「泥のにおいがする」
「そりゃあ、降ったからね」
梅雨の間降り続いた雨がやっと止んだ次の日のこと。稗田阿求は二週にも及んだ高熱から回復した。ふぁ、と欠伸をする白髪の女は、のそのそと阿求のもとに寄って腰を下ろす。
「どのくらい降りました」
「ええ、と。地面から半寸くらいのところまで水があった、かなぁ」
「そんなに」
「うん」
ゆっくりと、ゆっくりと身体を起こして女を見つめる阿求は、女を見つめていた。
「ありがとうございました、妹紅さん」
「ああ、うん」
不老不死の女は、藤原妹紅という。
今回の病について、八意永琳は流行り病と診断した。
今年で十九となる阿求の身体が、昔よりも弱くなっていることは誰の目から見ても明らかだ。
それは阿求本人が一番分かっていることだし、それをかなしいと言ってやるつもりは妹紅には毛頭ない。
言葉の無力さなどというものは千年の時がいつの間にか教えてくれていた。
それに、同情を抱く資格もない。
不老不死と短命の女。互いに憐れむだけの資格は持ち合わせていないのだ。
せめてもと自分の持ち物を分け合うこともできない。
「ずっと、見ていてくださったのですか」
「ずっとじゃあ、ないさ。今日の朝くらいからかな」
「それは、ずっとでしょう」
「そうかもねぇ」
だから、せめてやさしい女のフリをする妹紅であった。
千年の不老は、やさしさが作為の不存在であることに至らせていた。
そして、それを演じることのできない妹紅でもない。
日が昇って少しばかり。じめじめとしているが、少し肌寒い。
体を起こすこともなく、天井を見つめていた阿求が口を開く。
「もう、随分経ちますね」
何が、と聞くと阿求は寝床に腕をやって体を起こしながら
「妹紅さんが、ここにいらしてから」と答えた。
「それは、初めてってことかい」
「まあ、そうなります」
元々、妹紅と阿求は知らない間柄ではなかった。
一度の区切りとして阿求の記した縁起に関しても話は聞いていた訳だし。
それでも、このように顔を見せる関係でなかったことも確かだが。
「ほんの半年じゃあないか。そう毎日顔出してるわけでもない」
それはあくまで当たり前の答えだった。会うようになって、ほんの半年。
けれど、
「ほんの。そうですね」
そう微笑む阿求に、阿求は自分の愚かさを悟る。
ああ、そうか。と感じた。
そうか、そうだった。自分と阿求の時計は違うのだ。
ばつの悪いことだけれども、謝ってしまうのも何か苦しい。
どうしようか、と考えているうちに妹紅は本来の役目を思い出した。そうして
「薬、飲むかい」
とだけ聞いた。阿求も静かに
「お願いします」
そう答える。妹紅が永琳から受け取った包みを開くと、白い粉が薬包紙に包まれていた。
阿求の枕元にあった薬缶からぬるい水を器に注いで、飲むことを促す。
さらさらと口の中に注いで、ひとこと。
「苦い」と阿求は笑った。
〈1〉
ぴしゃぴしゃと水溜りを蹴って歩くことに、妹紅はもう慣れていた。
それは、遊びが好きな子供たちと一緒になって笑うことが増えたからかもしれない。
里の人間たちと触れ合うのはまだ少し苦手だが、それでも避けるほどではなくなった。
稗田の家からあぜ道を歩いて、やはり泥のにおい。
太陽は遅れを取り戻すかのようにさんさんと照るものだから目に痛い。
そのうちに子供たちがはしゃぐ声が聞こえてくる。
妹紅が「おおい」と声をかけると、ねえちゃん、と駆けてくる子供たち。
もう「姉ちゃん」なんて歳ではないのだけれども、と一人苦笑するが、悪い気持ちがするでもない。
「お前ら、授業は」
「今日くらい、外で遊んで来いって先生が」
そう言った子供たちは着物を泥で汚して笑っていた。
あの堅物は、出会ったころから少し緩んだかと思えば抜けている。
(わざわざ泥まみれに外に出すやつがあるか)
と呆れてしまうのだった。
「あんまり服、汚すんじゃないぞ」
「わかってるよぉ」
絶対に汚すに決まっている。苦笑交じりに子供たちを見送って寺子屋までの道を歩く。
十年、ぐらいが経つのだろうか。
あの子供たちが生まれるころに、慧音と出会った。
寺子屋は、いつの間にか慧音がはじめていて、なんともつまらないと評判だった。
最近になって子どもの扱い方を覚えてきたらしいけれど、はてさて。
「慧音」
扉を開くと、箒を持った彼女がそこにいた。
