4. 旅立ちの冬
かつて。
北の果てにある小さな村では、冬を呼ぶ鳥の話が語り継がれていた。
夜にだけ姿を現し、星と共に輝くその白鳥は、この世で最も気高く、冷酷で美しい鳥。
だが、夏を愛するその白鳥は、季節が過ぎれば、やがて夜空から姿を消す。
するとその冷たい羽が一斉に生え変わり、大地へと降り注ぐのだという。
季節の移り変わりにまつわる、有象無象の、他愛もない御伽話。
けれどもこの東の地は、そんな御伽話が数え切れぬほど息づき、現出し、共に在る。
妖怪の楽園。その実態は、失われし物語の楽園でもあった。
霜月が去って十日。
上空を覆う鉛色の雲が、寒気のため息を吐いた。
天地の境に、無数の白い羽が現れる。それらは重力に逆らうことなく、風に揺れながら滑り降りていく。
色あせていた妖怪の山が白銀に輝き始め、麓の森はますます無口となり、やがて、地上のあらゆるか細い命の声が、冬のささやきの中に消えていった。
冬空のほぼ中心にて、ちらほらと降る雪の中に、ぼんやりとした影が浮かび上がる。
漂っていた雪が、冬の風に乗って渦を作り、中心の影にじゃれつく。
人の形をした寒気の源は、柔和な微笑みを頬に湛え、雪と戯れながら囁いた。
「ごきげんよう、東の地よ」
ふわりとした浅紫の髪、雪色のターバン、純白のマフラー。
雪を菫で染めたような色合いの、ゆったりとしたエプロンドレス。
その笑みも溶けたマシュマロのようで、周囲に立ち込める寒気とは対照的な容姿をしていた。
「さて、まずは一回りしてきましょう」
幻想郷には、春の目覚めを歌う妖精もいれば、秋の恵みを振る舞う神様もいる。
そして彼女、レティ・ホワイトロックは、初雪と共に姿を現す、冬の妖怪だった。
◆◇◆
レティは目覚めたその日のうちに、幻想郷をくまなく回ることにしている。
初雪を従えながら、雲の下を散歩し、本格的な冬が来る前の挨拶回りを行うのだ。
冬を嫌う者は、人も妖怪も問わず多く、決して歓迎される仕事ではない。
それでもレティは気にしたことはなかった。雪は全てを包み込んでしまうものだから。
「雪やこんこ、あられやこんこ」
レティは歌を口ずさみながら、顔の前で人差指を回す。
指先に乗るのは、白く冷たい冬の羽。
天を漂う寒気によってできた氷の結晶であり、一つ一つに冬の魔法が封じ込められていた。
見ることができず、感じ取ることしかできないその寒気を、レティは具現化し、自在に操ることができる。
空の底に沈んでいくそれらは、地上の全てを等しく覆い隠し、毒よりも優しく命を奪っていく。
冬は命の選別の季節。だから疎まれ、憎まれる。
けれどもレティは傷つくことなく、それらの感情を受け止めていた。雪はあらゆるものを同じ色に染めてしまうから。
「雪やこんこ、あられやこんこ」
他方でレティは、冬の精ではない、妖怪としての顔も有していた。
彼女の生き方には、季節の行いから外れた自由がある。
だから冬にしか会うことはできないものの、雪以外の友達もいるのだ。
スカートの下に広がる森に、レティは視線を移した。
その端に、ごく小さな屋根が見つかる。炭焼き小屋よりももっと小さな屋根だ。
さらによく見れば、屋根の側で両手に息をかけて温めている少女もいた。
彼女は、上空にいるレティに気が付いたらしく、手を振ってくる。
「ふふふ」
レティは空の階段を下りていった。
地上で待っていたのは、見ただけで妖怪とわかる少女だった。
正面に立つと、頭頂部と後頭部、そして背中に鳥の親子が止まっているような羽が伸びているのが分かる。
耳にはピアス。あずき色のジャンパースカートにもアクセサリがついており、毒々しさ一歩手前の洒落た装いである。
強いて人間に近いところを挙げれば、それは桃色の髪の下から覗く、人懐っこそうな笑みだろう。
レティが下りてくるのに合わせて、彼女は胸に片手を当てて唄い始めた。
その白い帽子をください ボクの帽子をあげるから
その白いマフラーをください ボクのマフラーをあげるから
その白いコートをください ボクのコートをあげるから
その白い靴をください ボクの靴をあげるから
ああ、貴方が溶けてしまった ボクもまた、こごえてしまう
雪などに恋するのではなかった それでも、恋した相手だった
一曲披露した夜雀の妖怪、ミスティア・ローレライは、
「久しぶり~♪ 冬の友よ~♪」
と、つま先立ちで一回転してから、自分を指さして尋ねる。
「もしかして、今度の冬は、私が最初?」
「ええ。貴方の歌が最初の挨拶になったわ。ミスティア」
レティはそう答えて、片方の手のひらを軽く上に向けた。
すると二人の周囲から、寒気があっという間に引いていき、春と変わらぬ気温となった。
ミスティアも「おー、さすがー、あったかーい」とバンザイして喜んでいる。
こうした多少のワガママが許されるのも、レティが神ではなく、妖怪だからだ。厳格な季節のルールとは裏腹に、幻想郷の冬は気まぐれなのである。
レティは羽の付いた帽子の後ろに目をやり、
「今年は完成しなかったみたいね~」
「うん、そうなの」
と言いながら、ミスティアも振り返る。
「夏の間に仕上げて、レティをびっくりさせようと思ったんだけど、うまくいかないのよねぇ。こういうのが得意な知り合いもいないし」
上空から見えた小さな屋根の正体は、作りかけの屋台だった。
夜雀というのは、歌で人を狂わせ、鳥目にしてしまう妖怪だ。
けれども、最近は里の郊外に出る人間がめっきり減ってしまったため、そうした能力を使う機会は失われる一方らしい。
というわけでミスティアが挑戦しようとしているのが、この屋台だった。
人間、妖怪問わず、客を鳥目にすることで提灯の元に誘い込むというアイディアだとか。
まだ完成の目処は立っていないようだが、レティは冬が来るたびに、着実に彼女の計画が前進していることを知っている。
その未来図がいつか、何らかの形で実現するのが楽しみだ。
レティとミスティアが久しぶりに話し込んでいると、山の方から新たに三人組がやってきた。
「レティだ! ほら! やっぱり来てた!」
「久しぶりーレティー」
「わーい」
温かそうなマフラーをした化け猫、みのむしのように着込んだ蟲妖怪、そして冬でも変わらぬ姿の宵闇妖怪。
レティは寒気の扉を開け、冬知らずのドームに彼女たちを招き入れる。
「みんな元気そうで何より。さぁ、話を聞かせてちょうだい」
それから五人は、しばらくぶりの会話を楽しんだ。
化け猫の橙は、猫の足跡がたくさんついた紙を持って、春にマヨヒガで生まれた子猫たちについて語った。
ホタル妖怪のリグルは、素数ゼミの抜け殻を見せつつ、それにまつわる不思議な話について語った。
宵闇妖怪のルーミアは、秋に食べ歩いた果物の味について、それを干したものをいくつか渡してくれながら語った。
彼女たちは毎年こんな風に、春や夏、秋といった レティの知らない季節の物語を運んできてくれる。
こうした贈り物もまた、友達を持つ冬妖怪としての喜びに他ならなかった。
話が一段落したところで、レティは何気ない調子で言う。
「貴方達四人が揃ってて、チルノだけいないのは珍しいわね」
すると不思議なことに、場が一瞬にして静まり返った。
四季の影は彼方へと去り、ドームの外の雪のささやきだけが残った。
「どうしたの?」
レティがそう聞いても、みんななかなか口を開こうとしない。
ミスティアは首をすくめて、ばつが悪そうに隣の表情を窺う。
リグルはマフラーの中に顔を沈めて、ため息をこぼす。
橙は両手を後ろに回し、そわそわと落ち着かない様子で視線を地面の辺りにさまよわせる。
ルーミアは……彼女だけはいつものことながら、何を考えているのかわかりにくい笑顔だったけれども。
「あのね、レティ。私たちそのことで、レティに相談しようと思ってたの」
しばらくして、リグルがそう話を切り出した。
「実はね……今年の夏になってから私たち、一度もチルノと会ってないのよ」
「あら~喧嘩でもしたのかしら?」
四人のうち、三名が首を振る。
ただし一人だけ、前髪の奥に表情を隠してしまった妖怪がいた。
「私が……チルノを怒らせちゃったんだと思う」
「あら、橙が?」
レティは彼女から、詳しい事情を聞いた。
なんでも橙は、妖怪の山に入り込んでいたチルノと、偶然出会ったそうだ。
橙はそこでチルノに、どうして遊びに来なくなったのかと訊ねたが、向こうは乱暴に突っぱねるだけで、何も話してくれず、結局ケンカ別れしてしまったのだとか。
仲良しだった妖精が、理由を話してくれずに去ってしまった。それだけじゃなく、彼女に邪険にされてしまった。
この出来事は、当事者の橙にとってだけでなく、それを聞いた皆にとっても相当ショックだったらしい。
以来、この四人はその話題になるたびに、どうしても雰囲気が暗くなってしまうという。
「私のこと、嫌いになっちゃったのかな……」
二つの黒い尾を垂らし、しょげ返る化け猫の背中に、隣のホタル妖怪が手を添える。
「橙のせいじゃないわ。だって、最後にみんなで会った時はいつものチルノだったし、いつからか突然私たちに会いに来なくなったんだもん」
「それなら、貴方達の方からチルノに会いに行けばいいじゃない」
レティは自然というか当然の発想を伝えるが、
「……藍様が、今は幻想郷が難しい時期だから、勝手に色々な場所に行っちゃダメだよって……」
「ああ」
言われてレティは理解した。
冬の間しか存在せずとも、昨今の幻想郷の情勢についてはある程度知っている。
博麗大結界ができて、外界とのつながりがさらに限定的なものとなり、世界が閉じてから数十年。
ここにいるミスティアだけでなく、この地に生きる者のほとんどは、その生き様を変えざるを得なかった。
人の多くは里の中に閉じこもるようになり、妖精は数こそ変わらないものの、いずれも短命となった。
より大変なのは、人を気軽に襲えなくなった妖怪達だった。
妖怪は概して生き方を変えるのが苦手だ。特に大妖怪や長く生きていた妖怪ほど、その傾向は顕著となる。
鬼は狭い世界に嫌気が差し、地下へと潜った。一方で、天狗は手に入れた山を持て余し、己に優位な社会を築こうと苦闘しているという。
方々にて、様々な勢力が生まれつつあり、狭い世界の地図をどう分け合うかと、しのぎを削っているのだ。
こうした膠着時に、無視できない奔流を生むのが、小妖怪である。
彼らが自由に振る舞い、他といざこざを起こすことになれば、それが火種となって遥かに大きな闘争を招きかねない。
よって、それぞれの勢力の上層は、自分の縄張り内の妖怪の動きについて、日々注意深く監視しているらしい。
というわけで、そういった強者達の都合がひしめき合っている現状、橙達のような山の麓に住んでいる妖怪は、自由に行動できるチルノの方から来てくれない限り、会って話すことができないのだろう。
「チルノがどうして遊びに来てくれなくなったのか、私たちもずっと気になってて、レティなら何かいい考えを思いついてくれるんじゃないかって、冬が来るまで待ってたの」
「そうだったのね~。頼りにしてくれるのは嬉しいわ~」
とそこでいきなり、
「チルノに新しい友達ができたんだと思うなー」
そんな風に、ルーミアがいつもの朗らかな表情で発言したものだから、全員の視線が彼女に集まった。
「新しい、友達?」
「うん。きっとそうだよー。前にねー。湖に行った時にチルノに追い返されちゃったんだけどー その後かげからこっそり見てたら、知らない子と話してたのー」
ルーミアは元々、特定の場所を根城としない野良妖怪だ。
なので彼女だけは、他の三名と違ってある程度行動に自由がきくという特徴を持っていた。
ただしその行動があまりにも無秩序かつ予測不能なので、他の者の期待をいい意味でも悪い意味でも裏切ることが多いのだが。
ともかく、初耳だったらしい他のちびっこ妖怪たちは、うろたえ出す。
「じゃ、じゃあどうして私たちに紹介してくれないの?」
「さー?」
「っていうか、どうして今までそれを黙ってたのよルーミア!」
「だって今、レティの顔を見たら思い出したのー」
「もっと早く思い出してよ」
すぐにチルノとその友達のことについて、四人は活発に意見を交わし始めた。
どんな友達なのか。いつ知り合ったのか。なんで秘密にしているのか。今も二人でいるのか。
あーでもない、こーでもない、と議論が白熱する。
傍から見ているレティは、おかしさが込み上げてきた。
種族も性格もバラバラな妖怪達が、一つの目的に向かって、それも妖怪ではない妖精の友達について懸命に考える。
まるで春と夏と秋が一緒になって、欠けてしまった仲間の季節を取り戻そうとしているようだった。
――こういう幻想郷の未来も、ありだと思うんだけどね~。
レティは心の中で、しみじみと呟くものの、彼女達にはこの問題は手が余りそうだ。
となれば、やはりここは新たな助けが必要だろう。
「みんな。チルノのことは、私に任せてくれないかしら~?」
そうレティが言うと、四人は議論を中断して、顔をこちらに向けてきた。
「私は冬の妖怪で、いる場所を選ばない。それにあの子が何を隠しているのかはわからないけど、どこに隠れているかは調べられるから」
「チルノを山に連れてきてくれるの?」
橙がそう言って、期待するような目で見つめてくる。
しかし、
「会ってどうするかは、私がよく確かめてから判断するわ」
冬の年長者は、静かに首を振って言った。
「誰にだって……きっとチルノにだって、みんなに聞かれたくない秘密はあるでしょうから」
◆◇◆
四人と別れたレティが始めに向かったのは、霧の湖だった。
ルーミアの証言によれば、彼女はここで件の「知らない子」を目撃したというし、手がかりの出発点としては妥当だと思ったのだ。
訪れるのは昨年の冬以来、すなわちおよそ九ヶ月ぶりである。
最後に来た時と変わらず、湖面には乳白色の濃霧が広がっており、上から見下ろしても生き物の影はおろか岸の形すらわからない。
レティが幻想郷に住むようになってから、一匹の妖精が住み着くまで、ここはずっと静かで謎めいた、神秘的な場所だった。
そして今の湖は、去年よりも、かつての雰囲気を思い出させる。
念のため、レティは湖上の霧に手をかざし、目を閉じた。
しばらくしてから、肩をすくめる。
――やっぱり、いないみたいね……。
実のところ彼女の知っている氷精を捜すのであれば、わざわざこんな風に気配を探る必要もない。
どこにいても何をしていても、小さい体の割に目立ちすぎるくらい目立つのが、あの青い髪の妖精なのだから。
しかし、向こうが敢えて知り合いの目を避けようとしているのであれば、事は簡単にはいきそうになかった。
山と結界に囲まれたこの秘密の地は、外界と比べれば遥かに狭いとはいえ、妖精一匹を捜して回るには広すぎる。
おまけに、妖精というのは本来、自然の中に溶け込みながら生きている存在であるため、その存在に適したフィールドに隠れた場合、同族でもなければ容易に発見できるものではないのだ。
ましてや今は冬。冷たいものに溢れた季節である。仮に橙達が山を離れてチルノを捜したとしても、見つけるのは至難の業だったであろう。
では、冬の妖怪レティ・ホワイトロックなら?
「仕方ないわね。ちょっと強引だけど、今日一日だけなら怒られないでしょうし」
レティはのんびりと呟き、高度を上げた。
今度は地上の霧ではなく、空にあまねく広がる『霧』の中心を目指す。
そのうち視界が水や氷の粒、そして降り注ぐ前の雪の子らがでいっぱいになった。
―!
―!!
―!?
―!!!
火竜の血も凍てつく寒気に包まれながら、レティは微笑んだ。
雪の子らがレティの存在に触れ、興奮で賑わっているのだ。
「それじゃあ、みんな。力を貸してちょうだいね」
自宅のキッチンを前にしたような軽い口調で言って、レティは目を閉じた。
左右の手のひらの上に、寒気を載せて持ち上げ、ささやく。
『旅人へ……北風より……』
それは、冬妖怪だけが紡ぐことのできる、古い言霊だった。
彼女の吐息に触れた雪の一片が、隣の雪へとその情報を伝える。
雪同士の刹那の交信は、雲を飛び出し、他の雲へと伝播していく。
そして、ほんのわずかな時間のうちに、幻想郷に存在する全ての雪が、冬の精の願い事を聞き届けた。
空に立つレティ・ホワイトロックが、その名の通りに白い鉱石のごとく輝いていく。
彼女は今まさに、この幻想郷に存在する全ての雪から、膨大な数の声を聞き届けている最中だった。
名もなき草の根元、枯れた木の裏側、指先ほどの小石の上、冬眠中の獣の毛皮。
ありとあらゆる場所に存在する寒気の粒が、己が見て触れたものを、鮮明な形で記録していく。
それらはやがて、東の山から西の山へと広げることのできるほどの巨大な細密画となって、一人の冬妖怪の頭に描かれていた。
すなわちレティは、雪を通じて、幻想郷全土の情報を掌握していたのだった。
そして、ついに見つけた。
くまなく広がる白い寒気の中に隠れた、青く燃える冷気を。
場所は魔法の森の側を流れる小川だ。
レティは付近の雪を通して、数キロ離れた雲の中から、妖精の姿を観察した。
水色の髪に青いワンピース、そして数対の氷の羽。頭に結ばれたリボンを除いて、昨年の姿と変わったところはない。
自然の風景に溶け込みながら、小川の水をすくって、手のひらに載せて見つめている。
何をしているのか確かめようと、レティは近くの雪を操り、もっとはっきりとした映像を求めた。
突然、映像の中の青い妖精が、弾かれたように振り向く。
――気付かれた?
