プロローグ
私は紅魔館の地下へと向かう階段が苦手だった。
その階段は魔導ランプの仄かな明かりが並び、足元の段を照らしている。人が一人通れる程度の幅で、時折風が下へと流れていく。歩くものを地下へと引きずり込んでいくような薄気味悪さが常に漂っていた。
そして、その先には一つの部屋がある。そこに住まわれるお方はあまり外に出られず、メイド長を務める私でさえも、これまで接してきた時間は多くなかった。
名を、フランドール・スカーレット。
敬愛する主、レミリア・スカーレット様の妹君。ありとあらゆるを破壊する程度の能力を持つお方。
そう。
私、十六夜咲夜という人間は、フランドール・スカーレット様というお方が未だに苦手であったのだ。
呼び出しの連絡があったのは夕方のこと。
私の魔法通信機(手の平サイズで水色のガラス板。グリフォンと河童が呼んでいた。個人的にその呼び方は可愛くて気に入っている)に、フランドール様からメッセージが届いた。
『咲夜へ:これから私の部屋に来てほしいの。少し長いから、時間に余裕を作ってきてね』
主の、そしてその妹君の命令とあれば、当然私にとって最優先事項となる。
しかし時間がかかるとなれば、お嬢様が起きられてからの仕事には手がつけられなくなってしまう。お嬢様と妹様、どちらを優先するべきか。きっちり五分悩んで、私は妹様に了承のメッセージを送り、メイド長の代行を美鈴に頼むことにした。
私が体調不良で動けない日なども彼女が代行するので、これは当然の流れだった。通信機で事情を説明すると、彼女の驚いた声が返ってきた。
《妹様から呼び出しですかー。しかも長くなるとは、なんでしょうね》
「分からないわ。もう承っちゃったから、詳しく聞くわけにもいかないし」
《ふぅむ……》
「何か粗相を働いてしまったのかしら。昨日の晩御飯のおかずが嫌いな物だったとか」
《そんな子供染みた、いやまぁ子供ですが……とにかく業務代行の件、了解しました。怒っているわけではないと思うので、何かの遊びでしょう》
「うん。じゃ、お嬢様の事よろしくね」
美鈴は楽観的な言葉を送っていたが、どうも私には響かない。
粗相と思い当たる節――もしかして妹様への苦手意識がバレてしまい追及されてしまうのかと思うと、私の心は不安にざわめいた。
そういう事もあって、妹様の部屋へ向かう私はいつもより緊張していた。
階段を降りきると少し開けた場所に出る。そこには金属製の蝶番扉が一つあり、言わずもがなそれがフランドール様の部屋の扉だった。
ここへ来るためには、私のように直通階段を使うか、地下迷宮を辿ってくる他ない。そして妖精メイドが来ることは滅多にないので、あまり手入れがされている場所ではなかった。
鼓動が少し早まる。何度ここを訪れようと、慣れるような気はしない。
意を決して停止世界から戻ると、今まで感じなかった地下特有の涼しさ、湿り気、水と土と苔の臭い、水滴の音、そして不穏な気配が私を包み込んだ。
まるで命を狙われているような、そんな漠然とした苦しさを滲ませる。この苦しさが苦手だ。どうも人間という立場上、危険を意識してしまう。
しかし立ち止まっていても仕方がない。私は扉へと近づき、静かに三回ノッカーを鳴らした。
「どうぞー」
妹様の聞き慣れた可愛らしいお声に、少しだけ安堵する。私はしっかりと返事を聞いたのちに入室した。
明るい光が飛び込んでくる。室内は大きな卵型で、フランドール様の創り出した大きな魔導光球が、天井付近でまるで太陽のごとく部屋の全てを照らしていた。壁や天井には色とりどりの旗や絵画、鏡、紙資料の散らばる研究机や書棚、実験用具など様々な物が雑多に置かれている。家具の形式も和風、洋風、東洋風等々と統一性はない。
まるで一部屋に圧縮された万国博覧会のようだ。可愛らしさや妖しさが綯い交ぜとなった、混沌とした空間。
そんな部屋の中央に、豪華な貴金属装飾の施された天蓋付きのベッドがあり、フランドール様はそこでネグリジェ姿で寝転がっていた。うっすらと黒い下着が見えていて、起伏の無い肢体だというのにどこか艶めかしかった。
彼女のルビーの瞳と、目が合ってしまう。
私はこの目も苦手だった。直接命を見詰められているような圧迫感を勝手に覚えてしまう。命の危険を感じてしまう。私は少しばかり身を強張らせたが、しかし静かに、悟られる前に頭を下げることができた。
「失礼します。妹様、十六夜咲夜、ただいま参上しました」
「ごめんねーいきなり呼びだしちゃって、上は平気?」
「はい。業務は美鈴に任せております」
「なら大丈夫だね。じゃ、早速だけどそこに座って」
手で示されたのは白い椅子と小さなテーブル。その上にはゴールドラインの施された白のティーセットが銀色のトレイに乗っていた。なるほど、ティータイムですか。
「畏まりました」
私は早速停止世界へ入り、置かれたティーセットを持ち上げた。
しかしそれはすでに重かった。中には湯気の立つ紅茶が入っている。驚いた私はそれをトレイに戻し、通常世界に帰還する。
「びっくりしました。ご自分でお入れになられていたんですね」
「あはは、ごめん、分かりにくかったね。とりあえず座ってよ」
促されるまま、私は着席する。今の失敗は恥ずかしかった。まだ少し緊張している。
「今日咲夜を呼んだのは、別にお茶を入れてほしかったからってわけじゃないんだ」
「そうだったのですか」
「うん。あのね、本を読んで欲しいの」
妹様が指を動かした。するとベッドのサイドテーブルに置かれていた一冊の本が、ふわりと私の膝元に飛んでくる。それは分厚く、装丁は暗い色の、なめした動物の皮だろうか、金具もついていて、ずしりと重い。
「これは……図書館から?」
「中身はなんて事のない物語だよ」
私は表紙を見る。タイトルが英語の筆記体、しかも金で印字されていた。
〝終わりを叫ぶ竜〟
聞いたことのないものだった。それに著者も書いていない。それらに少し不気味さを覚える。しかしなるほど、これを読むとなれば確かに時間は掛かる。美鈴に業務を頼んでおいて本当によかった。
「分かりました。私で良ければ、朗読させていただきます」
私はお叱りを受けないことに安堵していた。ゆっくりと本を開く。本文も筆記体で綴られており、その字体のあまりの綺麗さに、私は思わず見惚れてしまった――いや多分、魅入ってしまったのだろう。
最初はページの中央に一文だけ記されている。私はそれを目でなぞり、口にする。
「〝私は望んだ。王女に捧げる、苦しみの終わりを。〟……?」
――――。
―――。
……。
1
時刻を告げる、どこか懐かしい音色の鐘が遠くで響いていた。
それから「咲夜」と優しげに誰かから呼びかけられた。その鐘の音と呼びかけはまるで清水のように私の耳から頭へと染みこんでいく。
そして、私の意識がゆっくりと暗闇から引き上げられていった。
「……ん?」
頬に硬い感触を覚え、いまだに重たい瞼を開くと、古ぼけた色のレンガ壁が目に入った。
どうやら私はベンチで横になっていたらしい。背凭れで羽を休めていた二匹の紅と白の小鳥が、よく晴れた青空へと飛び立った。羽撃きにつられてその後ろ姿をぼんやり眺めていると、少しずつ意識がはっきりしてくる。
「やだ、いつの間に寝てたのかしら」
知らずの内に疲れが溜まっていたのかもしれない。
すぐさま身体を起こしてベンチから立ち上がり、時間を確認しようといつもの癖で懐中時計を探した。
けれどそれを身に付けていないことに気づき、私は思わず「えっ」と声を上げる。
それから慌てて辺りを見回して、目覚めた場所が私の職場である紅魔館で無いことに気付いた。
〝蔦や葉の茂る、色褪せた石煉瓦の壁面や胸壁で四方が囲われている。視線を上げれば時計塔とガラス張りのドーム、それらよりもさらに高いタワーキープ(主塔)が見える。中庭は見事な庭園となっているようで、噴水を中心に色とりどりの花や植物たちが植えられている。古びた外壁と立派な建造物、その庭の植物たちの真新しさは奇妙なコントラストを感じさせた。ここは、中庭を一望できるテラスだった。〟
見慣れない光景に混乱する。紅魔館や、幻想郷とも思えない、まるで西洋の城。こんな場所は知らない。
「ここは、一体……」
確か、妹様のお部屋に行って、本を読もうとしていたはずだ。開いて、最初の一節を読んだのだ。そこまでは覚えている。目を瞑って、頬をつねる。
「いひゃい」
夢じゃないのだろうか。目を開いても、あの不思議な古城の壁がまた視界に映る。まるで醒めない夢だ。一気に身体が重くなる。
こうなった原因は? やっぱりあの本なのかしら?
不思議な本だった。手に取るだけで感じる、異質な感覚があった。
そして冒頭の一節、あれを見た時、私の心に何かがあったことは確かだ。あれは、一体何だったのだろうか。
「とにかく、このままじゃ埒が明かないわね」
ベンチから立ち上がり、軽く服を払う。
とりあえず時計塔で時刻を確認する。一〇時を過ぎたところだった。
まずはこの古城がどんな物なのかを把握しよう。「よし」と軽く意気込んで、飛ぶために全身の魔力を動かし始める。
「ん?」
そこで、今度は身体の異変にも気付いた。
飛べないのだ。
というよりまず、魔力を体内で流動させる感覚が、無くなっていた。軽くジャンプしてみるも、今まで当たり前のようにあった飛べるような感覚は、全く得られない。
まさかと思い、私は縋る思いで時を止めようとしてみた。
しかし停止世界に入ることが出来ない。どうやら、時も止められなくなっているらしい。魔力がないのだから当然だったが、そんな事も分からないほど動揺してしまっていた。
「そ、そんな……!」
信じられない。能力を失ったと確信した時、途轍もない恐怖が私の心に押し寄せてきた。冷や汗が一気に吹き出して、膝から力が抜ける。よろめきつつもベンチの背凭れに手をついて抵抗するが、結局、再びベンチに座り込む羽目になってしまった。
攻撃? 封印? それとも別の能力者が?
根拠のない発想が浮かんでは消えていく。その速度は脈拍にも呼応していた。鼓動が大きく聞こえ、手先も震え出した。
このままではまずい。
すぐさま手の甲に唇を押し当てて、じっと目を瞑る。そうして唇の先で、手の暖かさを感じ取るようにした。深呼吸しながら、それに集中する。しばらくして、何とか鼓動が落ち着き始めた。いくらか静まった所で、私は手の甲を額に当てる。
「危ない危ない。久しぶりに焦ったわ」
思わず独りごちてしまう。自身を改めて人間なのだと認識する。
こうして能力を取り上げられてしまうだけで、あっという間に冷静さを欠く。いつもなら時を止めてやり過ごしていただけに、今の状態はかなり恥ずかしかった。
「とりあえず動かなきゃ。どうしようもないわね、もう」
膝に力を入れて立ち上がる。もう平気だ、いつも通りに振る舞える。
まず目指すなら、城の構造を把握するためにも全てが一望できる場所がいい。ならば行くべき場所は一つだ。
そびえ立つ高い主塔を見上げて、私は歩き出した。
テラスからそのまま城内二階の廊下を進み、主塔内部の階段から上を目指すことが出来た。
道すがら城内を見たところ、内部は宮殿のように豪華な造りになっているようだった。単なる防衛城砦というわけではないらしい。
主塔も豪華な居住区になっているようで、恐らく城主の生活スペースなのだろう。五階から先の階段は外に敷設されており、それを昇りながら、私は城の全景を見渡すことができた。
城壁は遠目からでもかなり厚そうに見えた。側防塔や小塔などをいくつか要し、防衛機能がおざなりと言うわけでもないらしい。城門は塔と家屋の組み合わさったような建造物に挟まれている。あの辺りに守衛用の詰め所があるかもしれない。
あとはテラスから見えた通り、時計塔とそれに付随する居館にガラスドームの施設、中庭とこの主塔が主な施設のようだ。
堅牢そうな防壁、飾り立てた内装。城砦と城館を合わせたような場所。
率直に言って変な場所だと思った。
居心地の良いような、悪いような、波のある気分にさせる空間だった。
「まさか外の世界……な訳ないわよね」
主塔側面の高さは城壁より高く、壁の向こう側には穏やかな雲海が見えた。陸は一切見えない、どこまでも続く純白と蒼穹の地平線だ。
天界かとも思ったが、恐らく違うだろう。
それらしき浮島は見えなかったし、何より城内にいる者たちが天人のような姿をしてはいなかったから。
無人かと思えたこの城にも、ある程度の住民がいて驚いた。
いや住民と言っていいのかは、少し微妙なのだけど。
「でもどこかで見たような気がする……なんだったかしら」
それらは皆、丸い光球に薄っすらとした四枚の羽がついた謎の生物で、そんな物は見たことはないはずだが、どこか記憶に引っ掛かっている。
その謎の生物に私が声を掛けると、ふんわり近づいてきて周りを飛び回ったり肩の上に止まって休んだりとしたが、結局そのまま何処かへと消えてしまった。
どうやらあれらは声を出せないらしかった。代わりにひんひんと風を切る甲高い音が特徴的だ。可愛らしい生き物だが、どこか覚えのある物体。一体どこで見たのだろうか。
やがて顔を上げると、もう少しで最上階に辿り着けそうだった。
いつもなら飛んでいける距離でも、いざこうして足を使うと、それなりに疲れてしまう。そして疲れれば時を止めて休み、完全なる瀟洒さを保っていただけに、現行世界内で息が上がっていることが無性に恥ずかしく思えた。
全く能力がないというのは不便で仕方がない。
私は本、ひいては現状を引き起こした犯人について考える。
「やっぱり妹様、なのかしら……」
疑うのは正直言って心苦しい。けれど他の犯人候補も浮かばない。もしもフランドール様が犯人なら、何故こんな事を? 全く分からなかった。しかし理由次第では、ちょっとお小言を言わなくてはならない。
階段は踊り場で曲がって塔の中、そして最上階へと続いているのだろう。
私は一度、踊り場で城を見下ろした。この城自体がかなりの高さにあるのだとは思うが、風も小さく、寒さもない。気圧差を全く感じられないのが不思議で、また首を傾げてしまう。
現実世界ではないだろう。何か別の、魔術的な力が働いている異界だろうか。
幻影結界……夢とか?
