子供たちのいない教室は重心を欠いていて、夜から朝にかけてやってくるという野分にいとも容易く吹き飛ばされてしまいそうだ。夏休みに入ってからもう数日が経っていたので、嵐が来るに当たって子供たちをどう帰らせるかとか、あるいは休みであることをどう伝えるかとか、その類の問題は起こらない。慧音は至って呑気だった。
「台風って、なんだか分からないけどわくわくするよな」と彼女は無邪気に言った。こうなるともうほとんど子供みたいなものだ。
「そうかなあ」
「外に出なくても良いし」
「まあ、学期中に来るよりはね」
休みに入ると、彼女の寺子屋を手伝っている私にも無論同じように暇ができるのだが、かといって今更何かやることというのも思いつかない。私は雑巾を絞って、学期の間当番の子供たちがおざなりにして我先に帰ってしまうような窓枠の隅の埃を拭き取る。壁に接して置いてある台をそこからずらして、普段見えない部分を磨く。時折手を止めて、壁の、普段は台に隠れて日の光に当たらない部分と、そうでない部分との色の違いをじっと見る。そういうのって、何というか、いつまでも見ていられるような気がする。
そんな風にして日中を過ごしていると、休みの静けさが教室の隅々にまで沁み込んでいくのがよく分かる。蝉の声も、夏の熱気も、教室の中ではどこかベールを一枚隔てた向こうのことであるように感じられた。
初めのごく僅かな間、仕事から解放された後の晴れやかな表情を見せていた慧音が、だんだんと手持ち無沙汰というか、何とはなしに物足りなさそうな様子になっていくあのお決まりの経過を私は微笑ましく見ていた。それはたとえば、夏になれば花火が上がるだとか、盆が来るだとか、そういうことと同じだ。
彼女が書斎に入って何やら書き物をしている間に、私は朝のうちに里で買ってきた枝豆とそうめんを茹でて、豆腐に薬味を加えて醤油をかける。日が傾くと書斎に声をかける。彼女が出てきた縁側には、もうすっかり何もかもが揃っている。彼女はにこにこして手を拭いた。
私たちはよく冷えた麦酒の瓶の栓を抜いた。斜めに掲げられた彼女の硝子のコップに金色の液体が注がれる。もちろん、やがて野分が来ると分かっている夏の夕暮れ時にするべきことなんて他には何一つない。
私たちは少しずつ酔いながら、焼いた亀の甲羅を見るようにしてじっと空を眺めていた。夕焼けが黒ずんでいき、それと同時に雲が空を埋め尽くしていく。
「やっぱり荒れるね」と私は空を指差して言った。
「うん」
まだ降り出してはいなかったが、私たちは空気が少しずつ重くなるのを、風の音がどこか不穏な響きを帯びるのを感じ取っていた。夜の闇の質量がなんだかいつもと異なっているということも。そういうものを肴にして飲む麦酒は何しろ美味い。なんとも言えず背徳的な味わいがある。
風が強くなり、いよいよ甲高い唸りを上げ始めると、私も慧音も腰を上げ、皿やコップを持って食卓へと引き上げた。私は雨戸を閉める。その途中でついに雨が降り始める。雨粒は横殴りの風に乗って障子に薄黒い染みを残す。
「貼り替えたばかりなんだけどなあ」と慧音がこぼす。
「夏だもの仕方がないよ」と私は言う。私の声は落ちた雷の大きな音にかき消されてしまう。
「何って?」と彼女が訊き返した。
私は首を横に振って雨戸を急いで閉める。重い雨戸と雨戸が縁側の真ん中でがつんと鈍い音を立ててぶつかって、それきり外の音は一段遠くなる。
大瓶が二本空き、と言っても一本と半分は私が飲んだのだが、何にせよ私たちは結構酔っ払ってしまう。雷鳴が風呂場の中で響いているようにぼやけて聞こえた。音さえ小さければ、雷というのは案外聞いていて落ち着くものだと私は思う。
身体を横に倒し、自分が座っているものの横の座布団に頭を載せる。机の脚の間から慧音が同じようにして眠っているのが見えた。雷の音に耳を澄ませているうちに私もいつの間にか眠り込んでいた。そうしてつまらない夢を見た。ずいぶんと昔の夢を。
次の日はすっかり晴れていた。雲ひとつない。慧音は座布団で眠ったまま、日が昇ってもなかなか起きてこなかった。夏の彼女は実に順調な経過を辿っていると言える。私は洗濯機を回して、待っている間に朝食を作った。キャベツを千切りにして、目玉焼きを焼いた。朝食の匂いが台所を出て食卓に届いても彼女が起きないので、ちょうど終わった洗濯物を先に干してしまうことにする。雨戸を静かに半分ほど開けて、濡れた洗濯物の入った籠を外に出した。玄関から出してきた草履を穿いて自分も外に出る。庭は夏の朝の光に満ちていた。伸びをすると、夏の空気の中からあと数分で消え去ってしまいそうな微かな冷気が、こめかみの辺りに染みるのを感じた。こういったときには、ただの洗濯物でさえも何かの幸運のしるしみたいに見える。
