――春の異変よりずっと前の話――
明日は、はじめて妖夢が霊魂を介錯する日であった。
今日のうちに刀の油を塗り替えようとしていたところに、ちょうど顔をのぞかせた幽々子が、髪飾りを作ってあげたの、いらっしゃい、と手招きするので、広げた道具をそのままにして、幽々子の部屋へ向かった。化粧鏡の前に促されるまま座った妖夢の髪の毛を梳きながら、いよいよ明日ね、と幽々子が言った。
「すこし緊張しています」
じゃあこれはわたしからのお祝いね、と言って幽々子が見せてくれたのは、手製の髪飾りだった。黒色の髪留めを土台にして、中心から少しずらしたところに、幅広のリボンを真ん中で結んで二つに折り曲げた飾り――ひらいた扇子を逆さにしたような形だった――を付けたものだった。おめかしをしてもらうのは滅多にないことだったから、妖夢はうれしいのと同じくらいに気恥ずかしい感じだった。できた、と言って襟元を正してくれた幽々子に鏡越しに目が合うと、妖夢は小さくはにかんで、ありがとうございます、と言った。
「可愛いわよ。――妖忌にも見せてあげたかったわ」
妖夢は黙ってうなずいた。
「明日は精いっぱい頑張ります」
「よろしい。きっとうまくいくわ」
鏡の中で幽々子が優しく微笑んだ。
肉体と精神と霊魂は三つでひとつであり、人は死ぬと精神と肉体が朽ちて、霊魂は冥界へ向かう。
冥界に到着した霊魂は、すべからく閻魔大王による裁判を受け、転生か、地獄行きかを決められた。転生を経て現世に蘇った霊魂は、肉体と精神が死ぬとまた冥界へと戻る。霊魂は常に循環しており、そのめくるめく輪廻において心臓のような役割を果たしているのが、冥界に存在する是非曲直庁だった。是非曲直庁は十王と呼ばれる十人の閻魔による合議制機関であり、冥界および霊魂に関して強大な権限を有し、冥界における霊魂はすべて是非曲直庁によって管理されていた。
永らく冥界は是非曲直庁による統括的な管理の下に存在してきたが、その体制に変化が起こったのは、白玉楼の主である西行寺幽々子が冥界に誕生してからだった。
幽々子はもともと人間であったが、生前の強い念によって霊界に誕生したのであるが、生まれ変わりと同時に、「霊魂を操る」という特殊な能力を携えていた。その能力は、文字通りただ霊魂を操ることはもちろん、それにとどまらず、生きている人間から自分の意志だけで魂を分離させ、肉体と精神を瞬時に絶命いたらしめるという前代未聞の強大な能力だった。幽々子の能力の詳細が判明したとき、是非曲直庁は震撼した。もしそんな能力が悪意を持って行使されたならば、とんでもないこととなる。三千世界を血液のようにめぐる霊魂の循環体系に、一個人の能力が影響を与えるというのである。それは霊魂の管理者たる是非曲直庁の存在そのものを脅かしかねなかった。
当時、是非曲直庁といえば煩雑な書類手続きに加えて官僚的な部署分断体制が根付き、ともすれば霊魂は裁判までに何十年も待たなければならないほどだったが、このときは書面手続きを全て後回しにするという異例の迅速さで、白玉楼とその主である幽々子を是非曲直庁の関係機関として正式に位置づけ、幽々子の能力の使用に関して、是非曲直庁が許可をする場合に限るとして制限をかけたのだった。もちろんその目的は、幽々子の強大すぎる力を危惧した是非曲直庁が、自らの監視の下におくためのものだったが、今となってしまえばそれは杞憂に過ぎなかった。幽々子が是非曲直庁の提案を快諾したのは、白玉楼の維持管理について是非曲直庁が面倒を見るという交換条件があったことに加えて、幽々子にはもともとそのような、望んで手に入れたわけではない能力を使う気がなかったからだった。幽々子は温和な性格の持ち主だったし、その能力をひとりで抱え持つ度量もあった。
