「ふんふふーん♪」
今泉影狼は鼻歌を口ずさみながら、手押し車を押して霧の湖へと歩いていた。
今日は、もとい今日も草の根妖怪仲間のわかさぎ姫と遊ぶ日だ。基本的に暇なのでしょっちゅう会いに行っているのだ。手押し車は人魚であるわかさぎ姫を湖の外に連れ出すための必需品だ。
(今日は何もしようかな。お喋りは勿論、あの子の好きな石集めも良いかも——)
そんなことを考えているうちに、乳白色の濃い霧が辺りを包み込む。視界が悪くなり、影狼は進む速度を遅めた。
「——なの? ————わね——」
霧の向こうから誰かの話し声が聞こえる。
(姫かな? でも、誰と話してるのかしら)
影狼はゆっくりと霧の中を歩いてゆく。不意に、視界の中に大きな水溜りが現れた。霧の湖だ。
「——私? 私も妖怪変化——」
幾分はっきりと聞こえるようになった話し声を頼りに足を進める。すると間も無く、湖の岸近くに浮いている、碧髪の人物が見えた。わかさぎ姫だ。
「姫!」
声を掛けるとわかさぎ姫は顔をこちらに向け、嬉しそうに笑った。
「影狼ちゃん!」
「やあ、ようやく辿り着いたわ。竹林とここは結構遠いのよね」
「お疲れ様ー。あっ、紹介するわ。今泉影狼ちゃん。私の友達なの」
「?」
影狼は怪訝な顔をした。姫は何を言っているのだろう。紹介って、私自身に私を紹介してどうするのだ?
「影狼ちゃんにも紹介しなきゃね。この子は最近妖怪化した蟹なの。見えるかしら」
わかさぎ姫が岸辺を指差す。影狼は目を凝らした。深い霧に加えサイズの小ささもあって見えづらいが、そこには確かに、黒っぽい甲に朱色の脚をした一匹の小さな蟹が居た。なるほど、さっきのはこの蟹への言葉だったのか。
「妖怪にしては小さいわね。よろしくお願いするわ。えーと……」
「ああ、名前はまだ無いのよ、この子」
「そうなのね。じゃあオスとメスどっち?」
蟹に聞いてみる。だが、返ってくるのは沈黙ばかり。
「あ、あら?」
「うーん、私は聞こえるし、影狼ちゃんの声も聞こえてるみたいなのだけれど……相性の問題かしら」
「とりあえず通訳してもらえる?」
「分かったわー。あ、この子はメスよ」
「了解。じゃあ仮称蟹ちゃんね。よろしく、蟹ちゃん」
蟹ちゃんは片鋏を高く掲げた。
「——でさー、その筍がもー美味しいのなんの」
「まあそんなに? 私も食べてみたいわ、ねえ、蟹ちゃん」
蟹ちゃんがウンウンと頷く。
「だったら今度料理して持ってきてあげようか? 家にまだ残ってたはずだから」
「本当!? 嬉しいわー」
「美味しいわよー。蟹ちゃんは筍って食べたことあるかしら。楽しみにしといてね」
影狼が湖に遊びに来て二時間ほど。世間話もひと段落ついた頃だった。
「そうだ!」
わかさぎ姫が、閃いた、という様子で声を上げた。
「ん、どうしたの姫?」
「蟹ちゃんの名前を私達で考えましょうよ!」
わかさぎ姫は目を輝かせて言った。
「蟹ちゃんの名前? それは確かにあると良いかも知れないけど……蟹ちゃんはどう思う?」
蟹ちゃんは鋏をわちゃわちゃと動かして、ウンウンと頷いている。
「なんだか嬉しそうね。姫、何て言ってる?」
「『私も是非付けて欲しい』ですって。ほら、蟹ちゃんも乗り気だわ。どんな名前が良いかしら!」
「ふむ、よし、分かったわ、今日は蟹ちゃんの名前の考える日にしましょう。良い名前にしないとね」
「勿論よ! ふふ、腕が鳴るー!」
(姫、すごく楽しそうだわ……)
実際のところ、名付けはかなり難航した。
「鋏が赤いし、そのまんま赤鋏はどうかしら」
