曇天の境、陽の光が煌々と貫く空から小さな獏が墜ちてきた。その頭は牡牛のように黒く、胴は羊のように白く、瞳は頑なに閉ざしたまま、じっと空を仰いでいた。私はその様子をただ見ていた。時雨の一滴を想像するように黙って眺めていた。すると、長く伸びた白い尻尾と、その先に揺れる黒い房が、あの妖怪の獏を思い出させた。好奇心に負けて、私は思わず地面を蹴る。右の翼が一度羽ばたき、私を真っ直ぐ加速させる。やがてその墜落が、一つの目標に向かっていることを発見した。獏の真下の地面は断絶しており、深く暗い深淵が獏を静かに抱いている。一瞬ためらったが、私は後を追うことを決心した。昨夜の夢で、獏に――ドレミーに問うたことを、私は自然と思い返していた。
「ああ、私はそちら側には行けませんよ。夢を管理しなければなりませんから。それはあなたが地上に堕ちるようなものです」
「つまり、行くことはできる、と」
「さあ、どうでしょう。しかし、そもそもこちらの方が便利ではありませんか? お互いにとって」
「そうかもしれないけれど……」
はじめはひょんな好奇心からだった。ドレミーは夢にしか存在しないのか、夢の中のドレミーの他に、地上でその夢を見ているドレミーが存在するのではないか、そうした仮説を私は思いついたのだ。
「実のところ、私も外の自分がいるかどうかなんてわからないんですよ」
ドレミーは両手を力なく上げて、いかにも降参だという風に首を振った。
「夢の中のあなただって、こうして私と話していればこそ、『これは夢だ』と確信できているのでしょうが、明晰夢でもない限り本来こうした認識は生まれえません」
彼女の右手から不定形の夢魂が離れ、浮かび上がる。しばらく気ままに漂っていたが、徐々にそれは視界の上方に消えていった。
「あなたは現実で起きているときに、他の自分が眠っていると考えますか?」
私が首を振ると、ドレミーは満足そうに頷いた。
「でも、私は今眠っているわ。だから、ドレミーが目覚めることだって……」
「確かに仮定はできますがね。もし実現したとしても、先に言ったとおり、きっと不便ばかりですよ」
私の反駁にドレミーは半ば呆れているのだろうか、ため息とともにまた新たな夢魂を弄ぶと、今度はそれを雲のように広げた。雲はゆっくりと二人の頭上へ昇り、やがて冷たい雫が私の頬を濡らした。
「たとえば雨が降るとします」
いつの間にか別の夢魂を両手で捏ねながら、ドレミーは言った。
「夢の中なら、私は傘を作ることができます」
そうして、大きな桃色の傘が二人を雨から覆った。その材料は雲と同じく、ただ柔らかく不定の泡だったというのに、出来上がった傘はそれとは真逆の、硬く絶対的な雰囲気で私たちを隠していた。雨垂れに耳を澄ませるのも束の間、ドレミーは左の人差し指を立ててふたたび私の注意を引いた。
「それに、そもそも雨自体をやませることすらできます」
「このように」と言ってドレミーは右手を払った。傘も雨雲もまったく雲散霧消して、私たちの周りを心地よい空気が取り巻いた。
「しかし、地上では何もできません。雨が降れば病み、風が吹けば飛び、雪の一片にすら抗えないかもしれません」
わざとらしく肩をすくめ、獏は慨嘆してみせた。まったくもって、回りくどい。面倒な性格をしているものだと私は再認した。
「私が現実に現れるということは、無数の蛇のごとくうねる大海に身一つで漕ぎ出すようなものです。それは現実のあなたに自由に話してみせろと言うのと同じく難題でしょう。だいたい、現実的な気分を味わいたいなら、あの偽の都にでも行ってみたらいかがですか。あそこなら、私たちは自由なままです」
同意を求める彼女の右の掌が差し出される。私は何を言おうか迷っていた。しかし、結局言葉になったのは、最も単純でほとんど思いつきに近い回答だった。
「だったら」と私は口を切った。「もし私が現実でも自由に話す術を見出せたら、ドレミー、そのときはあなたもこちらに来てほしい」
ドレミーは珍しく目を見開いて驚いた後、おもむろに微笑を作ると、「わかりました。楽しみにしていますね」とだけ言い残して去って行った。
確か、そのようなやり取りだったと思う。地上の大穴に飛び込みながら、私はこれらの会話を辿っていた。
深淵は真下に向かって果てしなく伸びており、銀河状の列をなす光苔と揺らめく怨霊の炎だけがこの洞窟のわずかな光源である。もはやほとんど遠ざかって見えなくなった獏を追うにつれて、視界はさらに暗闇へと近づいた。発光性の苔の群生は徐々にまばらなものになり、怨霊の数ばかりが増してゆく。明滅する灯火はまったく不定数の葬列を成し、この洞穴の輪郭を曖昧にしていた。私はそれらを、道標というよりは一種の風景としてただ認めていた。雨粒の数を数えずとも、雨がそこにあるということはわかる。そうした仕方の認識だ。ゆえに、これらの灯の一つ一つはけっして注意を引くようなものではない。それにもかかわらず、私は同時に抗いがたい誘惑を感じていた。彼らの気紛れな炎が目に映るたびに、自分の指針がどこかに逸れる錯覚を抱いていた。そうして自分の居る場所がとうに地下の国であることに気が付くと、全身が不意に粟立った。静かに唸りつづける洞窟の呼吸が、どこか生温い湿気と、乾いた悪寒にも似た風で私を飲み込んでいた。
それからさらに進み、大気がにわかに瘴気を孕みはじめると、今度は眩い弾幕がたちまち洞窟を彩りだした。ここから先は、どうやら怨霊や妖精、そして蜘蛛たちの領域らしい。獏の安否が気になったが、まずは自身の安全を確保しなければならない。接近物に反応する機雷を展開させ、あらゆる弾を防ぎながら進路を拓く。先日の異変で要領はすっかり覚えていた。あのときの人間たちに比べればずっと簡単だ。炸裂する数々の爆発を頼りに獏の影を探す。すると、かすかにたなびく夢の煙を発見した。仄かに桃色を留めたその霞は、ほとんど残滓にすぎなかったが、あの獏から発せられたものに違いない。
