』とあったはず。
いや、こんなこと考えている場合ではない、さっきから頭が働かない、どこからどこまで現実なんだろう、夢なんだろう。
「あの月はね、あの紅はね、あの星は、あの空はね。破滅の象徴よ。これを視られたあなたはとても幸運ね」
「何を言ってるのかわからない……」
「いいえ、わかっているはずよ。ここは現実、あちらも現実。ならばどちらも夢でしょう? 何が起きてもおかしくないのよ」
いつの間にか、彼女はコーヒーカップを片手に持っていた。この世で最も黒い物質と比べても遜色ないくらいに漆黒の――いや、違う考えることが違う、何が起きてるの?
「さ、飲んで」
「いらな、い……」
「妖しげな薬品なんか入ってないわ、ほら」
ぐいぐいと近づけてくる――真っ黒なのにあの時の紅茶と同じ香りがして、暴れたら服が汚れてしまうなど、何故かやたらに気にしてしまって、口に含んだものを吐き出すなんてはしたないと思ってしまって、私は。
飲んでしまった。
味はやっぱりコーヒーだし、何だかよくわからなくなってきた、何に抵抗しているのだろう? 私を殺すならもう殺しているはずだから、この人は敵ではないのかな?
「ええ、味方でもないけど。危害は加えないわ」
――そ うか、それならよかった
「こちらで起きるなら、あちらでも起こりうるわよ」
――起きる、そうか、私は起きなきゃいけない
「じきに起きるわ。起きたらあの子に伝えるのよ」
――あの子。あの子、そうだ、蓮子。
「大丈夫、起きるまでは寝ていればいいわ」
眠ることがここまで怖いなんて。
目が覚めたとき、あの人はいなくなっていて、蓮子がいてくれた。
「メリー、メリー! 大丈夫?」
「蓮、子……」
「ほら、落ち着いて。お水飲む?」
「う……うぅ……怖かった、うぇぇ……」
「ちょっと、メリー……よしよし、あなたも泣いたりするのね」
「あの人……あの人が……」
「あの人? 誰のことよ」
「…………誰だっけ」
「こら、お芝居じゃないんだから」
「でも蓮子に伝えることがある――あったはず……」
「メリー、私の顔を見て」
ぐい、とお互いを正対させてきたが、蓮子はずいぶん真剣な面持ちだった。私は多分ぐじゃぐじゃな顔をしていただろう。
「おかえり、メリー」
「……うん、ただいま。ありがとう、蓮子」
「月、綺麗に紅くなってるわよ」
そうか、私たちは月を視にきた――。
「ああ! そう、月、紅い!」
「わ、急に大声出さないでよ」
「あの人が言ってたの! 破滅の象徴って、起きるかもしれないって」
「はぁ?」
「だから、だから、月が、星が――」
「メリー!」
蓮子が大声で私を呼んだことなんて、いや、あったかもしれないが珍しい。
「――な、何」
「正直ちょっと不安よ、大丈夫……いや、今日は帰りましょう」
「でも、せっかく見にきたのに」
「もうピークは過ぎたわよ。ずーっと寝てたんだから。大丈夫、タクシー呼ぶから帰りましょう?」
「……いいの?」
「メリーの方が大事よ。ほら、歩ける?」
結局二人ですぐ下山して、道中必死に蓮子は話しかけてくれた。なんとか普段どおりに返答できたと思うが、多分蓮子はそれも見抜いているだろう。下山できた後も、ちょっと怪しまれるかもしれないと言ったので五分ほど歩いてからタクシーを呼んだ。
『いい、家に着いたらすぐに私に連絡して。そうしたらシャワーでも浴びて横になりなさい。明日、明後日はゆっくり休んでね』と車内で忠告され、頷きはしたがなんとか家に着いたときにはもうふらふらだった。一応帰宅の旨を知らせ、シャワーを浴びることもできずにベッドまで四つん這いで向かい、そこで精根尽き果てた私はすぐ死んだように眠ったのだった。
その日は、夢を見なかった。
思えば、あのときの会話が始まりだったのだと、後で知ることになるのだが。