分からない。分かるわけがない。私は魔法使いでもなければ妖怪学者でも無い。ただの人間小娘なのだ。そんな私をどうするというのか。
ここまで登るのに中々時間を要した。時計塔の針は一〇時半を指している。
深呼吸し、私は踵を返して最後の階段を登り展望階へと踏み込んだ。
〝階段を抜けた先に突然夜空が広がった。ドーム型の天井が黒く塗られ、宙に浮かぶ宝石たちが星々のように輝いていたのだ。中央では淡く光る一際大きな七色の宝玉たちが浮遊し、ゆっくりと同心円を描いている。それは、まるで宇宙だった。その天井は多くの太い石柱で支えられ、そして倣うように、部屋の中心には柱の環状列石があった。〟
城というよりも神殿のような場所だった。
通常こういった主塔の最上階の多くは見張り用であり、遠くからの襲撃などに備える場所だ。最終的には住民の避難場所として使われたりもする。後世のキープならば王族の居室としての機能もあるかもしれないが、しかしこういった神殿のような内装も珍しいだろう。
でも、そんなことはどうでもいい。
問題はその中央に置かれた物体にあった。環状に並べられた石柱の中。私は言葉を失い、ただそれに歩み寄る。
〝それは巨大な水晶であった。アメジストのように深い紫で、淡く発光し、一般的な人間の背よりも二、三倍はあるような、巨大なクリスタルだ。価値にして如何程だろう。そんな物が、環状列石の神殿の中央に座している。周りの石柱と合わせると、それらはまるで王冠のように見えた。まるで世界の中心だと言わんばかりに、それは厳かに鎮座していた。〟
そこには薔薇と荊に包まれた一人の少女が眠っていた。月光のような青みがかる水銀の髪と、赤い血色のネイル。両手を合わせて祈るように眠る、幼さのある顔は、見間違うはずもない。
レミリア・スカーレット。
使えるべき主君が、そこで眠っていたのだ。
「お嬢様……?」
クリスタルに触れる。何故ここに居られるのか?
問いたい。話したい気持ちがあった。けれど彼女が目覚めることはなく、クリスタルは依然として固く隔てる壁となり続けた。
「どういうこと? なんで、お嬢様が……?」
頭の中はますます混乱していく。誰でもいいから答えを教えて欲しいくらいだった。もう完全に許容限界である。
一歩後ろに退いたところで、しかし聞いたことのない謎の音を耳にして、足が止まった。
それは鳥の羽撃きのようにも思えた。ばさ、ばさっと、けれど聞こえた音はさらに重量感があり、またある程度間隔の広い音でもあった。次いで、がりりっと何かを引っかく耳障りな音と、何か途轍もなく重い物が着地する振動を感じ、びくりと身が強張った。
――ウゥゥ……
低く、まるで地鳴りのような唸り声が発せられる。
また冷や汗が湧き出てくる。濃厚な生と死の気配が、後ろから息の詰まるくらいに感じとれた。恐怖が生まれるが、震える手でゆっくりと太腿のナイフに指を掛けながら、私は意を決して振り返った。
〝その存在は破滅でしかなかった。黄金の巨大な外殻は見る者を眩ませこそすれど、それを持つ怪物に手が出せないのは一目で分かる。それでもなお手を出せば死を齎すであろう。栄光と富、そして破滅を内包している。黄金に輝く鎧の向こうで血に染まり光るルビーの瞳が二つ、ちっぽけな人間を睨み据え、禍々しい牙を口から覗かせた。人間など比べるべくもないほどの巨躯に、見合うだけの大翼を持った、それは怪物の王。〟
「ド、ドラゴン……」
〝終わりを叫ぶ竜〟。あの本のタイトルが脳裏を過ぎった。こんな存在は幻想郷でも見たことがない。
姿は東洋で聞くあの蛇のようなものではない。正しく西洋に現れる怪物のそれだ。
そして、それは叫んだ。
全てを薙ぎ払う音が周囲を否応なく震動させる。耳を塞いで目を閉じても、その叫びの壮絶さを肌で感じ取れてしまう。
咆哮が止まり、閉じた竜の口端から、火粉が溢れた。
まずい。このままではまずい。
そう思ったのに足が動かなかった。まるで串刺しにされているかのように、足の裏が地面に縫い付けられ、何もしていないのに震えていた。恐怖で足が竦むという物がどういう感覚なのかを久しぶりに思い出す。
そして光が私の視界を埋め尽くし、目を瞑っても、むせ返るような熱風が外も内もを焼き、包み込まれてしまう。激痛も一瞬、叫び声も出ない。
私は死んだ。
2
また、鐘の音が遠くで響いている。
それから優しげに「咲夜」と声を掛けられた。声音はどこか懐かしい。
私は瞼をゆっくりと開く。
「あ、起きた」
どうやら私は今、机に突っ伏して寝ていたらしい。顔を上げ、指で頬を掻く。木目の痕がこびりついていた。
まだ意識がはっきりとはしないが、寝ぼけ眼を前へ向けると、フードとのっぺりとした白地に目の部分だけが黒くペイントされた仮面を付ける、そんな人物が私の向かいに座っていた。
「……あれ? えっと」
誰だこの人。
あまりに衝撃過ぎて、眠気が一気に醒めた。
「大変だったねぇ咲夜。色々あってびっくりしたんじゃない?」
その声は通常とは違うような音質で、二重に響く不思議な物だった。けれど私の名前の呼び方が、先ほどの頭の中で響いた声とよく似ていてさらに混乱した。
「あの子のお遊びは毎度のことだけど、今回ばかりはかなり手が混んでいるよねぇ。苦労するよ、咲夜」
しゃべり方に物凄い既視感を覚える。気怠げな、けれどどこか柔らかさのある、恐らく少女だろうと思える喋り方だ。
思わず胸がかっと熱くなった気がした。それでもなんとか平静さを保ち、私は問う。
「お、お嬢様なのですか……?」
「んー? あれ、なんだ咲夜にはそう聞こえるの? ごめんね、残念だけどアイツじゃないのよ、私は」
否定され、私は「そうですか……」と肩を落とした。
確かに、よく聞けば声に抑揚がなさすぎた。お嬢様であればそんなしゃべり方はしない。もっと力を込めるか、抜くか。どちらかだ。
けれど感じた懐かしさは本物だったので、余計に疑問が増えた。
「それより咲夜、どう? この世界は」
彼女にそう問われ、私はやっと、自分が黄金のドラゴンに殺されたことを思い出した。
確かに殺されたはずだ。
痛みと熱さを、今でも鮮明に覚えている。そして対峙した時の恐怖も。
だのに今、私はこうして椅子に座っていた。これはどういうことなのか?
少女が口にする「この世界」の意味、そしてそれを聞く理由。考えていると突然、彼女の正体についての心当たりが浮上してきた。それを、私は勢いで口に出してしまう。
「もしかして、貴女は妹様ですか?」
「質問に質問で返すとは。完璧で瀟洒なメイドの名が泣くよ?」
「す、すみません。思わず……」
叱られて萎縮するが、しかしそうとしか考えられなかった。
もしもこの世界を作ったのが妹様であるなら、感想を求めるのは当然だ。
それに喋り方にお嬢様の気配を感じたのも、姉妹であるなら分かる。そこから導き出した解答であったが、少女は首を振ってそれを否定する。
「残念だけど違うよ。あの子はあっち」
少女の指が、天井を示した。指に釣られて見上げるが、特に変わったものはない。
「あの黄金の竜だよ」
「はぁ……えぇ?」
思わず素っ頓狂な声音で返してしまった。
「あの子は竜になって咲夜を待ってるの。これはそういうゲームだから」
ゲームと言われても、一向に疑問は解消しない。
一体ここはどこで、私は何故ここに呼ばれたのか。これからどうすればいいのか。様々な疑問に派生し、それらが頭の中をぐるぐると飛び回った。
「気になるみたいだね、色々。質問があるなら受付中だよ」
ありがたい。私は逸る気持ちを抑えて、まず居住まいを正した。瀟洒なメイドたる者、常に優雅さを忘れることなかれ。
そうして、疑問点を挙げ始める。
「まず、この世界はどこなのでしょうか?」
周囲を見渡して見る。明るい色調で整えられた部屋は長いテーブルが並べられている。近くに銀色のシンクや食器棚も見えるので、恐らく従者のための食堂だろう。
もちろん紅魔館の食堂ではない。
「異界……かな。貴女の魂をあのグリモアに紐付けして、貴女に錯覚――いえ夢を見せているの。あの前書きの一節が、魔法のオープンキーだった」
〝私は望んだ。王女に捧げる、苦しみの終わりを。〟
あの一文には魅入ってしまうような気配を感じたが、そういうことでしたか。
「やはり妹様がこの世界を……でも、これはどういうゲームなのでしょう? 能力や魔力も失なってしまって、正直途方に暮れています」
フードの少女は机に置いてあったティーセットを使い、手慣れた動きで紅茶をカップに注いだ。湯気の立つ紅茶が、静かにカップを満たしていく。
注ぎ終わったそれが、私へと差し出された。
「簡単に言うなら迷路だね。しかも、スタートからゴールまでの道筋がいくつもある迷路」
「つまり、この世界から脱出するのがクリア条件と?」
「それも正解の一つだよ、とだけ言っておこう」
正解の一つ、と。それを頭に留めつつ、カップを手に取った。
まだまだ熱くて、飲めそうにない。香りを嗅ぎ、もう一度置く。
「このゲームには制限時間がある。その時間まで、咲夜は何をしてもいい」
「何をしても良い?」
「うん。この城にはいろんなイベントが置かれているから、それを見たりして楽しんで。あの子にもう一度挑んだり、普段通り生活してみたり、タイムリミットまで寝たっていい。全部ゴールなの」
「これまたなんとも、自由なゲームですね……」
つまり妹様は、私がどんな風に過ごすかを見て、その反応を楽しむということだろう。私が困っている姿も見られていたのかもしれない。
うーん、悔しい。
仕えている主人ではある。だが、こうして挑まれれば負けたくないという気持ちは生まれる。
特に「攻め方をこちらに委ねられているような」こういうゲームでは、鼻を明かしてやりたいというのは誰もが思うことだろう。
「どうせだったら、色々見て回ってほしいな。私も作成には協力したし」
そうなのか。やはり知り合いなのかもしれない。それにさっき、私のことを完璧で瀟洒なメイドって呼んでたし。
一瞬パチュリー様の顔が浮かんだが、やはり口調が違うのでその線はない。
なら後は。
「まさか……」
「それは秘密。まぁとりあえず食事でもして、元気をつけなよ。この食堂の机に座ってイメージすれば、食事は出せるから」
「はぁ、食事ですか」
言われてみれば、何となくお腹が空いている気がした。
お昼やおやつは現実世界で食べたが、ここ一時間ほどで色々なことが起こりすぎ、疲れていた。気分転換に食事を摂るというのは悪くない話だと思う。
「じゃあ、イタリアンで」
「え。あ、うん。そのチョイスは予想外」
私は目を瞑って、焼きたてのナポリピザとバジルオイルの効いたカプレーゼ、そして白ワインの入ったグラスを夢想する。するとたちまちそれらの香りが鼻孔をくすぐり、目を開けばそれが私の前に寸分の違いもなく置かれていた。
くぅ、と小さくお腹が鳴く。
いやほんと、魔法って凄いわね。
夢の世界だというのに、しっかりと満腹感があった。
食事を堪能し終えると、フードの少女が話を締めくくった。
「もう一度あの子に会いに行くなら、先に他の場所を回ってみたほうがいいよ。何かの糸口が見つかるかもしれないから」
そんなヒントを残して、彼女は光の粒子となって虚空に消えてしまった。
一人になったので、ひとまず言われた通りに城内の散策を始める。お酒を入れたことで、いくらか不安や疲れもなくなり、気分や足取りが軽くなっていた。
そんな私がまず訪れたのは、先ほどテラスから見えていた中庭である。
〝その庭には四季折々の植物が咲き乱れていた。正しく千紫万紅とはこのことであろう。その色合いもさることながら、全体のバランスが驚くほど整っていることに気付くのに、刹那の時間もいらなかった。そしてこれだけ極彩に染まっている風景だというのに、少しも目が疲れない。見る者の心を楽しませ、活力を与えてくれるほどの完成された庭が、そこには創造されていたのだ。〟
その庭にあったのは花だけではない。中央にある、見事な彫刻を施された大理石の噴水から溢れる水が地面に掘られた水路を流れ、そのせせらぎを静かに響かせる。
廊下でも見かけたあの光の生物たちも、庭をふわふわと行き交っていた。鈴を転がすような高く優しい音。そして光の粒がその軌跡を描いている。
色、音、そして空気。全てが居る者の心を和やかにさせる庭。
幻想的でまるで現実感のない、けれども居心地の良い場所。
それらを目にして思わず、感嘆の溜息を吐いた。
「幻想の庭、ね……」
のんびりとベンチに座ってその庭を眺めていると、誰かが庭に入ってくるのを視界の端に捉えた。
すぐに警戒して注視する。けれどその侵入者は、まるで見たこともない異形の存在で、私は驚いてしまった。
〝彼女の身体は全て花と蔓で構築されていた。何故彼女と表現したのか? それは、彼女を構成する植物の蔓と、咲かせている花々のシルエットが、非常に女性的に見えたからだ。背丈は成人女性でも少し大きいか。頭には紅い睡蓮の花、身体は幾本もの蔓。手や足の甲には蕾の百合が咲いている。首の辺りに七色の花で作られた首飾りを掛けており、彼女はゆっくりとその幻想の庭を散歩し始めた。〟
ゆったりと流れるように歩き続けて、その植物の異形は花壇の一角で止まった。
何をするのかと見ていると、その者の右手の百合がふわりと咲いた。そこから青白い光が溢れ、その粒子が花壇の花へと降り注ぐ。まるで水遣りだ。
恐らく、あれがこの庭の管理人なのだろう。
「……美鈴?」
思わず声に出た。なんとなくそう思ってしまった。
お嬢様や妹様が居られるなら、庭の管理や紅い花に緑の蔓という色彩、虹、華という要素を拾い、もしや、と。
私の声に反応して、その花の管理人の頭がこちらを向いた気がした。
しまった。あれが美鈴である確信もないのに、不用意に声を掛けてしまった。
植物の怪異が、ゆっくりとこちらへと歩いてくる。
少し躊躇ったが、私も立ち上がって彼女へと近づくことにした。ナイフは構えない。ひとまず出方を伺うのが良いだろう。
お互いが触れ合えるほどの距離で、私たちは足を止める。
「美鈴、なの?」
もう一度聞いてみると、彼女は自身の手を私の前に差し出してきた。一瞬握手をするのかと思ったが、その百合の花弁が指のようにしなり、指先に光の粒子が集まったので手を引っ込める。
その光は少しずつ形を成していき、ガラス細工のような赤い薔薇になった。
「……私に?」
薔薇を差し出したまま、彼女はゆっくりと頷く。
棘に気をつけながらそれを受け取ると、ひんやりとした感触が指先から伝わってきた。そしてその薔薇はまた光の粒子に弾けて再収束し、赤い結晶になった。
涙滴状の結晶が、ゆっくりと落ちてきて、私の片手に収まる。
それは、間違いなく美鈴の使う弾幕だった。
綺麗に赤く染まっていた結晶は不規則なリズムでその色を変え、あの虹色を体現する。
やはり彼女は、美鈴をモチーフにされているのだ。
「ありがとう、なのかしら?」
結晶をポケットにしまい私が礼を告げると、彼女は私の手を取って、その身を宙に浮かせ始める。
「え、ちょっと待って! 私は飛べな……!」
それはあくまでも先導するといった具合の力で、強制力はない。けれど離れたくない。強くそう思うと、直後に私の両足が浮いた。
「……あれ?」
ふわふわと浮いている。足が宙を滑り、私は地面へと倒れ込みそうな状態で宙に浮いた。
ひょっとして、あの結晶が?
