「ホントにゴメンナサイ!」
そう真摯に頭を下げられては、かえって返答に窮するところである。
何しろ、頭を下げている目の前の少女は、その原因を作った人物ではないのだ。
すっかり通い慣れてしまった人里の市場。
待ち合わせ場所で先に休憩していた永江衣玖の下に現れたのは、待ち人の伝言を携えたメイド姿の妖精だった。
伝言の内容は「パチュリー様が体調を崩されてしまい、看病のため今日は外出できない」。
料理に凝りはじめ、レシピを探したり知人に教わったりすることの増えた昨今。
中でも、衣玖が知る中でもっとも料理の上手い人物が、紅魔館に住むメイド長の十六夜咲夜である。
彼女に料理の手ほどきを頼んでみたところ、「時間のある時なら」と快諾してくれた。以後、たまにこうして人里で待ち合わせるのだ。
単に料理するだけなら、衣玖の家に招くなり自分が紅魔館にお邪魔すれば済む。
しかし、それではあまりに味気ない。だからわざわざ人里で待ち合わせて、市場を一緒に眺めたり、甘味に舌鼓を打ったりするのである。
しかし衣玖がそうであるように、彼女もまた日々の仕事がある。
それも、彼女は主のわがままであったり、招かれざる客の来訪であったりという突発の事態が頻繁にあり、なかなか思うように時間を取れない。その事はよく理解している。
もとより時間のある時にとしている以上、反故にされたと思うほどのことでもないのだ。
それでも、こうして部下を使いに出し、詫びにと菓子の一包みをわざわざ持たせるあたり、咲夜は律儀な女性だった。
言われて来ただけなのに真摯に頭を下げるこの妖精メイドも、おそらく、きちんとした態度を取るように言い含められてきたのだろう。
受け取った包みの中身は、まだほのかに温かいミルフィーユだった。
届けに来た妖精メイドと半分ずつ分け合い、笑顔で戻る彼女を見送って、衣玖は一息ついた。
手に抱えた荷物の重みを不意に意識する。
中身は、先ほど買ったばかりの黒大豆だ。
これで煮豆の作り方を今日は教わる予定だった。
しかし、この分では咲夜は数日は身体が空かないだろうし、衣玖も予定を合わせなければならない。
しばらくは、この豆はそのままで台所の荷物として鎮座する事になるだろう。
残念に思う気持ちはあるが、誰が悪いという事でもないし、いずれ別の機会を設ければ良いだけの事でもある。
特に気にするような事ではない。
そんな言葉を思い浮かべてしまうくらいには、やはり、落胆する気持ちが自分の中にはあるようだった。
なんとなく、そのまま帰宅する気持ちにならず、市場を闊歩する。
別に何かを買ったりはしない。先ほど見て回ったばかりだし、目的の買い物も済んでいる。
空は茜色に染まり始め、そこかしこの家々では夕飯の支度を始めている頃合いだろう。
衣玖は孤独を苦にする性質ではない。
それでも、こんな風に誰かと会う予定が潰れてしまうと、何とはなしに所在なくなる心地がした。
そして、こういう気分は家に帰っても続くものだ。
そんなことを思いながら、ふと、市場の端までたどり着いてしまった事に気づく。
そして、そこに佇む食事処の看板を見つける。
入ったことのない店だが、その店名には覚えがあった。
確か、守矢神社が出資して開いている店で、外の世界の様々な料理を出しているとの触れ込みだったはずだ。
店の前に出されているメニュー表を、衣玖は手にとって眺めてみる。
一品料理から軽食、つまみのような物まで、かなり種類が多い。酒類も充実しているようだ。
むしろ多すぎて、これと決めるのに難儀しそうですらある。人里の他の食事処は、こんなに多様なメニューを出していない。
(……ふむ)
酒類の項目に目を走らせ、思案を巡らせる。
こんな日は、あえて一人を楽しむようにしてみるのが良いのかもしれない。
