「ムーンライトレイ!」
二条の光線が左右から迫り、行動範囲を制限される。
乱れ飛ぶ弾幕。
これを避けきれば勝てるかも、と僅かな期待を抱いた直後に一撃。熱した鍋のふちに不意に触れてしまったような熱さに狼狽え、気が付くと地面が迫る。
凡人には越えられない壁というものが世の中にはたくさんあって、そこらに無遠慮に立ちふさがっていて。そういうものに何度もぶつかって墜落してしまう凡人が、例えば自分なのだと、明滅する意識の端っこで彼女は考えていた。
★★★★★★★★★★★★
彼女が台所に立って夕食の準備をしていると、背後からチャンチャンと箸が食器に打ち付けられる軽快なリズムが響いてくる。発される音そのものはいわゆる打楽器の類とさほど変わらないのに、それを忌避してしまうのは幼いころからの躾によるものに違いなく、であるからこそ、その演奏人にはわずかばかりの躊躇いもない。
「ごっはん、ごっはん、まーだっかなー。ごっはん、ごっはん、まーだっかなー」
チャンチャンチャン
「んーぅうーあー!うるさいなーもー!食器叩くのやめてって言ってるでしょ。それで早く出てくるわけじゃないんだから」
「えー、そうかなー。じゃあ、にわとりさん食べたほうが早いかなー」
夕飯催促妖怪であるところのルーミアにそう言われ、台所の女はうぐぐと唸る。
薬缶坂(やかんざか)の「妖怪退治できない屋」こと、貧乏退魔師 冴月麟が決して豊かとはいえない周辺の農家との間に結んでいる契約は、妖怪を一度追い払うごとに野菜やコメ、肉を現物で支給、という実にシンプルでシビアなものである。
専ら薬缶坂の農家が飼っている豚や鶏を狙う宵闇妖怪ルーミアを退けるため、麟がとった戦法は「夕飯を賭けて決闘を申し込むこと」であった。
「さえりんは負けたんだから夕飯を出すのがしごとでしょー。早く出さないとにわとりさん食べちゃうよー」
決闘で負けても、報酬を使ってルーミアに夕食をごちそうすることで、豚や鶏を襲わせず、依頼そのものは確実に達成できるという目論見であり、彼女の依頼達成率はほぼ百パーセントである。
ただ、本来これは負けても最低限の成果が出せるようにと考えた作戦であって、一番理想的なのは決闘に勝って追い返すことなのだが。
「まー、さえりんの料理はおいしいからもう少しだけ待ってやろう」
料理の腕前ばかりが上がっていく毎日であり、対ルーミアの戦績は、通算0勝88敗12分けである。
「ほら、もうできたからさっさと食べて帰んなさい」
「いっただっきまーす」
勝てばルーミアの分食費が浮くので貯えもできるのだろう。
今の所、貯金はゼロである。
☆
冴月麟は今年で23歳になる。
「少女」のあそびであるスペルカードルールを行うのが最近ちょっと躊躇われる。
家族はなく、独身。
今朝も日が昇る頃には起き出して、仕事にかかる。伸びた後ろ髪を一つにくくって外に出る。玄関の戸の隙間に、何か挟まっている。隣町に出来たらしい喫茶店のチラシのようだ。自分に関係のある話題には思えず、横文字の店名を覚えることもしない。
通りに出ると、自分の田畑に向かう百姓たちが弁当一つもってぞろぞろ歩いている。
「おはよう、三吉のおじさん」
お得意様であるところの彼らに声を掛けながら走って追い抜いて行く。
「おう、麟や、うちの納屋、札の交換今日中に来てくれ。もう剥がれかけだべや」
呼びかけを受け、とっとっと、と足を止めずに振り返って変事をする。
「わかった。東山のばっちゃの畑見た帰りに寄るよ」
「あー、それでよう。支払は出来秋払いで頼むわ」
「えー? うちも厳しいんだから、飲み代あるなら少しでも先に入れてよ?」
「へへ、分かった分かった」
もー、と牛のように唸って麟は駆けていく。
薬缶坂周辺は人里の中でも特に貧しい農家が多い地域だ。
里から離れた、それも斜面だとか、小さく分かれた田畑を耕している。だから先ほどの三吉のように、何でもツケにして、秋に米が収穫できてからじゃないと支払いができないような家も珍しくない。
