泣いたクラウンピース
-1-
地獄はいつも賑やかだ。亡者の叫び声、獄卒の品性の無い会話であふれている。その中で目立つのは妖精特有の甲高い声だ。彼ら、彼女らのいたずら好きには閉口していたが変化に乏しい地獄ではほどよい刺激となっている一面もある。
「じゃーね。また明日」クラウンピースが妖精の集団に向かって手を振った。別れを済ませると一人別方向に飛んで行った。
そのまましばらく飛んでいると彼女を呼ぶ声が聞こえた。下を見ると見知った妖精がいたので横に降り立った。
「呼んだ?」
「手紙があるの。女神様に渡しといて」
クラウンピースは手紙を受け取った。
「そうだ。明日チームでいたずらするんだけど、一緒に来る?」
彼女はすぐに返事せず、懐から煙草を取り出して火をつけた。
「行かない」煙を吐き出しながら答える。クラウンピースは表情こそ変えないが、内心では残念がっていた。
「たまには来なよ。地上でもやってたんでしょ?」
「こっち来てから気がのらないのよ。地獄の暮らしに慣れたらやる」
また彼女は煙を吐き出す。煙が空に消えていく過程を細い目で眺めていた。
「どうして女神様はあんたが気に入ったのかな?」
「さあ、何度か話しかけてたら家に招待されて、そのまま一緒にいるの」
「ペットみたいね」
「そうだね」ペットという呼び方にも気にせずクラウンピースは笑っていた。
「一緒にいると大変でしょ。喧嘩とかしないの?」
「何回かあったね。けど、ご主人様優しいし」
彼女は煙草の火を足でもみ消した。
「気をつけなよ。喧嘩別れしないようにね」
「大丈夫だよ。ご主人様が待ってるから、じゃあね」
最近地獄にやってきた彼女をクラウンピースは気にかけていた。過去も語らず、積極的でない彼女はいつも周りと距離を取っていた。実は優しい性格なのではないかと思う時があるが、広大な地獄の土地と同じくいつまでたっても核心に迫れなかった。
いつか、もっと仲良くなって笑い合いたいと思いながらクラウンピースはドアを開けた。
「ただいま帰りました」
クラウンピースは椅子に座って足をブラブラと振っていた。幸せそうな笑みを浮かべながら、ブラシが髪をとかす感触を満喫していた。彼女の髪の毛は綺麗な金髪で、自慢の一つでもあった。
「ホントにクラウンピースちゃんの髪は綺麗よね。惚れ惚れするくらい」
ヘカーティア・ラピスラズリがクラウンピースの後ろからブラシをとかしながら言った。
「あたいはご主人様の髪好きですよ。夜空の色でロマンチックです」
クラウンピースはヘカーティアの黒い髪の毛の先を指でつまんだ。ヘカーティアの髪は腰ぐらいの長さでクラウンピースは真似して同じ長さに伸ばしているのだ。
毛先を顔に近づけて観察する。
「けど、最近髪が荒れ気味ですよね。お仕事大変ですか?」
「まあね」ヘカーティアは小さくため息をつく。「さっきの手紙で呼ばれちゃったしね。これが終わったら出かけるわ」
「え~。じゃあ、寝る前の絵本も無しですか?」
クラウンピースは一層足を動かして抗議した。といってもただのパフォーマンスであることはお互いに分かっていた。
「ごめんね。最近できてないわね」
「大丈夫です。どちらかっていうとご主人様が倒れそうで心配ですよ」
「そうね。星が残っていたらもう少し楽できたと思うんだけど。やっぱりあいつにはいつか仕返ししてやる」
「その辺はよくわからないですけど」クラウンピースは悩みのなさそうな楽天的な声で話す。「ご主人様が二人とか三人いてくれればいいなって思います。ずっと一緒にいられるじゃないですか」
ヘカーティアのブラシを動かす手が止まった。
「どうしました?」
「いや、何でもないわ」再び、ブラシを動かし始める。
ヘカーティアはクラウンピースの真後ろに立って髪をといていた。そのため、ヘカーティアの表情が真剣な物に変わったことにクラウンピースは気づかなかった。
-2-
クラウンピースはドアを開けた。彼女の小走りが軽い足音となって廊下に反響する。
「ご主人様。また手紙で……す」
クラウンピースの声がしぼんでいった。それと同時に歩みが遅くなり、手に持った手紙を掲げたまま立ちすくんだ。
目を見開き、感情の定まらない空っぽの表情で目の前の光景を眺めていた。
「「「おかえりー」」」
目の前にヘカーティアが三人いた。まったく同じ顔で、同じ声をした三人だった。双子以上にそっくりで気味が悪いとすら思えた。