もう一呼吸の思案を挟んで、衣玖は店の扉を開いた。
地味で小さい門構えの割に、店内はかなり広々としていた。
もっとも、そう感じるのは客の少なさにも原因があるかもしれない。
カウンターの席が無く、長椅子に小さいテーブルをいくつも配し、小さな椅子がその向かいに置かれている。
いくつかテーブルをくっつけて配置している場所があり、客の人数によって配置を変えられるようにしているらしい。
客は親子連れと思しき三人と、青年二人の二組。テーブルの数に比してかなり少ない。
じきに夕飯という時分でこの人数だと、お世辞にも繁盛しているとは云い難い。
衣玖は長椅子の端に腰掛け、備え付けのメニュー表を手に取る。
もっとも、最初に頼むものは決めていたので、すぐに店員を呼ぶ。
若い女性の店員に注文を告げ、人心地つく。
改めて店内を見回してみる。
守谷の指導なのだろう。調度品やら店内の飾り付けのどれも、他の食事処では見ないようなものばかりだ。
人里を歩いていてここに入ったら、異世界に迷い込んだような心地になるだろう。その辺が、どうにも客足が遠のいている理由なのかもしれない。
そんな事を考えている間に、料理に先駆けて飲み物が運ばれてくる。
よく冷えたジョッキに注がれた黄金色の液体と、きめ細やかな泡が美しい。
(ビールに然り、お酒は見た目も楽しめるのが最上よね)
早速ジョッキを手に取り、口元に迎える。
泡の苦味が口内を満たし、炭酸の刺激を伴ったキレの良い味わいが喉を通り抜ける。
ビールのこの飲み方が提唱されたのは、それほど昔のことではないらしい。
乾いた身体に冷えたビールを注ぎこむ感触は、麦酒がそれほど一般的でなかった幻想郷の住民を瞬く間に虜にした。
もちろん、衣玖も例外ではない。
ジョッキの半分ほどを一口に開け、ぷは、と息をつく。
周りとの会話を楽しみながら飲む酒と、一人味わう酒は、同じ飲み物とは思えないほどの違いがあると思う。
それぞれに違った魅力があり、だからこそ、時にこうして一人で楽しみたくなるものだ。
一口目の後は、少しづつゆっくりとビールの味わいを楽しむ。
そうしている内に、料理が運ばれてくる。
一品目は鶏の唐揚げ。
からりと揚がった鶏肉がいかにも食欲をそそる。
眺めつつビールを一口してから、唐揚げを箸に取る。
そのまま、豪快にかぶりつく。噛みちぎると、肉の断面から肉汁がじわりと湧き出した。
ざく、と小気味いい音を立てる衣と、肉汁の溢れるジューシーな鶏肉の味わいが口内を満たす。
唐揚げは塩やタレを添えて出す店もあるが、ここは下味がしっかりついて、そのままで調度良い塩梅の味付けだ。
鶏肉を飲み込むのに続いてビールを一口。ごくり、と喉のなる音が聞こえる。
(ビールは色々なつまみに合うけど、その中でも揚げ物は定番よねえ)
揚げ物は油っこさが口の中に残ってしまうが、冷たいビールがそれを洗い流してくれる。
熱さと冷たさのギャップがさらに食欲を掻き立てる。
そうしていると、次の料理が運ばれてくる。
二品目は小籠包。一人で頼む用に四つ入りの小さいものだ。
別の小皿に黒酢と、細く刻んだ針生姜が添えてある。
熱いものは何でもそうだが、特にこの料理は冷める前に味わうのが鉄則だ。
蓋を開けるとホカホカと湯気が立ちこもる。その中に鎮座する小籠包を、皮を破かないよう慎重に取り出す。
小さいサイズで一口に頬張るのにちょうど良い。皮の閉じた面を下に向け、ゆっくりと口の中に迎え入れる。
(……熱っ!)
舌の上で転がして熱さを確かめてから、前歯で皮を噛みきって熱いスープを溢れさせる。
熱さに思わず小さく口を開いて空気を吸ってしまうが、やけどする程ではない。それも、店がちょうど良い熱さに整えてくれたのだろう。
(うーん、美味しい!)
