Coolier - 新生・東方創想話

半透明のスイートピー 秋 (Ⅲ)

2016/08/14 01:09:13
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 3. 選択の秋


 ある日、森の中、私が見つけたのは、神様でした。

 落ち葉がサクサクと音を立てる道を一人で歩いていると、なんだか心が安らぐ力を感じたので、そちらに行ってみたのです。
 すると、開けた場所に一本だけ生えている、大きなカエデの樹を見つけました。
 その太い枝の上で、金髪の神様が、季節のお仕事をしていました。
 たくさん茂った緑の葉っぱの一つ一つが、彼女の小さな指で触れられると、鮮やかな赤い色に変わっていきます。
 そんな神様の服も、新しくなった葉っぱの色にそっくりな色合いです。
 でもそのワンピースは、スカートの裾に近づくにつれて明るいオレンジに変わっていて、季節の移ろいがそのまま描かれてるようでした。
 
 カエデに色を塗る神様の仕草は、見ていてうっとりするくらい素敵。
 金髪の妖精も赤い服の妖精も珍しくないけれど、こんなに物静かで上品な雰囲気の妖精はいないと思います。
 それに自然の神様は妖精と近い存在ですが、その力は比べ物になりません。
 たとえば花から生まれるのが妖精なら、花が咲く力を全ての草木に恵んでくれるのが神様なのですから、私たちよりもずっと偉いのです。

 緑の葉っぱが残っている樹は、もうこの森ではあの一本のカエデだけのようです。 
 物陰にいる私は、一枚の葉っぱを手にして眺めてましたが、恐れ多くて声をかけられませんでした。

「姉さん。ちょっと、姉さんってば」

 しばらく経ってから、カエデの樹の側に、もう一人別の神様が下りてきました。
 たぶん同じ秋の神様なのでしょうけれど、ちょっと雰囲気が違います。
 こちらの神様は、ブドウの飾りがついた赤くて丸い大きな帽子をかぶっていました。
 そして着ている上着はより黄色っぽくて、ふっくらとしたオレンジ色のエプロン。さらに靴を履いてません。
 離れているここまで何だか甘い香りが漂ってきますけれど、もしかすると果物の神様なのかな?
 そんな帽子をかぶった神様は、叱るような口調で、

「のんびりしてたらダメじゃない。もう今日の分は終わってるんでしょ。なら、早く次の林に行かないと」
「………………」
「な、なによその顔。別に間違ったことは言ってないわよ」

 ここからだとよく見えませんけど、姉さんと呼ばれた方の神様は、不機嫌な顔をしているようでした。
 どうやら二人は、秋を運んでくる姉妹の神様みたいです。
 花の妖精も、同じ一つの花から姉妹が生まれることがあるんですけど、神様にも姉さんや妹がいたりするんですね。

「今は幻想郷がごちゃごちゃしてる時なんだから、せめて季節を操る私たち神様だけでも、しっかりしないと」
「………………」

 こくり、と姉さんと呼ばれた神様は、黙ってうなずきました。
 
「それじゃあ、私は里の作物を見てくるから、またね」

 そう言って、甘い匂いのする神様は、飛んで行ってしまいました。
 そして、先にいた方の神様も、枝からふわりと下りて、林の奥へと歩き始めました。
 ああ、もう行ってしまうみたいです。
 ずっと木の陰から眺めていた私は、手に持っていた緑の葉っぱと、遠ざかっていく背中を見比べながら、名残惜しい気持ちになりました。

 ところが、です。
 遠ざかる神様が、前触れもなく立ち止まりました。
 そして背中を私に向けたまま、軽く右腕を持ち上げ、指をすー……と動かしたのです。
 すると、葉っぱを持っていた私の手が、急に不思議な力に包まれて、

「ええっ」

 みるみるうちに葉の色が変わっていき、樹に生えているのと同じ、鮮やかな赤になったではありませんか。
 慌てて顔を上げると、もう神様の姿はありませんでした。
 さっき二人で話していた通り、別の森へと飛んで行ってしまったのでしょう。

 やっぱり神様ってすごい。上手に隠れてるつもりだったけど、とっくに気づかれちゃってたのです。
 でもそんな私を、あの神様は追い払おうとせず、わざとゆっくり、葉っぱを秋色に染めていく仕事を見せてくれていたのでしょう。
 それだけじゃなく、最後は私の小さな願いまで叶えてくれたのです。

 ありがとうございます、秋の神様。
 私は頭を下げてから、もらったプレゼントを大事にポケットにしまい、森の出口へと向かいました。




 木々の迷路から外に出ると、すすきの原っぱが出迎えてくれました。
 空はちょっと曇っているけど、風は涼しくていい気持ち。

 秋というのは、不思議な季節です。春に似た温かさがあるけど、どこか大人しくて、においも違っていて。
 穏やかな風の中を一人で歩いていると、起きているのに眠っているような、不思議な気持ちになります。

 森の木々の葉っぱは、緑なのが当たり前だと思ってたのに、秋の神様の力で、赤や黄色やオレンジが多くなりました。
 その下を歩く音も、てくてくからサクサクに変わってきましたし、花や果物の蜜で作るお菓子の味も変わりました。
 時々見かける、リスさんやタヌキさんも、夏に比べて丸くなったような気がします。 
 そして毎日聞こえていたセミさんの合唱が、コオロギさんやスズムシさんの素敵な演奏に変わりました。
 春が元気な妹なら、秋は物静かなお姉さん。まるで色違いの姉妹みたいです。

 新しい季節の空気にひたりながら、私は散歩を続けました。
 え、どうしてチルノちゃんは一緒じゃないのかって?
 確かに夏の間、私たちは毎日のように一緒に行動してましたけれど、たまーに、二人がそれぞれだけの時間を作ることがあるんです。
 そういう時、私は大抵お花が咲いている場所を探して散歩することにしています。
 秋もまた、春や夏とはまた違う、噂でしか見たことのない花がたくさんあるのです。
 でもチルノちゃんはお花にまるで興味がありませんし、静かにしているのも苦手。
 なので、きっとこんな散歩も嫌がって、すぐに飽きてしまうでしょう。
 
 それと、もう一つ私がチルノちゃんを誘わない理由がありました。


「あー!? みんな! 大変よ! はぐれ妖精が来たわ!」


 はぁ……またです。
 実は今日はもう、五回くらいこの台詞を聞いています。
 他の妖精に見つかる度に、こんな風に指を差されて騒がれるので困ったものです。
 でも昔と違い、この頃の私はもう「はぐれ妖精」と言われてもあまり気にしなくなりました。
 だって私は、はぐれ妖精の自分が好きでしたし、別に悪いことなんてしてないし。
 それに、

「逃げろ―!」
「きゃー!」
「助けてー!」
「ひいいいい!」 

 ほら。
 秋の妖精は、夏の妖精に比べて大人しくて怖がりなんです。
 だから私の姿を見た子たちは、みんなあんな風に大慌てで逃げてしまうのでした。
 ここにチルノちゃんがいればきっと、わざわざ追いかけて行って、妖精の子たちをこらしめようとするに違いないでしょう。
 でも私は相変わらず、荒っぽいことが苦手ですし、一々気にしても仕方がないと思って、無視することにしていました。

「うぅ……」

 あれ? どこか近くから声がしたような。
 辺りを見回してみても、何もいません……いえ、いました。
 草むらの中、ちょうど私の足下で、一匹の小さな妖精が倒れてます。
 どうやら腰を抜かして動けないらしく、地面に寝ころんだまま、私を恐怖の目で見つめています。

「へ……変身しないで」
「変身?」

 私は何かを聞き間違えたのかと思いました。
 ところが、

「ぎゃー! 変身しないでー! 食われるー! 誰かー!」

 その妖精の子は、地面の上でジタバタと手足を動かしながら泣き叫び始めました。
 上から見下ろすと、溺れているようにしか見えません。
 水がなくても溺れることができるんだ、と私は変なことで感心してしまいました。
 ところで「変身しないで」とは一体どういう意味なのでしょう。

 私はその子が震えながら語る内容を聞いてみることにしました。
 そしてすぐに、笑いたいような、ため息を吐きたいような、すごく微妙な気持ちになりました。
 なんでもその子の言う噂では、はぐれ妖精である青い妖精に、新しい妖精の仲間ができたとか。
 それはもちろん私のことでしょう。
 でも、その噂の私は、長い爪と尻尾を持った、三つ目のだいだらぼっちに変身するそうです。
 しかもお腹に開いた本当の口で、他の妖精をパクパクと食べてしまうんだそうです。
 とんでもなくひどくていい加減な噂ですよね。だって一つも合ってないんですから。

 でも思い返してみれば、私が春に聞いていたチルノちゃんの噂も、同じくらいひどいものでした。
 噂話をするのは楽しいけど、実際に本物を見てみると全然違うことが多い。
 私がはぐれ妖精になってから気付いたことの一つです。

 もちろん私は、その子を食べたりなんてできなかったし、放っておくのも可哀想でしたので、軽く手当てしてあげることにしました。

「動かないでじっとしてね。これくらいなら、すぐによくなるから」

 妖精は自分の力を仲間に分けてあげることができます。
 花の妖精のその子は、私の力と相性がいいらしく、転んだ時にできたケガはみるみるうちに良くなりました。
 でも、

「あばばばば、ぶくぶくぶくぶく」

 私が触ると泡を吹いて倒れそうになっちゃってたから、やっぱり何もしない方がよかったのかも……。
 傷が治ってから、その子はパッと起き上がり、「きゃああああ」と叫びながら、すごいスピードで逃げちゃいました。
 私はくすくす笑ってから、この出来事を、たった一人のはぐれ妖精の仲間に教えてあげようと思い、湖に帰ることにしました。




 おなじみの空へと続く坂道を上っていると、色々な考えが頭を巡ります。
 私たち妖精は、噂を共にして、それらをもとに行動しているものです。
 なのでもしかしたら、さっき聞いた噂の誤解を解けば、私は元通りあの妖精の子たちと仲良くできるかもしれません。
 そしてチルノちゃんも、私だけじゃなくて他の妖精の子と友たちになれるんじゃないでしょうか。

 でも今さらチルノちゃんが妖精と仲良くしてくれるようには思えません。
 だってチルノちゃんは優しいけれど、いばり屋さんなのは違いないですし、危なっかしいところもありますし、第一あばれんぼうです。
 ぺちゃくちゃと噂話するよりも、噂話を確かめるために冒険する方が好きな子ですし、ダンスだって本当は綺麗に踊れるはずだと思うのに、本人は大嫌いなのです。
 それでもやっぱり、チルノちゃんのよさが、他の妖精の子にわかってもらえないというのは、なんだかもったいない気がします。
 私だけがチルノちゃんの良さを知っている妖精だというのも、それはそれで得したような気分でしたが。

 坂を上りきって、霧の湖が姿を現しました。

「チルノちゃーん」

 私は岸辺にいた青い姿に向かって、手を振ります。
 チルノちゃんも元気よく手を振りかえしてくれてから、地面に置いていた大きな氷の塊を持ち上げました。

「大ちゃん! 見て見て! これ! カエルボール!」

 私は思わず、振っていた手を引っ込めました。
 チルノちゃんは、またいけない遊びをしています。
 それは湖の周辺にいるカエルさんを凍らせて、元通り復活するかどうかを試すというものです。
 氷の中に閉じ込められてしまったカエルさんを見て、私はため息を吐きました。

「前も言っでしょ、チルノちゃん。ダメよ、そんな可哀想なことをしたら」
「可哀想じゃないわ。これもこいつらにとっては、修行みたいなもんよ」

 氷漬けになったカエルさんを、こんこんと叩きながら、チルノちゃんは言いました。

「この程度で死んだら、冬なんて越せるわけないもんね」

 時々チルノちゃんはこんな風に、生き物に大して冷たいことを言います。
 私としてはもう少し、花でも虫でも動物でもなんでも、命は大切に扱ってほしいと思うのですが……。

 透き通った氷の中で、カエルさんは、じっとしていました。
 目を開けたまま、不自然な格好で固まっていて、全然動きません。まるで時間が止まってしまっているみたいです。
 でも死んでしまっているかどうかは、まだわかりません。
 氷が水に浸かって解けると、元通り動き出すカエルさんを、私は見せてもらったことがあるのです。  
 なら止まったカエルさんは、いつまで止まっていられるのでしょうか。
 一年、十年、百年、凍っている限り、ずーっと同じ姿のまま生きていられるのかしら。

「ねぇ大ちゃん」

 カエルさんボールを元の場所に戻してから、チルノちゃんが言いました。

「冬が来る前に、大ちゃんを橙たちのところに連れて行こうと思うんだけど。心の準備できた?」
「え、えっと、うーん……もうちょっとかな」
「まだ、だいだらぼっちっぽくないもんね」

 そう言って笑われ、いつものように胸がちくりと痛みます。
 秋の妖精だけじゃなく、同じはぐれ妖精のチルノちゃんにも、まだ私は花じゃなくて、だいだらぼっちの妖精だと思われてるんです。

 でも、何の努力もしていないわけじゃないんですよ? 
 あの天狗さんたちとチルノちゃんの闘いを見てから、はぐれ妖精として生きるには、もっと強くならなきゃダメだという思いが強くなりました。
 だからチルノちゃんの凄さに少しでも追いつこうと、毎日頑張ってるんです。
 息を何分止められるかとか。飛んでくる氷をどれだけかわせるかとか。どれくらい大きな石を持ち上げられるかとか。
 私なりに頑張っているつもりなんですけども、まだチルノちゃんに認めてもらえるレベルにはなってないようです。

「前よりは強くなれたと思うんだけど……」
 
 私は自分の腕を曲げて、湖を覗きこんでみます。
 相変わらず、がっかりするくらい体の細い、ひ弱そうな花の妖精が映ってました。
 その隣に映ってる影が、腰に手を当てて、

「全然ダメ! もっともっと鍛えて、あたいみたいに強くならないとダメよ!」 
「うん、私も頑張るね、チルノちゃん」
「でも最近の大ちゃんって、ちょっと変わったよね。なんかキレイになった」
「え……」

 えっ? えっ!? え――!?

 私は心の中で叫んだまま、固まってしまいました。
 いつも、なにげなく唐突に、信じられないことを言い出すことがあるチルノちゃん。
 でも彼女はお世辞とかが言える子じゃありません。

 つまり私、本当に綺麗になったの?

「ど、どこが!? どういう風に!?」
「うーん。なんていうかこう……全体的っていうか」

 チルノちゃんは額をしわしわにして説明しようとしているものの、なかなかできない様子です。
 気になって、もう一度自分の姿を湖に映してみました。
 特に変わってるようには見えません。この湖の水はとても澄んでいますけど、顔の細かい部分は歪んでしまっています。
 もっときちんと確かめるには、ちゃんとした鏡がないとダメなようです。

 岸に腰かけながら、チルノちゃんが笑って言いました。

「もしかしたら大ちゃんは将来、キレイなだいだらぼっちになるのかな。それってすごく変」
「ふふ……」

 私もそれを聞いて、つい笑ってしまいました。
 綺麗になったなら嬉しいけど、それよりも、チルノちゃんにもっと頼りにしてもらえるくらい強い妖精になりたいな。
 春や夏の頃のままの自分だったら、こんな風に前向きに考えることもできなかったはず。
 見た目は強くなってないけど、中身はちゃんと成長してるのかも、と自分で嬉しくなりました。

「あ、そうだ」

 私はいいことを思いつきました。
 私たちには、人間のお友達がいます。
 その人が住んでる家には鏡だってあるし、私がキレイになったかどうか、意見を聞いてみるのもいいかもしれません。

「ねぇチルノちゃん。今日は人間の里に行ってみない?」
「ミチバーのところね! それじゃあ、今から競争よ!」
「あ! 待って!」

 すぐに飛び立つチルノちゃんに遅れて、私も岸から飛び立ちました。
 ミチバーの駄菓子屋さんは、行く度に新しい発見があります。
 妖精の世界にないお菓子だけではなく、おもちゃもたくさん。それに面白い話も聞けるし、何度でも行きたくなる場所です。
 チルノちゃんと一緒に飛ぶ私は、昨日まで続いていた楽しい日々が、今日もまた続くことを信じてました。


 でも、私たちは人間の里に着いても、ミチバーには会えませんでした。

 そして、これからもずっと、私たちはミチバーに会えないことを知ったんです。




 ◆◇◆




 人間の里に着いた私たちは、すぐに普段と違う雰囲気に気が付きました。

 夏の間は青々としていた田んぼは、秋になって金色の絨毯に変わっています。
 あいにく今日のお天気は曇りで、ぽつぽつと小さな雨も降っていますけど、晴れた日は本当に輝いてるように見えるのです。
 そんな中に、ぽつんと立つ駄菓子屋さん。はぐれ妖精の私たちにも優しくしてくれる、人間のお婆さんが住んでる場所です。
 
 今日はそこに、大人の人間がたくさん集まっていました。
 妖精の集会……とは違うみたい。賑やかじゃないし、お祭りでもなさそう。
 珍しくて、何だか不思議な光景です。たまに、人間の子供が少しいたりもするけれど、いつもは誰が住んでるかわからないくらい、ひっそりとしてるのに。

「ミチバー……」

 チルノちゃんが、かすれた声で呟きました。
 知らない人間さんがあんなにいるから、私たちが遊びにいけないことが残念なのかしら? 
 と思ったけど、違うようです。
 だってその顔は、今まで見たチルノちゃんのどんな顔よりも暗くて、まるでチルノちゃんじゃないようだったから。
 私は遠くの家の方に視線を戻し、

「ミチバーって、たくさんお友達がいたんだね」

 そう素直に思ったことを呟きました。
 お友達じゃなければ、家族なのかもしれません。どちらにしろ、とても多くの人です。
 そして大きい人間も小さい人間も、みんな同じような黒い服を着ています。
 その中から、一人の女の人が、私たちが隠れている草むらに向かって歩いてきました。

「チルノちゃん、誰かこっちに近づいてくる」
「……レーホだ」
「知ってる人?」

 こくり、とチルノちゃんはうなずきました。
 黒くて長い髪の女の人です。袖の大きな白い上着と、灰色の長いスカートのようなものを穿いています。
 不思議な人でした。なんだか、人間っぽくないんです。でも妖怪っぽくもないし、妖精っぽくもない。
 空気みたいな人、と思ったけど、その綺麗で優しそうな顔が一瞬、ミチバーに重なりました。
 
「二人とも、今日は来てくれてありがとう」

 その女の人は、声も空気みたいにふわりとした感じでした。

「チルノちゃんと……大ちゃんかしら」
「え、私のことも知ってるんですか?」

 女の人は微笑んでうなずきます。

「おばあちゃんから聞いていたの。最近駄菓子屋に、また新しく来てくれる妖精の子ができたって」
「………………」
「ごめんね。おばあちゃんは今朝……私たちのいたところから、遠くに行っちゃったの」
「……死んだんでしょ、ミチバー」

 チルノちゃんの冷たい声に、私はぎょっとしました。
 そして、ようやく、あんなに多くの人が集まっていた理由と、今の遠くに行ってしまったという言葉の意味を悟ったのです。

 どうしてすぐに気が付かなかったんでしょう。
 生きてるものはそのうち死んでしまう。
 私はそのことを忘れたわけじゃないのに、ミチバーがそうなってしまうということまで頭が回らなかったんです。
 急に悲しみが、涙になって込み上げてきました。
 ミチバーは、せっかく知り合えた、たった一人の人間の友達だったのに。