彼女たちを区別する手がかりは髪の色だった。赤、青、黄色とそれぞれ別の髪色だった。しかし、いつもの黒髪のヘカーティアはいなかった。
「あの……ご主人様は?」
「私たちよ」赤い髪のヘカーティアが笑顔で答える。
クラウンピースは口を開けたまま動かなかった。
「そんなんじゃわからないでしょ」黄色の髪のヘカーティアが口を挟んだ。「ちょっとした魔法で黒髪の私が三人に分裂したの。黒の私の記憶は全員持っているから、実質三人とも同一人物ね。さっきも話をしたけど、感性は同じだし、記憶のずれもなかったから」
クラウンピースは返事もできず立ちすくんでいた。
「ま、驚くのも仕方ないわね。すぐに慣れるわ」青い髪のヘカーティアが言った。
「あの、寝る前の絵本はどうなるんでしょう……」
三人のヘカーティアは顔を見合わせて一瞬呆けていたが、すぐに笑いだした。
「ごめんなさい。考えてなかった」
赤髪が近づいて、クラウンピースを抱き上げた。「今日は私でいい?」
黄髪はクラウンピースから手紙を取り上げる。
「いいわよ。これは私で処理しとくから」
青髪はテーブルの上のカップを手に取った。
「じゃ、片づけはやっておくわ。掃除と洗濯もたまってたし」
三人のヘカーティアが各々動き出すのをクラウンピースは眺めていた。
人形のような顔でそれぞれのヘカーティアの顔を順々に見つめていた。
-3-
青髪のヘカーティアはバスケットを片手に歩いていた。通りかかる妖精の呼びかけにも気さくに答えている。その中の何人かは首をかしげながらヘカーティアから離れていった。
「人気者ですね」クラウンピースが言った。
「
しばらく二人は歩いていた。いつしか出会う妖精の数も減り、クラウンピースも知らない地域に入っていった。
クラウンピースは何度も見上げてヘカーティアの顔を確認する。三人になったからといって一人一人は前と変わらないのだ。何ら変わらないと彼女は自分に言い聞かせていた。むしろ一緒にいられる時間が増えたのだ。よろこぶべきだろう。
「ほかのお二人はお仕事ですか?」
「そうそう。二人で仕事、一人でプライベートの交代制ね。明日は赤で、明後日は黄色かな」
「やっぱり分かれてよかったですね」
「そうね。これでクラウンピースともいっぱい遊べるわ」
二人とも笑っていたが、一方だけ戸惑いの混ざった笑顔だった。
「ついたわ」
ヘカーティアの呼びかけでクラウンピースが前を見ると、目の前に不思議な光景が広がっていた。
一面に銀色の世界が広がっていた。銀色は水平線まで伸びていて、まるで海のようだった。
「なんですかこれ?」上ずった声でクラウンピースが尋ねた。
「全部水銀なの。すごいでしょ」
「すごいです」
軽く浮かび上がったクラウンピースが水銀の池の上を飛ぶと、鏡のように水面が彼女の姿を映し出した。
「こんなところあるなんて知りませんでした」ヘカーティアの隣で楽しそうに声を上げる。
「私も最近気づいたのよ。せっかくだからアトラクションにできないかと思ってね。ようやく考える余裕もできたから」
驚いた顔をしてクラウンピースは青髪を見つめた。
「どうかした?」
「せっかくのお休みなのに、結局お仕事じゃないですか。なんだかんだ言って好きなんですね」
青髪は特に表情を変えなかった。「そうね。仕事っていうよりは人間が好きなのかも。寿命が短いのに未来に向かって頑張る姿が。私よりずっと輝いているように見える時があるの」
青髪はクラウンピースの知らない女神の顔をしていた。自分と比べて、たくさんの物を見てきた大人のようでなんだか遠くにいるような気がした。
「地獄だろうと天国だろうと一生懸命な強い思いに触れられるのはうれしいの。信仰に依存する私は一から物を作るのは無理だから。そういう意味では憧れてもいるわ」
喋りながら青髪は地面にシートを広げ、バスケットからワインを取り出した。
「まじめな話はおしまい。私はしばらくここにいるから遊んでてもいいわよ」
「じゃあ、もうちょっと飛んできます」
「見える範囲にはいてね」手を振ってクラウンピースを見送った。
見渡す限りの銀色の世界は神秘的だった。水銀が映し出す鏡の自分に手を振ってみたりした。石を落とすと、沈まずにそのまま浮かぶのには驚いた。水銀のほうがはるかに重いのだ。