私は内部に魔力があることを自覚する。それを動かすことで、私は浮力を上げていく。
美鈴も引っ張りあげてくれるので、それに誘われるがまま、城の外周をなぞるコースで私は空中散歩を楽しんだ。
気持ちいい風が全身を駆け抜け、清麗な空気で肺を満たす。果てない雲海を眺め、太陽の光を全身に浴びて、私は空中を泳ぐ。
数時間前でも可能だった行為にも関わらず、それらは新鮮な体験として私の心の曇りを流し、晴れやかにしていった。
戻り、中庭に美鈴と二人で降り立つ。言葉こそなかったが、彼女のお陰で展望が開いたような気がした。私は、それが嬉しくて仕方がなかった。
「ありがとう、美鈴」
今度こそ本当に、私は迷いなくそう言えることが出来た。
3
魔力を取り戻したが、しかし時を止める能力は戻っていなかった。
散歩の後、しばらく中庭のベンチで休憩し、美鈴が入れてくれたハーブティーを飲みながら確認して分かったことだ。
それから、彼女とのお茶を惜しみつつも別れを告げ、中庭を後にする。
「~♪~~♪」
魔力が戻り空を飛べたことで、抱いていた不安はいくらか解消されていた。
あれが恐らく、仮面の少女が言っていたイベントなのだろう。
鼻歌を唄いながら城の廊下を歩く。
それにしても、あの美鈴の姿は何だったのだろうか。
妹様の作られた幻影世界、その中のキャラクターが抽象化されているというのは、なんとなく理解できた。
美鈴自身は今頃お嬢様のお世話をしているはずなので、あれに意識があるとも考えにくい。会話できないのもそういうことだと思う。
しかし何故植物だったのか。
「庭師だから?」
もちろん彼女の職務はそれだけではない。門番、見回り、清掃、守衛など、外勤に携わる妖精メイドたちのリーダーが彼女である。それらの業務もこなすことは、少なからず妹様もご存知のはず。
妹様にとって美鈴とは、ああいうイメージなのかしら?
「庭師だけ? いや違うわね……」
私が紅魔館にこうして働く前のメイドは彼女だったはずだ。そして今でも時折、美鈴はあの部屋に出向いている。妹様ともよく談笑しているし。
だとすると、職業だけではない、他の要因がある。
花の姿。庭師。美鈴が使う弾幕。武術。門番。
「……あ」
ふと閃く。でもまさかそれが? しかしまるで歯車が組み合わさったように、その閃きが答えなんだと思えてしまう。
彼女の二つ名――〝華人小娘〟。ゆえに華の人型。
「駄洒落……」
いやそういう意味じゃないでしょう。
でも面白くて、私は小さく笑った。フランドール様はこういうこともおっしゃるのかと、意外な一面に驚いた。
さて、中庭から移動して私が次に訪れたのは、外からも見えたあのガラスドームの部屋だった。
〝その部屋には数多の本棚が並んでいた。外壁すらも本棚、仕切りも本棚。本棚、本棚、本棚。見渡すかぎりの本棚づくめ。そこは図書館だったのだ。硝子の天井の下に本棚で擦り鉢が出来ている。そしてそれらには空きもなく本が詰まっている。時折収まっている本が独りでに動き出し、宙を行き交い、別の本棚へと収まった。本自身が生きているかのように。そこは知識のすり鉢だった。そしてそんなすり鉢の中央部に、革張りの椅子と磨かれた執務机が堂々と置かれていた。〟
モチーフは地下図書館だろう。ならパチュリー様がいるはずだ。
図書館にはこの城に多く生息する光球の生物(おそらく抽象化された妖精)がいくらか漂っている。
その中に一匹、デフォルメされたコウモリが飛んでいた。あれが小悪魔だろう。
コウモリが中央の机に降り立つ。そして机に天球儀があることに気付いた。
いやあるというより――おられたのだ。
〝頭身は3つか4つほどだろうか。頭の天球儀がやけに大きく、身体は頼りないほどに小さい。その体も本のページが乱雑に組み合わさり、彼女の四肢を表現している。天球儀はかたかたと音を立てて駆動しており、その中の天体は五つの色の違う宝玉によって表されていた。その中心点には黒白の陰陽太極珠が浮かんでいる。彼女はふわふわと滞空し、腕を動かすだけで遠くにある本を手繰り寄せ、ペンを動かし、羊皮紙に文を書き連ねている。そこは彼女の世界、その図書館の支配者が誰なのかは明白だった。〟
「パチュリー様!」
私が声を掛けると、あの方は頭をこちらに向け、天球儀の中の太極珠の二点がこちらを向いた。やはり、パチュリー様で間違いないようだ。
私が飛んで近づくと、彼女はゆっくりとその椅子から浮かび上がる。
そうして私の前に降り立った。
「……」
しかし、声を掛けたはいいがいざとなると何を話せばいいのかわからない。
私は無言で、パチュリー様と見つめ合った。太極珠に描かれた白と黒の二点が、静かにこちらを向いて微動だにしない。
「え、えっと、あはは……」
苦笑いで気不味さを紛らわしていると、パチュリー様は踵を返し、机の上に置かれているベルを指さして、それを一回鳴らした。
すると先ほど机に降り立った小悪魔が慌てたように飛び上がり、それから羽の部分を柏手のように合わせた。
「あら」
それだけで机の上に白磁のティーカップとソーサー、ポットに三段式の銀製ケーキスタンドとそれに乗せられたいくつものお菓子が、ぽんと軽快な音を立てて出現した。
お茶会だろうか? 私が呆けている一方で、パチュリー様は出されたケーキスタンドを指で突いた。すると一番上に乗せられていたケーキが空間ごと捻れて潰れ、渦を巻いて圧縮され、消失してしまう。
そして入れ代わるように一つ、古ぼけた懐中時計がスタンドに現れた。
取り上げたパチュリー様は、それを私に差し出してくる。
「……私に?」
かたかたと歯車の噛み合う音だけが響く。肯定でも否定でもない、ただそうなる流れの話だったとでも言う風に、私はそれを受け取った。
その懐中時計のハンターケースを開く。針は全て0時を指して止まっていた。他には秒針盤と共に、小さく太陽の絵の描かれた盤が仕込まれているようだった。
レバーで切り替えステムを回すと、その絵柄が月、火、水と変わっていく。
どうやら曜日を刻む盤面のようだった。まさにパチュリー様らしい物といえる。
先ほどの美鈴の例を考えれば、これで私の力が戻ったに違いない。そういうイベントなのだろう。
アイテムは時計。失っている力は時間。まぁ、考えるまでもないわね。
試しに、停止世界への侵入を試みる。
すると私は、苦もなくすんなりと停止世界に入ることが出来た。
ただし、いつもとは違う。懐中時計が微振動していることに気付いた。曜日盤は一秒ごとに回転、その盤が月、火、水と動くごとに大きな音を立てていた。
そうして盤面が一周し再び太陽を示した時、私は停止世界から追い出されてしまう。
なるほど制限付きというわけだ。その時間は七秒。
もう一度時を止めようとするが、発動するような気配ない。曜日盤が逆回転している。能力の使用には少しインターバルが必要のようだ。
「ふむ」
元と比べれば塵ほどもない程度の力だが、それでも戻ってきたことは素直に嬉しかった。
まるで、おとぎ話の勇者の物語みたいだ。
失われた力を取り戻して、伝説の武器を手にして、最悪の竜を退治する。そんなストーリーラインのゲーム。
何故妹様がこんなゲームを私に仕掛けてきたのか、まだ分からない。
それでも、次にやるべきことは決まった。
「ありがとうございます、パチュリー様」
例え造り物の世界であっても、私は心の底から感謝していた。
助けられてばかりで、情けないことこの上ない。恥ずかしい。そんな自罰的な念もある。
私など無力な人間なのだと、改めて思い知る。
「小悪魔も、ありがとう」
応えるように飛び立った小悪魔がそばの椅子を引き、着席を促してくる。対面ではパチュリー様が指を動かし、宙に浮いたカップに紅茶が注がれていく。
私は喜んでその席へと着いた。
4
二時を知らせる鐘の音が鳴った。
パチュリー様たちとのお茶会を終え、主塔の階段を再び登っていた私は、ふと妹様との初めての会話を思い出した。
妹様との出会いは、幻想郷に来る、本当に間際だったと思う。
『貴女が食事を作ってくれている人なのね?』
『はい』
『いつも美味しいお菓子をありがとう。咲夜』
それだけ。ほんの些細な、それだけの遣り取りと謁見だった。
儚い印象だった。少なくともお嬢様よりは、覇気なく穏和で、静々とした印象を受けた。
それから少しずつ、妹様との触れ合いが始まった。
本格的に目覚められてからはお嬢様たちとも食事を取られ、より接する時間が増えてくる。多くの方々と話される妹様の顔には、子供らしい表情も混じっていた。
幻想郷に来て、弾幕ごっこを覚えて、多くの異変があって。
いろいろあって、それでも結局私は、未だに妹様の心を理解できていなかった。
「全く、不甲斐ない」
毒づいた私は右手に持っていたバスケットを強く握った。
怖かったのだ。
私など文字通り一捻り――いや正しく一〝握り〟だ。あの方の能力は、それを可能にしてしまう領域にある。
ありとあらゆるものを破壊する程度の能力。
そして狂気の波動。
内面を測ることが不可能なほどに目まぐるしく変化するあの方の心は、常人の私の理解出来る範疇を超えている。
その奥に潜む、常闇の奥地から、命が視られている。
それがたまらなく怖かった。
そして何より、私は……。
私は妹様が……。
「……」
足が、その時止まってしまった。
浮かんだ言葉を首を振って必死に振り払う。従者として決して褒められない感情と思考に到達しかけた私を、私は叱責する。
何をやってるんだ。それでも〝悪魔の狗〟か。
その肩書を誉れとし、戒めとする。
悪魔とは?
お嬢様だ。
ならあの方は?
私にとっての妹様とは。
「……」
仕えるべき主人だ。それは変わらない。
主塔展望階。その場所は変わらず静けさを保ち、何の変化もなくお嬢様の眠る薔薇で満たされた水晶の棺が鎮座していた。
私は前と同じように、その水晶に近付いて妹様の到着を待った。
お嬢様を囲う環状列石に寄りかかり、懐中時計を見ながら登場に備える。
そしてあの羽撃きと、鉤爪の音がした。
それは不思議な光景だった。私の視界には羽もなく、鉤爪もない。なのに音がした。そして、光の粒子が風に乗って集まり、見えなかった姿を象っていく。
音がしたから、姿が出来る。それがさも当然のように私の目の前で起きている。
黄金の竜が完全に姿を現し、彼女の咆哮がその場を激震させた。
しかし今度は目も瞑らず、耳も塞がず、私は毅然とした態度で彼女と対峙する。
咆哮が止み、紅玉の瞳と視線を交わす。
竜が――いや妹様が、そこで不敵に笑われた気がした。
「お楽しみいただけたようで何よりです、妹様」
私は静かに時計を閉じて告げる。
しかしその言葉は、存外妹様の意表をついたようで、竜の表情が、一瞬呆ける。
それから、竜は頭を垂れてその全身が瓦解し始めた。
甲殻ごとにバラバラと崩れ、それらは光子となって消える。その中から、妹様はいつもの服装で現れた。
「よくわかったね。咲夜鋭いなぁ。なんでバレたんだろ? 仕草があざとすぎたかな? さすがに私がプレイしていることは分からないと思ってたんだけどなぁ」
「……?」
想定外だった? 私が知っていることを、知らなかった?
たしかにこれまでのイベントを通して考えるなら、例え、私が黄金の竜のモチーフが妹様だと気付いても、妹様自身がプレイしているという考えに至る可能性は低いのかもしれない。
もしかして妹様は、私の行動を逐一監視されてはいないのだろうか?
なら妹様の存在を教えてくれたあのフードの少女は何だ? 誰だ?
妹様が遣わしたアドバイザーではないのか?