干し終わって屋内に戻ってもまだ慧音は眠っている。まったく、彼女の眠り方といったらまるで夢を貪り食っているようだ。何者にもそれを阻むことなどできないだろう。あるいは多分、私たちは生活の熱の総量が一定なのだ。彼女が少しずつさぼり始めると、私は少しずつまめになっていく。私は彼女が起きるまで待つのを早々に諦めて、自分の朝餉をゆっくりと食べ始めた。その後彼女の皿にラップをかけて、部屋から読みかけの本を持ってきたものの、雨戸を半分しか開けていないので、食卓は本を読むには幾分薄暗い。一度こういう状態に入った以上、日の光くらいで起きる慧音ではなかったが、かといって本を読むためだけにわざわざ雨戸を開けるのもなんだか違うような気がして、結局卓に本を置き、書き置きを残して私は外に出ることにした。
少し経つと、気温は上がって身体にみるみる汗が滲み、私は先程の自分が浮かれていたのではないかと反省した。少々早く起きたところで、結局のところ朝と昼とは途切れなく滑らかに続いているのだ。里の道は熱気に満ちて次第に揺らめいた。ただ、今夜の分の買い物はいずれにせよしなければならないのだと自分に言い聞かせて、店が固まって並んでいる方へと向かう。
八百屋で売られている水茄子の浅漬けがたまらなく美味そうだったので迷うことなく買った。西瓜も良い色をしていたけれど抱えて帰る重さを考えると手が出なかった。魚屋で日持ちのする干物と、あとつまみのするめを買った。そうして店を回っているうちにすっかり体力を消耗してしまっていたが、わらび餅でも買おうと入った和菓子屋で話しかけてきた女の顔は何とか記憶と像を結んだ。
「先生はお元気?」と彼女は訊いた。
「もちろん」と私は言った。「確か暑中見舞いをくれたよね」
「ええ。字も先生に習ったんだもの」
彼女はそう言って笑った。私は彼女が送ってきた、金魚と水の絵があしらわれた涼しげな便箋を思い出す。彼女はもう慧音と同じくらいの年に見えた。化粧をして、穏やかな物腰で、何もかもが昔とは違っていた。私は何となく後ろめたいような気持ちになった。あまりに月並みだけれど、時が経つのはやはり早いものだと私は思う。彼女の顔を見ているうちに幾つかの思い出が甦ってきた。私は彼女が親に手を繋がれて初めて寺子屋の門を潜った時のことを知っている。祖母が倒れたという知らせが授業中に入った時には、家まで彼女を送りもしたし、月のものが初めて来た時に相談されもした。昼休みに、人目を避けて、あの昨日も慧音と出た縁側で。確か同じように夏の日だったように思う。私は二杯の水を汲んだ。そうしたことを自分が相談されるというのは、いざその立場になるまで考えたこともなかったし、またどことなく自分にとっては滑稽にも感じた。何か自分が芝居の役を演じているような感覚があった。そして実際のところ、そういう出来事はその一回だけではなく、彼女が卒業して時間が経ち、また別の、髪にふわふわとした輝く春の光を纏った子供たちが入ってきてからも幾度も起こった。その度に私はやはり何かの役柄を演じているような気になったし、私はずっと同じままであるのに対して、彼女たちが年を追ってどんどん入れ替わっていくことがまた、そうした私の受け取り方を助長していた。少なくとも、それらの場面に立ち会う度に、私が役者として、少しずつであれ向上していったはずだと私は信じたい。ともあれ、その時彼女がなぜ自分の親でも慧音でもなく私に話を持ち掛けたのか、私には今一つ呑み込めていなかった。きっと一番害がなさそうだったのだろう。
あの昼下がりのことを彼女が覚えているかは分からないし、もちろん私から訊くわけもない。あるいは、こうした彼女の姿を見ていると、私がそうしたことを本当に覚えているのかということさえも自信がなくなってくるようだった。すべてはあるべき場所にとっくに収まっていた。私の目の前にいる彼女はもう充分に、充分すぎるほどに大人だった。昔だけを知っている者は、散らばっていた時期ばかりを思い出して疎まれるのだということくらいは私は知っていた。それはあるいは私が彼女に会ったときに何かしら後ろめたいような気がしたことの、ちょうど反対の側面なのだ。
「先生によろしく」と彼女は笑顔で言った。「またご挨拶に伺いますから」
「うん」