「ミチバーのウソつき……」

 拳を握り、口元に力をこめて、チルノちゃんが言いました。

「いなくなる時は、いなくなるって言うように、あたいと約束してたのに」

 一瞬、青い目に涙が光ったような気がしましたが、それが落ちる前にチルノちゃんは乱暴に顔をぬぐってしまいました。

 私はなんてバカなんでしょう。
 チルノちゃんは、ミチバーともう何年も友達だったといいますし、私よりもずっと悲しくて辛いはずなのです。
 そんなチルノちゃんは、頑張って泣くのをこらえている様子でした。
 やっぱり、チルノちゃんは立派なはぐれ妖精で、強い子なんです。

 でも、泣くのを我慢するチルノちゃんは、とっても辛そうでした。
 こんな時に流す涙は、そんなにいけないことでしょうか。
 チルノちゃんのために何かしてあげたかった私は、はじめて会ったその女の人に向かって聞きました。

「あのっ、ミチバーは、人間は死んだらどこに行くんですか?」
「大ちゃん……?」

 隣のチルノちゃんが驚いたように、私の方を見つめてくるのを感じます。
 でも私は構わず質問しました。

「妖精は消えちゃったら、お母さんのところに還るんです。そこで新しくなって、またこっちの世界に戻ってくるんだけど……人間だったら、どうなるのかなって」

 妖精だったら消えちゃった友達は、向こう側の世界で会えることがわかっています。
 そしてまた、新しい自分の姿でこの世界に生まれてくるのです。
 では、人間の場合はどうなのでしょうか。

「私たちも、そう変わらないかもしれないわ」

 女の人は優しい声で答えてくれました。

「人間は戻ってこない人もいるけど……戻ってきたがる人も多い。長い長い、どこまでも続いていく道。同じ道は一つもない。妖精も人も妖怪も、みんな違う道を歩いてる。たまたま重なることがあるだけで、それが繰り返されることもある」
「繰り返される? また道が重なるってことですか? チルノちゃんもミチバーにまた会えるんですか?」

 私は訊ねます。
 けれど女の人は、うなずくことも、首を振ることもしませんでした。

「いつか。でもその時はおばあちゃんはおばあちゃんじゃないかもしれないし、チルノちゃんはチルノちゃんじゃないかもしれない」
「そんなの変!」

 突然、チルノちゃんが怒ったような激しい口調で言いました。

「あたいはいつだってあたいだし、ミチバーじゃないミチバーになんて会いたくない! レーホの言ってることなんて信じない!」

 そう叫び、サッと背中を向けて、チルノちゃんは湖の方へと飛び去って行きます。
 どんどん遠ざかっていく青い姿を見て、私も慌てて後を追おうとしたのですが、

「待って、大ちゃん」
 
 呼び止められて振り返ると、暖かい空気に包まれました。
 レーホさんが私の手を取り、何かを渡してくれました。
 青と黄色のリボンが一つずつ。それぞれ、チルノちゃんへ、と大ちゃんへ、と小さく書かれた紙が……駄菓子のおまけについてるのと同じ紙が結ばれていました。
 誰が書いたか、すぐにわかりました。私の頭の中にその字が、知っている声で響いたんです。

「道はいつかまた重なる。だから怖がることなんてない。覚えておいて。そして、チルノちゃんにもそう伝えてあげて」
 
 ちょうど、雲が薄く切れて、日の光が差してきました。
 私はレーホさんにお礼を言って、二つのリボンを持って、湖へと帰りました。


 

 ◆◇◆



 
 日が沈んで、空が暗くなりました。
 チルノちゃんは霧の湖の岸に座ったまま、ずっと黙り込んだままでした。
 湖面を睨んだまま、時々思い出したように氷のかたまり作って、投げ込んでいます。

 その隣に座る私も、黙っていました。 
 なんて言ってあげればいいか、わからなかったんです。
 だって私は、ミチバーとチルノちゃんくらい長く知り合いだった友達を失くしたことがないんです。

 チルノちゃんの片方の手には、私がレーホさんから受け取った、ミチバーからのプレゼントがあります。
 でもチルノちゃんは、そのリボンを握りしめたまま、頭に結ぼうとはしませんでした。
 このままチルノちゃんが、悲しむあまり、動かない石になっちゃったらどうしよう。

「……チルノちゃん」

 私は勇気を出して、しばらくぶりに声をかけてみました。
 チルノちゃんは振り向いてくれません。

「レーホさんが言ってたみたいに、またミチバーにいつか会えるかもしれないよ」
「……いつかって?」

 冷たい声が返ってきます。

「ミチバーは死んじゃった。死んじゃったらもうミチバーじゃない」
「そんなことないよ。生まれ変わって、別の何かになって、また会えるかもしれないって言ってたもの」
「でも、ミチバーは、あたいのことを忘れちゃってる」

 ハッとして、私はまた何も言えなくなりました。
 チルノちゃんの横顔は真剣でした。
 いいえ、チルノちゃんはいつだって真剣です。ふざけていることよりも、まじめなことの方がずっと多い子なんです。
 そして真剣なチルノちゃんが気にしていたのは、ミチバーが何も言わずにお別れしてしまったことではありませんでした。

「あたいだって、ミチバーじゃないミチバーを見ても、ミチバーだってわからない。そんなの、くやしい」

 その通りです。
 妖精だって、こっち側の世界に戻ってくる時は、前に妖精だった時の自分は忘れちゃっています。
 私もスイートピーの妖精として生まれる前の自分のことは覚えていません。
 自分の知っている言葉や知識や噂話を、誰に教わったのかも。
 ミチバーもそうだとしたら、どうでしょう。 
 生まれ変わったミチバーともう一度会ったとしても、お互いのことがわからなかったら。
 ミチバーじゃないミチバーを見てもわからないチルノちゃん。 
 チルノちゃんを見ても覚えていないミチバー。
 二人がそのまますれ違ってしまうようなことがあれば、それはすごく悲しいことです。

 私だって、もう一度ミチバーに会いたい。
 会って気付きたいし、気付いてもらいたい。
 何かいい方法はないのでしょうか。

 そこで私は、人間の里で会った女の人からもらったものを思い出しました。

「チルノちゃん。見て」

 チルノちゃんがのろのろと顔を動かし、私の方を見て……ぱちくりとまばたきしました。
 頭に黄色いリボンを結んだ私は、笑顔をみせて、

「このリボンをつけてれば、きっとミチバーは私たちのことを見つけてくれると思うよ。だってこれは、ミチバーが私たちにプレゼントしてくれたものだもん」
「………………」
「ほら、チルノちゃんのも結んであげるから」

 私はチルノちゃんの後ろに回って、その青いリボンを結んであげました。
 チルノちゃんの髪は冷たかったけど、それ以外は妖精の子と同じ髪の毛でした。

「これで大丈夫」

 私はチルノちゃんと並んで、岸と湖の境目に立って、湖面を覗きました。
 色違いのよく似たリボンを結んだ、二人の妖精が映ってました。

「ね?」

 私は微笑みます。
 まだチルノちゃんの顔は曇ったままでした。 
 でもリボンを結んだ自分の姿が気になるのか、むつかしそうに眉をひそめたまま、湖面から目をそらしません。

 私はあることを思いつき、静かなステップを踏んで、岸から飛び立ちました。
 妖精は仲間が還った時、お母さんの待つ向こう側の世界のことを想いながら、星空の下で踊るんです。
 でも今は、妖精じゃなくて一人の人間のため、私の友達のために踊りました。

 体を傾けてゆっくり飛びながら、長い間隔を空けて空中をジャンプ。
 綺麗な水の流れに差し込むような手つきで、ふわりと一回転。
 ダンスに集中していた私の視界を、白い線が横切りました。

「ミチバーのバカ―!!」

 白い線の正体は、チルノちゃんでした。
 チルノちゃんが通ったところの空気が冷やされて、白く色づいていくのです。
 ただ勢いよく飛ぶだけじゃありません。
 ぐるぐると回ったり、見えない何かをキックしたり、氷を生み出して湖に投げつけたり、空に飛ばしたり。

 それはとてもダンスとは言えそうにないものでした。
 危なっかしくて、メチャクチャで、何かを我慢できずに、悔しい感情がそのまま飛びたしたような動きです。
 でも私は、それでいいんじゃないかって思いました。
 だってこれは妖精のためのダンスじゃなくて、ミチバーのためのダンスなんだから。
 乱暴で、危なくて、尖っていて、でも嘘のない正直な踊りは、まぎれもなくチルノちゃんのダンスです。
 きっとミチバーも、チルノちゃんが元気に、チルノちゃんらしくしている方が喜んでくれるはず。

 私もそのダンスを邪魔しないように、私なりのダンスを続けました。
 ミチバーと過ごした思い出を心に浮かべて。どこかで見てくれていることを信じて。
 ダンスを続けながら、何気なく上に目を向けた私は、


 一筋の光が夜空を走ったことに気が付きました。


「あ…………」

 それはまさに、本物の奇跡の始まりでした。

 湖の上で踊る私たちの願いが、天に届いたんです。

「チルノちゃん……見て……!」

 私はダンスを止めて、空を指さしました。
 その指先をかすめるように、空にまた、白い光が走ります。
 一、二、三、四、五……十? 二十!? もっと!?
 とても数え切れないほどの流れ星が、夜空を彩り始めました。

「わぁ……」

 私もチルノちゃんも、湖の上で空を見上げたまま、茫然としてしまいました。
 まるで、空が涙を流しているみたい……いいえ、もっと楽しそう。夜空の精がパーティーをしているようです。
 なんて綺麗なのでしょうか。夢にもみたことがないような、まばたきするのがもったいなくなるくらい、すごい眺めです。

「空がお祝いしてる……」

 チルノちゃんの呟きが聞こえました。
 私にもわかりました。だって妖精は自然の心が読み取れるんです。
 またたく星や流れ星、天の川、たなびく雲、真っ暗な部分も含めて、夜空全部がお祝いをしてるのが、よくわかりました。
 でもどうして? 何をお祝いしてるの?
 そういえば……。

「……そっか! ねぇチルノちゃん! 私聞いたことがあるの!」

 ある噂を思い出した私は、興奮して言いました。

「あのね。神様に好かれていた人は、死んじゃった後、空に昇ってお星さまになるんだって。地上でたくさんの人を幸せにしてきた、ご褒美にって……」
「じゃあ……」

 チルノちゃんもびっくりしたように、目を真ん丸にして言いました。

「じゃあ……ミチバーは、お星さまになったの!?」

 チルノちゃんの顔が、今日一番パーッと輝きました。
 そのキラキラとした目を天空に向け、バンザイして飛び上がり、チルノちゃんは大声ではしゃぎ出します。

「すっげー! ミチバーすっげー!」

 私も流れ星の群れに向かって、精一杯手を振りました。
 ミチバーは、きっと見てくれているはずです!

「あたいだって、『流れ氷』が出せるわ!」
 
 チルノちゃんが叫んで、氷の矢を湖の上に放ちました。
 それらは青く輝き、流れ星との舞踏会のような光景になりました。
 私も張り切って、楽しくて明るいダンスに変えて踊ります。けれども視線は、ずっと上に吸い寄せられっぱなしです。
 私たちが星空を見つめるように、星空もまた私たちを見つめているのがわかります。
 私たちの小さな踊りに星たちがたくさんの光を投げかけてくれるのがわかりました。
 
 妖精だから……いいえ、はぐれ妖精だからこそ、そしてお星さまになった友達がいたから過ごせる夢の時間です。
 きっと今、私たちはこの世界で一番素敵なものに触れている。
 私は本当に、そう信じて疑いませんでした。




 やがて、星空の舞踏会は終わってしまいました。
 あれだけすごかった流れ星の勢いはおさまり、時々目の端でちらりと見えるくらいになりました。
 でも、湖のほとりで横になる私とチルノちゃんは、笑顔のままです。ここに来る前の悲しい顔は、もうどこかに消えちゃってます。

「ミチバーの星はどれだろ。あれかな」
「うん、そうかもね」
「それとも、あっちの方がいいかな。大ちゃんはどう思う?」
「え? えーと、うーん」

 私は相槌を打ちながら、首を傾けます。
 正直、星はたくさんあって、一つを選んで決めるのは大変です。
 でも、

「このたくさんのお星さまのどれかが、ミチバーなのは、きっと間違いないよチルノちゃん」
「うん、絶対にいる」

 チルノちゃんは力強く、自信を持ってうなずきました。
 それからパッと起き上がり、「はっはっはー!」と元気な笑い声を上げます。

「これであたいには、お星さまの仲間ができたってことだわ! やっぱりあたいは最強の妖精ね!」
「そうだね。きっとミチバー、リボンをつけたチルノちゃんのダンスを見て、喜んでくれたんじゃないかしら」
「ダンス? あたい、ダンスしてたの?」
「あ……」

 いけません。チルノちゃんはダンスが大嫌いなのでした。
 途端に笑顔から、酸っぱい水を口に含んだような顔になります。

「で、でもね。チルノちゃん、すごくダンスが上手くなってたから、ミチバーもびっくりしたと思う」
「別に。あたいは大ちゃんの真似しただけだし、ダンスなんてもうやらない」
「せっかく光ってて綺麗なのに……」
「大ちゃんの方がキラキラしてたもん」
「え?」

 思ってもみないことを言われて、私は聞き返します。
 すると突然、チルノちゃんが浮き上がって、上からこちらを指さし、

「そうだ! わかった! 大ちゃん、光るようになったからキレイになったんだ!」

 理由を思い出せたことを喜ぶように、弾んだ声で言いました。




 ◆◇◆




 その夜、私はなかなか寝付けませんでした。
 流れ星があまりにも素敵だったから? いいえ、違います。
 そうではなくて、心の中が変にモヤモヤとしていたのです。ちょうど、日が出てる間の湖が、深い霧で覆われているように。
 そしてやはり同じように、私は自分の心を見通すことができず、その霧の原因もわからないまま横になっていたのでした。

 仕方なく、私は枯れ葉のお布団から身を起こしました。
 まだ空には星がまたたいていて、森の中は真っ暗なままです。
 こんな時間に起きるなんて、ちょっと珍しいかな。
 私は眠い目をこすって……それから思わず、自分の手のひらを見つめました。

「光ってる……」

 私は立ち上がって、自分の姿を見下ろしました。
 手だけじゃありません。身に着けている服も、その内側も、背中の羽も、靴も。
 何もかもが、薄い金色の光をまとっていました。 

 そこで私は、さっきチルノちゃんに言われたことを思い出しました。
 星空を見上げて二人でダンスしていた時、私がキラキラしていた、と言うのです。
 さらに、私が最近になってそんな風に光るようになったから綺麗に見えたとも言ってました。
 その時は、そんなことを言われても信じられませんでした。
 
 だけど今、自分の体を見下ろしてみると、確かに光っているとしか言い様がありません。
 少し手を動かしてみると、金の粉がポロポロと風に流れていき、闇の中に溶けていきました。
 どうしてこんな風になってるんでしょう。
 それにこの、金色の光……どこかで見たような。

「えっ?」
 
 誰かに呼ばれたような気がして、私は振り返りました。
 背後には夜空を映した湖面が広がっているだけで、誰もいません。
 チルノちゃんも氷のドームの中で、すやすやと寝息を立てているようです。

 その瞬間、私は今度こそ、その『声』に揺さぶられました。

 ハッとなって、夜空を見上げます。それから森の方へと、さらに湖の方へと。
 誰もいません。物陰に隠れているようでもありません。
 けれど、本当に誰かいたとしても、今の声の主だったとすぐに信じられたかどうか。
 なぜならその声は、とてつもなく大きく、それ以上にまばゆくて、そしてものすごく『近く』から聴こえてきたのです。

 私は静かに感動していました。
 まるで、夜明けに出た芽が、はじめてお日様の光を浴びて、朝の世界を目撃したかのように。
 そして気が付きました。忘れていた声。妖精であれば生まれた時から知っていて、必ずそれだと解る声。
 どこからでもない、ずっと遠くから、それでいて近くから、私を呼んでいるその声は……

 『お母さん』の呼び声だったのです。

 私の感動が、闇夜の中に吸い込まれていきました。

「……どうして?」

 私は呆然として呟きます。
 それから、何かに突き動かされるように、走り出していました。
 星明りの下、暗い岸辺を飛び立ち、あの坂を下ります。 
 
「どうして?」

 私は飛びながら、もう一度呟きました。
 だって、妖精にとって、『お母さん』から呼ばれている意味は、ただ一つです。
 そんなはずない、と飛びながら、首を振りました。 
 自分は元の場所に還ることのできない、はぐれ妖精になったはずなんだから。

 でも……と私は大切な友だちの、もう一人のはぐれ妖精のことを思い出しました。
 チルノちゃんが生まれた場所は、妖怪の山の奥深くに隠れていた、氷の洞窟でした。
 そこにまだ氷がたくさん残っていたからこそ、チルノちゃんは何度でも元の姿で復活できたのではないでしょうか。
 だとすると、私の元となったものもあるはずなのです。
 でも、今その花畑は、ただの草原に変わっているはずで……。

 私は声に呼ばれるままに、この世界に生まれた場所にたどりつきました。
 魔法の森の南側に広がる草原です。
 夜にこの景色を一人で眺めるのは初めてでした。
 なだらかな坂が続いていて、山に挟まれた地平線が見えます。すごく寂しい、世界の向こう側と向き合っているような光景です。
 かつてここに、たくさんのスイートピーが咲いていましたが、もう一つも残っていません。
 そのはずでした。けれど……。

 私は下を見つめ、歩き回りました。
 星明かりを頼りに、首を伸ばして、足下を探します。
 何も見つからないことを願って。きっと、何かの間違いだと信じて。
 だけど、向こうの世界からの呼び声は、強くなる一方でした。
 力が抜けた私の足は、ふらふらと、その声に導かれるように進み始めました。
 野原の上を、西に。今まで探そうとしたことがなかった、森まで丈の高い草が続いている場所へと。

 こんなところに、花が咲くような場所があるのでしょうか?
 地面はほとんど他の草で埋まってしまっているでしょうし、仮にあってもお日様の光が届かないでしょう。
 でもどうしてでしょうか。その草の上を浮かびながら進むにつれて、『声』と不安が同時に増していくのです。
 
 そして私は、ついに……。
 ああ……見つけてしまった!

