Coolier - 新生・東方創想話

脚を求めて並行世界

2016/09/24 18:17:57
最終更新
サイズ
26.81KB
ページ数
1
閲覧数
1150
評価数
2/6
POINT
350
Rate
10.71

分類タグ

 霧の湖は、夜も変わらず濃い霧に包まれている。月はその光を霧に滲ませ、微かに湖面に影を落としている。
 わかさぎ姫はそんな夜の中、水面をぷかぷかと揺蕩っていた。
 揺蕩いながら、目を瞑ってみる。
 黒。
 ただただ、暗黒。
 目を開ける。
 微かな月明かり。
 それに照らされる白い霧。
 目を閉じる。
 黒。
 目を開ける。
 白。
 閉じる。
 開ける。
 閉じる。
 開ける。
 それを数度繰り返す。
 黒と白を見つめる。
 わかさぎ姫は思う。もしも世界の全てのものが黒か白から生まれたのだとすると、多分自分は黒から生まれたのだろう。妖怪は暗い方、闇から生まれるものだから。
 ふと思い付く。もしも私が妖怪として生まれなかったら、どうだったのだろう。人間? 公魚?
 その二つから選ぶのだったら……人間が良い。自分の脚で、地を歩いて行ける方が良い。
 わかさぎ姫はそう思った。



「――でね、その焼き鳥がもー美味しいのなんの」
「まあ、それは良いわねー」

 夕方の霧の湖に談笑が聞こえる。

「焼き鳥、かなり前に一度食べたっきりだわ。また食べたいわね」

 懐かしそうに言ったのは、岸に腰かけている人魚、わかさぎ姫。水に濡れた碧い髪が美しく輝いている。

「じゃあ今度一緒に今話した居酒屋行きましょ。あ、それとも今日行く?」

 そう言ったのは、岸辺に座る黒髪の狼女、今泉影狼だ。今日もお気に入りの赤白黒のドレスを纏っている。

「行きたいけど、手持ちが無いから……」

 わかさぎ姫が残念そうに言った。
 水棲妖怪かつ虫も殺せない性格の彼女の収入源はそう多くない。集めた綺麗な石をたまに売る程度で、基本的に貧乏なのだ。
 そんなわかさぎ姫の言葉に、影狼が笑った。

「もう、それぐらい奢ってあげるっていつも言ってるでしょ! お金の心配はしなくていいのよ」

 影狼の住む迷いの竹林は年がら年中生えている筍に加えて動物もそれなりに生息している。それを狩れば友人に食事を奢るくらいわけない程度の収入にはなるのだ。

「でも、いつも食べさせて貰って悪いわ。何かお返しとかもしたいのだけど何も思い付かなくて……ごめんなさいね」
「だから、気にしなくて良いわよ! 姫ったら最近いっつもそんなこと言ってるわ」
「そ、そう?」
「そう。……何か変なことでもあった?」
「べ、別に無いわよ。影狼ちゃんこそ気にしすぎよ」
「ふーむ? そうかしら……」

 影狼は納得行かないという表情をした。

「そ、それより、影狼ちゃんが良いって言うなら、是非居酒屋に連れて行ってほしいわ! 美味しいんでしょう?」
「あ、行く? 行きましょう行きましょう! もう時間も良い感じだし」

 影狼はパッと表情を変えた。それを見てわかさぎ姫は内心安堵する。

「じゃ、手押し車に乗って」
「はーい。ごめんなさいね、いつも押してもらって」
「だからいいって言ってるでしょうに」
 楽しげな声を響かせながら、霧の中に二人は消えていった。



「明日も来て良いかしら」
「勿論。待ってるわ」

 夜中の霧の湖。居酒屋から帰り、影狼がわかさぎ姫を連れ帰ってきたのだ。

「じゃあ、また明日」
「ええ。ありがとうね」

 二人で手を振りあう。

 影狼が帰った後。わかさぎ姫は岸に腰かけた。
 空を見つめる。今日は霧が薄く、月がいつもよりはっきりと見える。
 幻想的だ。何か願い事でもしてみようか。最近頭に張り付いている願望が、また頭をもたげた。
 ……もしも、人間になれたなら。
 自分の脚があれば、地を歩ける。地上での仕事も出来る。影狼に迷惑を掛けることも無くなる。
 狭い水の中だけで生きなくて、済む。