レティは注意深く観察を続ける。
妖精は手の中の水を捨て、空中に浮かび上がり、付近を警戒するように視線を走らせた。
その全身から発せられている冷気は、周囲の雪を――寒気の粒を寄せ付けぬよう働いている。
間違いない。向こうはこちらの存在に気付いているようだ。
レティは仕方なく、直接映像の場所に出向くことにした。
『雪は続く。世界の果てまで』
雲の中にいたレティの全身が、音もなく弾け、粉雪が舞い散った。
その光景を目撃したものがいれば、瞬時に消えてしまったように見えただろう。
冬妖怪の本質は寒気。そして雪は寒気の申し子であり、神経細胞でもある。
レティ・ホワイトロックの精神は、雪から雪へと転移し、一瞬にして『彼女』の前に出現し、元の形を形成していた。
「お久しぶり~チルノ~」
昨冬ぶりに、レティは間延びした挨拶をした。
「………………」
氷の妖精は、無言で睨み据えてくる。
その目は、青い炎を閉じ込めたアクアマリンのようだった。
全身から発する気配にも、触れるものを傷つける氷刃が仕込まれている。
久しぶりに会った友にしては、あまりにも敵対的な態度だ。
むしろこれは、
「まるで初めて会った時みたいね~」
レティは愉快な気分で言って、過去を想い起す。
あの時も、チルノはこんな目をしていた。
この向こう見ずな妖精は、霧の湖で遭遇した、己と似たようで異なる力を持つ妖怪、すなわちレティに、激しい対抗心を燃やして襲い掛かってきたのだ。
対するレティは、それまで妖精の類に興味を抱いたことがなかった。たとえイタズラされても軽くあしらうだけで済ませていた。
妖精は自然現象の一部であり、限定的な力しかもたない。それに対し、レティは正真正銘、冬の化身である。
両者の間には厳然たる格の差が横たわっており、まともに相手をするのも恥ずかしいことと考えていたのだ。
けれども、当時のレティはその青い妖精に対して、他の妖精とは違った興味を抱いた。
彼女の口上に耳を貸し、力を検分するうちに、興味はますます膨らんだ。
ついに挑戦者が精も根も尽き果てて動けなくなってから、レティはあの四人の小妖怪に、彼女を紹介することにした。
同族の範疇を逸脱した彼女の力は、むしろ妖精ではなく妖怪の方が相性がいいのでは、と考えたのだ。
そのねらいはあたり、毎年五人の姿を見る度に、彼女たちは種族を超えた絆を深めていたように見えた。
そして今、かつてない問題に直面しているらしいのだが……。
――なるほど。あの四人の心配は当たっていたのかも。
出会った時のよう。レティは先ほどの己の発言を、胸中で訂正した。
妖精というものは元来成長というものを知らない。
今目の前にいるチルノも例に漏れず、昨年と同じ大きさ、同じ姿を取っている。
けれども、顔つきが違う。姿勢が違う。
無鉄砲で浅はか。相手が誰であっても実力の差を読もうとせず、最大の力を真っ直ぐぶつけようとする。
それが氷の妖精チルノであり、出会った時から昨年まで、その生きざまはいささかも変わることはなかったはずだった。
ところが今のチルノの表情には、感情ではなく、思考が浮き出ている。
既知の冬妖怪と対峙して、一言も発することなく、刹那的な行動を取ろうともしない。
その難しく真剣な顔の内側で、何を思い詰めているのだろう。
「…………っ」
レティが違和感の正体に触れるよりも早く、チルノが先手を取ってきた。
地面を蹴って後ろに飛びながら、こちらに向かって手のひらをかざす。
小さな指の間からあふれ出した冷気が、二人の間の空気を凍らせていった。
あっという間に、両者の視界は氷霧によって閉ざされた。
ダイヤモンドダスト現象だ。
ただしその見た目は、よく知られている神秘的な眺めからは程遠く、マンモスのくしゃみのような乱暴さがあった。
チルノはこの『不自然現象』を、大技を放つ前に牽制として用いることを好んでいる。
すなわち次に来るのは、彼女の最大級の必殺技。
……と予想したのだが。
「あらー」
レティは首を傾げ、頬に手を添える。
その視線の先には、冷気の霧を隠れ蓑にして、逃走するチルノの姿があった。
振り返りもせず、葉の落ちた木々の間を大急ぎで飛んでいく。
レティは目を閉じ、その瞼の裏で、逃げていく氷精の姿を『見つめた』。
ここから半径2kmの空間は、レティにとっての感覚器官、すなわち雪で満ちている。
よって、先の程度の冷気では、目くらましにもならない。
だがまさか、何も話してもらえず、いきなり逃げられるとは思わなかった。
――見逃してあげようかしら。
ふとレティの脳裏に、そんな考えが過ぎった。
もしチルノが本当に何か知られたくないものがあるというなら、それもありかもしれない。
何かを一人で解決しようと努力しているのなら、離れた場所から見守ってやるのも優しさだ。
あるがままを尊ぶ季節の妖怪にふさわしい振る舞いでもある。
ただしレティは、今回に限っては、その主義を封じることにした。
あの四人のこともあるし、放って置くのも忍びない。
「と、いうわけで。やっぱり話し合いが必要ね。まず止まってもらわないと~」
レティは見えないテーブルにカードを広げるように、右手を軽く動かした。
すると、およそ五百メートル先の地点。
全速力で飛んでいたチルノの行く手に、白い壁が出現した。
「わっぶ!?」
為すすべもなく壁に激突したチルノは、空中で二回転して、地面に落下する。
それから、頭をぶるぶると振って、目の前に現れた障害物をびっくりしたように見つめた。
彼女を阻んだものの正体は、圧縮された雪の壁だった。
地面に降りてくる途中だった、あるいは地面に積もるはずだった雪が、妖力で不自然な形に固められているのだ。
誰の仕業か、チルノはすぐに理解したようだった。
顔に怒りの表情を浮かべて起き上がり、壁を無視して別の方向に飛ぶ。
すると逃げた先に、また雪の壁が現れた。
が、今度はチルノも、予測していなければ間に合わないタイミングで、直角に進路を曲げる。
その先にまた壁が生まれる。チルノは避ける。また壁に阻まれ、チルノはそれを飛び越える。
青白い軌跡が、三次元の一筆書きのように複雑な図形を作っていく。
上下左右、ジグザグに折れながらも、氷の筆は飛ぶことを決して止めない。
高所から見下ろすレティは、静かにほくそ笑んだ。
元気でいい動きだ。そして勘も鋭い。
雪の壁は実は『ダミー』であることを、確実に見抜いている。
実は本命は壁の境にある、目に見えない寒気の網だったのだが、引っかかる気配はない。
壁に一度もぶつかることなく、寒気に掴まることもなく、冷静に突破を試みている。
レティは別に戦闘の専門家ではなかったものの、チルノの動きが相当の場数を踏んでいるというくらいの想像は付いた。
おそらく己よりも遥かに強い妖怪相手に、挑戦しては敗れ、また復活し……挑戦しては敗れ、また復活し……。
そんな不器用で愚直なやり方を続けながら、己の技を磨いてきたのだろう。
まさしく今の幻想郷の妖精にはできない、はぐれ妖精の……絶えて久しい『本物の妖精』だからこそできる成長だった。
彼女をただの妖精だと侮れば、多少腕に覚えのある妖怪であっても、不覚を取ることになるかもしれない。
しかし、
「私は貴方の力を知っている」
レティは握った拳に息を吹きかけ、それを開いて、顔の前で小さく弧を描く。
すると、先ほどまで密集して壁を作っていた雪が、無数の綿と化した。
チルノの顔に動揺が広がる。しかし彼女はすぐに立ち直り、飛ぶスピードはそのままに、飛び方を変更し始めた。
ジグザグから螺旋へ。己自身も回転しながら、まとわりつく雪を引きはがそうとする。
だが雪は冬の精の意思で、どんな姿にも転じる。冷たい鳥、重い雨、動く石、鋭い羽。
状況に応じて自由自在に形を変えながら、雪の群れはチルノの体の重りと化し、大地へと引きずり下ろそうと試みた。
青く輝く妖精の動きが、次第にのろくなっていく。
数分と経たぬうちに、彼女の姿は、氷の生えた大きな雪玉と化してしまった。
前を見ることもできず、自重は激増。墜落するのは時間の問題だ。
これで片が付くとレティは思っていたが、逃亡者の機転は、その戦術をかいくぐった。
チルノが降下しながら目指した場所は、湖とも池とも言い難い大きさの水場だ。
氷と雪の集合体が、その水に飛び込んだのを見届け、レティは笑みを崩さぬまま感心する。
冬という絶好のフィールドであっても、寒気は万能には成り得ない。
たとえば、水中のような温度変化に乏しい環境では、力を十分に発揮できない。
チルノはそのことを覚えていたようである。
だが、池に水面以外の出口はなかった。
水の中に留まっていれば、雪の包囲網は着実に厚みを増していく。
今もまさに、つむじ風の形を取った濃密な寒気が、徐々に水面に蓋をしているところだった。
「飛んで水に入る冬の虫。鬼ごっこはこれで終わりかしら?」
レティは囁きながら、チルノが根負けして水面から飛び出てくるのを待った。
ところが、またもやその予想は覆される。それも今度は、文字通り真っ二つに。
ガキギギギギ!
と、池の中心が爆ぜ、何かが物凄い勢いで飛び出してきた。
天を貫く勢いで伸びたそれは、歪なトゲを生やした氷の柱だ。
周囲に飛び散った水しぶきが、冷気によって瞬時に固められ、青白い欠片となって舞い落ちる。
のみならず、その氷の一本杉は、レティの集結させていた寒気を残らず呑みこみ、閉じ込めてしまった。
「なっ……!?」
レティは目を剥いた。
反射的に、待機していた雪の援軍を差し向ける。
だが氷柱に遅れて池から飛び出したチルノが、強烈な冷気を振りかざし、それらの動きを空中に張り付けてしまった。
さすがのレティも愕然となる。
寒気に追い詰められた挙句、水の中に逃げ込んだのではなかった。
そうではなく、反撃に転じるため、己の冷気の力をためる時間を稼ぐために、一時的に退避したのだ。
それにしてもまさか、寒気を『凍らせて』しまうとは。
冬に力を増すのは、氷精もまた同じである。しかし自らの攻撃を防御に用いるその発想は、とても一介の妖精のものとは思えない。
空へと浮上したチルノは、今度は背を向けようとしなかった。
レティを真っ直ぐに見つめ、正面から対峙している。追撃を振り切るのを諦め、直接交戦して撃退することに決めたようだ。
そしておそらく、それは正しい戦術だった。
どこへ逃げようと、レティにしてみれば、この雪の中では幻想郷も箱庭に等しいのだから。
だが、勝てる見込みがなければ、無謀な挑戦といえる。
理解しているのか、そうでないのか。
一匹の氷精は、全身から青白い冷気を立ち昇らせ、真っ直ぐレティを睨み付けていた。
臆するところのない、勇敢な態度だ。
これまでも、きっとこれからも、どんな強敵に対しても、彼女はそれを曲げるつもりはないのだろう。
相手が妖精であっても、妖怪であっても、鬼であっても、神であっても。
冬であっても。
「はぁ……」
白い柔和な笑みに、影が広がっていく。
「気が変わったわ」
レティの氷点下の声が、周囲の寒気にこだました。
もしここに橙達がいれば、息を呑んで震え上がったに違いない。
レティ・ホワイトロックは、戦闘の専門家ではない。
だからこそ、力の加減が下手なのだ。
季節の化身が、大妖怪にも引けを取らぬ迫力と、莫大な妖気を開放した。
そして、その両腕が消失する。
瞬間、チルノの眼前に、家屋サイズの雪でできた手が出現した。
「っ!?」
チルノは咄嗟に身を翻し、握りつぶされる寸前で、指の間をすり抜けていく。
すかさず、彼女の眼前に別の手が現れ、小さな体を叩き落とした。
奇しくもそれは、チルノが夢想するだいだらぼっちと遜色ない威力を有していた。
岸壁に手形がつくほどの威力をまともに食らい、チルノは光の粒を撒き散らして現世から消失する。
だが、あらかじめ冷気をふんだんにため込んでいた彼女はすぐに元の姿で復活し、
「アイストルネード!!」
回転しながら、青白く輝く冷気を振り回して、巨大な雪の手を制する。
冷気で寒気の威力は相殺できない。けれども張り巡らされたレティの精神を遮断し、運動量をゼロにすることができる。
再び吹き飛ばされる寸前で、雪の手はカチコチに固まり、ついには空中に磔となった。
その重みで、五つの指が音を立てて折れていく。
それらを形成していた雪は、身軽になった瞬間、白い大蛇の群れに変わった。
チルノの手の内に、冷気が極限まで凝縮されていき、氷の剣が出現する。
彼女は剣を振るい、襲い来る寒気の獣を、追い払い始めた。
レティは動かない。けれども彼女は今まさに、雪の台風の目と化しつつあった。
幻想郷中の寒気が主人の元に馳せ参じ、命令を下されるのを待っている。
――埋めてやりなさい。
冬妖怪の勅命は、シンプルだった。
彼女は天に向けた指を、真っ直ぐに振り下ろし、小さな青い影を示す。
雪の蛇をようやく二体切り払ったところで、チルノはハッと顔を持ち上げた。
まさに上から、視界を埋め尽くす圧倒的な質量の雪の傘が覆いかぶさってくるところだった。
冷気の特徴が一点を貫く鋭さにあるとすれば、寒気のそれは広範囲を網羅する厚みだ。
よってレティの究極の戦法は、全方位からの圧殺であった。
森一つをも呑みこめるほどの雪崩が、一匹の妖精に向かって集中していく。
チルノは両手を持ち上げた。
全身からありったけの冷気を出して、頭上の暴威に抵抗する。
目をつむり、歯を食いしばり、大地に根を下ろし、唸る。
己の領域を確保し、主張する。
そして、両者が予想もしていなかった事態が起こった。
膠着した冷気と寒気が、相互干渉を引き起こし、ブリザードに変貌したのだ。
大熊から微生物に至るまで、あらゆる生命が凍えてしまうであろうフィールドは、まるで氷河期が再来したかのような、超自然的な闘技場だった。
その中で、白い煙のような寒気と、凝縮された青の冷気が飛び交い、打ち消し合った。
弾幕。それは未来に生きる者達にとっては、日常的な決闘の手段で、見慣れたものでもある。
しかしながら、この時起こった弾幕の規模は、どの時代にあっても記録に割って入り、見る者の記憶に焼き付くレベルであった。
冬に力を増すのは、氷精もまた同じ。
しかもチルノはいつしか、相手の寒気を冷気に還元しながら攻撃を試みていた。
無限に等しい生命力。だがそれは、無限の精神力があってこそだ。
そして小さな氷の騎士は、消耗しきることなく、冬の権化に立ち向かい続けていた。
――ああ……惜しい……。
雪の群れに身を変えたレティは、氷嵐の中で独り言ちていた。
――本当に惜しい……実に惜しい……。
「うるさい!」
チルノの冷気が、ついに寒気の一点を貫いた。
「あたいは誰にも負けない! 一人で全部できる! あたいは、最強なんだから!」
彼女の訴えが、レティの本体へと届く。
「だからもう、あたいのことなんて放っておいて!!」
チルノは短くなった氷の剣を、ブリザードの中心目がけて投げつけた。
真っ直ぐに飛んでいく刃は、寒気の盾を次々と差し貫き、威力を落とさぬまま、標的に到達した。
そして、突き刺さった。
茫然とする、冬妖怪の胸に。
「レ……」
チルノはそう言いかけたきり絶句し、動きを止めた。
口を開けて、息を呑んだまま、吐くことを忘れてしまっている。
その表情は、自らがやったことと、それが招いた結果を受け止めきれず、狼狽しているようだった。
しかし、
「……また一つ、成長したわね。チルノ」
雪の精が浮かべた笑みは、自身の痛みもダメージも、妖精に与えた罪の意識も、全て包み隠した。
彼女は己の体に刺さった氷の剣に触れ、力をこめる。
するとあっけなく、凝縮された冷気は、音を立てて砕け、下に落ちて行った。
雪の止んだ世界にて、レティは静かに下りて行き、
「氷じゃ私を殺せないわ」
そう言って手を伸ばし、チルノの眼前で掌を上に向けた。
そこには、親指ほどのサイズの小さな雪だるまが載っていた。
瞬きするほどの間に、それは雪風となり、当惑する氷精の頭に触れる。
「……雪で貴方を消すこともできないけど」
「………………」
妖精は口をへの字にして、下を睨み付ける。しかし彼女はもう、逃げるそぶりをみせなかった。
チルノ自身は認めないだろうし、レティは気づいていない。
しかし氷精チルノは、この冬妖怪のレティ・ホワイトロックにだけは、唯一といっていい恩義を感じている。
長い年月の間、彼女は誰からも触れられたことがなかった。
冷たくて、尖った、氷の化身に触れて傷つくのを、誰もが恐れたのであった。
そんな中、冷気に構わず頭を撫でることのできる唯一の妖怪と出会い、負けず嫌いの氷精は、初めて心を開いたのだ。
二人の邂逅は、はぐれ妖精の世界が外に対して無限に開いていく兆しとなった。
「チルノ。私に何か手伝えることはある?」
黙ってしまった妖精に、レティはそっと話しかける。
「冬の間しか、貴方の助けになることはできないけれど、もしかすると私なら力になれるかもしれない。だから教えてくれない? 貴方が秘密にしてること」
素直な返事は期待していなかった。
彼女が意地っ張りなことを、レティは誰よりもよく知っている。己の挑戦が結果につながるまでは、絶対に諦めようとしないことも。
だから、今日がダメなら、明日も話しかけてみるつもりだった。
この冬がダメなら、次の冬も。また闘うようなことになっても構わない。
閉じた彼女の心を、根気よく、壊さぬ程度にノックし続けるつもりだった。
しかし、レティも知らなかったのだ。
チルノの秘密が、彼女自身をどれほど苦しめていたのかを。その業の深さを。
「レティ……」
ポロポロと、氷の粒が彼女の閉じた瞼から零れ落ちた。
「あたいって……やっぱりバカなの?」
妖精の発する声もまた、ひび割れてしまった氷のような脆さがあった。
「どうしていいのかわかんない。あたいじゃ、もうどうすることもできないのかもしれない」
チルノは両腕で顔をこすりながら、しゃくりあげる。
「負けたくない……諦めたくない……あたいは……最強なんだもん……」
レティは無言で立ち尽くしながら、思い返そうと努力していた。
彼女が弱音を吐いたとき、自分はどうしていただろう。涙をこぼしていた時は?