 茂みの中に沈んでいる、古い石を。
 それは横倒しになった石の像でした。大きな頭に、穏やかな顔立ちが彫られています。
 その手のひらが、周囲の硬い草の茎から守るように、一輪の花を守っていました。
 もうほとんど花びらの残っていない、しおれたスイートピーを。

 


 それを見つけた瞬間、私は自分の身に起こったことを全て悟りました。
 石の神様に守られて儚げに咲く、小さな花。
 私をこの世界に呼んでくれた幸運の花。このスイートピーが開いた時に、私は生まれたのです。
 気の巡りがよく、誰にも踏み荒らされることのなかったその日陰で、長く生きることができたのでしょう。
 でも本当は、他のスイートピーと一緒に、春の終わりと共に散ってしまうはずだった花なのです。

 私は、偶然はぐれ妖精になっただけだった。普通の妖精と同じく、消えちゃうはずだった。
 そして、この花が散ってしまった時、もう私は本当に消えてしまう。 

 その運命を知り、私は顔を覆って泣きました。
 普通の妖精になんて戻りたくありませんでした。
 はぐれ妖精のままでいたい。ずっとチルノちゃんと一緒にいたい。
 だって、私が消えちゃったら、この世界のことを忘れちゃって……チルノちゃんのことも、もう思い出せなくなるのです。
 あちら側の世界に還っても、いつかはまた、こちらの世界に呼ばれるかもしれません。でもその時は、何一つ覚えてないのです。
 はじめて人間の里に連れて行ってもらったことも。妖怪の山を二人で探検したことも。たくさんの流れ星の下でダンスしたことも。
 こんなに素敵な思い出なのに。こんなに大好きな思い出なのに。

 私は、私を生んでくれた世界に向かって、叫びました。
 どうか私を、本物のはぐれ妖精にしてくださいって。 
 チルノちゃんのことを忘れず、この世界にずっといられるようにしてくださいって。
 
 けれども、私に声をかけてくれる存在も、願いを叶えてくれる存在も、現れることはありませんでした。
 私の側にいたのは、散りかけた、ひとりぼっちの、スイートピーの花だけでした。








 ◆◇◆


 





 たとえば、月の光も星の光もなく、妖精の光もない夜は、真っ暗闇です。
 じゃあその逆の、白ばかりで何も見えない朝のことは、なんて呼べばいいのでしょう。

 真っ白闇でよいのなら、私はまさに真っ白闇の中にいます。
 右を見ても左を見ても、目に映るのは白ばかり。
 聞こえてくるのは、さざ波の音と、私の靴が石と水を踏む音だけ。

「チルノちゃーん」

 私の体を包む白の正体は、深い霧でした。
 空気が乾いているよりは、湿っている方が好きだけれど、これだけ水っぽいと羽も気持ちも萎れてしまいます。
 
「チルノちゃーん。いるなら返事してー」

 霧の中に向かって、私は呼びかけました。
 けれども、やっぱり返事はありませんでした。

 とぼとぼと歩いているうちに、霧の中に大きな影が現れ、私は足を止めました。
 それは私とチルノちゃんがお互いに知り合うきっかけとなった、だいだらぼっち岩でした。
 ここはさっき出発した場所。つまり、もう湖を一周してきてしまったのです。
 
 私はその場にしゃがみこみました。

「やっぱり、出かけちゃったのかしら……」

 さっき目が覚めてから、チルノちゃんがいないことに気づき、ずっと湖の周りを捜してたのです。
 だけど、水色の姿は見当たらず、冷たい空気も一度も感じませんでした。

 チルノちゃんが出かけた先はわかりません。ですが、出かけた理由の方は心当たりがあります。
 五日前の真夜中、自分をこの世界に呼んでくれたあの花を見つけて、自らの真実を知った私は元気がなくなる一方でした。
 チルノちゃんに話しかけられてもすぐに気付かず、いつもどこか上の空。遊んでいても息切れして、脚はふらふら倒れそう。

 元気いっぱいの時でさえ、チルノちゃんの行動についていくのは大変なことでした。
 そして今の私は、チルノちゃんが何かしたくても、その足を引っ張ってばかりでした。
 だからチルノちゃんは、そんな私に嫌気がさしてしまって、今ごろあの元気な妖怪の子たちと遊んでいるのかもしれません。
 そんなことを考えると、ますます胸の奥が重くなり、立ち上がる元気がなくなってきました。

 でも悪いのは私の方です。だって、チルノちゃんは知らないんですから。
 私がただの花の妖精で、もうすぐ消えてしまうかもしれないだなんて。
 逆にチルノちゃんは、日が経つにつれ、空気がどんどん涼しくなっていくにつれて、ますます元気になってきています。
 だから一緒にいても上手くいかないのは、当たり前の話かもしれません。

 もうすぐ、秋の次の季節がやってきます。 
 今でも十分に涼しいというのに、冬という季節は、これよりもっと寒いというのです。
 それまでにチルノちゃんに本当のことを話さないと、取り返しのつかないことになるかもしれません。
 けど話したところで、私にどんな未来が残ってるのでしょう。 
 私をこの世界に繋ぎ止めている、あのスイートピーは、誰かに見つかるような場所にはありません。 
 でも、こうしている間に一片、また一片、花びらが落ちてしまっているかもしれないのです。
 はぐれ妖精としての幸せでいっぱいだったあの頃には、戻りたくても戻れない気がします。

「どうしたらいいの……」

 考えれば考えるほど、胸の奥だけじゃなくて頭の後ろも重くなり、潰れちゃいそうでした。

 そんな時です。
 ずっと静かだった霧の向こうから、歌声のようなものが聞こえてきたのは。

 私はハッとなって、膝から顔を持ち上げました。 

「チルノちゃんっ?」
 
 すぐに歌の聞こえてくる方へと飛び立ちます。
 出かけてなかったんだ。たまたま私が見つけられなかっただけだったんだ。
 それとも、内緒で隠れん坊してたとか?
 どちらにせよ、チルノちゃんが近くにいると思うだけで、不思議と元気が湧いてきます。

 でもしばらく飛んでから、私は奇妙に思って、真っ白闇の中で立ち止まりました。

 霧の向こうから聞こえてくる歌声は、柔らかくて滑らかで、心の中を美しいものが通り抜けていくような声です。
 チルノちゃんって、こんなに歌が上手だったかしら。そもそも、こんな声だったかしら。
 けどチルノちゃんじゃないとしたら、誰が歌ってるのでしょう。この湖に、私たちの他に誰がいるのでしょうか。  

 考えるうちに怖くなってきた私は、もっと静かにゆっくり、慎重に飛ぶことにしました。
 白くて濃い霧の中には、影も形も浮かんできません。
 そして、ずっと聞こえていた歌も、飛んでいるうちに突然やんでしまいました。
 湖の真ん中辺りで、私はきょろきょろと辺りを見渡してみましたが、何も見つかりませんでした。
 耳に手を当ててもみましたが、もう何も聞こえてきません。

「気のせい……」

 私は浮かんだ状態で、うなだれました。
 それから、水の鏡に映る自分の姿を見て、ますます落ち込みました。
 光ってます。
 もう近頃は、日が沈んでなくても、自分の体が光っているのが、はっきりとわかります。
 あの花が枯れてしまい、私がお母さんの待つ世界に還る時間が、徐々に迫っているのかもしれません。
 もしかして、今の歌も向こうの世界から聴こえてくる歌だったのかも。

 それにしても変なの。
 だって、私はこんなに落ち込んでるのに、湖に映る私の顔は、何だか笑ってるようで……。

「あれ?」

 この顔、私じゃない。
 と思った直後でした。 
 パシャ、と水面が音を立てて、水の中に見えていた顔が飛び出してきて、

「きゃ!?」
「ああ~ごめんなさいごめんなさい逃げないでー。驚かせるつもりはなかったの~」

 慌ててるようで、のんびりしてるようでもある声に、引き留められました。
 私は両脇を閉じて腕を縮こめた状態で、その顔を見下ろします。
 全然チルノちゃんじゃありませんでした。
 髪は青色だけど、もっと深いブルーで、耳のかわりにひれのようなものがついています。
 知らない女の妖怪さんです。

「あ、貴方誰ですか? どうしてこんなところに?」
 
 私が警戒して訊ねると、その妖怪さんは目をぱちくりとさせました。
 それから、袖で顔を覆ってよろよろと背中から沈んでいき、

「そ、そんな言い方失礼じゃないかしら。だって私の方が、ずっと長くこの湖に住んでるのに……」
「ご、ごめんなさい。この湖に妖怪さんが住んでるなんて知らなくて……」
「いいえ。いいのよ別に。私の方こそ、挨拶もせずにずっと隠れていたのだし」

 私たちはお互いに、ペコペコと頭を下げ合いました。
 改めてよく見ると、その妖怪さんは体の上半分が着物ですが、下半分は魚さんそっくりです。
 大きな魚に食べられている最中、というわけでもなければ、本物の人魚さんということでしょうか。
 この湖にはチルノちゃんだけじゃなくて、妖怪さんも住んでたんですね。
 はぐれ妖精になる前は、ものすごく大きな化け魚がいるって聞いたことがあったけど、正体はこんな素敵な妖怪さんだったなんて。
 怖い妖怪さんじゃなくてよかった。

「はじめまして。私はわかさぎ姫」

 人魚さんは安心したように微笑んで、自己紹介してくれました。

「いつもは湖の中で暮らしているけれど、時々水面から顔を出して、霧の中で唄ったりしているの」
「あ、じゃあさっき聴こえてた綺麗な歌は……」
「ええ! あれも私! 気に入っていただけたなら嬉しいわ!」

 わかさぎ姫さんは何度もうなずきながら、弾んだ声で言いました。
 でもその笑みは、すぐに何だか困った風になり、

「いつも気軽に唄えるわけじゃないのよ。あの青くて冷たい妖精が湖から出かけてる時じゃないと、邪魔されちゃうから。あの子は私の歌が好きじゃないみたいなの」

 なるほどです。私はこの湖にいる時は、いっつもチルノちゃんと一緒でしたから、今まで歌を聞く機会がなかったのでしょう。
 でも訳を知って、また私の気持ちはだんだんと沈んでいってしまいました。
 わかさぎ姫さんが、心配そうに見上げてきます。

「どうしたの? 元気がなさそう。もしかして貴方も、私の唄が嫌い?」

 私は首を振りました。

「そんなことないです。とても素敵でした。でも……」

 私が今聞きたいのは、わかさぎ姫さんの綺麗な歌声じゃなくて、キンキンと耳に響く元気で頼もしい声。
 もしかすると、もうすぐ聞けなくなってしまうかもしれない声。
 なのにチルノちゃんは今朝、私に何も言わずにどこかへ行ってしまったのです。
 そんな私の悲しい気持ちを知らないわかさぎ姫さんは、 

「よかったわー。気に入ってくれたのね」

 と、嬉しそうに両手を合わせました。

「あのね。実はさっき唄ってたのは、もちろん私が唄うのが好きだからでもあるけど、本当は貴方に届けたかったの。何かお礼がしたくて」
「……お礼?」
「貴方が来てから、この湖の雰囲気がだいぶ変わったのよ。というか、あの青い妖精の子の行動が変わったっていうか」

 耳が自然と引き寄せられました。
 わかさぎ姫さんが語り始めたのは、私の知らない時代のチルノちゃんの思い出だったのです。

「昔は本当に乱暴な子でね。思いついたように湖を凍らせたり、泳いでる魚の影を見つけては氷を投げ込んだり、暑さしのぎにやってくる動物や妖精を追い返したりするものだから、湖の中にいた水の妖精も、みんな逃げてしまったの。一度こらしめてやろうかと思ったけれど、妖精の割には手強くて……ケガするのも嫌だから、諦めてたんだけど」

 私はすぐにその光景を想像することができました。
 いかにもチルノちゃんならやりそうな気がしますし、私が出会う前に聞いていた噂にも、少しそんな話が混じってましたから。

「でも貴方が来てから、最近は危ない遊びも減ってるみたいだし、とても感謝してるのよ。特にほら、五日前のあの流れ星の下のダンス」
「え?」
「二人が踊ってる姿は本当に素敵だった! あんな光景を見ると、妖精っていいなぁ、って私も思ったのよね」
 
 わかさぎ姫さんは水の中を優雅に動きながら、話してくれます。
 ちゃぷちゃぷと増えていく波紋を見下ろす内に、私はとても温かい気持ちに包まれていました。
 だって、妖精の良さをこんな風に妖怪さんに言ってもらえる機会なんて、滅多にありません。
 私たちのあの踊りが、知らない誰かを感動させていたというのも、思いがけないことでした。

 こんなに嬉しいことって、なかなかあるものじゃない。
 自分が妖精に生まれて、本当に良かったって思える。
 でも今は、それじゃダメなんです……。
 
「私だって、わかさぎ姫さんが羨ましいです……」

 なんとなく、私は呟いていました。

「だって、今までもこれからも、チルノちゃんのことを見ていられる。私も妖精じゃなくて妖怪なら……」

 ハッとなって、私は自分が言ったことを心の中で繰り返し、すごく後悔しました。
 なんて罰当たりな願いでしょう。妖精であることをやめて、妖怪になりたいだなんて。
 こんなことを、向こうの世界にいるお母さんや仲間に聞かれたら、きっとすごく叱られるに違いありません。
 もしかすると、妖精の地獄に落ちてしまうかも……。そういうものがあるのかどうかは、わからないけど。

 でも、突然思い浮かんだそのアイディアは、なかなか頭から消えてくれませんでした。

「ええ? 貴方はそう言うけど、妖怪だって楽じゃないわよ」

 わかさぎ姫さんは、また袖でよよよと顔を覆います。

「湖の外に出られないから、他の妖怪の友達も少ないし。たまにやってくる釣り人の針に引っかかることもあるし。あともっと昔は人魚の肉がどうたらこうたらで、たくさんの人間に狙われて、仲間の数も減っちゃって」
「………………」

 私は何だか聞いていて、ますます辛くなってしまいました。
 わかさぎ姫さんの声って、歌うと綺麗ですけど、ちょっと湿っぽいので、悲しいことを言うともっと悲しく聞こえてしまいます。

「でもそんなに妖怪になりたいなら……私はちょっとわからないから、誰か他の人に相談してみたら?」
「そう言われても……」

 はぐれ妖精の私に、相談できる相手なんてほとんどいません。
 五日前までは、いました。
 ミチバーがまだ生きていれば、すぐにでも話を聞いてもらいに行ってます。
 あの人が妖怪になる方法を知ってたかどうかはわかりませんけれど、あの声はいつも穏やかで温かくて、私の気持ちを安心させてくれて……。
 
「ミチバー……駄菓子屋さん……?」

 私は顔を持ち上げました。

 ミチバーはもうお星さまになってしまいましたが、あの駄菓子屋さんはどうなっているのでしょう。
 家ごとなくなっちゃってるとか? それとも、新しい人が住んでるとか?
 もしかすると、チルノちゃんもそのことが気になって、人間の里に出発したのかもしれません。

「あの、わかさぎ姫さん。私もう行きます」

 いてもたってもいられなくなり、私は頭を下げて急いで言いました。

「歌をありがとうございました。またいつか聴かせてください」
「ええ、お安い御用よ。その時は貴方たちも、この湖で踊る姿を見せてちょうだい」
「はい」
「あ、やっと笑ってくれた」
「えっ」

 私は思わず自分の頬を撫でてました。




 ◆◇◆




 湖を出発した私は、五日ぶりに人間の里にやってきました。
 前に来た時と違い、空は一面真っ青に晴れていて、田んぼに生えている草の輝きも増してます。
 雰囲気は明るくなり、私のよく知っている家の周りにも、あの時のようにたくさんの人の姿はありませんでした。
 はたして、チルノちゃんはいるでしょうか?

 私は念のため、知らない人に見つからないよう低く飛んで、その一軒家に近づきました。
 店の前に回って、そうっと中の様子を窺います。

 うわぁ……すごく広い……。
 お菓子やおもちゃが全部なくなっちゃってる。それだけで、お店の中がすごく広くなった感じがします。
 しかもこの建物の中にはもう、ミチバーも住んでいないのです。
 前はあって当たり前だったものが、何一つ残っていない家。そう考えると、何だかとても寂しい眺めに思えました。
 もうここには誰かが住むことはないのかしら……。

 ガタッ。

「っ!?」

 いきなり物音がして、私は飛び上がりそうになりました。
 奥に小さく見えている扉が、ずずず、と横に動き始めます。
 誰かいたの? ミチバー? いいえ、そんなわけありません。じゃあチルノちゃんが来てたとか?
 私がじっと目を凝らしていると……

 知らない女の人が出てきました。
 思わず固まっていると、彼女は私の方を見て、視線を鋭くします。

「妖精……?」

 と呟くその顔は、キリっとしていて、とっても迫力のある顔でした。
 特に目の力は、妖怪の山で会った天狗さんよりももっと強くて、尖ったもので突かれてるみたい。
 その人は、きびきびとした足取りで、青みがかった綺麗な銀髪を揺らし、真っ直ぐ歩いてきました。
 頭に載せているのは、はじめ変わった四角い帽子かと思ったけど、近くで見ると鳥さんの家のようです。
 目の前に立った女の人は、腕を組んで私を見下ろし、低い声で言いました。

「ここに悪戯にやってきたのであれば、見当違いだったな。里に害を為すものに、私は容赦はせん」

 い、イタズラに来たんじゃありません。チルノちゃんがどこに行ったのか知りたくて……。

 と思ったけれど、私の口はパクパク動くだけで、声が出てきてくれませんでした
 目の前に立つ人の迫力に圧倒され、後ずさりすることしかできません。
 と、かかとが道端の石に引っかかって、私はバランスを崩してしまいました。

「きゃっ」

 ついに後ろに倒れそうになった瞬間。
 ぽん、と温かい感触が、私の両肩に生まれます。

「ケイネ様。寺子屋の教師ともあろう御方が、こんな小さい子を脅すとは何事ですか」

 ぽわぽわとしたぬくもりが、私の不安を吸い取ってくれました。
 振り返ってみると、さらりとした黒い髪が目の前を流れて……

「あっ」
 
 そこにいた女の人は、あの日、ミチバーが私とチルノちゃんに残してくれたリボンを、手渡してくれた人でした。
 あの時と違って、服の色は赤と白に変わっていますが。
 確か名前は……レーホさんだったっけ?
 彼女は私に微笑んでから、ミチバーの家から出てきた怖い女の人の方に言います。

「ほら、この前話した妖精の子のお友達ですよ。お菓子作りが得意な子」
「ふむ」

 さっきの人は、口に真っ直ぐ線を引いて、また見下ろしてきます。
 私は思わず腰が引けてしまい、後ろにいるレーホさんに支えてもらわなければ、立ってられそうにありませんでした。
 ところが、

「花の妖精だな」
「えっ」
「察するに、スイートピーか。幻想郷にあるのは春咲きのものばかりなので、この時期に見かけるのは珍しい」

 大当たりです! でも、びっくり!
 チルノちゃんだって、最初に私を見た時、花の妖精だとさえ分からなかったのに!
 この人は妖精について詳しいみたいです。それとも、お花に詳しいのかしら。

「ところで大ちゃん、今日はどうしたの?」

 と言ったのは、後ろにいるレーホさん。

「チルノちゃんと鬼ごっこ? それとも、かくれんぼかしら」
「あの、私、チルノちゃんがここに来てないかと思って……」
「そうだったの。残念だけど、私は今日は見てないわ。ケイネ様は?」
「いいや」

 ケイネ様と呼ばれた人は、ふと遠くに目をやって、何かに触れるように片手を持ち上げ、片目をつぶります。

「……里の歴史にも痕跡は残っていないな。五日前に現れたのが最後だ。それ以上は私の能力でも追えん」
「まぁ驚きです。物知りの先生でも分からないことがあるのですね」
「またお前はそういうことを言う。私をそんな風に小馬鹿にする人間が、かつて教えた生徒で、しかも今は巫女をしているというのが、なんとも嘆かわしい」
「いいえ。私は今でも先生をすごく尊敬しておりますよ。ほら。答えられる物が多い人ほど、答えられなかった少ない機会が目立つというものです」
「屁理屈を教えたつもりもないのだがな」

 二人の会話は、妖精の私には馴染みのない雰囲気で、理解するのも大変でした。
 でもその中に出てきた一言は、私の耳にしっかりと引っかかって残りました。

「物知りの先生……」
「ん? ああ。これでもそれなりに生きているのでな。専門は歴史だが、それぞれの分野の著名な文献は、一通り頭に入っているつもりだ」

 銀髪の女の人は、自分の帽子を指で示しながら言います。
 それを聞いて、私は思わず、期待をこめて訊ねていました。

「じゃあ妖精が、妖怪になれる方法って知ってますか?」

 と言ってからすぐまた、罪悪感で胸に棘が刺さったような気持ちになりました。
 それでも私は、さっきわかさぎ姫さんと話した時の思い付きが捨てられなかったんです。

 今日まで得た思い出が消えてほしくない。ついこの前まで当たり前だと思っていた未来を諦めたくない。
 妖精がダメなら、妖怪になってでも、この世界に残りたい。
 だから、その方法をもし知っているなら、と思って訊ねたのですが……。

「…………っ!?」
「…………!!」

 二人の反応は――その先生と呼ばれた人だけでなく、レーホさんの方も――予想外でした。
 どちらもまるで、突然雷が落っこちてきたかのように身を固くし、お互いの顔を見合わせたのです。




 ◆◇◆





「挨拶が遅れて申し訳ない。初めまして。上白沢慧音だ」

 駄菓子屋の前の椅子に座った私は、隣の物知り先生に、まず自己紹介を受けました。
 それから慧音さんは、わざわざ長い木の棒で、自分の名前を地面に書いて見せてくれました。

「字はこのように書く」

 上白沢慧音。
 一度見ただけでは、真似して書けそうにありません。そもそも、字が書ける妖精ってそんなにいないのです。
 人間ってみんなこんなに難しい名前を持ってるのかしら。レーホさんはどんな字なんだろう。ミチバーは?