「……」

 わかさぎ姫は湖を泳ぎ始めた。
 あの紅い館に行こう。そこに住む魔女に、脚を生やしてもらうのだ。



 今は影狼は居ないし手押し車も無い。這って進む他ない。
 湖から上がったわかさぎ姫は、必死の思いで地上を芋虫のように進んでいた。

「……っ、はあっ、はあっ……」

 嗚呼、地上とは斯くも辛いものだったか。わかさぎ姫にとって、己がハゼの妖怪でない事をこれほどまでに悔いたのは初めての経験だった。
 それでも何とか門前まで辿り着くと、中華風の服を着た門番の妖怪が声を掛けてきた。

「だ、大丈夫です? ……人魚が地上を進むなんて無茶でしょうに、何か事情がありそうですね」
「はあっ、はあっ……あの、実は――」

 館に住む魔女に会いに来たのだと伝える。

「なるほど。ちょっと許可を取って来ます。ここで……えーと、そうだ、水道出してきます。ちょっと待っててください」

 そう言って門番は長い縄の先に丸い形状のものが付いた道具を持ってきた。
 それに付いた細い棒を彼女が握りこむと、丸い先から勢い良く水が出てきた。

「これを身体にかけとくと良いでしょう。では行ってきます」
「あ、ありがとうございます!」

 門番は館の中に入っていき、少し待つと、また出てきた。

「許可は取れました。では、持ち上げても?」
「そ、そんな。御迷惑でしょう」
「気にしないでください。必死で這うのを放っておくなんてちょっと、出来ませんから……」
「……じゃあすみません、お願いします」

 門番は軽々とわかさぎ姫を横抱きし、館に入った。流石、妖怪だけあってピカイチの腕力だ。わかさぎ姫は羨ましいと思った。


「わああ……」

 外から見て真っ赤な館は、中も真っ赤だった。
 絢爛豪華な内装は、わかさぎ姫の心を沸き立たせた。

「美鈴」

 抱かれたまま中を眺めていると、不意に声が聞こえた。
 前を見るとメイド服を着た銀髪の少女が立っている。

「その子がパチュリー様に会いたいという?」
「そうです。……ああ、すみません、お名前聞いてなかったですね。いいですか?」
「は、はい。皆からはわかさぎ姫と呼ばれています」
「なるほど。ということらしいです、咲夜さん」

 咲夜と呼ばれた少女は、鋭い目つきでわかさぎ姫を見る。わかさぎ姫はこのメイドには手痛い思い出があった。

「ひっ、あ、あの、すみません、以前の異変では御迷惑をお掛けして……」
「? ……ああ、あの妖怪が凶暴化した異変でしょうか。そういえば半漁人と戦った気がしますわ」
「は、はい……多分その半漁人です……」
「そんなに怯えなくても大丈夫ですわ。今はもう大人しいのなら退治の必要も無いでしょう。それに今日はお客様ですし」
「あ、ありがとうございます……」

 やはり怯えているわかさぎ姫を見て、咲夜はため息をついた。

「兎も角、先導しますわ。美鈴、足元気を付けてね」
「はい。じゃあ行きましょう」

 三人は真っ赤な館の中を進んで行った。



「ほう、自分の脚が欲しい!」

 わかさぎ姫の言葉を復唱して、レミリア・スカーレットはからからと笑った。
 紅魔館地下大図書館。とてつもない蔵書量を誇るここだが、風通しが悪いせいか少々黴っぽい匂いがする。
 その中の、本棚が避けられている一角にいくつかの椅子とテーブルが置かれている。レミリア、その友人パチュリー・ノーレッジ、わかさぎ姫はそこに座っていた。

「今時魔女にお願い事なんて何かと思ったら……まるでアンデルセンの『人魚姫』じゃないの! 面白いわ、その願い叶えてあげましょう!」
「ちょっとレミィ、勝手に話を進めないで。魔女が私だとすると、願いを叶えるのは私なのだけれど」
「えー、良いじゃない、お願いよパチェ。恋する憐れな人魚の願いを叶えてあげて」

 わかさぎ姫は「憐れじゃないし別に恋はしてないです」と言おうとしたが、諦めた。多分この人達――主に吸血鬼の方――は話を聞かないだろうと思ったのだ。

「叶えるのは構わないのだけれど、材料や準備が必要よ。ちょっと待っていて」

 そう言ってパチュリーは近場にある本棚を探り、一冊の本を持ってきた。

「あったわ。人魚に脚を生やす薬の材料は――」
「あ、あの、すみません。脚を生やす薬じゃなくて……」
「あら、違うの? パチェー違うんだって!」
「聞こえてるわよ近くに居るんだから……で、人魚さん、どういうことかしら?」

