「ふぁ~ぁ、今年もそろそろ始めないとなあ」
蝉の怒声が響く初夏の早朝。つんざくような鳴き声に叩き起こされ、寝間着姿で眠たげな声を漏らす少女、人恋し神様、秋静葉。容姿は幼気な少女ではあるが、先の通りれっきとした神様である。秋の葉を赤く染め、冬の前に散らすことを司る。そんな秋に活動する神様ではあるが、秋本番になる前に幻想郷の落葉広葉樹事情は把握しておかなくてはならない。いくら閉鎖空間である幻想郷とはいえ、その全土となると一日二日で回り切ることなど到底不可能であり、彼女が初夏に目覚める理由もまさにそれなのだ。
「あら、寝坊助がやっと起きたわ」
軽快な声音とともに縁側からひょっこり顔を覗かせたのは、稲田姫様、秋穣子。豊穣の神様である。里の田植え時期も過ぎ、束の間の休日を過ごす穣子は、しかしその元気を持て余しているようで、家にいても落ち着きがない。今も普段の秋色のエプロンではなく白い割烹着を身に着けているのを見るに、洗濯でもしていたのだろう。我が妹ながら、その姿が朝日と相まって非常に眩しい。
「待っててね、今ご飯の用意するから」
そう言って白い歯を輝かせる穣子。ああ、目を開けていられない。静葉は、ぽりぽりと頭を掻きながら逃げるように洗面台へと向かった。
とりあえず、まずは妖怪の山を見て回ってくると、妹に伝え家を出た。半袖の紅いワンピースに麦わら帽子を被り、木陰を選んで歩く。家を出るときに、ばっちり穣子お手製の弁当を持たされた。つくづく面倒見の良い妹に、ちょっぴり居心地の悪さを感じてしまう。何かお土産でも持って帰ろうかしら。
哨戒中の白狼天狗と談笑し、守矢の二柱に挨拶しに行き、旧友の流し雛と河童とで昼食を摂り、河童の発明した自動彩色魔神なるものに仰天させられ、いつの間に現れたのか神社の風祝子が瞳を輝かせていたり、それを鴉天狗が嬉々として写真を撮っていたり。山の変わらぬ風景を楽しんだ後、涼しげな川沿いをのんびりと歩いた。日は高く、新緑の風に揺さぶられる音色と呼応するような川のせせらぎが心地良い。日光を反射して燦燦輝く水面を見て、ふと昔聞いた話を思い出した。澄んだ川には、稀に龍神が登りその鱗を落としていくらしい。ここの岩清水ならばあるいは。そう思い、好奇心に従って川辺に近寄り目を凝らす。
「あっ――」
水面に揺れる二つの翡翠を見つけて
「えっ――?」
濡れた石に足を滑らせたのに気付いた時には
「「……きゃああああ!?」」
ざっぱーん
「……へっぷし」
「ごめんねぇ、驚かせるつもりはなかったの」
「ううん、こちらこそ。まさか河童以外に水の中に棲む妖怪が居たなんて…」
「もう、みんなそんな感じだわ。私達の存在を忘れて久しいんだから」
妖怪の山の麓、霧の湖のほとりで震える静葉の目の前で、水面から上半身を乗り出しているのは、秘境のマーメイド、わかさぎ姫である。平素は湖で生活している彼女だが、時たま川を上り綺麗な石を探してはコレクションにしたり、赤や今泉と会ったりする。先ほども何をするでもなく川を上っていたところ、川辺に人影を見つけたから近づいてみれば、この有様である。
「鯉は滝を登って龍になるけど、公魚は妖怪人魚になるんだ…」
「うん」
「いえ、こっちの話。……綺麗な鱗ね」
「もちろん、こんなに清らかな水に濯がれてますもの」
ぱちゃ、と尾ヒレを水面から覗かせて微笑む。跳ねた飛沫にうつる日光に静葉は軽く目を細める。この調子ならば濡れた衣服が乾くのにもそう時間はかからないだろう。静葉はほっと湿った胸を撫で下ろし、目の前の人魚姫に意識を向けることにした。