「アンタ、掃除までしてるのか」
今度こそ本当に呆れる。
お人よしなのか、ただ甘いのか。子供たちにやらせれば良いものを。
厳しかったと思えば、力の抜き方を知らないのだろうか。
反論するかのように慧音は答える。
「今日は特別だよ。少し早く終わったから」
「あいつら、泥だらけになるだろうに」
「それもひとつ、経験さ」
洗う親の経験もしてやりなよ。そんなことを呟くと、そうだな、と慧音は笑った。
慧音の家はおおよそ片付いていて、掃除が行き届いている。
文机の隣の原稿の山にだけ目を向けなければ、なるほど淑女の住処と文句のつけようがない。
「寺子屋を、もう少し大きくしようと考えてるんだ」
そんなことを言いながら、台所から鍋を持ってくる彼女であった。
「もう少し上の年代の子供たちにまで、手を広げようかな、と」
「まあ、あんたならうまく回すのかもしれないけどさ」
また退屈だって、逃げられないようにしなよ。そんなことを言いながら鍋をつつく。
慧音は料理がうまい、と思う。こればかりは、もう千年生きたとしても妹紅の負けだ。
週に一度、妹紅は夕飯を慧音の家で世話になっている。
不精な妹紅の生活を慧音が気にしてのことだったが、
「何、食わなくても死にはしないのに」
そんなことを言った妹紅はくどくどと続く慧音の説教に耐え切れなくなり、今に至る。
「そういえば」
「ん」
「お前、稗田の家に出入りしているのか」
器に具材をよそいながら、そんなことを聞いてくる。
「ああ、まあ」
「そうか」
「よく知ってるね」
「目立つさ。稗田の家から出てくるのが、そんな格好のお前だ」
確かに、妹紅の服はお世辞にも上品とは言えない。稗田の家には不釣り合いだ。
そんなことを気にする妹紅でもなかったが、一応言い返す。
「こんな髪だ。着物も似合わないよ」
「そうかな」
そうだ、と思う。或は輝夜の様な黒髪であれば着物も文句なく映えると思うけれど。
それに、妹紅は言葉を続ける。
「それに、上等なモンなら、千年前に充分すぎるほど」
「それも、そうか」
確かにそうだ。そんな感じで、慧音は納得した様子だった。
妾の子とは言え、「藤原」の名は伊達ではない。
自分の欲しいものに不自由を感じたことはなかったし、家も不足なく叶えてくれた。
その時こそ意識しなかったものの、後に「摂関家」などと評されるようになった自らの一族の系譜に、どこまで欲を掻くのかと呆れたことを妹紅は覚えている。
妹紅が稗田の家に入ってまず感じたのは、そんな懐かしさであった。
外界から隔離され、未だ家柄というものの力が重んじられている幻想郷の中で、稗田と言えば名家中の名家だ。そして、それを維持するための〝御阿礼の子〟。
薬のためとは言え危険な竹林の中にまで手を伸ばすのは、そうした事情が働いている。
であるならば、阿求は恵まれた境遇にある。ということが出来るのだろうか。
いや、それは違う。と、妹紅は知っている。
何故なら、御阿礼の子は『いつか死ぬために生かされている』のだから。
御阿礼の子が死ねば、新たな御阿礼の子が生まれる。稗田の未来を安泰なものとするために死すらも望まれて生きるのが、阿求なのだ。
「かわいそうに」
そう慧音がつぶやいて、はっとする。
(私は、もしかして、かわいそうなんて、考えていた?)
そんな風に感じる資格も何も、ある筈がないのに。
「何が」
そう応えることにした。私の沈黙は慧音を不安にさせるだけだと知っていた。
「いや随分と、寝込んでいたんだろう。御阿礼の子は」
当たり前のことだった。慧音は命だとか、そんな大層な話をしているのではない。
けれど、〝御阿礼の子〟という言葉の違和感に、そうか、とも思った。
(私は、〝御阿礼の子〟を〝阿求〟と呼ぶのに、慣れすぎたのか)
踏み込みすぎたのだと、すとんと納得がいった。そうか、そうか。
妹紅が抱いてしまったのはやはり、同情だった。
「そうだね」
そうとだけ答える。踏み込みすぎた。
自分はいつからか、上手な生き方を忘れてしまったようだった。
(それなら、これからどうする?)
それでもいいではないか、そんな気もする。
実際、阿求と親しくなって困ることなどは、きっとない。
けれど、いつか阿求は死んでしまう。
それだけの当たり前の理屈が、妹紅の腕を掴み放さないでいる。
(ならば慧音は?)