 わかさぎ姫はしばらく逡巡した後、決心した顔になった。

「あの……脚を生やすんじゃなくて、人間にして欲しいんです」

 魔女は目を細めた。
 吸血鬼は首を傾げた。

「人間になりたい……つまり妖怪をやめると言うこと。あなた、自分の言っている言葉の意味が分かってる?」

 パチュリーの言葉にわかさぎ姫は少し怯えたような素振りをしたが、また強い表情になった。

「分かってます。それでも私は、人間になりたいんです」
「……ふむ」

 「ねーどういう意味?」と尋ねるレミリアを適当にあしらい、パチュリーは再度近くの本棚から一冊の本を持ってきた。

「生憎、人間を妖怪にする薬はあっても、妖怪を人間にする薬は存在しない」
「そ、そうですか……」
「だが」

「人間化に近い事が出来る魔法は存在する」
 魔女が怪しく笑う。

「代償を払うのなら、叶えてあげましょう」


 レミリアは拗ねて紅茶を啜っていた。



「だ、代償って……ひいん!」

 わかさぎ姫は鱗を剥がれて変な声を出した。
 「人間化に近い事が出来る魔法」の代償としてパチュリーが提示したのは、研究への協力だった。

「人魚なんて見たの実は久しぶりなのよね。髪の毛も貰っていいかしら」
「あ、あんまり沢山は取らないでください……」
「はいはい。これから必要な分も考えると……三千本くらいかしら」
「……多くないですか? いえ髪の毛の本数って良く知らないんですけど……」
「安心して、まばらに取るから。あ、爪も切らせてもらうわね」

 髪を初めとした組織の提供。

「ではこれより、「人魚が「魚になる薬」を飲むとどうなるのか」の実験を開始する」
「は、はい! ごく、ごく……」
「ふむ、下半身には特に変化は無し? 上半身は……顔の表面に鱗の発生を確認」
「ううう……」

 変な薬の実験。

「よんじゅうはーち。よんじゅうくー。ほらもうちょい、気張りなさい!」
「はあっはあっはあっ……ふうっ!」
「ごじゅー。ごじゅいちー。ごじゅにー!」
「ふううー!」

 身体能力を計測するという名目で筋力トレーニングをしたり。
 ひーひー言いながらも、わかさぎ姫は何とかそれらをこなした。
 そして――


「お疲れ様」

 魔女が優しい笑みを浮かべて言う。

「あなたは代償を支払った。約束通り、あなたに魔法をかけてあげましょう」
「ほ、本当ですか」
「ええ、本当よ。約束は守るわ。さあ、この魔法陣の上に来て」

 わかさぎ姫は言われた通り魔法陣の上に乗る。

「これからあなたにかけるのは、意識を並行世界に移動させる魔法」
「並行世界……?」
「そう。その名の通り、この世界と並行して存在する別の世界のことよ。大丈夫、距離が近い世界なら違いもほんの小さなもの。そう……あなたが妖怪ではなく人間だったりする程度」
「……! ……あ、あの、この世界で人間になるっていうのは難しいんですか……?」
「少なくとも今の私の力では無理ね。これでもそれなりの領域に達した自負はあるのだけれどね。例えば今から使う魔法とか……まあ、それはいいわ。ちなみにこの魔法は意識交換の形で世界を移動するから、あなたの身体に別の誰かが移ることになるけど、良いわよね?」
「そ、そうなんですか……うーん……」

 わかさぎ姫は少し考えたが、脚が欲しいという欲望の方が勝った。

「は、はい、分かりました」
「宜しい。では始めましょう」

 パチュリーが詠唱を始める。

「~~……~~~……」
(いよいよ人間になれるんだわ……。脚で歩けるんだわ……)

 わかさぎ姫は考える。何か思い残しは無いだろうか。
 そういえば友人である影狼とまた会う約束をしていた。陽の差さない地下にいたせいで時間感覚が無くなっているが、来てからどれくらい経ったのだろう。