だがいくら探しても、そんな記憶は存在しなかった。
この氷精はいつだって、強気で、小癪で、向こう見ずで、がむしゃら。
だからこそ、レティは彼女を、この世界における例外的な存在とみなしたというのに。
これでは本当に、ただのか弱い妖精のようだ。
レティは眼前の折れそうなほど細い氷の針を、氷点下の体温で扱うような慎重さでもって、問い尋ねた。
「チルノ。貴方を怯えさせるものは何?」
「……わかんない」
「貴方に涙を流させるものは何?」
「……わかんない」
「この冬が来る間に、貴方をそこまで変えてしまったのは……誰?」
それは、ただの勘だった。
けれども、レティその最後の問いは、ついにチルノの秘密に届いた。
彼女は明かしてくれたのだ。無限に広がっていたはずの、最強の妖精の世界を、閉じてしまった存在について。
「…………大ちゃん」
涙を絞り切ってしまった後のような、弱々しい声だった。
「あたいの……初めてできた……友達」
◆◇◆
チルノに連れられ、レティは妖怪の山の中腹にある滝の元に来ていた。
冬の気配に紛れれば、天狗も河童も気付くことはできない。
橙達が冬の間に、チルノが山に入っていることに気づかなかった理由も、それであった。
彼女の秘密は、山にある数多くの滝の一つにあったのだ。
レティはその滝の裏側にある洞窟を見て、柄にもなく、背筋が伸びるのを覚えた。
入らずとも、ただの洞穴でないことがわかった。
強く分別のある妖怪であるほど、自然の中にある神聖な場所に、決して足を踏み入れようとしない。
その奥を覗いてみようと思うのは、物を知らぬか、力を持たぬか、その両方かのどちらかだ。
もしくは、この場所で生まれた存在。
滝の間に飛び込んだ氷の羽に続き、レティは己の身を雪に変えて、中に入り込んだ。
暗い洞穴は光源がないため、どこまで深いかもわからない。
自然の産物か、あるいは妖怪が掘ったものなのかも判別できなかった。
外に立ち込めている寒気も、ここには入り込んでこない。
すでに冷気が飽和状態に近いほど満ち満ちているからだ。
進む途中で、レティは足下に氷の欠片を見つけ、拾い上げた。
――これが、チルノを生み出した氷……。
とても古い氷だ。
古い岩に霊験が宿る様に、物は同じ形を長い間留めることによって、様々な力がたまっていく。
しかし氷というのはその性質上、長きに渡って形を保つものは珍しい。
これほどの冷気の結晶であれば、外の光にさらされても、全て水に変わるのに数年は有することだろう。
そして……。
レティは洞穴の奥に目を向ける。
この先には、古の氷と同質にして、桁外れの力を感じる。
実際、落ちている氷の数が増えていくに連れて、前を行くチルノの力も強まっていくのがわかった。
しかしなぜだろう。レティは胸騒ぎがしていた。
闇の中に見え隠れする背中は、いつもよりもさらに小さくなっていくように映ったから。
しばらく歩いた末に、二人はついに洞穴の最奥へとたどりついた。
何が待ち受けていても、大抵のものを受け入れる心胆が、レティ・ホワイトロックには備わっていた。
それでも彼女は、大きく息を呑み、目を凝らす自分を御することができなかった。
「これは……」
言葉がろくに出てこない。
壁から床まで張り巡らされた氷が、闇を掃い、青白い祝福の輝きを放っている。
そこは水の滴る音も、風の吹きこむ音もない、静謐そのものの、氷の神殿だった。
目に見えぬ微生物も含めて、生き物が生きられるような場所ではない。
おそらくは氷の時代に誕生して以来、何ものにも侵されたことのない聖域。
それは寒気の妖怪であっても、特別な祈りを捧げたくなるような冷気の空間だった。
だがレティを驚かせたのは、それではない。
神殿の中心、最も目立つ場所に、氷のモニュメントが飾られている。
巨大な氷柱の中に、自然の一部の結晶――すなわち一匹の妖精が浮かんでいたのだ。
一目で、花の妖精であることがわかった。
黄色いリボンを結んだ長い『夕暮れ色』の髪。そして『淡いピンク』のワンピース。
可憐な装いは、おそらく彼女をこの世に生み出した花弁の色で染められているのだろう。
その表情は、眠っているようだった。
両の瞼を閉じ、何かに祈りを捧げるかのように、胸の前で両手を組み合わせている。
まるで、花が天に昇っていく瞬間を、氷の写真の中に閉じ込めたようだ。
この世界での役目を終え、還るはずだった妖精が、強力な氷の魔術で時間ごと凍結されている。
それは自然の輪廻から切り離された、妖精の「死」ともいうべき姿だった。
しかし……レティが放心していた理由は、氷の棺におさめられた妖精だけではなかった。
彼女は囲まれていたのだ。夥しい数の……
「こんなにたくさん……」
とてもたくさんの、氷の花に。
池の水や川の水、湖の水などを使ったのだろう。どれも透き通っていながら、光の加減で異なるきらめきを見せている。
そして、花だけではなく、氷でできた動物や鳥などもあった。
「これを、全部貴方が?」
「……ずっと、毎日氷で作ってた……」
レティの隣にいる氷精はチルノは、冷たく、暗い声で言う。
無数の氷の彫刻が飾られた、閉じた楽園のさらに中にある、小さな楽園にて。
「大ちゃんは、花が好きだったから……でも、あたいが生きてる花を摘んだら、すごく悲しむから……だから、ずっと氷で作ってた」
彼女の手の内で冷気が凝縮していく。
外から持ち込んだ水分が、複雑な形を成していき、新たな氷の花が生まれていた。
チルノはその花を、足元の花壇に加えながら、独り言のように続けた。
「大ちゃんは、花の妖精で、長くは大ちゃんでいられなかったんだって……。大ちゃんは、それをずっと、あたいに隠していて、最後に教えてくれた。大ちゃん、泣いてた。哀しそうだった。この世界にずっといたいのに、できないって……」
しゃがみこんだまま、チルノは呟いた。
「レティは……」
名を呼ばれ、冬妖怪は視線を氷精に戻す。
「春になって消えても、また同じレティのままで、冬に会える。ミチバーは死んじゃったけど、お星さまになって見てくれてる。でも大ちゃんは……消えたらもう二度と大ちゃんの姿で会えない。あたいのことも覚えてない」
チルノの視線が上に向かった。
レティもそれにならって、中央の氷の柱を目に映した。
氷柱の中で眠る、花の妖精を。
「だから、大ちゃんがあっちの世界に還らないように、大ちゃんの時間を止めてあげた」
それこそが、チルノが隠していた秘密だった。
妖精には過ぎた所業であり、自然の体現者としての罪業だった。
が、
「……あたいは……間違ってない」
そう呻く氷精の声には、憎悪がこもっていた。
「だって、この世界が悪いんだ。あたいにイジワルする嫌な世界。大ちゃんを泣かして、大ちゃんのお願いを聞かないで、大ちゃんを遠くに連れていこうとしてる。大ちゃんのことを、全然わかろうとしないこの世界が悪い」
それは、彼女がこの世界で孤独に生きていく中で人知れず得た、負のエネルギーだった。
最強という称号に固執し、分別なく挑戦し続ける向上心。その裏側に隠れていた、妖精に似つかわしくない仄暗い感情。
彼女がレティ相手に見せた、異常なまでの強さの秘密でもあった。
妖精の身でありながら、冬の権化を退けることのできたその心の力は、より強大な相手に磨いたもの。
すなわちその相手は、妖精にとっての本源、この世の理そのものだったのだ。
「でも……」
パキン、と澄んだ音がした。
前に立つ、チルノの頭が垂れた。
「こんなの違う。全然楽しくない」
彼女の声は震えていた。
パキン、パキン、とまた音が洞穴に響く。
周囲で静止していた氷の像に、ひびが入っていく。
「大ちゃんとずっといたかった。大ちゃんをこの世界にいさせてあげたかった。だけど」
チルノは拳を握り、泣きながら言う。
また氷がひび割れる音がした。
彼女の願いが砕けていき、信じた最強が折れていく音だ。
やがて一つの花が砕け散り、鳥が砕け散り、獣が砕け散り……。
「あたいは大ちゃんの声が聞きたい。大ちゃんとおしゃべりがしたい。大ちゃんと前みたいに、二人で遊んで、冒険したい」
妖精の嘆きに呼応するかのように、氷の彫像が次々に砕けていった。
そしてついには、氷柱は中央の一つを残すのみとなり、辺りには無残な氷の欠片が散らばっていた。
「でも、この氷が解けたら、大ちゃんはすぐにあっちの世界に還っちゃう。大ちゃんはもう、大ちゃんのままで戻ってきてくれない。大ちゃんじゃなきゃダメなのに。大ちゃんみたいな妖精は、他にいないのに……!」
氷精のプライドは、最後まで彼女に、膝を屈することを許さなかった。
それでも、彼女の弱り切った心は、冬の精の支えを必要としていた。
「レティ……どうしたらいいの? あたいバカだから……わかんないよ……どうすればいいか……教えてよ……」
◆◇◆
レティ・ホワイトロックは、雪の妖怪。
雪はあらゆるものを包みこみ、等しく受け入れる。
故に彼女の性格や行いには、雪の持つ優しさがそのまま表れていた。
けれどもレティ・ホワイトロックは冬の精でもある。
冬は命を選別する季節であり、その判断に私情を挟むことはなく、迷うこともない。
愚直なまでに真っ直ぐな氷の妖精。
彼女に直接道理を解くのは、正道ではあっても、賢明ではなかった。
なぜならそれは、チルノをチルノでなくしてしまう。
だからレティは、しばらく何も声をかけなかった。
胸の内の冷たい頭が泣き止むまで、黙って撫で続けた。
そして、一つの道を示した。
チルノが壊れてしまわぬように。
優しく、残酷な道を。
◆◇◆
洞穴を出ると、外の雪はもう止んでいた。
雲の色も明るい白に変わっていて、青空の切れ端が見えており、小雀のさえずりも聞こえていた。
月は師走。しかも山の中腹だというのに、季節が逆戻りしたような暖かさだ。
もっともその原因は、現れたばかりの冬の精が、初日の分の寒気を残らず浪費してしまったからなのだが。
滝から離れた川沿いにて、白い妖怪と青い妖精は、並んで立っていた。
二人の前には、花の妖精が封じ込められた氷の棺があった。
氷精が力を増す冬とはいえ、誰にも見つからず、一人でこれをあの洞穴の奥に運び込むのは大変だっただろう。
そしてその秘密を一人で抱え込んで過ごすのは、もっと苦しかっただろう。
そうまでして、チルノが棺の主をこの世界にとどめようとした理由。
レティにはそれが十分に解っていた。
「チルノにとって、初めての妖精の友達だったのね」
隣のチルノが、わずかに首を動かす。
初めて会った時、レティは彼女が妖精でありながら、妖精である自分を心底憎んでいることに気づいた。
その後、妖怪の輪に入ることで、チルノの中にあった憎しみは晴れ、特別にして唯一の存在である己に、満足していたように見えた。
だがやはり、彼女は妖怪ではなく、同じ妖精の仲間を心のどこかでずっと欲していたのだろう。
そして、この氷の中に眠る妖精と出会い、ようやく見つけることができたと思ったのだろう。
妖精になりきれず、妖怪になりきれない、特別な存在の自分と同じような仲間を。
妖怪では、彼女を全ての呪縛から解き放つことはできなかった。
彼女には妖精が必要であり、そしてようやくその存在に巡り合えたのだ。
だからこそ、何とか、この世界にとどめようとしたのだろう。妖精の宿業に、彼女しかできないやり方で逆らいながら。
「よく頑張ったわ、チルノ。きっと大ちゃんには、貴方の想いが伝わったはず」
チルノがレティを見る。
救いを求めるような、弱々しい光を湛えた瞳で。
「だって、そうでなかったら、こんな優しい微笑みを浮かべてるはずがないでしょう?」
そう。レティの目にあの場所が牢獄ではなく、他ならぬ楽園に映ったのは、まさしく氷に眠る妖精の表情が故だった。
数多の氷の花、中心で眠りについていた花の妖精は、安らかに目を閉じ、優しい笑みを浮かべていたのだ。
きっと彼女にとっても、チルノは大切な友達だったのだろう。ずっと共にいたかったのだろう。
自分も、元気なうちに話してみたかった。だがもうそれも叶わない。
妖精は混沌へと還っていき、再び戻ってきた時にはもう、別の存在となっている。
世界に立ち向かおうとしたチルノも、これから間もなく、敗北を知ることになる。
この世の避けられない理を、目の当たりにすることになる。
日の光にさらされた氷柱が、涙を流し、小さくなっていった。
そして、中の妖精に空気が触れ、魔法の時計が動き出した。
水に濡れた妖精の体から、金粉がこぼれ始める。
風で葉がこすれ合うようなささやかな音と共に、光の粒は徐々に増えていった。
無数の黄金の蝶が、花の妖精の色鮮やかな体から羽化していく。
そして、氷の柱が足の下まで小さくなった頃合いで、その華奢な体が浮かび上がった。
「あ……」
チルノが声を漏らす。
透き通っていく妖精の瞼が、その時、開いたのだ。
半透明の瞳が、氷の妖精を見つめる。
彼女は口を開いた。けれどもその声は、すでに聞こえない。
けれど彼女は確かに、何かを伝えようとしていた。
「大ちゃん」
チルノもそれに応えようとする。
「大ちゃん、大ちゃん」
何度もチルノは呼びかける。
光の中に消えていく妖精は、微笑んだまま……何かを言い残したようだった。
そして、二人の前から、大妖精と名付けられた存在は、完全に姿を消した。
一陣の風が通り抜け、後には彼女の髪に結ばれていた、黄色いリボンだけが残されていた。
青い妖精は、ふらふらとそれに歩み寄り、拾い上げる。
「チルノ……」
動かない氷精の背中に、レティは何か言葉をかけようとした。
その時だった。
「あはは……あはははははは!!」
笑い声が、冬の空気を震わせた。
伸ばした手を止め、レティは顔を強張らせた。
けれども、眼前の氷の羽の持ち主は、壊れてしまったわけではなかった。
卵の殻を突き破って出てきたのは、レティのよく知っている妖精だった。
「わかった! わかった!」
大はしゃぎで屈伸しながらジャンプして、チルノは子供らしい仕草で、両手を何度も突き上げる。
「ねぇ知ってるレティ!? 妖精がなんで生まれた時に、元の世界を忘れちゃうのか! それはね! きっと名前が無いからよ!」
閃いた冷気が、呆然となる寒気を貫く。
たった一匹の小さな存在から、煌めくほどのエネルギーが溢れだしていた。
「大ちゃんは死んでない、あっちの世界に帰ったけど、きっとまた戻ってくる。そして大ちゃんはきっと全部忘れちゃってる。けど……大ちゃんの姿がどんなに変わってても、あたいは見つけられる自信がある!」
小さな氷の妖精が、冬妖怪の予想もしていない可能性に到達し、未来を切り開こうとしている。
「大ちゃんがあたいのことを忘れちゃってても、あたいは絶対覚えてる! 絶対、絶対、絶対、絶対覚えてて、見つけてあげる!! あたいは何度でも見つけて、大ちゃんの名前を呼び続ける!! この世界が、大ちゃんを認めて、受け入れるまで!!」
彼女は高らかに挑戦を告げる。
遥か昔に己をこの世界に産み落とし、唯一の友を連れ去っていった母に対して。
「この世界がどんなにイジワルしたって、あたいは絶対負けないわ! 大ちゃんがいない世界なんて、つまんないもん! だから、あたいは、この世界が負けを認めるまで、捜して、見つけて、大ちゃんの名前を呼んであげる! 最後に勝つのは、絶対あたいの方!!」
チルノは振り返り、叫んだ。
「だってあたいは、最強の妖精だもんね!」
その笑みは、もうすでにこの世界で一等賞を取ったような顔だった。
だが彼女は今まさに、新たな目標に向かって走り出したのだ。
きっとこれからもこの負けず嫌いの妖精は、何度も……何度でも甦り、スタートし続けるのだろう。
最強の妖精というのは、きっと、そういうことなのだ。だからこそ、彼女は最強を名乗る資格があるのだ。
「……チルノ」
レティはようやく口を開いた。
「チルノ……私はいつもこう思うんだけど」
降参して、苦笑を浮かべつつ、冬の妖怪はささやく。
「貴方は本当に、妖精にしておくにはもったいないわ」
妖怪の山の麓にある森。
そこに大きなかまくらと、その上に腰かける金髪の妖怪がいた。
彼女は急に晴れ渡った空を指さして、
「あー。ほらあれー。レティだー」
その言葉に、かまくらの中にいた三人が、勢いよく飛び出してきた。
「ホント? どこどこ? チルノはいる?」
「あ、ほらあそこ! チルノも一緒よ!」
「チルノ……!」
白い冬妖怪は、青い妖精を引き連れて、かまくらの側に降りてきた。
「ただいまみんな。約束通り、チルノを連れてきたわ」
「さすがレティ! 頼りになるわ~♪」
「よかったー。ずっと心配してたのよチルノ」
「元気そうでよかったのだー」
「はっはっは! 当然! あたいは今日、すごい目標が出来たのよ! 最強のあたいにふさわしい目標がね!」
「………………」
「あれ、橙。なんでずっとあっち向いてるの?」
「……もー! チルノなんて知らない!」
「ほらほら、ケンカはやめて。みんな、今夜は私の家に泊まってちょうだい。仲直りはそれからでもいいから」
◆◇◆
「たのもー! たのもー石頭ー!」
早朝。人里の端に立つ一軒家。
その庭にて、青い氷精が腕組みをして怒鳴っていた。
すぐに障子が開き、寝間着姿のワーハクタクが姿を現す。
「石頭ではない。上白沢慧音だ。おはようチルノ」
「石頭なんだから石頭でいいじゃない」
「よくない。名前というのはとても大事なものなんだぞ」
「知ってるわよそんなの。それよりどういうこと!?」
バンバン、と縁側を両手で叩いて、妖精は抗議した。
「ミチバーの店にミチバーじゃない奴が住んでるじゃない! あたいは許可してないわよ!」
「ああ。あの駄菓子屋は里の子供にとって必要ではあるし、大人達にも思い入れが深い場所なのでな。やっと後を任せられる者が見つかったんだ。できた人間だぞ。お前も許してやってくれ」
「ふーん? ふんふん……」
妖精は指をピストルの形にして顎に当て、思案気な顔で言う。
「つまり、ミチバー・マークⅡってこと?」
「ま、まぁくつぅ?」
「それなら、最強のあたいが、ちゃんとミチバーらしくやってるか、毎日確かめに行ってやるわ!」
「あ、こら。待たんか」
◆◇◆
「あーもう! うるさいわね! あんたの歌になんて興味ないし、ダンスなんて嫌いなのよあたいは!」
霧の湖の真ん中で、青い妖精は癇癪を起こしている。
その下では、おろおろとなだめる人魚の姿があった。
「そう言わずに、お願いよー。妖精が賑やかにしてくれないとね、自然の恵みが減っちゃうのよ。貴方が頑張れば、この湖もきっと豊かになると思うの」
「ふん! 湖の魚なんて知らない!」
「はぁ……あの子がいてくれたら、きっと賛成して踊ってくれるのに。素敵なダンスだったわ……今も目を閉じれば、瞼の裏にはっきりと……」
「……ん!?」
ため息を吐く人魚の台詞に、氷精は反応する。
「あの子って、大ちゃん? 」
「え? ええ。そんな名前だったかしら」
「あんた、大ちゃんのダンスを覚えてんの?」
「一応……貴方が寝てたりして見ていない時に、ダンスしてるのをいつもこっそり見てたから」
すると、不機嫌だった妖精の顔が、ニカッと輝いた。
「それなら、あたいにそのダンス教えて! また大ちゃんに会った時に、びっくりさせたいから!」
◆◇◆
「きゃー! はぐれ妖精よー!」
「助けてー!」
太陽の畑で逃げ惑う妖精を追い回しているのは、氷の羽を持つ青い妖精。
「あーもう! またいなかった! でも絶対に見つけてやるわ! あ、あっちにいるかも!?」
彼女はまた、新しく見つけた妖精の集団に突撃していった。
そんな様子を、地上から眺める大妖怪。
「あれが最強の妖精ねぇ……。能天気な氷だこと」
黄色い花に囲まれて、のんびりとくつろいでいる彼女は、季節のお茶を楽しんでいた。
「大体、あの子が戻ってくるまで、あと数十年はかかるでしょうに。それまで覚えてられるのかしら」
と独り言ちると、周りに咲く向日葵が、風もないのに小さく揺れた。
それを見て、四季のフラワーマスターは、表情を綻ばせる。
「あら、貴方たちもまた会うのを楽しみにしてるの? そうね。何しろ私を唯一負かしたライバルだものね」
あ、久しぶり。
久しぶり。元気してた?