「……」
その疑問を、しかし今は閉まっておく。
妹様の裏をかけるかもしれないと、私の直感が囁いている。
これは、勝つための布石だ。
「予定が狂っちゃったなぁ……まぁいいや。で、そっちは楽しんでくれたの? 咲夜」
「はい。不思議な世界ですね、ここは」
「うん。あのグリモワールに咲夜の精神と縁結びさせて、この世界に意識を反映させているの。まぁ、一種の夢みたいなものかな?」
「この夢は醒めるのですか?」
「もちろん。タイムリミットは夕暮れ。マジックアワーでウェイクアップ」
私は吸血鬼じゃないんですけど、という言葉は呑みこんだ。
タイムリミットの話も情報通りだった。ますますあのフードの少女の正体が気になってくる。
「さぁ咲夜、もう色々周ったんでしょ? ならアイテムは持ってるわけで、やるべきことも解ってるよね?」
妹様の手に火が灯る。それが直線に伸びて、曲がり、一本の黒枝になった。
世界を焼くスルトの剣。
雄鶏を貫く世界樹の枝。
レーヴァテイン。
「つまり妹様を倒せばクリアできる、と」
「うん、手段は問わないよ。私の首を刎ねるなり、心臓に杭を打ち込むなり、火葬するなり……まぁ吸血鬼らしく殺してよ。ただ残念だけど日光じゃ死なないから」
「弾幕決闘ではないのですか?」
「別にそれでもいいけど……あんまり意味ないよ」
妹様が膝を曲げ、屈む。
「私は本気で行くからね」
そう言った時にはもう、妹様の顔と手が目前に迫っていた。
吸血鬼の爆発的な脚力。暴力的な膂力。それを十全に発揮した上での突進。
私は時を止め、その射線から移動する。止まった世界で見る妹様の顔には、まさしく吸血鬼の力が漲っていた。
「おっと」
妹様が着地する。あの速度からは考えられないほどの優しい着地だ。
シャラランっと妹様の羽の虹色結晶が、美しいツリーチャイムのような音を奏でる。
「ふふ、能力を制限しちゃってごめんね? あの容量じゃあんまり上手く再現できなくてさ」
「十分ですわ」
「私を倒すのに?」
「この世界を楽しむのに」
私は時を止め、バスケットからキッチンナイフを三本取り出し、それを妹様へ向けて投げつけた。
停止世界で私の管理下から離れた物体は静止する。ナイフもそれに習って空中でぴたりと動きを止めた。それに加えてそのナイフを三秒分、分身させる。ナイフは合計九本、それが限界だった。
七秒経過。時間よ動け。
「ふふ」
投擲されたナイフを飛び退いて躱し、妹様は楽しそうに笑う。
それは戦いに浸れる者の笑みだ。
対して私は、苦笑いくらいしか浮かべることが出来ない。
「固いなぁ咲夜、あんまり楽しくない?」
「弾幕ごっこではないので、中々難しいですわ」
弾幕決闘、弾幕演武。もちろんそのどちらも心得はある。けどそれは攻撃を当てるというのが前提にある。
今は違う。当てて――壊す。そういう目的意識が、この戦いには必要だ。
そう考えると、自然と動きが鈍くなってくる。
「死ぬのが怖い?」
言われて、身体がビクリと震えた。
「人間だもんねぇ。その感覚は大切にしなくちゃダメだよ」
恐怖。
人間を現在まで生かし、繁栄させ続けた根底。
『死を怖がるということは、生きたいと願うことの裏返しでしょう』
そう言ってくれた人は誰だったか。何かの本の言葉だったか。
「でも大丈夫。この世界なら本当に死ぬことはないから。遠慮なくやろうよ」
そう言って、フランドール様は私にむけて手を翳した。そこから魔法陣が展開し、分身して4つに増え、その中心から大量の光球が放たれた。
私は飛ぶ。弾幕の合間を縫い、妹様との距離を適切に保ちながらキッチンナイフを投げつける。
一本、二本、三本、四本。それらは妹様の服を切り裂き、身体へと突き刺さる。しかしそれがどうしたという風に無造作にナイフを抜いて、妹様は笑う。
「調子が出てきたかな?」
とは言われても、まともに笑えていないのだから、これはからかわれているのだろう。
「まだまだ弾幕ごっこと変わらないねー。もっと切り詰めていこうか」
妹様がこちらに向かって跳躍する。
およそ一〇メートルはあったであろう距離を一息もなく疾駆し、弾丸の如くそれは迫り来る。踏み込みから着弾まで。一秒もないかもしれない。
私はその一瞬を停止させ、射線を外してその場を離れる。
能力解除。妹様が着地してこちらへと跳躍した。まともに受けあえば力で負ける。一度身を横に転がしてその射線から退く。連続しての能力使用が出来ないというのがキツい。
妹様が私のいたところへ黒枝を叩きつける。破砕音が耳を劈き、石床が衝撃で爆ぜる。しかし間一髪で躱せた。時間も稼げた。また時を止めて、その場から動く。今度は妹様に向かってキッチンナイフを投げつけておく。
時が動き、すると妹様はまたバウンドするようにこちらへと突進した。いくら時間を止めようと、吸血鬼の超常的な感覚はすぐさま獲物を捉えてしまう。しかしそれならトラップを置ける。
妹様の眉間に、私の投げたキッチンナイフが突き刺さった。血が溢れ、痛みが走るだろうに、妹様はぴくりとも浮かべる笑みを歪めたりはしなかった。
また眼前に迫られる。
いつか妹様にも追いつかれてしまう、それは分かっていた。だから私は小細工を仕掛けた。
その時間の私――残像を置いておいた。
妹様の手が私の残像の心臓を貫く。
「――!」
妹様はすぐにそれが残像だと理解されたようだった。だが一瞬の隙が出来た。私はすぐさま妹様に飛びかかり、翻って背中のポジションを確保する。それから体重で地面へと押さえつけてキッチンナイフを首元に添えた。その衝撃でがらん、と握っておられた妹様のレーヴァテインが他所へと転がった。
「チェックメイトですわ、妹様」
そこで、攻防に一区切りがついた。ナイフの刺さったままの妹様の顔が、地面を避けるように横を向いている。彼女の紅い瞳が私を見上げていた。傷口から血が溢れてなお笑われるので、スプラッタホラーのようだった。
ホラーは苦手なのだけど、悲鳴は我慢する。
「どうして殺さないの? これならすぐに振りほどけちゃうよ?」
「振りほどくより速く刺すことが出来ます」
その言葉に偽りはなく、それをお分かりいただけたのだろう、聞いた妹様の顔にも苦々しい表情が浮かんだ。
少し話がしたい。私はそう切り出そうとした。
けれどすぐに妹様は、切り替わるように笑みを浮かべる。
「オッケイ分かったよ咲夜。まだ遊び足りないんだね」
妹様の魔力が爆発する。見えない魔力波動の圧力に時を止める事ができず、私は吹き飛ばされてしまう。
こちらも魔力を使い、空中で体勢を整えて、何とか地面に膝をついて着地する。
拘束を解き放ち立ち上がった妹様は変わらず笑みを浮かべながら、眉間に刺さるキッチンナイフを抜き取った。血が迸り、床を濡らす。その血はすぐに気化していく。
「嬉しいわ咲夜。楽しんでくれてるのね」
そういうわけではないのだけれど。
「まだまだ緊張しています」
「大丈夫。貴女なら上手く出来るわ」
持っていたキッチンナイフが鋭く私に投げつけられる。時を止め、私は柄を掴んで受けとった。付着していた妹様の血が、霧となって消えていく。
吸血鬼の再生能力が傷を見る見るうちに塞ぎ、止血する。流れていた血も当然消えていく。手をかざせば、転がっていたレーヴァテインが見えない力で引き寄せられた。
「さっきのようには、もう行かないよ」
「残念です……というか、あのままでも倒しきれませんでしたけどね」
「不死性のこと? ならアイテムがあるはずだけど……もしかしてまだ手に入れてないのかな?」
「そうだったのですか? 申し訳ありません、まだ入手していませんでしたわ」
「そっかぁ」
妹様は残念そうに肩を竦めて、それから顔に影を落とし、一気に妖怪然としたお顔になって私を見た。目を合わせた瞬間、心臓が凍り付いてしまう。
「じゃあ咲夜にはリスタートしてもらわないとね」
そして妹様がこちらへ一直線に跳躍してレーヴァテインを振りかぶり、その射程圏内まで距離を詰めてくる。
壮絶な、それはまるきり人間味のない、畏怖すべき吸血鬼の笑みを浮かべて。
私は反射的に停止世界へ潜ってしまった。
「だから、怖いですって……」
独りごちて、私はその場から後ろに飛び退く。それから通常世界へと帰還。妹様の黒枝が、私の立っていた場所へと横薙ぎに振るわれる。
「――!」
刹那、尋常でない恐怖と危機感が背筋を駆け抜けた。
そして私の反射は随分と優秀なようで、気付いた時には逃げるように飛翔していた。
私の立っていた場所を、黒枝の後を追うように猛烈な勢いの火炎が覆い尽した。それはレーヴァテインの先から溢れだした、世界を燃やす火だった。あのまま立っていたら私は確実に骨髄まで燃やし尽くされていただろう。
そして私は、自分に向かって二人の妹様が迫っていることに気付いた。フォーオブアカインド。妹様の分身術。
残像に対する意趣返し!
「「咲夜つーかまえた!」」
逃れようと身を捩る。しかし先に足に違和感が生じた。見れば、炎から飛び出してきたもう一人の妹様が、私の足首をしっかりと掴んでいたのだ。
「しまった……!」
フォーオブアカインドは四人分身。完全にもう一人を忘れていた。妹様の手が、足にしっかりとくっついている。もう停止世界に入っても意味がない!
魔力障壁を張る。多少は防げるはず。
しかし迫る二人の妹様の鋭い指先は障壁をガラスのように砕き、私の胸部へと差し込まれ、肋骨の合間を縫って肺へと到達する。
血が溢れ、肺の空気を押し出しながら逆流し、喀血してしまう。苦しく、歪む視界の先で、レーヴァテインを振りかぶった妹様を見た。
「バイバイ咲夜」
死神の鎌は、そう告げられてから振り下ろされる。
そして私はまた死んだ。
5
「おぉ咲夜、死んでしまうとは情けない」
今度の起床は、かなりはっきりとしていた。
記憶も鮮やかに残っている。鐘の音も、声も、私は確かに聞きとった。
ぱちりと眼を開けて、すっかり眠気の消えた頭を持ち上げ仮面の少女を見る。
「塔に登るにはちょっと早かったね。焦ってた?」
「別に……そういったわけでは、ありません」
言葉を濁したのは、確信が持てなかったから。
心の何処かで焦りがあったことを、完全に否定はできなかった。
「外が気になる? ならリタイアすればいいよ。この城の正門を抜けて、光の道をたどれば、この夢からは目覚めることが出来る」
諭すように教えてくれる。しかしすんなりとは頷けない。
「……」
妹様がどうしてこんなゲームを仕掛けてきたのか、それが未だに分からなかった。ただ流されるままに、妹様との殺し合いに興じてしまった。
ただの気紛れか。もしかしたら私が邪魔で、永遠にこの場所に閉じ込めようとしているのではないか? 日没で解放されるというのも怪しい話だ。そんな抱くべきではない不安が、私を焦らせ、鈍らせている。
この幻想の紅魔館で、何をするべきなのか。何をしたいのか。
分からない。
「悩んでるね、咲夜」
仮面の少女が二回拍手する。
すると目の前にティーセット一式が出現した。それらが一人でに動き、カップに清澄な琥珀色の紅茶を注ぎ、そのカップが私の前に置かれた。
手に取ると、ダージリンのあの甘い香りがふんわりと香った。紅茶自体は熱く、まだ飲めそうにはない。けれども香りだけで落ち着いてきた。
「何事も焦りは禁物。まずはゆっくりと周りを見て、それから自分を見なくちゃね」
言われるがまま、私は紅茶を置いてその食堂を見回す。
やわらかな日光が窓ガラスから降り注ぎ、その光に塵は見えず、いかに空気が綺麗かわかる。白い壁やレンガの赤、キッチンシンクの銀色、食器棚の深い木の色。木製ベンチの感触に、青いテーブルクロス。
それら全てを何となく見回していると、緊張がほどけてぐちゃぐちゃだった思考が落ち着きを取り戻していく。一度深呼吸する。
そして再びカップを手に取り、冷ましてから紅茶を口に含んだ。
「で、貴女はどうするのかしら?」
「……そうですね」
再び問われて、私はまた目を瞑る。
この世界――妹様の作られた世界をクリアする。
条件は、妹様を倒すこと? その為には不死性を打破するアイテムが必要らしい。しかしこれでは妹様の思惑通り過ぎるので、挑戦者として少し悔しいものがある。
「ふふ」
明確に殺された記憶があるせいか、私はいつの間にか、妹様に対して明らかにむきになっていた。子供っぽい対抗心だ。それがおかしくて、つい笑ってしまった。
私は負けず嫌いなのだ。だから勝つためにまず、情報を集めなくてはならない。何故妹様が私にこのゲームをさせているのかを理解する必要があるだろう。
「もう少し、この世界を見て回ることにしますわ」
「うん、それがいいよ、うん」
まるで私の答えを分かっていたように、彼女は首肯してくれた。
紅茶を堪能した私は仮面の少女に礼を告げ、その後時計塔を目指した。
この古城、紅魔館をモチーフとした夢幻城には、その住人それぞれに対応した建造物が置かれている。創造主であるフランドール様のイメージによって象られた世界。妹様の心象が、今までの例を見ても少なからず含まれているはずだ。
だから時計塔、私をモチーフにしたであろう建物を見れば、妹様にとっての私の印象が分かるかもしれない。
普段私は、妹様からどんなイメージを持たれているのか?
これは、それを知るまたとないチャンスだ。
「彼を知り己を知れば百戦危うからず――なんてね」
赤いカーペットの敷かれた廊下、天井には細やかな絵が。連綿と並ぶ白亜の柱に、高価そうな調度品の数々。古城という外装に反して、贅の尽くされた宮殿の内装。
妹様にとっての、これが紅魔館。
「古びた洋館、住めば都、ですか?」
答える声はない。
すれ違う妖精たちが、私のことを気にして周囲を飛び回る。私はそれらの一つにふぅと息を吹きかけた。すると綿毛のようにそれは風に乗り、他の者達も慌てふためくように揺れて、私の周りから飛び去っていく。可愛い。
やがて私は時計塔の足元へやってきた。
〝その時計塔は高くそびえ立っていた。根本から見上げたそれは、まるで世界を支える柱のような、そんな錯覚を見る者に与えるだろう。細かに施された装飾も、綿密に積み上げられたズレのない石レンガも、神が計算し仕組んだ至高のパズルのように、それはどこか神秘性を孕み、その場に揺るぎなく建っている。見上げるだけで、果てしない存在を崇めているような気持ちになった。時という概念を、否が応でも意識させる建造物だった。〟
装飾された柱や壁。特徴的な尖塔。大きな時計盤。写真で見た、英国のビックベンを連想する。きっと参考にされているに違いない。鐘の音こそ違うが、おおよその造形はあれと類似していると思った。
「なんで英国なのかしら」
私はイギリス出身ではない。単に時計塔として有名だったからだろうか? しかし相手はあの妹様だ、この造形にも何か意味があるのではないだろうか。そんな勘ぐりをしてしまう。
いやそう思わせておいて、あるいは本当に有名だったからだけか。
とにかく私は一つだけある古ぼけた木製の扉を開けて、中へと踏み込む。
「あら……」
まず現れたのは、こじんまりとした教会だった。
祭壇後部に設けられた縦長のステンドグラスが、外からの光を唯一取り入れている。大きな時計塔に比べてその教会はあまりに小さいので、おそらくこれは内部の一室ということ。
高い天井と石のアーチ、石柱、石畳。色濃く染められた木製の信者席。そして石から直接削りだされたような、継ぎ目のない十字架。入口付近はランプの湿った明かりに妖しく照らされている。
別に、城に教会があるのはおかしい話じゃない。
だがしかし吸血鬼の館をイメージした城にそれがあるのでは話が違ってくる。
私が人間だからだろうか?
「人間には信仰心が不可欠ということなのかしら」
しかし私は神を信じていない。真逆の悪魔崇拝者だ。なのに何故教会があるのだろうか。
とりあえず、私は祭壇でお嬢様に祈りを捧げてからその場を後にした。
側廊にあった螺旋階段を登り二階へ。二階部分はどうやら吹き抜けのようで、一気に天井が高くなっていた。小窓によって光が取り入れられ内部がぼんやりと見えるが、二階から上はほとんど装飾のないがらんどうだった。最低限、上へと昇る階段が設けられている程度。
外側に比べてあまりの空虚さに、呆気にとられてしまう。
これはつまり「外見だけは着飾って、中身は空っぽ」ということだろうか?
