山中、枝と落ち葉が積み重なって層を為し、湿気った空気が沈殿していた。足は一歩ずつ沈み、弾力を足裏に伝え、数歩ごとに細い骨子を折るように枝が鳴る。足下は覚束ず、不如意な凹凸に足をやられることがある。踏みしめる度に後ろから引かれる感覚のある坂である。
仄かに薄暗く、分枝した隙間から揺れ出てくる光陽はちらちらと舞い散っている。葉の色は濃淡様々に、垣間見える頭頂は光を浴びて煌びやかに、下は影の元に暗く色彩を携えている。稀に、キイキイと鳴く鳥がいた。頭上に繁茂する広葉樹によって腐葉土の重なる地層に届く光は僅かであって、沈鬱に姫著莪が頭を垂れている。湿度で翅虫が其処らで羽音を鳴らしている。
時刻は昼頃であった。女の顔は既に青白く、しかし口は朱で細筆を振るった様に引き締まっている。切れ長な目尻に寒空を思わせる青がかった瞳孔があり、光の揺らめきに合わせて忙しなく動いていた。息は深く肩は大きく上下し、疲労の色を伺わせる。
斜面に鬱勃と立つ樹の硬い外皮に集まる甲虫が大きく翅を広げ、女の目の前を通り過ぎた。醗酵した酸臭に女は筋の通った鼻に皺をやった。羽音が通った後に風が止み、いっそう森閑を強調した。
終ぞ、女は口を開いた。
「この森は――どこへ続いているのか?」
……答えの無い寂寞が宇佐見蓮子に呼応した。
仔細あって放曠は常であったが、入り込んで既に二刻半が経っていた。彼方に見えることもない稜線に、充満した粘度のある空気と、周囲に隈無く佇立する樹木は彼女の方向感覚を狂わせるには充分であった。頭上の葉は紅葉を遮り、陽そのものを覆い隠し、日蝕が如き暗冥が一層彼女に恐懼と焦燥を与えていた。
一歩は漸くであった。腐葉土に沈み込み、纏わり付いた枝葉が彼女の一挙一動を妨碍している。一度踏み入れればまた挙げねばならぬ。堅く口を結んで、分からぬ頭頂へ向かわねばならなかった。
森林は燦然と彼女を迷い込ませた。魔術のたぐいでは無く、その性質が故である。幻想郷ではそれが顕著であった。つまり、幻想郷におけるそれは、人智の付け入る隙のある森林では無く、鬼胎を孕んだ異形の愛奴であった。宇佐見蓮子の思う恐懼と焦燥はここから来ていたと言える。原生林とは大凡そのようなもので、人智の踏み入れない、理性を蹂躙する存在であった。彼女の心底は既にして存在の拒否感を胚胎していた。強く双瞼を閉じると、果たして元の、とは行かなかった。
何故に彼女がここへ迷い込んだのかは、そもそもはっきりしなかった。放浪癖は彼女にとって長病みのようなものであった。金髪の、マエリベリー・ハーンとともにあることもあれば、己自身によって、導かれるように歩き回る癖があった。疲労は放浪の憑きものであったが、鉛のような足であったとして、洞窟で縛られて見る投影より退屈だと思ったことはなく、それも旅先の旅籠で風呂に入れば流れる心地よさがあった。その心地は宇佐見蓮子をして性癖にせしめ、茫洋とすることは床の間に置き忘れていた。
一方で、境界は彼女には分からない。マエリベリー・ハーンが僅かながらに示唆し、彼女に諷諭したことがある。当然のことながら、宇佐見蓮子は自身が今迷い込んでいることを自覚はしていなかった。
須臾の間、足を止め思案した。思い出せば、鮮少な奇縁には覚えがある。青色の胡蝶が舞っていた記憶。それが麓であったか入り込んでからかに自信は無い。胡蝶の翅脈は広葉樹の葉脈がごとくに散らばり、その隙間ゝゝに青と黒の鱗粉を携えていた。陽の抜けるほどに薄い翅であったが、風に吹かれる葉のように儚く翅をはためかせていた。閉じた翅は合掌の如く沈静としていた。
宇佐見蓮子は胡蝶に見とれ、その透いてみえる陽光が瞳孔に映ったとき、心の内に沸き上がる慟哭があった。胡蝶はちらと彼女の方に顔を向けた。伸びた触覚は左右に振れ、口吻は丸く。胡蝶の複眼と彼女の視線が交叉し、そして、気付けば迷い込み、胡蝶は見失っていた。
あの胡蝶を見つけなければ、私がこの森を抜け出すに能わぬだろう――彼女は本能的に感じた。あの胡蝶が何者であるかを考えても詮無きことは理解していた。再び歩み始め、頂を目指した。気付けば木漏れ日は暗く、察するに夕刻を過ぎて暮夜に入っている。ぬめるような空気が宇佐見蓮子の鼻腔から肺腑に張り付いた。唇を結ぶ余裕も無く、空気を求めて力なく口腔を明らかにしていた。