「今朝はこの家の片づけをするついでに、歴史を集めていてな。亡くなった里の人間の歴史を残らず回収するのが、私の務めでもあるんだ。そこに偶然お前がやってきたのだが、故人との関係を知らなかった故、驚かせてすまなかった。誤解を詫びておく」
「はぁ……」

 私は力のない返事をしながら、なんでこんなことになったのかな、と考えてました。
 この椅子には、チルノちゃんかミチバーと一緒にしか座ったことがなかったのに、今日初めて会った人と腰かけてます。
 慧音先生は、私をミチバーの家の中に案内するつもりだったようなのですが、レーホさんが「妖精は外の方がいいでしょう」と言って、この場所になったのです。
 それはありがたかったのですが、二人だけだとやっぱり緊張します。

「本題に入るとしよう。なぜ妖怪になることを望む?」
「ええっと……」

 慧音先生は、じーっと私を見つめてきます。
 座っても立ってる時とほとんど変わらない、ピンとした姿勢です。 
 何かに似ていると思いましたが、あの妖怪の山の滝でした。
 体はびくともしない岩のようで、青っぽい銀色の髪の毛は水が流れて落ちてるみたい。
 
 そして何だかこの感じ、悪いことをして怒られてるみたいな……。
 横に並んで座らずに、向かい合っていたら、きっと顔を上げることもできなかったでしょう。
 レーホさんに助けを求めたい気持ちでしたが、彼女は店の奥でお茶を淹れています。
 私はびくびくしながら、逆に訊ねていました。

「あのぉ……やっぱり、いけないことなんでしょうか……」
「そうは言っていない」
「じゃあ……」
「気になるんだ。どうして妖精がそんなことを言いだしたのだろう、と」
「私は、はぐれ妖精なので……」
「はぐれ妖精?」

 慧音さんに教えてもらう前に、はじめに私が妖精というものについて教えてあげることになりました。
 妖精というのは、自然の色々なものから生まれて、仲間と共に群れを作り、やがてお母さんの元に還ってく存在です。
 そうした自然のルールから外れて、ひとりでずっと長く生きている妖精が、はぐれ妖精。
 つい最近まで、私もその一匹だと信じていたのだけれど、でもそれは真実じゃなかった。
 けど妖怪になれば、もっとチルノちゃんに近い存在になれる。もっと長い間一緒にいられるはず。

 この時、私はそんなことを何とか上手く説明しようとしました。
 熱心に聞いてくれた慧音先生は、ある程度わかってくれたらしく、

「なるほど。新しい知識だ。妖精に様々な個性が存在するのは分かっていたつもりだが、それほど異端的な存在もあるのだな」

 それからあごにつまむようにして、地面を見つめながら、

「いや……過去の幻想郷の歴史を鑑みれば、むしろ今の時代こそ異端。ということは、もうまともなほとんど妖精など残っていないはず。だとすればあの氷精は……」
「………………」
「ああ、すまない。こちらの話が先だった」

 慧音先生はまた木の棒を持って、地面に線を引きました。
 縦に一本。その右と左に、それぞれ別の漢字を書きます。

「まず初めに理解せねばならないのは、変身と転生。この二つが似て非なるものだということだ」

 いきなり、難しそうな話が始まりました。

「この幻想郷にも、変身の能力を持つ妖怪は少なくない。これは、彼らが襲う対象である人間が、視覚的な情報に頼る部分が多い故だ。より高度な術になれば、声やにおいも含めて、全く別の存在に化けることもできるという。しかし、そのものの本質が変化するわけではない。本質とはこの場合、意識も魂もひっくるめた精神体そのものを指す。すなわちこの世界がその存在をどういう形で己の内に住まわしているかということでもある」
「……………………」
 
 あ……頭が重い……。
 まるで魔法のおまじないのようで、ちっともわかりません。
 目を回しそうな私を助けてくれたのは、お茶とジュースを持ってきてくれたレーホさん。

「私が先生の帽子をかぶって、同じ格好をしても、『上白沢慧音』という存在に変わったわけではない。ということですね」

 そのヒントで、なんとなくわかりました。
 私だってまさに今日までずっと、だいだらぼっち妖精のふりをしている花の妖精だったのですから。
 お茶の入った湯のみを受け取った先生は、こほん、と咳ばらいをして、

「変身に対し、転生というのは、その者の本質も含めてほとんど全てが変わってしまうということだ。人の場合、それは主に輪廻という形で生じる。己の誕生と死を境にして、魂を別の箱舟に乗せるわけだ。とはいえ、現世だけで完了する転生も存在する。大陸には生きながらにして、苦悩の挙句虎へと変わった人間の話が残っているし、さらに西方では、石に木に魚に鳥に獣、あるいは星や神などに変わった転生の話で溢れている。他にも特殊な例としては、地蔵が閻魔に転生するというものがあり……」

 慧音先生は、転生の例をたくさん紹介してくれました。
 けれど、あまりにもいっぱいありすぎて、覚えてられません。
 さっき思ったイメージの通り、滝から延々と水に混じって言葉が降り注いでくるようです。
 一つ受け止めようとすると、他の四つが流れてしまって、あっという間にまたすぐ次が来てという具合に翻弄されてしまいます。
 だけど、最後に滝に沿って落ちてきた一かけらだけは、しっかりキャッチすることができました。 

「大体にして現世における転生というのは、なるべくしてなったものではない。妖精が妖怪化したというのも……例がないわけではないが、少なくとも自然な話とはいいがたいな」

 そうでしょう。
 妖精は、妖精としての自分の生き方を迷ったりするようなことがありません。
 はじめから、私たちの中には何をどうしたらいいのか自然にわかる力が備わってます。
 そして間違いそうになっても、近くにいる同じ仲間がすぐに教えてくれたり助けてくれたりするのです。

 けど、妖精が妖怪になった例がある、という話は、私の心を引き上げてくれました。
 ならその可能性に賭けてみたい。

「先生はその方法を知ってるんですか?」
「いや、私の知識にはない。おそらくこの術は妖怪の、それも大妖怪の領域になる。やり方を調べて知ったとしても、簡単に行えるものではないだろう」
「………………」 
「それに、仮に転生ができるにしても、戒めとしてあらかじめ覚悟しておくべきことがある。それは、別の存在になるというのは、姿だけではなく、中身すらも変わってしまうおそれがあるということだ」

 がっかりしていた私の心に、先生の言葉はさらに鋭く切り込んできました。

「妖精であるお前が仮に妖怪に変われば、肉体だけではなく、自分を取り巻く世界、その見え方、そして内面も含めて、全てが変わってしまう。最も懸念すべき変化は、やはり心の変化だ。なぜなら心が変われば、己の歩んできた生き方にも疑念が生じ、その時には自らの選択が正しかったのかどうか、再び己に問うことになるからだ。その際に後悔し、後戻りしようと考えても、おそらくは許されないであろう。それだけならまだしも、元の心の拠り所である記憶すら失われかねない」
「そんな……」

 そんなこと、考えもしませんでした。
 妖怪になれば、きっと新しい道が開けて全て上手くいってくれるかも、と何となく考えていただけでしたから。
 でも妖精である私が、妖精じゃない私になったら、心までも別のものに変わってしまうかもしれないだなんて。
 しかもそれだけじゃなく、妖精であった頃の思い出が消えてしまうかもしれないだなんて。
 それでは意味がありません。

「……昔、ある人間が偶然にして妖怪の力を手に入れた話を聞いたことがある」

 慧音先生は、頭に載せていた帽子に触れながら、遠くを見つめます。
 
「彼女もまた、望んでそれを受け入れたわけではなかった。だが故あってそれを選ばざるを得ず、必然的に生き方も変えなくてはならなかった。再び人の枠組みに仲間入りさせてもらうまでに、長い時を要したという。変わるということは、試練ではなく、あくまで試練の始まりに過ぎないんだ。苦難はその後も続く」

 だからやめておけ、とは、言われませんでした。
 けど、慧音先生の表情と口調から、そう言いたげな気持ちは伝わってきます。
 やっぱり、妖精から妖怪になりたいなんて、他の種族の人たちからしても、間違っていることなのでしょう。
 分かっていたことでもありますけど……。



「でも私、大ちゃんの気持ちがわかります」
「は?」

 今までずっと真面目な顔だった慧音さんが、とても変な表情になりました。
 口が半開きになっていて、片方の眉毛がつまんで持ち上げられてるような形になってます。
 そして私も驚いて、突然すごいことを言いだしたもう一人の方を向きます。

 びっくり発言をした当のレーホさんは、お茶を一口飲んでから、のほほんとした調子で、

「すごくわかります。だって、私も巫女をやめて、駄菓子屋さんになりたいって思ったことは一度や二度じゃありませんから」
「こら。くれぐれも、他の人間の前でそんなことを口にするんじゃないぞ。幻想郷の要である博麗の巫女に、神社と駄菓子屋を天秤にかけられては敵わん」
「わかってますよ。ところで慧音先生はどうなんですか。歴史家や教師を辞めて、陶芸家や書道家になりたいって思ったことは?」
「無い。歴史家と教師。どちらも私にとっての天職だと考えている。毎日が忙しくて充実していて、悩んだり土をこねたりする暇など全くないほどだ」
「今も生徒さんは退屈で、居眠りが絶えないと聞きます。これはつまり、私が通ってた頃から進歩していないということじゃないですか」
「彼らの多くは、成人してから私に感謝を伝えてくる。そうでない者達は、おそらく生徒が天職ではなかったのだろう。お前も含めてな。そうに違いない」

 間に挟まれた私はどう言っていいかわからず、困ってしまいました。
 喧嘩をしているわけでもないのでしょうけど、仲良くしゃべってるようでもありません。
 妖精同士の会話とはだいぶテンポが違います。

 しばらくそんなやり取りがあってから、レーホさんが困っている私に気づき、謝ってくれました。
 それだけでなく、 

「ねぇ、大ちゃん。私がこんなことを言うのはずるいかもしれないけれど、私やここにいる先生にとって、大ちゃんみたいな妖精さんがいるのは、とてもありがたいことなの」
「え?」
「その通りだ」
「え?」

 私はお隣を交互に見比べました。
 レーホさんだけでなく、慧音先生までしっかりうなずいています。

「もちろん里まで忍び込んでイタズラされては迷惑であるがな。けれども妖精は自然の体現者であり、世界の秤でもある。その時代の妖精の生きざまを眺めることにより、この世界の状態を知ることができる。例えばこの世界に異変が起こった時、妖精は異常化する。土地が肥えれば妖精の数は増え、それぞれより安定した形で末永く残る。そして田の水が濁れば生き物が減るように、世界に淀みが生じれば、妖精は弱り、数も減る」
「………………」
「む……つまりだな、その……」
「妖精を見れば、この世界が元気なのか、もしくは風邪を引いたりして問題が起こっているかが分かる。そういうことですよね、先生?」
「そう。そうだ。私たちにしてみれば、妖精が妖精らしく元気に暮らしているのを見ることで、天下太平、すなわち幻想郷が平和であると確信できるんだ」
「ああ、だから……」

 だから二人ともさっき、妖怪になりたいっていう私の話を聞いて驚いたのでしょう。
 それがあまりにも不自然なことだから。変てこなことを言う私を見て、世界が変てこになっちゃったんじゃないかと心配になったのでしょう。
 「すみませんでした」と謝る私を、慧音先生は「そう気に病むな」と励ましてくれます。

「私が思うに、お前は自分が妖精であることの素晴らしさを見失いかけている気がする。弱いことや強いこと、長くこの世に残るかそうでないかで、価値の差は生まれない。あくまで、この世界に必要とされているかどうか、だと思う。そしてお前は妖精という、私にとっても、この世界においても、尊い存在であることは疑いのないことだ」
「慧音先生……」

 呟く私は、わかさぎ姫さんの時と同じく、不思議な感動に包まれていました。
 妖精であることの良さを、妖精の中だけで語っていても、こんな気持ちにはなりません。
 私たちとは違う種族の、もっと大きくて広い世界から見てもらい、認めてもらえたからこそ、この気持ちは生まれたのだと思います。
 この感動を、向こうの世界に持ち帰れたら……お母さんと仲間たちに伝えることができれば、どんなに素晴らしいことでしょう。

「できました」

 という声に、考えに沈んでいた私は引き起こされました。

「大ちゃん。これをあげる」

 レーホさんは、きょとんとなる私の顔の前に、手を差し出してきました。
 その上に、白い紙でできた鳥さんが、羽を広げて乗っています。

「この折り鶴はね。会いたい誰かのことを考えて飛ばすと、その方向に飛んでくれるの。今試してみるわ」

 レーホさんは眼を閉じて、紙の鳥さんを頭の位置まで持ち上げて、そっと指から離しました。
 すると、鳥さんはすぐに、空中でくるりと向きを変えます。
 そのまま、見えない線の上を移動するように、すーっと進んで、茂みの中に降り立ちました。

「うん、間違いない。チルノちゃんはあっち。南側にいるわね」
「えっ!」

 私はびっくりして、腰を浮かしました。
 この里にいないのなら、てっきり山の方に遊びに行っちゃったと思ってたのに。
 でも山があるのは、ここから西の方。方角が全然違います。

 チルノちゃんは、今どこで何をしてるの?

「わ、私もう行きます」

 私は椅子から下りて、二人に頭を下げました。

「レーホさん、慧音先生、ありがとうございました!」
「また遊びに来てね、大ちゃん」

 レーホさんは体を斜めに傾けて、手を小さく振ってくれます。
 今日初めて見た赤と白の服に身を包んだその姿は、何だか私を明るい気分にさせてくれました。 
 そして隣には、私をすっきりとした気分にしてくれる、青と銀の姿。
 その先生も、背筋を伸ばしたまま、微笑んでいました。

「これからも、何か聞きたいことができたら、いつでも訪ねて来なさい。お前のような生徒であれば歓迎だ」




 ◆◇◆


 

 人間の里から南へと伸びる小道、魔法の森の側を私は飛んでいます。
 手にはレーホさんからもらった折り鶴。
 それは紙で出来ていて、羽もないし鳴くこともない鳥さんでしたけど、とても上手に折られていて、綺麗な形をしてました。

 そういえば……と私は、夏に駄菓子屋で、ミチバーに折り紙を教えてもらったことを思い出します。
 ウサギさんにカエルさん。チューリップやコスモス。そしてこの鶴もその一つです。
 妖精の遊びにはなかったし、それにとても面白かったので、私もその日は折り紙に夢中になってしまいました。
 でも一緒に教わったチルノちゃんは、それをくしゃくしゃに丸めてボール遊びに変えてしまったのですが。
 もしかすると、レーホさんもミチバーに折り紙を教わったのかもしれません。

 さて、南に向かって、どれくらい行けばいいのでしょう。チルノちゃんはそこで何をしているのでしょう。
 そんなことを考えている内に、私はもしチルノちゃんが別の場所に移動してしまっていたら、またすれ違いとなってしまうことに気づきました。
 ここら辺で、もう一度方向を確かめてみた方がいいかもしれません。
 
 私は飛ぶのを止めて、地面に下りました。
 それから、もらった折り鶴をつまんで、えい、と空に向かって投げました。
 ところが、

「えっ!?」

 思ってもみないことが起こりました。
 紙の鳥さんは、私の頭の上でくるりと回ってから、そのまま逆さまに落ちてきてしまったのです。
 それを受け止めた私は、もう一度、

「……えい!」

 と、力いっぱい投げました。
 やっぱり鳥さんは、風もないのにふわりと浮いてから、くるくると回って、見上げていた私の額の上に落ちてきました。
 それから何度か、投げ方を変えたり、投げる方向を変えたりと、試してみましたけど、全部ダメ。
 何度やっても私の方に戻ってきてしまいます。 

 ど、どうして……?
 レーホさんがウソを吐いたとは思えません。
 あの人はさっき、これはチルノちゃんのいる方に向かって飛んで行ってくれるって……。

「あ……!」

 違います。
 そうじゃなくて、レーホさんは、『会いたい誰か』の元に、この折り鶴が連れて行ってくれると言ってたのです。

 私はそれを思い出し、またどんよりと気持ちが落ち込んでしまいました。
 自分がチルノちゃんに会いたい気持ちよりも、会いたくない気持ちの方が多いということを、今さらながらに気づいたのです。
 その理由もわかってました。
 
「あのことも、言わないとダメなんだ……」

 もうすぐ自分が消えてしまうかもしれないということを、チルノちゃんに話したとします。
 そうしたら、チルノちゃんはきっと尋ねてくるでしょう。
 大ちゃんは、だいだらぼっちの妖精なのに、どうして消えちゃうのって。
 そう聞かれたら、私は花の妖精だったと、正直に告白しなくてはいけません。

 チルノちゃんは今までウソをつていたことを許してくれるでしょうか。とてもそうは思えません。
 それにチルノちゃんは、だいだらぼっちじゃない私になんて、興味を持ってくれそうにありません。
 私が花の妖精だと知った瞬間の、チルノちゃんの顔を想像してみると……。

「ああ……」
 
 頭を下に向けて、とぼとぼと歩いていると、すすきの原っぱに出ました。

 ここはちょうど、前に秋の神様を見かけた日に来た場所です。 
 あの時の私は、はぐれ妖精としての喜びにこれ以上ないくらい包まれてました。
 今日の出会いだって、もし私が自分のことについて何も知らなければ、どれも素晴らしいものになっていたでしょう。
 妖怪のわかさぎ姫さんだけじゃなく、人間のレーホさんや慧音先生も、妖精をバカにするどころか、とても素敵で価値のあるもののように語ってくれました。
 みんなが、妖精の私を認めてくれた。妖精である私を受け入れてくれた。
 もっと時間があれば、私にもそんな風に、妖精以外のたくさんの友達ができるかもしれません。チルノちゃんみたいに……。

「あっ!」

 遠くのすすきの中に、水色の何かが見えました。
 ドキドキしながら、もっと目を凝らして見てみます。
 白いすすきの穂の中に見え隠れしているのは、青いリボンを結んだ水色の髪に見えます。
 チルノちゃんです。