「ふむ……」
しかし怒りより先に悲しみが湧いてくる辺り、私はあの館のメイドなのだなぁと感心してしまった。
とりあえず階段で上へ。
吹き抜けから上は時計の機関部となっているようだった。大小様々な金属の歯車たちが、鈍く重い音をゆっくりと奏でている。動力部を探してみたが、よくわからない。
さらに上に登ると、ついに文字盤の裏側へとやってきた。
これより上に行くための階段は見当たらない。ここが最上階なのだろう。
「さて、探索の時間ね」
通例どおりなら、この建物にもアイテムがあるのだろう。
ひょっとしたらそれが妹様を倒すためのアイテムかもしれない。
私が身に付けていた中でそれらしいものの心当たりは、一つだけある。それがこの時計塔にあるだろうか……とにかく探してみるしかない。
だがしばらくしても、それらしいものは一向に見つからなかった。
仕方なく時計塔を降り、私は教会へと戻る。
それから教会の両側にあった部屋を覗いてみた。そこには食堂と寝室があり、どちらも酷く重たい金属製の扉で仕切られていた。寝室にはみずぼらしいベッドが一つ。食堂には木製のテーブルと椅子、暖炉、陶器タイルの流し台に水を汲む桶。コンロや蛇口、冷蔵庫もない、物凄く古臭い食堂。
そしてその食堂で見つけた。
木製テーブルの上、小窓から刺さる光に照らされた、丁寧に磨かれた一本のテーブルナイフを。
お嬢様から賜った、太陽と破邪の光を練りこまれた聖銀の食器。
吸血鬼を殺しうると謳われた武器。これがアイテムか。
「まぁ無くなっていたから、そうだとは思っていましたけどね……」
妹様に向けてそうぼやき、私はそのナイフを手に取る。
それはほどよく冷たく、ほどよく重たく、ほどよく手に馴染んだ。
取り上げたナイフを胸の谷間に仕込んだホルスターへしまい、私は踵を返して教会へと戻った。
あんまりこの場には留まりたくない。そういう苦手意識から、自然と足取りが早まった。そのまま教会の出口へ向かう。
派手な外見に対して静かで暗い教会。みずぼらしい生活施設。がらんどうの中身に無機質な時計機関。まるで人間味を感じない構造物。外と比べて張り子のような肩透かし感があった。
これが妹様から見た私。
「うむむ……」
馬鹿にされているのだろうか。これは挑発なのかもしれない。悔しかったら私を倒してみろという、妹様からの挑戦状か。
裏をかく前にむきにさせられてしまう。頭を冷やすついでに、もう少し、この古城を探索すべきか。
「あれ?」
そういえば、この館が紅魔館であるのなら、妹様の部屋があってもいいはずだ。
まさかあの主塔の最上階がそれであるとも思えない。こうして私モデルの時計塔があったのだから、プレイしているとはいえそれを用意していないとも思えなかった。
あるとすれば。
「地下よね……」
ただ、一通り見て回ったがそれらしい入り口はまだ発見できていない。隠されていたとすれば、見つけるのは時間がいるだろう。なら別の方法を取ろう。
私は時計塔を出て、再び食堂へと向かった。
6
「知ってる。けど、教えたくはないなぁ」
食堂に入り、まるで待っていたかのように座っていた仮面の少女から帰ってきた返事はそんな拒絶だった。
まさか拒まれるとは思ってなかった私は呆気にとられてしまう。彼女は味方だと思っていたのに。
少し呆けた後、気を取り直して質問する。
「えーっと、ちなみに何故でしょうか?」
少女の手元でティーセットが舞い、温かな紅茶を注いでく。そして注がれたカップとソーサーが私の前へ静かに着地した。それを見終えて、彼女が口を開く。
「咲夜って崖の柵に乗り出して下見ちゃうタイプ?」
ちょっと意味が分からない。危険をあえて犯していくということだろうか。
「ケースバイケースですわ」
「じゃあ他人のアルバムを勝手に開いちゃうタイプ?」
あぁ、なるほど。
ようやく理解できた。この城はフランドール様の思考を元に形成されている。故にその本人である妹様の部分に訪れるということは、妹様のプライベートを覗くに等しいことなのだ。
もしかしたら、そういう類のアイテムを置いているということかもしれない。
いやそれなら、わざわざそんな部分をこの世界に創らなければいいのに。
「この世界は妹様が創られたのですから、そういう物は置かれていないのでは?」
「それは違うよ。あの子は知らないの。私が勝手に追加したからね」
は? とまた気の抜けた声が零れてしまう。
いや彼女は妹様とは別の存在だと思っていたので、そういった勝手なことを行うのは間違いではないのかもしれない。しかしなら何故教えてくれないのだろうか。
「いい、咲夜。あの子は臆病で人見知りなの。他者と接するのが苦手で、いつだってねじ曲がったコミュニケーションをとる。でもそれは知らないんじゃなくて、取らないの。この違いは分かるよね」
気が触れている吸血鬼の妹。狂気の波動。もちろんそう呼ばれることを知らないわけじゃない。フランドール様の言動は、よく分からないものが多い。はぐらかされているような、気紛れで気ままな方だ。
「そんなふうに生きている子の心に触れて、もし発狂でもしたらどうするの?」
「……まるで」
まるで自分のことのように言いますね。そんな言葉が喉まで出かかった。
首を振って飲み込み、違う返事をする。
「貴女が置いたのでしょう? なら、そういうことにはならないんじゃなくて?」
「生憎だけどね、人間の心の耐久度なんて知らないのよ。でもきっと脆いんでしょうけどね」
「貴女は、その中身を知っているの?」
「うん」
本当に何者なんだ、この少女は。
「作っておいてなんだけど、見て面白いものでも、感動するようなものでも、ましてやおすすめできるものでもないと思う」
「なら何故そんな物を」という私の言葉に、少女が「咲夜ってさぁ」と被せてくる。
「あの子のこと苦手でしょ」
それは。
それは深く、私の心臓に突き刺さった。
「別に普段の態度がぎこちないとか、そういう訳じゃなくてね。でも節々であぁ怖がってるなって気配がする。それはきっとあの子の能力とか、喋り方とか、心とか、そういう諸々が原因なんだろうね」
返答できない。刺さった言葉に、言葉を失ってしまっていた。
「死ぬのが怖い?」
妹様の言葉を思い出す。
『人間だもんねぇ。その感覚は大切にしなくちゃダメだよ』
見透かされていたのかもしれない。
だから、この世界に私を招いたのだろうか。
ここなら、死の恐怖もなく接することが出来るのだと。
「そうやって怖がっている相手の心を覗くことは、すごく失礼なことだと思わない?」
まるで弱みを握ろうとしているような、狡い行為だと糾弾されている。
その通りに思えた。
「この選択肢はね、咲夜。おそらく貴女たちにとって重要な分岐点になる。少なくとも私はそうなることを望んでる。でも、どちらが二人にとって最良なのかは分からない。下手をしたら崖から落ちるかもしれない」
危険な賭け。ハイリスク、ハイリターン。
「だから、咲夜。貴女が恐怖を告白し、その危険を承知するなら、この選択を貴女にあげてもいいよ」
それは運命の分かれ道なのかもしれない。
私の中で、そんな重責を担えるのかという疑問が沸いて立つ。
加えて妹様への感情を自白したくないという悪感情も滲出してきた。
その二つが、私の口をより重くする。
「さぁ、どうする?」
私は俯いた。あくまでも選択権は私に与えられているのだ。私の意思が尊重されている。
逃げるか、挑むか。その二択。
少しの沈黙を続けて。
「……私は」
決めた。
顔を上げて仮面の少女を見ながら、重かった唇が、ゆっくりと動く。
「私は……苦手でした。妹様が。あの方の、命を見つめる紅い瞳が」
これを他人に告げるのは初めてだ。心臓が高鳴っていた。額に汗が浮かび、息が詰まりそうになる。
「会うたびに、心臓を掴まれるようで。その圧迫感を隠すように、私は妹様への理解を諦めていました」
自身で考えるよりも、下された命令に従っている方がはるかに楽だ。それを臣下の務めなどと飾ったところで、思考放棄なことに変わりはない。私は妹様に対して受動的になっていたのだ。
つまり歩み寄らなかった。
考えてみれば、あの時計塔が空虚な作りになっているのも当然じゃないか。私は妹様に、自分のことをほとんど教えていないんだから。
「けど、それだけではありません」
懺悔は続く。思わず顔を伏せて。
「私は……」
これが、本当の罪の告白。
「……私は妹様が」
「ストップ」
被せられた声に、伏せた顔をはっと上げる。汗が、静かに顎へと垂れていった。
救われたような気分になった。そう感じる自分を嫌悪した。
「もういいよ、咲夜。貴女はちゃんと私の要求に応えたんだから、それ以上は言わなくていいよ」
許されているような、受け入れられているような、声音はそんな思いを抱かせた。しかし違う。こんなのは違う。私はもっと酷い。単に怖がっているだけじゃない。
意地悪で、醜いのだ。唾棄されて、罵倒されて当然の感情が胸裡にある。
「待ってください! 私は!」
「今咲夜が言おうとした事も、一応分かってるつもりだよ」
被せられる言葉に、ついに二の句を継げなくなってしまう。
「でもそれを私に言うのは違うでしょう。それは、あの子に言うべき事でしょう」
そうして彼女は、また天井を指差した。
分かっている。
フランドール様。そう、告げるべきはあの方なのだ。許しを請うべきはあの方で、目の前にいるこの人ではない。今許されるのは、それはずるい選択だ。
「……」
一旦息を吐いて、私は唇をきつく結ぶ。
「じゃあ、行こうか」
一刻も早く、妹様に懺悔しなくてはならない。
私は逸る気持ちを抑えて立ち上がった。
主塔の足元。一階部分には多くの美術品が展示されていた。風景画やレミリアお嬢様たちが描かれた人物画、壷や武具などが並んでいる。その中で一つ、石碑のようなアンティークがあった。
筆記体の英語で彫られた碑文に仮面の少女が触れると、それらの文字が順に発光し始める。柔らかい黄色の光りが、文章をなぞっていく。
辛うじて碑文の一文目が読み取れた。
〝上の如く、下も然り〟
何かの呪文だろうか?
「咲夜は時を止めるときにどんな風な気持ちになるのかな?」
突然そう問われ、私は碑文の解読を諦めてその問いについて考えた。しかし特に考えや気持ちを抱いたこともないと思い至る。
呼吸をするのと同じように、私は時を操ってきた。
危険や面倒事、そういった際に時を止めたり、緩めたり、速めたりする。それだけだ。
「考えた事もなかったですわ」
「ふぅん」
間もなく、碑文の光はふわりと霧散し、石碑が床へ収納されていく。それから石碑の後ろの壁が連なるように床へと沈んでいく。
そうしてそこに、重たく冷たい暗闇を孕む通路が現れた。
「これは……お願いして正解でしたね」
「さすがに地力で探すのはキツイよねぇ。まぁあの子にバレないように仕込んだから、しょうがないんだけどさ」
分かりやすくしてしまえば彼女が言うように妹様に気取られる可能性は高まってしまう。発覚すれば干渉されてしまう。この世界の仕組みがどうなっているのかは分からないが、やはり分かりにくくするしかないのだろう。
少女が通路へ進んでいくので、それに追従する。
歩みに従って、魔導ランプが順次灯っていく。通路は階段となり、下へと続いていく。
「ねぇ、能力を使う時、咲夜は怖くならない?」
「怖く、ですか?」
「例えば時を動かせなくなったりしたら? そんな風に考えたことは無い?」
時を動かせなくなる……つまり、停止世界から帰還できなくなった場合だろう。
永遠に時間の経過しないあの世界に取り残されたら。それは、死ぬということと何の違いがあるのだろうか。
「あります」
「じゃあ、それは可能だと思う?」
「……分かりません」
少なくとも今までそんなことはなかった。止められる時間も有限だし、無意識に停止世界から脱してしまうこともままあった。あの世界に長時間いるには相応のエネルギーや集中力が必要なのだと思う。
だが、ゆくゆくはどうだろう?
突如として力が高まったら?
停止中に能力が消失したら?
