夜に容れられた雨を茨木華扇は眺めている。
しばらく行われていた博麗神社の酒盛りは強烈な通り雨によって終わりを告げた。ずぶ濡れになりながら盃を離そうとしない一部の妖怪も、屋内へ入り込もうとする長っ尻の天狗も、小雨になったあとまで『霧雨になるまで居座らせてもらう』と酔言をこぼしていた人間の魔法使いもみな博麗霊夢に叩き帰された。
それなのに華扇は残り、闇の中ひとりで酒を飲んでいる。
入り口の鳥居まで真っ直ぐに伸びた石畳の参道も今ではただの黒。黒を見下ろせる社殿の階段を登ったところへ腰かけ、誰かが残していった酒瓶から自らの一升枡に酒を
雨の音をずっと華扇は聞いている。石を打つ雨。やわらかな土に落ちる雫。瓦を滑り落ちる流れ。風によって斜めにかしぐ雲の
あるいはこれに群がったものか。いつしか眼前の黒の中へ森が屹立していた。新芽の萌える動きを使い地面を割って起き上がり、黒の中の出来事とて目にできぬまま黒土を吹きあげ黒い幹をうねらせながら、石の参道を除いてすっかり地面と空を埋め尽くしたのだ。おそらくは。人間にとっては高く、しかし妖怪にとっては一飛びほどにすぎぬ樹々が風雨に揺すられ、黒真珠じみた鈴音がよぎっていく。熱夢を思わせる植物の匂いも。
それほどまでに飲んではいないはずだがと自問しかけた華扇は笑うかわりに枡を揺らし、そっと淡い水音を
それを許さぬかのように闇の中へ小さな火が走ると、石さながらに静止していた華扇は顔を上げた。破られた夢の残滓を浮かべる目には黒が映るのみだったが、一点の星のように心中へこびり付き酔いを押しのけた理性はこう告げる。『あの火を見逃すな』と。見かけたものが特別だという実感は冷たい鋼のような輝きを星に与え、しんしんとした水音と混ざりあって増していく。だからだろうか。肩越しから目前へ火の塊が突き出されても華扇は動じることなく、ゆっくりと振り向くことができた。
「なんだい。驚かないの?」
失望を隠そうともせず紅白の縞と青白のまだらを身にまとった妖精が赤々と燃える松明を片手に立っていた。気配も音もなかったことに疑問を抱きかけてから、眼前で燃える光に気を取られた華扇は流転する勢火をじっと見つめていた。その様子をニヤニヤと見つめていた妖精だったが、しばらくすると怪訝そうな顔をしてから再び失望を露わにした。
「おかしくもならない」
華扇は思い出していた。月やそこいらに人を狂わせる妖精がうろついていたという噂を。たしかに松明の火を見つめていると自身から遠ざけられるような力を仙人は感じた。
「名前は。教えてくれたら一口あげる」
枡を差し出しながら華扇は言った。普段の彼女を知る者が見れば驚愕しただろう。このような場合にまず彼女が差し出すのは説教のはずであり、しかも枡へ入れられた酒はおいそれと――。Cと名乗った妖精の小さな白い喉が反れて月弧となり酒を呑んでいくのを見つめる華扇自身も、今や自らの所在なさを確かめるに至っている。松明の熱に当てられていたのかもしれぬ。今宵に許した酒量が多かったか。もしくは前からおかしくなっていたか。いずれにせよ独自の傾向に狂いが生じていた。
「見たところ」
雨音をかき分けるようにして再び声をかけたのは華扇の方だった。
「見たところ悪戯をしにやってきたようだけど、雨の中でわざわざ相手を探しまわってるの」
「ここで宴会をやるって話を聞いて来たのよ。そしたら誰もいないし。雨までザンザラ降るし。さすがのあたい達もうんざりだったの。そしたら」
腰をかがめた妖精から意味ありげに見上げられる華扇が小さく笑う。
「そしたら私が居た、と」
「なのに」
「なのに私は涼しげな顔」
「人のセリフを取るんじゃないよ」
華扇の顔を松明でCが指した。飛び散る火の粉に身じろぎもせず、ペツォッタイトの髪と
「アンタなんで幻想郷にいるの」