「影狼ちゃん、それはそのまんますぎるわ。そうね……朱美とかどうかしら。身体の美しい朱色から取って」
「姫も割とそのまんまじゃない!」
「朱蟹と書いてシュカイと読むのはどうかしら。上に立つ者という意味で首魁にも掛けてみたんだけど」
「首魁っていうと何だか悪いやつみたいにならない?」
「うーん、確かにそうなのよね……」
「黒甲でクロカブトというのはどうかしら。強そうだわ」
「……蟹ちゃんが、トリカブト、って」
「……言わないで……」
「——駄目だ、全然決まらない」
影狼は地面にばたりと仰向けになり、呟いた。
「思い付いた時は良かったのだけれど、こんなに悩むことになるなんて……」
わかさぎ姫は額に手を当て疲れた表情をしているし、蟹ちゃんもへたり込んで何だかぐったりしているように見える。
「このままじゃ絶対決まらないわ」
「もし決まったとしても、妥協の末の名前になっちゃうでしょうねえ……」
実に困った。
「蟹ちゃん、何言ってるの」
わかさぎ姫の声につられてそちらを見ると、彼女が蟹ちゃんと何か話している。
「私達はいいのよ、好きでやってるんだから」
「どうしたの?」
「それがね、蟹ちゃん、名前はもう良いです、って。私達に気を遣ってるのよ」
「なるほど。そんな事考えなくていいのよ蟹ちゃん。私達もここまで来たら引き下がれないわ。とことん付き合ってあげる。ね、姫」
「ええ勿論!」
そう言うと、蟹ちゃんは感極まったようにぷるぷると震え、礼をするような動きをした。
「あ、頭なんて下げなくていいのよ! ……蟹って頭っていうのかしら?」
「胴と一体になってるわね……」
「じゃあそうね、礼なんていいのよ! よし、これで問題ないわ」
蟹ちゃんは頭?を上げて、かしげるような動きをした。
「とは言ったものの、どうしようかしら。二人だけじゃさっき言ったように決まりっこ無いし」
「だったら他の人に尋ねるのが一番よ。蛮奇ちゃんとかどうかしら」
「蛮奇か。私達の知り合いとしてはまあ無難ね。じゃあ姫、手押し車に乗りましょう。持ち上げるからこっちに来て」
「はーい。蟹ちゃんも一緒に乗りましょうねー」
人里の外れ。とある家。
「——というわけなの。蛮奇、名前思い付かない?」
「何で私にそんなこと聞くんだ。っていうかいつも言ってるだろう、馴れ馴れしく呼ぶんじゃない」
赤色のマントを着た妖怪は機嫌悪そうに言った。
彼女は赤蛮奇。ろくろ首の妖怪。草の根妖怪ネットワークの勧誘をした時の縁で、影狼とわかさぎ姫の友人だ。……少なくとも二人は友人だと思っている。
「まあまあそう言わずに。友達を助けると思って」
「誰が友達だ。私とお前らは友達なんかじゃない」
「まーたそんなこと言って、素直じゃないわねー」
「妖怪には素直さなんかいらない。必要なのは人を恐れさせる能力だけだ。私だって忙しいんだ、さっさと帰れ」
「何が忙しいのよ。さっきまでそこでゴロゴロして本読んでたじゃない」
「それはお前らがいきなり戸を開けるから!」
「まあまあ、落ち着いて蛮奇ちゃん。確かにいきなり押しかけたのは悪かったわ」
わかさぎ姫の言葉を聞いて、赤蛮奇は鼻息をついた。
「ふん、分かってるなら良いさ。全く、妖怪蟹の名前を考えろなんていきなり言われて思いつくわけないだろ」
「それはまあ確かに」
「納得したなら、ほら、帰れ。私は余暇を過ごすので忙しいんだ」
「開き直ったわね……。ねえ、頼むわ、ちょっとだけで良いから考えてあげてくれない?」
影狼は蟹ちゃんを手のひらに乗せ、赤蛮奇に見せた。