そう考えると、思わず鳥肌が立った。
「大きすぎる力って、どうしても限界が分かりにくいところがあるよね」
「……はい。それを嬉しく思うのか、それとも恐怖を覚えるのかは、分かれるところではあると思いますが」
「怖い?」
「正直な話、怖いです」
「それが正常だよ、何も人間だけじゃない。考える生き物としてね。未知に対して警戒しないのは愚行だから」
無知。無謀。蛮勇。軽忽。浅慮。どれにした所で、手痛いはね返りがあるのは間違いない。
そして、自らそういう損失を望むのは、生き物として異なるという他ないだろう。
「大いなる力には、大いなる責任が伴う。そして振るう者には、それを受け止めるだけの心、器量が必要になってくる。心が壊れれば……」
一度、歩みを止めて少女は振り返った。
「どうなるかは、分かるよね」
ぞわり、と。
全身を、粘性のある波がゆっくりと流れていった。仮面の奥の見えない瞳に、危険な光が宿っている気がした。
返事はできない。ただ緊張に震える喉を静かに鳴らして、ゆっくりと頷く。
その反応に満足したのか、発せられていた殺意のような重たい気配が失せる。少女がまた歩き出すので、それに従った。
「まぁ、そうならないように気をつけようねって話」
やがて階段は終わり、立ちはだかるように壁が現れた。道は左右に伸びており、それに沿ってランプが灯っていく。しかしランプは遠のくにつれて間隔が狭まり、やがて見えなくなってしまった。
通路が曲線になっているのだろう。右は左に曲がり、左は右に曲がっている。もしかしたらこの通路は円周状かもしれない。
「咲夜、懐中時計貸して?」
「え、はい」
パチュリー様からいただいた懐中時計を取り出し、少女へと差し出す。
少女はステムを回して七曜盤を月曜日にセットしてから、懐中時計を壁に向ける。すると一筋の光が壁から飛び出し、懐中時計へと差し込まれた。
がこん、と何か閂のような物が落ちる音が響く。
光が途切れ、地響きとともに壁が動き出す。どういうからくりかは分からないが、壁がダイヤルのように通路にそって回転し、レンガが一つ、また一つと動き、やがて私たちの前に通路が出来上がった。
その向こうでも壁が動いていた。そして同じように通路が生まれ、その向こうでも通路が生まれ、それが何度か続いていく。
やがて通路の先に、赤地に鉄の装飾を施された扉が現れた。大きな駆動音もそこで止まった。
「あれが……」
「うん。私が作ったあの子の部屋」
少女は懐中時計を私へと返し、出来上がった道を歩く。一緒にその扉へ向かう。この大掛かりな仕掛けもまた、妹様の目を盗むための物なのだろう。
扉の前に立つと、その扉に雫状の窪みがあることに気付いた。
まぁ、ここまでくれば分かる。私は察して、持っていた虹色結晶を取り出した。少女も頷く。私はその結晶を窪みへと嵌め込んだ。
瞬間、虹色の波紋が、その結晶を中心にして幾何学模様のラインを駆け抜け扉全体に伝播する。重い、錠前の外れるような音が扉の向こう側から響いた。結晶が淡く発光し、窪みから浮かび上がる。返還されているのだろうか、私はそれを手にとって再びポケットへと仕舞い込んだ。
「相似の碑文、七曜の環状防壁、虹の雨の鍵……まぁ隠すにしても大げさすぎたかな」
扉が重苦しい音を立てて開く。隙間から強烈な光が零れ、あまりの眩しさに思わず目を細め手をかざしてしまった。やがてその眩しさに少しづつ目を慣らしていくと、妹様の部屋が目に入ってくる。
〝それは、こじんまりとした薔薇の庭だった。楕円に曲がる天井、その頂天にある光球から、明るく柔らかな陽光が部屋全体を照らしている。澄んだ空気と穏やかな噴水の音。観葉植物の緑、アクセントの紅と黄の薔薇たち。そうして象られたサークルの中央に、白亜の四阿が一つ。太陽の光で影になっているその屋内に、木製のテーブルと椅子が置かれていた。〟
「……これは」
思わず、ため息が出た。感動のため息だった。
これまでの緊張や疲労といったものがゆるりと解かれ、呼吸をするごとにそれが体外へと排出される。そんな錯覚がある。とても穏やかで、安らぐ。
これが妹様の心を表す部屋とは、少し信じられないくらいだった。
「いや」
違うか。少なくとも最初に感じた妹様の印象は穏やかなものだったはずだ。
『貴女が食事を作ってくれている人なのね?』
『はい』
『いつも美味しいお菓子をありがとう。咲夜』
そんな、一言二言の、なんて事のない会話。
仮面の少女が足を止め、白い四阿を指差す。その中の木製のテーブル、その上に一冊の本が見えた。あれがアイテムなのだろう。私は黙ってそれに歩み寄る。
テーブルの上に置かれた赤い装丁の本。また本だ、けれど妹様から渡された本とはまるで違う。金具も、革表紙も、金の印字もない。ざらざら、ごわごわとした、まるで価値のなさそうな、小さな紙冊子。
迷わず手にとって、それを開いた。
一ページ目。
「……え?」
〝私は望んだ。私の死を。〟
それしか書かれていない。本を手にとってどのページを捲っても、同じようにその言葉しか書かれていなかった。唖然としていると、突然耳元で、仮面の少女の声が囁きかけてきた。
「ごめんね咲夜」
振り返るよりも早く背中から痛みが走る。それが胸を突き抜ける。見下せば、細長い杭のような物の先端が、血に濡れて私の胸から飛び出していた。
眩暈がした。
「……?」
気付くと、私はどこかの草原に立っていた。
夜空に薄く青みがかった銀の満月が浮かんでいる。草原には白い花々が小さいながらも咲いており、遠くには暗い森、月を反射する水面、そして月光に照らされる、大きな城が見えた。
そして私の隣を、突然二人の少女が駆け抜けていった。
銀髪と、金髪の、可愛らしいドレスで着飾った小さな子どもたち。
楽しそうに明るい笑い声を出しながら、二人は草原を走っていく。
「……お嬢様?」
また眩暈がした。
気付くと、辺り一面が明るく染まっていた。
それは火の明かりだった。煌々と照らされる火の明かりが、そこら中の建物や家具などを燃やしていた。広い、宮殿のような廊下。ガラスは割られ、壁の至る所にに仄暗い赤色が塗られている。そこら中に横たわり、赤い何かを零す死体たち。
その光景が私の心に重くのしかかってくる。
息苦しい。目が乾く。頭痛がする。
その惨劇の中に、倒れている金髪の少女がいた。
幼い瞳が、呆然と虚空を見詰め、揺れている。子供が見るにしては、この演劇はあまりに惨すぎる。
しかしその目が一瞬、笑ったように見えたのは気のせいだろうか。
ぞわっと恐ろしい気配が全身を包み込み、思わず叫びだしてしまいそうになった。慌てて口を押さえる。
そして私の代わりに、遠くから別の叫びが轟いた。
悲鳴ではない。この世の全てを嘆く、激憤の篭もる怪物の絶叫だ。
暗い夜の空に、炎よりも鮮烈な紅い光が伝播する。
不思議と胸に温かい気持ちが湧いた。
また、眩暈。
今度は何処かの部屋だ。とても豪華で優美な家具たちの揃った、何不自由ない、そんな部屋。
着飾った金髪の少女と、格子の嵌められた窓を挟んで、銀髪の少女が対峙していた。お嬢様だった。彼女は満月を背に浮かび、金髪の少女に笑いかけていた。
そしてお嬢様は手を振り、金髪の少女に背を向け、暗い夜空に消える。
金髪の少女はそうしてお嬢様の姿が見えなくなった所で地面に座り込み、嗚咽し始めた。その背中から、黒い蔓が伸びていく。そしてあの七色の結晶が実っていく。
あぁ、やはりそうなのか。
「フランドール様……」
これはあの方の記憶なんだ。
景色が捩じれ、圧縮され、暗闇に変わっていく。別に浮かぶ光球が私へと飛来し、飛び込んでくる。途端に圧縮された記憶が私の頭を占領する。
フランドール様。可愛らしいドレス。重々しい手錠。一人で階段に。
そこは紅魔館じゃない。
吹き飛ばされた玄関。雪崩れ込む死屍累々。ゾンビに骸骨、アンデッドたち。それは怪異同士の戦争か。
妹様が虚ろ気な目でそれらを見下ろし、死者たちに向かって右手を翳す。
破壊の目を作るのかと思った。
けれど予想に反して、手から溢れたのは真紅の炎だった。その炎が波となってアンデッドを飲み込み、灰塵へと変えていく。吸血鬼として生まれ持った、莫大な魔力による殲滅攻撃だ。
怪異による怪異の滅殺。
なんてことはない。これは妹さまにとっても取るに足らないもののはずだ。現に妹様は何の感情も浮かべずに怪異が燃えていく様を見下している。だから私も何かを感じる必要もない。
そのはずなのに。
「なんでこんなに苦しいの……」
痛みで、胸が張り裂けそうだった。
また、記憶の光が私の胸に飛び込んだ。
どこかの廊下で。暗闇と月明かりの下で。
妹様と、全身をローブで包み、顔を仮面で隠した人間が対峙している。
「――――」
人間が必死の形相で何かを叫んでいる。しかし声は聞こえない。
剣を構え、人間が走り出す。
妹様の諦めたような瞳が、笑顔が、人間を迎え撃つ。そして妹様の右手が光る。目が出現して、それが握りつぶされる。それだけでその人間の人生は終結した。
突然轟いた爆裂音。まるで爆弾のようだった。炸裂音が耳に残った。次いで血飛沫。もがれた四肢。内臓の切れ端。骨が四方に飛び散る。
それを浴びて、妹様は笑う。笑う。笑い続ける。その姿があまりに痛ましすぎて、胸が苦しくなって、呻きながら地面にへたり込み、目を瞑って視線を逸らす。その瞑った目端から涙が零れた。
「もうやだ……」
そう言ったのは、私か妹様か、どっちだったのだろう。
別の記憶が飛び込んでくる。妹様の戦いの記憶。
また別の記憶が飛び込んでくる。妹様の悲しみの記憶。
別の記憶も、そのまた別の記憶も、妹様が叫び、笑い、泣いている。爆発音と血しぶきと悲鳴や断末魔が絶えず私の脳へと流れ込んでくる。そんな記憶ばかりだ。その度に、私の心に途轍もない感情の波が押し寄せて、心の一部を削り取っていく。見たくもないのに見せられて、私の精神は疲弊していった。立つ気力もなくなり、暗闇の中で座りこみ、俯き続ける。
不意に、光が差した。
いつの間にか、眼前にあの夢幻城の光景が広がっていた。黄昏と宵闇の境い目に染まる空の下、どことも知れない石畳の上だ。
あの黄金竜が、夢幻城を壊していく。
咆哮とともにまるで竜巻のようにその城を無造作に破壊する。城壁を、庭を、ドームを、居館を、あらゆる物を、尾や爪や炎でなぎ倒し、やがて竜は主塔に爪を立てて登り始める。
向かう先はお嬢様の眠る展望階。あれも壊すつもりだろうか。
それはダメだ!
そう叫ぼうとした。でも声が出ない。
「っ……!」
縫い付けられているように身体が動かない。
妹様は展望階の屋根を破壊した。列石とお嬢様の眠る結晶の棺が露わになる。その棺を睥睨しながら、黄金竜は前足を振り上げる。その結晶の棺を叩き潰そうとしている。
「やめろぉっ!!」
いつの間にか傍らで泣き崩れていた妹様が、そう叫ぶ。
しかしその妹様の声も虚しく、無慈悲にも竜はお嬢様の眠る結晶を展望階ごと踏み砕いた。
私は呆然と、その光景と打ちひしがれる妹様を後ろで見ていた。 竜はそのまま動かなくなり、破壊は止まる。それで、終わりのように思えた。
しかし、展望階から紅い光が溢れ始める。
壊れた夢幻城のそこかしこから、その紅い光で編まれた鎖が幾本も飛び出して、あの黄金竜へと絡みついた。見覚えのある鎖。お嬢様の使う、鎖型弾幕。紅い運命。ミゼラブルフェイト。
俯いていた妹様が顔を上げ、驚いたように声を漏らす。それから、
「ふざけるな……!」
深くおぞましい、低く重い声音で怨嗟の言葉を放ったのだ。そのあまりの恐ろしさに私の息が詰まった。私に向けられたものではないと分かっていても、妹様から溢れ出る気配が全身を総毛立たせる。
「くそっ、やめろ!」
妹様の声に応えるように、黄金竜が身体を捩れさせた。そして睨めつけるその瞳の先に、黒い翼を広げたお嬢様がおられた。遠すぎて、ここからでは表情も確認できない。しかしお嬢様が右手を掲げて、それを振り下ろすのは見えた。
運命の鎖がしなり、括っていた黄金竜を塔から引き摺り降ろし、地面へと叩きつける。私のすぐそばまで。あの巨体が落ちたというのに風も感じない。これは実体ではない。一方で、崩れていた瓦礫が風圧で吹き飛ぶ。竜は括りつけられた地面でもがき続けるが、鎖はびくともしない。
そして、お嬢様は両手と翼を広げる。紅く輝く光が台風のように渦巻き、世界を覆っていく。
「いや、嫌だ! いやだぁ!」
そして。
そして。
そして……。
7
そして気が付くと、私はリセット地点であるあの食堂の椅子に俯いて座っていた。
膝の上にあの赤い本が開かれている。ぽたぽたと透明な液体がページへと零れ落ちた。そこで自分が泣いていることをはっきりと自覚した。
何が起きたのか? 分からない。分からないが、とにかく物凄く疲れていた。全身が重い。鼻を啜って、涙を拭う。けれどまだ、涙は静かに頬を伝い続ける。
かたんと乾いた音が響き釣られてそちらを見ると、見覚えのある白地の仮面が机に置かれている。その奥で私の対面に座っていた少女が、被るフードをたくし上げて素顔を露わにしていた。
「おはよう咲夜。どうやら発狂せずに済んだみたいだね」
艶のあるライトブロンド。病的なほどに色白な肌。血で染まった紅い虹彩に、鋭く暗い瞳孔が縦に走る怪異の瞳。そして彼女の背中から黒い蔓に七色の結晶を垂らした羽がひょろりと現れた。
見間違えるはずもない。
我が主の妹君、フランドール・スカーレット様。
私はあぁやっぱりと妙に得心のいく気分になった。
根拠はなかったが、あれだけ多くこの〝妹様が創られた世界〟に干渉出来る者は紅魔館にもいないだろう。だから逆に限られていたし、その正体に驚きもなかった。
本人でなければ、あんな記憶を見せれるはずもない。
「あの子の気が触れているってのは、単純な精神面だけの話じゃなくてね。まぁもしかしたら今のあの性格や言動も、ちょっとした自暴自棄になっていたころからの、名残かもしれないけどさ」
そう言って、妹様は私が開いていた本の文面を遠くから示される。
〝私は望んだ。私の死を。〟
自暴自棄。死にたがり。自殺願望者。言葉はなんだっていい。
死を望むから、壊れている。
さっきの記憶が蘇る。また、胸が締め付けられるような感覚に苛まれた。
妹様が拍手し、ティーセットが出現する。そして独りでに熱いお茶を汲み始める。
「咲夜は、死ぬ自由がないっていうのは、幸せなことだと思う?」
不幸せだと思う。
私は死ぬ人間だ。その自由は確保されている。終わりがないということが、どれほど恐ろしい物なのか。考えるだけでも身の毛がよだつ。
ふと、竹林に住む蓬莱人たちのことを思い浮かべた。
遥かに永くからこの世界で生き続ける彼女たちは、死に対してどう考えているのだろうか。
優しげな音を立てて、紅茶が私に差し出される。
「あの子の可哀想なところはさ、その望みがある程度強く思いさえすれば叶えられるような、けれど絶対に叶えてはいけないような、そういう絶妙な位置にあったところなんだ」
「妹様は、本当に死にたがっておられるのですか……?」
今でも信じられないという気持ちだ。妹様と接してきて、そんなことを思っておられるような方には全く思えなかった。
もっと無邪気で、ある意味純粋な方だとばかり思っていた。
でも、あの記憶が本当なら、死にたがっているというのは嘘とも思えない。
破壊と死に埋め尽くされた人生。それを抱え、悩んだ末に死にたいと考えるのは当然のことじゃないか。
先ほど階段を下るときに言われた言葉を思い出す。
『心が壊れれば……どうなるかは、分かるよね』
つまりああなるのだと。
妹様は、けれど首を横に振った。
「今は……そうでもない。幻想郷は怪異狩りや戦争とは遠い場所にあるから、昔ほど殺気立っているわけでも、あの力に恐怖しているわけでもない」
安堵した。けれどその安堵に反して、妹様は「でも」と付け加える。
「いつ状況が変わるか分からない。幻想郷が変わってか、それともあの子の心情が変わってかは、ともかく。そうなれば可能性がでてくる」
もちろん、だからといって簡単に死ねる吸血鬼ではない。自殺手段は日光浴や火葬くらいか。いやそれですら不完全かもしれない。やはり完璧に死ぬには、他人の手が必要になってくる。
「だから咲夜にも、あの子を気にかけて欲しかった。あの子が死なないように。お姉様たちと一緒に」
「お嬢様たちも……?」
「昔、この事で一悶着あってね。その時たっぷり叱られたみたいだよ」
聞いたこともなかった。私が紅魔館にやってくる前のことかもしれない。
しかしとりあえず、話していたことでいつの間にか涙のほうも落ち着いていた。目端に残る涙を指で拭いて、私は改めて妹様へ質問する。
「貴女は……妹様ではないのですか?」
妹様の顔で、妹様の声で、まるで他人のように妹様を語る。この方は、一体誰なのだろう。
「私は死にたがっていない方のあの子。いや、あの子を死なせたくない方のフランドール。裏フランって呼んでね。でも、あの子には秘密だよ」
よく分からない。別人格とか、そういう物か。
「まぁ、私のことは気にしなくていいんだけどね。で、咲夜は望む物を手に入れられた?」
ああ、そうだった。妹様の部屋に向かい、この本を手に入れたのはあの方の思惑を知るためだった。先ほどの凄まじい心理体験ですっかり失念していた。
だが、この裏フラン様の話がその通りなら、私が招かれた理由もなんとなく分かる。
紅魔館で、私だけが妹様の自殺願望を知らなかったからだ。知らないから、将来殺せる可能性がある。この世界は、その為の練習場ということになるだろう。
それなら私のするべき事は簡単だ。妹様を殺さなければいい。
「……あれ?」
いやどうだろう。妹様も、今は死にたがってないというのが裏フラン様の言葉だったはずだ。なら今更死ぬための段取りを取るだろうか?