地獄としてどう活用するのか気になった。灼熱地獄のマグマに沈むように、水銀の水面に浮かぶ亡者の姿を思い浮かべた。不死の薬にまみれた亡者というのもなかなか趣深い光景だなと柄にもなく考えた。
「クラウンピース!!」知り合いの妖精が近づいてきた。
「おー久しぶり」
「一緒にいたずら行かない?」
クラウンピースは言いよどんだ。「あー、ごめん。今は無理」ちらりと体の向きを変えて遠くの青色を見つめた。
「じゃあ、あしたは?」
「……ごめん、だめだと思う」
「あさっては?」
「……だめかな」
「つまんなーい。暇になったら教えてね」妖精はクラウンピースに背を向けて、飛んで行った。
一人残されたクラウンピースはその場で漂っていた。迷子のようにあたり一面を落ち着きなく見渡した。
「言えばよかったかな?」
誰に言うでもなく発した言葉は水平線に消えていった。
クラウンピースは足元を見た。水銀の鏡に彼女一人だけが映り込んでいた。
それを見るのが嫌になった彼女は青髪のヘカーティアのもとに戻っていった。
-4-
「ねえ、この判決あんたの担当よね?」
赤髪のヘカーティアが書類を青髪に見せつけた。
「そうよ。どうかした?」
「判決甘すぎない? 情状酌量って言ってるけど私情が入りすぎ」
「問題ないでしょう。育った環境も考えてよ」
「環境は関係ない、何をしたかよ。私だったらもっと重い判決にするわ」
詰め寄ってきた赤髪の肩を青髪が抑えて落ち着けようとする。
「いたずらに重い判決にしてどうするのよ。反省の気持ちを汲んでやろうとか思わないの?」
「気持ちは行動で示さないと。反省の場を与えるのが私たちの役割でしょう」
「やり直すきっかけを与えるのよ。聞くけど、この人が反省の言葉を言ってなかったらどうするの?」
「さらに重い判決にするでしょうね」
青髪が強い視線でにらみつける。
「ただ単に厳罰化したいだけでしょ。偉ぶりたいの?」
赤髪も睨み返し、にらみ合った二人の視線が火花となって煙が立ちそうだった。赤髪が持っていた書類を握りつぶし、耳障りな音が部屋の中に響いた。
「まあまあ」黄髪がクッキーの皿を手に間に割り込んだ。
「その裁判、難しいケースなのよね。過去の判例を見ても重いものから軽いものまでバラバラなの。どうせなら罰の目安でも考えたら? 早めに統一した基準を作れば、後が楽よ」
赤髪と青髪が同時にクッキーに手を伸ばし、同時に口に放り込んだ。
「その方がいいわね」異口同音だった。
テーブルに座って、二人が穏やかに話し始めたのを確認した黄髪はその場を離れた。そのまま壁際の椅子に座っていたクラウンピースに近づいた。彼女は絵本を膝上に置いて一人で読んでいた。
「元気ないわね。いつもなら間に入って喧嘩を止めてたわよね」
顔を上げたクラウンピースは苦い笑みを浮かべていた。
「どうすればいいのかわからなくて」
黄髪は膝を曲げて目線を合わせた。「いつも通り明るくしてればいいじゃない」
「いえ。いままでのご主人様と誰かの喧嘩ならご主人様の味方をします。けど、ご主人様とご主人様の喧嘩だとどっちの味方をして、どう割って入ればいいのかわからなくて」
もっともだと黄髪は思った。
「そんなに考えなくてもいいのよ。間に入って、やめてくださいって言えばいいのよ。なんなら私みたいに食べ物で釣るのもありよ。とりあえず何か飲み食いすれば落ち着くものだから」
クラウンピースは苦笑したまま黙って頷いたが、まるで仮面を被っているかのように終始表情を変えなかった。いつものクラウンピースとは明らかに様子が違っていた。
「ちょっと待ってて。ジュースを持ってくるから」
ジュースを手にして戻るとクラウンピースはいなかった。
「青、クラウンピースはどうしたの?」
「赤がお風呂に連れて行ったわ」
渡すべき相手がいなくなったジュースを見下ろして、黄髪は一気に飲み干した。飲み終わって落ち着くと、クラウンピースが読んでいた絵本が椅子の上に置かれていたことに気が付いた。
絵本のタイトルは『泣いた赤鬼』だった。
-5-
「おまたせーお風呂終わったわ」赤髪のヘカーティアがクラウンピースを抱きかかえて他の二人のヘカーティアの前に出てきた。
青髪が近寄ってクラウンピースの顔を覗き込んだ。「三つ編みにしてもらったのね。可愛いわ」
「でしょ」赤髪が自慢気に返事をする。
「赤もよかったわね。肌も髪もずいぶん綺麗になって」青髪が袋を見せつけるように持ち上げた。「かわいい帽子を見つけたんだけど、クラウンピースには似合うと思うのよ。つけてみて」