「~~……。詠唱完了。帰るときは帰りたいと心の中で強く念じればこっちで対応するわ。じゃあ、並行世界旅行、楽しんでいらっしゃい」

 魔法陣が激しく輝く。視界が溢れ出した光に包まれる。
 少しの心残りを抱えたまま、わかさぎ姫は光に飲み込まれた。


 魔法陣が輝きを失うと、そこにはわかさぎ姫の身体が残っている。

「さて、発動は成功」
「……うぅん……?」

 わかさぎ姫の身体に宿った何者かが目を擦った。
 不思議そうな顔で周囲を見回している。

「後はデータ集積を終えた彼女が帰るのを待つだけね……こんにちは、並行世界のわかさぎ姫さん」
 そう言って、笑みを投げかけた。



「姫ー。姫ー?」

 今泉影狼は困惑していた。

「あれーおかしいな……」

 今日もいつものように霧の湖にわかさぎ姫に会いに来た。のだが、そのわかさぎ姫の姿が見えない。

「あの子は一人でどこかに行くってのは無理だろうし……」

 まさか、食われた?
 嫌な想像が脳裏をよぎる。

「……無い無い! あの子だって自分の身を守るくらい出来るわよ!」

 何とか自分に言い聞かせる。だが一度浮かんだそれは、頭から離れない。

「……姫……」

 影狼は、不安感でいっぱいになった。



「――っ!」

 わかさぎ姫は木造りの屋内で飛び起きた。
 腰辺りまで布団をかぶっている。寝ていたのか。ここはどこだ。私は確か、紅魔館の魔女の魔法で……。

「……そうだ!」

 布団を払って、下半身を見る。そこには――

「――脚が、ある……」

 そこには、白く美しい、人間の脚が生えていた。

「――やっ、たあああ!」

 つい、感情のままに思い切り叫んでしまった。
 叫んでから、窓を見る。外は暗い。つまりは夜だ。やってしまった。
 近くからドタドタと足音が聞こえる。それは瞬く間に部屋の入り口まで到達し、思い切り戸が開かれる。

「何!? 公子(きみこ)どうしたの!?」

 そこに立っていたのは、黒髪の女性だった。わかさぎ姫はこの女性によく似た妖怪を知っている。それは――

「か、影狼さん?」

 今泉影狼である。頭に獣の耳が無いのと服装が違っている以外は、全くと言っていいほど同一に見えた。

「……かげろう? 私の名前は景人(かげひと)だけど……?」

 言われて、わかさぎ姫は慌てる。そうだ、ここは並行世界。あくまで元の世界の人物とは似ているだけで別人なのだ。

「あ、その、ご、ごめんなさい景人さん! あの、怖い夢を見ちゃって! 叫んじゃったの!」
「……ふうん。まあいいわ。多分寝惚けたのね」

 何とか誤魔化せた。わかさぎ姫は内心胸をなでおろす。

「なんかまだ落ち着かないみたいね。大丈夫? 一緒に寝ようか?」
「あ、いえ、それは大丈夫。ありがとう。……それより」
「それより?」
「少し、風に当たりたいわ。いいかしら?」

 景人は少し考えてから言った。

「それなら私も付いて行くわ。いいでしょ?」
「勿論よ。ありがとう、影ろ……景人さん」
「……いえいえ。じゃあ行きましょう」

 そう言って景人は部屋を出て行った。
 一人になった部屋で、わかさぎ姫は己の脚を見つめる。

「……ふうう、いよいよね」

 先ずは指先から……。足に力を入れる。
 ピクリと親指が震え、そしてわきわきと指を動かす。

「わああ……」

 次は足首。次は膝。最後に股。

「わあああ……!」

 これが、人間の脚。遥か昔からこの地球を踏み固めてきた人間の脚。

「よ、よし。次は……」

 立ち上がってみる。幸い動かす感覚は元の世界の魚の下半身と共通していて、違和感は無い。がくがくと震えることもなく、安定して立つことができた。
 次は歩いてみる。
 ひょこりひょこりと、おっかなびっくりという風に脚を動かす。