中の餡は肉がメインだがしつこくはなく、肉の旨味を充分に吸い込んだスープの味わいが実に良い。
熱々のスープと餡が喉を通り抜ける感触が癖になりそうだ。
少しばかり余韻を楽しんだあと、二つ目を箸に取る。
こんどは、小皿の黒酢に軽く浸し、針生姜を乗せて口に放り込む。
最初は黒酢のクセのある酸味が来る。
そこに肉のジューシーな旨味が合わさり、より深みを増した味わいを楽しませてくれる。
生姜の風味が肉の旨味をさらに引き立てる。豚肉と生姜がこれ以上ないほどに相性が良いというのは、地上に降りるようになって知った事だ。
二つを一気に味わい終えたところで、再びビールを迎える。
ごくり、と思いきり喉を立てて飲み込む。
(ああ……最高だわ)
ゆっくりと自分のペースで酒と料理を楽しめる。これは、宴会の席ではなかなか難しい。
宴会の主役は『楽しい』と感じる雰囲気そのものであり、酒も料理もその添え物にすぎないからだ。
無論、旨い酒と料理があってこそ宴会は盛り上がるし、時には物静かに料理に舌鼓を打つ席もある。
それでも、こうして一人で酒を、料理を味わう楽しみは、他ではなかなか得られないものだ。
(……ふう)
唐揚げと小籠包、そしてビール。一通りを味わい終え空になったジョッキと皿を前に、一息つく。
ビールの一杯で酔う程の事はないが、ふわふわと頭が軽くなったような、微酔の心地。酒を呑む時、この時が一番気分が良い。
(さて、ついでだし夕食も一緒に、と思うのだけど……)
メニューを再び手に取る。
つまみ二品とビールでそれなりに腹は満たされているが、これを持って夕食とするには少々頼りない。
もう一品腹に入れて、それで今日の夕食としておこうと思ったのだ。
(でも、あまり量が多いようなものは厳しいかしらね……おや)
隅まで見たメニューを最初に戻してもう一度眺めていると、不意に一つの品名が目に止まった。
『台湾まぜそば』というらしいその料理は、汁なしの温かい麺にたっぷりの具を乗せ、よく混ぜてから食べるものらしい。
まぜそば自体もあまり食べたことがないが、メニューにセットで添えられている『鶏パイコー』というのも気になる。
見た目は唐揚げとあまり変わらないように見えるが、どういう違いがあるのだろうか?
(どうせ気ままな一人飯。気になったら頼んで見るのが吉、よね)
店員を呼んで、追加の注文をする。
空いた皿も片付けてもらい、広くなったテーブルを前に、お冷を口にしながらゆっくりと待つ。
やがて、料理が運ばれてくる。
ひき肉、メンマ、刻み葱、海苔などが、麺を覆い隠す程に盛られている。一番上には半熟卵が乗せられていた。麺は中華そばと同じものらしい。
脇の小皿に鶏パイコーとやらと、白飯が小ぶりな茶碗に盛られていた。
メニューの注意書きに従い、端とレンゲで念入りに具を混ぜる。
卵も潰して全てが渾然一体となるまでよく混ぜてから食べるそうだ。
盛りだくさんの具が皿から零れ落ちそうで、いささか慎重さを要する作業だった。
混ぜ終えた麺を箸に取り、ひと啜り。
(……あら)
思いの外、味が濃い。
濃厚なタレの味わいに、卵のコクとネギの風味が口の中いっぱいに広がる。
メンマにひき肉と、それぞれがかなり濃い目に味付けされているようだ。
そして、結構辛い。
見た目はあまり辛そうではないが、唐辛子に、おそらく山椒も使っているだろう。
飲み込んだ後に来るような辛さだ。
(美味しい……けど、ちょっと濃すぎるかしら?)
海苔やネギの風味が、濃い味をいい具合に散らしてくれているが、続けざまに頬張っていると味の濃さが勝ってしまうようだ。
ふと、目についた鶏パイコーとやらに端を伸ばしてみる。
衣をまとってカラリと揚がった見た目は唐揚げによく似ている。ただ、こちらは大きな肉を食べやすいように切ってある。
前歯で噛みちぎると、ざく、と心地良い音を立てた。
(おや、これは……)
唐揚げのような味を想像していたが、意外にも、味付けはほとんどされていないようだ。
衣の心地よい食感と、鶏肉の淡白な味わい、肉汁のほのかな甘みが口内を満たす。
塩などの味付けはほとんど感じられない。これだけで食べるなら、塩かタレが欲しくなるところだ。
しかし、まぜそばの塩辛さが強く残る中では、この淡白な味わいがありがたい。
口内の塩辛さを洗い流しつつ、ジューシーな肉の旨味を引き立ててくれる。
しばらく噛んでいると、香辛料のほのかな香りが広がってきた。
衣にスパイスを混ぜ込んでいるようだ。これもまた食欲をさらに掻き立てる。
一切れ食べ終えたところで、再びまぜそばに取り掛かる。