(慧音だって、阿求ほど早くはないけれど、いつかは死んでしまう)
(それを看取ってやる覚悟は、もうしている筈なのに)
妹紅にはわからなかった。
いつだったか、別れが嫌いだから一人でいたはずだった。
別れが嫌いだから、死なぬ親の仇と永遠に殺し合いだけをするはずだった。
別れたならば、いつまでも敵わぬものと戦い続けなければならない。
それは、孤独であり、記憶であり、何より忘却だ。
有限の者は、不死にとって最も残酷な毒薬だ。
(私はいつから、折り合いのつけ方を忘れてしまった?)
妹紅、と呼ばれる。
どうしたのか、心配している様子の慧音。
何でもないと答えると、そうかとだけ返された。
(磨耗、している)
それは、藤原妹紅としての処世術であり、理性であり、それから冷酷さであった。
少し前にただ一人、ただ一人だけの死を受け止める覚悟をした。
上白沢慧音。目の前にいる女の、いつか必ず訪れる死だ。
それだけの筈だった。その時、それ以外の何者とも共に生きてやるなどと考えなかった。
ただ一つの毒薬を飲めば、それで良かった筈なのだ。
けれども、今。
妹紅は阿求のことを気に入ってしまっている。それが、どうしようもなく恐ろしかった。
〈2〉
再び訪れた稗田の遣いの者が永遠亭を見つけられなかった時から、阿求に薬を届けるのは妹紅の仕事となったのだった。
本当はそこで永琳との言い争いがあったのだが、それはまた別の話。
妹紅が稗田の家に出入りするようになったのはほんの半年前のことだというのに、実はその時のことをあまり覚えていないのは、少し可笑しい。
何を話したのか。その時の阿求がどんな様子だったのか。とか。
結局妹紅は、阿求に抱く恐れをどうすることもできずに、今日とて稗田の家に訪れてしまうのだった。
けれど、いつの間にか阿求との会話を楽しんでしまっている自分に気がつく。
そこには少しの油断と、気遣いのなさを美徳とする心があったのだと思う。悪戯めいてふと、こんなことをを語り掛ける妹紅であった。
「私みたいな奴にこそ、アンタの能力が必要なんだろうさ」
「千年の生は、記憶を摩耗させるには充分すぎると」
阿求も気にするそぶり無く応える。
「そうだねぇ、少なくともアンタぐらいの年頃の娘だって、人生の八割がた忘れて暮らしてるんだ。私なんかは、少なく見積もって、あんた百人分は闇の中かな」
「それは、それは」
今日は随分と調子が良いようで、阿求は体を起こして笑っていた。不謹慎な話だつた。
「私、やはり忘れるという感覚が、いまいち分かりません」
「何も、自覚のあることばかりじゃないさ。いつの間にか、勝手に思い当たりがなくなる」
「不安、なものなのですか」
「不安な物忘れもあるかもね。けれど、忘れたいこともある」
「そんなものですか」
先日の雨が嘘のように、カラカラとした暑さだった。
太陽は少しずつ地を乾かし、整えられているとはいえ庭の草は肌を切らんばかり。
気を効かせたのか阿求は麦茶を妹紅に出してやり、自分は緑茶を啜っている。
人心地が付くのです。と阿求は述べるのだけれど。
呆れて「暑くはないのかい」と聞くと、「さして」と答えた。
「私に、忘れたいことがあるとすれば」
阿求は、それでも冗談のように話す。
「私がこの身体に生まれついたということでしょうか」
きっと、そんなことは微塵も、思っていないといった様子で、話す。
そうなのだろう。いや、そうではなかったのだろう。そんなことは、とうの昔に思い悩んだことなのだ。妹紅だって、最初の三百年で諦めてしまったこと。
「私も、出来るならばそうしたいねぇ」
「一度きりの生を、信じて生きてみたい?」
「ああ、きっと、幸せに生きてみせる自信があるよ」
そう聞くと、阿求はくすくすと笑った。
「阿求は、阿一の生まれ変わりであり、阿弥の生まれ変わりでもある。けれども、阿一でもなく、阿弥でもない。縁起のことを覚えていても意識が連続しないのでは、それは一度きりの生と言っても良いのかもしれない」
それなのに、阿求は、己の身の不幸を受け入れている。
「転生しても周りが覚えていてくれるなら、気が楽。とは言ったのですが」
だとすれば、阿求は何の希望もなく〝ただ短いだけの生〟を生きなくてはならない?