「お、おおお……」

 歩いている。私は今、自分の脚で歩いている……! わかさぎ姫の心に感動が満ちた。

 少しの間部屋の中を行ったり来たりしてから、わかさぎ姫は人を待たせていることを思い出した。
 慌てて部屋を出、外に繋がるらしき扉を抜ける。

 扉を出てすぐのところに景人は待っていた。
 月光で、その身が白く照らされている。空を見上げると丸い満月が浮かんでいた。

「長かったわね。その割には寝癖とかそのまんまよ? ……なんで裸足なの?」
「えっ!? あっ……!」

 全く気が回らなかった。寝癖は兎も角、裸足なのは明らかにおかしい。わかさぎ姫は慌てて部屋に戻り、靴を履いてきた。

「まだ寝惚けてるんじゃない?……まあ、あんまり気にしなくていいかな。他に見てるのなんてお月様くらいだもの」

 そう言って景人は笑った。
 わかさぎ姫も、釣られて曖昧な笑みを返す。

「んじゃ、ちょっとだけ歩きましょうか。夜は物騒だから」
「そうね、妖怪が出るかもしれないもの」

 そう言うと、景人は怪訝な顔をした。

「妖怪ぃ? 今時そんなの出やしないわよ。出るのは悪人でしょ」
「え? そ、そうなの?」

 景人は呆れたような顔になった。

「公子は本が好きなのは結構だけど、現実との区別は付けなきゃ」
「そ、そうね! ごめんなさい、変なこと言って」
「……まあでも、公子のそういうところ、嫌いじゃないけど」
「はは、ありがとう……」

 道を歩きながら、わかさぎ姫は頭の中を整理する。この世界の自分は『公子』という名前らしいこと。元の世界の今泉影狼によく似たこの女性の名前は景人というらしいこと。この辺りの風景は元の世界の人里と似た様子に見えること。また、脚で歩くのはとても楽しいこと、など。

「公子、なんだか嬉しそうね」
「ええ、だって、歩けるんですもの」
「……? いつも歩いてるじゃない」
「あ、夜に歩くのは新鮮だってこと!」
「ああ、なるほどね。それは私もそうかも」

 私も誤魔化すのが上手くなってきたぞと思いながら、わかさぎ姫はスキップなんかをしてみる。だが慣れていないことはするものではなく、脚がもつれてしまった。地面が顔面に近づいてくる――しかし、衝突は阻止された。見ると身体が腕に支えられている。支えているのは勿論景人だ。

「もう、危ないでしょう。いきなりスキップなんてするから」
「ご、ごめんなさい。ありがとう、景人さん」
「いいわよ別に。……ねえ、あなた、公子じゃないわよね?」
「!?」

 突然の指摘だった。

「なっ、そ、そんなことは……」
「安心して、別に糾弾してるわけじゃないから。ただちょっと様子がおかしかったからさ。……それに、公子は私のこと、「景人ちゃん」って呼ぶのよね」
「あ……っ、ごめんなさい、騙すような真似をして」

 わかさぎ姫は頭を下げた。
 それに対して景人は優しい笑みを浮かべた。

「だから、いいって言ってるじゃない」
「でも……」
「だったらさ、何で公子の身体にあなたが入ってるのか、あなたがどんな人なのか。教えてくれる? それでチャラにしてあげる」
「……! ええ、分かったわ」

 月明かりが照らす下で、わかさぎ姫は己について語った。自分が人魚であること。魔女の魔法で世界を移動してきたこと。初めて人間の脚で歩いてこの上なく感動したこと。

「……信じて貰うのは、無理よね」
「いえ、信じるわ」
「……本当に? さっきは妖怪なんていないって……」
「それは……この世界には、本当に居ないからさ。まあそれは置いといて、わかさぎ姫の言うこと、私は信じるわ」
「……ふふ、ありがとう、景人さん」
「いえいえ。こちらこそ、話をしてくれてありがとう、わかさぎ姫」

 満月から降る月光の下、二人は笑いあった。



 今泉影狼は紅魔館に向かっていた。
 というのも、今日一日わかさぎ姫の捜索に徹し、ついに草の根妖怪ネットワークを通じて「昨日の夜中、彼女が必死に地面を移動して紅魔館の方に向かう姿を虫達が見たみたいだよ」という情報を手に入れたのである。
 勢い付いて紅魔館に入ろうとする影狼を、門番が止める。

「はいはいお待ち下さい。何のご用でしょうか?」
「わかさぎ姫がこの館にお邪魔しませんでしたか!?」
「わかさぎ……ああ、あの人魚さんですね」
「知ってるんですか!?」
「ええ。少々お待ちを」

 そう言って門番は館に入っていった。
 待っている間影狼は落ち着かず、足をぱたぱたと動かしていた。

 少ししてから門番が顔を出す。

「お入り下さい」

 言われて館に足を踏み入れると、絢爛豪華な装飾が影狼を出迎えた。

「お客様」
「はいっ!?」

 内装に見とれていて、人が来ていたことに気付かなかった。影狼は慌てて背筋を伸ばす。
 声の方を見ると、そこには見覚えのあるメイド服を着た人間が立っていた。十六夜咲夜である。