煙の糸を手繰り寄せ、私は土蜘蛛の網から逃れ出る。そのまま速度を上げていっさいの弾幕を振り切ると、この深淵の底が見えてきた。羽ばたく翼が足下の塵を飛ばし、私は静かに降り立った。
煙はそこで直角に曲がり、洞窟の深部へ続いている。獏の跡を辿る過程で、私は地底の風景を知った。ほとんど寂れた橋を渡り、賑わう街の外れへ歩を進める。獏が喧噪の中を通らなかったのは幸いだった。街道に飽和する者は霊が大半を占めていたが、妖怪も少なからず見受けられたからだ。中でもひときわ目立っていたのは、巨大な盃を片手に乗せた鬼である。おそらく異質な気配を感じたのだろう、彼女は訝しんで視線をこちらへ向けた。何か問われたりしたら厄介だと思ったが、そこへ仲間と思しき妖怪が合流すると、いくつか言葉を交わした後に彼女たちはどこかへ行ってしまった。断片的に聞こえてきた会話によれば、私の翼を天狗のものと見間違えたらしい。ともあれ、面倒事は避けられた。
街道から遠ざかるにつれ、道はいっそう手付かずの悪路と化していった。狭く複雑な迷路を無数の鍾乳石が阻む。途中、何度も苔に足を滑らせながら、私はそれらの隙間へ何とか身体を押し込めて進んだ。果たしてほんとうにこの先で獏は待っているのだろうか。あの意地の悪いドレミーの笑みを思い浮かべると、どうにも信用ならない気分に傾いてしまう。それでも、ここまで来て引き返すというわけにはいかなかった。もしそうしたなら、きっと今夜は最低の夢見になるに違いない。夢の獏を問い詰めるために、今ここで私は獏を捕らえなければならないのだ。
かくして、最後の鍾乳石をようやく潜り抜けると、澄んだ空気がすっかり火照った身体を冷ました。膝に手をつきながら、大きく息を吸い込む。そうして顔を上げてみれば、そこは地底湖だった。
水面は限りなく薄い黒瑪瑙のごとく円状に広がっており、獏は夢の煙の紗に包まれてその上に浮かんでいた。いや、下降しつつあった。獏の高度は徐々にその黒瑪瑙の水平線に漸近していて、今にもその淵に失われつつあるかのように思われた。頼りの霞も、もう随分と透明に掠れていた。
そして、音もなく獏は姿を消した。黒々と静止する奈落の湖にそれは溶けた。私は、獏が浮かんでくるのをただ待った。まだ獏と私を繋ぐ糸は失せていない。雨後の桜と同じく霞の色が失われるまで、私は水面を眺めていた。だが、獏はついに現れなかった。
私は湖の中心に飛ぶと、陰陽玉をもって眼下を照らした。水面が透き通り、獏の姿が見えた。獏は今も眠りつづけたまま、透明な水の中で揺蕩っている。次第に遠ざかるそのシルエットに急き立てられ、私は思い切って湖へと飛び込んだ。もがきながら手を伸ばし、獏の尻尾を捉える。そのまま一息に持ち上げようとしたが、そうはいかなかった。得体の知れぬ思念たちが私の身体を水底へと引きずり込もうとしている。目を見開き、この奇妙な感覚の正体を確かめてみると、虚空から青白い腕や脚が伸びているのが分かった。振り払えども水以外の手応えはなく、焦燥とともにその四肢の断片の数は増した。無数の手はたちまち全身を絡めとり、恐るべき力で私と私の抱える獏とを引き寄せはじめる。いかなる抵抗も彼らには無意味だ。一連の格闘に際しても深い湖は素知らぬ顔で、どこまでも果てしなく私たちを抱く。口を開けど、言葉はすべて泡と消えていく。運命に抗えない気泡の数だけ視界が陰り、意識が薄れる。せめて獏だけでも、と考えたが、四肢はただ気怠さに沈んでいた。霊力も湧かなければいかなる兵器も使えない。万策が尽きたその果てで私は超常的な引力に敗北し、まったく気を失ってしまった。
目を覚ますと、私と獏は湖のほとりに横たわっていた。あの絶望的な状況から、いったいどうして助かることができたのだろうか。さすがに都合の良い幻視映像とは思えない。身体は確かな重力を感じているし、なおも服の端からは延々と水が滴っている。ゆえにこれは連続した現実だ。つまり、何者かが私たちを引き上げたに違いない。しかし、いったい誰がそんなことをしたのだろう? ここは洞窟の最深部、好んで訪れる者などいないだろうし、天然の鍾乳石がひどく狭隘な迷路を形作っている。
「もしもーし、今あなたの目の前にいまーす」
突如現れた影に飛び上がりそうになる。視線を上げれば、まるで幼い子供のような少女が私の顔を覗き込んでいた。深い緑色の瞳が、いやに奇怪な深淵に、あるいはまったく奥行きのない平面に見えた。
「そこは血の池地獄じゃないからあまり面白くないかもね」
少女の台詞の意味は掴めなかったが、私はそこで彼女の服も少し濡れていることを発見した。しばし目を伏せ考えた後、私は口を開く。
「ねえ、もしかしてあなたが……」
「そうよ、私メリーさん、今あなたの後ろにいるの」
不意に肩に手が置かれ、私は今度こそ飛び上がった。振り向くと少女が無邪気に歯を見せて笑っている。無軌道にも程があると思ったが、それでも一応私たちの恩人なのかもしれない。気を取り直してふたたび問う。
「ええと、あなたが――メリーさんが助けてくれたの?」
「違いますー。私は古明地こいしでーす」
両手を交差させ、唇を尖らせて彼女は言った。いよいよ混乱してきた。問題は、狂っているのが私なのか彼女なのかということで、おそらく後者だろうと私は信じているのだが――この少女の言動につい不安にさせられる。
「じゃあ、メリーさんは誰?」
「あなたの後ろにいるの」
「古明地こいしは?」
「あなたの目の前の私!」
「つまり、あなたはメリーさんではない」
「別だけど同じなの。私がメリーさんなんですよー」
「分かったような分からないような」