「それじゃあ、アンタ。死んだ先に希望なんかないじゃあないか」
「それでも、地獄とはいえ百年ほどは私のまま、閻魔様の手伝いとして存在は出来る」
それを思えば〝幾分〟マシなのでは? と。
阿求は妹紅が思っていたよりもずっと強い女の子なのかもしれなかった。
「地獄なんて誰も会いに行けないぞ」
「あら、最近は幾分〝ありうること〟を広げる人も居る」
「あの巫女か」
博麗の巫女は、そう言えばどこにでも行く。
妖怪の山からあの世まで、殆ど道の無かった場所まで開いてしまったのだ。
今の地獄だって、いつか暴いてしまってもおかしくはない。
「妹紅さんも、来れないことはないのでしょう。きっと」
「そいつは、つまり」
言いかけて、はっとする。
それに応えるということは、いつか阿求を看取ってやるということではないのか。
死んだ後、阿求が阿求として本当に終わってしまうその時に、共にいて欲しいと望まれているということではないのか。
(私は、これからもこの子の側にいることに、耐えられるのだろうか)
(本当に阿求が死んでしまうその時に、狂うことなく。死んでしまった後に、ずっと)
それは、妹紅にとってわからないことであった。
友達が死んでしまうなんて、もう何百年もないことだった。
阿求が立ち上がる。
それを止めようとするが、
「病は止んだのにいつまでも過保護はいけません」と障子を閉める。
うっすらと暗くなる部屋で、振り向かない彼女。
「アンタは、私なんかに見舞いに来てほしいなんて思うのかい」
「ええ。それは、もう」
「無法者だ。地獄を荒らし回って帰るかもしれない」
「妹紅さんは死ねないですし、呼んだ私の罪になるかもしれませんね」
「そうだよ。困るだろう」
「転生が遅れるくらい、問題はないでしょう」
顔は見えないけれど、阿求は笑っているようだった。
(どうして、阿求は私なんかを、友達なんて思うのだろう)
なにもかも、共有できない二人なのに。それなのに、何故?
「延々と地獄に繋がれ続けるのを望むのも、変な話じゃあ、ないか」
けしかけたのは妹紅だというのに、すっかりと狼狽えてしまう。
「約束をしてくれませんか」と阿求。いつか見舞いに来てくれる、なんて。
「やめてくれよ。あんたにかかると、忘れたなんて言い逃れができない」
「と考えると、悪くない力なのかもしれない。求聞持の力も」
「アンタは、意地が悪いな」
「こんな身の上ですもの。意地くらい悪くなります」
そんなことを言われると、困ってしまう。
(やはり、この子は面白い)
(けど、大切な人を増やして、どうなる?)
妹紅は、問答の中で気が付いてしまっていた。
妹紅が恐れているのは、自分が狂うことだけでなかった。
何より恐れるのはきっと、いつか死んでしまう友達を〝埋没〟させてしまうこと。
〝たった一人の友達〟として死んだ友達を送ってやれない不義理を、愚かしくも恐れている。
(でも、自分で一度動かした針じゃあないか)
そもそも、間違いを突き詰めるなら、慧音を傍に置いた時に遡らなければならないのだ。
人を失う覚悟も、人と付き合う覚悟も、その時に固めておくべきだった。
それは、ただの妹紅の独りよがりだ。
現実には何の力もない、そんな罪を気にしているだけのこと。
それを、阿求を見捨てる口実にして良いはずもない。
不死人の友が、短命の彼女の救いとなるのであれば。どんな口実も意味を為さない。
思わず、ため息をついてしまう妹紅であった。
「こんな身だ。いつか縁のない地獄に行くのも、悪くはないのかもしれないね」
そう言うと、阿求はやっと振り向いた。薄く、意地の悪い笑みを浮かべて。
「それならば、重畳です」
いつか、新たな御阿礼の子が現れても、自分は阿求のための妹紅であろう。
せめてそんな言い訳を用意するしかない。
人と生きることがこんなにも恐ろしいなんて。千年生きた今、それを知る。
〈3〉
岩笠を殺してしまったときのことを、未だに妹紅は夢に見る。
自分の命の恩人を殺した罪悪感と、ほんの少し自分を憐れむ心がそこにはあったのだと思う。千年見続けたこの悲しい夢を、妹紅はこれからも見ることを望んでいる。
(恩人の死を、なかったことにしてはならない)
という思いが妹紅にそんな風に考えさせるのだったが
(けれど、夢に見る回数が減った気がする)
のだった。
その原因が、妹紅が幸せを感じる機会が増えたことに求めるのは自然なことだと思う。
何せ、千年ぶりに友達が出来たのだ。辛いことばかり思い浮かべても仕方がない。
(このまま、岩笠の記憶は埋没していってしまう?)