今とっても面白い話をしてたところなの。
私も面白い話があるよ。この前デンデン虫みたいなメガネの子が同じ場所で七回も転んで。
それは前にも聞いたわよ。
でも何度聞いても面白くない?
二回目までは笑ったけどさぁ。
じゃあ怖い話とかどうかな。
あ、私そういうの好き!
え、あたしはちょっと用事を思い出したから……。
大丈夫よ。そんなに怖くないから。でもちょっとぞわってするかもしれない不思議な話。
ぞわっ?
そう。ぞわっ。
お化け? 妖怪? 怪物?
違う違う。そんな話いっぱいあるし、似たようなのばっかじゃん。ぞわっとするけど。
お化けでも妖怪でも怪物でもない、ぞわっとするかもしれない不思議な話かー。
ひやっとするかもしれないけどね。
もったいぶらないで、早く話してよ。どんなのそれは?
ほら、あの……はぐれ妖精の話よ。
知ってるわ。湖の近くにいる妖精でしょ?
私はこの前、山の麓で見たっていう噂を聞いたわよ。
あたしも一度見たことある。水色の髪の毛の妖精。
そうそう、その水色の妖精の話なんだけど。
あの妖精って……昔、他の妖精を殺しちゃったことがあるんだって。
ええっ!? 本当に!?
でもどうやって!? 妖精を殺す方法なんてあるの?
殺しても一旦還るだけで、また別の形で生まれてくるものでしょ。
あ、でも最近はしばらくして、元通りに復活する妖精も増えてるんだって。
へー、それっていいなぁ。そういえば、名前を持ってる子も増えてきたよねー。
でもなんか面倒くさそう。私は早く還りたいタイプだしー。
いいから話の続きを聞いてよ。そのはぐれ妖精は、自分の力を使って、その妖精の時間を止めちゃったんだって。
時間を止められる妖精?
そんなことできたら最強じゃない?
どうやって?
ずっとしがみついていたとか。
箱の中に閉じ込めたとか。
でもなんでそんなことしたのかしら。
さぁ……。でも結局それは失敗しちゃって、妖精は一旦殺されただけで、やっぱりお母さんの元に還っちゃったそうよ。
それじゃ別に殺したってことにならないでしょ。
でもあの氷のはぐれ妖精、それから何十年もずっと同じ姿で生きていて、自分が殺したその妖精のことをずっと探してるんだって。
怖~。なんかわからないけど、すっごく恨みに思ってるんでしょうね。
でもその妖精が別の姿に変わってても、わかるものなのかしら。
あれ? どうしたのあんた、変な顔して。
う、ううん。ちょっと、気になる話だっただけ。
そう言えば、私もこの前面白い噂を聞いたわ。えっとね。
5. 再会の春
私はよく他の子から、少し変わった妖精だと言われています。
妖精にしては物をよく考える。
妖精にしてはちょっと大人しい。
妖精にしては難しい言葉を使おうとする。
妖精にしてはイタズラに興味を示さない。
もしかしたら本当に妖精じゃなくて、別の何かじゃないの? そう、からかわれたことは何度もありました。
でも私は、間違いなく妖精です。
妖精は好奇心の塊のようなものです。知らないもの、わからないものには触れてみたくなるのが妖精です。
だから今日、私がこの坂を上っているのも、きっと妖精だからだと思うのです。
長い長い坂道です。青空に向かって伸びている坂です。
林の中をくり抜いていて、周りの草の丈があまり高くなくて、ぽつぽつとタンポポが生えています。
この道を歩くのは初めてですが、なんだか好きになれそうでした
何か私の想像していない素敵なものが、向こう側で待っている。
そんな気がするから。
坂が終わり、噂に聞いていた霧の湖が、目の前に現れました。
わぁ……すごい。
本当に見渡す限り、真っ白の霧が広がってます。
まるで、空の神様に内緒で下りてきた雲さんが、お昼寝してるみたいです。
とっても驚いちゃって、しばらく立ったまま息を止めてました。
けど、なんだろう。少し懐かしい気もする。ここに来たのは初めてのはずなのに。
私が一人でこの湖をお散歩することにしたのには、一つの理由がありました。
つい先程のこと、お花畑で仲間の妖精の子とお喋りしていた時のことです。
楽しい話、驚く話、素敵な話、悲しい話。
私たちにとって、おしゃべりは日常的なもので、妖精が妖精であるために、とても大事な要素の一つなのです。
そんな中、ある妖精の話が出てきました。
それは霧の湖の近くを縄張りにしている、ある強力な妖精の話でした。
周辺の妖精は誰も逆らえず、彼女はある意味リーダーであると同時に一匹狼、つまりはぐれ妖精だというのです。
妖精よりも、妖怪との付き合いが多く、人間の知り合いもいるのだとか。
そして彼女にはとても恐ろしい噂がありました。
その妖精は、大昔にある妖精を殺してしまったのだそうです。
でもその後も、その妖精は何十年も同じ妖精が再びこちらに帰ってこないかどうか、ずっと捜しているそうです。
すごく怖いお話です。
普通なら、そんな怖い妖精について調べたいなんて思いません。
けどなぜかしら。今日はその噂に、気持ちが引っ張られてしまうような気がして……。
なんだかドキドキしてずっと落ち着かなかったので、こうして霧の湖にやってきたのでした。
さて。この向こうに住んでいると聞く、噂の恐ろしい妖精とは、どんな妖精なのでしょうか。
ひょっとしたら、体が大きくて、首が長くて牙がたくさん生えた怪物かもしれません。
頭に角があって、背中にびっしりとトゲが生えていて、お腹にはもう一つ大きな口があって、そこから紫色の舌をべろべろと出しているかもしれません。
そんなものがいきなり霧から飛び出てきたら、きっと恐怖のあまり消えてしまうでしょう。
……なんだかホントに怖くなってきたから、そろそろ帰ろうかしら。
あれ、なんだろう。
今、岸の側で、キラリと何かが光りました。
確かめてみましょうか?
周りには誰もいませんし、危ないものだったらすぐに逃げてしまいましょう。
ええと……
あ! お花です! それもとっても不思議なお花!
茎にも花びらにも、色らしい色がついていなくて、透き通っています。
まるで綺麗な小川の水を固めてしまったみたいです。
そしてその形は、私の大好きなあの花にそっくりでした。
でもどうしてかしら。
そんなはずがないのに、これとそっくりなものをどこかで見たような気がします。
自然に咲いたものだとは思えないし……はぐれ妖精の子が作ったのかな。
わからないけど、こんなお花を作れるのだから、きっと綺麗な心の持ち主に違いありません。
私はそのお花の前で、ダンスを始めることにしました。
妖精は踊るのが大好き。でも自分のダンスが、誰に教わったものなのかは、わからないのです。
ひょっとすると、私がこちら側の世界に来る前にも、同じダンスをしていたのかも。
湖は涼しくて、気持ちのいい風が吹いています。
足下に咲く透き通った花が、グリーンやブルーに輝いています。
私の髪や服の色が映ってるのです。とても素敵な眺めです。
がさごそ
後ろの方から、葉っぱがこすれ合う音がしました。
風が吹いたからかと思ったけど、どうやら違うみたいです。
誰かいるの? 私は踊るのを止め、羽を閉じて振り返りました。
茂みの上に、妖精の子が浮かんでます。
水色の髪、青と白のワンピース、透き通った不思議な形の羽。そして……青いリボン。
噂に聞いていたからでしょうか。なんだか、初めて見た気が……しなくて……。
私たちは、しばらく見つめあったまま、何も言いませんでした。
やがて、青い妖精の子が先に口を開きました。
「スイートピー……好きなんでしょ」
「えっ」
私はびっくりしましたが、うなずきました。
そうです。私の一番好きな花は、スイートピー。
別に花の妖精じゃないけども、なぜかスイートピーだけは、いつも自分にとって特別な花のような気がしていたんです。
水色の髪の子は、一歩、私の方に進みました。
「ヘビが苦手……」
私はまたうなずきます。
でも、ヘビさんが苦手なのは、私だけじゃないですけど。
また一歩、青いワンピースの子の足が進みます。
「風鈴の音が好き……」
ふうりん……ああ、そうそう。風鈴です。
実は私は、仲間の妖精の子が持っている鈴の音を聞いている時に、別の音を思い出したんです。
今思えばそれは、風鈴の音でした。
でも……それを私はどこで聞いたんでしょう。
「好きなアイスキャンディーは、いちごミルクとオレンジ」
アイスキャンディー。ああ……久しぶりの響きです。
夏に作ってくれたのをよく食べて……夏? 私はまだその季節を知りません。なのにどうして……。
一歩、一歩、質問をしながら、透き通った不思議な羽の子は近付いてきます。
私は逃げることができませんでした。
いいえ、逃げようとしても、何かもっと大きな力に引き留められてしまうんです。
これは好奇心なのでしょうか? いいえ違います。もっと別の何か。
そして彼女はもう、ブルーの瞳に私の姿が映るくらい、近くに来てしまいました。
妖精の子はしばらく、私を恐い顔で見ていましたが、やがてポケットから何かを取り出しました。
「一つ選んで」
それは、三つのリボンでした。
赤いリボンと、緑色のと、黄色いの。
他のリボンは綺麗なのに、黄色いリボンはしわくちゃで、他と比べてだいぶ古いもののようです。
でも私は、その黄色のリボンを目にした瞬間、他の物が目に入らなくなってしまいました。
「これ……」
私がそう呟いて指さすと、その妖精の子はますます恐い顔になりました。
「どうして?」
「えっ……」
「どうしてこれを選んだの!? 答えて! すごく大事なことだから!」
青い妖精は、ものすごく必死で、ものすごく真剣な様子です。
でもどうしてこんなに一生懸命なんでしょう。それにどうしてさっきから、こんな風に色んなことを訊ねてくるんでしょう。
私はうろたえながら考えました。
「それは……」
どうしてかしら。
どうして、私はそのリボンを選んだんだろう。
黄色が私にとって特別な色だったわけではありません。
それに普通だったら、しわくちゃで古いものよりは、新しいものを選んでたと思うけど。
でもそのリボンを見た時、目が離せなくなって。
胸が締め付けられるような気持ちになって。
だってこれは、私が……私が……
……何かがパチンと音を立てて開きました。
私の心の底にあった、土。
そこに私の色々な感情が、降り注ぎました。
嬉しい気持ちが風になって吹き、優しい気持ちが光になって差し込み、悲しい気持ちが雨となって落ちて。
土から芽が出ました。
芽はあっという間に伸びて、葉が出ました。
そしてつぼみができて、花が咲きました。
花はその一つだけじゃなく、土の上に次々に咲いていきます。
その度に、私の知らない、なのにいつまでも抱きしめていたくなるような、不思議なイメージが弾けました。
初めに生まれたイメージは、小さなスイートピーでした。
その次に生まれたイメージは、お花畑。
たくさんのお花の妖精たち。
空に向かって続く坂道。
見渡す限りの真っ白な霧。
それから……それから……ああ……。
この世界を流れるあらゆる川が、私に向かって注がれていくように。
たくさんの思い出が、私の中に還っていく。
季節を飛び越えて、過去を飛び越えて。
私の新しく生まれ変わった心は、遥か彼方まで続く、大きなお花畑に変わっていました。
私はその真ん中に立ち、宙に浮かぶイメージの宝石に触れて、
その光景を読み取りました。
「私が……もらったものだから」
そう。これは私のもの。
私はこのリボンを、髪に結んでた。
大切な、贈り物だった。
それはずっと前に、
「……もらったの……人間の……お星さまになった、大事なお友達から……それは……」
ぼやけていた視界が、元に戻ってく。
二重になってた目の前の子も。その子がつけてる、青いリボンも。
「二人の……おそろいのリボンで……」
すると妖精の子は、
「……大ちゃん!!」
そう叫んで、勢いよく飛びついてきました。
「見つけた! 大ちゃん! やっと見つけた!」
妖精の子は私を抱きしめながら、大声で泣いてます。
そしてなぜか私も、涙が溢れてとまりません。
でも悲しくないんです。それどころか、すごく嬉しい。
自分の心じゃないみたい。一体、どうしちゃったの。
「見た目は全然変わっちゃったけど、やっぱり大ちゃんは大ちゃんだった! ちゃんと、こっちに帰ってきてくれた!」
大ちゃん。それが私の名前。
そう。私は大妖精の、大ちゃん。
だいだらぼっちのふりをした、スイートピーの妖精だった。
ずっと前に、このリボンをつけて、この世界で生きていた。
私は、ちゃんと「私」を見つけられた。
でも……。
「よかった……! 大ちゃん……! またいっぱい冒険しようね!」
抱きしめてくれる冷たい氷の羽の子を見て、私は不思議に思いました。
どうして私のことをそんなに知ってるの、って。
けど、そう尋ねようとした私の口は、なぜか、まるで違う言葉を紡いでました。
「どうして……私を見つけることができたの?」
って。
「そんなの、当たり前!」
彼女は――チルノちゃんは目元をぬぐい、大きな声で言いました。
ああ、本当に。
私たちが遊んだあの頃と、ちっとも変わってない、元気いっぱいの笑みで。
「あたいが大ちゃんの大親友で、最強の妖精だからよ!」
(おしまい)
かつて。
北の果てにある小さな村では、冬を呼ぶ鳥の話が語り継がれていた。
夜にだけ姿を現し、星と共に輝くその白鳥は、この世で最も気高く、冷酷で美しい鳥。
だが、夏を愛するその白鳥は、季節が過ぎれば、やがて夜空から姿を消す。
するとその冷たい羽が一斉に生え変わり、大地へと降り注ぐのだという。
季節の移り変わりにまつわる、有象無象の、他愛もない御伽話。
けれどもこの東の地は、そんな御伽話が数え切れぬほど息づき、現出し、共に在る。
妖怪の楽園。その実態は、失われし物語の楽園でもあった。
霜月が去って十日。
上空を覆う鉛色の雲が、寒気のため息を吐いた。
天地の境に、無数の白い羽が現れる。それらは重力に逆らうことなく、風に揺れながら滑り降りていく。
色あせていた妖怪の山が白銀に輝き始め、麓の森はますます無口となり、やがて、地上のあらゆるか細い命の声が、冬のささやきの中に消えていった。
冬空のほぼ中心にて、ちらほらと降る雪の中に、ぼんやりとした影が浮かび上がる。
漂っていた雪が、冬の風に乗って渦を作り、中心の影にじゃれつく。
人の形をした寒気の源は、柔和な微笑みを頬に湛え、雪と戯れながら囁いた。
「ごきげんよう、東の地よ」
ふわりとした浅紫の髪、雪色のターバン、純白のマフラー。
雪を菫で染めたような色合いの、ゆったりとしたエプロンドレス。
その笑みも溶けたマシュマロのようで、周囲に立ち込める寒気とは対照的な容姿をしていた。
「さて、まずは一回りしてきましょう」
幻想郷には、春の目覚めを歌う妖精もいれば、秋の恵みを振る舞う神様もいる。
そして彼女、レティ・ホワイトロックは、初雪と共に姿を現す、冬の妖怪だった。
◆◇◆
レティは目覚めたその日のうちに、幻想郷をくまなく回ることにしている。
初雪を従えながら、雲の下を散歩し、本格的な冬が来る前の挨拶回りを行うのだ。
冬を嫌う者は、人も妖怪も問わず多く、決して歓迎される仕事ではない。
それでもレティは気にしたことはなかった。雪は全てを包み込んでしまうものだから。
「雪やこんこ、あられやこんこ」