言葉を限定された私と、予測不可能な思考をした相手との問答は、必然的に無秩序なものへ陥らざるをえなかった。投げ出したくなる気持ちをこらえながら、彼女の正体を再三にわたり確かめようと試みたが、残念ながら常識的な回答はついに得られなかった。
肩を落としながら、獏の今後の処遇について考えていると、彼女は突然思い出したかのように声を上げた。
「その獏、お姉ちゃんのペットかもしれないから連れて行ってくれる?」
「そうではないと思うけど……」
「まあまあ動物のことならお姉ちゃんに見てもらうのがいいだろうし……。やっておいてもらえます? あっちの方に大きいお屋敷があるから、そこまで」
彼女は「あっちの方」を指差すと、呼び止める間もなくどこかへ行ってしまった。数歩の距離しか離れていないだろうに、はじめからここにいなかったかのように忽然と姿を消したのだ。現れたときのことを鑑みるに、彼女はそうした妖怪なのだろうか。
面倒事を押し付けられたと思ったが、獏の容態が気がかりという点では同意できる。そうでなくとも、ここは助けてもらった恩に報いるべきなのだろう。本心でなくとも、自分を誤魔化す口実くらいにはなる。
来た道を引き返し、またも窮屈な隙間を這い出る。先ほどの経験から、わりあい余裕のある道筋を辿ることができたが、今度は獏を伴っているために、総合すると苦労はおおかた変わらない。夢の力を失った獏が、私の腕に収まるほど小さくなっていたことがせめてもの幸運だった。そうでなければ、私はこの洞窟を破壊しなければならなかったろう。人目に注意しながら示された方角へしばらく行くと、それらしき屋敷を発見できた。
月の都の物に比べれば劣るが、それでもこの一帯では最も巨大な建造物に見える。内装も外見に劣らず豪奢な調度で飾られていたが、それらは秩序の下に統制された絢爛というよりも、打ち棄てられた遺跡に似たある種の寂莫を連想させた。大きなステンドグラスが暗い虹色の影を落とすエントランスを抜け、長い廊下に燃え立つ夕陽の朱色を歩む。扉を一つ開けるたびに、埃と数多の動物の匂いが光に混ざり漂った。不意に横切った黒猫が不思議そうに私と、それから私の抱く獏を見つめた。二又の尾を立てて猫が踵を返す。そして何度もこちらを窺いながら、奥の方へと踏み出した。私たちを誘っているのだろうか。
この屋敷はまさに没落の象徴だった。様々な部屋を通り抜けるごとにそうした感想は確信へと変わっていった。たとえば展示室ではあらゆる物がつねに崩落の危機にあるように、細緻な造形のシャンデリアはすでにその均整を欠いた蝙蝠の巣であり、少女と思しき者の肖像画は顔の部分がまったく剥げ落ちている。私がそれらを観察しているあいだ、黒猫は不吉な前足で罅割れた頭蓋骨の埃を払っていた。
それらの空気を次々と抜けて、屋敷の東西を繋ぐ奇妙にねじれた廊下を危うい足取りで進む。そうして扉を開くと、そこから先の景色は一変した。
毛並みの整った絨毯に、控えめだが品のある照明が私を迎えた。ソファの上では真っ白な猫が静かに眠っており、背の高い振り子時計も埃を被ってはいない。もっとも、地底らしい陰の雰囲気はどこかで共通してはいたが。私は黒猫の先導に従って部屋を横切る。すれ違い様に、白猫の尾は一本であることを確かめた。どうやらこの屋敷に住まう動物がみな妖怪とは限らないらしい。そう思うと、ここの動物たちはよく躾が行き届いていると言える。突然の訪問客である私たちに対しても、彼らは一様に黙って見送ってくれていた。
さて、細密画めいた装飾の施された扉を開けると、そこは高い天蓋の見下ろす書斎だった。数々の巨大な本棚には数多の言語の本が収められており、また机の上にはこの部屋の主が目下取り組んでいるだろう厚い本の山々があった。
「ご苦労さま、お燐」
机の向こうから聞こえてきた声に黒猫は一鳴きして答えるとそのまま部屋を去った。あの黒猫はいったいどこへ帰って行くのだろうか。遺跡めいて暗い西の方か、秩序に照らされた東の方か。おそらく西の方なのだろうが、そうでもないのかもしれない。もしかしたら、北や南、あるいは上方と下方にも別の景色がありうるのだから。
「この屋敷が不思議ですか?」
不意に投げかけられた一言に私は驚いた。声の主は私の心内の疑問にちょうど応答してみせたのだ。そこまで分かりやすい表情をしている気はないのだが、偶然にしては奇妙だ。さて、どのように問うたものかと思案していると、やがて机の傍からその姿を現した。髪の色などは異なっていたが、背格好は先ほど邂逅した少女とよく似ている。つまり、おそらく彼女の言っていた姉なのだろう。彼女の身に繋がれた奇怪な眼が、私の方を観察していた。
「妹の方を先にご存じとは、珍しいですね」
またも彼女は私の心を見透かすように感想を述べてみせた。いや、比喩ではなく、実際に心を読んでいるに違いない。そう思うと同時に、「ああ、申し遅れました」と彼女は続ける。「私は古明地さとり。ここ地霊殿の主であり、名前の通り、サトリ妖怪です」
それから、古明地さとりは親切にも私の濡れた衣服や食事について気遣ってくれたが、私はそのすべてを辞退した。衣服の状態は霊力によって自動的に回復しつつあったし、食事を欠いても存在の維持は可能だ。そもそも、穢れを摂取することによる害の方が遥かに大きい。彼女の申し出の中で結局私が受け取ったのは、獏の診察と宿の提供だけだった。ここは巨大な屋敷だが、暮らしているのはペットの動物ばかりで、部屋の空きには余裕があるとのことである。確かに生の気配はやけにまばらに感じられたので、私は容易に彼女の言葉を信用できた。
