マエリベリー・ハーンがいなくなってしまった。
学校に来ない。連絡も取れない。合鍵を使って部屋を訪ねてみたけれど、部屋の中は生活感を残したままで家主だけが不在だった。またふらりと夢の世界へ行ってしまったのだろうか、仕方のないやつ、はじめのうちはそんなふうに考え、けれども三日、四日と日々が過ぎ、彼女の失踪が一週間を数えた頃になってようやく、わたしは自分の異常さに気がつくことになる。
「ハーンさんのこと、心配だね」
講義の時間にたまたま隣の席についた学友の一人が、沈んだ声色でそう言った。二人掛けのテーブルだったから、その言葉はおそらくわたしに向けられたものなのだろう。聞き流すのも失礼と思い、わたしは「へぇ、メリーに何かあったの?」と言葉を返す。
その瞬間、彼女の表情が驚愕のそれに変わったことは、今でも鮮明に思い出せる。
そして同時にわたしの胸に去来した、拭いがたい違和感の不快さも。
「え? 宇佐見さん、ひょっとして知らないの?」
どのような返事をすべきか一瞬迷って、結局わたしは満足に声も作れず「あ」と「え」を同時に発音したような間抜けな音を出してしまった。その間にも彼女は、焦っているような忙しない口調でこう続ける。
「ハーンさん、もう一週間も大学に来てないんだよ。おなじ学部の人もみんな連絡がつかないって。なにかおかしな事件に巻き込まれたんじゃないかって、噂になってるの。宇佐見さん、彼女とサークル活動していたんでしょう。なにも気がつかなかったの?」
知っている、うん、それは知っていることなんだ。きっと世界中の誰よりも早く、わたしがいちばん最初に気がついた。一週間前にサークル活動の予定を確認するために電話をかけて、それが繋がらなくて。後になって何度かかけなおしてみても上手くいかなくて、結局そのまま時間だけが過ぎてしまって。
――おかしいぞ。
一週間も音信不通が続くなんて、絶対におかしい。
彼女の言うとおり、なにか事件に巻き込まれていても不思議じゃない。これまでにも何度か“一人旅”に出かけたことがあるとは知っていたけれど、それでも一週間も連絡が取れないなんてことは一度もなかったはずだ。
思い返せば明らかな異常。異変。ぞっとする悪寒に撫でられて、背もたれにくっ付いた背筋がぴりぴりと剥がれていく。
どうしてわたしは気がつかなかったのだ。
いや、気づいていたはずなのに、それを受け入れてしまっていたの……?
「……ごめん、代返頼む」
返事をするのと、席を立つのはほとんど同時だった。なにか冷たい塊に体ごと押し出されるようにして、わたしは講堂の扉めがけて小走りにかけてゆく。「ちょっと、どこに行くの」と呼び止める声も聞こえないふりをした。頭の中はいなくなってしまった友人のことでいっぱいだった。そうしていなければならなかった。ついさっきまで気にも留めていられなかったのだ、次にまた別のことを思案したその瞬間、また友人の存在が霞のように薄らいで消えてしまうかもしれない。そんな想像を欠片でも抱いてしまった時点で、わたしの心は不安で押し潰れてしまいそうだった。
学内を駆け回り、何人かの学生に友人の所在を尋ね、返ってきた言葉がまったく期待外れであったことに落胆する。けれど立ち止まっているわけにもいかず、わたしは捜索の手を市内へと広げた。通学路の駅。行きつけの喫茶店。かつて二人で訪れた曰くつきの旧跡。そのいずれにも彼女の痕跡がないことを確かめるごとに、わたしの胸の空隙は少しずつ小さくなっていった。広がるのではない、現実がそれを埋めるのだ。いなくなってしまったものはしょうがないと、どこか達観した自分がそう囁いている。しょせんは夢かまぼろし。掴みどころのない彼女に振り回されて、お前はひと時の夢想にふけっていただけなのだと。
それはとても甘美な誘惑のようにも思えた。
今なら“普通”に戻れるぞと、他でもないわたし自身がそう認めかけているのだから。
秘封倶楽部ではないわたし。
特別ではない、ありふれたひとりの人間としての、宇佐見蓮子。
――冗談じゃない。