小さな赤と大きな赤が向かい合う。
細長い小さな目と丸い大きな目が見つめ合う。
蟹ちゃんがぺこりと頭を下げた。
「……」
「ほら、本人からもお願いって」
根負けしたか、赤蛮奇はふうと息をついた。
「分かった、分かったよ、考えてやる」
「やったあ!」
影狼とわかさぎ姫はハイタッチした。
「ただしちょっとだけだぞ。そうだな……一刻だけだ」
「そんだけありゃ十分だわ、あんたやっぱり暇なんでしょう……兎も角、まずは私達が考えた名前を紹介するわよ。赤鋏、朱美、朱蟹、黒甲——」
一刻後。
「……三人寄ればなんとやら、と言うけど……」
「やっぱり決まらないわねえ……」
「決まらないなあ……」
蟹ちゃんもまたぐたっとしている。
赤蛮奇も入れた人型妖怪三人+蟹ちゃんで二時間みっちり考えたが、これだという名前は思い付かなかった。
「もう一刻経っちゃったわね。ごめんね蛮奇、協力してくれてありがとう」
「……」
「蛮奇?」
「……このままでは終われない」
「へ?」
「このまま名前が決まらないままじゃすっきりしない……二人もそうじゃないか?」
「それはまあそうね」
「私もそうだわー」
二人の返答を聞いて、赤蛮奇は手を握り締めて立ち上がった。
「こうなったら何が何でも名前を考えてやる。知識人だという人里の守護者に協力を仰ごう。行くぞ二人共!」
「は、はい!……蛮奇どうしちゃったのかしら。えらく乗り気よ」
「あの子はプライドが高いから、自分が苦労して考えても決まらないってのが悔しかったんでしょう。でも良い傾向じゃない?」
「まあ、そう……かしら?」
戸口で赤蛮奇が「早くしろ!」と叫んでいる。
「はーい、待ってて! 今行くから! ごめんね、蟹ちゃん。名前が付くの、もうちょっと我慢してね」
蟹ちゃんは右の鋏を敬礼のように動かした。
「妖怪蟹の名前?」
寺子屋の授業を一息ついて、影狼達の話を聞いた上白沢慧音は怪訝な声を出した。
「そうなんです。最近妖怪化したこの子……蟹ちゃんの名前を考えてあげようって思って」
そう言って影狼は蟹ちゃんを手に乗せて慧音に見せる。
「私達三人でも考えたんですけど、良い名前が思い付かないの。だから知識人である上白沢さんのお力をお借りしたくて」
それを聞くと、慧音は朗らかに笑った。
「なるほど、事情は分かった。だが私はそんな大した者ではないよ。それでも良いというのなら、喜んで協力させてもらおう」
「あ、ありがとうございます!」
三人と一匹は頭を下げた。
「よせ、顔を上げてくれ。逆に私の方が頼ってくれてありがとうと言いたいくらいさ。こういう機会は貴重だ……では、早速考えようか」
慧音は蟹ちゃんを見つめる。
「ふむ……この子はオス? メス?」
「メスです」
「そうか。彼女は沢蟹かな。沢という字は潤うという意味を持ち、そこから水の属性を持つと考えられる。水というのは生命を生み出す神聖なものだ。さて、命を生む者といえば何だろう?」
「うーん……やっぱりお母さん、でしょうか」
「うん、私もそれを考えていた。性別的な相性も良い。さっきの意味を複合したものとして、『水』の字を使おう。次は蟹だな。蟹という字は分けると解と虫という字になる。解という字は物事を明らかにするという意味だ。ここから……ふむ、何の字を取ろうか。私は『明』を推したい。これで『水明』、綺麗な水が日光や月光で輝く様子を言う美しい言葉にもなるんだ」
「なるほど。私もそれ、良いと思います。本人はどうかしら」
蟹ちゃんは興奮したように鋏を揺らしている。