突然のCの質問に不意をつかれて、華扇の魂は射たれた月のようにねじれたが、表情へ出るより早くCの腕は引っ込められたため闇に沈んだ仙人の変化に気づかぬまま、勝手にCは身の上を話しはじめた。沈黙した華扇を省みることなく。まず妖精は生地である地獄のつまらなさを散発的な例を上げて説明した。そして月面という別世界を知ったために前にも増して地獄が退屈となり仕方がなくなったので地上へやってきたこと。予想に違わず――それ以上にここは面白おかしく、月面よりもはるかに楽しめる場所だということ。
自慢も混ざったCの奔放な話と松明の燃える音が群れて韻をなし、交互により合わされて楽の花を咲かせていく内にいつしか軒先へ薄く細く月光の銀砂が
「私は狂ってる?」
「あん? あたいの松明が平気なんでしょ。狂ってるよ。酒を飲み過ぎたんじゃないの」
耐えられなくなった華扇は小さく吹き出し、徐々に大きな笑い声に変わっていった。あまりに単純なCの物言いがおかしくてたまらなかったのだ。Cにとって狂うということは力いっぱいに本能および付随する感情を表に出すということなのだろう。いかにも妖精らしいし、何よりも己の疑問に対する返答としてズレているのか的を得ているのか、それすら判断をつけられない自分自身が愉快だった。隣のCも一緒になって笑い、二人して相手の笑うを見て笑い、しばらくして巫女が怒鳴りこんでくる可能性に思い至った華扇が笑いを抑えながら言った。
「そうかもしれないわ」
「あん?」
「私は狂っているかも」
「じゃあもっとパーッとやろうよ」
「パーッとはできないけど、やってるわよ。長生きの秘訣として仙人を。自己流で」
枡へ酒を注ごうとして酒瓶を探す華扇の目の前を魚が泳ぐ。よく見ればそれはさっきまで床へ置いていた魚型の酒瓶で、偽りの月華に背を照らしながら空気の中を揺蕩っている。踊る陶魚の口が空気の水を取り込む代わりに言葉を吐いた。『我らもついに地上を得たぞ』
結構なことだ、と心中で返事をした華扇は無造作に魚を掴むと中身を枡の中へ全て傾けてしまい、冷たい動きで闇の向こうへ放り投げた。
「仙人って何すんの」
座ったCが投げ出した足を交互に揺らしながら聞く。
「あなた流にいえば狂わないように過ごすのが目的かしら」
「何だって。ふぐたいてんの敵じゃないの」
「でもお酒を飲んでもいい。というより私はずっと飲み続けないといけない」
「そんな宙ぶらりんなことをずっとやって! だから狂っちゃえないんだ! 自分に嘘をついて楽しい?」
「ええ」
考えるよりも早く自分の唇から出てきた肯定に華扇は驚いた。嘘が楽しい? 茨木が?
夜風のごとき颯々とした逡巡から目覚めてみれば華扇の手から枡が消えており、目で探すと隣のCが片手で口に運んでいた。別の手に握られた灯りは単純な調子で振られ、ひらひらと黄金の風花をはためかせ、もつれる。飛び散る光を織りこんだCの唇の動きが遠い昔の記憶、同胞もしくは同族との宴の記憶と不意に結びついて華扇の意識へうねり押し寄せた。勢いを増してきた雨が月光を溶かして味わいながら流し、拭い去った下からは粗野な篝火の色が現れていく。陽光の
華扇は己を俯瞰していた。虹色もしくは骨の白に輝く地上の星を天より雲に腰掛け眺めるがごとく。そこに描かれた(もしくは記された)彼女を他人が知るすべはない。朝焼けを織って仕立てることができぬのと同じ理由で。ただし夜のかそけき一時、黒い花からこぼれた一つの莢ほどの間に茨木華扇が自らの狂気と旅をして嘘を訪れたのは間違いないだろう。
ならば物語を追う者が次のような光景を思い浮かべ当て推量にほくそ笑むのも許されよう。人ならざる華扇が今のように人と混ざりはじめた時代の紅塵は獅子のにおいがしたかもしれぬし、様々な利点に目をつけて仙人という在り方へ染まっていく季節の流れは、釣翁が古渓へ垂らした糸の流れに似ていたかもしれぬ。いずれにせよ今とは異なる時代。
さて、人へ近づくために仙人となる道を選んだと華扇は以前に告げている。何かを探している素振りも。とすれば探しものが見つからぬ間に偽りの自分へと馴れていくのは、暁を迎えるにあたって夜の銀雲が陰を帯びた金色へ移り花やぐようであったか。そういえば似たような変化を拒否して消えた妖かしの一族が居たのではないか? 有角で酒を愛し、何処かへ消えた幻想が? もし彼らの中で人間たちの世界へ残った者がいるとすればどうだろう。少なからず自らの一族を否定し、選んだ世界にも真の意味で居場所はなく、おそらくは偽りの身分を用いて昔ながらの名前すら告げられぬまま過ぎゆく者。その姿はまさに狂気の沙汰だろう。