ぐるり市内をひとめぐりして、なんの成果も得られずとぼとぼとキャンパスに帰ってきたわたしの胸中から、いつしか焦燥感は消えていた。その代わりに胸の底で燻るのは、友人の不在をただただ寂しいと思う気持ち。降って湧いた孤独という感情をどのように処理すればいいのか、わたしにはその方法がわからなかった。
周りを見れば、暮れなずむ夕日を背に帰路につく学生たちの姿が見える。ひと声かけて、わたしもそこに溶け込んでしまえば、あたたかみをなくした心も少しはましになるのかもしれない。だけどもそれをしようとは思えなかった。臆病風に吹かれたわけでもない。知らない他人への恐怖があるわけでもない。ただ、なんとなく、隣を歩くのは彼女であってほしいと願う未練を、捨てきることができないだけ。
わたしは思いのほか、彼女に依存していたんだな。
それなのにどうして、彼女がいなくなってしまったことを忘れかけていたんだろう。
はじめて声を交わした、名前も知らない誰かでさえ、彼女の不在を案じていたというのに……
いなくなってはじめて気がつくことがある、なんて、いくつもの物語の中で綴られてきたその台詞の意味を今、何度となく噛みしめる。失ってからその大切さに気がつくだとか。壊れてしまった道具にいかに依存して生きてきただとか。刺激を求めていたとか。安らぎを欲していたとか。当たり前のようにそこにあるものだったから、今までそのありがたみに気がつかずにいたのだと、多くの人々はそんなふうに語る。ならばきっと、わたしにも何かしら思うところがあるのだろう。あるに違いない。なければいけない。
わたしにとって、宇佐見蓮子にとって、彼女――メリーというひとはいったいどのような存在だったのか。
そこには確固とした答えが見つからなければいけないはずなのに、けれどもわたしにはそれがわからない。大学に入学してからの数年あまり、どんな友人たちよりいっとう長い時間を共に過ごしてきたはずなのに。彼女という存在がわたしの生活の多くの部分を侵食していたことは確かな事実なのに、けれどどうして、わたしの“重さ”は変わらないのだろう。
わたしは薄情な人間なのだろうか。それともあるいは、夢から醒めつつあるあるのだろうか。わたしの問いに答えをくれる人はここにはいない。いなくなってしまった。ワンコインのケーキセットで数時間粘りながら答え合わせをする機会なんてものは、もう二度と味わうことのできない時間になってしまった。
メリー。わたしの中のマエリベリー。
わたしたちはどんなふうに出会って、話をして、仲良くなったんだっけ。お互いの秘密を知ったのはいつだろう。サークルを結成したのは。はじめての旅行で見たものはなに? その時の匂いは。温度は。あなたの表情はどんなふうに輝いていただろう。わたしとあなたの関係は。青春を共にした仲間だろうか。心を通わせた親友だろうか。それとも、睦まじく微笑みあう恋人同士だったのだろうか。
あぁ、そのすべてが今では遠い。幼い日の記憶のように、ただただ眩かったという鮮烈な感動だけを残して褪せていく。そうしているうちにわたしはいつしか大人になって、わたしの人生はまた別の輝かな記憶に彩られていくのだろう。新しいしあわせを、見つけるのだろう。
そんなふうに、現実はわたしをやさしく慰めて。だからこそわたしは近い将来、彼女のことを忘れてしまうんだな。その結論にようやく辿りついた時、わたしはすでにあの子の顔も名前も思い出せなくなっていた。すべては幻想の果てに消えてゆく。あの子はきっと、天国よりも遠いところに行ってしまった。
成す術はない。
はじめから、ありもしないまぼろしを見ていた。
わたしの青春はここで終わる。物語は共演者の失踪という形で唐突な幕引きを迎え、舞台の上には間抜けな顔で立ち尽くすわたしだけが取り残された。ここからどうやって続きを演じればいいのだろう。なにを、演じればいいのだろう。宇佐見蓮子の役を降板させられたわたしの次のスケジュールは、ぞっとするほどに白い。
途方に暮れて空を見やる。気がつけばいつしか陽は沈みきり、濃紺の夜のとばりが落ちている。その夜空の端のほうでスポットライトのように輝いていた月が今、ゆっくりと暗雲に包まれていった。