「ご案内いたします。こちらへどうぞ」
「は、はい……」

 幾分萎縮しながら案内されたのは、紅魔館の地下大図書館だった。

「パチュリー様。この方がわかさぎ姫様を探していると」
「あら、お友達かしら。咲夜、ご苦労様」

 本棚ばかりの図書館の中、それが避けられてテーブルや椅子が置かれたスペース。そこには紫の服を着た不健康そうな少女と――

「姫!」

 わかさぎ姫が座っていた。向こうも影狼を見て嬉しげな表情を見せた。

「ああ、良かった。食われたんじゃないかと心配したのよ?」
「景人ちゃん! 姫なんて変な呼び方ね。それにしても、並行世界なんて言われたけど、同じ人もいるんじゃない!」
「え?」
「え?」

 怪訝な顔をしている二人を見て、不健康そうな少女、パチュリー・ノーレッジが咳払いをした。

「二人共、私が説明するわ」


「へ、並行世界? この人はわかさぎ姫ではない?」

 影狼は、説明されても完全には理解が追いつかなかった。

「まあ、いきなり言われたんだから分からなくても無理は無いわね」
「景人ちゃんじゃないの……? こんなにそっくりなのに……」

 おどおどしているわかさぎ姫――の中に入った公子に、影狼が名乗る。

「私の名前は影狼よ。今泉影狼」
「あ、苗字は一緒なのね。違いは本当に僅かなんだわ。ああ、名乗り遅れました。私、魚崎公子と申します」
「こ、これはご丁寧に……」

 影狼と公子はお互いに頭を下げ合う。

「……なんか違和感あるわね……。ところで魔女さん、人間になりたいって言って並行世界に行ったって話だけど、わかさぎ姫はいつ帰ってくるの?」
「あの子が帰りたいって思った時よ。一応安全装置もあるけど」
「……じゃあ、この公子さんは、気付いたら身体を入れ替えられてた上に、自分の意思で帰ることもできないのね……」

 影狼は、何故か自分が申し訳ない気持ちになった。

「ごめんなさい公子さん、こんなところに来させてしまって。パチュリーさんも謝って!」
「こんなところとはご挨拶ね。それに一応謝りはしたわよ」
「えー……なんか腑に落ちないわね……」
「影狼さん、良いのよ私は」
「でも!」
「本当に良いの。だって、人魚になるなんてそう出来る体験じゃないもの! 後でパチュリーさんに外にある湖に連れて行ってもらう予定なの、楽しみだわ」

 その公子の表情は、空元気などではなく本当に嬉しそうに見えた。

「……本人が良いなら、まあいいかしら」

 影狼は苦笑した。



 翌日。
 わかさぎ姫と景人は朝の往来を歩いていた。
 眩しい朝日は外に出ている人間皆を等しく照らしている。
 それを薄目で見ながら、わかさぎ姫は思い切り伸びをした

「くぅ……! いやあ、朝日を浴びるのも久しぶりだわ」
「そっか、あなたはいつも霧で包まれてる湖に住んでるんだっけ」
「ええ。湖の外に出るのはいつも夜だから……あ、連れ出してくれるのは昨日話した影狼ちゃんなのよ。手押し車に乗せてもらうの」

 わかさぎ姫は元の世界に思いを馳せる。
 影狼に何も言わないままこの世界に来てしまった。彼女は今はどこで何をしているのだろうか。
 そういえば私の身体はどうなったのだろう。意識が入れ替わるということは、この身体の本来の持ち主、公子さんが入っているのか? 彼女は知らない身体、知らない世界で大丈夫だろうか?

「――さぎ姫。わかさぎ姫? どうしたの?」
「――あ。ああ、ごめんなさい。ちょっと考え事」
「……予想だけど、それは心配事でしょう」
「えっ……ど、どうして分かったの?」
「表情に出てた。それに、何だか仕草も公子にそっくりだから分かっちゃうのよね。あの子とはそれなりに深い付き合いだから」
「……そっか……」

 帰るべきだ。そう思った。
 元の世界の友人は心配しているだろうし、この身体の持ち主にも迷惑を掛けている。
 帰ろう。

「……景人さん。私、あなたと会えて、自分の脚で歩けて嬉しかったわ」
「どうしたの、急に……何か思い詰めてるみたいね」
「あは、本当に分かるのね」
「そりゃ、友達ですから。公子とも、わかさぎ姫、あなたとも」
「……ふふ、ありがとう」