「とっても素敵だって言ってるわ。大喜びしてる。私もそう思うわ。蛮奇ちゃんはどう?」
「私も良い名前だと思う。山紫水明、自然の美しい風景を表した言葉だ。本人も喜んでるし何も言うことは無いよ」
「そうか、良かった……実のところ非難されやしないかと心配だったんだ。安心したよ。……ああそうだ、私は水明を勝手に苗字のつもりで考えてたけど、姓名両方付けるのかい? それとも名だけ?」
「あ、そうだったんですか。私達は今までは名だけの方向で考えてました。蟹ちゃん、どうする? 両方にする?」
蟹ちゃんはウンウンと頷いている。
「折角だし両方が良いって言ってるわ」
「そうか、じゃあ両方考える方向で行こう。まずは水明を姓と名のどっちにするかだな。蟹ちゃん、どっちが良い?」
「姓が良いって言ってます」
「分かった、では水明は姓だ。続いて名だな、ふむ……」
「そうだ、彩っていうのはどうかしら」
わかさぎ姫が声を上げた。
「アヤ? 色彩の彩かしら」
「そうそう。綺麗だし可愛いし、ほら、影狼ちゃんの影の字の一部が入ってるの。それに知ってる? 蛮奇ちゃんの奇っていう字も奇しいって書いてあやしいと読むのよ」
「そうなんですか? 慧音さん」
「蛮奇さんのキは奇妙の奇なのかな? だったらその通りだ、アヤとも読めるよ」
「そ、そうなのか。いやでも、恥ずかしくないか、自分の名前をもじるなんて……なあ、今泉……」
「ええ? 良いじゃない、素敵よ!」
「そ、そんな」
「っていうか、問題はあなたが恥ずかしいかどうかじゃないわ。蟹ちゃんが気に入るかどうかよ。蟹ちゃん、どう?」
蟹ちゃんはこれまでに無いくらい元気良くはしゃいでいる。
「ふふ、すごく喜んでる。私も嬉しいわー」
「私も良い名だと思うぞ。彼女自身の鮮やかな赤色とも調和している」
「じゃあ決まりね」
「ええ」
「蟹ちゃん、あなたの名前は、水明彩。スイメイアヤよ!」
「それじゃ、ありがとうございました、慧音さん」
「いえいえ。こちらこそ貴重な経験をさせてもらったよ。じゃあ気を付けてな」
「さようならー」
慧音に挨拶をして、三人と一匹は人里の道を行く。影狼が手押し車を押す。それに乗っているわかさぎ姫の膝上には、小さな蟹——彩が乗っている。少し後ろからそれに着いて行くのは赤蛮奇だ。
「良かったわねー彩。慧音さんと姫に感謝しなくちゃね」
彩が嬉しげに鋏を動かす。
「何言ってるの影狼ちゃん、あれはみんなで付けた名前よ。あれだけみんなで考えたからこそ、最後に彩っていう名前が浮かんだのよ」
「そう言ってくれると嬉しいわ。……蛮奇、どうしたの、後ろからとぼとぼと」
「……別に」
決まり悪そうに言う。
「?」
「きっとやることが終わったから普段の調子を思い出したのよ」
「なるほどね。全く、困ったやつ。ねえ、蛮奇!」
「何だ?」
「この後さ、四人で打ち上げしましょうよ。食べ物持ち寄って」
「私もやりたいわー」
彩もはしゃいでいる。
「私は良いよ。三人で勝手にやってくれ」
「だーめ、あなたの家に押し掛けてやるからね」
少し間を置いて、赤蛮奇は深く息をついた。
「好きにしろ。私は一人で飲む」
「……ふふ、本当に素直じゃないんだから。よし、行くわよ姫、彩! 今日は朝まで飲み明かすわよー!」
「ち、ちょっと影狼ちゃん、そんなに早くしたら危ないわー!——」
おしまい
今泉影狼は鼻歌を口ずさみながら、手押し車を押して霧の湖へと歩いていた。