私も微笑んで彼女に手を振った。家族のことなどをこちらからもっと訊くべきだっただろうかと思ったけれど、今の家族構成はいつかの年賀状で書いてあったはずで、それも娘だったか息子だったか記憶が曖昧だった。知っているはずのことについて間違ったことを言い、がっかりされるのを嫌って、向こうから話題にするのを待っていたのだが、彼女はそうしたことには自分からは触れなかった。あるいは私が考えたのと同じことの逆の側面を彼女も考え、古い時間に留まり続ける私に気を遣ってくれたのかもしれなかった。あの夏の日の彼女と今の彼女を同じように考えるのは間違っていると分かっていても、買い物袋はずいぶん重く感じた。やはり西瓜を買わなくて良かったと私は思った。
まさに炎天の下を帰ると、さすがに慧音は起きていて、朝食も片付いていた。私の顔を見ると湯を沸かし始めた。
「おはよう」
「暑かったろ外は」
「そうだね」
私は買い物袋の中身を冷蔵庫に放り込んで、ついでに氷を一つつまんで口に入れた。
「昔の生徒に会ったよ」
「誰?」
私が名前を言うと彼女はああ、と言って頷いた。慧音は生徒の嫁ぎ先も子供の名前もちゃんと知っていた。子供の名前には聞き覚えがあって、恐る恐る確かめてみると、思った通りそれもずいぶん前に卒業した生徒だったので、私はひどく落ち込んだ。
湯が沸くと、彼女は鍋に一束蕎麦を入れた。柔らかい香りの湯気が立つ。私は食卓に入り、棚の年賀状や暑中見舞いの類がまとめられている引き出しを開けて、例の生徒からの手紙をあるだけ探した。私が先程思い出した金魚と水の絵のついた便箋も見つかった。少なくともそれに関しては記憶が正しかったので、私は少し安堵する。手紙は几帳面な字で書かれていた。彼女は字も慧音に習ったと言っていた。それは文字通りの意味だろうが、寺子屋に通っていた頃もこんな字を書いていただろうか? しかしもちろんというか何というか、彼女の字を思い出すことは出来なかった。
「もっと古いのは私の書斎にあるよ」と慧音が言った。彼女はざる蕎麦の皿とつゆが入った椀を私の前に置いて腰かけた。
「私だけ?」
「さっき食べたばかりだよ」と言って彼女は笑った。
「いただきます」
私が食べ始めると、彼女は眼鏡をかけて机の上の手紙を開いた。彼女は多分昔の生徒に会っても後ろめたくはならないのだろうなと私は思った。
蕎麦を食べ終わった後で、私は庭に出てすっかり乾いた洗濯物を取り込んだ。それから自分の部屋に戻ると、家を出る前に食卓に置いた本が机の上にあった。途中だったはずなのだが、私は開いて続きを読もうという気持ちになれなかった。
私は本を棚の中に片付け、机の前に座って、色々なことを思い出そうとした。大抵の場面に居合わせていたのに、私からだけ色々な記憶が欠落しているとは考えたくなかった。それはあんまりというものだ。
私は立ち上がって台所で水を二杯汲んだ。硝子のコップを二つ盆に載せてそのまま廊下に出る。私はあの日のように縁側に腰かけて、洗濯物の水をすべて吸い尽した後の晴れた庭を眺めた。あの日と季節は同じだが、学期中であったので、きっと庭はここまで白熱してはいなかっただろう。悩みを打ち明けてくれる生徒が今横にいないという空白を、果たして庭の熱気が埋めてくれるだろうかと私は考えた。そういう考えが浮かぶ自分は、やはり本当の意味での教師ではないなと、もはや今まで何度考えたのか分からないようなこともほとんど同時に心を通り抜ける。私は水を一口飲む。それから目を瞑ってあの日のやり取りや、空気の匂いを思い出そうとする。今鼻腔によぎるものとは微かに違うはずのあの日の匂いを。
私は自分が持て余している長すぎる人生の中で、この歩けども歩けども更新されない地平線のように常に未来が延々と眼前に広がり続ける日々の中で、このようにして立ち止まって過去を覗き込み、壊れないように恐る恐る掬い上げようとしたことが今まであっただろうかと考える。今までに起こった、ほとんどの取り返しのつかないことのその取り返しのつかなさは、あまりにもたくさんある時間によって、いつでも半ば強引に棚上げされてきたのだ。またいつの日か思い出してゆっくりと考えれば良いと。それはまさに溜め続けた宿題のようなもので、今となってはすべてが散らかっていて、どこから手を付ければ良いのかさえ分からなくなっている。
また、自らに発した問いのその不毛さは頭の中で何かと繋がって、私は昨夜見たつまらない夢をようやく思い出す。昔の夢を。その人を苛立たせつつも笑わせるようなつまらなさは、それでも渦中にいた私にとっては結構真剣なことだったのだ。私はもちろんそのことも一緒に思い出す。
それと同時に、ようやく私はあの日の匂いを記憶の中から拾い出し、再生することができた。あの生徒の言葉も、他の生徒たちの言葉も。思い出を順番に辿るにつれて、生徒たちによって年ごとに入れ替わり立ち替わり打ち明けられる秘密の数々が、この場所でひっそりと積み重なっていく手触りが感じられた。そして、その集積こそが少しずつここの様子を変えているのだということに思い至ったとき、慧音がどうして一見毎年同じことの繰り返しであるように思える教室の移り変わりにあれほどいつでも心を砕くことができるのかが、本当の意味で理解できたように感じられた。