 どうしましょう。まだ気持ちの整理がついてないのに。 
 でもずっとチルノちゃんを捜していたのに、ここで引き返すのも変な話です。
 私は迷ったすえ、勇気を出して行ってみることにしました。




 しばらく近づいても、水色の髪は、すすきの中に入ったままでした。
 私の方に気づいた様子もないし、全然動きません。
 あんなところで寝ちゃったのでしょうか。もしかして、何かにはまって出られなくなっちゃったとか?
 心配になった私は、すぐ側まで寄って、話しかけました。

「チルノちゃん? 大丈夫?」

 と、私はそこまで近づいて、違和感に気づきました。
 水色の髪、青いリボン。そして青と白の服。
 けどその後ろ姿には、あるはずのものがない。他のどんな色でも代わりにならない、氷の羽が。

 違う、チルノちゃんじゃない。
 と思ったその時でした。

 足元のすすきに、奇妙な影が生まれます。
 と思ったら、ぶわさっと何かが勢いよく私の背中に覆いかぶさってきました。
 
「きゃあっ!?」

 反射的に身を伏せます。
 ばっさ、ばっさ、と音がするたびに、私の背中の重みが加わります。
 すぐにそれが、妖精がイタズラに使う草で編んだ網だとわかりました。
 端に石か何かがくくりつけられているのか、重くて持ち上がりません。
 すすきとサンドイッチにされちゃった私は、暗い草の檻に閉じ込められてしまいました。
 
「やったー! 捕まえたー!」

 きゃあ、きゃあと、外から賑やかな声がします。
 網をかき分けて、何とか隙間から外を見てみると、秋の妖精たちが小躍りしていました。

「みんな! ついに私たちの縄張りを脅かす諸悪の根源、はぐれ妖精を捕まえたわ! 私たちの勝利よ!」

 一匹の妖精が高らかに宣言しました。
 それに合わせて、周りの妖精から歓声が起こります。
 その中には、私がさっき見たチルノちゃんそっくりの大きな人形を持った妖精も見えました。

 罠だったんだ、と私はようやく理解しました。
 なんて馬鹿だったのでしょう。
 今日まで私は、秋の妖精は自分と同じく臆病な存在だから、直接何もしてこないと思い込んでましたけど、そうじゃなかったんです。
 秋は空が高くなり、その季節に生まれる妖精も、春や夏の妖精より高くて涼しい場所を飛んでいられる。
 その力を利用して、皆でこの草の網を構えた状態で、すごく高い位置で気配を隠して、自分達のことがわからないようにしていたのでしょう。
 それでも、私がチルノちゃんのニセモノに気を取られていなければ、すぐに上に何かがいるって気が付けたはずなのに。

「同じやり方で、今度はあっちのはぐれ妖精も捕まえればいいわけだわ! その前にこっちの妖精は始末してしまうわよ!」

 とても恐ろしいことを言います。
 夏の妖精にいじめられたあの記憶がよみがえり、私の体が震え始めました。
 あの時は、チルノちゃんが助けてくれた。でも今度は?
 草の網は重くて目が細かくて、簡単に脱出できそうにありません。

「あ、あ、あ、あの、あのあの」

 賑やかな声に混じって、一匹の妖精の子が喋り始めました。

「こ、この妖精が、本当にはぐれ妖精なのか、たっ、確かめてみないと! ももも、もしかしたら違うかも……」

 あ! この声は!
 私が前にケガを治してあげた妖精の子のような気がします。
 彼女と会ったのはこの辺りですし、このグループの中に混ざっていてもおかしくありません。
 もしあの子が味方してもらえるなら、見逃してもらえるかも?

 そんな私の甘い考えは、瞬く間に壊されてしまいました。

「確かめなくても当たり前じゃん! だってこいつ、あの湖の妖精と仲良くしてたのよ!」
「そう! それにあの湖の近くに住んでるみたいだし!」
「他のグループの縄張りから縄張りへ好き放題移動してるし!」
「早く退治しないとダメよ! 変身したらどうするのよ!」

 激しい言い合いを聞いているうちに、私はこんなことを起こしてしまった理由を悟りました。

 もちろん、元々彼女たちがはぐれ妖精を憎み、恐れていたこともあるでしょう。
 だけどそれだけじゃなく、私が彼女たちの縄張りの側を散歩して、脅かしていたのも原因だったのです。
 知らず知らずのうちに迷惑をかけ、怒らせていたことに、私は気づけなかったのでした。
 そして彼女たちは、秘かに仕返しの機会をうかがっていたのでしょう。

「ご、ごめんなさい。貴方たちのすみかを荒らすつもりはなかったの」

 私は反省して、網の向こうにいる妖精たちに謝りました。
 それから、正直に言いました。

「私は……本当は、貴方たちと同じ普通の妖精なんです! もう迷惑をかけたりしないって約束するから、今日は許してください」

 本心から申し訳ない気持ちで、頭を下げます。
 草の網がたくさんかぶさってる状態なので、向こうに見えているか分かりませんが。
 秋の妖精たちはヒソヒソと相談を始めました。

「どうする? 信じる?」
「ダメよ。油断させてガブリといくつもりよ」
「でも本当だったらどうする?」
「どうやって調べればいいのかしら」
 
 途切れ途切れに聞こえる会話を聞きながら、私は話したい気持ちを抑えて、黙っていました。
 向こうはまだ気が立っていますし、あまり刺激しない方がいいと思ったんです
 それになるべく時間を稼げば、もしかするとチルノちゃんが気づいて助けに来てくれるかもしれません。
 私は大人しくして、行方を見守ることにしました。


 あんなことが始まるまでは。


「はぐれ妖精といえば!?」

 ヒソヒソ話が終わり、出し抜けに一匹の妖精の子が、歌うように言いました。

「はぐれ妖精! ダンスがへたっぴ♪ 誰にも教わったことがないから♪」
 
 私の心に、何かが突き刺さりました。
 
「はぐれ妖精! いつもふらふら移動してる♪ 自分の生まれた場所を知らないから♪」
「はぐれ妖精! 一人で平気で遊んでる♪ ずっと一人だったから♪」

 彼女たちがふざけて叫んでるのは、はぐれ妖精にまつわる噂話でした。
 どれも昔、私が普通の妖精として暮らしていた時に、聞いたことがあったものです。
 だけど……

「はぐれ妖精! すごく残酷♪ 心が氷でできてるから♪」

 今の私は、その歌詞を聴くたびに、心が引き裂かれるような感覚にとらわれました。

「はぐれ妖精! 妖精の気持ちがわからない♪ だって、妖精の仲間がいないから♪」

 聴いているうちに、胸がどんどん痛くなっていく。

「はぐれ妖精! 輪を作れない♪ 隣の子の手が凍っちゃうから♪」

 でも痛くなるだけじゃなくて、どんどん熱くなっていく。

「はぐれ妖精! 鬼しかできない♪ みーんな逃げてしまうから♪」

 頭の中が、目の奥が、胸の奥が、お腹の中が。
 熱くなって熱くなって熱くなって……ついに弾けそうになって、 

「はぐれ妖精……!」

「もうやめてっ!!」

 私はついに耐えきれずに、叫んでた。
 
「チルノちゃんのことを、そんな風に言わないで!」

 会ったことも、話したことも、遊んだこともない子に、チルノちゃんのことを悪く言われたくない。

「貴方たちは、チルノちゃんのことを知らないから、そうやって適当な噂で塗りつぶそうとするんだわ! でもそんなの間違ってる!」
 
 そうだ。思い出した。
 チルノちゃんは、はぐれ妖精って言葉をずっと嫌ってた。
 私は心の中で、自分のことをそう思ってたけど、それも間違ってた。
 チルノちゃんをはぐれ妖精にしたのは、私たち妖精の噂話だった。
 仲間はずれにしたのも、私たちが私たちの世界しか知らないからだった。
 チルノちゃんは、私よりもずっと前から、こんな噂に一人で耐えてきたんだ。
 だから、強く乱暴に振る舞うことしかできなかったんだ。
 でも、

「チルノちゃんは、はぐれ妖精じゃない! ただ、私たちよりもずっと強くて、ずっとすごい妖精だっただけ!」

 私は妖精のことを、チルノちゃんに色々教えてあげた。
 でも、チルノちゃんは、私にもっといっぱい色んなことを教えてくれた。
 この世界の広さを。この世界の美しさを。

「ずるいことをしなくても、噂話がなくても、仲間の力を借りなくても生きていける。いつだって、一人の力で挑戦していく! みんなも、チルノちゃんの本当の姿をわかって!」

 みんなにも、わかってもらいたい。そうすれば私だけじゃなくて、妖精全ての未来が開ける気がする。
 チルノちゃんはきっと、私だけじゃなくて、もっとたくさんの妖精に教えられるはず。
 未来を切り開く、リーダーになってくれるはず……!

「や、やっぱりこいつ、はぐれ妖精よ!」

 一匹の妖精の子が、裏返った声で叫びました。

「はぐれ妖精! だって、はぐれ妖精の味方してる!」
「このままだと危ないわよ!」
「変身する前に倒さないと!」

 秋の妖精が力を溜め始めました。
 自分たちの持つエネルギーで、無理やり私を消してしまうつもりでしょう。
 そうはいきません! 

 私は大急ぎで網を体から外そうとしました。こんなところで消えたくなんてありません。
 それに、はぐれ妖精――ううん、本当に強くて勇気のある、チルノちゃんみたいな妖精なら、決して諦めたりしないはず!
 間に合って!

 草の網の目から見える光景が、色とりどりの光で埋まっていきます。
 出るのを諦めた私は、攻撃に耐えられるよう、身を丸めて痛みに備えました。

 絶対に、こんなところで消えたりしない。チルノちゃんにもう一度会うまでは。 
 私は固く目をつむって、手を組み合わせて祈り、覚悟を決めて、その瞬間を待ち構えました。


 バゴォォォォォォォオオオオオオオオオオ――――!!!


 聞いたこともないくらいの大きな音がして、大地が震えました。
 瞼の裏側まで明るく見えるほど、その光は強いものでした。
 そして、お星様が一つ落っこちてきたような、とてつもないエネルギーでした。
 祈りが強すぎて、突然世界の終わりが来てしまったんじゃ、と勘違いしちゃったほど。
 
「きゃー!」
「助けてー!」

 なぜか、秋の妖精たちの悲鳴が聞こえてきます。
 網の外で何が起こっているんでしょう。目がくらんでいる私には分かりません。
 何か、彼女たちも予想していなかった、とんでもないことが起こっているようです。
 
 穴の外を照らしていた光は唐突に消え、静かになりました。
 私は固まったまま、瞼をゆっくりと開けました。
 重なった網にふさがれた狭い視界には、すすきくらいしか見えません。
 けど、誰かがいる気配がします。

「チルノ……ちゃん?」

 私はこわごわと、外に向かってたずねました。
 しかし返ってきたのは、全く知らない、女の人の声でした。

「動ける?」

 茫然としていた私は、その言葉に対して、首を縦にも横にも振ることもできませんでした。

「動けるなら出てきなさい。貴方とお話がしたいから」

 誰だろうと思い、怖くなります。
 声の調子は穏やかですけど、何だか命令するような口調です。
 言われた通りに、出て行っても大丈夫なのでしょうか。かといって、いつまでもこの中にいるわけにもいきませんが……。

 私がまごまごとしていると、もぞり、と体にかかっていた重みが動きました。
 それから、ぶぼぼぼわっとすごい勢いで、草の網が私の手足を絡めとり、あっという間に外へと運び出しました。

「きゃあっ!?」

 空中に放り投げられ、私は一回転して、すすきのお布団に仰向けに着地しました。
 いたた……と地面にへたり込んでいると、三歩ほど離れた場所に、靴が見えました。

 そ~っと顔を持ち上げると、白い傘をさした妖怪さんが立っています。
 顔はその傘にさえぎられていて、よく見えません。

 私は草に手をついて身を起こし、辺りを見渡しました。
 特に変わったところはありませんでした。私が穴に落ちる前に見た、すすきの原っぱです。
 けど、さっきはあれだけたくさんいたはずの姿が、一つ残らず消えていました。
 だからなのか、今は不気味なくらい静かです。

「他の妖精の子たちは……」
「知らないわ」

 妖怪さんはそっけなく言いました。

「私を見て逃げてしまったのかもしれないし、風に飛ばされて遠くに行ったのかもしれない。一つ残らず消滅してしまったのかもしれないし、この辺りの土にみんな埋まってるのかもしれない」

 と、聞いていてゾッとするようなことを喋ってから、妖怪さんはつまらなそうに付け加えます。

「どうでもいいでしょう。どれも大して違いはないんだから」
「そんな……」

 大違いです。
 特に一番最後のが本当だとしたら、怖くてこの辺りを歩けません。
 きっとただの冗談で、妖精の子たちはみんな逃げてしまったんだと、私は思いこむことにしました。
 それにしても、この妖怪さんは一体どなた?

 呆然として見つめていると、雲の間からお日様が顔を覗かせました。
 そよ風が吹き、私は感じたことのない不思議な空気に包まれました。
 春の匂いと夏の匂いと秋の匂い、そして知らない匂い。
 さらに、お日様の光が届いて、傘をさした妖怪さんの姿が、よりはっきりと目に映りました。

 下から順番に、赤い網目模様のスカート、同じ色の上着と白いシャツ、そして黄色いスカーフ。
 さらに背中側には、腰まで届くほど長くて、深い色合いのグリーンの髪が見えています。
 顔は見えないけれど、素敵な外見です。
 けど、女の人の見た目よりも、もっと私の心が動かされたのは、その立ち方でした。

 なんて表現すればいいんでしょうか。とても自然で、とても雄大で。
 向き合っていると、自分がどれほど小さくて、どれほど弱い存在なのかを、その姿を見せられるだけで、教えられてるようです。
 いつまでも眺めていたくなる。そして、眺めているうちに恥ずかしくなってくる。
 もしかすると、お日様は本当に、雲の間からこの妖怪さんを見つめようとしたのかも。そんなことを思いたくなるような姿の妖怪さんでした。
 
 でも一方で、こんな怖いことも考えてしまったのです。
 あれだけたくさんいた妖精が、全ていなくなってしまった理由。
 さっき言われた冗談みたいなことを、もしかしてこの妖怪さんは、全部やろうと思えばできるんじゃないかって。

 姿を見せるだけで追い払ってしまうことも、風を起こしてどこかに飛ばしてしまうことも。
 一つ残らず消してしまうことも。全て地面の下に埋めてしまうことも。
 あの一瞬で、できてしまうんじゃないかって。

「貴方は……」

 誰ですか、と私はかすれた声で訊ねます。

「弱い者が先に名乗るのが礼儀でしょう」

 白い傘が、くるりと半分だけ回りました。

「けど、貴方はここでどの名前を明かすのかしら。スイートピーの子? スイート? トピー? 大妖精? 大ちゃん? ずいぶんと名前のあること」

 ドキンドキン、と名前を呼ばれるたびに、緊張で胸が鳴りました。
 この人、私のことを知ってる。それもずっと前から。どうして?

「お花のことなら何でも知ってるわ。……ウソだけど。でもあんなスイートピー、忘れられるものでもない。春に散るはずだった、珍しい場所に咲くスイートピー」
「っ……!?」

 もっと強く胸が鳴り、私の全身に寒気が走りました。
 私のことを知ってるだけじゃなくて、あのスイートピーのことも知ってるなんて!?

「あ、貴方は……」

 唐突に、目の前の姿が、ある記憶と結びつきました。
 ずっと前にこの人を一度だけ、見たことを思い出したのです。

 遥か離れた場所にあるお花畑を移動する。ある妖怪の姿を、春の花の妖精のみんなと一緒に眺めた時、友達は教えてくれました。
 妖精にとって一番敬うべき存在が、向こうの世界のお母さんだとすれば、あれはこちらの世界に来た妖精が、一番注意すべき存在だって。
 決して逆らってはいけない、ありとあらゆる花を制する大妖怪なんだって。

 その名は、

「花の魔王……」
「それは私の名前じゃないわ。まぁ妖精に名前を名乗ったこともないけど」
 
 白い傘の縁が持ち上がり、ようやく、その奥の素顔が見えました。

「だから、これが初めての機会になるわね。カザミユウカ。それが私の名前」

 カザミユウカ……。私は口の中で繰り返しました。

 妖精の私には、どんな字でその名前を書くのか、分かりません。
 どんな意味が込められているのかも、分かりません。
 でも、きっとこれだけは合ってる。
 カザミっていう名前には、風という字が含まれてるんだわ。
 
 春と夏。忘れていた季節の風を頬に感じながら、私はそんなことを思ってました。






 ◆◇◆






 ついこの間まで、秋の散歩の時間は、私の大好きな時間でした。
 静かで色鮮やかな世界に隠れた、小さくて色々な季節の印。それを見つけるのが楽しみだったのです。
 でもチルノちゃんが静かなことが苦手。だから私はいつしか、散歩というのは一人でするのが当たり前だという気持ちになってました。
 それがまさか今日、出会ったばかりの妖怪さんと散歩することになるとは思いませんでしたけれど。

「妖精に名乗ったのも初めてだけど、散歩するのも初めて」

 と、風見さんも言います。
 彼女の歩き方は、とてもゆっくり。妖精の私でも疲れずについていけるペースでした。
 でもその靴は、石や土を選ぶように踏んでいて、落ち葉であっても足を載せるのを避けているように見えます。
 すごく上品な足取りです、が……。
 
「そもそも、最後に誰かと散歩したのはいつだったかしら。目につくものを手あたり次第苛めて歩いたことはあったけど、あれも誰かと散歩したことになるのかしら」
「……………………」

 私はさっきからこんな風に、風見さんの怖い独り言のようなものを聞くだけで、一言も自分から話せずにいました。

 妖怪さんのことについては、よくわかりませんけれど、花のことならよくわかります。
 その花がいつ頃咲いたのか、元気なのか、どれくらい強い命を持っているのか。
 花の妖精はそんな風に、花を見ることによって色々なことが自然とわかるのです。
 そして、風見さんという『花』を間近で見た時から、そのスケールの大きさに、私は圧倒されっぱなしでした。

 根ではなく、靴を履いたその足は、私たちの歩く道だけじゃなくて、この世の全ての土を従えているようです。
 そして隣を見上げると、遠くの雲と重なっているだけなのに、雲を下から押し上げているようにも見えます。
 あまりの存在の大きさに、怖いとか逃げようとか、そういう気持ちも起こりません。
 こういう感情を、なんと言えばいいんでしょう。慧音先生に聞けば、教えてくれるかも。

「どうして……」

 と呟くと、風見さんが、わずかに顔を傾けたので、私は慌てて顔を下に向けました。

「それは一体、どの『どうして?』なのかしらね」

 き、聞きたいことは、さっきからたくさんあるんです。

 どうしてあの花のことを知ってるんですか。
 どうして私を助けてくれたんですか。
 どうして私と一緒に散歩することにしたんですか。
 それと、一体どこに向かってるんですか。私をどうする気ですか。

 でも質問はぐるぐると頭を駆け巡るだけで、一つも口の外に出てきてくれませんでした。
 隣から見つめられ、頬が熱くなるばかり。

「どの『どうして』か分からないけれど……そうね。どうして、貴方のことを知っているのかというと」

 風見さんは顔を戻して、また歩き始めながら言いました。

「貴方がこの世に生まれる前から、私はあの花を知っていた。それだけのことよ」

 それは意外な答えでした。
 だって、あのスイートピーは、見つけようと思っても見つけられない場所に咲いていましたし、私自身が長い間知らないままだったんですから。
 でもたぶん、本当なんでしょう。
 風見さんは私よりもずっと長く生きていて、この世界の花にもずっと詳しいのでしょうし。