鶏パイコーによって塩辛さが消え去り、濃い味付けを過不足無く楽しむ事ができる。
(なるほど、だからわざわざセットメニューに組んでいる訳ね)
まぜそばと鶏パイコー。それぞれ単品では過ぎ、あるいは不足する部分を、交互にいただく事で保管しあえる。
実によく出来たメニューだと言えた。
やがて一通りを食べ終える。
まぜそばの皿には、そばに絡めきらなかった具がかなり残っている。
そこに、白米を投入する。
レンゲで切るように念入りに混ぜる。よく混ざり合ったところで、レンゲに掬って一口。
(……うん、いい塩梅だわ)
少しばかり濃すぎた味付けも、白米と混ぜる事でちょうど良い具合になった。
麺を楽しみ終えた後の締めに、実に良くはまっている。
ちょっとした鍋料理のようだ。
米の一粒まですくい取り、すっかり空になった皿を置く。
残ったお冷も飲み干す。辛い料理は、その後に飲む水も美味しく感じられるのが良い。
食事は終わったが、胃が落ち着くまで少し待つ。
周りを見ると、席が埋まるほどではないものの、にわかに客も増えだしたようだ。
本格的に混む前に席を立ち、会計を済ませて店を出る。
(『外の世界の料理を出す店』か……)
「これが本当の外食、と」
独りごちる。自分でも全く面白いとは思わないが、なぜか笑えてしまった。やはり、少し酔っているかも知れない。
荷物の黒大豆を抱え直し、店を振り返る。
もし今日、咲夜が約束通りに来ていたなら、この店に入ることはなかっただろう。
今日できなかったことは、次の機会を待てばそれで良い。
その代わりに、今日は別の楽しみを見つける事ができた。
人間万事塞翁が馬。そうして全ては巡りゆくのだろう。
また、何か良くないことのあった日に、ここに来てみるのも良いかもしれない。
逆に、良いことのあった日に、余韻を楽しみながら食事するのも良いだろう。
甘味のメニューもあったし、咲夜や、他の知人と一緒に来るのも良さそうだ。
満足感を胸に、空に飛び立って帰途につく。
少し冷えた夜の風が、火照った頬に心地よかった。
そう真摯に頭を下げられては、かえって返答に窮するところである。
何しろ、頭を下げている目の前の少女は、その原因を作った人物ではないのだ。
すっかり通い慣れてしまった人里の市場。
待ち合わせ場所で先に休憩していた永江衣玖の下に現れたのは、待ち人の伝言を携えたメイド姿の妖精だった。
伝言の内容は「パチュリー様が体調を崩されてしまい、看病のため今日は外出できない」。
料理に凝りはじめ、レシピを探したり知人に教わったりすることの増えた昨今。
中でも、衣玖が知る中でもっとも料理の上手い人物が、紅魔館に住むメイド長の十六夜咲夜である。
彼女に料理の手ほどきを頼んでみたところ、「時間のある時なら」と快諾してくれた。以後、たまにこうして人里で待ち合わせるのだ。
単に料理するだけなら、衣玖の家に招くなり自分が紅魔館にお邪魔すれば済む。
しかし、それではあまりに味気ない。だからわざわざ人里で待ち合わせて、市場を一緒に眺めたり、甘味に舌鼓を打ったりするのである。
しかし衣玖がそうであるように、彼女もまた日々の仕事がある。
それも、彼女は主のわがままであったり、招かれざる客の来訪であったりという突発の事態が頻繁にあり、なかなか思うように時間を取れない。その事はよく理解している。
もとより時間のある時にとしている以上、反故にされたと思うほどのことでもないのだ。
それでも、こうして部下を使いに出し、詫びにと菓子の一包みをわざわざ持たせるあたり、咲夜は律儀な女性だった。
言われて来ただけなのに真摯に頭を下げるこの妖精メイドも、おそらく、きちんとした態度を取るように言い含められてきたのだろう。
受け取った包みの中身は、まだほのかに温かいミルフィーユだった。
届けに来た妖精メイドと半分ずつ分け合い、笑顔で戻る彼女を見送って、衣玖は一息ついた。
手に抱えた荷物の重みを不意に意識する。
中身は、先ほど買ったばかりの黒大豆だ。
これで煮豆の作り方を今日は教わる予定だった。
しかし、この分では咲夜は数日は身体が空かないだろうし、衣玖も予定を合わせなければならない。
しばらくは、この豆はそのままで台所の荷物として鎮座する事になるだろう。
残念に思う気持ちはあるが、誰が悪いという事でもないし、いずれ別の機会を設ければ良いだけの事でもある。
特に気にするような事ではない。
そんな言葉を思い浮かべてしまうくらいには、やはり、落胆する気持ちが自分の中にはあるようだった。
なんとなく、そのまま帰宅する気持ちにならず、市場を闊歩する。
別に何かを買ったりはしない。先ほど見て回ったばかりだし、目的の買い物も済んでいる。