気が付くと、盆を挟んで隣にいつの間にか慧音が座っている。彼女は水を飲んでいた。私は一瞬彼女をぽかんとした表情で見てしまう。彼女はグラスを口から離して盆の上に置き、こちらを見た。
「えっ、なに」と彼女は言う。
「いやいや」と言って私は笑った。それから自分のグラスを一息で飲み干す。唇を舐めて、しばらくのあいだ言葉を探していた。あの生徒もあの時こんな風に感じていただろうかと私は考えた。きっと違うだろう。彼女たち一人ひとりと同じくらい違うだろう。
「あの子の手紙を読みたいんだけど」と私はゆっくりと言った。「古いやつも」
「良いよ、もちろん」と彼女はにっこりと笑って言う。「持ってくるよ」
彼女は立ち上がって書斎に歩いていく。裸足のぺたぺたとしたその足音を、私は背中越しに聞いている。盆の上には二つの空のグラスが残った。縁側のてっぺんにはもう一つの秘密がひっそりと積み重ねられた。私はもう一度目を瞑り、深呼吸をして、夏の熱気が私を包み込んでどこかに連れ去ってくれるときを待った。
夏の終わり頃に私たちはいつもと同じように里の祭りに出かける。慧音は祭りのどこかで挨拶を任されていたけれど、もうこの頃になると彼女は完全にだらけきっているので私は毎年ひやひやした。この日も彼女は一旦財布を忘れて出てきて、暑い通りをまるまる一本引き返す羽目になった。
「ねえ大丈夫? 何を喋るか途中で忘れたりしない?」
「それはさすがに大丈夫だよ」
「本当に?」
「それに誰も聞いてやしないさ」と言って彼女はにやっと笑った。
りんご飴を食べたり射的をやったりしながら私たちは日が暮れるのを待った。辺りが暗くなると、大通りにずらりと並んだ露店が一斉に灯りをつけ始める。そのようにして、暗い中で遠くに小さな灯りが幾つもちらつくと、手元は見えず、離れたところだけがぼんやりと明るく浮かび上がるので、自分の心が身体から離れていくような感覚がある。同じような暗闇の中でも、自分の身体から炎を出すのであればこういう風にはならない。
「そろそろ行かなきゃ」と慧音が言った。
「うん」
彼女は灯りに沿って祭りの中心の方へと歩いていった。彼女の身体は灯りに近づいたり離れたりするので、私からは明滅しながら遠ざかっていくように見えた。やがて人混みの中に紛れて見えなくなる。
「藤原先生」と声がした。
私はそちらを振り向く。先日和菓子屋で会ったあの生徒の娘だった。辺りは暗かったけれど、寺子屋に届いた手紙に同封されていた家族写真を夏の間にあれから何度も見ていたのですぐに分かった。
「こんばんは」と私は言った。
「今向こうに歩いていったのは……?」
「慧音だよ」
「やっぱり」
彼女はふっと笑った。暗闇の中では、そういう表情は眉や口元のほんの小さな動きだけが実際に目に見えて、それが全体の比喩になる。
「先生、全然変わらないですね」
「慧音?」
「どっちも」
「そうでもないと思うけど」
祭りのやぐらに光が灯る。慧音は白髪を短く刈り込んだ年かさの男からマイクを受け取って壇に上がる。やぐらの光が通りを照らし、私たちのいるところもずいぶん明るくなる。私は自分に話しかけてきた娘が一人でないことに気付いた。明るくなった通りでは、その教え子の家族の肖像が露わになっていた。後ろには娘の両親と兄がいる。今では私はその全員の顔と名前をちゃんと知っていた。娘は来年にはここから一本奥に入った通りの和菓子屋の息子と結婚することになっている。
「こんばんは」と母親が言った。
「こんばんは」と私も言った。
慧音が話し始めたが、スピーカーが良くないのか、声はくぐもってさっぱり聞き取れない。誰も聞いていないというのはこういうことだったのかと、私は半分感心して半分呆れていた。娘が笑って振り返り、母親に何か耳打ちした。彼女はくすくすと笑った。
「仲が良くって羨ましいな」と私は言った。
「先生たちこそ」と娘は言った。「本当の親子みたいだもの」
私は苦笑する。私には、目の前にいる一世代離れた二人の女は、どちらもあの寺子屋の縁側に立ったときの少女の姿がどうしても重なって見えていたのだ。
祭りが過ぎればもう夏も終わりだった。夏が終わるのはいつもほど悲しくはなかった。それは毎年胸に鋭い痛みが走り、身体の一部を持って行かれるような気がするほどつらいことだったのだが、今年はなぜだかそういう気持ちにはならなかった。私はその家族と並んで立ったまま、慧音のスピーチを最後まで聞いていた。たとえ彼女の言葉が一つも聞き取れなくても、私は幸せだった。