幻想郷という限られた土地の中では、条件のいい土地を持っているかどうか、それだけで大きな差がつく。それでも彼らは、毎日自分の畑に鍬を入れる。
田んぼが広がる中に、いくつかの掘っ立て小屋がまとまって立っているところがあって、麟はそこに到着した。
「おっしごっと、おっしごとー」
これら納屋の中には、牛に曳かせる鋤や、収穫用の鎌等、諸々の農具が詰め込まれている。
人間の里を除き、夜間は妖怪の出歩くこの幻想郷では、自分の田畑の近くに住むことは難しい。農家はみな、朝早くに農場に出掛け、日が暮れるまで作業をし、里の家に帰るのである。しかし、そのたびにこまごまとした農具などを持ち歩くのは非常に非効率であり、こうした納屋が、里の外に点々と建っているのである。
麟は一軒の納屋の前に立つと、その扉に張られた何やら複雑な図形と文字が書かれた札に触れる。
「ちょっと怪しいかな……。交換時期はまだのはずだけど」
背負っていた背嚢から細長い箱を取り出す。中身は烏天狗の羽だ。取り出した羽で札の表面を撫でるように払うと、パチパチと静電気のような音を立て、羽の先端に焦げ目がついた。
「ありゃ、まだ大丈夫だな」
麟が行っているのは、退魔札の点検作業だ。
里の外に建てた建物などは、妖怪の住処にされたり、妖精のいたずらにあったりと、何の対策もしなければあっという間に乗っ取られてしまう。そういう建物にお札を張ったり、定期的に見まわったり、時には夜間警備を行ってこれを守るのが、人里の退魔師たちのもっとも一般的な業務である。
派手で目立つ妖怪退治より、こういう地道な仕事の方が多いのだ。どんな業種もそうなのだろうが。
☆
夕方になり、里の中に戻ると、空き地で子供たちが遊んでいた。
「弾幕ごっこごっこしようぜー」
「じゃあ俺、霊夢ー」
「私は白蓮さまー」
何ともにぎやかなものである。弾幕ごっこは、子どもたちにとって、お金がかからないトップクラスに楽しい娯楽だ。
どこどこで誰それと誰それが戦っている、というような情報はすぐに広がっていくし、隣町まで見に行く子どもたちも少なくない。へっぽこシューターである麟の弾幕ごっこですら、子どもたちは必ず見に来るのだ。少年少女の興味は、どちらかと言えば鮮やかな弾幕を出すルーミアの方にあるようだが。
そして観戦だけでは飽き足らず、彼ら彼女らはその再現にも手を伸ばす。それが弾幕ごっこ「ごっこ」だ。
「えー、私も霊夢やりたいよー」
「だめだめ、お前はさえりんだろー」
「いやだよ、さえりん弱いもん」
子供たちの、この世代特有の鋭い言葉が飛んできて、麟はそれを躱すように、足早に通り過ぎた。こういう光景を見たのは一度や二度ではない。
薬缶坂界隈でもっとも身近な退魔師である麟は、弾幕ごっこごっこにおいて、いじめられっこが押し付けられるやられ役なのである。妖怪退治「できない」屋という不名誉な通り名も、「冴えない麟」を略して「さえりん」という何とも間抜けなあだ名も、みんな子どもたちがつけたものだ。
親たちは、稼ぎの少ない貧しい地区で安く依頼を引き受けてくれるありがたみを分かっているから、時折そういった子どもの言動を叱るのだが、子どもたちにとっては、人間も妖怪も関係なく、弾幕ごっこが弱いやつは、それだけで価値がないのである。
☆
あるとき、里中の、あるいは里の外からも、退魔師の才能がある少女たちが集められて、一緒に毎日修業をする。そのうち一人は気付くといなくなっていて、いつの間にか苗字が博麗になっている。
これは、一般にはほとんど知られることがなく、しかし退魔師稼業を営む者には、定期的に起こる恒例行事のようなものだ。
選考に漏れたその他大勢は、どこかの養子になったり、どこだかわからない場所に帰っていったり、……あきらめ悪く退魔師を続けていたりする。
悔しいと思ったことはない。
麟は、赤い霧の空を飛ぶ霊夢を見た。
鮮やかで、洗練されていて、しびれるほど格好良かった。
悔しいと思ったことはない。