これらの説明はすべて獏の診察の傍らで行われた。というのも、眠りつづける獏の思考は現実から乖離しており、それが夢によるものなのか病によるものなのか、なかなか判別しがたいのだ。古明地さとりは獏を長いあいだ観察して、ようやく口を開く。どうやらまったく異常は無かったらしい。私はひとまず安堵したが、それがある種の奇妙な反応に思われて困惑した。そもそもなぜ、この獏の安否を私が気遣う必要があるのだろうか。湖においては気にも留めなかったような事実が、今は引っ掛かって仕方ない。私がこの義務を果たしたのは、あくまでも古明地こいしに押し付けられたからにすぎず、あるいはこの獏とドレミーの関係がいまだ不明だからというだけのことだ。目の前のサトリ妖怪はそうした私の心情を見ても、強いて何か言おうとはしなかった。
それらの手続きが終わると、私は獏を抱いて与えられた部屋へと向かった。先導を務めるペットの小鳥たちがあらかた部屋を掃除し終わると、私は獏をベッドに寝かせ、傍らの椅子に腰を下ろした。獏は相変わらず眠ったままだ。その穏やかな顔を見つめたまましばしまどろんでいると、いつの間にか私の意識も獏の世界に誘われていた。
次に気が付いたときには、壁の時計はもう夜を告げていた。軋む身体を伸ばし、立ち上がる。眠気覚ましにドアを開けて外に出てみたまでは良かったが、ただ一人で静かな夜の廊下にいると、目的地を伴わない自分の歩みがやけに気になりはじめた。どうして私はこんな所にいるのだろう。ここには月の光も差さない。
足取りはやがて自然と知った場所に向かっていった。数刻前に古明地さとりと出会ったあの書斎だ。深呼吸をして扉を叩くと、ひとりでにそれは開いた。「こんばんは」と彼女は微笑んだ。
「何か、悩み事でも?」
そう言いながら、私の手を引いて彼女は書斎を出た。「せっかくですし、話は食堂でしましょう。良い赤ワインがあるんですよ」
「そう」私は答えようとして口を開く。「でも、私は……」
「やはり、地上の物を摂取するのは気が進みませんか」
私が頷くと、彼女は「では、話し相手だけでも」と言って視線を前に戻した。
そして、わずかな灯りのみに照らされた食堂で、私と古明地さとりは相対する。「あまり明るくすると、ペットが驚くので」と彼女は囁いて、暗がりに丸まって眠る猫を指した。
「では、乾杯」と彼女が言う。
「乾杯」と私も水の入ったグラスを掲げた。
そうして少しだけ唇を湿らせると、随分と気が軽くなった。乾いた肌に染み入る水のように、それは私の絡まった心情をほどいてみせた。自然と言葉が喉をすり抜けてゆく。
「今更だけど、私は稀神サグメという。獏を診てくれてありがとう」
「ええ、どういたしまして。でも、別に改まることはないでしょうに」
彼女はおかしそうに表情をやわらげる。
「そう思ったけれど、こういうことは口に出した方が良いかな、って」
私が言うと、彼女はグラスを一度傾けてから深く頷いた。
「口数が少ないと思っていましたが、あなたはどうやら難儀な能力を持っているようですね」
「ええと……ごめんなさい」
「いえ、あなたが私の話に耳を傾けてくれていることはわかりますので」
それでも私が黙っていると、彼女は続けて、「それに、能力のせいで苦労をするというのは、私も似たようなものですから」
「お互い、口に出さなければいいのに」
思わずそのような言葉が口を衝いて出てきた。すかさず彼女は反論する。
「それもそうですが……それでは他人といても仕方ないでしょう。結局、どちらにせよ相手は楽しい思いをしません」
彼女の率直な言に、私は軽率な発言を恥じた。前に同じようなことをドレミーにも言われた覚えがある。我ながら学習しないものだ。
「あなたのことを責めているわけではありませんよ。沈黙はあなたの優しさの証です」
大きく首を振って否定すると、彼女は口を開けて笑いはじめた。
「素直に打ち明けると、月の神様はもっと尊大だと思っていました――あなたに会うまでは」
冗談めかした目配せとともに、彼女はグラスに残ったワインを飲み干す。
「噂は噂にすぎぬのでしょうか。それとも、あなたが特別なのか……」
三つの眼が真っ直ぐ視線を送る。私はこのもったいぶった言い回しに耐えかねて口を開いた。
「そうではない。月の神々は私などよりずっと偉大だから」
「それはそれは。いつかあなたのように、他の方々もここを訪れてくれることを期待しましょう」
それから、私たちはしばらく押し黙っていた。たびたびグラスを持ち上げ、喉を鳴らすときを除いては、食堂はまったく無音だった。私はそうした中でただ呆けたようになっていたが、それに気付くと、たちまち目の前の彼女の認識世界が気になりはじめた。つまり、彼女にとってはこの無音の空間ですら、さまざまな動物や私の想念が飽和して感じられるのではないかと考えた。
そうしたサトリ妖怪についての推測を試みているうちに、ふと気になって顔を上げてみれば、まさにその眼と目が合った。驚きに身震いし、この驚きも読まれたのだろうと思った。
「この眼が気になりますか」
「少し……けっして詮索しようというわけではないのだけれど」
私は言いよどんだが、彼女はその言葉をおそらく正確に捉えていた。彼女は胸の中心へその眼を移動させると、次第に語りはじめる。
「これは第三の眼。サトリ妖怪の能力の象徴です。実を言えば、このようなものはもともとなかったのですよ」
そう言われてみれば、確かに第三の眼は奇妙な外的器官のように見える。しかし、なぜ今それが備わっているのだろうか。たとえば人間の伝承などによって、ときおり妖怪の姿が変化することはありうるが、この例がその類のものとは考えにくい。
「何があったの?」と私は問う。それを待っていたかのように、彼女は次の言葉を継いだ。
「本来、私たちは複数でした。つまり、個というものがない集合的な存在です」