先日、阿求に言った言葉は、そういった意味で本当だった。
求聞持の、忘却を忘れた力は、不死人にこそ必要だ。
千年生き、これからもまた千年生きる妹紅にとって、忘却は恐ろしい。
(慧音が死んでしまったらどうだろう)
(阿求が死んでしまったらどうだろう)
(岩笠を覚えて居られたのは、思うべき人がいなかったからではないのか)
岩笠を、友達をいつ忘れてしまうのか、そればかりが恐ろしい。
〈4〉
「自らを分散させているのかもしれない」
と、友達が言うのを妹紅は、呆れたふりをして聞いていた。
自分がそれを解する、一種の甘さを持ち合わせていると知られるのが、恥ずかしかった。
「アンタも、記憶の中で生き続けるなんて言うクチかい」
「知らなかったか。人はいつだって、誰かに思われたいなんて考える生き物だよ」
「ふしだらな男みたいなことを言う。ヒトに先生なんて呼ばせている理由がそんなことだなんて、思わなかったよ」
「可笑しいことかな。少なくとも有限の者は一度は考えると思うけれど」
誰かの心の中で、記憶の中で生き続ける。
それは人が死に臨む、一種の覚悟のような、信仰のようなものなのだと思う。
悲しいことに妹紅はもうそれを覚悟するだけの理由がなかったし、それは一種の欺瞞だと断じることも出来る。
けれどそれを信じたい友達のために、いつまでも覚えていてやるのは、自らの責務だと感じていた。
(私とは違う、有限な者たちのために)
彼女らの死を、ありふれたものに埋没させないために。
現に、岩笠という恩人の死だけは、いつまでも忘れないようにと願う妹紅である。
「けれど、けれど妹紅」
「なんだよ」
「そんな私が芽吹くのは、死んだ後のことだよ。今は、今だ」
と、慧音は言った。
「保険のようなものさ。いつか知らぬところに行く、その前準備をしているに過ぎない」
「それは、まあそうか」
「十年先か、百年先か。そんなことも分からない。それにばかり気を取られるほど愚かなつもりはないよ」
だから、今はそう重く考えなくても良い。
「今が楽しければ、それで良い」
そんなことを言う、妹紅の友達。
「へぇ、アンタにしては、ずいぶん刹那的な思想だね」
「思想と言えるほど、大したものじゃあない。結局のところ、勿体ないというだけの話さ。死ぬことばかりを考えて生きていくのは」
「今日より先には、目を閉ざす、ってこと?」
「閉ざすも何も、先のことは分からない」
それは、永遠に生きるお前であっても、そうだろう?
そう言って笑う慧音であった。
(そうだ)
(私は、友達が死んでしまう先ばかりを、気に掛けている)
妹紅は慧音を、阿求を、心の中で数え切れぬほど殺してしまっていた。
友達が死んでしまった後のふるまいを、どうこうと考えている。
(私の友達は、まだ生きているのに)
沈みゆく夕日が綺麗と思う、夏の日。
光は葉の影を縁取り、風に揺れていた。
慧音が家の中に入る。夕飯でも作るつもりなのだろう。
「今日は、何を作るの」
「生徒の親から、山女魚を貰ったから、それでも焼こうかと」
「じゃあ、火の番でもしているよ」
「最初からそのつもりだよ」
お前ほど火には慣れていないから、と。
そいつは何か、皮肉のつもりかい? そんなことを言おうとしてやめる。
皮肉も何も、その火を、不死を受け入れたのは自分ではないか。
(不死の罰は、死ねないことと思っていた)
(けれど、それだけではないのだろう)
(これからを考えずに、今を生きるというのは、どうにも)
(けれど、友達への誠実とはただ、今を共に生きるということなのかもしれない)
今更考えても仕方がない。
出会う人間には出会い、親しくなる人間とは親しくなる。
その数を、出会いを、今から否定しても仕方がない。
今は、うまい飯を食えるならば、それだけでよい。そう考えるしかない。
折角友達になれた二人のために、今度は何をしてやろう。
何をしてやるというのも変な話だ。傍にいてやることしか出来ない。
けれど、そんなことを考えたって良い筈だ。今笑い、今生きる彼女たちのために。
妹紅は岩笠に、そしていつか死んでしまう慧音と阿求に、一言謝る。
「せめて、忘れないから、今を生きることを許してください」
妹紅はこれからも人を知り、その身の罪を重くし続ける。
生きている有限の者に、死んでしまった有限の者に寄り添い続ける。
せめて、そのひとりひとりを、忘れないようにしよう。