いったい、宇佐見蓮子にあるのは執着であった。胡蝶は幻惑として彼女に捉えられたが、彼女はそれを事実としてその網膜に焼き付けた。彼女の知る言葉に於いて、scientiaは科学と訳されたが、その実は知識の総体であって、知識は彼女にあるその思索と、先人の集大成である。常より超科学的である事実を彼女は認識の一端として認知しており、要するに、超科学的である事実は、彼女にとっては知識のひとつとなる現象であった。であるからこそ、彼女自身は超科学的な現象に対する宿痾のごとく憑き纏う人格を自覚し、真に彼女が生きるためにその事実が事実たるという確証を得る必要性があった。純粋な、ひとつの現象が彼女によって知覚されたとき、彼女は自身の生の悦びを得ることができ、それこそが宇佐見蓮子の本質――自我であった。
執着はやがてdhanmaによって統制される感覚である。しかし、宇佐見蓮子はマエリベリー・ハーンとともに行動するにつれて己の執着――幻視的であり、超越的であるものに対する――が己の中に情熱の如く沸き上がるを感じ、それを止める術を失ってしまった。網膜に一度焼き付いたそれは、焼鏝による刻印の一塊であるように彼女の脳裏に立ち上り、消えることが無くなった。それこそが彼女の求める生であって、極地へと至る拠り所となっているということを。
ひとつの執念に駆られ、宇佐見蓮子は僅かずつに上へ上へと腐葉土を踏みしめた。枝葉の割れる音だけが晦冥な空間に響いていた。稜線は幾分かずつ近付き、月光が縁取っていた。そして、
「ここが、胡蝶の、」
……稜線の先は崖であった。宇佐見蓮子は漸くの一歩で落下した。
「……まだ、痛みますか。」
「いえ、……自らで歩けないのは暇で仕方ありませんね。」
庵は質素であった。六畳の中に床の布団があり、台所すらない。風が吹けば軋み、夜半は蟲が無く。
宇佐見蓮子は滑落した。体が軽くなり、薄氷が割れるように足下を失った。景色がめまぐるしく前後上下に揺さ振られ、天も無く地も無く、気付けば眩暈の元に稜線は遙か頭上に上がっていた。右足からは血が淋漓と流れ、痛みに気を遣る暇も与えられなかった。
眼窩の奥が押されるように痛み、意に反して三度嘔吐した。腹から口腔に胃酸が染みて、あの独特の酸臭が鼻腔に抜けた。掌は枝葉を潰して尚沈み込むように、生肉に這いつくばる心地であった。三度噎せ、気付けば涕泣していた。
「私は――私はここで死ぬのか! あの忌々しい青い胡蝶が私の命を奪うというのか! この、私の命を! 私が、胡蝶に!」
涕泣はいつしか瞋恚と変化して宇佐見蓮子を襲った。掌を強く握ると、爪の間に細かい土が入り込んだ。己の興味に対する忸怩たる思いがこみ上げ、そしてその刹那、伏せた顔面の脇、目の前にあの青い胡蝶が舞い降りた。胡蝶はゆっくりと羽ばたき、そして翅翼を閉じてとまった。触覚は天を指し、口吻は丸いまま。
「この、」
粘ついた口腔を大きく開き、首だけの力で胡蝶に歯を立てた。胡蝶は明らかに体を震わせると、翅をばたつかせた。驟然より逃げる如の胡蝶の翅に食らいつき、構わず翅脈を引きちぎった。翅を失った胡蝶は足を動かし、草葉の上を蹌踉と進もうとした。しかし、それを逃がす宇佐見蓮子ではなく、二度目、大きく口を開けると腐葉土ごと胡蝶を取り入れた。取り憑かれたように咀嚼し、苦々しい青い液体と甘酸とした土気が混ざった。口内には唾液が満ち、混ざり合い、喉元に力を入れると、それを嚥下した。塊が、喉を流れ、
それから、記憶が途切れ、……
気付けば、宇佐見蓮子は床で横になっていた。枕頭には長い白髪の女が座していた。肌白く、目は切れ長で赫々とした銅板を思わせる瞳をしていた。面持ちは硬く、しかしその印象から多血質の気性を思わせた。最も彼女を際立たせたのは、寂れた庵における清廉さであった。見るに佇まいは俄に古風で、宇佐見蓮子にとっての時勢と齟齬があった。
女は宇佐見蓮子が目を覚ましたのを見ると仔細に小首を傾げて、莞爾と笑みを浮かべた。
「足、痛みますか。」
宇佐見蓮子は声を出すに能わず、察した女がゆっくりと彼女の背を押し、上半身を起こした。手元の腕を渡し、飲むよう示した。