「わかりますか?」と彼女は首を傾げる。努めて想像してみたが、いまだ明確な像は結べそうにない。首を振って応じると、彼女は言葉を選びながら、順を追って物語った。
「サトリ妖怪は心を読むことができます。このことは同じ種のあいだでも同様です。私たちは私たちの心を読み、読まれて暮らしていました。そのとき、私たちの世界は一種の無限の反響と言っていいでしょう。誰かが何かを思う。同時にみながそれを知る。みなが知ったことを知る。知って思ったことを知る。そして、この私自身が思うこともその激流の一滴でしかない」
そこで一度切られ、新たにワインが空のグラスを満たす。彼女は一口、二口とそれを呷ると、ふたたび口を開いた。
「こうした環境下で、果たして個を保てるでしょうか。いいえ、個を保つ必要があるでしょうか。私たちはすべての意を瞬時に共有し、完全な協調を保ちながら暮らしていました。
しかし、そうした在り方は他の妖怪から見れば奇怪です。とくに人間にとっては恐ろしいものです。心を見透かす妖怪が、常に集団で蠢いているのですから。臆病な彼らは私たちを排除しようとあらゆる策を試みます。結果、私たちは棲み処を追われ、離散を余儀なくされました。離散のたびに、私たちの総体は小さくなります。個がないのですから、それはまるで手足をもがれるようなものです。そうした四肢の綻びとともに、私たちはやがて歩くことすら困難になりました。そこで生み出されたのがこの第三の眼なのです」
私は彼女の眼をじっと観察したが、それはどこか無機質な印象を抱かせた。もちろんこの話を聞いたがゆえの感想なのかもしれないが、やはり第三の眼は後天的なものなのだ。
「手足がなければ、手足を作れば良い。私たちに個を持たせ、能力について自覚的になるために、第三の眼という器官が創り出されたのです。そうして、その第三の眼に適応し、この幻想郷でなお生きのびているのが私たちです――いえ、もしかしたら、私だけかもしれませんが」
彼女は婉曲的な言い方で、物語の流れを一度止める。おそらく、本来はここで終わっていたはずなのだろう。しかし、私はついそこで古明地こいしのことを思い出してしまった。この姉妹の振る舞いは、いくらか対照的だから。こちらの思考を読み、冷静な対応を見せる姉と、そもそも意思の疎通ができているのかしばしば怪しく思われる妹。あの妹の方の眼はいったいどのようになっていたのだろうか。姉のものとはまた雰囲気が異なっていた気がするのだが……。
「ええ――あなたは明確に覚えていらっしゃらないようですが、妹の眼は閉じています。ゆえに彼女は心を読めず、また私も彼女の心を読めない。妹はいわば無意識の世界に行ってしまいました」
私の不意の想起をきっかけに示された重大な事実に、私は正直戸惑っていた。これらのことは、とても一夜の客人の身に余るものなのではないのだろうか。
「あの、ええと、これは私が聞いてもよかったのかしら?」
「構いませんよ。屋敷の外の方と気兼ねなく話すのは久しぶりなので、つい多く話してしまいました」
そう彼女は言い、手元のグラスを一瞥して、「あるいはこちらのせいも」と微笑んだ。
それでも私はなかなか折り合いを付けられずにいたが、彼女がグラスを持って立ち上がったのでそうした憂慮は中断されてしまった。
「では、また明日に」
彼女の背中を見送りながら、私も後れて席を立つ。わずかな照明もひとりでに消え失せ、純粋な夜闇が辺りを包んだ。
客室に戻ったが、やはり獏はまだ眠りつづけていた。この睡眠の徹底を見ていると、実はもう獏は死んでいるのではないかという感想をつい抱いてしまう。夜半に目覚められても困るのだが、ここまで頑なに不動となると、そうした直感へ至るのが自然だろう。念のため耳を澄まして確かめると、かすかにだが息の音が判別できた。私はひとまず胸を撫で下ろした。
髪をほどき、簡単に就寝の準備を済ませると、獏をそっと持ち上げて椅子の上に横たえる。この獏の大きさならば、多少寝返りをうっても椅子から転げ落ちるようなことはないだろう。それから少し考えて、上着を獏の上に掛けてやり、私はベッドで仰向けになった。
今日の数奇な体験の一つ一つを思い返しながら、布団の感触と時計の音のみに五感を預ける。この夢へ旅立つ前の、ともすればこの上なくもどかしい静けさは、けっして嫌いなものではなかった。なぜならそれは、最も自由でありうるはずの夢が、意志によっては迎えられえない不自由の覆いに隠されているという美しい矛盾を示しているからである。
ゆえに、夢は自由の性質においては両面だ。そういう意味では、夢は現実と何ら変わらないのかもしれない。あるのは目を閉じているか否かという些末な差異だけだ。そして、闇夜ではその違いすら薄れてしまう。瞬きをしてもほとんど同じ闇が繰り返されるのみで、夢現半ばの頭にとってはそれらの正確な判別など不可能と言っていい。たとえ目蓋を確かめたとしても、自分が目を開けているか否かはわからないかもしれない。夢の私は目を開けているつもりでも、現で私は眠っているのだから。
そして私は目を開けた。そこにはもう多くの夜を通じて見慣れた世界が広がっていた。
夢の中でドレミーを見つけるのはそう難しいことではない。彼女に面会を拒絶する意志がない限り、念じれば道はそこへ自然と通じてくれるからだ。しばらく歩いていると、彼女の姿が向こうに見えた。
ドレミーはいつも通り、夢のソファに腰かけて手元の本に視線を落としている。たった一夜しか置いていないというのに、その姿がやけに懐かしく思われた。
「ねえ、ドレミー」
彼女は本を畳み、私の方を見た。私は続けて口を開いた。
「私、獏を見たわ」
ドレミーは一度驚いた顔を見せて、「そりゃあ、獏くらいどこにでもいるでしょう」と返した。
「ただの獏じゃないわ。あなたと同じ尾を持っていた。あなたと同じ夢の煙に包まれていたの」