仮にこの身や心がどれだけの痛苦に置かれることになったとしても。
(それこそが、不死にとっての、あるべき罰ではないのか)
そんなことを考えて家の中に入る。すると、
「難しい顔をするなよ」
そんな風に笑う友人が、竈の支度をして笑っていた。
「そりゃあ、降ったからね」
梅雨の間降り続いた雨がやっと止んだ次の日のこと。稗田阿求は二週にも及んだ高熱から回復した。ふぁ、と欠伸をする白髪の女は、のそのそと阿求のもとに寄って腰を下ろす。
「どのくらい降りました」
「ええ、と。地面から半寸くらいのところまで水があった、かなぁ」
「そんなに」
「うん」
ゆっくりと、ゆっくりと身体を起こして女を見つめる阿求は、女を見つめていた。
「ありがとうございました、妹紅さん」
「ああ、うん」
不老不死の女は、藤原妹紅という。
今回の病について、八意永琳は流行り病と診断した。
今年で十九となる阿求の身体が、昔よりも弱くなっていることは誰の目から見ても明らかだ。
それは阿求本人が一番分かっていることだし、それをかなしいと言ってやるつもりは妹紅には毛頭ない。
言葉の無力さなどというものは千年の時がいつの間にか教えてくれていた。
それに、同情を抱く資格もない。
不老不死と短命の女。互いに憐れむだけの資格は持ち合わせていないのだ。
せめてもと自分の持ち物を分け合うこともできない。
「ずっと、見ていてくださったのですか」
「ずっとじゃあ、ないさ。今日の朝くらいからかな」
「それは、ずっとでしょう」
「そうかもねぇ」
だから、せめてやさしい女のフリをする妹紅であった。
千年の不老は、やさしさが作為の不存在であることに至らせていた。
そして、それを演じることのできない妹紅でもない。
日が昇って少しばかり。じめじめとしているが、少し肌寒い。
体を起こすこともなく、天井を見つめていた阿求が口を開く。
「もう、随分経ちますね」
何が、と聞くと阿求は寝床に腕をやって体を起こしながら
「妹紅さんが、ここにいらしてから」と答えた。
「それは、初めてってことかい」
「まあ、そうなります」
元々、妹紅と阿求は知らない間柄ではなかった。
一度の区切りとして阿求の記した縁起に関しても話は聞いていた訳だし。
それでも、このように顔を見せる関係でなかったことも確かだが。
「ほんの半年じゃあないか。そう毎日顔出してるわけでもない」
それはあくまで当たり前の答えだった。会うようになって、ほんの半年。
けれど、
「ほんの。そうですね」
そう微笑む阿求に、阿求は自分の愚かさを悟る。
ああ、そうか。と感じた。
そうか、そうだった。自分と阿求の時計は違うのだ。
ばつの悪いことだけれども、謝ってしまうのも何か苦しい。
どうしようか、と考えているうちに妹紅は本来の役目を思い出した。そうして
「薬、飲むかい」
とだけ聞いた。阿求も静かに
「お願いします」
そう答える。妹紅が永琳から受け取った包みを開くと、白い粉が薬包紙に包まれていた。
阿求の枕元にあった薬缶からぬるい水を器に注いで、飲むことを促す。
さらさらと口の中に注いで、ひとこと。
「苦い」と阿求は笑った。
〈1〉
ぴしゃぴしゃと水溜りを蹴って歩くことに、妹紅はもう慣れていた。
それは、遊びが好きな子供たちと一緒になって笑うことが増えたからかもしれない。
里の人間たちと触れ合うのはまだ少し苦手だが、それでも避けるほどではなくなった。
稗田の家からあぜ道を歩いて、やはり泥のにおい。
太陽は遅れを取り戻すかのようにさんさんと照るものだから目に痛い。
そのうちに子供たちがはしゃぐ声が聞こえてくる。
妹紅が「おおい」と声をかけると、ねえちゃん、と駆けてくる子供たち。
もう「姉ちゃん」なんて歳ではないのだけれども、と一人苦笑するが、悪い気持ちがするでもない。
「お前ら、授業は」
「今日くらい、外で遊んで来いって先生が」
そう言った子供たちは着物を泥で汚して笑っていた。
あの堅物は、出会ったころから少し緩んだかと思えば抜けている。
(わざわざ泥まみれに外に出すやつがあるか)
と呆れてしまうのだった。
「あんまり服、汚すんじゃないぞ」
「わかってるよぉ」
絶対に汚すに決まっている。苦笑交じりに子供たちを見送って寺子屋までの道を歩く。
十年、ぐらいが経つのだろうか。
あの子供たちが生まれるころに、慧音と出会った。
寺子屋は、いつの間にか慧音がはじめていて、なんともつまらないと評判だった。