「まあ、二日寝てればねェ。私が見つけた時にはもう血ィ固まってたもんだから、問題は無いかと思いましたけど。折れちゃいないみたいだけれど、少ォし深いかもなァ。」
女は独り言ちるように、砕けた口調で言った。彼女が幾許の傷を見てきたか分からないが、底知れぬ憂心が宇佐見蓮子にはあった。腕の水を飲み干すと、口が滑らかとなった。
「ありがとうございます、命を助けていただいたようで。」
女は口角を上げて、朱色の三日月ができた。
「いや、礼には。偶の散歩で見つけたことです。こんな所に迷い込む人間はそうそういませんからね……それで、貴女は何故ここに?」
臆面も無く尋ねられたことに宇佐見蓮子はやや拍子抜けをした。しかし、胡蝶を追って崖から落ちたなどということは、彼女の年齢をして発することのできない言葉であった。彼女は打黙り、腕の底に目をやった。曲面は歪みなく、白磁は光を丸く反射していた。
「言いたくないこともありましょうよ、治るまで静かにしておりなさい。」
女は立ち上がると、そのまま外へ出て行った。後には寂寞と腕だけが残された。時は昼頃であろうか。ひとつ空いた窓から日が差し込んでる。枕頭の容器から腕に水を注ぎ、水面に陽が揺れる。映った自身の顔には陰雲が翳っている。
「二日、眠っていたのか……」
自身に起こったことを反芻せんとしたとき、脳裡に疼痛が響いた。畢竟無聊による気の緩みは右足の痛みで揺り動かされた。腕を落とし、鈍く畳と響き、水が染みた。複視と眩暈によって彼女は布団に倒れ込んだ。額に脂汗がうかび、全身が拘縮した。朦朧と立ち退いていく意識の中で、白髪の女が駆け寄ってくるのを見た。
胡蝶が目の前を舞っていた。青い胡蝶は舞う桜の花弁の間を縫って羽ばたいている。翅脈ははっきり、鱗粉は青く。宇佐見蓮子は、朧気ながらこれが夢だと認めた。胡蝶は花弁に隠れ途切れ途切れに姿を見せた。翅脈は玲瓏と輝いて、錯覚のように光を飛び散らせた。
卒然、胡蝶は燃え上がった。赫灼燦然と、桜の花弁ひとつひとつに燃え移り、落ちていった。胡蝶は喘ぎ悶え、激しく翅を動かすも逃れられず、華奢な胴まで炎は移り、地に伏せ動かなくなった。地では燃えたすべてが煌々と彩られていた。彼女には何をすることもできなかった。
次に宇佐見蓮子が目を覚ましたのは夕刻であった。女はひとり粥を啜っていた。彼女は目覚めた宇佐見蓮子を見ると、解顔して粥もそのままに枕頭に近づいた。
「随分うなされてましたけど、大丈夫ですか。」
「ええ、幾許か……」
女は眉を下げた。腕に水を注ぎ、宇佐見蓮子に渡した。口渇に染み渡った。
「どうですか、少し夜風でも当たりますか。まあ、足に響くかも知れませんが、倦んでいるよりはましでしょう。」
布団をどけて右足を見ると、僅かに漿液の滲んだ布が巻いてあった。痛みは和らいでいた。女は宇佐見蓮子に肩を貸した。体は意外にも軽く浮いた。左足に体重をかけて、女の肩にしがみついた。女に半身を与けるようにして庵を出た。女の白髪は柳のように軽く、するりと腕に絡みついた。
庵の周りには畑があり、後は身の丈の半分ほどに駆られた原であった。向こうに山が見える。稜線は夕日に縁取られ、藍に染まる空に儼乎と浮かんでいた。自身に艱難を押しやり醜穢とも思えたそれは、今は自然に押しやられていた。女はそれを指さし、
「ええ、貴女が落ちたのはあの山でしてね、向こうは人里だが登るのに時間がかかる。まあ、私はこうして人里を離れていましてね。」
時折キイキイと鳴く鳥がおり、風に草が揺れた。等間隔で植えられた作物と、丁寧に掘られた畝が慎ましく、ざわめく草木の喧噪の中に映えていた。
細風によって揺れる桜菫や姫射干、沈丁花が慎まやかな佇まいで顔を出し、幾重にも重なる芳香は、土気の香りと相まって鼻腔を悦ばせた。
「なるほど、ここは良い場所ですね。」
女は雪肌にも劣らぬ白い歯を見せて笑った。どこか恬然として、瑞歯含む風情があった。陽は既に落ち、山々の稜線は天と混じり合い、花弁の色は濃淡様々に相俟って尚香りを残していたが、女は庵に戻ることを勧めた。
庵で腰を下ろすと、女は食べさしの粥とは別に粥を注いだ。水気が多く、味は塩のみであったが、口から腹に降りていく感覚があった。
