「夢や幻想は、夢も幻想もないこの世界でだからこそ輝くのよ、メリー。」
そう笑った彼女を見たのは何日前のことだろうか、もしかすると何年も前のことなのかもしれない。暗い、黒い、自分の輪郭さえ失ってしまいそうな暗闇の中、マエリベリー・ハーンは一息ついた。
ああ、私はまた夢を見ているのだ。この何もない空間も全ては私の幻想で、少しすれば目が覚めて、隣で彼女の笑いかけてくれる日常に帰れる。
そう信じて疑いはしないものの、一人は怖いもので。
「いつもとは少し勝手は違うけれど、いいじゃない。いいお土産話になりそうだわ。」
口からもれる強がりをお供に連れて、ゆっくりとその足を踏み出した。
随分と歩いた。それでも終わりは見えない。一体この闇はどこまで続くのだろうか。目を見開いても何も見えない真の暗闇が全身を包み、もはや自分の姿さえ思い出せずにいた。これは本当に夢なのだろうか。
言い知れない不安が闇と共に全身を包み、暑くもないのに汗が背中を伝った。
「どこにいくのですか?」
ふと、闇の中で声が聞こえた。
「ここじゃないどこかへ。あなたは誰なの?」
「私はそうですね、あえて名乗るのであれば、助っ人です。」
「答えになってないわ。」
どこかで聞いたことあるような声だった。そういえばいつかの夢のとき、こんな声の少女に話しかけられたような気がする。どちらにしろ、こんな奇妙な空間で話しかけられたら少しは動揺してもいいものだが、不思議と怖くはなかった。
声は続ける。
「答えなんてあってないようなものですよ。ここでは全てにおいてあなたが名前をつけるのだから。」
「私は神様じゃないわ。」
「あなたが自分を神様だと思えば、あなたは神にだってなれますよ。」
「私には、あなたの方がよっぽどこのよく分からない世界の神に近いように思えるけれど。」
まるで全てを見透かされているような声の態度に対する苛立ちと、心の隅に芽生えた不安を隠すようについ意地の悪い返し方をする。そんな強がりに気付いたのか、声が笑った。
「私はあくまで夢を創ることができるだけ、夢の内容は個々の生き物が創るもの。ここはあなたの空間。何もないのは、あなたが何も持たないから。あなたが何も持たないふがいない神だから、ここには何もない。」
「ここが夢なのは知っているわよ、私は早くこんな気持ちの悪い夢から覚めたいの。」
「あら、夢でなら何でも好きにできるのに。」
声が笑った気がした。そんな気がしただけで、きっとさっきも笑ってはいない。それでもそんな気がした。なぜかはわからなかった。
「好きにしようにも、ここには何もないじゃない。」
「もう一度言います、それはあなたのせい。」
「生憎、明晰夢を見るような力はないのよ。」
「そうじゃない。」
今度は声がすぐ側にいるような気がした。今度もそんな気がしただけで、きっと私の側には誰もいない。
「明晰夢は夢の中を自由に操ることができるということ、まさに夢の中の神様になれるということ。そして一般的な人間の見る夢とは、不安や期待、欲望、トラウマ、その人を表す指標と成り得るもの。あなたの夢はそうじゃない、あなたの夢には何もない。」
暗く、黒かった目の前が青みを帯びた。これも、そんな気がしただけで、きっと私の心がそう見せただけ。
「あなたの夢には何もない。それはあなた自身が―――」
「私は夢を見たわ、奇想天外で、この世界ではないどこかの夢を。」
なんだかそれ以上聞きたくなくて、私は声を遮った。
息が妙に苦しい。まるでこの空間から酸素が薄れているようだ。余裕がない中、私がいるのは宇宙なのかもしれないと、なぜだかそう感じた。
「それはあなたの夢ではないでしょう?」
「まぎれもなく、私が見た夢よ。」
「本当に?」
「私が見た夢を、そうよ、蓮子が聞いて、私たちはその夢について、そうよ。」
言葉がうまく続かない。ああ、私は何をそんなに焦っているのか。
「私が見た夢を、私たち秘封倶楽部で調査して、そうよ、何も私だけの夢だったわけじゃない、あれは私たち二人の夢だったのよ。」
「私たち?」
「そうよ、私たち、二人の、夢で。」
「誰と誰の夢?」
「私と、蓮子のよ。」
「蓮子はどんな人?」
「蓮子は、宇佐見蓮子は、秘封倶楽部のメンバーで、私の相棒よ。そして…」
そして、
「あれ?」