少年少女からあだ名で呼び捨てにされても、払われるかどうかも分からない僅かな報酬のために一日歩き通しでも、ルーミアが喜ぶ献立をいろいろ考えるうちに、独身なのに料理がうまくなってしまっても、弾幕ごっこごっこで、じゃんけんに負けた子がさえりん役をやらされるのを見ても、魔法使いの少女が、サンドイッチを食べながら、片手間にルーミアを撃墜するところを目撃しても。
悔しいと思ったことは……ないといったら、ない。
★★★★★★★★★★
「たまには勝ってよ、さえりん!」
墜落寸前、暗い水の底に沈みかけていた意識が、急激に覚醒した。
彼女は、地面からわずか1メートルに満たない低空で、なんとか静止していた。辺りを見回すと、土手の所でいつものように子どもたちが見物していて、その中の一人、どうやらいつもさえりん役を押し付けられている少女が立ち上がって叫んだようだった。
敵と戦い、ピンチに陥って、子どもの声援をもらって。
まるでヒーローのようじゃないかと、彼女は思った。
その内実は、とてもじゃないが格好の良いものではないにしても。
博麗霊夢のようなスーパーヒーローには成れないにしても。
異変解決なんて派手なことは出来っこない。
せいぜいが家畜泥棒を懲らしめるくらい。
そのくらいのことは果たして見せよう。
この薬缶坂では、ヒーローは私なんだから。
再度浮上して戦線復帰すると、ルーミアが驚いたような顔をしている。
「珍しい。今日はまだ残機(ガッツ)が残っているのね」
麟はふらつく頭を振って、不敵に――見えるように――嗤う。
「初めてね、私の本気を見せるのは!」
大物感を出そうと思って言ってはみたものの、過去の戦績が戦績なので説得力がないなと麟は思う。何かもう一つカッコいいことを言わなければいけない。
「私はねえ、あの博麗霊夢と一緒に修業してたこともあるんだからね!」
考えた結果そのように叫んでから、決め台詞にしては格好悪すぎるなと反省した。決め台詞をいうような華々しい局面が自分の人生に訪れるなんて思っていなかったから、準備していなかったのだった。
ルーミアも、子どもたちも、微妙な反応だった。
ちょっと考えてから言い直した。
「私は、妖怪退治屋の、冴えてるさえりんだ!」
ちょっと考えて言い直した割には、やっぱりあんまり格好良くはならないのだった。
☆
本人曰く華々しく――見ていた少年少女曰くたいへん泥臭く――初めての白星を戦績に刻んだ麟は、浮いたルーミアの食費、つまり野菜やら何やらを換金した。
結構な額になったわけだが、ルーミアはいつもどれだけ食べているんだという話である。
贅沢なんてしばらくしていないから、何に使えばいいのか分からない。だったら貯金すればいいのに、彼女はそれを使いたくて仕方がないのであった。
「隣町にモダンな喫茶店がオープンしたんだっけ」
独り言も自然と弾んだものになる。
仕舞い込んでいたチラシをひっぱりだすと、その喫茶店では、闇のように濃い色の、エスプレッソなる飲み物が飲めるのだという。
何とも不気味な話だが、麟は今の自分にぴったりの飲み物だと思った。
普通のコーヒーすら飲んだことがない麟は、それがとても苦いものだとまだ知らないが、博麗霊夢になれなくっても人生は続いていくし、エスプレッソが苦いことも、砂糖を入れれば甘いことも、その内きっとわかってくるのだ。
二条の光線が左右から迫り、行動範囲を制限される。
乱れ飛ぶ弾幕。
これを避けきれば勝てるかも、と僅かな期待を抱いた直後に一撃。熱した鍋のふちに不意に触れてしまったような熱さに狼狽え、気が付くと地面が迫る。
凡人には越えられない壁というものが世の中にはたくさんあって、そこらに無遠慮に立ちふさがっていて。そういうものに何度もぶつかって墜落してしまう凡人が、例えば自分なのだと、明滅する意識の端っこで彼女は考えていた。
★★★★★★★★★★★★