クラウンピースは返事をしなかった。赤髪に抱かれたままうつむいて、誰とも目を合わせなかった。
「どうしたの? のぼせた?」
「……あたいは」
赤髪が顔を近づけて聞こうとする。「何?」
「あたいは……着せ替え人形じゃありません」
赤髪から笑顔が消えた。瞬きをせず目を開けて、唇は歯が見えないほど閉ざされた。正面にいた青髪も予想外の言葉に空白の表情を浮かべていた。
赤髪の腕の力が抜けて、抱きしめられていたクラウンピースが自由になった。するりと腕の間から抜け出すと、何も言わず、誰とも目を合わせずに部屋から出て行った。
誰も動けなかった。青髪も赤髪も彼女がいた目の前の空間をひたすら見つめていた。
妖精でも空気を読んでしまいそうな沈黙から浮かび上がるのにしばらく時間がかかった。
「やりすぎたかしら」赤髪がうつむき加減で言った。これまでを思い返せば彼女自身に自由な時間がなかったとようやく気付いた。妖精のコミュニティにもほとんど出れていないはずだ。
青髪は髪をかき上げ、視線を上げた。「そうね。ずっと誰かと一緒だったものね。帰ってきたら謝りましょう」
「そういう問題では済まないと思うな」
割り込んできた黄髪に二人は顔を向けた。黄髪はテーブルで絵本を読みながら赤ワインを飲んでいた。
赤髪は早い足取りで黄髪の目の前まで近寄った。赤髪がきつい目で見降ろす。
「どういうこと?」
「あの子、口数が減ってる。私たちに遠慮してるのよ」
「それが?」
「三人に分かれてどう接すればいいか測りかねているのよ。裁判でもあるでしょ。子供が親の再婚相手とうまくいかずトラブルを起こす。久しぶりに会った友人が変わってしまって絶縁する。ただクラウンピースに謝るだけじゃ、根本は治らないのよ。あの子が前みたいに元気になるにはこっちもそれ相応のことをしないと」
赤髪はアイスピックのようにとがった視線と言葉を向けた。
「そこまでわかっていて、なんでいままで言わなかったの?」
「あんた、言ったって聞かないでしょう。最近自己主張が激しくてうんざりしてたの」
とうとう怒り出した赤髪が黄髪を殴った。鈍い音をたててテーブルの上のワインボトルも倒れ、床に倒れこんだ黄髪の体をボトルからこぼれた赤ワインが汚した。
赤髪が黄髪の胸倉をつかみあげる。「馬鹿にするんじゃないわよ!」
慌てて青髪が間に入って二人を引き離した。
「ちょっと、自分と喧嘩してどうするの。あの子にみっともないわよ」
「自分だから許せないのよ! あんたは綺麗ごとばっか言うのやめなさい!!」
そのまま殴りそうな勢いだったが、泣き出しそうな青髪の顔を見て赤髪はかろうじて踏みとどまった。
二人を見るのがいたたまれなくて、赤髪は顔をそむけた。落ち着きなく歩き回りながら、手で顔を覆って誰に言うでもなく呪詛のように小さくつぶやいた。
「なんでよ、なんでこんなことになったのよ。私たち同じでしょ……」
「そうよ、同じだったのよ」
青髪が差し伸べた手を取りながら、黄髪が立ち上がる。体にかかった赤ワインが血のようにも見えた。
「わかるように言って」
「つまり、黒の私は全部を持ってたの。優しいところも、情熱的なところも、冷静なところも、もともと一人の個性だったの。それが三人に分かれたときに均等に分けられなかったのよ。最初は差がわかりにくかったけど、時間がたって、それぞれが経験を積んで個を確立し始めて全く違う花を咲かせているのよ」
荒々しい動作で、赤髪は近くの椅子の上に腰を落とした。呼吸も同様に荒く、必死に考えようとしていた。
「分かれたのは失敗だったの?」
「そんな短絡的な思考はだめよ。私たちの目的のかなりは達成できたんだから」
「そういう屁理屈はやめて」
「じゃあ、言い方を変える」
黄髪も椅子に座り、テーブルをはさんで赤髪と正面に対峙した。
「私だって、これが失敗だって思いたくないのよ。ようやく余裕ができてクラウンピースと一緒にいれるようになったんだから。けど、このままじゃダメなのもわかってる。やり直せる方法を探さないといけない」
表情こそ淡々としているが、黄髪の声が震えているように聞こえた。それに気づいた赤髪はどこかで安堵していた。彼女も自分なのだと知ってようやく安心できた。
「もう一度やり直せない? 黒の私の性格が均等に三等分になる方法があるんじゃない?」