空は茜色に染まり始め、そこかしこの家々では夕飯の支度を始めている頃合いだろう。
衣玖は孤独を苦にする性質ではない。
それでも、こんな風に誰かと会う予定が潰れてしまうと、何とはなしに所在なくなる心地がした。
そして、こういう気分は家に帰っても続くものだ。
そんなことを思いながら、ふと、市場の端までたどり着いてしまった事に気づく。
そして、そこに佇む食事処の看板を見つける。
入ったことのない店だが、その店名には覚えがあった。
確か、守矢神社が出資して開いている店で、外の世界の様々な料理を出しているとの触れ込みだったはずだ。
店の前に出されているメニュー表を、衣玖は手にとって眺めてみる。
一品料理から軽食、つまみのような物まで、かなり種類が多い。酒類も充実しているようだ。
むしろ多すぎて、これと決めるのに難儀しそうですらある。人里の他の食事処は、こんなに多様なメニューを出していない。
(……ふむ)
酒類の項目に目を走らせ、思案を巡らせる。
こんな日は、あえて一人を楽しむようにしてみるのが良いのかもしれない。
もう一呼吸の思案を挟んで、衣玖は店の扉を開いた。
地味で小さい門構えの割に、店内はかなり広々としていた。
もっとも、そう感じるのは客の少なさにも原因があるかもしれない。
カウンターの席が無く、長椅子に小さいテーブルをいくつも配し、小さな椅子がその向かいに置かれている。
いくつかテーブルをくっつけて配置している場所があり、客の人数によって配置を変えられるようにしているらしい。
客は親子連れと思しき三人と、青年二人の二組。テーブルの数に比してかなり少ない。
じきに夕飯という時分でこの人数だと、お世辞にも繁盛しているとは云い難い。
衣玖は長椅子の端に腰掛け、備え付けのメニュー表を手に取る。
もっとも、最初に頼むものは決めていたので、すぐに店員を呼ぶ。
若い女性の店員に注文を告げ、人心地つく。
改めて店内を見回してみる。
守谷の指導なのだろう。調度品やら店内の飾り付けのどれも、他の食事処では見ないようなものばかりだ。
人里を歩いていてここに入ったら、異世界に迷い込んだような心地になるだろう。その辺が、どうにも客足が遠のいている理由なのかもしれない。
そんな事を考えている間に、料理に先駆けて飲み物が運ばれてくる。
よく冷えたジョッキに注がれた黄金色の液体と、きめ細やかな泡が美しい。
(ビールに然り、お酒は見た目も楽しめるのが最上よね)
早速ジョッキを手に取り、口元に迎える。
泡の苦味が口内を満たし、炭酸の刺激を伴ったキレの良い味わいが喉を通り抜ける。
ビールのこの飲み方が提唱されたのは、それほど昔のことではないらしい。
乾いた身体に冷えたビールを注ぎこむ感触は、麦酒がそれほど一般的でなかった幻想郷の住民を瞬く間に虜にした。
もちろん、衣玖も例外ではない。
ジョッキの半分ほどを一口に開け、ぷは、と息をつく。
周りとの会話を楽しみながら飲む酒と、一人味わう酒は、同じ飲み物とは思えないほどの違いがあると思う。
それぞれに違った魅力があり、だからこそ、時にこうして一人で楽しみたくなるものだ。
一口目の後は、少しづつゆっくりとビールの味わいを楽しむ。
そうしている内に、料理が運ばれてくる。
一品目は鶏の唐揚げ。
からりと揚がった鶏肉がいかにも食欲をそそる。
眺めつつビールを一口してから、唐揚げを箸に取る。
そのまま、豪快にかぶりつく。噛みちぎると、肉の断面から肉汁がじわりと湧き出した。
ざく、と小気味いい音を立てる衣と、肉汁の溢れるジューシーな鶏肉の味わいが口内を満たす。
唐揚げは塩やタレを添えて出す店もあるが、ここは下味がしっかりついて、そのままで調度良い塩梅の味付けだ。
鶏肉を飲み込むのに続いてビールを一口。ごくり、と喉のなる音が聞こえる。
(ビールは色々なつまみに合うけど、その中でも揚げ物は定番よねえ)
揚げ物は油っこさが口の中に残ってしまうが、冷たいビールがそれを洗い流してくれる。
熱さと冷たさのギャップがさらに食欲を掻き立てる。
そうしていると、次の料理が運ばれてくる。
二品目は小籠包。一人で頼む用に四つ入りの小さいものだ。
別の小皿に黒酢と、細く刻んだ針生姜が添えてある。
熱いものは何でもそうだが、特にこの料理は冷める前に味わうのが鉄則だ。
蓋を開けるとホカホカと湯気が立ちこもる。その中に鎮座する小籠包を、皮を破かないよう慎重に取り出す。
小さいサイズで一口に頬張るのにちょうど良い。皮の閉じた面を下に向け、ゆっくりと口の中に迎え入れる。
(……熱っ!)