郷愁を色濃く滴らせた華扇が戸惑いも
「お酒なくなったしアンタはつまんないから行くよ」
あらゆる呼吸を一顧だにせず、枡を華扇の膝下に落とすとCは立ち上がった。
「帰るの?」
過去に渇いた仙人が羨むように聞くと妖精は鼻で笑った。
「馬鹿ね。行くのよ」
雨の中へ走りだしたCは横へ跳ね、飛び、踊り始めた。影の中で松明が振り回され、流星のように流れてはCの片鱗をちらつかせ、もしくは影で蝕のように侵食させた。あるいは隠し、あるいは現れ、次第に濡れて変わりゆくCの一部を目で追っていた華扇は、やがて生い茂っていた影の森にも変化が起きている事に気づいた。
そびえていた、かつて羅生と呼ばれた古い大門が。影の森の遠い地面へ根方を突き立て、華扇の記憶にあるよりも高く高く。見えぬ闇の中でも身を包む紅殻は剥げ落ちておらず、柱もくすむ以前の香りをまとい、年月と虫が食い荒らす以前の姿が上へ上へと伸び、空を押し戻すとさえ見えた。
いや。火が一つ。いつしか松明は石畳の上に忘れ去られ、雨にうたれながらも灯火は消える気配もなく赤々としたままだった。それは池の、湖の、海の底でなお明滅する火のようであり、そこから発せられる光の波紋がゆらめく縞となって影の門や樹々を流れる。
髪を梳るように。苔を洗うように。
詩想が訪れ告げた。『為すべきを為せ』と。ゆえに華扇は現実をうたった。すでに狂える幻想として。口ずさんだのは雨。もしくは夜。黒に没した懐かしき大門を言い表して味わったかもしれぬ。すでに胸中を蝕む懐古は華扇から去っていた。あますことなく記憶の杯を揺さぶって零れ落ちそうなほど精神の
華扇は理解した。もしくは久方ぶりに思い出した。Cの言った一側面も狂気であることに間違いはない。あらゆる理性や心から離れ、もしくはあらゆる獣より獣に近づく狂気は歩んだ後に荒廃を残しがちなもの(それが自らの外であれ内であれ)。しかし同時に詩、恋、魔法、宗教、酒を
狂気は全てを調節する。
目の前には夜が戻っている。夜に容れられた雨を茨木華扇は眺めていた。
酔った仙人は立ち上がると階段を下りながら、片方の爪先をわずかに浮かせて小さく円を描いた。後ろから前へ ぐるりと動かされた足は元の位置へ戻ると着地して、次は逆の足を前から後ろへ滑らせる。繰り返される円舞は∞の字を模していき、動作と律動が華扇の下から上へと全身を伝わって波うたせていく。早さを増していくあざやかさが雨音と同じリズムを打つようになったころ、華扇は雨の当たらぬギリギリの縁まで前進して手持ちの枡を前に突き出して雨を容れた。雨の底で消えぬ松明の他にはあらゆる灯りの失せた闇の中でさえ、今の華扇の目を妨げるものではなくなっている。天よりこぼされた水滴が枡の中に作り出す見えるはずのない波紋を華扇は知り、自らの過去と同じだけの量が貯まると一息に飲み下した。
そして彼女は夜の中へ跳び出したのだ。足の回転は保ちつつ一人で輪舞曲を踊るようにして、濡れた石畳を鳥居に向かって進みゆく仙人は頭上で無造作に手を振り動かしている。髪を梳く風のような動きは内なる衝動の発露のみならず、雨粒の全てを掌もしくは枡で受け止めるためでもあった。しかし仙人とはいえどそのようなことが可能であろうか? 肩の動きからすれば右腕は下げられているはずなのに手先は頭上へ掲げられていく動きなどは闇夜の見間違いであり、左手がもはや回らぬところまでねじれると関節が溶けてゆらめき新たな回転を生むなど酔夢もしくは怪力乱神の類ではないか。どうあれ華扇に雨粒に当たらぬのは事実。境内を歩んでいく仙人は時おり枡の中の水を飲みながら闇に消えていった。
そのあと松明がどうなったのかを知るものは誰ひとりとしていなかったが、少しばかりの歌声が雨に混ざっていたようだと囁かれた一夜はあったろう。