腹に物を入れると、聊か余裕が出てきた。右足はまだ無聊に動く気配が無かったが、脳裡は充分に目覚めていた。
「ここに住んで、長いのですか。」
女はその質問に笑みで応えた。笑みには自嘲と悔恨が含まれているように見えた。つまり、目は細く、口角は余り上がらず、喉が震えていた。宇佐見蓮子はこの問いが彼女に何を意味しているのか考えは及ばなかった。換言すれば、彼女は一種の尼僧のような、諦観と大悟に似た雰囲気を感じ取っていた。人里から遠く離れ、飾り気の無い庵を結ぶと言うことは、克己せらるる何かによる信念であるとしか思えない。それを尋ねる言葉を、宇佐見蓮子は飲み込んだ。女の表情が一歩を躊躇わせる、胸中にわだかまりを生ませていた。如何に晦渋な言論を以てしても、彼女の赫色の瞳は言葉を驟然によって打ち遣るだけの力があった。この疑問は宇佐見蓮子の心に煙雨として残った。
夜半、宇佐見蓮子は床に着くと微睡みながら、また胡蝶の幻惑を見た。
日は無聊の内に過ぎた。幻惑は日に日に薄くなり、右足に染み出る漿液も薄く、少なくなってきた。終日を床で過ごすか、女の手を借りて草花を見るに過ごすほかに無かった。
「このまま行けば、あと五日か七日で戻るでしょう。それまではゆっくりすると良い。」
生来より忙しなく動いてきた彼女にとって、十日の倦怠は寧ろ新しい目覚めであった。とは言うものの、庵には見るべき物も無く、草花は時々刻々として生まれ生え替わるものではなく、隙無く茂る草本を見るにも倦んでいた。すると必然、彼女の興味は女の方へと向いた。
それが生得的な性格であったか、接したが故に生まれた興味であったかは彼女にとって気にすることでは無かった。恩人を詮索するに気は引けたが、明かすには充分な暇があった。
女はたいてい庵で黙っているか、畑に出ている。宇佐見蓮子と過ごしている五日のうち、一日だけ夜半に出て行き、帰ってこなかったことがある。出る気配で目が覚め、意識が蘇った朝方に戻ってきた。そのとき、女の雪肌のそこらに薄らと傷が認められたが、朝餉の時には痕すら無くなっていた。
六日目、右足は概そ恢復し、僅かに軋むような痛みがあるだけであった。独りである程度までは徒歩で移動することができた。朝方、畑に出た女を追って庵より出た。為すことは無かったが、茫洋と女の畑作業を見ていた。
「植物は、」
女が雑草を抜きながら云った。
「すごいもので、斯うやって幾ら抜いてもどこからか沸いてくる。そして、実を付ける。花も、野菜も、次の子を残す、」
「それは、種子で、」
宇佐見蓮子は言いかけて、止めた。
「子を残して、自分は果てる。死ぬことは、彼等にとって死では無くて、寧ろ、生きることなんだと、私は彼等を育てています。」
女は、鎌を指にかけた。怜悧とした刃先が、茎のような指に当たり、刃先を引く。指先には夕刻の稜線が如き線が一本、血を沸かせている。血は淋漓と滴り、玲瓏な手指に一条の赤が流れる。宇佐見蓮子は、躊躇いがちに傷に瞳を見遣った。流れはゆっくりと、幽深な瞑想に佇む禅僧を思わせた。しかし、二、三度瞬きをする間に、稜線は閉じていた。
「私は死なないし、死ねない罰を自ら受けた身で、だから彼等を育てるんです。」
俄には信じがたい言葉に、宇佐見蓮子は口渇を感じた。死ねない――どういうことか――
「私は、」
意志に反して言葉が喉を突いた。
「青い胡蝶を、追って、森に。幻惑の儘に……」
一迅の風が草木を揺らした。女は眉を顰めて、何かを察して、大きく口を開けて呵呵と笑った。
「死に、死に見初められたな! 死に損なったんだ、貴女は!」
ひとり哄笑する女の瞳孔は、宵闇の猫を思わせるほど開かれ、寂寞とした空気を押し寄せる狂濤のように振るわせる。大悟迷却していた瑞顔は狂疾に取り憑かれてもはや恐懼を呼び起こさせる般若が如くとなり果てている。
「死に見初められた者を、私が救ったのか! ……吁、偶然か必然か! 貴女、名は!」
漸くして、宇佐見蓮子は自身の名前を告げた。
「宇佐見、宇佐見と云ったか! 奇縁、因縁であることよ! 私が貴女と出会ったのは、須要であったのやもしれぬ! はて、宇佐見蓮子、私の名を憶えておけ! 私の名は――!」