黄髪は首を横に振る。「それはダメ。一番やっちゃいけないことよ」
「どうして」
「人格がコロコロ変わる相手を信頼できる? ただでさえクラウンピースは距離を測りかねてるのに、さらに変わってしまったら今度は二度と近づいてこないわ」
「確かにそうだけど」
討論を始めた二人の間に青髪が割り込んできた。
「確認だけど、クラウンピースと離れたくないってことではみんな一致してるんだよね?」
黄髪がうなずく。
「もちろんよ。そりゃあ、あの子は
青髪はうなずいた。
「だから、私たちは決められるはずよ。もともと同じで、同じ思いを持っているんだから。一つの答えを見つけられるはず」
黄髪の言葉を合図に、青髪もテーブルに着いた。
-6-
クラウンピースは目の前の銀色の水面を眺めていた。腰を下ろして膝を抱えた姿勢で小さくなっていた。
水銀の上を飛ぶ気にはなれなかった。水面に映った一人ぼっちの自分の姿を見るのが嫌だった。じゃあ来なければよいと、自分でも思うのだが、足は自然とここを目指していた。うまく説明できない矛盾した思いがもやを作ってクラウンピースの中にあった。
この場所はひたすらに静かだった。広大な世界はわずかな音も飲み込んでいった。
「なにやってんの」いつの間にかクラウンピースの横に煙草をくわえた妖精が立っていた。
「なんでもない」
「そんなわけないでしょ。明らかに何かあった顔よ」
自分の口から言う気にはなれず、黙っていた。
「噂だけどさ、女神様が三人になったって聞いたんだけど。本当?」
「本当だよ」
煙草をくわえたまま彼女は感嘆の声をあげた。
「さすが女神様ね。ひょっとして落ち込んでるのはその女神様の件?」
黙ってクラウンピースは頷く。
煙を吐いて彼女は言った。「あれか。三人に分かれて、変化についていけないって感じ?」
クラウンピースは顔を上げた。目を幾分大きく開いて驚きの表情だった。
「なんで分かるの?」
「なんとなく。ただの勘」
彼女はクラウンピースを見下ろす。目を細めて、睨んでいるかのようだった。
「その三つ編み似合ってない」
「ほっといて」
抱え込んだ膝にクラウンピースは顔をうずめる。
たぶんきっかけは自分なのだ。その思いが重しとなって彼女を押さえつけていた。
なんの迷いもなく飛ぶことができなくなってしまった。
「わかんないよ……わかんないよ」
強く両足を抱きしめる。細い足では己の体重を支えるだけで精いっぱいだ。
「三人同時に愛するなんてできないよ。あたいは一人なのに」
四人分の重さに彼女の足は耐えられない。
「バッカじゃないの? なに甘いこと言ってるの」
吐き捨てるような強い言葉がクラウンピースの胸に刺さった。
クラウンピースが再び顔を上げると彼女は言葉と同じくらいきつい眼差しを向けていた。
「ここは地獄よ。死と悲鳴と怒号しかないような場所で愛を語るなんて。あんた頭にお花畑でも沸いているんじゃない?」
返事ができなかった。
「一度変わったら元通りなんて無理よ。受け入れられないなら、いっそのことペットをやめたら。ずるずる引きずっても誰のためにもならないわ」
彼女の吐き出した煙がクラウンピースの顔にかかった。煙で激しくむせ込んだ。
「あたいのこと、嫌いだったの?」
すぐには返事せず彼女は煙草を地面に落として足でもみ消そうとした。執拗に、長い時間をかけて、火以外の何かを消そうとするかのような強い眼差しで自分の足をにらんでいた。
「羨ましかったのよ。一人だけ女神様にチヤホヤされてたあんたも。なんの悩みもなさそうなあんたの笑顔も」
そのまま彼女は飛んで行った。彼女に踏みつぶされたいびつな煙草だけがそこに残された。
後に残った沈黙のなかクラウンピースは三つ編みになった自分の髪を手に取った。髪をほどこうとしたがすこし緩めたところでやめてしまった。手が震えてうまくいかなかった。
急に目の前の視界がぼやけた。髪の毛の一本一本が見えず、まるで金色の蛇を握っているかのような錯覚を覚えた。きっと泣いてしまうんだろうなとクラウンピースは妙に冷めた視点で考えていた。
誰かに見られるのが嫌で、うつぶせになるように地面に倒れ込んだ。
倒れ込んだときの振動で涙がこぼれた。途端に、地面に爪をたてて声を押し殺して泣き始めた。
涙がクラウンピースの頬を濡らして、地獄の砂が彼女の顔をまだらに汚した。