彼女が台所に立って夕食の準備をしていると、背後からチャンチャンと箸が食器に打ち付けられる軽快なリズムが響いてくる。発される音そのものはいわゆる打楽器の類とさほど変わらないのに、それを忌避してしまうのは幼いころからの躾によるものに違いなく、であるからこそ、その演奏人にはわずかばかりの躊躇いもない。
「ごっはん、ごっはん、まーだっかなー。ごっはん、ごっはん、まーだっかなー」
チャンチャンチャン
「んーぅうーあー!うるさいなーもー!食器叩くのやめてって言ってるでしょ。それで早く出てくるわけじゃないんだから」
「えー、そうかなー。じゃあ、にわとりさん食べたほうが早いかなー」
夕飯催促妖怪であるところのルーミアにそう言われ、台所の女はうぐぐと唸る。
薬缶坂(やかんざか)の「妖怪退治できない屋」こと、貧乏退魔師 冴月麟が決して豊かとはいえない周辺の農家との間に結んでいる契約は、妖怪を一度追い払うごとに野菜やコメ、肉を現物で支給、という実にシンプルでシビアなものである。
専ら薬缶坂の農家が飼っている豚や鶏を狙う宵闇妖怪ルーミアを退けるため、麟がとった戦法は「夕飯を賭けて決闘を申し込むこと」であった。
「さえりんは負けたんだから夕飯を出すのがしごとでしょー。早く出さないとにわとりさん食べちゃうよー」
決闘で負けても、報酬を使ってルーミアに夕食をごちそうすることで、豚や鶏を襲わせず、依頼そのものは確実に達成できるという目論見であり、彼女の依頼達成率はほぼ百パーセントである。
ただ、本来これは負けても最低限の成果が出せるようにと考えた作戦であって、一番理想的なのは決闘に勝って追い返すことなのだが。
「まー、さえりんの料理はおいしいからもう少しだけ待ってやろう」
料理の腕前ばかりが上がっていく毎日であり、対ルーミアの戦績は、通算0勝88敗12分けである。
「ほら、もうできたからさっさと食べて帰んなさい」
「いっただっきまーす」
勝てばルーミアの分食費が浮くので貯えもできるのだろう。
今の所、貯金はゼロである。
☆
冴月麟は今年で23歳になる。
「少女」のあそびであるスペルカードルールを行うのが最近ちょっと躊躇われる。
家族はなく、独身。
今朝も日が昇る頃には起き出して、仕事にかかる。伸びた後ろ髪を一つにくくって外に出る。玄関の戸の隙間に、何か挟まっている。隣町に出来たらしい喫茶店のチラシのようだ。自分に関係のある話題には思えず、横文字の店名を覚えることもしない。
通りに出ると、自分の田畑に向かう百姓たちが弁当一つもってぞろぞろ歩いている。
「おはよう、三吉のおじさん」
お得意様であるところの彼らに声を掛けながら走って追い抜いて行く。
「おう、麟や、うちの納屋、札の交換今日中に来てくれ。もう剥がれかけだべや」
呼びかけを受け、とっとっと、と足を止めずに振り返って変事をする。
「わかった。東山のばっちゃの畑見た帰りに寄るよ」
「あー、それでよう。支払は出来秋払いで頼むわ」
「えー? うちも厳しいんだから、飲み代あるなら少しでも先に入れてよ?」
「へへ、分かった分かった」
もー、と牛のように唸って麟は駆けていく。
薬缶坂周辺は人里の中でも特に貧しい農家が多い地域だ。
里から離れた、それも斜面だとか、小さく分かれた田畑を耕している。だから先ほどの三吉のように、何でもツケにして、秋に米が収穫できてからじゃないと支払いができないような家も珍しくない。
幻想郷という限られた土地の中では、条件のいい土地を持っているかどうか、それだけで大きな差がつく。それでも彼らは、毎日自分の畑に鍬を入れる。
田んぼが広がる中に、いくつかの掘っ立て小屋がまとまって立っているところがあって、麟はそこに到着した。
「おっしごっと、おっしごとー」
これら納屋の中には、牛に曳かせる鋤や、収穫用の鎌等、諸々の農具が詰め込まれている。
人間の里を除き、夜間は妖怪の出歩くこの幻想郷では、自分の田畑の近くに住むことは難しい。農家はみな、朝早くに農場に出掛け、日が暮れるまで作業をし、里の家に帰るのである。しかし、そのたびにこまごまとした農具などを持ち歩くのは非常に非効率であり、こうした納屋が、里の外に点々と建っているのである。