今日は、もとい今日も草の根妖怪仲間のわかさぎ姫と遊ぶ日だ。基本的に暇なのでしょっちゅう会いに行っているのだ。手押し車は人魚であるわかさぎ姫を湖の外に連れ出すための必需品だ。
(今日は何もしようかな。お喋りは勿論、あの子の好きな石集めも良いかも——)
そんなことを考えているうちに、乳白色の濃い霧が辺りを包み込む。視界が悪くなり、影狼は進む速度を遅めた。
「——なの? ————わね——」
霧の向こうから誰かの話し声が聞こえる。
(姫かな? でも、誰と話してるのかしら)
影狼はゆっくりと霧の中を歩いてゆく。不意に、視界の中に大きな水溜りが現れた。霧の湖だ。
「——私? 私も妖怪変化——」
幾分はっきりと聞こえるようになった話し声を頼りに足を進める。すると間も無く、湖の岸近くに浮いている、碧髪の人物が見えた。わかさぎ姫だ。
「姫!」
声を掛けるとわかさぎ姫は顔をこちらに向け、嬉しそうに笑った。
「影狼ちゃん!」
「やあ、ようやく辿り着いたわ。竹林とここは結構遠いのよね」
「お疲れ様ー。あっ、紹介するわ。今泉影狼ちゃん。私の友達なの」
「?」
影狼は怪訝な顔をした。姫は何を言っているのだろう。紹介って、私自身に私を紹介してどうするのだ?
「影狼ちゃんにも紹介しなきゃね。この子は最近妖怪化した蟹なの。見えるかしら」
わかさぎ姫が岸辺を指差す。影狼は目を凝らした。深い霧に加えサイズの小ささもあって見えづらいが、そこには確かに、黒っぽい甲に朱色の脚をした一匹の小さな蟹が居た。なるほど、さっきのはこの蟹への言葉だったのか。
「妖怪にしては小さいわね。よろしくお願いするわ。えーと……」
「ああ、名前はまだ無いのよ、この子」
「そうなのね。じゃあオスとメスどっち?」
蟹に聞いてみる。だが、返ってくるのは沈黙ばかり。
「あ、あら?」
「うーん、私は聞こえるし、影狼ちゃんの声も聞こえてるみたいなのだけれど……相性の問題かしら」
「とりあえず通訳してもらえる?」
「分かったわー。あ、この子はメスよ」
「了解。じゃあ仮称蟹ちゃんね。よろしく、蟹ちゃん」
蟹ちゃんは片鋏を高く掲げた。
「——でさー、その筍がもー美味しいのなんの」
「まあそんなに? 私も食べてみたいわ、ねえ、蟹ちゃん」
蟹ちゃんがウンウンと頷く。
「だったら今度料理して持ってきてあげようか? 家にまだ残ってたはずだから」
「本当!? 嬉しいわー」
「美味しいわよー。蟹ちゃんは筍って食べたことあるかしら。楽しみにしといてね」
影狼が湖に遊びに来て二時間ほど。世間話もひと段落ついた頃だった。
「そうだ!」
わかさぎ姫が、閃いた、という様子で声を上げた。
「ん、どうしたの姫?」
「蟹ちゃんの名前を私達で考えましょうよ!」
わかさぎ姫は目を輝かせて言った。
「蟹ちゃんの名前? それは確かにあると良いかも知れないけど……蟹ちゃんはどう思う?」
蟹ちゃんは鋏をわちゃわちゃと動かして、ウンウンと頷いている。
「なんだか嬉しそうね。姫、何て言ってる?」
「『私も是非付けて欲しい』ですって。ほら、蟹ちゃんも乗り気だわ。どんな名前が良いかしら!」
「ふむ、よし、分かったわ、今日は蟹ちゃんの名前の考える日にしましょう。良い名前にしないとね」
「勿論よ! ふふ、腕が鳴るー!」
(姫、すごく楽しそうだわ……)
実際のところ、名付けはかなり難航した。
「鋏が赤いし、そのまんま赤鋏はどうかしら」
「影狼ちゃん、それはそのまんますぎるわ。そうね……朱美とかどうかしら。身体の美しい朱色から取って」
「姫も割とそのまんまじゃない!」