「それは珍しい。しかし、たとえば人々の噂によれば、世の中にはよく似た者が三人はいるといいます。このことはあなたもご存じのはずなのでは?」
「そういう話ではない」
「そういう話かもしれませんよ」
その後いろいろと追及してみても、ドレミーはのらりくらりと言い逃れるだけだった。肯定とも否定ともつかぬ曖昧な応答とさりげない論理のすり替えとの果てしない連続に、とうとう私は痺れを切らした。憤りに任せてあらゆる特徴を列挙してみせると、ドレミーもさすがに参ったのか、あるいは呆れかえったのか、ようやく認めた。
「……正直、あなたには見られたくなかったのですが」
「私には?」
「いえ、誰にも――ですかね。白状すると、おそらくそれは私に関係がありますが……いったいどちらで見かけたというのですか?」
前髪を弄びながら、ドレミーはためらいがちにそう尋ねる。彼女らしくない動揺の色がはっきりと表れているのがわかる。「地底で見たのよ。正確には、空から地底に落ちる獏の姿が」
そう答えてやると、いよいよドレミーの表情は驚愕ばかりをありありと示しはじめた。
「そんな馬鹿げたことが……。いったいどうして――予想がつかないわけでもないのですが、しかし……」
ドレミーは呆然としたかと思えば、うなだれたきり顔を上げない。試しに「大丈夫?」と覗き込んでみたが反応はなかった。
「もしかして最近、現実で私のことを誰かに話しましたか?」
私が首を振ると、ドレミーはひどく思い悩んだ表情で次の言葉を口にする。
「では、どうやら昨夜の会話が原因なのかもしれません」
「どういうこと?」
「現実に存在しうる私についての話です。あなたは確かにそうしたことを尋ねたでしょう?」
現実の側で夢を見ているドレミー・スイートの存在。あの獏がまさしくそれだったというのだろうか。しかし、その事実と昨夜の出来事を結ぶには、今一つ疑問が拭えない。
「でも、ここでは私の能力が意味をなしたことなどないはずなのに……」
「他の物についてはそうでしょう。ここにあるのはすべて一夜の夢です。それらには逆転されるべき運命などというものはたいしてない。
しかし、ここにいる私はそうではありません。私の見積もりが甘かったようですね。あなたの舌禍はけっして夢の中で力を失うわけではなかったということでしょう」
「私のせいで……?」
「いえ、自責の念などに駆られる必要はありませんよ。ちょっとした手違いにすぎませんから。別に獏の安否には関わりのないことでしょう」
「でも――」
そう言いかけて私は口を塞ぐ。また不用意な言葉が彼女の運命を変えてしまうかもしれないから。私は結局、不自由でありつづけるに違いない。そうした天命からは夢においても逃れられないのだ。
「ごめんなさい、ドレミー」
「そう気になさらずに。いつも通り話してくれればよいのです。今まで他に何か起きたことはなかったでしょう。獏の件は例外的なことですし、対策も打てますから」
今度はドレミーが、黙り込む私の様子を窺う番だった。けれども私にはもう発すべき言葉が見つからない。そのまま沈黙していると、おもむろにドレミーが口を開いた。
「現実なら、喋らなくてもいい大義名分があるのでしょうが……」
ドレミーは決心するように息を吸い、中断した台詞を最後まで放った。
「ねえ、それだとあなたは逃げているだけです」
もはや彼女の表情を横目で見ることすら罪深く思われて、私はまだ俯いていた。
知れず口にした言葉で他者を狂わせるのはこれが初めてではなかったが、そうした出来事ははるか昔の、私が舌禍をこの身に宿した当初のことだ。今になって同じ過ちを繰り返すのは、つまるところ私はいっさい学んでいないということなのだろう。
完全に沈黙に徹した私の横で、きっとドレミーは困った顔をして、我慢強く私の言葉を待ってくれていた。夢魂をいたずらに弄ぶこともなく、あの本をふたたび開くこともなく、彼女が私の方を真摯に見つめてくれているのが痛切に感じられた。
しかし私はそれに答えられない。ドレミーはため息を一つ吐いた。「あなたが強情なのはわかりました。今夜はここで失礼するとします」
そして、ドレミーは忽然と姿を消した。心の中で念じてみても当然道は通じない。私は独り取り残されて、夢の続きへ放り出された。これからは、夢さえ安住の地ではなくなるのだろうか。それを嘆く孤独な言葉たちは口から出た途端に霧消して、誰かのもとへ届けられることはなかった。私は目を閉じた。自由な夢がその先に待ち受けていない闇夜は素晴らしい矛盾の色を失って、もはや単なる牢獄にしか映らない。
ふたたび目を開けると、滲む視界の中で景色はいくらかの光を取り戻していた。
「おはようございます」
ドレミーが私の顔を見下ろしながら言った。
「どうして――」
「ちょっと黙ってください」
ドレミーの手が、私の口を塞ぐ。さっきは逃げていると言ったのに……。
「これは夢ではありません。現実です」
そう言われて、私はやっと気が付いた。髪はほどけており、服だって先ほどまでとは異なる。何よりドレミーが腰かけている椅子には見覚えがあった。ここは地底だ。
ということは、眠っていた獏がドレミーとして目覚めたということなのだろうか。願っていたことではあったが、あの夢のやり取りの直後に顔を合わせるのはなんだか落ち着かない。
「なんというか、きまりが悪いですね」
目を泳がせながら、まったく同じ心情を述べてみせたドレミーに、私は思わず笑った。彼女も曖昧にだが微笑みを返した。
「こうも不意打ちのように事態が起こると、正直どういう態度を取ればよいのかわかりません」
「……そうね。でも、もう一度言うわ。ごめんなさい、ドレミー」
彼女の正面へ向き直って頭を下げる。