「さっきは……どうして私を助けてくれたんですか?」

 今度は私は、ちゃんと自分から質問できました。
 風見さんは独り言のように答えます。

「秋の妖精が苛めている。その相手は、たった一輪の春の花。不公平だけど当たり前。だって、春の花なのに秋に咲いてるのだから」
「……………………」
「でもそんな春の花の方が戦いで生き残ったとしたら、ちょっと面白いでしょう。当たり前のことは大事だけど、それよりちょっと面白いことがあれば、そちらに風を吹かせる。それが私の生き方なの」
「じゃあ、どうして……」
「待ちなさい。貴方ばかり聞くのは公平じゃないわよ。次は私の番」

 私はしゃっくりと一緒に質問を呑みこみました。
 こうして歩いている間、そして話している間も、風見さんはずっと笑顔のままです。
 だからこそ、その奥でどんなことを考えているのか、全然読み取ることができません。
 一体、何を聞かれるのでしょう。

「そうね。まずは、貴方の好きな花とか」
「す、好きな花ですか」

 なんだか予想していたよりも、ずっと答えやすい質問でした。
 
「私は、花はどれも好きです。一番は、私を呼び出してくれたスイートピーですけど……」
「そう。わかりやすい妖精だこと。それとも妖精だから単純なのかしら」

 言われて私はまた恥ずかしくなり、足下に視線を落としました。
 妖精は単純です。だから私の答えが単純なのも、きっと自然なことです。そんな言い訳を胸の中にしまいます。
 だったら、風見さんが気に入る花は、一体どんな花なんでしょう。 
 そんな私の心の声が聞こえたのかどうか分かりませんが、

「私も、花なら何でも好きよ。優しい子も、意地悪な子も。賑やかに咲く子も、寂しく咲く子も」

 そう言って彼女は、形のよいあごを、わずかに持ち上げました。

「最近のお気に入りはあの子たちかしら。見えるでしょう」

 道の先に『あの子たち』が見えてきて、私は思わず自分の目をこすりました。
 ウソ。私はその花を知ってますけど、どうして。

 見間違いかと思ったけれど、近くまで来てみると、それはやっぱり思った通りの花でした。

「ヒマワリさんが、こんな時期に……」

 そう、秋になって全部枯れてしまったはずの、ヒマワリさんがいっぱい咲いていたのです。
 そして、そのヒマワリさんたちは、ちょっと変わってました。
 大きいものもあったり、小さいものもあったり。高いのも低いのも、縦に咲いたのも平べったいのも。
 お日様の方を向いているものはほとんどなくて、みんなバラバラの形です。

「そっちの子に座って」

 風見さんが示したヒマワリさんは、ジャンボサイズの平べったいのでした。
 確かに椅子にはちょうどいい大きさと形だけれど、お花に座ったことなんて一度もありません。
 何だかちょっと、悪いことをしてる気分。

「これを飲んで」

 一体どこから取り出したのか、風見さんは湯気の立つティーカップをお皿に載せて差し出してきます。
 逆らえそうにありませんでしたので、私はカップ受け取り、口をつけて飲みました。

 あ、美味しい。
 とても爽やかな口当たりです。種類はわからないけれど、花の香りがふんわりと広がります。
 やっと一息つけた気分でいると、クスクスという声がしました。

「ああ、愉しい眺めだわ」

 視線を持ち上げると、風見さんが笑っていて、

「春の妖精が、夏の花に腰かけ、秋のお茶を口にする。こんな光景、滅多に見られるものじゃない」

 そんなことを、口ずさむように言います。
 私はカップを持ったまま、もしかして、と思ってたずねました。

「それが見たくて、私を連れてきたんですか?」
「ええ。これが見たくて貴方を連れてきたの。お茶を飲み終えたら、もう帰ってもいいわよ。カップはその子に渡して」

 そして風見さんは、本当に私を無視するかのように目を閉じて、黙ってお茶を飲み始めました。

「………………」

 私はカップを手にしたまま、困惑してしまいました。
 帰ってもいいわよって……そんな変てこな話があるでしょうか。
 というか、私を助けてくれた理由もそうですけど、この妖怪さんの行動、出会ってからずっと気まぐれっぽいような……。
 これがいつもの調子だとすれば、なんというか、ものすごく自分勝手な妖怪さんです。
 まさか、チルノちゃんよりもマイペースな人がいるなんて思いませんでした。

 お茶を飲み終えた私は、言われた通りに、動くヒマワリさんにカップを預けて、 

「……ごちそうさまでした。それじゃあ、さようなら」
「あら、本当に帰っちゃうのね」
「はい、ありがとうございました」

 素直に帰してもらえるなら帰った方がいいでしょう。
 この妖怪さんは、とても強くて危険な妖怪だと聞いてますし、気まぐれで大変な目にあわされては敵いません。
 それに、今日は他に考えなきゃいけないことがたくさんあって、


「聞きたくないわけ? この世界に留まる方法」


 何気ないその一言は、魔法の森のツタみたいに、私に絡まりました。
 風見さんは、硬直している私が見えてないようなそぶりで、穏やかに語ります。

「春の妖精、夏の花、秋のお茶。そして……もうすぐ冬はやってくるわ」

 冬。それは噂でしか聞いたことがなく、まだ私の見たことのない季節。
 黄色い夏の花に腰かける妖怪さんは、その季節のことをよく知っているようでした。

「草木は眠りに就き、あらゆる花が散ってしまう。中には温かい場所に健気に咲く子もいるけれど、それもほんのわずか。貴方をこの世界に繋ぎ止めている、あのスイートピーは到底耐えられないでしょうね」

 ぽたりぽたりと、毒草の汁が飲み水の中に一滴ずつ足されるように、風見さんの言葉は私の心を濁らせていきます。
 遠くを向いていた赤い二つの瞳が、再びこちらを見ました。

「どうしたの? 帰るのではなかったの?」
「お願いします」

 私は絡んだツタにしがみつくような思いで、そう頼んでいました。
 いつの間にか、ここから去ろうという気持ちも変わってました。
 絶対に帰らない、っていう気持ちに。

「もし知ってるなら、教えてください。冬が来ても、私がこの世界に残ることができる方法があるなら」

 私は噂でしか、あの季節を知りません。
 でも今までに聞いた噂の半分でも本当なら、あのスイートピーの花が散り、私がこの世界から消えてしまうのは間違いないでしょう。
 だけど目の前にいるのは、四季を通じて枯れることのない花。
 アドバイスをもらうのに、きっと一番いい相手のはずです。

「ふぅん……」

 風見さんはごく自然な仕草で自分の膝の上に肘をつき、手にそっとあごを載せました。
 それから、私の顔を覗き込んで観察するように、顔を傾けて、

「花は与えられた環境に物申す事はない。己のもてる力を尽くし、ひたむきにその場所で咲くことを考える。それが花の生き様よ」
「…………はい」
「なのに、貴方は自らの境遇を変えようとしている。この世の理に、刃向かおうとしている。そういうことかしら?」

 こくり、と私はうなずきました。
 自分より遥かに強い花の大先輩に、厳しく叱られることも覚悟して。
 ところが、


「いいわ……とてもいい……」


 背筋が寒くなります。
 すぐ側にある笑顔が、何だか舌なめずりしているようにも見えたので。
 生温かい妖気を首筋に感じながら、私はこわごわと尋ねていました。

「……私が冬になっても消えない方法……本当にあるんですか」
「そうね。たとえば、冬が来ないようにするとか。どうかしら」
「そ、そんなことできるんですか」
「さてね。私は知らないわ。季節の移ろう力は強大よ。私の力をもってしても、追い返すことはできない。あれは本当に、とてつもなく大きくて強い力」

 と言ってから、風見さんは小さく笑い声を立てて、

「でも私は、冬になっても枯れはしない。これじゃあ冬と私の、どちらが強いのか分からないわね」
「………………」
「そう間の抜けた顔をしなさんな。ヒントをあげる。それは私たちが座っている、このお花」

 それは……ヒマワリさんです。
 夏に咲く、夏らしい黄色い花。お日様の下で、お日様の光を浴びて、力強く夏を歌う王様みたいな花。
 スイートピーみたいなこじんまりとした花からすると、何だか気後れしてしまって、つい「さん」を付けて呼んじゃう花。
 でも、こんなに強い生命を持つ花でも、季節が過ぎれば枯れてしまうのです。
 それはどんな花でも逆らうことのできない、自然の理で……。

 あれ? でも、どうして今ここでは咲いてるのかしら。

 考え込む私の姿を、風見さんはじっと見つめています。

 花の大妖怪。
 唐突に、私はその意味を理解できました。

「貴方が……咲かせてるんですね。貴方の力で、この花は……」
「そうよ。私の力」
「じゃあ……!?」

 五日前からずっと心を縛り付けていたものが、どこかに吹き飛んだ気がしました。
 ヒマワリからヒマワリへと、飛びつきたくなるような気持ちで、私は尋ねていました。

「じゃあ! 私のスイートピーも! 咲き続けることができるんですか!? 貴方の力で!?」

 もしそうなら、普通の妖精の私でも、いつまでもこの世界にいられます!
 記憶を失って消えることなく、これからもずっと、チルノちゃんといられるのです!
 ついに、ついに見つけました! 出会うことができました!
 私がこの世界でずっと生きていく道と、その道を照らしてくれる誰かを!

 風見さんは素敵な微笑を浮かべたまま、うなずきました。
 それから、私の方に指を二本立て、ピースします。

「ピースじゃないわよ。こんな風に貴方の両目をつぶそうとしてるわけでもない」
「ひぃっ」

 伸びてきた二本指から、慌てて私は後ずさりしました。
 寝かせていたピースサインを、風見さんはもう一度立てて見せ、

「これはね。貴方の願いを叶えるためには、二つの条件があるという意味」
「二つの条件……」
「そう。まずは一つ目。貴方が知っておかねばならないこと」

 風見さんの手の形が、チョキからパーに変わります。
 その手のひらから、緑色に光るシャボン玉のようなものがぽわぽわと生まれました。  

「私は確かに、花に力を与えることで、咲かせ続けることができるわ」

 開いた手に、ふっと息が吹きかけられます。
 すると緑の泡が音もなく広がって、私たちの周りに咲くヒマワリさんに降り注ぎました。

 それからは、まばたきするごとに、別の日のお花畑を見るようでした。 
 エネルギーをたっぷり含んだ光る雨を与えられた花が、見る見るうちに瑞々しい色合いになっていきます。
 植物の緩やかな成長に慣れている私には、信じられないくらい急激で、想像した以上の変わり様です。
 これが風見さんの力。花の魔王と呼ばれている理由もわかります。
 だけど、

「そう。気づいたでしょう? 私の力を受けた花は、決して元気になるだけではない」
「はい」

 きっと花の妖精じゃないと、わからないくらいの変化でしょうけど、風見さんの力をもらった花は、それまでとは雰囲気が違っていました。
 色は同じで、形だってそう変わりはないのに、その中を巡ってる気のようなものが全然別物なのです。
 花というよりは、まるで小さな妖怪さんのようでもあります。そしてこれではおそらく、花が咲いたとしても、そこから妖精が生まれることはないでしょう。

「だから、あのスイートピーに力を注げば、依代にしている貴方も、今とは違う存在になる可能性がある。妖精とは異なるもの、妖怪となる可能性がね」
「妖精から、妖怪に……」

 その時、慧音先生の警告が頭に閃きました。
 別の存在になれば、姿だけではなく、元の自分の心すらも変わってしまうかもしれない。
 そして、後戻りしたくてもできない。試練はその後も続く。
 あの時の先生の言葉に含まれた思いやりの気持ちを、私は忘れていません。
 だけど、

「それでも……この世界にいられなくなるよりは、ましなんじゃないかって思うんです」

 だって、私が向こうの世界に還ってしまえば、『大ちゃん』が消えてしまうのは同じことです。
 今までの大切な思い出も全部忘れてしまい、長い年月が経ってこちらに戻ってきても、別の妖精になっていて、何一つ覚えていない。
 それなら、むしろ妖怪の方がいい。それに、そっちの方が都合がいいかもしれない。
 普通の妖精が大嫌いなチルノちゃんは、きっとただの花の妖精となんて一緒にいたいと思わないでしょう。
 『大ちゃん』は、もっと強くて、大きくて、すごい存在であってほしいって、そう思っているのですから。

「そう。なら別にいいけど、二つ目の条件は、もっと大変よ」

 風見さんの言葉に、私はごくりと喉を鳴らしました。
 妖精じゃなくなってしまうよりも、もっと大変な条件。それは一体何でしょう?



「それはね。今ここで私に、『ライバル』としての力を証明してみせること」



 怖がる準備も、万が一喜ぶ準備もしてました。
 ですが、全く理解できないのは予想してませんでした。
 らいばるとしてのちからをしょうめいしてみせる。
 ど、どういう意味なの?

「よく聞こえなかったのならもう一度言うわ。今ここで、私のライバルとして相応しい力を見せなさい」
 
 風見さんは全く同じトーンで繰り返します。
 動揺する私は、真剣に考え始めました。

 ライバル。その言葉の意味まではちゃんと説明できませんが、一応なんとなくわかります。
 たとえば、チルノちゃんにはライバルがたくさんいます。
 空を飛んでるワシさんだったり、人里に住んでるワンちゃんだったり。
 あと妖怪の山に住んでる妖怪さんも、湖の水のような自然のものだって、全部ライバルだそうです。
 だからチルノちゃんの毎日は、いつもライバルとの闘いの日々です。

 それじゃあ、風見さんのライバルは?
 この幻想郷で一番強くて、一番恐ろしい妖怪の一人の、花の魔王って呼ばれてる人のライバル……。
 全く想像がつきません。
 そんなライバルになるのが、私を助けてくれる条件?
 つまり、ええと、私が風見さんと毎日闘うような存在に……。

 ようやく頭が整理できてから、私はヒマワリさんの後ろにひっくり返りそうな気持ちで首を振りました。

「む、無理です!」
「無理じゃないわ。私をがっかりさせないでちょうだい」
「だ、だって、私は妖怪でもなんでもない、ただの妖精で……!」
「ただの妖精なわけないでしょう。春が終わっても散らない花から生まれて、群れを作らずに、妖怪やら人間やらと知り合う妖精が、ただの妖精なものですか」

 た、確かに私は、もう普通の妖精の生き方をしていません。
 そして昔、仲間の子にもよく言われました。
 妖精にしては物をよく考える。妖精にしてはちょっと大人しい。
 妖精にしては難しい言葉を使おうとする。妖精にしてはイタズラに興味を示さない。
 そんなちょっと変わった妖精だって。

 でも私の力は本当に、ただの花の妖精程度でしかないのです。

「さぁ、私に貴方の正体を見せてみせなさい」

 風見さんが、ヒマワリさんから腰を浮かし、傘の先をこちらに向けました。

「どんな手を使っても構わないわ。貴方の強さを、遠慮なく私にぶつけてきなさい。それで私を満足させたのなら、願いを叶えてあげる」

 立ち上がるその姿が、何十倍にも大きく見えます。
 全身から立ち上る妖気が、目に見えるくらい濃くて、空まで暗くなっていくみたい。
 見据えられるだけで、息が止まりそうになり、私の体は枯れ木みたいに固まってしまいました。

「た、助けて……」

 喉も震えて、喘ぐことしかできません。
 さっき秋の妖精に捕まっていた時よりも、今はずっとずっとピンチです。
 そしてついに……


 風見さんのプレッシャーが、爆発するみたいに広がりました。
 それと共に、さっき妖精たちに囲まれていた時に感じた、あの光が膨れ上がりました。

 ありとあらゆる、大自然のパワーのイメージが、私に襲い掛かります。

 茨を体に巻き付け、振り回しながら進む竜巻の群れ……。

 森を根こそぎ焼き尽くす、雷を千本束ねた鞭……!

 山のてっぺんに落ちて、まっしぐらに転がってくる、お日様の破片!

 地平線を水平線に変えてしまう程の大洪水!!

 それらのイメージが一斉に、私の方に迫ってきて……!!!

「きゃあああああ――!!」

 私は叫んで両腕で身をかばい、目を固く閉じました。




 ◆◇◆




 目覚めた時、私はきっと、妖精の世界が目の前に広がっているのだと信じてました。
 風見さんの強烈な光を浴びて、跡形もなく消滅してしまい、こちらの世界に還ってきたのだろうと。

 ところが、瞼を開けると、そこには全く変わらない、平和なヒマワリ畑の光景がありました。
 そして風見さんは、ヒマワリさんの一つに腰かけ、カップに口をつけています。
 あんなに濃く広がっていた妖気も、まるで全てが夢だったかのようになくなっていて、爽やかな風が吹いていました。

「……またハズレ……つまらない」

 風見さんは独り言のように呟きました。
 その顔は、もう笑ってません。ただ、怒っているという風でもありません。
 あれ? 何だかどこかで見たことのある顔です。どこだったっけ? ずっと前に見た気がするんだけど……。

「久しぶりにチャンスが巡ってきたと思ったのに、上手くいかないものね。私のライバルはどこにいるのかしら」

 ため息を吐く風見さんを見て、私はだんだんと申し訳なくなってきました。
 どうやら私は、風見さんの期待を裏切ってしまったみたいです。
 でもライバルなんて無理無理無理。本物のだいだらぼっちの妖精でもなければ、つとまらない気がします。
 ただ何だか意外でした。

「風見さんは、もう最強なのに、ライバルが欲しいんですか?」
「最強? 私が? どうしてそう思ったの?」
「え……だって、そう噂で聞いてますし……」
「別に最強を名乗った覚えはないわ。ただ、私以外の奴が最強を名乗っていたら、ムカムカするけど」
「そ、そうですか……ムカムカするんですか……」

 こんなに妖精に理解できない気持ちもそうはないでしょう。
 だって、もし自分より強い人にムカムカしていたら、私なんて毎日が大変です。
 ムカムカの妖精になってしまいます。

「ライバルが欲しくなったのはね。張り合いがなくったからよ。鬼がいたころは退屈しなかったわ。実力は申し分ないし、いつだってケンカに飢えてるし」

 風見さんは身を後ろに投げ出して、ヒマワリさんの椅子に寝そべり始めました。
 こんなに強い妖怪さんもこんな仕草をするんだ、と私は意外な気持ちで見ていました。

「世界が鬼と花だけだったら、この幻想郷もきっと素晴らしかったでしょうね。でもあいつらが去ってから、ここは強者の砂漠。天狗は山を城ではなく、ビニールハウスと思ってる。スキマはあくまで静観。その式は私を避けている。巫女は生きながら人柱となり、他の英雄達も今はどこに消えたのやら。外から新しい挑戦者でも来なければ、退屈で今度こそ枯れるかもしれない。可哀想な私」
「……………………」
「そして、ようやくライバルになる存在が現れたかと思えば、秋の雑魚妖精の落とし穴に引っかかって、消されようとしている始末。あまりにも情けなくて涙が出そう。ユウカ泣いちゃう。泣いたことなんてないけど」

 黙って聞いていた私は、きょとんとなります。
 秋の妖精の落とし穴に引っかかって……ということはたぶん、私のことを言ってるのでしょう。
 っていうことは、風見さんは私をライバルにしたいんじゃなくて、本気でライバルだと思ってたってこと?
 でも私は……