「台風って、なんだか分からないけどわくわくするよな」と彼女は無邪気に言った。こうなるともうほとんど子供みたいなものだ。
「そうかなあ」
「外に出なくても良いし」
「まあ、学期中に来るよりはね」
休みに入ると、彼女の寺子屋を手伝っている私にも無論同じように暇ができるのだが、かといって今更何かやることというのも思いつかない。私は雑巾を絞って、学期の間当番の子供たちがおざなりにして我先に帰ってしまうような窓枠の隅の埃を拭き取る。壁に接して置いてある台をそこからずらして、普段見えない部分を磨く。時折手を止めて、壁の、普段は台に隠れて日の光に当たらない部分と、そうでない部分との色の違いをじっと見る。そういうのって、何というか、いつまでも見ていられるような気がする。
そんな風にして日中を過ごしていると、休みの静けさが教室の隅々にまで沁み込んでいくのがよく分かる。蝉の声も、夏の熱気も、教室の中ではどこかベールを一枚隔てた向こうのことであるように感じられた。
初めのごく僅かな間、仕事から解放された後の晴れやかな表情を見せていた慧音が、だんだんと手持ち無沙汰というか、何とはなしに物足りなさそうな様子になっていくあのお決まりの経過を私は微笑ましく見ていた。それはたとえば、夏になれば花火が上がるだとか、盆が来るだとか、そういうことと同じだ。
彼女が書斎に入って何やら書き物をしている間に、私は朝のうちに里で買ってきた枝豆とそうめんを茹でて、豆腐に薬味を加えて醤油をかける。日が傾くと書斎に声をかける。彼女が出てきた縁側には、もうすっかり何もかもが揃っている。彼女はにこにこして手を拭いた。
私たちはよく冷えた麦酒の瓶の栓を抜いた。斜めに掲げられた彼女の硝子のコップに金色の液体が注がれる。もちろん、やがて野分が来ると分かっている夏の夕暮れ時にするべきことなんて他には何一つない。
私たちは少しずつ酔いながら、焼いた亀の甲羅を見るようにしてじっと空を眺めていた。夕焼けが黒ずんでいき、それと同時に雲が空を埋め尽くしていく。
「やっぱり荒れるね」と私は空を指差して言った。
「うん」
まだ降り出してはいなかったが、私たちは空気が少しずつ重くなるのを、風の音がどこか不穏な響きを帯びるのを感じ取っていた。夜の闇の質量がなんだかいつもと異なっているということも。そういうものを肴にして飲む麦酒は何しろ美味い。なんとも言えず背徳的な味わいがある。
風が強くなり、いよいよ甲高い唸りを上げ始めると、私も慧音も腰を上げ、皿やコップを持って食卓へと引き上げた。私は雨戸を閉める。その途中でついに雨が降り始める。雨粒は横殴りの風に乗って障子に薄黒い染みを残す。
「貼り替えたばかりなんだけどなあ」と慧音がこぼす。
「夏だもの仕方がないよ」と私は言う。私の声は落ちた雷の大きな音にかき消されてしまう。
「何って?」と彼女が訊き返した。
私は首を横に振って雨戸を急いで閉める。重い雨戸と雨戸が縁側の真ん中でがつんと鈍い音を立ててぶつかって、それきり外の音は一段遠くなる。
大瓶が二本空き、と言っても一本と半分は私が飲んだのだが、何にせよ私たちは結構酔っ払ってしまう。雷鳴が風呂場の中で響いているようにぼやけて聞こえた。音さえ小さければ、雷というのは案外聞いていて落ち着くものだと私は思う。
身体を横に倒し、自分が座っているものの横の座布団に頭を載せる。机の脚の間から慧音が同じようにして眠っているのが見えた。雷の音に耳を澄ませているうちに私もいつの間にか眠り込んでいた。そうしてつまらない夢を見た。ずいぶんと昔の夢を。
次の日はすっかり晴れていた。雲ひとつない。慧音は座布団で眠ったまま、日が昇ってもなかなか起きてこなかった。夏の彼女は実に順調な経過を辿っていると言える。私は洗濯機を回して、待っている間に朝食を作った。キャベツを千切りにして、目玉焼きを焼いた。朝食の匂いが台所を出て食卓に届いても彼女が起きないので、ちょうど終わった洗濯物を先に干してしまうことにする。雨戸を静かに半分ほど開けて、濡れた洗濯物の入った籠を外に出した。玄関から出してきた草履を穿いて自分も外に出る。庭は夏の朝の光に満ちていた。伸びをすると、夏の空気の中からあと数分で消え去ってしまいそうな微かな冷気が、こめかみの辺りに染みるのを感じた。こういったときには、ただの洗濯物でさえも何かの幸運のしるしみたいに見える。