白玉楼を是非曲直庁の関係機関に置くことの取り扱いについて、実質的には霊魂に関する権限の一部を移譲する形で行われた。その権限とは、是非曲直庁の管轄業務のうち「純粋ナラザル霊魂ノ処理ニ関スルコト」として定められているもので、数多の末端業務のひとつだった。閻魔による裁判を受ける霊魂は、純粋に霊魂だけの存在でなければならなかったが、冥界に到着する霊魂の中には生前の持ち主の精神と完全に分離しておらず、癒着したままのものがあった。現世に強い未練を残したまま息絶えたものの霊魂によく見られ、例外的な存在であったが、すべての霊魂の円滑な裁判執行が是非曲直庁の使命であったので、そういった迷える魂を導いてやることもまた、是非曲直庁の業務だったのである。
その具体的な処理方法は、特別に錬成された刃物で霊魂を斬るというもので、当番の死神が片手間に行っており、その作法の見た目と行為の意味合いから『介錯』と呼ばれていた。その介錯が譲渡する業務として採用されたのは、比較的該当件数が少なく簡易なものであったという理由と、霊魂の処理ならばそれを操ることのできる幽々子に任せることが最もよいということからだった。
その補佐役として任命されたのが、妖夢の祖父にあたり、かつて東西随一の剣の腕前と唄われた魂魄妖忌だった。
すでに現役を退いてからもうずいぶん経っていたが、全く刃物など心得のない幽々子の補佐役としてはおあつらえだった。しかし、あくまで形の上での関係機関に過ぎない白玉楼に、重要度の低いとはいえ実際の業務を回すことを是非曲直庁は渋り、めったに介錯の依頼をしなかったので、妖忌が刀を振るう機会は少なかった。是非曲直庁が妖忌に期待したのは剣士としてではなく、幽々子の護衛および監視役に加えて、文化的にも価値のあった白玉楼の庭師としての役目だった。つまりは老年者の再就職先として白玉楼が都合良くあてがわれたのだった。
妖忌は小柄で寡黙な男だった。頭のてっぺんが禿あがったせいで髷が結えず、残った白髪を後ろで束ねて小さく結んでいた。幽々子はそれを見て「おだんごがくっついているみたい」と言ってからかった。いあや、面目ございませんと頭をかく妖忌は、一見すると刀をふるう者とは全く思えないほど穏やかで腰の低い人間だった。
庭いじりは妖忌にとって本業でなかったが、本人はすぐにその役目を気に入ったようだった。妖忌が初めて白玉楼に来たとき、まったく手が入れられておらず雑草がのび放題だった白玉楼の庭を見て、かえってやる気を掻き立てられたようだった。全くの門外漢ですが、と言う妖忌だが、ひととおりの入門書を読み、鉢巻を締めて枝ばさみを振るう姿は、なかなかさまになっていた。幽々子は庭のことについては妖忌の好きなようにさせていたが、妖忌はいちいち真面目におうかがいを立てた。
岩のそばにヤマモミジを植えようと思うのですが……、クマザサを五十株ほど買いたいと思うのですが……。妖忌はお願い事をするときは決まって申し訳なさそうな顔をするので、幽々子は無下に断ることができず、結局申し出はなんでも受け入れることとなった。
しかし妖忌の庭づくりを幽々子はすぐに気に入った。だだっ広く殺風景だった庭に岩を置いて見た目に変化をつけ、庭木として一般的な松やシラカシなどよりも、季節によって花や実をつけるヤマモモやツバキ、フジなどを植えて、庭の中はいつもいろどり豊かだった。
「桜は植えられないのかしら」
着々と庭が仕上がってきたころ、幽々子は試しに聞いてみた。桜は幽々子の思い入れの強い花だった。裏庭に大きくて古い桜が一本植わっていたのだが、どうしても咲くことがなかったのだ。その咲かない桜を見るたびに、庭でゆっくりとお花見ができたらどんなに嬉しいだろうと想像し、それは幽々子の諦めきれない夢だった。妖忌が、ううん、と唸って、桜は毛虫が付きますからなぁ、と難しい顔で顎に手をやるのを見て、少なからず期待していた幽々子はしゅんとした。それから一週間ほどたって、妖忌が早朝から一輪車を押してどこかへ出かけたかと思えば、一メートルほどの小さな桜の木を数本積んで帰ってきた。聞けば庭木としては珍しい桜を取り扱う業者がほとんどなく、若木を手に入れられる可能性がかなり低かったのだが、懇意にしている植木屋が運よく手配できるというので、朝一番であるだけを取りに行ってきたというのである。