最近になって子どもの扱い方を覚えてきたらしいけれど、はてさて。
「慧音」
扉を開くと、箒を持った彼女がそこにいた。
「アンタ、掃除までしてるのか」
今度こそ本当に呆れる。
お人よしなのか、ただ甘いのか。子供たちにやらせれば良いものを。
厳しかったと思えば、力の抜き方を知らないのだろうか。
反論するかのように慧音は答える。
「今日は特別だよ。少し早く終わったから」
「あいつら、泥だらけになるだろうに」
「それもひとつ、経験さ」
洗う親の経験もしてやりなよ。そんなことを呟くと、そうだな、と慧音は笑った。
慧音の家はおおよそ片付いていて、掃除が行き届いている。
文机の隣の原稿の山にだけ目を向けなければ、なるほど淑女の住処と文句のつけようがない。
「寺子屋を、もう少し大きくしようと考えてるんだ」
そんなことを言いながら、台所から鍋を持ってくる彼女であった。
「もう少し上の年代の子供たちにまで、手を広げようかな、と」
「まあ、あんたならうまく回すのかもしれないけどさ」
また退屈だって、逃げられないようにしなよ。そんなことを言いながら鍋をつつく。
慧音は料理がうまい、と思う。こればかりは、もう千年生きたとしても妹紅の負けだ。
週に一度、妹紅は夕飯を慧音の家で世話になっている。
不精な妹紅の生活を慧音が気にしてのことだったが、
「何、食わなくても死にはしないのに」
そんなことを言った妹紅はくどくどと続く慧音の説教に耐え切れなくなり、今に至る。
「そういえば」
「ん」
「お前、稗田の家に出入りしているのか」
器に具材をよそいながら、そんなことを聞いてくる。
「ああ、まあ」
「そうか」
「よく知ってるね」
「目立つさ。稗田の家から出てくるのが、そんな格好のお前だ」
確かに、妹紅の服はお世辞にも上品とは言えない。稗田の家には不釣り合いだ。
そんなことを気にする妹紅でもなかったが、一応言い返す。
「こんな髪だ。着物も似合わないよ」
「そうかな」
そうだ、と思う。或は輝夜の様な黒髪であれば着物も文句なく映えると思うけれど。
それに、妹紅は言葉を続ける。
「それに、上等なモンなら、千年前に充分すぎるほど」
「それも、そうか」
確かにそうだ。そんな感じで、慧音は納得した様子だった。
妾の子とは言え、「藤原」の名は伊達ではない。
自分の欲しいものに不自由を感じたことはなかったし、家も不足なく叶えてくれた。
その時こそ意識しなかったものの、後に「摂関家」などと評されるようになった自らの一族の系譜に、どこまで欲を掻くのかと呆れたことを妹紅は覚えている。
妹紅が稗田の家に入ってまず感じたのは、そんな懐かしさであった。
外界から隔離され、未だ家柄というものの力が重んじられている幻想郷の中で、稗田と言えば名家中の名家だ。そして、それを維持するための〝御阿礼の子〟。
薬のためとは言え危険な竹林の中にまで手を伸ばすのは、そうした事情が働いている。
であるならば、阿求は恵まれた境遇にある。ということが出来るのだろうか。
いや、それは違う。と、妹紅は知っている。
何故なら、御阿礼の子は『いつか死ぬために生かされている』のだから。
御阿礼の子が死ねば、新たな御阿礼の子が生まれる。稗田の未来を安泰なものとするために死すらも望まれて生きるのが、阿求なのだ。
「かわいそうに」
そう慧音がつぶやいて、はっとする。
(私は、もしかして、かわいそうなんて、考えていた?)
そんな風に感じる資格も何も、ある筈がないのに。
「何が」
そう応えることにした。私の沈黙は慧音を不安にさせるだけだと知っていた。
「いや随分と、寝込んでいたんだろう。御阿礼の子は」
当たり前のことだった。慧音は命だとか、そんな大層な話をしているのではない。
けれど、〝御阿礼の子〟という言葉の違和感に、そうか、とも思った。
(私は、〝御阿礼の子〟を〝阿求〟と呼ぶのに、慣れすぎたのか)
踏み込みすぎたのだと、すとんと納得がいった。そうか、そうか。
妹紅が抱いてしまったのはやはり、同情だった。
「そうだね」
そうとだけ答える。踏み込みすぎた。
自分はいつからか、上手な生き方を忘れてしまったようだった。
(それなら、これからどうする?)
それでもいいではないか、そんな気もする。
実際、阿求と親しくなって困ることなどは、きっとない。
けれど、いつか阿求は死んでしまう。
それだけの当たり前の理屈が、妹紅の腕を掴み放さないでいる。
(ならば慧音は?)