霧の湖は、その名の通り昼間はぼんやりとした霧に覆われている。そのため夏場は避暑地として妖怪や妖精が集まって来、わかさぎ姫の人付き合い(妖怪付き合い)は専らその周りに限定されていた。勿論楽しい仲間ばかりで退屈をすることは無い、だが妖怪妖精の語る世界というのは得てして閉鎖的であり、加えて水から出られない彼女の世界はひときわ狭い。姫という謂れは、世間知らずの箱入りを揶揄しているのだと悲観することもある。そのためか、わかさぎ姫は自分の知らない世界に対しての好奇心が強かった。
霧の晴れる夜、とうに静葉は去り、わかさぎ姫は静葉と会話したその場所に腰かけて、星の鏤められた暗い空を眺めながら日中のことを思い出していた。秋の神様、紅葉の神様、終焉の神様。新鮮だった。夏が終わると木々は赤、橙、黄に粧いをする。彼女はそれを手伝っているのだと言った。冬が始まると木々は地へ枯葉を落とし、次の命への糧とする。彼女はそれを手助けしていると言った。勿論、紅葉のことは知っていたし、この青々とした山が道が紅く染まっていくのを見るのは毎年の楽しみでもあった。静葉がそれを司っている。それも幻想郷全てを回っているのだと。途方もなく大きな話のように思えた。
わかさぎ姫は静葉の話に虜になった。そしてもっと、もっと色々な会話をしたいと思った。仲良くなりたい。知りたい。叶うならば、共に地上を回りたい。彼女が、閉塞したこの世界を彩ってくれる。そう信じた。
「また来てくださいね」と送り際に言ってみた。
次に静葉がここを訪れるのは、彼女が一帯の木々に粧いを施さんとする時だ。たった一月程度の話。しかし待つ者の時間というのは、動く者の時間よりも相対的に遅く長くなる。湖でじっと待つだけのわかさぎ姫にとって、それは永遠にも等しいと思った。
「また会いに行きます」返事は木漏れ日のように柔らかい声だった。
その意図に気付いた時には、すでに彼女は高く舞い上がり、茜空に溶け込んでしまって。呆然と眺めるわかさぎ姫の顔が、空の色に染まっているのを見る者はいなかった。
蝉の怒声が響く初夏の早朝。つんざくような鳴き声に叩き起こされ、寝間着姿で眠たげな声を漏らす少女、人恋し神様、秋静葉。容姿は幼気な少女ではあるが、先の通りれっきとした神様である。秋の葉を赤く染め、冬の前に散らすことを司る。そんな秋に活動する神様ではあるが、秋本番になる前に幻想郷の落葉広葉樹事情は把握しておかなくてはならない。いくら閉鎖空間である幻想郷とはいえ、その全土となると一日二日で回り切ることなど到底不可能であり、彼女が初夏に目覚める理由もまさにそれなのだ。
「あら、寝坊助がやっと起きたわ」
軽快な声音とともに縁側からひょっこり顔を覗かせたのは、稲田姫様、秋穣子。豊穣の神様である。里の田植え時期も過ぎ、束の間の休日を過ごす穣子は、しかしその元気を持て余しているようで、家にいても落ち着きがない。今も普段の秋色のエプロンではなく白い割烹着を身に着けているのを見るに、洗濯でもしていたのだろう。我が妹ながら、その姿が朝日と相まって非常に眩しい。
「待っててね、今ご飯の用意するから」
そう言って白い歯を輝かせる穣子。ああ、目を開けていられない。静葉は、ぽりぽりと頭を掻きながら逃げるように洗面台へと向かった。
とりあえず、まずは妖怪の山を見て回ってくると、妹に伝え家を出た。半袖の紅いワンピースに麦わら帽子を被り、木陰を選んで歩く。家を出るときに、ばっちり穣子お手製の弁当を持たされた。つくづく面倒見の良い妹に、ちょっぴり居心地の悪さを感じてしまう。何かお土産でも持って帰ろうかしら。
哨戒中の白狼天狗と談笑し、守矢の二柱に挨拶しに行き、旧友の流し雛と河童とで昼食を摂り、河童の発明した自動彩色魔神なるものに仰天させられ、いつの間に現れたのか神社の風祝子が瞳を輝かせていたり、それを鴉天狗が嬉々として写真を撮っていたり。山の変わらぬ風景を楽しんだ後、涼しげな川沿いをのんびりと歩いた。日は高く、新緑の風に揺さぶられる音色と呼応するような川のせせらぎが心地良い。日光を反射して燦燦輝く水面を見て、ふと昔聞いた話を思い出した。澄んだ川には、稀に龍神が登りその鱗を落としていくらしい。ここの岩清水ならばあるいは。そう思い、好奇心に従って川辺に近寄り目を凝らす。