「私は、たまたま散らない花から生まれた、ただの妖精です。風見さんみたいな強い花じゃありません」
「そうね。よくわかったわ。特別な花だけど、強い花じゃないってことは」

 風見さんの姿勢が、ますますだらしなくなります。
 ヒマワリさんに頬杖をつきながら、ごろんと横になり、こちらを細い目で見て、

「四季を通じて咲き続ける花のライバルになるとすれば……偶然『四季』のぬけがらに守られて咲いた花じゃないかと思ったのに……」
「………………」
「まぁいいか。こんなこと貴方に説明したって、意味がないでしょうから」
「はぁ」
「はぁじゃないわよ。ねぇ、ただの妖精でしかない貴方。最強って何かわかるかしら」
「えっ、それは……一番強いことだと思いますけど」
「そんなことはわかってるわ。バカにしてるわけ?」
「ひっ、ごめんなさい」

 私はすぐに謝ります。
 けど、ただの妖精でしかない私に、そんなことを尋ねられたって困ります。
 今度は気まぐれでイジワルされてるのでしょうか。

「じゃあちょっと質問を変えるわね。最強の花、ってどういうことだと思う?」

 最強の花と呼ばれてる妖怪さんに、そんな質問をされても、やっぱり困ります。
 もちろん、正直に言い返したりなんてできませんが……。
 ちゃんと答えないと無事に帰してもらえない雰囲気でしたし、それに今となっては、風見さんの能力だけが私の頼りです。
 なので私は、何とか気に入られるために、真剣に考えてみることにしました。

 最強の花。一番強い花。それはどんな相手でもやっつけてしまう花のことでしょうか? 風見さんみたいに。
 でもそれは、私の知っている花のイメージとは全然違います。
 私たち妖精の間で、強い花というのがどういうものを意味するかといえば……

「ずっと、何があっても、いつまでも咲いている花です」
「その通り。花が意味する最強は、何があっても最後まで咲き続けている花に他ならない」

 正解だったようで、私はホッとしました。
 でも風見さんの話はまだまだ続きます。

「私は、花の強さこそが、真の強さだと信じている。そして、かつてのこの世界は、それを証明するのにもってこいの場所だった。本物の最強となるためには、最強と呼ばれる存在を残らず屈伏させなければいけない。最強の存在が集まる幻想郷で、あらゆるライバルを亡ぼし、『最後の一人』になった時、私はようやく満足できるはずだった。最強の花である私こそが、真の最強と呼べる存在だとね」
「……………………」

 なんだか、内容もそうですけど、最強という言葉がたくさん出てきて、慧音先生の話よりも頭がくらくらしてきます。
 私には到底縁のなさそうな、途方もない道のりです。
 妖精の知らない世界で、そんな競争が行われているとは夢にも思いませんでした。

 けれど、風見さんの話を聞きながら、私は友達の妖精のことを考えていました。
 チルノちゃんも、自分のことを最強だと言っている子です。そして私の中では、間違いなく最強の妖精です。
 だからきっと、その最強を決める長い戦いに、チルノちゃんも参加したがることでしょう。
 そして願いが叶えば……ただ一人残った最強のチルノちゃんが……。

 その光景を想像した途端、私の中に何かすごい感情が駆け巡りました。

 風見さんの言うように、周りの存在を全部倒して、最強になったチルノちゃん。
 それで彼女が、最後にたった一匹だけ残った妖精になったとしたら。
 ダ、ダメです! よくわからないけど!

「そんなの絶対ダメ!!」

 私は思わず叫んでいました。
 周りに咲いてるヒマワリさんが、一斉にこちらを向きます。
 慌てて私は自分の口に手を当てました。
 けど……遅かったようです。

「何が、絶対、ダメなのかしら?」

 寝ている風見さんの真っ赤な視線が、正面に座る私を射抜きました。
 今度は間違いなく、私に対して機嫌を悪くしています。
 まるで火のついた剣で刺されてるみたいです。
 変なことを言ったら、次こそ本気で消されてしまうかも。
 
「さ、最強は……」

 でも私は、泣き出したい気持ちをこらえて、滝の底に飛び込む気持ちで訴えました。

「最強なだけじゃ満足できないと思います。つまんないと思います」
「は?」
「ひ、ひとりじゃない最強の方が、絶対いいと思います!」

 言えました。
 別に強くなることが悪いことだとは思いません。
 私は妖精に生まれて、チルノちゃんと一緒に行動するようになってから、自分の弱さにがっかりすることがいっぱいありました。
 なので今でも、強い存在に憧れてはいます。けど、最強だけど周りに誰もいないなんて、そんなの嫌。
 一人になっちゃうくらいなら、むしろ弱いままでいたい。強いだけなんて、絶対不幸せです。

 体を起こした風見さんは、眉をひそめて、

「ちょっと落ち着いて、話を整理してみましょうか。私は、私より強いやつがいるとムカムカする。けど最近は、強いやつが自ら戦おうとしなくてイライラする。そんな時に貴方というライバルが見つかった気がしたけど、期待はずれにも程があった。ここまでは、いいかしら?」
「は、はい」

 何がいいのかわからなかったけれど、今話してる問題はそこじゃなかったので、私はうなずきました。

「そして貴方は、最強なだけなのはつまらないと言う。なぜ、そう思うの?」
「ええと、ひとりだから、だと思います、たぶん」
「ひとりじゃない最強、ってどういう意味? 弱くなれば群れを作り、強くなるにつれて仲間は減っていき、一人になる。やがては対決する敵も減っていき、敵味方も含めて真の一人となる。このシンプルなゲームに、他に考慮すべきルールなんてないと思うのだけど」
「ええっと、あ、あの」
「教えてちょうだい。貴方の言うつまらなくない最強っていうのを」
「つ、つまり、なんていうか、私が考えたのは……」

 大慌てで口が回りません。
 そもそも、なんで私はさっきあんなことを言い出したのでしょうか。
 確か、チルノちゃんが風見さんの言う最強になった時を想像して……。

 ……そうだ、やっと思い出せました。
 風見さんのさっきの顔は、昔のチルノちゃんの顔とそっくりだったんです。
 私が仲良くなる前に、湖で一人で遊んでる時に見た、あの寂しそうなつまらなそうな表情に、よく似ていたんです。

 でもチルノちゃんはいつも一人なわけじゃないし、色んな友達だけじゃなくて、色んなライバルがいます。
 それに、私といる時には、あんなつまらなそうな顔はしないでいてくれます。
 私はチルノちゃんに、もし仮に最強になったとしても、色んな友達に囲まれながら「はっはっはー」と自慢げに笑っていてほしい。
 最強の一人ぼっちになって、あの時のような寂しげな顔をして過ごすチルノちゃんは、想像するだけで辛い。
 だから……。

「私の好きな最強は……」

 真剣に私を見つめる風見さんに、私も真剣に伝えました。
 心に浮かんだイメージを、そのままに。

「友達がたくさんいて、ライバルもたくさんいて、その中で一番強く光って、咲き続ける『花』です」
「………………」

 しばらく、無言の時間が続きました。
 私はだんだんと、顔が熱くなってきて、すごく謝りたくなってきました。

 ああ、やっぱり妖精なんて、妖怪さんからしてみれば単純な答えしか思いつけないのでしょう。
 強くもなく、知恵もないのに、余計なことを言ってしまった自分を、私は後悔しました。
 これでまたさらに機嫌を悪くされてしまってはたまりません。
 でも、

「友達がたくさんいて、ライバルもたくさんいて、その中で一番強く光って、咲き続ける花……」

 そう呟く風見さんは、私の言ったことを、意外と真剣に考えてくれているようでした。

「不思議な言葉だわ……でもなぜか懐かしい……」

 彼女は目を閉じて、風の音を聞くように顔を傾け、

「そうか……私はもしかしたら、ずっと理想の中にいたのかも……花に囲まれて、ライバルに不自由せずに、一番強く光って、咲き続けていた……あの時代が……私はずっと恋しかったのかも……」

 それから、風見さんは黙ってしまいました。
 次にその口が開くとき、一体どんな言葉が出てくるのか。
 私はドキドキしながら見守っていました。
 そうしたら、

「貴方の考えはよくわかったわ。だったら……貴方は私のライバルじゃなくて……」

 ひょい、とカザミさんが頭を持ち上げて、私を見つめます。


「私の友達になってくれる?」


 そんな風に言われたから、もう本当にびっくり!

 こんなに強くてすごいお花の妖怪さんが、私の友達になってくれるなら、大歓迎です!
 そうすれば、あの散りかけたスイートピーの花にも、力を分けてくれるはず!
 それにお花の大先輩である風見さんは、これからも私に大事なことをたくさん教えてくれるに違いありません!
 なんて素敵なお誘いでしょうか!

「はい! もちろん! いいんですか!?」


「いいわけないでしょう」


 魔王は私の希望を真っ二つにへし折りました。

「友達はもう十分足りてる。貴方がお尻にしいているのも含めて、花はみんなお友達。今の私に新たに必要なのは、ライバルのみ。条件を自分の都合のいいように変えようとしたって、そうはいかないわ」
「そ、そんなつもりじゃ」
「黙りなさい」

 彼女はきっぱりと言って、ヒマワリさんから腰を上げ、再び私の前に立ちはだかりました。
 らんらんと輝く赤い目が、私を見下ろしています。

「なぜ花がお友達として優れているか、わかるかしら? この子たちは相手がどれだけ強くても、逃げたりしない。優しくしても付け上がったりせず、常におしとやか。だから私は、この子たちさえいれば十分。怯えて腰を抜かしている貴方は、友達としてもライバルとしても、相応しくない」
「………………!」
「貴方が望みを叶えたいなら、この私に貴方の強さを認めさせることね。ただし、また臆病な態度をとるなら、今度は容赦なく滅ぼす」

 風見さんの声が正面からだけでなく、周りに咲くヒマワリさんの間でも反響したように聞こえました。
 耳の奥まで響き、体の芯まで届くような声です。
 そして、なんという迫力でしょうか。
 まるで、世界中の花を一つに集めた、空のてっぺんまで届くほどの樹を前にしてるみたい。
 肌がピリピリと痺れ、皮がはがれ落ちちゃうんじゃないかと思うくらい痛い。

「ご、ごめんなさい。許してください」
「いくら涙をこぼしても、時間が巻き戻ることはないわよ。冬はもうすぐやってくる。それは貴方が思うよりも、遥かに厳しい強敵。それを乗り越えようとしているのではなかったの?」

 風見さんの声が、さらに私を厳しく打ちます。
 それは稲光と共に降り注ぐ、横殴りの雨のようでした。

「いつまで逃げるつもりなの。いつまで隠れるつもりなの。この季節まで生きた特別な花だというのに、その弱さが気にいらない。花なら花らしく、精一杯根を下ろして、己の生きる道を示してみせなさい。この世界のルールを、ぶっ潰すくらいの根性で」
「………………!」

 その言葉で、私の背中の羽に不思議な力が宿りました。
 後ろに傾いていた地面が、真っ直ぐ、水平になりました。

「もう逃げるのはやめなさい。隠れるのも止めなさい。花は逃げない。そして影ではなく、光を目指す。貴方のどこまでも伸びていく気持ちを、偽りや恐怖で覆い隠すことなく、真っ直ぐに貫きなさい。それこそが……」

 花の奥義。
 風見さんの言葉は、私の魂まで届きました。
 その短い時間、確かに私の中の自分のイメージは、風見さんの持つ高大な妖気と並び立っていました。

 そうです。私はちゃんとわかってなかった。
 私は、風見さんと同じかそれよりも強い、季節の力に立ち向かおうとしていたのです。
 それがどれだけ不自然なことで、どれだけ危険なことなのか、妖精だからこそわかります。

 でも、私は妖精だけど、ただの妖精じゃない。
 今までだって、普通の妖精には絶対できないことをしてきた。
 それはいつも、私の前を行く氷の羽が、私を引っ張ってくれたから。
 私はチルノちゃんみたいになりたい。だから挑戦しなきゃ。チルノちゃんみたいに。 
 相手を、風見さんを私のライバルだと思って、全力でぶつかってみなきゃ。

「行きます! これから、私の全てを出し切ります!」
「そう。なら私も、本気を出させてもらうわ」

 風見さんが、両腕を軽く左右に広げました。
 それだけで、開けてはいけない魔界に通じる扉が開いたような、物凄い妖気があふれ出しました。

「貴方の思いの力を見せつけなさい、スイートピーの子」
「はいっ!」

 一瞬でもためらえば、二度と先へは進めない。
 そう感じた私は、自分こそが最強の花になったつもりで、地面を蹴りました。

 気持ちの弓を引きしぼり、叫び声を上げながら、待ち受ける風見さんへ。
 締め付けられるような濃い妖気の中、たった数歩進むだけでも、大変なプレッシャーでした。

 今までの記憶が、頭の中を流れていきます。
 妖精として生まれた時のこと。春の花の仲間と共に過ごしたこと。
 独りになって、チルノちゃんと出会ったこと。山を二人で冒険したこと。
 お星さまになったミチバーを見上げて、ダンスをしたこと。
 そして、今日のいくつもの出会い。
 全部、私を普通の妖精から、それ以上の妖精にしてくれた思い出。

 その気持ちを胸に抱いて、私はライバルにぶつかっていきました。

 そして、

「……………………」

 私の意気地は、ぶつかった瞬間、あっという間に全部消えてしまいました。
 向かい合ってる時よりも、触れた時の方が、もっと風見さんの力がよくわかった。
 岩みたいに硬くはないけど、まるで、世界の果てまで広がる壁にぶつかったみたい。
 本当に、どれだけ力の差があるかもわからない、絶望したくなる程の強さ。

 けど、もっと悲しかったのは、自分の弱さ。

「うっ…………」

 思わず涙がこぼれそうになるほど、弱々しい力。
 こんな勢いじゃ、同じ妖精の子にだってあしらわれてしまうでしょう。風見さんが納得してくれるわけがありません。
 でも、あちら側の世界に呼ばれ続けて、もう私にはこんな力しか残ってなくて……。






 バゴォォォォォォォオオオオオオオオオオ――――!!!


 と、目の前で、爆発するような音と風が同時に起こりました。

「きゃー」

 風見さんの姿が、突風と共に消えます。
 その体は物凄い勢いで光の線を描きながら昇っていきます。
 上へと。どんどん上へと。

 勢いに押されて飛ばされちゃってた私は、背後にあったヒマワリさんに受け止められてました。
 そして、空の彼方に向かって吹っ飛んでいく風見さんの姿を、開きっぱなしの目で見ていました。

 ついに風見さんの体は、雲を貫き、灰色だった空の中心に真っ青な大穴を開けてしまいました。
 それだけでも信じられない光景だったのに、もっとすごいことが起こり始めました。
 雲全体が渦を巻いています。
 同じサイズの風車が裏で回転しているみたいに、すごいスピードでぐるぐる回ってます。
 こんな空、見たことがありません。これが天気だとすれば、一体なんて名前がつくのでしょう。ぐるぐる曇り?
 地上でごうごうと、嵐のような激しい風が起こって、大きなヒマワリさんも同じ方向に傾きました。
 私は地面にしがみつきながら、何とか飛ばされないように頑張って、頭上の光景を見続けてました。

 突然、渦巻きの空に光の根が走りました。
 直後に大爆発。本物のだいだらぼっちが叫んだような、太い音が響き渡りました。
 その輝きは、私が妖精に囲まれた時に見たあの光と同じで、それよりもずっとすごいエネルギーでした。
 



 ……音が遠くまで去ってから、私は固くつむっていた瞼を開きました。
 う、ウソみたい。空がグレーからブルーに変わってます。
 あれだけあった雲が、全て消えてるんです。
 どこまでも澄み渡るブルーの中で、どんな星よりも明るい丸だけが、大地を照らしていました。
 光を恋しがっていた花たちの、喜びの声が周りから聴こえてきました。

 茫然として見上げていると、何かが落ちてきます。
 風見さんです。風見さんが逆さまに落ちてきます。
 大変。

「風見さん!」

 私は思わず立ち上がり、受け止めようと――できるはずがなくても、自然とそうしようと走り出していました。
 けど風見さんの体が地面に激突する寸前。
 地上の原っぱに、大きくて平べったいヒマワリさんが、突然咲きました。
 
 その上で、風見さんの体はポーンポンと二回バウンドして、動かなくなりました。
 私は駆け寄って、声をかけます。

「だ、大丈夫ですか……?」
「……………………」

 風見さんは大の字になって、無表情で空を見上げてました。
 髪の毛はくしゃくしゃに乱れていて、服もボロボロです。
 そして、

「さすがは私のライバル」

 と棒読みで言ったので、私は目をぱちくりとさせました。

「いい勝負だった。負けたからには、私は貴方のいう事を聞かないといけないわね」
「え? え? 負けた?」
「負けたわよ。貴方の勝ちよ。とんでもない一撃だったわ」
「そ、そんなわけ……」
「見たでしょう。私が空の果てまで吹っ飛んでいったのが。何てことしてくれるの。私の体がもう少し弱かったら、木っ端微塵になってたわ」

 茫然としている私の前で、風見さんは体を起こしました。 
 そして髪をかき上げてから、以前の奥深い笑顔に戻ります。

「冬が来るとね。お花はみんな枯れちゃって、いつも独りだったの。だから、冬になっても枯れないライバルがいるのは楽しみだわ」
「えっ…………」
「喜ばないの? 私が望みを叶えてあげると言ってるのに」
「…………!」

 私は何だか突然、胸がいっぱいになって、言葉が出てきませんでした。
 花の妖精は、お花の気持ちもわかります。
 あまりにも大きくて高くて深くて、奥が見えなかった特別な花の妖怪さん気持ちが、今私に伝わりました。
 そっけない言葉や気まぐれな態度の裏に隠れちゃってた、風見さんの心が。
 彼女もまた、今日出会った人達と同じように、私の存在を認めてくれたのです。

「風見さん……」

 涙で濡れてる私の頬を、風見さんの手がそっと撫でます。
 私をずっと踊らせていた、大地のように広い掌。
 でもその手は、私の迷いを解き放ち、強くしてくれた。前に進む勇気をくれた。

 やっぱり、やっぱりそうです。噂はきちんと自分で確かめてみないとダメ。
 こんなに強くて、優しくて……そして、こんなにふざけた妖怪さんだったなんて!