学校に来ない。連絡も取れない。合鍵を使って部屋を訪ねてみたけれど、部屋の中は生活感を残したままで家主だけが不在だった。またふらりと夢の世界へ行ってしまったのだろうか、仕方のないやつ、はじめのうちはそんなふうに考え、けれども三日、四日と日々が過ぎ、彼女の失踪が一週間を数えた頃になってようやく、わたしは自分の異常さに気がつくことになる。
「ハーンさんのこと、心配だね」
講義の時間にたまたま隣の席についた学友の一人が、沈んだ声色でそう言った。二人掛けのテーブルだったから、その言葉はおそらくわたしに向けられたものなのだろう。聞き流すのも失礼と思い、わたしは「へぇ、メリーに何かあったの?」と言葉を返す。
その瞬間、彼女の表情が驚愕のそれに変わったことは、今でも鮮明に思い出せる。
そして同時にわたしの胸に去来した、拭いがたい違和感の不快さも。
「え? 宇佐見さん、ひょっとして知らないの?」
どのような返事をすべきか一瞬迷って、結局わたしは満足に声も作れず「あ」と「え」を同時に発音したような間抜けな音を出してしまった。その間にも彼女は、焦っているような忙しない口調でこう続ける。
「ハーンさん、もう一週間も大学に来てないんだよ。おなじ学部の人もみんな連絡がつかないって。なにかおかしな事件に巻き込まれたんじゃないかって、噂になってるの。宇佐見さん、彼女とサークル活動していたんでしょう。なにも気がつかなかったの?」
知っている、うん、それは知っていることなんだ。きっと世界中の誰よりも早く、わたしがいちばん最初に気がついた。一週間前にサークル活動の予定を確認するために電話をかけて、それが繋がらなくて。後になって何度かかけなおしてみても上手くいかなくて、結局そのまま時間だけが過ぎてしまって。
――おかしいぞ。
一週間も音信不通が続くなんて、絶対におかしい。
彼女の言うとおり、なにか事件に巻き込まれていても不思議じゃない。これまでにも何度か“一人旅”に出かけたことがあるとは知っていたけれど、それでも一週間も連絡が取れないなんてことは一度もなかったはずだ。
思い返せば明らかな異常。異変。ぞっとする悪寒に撫でられて、背もたれにくっ付いた背筋がぴりぴりと剥がれていく。
どうしてわたしは気がつかなかったのだ。
いや、気づいていたはずなのに、それを受け入れてしまっていたの……?
「……ごめん、代返頼む」
返事をするのと、席を立つのはほとんど同時だった。なにか冷たい塊に体ごと押し出されるようにして、わたしは講堂の扉めがけて小走りにかけてゆく。「ちょっと、どこに行くの」と呼び止める声も聞こえないふりをした。頭の中はいなくなってしまった友人のことでいっぱいだった。そうしていなければならなかった。ついさっきまで気にも留めていられなかったのだ、次にまた別のことを思案したその瞬間、また友人の存在が霞のように薄らいで消えてしまうかもしれない。そんな想像を欠片でも抱いてしまった時点で、わたしの心は不安で押し潰れてしまいそうだった。
学内を駆け回り、何人かの学生に友人の所在を尋ね、返ってきた言葉がまったく期待外れであったことに落胆する。けれど立ち止まっているわけにもいかず、わたしは捜索の手を市内へと広げた。通学路の駅。行きつけの喫茶店。かつて二人で訪れた曰くつきの旧跡。そのいずれにも彼女の痕跡がないことを確かめるごとに、わたしの胸の空隙は少しずつ小さくなっていった。広がるのではない、現実がそれを埋めるのだ。いなくなってしまったものはしょうがないと、どこか達観した自分がそう囁いている。しょせんは夢かまぼろし。掴みどころのない彼女に振り回されて、お前はひと時の夢想にふけっていただけなのだと。
それはとても甘美な誘惑のようにも思えた。
今なら“普通”に戻れるぞと、他でもないわたし自身がそう認めかけているのだから。
秘封倶楽部ではないわたし。
特別ではない、ありふれたひとりの人間としての、宇佐見蓮子。
――冗談じゃない。