私は蓮子についてもっと話せるはず。それなのに、言葉が続かなかった。
そんな私に対しても、容赦なく声は続ける。
「私に伝えてください、宇佐見蓮子とはどのような人だった?」
「蓮子は、蓮子は、その…」
私が言葉を紡げず戸惑う心に比例するように目の前が赤く染まっていく。これはきっとそうだ、危険色。
そう感じた瞬間、私は声の聞こえる方に背を向けていた。
これ以上は危険だ。逃げなきゃ、私はきっと帰れなくなってしまう。彼女のもとへ、私の現実へ。
ここから、全速力で、逃げなきゃ、私は――――
「いい加減にしなさい。」
ゾクリ。
空間全体に響くような声だった。決して怒鳴られたわけではない、それなのに、私はその場から動けなくなった。
背中に何かが伝う。きっと汗だろう、でももしかしたら虫だったかもしれない、自分の髪だったかもしれない。なんだか何もかも曖昧だ、私はなぜこんなにも緊張しているのか。
目の前がさらに赤くなる。聞きたくない。
しかし、無情にも、私の耳にはしっかりと力強い少女の声が届いた。
「目を覚ましなさい。もうあなたは、二人で夢を見ることなどできないのだから。」
そして次の瞬間、私は暗闇の中を真っ逆さまに落ちた。
落ちながら、私は思い出していた。
蓮子はもういない。それはあっという間のことで、あっけなく訪れた結末。
私の夢は二人の夢。一人になってしまった今、私の夢はこんなにも何もない暗闇へと変わってしまったのだ。
ねえ蓮子。私たちがあの日見ていた夢や幻想は、実はこんなにも暗く、冷たくて、実際のところは何の輝きも持たないものだったみたい。人間というものは滑稽でそういった何もないものに何かを求めて、手に入らないものに幻想を抱く。でも実際は違った、夢自身には何の形もなかった。これが、真実。いつもあなたについてあなたと同じ夢を追いかけていた私には、私自身の夢には、こうして色がない。何も、ない。
「不安な夜はさっさと寝ちゃえばいいのよ。全てを忘れて、何にも考えずに寝ちゃうの。私たちみたいなちっぽけな存在が何を考えていたって朝は来るのよ。世界は偉大だわ、そうは思わない?メリー。」
脳裏にそう笑ってくれる彼女の顔が過ぎった。
「…そうね、寝ちゃおうかしら。」
この暗くて寂しい夜から逃げるために、私は静かに目を閉じた。
瞼の裏に先ほどまでには見えなかった光が散らばる。自分が生きていると知ることができる温かい光。さながらそれは宇宙のようで、その小さな宇宙は指で瞼に触れるだけでその色を万華鏡のように変えた。
「生命は宇宙の神秘だとも誰かさんが言っていたかしら。今なら、理解できる気がするわ。」
私は暖かい光の中で小さく息を吸い、体を闇の中に預けた。暖かい宇宙が私を包む、あなたを思い出すだけで私の夢はこんなにも色づいていく。
「そういえば。」
薄れゆく意識の中で、私はあることだけはまだ思い出せないことに気が付いた。
「あなたは、何で私の側にいなくなったのだっけ。」
「こら、メリーったらいつまで寝ている気?」
「ん…あれ?」
平日の昼間から大学構内のベンチを占領している相棒に宇佐見蓮子は呆れて言った。
「全く、メリーが珍しくサークルの集合時間に遅刻していると思ったらこれよ。三限は出てきたの?」
「え、あ…」
「あ、じゃないわよ。いつまで寝ぼけているの。」
照りつける太陽の光、木陰にそよぐ涼しい風、呆れながらも心配してくれる彼女。
帰ってきた。
「ねえ、蓮子。」
「なあに、お寝坊メリーさん。」
今ならしっかりと見える自分の手を彼女の方へと伸ばす。
伸ばした腕が日差しに当てられ、じりじりと肌を焼く。さらには直接視界にいれると目まで焼いてくる太陽の光。
宇宙なんかよりも、泥臭い。これが現実。
いつもなら憎たらしい真夏の日差しに安堵しながら、マエリベリー・ハーンは唯一無二の相棒に声をかけた。
「寝すぎで体がだるいから、おぶってくれない?」
「そんなの知らないわよ。自分の体は自分で支えなさい。」
「もう、いじわる。」
蓮子は笑った。私も笑った。そして、
そして、何も存在しない暗闇の中、少女は心地よさそうに眠る女性に声をかける。
「夢も幻想もない現実より、色鮮やかな夢を見ることを選んでしまった哀れな地上の大妖怪。人間であることを夢見て、本当に幸せなのかな。」
問いかける少女の顔とは裏腹に、眠る彼女の顔はとても、安らかなものであった。