麟は一軒の納屋の前に立つと、その扉に張られた何やら複雑な図形と文字が書かれた札に触れる。
「ちょっと怪しいかな……。交換時期はまだのはずだけど」
背負っていた背嚢から細長い箱を取り出す。中身は烏天狗の羽だ。取り出した羽で札の表面を撫でるように払うと、パチパチと静電気のような音を立て、羽の先端に焦げ目がついた。
「ありゃ、まだ大丈夫だな」
麟が行っているのは、退魔札の点検作業だ。
里の外に建てた建物などは、妖怪の住処にされたり、妖精のいたずらにあったりと、何の対策もしなければあっという間に乗っ取られてしまう。そういう建物にお札を張ったり、定期的に見まわったり、時には夜間警備を行ってこれを守るのが、人里の退魔師たちのもっとも一般的な業務である。
派手で目立つ妖怪退治より、こういう地道な仕事の方が多いのだ。どんな業種もそうなのだろうが。
☆
夕方になり、里の中に戻ると、空き地で子供たちが遊んでいた。
「弾幕ごっこごっこしようぜー」
「じゃあ俺、霊夢ー」
「私は白蓮さまー」
何ともにぎやかなものである。弾幕ごっこは、子どもたちにとって、お金がかからないトップクラスに楽しい娯楽だ。
どこどこで誰それと誰それが戦っている、というような情報はすぐに広がっていくし、隣町まで見に行く子どもたちも少なくない。へっぽこシューターである麟の弾幕ごっこですら、子どもたちは必ず見に来るのだ。少年少女の興味は、どちらかと言えば鮮やかな弾幕を出すルーミアの方にあるようだが。
そして観戦だけでは飽き足らず、彼ら彼女らはその再現にも手を伸ばす。それが弾幕ごっこ「ごっこ」だ。
「えー、私も霊夢やりたいよー」
「だめだめ、お前はさえりんだろー」
「いやだよ、さえりん弱いもん」
子供たちの、この世代特有の鋭い言葉が飛んできて、麟はそれを躱すように、足早に通り過ぎた。こういう光景を見たのは一度や二度ではない。
薬缶坂界隈でもっとも身近な退魔師である麟は、弾幕ごっこごっこにおいて、いじめられっこが押し付けられるやられ役なのである。妖怪退治「できない」屋という不名誉な通り名も、「冴えない麟」を略して「さえりん」という何とも間抜けなあだ名も、みんな子どもたちがつけたものだ。
親たちは、稼ぎの少ない貧しい地区で安く依頼を引き受けてくれるありがたみを分かっているから、時折そういった子どもの言動を叱るのだが、子どもたちにとっては、人間も妖怪も関係なく、弾幕ごっこが弱いやつは、それだけで価値がないのである。
☆
あるとき、里中の、あるいは里の外からも、退魔師の才能がある少女たちが集められて、一緒に毎日修業をする。そのうち一人は気付くといなくなっていて、いつの間にか苗字が博麗になっている。
これは、一般にはほとんど知られることがなく、しかし退魔師稼業を営む者には、定期的に起こる恒例行事のようなものだ。
選考に漏れたその他大勢は、どこかの養子になったり、どこだかわからない場所に帰っていったり、……あきらめ悪く退魔師を続けていたりする。
悔しいと思ったことはない。
麟は、赤い霧の空を飛ぶ霊夢を見た。
鮮やかで、洗練されていて、しびれるほど格好良かった。
悔しいと思ったことはない。
少年少女からあだ名で呼び捨てにされても、払われるかどうかも分からない僅かな報酬のために一日歩き通しでも、ルーミアが喜ぶ献立をいろいろ考えるうちに、独身なのに料理がうまくなってしまっても、弾幕ごっこごっこで、じゃんけんに負けた子がさえりん役をやらされるのを見ても、魔法使いの少女が、サンドイッチを食べながら、片手間にルーミアを撃墜するところを目撃しても。
悔しいと思ったことは……ないといったら、ない。
★★★★★★★★★★
「たまには勝ってよ、さえりん!」
墜落寸前、暗い水の底に沈みかけていた意識が、急激に覚醒した。