「あっ――」
水面に揺れる二つの翡翠を見つけて
「えっ――?」
濡れた石に足を滑らせたのに気付いた時には
「「……きゃああああ!?」」
ざっぱーん
「……へっぷし」
「ごめんねぇ、驚かせるつもりはなかったの」
「ううん、こちらこそ。まさか河童以外に水の中に棲む妖怪が居たなんて…」
「もう、みんなそんな感じだわ。私達の存在を忘れて久しいんだから」
妖怪の山の麓、霧の湖のほとりで震える静葉の目の前で、水面から上半身を乗り出しているのは、秘境のマーメイド、わかさぎ姫である。平素は湖で生活している彼女だが、時たま川を上り綺麗な石を探してはコレクションにしたり、赤や今泉と会ったりする。先ほども何をするでもなく川を上っていたところ、川辺に人影を見つけたから近づいてみれば、この有様である。
「鯉は滝を登って龍になるけど、公魚は妖怪人魚になるんだ…」
「うん」
「いえ、こっちの話。……綺麗な鱗ね」
「もちろん、こんなに清らかな水に濯がれてますもの」
ぱちゃ、と尾ヒレを水面から覗かせて微笑む。跳ねた飛沫にうつる日光に静葉は軽く目を細める。この調子ならば濡れた衣服が乾くのにもそう時間はかからないだろう。静葉はほっと湿った胸を撫で下ろし、目の前の人魚姫に意識を向けることにした。
霧の湖は、その名の通り昼間はぼんやりとした霧に覆われている。そのため夏場は避暑地として妖怪や妖精が集まって来、わかさぎ姫の人付き合い(妖怪付き合い)は専らその周りに限定されていた。勿論楽しい仲間ばかりで退屈をすることは無い、だが妖怪妖精の語る世界というのは得てして閉鎖的であり、加えて水から出られない彼女の世界はひときわ狭い。姫という謂れは、世間知らずの箱入りを揶揄しているのだと悲観することもある。そのためか、わかさぎ姫は自分の知らない世界に対しての好奇心が強かった。
霧の晴れる夜、とうに静葉は去り、わかさぎ姫は静葉と会話したその場所に腰かけて、星の鏤められた暗い空を眺めながら日中のことを思い出していた。秋の神様、紅葉の神様、終焉の神様。新鮮だった。夏が終わると木々は赤、橙、黄に粧いをする。彼女はそれを手伝っているのだと言った。冬が始まると木々は地へ枯葉を落とし、次の命への糧とする。彼女はそれを手助けしていると言った。勿論、紅葉のことは知っていたし、この青々とした山が道が紅く染まっていくのを見るのは毎年の楽しみでもあった。静葉がそれを司っている。それも幻想郷全てを回っているのだと。途方もなく大きな話のように思えた。
わかさぎ姫は静葉の話に虜になった。そしてもっと、もっと色々な会話をしたいと思った。仲良くなりたい。知りたい。叶うならば、共に地上を回りたい。彼女が、閉塞したこの世界を彩ってくれる。そう信じた。
「また来てくださいね」と送り際に言ってみた。
次に静葉がここを訪れるのは、彼女が一帯の木々に粧いを施さんとする時だ。たった一月程度の話。しかし待つ者の時間というのは、動く者の時間よりも相対的に遅く長くなる。湖でじっと待つだけのわかさぎ姫にとって、それは永遠にも等しいと思った。
「また会いに行きます」返事は木漏れ日のように柔らかい声だった。
その意図に気付いた時には、すでに彼女は高く舞い上がり、茜空に溶け込んでしまって。呆然と眺めるわかさぎ姫の顔が、空の色に染まっているのを見る者はいなかった。
冒頭の静葉が目覚めるシーンは良い雰囲気でした
非常に読みやすかったです