そう笑った彼女を見たのは何日前のことだろうか、もしかすると何年も前のことなのかもしれない。暗い、黒い、自分の輪郭さえ失ってしまいそうな暗闇の中、マエリベリー・ハーンは一息ついた。
ああ、私はまた夢を見ているのだ。この何もない空間も全ては私の幻想で、少しすれば目が覚めて、隣で彼女の笑いかけてくれる日常に帰れる。
そう信じて疑いはしないものの、一人は怖いもので。
「いつもとは少し勝手は違うけれど、いいじゃない。いいお土産話になりそうだわ。」
口からもれる強がりをお供に連れて、ゆっくりとその足を踏み出した。
随分と歩いた。それでも終わりは見えない。一体この闇はどこまで続くのだろうか。目を見開いても何も見えない真の暗闇が全身を包み、もはや自分の姿さえ思い出せずにいた。これは本当に夢なのだろうか。
言い知れない不安が闇と共に全身を包み、暑くもないのに汗が背中を伝った。
「どこにいくのですか?」
ふと、闇の中で声が聞こえた。
「ここじゃないどこかへ。あなたは誰なの?」
「私はそうですね、あえて名乗るのであれば、助っ人です。」
「答えになってないわ。」
どこかで聞いたことあるような声だった。そういえばいつかの夢のとき、こんな声の少女に話しかけられたような気がする。どちらにしろ、こんな奇妙な空間で話しかけられたら少しは動揺してもいいものだが、不思議と怖くはなかった。
声は続ける。
「答えなんてあってないようなものですよ。ここでは全てにおいてあなたが名前をつけるのだから。」
「私は神様じゃないわ。」
「あなたが自分を神様だと思えば、あなたは神にだってなれますよ。」
「私には、あなたの方がよっぽどこのよく分からない世界の神に近いように思えるけれど。」
まるで全てを見透かされているような声の態度に対する苛立ちと、心の隅に芽生えた不安を隠すようについ意地の悪い返し方をする。そんな強がりに気付いたのか、声が笑った。
「私はあくまで夢を創ることができるだけ、夢の内容は個々の生き物が創るもの。ここはあなたの空間。何もないのは、あなたが何も持たないから。あなたが何も持たないふがいない神だから、ここには何もない。」
「ここが夢なのは知っているわよ、私は早くこんな気持ちの悪い夢から覚めたいの。」
「あら、夢でなら何でも好きにできるのに。」
声が笑った気がした。そんな気がしただけで、きっとさっきも笑ってはいない。それでもそんな気がした。なぜかはわからなかった。
「好きにしようにも、ここには何もないじゃない。」
「もう一度言います、それはあなたのせい。」
「生憎、明晰夢を見るような力はないのよ。」
「そうじゃない。」
今度は声がすぐ側にいるような気がした。今度もそんな気がしただけで、きっと私の側には誰もいない。
「明晰夢は夢の中を自由に操ることができるということ、まさに夢の中の神様になれるということ。そして一般的な人間の見る夢とは、不安や期待、欲望、トラウマ、その人を表す指標と成り得るもの。あなたの夢はそうじゃない、あなたの夢には何もない。」
暗く、黒かった目の前が青みを帯びた。これも、そんな気がしただけで、きっと私の心がそう見せただけ。
「あなたの夢には何もない。それはあなた自身が―――」
「私は夢を見たわ、奇想天外で、この世界ではないどこかの夢を。」
なんだかそれ以上聞きたくなくて、私は声を遮った。
息が妙に苦しい。まるでこの空間から酸素が薄れているようだ。余裕がない中、私がいるのは宇宙なのかもしれないと、なぜだかそう感じた。
「それはあなたの夢ではないでしょう?」
「まぎれもなく、私が見た夢よ。」
「本当に?」
「私が見た夢を、そうよ、蓮子が聞いて、私たちはその夢について、そうよ。」
言葉がうまく続かない。ああ、私は何をそんなに焦っているのか。
「私が見た夢を、私たち秘封倶楽部で調査して、そうよ、何も私だけの夢だったわけじゃない、あれは私たち二人の夢だったのよ。」
「私たち?」
「そうよ、私たち、二人の、夢で。」
「誰と誰の夢?」
「私と、蓮子のよ。」
「蓮子はどんな人?」
「蓮子は、宇佐見蓮子は、秘封倶楽部のメンバーで、私の相棒よ。そして…」
そして、
「あれ?」
私は蓮子についてもっと話せるはず。それなのに、言葉が続かなかった。