「朱蟹と書いてシュカイと読むのはどうかしら。上に立つ者という意味で首魁にも掛けてみたんだけど」
「首魁っていうと何だか悪いやつみたいにならない?」
「うーん、確かにそうなのよね……」
「黒甲でクロカブトというのはどうかしら。強そうだわ」
「……蟹ちゃんが、トリカブト、って」
「……言わないで……」
「——駄目だ、全然決まらない」
影狼は地面にばたりと仰向けになり、呟いた。
「思い付いた時は良かったのだけれど、こんなに悩むことになるなんて……」
わかさぎ姫は額に手を当て疲れた表情をしているし、蟹ちゃんもへたり込んで何だかぐったりしているように見える。
「このままじゃ絶対決まらないわ」
「もし決まったとしても、妥協の末の名前になっちゃうでしょうねえ……」
実に困った。
「蟹ちゃん、何言ってるの」
わかさぎ姫の声につられてそちらを見ると、彼女が蟹ちゃんと何か話している。
「私達はいいのよ、好きでやってるんだから」
「どうしたの?」
「それがね、蟹ちゃん、名前はもう良いです、って。私達に気を遣ってるのよ」
「なるほど。そんな事考えなくていいのよ蟹ちゃん。私達もここまで来たら引き下がれないわ。とことん付き合ってあげる。ね、姫」
「ええ勿論!」
そう言うと、蟹ちゃんは感極まったようにぷるぷると震え、礼をするような動きをした。
「あ、頭なんて下げなくていいのよ! ……蟹って頭っていうのかしら?」
「胴と一体になってるわね……」
「じゃあそうね、礼なんていいのよ! よし、これで問題ないわ」
蟹ちゃんは頭?を上げて、かしげるような動きをした。
「とは言ったものの、どうしようかしら。二人だけじゃさっき言ったように決まりっこ無いし」
「だったら他の人に尋ねるのが一番よ。蛮奇ちゃんとかどうかしら」
「蛮奇か。私達の知り合いとしてはまあ無難ね。じゃあ姫、手押し車に乗りましょう。持ち上げるからこっちに来て」
「はーい。蟹ちゃんも一緒に乗りましょうねー」
人里の外れ。とある家。
「——というわけなの。蛮奇、名前思い付かない?」
「何で私にそんなこと聞くんだ。っていうかいつも言ってるだろう、馴れ馴れしく呼ぶんじゃない」
赤色のマントを着た妖怪は機嫌悪そうに言った。
彼女は赤蛮奇。ろくろ首の妖怪。草の根妖怪ネットワークの勧誘をした時の縁で、影狼とわかさぎ姫の友人だ。……少なくとも二人は友人だと思っている。
「まあまあそう言わずに。友達を助けると思って」
「誰が友達だ。私とお前らは友達なんかじゃない」
「まーたそんなこと言って、素直じゃないわねー」
「妖怪には素直さなんかいらない。必要なのは人を恐れさせる能力だけだ。私だって忙しいんだ、さっさと帰れ」
「何が忙しいのよ。さっきまでそこでゴロゴロして本読んでたじゃない」
「それはお前らがいきなり戸を開けるから!」
「まあまあ、落ち着いて蛮奇ちゃん。確かにいきなり押しかけたのは悪かったわ」
わかさぎ姫の言葉を聞いて、赤蛮奇は鼻息をついた。
「ふん、分かってるなら良いさ。全く、妖怪蟹の名前を考えろなんていきなり言われて思いつくわけないだろ」
「それはまあ確かに」
「納得したなら、ほら、帰れ。私は余暇を過ごすので忙しいんだ」
「開き直ったわね……。ねえ、頼むわ、ちょっとだけで良いから考えてあげてくれない?」
影狼は蟹ちゃんを手のひらに乗せ、赤蛮奇に見せた。
小さな赤と大きな赤が向かい合う。
細長い小さな目と丸い大きな目が見つめ合う。
蟹ちゃんがぺこりと頭を下げた。
「……」
「ほら、本人からもお願いって」