彼女は、地面からわずか1メートルに満たない低空で、なんとか静止していた。辺りを見回すと、土手の所でいつものように子どもたちが見物していて、その中の一人、どうやらいつもさえりん役を押し付けられている少女が立ち上がって叫んだようだった。
敵と戦い、ピンチに陥って、子どもの声援をもらって。
まるでヒーローのようじゃないかと、彼女は思った。
その内実は、とてもじゃないが格好の良いものではないにしても。
博麗霊夢のようなスーパーヒーローには成れないにしても。
異変解決なんて派手なことは出来っこない。
せいぜいが家畜泥棒を懲らしめるくらい。
そのくらいのことは果たして見せよう。
この薬缶坂では、ヒーローは私なんだから。
再度浮上して戦線復帰すると、ルーミアが驚いたような顔をしている。
「珍しい。今日はまだ残機(ガッツ)が残っているのね」
麟はふらつく頭を振って、不敵に――見えるように――嗤う。
「初めてね、私の本気を見せるのは!」
大物感を出そうと思って言ってはみたものの、過去の戦績が戦績なので説得力がないなと麟は思う。何かもう一つカッコいいことを言わなければいけない。
「私はねえ、あの博麗霊夢と一緒に修業してたこともあるんだからね!」
考えた結果そのように叫んでから、決め台詞にしては格好悪すぎるなと反省した。決め台詞をいうような華々しい局面が自分の人生に訪れるなんて思っていなかったから、準備していなかったのだった。
ルーミアも、子どもたちも、微妙な反応だった。
ちょっと考えてから言い直した。
「私は、妖怪退治屋の、冴えてるさえりんだ!」
ちょっと考えて言い直した割には、やっぱりあんまり格好良くはならないのだった。
☆
本人曰く華々しく――見ていた少年少女曰くたいへん泥臭く――初めての白星を戦績に刻んだ麟は、浮いたルーミアの食費、つまり野菜やら何やらを換金した。
結構な額になったわけだが、ルーミアはいつもどれだけ食べているんだという話である。
贅沢なんてしばらくしていないから、何に使えばいいのか分からない。だったら貯金すればいいのに、彼女はそれを使いたくて仕方がないのであった。
「隣町にモダンな喫茶店がオープンしたんだっけ」
独り言も自然と弾んだものになる。
仕舞い込んでいたチラシをひっぱりだすと、その喫茶店では、闇のように濃い色の、エスプレッソなる飲み物が飲めるのだという。
何とも不気味な話だが、麟は今の自分にぴったりの飲み物だと思った。
普通のコーヒーすら飲んだことがない麟は、それがとても苦いものだとまだ知らないが、博麗霊夢になれなくっても人生は続いていくし、エスプレッソが苦いことも、砂糖を入れれば甘いことも、その内きっとわかってくるのだ。
良かったです。
二次創作では知る人ぞ知るキャラとして、
あるいは人里要因として、旧作キャラと共にそこそこ出ていた彼女ですが、
原作の作品数・キャラ数が増えてきた星以降、なかなか見なくなりました。
号としての冴月、博麗という設定は新鮮。
この設定で他にも作品を色々読んでみたくなりました。
特に紅魔館と人里の描写が。
今回も楽しませて頂きました。
素敵な作品です
読みやすくて面白かったです。
餌付けされているルーミアかわいい。
ヒーロー(ヒロイン?)になるしかないよねぇ。
書かれてないけど、色々練られた世界観がありそうで、
そこも読んでてワクワクしてました。
お見事! 少ないけど、この満点もって行って下さい。
そういった意味では、貧しい農家たちについても触れているのが素敵。
エスプレッソ(微糖)という感じの味わいでとても好きです
味のある人間像の描写が素敵でした
かっこ良くなくたって前を向いて進んでいけるんだなあ
切ないけど勇気づけられるような作品でした
冴月麟っていう人間が本当に世界のどこかに生きてるんじゃないかってくらい、
人間味にあふれた作品でした。
なんかもうこの冴月麟と結婚したい……
冴月さんよ、永遠に!
幻想郷にいるべきその他大勢のお話は、作者の個性がよくよく出ます。
図書やさんならではの幻想郷、楽しませていただきました。