干し終わって屋内に戻ってもまだ慧音は眠っている。まったく、彼女の眠り方といったらまるで夢を貪り食っているようだ。何者にもそれを阻むことなどできないだろう。あるいは多分、私たちは生活の熱の総量が一定なのだ。彼女が少しずつさぼり始めると、私は少しずつまめになっていく。私は彼女が起きるまで待つのを早々に諦めて、自分の朝餉をゆっくりと食べ始めた。その後彼女の皿にラップをかけて、部屋から読みかけの本を持ってきたものの、雨戸を半分しか開けていないので、食卓は本を読むには幾分薄暗い。一度こういう状態に入った以上、日の光くらいで起きる慧音ではなかったが、かといって本を読むためだけにわざわざ雨戸を開けるのもなんだか違うような気がして、結局卓に本を置き、書き置きを残して私は外に出ることにした。
少し経つと、気温は上がって身体にみるみる汗が滲み、私は先程の自分が浮かれていたのではないかと反省した。少々早く起きたところで、結局のところ朝と昼とは途切れなく滑らかに続いているのだ。里の道は熱気に満ちて次第に揺らめいた。ただ、今夜の分の買い物はいずれにせよしなければならないのだと自分に言い聞かせて、店が固まって並んでいる方へと向かう。
八百屋で売られている水茄子の浅漬けがたまらなく美味そうだったので迷うことなく買った。西瓜も良い色をしていたけれど抱えて帰る重さを考えると手が出なかった。魚屋で日持ちのする干物と、あとつまみのするめを買った。そうして店を回っているうちにすっかり体力を消耗してしまっていたが、わらび餅でも買おうと入った和菓子屋で話しかけてきた女の顔は何とか記憶と像を結んだ。
「先生はお元気?」と彼女は訊いた。
「もちろん」と私は言った。「確か暑中見舞いをくれたよね」
「ええ。字も先生に習ったんだもの」
彼女はそう言って笑った。私は彼女が送ってきた、金魚と水の絵があしらわれた涼しげな便箋を思い出す。彼女はもう慧音と同じくらいの年に見えた。化粧をして、穏やかな物腰で、何もかもが昔とは違っていた。私は何となく後ろめたいような気持ちになった。あまりに月並みだけれど、時が経つのはやはり早いものだと私は思う。彼女の顔を見ているうちに幾つかの思い出が甦ってきた。私は彼女が親に手を繋がれて初めて寺子屋の門を潜った時のことを知っている。祖母が倒れたという知らせが授業中に入った時には、家まで彼女を送りもしたし、月のものが初めて来た時に相談されもした。昼休みに、人目を避けて、あの昨日も慧音と出た縁側で。確か同じように夏の日だったように思う。私は二杯の水を汲んだ。そうしたことを自分が相談されるというのは、いざその立場になるまで考えたこともなかったし、またどことなく自分にとっては滑稽にも感じた。何か自分が芝居の役を演じているような感覚があった。そして実際のところ、そういう出来事はその一回だけではなく、彼女が卒業して時間が経ち、また別の、髪にふわふわとした輝く春の光を纏った子供たちが入ってきてからも幾度も起こった。その度に私はやはり何かの役柄を演じているような気になったし、私はずっと同じままであるのに対して、彼女たちが年を追ってどんどん入れ替わっていくことがまた、そうした私の受け取り方を助長していた。少なくとも、それらの場面に立ち会う度に、私が役者として、少しずつであれ向上していったはずだと私は信じたい。ともあれ、その時彼女がなぜ自分の親でも慧音でもなく私に話を持ち掛けたのか、私には今一つ呑み込めていなかった。きっと一番害がなさそうだったのだろう。
あの昼下がりのことを彼女が覚えているかは分からないし、もちろん私から訊くわけもない。あるいは、こうした彼女の姿を見ていると、私がそうしたことを本当に覚えているのかということさえも自信がなくなってくるようだった。すべてはあるべき場所にとっくに収まっていた。私の目の前にいる彼女はもう充分に、充分すぎるほどに大人だった。昔だけを知っている者は、散らばっていた時期ばかりを思い出して疎まれるのだということくらいは私は知っていた。それはあるいは私が彼女に会ったときに何かしら後ろめたいような気がしたことの、ちょうど反対の側面なのだ。
「先生によろしく」と彼女は笑顔で言った。「またご挨拶に伺いますから」
「うん」
私も微笑んで彼女に手を振った。家族のことなどをこちらからもっと訊くべきだっただろうかと思ったけれど、今の家族構成はいつかの年賀状で書いてあったはずで、それも娘だったか息子だったか記憶が曖昧だった。知っているはずのことについて間違ったことを言い、がっかりされるのを嫌って、向こうから話題にするのを待っていたのだが、彼女はそうしたことには自分からは触れなかった。あるいは私が考えたのと同じことの逆の側面を彼女も考え、古い時間に留まり続ける私に気を遣ってくれたのかもしれなかった。あの夏の日の彼女と今の彼女を同じように考えるのは間違っていると分かっていても、買い物袋はずいぶん重く感じた。やはり西瓜を買わなくて良かったと私は思った。