博麗神社が欲望丸出しの縁日を開くとこっそり妖怪の混ざる時がある。とある夜も伊吹萃香がこっそりと酒屋を出していたのだが、残念なことに地獄と化した。長居する華扇が酒気で止まらぬ弁舌をぶちまけ続けているのだ。
「単純な誤解だけどそれが最も有害な効果を生み出している。巧みに振り下ろされた刃よりもなお鋭く、一番輝く数字を見せたよ賽の目よりもなお煽り立て。正しさをこんなに塗りたくって誇らしげにするだけでは飽きたらず、飛び散らせるように振り撒いて私にも投じるのはさすが天狗というところ。そもそもヤツらの面従腹背は天をチョロチョロしていた頃から変わっていないんだし、そうすると燃え盛る星々へ今からでも順々に投げ飛ばして天狗星座群にしてやれば皆が幸せになるかもしれない。つまらない天狗新聞やら縦社会の硬直が生み出す憂鬱に外部が巻き込まれることもないしあの狗たちは覗き見し放題というわけ。
わかってる。あちらの言い分も努力もあるし、じゃあどうしてこんな小さな記事で私が気鬱を上げ下げさせられて悩みも甲斐も投げ出して荒々しく指を振り立てて、よくもよくもと舌の上が焼け野原になるまで恨み言をどんどんジャンジャンばんばんコロコロと。よそうか。選択をするために呑んでいるんだった。脳なんて物がある人間とは違う。私は冷静だ。
とりあえず看取りたい。あの天狗。あの日神社へ来ていたあの天狗を看取りたい。なんで先に帰ってないんだずっと居たのか。まあ自由です分かってる。わかるわかるわかるわかるわかる。わかる」
「おきゃくさん」
店主への返事の代わりに側へ置いていた天狗の新聞を持ち上げてから華扇は机に叩きつけた。大音をたてた紙束の見出しには『自制のできない酔いどれ仙人! 朝まで雨に説教か』と書かれている。
「酒」
「おきゃくさん」
「酒!」
頬へ突き刺さるほど思いきり突き出された枡いっぱいに萃香が酒を注ぐと、華扇は一口で飲み干した。
「やらない。やらないから雨に説教とか。そういう修行があるのはあるけどそれはあくまで克己のためであの時にやっていたのはもっと繊細な言うなれば願いに近いもので、それをこんな風に書くとはまるで。そこはいい。なんで皆して『ついにやった』という目をして近づいてくるのか。美味な泥をすすった時のような顔をして。あの夜に私が知った、狂うということについて話してあげたら風が吹くみたいにみーんなどこかへ散っていくし。なによりもあの妖精がつらい。『雨にあたっちゃダメじゃん』って何だ。あたってないから。アンタが私に教えたんだから。『あたい何も言ってない』ってどういう事よ。言ってないけど教えてくれたじゃない。まあ言ってはないよ。分かってる。わかるわかるわかるわかるわかる。わかる」
もはや言葉もなくげんなりした顔で萃香が視線を反らすと偶然に風が吹いてのれんをめくり、道の向こう側からこっちを見つめる一角の鬼と目が合った。
「あっ」
「あっ」
大きな盃を持った外側の鬼と萃香が同時に間の抜けた声を出す。
「おきゃくさん!」
助けてくれと言いかけた萃香からサッと視線を泳がせると、酔った演技のつもりか片手で両目を隠し、地響きがするほどしっかりとした千鳥足で一角の鬼は足早に去った。
「おきゃくさん……」
萃香の諦念がしたたる言葉を頭上へ流しながら、空になった枡の中身をじっと茨木華扇は見ている。ここに何を容れるべきか。夜や雨ではない事は確かだ。
華扇は枡を掲げて萃香の頬に突き刺した。
(終)
面白い修辞表現が多く良かったです。
使われる語や表現によって鮮やかに彩られて、感嘆を漏らしてしまいます。
そう思っていたところへの、このオチは不意を突かれたというか、そうだろうなというか、笑ってしまいました。
余すところなく楽しませていただきました。
本当ならこれくらい詰めなきゃ表現ってのは向上しないんですよ、きっと
この文章は私にとっては垂涎的ですが、さて厳しいもんですねえ
怪力乱神のひとに逃げられた後の「おきゃくさん」に妙な哀愁があ って好きです