桜の花は早速、次の年から咲いた。といってもそれは、すかすかの枝に花がまばらについたくらいのもので、添え棒に括り付けられたその姿は、桜の木と聞いて普通想像するものとは程遠く、頼りないものだったが、念願かなった幽々子は大喜びし、ござを持ち出しては妖忌の息子夫婦も誘って、ささやかなお花見をしたものだった。
介錯が決定された霊魂は、是非曲直庁の死神が直接白玉楼まで持ってくる。霊魂は、霊魂を引き寄せるという香木の欠片といっしょに、香炉のような形をした入れ物に入っていて、死神はそれを風呂敷に包み、縛り目に封をして、倹飩(けんどん)のついた箱に入れて持ち運んだ。
介錯を行う場所は、白玉楼の庭だった。白砂の上に屏風と畳二枚を敷いて、一枚には介錯人が立ち、もう一枚には死神の持ってきた香炉が置かれる。立合人である幽々子(庭に面した縁に台を設けた)が是非曲直庁からの依頼文に書かれた霊魂の生前の名前を呼び上げると、死神が香炉の蓋を開け、屏風の裏に隠れる。介錯人はいい時を見計らい、専用の刀でもって、香炉からゆらゆらと立ち上る霊魂――夏場のカゲロウに似ていた――を介錯する。あとは死神が介錯のすんだ霊魂を香炉に戻し、蓋をして、それで儀式は終了する。
介錯当日の朝、幽々子と妖夢はふたりで庭の準備をしていた。久しぶりに倉庫から引っ張り出した畳や屏風は、すっかり埃をかぶってしまっていた。用意する物は多くなかったので、朝のうちに終わりのめどはついた。予定では、死神が到着するのは昼を過ぎてからだった。
「いいお天気だから、しばらくこのまま干しましょう」
梅雨が明けたばかりの、七月の太陽が、さんさんと庭の白砂に降り注いでいた。庭の木々に隠れて蝉がうるさいほどに鳴いていた。縁に腰かけ、ふたりでお茶をすすっているとき、ひょっとしたらこれが最初で最後かもしれないわね。と、幽々子がぽつりと言った。
正直なところ今回の依頼は、意表を突かれた感じだった。最後に妖忌が霊魂の介錯をしてから今回の依頼までに十年ほども空白があったので、もうずっとこの先も仕事はないものかと思い込んでいた。忙しいときは月にいちどは依頼があったものだが、その数は年を経るにつれ目に見えて少なくなっていった。あまりに長い時間の経過の中、もはや白玉楼の立ち位置はあいまいになっていたし、もはや形骸化しつつある儀式に人手を割く必要はないと、お上の指示があったのかもしれない。それでもこうして忘れた頃に依頼があるのは、管理費を肩代わりしている手前、何も仕事をさせていないというのは具合が悪かったのだろうか。
一通りの準備が済んで、幽々子も家の中へ戻ったあと、妖夢は自分の立ち位置を確認するために、白砂に敷かれた畳の上に立ってみた。妖夢の前の畳には香炉を置くための小さな座布団と、その後ろには死神が待機するための仕切り屏風が置かれ、こちらを見渡せる縁には幽々子の座る文机が用意されていた。埃にまみれた古い道具たちも、こうして揃うと、なにか厳かな雰囲気を形成していた。
深呼吸をひとつして、刀を構える。ここはかつて、祖父のいた場所だ。祖父が、剣士として最後に生きた場所だった。
妖夢が物書きを覚えるくらいになると、妖忌は剣道の稽古をつけるようになった。
こと剣術のことになると、ふだんは温厚な妖忌が、人が変わったように厳しかった。特に妖夢は体が小さく力も弱かったので、なかなかまっすぐに竹刀を構えることができなかった。
「もっとしゃんと構えなさい」
そうは言うものの、どうしても竹刀が重く、体が前のめりになろうとするのに抗うようつま先を踏ん張ると、今度は左右に体が揺れるのだ。体のバランスを取ろうと足元に気を取られると今度は竹刀の切っ先がぶれた。