レティは歌を口ずさみながら、顔の前で人差指を回す。
指先に乗るのは、白く冷たい冬の羽。
天を漂う寒気によってできた氷の結晶であり、一つ一つに冬の魔法が封じ込められていた。
見ることができず、感じ取ることしかできないその寒気を、レティは具現化し、自在に操ることができる。
空の底に沈んでいくそれらは、地上の全てを等しく覆い隠し、毒よりも優しく命を奪っていく。
冬は命の選別の季節。だから疎まれ、憎まれる。
けれどもレティは傷つくことなく、それらの感情を受け止めていた。雪はあらゆるものを同じ色に染めてしまうから。
「雪やこんこ、あられやこんこ」
他方でレティは、冬の精ではない、妖怪としての顔も有していた。
彼女の生き方には、季節の行いから外れた自由がある。
だから冬にしか会うことはできないものの、雪以外の友達もいるのだ。
スカートの下に広がる森に、レティは視線を移した。
その端に、ごく小さな屋根が見つかる。炭焼き小屋よりももっと小さな屋根だ。
さらによく見れば、屋根の側で両手に息をかけて温めている少女もいた。
彼女は、上空にいるレティに気が付いたらしく、手を振ってくる。
「ふふふ」
レティは空の階段を下りていった。
地上で待っていたのは、見ただけで妖怪とわかる少女だった。
正面に立つと、頭頂部と後頭部、そして背中に鳥の親子が止まっているような羽が伸びているのが分かる。
耳にはピアス。あずき色のジャンパースカートにもアクセサリがついており、毒々しさ一歩手前の洒落た装いである。
強いて人間に近いところを挙げれば、それは桃色の髪の下から覗く、人懐っこそうな笑みだろう。
レティが下りてくるのに合わせて、彼女は胸に片手を当てて唄い始めた。
その白い帽子をください ボクの帽子をあげるから
その白いマフラーをください ボクのマフラーをあげるから
その白いコートをください ボクのコートをあげるから
その白い靴をください ボクの靴をあげるから
ああ、貴方が溶けてしまった ボクもまた、こごえてしまう
雪などに恋するのではなかった それでも、恋した相手だった
一曲披露した夜雀の妖怪、ミスティア・ローレライは、
「久しぶり~♪ 冬の友よ~♪」
と、つま先立ちで一回転してから、自分を指さして尋ねる。
「もしかして、今度の冬は、私が最初?」
「ええ。貴方の歌が最初の挨拶になったわ。ミスティア」
レティはそう答えて、片方の手のひらを軽く上に向けた。
すると二人の周囲から、寒気があっという間に引いていき、春と変わらぬ気温となった。
ミスティアも「おー、さすがー、あったかーい」とバンザイして喜んでいる。
こうした多少のワガママが許されるのも、レティが神ではなく、妖怪だからだ。厳格な季節のルールとは裏腹に、幻想郷の冬は気まぐれなのである。
レティは羽の付いた帽子の後ろに目をやり、
「今年は完成しなかったみたいね~」
「うん、そうなの」
と言いながら、ミスティアも振り返る。
「夏の間に仕上げて、レティをびっくりさせようと思ったんだけど、うまくいかないのよねぇ。こういうのが得意な知り合いもいないし」
上空から見えた小さな屋根の正体は、作りかけの屋台だった。
夜雀というのは、歌で人を狂わせ、鳥目にしてしまう妖怪だ。
けれども、最近は里の郊外に出る人間がめっきり減ってしまったため、そうした能力を使う機会は失われる一方らしい。
というわけでミスティアが挑戦しようとしているのが、この屋台だった。
人間、妖怪問わず、客を鳥目にすることで提灯の元に誘い込むというアイディアだとか。
まだ完成の目処は立っていないようだが、レティは冬が来るたびに、着実に彼女の計画が前進していることを知っている。
その未来図がいつか、何らかの形で実現するのが楽しみだ。
レティとミスティアが久しぶりに話し込んでいると、山の方から新たに三人組がやってきた。
「レティだ! ほら! やっぱり来てた!」
「久しぶりーレティー」
「わーい」
温かそうなマフラーをした化け猫、みのむしのように着込んだ蟲妖怪、そして冬でも変わらぬ姿の宵闇妖怪。
レティは寒気の扉を開け、冬知らずのドームに彼女たちを招き入れる。
「みんな元気そうで何より。さぁ、話を聞かせてちょうだい」
それから五人は、しばらくぶりの会話を楽しんだ。
化け猫の橙は、猫の足跡がたくさんついた紙を持って、春にマヨヒガで生まれた子猫たちについて語った。
ホタル妖怪のリグルは、素数ゼミの抜け殻を見せつつ、それにまつわる不思議な話について語った。
宵闇妖怪のルーミアは、秋に食べ歩いた果物の味について、それを干したものをいくつか渡してくれながら語った。
彼女たちは毎年こんな風に、春や夏、秋といった レティの知らない季節の物語を運んできてくれる。
こうした贈り物もまた、友達を持つ冬妖怪としての喜びに他ならなかった。
話が一段落したところで、レティは何気ない調子で言う。
「貴方達四人が揃ってて、チルノだけいないのは珍しいわね」
すると不思議なことに、場が一瞬にして静まり返った。
四季の影は彼方へと去り、ドームの外の雪のささやきだけが残った。
「どうしたの?」
レティがそう聞いても、みんななかなか口を開こうとしない。
ミスティアは首をすくめて、ばつが悪そうに隣の表情を窺う。
リグルはマフラーの中に顔を沈めて、ため息をこぼす。
橙は両手を後ろに回し、そわそわと落ち着かない様子で視線を地面の辺りにさまよわせる。
ルーミアは……彼女だけはいつものことながら、何を考えているのかわかりにくい笑顔だったけれども。
「あのね、レティ。私たちそのことで、レティに相談しようと思ってたの」
しばらくして、リグルがそう話を切り出した。
「実はね……今年の夏になってから私たち、一度もチルノと会ってないのよ」
「あら~喧嘩でもしたのかしら?」
四人のうち、三名が首を振る。
ただし一人だけ、前髪の奥に表情を隠してしまった妖怪がいた。
「私が……チルノを怒らせちゃったんだと思う」
「あら、橙が?」
レティは彼女から、詳しい事情を聞いた。
なんでも橙は、妖怪の山に入り込んでいたチルノと、偶然出会ったそうだ。
橙はそこでチルノに、どうして遊びに来なくなったのかと訊ねたが、向こうは乱暴に突っぱねるだけで、何も話してくれず、結局ケンカ別れしてしまったのだとか。
仲良しだった妖精が、理由を話してくれずに去ってしまった。それだけじゃなく、彼女に邪険にされてしまった。
この出来事は、当事者の橙にとってだけでなく、それを聞いた皆にとっても相当ショックだったらしい。
以来、この四人はその話題になるたびに、どうしても雰囲気が暗くなってしまうという。
「私のこと、嫌いになっちゃったのかな……」
二つの黒い尾を垂らし、しょげ返る化け猫の背中に、隣のホタル妖怪が手を添える。
「橙のせいじゃないわ。だって、最後にみんなで会った時はいつものチルノだったし、いつからか突然私たちに会いに来なくなったんだもん」
「それなら、貴方達の方からチルノに会いに行けばいいじゃない」
レティは自然というか当然の発想を伝えるが、
「……藍様が、今は幻想郷が難しい時期だから、勝手に色々な場所に行っちゃダメだよって……」
「ああ」
言われてレティは理解した。
冬の間しか存在せずとも、昨今の幻想郷の情勢についてはある程度知っている。
博麗大結界ができて、外界とのつながりがさらに限定的なものとなり、世界が閉じてから数十年。
ここにいるミスティアだけでなく、この地に生きる者のほとんどは、その生き様を変えざるを得なかった。
人の多くは里の中に閉じこもるようになり、妖精は数こそ変わらないものの、いずれも短命となった。
より大変なのは、人を気軽に襲えなくなった妖怪達だった。
妖怪は概して生き方を変えるのが苦手だ。特に大妖怪や長く生きていた妖怪ほど、その傾向は顕著となる。
鬼は狭い世界に嫌気が差し、地下へと潜った。一方で、天狗は手に入れた山を持て余し、己に優位な社会を築こうと苦闘しているという。
方々にて、様々な勢力が生まれつつあり、狭い世界の地図をどう分け合うかと、しのぎを削っているのだ。
こうした膠着時に、無視できない奔流を生むのが、小妖怪である。
彼らが自由に振る舞い、他といざこざを起こすことになれば、それが火種となって遥かに大きな闘争を招きかねない。
よって、それぞれの勢力の上層は、自分の縄張り内の妖怪の動きについて、日々注意深く監視しているらしい。
というわけで、そういった強者達の都合がひしめき合っている現状、橙達のような山の麓に住んでいる妖怪は、自由に行動できるチルノの方から来てくれない限り、会って話すことができないのだろう。
「チルノがどうして遊びに来てくれなくなったのか、私たちもずっと気になってて、レティなら何かいい考えを思いついてくれるんじゃないかって、冬が来るまで待ってたの」
「そうだったのね~。頼りにしてくれるのは嬉しいわ~」
とそこでいきなり、
「チルノに新しい友達ができたんだと思うなー」
そんな風に、ルーミアがいつもの朗らかな表情で発言したものだから、全員の視線が彼女に集まった。
「新しい、友達?」
「うん。きっとそうだよー。前にねー。湖に行った時にチルノに追い返されちゃったんだけどー その後かげからこっそり見てたら、知らない子と話してたのー」
ルーミアは元々、特定の場所を根城としない野良妖怪だ。
なので彼女だけは、他の三名と違ってある程度行動に自由がきくという特徴を持っていた。
ただしその行動があまりにも無秩序かつ予測不能なので、他の者の期待をいい意味でも悪い意味でも裏切ることが多いのだが。
ともかく、初耳だったらしい他のちびっこ妖怪たちは、うろたえ出す。
「じゃ、じゃあどうして私たちに紹介してくれないの?」
「さー?」
「っていうか、どうして今までそれを黙ってたのよルーミア!」
「だって今、レティの顔を見たら思い出したのー」
「もっと早く思い出してよ」
すぐにチルノとその友達のことについて、四人は活発に意見を交わし始めた。
どんな友達なのか。いつ知り合ったのか。なんで秘密にしているのか。今も二人でいるのか。
あーでもない、こーでもない、と議論が白熱する。
傍から見ているレティは、おかしさが込み上げてきた。
種族も性格もバラバラな妖怪達が、一つの目的に向かって、それも妖怪ではない妖精の友達について懸命に考える。
まるで春と夏と秋が一緒になって、欠けてしまった仲間の季節を取り戻そうとしているようだった。
――こういう幻想郷の未来も、ありだと思うんだけどね~。
レティは心の中で、しみじみと呟くものの、彼女達にはこの問題は手が余りそうだ。
となれば、やはりここは新たな助けが必要だろう。
「みんな。チルノのことは、私に任せてくれないかしら~?」
そうレティが言うと、四人は議論を中断して、顔をこちらに向けてきた。
「私は冬の妖怪で、いる場所を選ばない。それにあの子が何を隠しているのかはわからないけど、どこに隠れているかは調べられるから」
「チルノを山に連れてきてくれるの?」
橙がそう言って、期待するような目で見つめてくる。
しかし、
「会ってどうするかは、私がよく確かめてから判断するわ」
冬の年長者は、静かに首を振って言った。
「誰にだって……きっとチルノにだって、みんなに聞かれたくない秘密はあるでしょうから」
◆◇◆
四人と別れたレティが始めに向かったのは、霧の湖だった。
ルーミアの証言によれば、彼女はここで件の「知らない子」を目撃したというし、手がかりの出発点としては妥当だと思ったのだ。
訪れるのは昨年の冬以来、すなわちおよそ九ヶ月ぶりである。
最後に来た時と変わらず、湖面には乳白色の濃霧が広がっており、上から見下ろしても生き物の影はおろか岸の形すらわからない。
レティが幻想郷に住むようになってから、一匹の妖精が住み着くまで、ここはずっと静かで謎めいた、神秘的な場所だった。
そして今の湖は、去年よりも、かつての雰囲気を思い出させる。
念のため、レティは湖上の霧に手をかざし、目を閉じた。
しばらくしてから、肩をすくめる。
――やっぱり、いないみたいね……。
実のところ彼女の知っている氷精を捜すのであれば、わざわざこんな風に気配を探る必要もない。
どこにいても何をしていても、小さい体の割に目立ちすぎるくらい目立つのが、あの青い髪の妖精なのだから。
しかし、向こうが敢えて知り合いの目を避けようとしているのであれば、事は簡単にはいきそうになかった。
山と結界に囲まれたこの秘密の地は、外界と比べれば遥かに狭いとはいえ、妖精一匹を捜して回るには広すぎる。
おまけに、妖精というのは本来、自然の中に溶け込みながら生きている存在であるため、その存在に適したフィールドに隠れた場合、同族でもなければ容易に発見できるものではないのだ。
ましてや今は冬。冷たいものに溢れた季節である。仮に橙達が山を離れてチルノを捜したとしても、見つけるのは至難の業だったであろう。
では、冬の妖怪レティ・ホワイトロックなら?
「仕方ないわね。ちょっと強引だけど、今日一日だけなら怒られないでしょうし」
レティはのんびりと呟き、高度を上げた。
今度は地上の霧ではなく、空にあまねく広がる『霧』の中心を目指す。
そのうち視界が水や氷の粒、そして降り注ぐ前の雪の子らがでいっぱいになった。
―!
―!!
―!?
―!!!
火竜の血も凍てつく寒気に包まれながら、レティは微笑んだ。
雪の子らがレティの存在に触れ、興奮で賑わっているのだ。
「それじゃあ、みんな。力を貸してちょうだいね」
自宅のキッチンを前にしたような軽い口調で言って、レティは目を閉じた。
左右の手のひらの上に、寒気を載せて持ち上げ、ささやく。
『旅人へ……北風より……』
それは、冬妖怪だけが紡ぐことのできる、古い言霊だった。
彼女の吐息に触れた雪の一片が、隣の雪へとその情報を伝える。
雪同士の刹那の交信は、雲を飛び出し、他の雲へと伝播していく。
そして、ほんのわずかな時間のうちに、幻想郷に存在する全ての雪が、冬の精の願い事を聞き届けた。
空に立つレティ・ホワイトロックが、その名の通りに白い鉱石のごとく輝いていく。
彼女は今まさに、この幻想郷に存在する全ての雪から、膨大な数の声を聞き届けている最中だった。
名もなき草の根元、枯れた木の裏側、指先ほどの小石の上、冬眠中の獣の毛皮。
ありとあらゆる場所に存在する寒気の粒が、己が見て触れたものを、鮮明な形で記録していく。
それらはやがて、東の山から西の山へと広げることのできるほどの巨大な細密画となって、一人の冬妖怪の頭に描かれていた。
すなわちレティは、雪を通じて、幻想郷全土の情報を掌握していたのだった。
そして、ついに見つけた。
くまなく広がる白い寒気の中に隠れた、青く燃える冷気を。
場所は魔法の森の側を流れる小川だ。
レティは付近の雪を通して、数キロ離れた雲の中から、妖精の姿を観察した。
水色の髪に青いワンピース、そして数対の氷の羽。頭に結ばれたリボンを除いて、昨年の姿と変わったところはない。
自然の風景に溶け込みながら、小川の水をすくって、手のひらに載せて見つめている。
何をしているのか確かめようと、レティは近くの雪を操り、もっとはっきりとした映像を求めた。
突然、映像の中の青い妖精が、弾かれたように振り向く。
――気付かれた?