舌の上で転がして熱さを確かめてから、前歯で皮を噛みきって熱いスープを溢れさせる。
熱さに思わず小さく口を開いて空気を吸ってしまうが、やけどする程ではない。それも、店がちょうど良い熱さに整えてくれたのだろう。
(うーん、美味しい!)
中の餡は肉がメインだがしつこくはなく、肉の旨味を充分に吸い込んだスープの味わいが実に良い。
熱々のスープと餡が喉を通り抜ける感触が癖になりそうだ。
少しばかり余韻を楽しんだあと、二つ目を箸に取る。
こんどは、小皿の黒酢に軽く浸し、針生姜を乗せて口に放り込む。
最初は黒酢のクセのある酸味が来る。
そこに肉のジューシーな旨味が合わさり、より深みを増した味わいを楽しませてくれる。
生姜の風味が肉の旨味をさらに引き立てる。豚肉と生姜がこれ以上ないほどに相性が良いというのは、地上に降りるようになって知った事だ。
二つを一気に味わい終えたところで、再びビールを迎える。
ごくり、と思いきり喉を立てて飲み込む。
(ああ……最高だわ)
ゆっくりと自分のペースで酒と料理を楽しめる。これは、宴会の席ではなかなか難しい。
宴会の主役は『楽しい』と感じる雰囲気そのものであり、酒も料理もその添え物にすぎないからだ。
無論、旨い酒と料理があってこそ宴会は盛り上がるし、時には物静かに料理に舌鼓を打つ席もある。
それでも、こうして一人で酒を、料理を味わう楽しみは、他ではなかなか得られないものだ。
(……ふう)
唐揚げと小籠包、そしてビール。一通りを味わい終え空になったジョッキと皿を前に、一息つく。
ビールの一杯で酔う程の事はないが、ふわふわと頭が軽くなったような、微酔の心地。酒を呑む時、この時が一番気分が良い。
(さて、ついでだし夕食も一緒に、と思うのだけど……)
メニューを再び手に取る。
つまみ二品とビールでそれなりに腹は満たされているが、これを持って夕食とするには少々頼りない。
もう一品腹に入れて、それで今日の夕食としておこうと思ったのだ。
(でも、あまり量が多いようなものは厳しいかしらね……おや)
隅まで見たメニューを最初に戻してもう一度眺めていると、不意に一つの品名が目に止まった。
『台湾まぜそば』というらしいその料理は、汁なしの温かい麺にたっぷりの具を乗せ、よく混ぜてから食べるものらしい。
まぜそば自体もあまり食べたことがないが、メニューにセットで添えられている『鶏パイコー』というのも気になる。
見た目は唐揚げとあまり変わらないように見えるが、どういう違いがあるのだろうか?
(どうせ気ままな一人飯。気になったら頼んで見るのが吉、よね)
店員を呼んで、追加の注文をする。
空いた皿も片付けてもらい、広くなったテーブルを前に、お冷を口にしながらゆっくりと待つ。
やがて、料理が運ばれてくる。
ひき肉、メンマ、刻み葱、海苔などが、麺を覆い隠す程に盛られている。一番上には半熟卵が乗せられていた。麺は中華そばと同じものらしい。
脇の小皿に鶏パイコーとやらと、白飯が小ぶりな茶碗に盛られていた。
メニューの注意書きに従い、端とレンゲで念入りに具を混ぜる。
卵も潰して全てが渾然一体となるまでよく混ぜてから食べるそうだ。
盛りだくさんの具が皿から零れ落ちそうで、いささか慎重さを要する作業だった。
混ぜ終えた麺を箸に取り、ひと啜り。
(……あら)
思いの外、味が濃い。
濃厚なタレの味わいに、卵のコクとネギの風味が口の中いっぱいに広がる。
メンマにひき肉と、それぞれがかなり濃い目に味付けされているようだ。
そして、結構辛い。
見た目はあまり辛そうではないが、唐辛子に、おそらく山椒も使っているだろう。
飲み込んだ後に来るような辛さだ。
(美味しい……けど、ちょっと濃すぎるかしら?)