死にたくなった場合の保険――そう捉える事も出来る。しかし彼女の言葉はその意味を含んでいないように思える。
何か、私たちの間に齟齬があるのではないか。そう感じ始めると、私の中で疑念が際限なしに膨らんでいく。それは、私の中で妹様を殺したくないという意識でもあっただろう。
「……もしかして、この世界に私が招かれた理由と妹様の自殺願望は、関係ないのですか?」
「うん」
思いの他あっさりと、裏フラン様はそれを首肯されてしまう。だがこれではっきりとした。妹様は私に殺されたがっているわけじゃない。
そもそもこの世界の最終目標は〝黄金の竜〟の討伐であって、〝妹様〟ではなかった。それが、私が正体を見抜いてしまった事により変化してしまった。妹様はあくまで私と竜の姿で戦うことを望んでおり、決して殺してほしいと願っていたわけじゃなかった。
「殺してほしくないから、殺されたがっていた過去の記憶を見せた。これは私の目的だよ。もちろん私はあの子の裏側であるのだからあの子の目的でもある――なんて言葉遊びはいらないよね?」
私は頷く。
「改めて言うけど、これはゲームだよ。咲夜とあの子の、対等なゲーム」
そう、これはゲーム……遊びなのだ。妹様も常々言っておられたではないか。「楽しんでいるか」と。「嬉しいわ咲夜。楽しんでくれてるのね」と。そう言ったのは妹様だ。
妹様は私に楽しんで欲しがっている。こんな私を、自分を曝け出さなかった私を、わざわざこうしてこんな世界にまで呼びこまれて。
他人に楽しんでもらいたいと思う時、そこにはどんな思惑があるのだろうか。
「…………」
そんなことは、考えるまでもないじゃないか。
そこでようやく答えに辿りついた気がした。妹様の心の広さを感じて、私はまた涙を零す。思わず口元が緩んでしまう。
やるべきことが見え、それに向けて決意が固まっていく。
「どうやら答えが見つかったみたいだね」
「はい。私は愚かでした。もっと純粋になるべきでした。妹様のように」
「いやぁどうだろうね。純粋かなぁ。どちらかと言うと捻くれてるでしょ、あの子は」
「過程はどうあれ、動機は不純な物ではないと思います」
それだけは確信を持って言うことが出来た。
そして私の目的もはっきりした。その準備をするために立ち上がる。
もう、迷いはどこにもなかった。
8
西の空が夕焼けに染まっている。この世界の終わりも近い。
あの展望階を目指しながら、私は気持ちを整理していた。
私が妹様をどう思っていたか。そして、これからどうするか。
ある程度の流れは決めた。あとは妹様が乗ってくるかどうか。そしてあの方の気紛れに上手く対応できるかが勝負だ。
自然と足が重くなる。まだ少し自信がない。だがもう時間もない。なら、やらない後悔よりやって後悔することを選ぼう。
手に持っていたバスケットを一瞥し、もう一度決意を固める。
「よし……」
そうして、私はあの展望階へと踏み込んだ。
「お帰り、咲夜」
お嬢様の眠る棺の前で座っていた妹様が、そう声をかけてくださった。私もいつも通りに笑って、それに答える。
「ただいま戻りました」
いつも通り過ぎて拍子抜けしたのだろうか、一度呆気にとられた妹様は、やがて納得したように微笑まれた。
「その様子だとちゃんとアイテムを見つけられたみたいだね」
「はい、それはもう、きっちりと」
「そっか。予想より長かったけど良かった良かった。じゃあ、本番と行こうか」
妹様が立ち上がる。そして手に炎が溢れて棒状に伸び、黒枝となった。それを振るうと、その切っ先の軌道に焔の残滓が舞う。火炎の波はまるで妹様の高揚を表しているかのようだ。やがて黒枝を地面へと突き刺し、妹様は私へ不敵な笑みを浮かべられた。
この楽しそうな笑みを崩すことになるのは心苦しい。
だがもう後には退かない。私は妹様から視線を逸らし、夕焼けに染まる空を見た。
「……どうしたの?」
私の態度に、妹様は怪訝な表情を浮かべられた。
「この世界にはあとどれくらい時間が残されているのですか?」
「うーん、そうだねぇ。あと一時間くらいかなぁ」
短い。一刻も早く準備を始めるべきだろう。
「早くやろうよ」
時間を惜しんでいるのは妹様も同じようだ。
「そうですね」
私は目を瞑り、深い色の木製の円テーブルと二つの椅子、白いクロスを頭の中でイメージする。
すると、それらがぽん、と軽快な音を立てて私と妹様の間に出現した。
よかった。この場所でもこういうことが出来て。まぁ出来なかったらクロスを敷いて腰を下ろすだけだったが。
「なっ!」
妹様は大層驚かれた様子だ。掴みは上々である。私はそのテーブルに向かい、持っていたバスケットをテーブルに置く。そして妹様側に置かれた椅子の背を引いて、妹様を招く準備を終えた。
「……どういうこと? 咲夜」
妹様は警戒し、不機嫌に眉を寄せる。あの命を見つめられているような圧迫感もある。けれどこれは錯覚だ。妹様はこの世界であの能力を使うことはないだろう。
そう考えて緊張を抑え込み、私はいつも通りの笑みを心がけて浮かべて、妹様の問いに答える。
「見ての通りです。遅いですが、お茶にいたしましょう」
「いや……まぁコマンド実行は置いておくとして、どうして? 私は咲夜を殺したんだよ? 生き返ったとはいえ、いや生き返ったからこそ、私に怒るべきじゃないの?」
「その程度で怒るメイドではありませんよ、私は」
「壁に落書きしたら怒るくせに」
「その怒りと妹様がおっしゃる怒りは別でしょう?」
「む……」
妹様は口を噤まれた。ここまで強く返す私は珍しいと、意表を突けたのかもしれない。とにかく流れは私にある。この勢いを崩してはいけない。
「先ほど、妹様は私を殺しましたね」
「それが何?」
「私は弾幕決闘のルールに乗っ取らない殺し合いは不慣れでしたし、時を止める力も不十分でした。対等なゲームではなかったと思います」
「じゃあ対等な勝負をしようってこと? その為のお茶会? お茶でも入れ合って味を競うのかな?」
「いいえ。先ほどの殺し合いは、いわば妹様の我儘だと私は考えます。だから今回は私の我儘に付き合っていただけませんか?」
「……」
未だに警戒したままの顔で、妹様はその場を動かない。あと一歩足りないか。
「それとも、妹様はまた私を殺したいですか?」
妹様の目が揺れた。その反応は私の中にいけるという確信を生み出す。
そもそも私が招かれたのは、妹様が私と親交を深めようとしてくれたからだ。
いくら我儘な妹様でも、我儘だけで親しくなれるという考えを持っているわけじゃない。相手に譲歩することも当然ご存知のはずだし、何より妹様は相手の調子に合わせるのが実は上手なお方だ。相手の考えを読めるがゆえに、煙に巻く事も出来る。
それに、いくら機嫌を害した所で死ぬ世界ではない。突発的に殺されても言葉を返せる。妹様にはどうあっても暴力では勝てないし、なら私は言葉を使う。恐れず行くべきだ。
「……まぁ、いいけど」
妹様はそう漏らして、渋々という表情で席に着く。私は粗相の無いように丁寧に妹様を席へと迎え入れ、それから紅茶の準備を始めた。
適量の茶葉を入れ、温度と鮮度の下がらない魔法瓶に入れたお湯をティーポットに注ぐ。それからじっくりと蒸らし、お茶を抽出する。
「咲夜はお茶が好き?」
蒸らしている間、妹様がそう訪ねられた。
「はい。私が初めて趣味と自信を持って言えるようになった物です」
「趣味ねぇ。でもそれは貴女の意志で始めたことじゃないでしょう。少なくともメイドとしての責務からだわ」
中々意地悪なことをおっしゃる。確かに紅茶はメイドのいろはを教わるうちに好きになった物だ。それ以前に好きだったものは思い出せない。私は拾い児であり、記憶も拾われた時からしかないのだ。
だがそれがどうしたというのだろう。別に何から始まろうが好きなものに貴賎はないはずだ。
「それだけ、この仕事が気に入っているということですわ」
だから私はそう返した。妹様は呆れられた様子だった。
「仕事人間なのかしら?」
「それほど堅苦しく考えているわけではありませんよ。妹様はどうですか、紅茶はお嫌いですか」
「どちらかといえば普通。まぁお菓子と合わせるなら紅茶かなぁ。毎日飲みたいって程じゃないかも」
「では今度から麦茶も出しますわ。残暑が厳しいでしょうから」
雑談しているとすぐに時は経ってしまう。けれど私が時間を間違える事はない。よく蒸らしたお茶をカップへと注ぐ。最初は私に、最後は妹様に。ゴールデンドロップなど貴族の嗜みでもないが、最後の一滴が濃いのは本当だ。主人にそれを捧げるのは例え対等なお茶会であろうと、従者として当然である。
今回は沸き立てを用意したので血は垂らさない。
砂糖もミルクも入れず、紅茶を注いだカップを、静かに妹様の前に差し出した。
「良い香り。静かで、柔らかくて、すっきりする。落ち着く」
「ダージリンはリラックスに最適な物だと思います。ストレートで飲めますし」
私は焼き立てのクッキーやスコーンの入ったバスケットを想像する。机の上にそれらが登場すると、妹様は眼を見開いて驚かれた。
「さっきもビックリしたけどさ、なんで咲夜がオブジェクト出せてるの。権限もいつの間に取得したの?」
「えっと……」
言い淀んでしまう。しかし裏フラン様の存在を明かす事は出来ない。秘密にしろと言われたのだ。なんとか誤魔化さなければならない。
「先ほど戦った際に、妹様がレーヴァテインを虚空から生み出していたので、もしやと思い試したところ、成功しまして……」
「あそっか。それで気付けちゃったのかー。いやでも権限はなんで……もしかしてアイテムにそういう記述が? うーん……」
「ま、まぁ悪用は致しませんので、ご安心ください!」
強引に話を纏めると、妹様は一応の納得ということで頷いていただけた。
ボロを出してはいけないので、昼食を食べた事は秘密にしておこう。
妹様がクッキーを抓む。私もそれに倣う。焼き立てのクッキーを口に運ぶと、さくっと音が鳴ってふんわりと甘い香りが口に広がった。
「美味しい……」
私は感嘆の声を漏らしてしまった。
「やっぱり焼き立てだとねー。冷めた物とは違った美味しさがあるよ」
「この世界は凄いですね。いつまでも最高のお茶会が開けそうです」
「色々できるだけあって、魔力消費もちょっとアレだけどね」
「あ、もしかしてこの世界は……」
「私の魔力で運用中だよ」
頭を殴られたような気分になった。そんな世界で我が物顔で何をしてるんだ私は。
自分を叱責したくなるとともに、本当に何も知らずにいた自分がとても恥ずかしかった。顔がじんわりと熱くなった。
「ふふ、気にする必要ないよ。咲夜は私の我儘に付き合ってくれたんだからね」
「そ、そういうわけには……」
「お姉様だったら気にも留めないと思うよ。パチュリーもそうねで済ます。美鈴は……どうだろ、今度は自分の魔力も使って下さいとか言いだしそう」
確かに言い出しそうだった。都合よくサボる言い訳が出来たと喜ぶかもしれない。私は小さく吹き出してしまった。
「美鈴は、真面目に仕事をしてるでしょうか」
「どうだろうねぇ。お姉様と美鈴って、合わせるとかなり子供臭い感じになるからなぁ」
「昔からそうだったのですか?」
「昔はもうちょっと大人びてたような……いや、大人でガキっぽいというか……とにかくお姉様が暴れ回ってばっかりでさぁ」
妹様とこういう風に他の館の住人について話す事は初めてだった。
だが、すんなりと言葉が出て流れるように会話が続いた。
普段お嬢様はどうだとか、美鈴はよく妹様の部屋にいるのかとか、またパチュリー様の実験が失敗したとか。笑い合ったり、驚かせ合ったり。些細なことでもお互いにとっては刺激的だった。
「咲夜は、お姉様たちのことは好き?」
「ええ。変えがたい物であると思います。もちろん、妹様も含めて」
「ホント? でも怖いんじゃない? 私の力がさ」
この人は本当に意地悪だ。何もかもお見通しで、あえて私の口からそれを言わせようとしている。そしてさりげなく話題に出す。これが本当の目的だったのだろうか。それとも気紛れだろうか。
だが、もう臆するような私ではなかった。
「確かに妹様の力は恐ろしいですが、それで死ぬことはないと思っているので平気です」
「へぇ?」
「妹様はお優しい方ですから」
力強くそう告げると、妹様は言葉を失ったように呆けてしまった。でもそうだろう。わざわざこんな世界を用意して、私に楽しんでもらうために趣向を凝らして、交流するために苦心された。自分の力を考慮して、害の無い世界を作られた。
今なら妹様が死にたがった理由も分かる。先ほど見た、妹様とお嬢様の光景も理解できる。きっと妹様は、お嬢様の重荷にならないように死にたがり、そしてお嬢様はそれを拒絶したのだ。あの光景は、裏フラン様が言っていた一悶着についてのことに違いなかった。
〝王女に捧げる苦しみの終わり〟とは、そういう意味でもあるのだろう。そしてあの一文は、私との息苦しい関係を終わらされるためでもあるのかもしれない。もちろん本当のところは、妹様にしか分からないが。
「私は……」
今なら言えると思った。本当の罪の告白を。
だが私の口は重くなる。言葉が無くなり、声が消える。どう言えばいいのか分からなくなりそうだった。
一度口を噤み、もう一度息を吸い込んでから、私はそれを口にする。
「私は妹様が羨ましかったんですね」
口にしてしまえば、もう重さを感じなくなった。妹様は分からないという表情で「はぁ」と微妙な声を漏らしている。私は構わず続けた。
「お嬢様や、パチュリー様、それに美鈴たちに気をかけてもらって。本来なら私もそれに加わるべきでしたのに、多分子供だったから、拗ねて甘えて、怖いと言い訳して、妹様から距離を置いていたんだと思います」
その結果があのがらんどうの時計塔。妹様に対して受動的な私、触れ合おうとしなかった私、自分を隠した私。