もはや足に痛みは無かった。宇佐見蓮子は現実に戻っても尚、不死身の女が脳裡をよぎることが幾度も訪れた。
藤原妹紅。自身と彼女の因縁を、蓮子は知らない。
仄かに薄暗く、分枝した隙間から揺れ出てくる光陽はちらちらと舞い散っている。葉の色は濃淡様々に、垣間見える頭頂は光を浴びて煌びやかに、下は影の元に暗く色彩を携えている。稀に、キイキイと鳴く鳥がいた。頭上に繁茂する広葉樹によって腐葉土の重なる地層に届く光は僅かであって、沈鬱に姫著莪が頭を垂れている。湿度で翅虫が其処らで羽音を鳴らしている。
時刻は昼頃であった。女の顔は既に青白く、しかし口は朱で細筆を振るった様に引き締まっている。切れ長な目尻に寒空を思わせる青がかった瞳孔があり、光の揺らめきに合わせて忙しなく動いていた。息は深く肩は大きく上下し、疲労の色を伺わせる。
斜面に鬱勃と立つ樹の硬い外皮に集まる甲虫が大きく翅を広げ、女の目の前を通り過ぎた。醗酵した酸臭に女は筋の通った鼻に皺をやった。羽音が通った後に風が止み、いっそう森閑を強調した。
終ぞ、女は口を開いた。
「この森は――どこへ続いているのか?」
……答えの無い寂寞が宇佐見蓮子に呼応した。
仔細あって放曠は常であったが、入り込んで既に二刻半が経っていた。彼方に見えることもない稜線に、充満した粘度のある空気と、周囲に隈無く佇立する樹木は彼女の方向感覚を狂わせるには充分であった。頭上の葉は紅葉を遮り、陽そのものを覆い隠し、日蝕が如き暗冥が一層彼女に恐懼と焦燥を与えていた。
一歩は漸くであった。腐葉土に沈み込み、纏わり付いた枝葉が彼女の一挙一動を妨碍している。一度踏み入れればまた挙げねばならぬ。堅く口を結んで、分からぬ頭頂へ向かわねばならなかった。
森林は燦然と彼女を迷い込ませた。魔術のたぐいでは無く、その性質が故である。幻想郷ではそれが顕著であった。つまり、幻想郷におけるそれは、人智の付け入る隙のある森林では無く、鬼胎を孕んだ異形の愛奴であった。宇佐見蓮子の思う恐懼と焦燥はここから来ていたと言える。原生林とは大凡そのようなもので、人智の踏み入れない、理性を蹂躙する存在であった。彼女の心底は既にして存在の拒否感を胚胎していた。強く双瞼を閉じると、果たして元の、とは行かなかった。
何故に彼女がここへ迷い込んだのかは、そもそもはっきりしなかった。放浪癖は彼女にとって長病みのようなものであった。金髪の、マエリベリー・ハーンとともにあることもあれば、己自身によって、導かれるように歩き回る癖があった。疲労は放浪の憑きものであったが、鉛のような足であったとして、洞窟で縛られて見る投影より退屈だと思ったことはなく、それも旅先の旅籠で風呂に入れば流れる心地よさがあった。その心地は宇佐見蓮子をして性癖にせしめ、茫洋とすることは床の間に置き忘れていた。
一方で、境界は彼女には分からない。マエリベリー・ハーンが僅かながらに示唆し、彼女に諷諭したことがある。当然のことながら、宇佐見蓮子は自身が今迷い込んでいることを自覚はしていなかった。
須臾の間、足を止め思案した。思い出せば、鮮少な奇縁には覚えがある。青色の胡蝶が舞っていた記憶。それが麓であったか入り込んでからかに自信は無い。胡蝶の翅脈は広葉樹の葉脈がごとくに散らばり、その隙間ゝゝに青と黒の鱗粉を携えていた。陽の抜けるほどに薄い翅であったが、風に吹かれる葉のように儚く翅をはためかせていた。閉じた翅は合掌の如く沈静としていた。
宇佐見蓮子は胡蝶に見とれ、その透いてみえる陽光が瞳孔に映ったとき、心の内に沸き上がる慟哭があった。胡蝶はちらと彼女の方に顔を向けた。伸びた触覚は左右に振れ、口吻は丸く。胡蝶の複眼と彼女の視線が交叉し、そして、気付けば迷い込み、胡蝶は見失っていた。
あの胡蝶を見つけなければ、私がこの森を抜け出すに能わぬだろう――彼女は本能的に感じた。あの胡蝶が何者であるかを考えても詮無きことは理解していた。再び歩み始め、頂を目指した。気付けば木漏れ日は暗く、察するに夕刻を過ぎて暮夜に入っている。ぬめるような空気が宇佐見蓮子の鼻腔から肺腑に張り付いた。唇を結ぶ余裕も無く、空気を求めて力なく口腔を明らかにしていた。