まさに炎天の下を帰ると、さすがに慧音は起きていて、朝食も片付いていた。私の顔を見ると湯を沸かし始めた。
「おはよう」
「暑かったろ外は」
「そうだね」
私は買い物袋の中身を冷蔵庫に放り込んで、ついでに氷を一つつまんで口に入れた。
「昔の生徒に会ったよ」
「誰?」
私が名前を言うと彼女はああ、と言って頷いた。慧音は生徒の嫁ぎ先も子供の名前もちゃんと知っていた。子供の名前には聞き覚えがあって、恐る恐る確かめてみると、思った通りそれもずいぶん前に卒業した生徒だったので、私はひどく落ち込んだ。
湯が沸くと、彼女は鍋に一束蕎麦を入れた。柔らかい香りの湯気が立つ。私は食卓に入り、棚の年賀状や暑中見舞いの類がまとめられている引き出しを開けて、例の生徒からの手紙をあるだけ探した。私が先程思い出した金魚と水の絵のついた便箋も見つかった。少なくともそれに関しては記憶が正しかったので、私は少し安堵する。手紙は几帳面な字で書かれていた。彼女は字も慧音に習ったと言っていた。それは文字通りの意味だろうが、寺子屋に通っていた頃もこんな字を書いていただろうか? しかしもちろんというか何というか、彼女の字を思い出すことは出来なかった。
「もっと古いのは私の書斎にあるよ」と慧音が言った。彼女はざる蕎麦の皿とつゆが入った椀を私の前に置いて腰かけた。
「私だけ?」
「さっき食べたばかりだよ」と言って彼女は笑った。
「いただきます」
私が食べ始めると、彼女は眼鏡をかけて机の上の手紙を開いた。彼女は多分昔の生徒に会っても後ろめたくはならないのだろうなと私は思った。
蕎麦を食べ終わった後で、私は庭に出てすっかり乾いた洗濯物を取り込んだ。それから自分の部屋に戻ると、家を出る前に食卓に置いた本が机の上にあった。途中だったはずなのだが、私は開いて続きを読もうという気持ちになれなかった。
私は本を棚の中に片付け、机の前に座って、色々なことを思い出そうとした。大抵の場面に居合わせていたのに、私からだけ色々な記憶が欠落しているとは考えたくなかった。それはあんまりというものだ。
私は立ち上がって台所で水を二杯汲んだ。硝子のコップを二つ盆に載せてそのまま廊下に出る。私はあの日のように縁側に腰かけて、洗濯物の水をすべて吸い尽した後の晴れた庭を眺めた。あの日と季節は同じだが、学期中であったので、きっと庭はここまで白熱してはいなかっただろう。悩みを打ち明けてくれる生徒が今横にいないという空白を、果たして庭の熱気が埋めてくれるだろうかと私は考えた。そういう考えが浮かぶ自分は、やはり本当の意味での教師ではないなと、もはや今まで何度考えたのか分からないようなこともほとんど同時に心を通り抜ける。私は水を一口飲む。それから目を瞑ってあの日のやり取りや、空気の匂いを思い出そうとする。今鼻腔によぎるものとは微かに違うはずのあの日の匂いを。
私は自分が持て余している長すぎる人生の中で、この歩けども歩けども更新されない地平線のように常に未来が延々と眼前に広がり続ける日々の中で、このようにして立ち止まって過去を覗き込み、壊れないように恐る恐る掬い上げようとしたことが今まであっただろうかと考える。今までに起こった、ほとんどの取り返しのつかないことのその取り返しのつかなさは、あまりにもたくさんある時間によって、いつでも半ば強引に棚上げされてきたのだ。またいつの日か思い出してゆっくりと考えれば良いと。それはまさに溜め続けた宿題のようなもので、今となってはすべてが散らかっていて、どこから手を付ければ良いのかさえ分からなくなっている。
また、自らに発した問いのその不毛さは頭の中で何かと繋がって、私は昨夜見たつまらない夢をようやく思い出す。昔の夢を。その人を苛立たせつつも笑わせるようなつまらなさは、それでも渦中にいた私にとっては結構真剣なことだったのだ。私はもちろんそのことも一緒に思い出す。
それと同時に、ようやく私はあの日の匂いを記憶の中から拾い出し、再生することができた。あの生徒の言葉も、他の生徒たちの言葉も。思い出を順番に辿るにつれて、生徒たちによって年ごとに入れ替わり立ち替わり打ち明けられる秘密の数々が、この場所でひっそりと積み重なっていく手触りが感じられた。そして、その集積こそが少しずつここの様子を変えているのだということに思い至ったとき、慧音がどうして一見毎年同じことの繰り返しであるように思える教室の移り変わりにあれほどいつでも心を砕くことができるのかが、本当の意味で理解できたように感じられた。
