垣根の垣根の曲がり角。焚き火は――必要ないくらい、空からの日差しが暑い。
ケントという名の少年は、全力疾走で垣根を曲がる、そしてその先に居た少女と、思いっきりぶつかってしまった。
「うわっ、いてっ!」
「……痛いのはこっちだよ、全く」
気づくと、ケントは少女を見上げていた。少女は黒くてウェイビーなショートヘアで、シンプルな薄桃色のワンピースを着ていた。兎のような赤い瞳が印象的な、可愛らしい子だ。
「君ね、気をつけないと今に罰が当たるよ」
「……へんっ、オメーがそこに突っ立ってんのがわりーだろ!」
ケントは生憎、同い年くらいの少女の戒めを聞くほど、心が素直ではなかった。ケントが悪ガキなのではない。この頃の少年は、みな同じようなものだ。女子の言うことを聞くなんて、ダサくてプライドが許さない。
そもそも、ぶつかった自分が馬鹿みたいに転んでいるのに、その少女はまるで足が根を張っているかのように、びくともしていないのだ。それがなんだか癪で、ケントはもっと素直になれなかった。
少女がじっと見下ろしてくるので、ケントはプイと顔を背けて、立ち上がり、角を曲がって走り去る。
曽祖父の家でスイカを食べなければならないのだった。
「そりゃ、てーちゃんだな」
ゲホゲホと咳き込んでから、ケントの曽祖父が言った。
「おめぇがぶつかってもびくともせんかったんなら、てーちゃんで間違いねぇさ。てーちゃんは神さんの使いだからな、身体のつくりなんぞ人様たー比べもんにならんくらいつえぇよ」
「なんだよそれ、バケモンってこと?」
ケントが聞くと、曽祖父はむせるほど笑った。
「ハハハ、強い力を持ってるって意味なら、それも間違いじゃねぇな。てーちゃんは幸運を呼ぶ兎なんだ。てーちゃんにお願いすりゃ大抵の願いは叶うんだ。じーちゃんも子どもの頃に見たことあんなぁ……もう何十年も見てねぇが」
「……なあじーちゃん、そいつとまた会えると思う?」
「会えるさぁ」
曽祖父は、こともなげに答える。ケントの心中をまるで見透かしているかのようだった。
「おめぇが望めばな」
ケントは両親の言うことにも逆らう、典型的なやんちゃ坊主だった。小学校のクラスで絡んできた女子はみんな泣かせたし、口も悪ければ腕っ節も強い。
だからああやって、同い年にしか見えない子からキッパリと叱責を受けるのは、もしかすると初めてのことかもしれなかった。
ケントは今日も走っていた。でもその足は、垣根の手前で速度を落とした。
角を曲がると、そこに『てーちゃん』が居た。
この間見た時と全く変わらない姿だった。
「偉いじゃん、私の言うことを聞いたんだ?」
「ばっ……ちげぇよ! 誰がオメーの言うことなんか聞くんだよブス!」
ニヤニヤ笑う少女が言った言葉に、顔を赤くしてケントは叫んだ。
それを聞いてまた、少女は笑みを深くした。
「で、なんの用?」
会話の主導権を握られていることなど気づくわけもなく、ケントは思い出したように言った。
「オメーあれだってな、人の願いを叶えるんだろ。俺の願いも叶えてくれよ」
「別に……私は構わないけど。ただ君、何か間違ってるね。私のチカラは『願いを叶える』ことじゃない。『幸運を呼ぶ』ってことなんだ」
ケントは首を傾げる。
「それ、なんか違うのか?」
「幸と不幸は表裏一体。いいことがあれば同じだけ悪いこともある。たとえば君が『死ぬほどいい思い』を願ったとしたら、明日ぽっくり死んでしまう塩梅だ。それでもいいなら『願い』を叶えてやってもいいけど――何より私は、同じ人間の想いは一度しか果たさない。それでもそれでもいいって言うのなら、好きにするといい」
脅すように言われて、ケントは思わず一歩退いた。しかしその年代特有の反骨心から、それでも構わねぇと啖呵を切りかけた。
すっと、ケントは言葉を飲み込んだ。
「だったらいいや」
「見た目によらず賢明じゃん」
「……よく分かんねーけどそれ、褒めてねーな!? へっ、テメーの力なんか借りなくても、俺は俺でなんとか出来るっつーの!」
そう悪態じみて、ケントは少女の前から去っていった。その後姿を、少女は笑いながら、黙って見ていた。
「じーちゃーん! 今日も居たぜ、その『てー』って奴」
「あいつホントに偉いのか? なんかゴチャゴチャ言って俺の願いなんて聞いてくれなかった」
「生意気で……むかつく! 俺より弱そうなのに!」
「あれ、じーちゃん寝てんじゃん。変な顔……あれ? じーちゃん? もしかしてどっかいてーの?」
「おいじーちゃん! 寝てんだよな? ……じーちゃん! おい!」
その夜、ケントは少女と会った。
「おや? 今日は二度目だね」
「てー!」
なんだか変な発音なものだから、少女は少し首を傾げたが、すぐに自分の名が呼ばれたのだと悟った。
「叶えて欲しい願いがあんだ」
「ふーん? 別にいいけど、そりゃ本当に――」
「一生に一度のお願いだ!」
ケントの様子にきょとんとする少女だったが、すぐにいつもの笑みを浮かべた。
「ふーん。で、なんの用?」