「私も少し、言いすぎました。またあなたとは気兼ねなく話したいのです。まあ、こんなことを面と向かって言うのは恥ずかしいものですが」
私は頷いた。そしてベッドから立ち上がると、テーブルの上へと移されていた上着を羽織り、髪を結いはじめた。ドレミーは部屋のあちこちへ視線を彷徨わせていたが、すぐに飽きたのだろう。私の方を見ながらためらいがちに言った。
「よければ私がしましょうか? ここには鏡がありませんし」
私はそこで手を止めて、しばらく迷った。十分な思考の末に「じゃあ、任せるわ」と返した。ドレミーは私の髪の一束を引き継ぐと、わざとらしく感嘆してみせた。「さすが高貴な方でいらっしゃる」
はじめの頃こそ、ドレミーは恐る恐るという手つきでゆっくりと私の髪を撫でていたが、次第に慣れてきたのか、淀みない調子で髪を編みはじめた。「ねえ、ドレミー」と私は背後の彼女を呼ぶ。「意外と器用なのね、ありがとう」
「……そうでなければ、夢など創り上げられませんから」
一拍の後にそう返事があったが、どのような顔をしてそれを言っているのかは残念ながら読めなかった。
そうして身支度を終えると、私たちは部屋を出た。途中で窓に自分の姿を映してみたが、髪は普段と同じく確かに結われてある。隣ではドレミーが半ば得意げに微笑んでいた。
「ほんとうにこちらではほとんど話しませんね」
ドレミーは現実の世界が珍しいのか、口数の限りなく少ない私が珍しいのか――おそらく両方だろうが、好きなように喋りはじめた。
「まあ、仮に舌禍がなかったとしても、夢の中ほど淀みない発話はできないでしょうが……。そもそも、言葉を発するというのは、それをただ思うことに比べれば、随分と鈍い速度の行為です。想像力というのは非常に素早い――あるいは、自在に伸び縮みする。声となって現れ出る言葉はせいぜい上澄みですが、その背後には膨大なオルタナティブが存在します」
ドレミーは、真偽が曖昧なことを述べながら、私と並んで廊下を歩いた。小鳥の一群が開け放たれた窓からいっせいに流れ込んでくる。彼らは一息に私たちとすれ違うと、向こうの客室の方へと飛んだ。たぶん、また彼らが部屋を整えているのだろう。
「あの鳥たちのように、私たちとは無関係に現実の出来事は勝手に流れてくれますが、夢の時間は連続した想像から成立しています。いかに突拍子のない展開であろうと、私たちはその物語を無意識に続けていかなければなりません。想像をやめれば夢は終わってしまいますから。それは夢の自死です。私たちは想像力という浮力を失えば夢から墜落してしまいます」
そう言いかけて、ドレミーは私の前に立つと、こちらを覗き込むようにして続ける。
「ところで、なぜ獏が夢を食べるか知っていますか?」
「今の話でだいたい想像はついたわ」
「ええ。獏は、夢の浮力で浮きつづけるために夢を喰らいます。あなたが見かけた獏は、天から墜ちてきたのでしょう?」
「ですから」と彼女は私の目を正面から捉える。
「対策は容易です。獏が浮力を失ってもいいように、その座標を固定すればよいのです」
「それで、私にその役を」
「察しがよろしくて助かります」
つまり、都を凍結したときと同じように、あの獏の世界を凍結すれば済むということだった。そうすれば、墜落が起きても獏はその空間に留まることができる。都全体に比べれば獏の周囲程度の凍結など私だけの力でも容易だろう。
「引き受けるわ」
「良いのですか?」
「それで自由に話せるならば」
私は顔を背けた。どうにも自分の言った言葉が我ながら真意とは思えなかったのだ。幸い、ドレミーはこれ以上追及しなかった。私たちは黙って廊下を歩きつづけた。道すがら、鼠を追い回す猫や、見知らぬ客人をじっと見つめる犬などとすれ違った。
そうして辿り着いた書斎の扉を開けると、古明地さとりはそこにいた。
「おはようございます」
彼女は机の向こうからそう言うと、本を閉じて私たちの前へ現れた。
「……そちらは獏ですか。なるほど。ただ私は意識したことを読み取るのに対して、あなたの管轄は夢、無意識の世界ですね」
「何者ですか、この方は」とドレミーが私に囁く。この妖怪の前では声をひそめることなど意味をなさないというのに。それを証明するように、彼女は答えてみせた。
「私の名前は古明地さとり。サトリ妖怪です」
「ドレミー・スイートと言います。なるほどサトリ妖怪――確かにあなたの夢をお見かけしたこともあったかもしれません」
互いに握手が交わされる。ドレミーはこちらの方を横目で窺い、「どうやら自由に話せるようになったらしいですね」と笑った。そう言われて私はやっと偶然の縁に気が付いた。私の反応からドレミーは察したのだろう、彼女は曖昧な表情を作って先の言葉を誤魔化した。
「獏の件は解決したようですし、あなたがたはきっと今日には御帰りになるのでしょう。でしたら、ぜひご案内したい所があります」
古明地さとりの先導に従って私たちが辿り着いたのは、ちょうど屋敷の東西の中心に当たる場所だった。そこへ通じる扉を開けると、巨大な植物園の廃墟めいたがらんどうが待っていた。中庭かと思ったが、見上げてみれば大天蓋が覆っている。そもそも、地底で吹き抜けを作ったところで陽など差さないはずだから当然のことだ。どうやらここでは大天蓋を巡る人工の天体があらゆる光を放っているらしい。
「あれはなんでしょうか?」とドレミーが頭上の奇妙な梁を指した。
「あれは廊下ですね。この屋敷の東西を繋いでいます」
私はあのねじれた廊下のことを思い出した。
「廊下にしてはずいぶんと歪ですね。最初からねじれていたのですか?」
「それは……。そうですね、サグメさんはもうご存じかと思いますが、この屋敷には多くのペットがいます。そして、もともとここはその中でも巨大なペットを飼うための庭だったんですよ」