「景人さん。私、帰るわ」
「元の世界にってこと?」
「ええ。友達も心配してるだろうし、公子さんにも迷惑掛けてるから」
「そう……公子もあなたの世界で楽しんでると思うし、もうちょっと居てもいいと思うんだけどね」
「そう言ってくれると気分も楽になるわ。……じゃあ、最後にちょっとだけ」
「何かしら?」
「思い切り走ってみたいの。どこか良い場所を知らない?」

 わかさぎ姫は己の脚を見た。

「それなら、この里を出て少し行ったところに広い野原があるわ。案内する」
「ありがとう、助かるわ」



「――あはは! 気持ち良いわ!」

 霧の湖で泳ぎながら、公子が笑う。
 岸辺に椅子を置いて座っている影狼も、それを見ながら微笑みを浮かべた。
 隣に座っているパチュリーが公子に話し掛ける。

「どう? 楽しんでる?」
「ええ! まるでお魚になったみたい!」
「それは何より」

 影狼もパチュリーに話し掛ける。

「一時はどうなるかと思ったけど、楽しんでるみたいで良かったわ」
「そうね。私としてもこちらの世界に来る人物に不安はあったのだけど、わかさぎ姫と大体同じ大人しい性格で助かったわ」
「……なーんか引っ掛かるなあ。まあいいけど。……姫も楽しんでるかなあ」

 影狼は並行世界に意識を飛ばしている友人のことを想う。
 今頃、人間の脚で走り回ったりしているのだろうか。慣れない歩行でこけたりしていないだろうか。
 俄かに心配が大きくなる。

「……あー! 何やってるのよあの子はー!」
「私達に出来る事は待つ事よ、影狼。大丈夫、会話した限りだとあの子は善い子だから、公子の身体を一生乗っ取ったりはしないでしょう」
「それは私もそう思うわ。けど、うー……」
「――二人共ー!」

 悶々としていると、公子が声を掛けてきた。

「どうしたの?」
「二人も一緒に泳がない?」
「私はやめておくわ。喘息だから」
「……じゃあ私は泳ごうかな。気分転換にちょうどいいわ」
「やった!」

 影狼はドレスを脱ぎ、下着姿になった。
 助走を付けて思い切り湖に飛び込む。

「とりゃっ!」
「きゃあっ! あは、やったわね、このっ!」

 公子が尾びれで水をかけてきた。
 そのまま水のかけあいが始まる。

「お返しよ!」
「こっちこそ! あはは!」

 そんな二人の様子を、パチュリーは微笑んで眺めていた。



 案内されたのは、見渡す限りの緑色の野原だった。

「わあ、綺麗……」
「でしょ。私もお気に入りよ」

 靴を脱いで、素足で草に触れてみる。

「あは、こそばゆいわ」
「どれ、私も裸足になろうかしら」

 景人も靴を脱いで、素足で野原に立つ。

「じゃあわかさぎ姫、競争しましょ!」
「! 良いでしょう、受けて立つわ!」

 位置について「ドン!」の合図で思い切り駆け出した。
 身体に向かってくる風が心地良い! わかさぎ姫はぐんぐんと走るスピードを上げる。しばらく走ってから、二人でごろりと寝転がった。

「――あはは! 気持ち良い!」

 太陽が浮かぶ眩しい空を見ながら、わかさぎ姫は笑う。

「お気に召したようで何よりですわ」
「景人さんも気持ち良い?」
「勿論」
「ふふ、良かった。……ねえ景人さん。私、この世界に来れて良かったわ」
「……私も。あなたが来てくれて良かった」
「嬉しいわ、ありがとう。……じゃあ、帰りましょうか」
「あら、これだけでいいの?」
「本当はもっと沢山遊びたいけど、早く帰らなきゃいけないから」
「そう……分かった」