レティは注意深く観察を続ける。
妖精は手の中の水を捨て、空中に浮かび上がり、付近を警戒するように視線を走らせた。
その全身から発せられている冷気は、周囲の雪を――寒気の粒を寄せ付けぬよう働いている。
間違いない。向こうはこちらの存在に気付いているようだ。
レティは仕方なく、直接映像の場所に出向くことにした。
『雪は続く。世界の果てまで』
雲の中にいたレティの全身が、音もなく弾け、粉雪が舞い散った。
その光景を目撃したものがいれば、瞬時に消えてしまったように見えただろう。
冬妖怪の本質は寒気。そして雪は寒気の申し子であり、神経細胞でもある。
レティ・ホワイトロックの精神は、雪から雪へと転移し、一瞬にして『彼女』の前に出現し、元の形を形成していた。
「お久しぶり~チルノ~」
昨冬ぶりに、レティは間延びした挨拶をした。
「………………」
氷の妖精は、無言で睨み据えてくる。
その目は、青い炎を閉じ込めたアクアマリンのようだった。
全身から発する気配にも、触れるものを傷つける氷刃が仕込まれている。
久しぶりに会った友にしては、あまりにも敵対的な態度だ。
むしろこれは、
「まるで初めて会った時みたいね~」
レティは愉快な気分で言って、過去を想い起す。
あの時も、チルノはこんな目をしていた。
この向こう見ずな妖精は、霧の湖で遭遇した、己と似たようで異なる力を持つ妖怪、すなわちレティに、激しい対抗心を燃やして襲い掛かってきたのだ。
対するレティは、それまで妖精の類に興味を抱いたことがなかった。たとえイタズラされても軽くあしらうだけで済ませていた。
妖精は自然現象の一部であり、限定的な力しかもたない。それに対し、レティは正真正銘、冬の化身である。
両者の間には厳然たる格の差が横たわっており、まともに相手をするのも恥ずかしいことと考えていたのだ。
けれども、当時のレティはその青い妖精に対して、他の妖精とは違った興味を抱いた。
彼女の口上に耳を貸し、力を検分するうちに、興味はますます膨らんだ。
ついに挑戦者が精も根も尽き果てて動けなくなってから、レティはあの四人の小妖怪に、彼女を紹介することにした。
同族の範疇を逸脱した彼女の力は、むしろ妖精ではなく妖怪の方が相性がいいのでは、と考えたのだ。
そのねらいはあたり、毎年五人の姿を見る度に、彼女たちは種族を超えた絆を深めていたように見えた。
そして今、かつてない問題に直面しているらしいのだが……。
――なるほど。あの四人の心配は当たっていたのかも。
出会った時のよう。レティは先ほどの己の発言を、胸中で訂正した。
妖精というものは元来成長というものを知らない。
今目の前にいるチルノも例に漏れず、昨年と同じ大きさ、同じ姿を取っている。
けれども、顔つきが違う。姿勢が違う。
無鉄砲で浅はか。相手が誰であっても実力の差を読もうとせず、最大の力を真っ直ぐぶつけようとする。
それが氷の妖精チルノであり、出会った時から昨年まで、その生きざまはいささかも変わることはなかったはずだった。
ところが今のチルノの表情には、感情ではなく、思考が浮き出ている。
既知の冬妖怪と対峙して、一言も発することなく、刹那的な行動を取ろうともしない。
その難しく真剣な顔の内側で、何を思い詰めているのだろう。
「…………っ」
レティが違和感の正体に触れるよりも早く、チルノが先手を取ってきた。
地面を蹴って後ろに飛びながら、こちらに向かって手のひらをかざす。
小さな指の間からあふれ出した冷気が、二人の間の空気を凍らせていった。
あっという間に、両者の視界は氷霧によって閉ざされた。
ダイヤモンドダスト現象だ。
ただしその見た目は、よく知られている神秘的な眺めからは程遠く、マンモスのくしゃみのような乱暴さがあった。
チルノはこの『不自然現象』を、大技を放つ前に牽制として用いることを好んでいる。
すなわち次に来るのは、彼女の最大級の必殺技。
……と予想したのだが。
「あらー」
レティは首を傾げ、頬に手を添える。
その視線の先には、冷気の霧を隠れ蓑にして、逃走するチルノの姿があった。
振り返りもせず、葉の落ちた木々の間を大急ぎで飛んでいく。
レティは目を閉じ、その瞼の裏で、逃げていく氷精の姿を『見つめた』。
ここから半径2kmの空間は、レティにとっての感覚器官、すなわち雪で満ちている。
よって、先の程度の冷気では、目くらましにもならない。
だがまさか、何も話してもらえず、いきなり逃げられるとは思わなかった。
――見逃してあげようかしら。
ふとレティの脳裏に、そんな考えが過ぎった。
もしチルノが本当に何か知られたくないものがあるというなら、それもありかもしれない。
何かを一人で解決しようと努力しているのなら、離れた場所から見守ってやるのも優しさだ。
あるがままを尊ぶ季節の妖怪にふさわしい振る舞いでもある。
ただしレティは、今回に限っては、その主義を封じることにした。
あの四人のこともあるし、放って置くのも忍びない。
「と、いうわけで。やっぱり話し合いが必要ね。まず止まってもらわないと~」
レティは見えないテーブルにカードを広げるように、右手を軽く動かした。
すると、およそ五百メートル先の地点。
全速力で飛んでいたチルノの行く手に、白い壁が出現した。
「わっぶ!?」
為すすべもなく壁に激突したチルノは、空中で二回転して、地面に落下する。
それから、頭をぶるぶると振って、目の前に現れた障害物をびっくりしたように見つめた。
彼女を阻んだものの正体は、圧縮された雪の壁だった。
地面に降りてくる途中だった、あるいは地面に積もるはずだった雪が、妖力で不自然な形に固められているのだ。
誰の仕業か、チルノはすぐに理解したようだった。
顔に怒りの表情を浮かべて起き上がり、壁を無視して別の方向に飛ぶ。
すると逃げた先に、また雪の壁が現れた。
が、今度はチルノも、予測していなければ間に合わないタイミングで、直角に進路を曲げる。
その先にまた壁が生まれる。チルノは避ける。また壁に阻まれ、チルノはそれを飛び越える。
青白い軌跡が、三次元の一筆書きのように複雑な図形を作っていく。
上下左右、ジグザグに折れながらも、氷の筆は飛ぶことを決して止めない。
高所から見下ろすレティは、静かにほくそ笑んだ。
元気でいい動きだ。そして勘も鋭い。
雪の壁は実は『ダミー』であることを、確実に見抜いている。
実は本命は壁の境にある、目に見えない寒気の網だったのだが、引っかかる気配はない。
壁に一度もぶつかることなく、寒気に掴まることもなく、冷静に突破を試みている。
レティは別に戦闘の専門家ではなかったものの、チルノの動きが相当の場数を踏んでいるというくらいの想像は付いた。
おそらく己よりも遥かに強い妖怪相手に、挑戦しては敗れ、また復活し……挑戦しては敗れ、また復活し……。
そんな不器用で愚直なやり方を続けながら、己の技を磨いてきたのだろう。
まさしく今の幻想郷の妖精にはできない、はぐれ妖精の……絶えて久しい『本物の妖精』だからこそできる成長だった。
彼女をただの妖精だと侮れば、多少腕に覚えのある妖怪であっても、不覚を取ることになるかもしれない。
しかし、
「私は貴方の力を知っている」
レティは握った拳に息を吹きかけ、それを開いて、顔の前で小さく弧を描く。
すると、先ほどまで密集して壁を作っていた雪が、無数の綿と化した。
チルノの顔に動揺が広がる。しかし彼女はすぐに立ち直り、飛ぶスピードはそのままに、飛び方を変更し始めた。
ジグザグから螺旋へ。己自身も回転しながら、まとわりつく雪を引きはがそうとする。
だが雪は冬の精の意思で、どんな姿にも転じる。冷たい鳥、重い雨、動く石、鋭い羽。
状況に応じて自由自在に形を変えながら、雪の群れはチルノの体の重りと化し、大地へと引きずり下ろそうと試みた。
青く輝く妖精の動きが、次第にのろくなっていく。
数分と経たぬうちに、彼女の姿は、氷の生えた大きな雪玉と化してしまった。
前を見ることもできず、自重は激増。墜落するのは時間の問題だ。
これで片が付くとレティは思っていたが、逃亡者の機転は、その戦術をかいくぐった。
チルノが降下しながら目指した場所は、湖とも池とも言い難い大きさの水場だ。
氷と雪の集合体が、その水に飛び込んだのを見届け、レティは笑みを崩さぬまま感心する。
冬という絶好のフィールドであっても、寒気は万能には成り得ない。
たとえば、水中のような温度変化に乏しい環境では、力を十分に発揮できない。
チルノはそのことを覚えていたようである。
だが、池に水面以外の出口はなかった。
水の中に留まっていれば、雪の包囲網は着実に厚みを増していく。
今もまさに、つむじ風の形を取った濃密な寒気が、徐々に水面に蓋をしているところだった。
「飛んで水に入る冬の虫。鬼ごっこはこれで終わりかしら?」
レティは囁きながら、チルノが根負けして水面から飛び出てくるのを待った。
ところが、またもやその予想は覆される。それも今度は、文字通り真っ二つに。
ガキギギギギ!
と、池の中心が爆ぜ、何かが物凄い勢いで飛び出してきた。
天を貫く勢いで伸びたそれは、歪なトゲを生やした氷の柱だ。
周囲に飛び散った水しぶきが、冷気によって瞬時に固められ、青白い欠片となって舞い落ちる。
のみならず、その氷の一本杉は、レティの集結させていた寒気を残らず呑みこみ、閉じ込めてしまった。
「なっ……!?」
レティは目を剥いた。
反射的に、待機していた雪の援軍を差し向ける。
だが氷柱に遅れて池から飛び出したチルノが、強烈な冷気を振りかざし、それらの動きを空中に張り付けてしまった。
さすがのレティも愕然となる。
寒気に追い詰められた挙句、水の中に逃げ込んだのではなかった。
そうではなく、反撃に転じるため、己の冷気の力をためる時間を稼ぐために、一時的に退避したのだ。
それにしてもまさか、寒気を『凍らせて』しまうとは。
冬に力を増すのは、氷精もまた同じである。しかし自らの攻撃を防御に用いるその発想は、とても一介の妖精のものとは思えない。
空へと浮上したチルノは、今度は背を向けようとしなかった。
レティを真っ直ぐに見つめ、正面から対峙している。追撃を振り切るのを諦め、直接交戦して撃退することに決めたようだ。
そしておそらく、それは正しい戦術だった。
どこへ逃げようと、レティにしてみれば、この雪の中では幻想郷も箱庭に等しいのだから。
だが、勝てる見込みがなければ、無謀な挑戦といえる。
理解しているのか、そうでないのか。
一匹の氷精は、全身から青白い冷気を立ち昇らせ、真っ直ぐレティを睨み付けていた。
臆するところのない、勇敢な態度だ。
これまでも、きっとこれからも、どんな強敵に対しても、彼女はそれを曲げるつもりはないのだろう。
相手が妖精であっても、妖怪であっても、鬼であっても、神であっても。
冬であっても。
「はぁ……」
白い柔和な笑みに、影が広がっていく。
「気が変わったわ」
レティの氷点下の声が、周囲の寒気にこだました。
もしここに橙達がいれば、息を呑んで震え上がったに違いない。
レティ・ホワイトロックは、戦闘の専門家ではない。
だからこそ、力の加減が下手なのだ。
季節の化身が、大妖怪にも引けを取らぬ迫力と、莫大な妖気を開放した。
そして、その両腕が消失する。
瞬間、チルノの眼前に、家屋サイズの雪でできた手が出現した。
「っ!?」
チルノは咄嗟に身を翻し、握りつぶされる寸前で、指の間をすり抜けていく。
すかさず、彼女の眼前に別の手が現れ、小さな体を叩き落とした。
奇しくもそれは、チルノが夢想するだいだらぼっちと遜色ない威力を有していた。
岸壁に手形がつくほどの威力をまともに食らい、チルノは光の粒を撒き散らして現世から消失する。
だが、あらかじめ冷気をふんだんにため込んでいた彼女はすぐに元の姿で復活し、
「アイストルネード!!」
回転しながら、青白く輝く冷気を振り回して、巨大な雪の手を制する。
冷気で寒気の威力は相殺できない。けれども張り巡らされたレティの精神を遮断し、運動量をゼロにすることができる。
再び吹き飛ばされる寸前で、雪の手はカチコチに固まり、ついには空中に磔となった。
その重みで、五つの指が音を立てて折れていく。
それらを形成していた雪は、身軽になった瞬間、白い大蛇の群れに変わった。
チルノの手の内に、冷気が極限まで凝縮されていき、氷の剣が出現する。
彼女は剣を振るい、襲い来る寒気の獣を、追い払い始めた。
レティは動かない。けれども彼女は今まさに、雪の台風の目と化しつつあった。
幻想郷中の寒気が主人の元に馳せ参じ、命令を下されるのを待っている。
――埋めてやりなさい。
冬妖怪の勅命は、シンプルだった。
彼女は天に向けた指を、真っ直ぐに振り下ろし、小さな青い影を示す。
雪の蛇をようやく二体切り払ったところで、チルノはハッと顔を持ち上げた。
まさに上から、視界を埋め尽くす圧倒的な質量の雪の傘が覆いかぶさってくるところだった。
冷気の特徴が一点を貫く鋭さにあるとすれば、寒気のそれは広範囲を網羅する厚みだ。
よってレティの究極の戦法は、全方位からの圧殺であった。
森一つをも呑みこめるほどの雪崩が、一匹の妖精に向かって集中していく。
チルノは両手を持ち上げた。
全身からありったけの冷気を出して、頭上の暴威に抵抗する。
目をつむり、歯を食いしばり、大地に根を下ろし、唸る。
己の領域を確保し、主張する。
そして、両者が予想もしていなかった事態が起こった。
膠着した冷気と寒気が、相互干渉を引き起こし、ブリザードに変貌したのだ。
大熊から微生物に至るまで、あらゆる生命が凍えてしまうであろうフィールドは、まるで氷河期が再来したかのような、超自然的な闘技場だった。
その中で、白い煙のような寒気と、凝縮された青の冷気が飛び交い、打ち消し合った。
弾幕。それは未来に生きる者達にとっては、日常的な決闘の手段で、見慣れたものでもある。
しかしながら、この時起こった弾幕の規模は、どの時代にあっても記録に割って入り、見る者の記憶に焼き付くレベルであった。
冬に力を増すのは、氷精もまた同じ。
しかもチルノはいつしか、相手の寒気を冷気に還元しながら攻撃を試みていた。
無限に等しい生命力。だがそれは、無限の精神力があってこそだ。
そして小さな氷の騎士は、消耗しきることなく、冬の権化に立ち向かい続けていた。
――ああ……惜しい……。
雪の群れに身を変えたレティは、氷嵐の中で独り言ちていた。
――本当に惜しい……実に惜しい……。
「うるさい!」
チルノの冷気が、ついに寒気の一点を貫いた。
「あたいは誰にも負けない! 一人で全部できる! あたいは、最強なんだから!」
彼女の訴えが、レティの本体へと届く。
「だからもう、あたいのことなんて放っておいて!!」
チルノは短くなった氷の剣を、ブリザードの中心目がけて投げつけた。
真っ直ぐに飛んでいく刃は、寒気の盾を次々と差し貫き、威力を落とさぬまま、標的に到達した。
そして、突き刺さった。
茫然とする、冬妖怪の胸に。
「レ……」
チルノはそう言いかけたきり絶句し、動きを止めた。
口を開けて、息を呑んだまま、吐くことを忘れてしまっている。
その表情は、自らがやったことと、それが招いた結果を受け止めきれず、狼狽しているようだった。
しかし、
「……また一つ、成長したわね。チルノ」
雪の精が浮かべた笑みは、自身の痛みもダメージも、妖精に与えた罪の意識も、全て包み隠した。
彼女は己の体に刺さった氷の剣に触れ、力をこめる。
するとあっけなく、凝縮された冷気は、音を立てて砕け、下に落ちて行った。
雪の止んだ世界にて、レティは静かに下りて行き、
「氷じゃ私を殺せないわ」
そう言って手を伸ばし、チルノの眼前で掌を上に向けた。
そこには、親指ほどのサイズの小さな雪だるまが載っていた。
瞬きするほどの間に、それは雪風となり、当惑する氷精の頭に触れる。
「……雪で貴方を消すこともできないけど」
「………………」
妖精は口をへの字にして、下を睨み付ける。しかし彼女はもう、逃げるそぶりをみせなかった。
チルノ自身は認めないだろうし、レティは気づいていない。
しかし氷精チルノは、この冬妖怪のレティ・ホワイトロックにだけは、唯一といっていい恩義を感じている。
長い年月の間、彼女は誰からも触れられたことがなかった。
冷たくて、尖った、氷の化身に触れて傷つくのを、誰もが恐れたのであった。
そんな中、冷気に構わず頭を撫でることのできる唯一の妖怪と出会い、負けず嫌いの氷精は、初めて心を開いたのだ。
二人の邂逅は、はぐれ妖精の世界が外に対して無限に開いていく兆しとなった。
「チルノ。私に何か手伝えることはある?」
黙ってしまった妖精に、レティはそっと話しかける。
「冬の間しか、貴方の助けになることはできないけれど、もしかすると私なら力になれるかもしれない。だから教えてくれない? 貴方が秘密にしてること」
素直な返事は期待していなかった。
彼女が意地っ張りなことを、レティは誰よりもよく知っている。己の挑戦が結果につながるまでは、絶対に諦めようとしないことも。
だから、今日がダメなら、明日も話しかけてみるつもりだった。
この冬がダメなら、次の冬も。また闘うようなことになっても構わない。
閉じた彼女の心を、根気よく、壊さぬ程度にノックし続けるつもりだった。
しかし、レティも知らなかったのだ。
チルノの秘密が、彼女自身をどれほど苦しめていたのかを。その業の深さを。
「レティ……」
ポロポロと、氷の粒が彼女の閉じた瞼から零れ落ちた。
「あたいって……やっぱりバカなの?」
妖精の発する声もまた、ひび割れてしまった氷のような脆さがあった。
「どうしていいのかわかんない。あたいじゃ、もうどうすることもできないのかもしれない」
チルノは両腕で顔をこすりながら、しゃくりあげる。
「負けたくない……諦めたくない……あたいは……最強なんだもん……」
レティは無言で立ち尽くしながら、思い返そうと努力していた。
彼女が弱音を吐いたとき、自分はどうしていただろう。涙をこぼしていた時は?