「体が揺れるのは目線が定まっていないからだ。もっとお腹の下に力を入れて、どっしりと立ちなさい」
妖忌は妖夢ができるようになるまで、ときには何時間もやるので、しまいには嫌になって泣き出してしまうこともよくあった。妖夢は幽々子のところに逃げ込み、幽々子が妖忌を叱った。そうなって初めて、妖忌は、しまった、という顔した。
しかし、あれほど姿勢について厳しかった妖忌が、介錯の時に見せるのは、まったくおかしな体勢の構えだった。畳の上に、正座から右膝だけを立てた状態で坐し、まだ鞘に収まっている刀の柄に手をかけたまま、丸まるように頭を深くかがめ、そのまま膠着する。ただでさえ小柄である妖忌の体がその体勢をすることによって、よりいっそう小さくなる。その何かを祈るような謙虚な姿勢がしばらく続いたかと思えば、カタンという軽くも硬質な音と同時に、振りぬかれた太刀が見事に対象を両断している。
その独特な音は、ハバキが鯉口を離れる瞬間の音である。鍔なりの音さえない。一切の余計な抵抗を受けず、最短距離で鞘から抜かれた太刀筋は、日頃の稽古で鍛えられた妖夢の目にも映らないほどだった。刀を振る右腕は肩から先をほとんど動かさず、重心をその場に保ったまま半身に隠れた左手で鞘を後ろに引いての抜刀であるため、見た目の動作が極端に少ないのである。
妖忌が現役だったころは、まだ刀が武器としての役割を果たしていた時代である。そのころは不作や流行り病など、誰もが死と飢えに怯えた生活をおくっていた。つかみどころのない、どんよりとした不安感が誰の心にも影を差し、追剥や偸盗(ちゅうとう)が横行した。そういう情勢の中、妖忌は公家や大臣などの護衛をこなし、日々の賃金を得ていた。妖忌が相対したのは、数打ちの、何の装飾もない、武具と言うよりただ人を殺傷することを目的とした道具だった。そうした剥き出しの狂気に対して、妖忌はなるべく穏便に事が済めばと思っていたから、まずは膝をついて頭を下げた。
「あいにく持ち合わせはございませんので、どうかお引き取り下さい。この通りでございます」
成功することはまれであり、よしんばうまくいったとしても唾を吐きかけられ、横腹を蹴られ、痛い目に合うことがほとんどだった。しかし下手に相手を興奮させ、雇い主に危害が及ぶかもしれないことを考えれば、自分が頭を下げて済むのならばそれが一番よかった。
そこまでしてなお、どうしても言ってきかない者に対して初めて、妖忌は仕方なく刀を抜いた。赦しを請う姿勢から、眼に映るよりも速く引き抜かれた刀は、偸盗の構えるなまくら刀を斬り飛ばし、その凄まじさたるや一撃でもって、たちどころに相手の戦意を喪失させるほどだった。
妖夢は両親の顔を知らない。
分かっているのは名前だけだった。物心がつくころにはもう両親はおらず、親の代わりをしてくれたのは妖忌と幽々子だった。妖夢は自分の両親のことについて、何度か妖忌に尋ねてみたことがあったが、そのたびに話をはぐらかそうとし、また居心地悪そうにしばらく黙り込んでしまうのを幼心に察し、妖夢はもうそのことを聞かなかった。
妖忌には一人の息子がいて、その夫婦の産んだ子が妖夢だった。
妖忌は早くに妻を亡くし、男手一つで育て上げた息子のことをたいへん可愛がって、白玉楼へもよく息子夫婦を連れてきては幽々子と食事を共にしたりした。
また妖忌は息子に剣術を教えようとはしなかった。もう刀が必要な時代ではなかったし、いざとなれば自分が身代わりに刀を抜く覚悟があった。だから自分の子供が剣などではなく、筆をとって学者を目指すといったときは、妖忌はたいへんに喜んだ。
結婚が決まり、働き口が決まったすぐ後に妖夢が生まれた。いつも顔を引き締めて庭木を剪定する妖忌もその頃はどこか嬉しそうで、わずかな拍子に顔がほころぶのを、からかってやろうと隙をうかがう幽々子に見つかるまいとするのに四苦八苦した。幽々子の方も、妖忌が嬉しそうに生まれたばかりの孫のことを喋るのを聞いてあげては、いつもの寡黙が饒舌に喋るのが新鮮で、また逐一を聞くごとにだんだん他人のことのような気がせず、なんとなく明るい気持ちになるのだった。魂魄一家とその周りは、まるで華が咲いたように明るい幸せが溢れていた。