「……俺のじーちゃんを生き返らせてくれ」
ケントは言った。生死の何かを、ちゃんと知っていた。
それを聞いた少女は何故か、とても嬉しそうな顔で聞き返した。
「ふーん、ふーん。君のお爺ちゃん、死んでるんだ? 死んだ人が生き返るなんて、そりゃー驚くほどの幸運だ。そんな幸運を叶えてしまったら、君がどうなるか、分かったもんじゃないよ?」
「俺のことなんてどうでもいいんだよ! ……俺は親父にもおかんにも、みんなから嫌われてるし、どうせ死んだっていいって思われてるんだ。でも、じーちゃんだけはいつも優しいんだ。みんなから嫌われてる俺にも優しい。だからみんなに好かれてるんだ。だから、嫌われてる奴より、好かれてる人のほうが絶対みんな喜ぶし、だから、じーちゃんが死ぬくらいなら俺が死んだほうがいいんだ!」
言い終わる頃には、ケントは泣き崩れて、地面にへたり込んでいた。
「……分かった。君がその気なら叶えてあげよう、その願いを」
少女はそんなケントに近づいて、頭に手を当てて、優しい声でこう言った。
「君のお爺さんに幸あらんことを」
そしてしばらくして、やっとケントが泣き止んだ。それを見計らって、少女は告げる。
「君の願いは叶ったよ――ゆっくり歩いて、家に戻りな」
ケントは泣きはらした目で少女を見つめて、黙って頭を下げた。何も言わないまま振り返って、来た道を歩いて家を目指した。
垣根の垣根の曲がり角。今日も空で神様が焚き火をしているのではないか、と、思わず疑ってしまうほど暑かった。
ケントは全力疾走で垣根を曲がる――曲がろうとした。
「うわああっ!」
しかしその前に、ケントは思いっきりコケて、地面を転がった。転がった拍子に、曲がり角の向こう側が見えた。
そこに、薄桃色のワンピースを着た少女が居た。
「やあ君、また会ったね」
ケントは痛む膝を抑えながら、苦々しい顔をして立ち上がる。肘や手のひらも擦りむいていた。
「てー……じーちゃん、生き返った」
「そう、それはよかった。私の義務は果たされたよ」
それから少し怖がるような表情で、ケントが問いかける。
「なあ、てー、やっぱり俺、死ぬのか? じーちゃんの代わりに……」
くすくすと、少女は笑う。
「怖い?」
「ばっ……そんなわけねーし! じーちゃんの代わりに死ぬんなら、俺、逆に嬉しいくらいだ! ただ、死ぬなら死ぬ前に――」
そう言う目が涙ぐんでいるところを、少女は見逃さない。尤も、死ぬのが怖いのか、擦りむいた膝が痛むのかまでは、分からなかったが。
くすくす。少女が言った。
「君は死なないよ」
「……えっ?」
不意にそう言われて、ケントは目を丸くする。少女が続けて言った。
「じーさん一人の命と、子ども一人の命が、等価で割に合うわけないでしょ。私が言うんだから安心しなよ、君は死なない。君のお爺さんも、まあ、しばらくは死なないよ」
しばらく、静かだった。蝉の声だけがしていた。
かと思うと、ケントはボロボロと大粒の涙をこぼして、その場にへたり込んだ。
見ている者はたった一人だったが、人目もはばからず、大声で泣きに泣いた。
「ふふふ……死ぬのは怖いよ、誰だって怖い。私だって怖い。だから私は毎日、気をつけながら生きているもの」
泣いているケントと目線の高さが合うように、少女はケントの前へ屈む。
ケントは泣きながらも少女を見て、少女もケントを見た。そして言った。
「君は死なない。その代わりにこれから君は、お爺さんが生き返る『大幸運』の代償として、とある不幸を背負い込む。一生、死ぬまで付き合い続ける不幸なこと」
「…………なんだよ、それ」
「君は一生、そう、これから一生――急いで走ると、必ず転ぶ」
くすくす。少女は笑い、ケントは呆気に取られていた。
「さっきは早速、不幸の呪いが始まったようだったけど。ふふ、これで私も今後、曲がり角で君とぶつかることはないんだね。なんて幸せなんだろう。君が走らないだけ……ただ、それだけで」
「そんな……そんなことで?」
いいの?
問いかけるケントに、少女は言った。
「いいんだよ。君はもっとゆっくり生きな。人生は長い、焦る必要なんてないんだよ。慌てず走らず、ゆっくり歩いて……お爺さんと、楽しく生きな」
そしてその日、ケントは歩いて家に帰った。
そして次の日、その次の日も、ケントは歩いて、垣根を曲がった。
それからケントはもう、誰とぶつかることもなかった。
少年が覚悟を決めてお願いをしたとき、てゐは嬉しかったんだろうなぁと思いました。
生き返ったじいさんはすぐにピンときて、少年の優しさを知るはずです。
温かい話で良かったです。
書き込みすぎないシンプルな描写が、寓話調な話にマッチしていると思いました。
しかしクセがないのが逆に物足りない感じもしました。
何か少し含みや遊びがあると味わいが出るかなと思いました。
実にいい
ケント君は幸福の代償として初恋を失ったのでしょうか
これも「てー」ちゃんのご利益……?
ラストがあとがき含め余韻の残るお話でした。
キャラ同士の掛け合いが良いものでした。