-7-
クラウンピースはゆっくりとドアを開けた。足音を立てないようにうつむき気味に廊下を歩く。
部屋に入ると、瞬きを忘れて立ち止まった。
「おかえりー」
いつもの調子でヘカーティアが迎えた。
黒髪のヘカーティアがクラウンピースを出迎えた。
「あの、ご主人様。髪は……」
「戻したの。やればできるものね」
ヘカーティアはクラウンピースを抱きしめた。
「ごめんなさい。いままで自分のことばっかり考えてたわ。けど、もう気にしなくていいわ。やっぱりこれが一番だと思うの」
「けど、お仕事は……」
「そのくらい大丈夫よ。この間で全部片付いたし、仕事のやり方を変えればいいだけよ」
ヘカーティアは笑顔で抱きしめていた。彼女の夜を思わせる黒髪も肌の香りもクラウンピースが望んでいたもののはずだった。
「ご主人様」抱きしめられたままクラウンピースが言った。
「何?」
「もう一度……分かれてくれませんか? 三人に」
ヘカーティアの笑顔が曇った。わずかに目を細めて、眉間に小さなしわができた。
「どうして?」
ヘカーティアの頭の中でなにかざわついているような違和感を感じた。
その違和感を無視していつも通りに話しかけようとした。
「気にしなくていいのよ。私が勝手に初めて、うまくいかなかったから止めるだけ。もう一度やっても上手くいかないと思うの」
腕の中でクラウンピースの身体が固くなったように感じた。人馴れしていない猫のように。腕の中でくぐもった声がヘカーティアの耳に届く。
「違うんです。ご主人様が嫌いだとかそういうわけではないんです。三人に分かれた後の方がご主人様は素敵でした。髪も肌も綺麗になって、自由にお休みが取れて、お話ができてずっと生き生きとしてました。あれがダメだとは思えないんです」
ヘカーティアは彼女のために何かすべきだと思った。
一人のヘカーティアは優しく頭を撫でろと言った。
一人のヘカーティアは力強く抱きしめろと言った。
一人のヘカーティアは距離を取って顔をじっくり見つめろと言った。
動けなかった。彼女たちがにらみ合っているのがわかった。
「ダメなのはあたいの方です。変わったことに驚いて、お話しするのを怖がってしまったんです。もっと輪に入ります。もっとお話しします。このままなかったことにしたらもっと後悔する気がするんです」
ヘカーティアはクラウンピースの言葉と同時に頭の中の三人に気を配らなければいけなかった。上手くまとまってくれず、三人がいがみ合いを初めてバラバラの方向を向いていた。黒の私がリーダーだから従って欲しいと必死に手綱を握ろうとした。しかし、他ならぬ自分はそれほど素直ではないと知っていた。
「けどね、クラウンピース。また三人になったら繰り返しになるかもしれない。また喧嘩して傷つけてしまうかもしれない。私はそれが嫌なの。あなたはそのままでいいのよ」
クラウンピースは顔を上げてヘカーティアを見つめた。目を赤くしながら満面の笑みをうかべた。
「喧嘩なんて今まで何回もやって仲直りしたじゃないですか。そんなに怖がるなんてご主人様らしくないですよ」
全員のヘカーティアが息をのんだ。
「青いご主人様言ってましたよ。未来に向かって頑張る姿が好きだって。あたいもやります。自分の欲しい未来を目指します」
「……あんた、いつの間にそんな立派になったのよ」
再びクラウンピースは笑った。楽しいからではなく進むために。
「ご主人様のおかげですよ」
冗談めかしたクラウンピースの言葉にヘカーティアは応えられなかった。クラウンピースを抱きしめる腕をほどいて、手で顔を覆った。それと同時に誰かが後ろから、温かい手で自分を抱きしめているのを感じた。
やめてほしいと頭の中で叫んだ。
私はとんだ臆病者だ。彼女と一緒に過ごす未来を望みながら彼女の声を聞こうとしなかった。自分のやることは全面的に支持してくれて、ついてきてくれると少しも疑わなかったのだ。あまつさえ人間の親のように振る舞って彼女の上に立とうとしてたのだ。
なんていう傲慢な女神だ。妖精以下だ。
だから、そんなに優しくする必要なんかない。一緒に泣く必要もない。
どうしてこんな時だけ全員が同時に泣くのだ。さっきまであんなににらみ合っていたのに。
もう、できない。
あなたは、あなた達は私だけど、私じゃない。もう、一緒にはいられない。