しかしその幸せは長く続かなかった。
妖忌の息子は仕事に忙しく、ふだんから零時を廻ることは珍しくなかったが、ある日、一時、二時を過ぎても帰って来る気配がなく、心配した妻が迎えに行った途中で見つけたのは、道端で血を流して倒れていた夫だった。悲鳴を上げた妻が抱きかかえた時には、もう息を引き取った後だった。警察の話では、仕事の書類を風呂敷に包み大切そうに持ち帰るのを、何か金目になるものを持っていると勘違いした偸盗に、気の毒にも襲われたのだろうとのことだった。背中から袈裟懸けに斬られ、心臓を一突きにされたのがとどめとなり、長く苦しんだ跡はありませんでしたという警察の言葉は、しかしなんの慰めにもならなかった。
妻はながいこと悲観に暮れ、食事も睡眠もろくにとらず、ついには後を追うように河に身を投げて死んでしまった。短い遺書と共に、ゆりかごに入った妖夢が残された。
そういう時代だった。といってしまえば、それまでかもしれない。妖忌は死んだのが息子夫婦であって自分でないのを苛んだ。位牌に向かって、これも運命と思って、受け入れるしかありません。ただ、申し訳ないという気持ちがどうしてもぬぐえません、と静かに言って項垂れる妖忌に、幽々子はかける言葉がなかった。妖夢の側にいさせてやることがせめてもの慰めだろうと、妖夢も白玉楼に住まわせればいいという幽々子の提案に、かたじけのうございます、と妖忌は深々と頭を下げた。
絶望の淵で、妖忌のたったひとつの希望は妖夢だった。
この子だけはなんとしても自分が護らなければ、と思った。残された妖夢に、剣を習わすことを決めた。自分はもう老い先長くはないだろうから、せめて、この子の剣となって、この子を護り通すことができればと思った。
それからもう何年も過ぎたある日のこと、表の方で蹄の音が聞こえたので妖夢が玄関まで覗きに行くと、門の向こうに馬車の姿が見えた。めったに見ることのない馬車に妖夢は喜んで、履物をつっかけたまま表へとびだした。馬にまたがっていたのはいつも取次ぎをしている馴染みの死神だった。幽々子さまは御在宅でしょうか、と死神が尋ねるので妖夢は、はい、とうなずき、家の奥に幽々子を呼びに行った。
幽々子が玄関に顔を出すと、ワゴンから降りてきた人物に幽々子も妖忌も驚いた。是非曲直庁の最高職である閻魔大王 幻想郷担当官の四季映姫・ヤマザナドゥであった。
迎え入れた奥の座敷で、幽々子と妖忌が並んで四季映姫と向かい合って座卓を囲んだ。妖夢は全員分のお茶を出して、自分は妖忌の斜め後ろに座った。
「西行寺殿、魂魄殿、久方ぶりでございます。突然お伺いしましたご無礼を、まずはおゆるしください」
静かだがよく通る声で四季映姫はそう言うと、ふたりに向って軽く頭を下げた。
「あらためまして、日頃より冥界の管理業務にご尽力いただき、たいへん感謝しております」
妖夢は四季映姫を見たのは初めてだった。年齢のほどは推し量れなかったが、想像よりもずっと若く、まだ十代の少女のような顔つきだったが、その笏棒と制服のせいだろうか、ある種の権威的な冷たさをまとっているように感じられた。妖夢は妖忌の背中に隠れるようにして、ひっそりと映姫の顔をうかがった。
「わたしたち白玉楼に出来ることといえばわずかなことですが、閻魔さまのお力添えになっているのならば幸いですわ」
幽々子はそう言って、ちらと妖忌の方を見た。その時見えた幽々子の顔に、いつにない緊張と不安の色が浮かんでいたのを、妖夢は今でも覚えている。
ところで、と言って幽々子は言葉をつづけた。
「こうしてわざわざ閻魔さまがいらっしゃったのには、何か理由がございましょう」