 身を起こし、足を踏みしめる。この感覚を忘れないようにと念じながら。



「じゃあ、お別れね」
「お世話になりました。ありがとうございました」
「良いのよそんなにかしこまらなくたって」

 太陽が南の方に見える。もう昼だ。
 わかさぎ姫と景人は家に戻ってきていた。

「公子が帰ってきたら、あなたのことを話すわ」
「私も影狼ちゃんに景人さんのこと、話します。それに、自分の脚で歩いた事、走った事、二度と忘れないわ」

 話しながら、わかさぎ姫は視界が滲むのを感じた。駄目だ、涙が出てしまう。

「あーらら、大丈夫、わかさぎ姫……」
「うぐっ、ふううっ……」
「良いわよ、好きなだけ泣きなさい。よーしよーし……」

 景人の胸に顔を埋め、嗚咽を漏らした

 しばらく経って、ようやく落ち着いた。改めて景人にお礼を言う。

「じゃあ、今度こそ。ありがとうございました」
「こちらこそ。きっと、またいつか会えるわ」
「……ええ、そうね!」

 そう言って、精一杯微笑む。

「じゃあ、さようなら」

 心の中で、まだ帰りたくないと思った。



「……二人共、時間よ」

 それを聞いて影狼は慌てて水から出てきた。

「ほ、本当!? 公子も何か感じる?」
「ええ……何となくだけど、どこかに引かれるような感覚がするわ」
「さて、二人共、お別れの言葉は良いのかしら」

 慌てる影狼を余所に、パチュリーは落ち着いた声色で話す。

「あ……そ、そっか」
「……影狼さん、パチュリーさん」

 公子が真剣な表情で言う。

「今日はありがとうございました。とっても楽しかったわ」
「こ、こちらこそありがとう。ごめんなさいね、無理矢理この世界に来させちゃって……」
「いいのよ、楽しかったって言ってるじゃない。新鮮な体験だったわ」
「私もなかなか面白いデータが取れそうでほくほくよ。ありがとうね、公子」
「……! この魔女は、それが目的で……!」

 影狼は一瞬怒りかけたが、すぐに呆れたような顔になった。

「……まあ、いいわ。私が怒ってもしょうがないものね。公子、さようなら。またいつか……会いましょう」
「ええ、またいつか」

 そう言って、公子は目を閉じた。





 深い霧が包む霧の湖の岸辺。そこに二つの人影があった。

「姫はあっちの世界でどんなことをしたの?」

 岸辺に腰を下ろしている方の人物、赤白黒のドレスの狼女、今泉影狼が尋ねる。

「影狼ちゃんとそっくりな人……景人さんとお話したり、お散歩したり、思い切り走ったりしたわ」

 答えたのは、湖に尾びれを浸すように岸に座っている碧髪の人魚、わかさぎ姫だ。

「楽しかった?」
「ええ。とっても」
「それは何よりですわ」

 ふと、わかさぎ姫はどこか遠くを見るような目をした。

「どうしたの? 姫」
「ん、ああ、何でも無いわ。あ、そうだ。私の身体に入った公子って子は何をしてたのかしら。帰ってきた直後は湖に入ってたみたいだけど」
「パチュリーさんと話したり、湖で泳いだりしてたわ。あの子も楽しそうだったわよ」
「それは良かったわ」

 わかさぎ姫は微笑んだ。

「……ねえ、あっちの二人も似たようなこと話してるのかなあ」
「話してるでしょうねえ」
「そっくりみたいだもんねえ」
「そっくりだったものねえ」

 影狼は、ばたりと仰向けになった。
 わかさぎ姫も水面にぷかりと仰向けになる。

「変な体験よねえ」
「変な体験だったわねえ」


 紅魔館地下大図書館で、パチュリー・ノーレッジはペンを走らせていた。

「魔法の強度96%、世界移動率56%、意識消失率0.04%――」

 何か呟きながら、テーブルの上の紙にそれらを記していく。

「――ふう。まだあの魔法は改良の余地がありそうね」
「パチェー! どこー!」

 一息ついたところで、自分を呼ぶ声が聞こえる。誰の声かは分かっている。親友の吸血鬼、レミリア・スカーレットだ。

「パチェ、あ、居た居た」
「どうしたの、レミィが直接来るなんて珍しいじゃない」
「いやあ、あの脚が欲しいっていう人魚はどうなったのかと思ってね」
「それなら本人の話をノートを取ってあるわ。でも、正直面白いものではないわよ?」
「えーそうなの? じゃあどうしようかなあ……パチェ、何か面白いこと無い?」

 そう聞かれて、パチュリーは目を光らせた。

「それならレミィ、面白い魔法があるわ」
「何何、どんな魔法?」
「まずは説明から。レミィは並行世界というものを知ってるかしら――」


おわり
読んでくださりありがとうございました。
景人は男の名前ですが、影狼も男性的な気がするということでこの名前にしました。
出番は少ないですが何気にレミリアが可愛く書けたのではと思っています。

追記:
よく考えた結果これはオリキャラだろうということでオリキャラタグ追加しました。
asagi
簡易評価

点数のボタンをクリックしコメントなしで評価します。

コメント



0.150簡易評価
1.100名前が無い程度の能力削除
 楽しませて頂きました。
5.100名前が無い程度の能力削除
レミリアが可愛く書けたかどうかを判断するのは我々読者だよ君!!