「……なんで、ご主人様が泣くんですか。あたい、怒って言ったわけじゃないですよ。笑って流してくださいよ」
ヘカーティアが頭を振ると、涙が手の隙間からこぼれた。いくつかはクラウンピースの手を濡らした。
「違うの、クラウンピースが悪いわけじゃない。私たちの方なの。もう、無理なの」
嗚咽交じりに真珠のような大粒の涙を流す。涙と一緒に溜めていた何かを吐き出していた。
「ごめんなさい。うまく言えないの。しばらくこのままにして」
クラウンピースは言いつけを守った。泣きじゃくるヘカーティアの頭を無言で抱き寄せた。
「はい、お水です」
無言で受け取るとヘカーティアは一気に飲み干した。飲み干して、深呼吸を一つしたところでようやく落ち着けることができた。
「ありがとう。それでね……もう一度分かれようと思う」
クラウンピースは一瞬ためらって、ヘカーティアの手に自分の手を重ねた。
「はい」それだけだった。喜ぶことも悲しむことも間違っているような気がしたのだ。
「ごめんなさいね。振り回しちゃって」
クラウンピースの三つ編みを手に取ってほどき始めた。ゆっくりとクラウンピースの髪を真っすぐに、自由にした。
「私はね、自由を与えようと思ったの。選択肢があるっていう自由を。遊ぶことも、お洒落することも、地獄の女神であることも。何一つ捨てずに全部を手元に置いとくためには一人じゃ足りなかった。だから分かれたのよ。広がった世界の前に胸が躍ったわ。自由に対価が必要だなんて考えもしなかった」
一つ目の三つ編みがほどき終わって、二つ目に取り掛かる。
「おかしな話よね。三人とも私の一部のはずで元に戻せばあるべき位置に納まってくれるはずだった。けどダメだった。頭の中で三人が喧嘩して全く動けなかったの。一つの服に無理やり三人を押し込んだ感じだった。それぞれが一人で立ち上がるためには何かを補って変わるしかなかったのね。私だってきっと前と同じではないのよ。あなたの知っていた私はもう会えないのかもしれない」
ヘカーティアは手に納まった金色の髪を緩く握りしめ、自分の額に近づけた。そのまま目を細める。
あたかも誰かへの祈りのようだった。
「けど、やっぱりあたいのご主人様ですよ」
祈りが、言葉で打ち切られた。
「あたいの、大好きな、地獄の女神様です」
言葉は、呪文だった。
「……だから、立派になりすぎなのよ。惚れちゃいそう」
クラウンピースは首をかしげる。「そうですか?」
ヘカーティアは目に溜まった涙を拭き取り、また深呼吸をした。
「色々迷惑かけちゃったから、お詫びをしたいんだけど。リクエストない?」
「いえ、いいですよ」
「けど、私が納得したいの。黒髪の私はこれで一区切りを迎えるんだから。助けると思って何でもいいから言ってくれない?」
クラウンピースはヘカーティアの全身をじっくりと観察し、腰まで伸びた黒髪に手を伸ばした。
「じゃあ、この髪を分けてください。夜の色で好きなんです。もう見れないと思うと勿体ないです」
ヘカーティアもシルクのように整った自分の髪を眺めた。自分の髪とクラウンピースの髪を交互に見つめた。
「わかった。どうせだし思い切ってセミロングくらいにするわ」
「本当にいいんですか?」
「いいのよ。気分を変えたいし」一瞬ヘカーティアは黙った。「あと、わがままを一ついいかしら?」
「はい」
ヘカーティアは一瞬だけ黙り込んで、つばを飲み込んだ。
「寝る前の絵本、今日は私がやっていい? これだけはね、三人とも同意してくれたの」
ヘカーティアの小さな声と戸惑いを隠すような、かすかな微笑みがクラウンピースの胸中にさざ波を立てた。小さな願いだが、前の関係を取り戻したい彼女の精一杯の提案なのだ。その提案を受け入れてくれるか、彼女が不安を感じていることがクラウンピースにもわかった。
それが、不思議とクラウンピースの胸を温かくした。
「じゃあ、うんと長いものをお願いします」
その一言でヘカーティアの顔に本物の笑顔が浮かんだ。太陽の光を受けて新月から満月に移り変わるように、彼女の顔も少しずつ、だがはっきりと輝いていくのがわかった。
「ええ。寝れないくらい長いのを用意するわ。楽しみにしてて」
クラウンピースは思った。これまでにこの人の顔も、この人の笑顔も何度も見てきたし、これからも見るだろう。けれど今のこの笑顔はきっと今だけのもので、二度と同じものは見られない。彼女達と一緒にいる限り忘れてはいけない表情なのだ。