「ええ、実は折り入ってお話ししたいことがございまして、できれば――」
映姫が声を落としたのに、幽々子が妖夢に隣の部屋で待つように言い、妖夢は三人を残してひとり部屋を出た。
にわかにあたりが薄暗くなったかと思えば、遠くの空で重たい雷の音が聞こえ、つられるように鳴き始めた蛙の鳴き声が、夕立を予感させた。
その四季映姫の突然の訪問の理由を妖夢が理解したのは、数週間が過ぎた後だった。
その日は介錯が行われる日で、梅雨も明け蝉の鳴くある夏の日であった。その日は朝から太陽が照り続け、白砂の上に軒先の影がくっきりと黒く落ちていた。いつものように白砂に敷かれた畳の上で、妖忌は出番を待った。やがて幽々子が縁につくと、死神が屏風の裏から出て、入れ物を妖忌の待つ目の前の畳に置く。妖夢は幽々子の隣でその様子を見ていた。
幽々子が懐から通知文を取り出し、封を解いて開いたもののしばらく黙ったままで、なかなか読み上げがなかった。妖夢がちらりと目をやると、通知文に目をおとしたまま幽々子はしばらくじっとしていた。幽々子さま、と妖夢が声をかけたのに幽々子はすっと顔を上げ、一呼吸おいてから読み上げられた名前に妖夢は吃驚した。それは妖夢の父であり、妖忌の息子の名前だった。
死神が入れ物の蓋を取ると、空中にぼんやりとしたカゲロウが立ち上る。祖父が刀の柄に手をかけ、小さくうつむいたままでいる光景を、妖夢は幻でも見るように眺めていた。
映姫はあの日、このことをあらかじめ持ちかけに白玉楼へ来たのだった。妖夢の父が亡くなってもうずいぶん経っていた。今となって霊界に霊魂が到着したのは、もしかしたら父の霊魂が、永らく自らの死を認められず、懊悩し、霊界へ向かうのを拒んでいたのかもしれない。それが今ここにいるというのは、父である妖忌によって無念を断ち斬らせてやりたいという、是非曲直庁の配慮があったのだろうか。いずれにせよ、この巡り合わせは何か特別な意図があってのことだろうと思われた。
祖父がその場で震えているように見えた。妖夢はただ見守ることが精いっぱいだった。永遠とも思えるような時間の凝縮があって、意識が再び光景をとらえたのは、カタンという聞きなれた音とともに、真夏の光を反射した刃が白砂の庭に翻ったときだった。
妖夢は昔、妖忌に尋ねたことがあった。
「おじいさまは、どのくらい強いのですか」
うららかな春の日だった。あぐらをかいて竹とんぼを作っている妖忌の脚を枕にして、妖夢は庭を眺めていた。庭に咲いた桜は満開で、縁では幽々子がうつらうつら昼寝をしていた。
「むつかしい質問だなぁ」
妖忌は小刀と紙やすりを使い、入念に羽根の角度を確認していた。
「では、おじいさまは木の幹を斬ることができますか?」
「できるとも」
「じゃあ土壁は?」
「斬れる」
「岩」
「斬れる」
「鉄」
「斬れる」
えっと次は――、指折り数えながら、妖夢はもう思いつくものがなくなってしまった。
「では逆に、斬れないものはあるのですか?」
ううん、と妖忌は唸って、しばらくそのまま黙ったかと思うと、あるぞ、と言った。あるぞあるぞ。妖夢は起き上がると、好奇心に眼を輝かせて祖父の顔を見た。
「それはなんですか」
「それはな、迷いだ」
「迷い――?」
「そう。迷いとは、おのれの心だ」
「迷いは斬ることができないのですか?」
そうともさ! と妖忌は妖夢の頭をぽんとたたいた。自分に打ち勝つということが、なによりいちばん難しい。大きくなれば、妖夢にもわかる。これから妖夢は、いろんなものを斬っていかなくちゃならない。だから頑張って修行しないといけないぞ。ゆっくりとした口調でそう言い、優しく笑いかける妖忌に、妖夢は大きく肯いた。
妖忌が白玉楼から姿を消したのは、最後の介錯があってすぐだった。
妖忌の寝床に、普段から肌身離さなかった二振りの刀が置かれたまま、短い書置きが添えられていた。
『思うところありて、しばらくのあいだ旅に出ようと決心いたしますれば、まことに勝手ながら職を辞すことお認めいただきたい。今までたいへんお世話になりました』