「たとえば麒麟とか?」と私は尋ねる。彼女は微笑んで、「ええ、他には象などもいました」
「しかし成長しゆく彼らにとって、あの廊下は邪魔だったのでしょうね。ある日あのように曲げられてしまいまして。そうして、その後ほどなくして彼らは亡くなりました。もとは外で開放的に生きる動物ですから、きっとこの地底は合わなかったのでしょう」
話を聞いて、私たちは亡き動物たちに思いを巡らせた。今や植物もほとんどが枯れてしまっているが、以前は元気に闊歩するペットたちとともにこの庭を彩っていたのだろう。月の都ではけっして起こりえないその短く激しい変化に、私は思わず同情しつつあった。
一様に黙り込む三人に、ふと声が掛けられた。
「あれ、お姉ちゃん。あと獏の人……?」
見れば、西側の扉の傍に古明地こいしが立っていた。
「獏の人ではない」と私が答える間に、彼女は私たちの目の前まで来ていた。
「珍しいね。お姉ちゃんがここに来るなんて」
「お客様がいらっしゃったから、案内したのよ」
「ふーん」と妹の方は気まぐれな歩みでドレミーに近づくと、唯一不明な彼女をいろいろと観察しはじめた。ドレミーの困惑は私の目にも明らかだった。
「あなたは誰?」とこいしが問う。ドレミーは参ったとばかりに手を上げて、「獏です。ドレミー・スイートです」
「なるほどー。大きくなったねえ」
古明地こいしはまったく表情を変えずに感心したような声を上げると、手を伸ばしてドレミーの頭を撫でた。もはやドレミーは完全に混乱していて、私の方へばかり助けを求めてきたが、残念ながらそうはできそうにない。私の方も手を上げて降参を示した。ドレミーはいよいようなだれた。
「あんた、いい加減にしなさい。お客様が困っているでしょう」
古明地さとりが妹を叱り、ようやく救いの手が差し伸べられる。「まったく薄情ですね」ドレミーは乱れた髪を整えながら私を恨めしげに睨んだ。「私にはどうしようもないことよ」と私は端的に返す。そもそも、あの姉が真っ先に止めに入らなかった時点で、彼女も実は半ば楽しんでいたのだろう。薄情と言うならば、むしろ向こうの方だ。そのように考えていると、当の彼女がひそかに目配せをするのが見えた。
それから私たちは長い時間を掛けて、この姉妹に導かれ屋敷の各所を巡った。東の秩序だった図書館や、灼熱地獄跡に通じる別の中庭などを姉は丁寧に紹介してくれた。屋敷の西へ行くと妹の方が詳しく、とりとめのない彼女の言葉たちが、暗闇に隠されたさまざまの装飾と、それから闇を好むペットの数々を明らかにした。もっとも、エントランスに飾られた人間の死体については、できれば秘密のままにしておいてほしかったのだけれど。
「じゃあ、短い間だったけれど、さようなら」
「お世話になりました」
来たときとは反対に、東の方から私たちは屋敷を出た。こちらからの方が、地上へ通じる穴がわりあい近いとのことだった。
「よければまたお越しください」
「またねー、獏のお姉ちゃん」
屋敷の方を振り返ると、古明地姉妹が見送ってくれていた。あの黒猫も二人の傍にいた。私は小さく手を振って応じた。
「獏のお姉ちゃんって、どちらのことを言っているのでしょうね」
傍らのドレミーが意地悪く唇を歪ませて言った。
「どちらでもいいでしょう。あなたは随分と気に入られていたようだけど」
そう答えながら地上へ向かって飛び立とうと足を上げたが、ドレミーが服の端を捉えて引き止めた。
「すみませんが、私はこちらでは飛べないので」
申し訳なさそうに打ち明けるドレミーに、私は頷いた。獏は夢によって浮いていると言っていた。それならば、現実で飛べないのも当然だろう。左手を差し出すと、彼女は一度ためらってから、それをしっかりと握った。
ドレミーの手を引いて、私はゆっくりと飛び上がる。彼女の様子を窺いながら徐々に加速し、穴を見つけると垂直に昇った。飛行の傍らで、私はドレミーの知らない昨日の体験についていくらか語った。
怨霊や妖精たちは、今度は私たちを祝福するように、色鮮やかな弾幕をもって見送った。眼下に広がるそれらの花火は無秩序だが確かに美しく、もう一度地底を訪れてもよいかもしれないという感想すら抱いた。
「あの二人のおかげで、あなたも私も救われましたね」とドレミーは呟いた。
古明地こいしはあの池の手から私たちを助け、古明地さとりは私と獏を繋ぐ一つの架け橋となった。そうした事実について、私たちは感謝をしなければならない、とも。
「そういうわけで、私は一足先に眠ります。良い夢を」
そう残して、ドレミーは目を閉じた。小さな獏が私の腕の中で眠っていた。視線を移せば地上から穴へと差すわずかな光が、外ではもう夜を迎えつつあるということを伝えていた。
「ええ、お願いするわ、ドレミー。彼女たちのためにも」
獏を固く抱くと私は一息に加速して、いささか名残惜しい地底の空気を振り切った。向こう側ではまだ弾幕の花火が明滅しているのがかろうじて判別できた。
そして月への夜空を昇りながら、私は地底の体験と、ドレミーの言葉とに思いを馳せた。「楽しかった」知らずそのような言葉が零れる。「今夜の夢見は良さそうね」閉じた瞳の世界には、けっして幻ではなく素晴らしい想像が広がった。
この夜、私は夢を見た。
あの大天蓋の下、巨大な麒麟の影に守られながら、睦まじく見つめ合う姉妹の姿を見た。それから二人は互いに瞳を閉じて手を絡め、言葉となる前の無数の想念たちが姉妹の周囲を取り巻いていた。
彼女たちのこれからの歩みが気になる一編でした。
地底や地霊殿の描写も素晴らしくて、読んでいるとまるで幸せな夢を見ているようでした
宮沢賢治のお話みたい。銀河鉄道の夜に似てる
何度も読み返す楽しさも、分かったような分らないような処も