根負けしたか、赤蛮奇はふうと息をついた。
「分かった、分かったよ、考えてやる」
「やったあ!」
影狼とわかさぎ姫はハイタッチした。
「ただしちょっとだけだぞ。そうだな……一刻だけだ」
「そんだけありゃ十分だわ、あんたやっぱり暇なんでしょう……兎も角、まずは私達が考えた名前を紹介するわよ。赤鋏、朱美、朱蟹、黒甲——」
一刻後。
「……三人寄ればなんとやら、と言うけど……」
「やっぱり決まらないわねえ……」
「決まらないなあ……」
蟹ちゃんもまたぐたっとしている。
赤蛮奇も入れた人型妖怪三人+蟹ちゃんで二時間みっちり考えたが、これだという名前は思い付かなかった。
「もう一刻経っちゃったわね。ごめんね蛮奇、協力してくれてありがとう」
「……」
「蛮奇?」
「……このままでは終われない」
「へ?」
「このまま名前が決まらないままじゃすっきりしない……二人もそうじゃないか?」
「それはまあそうね」
「私もそうだわー」
二人の返答を聞いて、赤蛮奇は手を握り締めて立ち上がった。
「こうなったら何が何でも名前を考えてやる。知識人だという人里の守護者に協力を仰ごう。行くぞ二人共!」
「は、はい!……蛮奇どうしちゃったのかしら。えらく乗り気よ」
「あの子はプライドが高いから、自分が苦労して考えても決まらないってのが悔しかったんでしょう。でも良い傾向じゃない?」
「まあ、そう……かしら?」
戸口で赤蛮奇が「早くしろ!」と叫んでいる。
「はーい、待ってて! 今行くから! ごめんね、蟹ちゃん。名前が付くの、もうちょっと我慢してね」
蟹ちゃんは右の鋏を敬礼のように動かした。
「妖怪蟹の名前?」
寺子屋の授業を一息ついて、影狼達の話を聞いた上白沢慧音は怪訝な声を出した。
「そうなんです。最近妖怪化したこの子……蟹ちゃんの名前を考えてあげようって思って」
そう言って影狼は蟹ちゃんを手に乗せて慧音に見せる。
「私達三人でも考えたんですけど、良い名前が思い付かないの。だから知識人である上白沢さんのお力をお借りしたくて」
それを聞くと、慧音は朗らかに笑った。
「なるほど、事情は分かった。だが私はそんな大した者ではないよ。それでも良いというのなら、喜んで協力させてもらおう」
「あ、ありがとうございます!」
三人と一匹は頭を下げた。
「よせ、顔を上げてくれ。逆に私の方が頼ってくれてありがとうと言いたいくらいさ。こういう機会は貴重だ……では、早速考えようか」
慧音は蟹ちゃんを見つめる。
「ふむ……この子はオス? メス?」
「メスです」
「そうか。彼女は沢蟹かな。沢という字は潤うという意味を持ち、そこから水の属性を持つと考えられる。水というのは生命を生み出す神聖なものだ。さて、命を生む者といえば何だろう?」
「うーん……やっぱりお母さん、でしょうか」
「うん、私もそれを考えていた。性別的な相性も良い。さっきの意味を複合したものとして、『水』の字を使おう。次は蟹だな。蟹という字は分けると解と虫という字になる。解という字は物事を明らかにするという意味だ。ここから……ふむ、何の字を取ろうか。私は『明』を推したい。これで『水明』、綺麗な水が日光や月光で輝く様子を言う美しい言葉にもなるんだ」
「なるほど。私もそれ、良いと思います。本人はどうかしら」
蟹ちゃんは興奮したように鋏を揺らしている。
「とっても素敵だって言ってるわ。大喜びしてる。私もそう思うわ。蛮奇ちゃんはどう?」
「私も良い名前だと思う。山紫水明、自然の美しい風景を表した言葉だ。本人も喜んでるし何も言うことは無いよ」