そんな私に対しても、容赦なく声は続ける。
「私に伝えてください、宇佐見蓮子とはどのような人だった?」
「蓮子は、蓮子は、その…」
私が言葉を紡げず戸惑う心に比例するように目の前が赤く染まっていく。これはきっとそうだ、危険色。
そう感じた瞬間、私は声の聞こえる方に背を向けていた。
これ以上は危険だ。逃げなきゃ、私はきっと帰れなくなってしまう。彼女のもとへ、私の現実へ。
ここから、全速力で、逃げなきゃ、私は――――
「いい加減にしなさい。」
ゾクリ。
空間全体に響くような声だった。決して怒鳴られたわけではない、それなのに、私はその場から動けなくなった。
背中に何かが伝う。きっと汗だろう、でももしかしたら虫だったかもしれない、自分の髪だったかもしれない。なんだか何もかも曖昧だ、私はなぜこんなにも緊張しているのか。
目の前がさらに赤くなる。聞きたくない。
しかし、無情にも、私の耳にはしっかりと力強い少女の声が届いた。
「目を覚ましなさい。もうあなたは、二人で夢を見ることなどできないのだから。」
そして次の瞬間、私は暗闇の中を真っ逆さまに落ちた。
落ちながら、私は思い出していた。
蓮子はもういない。それはあっという間のことで、あっけなく訪れた結末。
私の夢は二人の夢。一人になってしまった今、私の夢はこんなにも何もない暗闇へと変わってしまったのだ。
ねえ蓮子。私たちがあの日見ていた夢や幻想は、実はこんなにも暗く、冷たくて、実際のところは何の輝きも持たないものだったみたい。人間というものは滑稽でそういった何もないものに何かを求めて、手に入らないものに幻想を抱く。でも実際は違った、夢自身には何の形もなかった。これが、真実。いつもあなたについてあなたと同じ夢を追いかけていた私には、私自身の夢には、こうして色がない。何も、ない。
「不安な夜はさっさと寝ちゃえばいいのよ。全てを忘れて、何にも考えずに寝ちゃうの。私たちみたいなちっぽけな存在が何を考えていたって朝は来るのよ。世界は偉大だわ、そうは思わない?メリー。」
脳裏にそう笑ってくれる彼女の顔が過ぎった。
「…そうね、寝ちゃおうかしら。」
この暗くて寂しい夜から逃げるために、私は静かに目を閉じた。
瞼の裏に先ほどまでには見えなかった光が散らばる。自分が生きていると知ることができる温かい光。さながらそれは宇宙のようで、その小さな宇宙は指で瞼に触れるだけでその色を万華鏡のように変えた。
「生命は宇宙の神秘だとも誰かさんが言っていたかしら。今なら、理解できる気がするわ。」
私は暖かい光の中で小さく息を吸い、体を闇の中に預けた。暖かい宇宙が私を包む、あなたを思い出すだけで私の夢はこんなにも色づいていく。
「そういえば。」
薄れゆく意識の中で、私はあることだけはまだ思い出せないことに気が付いた。
「あなたは、何で私の側にいなくなったのだっけ。」
「こら、メリーったらいつまで寝ている気?」
「ん…あれ?」
平日の昼間から大学構内のベンチを占領している相棒に宇佐見蓮子は呆れて言った。
「全く、メリーが珍しくサークルの集合時間に遅刻していると思ったらこれよ。三限は出てきたの?」
「え、あ…」
「あ、じゃないわよ。いつまで寝ぼけているの。」
照りつける太陽の光、木陰にそよぐ涼しい風、呆れながらも心配してくれる彼女。
帰ってきた。
「ねえ、蓮子。」
「なあに、お寝坊メリーさん。」
今ならしっかりと見える自分の手を彼女の方へと伸ばす。
伸ばした腕が日差しに当てられ、じりじりと肌を焼く。さらには直接視界にいれると目まで焼いてくる太陽の光。
宇宙なんかよりも、泥臭い。これが現実。
いつもなら憎たらしい真夏の日差しに安堵しながら、マエリベリー・ハーンは唯一無二の相棒に声をかけた。
「寝すぎで体がだるいから、おぶってくれない?」
「そんなの知らないわよ。自分の体は自分で支えなさい。」
「もう、いじわる。」
蓮子は笑った。私も笑った。そして、
そして、何も存在しない暗闇の中、少女は心地よさそうに眠る女性に声をかける。
「夢も幻想もない現実より、色鮮やかな夢を見ることを選んでしまった哀れな地上の大妖怪。人間であることを夢見て、本当に幸せなのかな。」
問いかける少女の顔とは裏腹に、眠る彼女の顔はとても、安らかなものであった。