気が付くと、盆を挟んで隣にいつの間にか慧音が座っている。彼女は水を飲んでいた。私は一瞬彼女をぽかんとした表情で見てしまう。彼女はグラスを口から離して盆の上に置き、こちらを見た。
「えっ、なに」と彼女は言う。
「いやいや」と言って私は笑った。それから自分のグラスを一息で飲み干す。唇を舐めて、しばらくのあいだ言葉を探していた。あの生徒もあの時こんな風に感じていただろうかと私は考えた。きっと違うだろう。彼女たち一人ひとりと同じくらい違うだろう。
「あの子の手紙を読みたいんだけど」と私はゆっくりと言った。「古いやつも」
「良いよ、もちろん」と彼女はにっこりと笑って言う。「持ってくるよ」
彼女は立ち上がって書斎に歩いていく。裸足のぺたぺたとしたその足音を、私は背中越しに聞いている。盆の上には二つの空のグラスが残った。縁側のてっぺんにはもう一つの秘密がひっそりと積み重ねられた。私はもう一度目を瞑り、深呼吸をして、夏の熱気が私を包み込んでどこかに連れ去ってくれるときを待った。
夏の終わり頃に私たちはいつもと同じように里の祭りに出かける。慧音は祭りのどこかで挨拶を任されていたけれど、もうこの頃になると彼女は完全にだらけきっているので私は毎年ひやひやした。この日も彼女は一旦財布を忘れて出てきて、暑い通りをまるまる一本引き返す羽目になった。
「ねえ大丈夫? 何を喋るか途中で忘れたりしない?」
「それはさすがに大丈夫だよ」
「本当に?」
「それに誰も聞いてやしないさ」と言って彼女はにやっと笑った。
りんご飴を食べたり射的をやったりしながら私たちは日が暮れるのを待った。辺りが暗くなると、大通りにずらりと並んだ露店が一斉に灯りをつけ始める。そのようにして、暗い中で遠くに小さな灯りが幾つもちらつくと、手元は見えず、離れたところだけがぼんやりと明るく浮かび上がるので、自分の心が身体から離れていくような感覚がある。同じような暗闇の中でも、自分の身体から炎を出すのであればこういう風にはならない。
「そろそろ行かなきゃ」と慧音が言った。
「うん」
彼女は灯りに沿って祭りの中心の方へと歩いていった。彼女の身体は灯りに近づいたり離れたりするので、私からは明滅しながら遠ざかっていくように見えた。やがて人混みの中に紛れて見えなくなる。
「藤原先生」と声がした。
私はそちらを振り向く。先日和菓子屋で会ったあの生徒の娘だった。辺りは暗かったけれど、寺子屋に届いた手紙に同封されていた家族写真を夏の間にあれから何度も見ていたのですぐに分かった。
「こんばんは」と私は言った。
「今向こうに歩いていったのは……?」
「慧音だよ」
「やっぱり」
彼女はふっと笑った。暗闇の中では、そういう表情は眉や口元のほんの小さな動きだけが実際に目に見えて、それが全体の比喩になる。
「先生、全然変わらないですね」
「慧音?」
「どっちも」
「そうでもないと思うけど」
祭りのやぐらに光が灯る。慧音は白髪を短く刈り込んだ年かさの男からマイクを受け取って壇に上がる。やぐらの光が通りを照らし、私たちのいるところもずいぶん明るくなる。私は自分に話しかけてきた娘が一人でないことに気付いた。明るくなった通りでは、その教え子の家族の肖像が露わになっていた。後ろには娘の両親と兄がいる。今では私はその全員の顔と名前をちゃんと知っていた。娘は来年にはここから一本奥に入った通りの和菓子屋の息子と結婚することになっている。
「こんばんは」と母親が言った。
「こんばんは」と私も言った。
慧音が話し始めたが、スピーカーが良くないのか、声はくぐもってさっぱり聞き取れない。誰も聞いていないというのはこういうことだったのかと、私は半分感心して半分呆れていた。娘が笑って振り返り、母親に何か耳打ちした。彼女はくすくすと笑った。
「仲が良くって羨ましいな」と私は言った。
「先生たちこそ」と娘は言った。「本当の親子みたいだもの」
私は苦笑する。私には、目の前にいる一世代離れた二人の女は、どちらもあの寺子屋の縁側に立ったときの少女の姿がどうしても重なって見えていたのだ。
祭りが過ぎればもう夏も終わりだった。夏が終わるのはいつもほど悲しくはなかった。それは毎年胸に鋭い痛みが走り、身体の一部を持って行かれるような気がするほどつらいことだったのだが、今年はなぜだかそういう気持ちにはならなかった。私はその家族と並んで立ったまま、慧音のスピーチを最後まで聞いていた。たとえ彼女の言葉が一つも聞き取れなくても、私は幸せだった。
夏の終わりの情緒が詰まっていて好きです