だがいくら探しても、そんな記憶は存在しなかった。
この氷精はいつだって、強気で、小癪で、向こう見ずで、がむしゃら。
だからこそ、レティは彼女を、この世界における例外的な存在とみなしたというのに。
これでは本当に、ただのか弱い妖精のようだ。
レティは眼前の折れそうなほど細い氷の針を、氷点下の体温で扱うような慎重さでもって、問い尋ねた。
「チルノ。貴方を怯えさせるものは何?」
「……わかんない」
「貴方に涙を流させるものは何?」
「……わかんない」
「この冬が来る間に、貴方をそこまで変えてしまったのは……誰?」
それは、ただの勘だった。
けれども、レティその最後の問いは、ついにチルノの秘密に届いた。
彼女は明かしてくれたのだ。無限に広がっていたはずの、最強の妖精の世界を、閉じてしまった存在について。
「…………大ちゃん」
涙を絞り切ってしまった後のような、弱々しい声だった。
「あたいの……初めてできた……友達」
◆◇◆
チルノに連れられ、レティは妖怪の山の中腹にある滝の元に来ていた。
冬の気配に紛れれば、天狗も河童も気付くことはできない。
橙達が冬の間に、チルノが山に入っていることに気づかなかった理由も、それであった。
彼女の秘密は、山にある数多くの滝の一つにあったのだ。
レティはその滝の裏側にある洞窟を見て、柄にもなく、背筋が伸びるのを覚えた。
入らずとも、ただの洞穴でないことがわかった。
強く分別のある妖怪であるほど、自然の中にある神聖な場所に、決して足を踏み入れようとしない。
その奥を覗いてみようと思うのは、物を知らぬか、力を持たぬか、その両方かのどちらかだ。
もしくは、この場所で生まれた存在。
滝の間に飛び込んだ氷の羽に続き、レティは己の身を雪に変えて、中に入り込んだ。
暗い洞穴は光源がないため、どこまで深いかもわからない。
自然の産物か、あるいは妖怪が掘ったものなのかも判別できなかった。
外に立ち込めている寒気も、ここには入り込んでこない。
すでに冷気が飽和状態に近いほど満ち満ちているからだ。
進む途中で、レティは足下に氷の欠片を見つけ、拾い上げた。
――これが、チルノを生み出した氷……。
とても古い氷だ。
古い岩に霊験が宿る様に、物は同じ形を長い間留めることによって、様々な力がたまっていく。
しかし氷というのはその性質上、長きに渡って形を保つものは珍しい。
これほどの冷気の結晶であれば、外の光にさらされても、全て水に変わるのに数年は有することだろう。
そして……。
レティは洞穴の奥に目を向ける。
この先には、古の氷と同質にして、桁外れの力を感じる。
実際、落ちている氷の数が増えていくに連れて、前を行くチルノの力も強まっていくのがわかった。
しかしなぜだろう。レティは胸騒ぎがしていた。
闇の中に見え隠れする背中は、いつもよりもさらに小さくなっていくように映ったから。
しばらく歩いた末に、二人はついに洞穴の最奥へとたどりついた。
何が待ち受けていても、大抵のものを受け入れる心胆が、レティ・ホワイトロックには備わっていた。
それでも彼女は、大きく息を呑み、目を凝らす自分を御することができなかった。
「これは……」
言葉がろくに出てこない。
壁から床まで張り巡らされた氷が、闇を掃い、青白い祝福の輝きを放っている。
そこは水の滴る音も、風の吹きこむ音もない、静謐そのものの、氷の神殿だった。
目に見えぬ微生物も含めて、生き物が生きられるような場所ではない。
おそらくは氷の時代に誕生して以来、何ものにも侵されたことのない聖域。
それは寒気の妖怪であっても、特別な祈りを捧げたくなるような冷気の空間だった。
だがレティを驚かせたのは、それではない。
神殿の中心、最も目立つ場所に、氷のモニュメントが飾られている。
巨大な氷柱の中に、自然の一部の結晶――すなわち一匹の妖精が浮かんでいたのだ。
一目で、花の妖精であることがわかった。
黄色いリボンを結んだ長い『夕暮れ色』の髪。そして『淡いピンク』のワンピース。
可憐な装いは、おそらく彼女をこの世に生み出した花弁の色で染められているのだろう。
その表情は、眠っているようだった。
両の瞼を閉じ、何かに祈りを捧げるかのように、胸の前で両手を組み合わせている。
まるで、花が天に昇っていく瞬間を、氷の写真の中に閉じ込めたようだ。
この世界での役目を終え、還るはずだった妖精が、強力な氷の魔術で時間ごと凍結されている。
それは自然の輪廻から切り離された、妖精の「死」ともいうべき姿だった。
しかし……レティが放心していた理由は、氷の棺におさめられた妖精だけではなかった。
彼女は囲まれていたのだ。夥しい数の……
「こんなにたくさん……」
とてもたくさんの、氷の花に。
池の水や川の水、湖の水などを使ったのだろう。どれも透き通っていながら、光の加減で異なるきらめきを見せている。
そして、花だけではなく、氷でできた動物や鳥などもあった。
「これを、全部貴方が?」
「……ずっと、毎日氷で作ってた……」
レティの隣にいる氷精はチルノは、冷たく、暗い声で言う。
無数の氷の彫刻が飾られた、閉じた楽園のさらに中にある、小さな楽園にて。
「大ちゃんは、花が好きだったから……でも、あたいが生きてる花を摘んだら、すごく悲しむから……だから、ずっと氷で作ってた」
彼女の手の内で冷気が凝縮していく。
外から持ち込んだ水分が、複雑な形を成していき、新たな氷の花が生まれていた。
チルノはその花を、足元の花壇に加えながら、独り言のように続けた。
「大ちゃんは、花の妖精で、長くは大ちゃんでいられなかったんだって……。大ちゃんは、それをずっと、あたいに隠していて、最後に教えてくれた。大ちゃん、泣いてた。哀しそうだった。この世界にずっといたいのに、できないって……」
しゃがみこんだまま、チルノは呟いた。
「レティは……」
名を呼ばれ、冬妖怪は視線を氷精に戻す。
「春になって消えても、また同じレティのままで、冬に会える。ミチバーは死んじゃったけど、お星さまになって見てくれてる。でも大ちゃんは……消えたらもう二度と大ちゃんの姿で会えない。あたいのことも覚えてない」
チルノの視線が上に向かった。
レティもそれにならって、中央の氷の柱を目に映した。
氷柱の中で眠る、花の妖精を。
「だから、大ちゃんがあっちの世界に還らないように、大ちゃんの時間を止めてあげた」
それこそが、チルノが隠していた秘密だった。
妖精には過ぎた所業であり、自然の体現者としての罪業だった。
が、
「……あたいは……間違ってない」
そう呻く氷精の声には、憎悪がこもっていた。
「だって、この世界が悪いんだ。あたいにイジワルする嫌な世界。大ちゃんを泣かして、大ちゃんのお願いを聞かないで、大ちゃんを遠くに連れていこうとしてる。大ちゃんのことを、全然わかろうとしないこの世界が悪い」
それは、彼女がこの世界で孤独に生きていく中で人知れず得た、負のエネルギーだった。
最強という称号に固執し、分別なく挑戦し続ける向上心。その裏側に隠れていた、妖精に似つかわしくない仄暗い感情。
彼女がレティ相手に見せた、異常なまでの強さの秘密でもあった。
妖精の身でありながら、冬の権化を退けることのできたその心の力は、より強大な相手に磨いたもの。
すなわちその相手は、妖精にとっての本源、この世の理そのものだったのだ。
「でも……」
パキン、と澄んだ音がした。
前に立つ、チルノの頭が垂れた。
「こんなの違う。全然楽しくない」
彼女の声は震えていた。
パキン、パキン、とまた音が洞穴に響く。
周囲で静止していた氷の像に、ひびが入っていく。
「大ちゃんとずっといたかった。大ちゃんをこの世界にいさせてあげたかった。だけど」
チルノは拳を握り、泣きながら言う。
また氷がひび割れる音がした。
彼女の願いが砕けていき、信じた最強が折れていく音だ。
やがて一つの花が砕け散り、鳥が砕け散り、獣が砕け散り……。
「あたいは大ちゃんの声が聞きたい。大ちゃんとおしゃべりがしたい。大ちゃんと前みたいに、二人で遊んで、冒険したい」
妖精の嘆きに呼応するかのように、氷の彫像が次々に砕けていった。
そしてついには、氷柱は中央の一つを残すのみとなり、辺りには無残な氷の欠片が散らばっていた。
「でも、この氷が解けたら、大ちゃんはすぐにあっちの世界に還っちゃう。大ちゃんはもう、大ちゃんのままで戻ってきてくれない。大ちゃんじゃなきゃダメなのに。大ちゃんみたいな妖精は、他にいないのに……!」
氷精のプライドは、最後まで彼女に、膝を屈することを許さなかった。
それでも、彼女の弱り切った心は、冬の精の支えを必要としていた。
「レティ……どうしたらいいの? あたいバカだから……わかんないよ……どうすればいいか……教えてよ……」
◆◇◆
レティ・ホワイトロックは、雪の妖怪。
雪はあらゆるものを包みこみ、等しく受け入れる。
故に彼女の性格や行いには、雪の持つ優しさがそのまま表れていた。
けれどもレティ・ホワイトロックは冬の精でもある。
冬は命を選別する季節であり、その判断に私情を挟むことはなく、迷うこともない。
愚直なまでに真っ直ぐな氷の妖精。
彼女に直接道理を解くのは、正道ではあっても、賢明ではなかった。
なぜならそれは、チルノをチルノでなくしてしまう。
だからレティは、しばらく何も声をかけなかった。
胸の内の冷たい頭が泣き止むまで、黙って撫で続けた。
そして、一つの道を示した。
チルノが壊れてしまわぬように。
優しく、残酷な道を。
◆◇◆
洞穴を出ると、外の雪はもう止んでいた。
雲の色も明るい白に変わっていて、青空の切れ端が見えており、小雀のさえずりも聞こえていた。
月は師走。しかも山の中腹だというのに、季節が逆戻りしたような暖かさだ。
もっともその原因は、現れたばかりの冬の精が、初日の分の寒気を残らず浪費してしまったからなのだが。
滝から離れた川沿いにて、白い妖怪と青い妖精は、並んで立っていた。
二人の前には、花の妖精が封じ込められた氷の棺があった。
氷精が力を増す冬とはいえ、誰にも見つからず、一人でこれをあの洞穴の奥に運び込むのは大変だっただろう。
そしてその秘密を一人で抱え込んで過ごすのは、もっと苦しかっただろう。
そうまでして、チルノが棺の主をこの世界にとどめようとした理由。
レティにはそれが十分に解っていた。
「チルノにとって、初めての妖精の友達だったのね」
隣のチルノが、わずかに首を動かす。
初めて会った時、レティは彼女が妖精でありながら、妖精である自分を心底憎んでいることに気づいた。
その後、妖怪の輪に入ることで、チルノの中にあった憎しみは晴れ、特別にして唯一の存在である己に、満足していたように見えた。
だがやはり、彼女は妖怪ではなく、同じ妖精の仲間を心のどこかでずっと欲していたのだろう。
そして、この氷の中に眠る妖精と出会い、ようやく見つけることができたと思ったのだろう。
妖精になりきれず、妖怪になりきれない、特別な存在の自分と同じような仲間を。
妖怪では、彼女を全ての呪縛から解き放つことはできなかった。
彼女には妖精が必要であり、そしてようやくその存在に巡り合えたのだ。
だからこそ、何とか、この世界にとどめようとしたのだろう。妖精の宿業に、彼女しかできないやり方で逆らいながら。
「よく頑張ったわ、チルノ。きっと大ちゃんには、貴方の想いが伝わったはず」
チルノがレティを見る。
救いを求めるような、弱々しい光を湛えた瞳で。
「だって、そうでなかったら、こんな優しい微笑みを浮かべてるはずがないでしょう?」
そう。レティの目にあの場所が牢獄ではなく、他ならぬ楽園に映ったのは、まさしく氷に眠る妖精の表情が故だった。
数多の氷の花、中心で眠りについていた花の妖精は、安らかに目を閉じ、優しい笑みを浮かべていたのだ。
きっと彼女にとっても、チルノは大切な友達だったのだろう。ずっと共にいたかったのだろう。
自分も、元気なうちに話してみたかった。だがもうそれも叶わない。
妖精は混沌へと還っていき、再び戻ってきた時にはもう、別の存在となっている。
世界に立ち向かおうとしたチルノも、これから間もなく、敗北を知ることになる。
この世の避けられない理を、目の当たりにすることになる。
日の光にさらされた氷柱が、涙を流し、小さくなっていった。
そして、中の妖精に空気が触れ、魔法の時計が動き出した。
水に濡れた妖精の体から、金粉がこぼれ始める。
風で葉がこすれ合うようなささやかな音と共に、光の粒は徐々に増えていった。
無数の黄金の蝶が、花の妖精の色鮮やかな体から羽化していく。
そして、氷の柱が足の下まで小さくなった頃合いで、その華奢な体が浮かび上がった。
「あ……」
チルノが声を漏らす。
透き通っていく妖精の瞼が、その時、開いたのだ。
半透明の瞳が、氷の妖精を見つめる。
彼女は口を開いた。けれどもその声は、すでに聞こえない。
けれど彼女は確かに、何かを伝えようとしていた。
「大ちゃん」
チルノもそれに応えようとする。
「大ちゃん、大ちゃん」
何度もチルノは呼びかける。
光の中に消えていく妖精は、微笑んだまま……何かを言い残したようだった。
そして、二人の前から、大妖精と名付けられた存在は、完全に姿を消した。
一陣の風が通り抜け、後には彼女の髪に結ばれていた、黄色いリボンだけが残されていた。
青い妖精は、ふらふらとそれに歩み寄り、拾い上げる。
「チルノ……」
動かない氷精の背中に、レティは何か言葉をかけようとした。
その時だった。
「あはは……あはははははは!!」
笑い声が、冬の空気を震わせた。
伸ばした手を止め、レティは顔を強張らせた。
けれども、眼前の氷の羽の持ち主は、壊れてしまったわけではなかった。
卵の殻を突き破って出てきたのは、レティのよく知っている妖精だった。
「わかった! わかった!」
大はしゃぎで屈伸しながらジャンプして、チルノは子供らしい仕草で、両手を何度も突き上げる。
「ねぇ知ってるレティ!? 妖精がなんで生まれた時に、元の世界を忘れちゃうのか! それはね! きっと名前が無いからよ!」
閃いた冷気が、呆然となる寒気を貫く。
たった一匹の小さな存在から、煌めくほどのエネルギーが溢れだしていた。
「大ちゃんは死んでない、あっちの世界に帰ったけど、きっとまた戻ってくる。そして大ちゃんはきっと全部忘れちゃってる。けど……大ちゃんの姿がどんなに変わってても、あたいは見つけられる自信がある!」
小さな氷の妖精が、冬妖怪の予想もしていない可能性に到達し、未来を切り開こうとしている。
「大ちゃんがあたいのことを忘れちゃってても、あたいは絶対覚えてる! 絶対、絶対、絶対、絶対覚えてて、見つけてあげる!! あたいは何度でも見つけて、大ちゃんの名前を呼び続ける!! この世界が、大ちゃんを認めて、受け入れるまで!!」
彼女は高らかに挑戦を告げる。
遥か昔に己をこの世界に産み落とし、唯一の友を連れ去っていった母に対して。
「この世界がどんなにイジワルしたって、あたいは絶対負けないわ! 大ちゃんがいない世界なんて、つまんないもん! だから、あたいは、この世界が負けを認めるまで、捜して、見つけて、大ちゃんの名前を呼んであげる! 最後に勝つのは、絶対あたいの方!!」
チルノは振り返り、叫んだ。
「だってあたいは、最強の妖精だもんね!」
その笑みは、もうすでにこの世界で一等賞を取ったような顔だった。
だが彼女は今まさに、新たな目標に向かって走り出したのだ。
きっとこれからもこの負けず嫌いの妖精は、何度も……何度でも甦り、スタートし続けるのだろう。
最強の妖精というのは、きっと、そういうことなのだ。だからこそ、彼女は最強を名乗る資格があるのだ。
「……チルノ」
レティはようやく口を開いた。
「チルノ……私はいつもこう思うんだけど」
降参して、苦笑を浮かべつつ、冬の妖怪はささやく。
「貴方は本当に、妖精にしておくにはもったいないわ」
妖怪の山の麓にある森。
そこに大きなかまくらと、その上に腰かける金髪の妖怪がいた。
彼女は急に晴れ渡った空を指さして、
「あー。ほらあれー。レティだー」
その言葉に、かまくらの中にいた三人が、勢いよく飛び出してきた。
「ホント? どこどこ? チルノはいる?」
「あ、ほらあそこ! チルノも一緒よ!」
「チルノ……!」
白い冬妖怪は、青い妖精を引き連れて、かまくらの側に降りてきた。
「ただいまみんな。約束通り、チルノを連れてきたわ」
「さすがレティ! 頼りになるわ~♪」
「よかったー。ずっと心配してたのよチルノ」
「元気そうでよかったのだー」
「はっはっは! 当然! あたいは今日、すごい目標が出来たのよ! 最強のあたいにふさわしい目標がね!」
「………………」
「あれ、橙。なんでずっとあっち向いてるの?」
「……もー! チルノなんて知らない!」
「ほらほら、ケンカはやめて。みんな、今夜は私の家に泊まってちょうだい。仲直りはそれからでもいいから」
◆◇◆
「たのもー! たのもー石頭ー!」
早朝。人里の端に立つ一軒家。
その庭にて、青い氷精が腕組みをして怒鳴っていた。
すぐに障子が開き、寝間着姿のワーハクタクが姿を現す。
「石頭ではない。上白沢慧音だ。おはようチルノ」
「石頭なんだから石頭でいいじゃない」
「よくない。名前というのはとても大事なものなんだぞ」
「知ってるわよそんなの。それよりどういうこと!?」
バンバン、と縁側を両手で叩いて、妖精は抗議した。
「ミチバーの店にミチバーじゃない奴が住んでるじゃない! あたいは許可してないわよ!」
「ああ。あの駄菓子屋は里の子供にとって必要ではあるし、大人達にも思い入れが深い場所なのでな。やっと後を任せられる者が見つかったんだ。できた人間だぞ。お前も許してやってくれ」
「ふーん? ふんふん……」
妖精は指をピストルの形にして顎に当て、思案気な顔で言う。
「つまり、ミチバー・マークⅡってこと?」
「ま、まぁくつぅ?」
「それなら、最強のあたいが、ちゃんとミチバーらしくやってるか、毎日確かめに行ってやるわ!」
「あ、こら。待たんか」
◆◇◆
「あーもう! うるさいわね! あんたの歌になんて興味ないし、ダンスなんて嫌いなのよあたいは!」
霧の湖の真ん中で、青い妖精は癇癪を起こしている。
その下では、おろおろとなだめる人魚の姿があった。
「そう言わずに、お願いよー。妖精が賑やかにしてくれないとね、自然の恵みが減っちゃうのよ。貴方が頑張れば、この湖もきっと豊かになると思うの」
「ふん! 湖の魚なんて知らない!」
「はぁ……あの子がいてくれたら、きっと賛成して踊ってくれるのに。素敵なダンスだったわ……今も目を閉じれば、瞼の裏にはっきりと……」
「……ん!?」
ため息を吐く人魚の台詞に、氷精は反応する。
「あの子って、大ちゃん? 」
「え? ええ。そんな名前だったかしら」
「あんた、大ちゃんのダンスを覚えてんの?」
「一応……貴方が寝てたりして見ていない時に、ダンスしてるのをいつもこっそり見てたから」
すると、不機嫌だった妖精の顔が、ニカッと輝いた。
「それなら、あたいにそのダンス教えて! また大ちゃんに会った時に、びっくりさせたいから!」
◆◇◆
「きゃー! はぐれ妖精よー!」
「助けてー!」
太陽の畑で逃げ惑う妖精を追い回しているのは、氷の羽を持つ青い妖精。
「あーもう! またいなかった! でも絶対に見つけてやるわ! あ、あっちにいるかも!?」
彼女はまた、新しく見つけた妖精の集団に突撃していった。
そんな様子を、地上から眺める大妖怪。
「あれが最強の妖精ねぇ……。能天気な氷だこと」
黄色い花に囲まれて、のんびりとくつろいでいる彼女は、季節のお茶を楽しんでいた。
「大体、あの子が戻ってくるまで、あと数十年はかかるでしょうに。それまで覚えてられるのかしら」
と独り言ちると、周りに咲く向日葵が、風もないのに小さく揺れた。
それを見て、四季のフラワーマスターは、表情を綻ばせる。
「あら、貴方たちもまた会うのを楽しみにしてるの? そうね。何しろ私を唯一負かしたライバルだものね」
あ、久しぶり。
久しぶり。元気してた?