海苔やネギの風味が、濃い味をいい具合に散らしてくれているが、続けざまに頬張っていると味の濃さが勝ってしまうようだ。
ふと、目についた鶏パイコーとやらに端を伸ばしてみる。
衣をまとってカラリと揚がった見た目は唐揚げによく似ている。ただ、こちらは大きな肉を食べやすいように切ってある。
前歯で噛みちぎると、ざく、と心地良い音を立てた。
(おや、これは……)
唐揚げのような味を想像していたが、意外にも、味付けはほとんどされていないようだ。
衣の心地よい食感と、鶏肉の淡白な味わい、肉汁のほのかな甘みが口内を満たす。
塩などの味付けはほとんど感じられない。これだけで食べるなら、塩かタレが欲しくなるところだ。
しかし、まぜそばの塩辛さが強く残る中では、この淡白な味わいがありがたい。
口内の塩辛さを洗い流しつつ、ジューシーな肉の旨味を引き立ててくれる。
しばらく噛んでいると、香辛料のほのかな香りが広がってきた。
衣にスパイスを混ぜ込んでいるようだ。これもまた食欲をさらに掻き立てる。
一切れ食べ終えたところで、再びまぜそばに取り掛かる。
鶏パイコーによって塩辛さが消え去り、濃い味付けを過不足無く楽しむ事ができる。
(なるほど、だからわざわざセットメニューに組んでいる訳ね)
まぜそばと鶏パイコー。それぞれ単品では過ぎ、あるいは不足する部分を、交互にいただく事で保管しあえる。
実によく出来たメニューだと言えた。
やがて一通りを食べ終える。
まぜそばの皿には、そばに絡めきらなかった具がかなり残っている。
そこに、白米を投入する。
レンゲで切るように念入りに混ぜる。よく混ざり合ったところで、レンゲに掬って一口。
(……うん、いい塩梅だわ)
少しばかり濃すぎた味付けも、白米と混ぜる事でちょうど良い具合になった。
麺を楽しみ終えた後の締めに、実に良くはまっている。
ちょっとした鍋料理のようだ。
米の一粒まですくい取り、すっかり空になった皿を置く。
残ったお冷も飲み干す。辛い料理は、その後に飲む水も美味しく感じられるのが良い。
食事は終わったが、胃が落ち着くまで少し待つ。
周りを見ると、席が埋まるほどではないものの、にわかに客も増えだしたようだ。
本格的に混む前に席を立ち、会計を済ませて店を出る。
(『外の世界の料理を出す店』か……)
「これが本当の外食、と」
独りごちる。自分でも全く面白いとは思わないが、なぜか笑えてしまった。やはり、少し酔っているかも知れない。
荷物の黒大豆を抱え直し、店を振り返る。
もし今日、咲夜が約束通りに来ていたなら、この店に入ることはなかっただろう。
今日できなかったことは、次の機会を待てばそれで良い。
その代わりに、今日は別の楽しみを見つける事ができた。
人間万事塞翁が馬。そうして全ては巡りゆくのだろう。
また、何か良くないことのあった日に、ここに来てみるのも良いかもしれない。
逆に、良いことのあった日に、余韻を楽しみながら食事するのも良いだろう。
甘味のメニューもあったし、咲夜や、他の知人と一緒に来るのも良さそうだ。
満足感を胸に、空に飛び立って帰途につく。
少し冷えた夜の風が、火照った頬に心地よかった。
ただ目新しい部分が見当たらなく二番煎じの感がしましたので満点からは引いています
ミルフィーユ分けてる衣玖さんかわいい
ただ、もう少しキャラクターのらしさや、動作に関する描写があると面白いんじゃないかなと思います。
それにしても、手持無沙汰にふらっと入った店が思いの外よかったという展開にロマンを感じました
たいへんおいしそうでした