いったい、宇佐見蓮子にあるのは執着であった。胡蝶は幻惑として彼女に捉えられたが、彼女はそれを事実としてその網膜に焼き付けた。彼女の知る言葉に於いて、scientiaは科学と訳されたが、その実は知識の総体であって、知識は彼女にあるその思索と、先人の集大成である。常より超科学的である事実を彼女は認識の一端として認知しており、要するに、超科学的である事実は、彼女にとっては知識のひとつとなる現象であった。であるからこそ、彼女自身は超科学的な現象に対する宿痾のごとく憑き纏う人格を自覚し、真に彼女が生きるためにその事実が事実たるという確証を得る必要性があった。純粋な、ひとつの現象が彼女によって知覚されたとき、彼女は自身の生の悦びを得ることができ、それこそが宇佐見蓮子の本質――自我であった。
執着はやがてdhanmaによって統制される感覚である。しかし、宇佐見蓮子はマエリベリー・ハーンとともに行動するにつれて己の執着――幻視的であり、超越的であるものに対する――が己の中に情熱の如く沸き上がるを感じ、それを止める術を失ってしまった。網膜に一度焼き付いたそれは、焼鏝による刻印の一塊であるように彼女の脳裏に立ち上り、消えることが無くなった。それこそが彼女の求める生であって、極地へと至る拠り所となっているということを。
ひとつの執念に駆られ、宇佐見蓮子は僅かずつに上へ上へと腐葉土を踏みしめた。枝葉の割れる音だけが晦冥な空間に響いていた。稜線は幾分かずつ近付き、月光が縁取っていた。そして、
「ここが、胡蝶の、」
……稜線の先は崖であった。宇佐見蓮子は漸くの一歩で落下した。
「……まだ、痛みますか。」
「いえ、……自らで歩けないのは暇で仕方ありませんね。」
庵は質素であった。六畳の中に床の布団があり、台所すらない。風が吹けば軋み、夜半は蟲が無く。
宇佐見蓮子は滑落した。体が軽くなり、薄氷が割れるように足下を失った。景色がめまぐるしく前後上下に揺さ振られ、天も無く地も無く、気付けば眩暈の元に稜線は遙か頭上に上がっていた。右足からは血が淋漓と流れ、痛みに気を遣る暇も与えられなかった。
眼窩の奥が押されるように痛み、意に反して三度嘔吐した。腹から口腔に胃酸が染みて、あの独特の酸臭が鼻腔に抜けた。掌は枝葉を潰して尚沈み込むように、生肉に這いつくばる心地であった。三度噎せ、気付けば涕泣していた。
「私は――私はここで死ぬのか! あの忌々しい青い胡蝶が私の命を奪うというのか! この、私の命を! 私が、胡蝶に!」
涕泣はいつしか瞋恚と変化して宇佐見蓮子を襲った。掌を強く握ると、爪の間に細かい土が入り込んだ。己の興味に対する忸怩たる思いがこみ上げ、そしてその刹那、伏せた顔面の脇、目の前にあの青い胡蝶が舞い降りた。胡蝶はゆっくりと羽ばたき、そして翅翼を閉じてとまった。触覚は天を指し、口吻は丸いまま。
「この、」
粘ついた口腔を大きく開き、首だけの力で胡蝶に歯を立てた。胡蝶は明らかに体を震わせると、翅をばたつかせた。驟然より逃げる如の胡蝶の翅に食らいつき、構わず翅脈を引きちぎった。翅を失った胡蝶は足を動かし、草葉の上を蹌踉と進もうとした。しかし、それを逃がす宇佐見蓮子ではなく、二度目、大きく口を開けると腐葉土ごと胡蝶を取り入れた。取り憑かれたように咀嚼し、苦々しい青い液体と甘酸とした土気が混ざった。口内には唾液が満ち、混ざり合い、喉元に力を入れると、それを嚥下した。塊が、喉を流れ、
それから、記憶が途切れ、……
気付けば、宇佐見蓮子は床で横になっていた。枕頭には長い白髪の女が座していた。肌白く、目は切れ長で赫々とした銅板を思わせる瞳をしていた。面持ちは硬く、しかしその印象から多血質の気性を思わせた。最も彼女を際立たせたのは、寂れた庵における清廉さであった。見るに佇まいは俄に古風で、宇佐見蓮子にとっての時勢と齟齬があった。
女は宇佐見蓮子が目を覚ましたのを見ると仔細に小首を傾げて、莞爾と笑みを浮かべた。
「足、痛みますか。」
宇佐見蓮子は声を出すに能わず、察した女がゆっくりと彼女の背を押し、上半身を起こした。手元の腕を渡し、飲むよう示した。
「まあ、二日寝てればねェ。私が見つけた時にはもう血ィ固まってたもんだから、問題は無いかと思いましたけど。折れちゃいないみたいだけれど、少ォし深いかもなァ。」