エピローグ
地獄の喧騒から離れたところで妖精が一人煙草を吸っていた。吐き出した煙がカーテンとなって彼女の視界を覆った。
「いたいた。おーい」
クラウンピースの呼び声で彼女が振り向いた。目を合わせても、ぶっきらぼうなままで特に表情を変えなかった。
「あいかわらず、元気そうね」
「まあね」
「怒ってないの?」
「なにが?」
「この前ひどいこと言ったじゃない」
クラウンピースは手を振って否定した。
「別に気にしてないからいいよ。ていうか、あれで気持ちが固まったから」
「固まったって女神様の事?」
「そうそう。もう少し一緒にいる」
予想外の返事だったようで、彼女は唖然とした顔で見つめていた。咥えていた煙草を指で挟み灰を落とす。
「どうしてよ。あんなに元気なかったのに」
「いっぱい悩んだけどね。やっぱり好きなんだ、ご主人様が。話をしてもう一度やろうって言ってくれたの」
「そんな上手くいくと思ってるの? 保証も何もないのに」
「あたいだって上手くいくかわからないよ。大口たたいて偉そうに言っちゃったし。まだぎこちないところもあるし。けど、もう少し一緒にいようと思う」
クラウンピースは顔を上げて空を見た。地獄の空は晴れなのか曇りなのかよくわからない。けれども視線の先には自由に飛べるだけの広々とした空間がある。その空間をどう飛ぶか、あるいは飛ばないのか。それは自分次第だ。
「そのもう少しをできるだけ長く続けたいの」
クラウンピースに冷やかな視線が刺さった。
「こりゃあ重症だわ。花畑に頭の栄養が吸われて馬鹿になってる」
「綺麗な花なら歓迎だよ」
「花はいつか枯れるんだよ。どうやったってそれからは逃げられない」
彼女の言葉は忠告のようにも聞こえた。
「じゃあ、枯れる前に別の花を咲かせればいい。ずっとどこかで花が咲いていれば笑顔になってくれる。それでいいの」
彼女は視線をそらして地獄の地面を見つめた。クラウンピースに聞こえるギリギリの声量でつぶやく。
「なんでそんなに前向きになれるのよ……」
彼女の沈んだ声に覚えがあった。どうすればいいかわからず、膝を抱えていた時の自分によく似ていた。
彼女は今も迷っているのではないか。そんな気がした。
「ねえ。どうして地獄に引っ越してきたの?」
すぐに返事せず煙草を足でもみ消してから答えた。
「会いたい人がいるの」
「会えた?」
「まだ」
「会えるといいね」
「やめてよそんなの。心にもないこと」
「心からだよ」
「だから、羨ましいのよ」
それっきり彼女はクラウンピースから顔を背けて飛んで行った。姿が見えなくなるまでクラウンピースは黙って背中を見つめていた。
その後、クラウンピースは灼熱地獄の上を飛んでいた。真っ赤に発光したマグマがクラウンピースを赤く照らしていた。
手には小瓶が握られていた。中には夜を思わせる黒髪が一房収まっていた。
クラウンピースはそれをマグマに投げ捨てた。
小瓶はどんどん小さくなり、マグマの赤い色彩にかき消された。
ヘカーティアが嫌いになったわけではなかった。
儀式だった。ヘカーティアは謝罪のしるしを差し出し、クラウンピースは過去のヘカーティアに別れを告げた。それだけだった。
変わったことを受け入れるために、変わらないものを大切にするために。
四人で花束を抱きしめて、笑い合うために。
地獄に花束はないけれど。
だから、いつか地上に行こうと思う。地上で花畑を探して大きな花束を作って、プレゼントしたい。夜を思わせる色よりも、色鮮やかな今の髪色の方がきっと花束は似合う。
そして、彼女にも花束を渡したい。
花束くらいで彼女の願いが叶うわけではないけれど、彼女はいつも煙草の火を消すために下を向いている。だから、花束を抱きしめて、笑顔になって上を向いてほしい。おせっかいだろうけど、笑う方がずっといい。
迷って泣くより、ずっと。
灼熱地獄のマグマがクラウンピースの顔を赤く照らす。
彼女はもう泣いていない。
地獄の女神を泣かせるくらいには強い妖精なのだ。
にしても、黒を分けて3色にするとは良い着眼点。
素敵な作品でした
テンポよくお話が進むなかでも、描写や台詞から情感が伝わってきます。
何気ないきっかけから物語がどんどん展開していく様子は心地好いものでした。
彼女たちの心に末永く花束があらんことを!
女神も幼子には弱い
ナイーブな妖精に幸ありますように