「ありがとう……ありがとうございます、風見さん」
「さぁ、ぐずぐずしてないで、急ぎなさい」

 泣きじゃくる私の肩に手を置いて、風見さんは鋭く言いました。

「昨日の時点で、もうあのスイートピーは咲き終わりかけていた。このままでは冬が来るのを待たずに、貴方は消えてしまうわ」
「えっ!?」

 突然そんなことを言われ、私はショックを受けました。
 けど、風見さんが言うのだから、きっと本当に違いありません。 
 もう私の妖精の時間は、本当にわずかしか残っていなかったのです。

「根を傷つけないよう、土から優しく、ここへ持ってきなさい。私はそれから力を分けてあげる。その後は、雪の積もらない安全な土に移した方がいいわね」
「は、はい。でもそれなら、風見さんも来てくれれば……」
「私は行けないわ」

 風見さんは首を振りました。
 何だか、ちょっと誤魔化すような口ぶりで、

「もし私が行けば、貴方の願いとは異なる選択を取ってしまうかもしれないもの。貴方に『やっぱりやめた』と言われても、無理やりあの花に力を与えて生き長らえさせてしまうかもしれないもの」
「でっ、でも私は……」
「本当に、妖精じゃなくなる覚悟は決まったの? 誰にも相談しなくていいの?」

 言われて、私ははじめて気が付きました。
 こんなに大事なことを、一番大事な友達に相談もせずに、勝手に全部決めちゃおうとしていたことをです。

 そう。全部話さないと。
 今までウソをついていたことを謝らないと。
 そして、自分がチルノちゃんに憧れていて、向こうの世界に還ることなく、これからもずっと一緒にいたいってことを、まずは伝えないと。
 だって、たとえこの世界に残ることになっても、チルノちゃんに許してもらえなかったら、意味がありません。
 一番先に解決しないといけないことは、別にあったのです。

「風見さん。やっぱり私、友達に相談してからにします」
「あの青い妖精のこと?」
「はい」

 私は迷うことなくうなずきました。

「好きになさい。それくらいの時間は残ってるでしょうから」

 風見さんは、そう言って許してくれました。

「ただし、妖精のまま、明日の日の出が拝めるとは思わないことね。私はここで待ってるわ」




 ◆◇◆




 もう何度通ったかも覚えていない道を、私は急いでいます。
 靴はずっと地面から離れっぱなし。飛び続けるのにはエネルギーがいるけど、歩いてなんていられません。
 ヒマワリ畑で投げた、レーホさんからもらった折り鶴は、私の思いを羽に受けて、真っ直ぐ飛んでいきました。
 それは霧の湖がある方角です。
 チルノちゃんは、いつの間にか、私達の住むあの湖に帰ってきていたのでしょう。

 見慣れた坂にたどり着いたところで、私は一度地面に下りて、息を整えました。
 それから、一生懸命登り始めました。

 この先にチルノちゃんが待ってる。
 全てを話せば、チルノちゃんはきっと怒って、私を突き放すと思います。
 もう大ちゃんなんて、友達でも何でもないって、そう言われることも覚悟してます。

 その時は、明日の朝日が昇るまでは、許してもらうまで謝ります。
 私はチルノちゃんみたいになりたい。チルノちゃんに仲間と思ってもらいたい。
 だから、これからもずっと一緒にいて、って。

 ついに坂を登りきり、私は勇気を出して、その先へと踏み出しました。
 そして、


「へっ……ええええええええ――!?」


 と叫び声を上げてました。
 それから自分の目を、何度も何度もこすりました。

 だって、だってだって、見たこともないものが湖の側に建ってるんです!
 とっても大きくて、キラキラ輝いてる、氷の建物が!

 本物は見たことがないけれど、それはきっと、お城というものでした。
 高さはミチバーの駄菓子屋さんの三倍はあって、幅はさらにその倍はありそう。
 湖を出発する前は、こんなの絶対なかったのに。
 氷を使って、こんな短い時間に、こんなとんでもないことをしてしまう子は、誰だか決まってます。

「あーっはっはっは!」

 お城のてっぺんで、青い妖精の子が腰に手を当てて、大笑いしてました。

「やっぱり、あたいったら最強ね! あっ!? 大ちゃん!」

 チルノちゃんは私に気づいて、ひらりと下まで降りてきました。

「ちょうどいい時に帰ってきたわね!」
「ち、チルノちゃん、これって……」
「すごいでしょ! さっき完成したばかりよ!」

 ポーズを取りながら、チルノちゃんはお城を示します。
 おそらく材料に湖の水を使ったのでしょう。半透明の壁や柱には、水草や石が混じってます。
 それをイメージに合わせて凍らせ、組み合わせて造ったのでしょうが……。
 明らかに、普通の妖精ができることの範囲を飛び越えちゃってました。
 「冬が近づくにつれて、あたいはできることがたくさんになる」とはチルノちゃんから聞いてましたけど、それは私の想像以上だったようです。

「チルノちゃん、これからこのお城に住むの?」
「違うわよ! これは大ちゃんのお城!」
「ええっ!? 私のっ!?」

 思わず飛び上がって、私は自分を指さしました。

「そう! ほら、早く入ってみて!」

 冷え冷えの手で背中を押されて、私は無理矢理お城の正面の階段を昇らされました。

「あの、チルノちゃん、私大事な話があって……!」
「そんなの後でいいから!」

 と、チルノちゃんは急かしてきます。
 何だか、チルノちゃんが、いつものチルノちゃんすぎて、私は戸惑ってしまいました。
 だって、朝に早く出かけたのは、元気が出ない私と遊ぶのがつまんなくなっちゃって、どこかに遊びに出かけたからだと思ってたのに。
 
 ツルツルの床を歩いて、私は開きっぱなしの氷の扉から、お城の中に入りました。

「うわぁ……」

 外もすごかったけど、中は別の意味ですごい感じでした。
 だって、壁一面にアイスキャンディーが埋め込まれてるのです。
 色を見たところ、たぶんイチゴ牛乳とミカン味でしょう。ミチバーの駄菓子屋さんで、何度も食べたお菓子です。
 それらがバラバラに、壁に張り付けにされちゃってます。

「どう!? 気に入った!?」
「う、うん」

 頭が働いていない状態で、私はうなずきました。

「OK! それじゃあ今度は 二階に行ってみて! 早く早く!」

 また背中を押されて、私はお城の二階へと上がりました。
 こちらは一階よりも、もっととんでもないことになってました。
 
 大きな一部屋の天井に、風鈴がたくさんぶら下がってます。
 壁には風車が刺さっていて、ビー玉がたくさんはめ込まれています。
 そして床には、何を折ったのかわからない折り紙も散らばっていました。
 
「こ、こんなにどうやって集めたのチルノちゃん?」
「ミチバーが死んだ後、駄菓子屋の裏におもちゃがたくさん入った箱が置いてあったから持ってきたのよ」
 
 それって泥棒じゃあ……と思いましたが、私はびっくりしすぎてるのと、チルノちゃんがあまりにもはしゃいでるので、何も言えませんでした。
 とりあえず、滑って転ばないように、大部屋の中を見て回ってみましたが、

「きゃあ!?」

 壁にとても大きくて怖い顔が彫られているのを見つけて、私は悲鳴を上げちゃいました。

「な、何あれチルノちゃん?」
「あれはね! だいだらぼっちの顔!」
「な、なんでそんなのを……」
「もう! 鈍いわね大ちゃん!」

 チルノちゃんは、大きく両腕を広げて、くるくる回りながら言いました。

「ここにあるものは、全部大ちゃんが好きなものなの!」

 と言われて、私は開いた口がふさがらなくなりました。
 そして、やっとこの建物が、『大ちゃんのお城』だと言ってる意味に気が付いたのです。

「じゃあ、チルノちゃんが、今日一日ずっといなかったのは……」
「そう! 大ちゃんがまた元気になるように、大ちゃんが好きなものを集めてみたのよ! 最強のあたいにかかれば、こんなの楽勝!」
「チルノちゃん……」

 私は一気に力が抜けて、安心してしまいました。
 チルノちゃんは、弱ってしまった私にがっかりして、違う子たちの所に遊びに出かけたのだと思ってましたけど、そうじゃなかった。
 私の元気がないことにずっと気づいていて、だから元気がつくようなものを捜して回って、このお城を造ってくれたんだ。
 
「ほら、まだ屋上もあるんだから、見て見て!」
「うん……!」

 私はチルノちゃんと手をつないで、最後の階段を昇りました。
 屋上に出ると、涼しい風が顔に当たります。
 世界をぐるりと見渡せるほど高い場所ですが、そんなに広くなくて、四角い床をギザギザの氷の塀で囲っているようです。

 そして、私は中心にある四角い台の上に、『それ』を見つけました。

 はじめ、それが何かわかりませんでした。
 わかった瞬間、私の心は止まってました。

「チルノちゃん……あれって……」
「どう!? びっくりしたでしょ! 旗代わりに使ってるのよ!」

 と、嬉しそうに言うチルノちゃんは、まだ気づいてません。



 そして私は、まだそのことを、受け入れられないでいる。



「最後のこれは本当に見つからなくて大変だったんだから。でも草むらに隠れてるのを、隠れん坊の天才のあたいは見抜いたわ」

 この季節には、もう残っていないはずのもの。
 たった一つしか、咲いてないはずのもの。
 
「ふふん。ちゃんと覚えてたのよ、大ちゃんの好きな花」
 
 チルノちゃんは得意げに言って、それを台から手に取る。
 私に嬉しそうな顔で、見せてくる。

「これでしょ! スイートピーって!」



 茎からちぎり取られて、花びらがもう一つしか残っていない、枯れかけた花を。




 ◆◇◆



 
 そのあとのことは、あまり覚えてません。
 自分がどんなことを話したのかも、よく覚えてません。
 たぶんきっと、ひどい言葉をぶつけたんだと思います。
 チルノちゃんは、何も言い返さずに黙ったきりだったと思います。
 驚いた表情のまま、呆然としていたような気もします。
 もしかすると、私を慰めようと、手を伸ばしてきたかもしれません。
 でも私はその手をきっと、振り払ったんだと思います。
 しおれて枯れようとしている、私自身の花を抱きかかえながら。

 チルノちゃんが、悪気があってそうしたのではないことはわかってました。
 彼女が用意してくれたものは、どれも夏の季節に私が言った、だいだらぼっちの妖精の大ちゃんが好きなものでした。
 チルノちゃんはそれを覚えていて、この季節にないはずの花を一生懸命探して、ついに、あのスイートピーを見つけたのでしょう。
 でも、それが私とは何の関係のない花だったとしても、やっぱり喜べなかったと思います。
 この世の命が、みんなチルノちゃんみたいに強いものじゃないってことを、彼女は最後まで解ってくれませんでした。

 私は教えられたんです。
 普通の弱い妖精は、そうじゃない強い妖精と共に生きられないということを。
 花の妖精と氷の妖精では、心の底まで全ては通じ合えないということを。
 だから、私の残された時間を、チルノちゃんが奪い取ってしまったのは、まさに自然にふさわしい流れだったのでしょう。
 それはたまらなく哀しい、それでも決して逆らうことのできない、妖精の世界のルールでした。



 その後、私は風見さんに一度会いました。
 風見さんは、私の手の中にあるスイートピーを見て、言いました。
 「可哀想に。これではもう駄目ね。残念だわ」って。それっきりで、去ってしまいました。
 でもきっと、元に戻してもらえる道があったとしても、私は選ばなかったと思います。

 そして私はまた、一人ぼっちになりました。
 一つのウソをついたことで、百回イヤな気持ちになる。
 そんな妖精の怖い噂話を、私は思い出していました。
 噂は本当だった。でもそれだけじゃなかった。
 だって私は確かに、自分の吐いた一つのウソによって救われたんです。 
 一人ぼっちになることなく、多くの喜びを得て、掛け替えのない友達も持てたんです。

 けれども、それらはみんな幻でした。たった一日で、消えちゃいました。
 あっけなく、全て消えてしまいました。




 ずっと聞いてくれて、ありがとうございました。

 私の話は、これでおしまいです。







 

 まだ少し、還るまでの時間が残っているようです。

 不思議ですね。
 チルノちゃんと知り合うまでは、あんなにあちら側の世界に行きたがっていた。
 チルノちゃんと知り合ってから、ずっとこちら側の世界にいたくなった。
 そして今は、どちらでもなく、宙ぶらりんの気持ちのまま。
 心の中がからっぽになってしまったみたい。

 けれども、じっとしていると、次々に疑問が浮かんできます。
 どうして私は、はぐれ妖精になったんでしょう。
 奇跡が起きたから? そういう運命だったから?
 でもただの妖精なら、もっと幸せだったかもしれない。
 こんな寂しい気持ちで消えてしまうんじゃなくて、もっと素直な嬉しい気持ちで、お母さんの元に還れたはず。

 いくら考えても答えが出ません。 
 いくら考えても答えが出ないのは、やっぱり私が妖精だからかもしれません。
 妖精にしてはものを考えるけど、妖精でしかない私には、この世界の仕組みを理解することなんて、できっこないのかもしれません。

 膝から顔を持ち上げると、秋の終わりの景色が目に飛び込んできました。
 かつて私が過ごした野原と、その向こう側に広がる世界が映っています。
 秋の夕焼け空は、怖いくらい綺麗。
 雲の妖精って、いるのかしら。空の妖精は? 彼女たちはどんな姿で、どんなダンスをするんでしょうか。
 もっと長く生きていれば、いつか出会えたかもしれない。
 私も消えちゃう前に、ダンスをしてみようかしら。
 きっと、今まで誰も踊ったことのない、寂しくて悲しいダンスになるだろうけれど。

 でも、最後に見られる景色が、晴れていてよかった。
 世界が静かに枯れていく中で、たまたま長生きしただけの花の妖精の私も、消えようとしている。
 この哀しくて寂しい思いは、どんな形でお母さんの元に還っていくのでしょうか。
 そして、どんな形でこの世界に戻ってくるのでしょう。
 わからないことばかりです、本当に。  

 ああ、瞼が重くなってきちゃった……。
 草のさざ波の音を聞いているうちに、体の感覚がいつの間にかなくなってました。
 きっともうこの目を閉じたら、もうこの場所に戻ってくることはないでしょう。
 だから私は、なるべく目を開けていようと思います。
 最後まで、この綺麗な景色を目に映していたい。

 夕日がいつもよりも、輝いて見える。
 キラキラと。光の粉をまぶしたみたいに……。

「え……?」

 そう、声が出ちゃった。
 光がどんどん大きくなって、人の姿に変わっていったから。
 夕日を浴びて、紺色に変わっているその影は……妖精……。

 チルノちゃんだ。

 チルノちゃんが、来てくれた。

「大ちゃん……」

 私の方は、驚いちゃって、言葉がうまく出てこない。
 チルノちゃんに会いたかったんだっけ? それとも、会いたくなかったんだっけ?
 自分の気持ちも、なんだかわかんない。
 
 ずっと黙っていたチルノちゃんが、おずおずと、何かを差し出してくる。

「これ、これ作ったの」

 それは、花。
 青い花。けれども横に傾くと、土色の花。
 透き通っていて、輝いている、スイートピーにそっくりな花。

「こ、これは、あたいが湖の水で作ったやつだから、花をいじめたわけじゃないよ」

 チルノちゃんが、つっかえながら言う。
 こんなチルノちゃんを見たのは初めて。
 そして、そんな氷を見たのも初めて。
 三角だったり四角だったり、尖っていたりごつごつしてたり。
 チルノちゃんの作る氷は、いつもそういう形。
 けど……手に取ってみる。
 
 すごい……。
 とっても細かく作られてる。
 花びらの一つ一つも綺麗に揃ってて、茎もしなやかな形をしていて。
 上から見ても横から見ても、本物の花が氷に変わっちゃったようにしか見えない。

「どうやって……こんな花……」
「ユウカってやつに……あ、その前に、湖の中にいた魚みたいなやつに、別のプレゼントを考えろって言われて。それから、レーホと石頭に、氷の花はどうって言われて」
「えっ……」
「でも上手くできなくて、それで花に詳しい妖怪がいるって聞いて、そのユウカってやつに会って、大ちゃんの好きなスイートピーの形をちゃんと聞いて作ったの」
「そうだったんだ……」

 それぞれが誰のことだか、すぐに分かった。

 みんな、私のために……。

「大ちゃん、まだ怒ってる?」

 チルノちゃんが不安そうに言った。

「……ううん」

 私は笑って首を振る。

「もう怒ってないよ、チルノちゃん」
「それ、冷たくない……?」
「平気」

 嘘じゃないもの。本当に平気だった。

 だって、このプレゼントは、特別な花。
 夕焼けにかざしてみるとオレンジに。森にかざしてみると濃いグリーンに。
 どんな色も写し取っちゃう、とってもワガママで、贅沢な色。
 世界で一番きれいな、枯れないスイートピー。

「凄いねチルノちゃん……こんなお花を作れるなんて……」

 その贈り物を、壊さないように抱きしめて、私は言う。
 私を覗き込んでいた顔から、不安そうなものがスーッと消えていく。
 それからチルノちゃんは、いつもみたいに腰に手を当てて、

「当然よ! あたいは最強の妖精だもん!」

 って、元気よく言ってくれる。
 ああ、よかった。いつものチルノちゃんだ。
 この世界の美しさを教えてくれた、私が憧れた、とってもすごい一番の妖精。

「でも……私は、チルノちゃんみたいになれなかったみたい」

 ああ、言わない方がよかったかも。
 チルノちゃんの顔から、また笑顔が消えちゃった。

「大ちゃん……もしかして、行っちゃうの?」
「うん」

 もうウソはつけなかったから、素直にうなずいた。
 けれども、あの花のことは話さないでおこう。
 チルノちゃんのせいじゃない。元々私が、弱かっただけだから
 元々、ウソをついていたのは、私の方だったんだから。

 そう。謝らないといけないのは、私の方。

「ごめんね……私、だいだらぼっちになれなかった。花の妖精のままだった」

 私はずるい妖精。最初のウソを、最後のこんな時に謝るなんて。


「ごめんなさい……どうしても、チルノちゃんに、見捨てられたくなくて……」


「そんなの、とっくにわかってたもん!!」

 
 びっくりして、顔を上げた。
 チルノちゃんは、すごく真剣なまなざしをしていた。

「な、何の妖精かわからなかったし、そうじゃなかったらいいなって思ってたけど、大ちゃんは全然だいだらぼっちっぽくないし、寒いのが苦手だし、花の蜜でお菓子を作るのが得意だし…………でも! だいだらぼっちじゃなくたって、大ちゃんは大ちゃんだからいいの!」

 あ……そっか。

 やっとわかった。
 
 妖精にしてはよく考えるって言われてたけど、やっぱり私バカだった。
 自分の本当の気持ちに、気づいてなかった。

 私はずっと、普通の花の妖精である自分を、本当の私を、チルノちゃんに受け入れてもらいたかったんだ。
 今さら気づいちゃった。風見さんも、気づいてたのかも。だから私に最後まで、決めさせようとしてたのかも。

 そして、最後になって、私の願いは叶っちゃった。
 大ちゃんになってから、はじめてチルノちゃんと、ウソなしで向き合うことできる。

「ありがとう、チルノちゃん……」

 こぼれた涙が、金の粒に変わって、空気の中に溶けてった。

「大ちゃん、行かないで」

 チルノちゃんが顔をゆがめて言う。
 私の、もう感覚のない手を取って、

「行っちゃダメ。大ちゃんは、この世界が好きじゃないの? だって、もっと楽しいことがたくさんあるのに。そんなに、あっちの世界がいいの?」

 そうじゃない。そうじゃないの。
 私は首を振って、

「この世界が好き。ずっと一緒にいたい。けど、もう無理なだけなの」

 私は夕日色に染まるチルノちゃんの姿を見ながら、微笑んだ。

「でも私がいなくても、チルノちゃんは大丈夫。だって……最強の妖精だもの」

 もっと一緒にいたかった。もっと恩返しがしたかった。
 でも、もうお別れの時間。大妖精の私は、さようなら。

「今度私が、この世界に生まれてくる時は……チルノちゃんくらい強い妖精だったらいいな……」

 そうしたらきっと、いつまでもチルノちゃんの側にいられるだろうから。

 ああ……体から力が抜けていく。
 私を呼ぶ声に、吸いこまれていく。
 還るってこういうことなんだ。
 体が軽くなって、意識が薄くなって、自分がだんだんと溶けていくみたいで……全ての色が消えていって。

 
 

 私が最後に見た景色は、夕焼け空。

 そして、私の大切な友達の姿。


 泣きそうな顔で、こっちに手を広げている姿。




(続く)

 

 Ⅳ(冬 最終章)に続きます。
このはずく
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