意味を察し始めて、妹様は真剣な面持ちになる。
「人間だから、心配されて当たり前。吸血鬼の心配を何故する必要があるのか。そんな子供みたいな先入観で、妹様の思いを台無しにしてきてしまった」
「……うん」
妹様はあえてここで否定なさらなかった。素直に首肯してくださって、私は気持ちが楽になっていた。認めてもらえたような、隠さず明かしてくれたような、そんな嬉しさがあった。
「ここにきて、ようやく思い至る程の愚か者です。そんな私ですが、どうか貴女に仕える事をお許しいただきたいのです」
「それを決めるのは、私ではなくお姉様よ」
「罰が下るというのなら喜んで受けます。そしてまた、私が貴女に紅茶を入れさせてもらえるように頼み込みます」
「いやそこまで変なことにはならないと思うけど……」
困惑した妹様はしばらく唸った後、やがて諦めたようにふうと溜息を吐いて肩を落とす。
「私はてっきり、咲夜が私の力を怖がってるから、話かけてくれないのかと思ってたよ。だからこの世界を用意したんだけどさ」
死んでも蘇る世界。
リスタートのきく世界。
ここでなら、恐れられずに物を言える。
「まさか羨ましいと思われてるとはね、考えてもみなかった」
「すみません。私はまだまだ、子供みたいです」
照れくさかったが、私はそう言って自然と笑みを浮かべた。
「子供、子供か……あぁ、そうだね」
納得されたように頷いて、妹様はスコーンを食べて、紅茶を飲む。
「思えば咲夜とは、大きくなってからしか接してこなかったもんね。こんなナリだし、咲夜から見て私が子供に見えるのはしょうがないよね」
「そう、なのでしょうか……?」
よく分からない。
「お姉様たちは小さい頃から咲夜と接しているからさ、親とか大人とか、そういう心象を抱くのは子供として当然なんだと思う。でも私は違うじゃない? だから、突然現れた子供が、今まで自分のいた場所を占領したみたいで、悔しかったんじゃない?」
例えば、幼少期に愛情が足りなかった子供が、新たに生まれてきて父母から愛される弟や妹に対して嫉妬し、手を上げてしまうなどの事があるという。それが、私にも起こったということなのだろうか。
しかし愛が足りなかったとは微塵も思っていない。思っていないがそういう心理が働いたとなると、私が相当愛に飢えているということなのだろう。
そう思うと、何となく自分の中でも収まりがついた。
そしてそれを見抜かれた妹様の明敏さに、私は畏敬の念を抱く。
「これからは、もっと大人っぽくふるまった方がいいのかな?」
やはり妹様は聡明な方だ。そしてお優しい。普段見る妹様とは違う、穏やかな印象。私が最初に妹様に持った印象、その人だ。
「いいえ。これまで通りの妹様で、お世話させてください。そしてまた、二人でこうしてお茶会を開きましょう」
「ふふ、お姉様や美鈴やパチュリーのことを話すのね」
「ええ。二人だけの、秘密のお茶会ですわ」
妹様は笑って下さった。子供のように愛らしい笑顔で、私たちは自然と指切りをした。それからまた、起きているだろう三人のことについて語り合った。
五時を示す鐘が鳴った。それまでとは違い、止まること無くその鐘は鳴り続けた。
私はお嬢様の武勇伝について聞いている最中だった。まだまだ聞きたいという思いがあったが、妹様の寂しそうな顔でそれを言葉にするには至らなかった。
「あーあ、なんだか咲夜のペースに乗せられたままおわっちゃったなぁ」
「真剣勝負は出来ませんが、弾幕ごっこのお相手なら、暇を見てお相手でしますわ……まぁ散らかさない程度に抑えて欲しいのですけれど」
「なにか言った?」
「いいえ何も」
いつも通りの完璧な笑顔で対応する。なんだか焦ったり泣いたり笑ったりと、忙しい時間だった。が、本当に名残惜しかった。もっと妹様と話したい。
「眼が覚めたら、このお茶会の続きを致しましょうか」
「いやそれはいいよ。多分日の出だし、魔力を使ったから私も眠くなってるし」
「そうでしたか」
いくらか残念だったが、催促してもしょうがない。こういうのはたまにやるから面白いのだ。私もそれは分かっているし、多分妹様もそう思っておられるはずだ。
やがて地響きが始まった。
城の至る所から夕焼けに染まった光子が生まれ、空へと還っていく。お嬢様を飾っていた結晶が、図書館が、庭園が、光となって空に消える。
世界が終わるのだ。それはまるでよく出来た絵画のように、人に寂寥と感動を与える光景だった。美しい終わりだった。
「ありがとう咲夜。こんな私の我儘に付き合ってくれて」
「こちらこそ、こんな私をお招きくださって、ありがとうございます」
私の身体からも光子が零れ始める。手足が透け始める。気付いてもなお、私たちは椅子から離れはしない。
「咲夜。十六夜咲夜」
最後に妹様が私の名前を呼んだ。今にも泣きそうな、触れれば崩れてしまいそうな笑顔で。
「決して、私のようにはなってはいけないよ」
それはどこまで本音だったのか。それとも軽い冗談だったのか。私には分からない。
でもいつだったか。同じ事を言われた気がする。今ならその言葉の重みがよく分かる。
裏フラン様の言葉が脳裡をよぎる。
『まぁ、そうならないように気をつけようね』
自分のように壊れてはいけないよと。
フランドール様はそう心配してくださっている。本当に優しい方だ。
主を心配させるとは従者失格である。私は笑って、妹様の言葉に応えた。
「成りたくても成れません。何故なら妹様は妹様なのですから」
妹様は笑った。心の底から、嬉しそうに。
そして、私の意識はその世界から弾き飛ばされた。
エピローグ
目覚めると、妹様のベッドの天蓋が見えた。どうやら妹様のベッドに寝かされていたようだ。妹様の匂いがする。甘く優しげな、柔らかい香りだった。
「おはよう」
妹様の声だ。声のした方を見ると、妹様がネグリジェ姿でロッキングチェアに座っていた。主従が逆転してしまっている状態に、私は慌てて起き上がって、ベッドから脱出する。
「妹様、お身体は平気なのですか?」
「うーん、ちょっと疲れた」
入れ変わるように妹様がベッドへとダイブする。もう眠たげな表情だ。ずっと起きておられたのだろうか。だとすれば申し訳ない限りである。
「心配しないで。ちゃんと私も寝てたからね……咲夜、良い夢は見れた?」
良かった。私は安堵とともに微笑みを浮かべて妹様に応える。
「はい、とても。それになんだか疲れも取れて、気分すっきりです」
サイドテーブルに置かれた本を一瞥し、私は妹様に頭を下げた。アレのおかげで、随分と妹様への見方が変わった。この場にもっと居たいと名残惜しむようになった。全て、妹様のお陰だ。
「ありがとうございました」
「こっちこそ。それからお休み」
「はい。お休みなさいませ」
妹様にシーツをかけて、お互いの頬にキスをした。それから部屋の明かりを消して私はその部屋から下がった。
時を止めて地上へ戻り、まず懐中時計で時刻を確認する。針は五時半を指し、外はもう白み始めていた。もう夜明けだ。お嬢様はどうしているだろうか。早速確認しに行こう。
お嬢様の部屋へやって来た私はまず扉をノックした。返事はない。もう一度ノックしても、やはり反応はなかった。もうお休み中なのだろうか。
万が一を考えて、時を止めて入室する。
まず目に入ったのはベッド。その上からいつも置かれていたはずの就寝用の棺が転げ落ちている。何故なのか。とりあえず視線を移すと室内に設けられたローテーブルの上に菓子の袋や酒の空き瓶が散乱し、ソファの背には衣類が無造作に掛けられていることに気付いた。お嬢様の衣類の他に、メイド服らしき物がある。
ベッドを確認すると、紅い髪が布団の裾から飛び出していた。掛け布団もお嬢様が眠っているにしては膨らみ過ぎている。布団をめくってみると、そこには一糸纏わぬ美鈴とお嬢様が眠っていた。美鈴がお嬢様に抱きつき、その腕の中でお嬢様はうずくまるように丸まっている。どうやら酒を飲んで同衾したようである。
部屋の惨状を見るに、昨晩は相当愉快なことになっていたのだろう。
「全く……」
思わず呆れて言葉を漏らす。それから私は、とりあえず部屋の清掃をした。ワゴンを持ってきてローテーブルに置かれたお菓子のゴミや空き瓶を乗せる。まだ酒が残っている瓶はラックヘ。脱ぎ散らかっている衣服や下着は畳んでソファの上に。棺桶も蓋をして整えておく。
布団を整えて、カーテンを閉めて、ワゴンを部屋の外へ。清掃はこれぐらいでいいだろう。
最後に現行時間に戻った私はお嬢様たちに頭を下げ、静かに退室した。
ワゴンを調理場へと運び、ゴミを分別して捨て、空き瓶を洗う。調理場ではすでに料理班の妖精たちが朝食の準備に取り掛かっていた。火にかけられている大鍋は、下処理された野菜や鶏肉で作られたチキンスープで満たされている。匂いや味を確認するとそれはよく出来ており、私は調理していた妖精の頭を撫でて褒めてあげた。
保存していたパンも食べれそうだ。朝食に大きな問題はないだろう。
妖精たちに後を任せて、私は一度自室へ戻ることにした。シャワーを浴びて新しいメイド服に着替えたかった。
だがその途中、中庭で見慣れた紅髪が見えて、私は足を止める。
朝霧の中で長く綺麗な紅い髪が舞っている。メリハリのある動きで、度々空気の弾ける音が鳴っていた。その動きには無駄がないと言うべきか、隙がないと言うべきか。また独特のリズムを感じさせた。
私は中庭に出て套路を行う妖怪へと近づいた。さっきは寝ていたというのに、トレーニング用に来ている黒いタンクトップにだいぶ汗が滲んでいる。始めたばかりというわけではなさそうだった。
「おはよう美鈴。早いのね」
「おはようございます咲夜さん」
声を聞くと、自然と嬉しくなった。しばらくぶりに声を聞いた気がした。夢の世界の彼女は声を発することはなかったし、色々あって長い時間を過ごした気分だったから、少し新鮮な感じだ。
美鈴の動きが止まる。拳を下ろし、深呼吸をして套路を終わらせ、美鈴は私のほうへ向いた。
「さっきまで寝てたのに、いつの間に起きたの?」
「咲夜さんが来た時に、ぼんやりとですが」
「あら、じゃあ起こしちゃった? ごめんね」
「いえいえ。どうせ起きる時間でしたから、気にしないでください」
美鈴は中庭の噴水の縁に置いてあったタオルを手に取り、自身の汗を拭う。どうせだったら一緒にお風呂に入ろうか。あとで提案してみよう。
その前に気になることがあったので、私はそれについて言及してみた。
「貴女、お嬢様と一夜を共にしたのね。ちょっと羨ましいわ」
「昔はよくしてましたよ、今みたいに娯楽も多くなかったですし。やっぱり一番の従者として、抱かれてみたいですか?」
「どうかしら。お嬢様は子供っぽいから、そういうことを想像するのは難しいのだけれど」
「お嬢様は咲夜さんが大好きですから、その内お声がかかるかもしれませんよ」
「そう? 失礼のないようにしたいものだわ」
「大丈夫ですよ、お嬢様はどっちでも上手いですし、咲夜さんもお上手ですから」
「まぁ、誰かさんにそう仕込まれましたからね」
「別にそんな意図はなかったですよぅ。しかも最初に声をかけてきたのは咲夜さんですよぅ」
ぶーたれる美鈴の表情は可愛かった。表情も会話の一部だということがよく分かる。今までの妹様との対話で、私はどんな顔をしていたのだろうか。そしてこれからどんな顔をしていこうかをふと考えてしまう。
「それで、咲夜さんはどうでしたか? 妹様との一晩は」
「……」
つい、返答に迷ってしまった。あの世界のことを話すべきだろうか。だがあれは秘密のお茶会だ。妹様と私だけの、内緒の世界。
「……妹様って、とてもお優しいのよね」
絞り出すように、私はそう言葉を零す。
でもそれだけで、多分美鈴は凡そを把握したに違いなく、そう感じさせつつも寂しさの混じった微笑みを浮かべて答えてくれた。
「はい。きっとこの館で一番お優しい方かもしれません。そして愛情深い。それを他人に見せようとしないところがあの方の美徳であり、また難点でもありますけど」
その言葉と懐かしむような面差しに、私は彼女たちの過去を見る。
妹様の、死にたがっていた過去。それを怒られたという過去。色々なことがあったのだと思う。もしも機会があれば、私も知りたいと思った。
「まぁ、そういうところも含めて、私は妹様が大好きですけどね。咲夜さんはどうですか?」
怖かった。とは言わない。
今までのことは、もういいだろう。これからのことを意識し、そしてそれを決意するために私は、それを言葉にした。
「私も、妹様が大好きよ。貴女に負けないくらいね」
それはどういう意味だったのだろうか。自分で言っていて分からなくなった。いくつもの意味があったのだろうか。まるで妹様の言葉のようだった。
「え~なんですかそれ! 私だって負けませんよ! いくら咲夜さんでも妹様は渡しませんからね!」
「いつから貴女の物になったのよ。馬鹿なこと言ってないでシャワーを浴びにいくわよ」
私が踵を返すと、美鈴は素直についてきた。
「どちらかというと私たちが物ですよね、ここの場合って」
「そうね。だから私たちは今日も仕事に励むのよ」
私は考える。妹様の人となりを。
そして思う。妹様とのお茶会を。
また一つ、生きる楽しみが増えた。
この楽しみを積み重ねて、再び妹様とお話しよう。
きっと楽しいお茶会になる。絶対にしよう。私は自然と、そう決意していた。
了
紅魔館メンバーそれぞれをモチーフとしたオブジェクトの配置が絶妙ですね。
フランと咲夜が対決するのではなく、対話で決着を付ける結末も良かったです。
レミィと美鈴が同衾しているというのはすこしドキリとしました(^_^;) ギリギリの描写が好みでしたけど。
次回作にも期待しています。
こういう系統の話は大好きです
とても幻想的でした