「そうか、良かった……実のところ非難されやしないかと心配だったんだ。安心したよ。……ああそうだ、私は水明を勝手に苗字のつもりで考えてたけど、姓名両方付けるのかい? それとも名だけ?」
「あ、そうだったんですか。私達は今までは名だけの方向で考えてました。蟹ちゃん、どうする? 両方にする?」
蟹ちゃんはウンウンと頷いている。
「折角だし両方が良いって言ってるわ」
「そうか、じゃあ両方考える方向で行こう。まずは水明を姓と名のどっちにするかだな。蟹ちゃん、どっちが良い?」
「姓が良いって言ってます」
「分かった、では水明は姓だ。続いて名だな、ふむ……」
「そうだ、彩っていうのはどうかしら」
わかさぎ姫が声を上げた。
「アヤ? 色彩の彩かしら」
「そうそう。綺麗だし可愛いし、ほら、影狼ちゃんの影の字の一部が入ってるの。それに知ってる? 蛮奇ちゃんの奇っていう字も奇しいって書いてあやしいと読むのよ」
「そうなんですか? 慧音さん」
「蛮奇さんのキは奇妙の奇なのかな? だったらその通りだ、アヤとも読めるよ」
「そ、そうなのか。いやでも、恥ずかしくないか、自分の名前をもじるなんて……なあ、今泉……」
「ええ? 良いじゃない、素敵よ!」
「そ、そんな」
「っていうか、問題はあなたが恥ずかしいかどうかじゃないわ。蟹ちゃんが気に入るかどうかよ。蟹ちゃん、どう?」
蟹ちゃんはこれまでに無いくらい元気良くはしゃいでいる。
「ふふ、すごく喜んでる。私も嬉しいわー」
「私も良い名だと思うぞ。彼女自身の鮮やかな赤色とも調和している」
「じゃあ決まりね」
「ええ」
「蟹ちゃん、あなたの名前は、水明彩。スイメイアヤよ!」
「それじゃ、ありがとうございました、慧音さん」
「いえいえ。こちらこそ貴重な経験をさせてもらったよ。じゃあ気を付けてな」
「さようならー」
慧音に挨拶をして、三人と一匹は人里の道を行く。影狼が手押し車を押す。それに乗っているわかさぎ姫の膝上には、小さな蟹——彩が乗っている。少し後ろからそれに着いて行くのは赤蛮奇だ。
「良かったわねー彩。慧音さんと姫に感謝しなくちゃね」
彩が嬉しげに鋏を動かす。
「何言ってるの影狼ちゃん、あれはみんなで付けた名前よ。あれだけみんなで考えたからこそ、最後に彩っていう名前が浮かんだのよ」
「そう言ってくれると嬉しいわ。……蛮奇、どうしたの、後ろからとぼとぼと」
「……別に」
決まり悪そうに言う。
「?」
「きっとやることが終わったから普段の調子を思い出したのよ」
「なるほどね。全く、困ったやつ。ねえ、蛮奇!」
「何だ?」
「この後さ、四人で打ち上げしましょうよ。食べ物持ち寄って」
「私もやりたいわー」
彩もはしゃいでいる。
「私は良いよ。三人で勝手にやってくれ」
「だーめ、あなたの家に押し掛けてやるからね」
少し間を置いて、赤蛮奇は深く息をついた。
「好きにしろ。私は一人で飲む」
「……ふふ、本当に素直じゃないんだから。よし、行くわよ姫、彩! 今日は朝まで飲み明かすわよー!」
「ち、ちょっと影狼ちゃん、そんなに早くしたら危ないわー!——」
おしまい
ほのぼのエンド。
文字と地文の間が開いていると読みやすいかなーと思いました。
誰が欠けてもこの結果にならなかったのかと思うと感慨深いです
蟹もいい名前もらえて良かった
タイトルが「蟹の名は。」なら最高だった
蟹にときめく日がくるなんて思いもよらなかった・・・・・・
水明彩が人型になったらどんな姿になるのでしょうね