今とっても面白い話をしてたところなの。
私も面白い話があるよ。この前デンデン虫みたいなメガネの子が同じ場所で七回も転んで。
それは前にも聞いたわよ。
でも何度聞いても面白くない?
二回目までは笑ったけどさぁ。
じゃあ怖い話とかどうかな。
あ、私そういうの好き!
え、あたしはちょっと用事を思い出したから……。
大丈夫よ。そんなに怖くないから。でもちょっとぞわってするかもしれない不思議な話。
ぞわっ?
そう。ぞわっ。
お化け? 妖怪? 怪物?
違う違う。そんな話いっぱいあるし、似たようなのばっかじゃん。ぞわっとするけど。
お化けでも妖怪でも怪物でもない、ぞわっとするかもしれない不思議な話かー。
ひやっとするかもしれないけどね。
もったいぶらないで、早く話してよ。どんなのそれは?
ほら、あの……はぐれ妖精の話よ。
知ってるわ。湖の近くにいる妖精でしょ?
私はこの前、山の麓で見たっていう噂を聞いたわよ。
あたしも一度見たことある。水色の髪の毛の妖精。
そうそう、その水色の妖精の話なんだけど。
あの妖精って……昔、他の妖精を殺しちゃったことがあるんだって。
ええっ!? 本当に!?
でもどうやって!? 妖精を殺す方法なんてあるの?
殺しても一旦還るだけで、また別の形で生まれてくるものでしょ。
あ、でも最近はしばらくして、元通りに復活する妖精も増えてるんだって。
へー、それっていいなぁ。そういえば、名前を持ってる子も増えてきたよねー。
でもなんか面倒くさそう。私は早く還りたいタイプだしー。
いいから話の続きを聞いてよ。そのはぐれ妖精は、自分の力を使って、その妖精の時間を止めちゃったんだって。
時間を止められる妖精?
そんなことできたら最強じゃない?
どうやって?
ずっとしがみついていたとか。
箱の中に閉じ込めたとか。
でもなんでそんなことしたのかしら。
さぁ……。でも結局それは失敗しちゃって、妖精は一旦殺されただけで、やっぱりお母さんの元に還っちゃったそうよ。
それじゃ別に殺したってことにならないでしょ。
でもあの氷のはぐれ妖精、それから何十年もずっと同じ姿で生きていて、自分が殺したその妖精のことをずっと探してるんだって。
怖~。なんかわからないけど、すっごく恨みに思ってるんでしょうね。
でもその妖精が別の姿に変わってても、わかるものなのかしら。
あれ? どうしたのあんた、変な顔して。
う、ううん。ちょっと、気になる話だっただけ。
そう言えば、私もこの前面白い噂を聞いたわ。えっとね。
5. 再会の春
私はよく他の子から、少し変わった妖精だと言われています。
妖精にしては物をよく考える。
妖精にしてはちょっと大人しい。
妖精にしては難しい言葉を使おうとする。
妖精にしてはイタズラに興味を示さない。
もしかしたら本当に妖精じゃなくて、別の何かじゃないの? そう、からかわれたことは何度もありました。
でも私は、間違いなく妖精です。
妖精は好奇心の塊のようなものです。知らないもの、わからないものには触れてみたくなるのが妖精です。
だから今日、私がこの坂を上っているのも、きっと妖精だからだと思うのです。
長い長い坂道です。青空に向かって伸びている坂です。
林の中をくり抜いていて、周りの草の丈があまり高くなくて、ぽつぽつとタンポポが生えています。
この道を歩くのは初めてですが、なんだか好きになれそうでした
何か私の想像していない素敵なものが、向こう側で待っている。
そんな気がするから。
坂が終わり、噂に聞いていた霧の湖が、目の前に現れました。
わぁ……すごい。
本当に見渡す限り、真っ白の霧が広がってます。
まるで、空の神様に内緒で下りてきた雲さんが、お昼寝してるみたいです。
とっても驚いちゃって、しばらく立ったまま息を止めてました。
けど、なんだろう。少し懐かしい気もする。ここに来たのは初めてのはずなのに。
私が一人でこの湖をお散歩することにしたのには、一つの理由がありました。
つい先程のこと、お花畑で仲間の妖精の子とお喋りしていた時のことです。
楽しい話、驚く話、素敵な話、悲しい話。
私たちにとって、おしゃべりは日常的なもので、妖精が妖精であるために、とても大事な要素の一つなのです。
そんな中、ある妖精の話が出てきました。
それは霧の湖の近くを縄張りにしている、ある強力な妖精の話でした。
周辺の妖精は誰も逆らえず、彼女はある意味リーダーであると同時に一匹狼、つまりはぐれ妖精だというのです。
妖精よりも、妖怪との付き合いが多く、人間の知り合いもいるのだとか。
そして彼女にはとても恐ろしい噂がありました。
その妖精は、大昔にある妖精を殺してしまったのだそうです。
でもその後も、その妖精は何十年も同じ妖精が再びこちらに帰ってこないかどうか、ずっと捜しているそうです。
すごく怖いお話です。
普通なら、そんな怖い妖精について調べたいなんて思いません。
けどなぜかしら。今日はその噂に、気持ちが引っ張られてしまうような気がして……。
なんだかドキドキしてずっと落ち着かなかったので、こうして霧の湖にやってきたのでした。
さて。この向こうに住んでいると聞く、噂の恐ろしい妖精とは、どんな妖精なのでしょうか。
ひょっとしたら、体が大きくて、首が長くて牙がたくさん生えた怪物かもしれません。
頭に角があって、背中にびっしりとトゲが生えていて、お腹にはもう一つ大きな口があって、そこから紫色の舌をべろべろと出しているかもしれません。
そんなものがいきなり霧から飛び出てきたら、きっと恐怖のあまり消えてしまうでしょう。
……なんだかホントに怖くなってきたから、そろそろ帰ろうかしら。
あれ、なんだろう。
今、岸の側で、キラリと何かが光りました。
確かめてみましょうか?
周りには誰もいませんし、危ないものだったらすぐに逃げてしまいましょう。
ええと……
あ! お花です! それもとっても不思議なお花!
茎にも花びらにも、色らしい色がついていなくて、透き通っています。
まるで綺麗な小川の水を固めてしまったみたいです。
そしてその形は、私の大好きなあの花にそっくりでした。
でもどうしてかしら。
そんなはずがないのに、これとそっくりなものをどこかで見たような気がします。
自然に咲いたものだとは思えないし……はぐれ妖精の子が作ったのかな。
わからないけど、こんなお花を作れるのだから、きっと綺麗な心の持ち主に違いありません。
私はそのお花の前で、ダンスを始めることにしました。
妖精は踊るのが大好き。でも自分のダンスが、誰に教わったものなのかは、わからないのです。
ひょっとすると、私がこちら側の世界に来る前にも、同じダンスをしていたのかも。
湖は涼しくて、気持ちのいい風が吹いています。
足下に咲く透き通った花が、グリーンやブルーに輝いています。
私の髪や服の色が映ってるのです。とても素敵な眺めです。
がさごそ
後ろの方から、葉っぱがこすれ合う音がしました。
風が吹いたからかと思ったけど、どうやら違うみたいです。
誰かいるの? 私は踊るのを止め、羽を閉じて振り返りました。
茂みの上に、妖精の子が浮かんでます。
水色の髪、青と白のワンピース、透き通った不思議な形の羽。そして……青いリボン。
噂に聞いていたからでしょうか。なんだか、初めて見た気が……しなくて……。
私たちは、しばらく見つめあったまま、何も言いませんでした。
やがて、青い妖精の子が先に口を開きました。
「スイートピー……好きなんでしょ」
「えっ」
私はびっくりしましたが、うなずきました。
そうです。私の一番好きな花は、スイートピー。
別に花の妖精じゃないけども、なぜかスイートピーだけは、いつも自分にとって特別な花のような気がしていたんです。
水色の髪の子は、一歩、私の方に進みました。
「ヘビが苦手……」
私はまたうなずきます。
でも、ヘビさんが苦手なのは、私だけじゃないですけど。
また一歩、青いワンピースの子の足が進みます。
「風鈴の音が好き……」
ふうりん……ああ、そうそう。風鈴です。
実は私は、仲間の妖精の子が持っている鈴の音を聞いている時に、別の音を思い出したんです。
今思えばそれは、風鈴の音でした。
でも……それを私はどこで聞いたんでしょう。
「好きなアイスキャンディーは、いちごミルクとオレンジ」
アイスキャンディー。ああ……久しぶりの響きです。
夏に作ってくれたのをよく食べて……夏? 私はまだその季節を知りません。なのにどうして……。
一歩、一歩、質問をしながら、透き通った不思議な羽の子は近付いてきます。
私は逃げることができませんでした。
いいえ、逃げようとしても、何かもっと大きな力に引き留められてしまうんです。
これは好奇心なのでしょうか? いいえ違います。もっと別の何か。
そして彼女はもう、ブルーの瞳に私の姿が映るくらい、近くに来てしまいました。
妖精の子はしばらく、私を恐い顔で見ていましたが、やがてポケットから何かを取り出しました。
「一つ選んで」
それは、三つのリボンでした。
赤いリボンと、緑色のと、黄色いの。
他のリボンは綺麗なのに、黄色いリボンはしわくちゃで、他と比べてだいぶ古いもののようです。
でも私は、その黄色のリボンを目にした瞬間、他の物が目に入らなくなってしまいました。
「これ……」
私がそう呟いて指さすと、その妖精の子はますます恐い顔になりました。
「どうして?」
「えっ……」
「どうしてこれを選んだの!? 答えて! すごく大事なことだから!」
青い妖精は、ものすごく必死で、ものすごく真剣な様子です。
でもどうしてこんなに一生懸命なんでしょう。それにどうしてさっきから、こんな風に色んなことを訊ねてくるんでしょう。
私はうろたえながら考えました。
「それは……」
どうしてかしら。
どうして、私はそのリボンを選んだんだろう。
黄色が私にとって特別な色だったわけではありません。
それに普通だったら、しわくちゃで古いものよりは、新しいものを選んでたと思うけど。
でもそのリボンを見た時、目が離せなくなって。
胸が締め付けられるような気持ちになって。
だってこれは、私が……私が……
……何かがパチンと音を立てて開きました。
私の心の底にあった、土。
そこに私の色々な感情が、降り注ぎました。
嬉しい気持ちが風になって吹き、優しい気持ちが光になって差し込み、悲しい気持ちが雨となって落ちて。
土から芽が出ました。
芽はあっという間に伸びて、葉が出ました。
そしてつぼみができて、花が咲きました。
花はその一つだけじゃなく、土の上に次々に咲いていきます。
その度に、私の知らない、なのにいつまでも抱きしめていたくなるような、不思議なイメージが弾けました。
初めに生まれたイメージは、小さなスイートピーでした。
その次に生まれたイメージは、お花畑。
たくさんのお花の妖精たち。
空に向かって続く坂道。
見渡す限りの真っ白な霧。
それから……それから……ああ……。
この世界を流れるあらゆる川が、私に向かって注がれていくように。
たくさんの思い出が、私の中に還っていく。
季節を飛び越えて、過去を飛び越えて。
私の新しく生まれ変わった心は、遥か彼方まで続く、大きなお花畑に変わっていました。
私はその真ん中に立ち、宙に浮かぶイメージの宝石に触れて、
その光景を読み取りました。
「私が……もらったものだから」
そう。これは私のもの。
私はこのリボンを、髪に結んでた。
大切な、贈り物だった。
それはずっと前に、
「……もらったの……人間の……お星さまになった、大事なお友達から……それは……」
ぼやけていた視界が、元に戻ってく。
二重になってた目の前の子も。その子がつけてる、青いリボンも。
「二人の……おそろいのリボンで……」
すると妖精の子は、
「……大ちゃん!!」
そう叫んで、勢いよく飛びついてきました。
「見つけた! 大ちゃん! やっと見つけた!」
妖精の子は私を抱きしめながら、大声で泣いてます。
そしてなぜか私も、涙が溢れてとまりません。
でも悲しくないんです。それどころか、すごく嬉しい。
自分の心じゃないみたい。一体、どうしちゃったの。
「見た目は全然変わっちゃったけど、やっぱり大ちゃんは大ちゃんだった! ちゃんと、こっちに帰ってきてくれた!」
大ちゃん。それが私の名前。
そう。私は大妖精の、大ちゃん。
だいだらぼっちのふりをした、スイートピーの妖精だった。
ずっと前に、このリボンをつけて、この世界で生きていた。
私は、ちゃんと「私」を見つけられた。
でも……。
「よかった……! 大ちゃん……! またいっぱい冒険しようね!」
抱きしめてくれる冷たい氷の羽の子を見て、私は不思議に思いました。
どうして私のことをそんなに知ってるの、って。
けど、そう尋ねようとした私の口は、なぜか、まるで違う言葉を紡いでました。
「どうして……私を見つけることができたの?」
って。
「そんなの、当たり前!」
彼女は――チルノちゃんは目元をぬぐい、大きな声で言いました。
ああ、本当に。
私たちが遊んだあの頃と、ちっとも変わってない、元気いっぱいの笑みで。
「あたいが大ちゃんの大親友で、最強の妖精だからよ!」
(おしまい)
凄い読みやすくて物足りないくらいに感じてしまいました
こんなにあっさり読めたのにそれだけの容量とは…
大ちゃんはやっぱり保護したい妖精ナンバーワンだなと思いました
風見さんはバトルジャンキーみたいな生活態度のおかげでコミュ症みたいになってませんかね…(気にして無さそうだから良いけど)
すごく面白かったです
大ちゃんて名前のの由来、とてもいいなあ
読みごたえあるSSなのですが引き込まれるように一気読みし
最後には涙しました
自然の描写がキラキラと美しく、気がついたら読み終わってました。
サブキャラクター達も漏れなく生き生きしていて読みやすい
すいすいと引き込まれるように物語に夢中になる自分がいました。
大ちゃんかわいい。チルノもかっこかわいいです。
章ごとに泣かされるポイントがいくつもあって、ラストの台詞で思わず嗚咽に近い涙が出てしまいましたw。
このはずく様の作品はどれも読むたび登場人物に感情移入させられ、今回も改めてチルノと大ちゃんが大好きになってしまいました。
このような作品に出会えたことを幸せに思います。
そして、だいだらぼっちの大ちゃん、というのも、オリ設定のはずなのにすごくしっくりときました。
チルノに大ちゃん、ミチバーにレーホさん、登場する人物全員すごくキャラが立っていて、最後までとても楽しかったです。
しかし、昔の大ちゃんはスイートピーの妖精だったけど、
今の大ちゃんってなんの妖精なんでしょうね。
再開することの叶わなかった「あの二人」と重なってとんでもなくジーンと来たぜ…
妖精の解釈がとても興味深く、一体どうやってオチを付けるんだと終盤はハラハラしっぱなしでした
2人の友情がいつまでも続きますように