女は独り言ちるように、砕けた口調で言った。彼女が幾許の傷を見てきたか分からないが、底知れぬ憂心が宇佐見蓮子にはあった。腕の水を飲み干すと、口が滑らかとなった。
「ありがとうございます、命を助けていただいたようで。」
女は口角を上げて、朱色の三日月ができた。
「いや、礼には。偶の散歩で見つけたことです。こんな所に迷い込む人間はそうそういませんからね……それで、貴女は何故ここに?」
臆面も無く尋ねられたことに宇佐見蓮子はやや拍子抜けをした。しかし、胡蝶を追って崖から落ちたなどということは、彼女の年齢をして発することのできない言葉であった。彼女は打黙り、腕の底に目をやった。曲面は歪みなく、白磁は光を丸く反射していた。
「言いたくないこともありましょうよ、治るまで静かにしておりなさい。」
女は立ち上がると、そのまま外へ出て行った。後には寂寞と腕だけが残された。時は昼頃であろうか。ひとつ空いた窓から日が差し込んでる。枕頭の容器から腕に水を注ぎ、水面に陽が揺れる。映った自身の顔には陰雲が翳っている。
「二日、眠っていたのか……」
自身に起こったことを反芻せんとしたとき、脳裡に疼痛が響いた。畢竟無聊による気の緩みは右足の痛みで揺り動かされた。腕を落とし、鈍く畳と響き、水が染みた。複視と眩暈によって彼女は布団に倒れ込んだ。額に脂汗がうかび、全身が拘縮した。朦朧と立ち退いていく意識の中で、白髪の女が駆け寄ってくるのを見た。
胡蝶が目の前を舞っていた。青い胡蝶は舞う桜の花弁の間を縫って羽ばたいている。翅脈ははっきり、鱗粉は青く。宇佐見蓮子は、朧気ながらこれが夢だと認めた。胡蝶は花弁に隠れ途切れ途切れに姿を見せた。翅脈は玲瓏と輝いて、錯覚のように光を飛び散らせた。
卒然、胡蝶は燃え上がった。赫灼燦然と、桜の花弁ひとつひとつに燃え移り、落ちていった。胡蝶は喘ぎ悶え、激しく翅を動かすも逃れられず、華奢な胴まで炎は移り、地に伏せ動かなくなった。地では燃えたすべてが煌々と彩られていた。彼女には何をすることもできなかった。
次に宇佐見蓮子が目を覚ましたのは夕刻であった。女はひとり粥を啜っていた。彼女は目覚めた宇佐見蓮子を見ると、解顔して粥もそのままに枕頭に近づいた。
「随分うなされてましたけど、大丈夫ですか。」
「ええ、幾許か……」
女は眉を下げた。腕に水を注ぎ、宇佐見蓮子に渡した。口渇に染み渡った。
「どうですか、少し夜風でも当たりますか。まあ、足に響くかも知れませんが、倦んでいるよりはましでしょう。」
布団をどけて右足を見ると、僅かに漿液の滲んだ布が巻いてあった。痛みは和らいでいた。女は宇佐見蓮子に肩を貸した。体は意外にも軽く浮いた。左足に体重をかけて、女の肩にしがみついた。女に半身を与けるようにして庵を出た。女の白髪は柳のように軽く、するりと腕に絡みついた。
庵の周りには畑があり、後は身の丈の半分ほどに駆られた原であった。向こうに山が見える。稜線は夕日に縁取られ、藍に染まる空に儼乎と浮かんでいた。自身に艱難を押しやり醜穢とも思えたそれは、今は自然に押しやられていた。女はそれを指さし、
「ええ、貴女が落ちたのはあの山でしてね、向こうは人里だが登るのに時間がかかる。まあ、私はこうして人里を離れていましてね。」
時折キイキイと鳴く鳥がおり、風に草が揺れた。等間隔で植えられた作物と、丁寧に掘られた畝が慎ましく、ざわめく草木の喧噪の中に映えていた。
細風によって揺れる桜菫や姫射干、沈丁花が慎まやかな佇まいで顔を出し、幾重にも重なる芳香は、土気の香りと相まって鼻腔を悦ばせた。
「なるほど、ここは良い場所ですね。」
女は雪肌にも劣らぬ白い歯を見せて笑った。どこか恬然として、瑞歯含む風情があった。陽は既に落ち、山々の稜線は天と混じり合い、花弁の色は濃淡様々に相俟って尚香りを残していたが、女は庵に戻ることを勧めた。
庵で腰を下ろすと、女は食べさしの粥とは別に粥を注いだ。水気が多く、味は塩のみであったが、口から腹に降りていく感覚があった。
腹に物を入れると、聊か余裕が出てきた。右足はまだ無聊に動く気配が無かったが、脳裡は充分に目覚めていた。
「ここに住んで、長いのですか。」