それを見た幽々子は朝から大慌てだった。そんな予感は、もしかするとあったかもしれない。妖忌はあの日以来ほとんど口を開かなかったし、何をするにもどことなく上の空だった。幽々子は不安げに親指の爪を噛みながらうろうろとし、食事もとるのを忘れ、是非曲直庁への事情説明の手紙に筆を走らせた。幽々子は妖夢に心当たりの場所を探しに行くよう指示したが、妖夢はなんとなく、妖忌はもう戻ってこない気がしていた。妖夢は、きっちりと二本平行に並べ置かれた刀を見たとき、はっきりと直感した。
祖父はきっと、自分の迷いを断ち斬ることができたのだ。
だからもう、刀は必要なくなった。
そういう意思が、妖忌の置いた刀には込められている気がした。妖夢は刀を手に取った。竹刀とはまったく違った、ずっしりとした重みがあった。妖忌の刀を帯に指して、文机に向って頭を悩ましている幽々子に向ってこう言った。
「幽々子さま、祖父、妖忌の後は今日からわたしが引き継ぎます。この妖夢が、幽々子さまを、おまもりいたします」
幽々子は刀を指して仁王立ちする妖夢をみて、筆を持ったままぽかんとしていた。けれど妖夢の真剣な顔を見るうち何かを納得したのか、いろいろな感情が入り混じった表情で、はい、わかりました、今日からよろしくお願いします、と言って頷いた。
是非曲直庁から死神が到着したのは、もう日が傾きだしたころで、妖夢はすっかり待ちくたびれていたが、死神が抱えてきた諸々の道具や、にわかの慌しさにすぐまた緊張が戻ってきた。
刀を帯び、たすきを締めて、白砂に敷かれた畳の上に立つと、まだ昼間の熱を失わない西日が容赦なく妖夢の頬を照りつけ、立っているだけで、じわりと額が汗ばんだ。
儀式は滞りなく進行した。幽々子の読み上げがあって、死神の者が白屏風の後ろから香炉を持って現れる。幾度と見てきた光景だった。唯一違うのは、かつて妖忌のいた場所に、今は自分が立っているということだ。
妖夢は腰にさした刀を鞘から抜くと、正眼に構えをとった。死神が香炉の蓋を開け、一礼すると、再び屏風の裏へ隠れる。香炉の置かれた位置から目算して間合いを取ると、刀を上げて八双に構えた。
こめかみから流れてきた汗の粒が目に入り、こうこうと照る西日のせいで視界がまぶしくにじんだ。視界の端で、幽々子が自分を見ているのが分かった。屏風の後ろでは死神が息をひそめ、事の成り行きを見守っている。かつてこれほどまでに刀を重く感じたことはあったろうか。妖夢は目を閉じて、震えを抑えて静かに息を吐き、ふと瞼の裏に思い出されたのは幼少のころ、嫌というほどに聞かされた、しゃんと構えて立ちなさい、という妖忌の声だった。
目を開くと、西日が大棟にかかりはじめ、不意に視界が開けた。その瞬間を合図に、妖夢は全身に剣気をみなぎらせる。周囲の音が遠のき、神経が研ぎ澄まされ、さざめく木々の葉の一枚いちまいにいたるまではっきりと見分けられた。いま。全身全霊の掛け声とともに、光の揺らめきに向って刀を振りおろした。
数秒の意識の空白があった。
お見事でした、と香炉に蓋をする死神の声がして、やがて周囲の音が戻ってくると、洪水のような蝉のわななきの中にいた。両手は刀を握りしめたまま、しばらく動かなかった。遅れてやってきた怒涛のような緊張と高揚感のなか、妖夢はほとんど朦朧としながら、こちらを見つめる幽々子に向って、頭を下げるのが精いっぱいだった。
終
というかこの妖夢の経験について祝福すればいいのか同情し不快さを覚えればいいのかよくわかんないって気分になる
それは後書きが潔いよいものなのか卑屈なのかって気分に似ている
自分で書いて今思いましたが親の魂を介錯せよと言われることとここのコメ欄を重視することは似てるかも
そんな変なことを思いました
過去を背負って今を行く妖夢に心地よい力強さを感じました
丁寧にまとまっていて読みやすかったです