ぐるり市内をひとめぐりして、なんの成果も得られずとぼとぼとキャンパスに帰ってきたわたしの胸中から、いつしか焦燥感は消えていた。その代わりに胸の底で燻るのは、友人の不在をただただ寂しいと思う気持ち。降って湧いた孤独という感情をどのように処理すればいいのか、わたしにはその方法がわからなかった。
周りを見れば、暮れなずむ夕日を背に帰路につく学生たちの姿が見える。ひと声かけて、わたしもそこに溶け込んでしまえば、あたたかみをなくした心も少しはましになるのかもしれない。だけどもそれをしようとは思えなかった。臆病風に吹かれたわけでもない。知らない他人への恐怖があるわけでもない。ただ、なんとなく、隣を歩くのは彼女であってほしいと願う未練を、捨てきることができないだけ。
わたしは思いのほか、彼女に依存していたんだな。
それなのにどうして、彼女がいなくなってしまったことを忘れかけていたんだろう。
はじめて声を交わした、名前も知らない誰かでさえ、彼女の不在を案じていたというのに……
いなくなってはじめて気がつくことがある、なんて、いくつもの物語の中で綴られてきたその台詞の意味を今、何度となく噛みしめる。失ってからその大切さに気がつくだとか。壊れてしまった道具にいかに依存して生きてきただとか。刺激を求めていたとか。安らぎを欲していたとか。当たり前のようにそこにあるものだったから、今までそのありがたみに気がつかずにいたのだと、多くの人々はそんなふうに語る。ならばきっと、わたしにも何かしら思うところがあるのだろう。あるに違いない。なければいけない。
わたしにとって、宇佐見蓮子にとって、彼女――メリーというひとはいったいどのような存在だったのか。
そこには確固とした答えが見つからなければいけないはずなのに、けれどもわたしにはそれがわからない。大学に入学してからの数年あまり、どんな友人たちよりいっとう長い時間を共に過ごしてきたはずなのに。彼女という存在がわたしの生活の多くの部分を侵食していたことは確かな事実なのに、けれどどうして、わたしの“重さ”は変わらないのだろう。
わたしは薄情な人間なのだろうか。それともあるいは、夢から醒めつつあるあるのだろうか。わたしの問いに答えをくれる人はここにはいない。いなくなってしまった。ワンコインのケーキセットで数時間粘りながら答え合わせをする機会なんてものは、もう二度と味わうことのできない時間になってしまった。
メリー。わたしの中のマエリベリー。
わたしたちはどんなふうに出会って、話をして、仲良くなったんだっけ。お互いの秘密を知ったのはいつだろう。サークルを結成したのは。はじめての旅行で見たものはなに? その時の匂いは。温度は。あなたの表情はどんなふうに輝いていただろう。わたしとあなたの関係は。青春を共にした仲間だろうか。心を通わせた親友だろうか。それとも、睦まじく微笑みあう恋人同士だったのだろうか。
あぁ、そのすべてが今では遠い。幼い日の記憶のように、ただただ眩かったという鮮烈な感動だけを残して褪せていく。そうしているうちにわたしはいつしか大人になって、わたしの人生はまた別の輝かな記憶に彩られていくのだろう。新しいしあわせを、見つけるのだろう。
そんなふうに、現実はわたしをやさしく慰めて。だからこそわたしは近い将来、彼女のことを忘れてしまうんだな。その結論にようやく辿りついた時、わたしはすでにあの子の顔も名前も思い出せなくなっていた。すべては幻想の果てに消えてゆく。あの子はきっと、天国よりも遠いところに行ってしまった。
成す術はない。
はじめから、ありもしないまぼろしを見ていた。
わたしの青春はここで終わる。物語は共演者の失踪という形で唐突な幕引きを迎え、舞台の上には間抜けな顔で立ち尽くすわたしだけが取り残された。ここからどうやって続きを演じればいいのだろう。なにを、演じればいいのだろう。宇佐見蓮子の役を降板させられたわたしの次のスケジュールは、ぞっとするほどに白い。
途方に暮れて空を見やる。気がつけばいつしか陽は沈みきり、濃紺の夜のとばりが落ちている。その夜空の端のほうでスポットライトのように輝いていた月が今、ゆっくりと暗雲に包まれていった。