女はその質問に笑みで応えた。笑みには自嘲と悔恨が含まれているように見えた。つまり、目は細く、口角は余り上がらず、喉が震えていた。宇佐見蓮子はこの問いが彼女に何を意味しているのか考えは及ばなかった。換言すれば、彼女は一種の尼僧のような、諦観と大悟に似た雰囲気を感じ取っていた。人里から遠く離れ、飾り気の無い庵を結ぶと言うことは、克己せらるる何かによる信念であるとしか思えない。それを尋ねる言葉を、宇佐見蓮子は飲み込んだ。女の表情が一歩を躊躇わせる、胸中にわだかまりを生ませていた。如何に晦渋な言論を以てしても、彼女の赫色の瞳は言葉を驟然によって打ち遣るだけの力があった。この疑問は宇佐見蓮子の心に煙雨として残った。
夜半、宇佐見蓮子は床に着くと微睡みながら、また胡蝶の幻惑を見た。
日は無聊の内に過ぎた。幻惑は日に日に薄くなり、右足に染み出る漿液も薄く、少なくなってきた。終日を床で過ごすか、女の手を借りて草花を見るに過ごすほかに無かった。
「このまま行けば、あと五日か七日で戻るでしょう。それまではゆっくりすると良い。」
生来より忙しなく動いてきた彼女にとって、十日の倦怠は寧ろ新しい目覚めであった。とは言うものの、庵には見るべき物も無く、草花は時々刻々として生まれ生え替わるものではなく、隙無く茂る草本を見るにも倦んでいた。すると必然、彼女の興味は女の方へと向いた。
それが生得的な性格であったか、接したが故に生まれた興味であったかは彼女にとって気にすることでは無かった。恩人を詮索するに気は引けたが、明かすには充分な暇があった。
女はたいてい庵で黙っているか、畑に出ている。宇佐見蓮子と過ごしている五日のうち、一日だけ夜半に出て行き、帰ってこなかったことがある。出る気配で目が覚め、意識が蘇った朝方に戻ってきた。そのとき、女の雪肌のそこらに薄らと傷が認められたが、朝餉の時には痕すら無くなっていた。
六日目、右足は概そ恢復し、僅かに軋むような痛みがあるだけであった。独りである程度までは徒歩で移動することができた。朝方、畑に出た女を追って庵より出た。為すことは無かったが、茫洋と女の畑作業を見ていた。
「植物は、」
女が雑草を抜きながら云った。
「すごいもので、斯うやって幾ら抜いてもどこからか沸いてくる。そして、実を付ける。花も、野菜も、次の子を残す、」
「それは、種子で、」
宇佐見蓮子は言いかけて、止めた。
「子を残して、自分は果てる。死ぬことは、彼等にとって死では無くて、寧ろ、生きることなんだと、私は彼等を育てています。」
女は、鎌を指にかけた。怜悧とした刃先が、茎のような指に当たり、刃先を引く。指先には夕刻の稜線が如き線が一本、血を沸かせている。血は淋漓と滴り、玲瓏な手指に一条の赤が流れる。宇佐見蓮子は、躊躇いがちに傷に瞳を見遣った。流れはゆっくりと、幽深な瞑想に佇む禅僧を思わせた。しかし、二、三度瞬きをする間に、稜線は閉じていた。
「私は死なないし、死ねない罰を自ら受けた身で、だから彼等を育てるんです。」
俄には信じがたい言葉に、宇佐見蓮子は口渇を感じた。死ねない――どういうことか――
「私は、」
意志に反して言葉が喉を突いた。
「青い胡蝶を、追って、森に。幻惑の儘に……」
一迅の風が草木を揺らした。女は眉を顰めて、何かを察して、大きく口を開けて呵呵と笑った。
「死に、死に見初められたな! 死に損なったんだ、貴女は!」
ひとり哄笑する女の瞳孔は、宵闇の猫を思わせるほど開かれ、寂寞とした空気を押し寄せる狂濤のように振るわせる。大悟迷却していた瑞顔は狂疾に取り憑かれてもはや恐懼を呼び起こさせる般若が如くとなり果てている。
「死に見初められた者を、私が救ったのか! ……吁、偶然か必然か! 貴女、名は!」
漸くして、宇佐見蓮子は自身の名前を告げた。
「宇佐見、宇佐見と云ったか! 奇縁、因縁であることよ! 私が貴女と出会ったのは、須要であったのやもしれぬ! はて、宇佐見蓮子、私の名を憶えておけ! 私の名は――!」
もはや足に痛みは無かった。宇佐見蓮子は現実に戻っても尚、不死身の女が脳裡をよぎることが幾度も訪れた。
藤原妹紅。自身と彼女の因縁を、蓮子は知らない。
実に面白かったです、次も楽しみにします