(慧音だって、阿求ほど早くはないけれど、いつかは死んでしまう)
(それを看取ってやる覚悟は、もうしている筈なのに)
妹紅にはわからなかった。
いつだったか、別れが嫌いだから一人でいたはずだった。
別れが嫌いだから、死なぬ親の仇と永遠に殺し合いだけをするはずだった。
別れたならば、いつまでも敵わぬものと戦い続けなければならない。
それは、孤独であり、記憶であり、何より忘却だ。
有限の者は、不死にとって最も残酷な毒薬だ。
(私はいつから、折り合いのつけ方を忘れてしまった?)
妹紅、と呼ばれる。
どうしたのか、心配している様子の慧音。
何でもないと答えると、そうかとだけ返された。
(磨耗、している)
それは、藤原妹紅としての処世術であり、理性であり、それから冷酷さであった。
少し前にただ一人、ただ一人だけの死を受け止める覚悟をした。
上白沢慧音。目の前にいる女の、いつか必ず訪れる死だ。
それだけの筈だった。その時、それ以外の何者とも共に生きてやるなどと考えなかった。
ただ一つの毒薬を飲めば、それで良かった筈なのだ。
けれども、今。
妹紅は阿求のことを気に入ってしまっている。それが、どうしようもなく恐ろしかった。
〈2〉
再び訪れた稗田の遣いの者が永遠亭を見つけられなかった時から、阿求に薬を届けるのは妹紅の仕事となったのだった。
本当はそこで永琳との言い争いがあったのだが、それはまた別の話。
妹紅が稗田の家に出入りするようになったのはほんの半年前のことだというのに、実はその時のことをあまり覚えていないのは、少し可笑しい。
何を話したのか。その時の阿求がどんな様子だったのか。とか。
結局妹紅は、阿求に抱く恐れをどうすることもできずに、今日とて稗田の家に訪れてしまうのだった。
けれど、いつの間にか阿求との会話を楽しんでしまっている自分に気がつく。
そこには少しの油断と、気遣いのなさを美徳とする心があったのだと思う。悪戯めいてふと、こんなことをを語り掛ける妹紅であった。
「私みたいな奴にこそ、アンタの能力が必要なんだろうさ」
「千年の生は、記憶を摩耗させるには充分すぎると」
阿求も気にするそぶり無く応える。
「そうだねぇ、少なくともアンタぐらいの年頃の娘だって、人生の八割がた忘れて暮らしてるんだ。私なんかは、少なく見積もって、あんた百人分は闇の中かな」
「それは、それは」
今日は随分と調子が良いようで、阿求は体を起こして笑っていた。不謹慎な話だつた。
「私、やはり忘れるという感覚が、いまいち分かりません」
「何も、自覚のあることばかりじゃないさ。いつの間にか、勝手に思い当たりがなくなる」
「不安、なものなのですか」
「不安な物忘れもあるかもね。けれど、忘れたいこともある」
「そんなものですか」
先日の雨が嘘のように、カラカラとした暑さだった。
太陽は少しずつ地を乾かし、整えられているとはいえ庭の草は肌を切らんばかり。
気を効かせたのか阿求は麦茶を妹紅に出してやり、自分は緑茶を啜っている。
人心地が付くのです。と阿求は述べるのだけれど。
呆れて「暑くはないのかい」と聞くと、「さして」と答えた。
「私に、忘れたいことがあるとすれば」
阿求は、それでも冗談のように話す。
「私がこの身体に生まれついたということでしょうか」
きっと、そんなことは微塵も、思っていないといった様子で、話す。
そうなのだろう。いや、そうではなかったのだろう。そんなことは、とうの昔に思い悩んだことなのだ。妹紅だって、最初の三百年で諦めてしまったこと。
「私も、出来るならばそうしたいねぇ」
「一度きりの生を、信じて生きてみたい?」
「ああ、きっと、幸せに生きてみせる自信があるよ」
そう聞くと、阿求はくすくすと笑った。
「阿求は、阿一の生まれ変わりであり、阿弥の生まれ変わりでもある。けれども、阿一でもなく、阿弥でもない。縁起のことを覚えていても意識が連続しないのでは、それは一度きりの生と言っても良いのかもしれない」
それなのに、阿求は、己の身の不幸を受け入れている。
「転生しても周りが覚えていてくれるなら、気が楽。とは言ったのですが」
だとすれば、阿求は何の希望もなく〝ただ短いだけの生〟を生きなくてはならない?
「それじゃあ、アンタ。死んだ先に希望なんかないじゃあないか」
「それでも、地獄とはいえ百年ほどは私のまま、閻魔様の手伝いとして存在は出来る」
それを思えば〝幾分〟マシなのでは? と。
阿求は妹紅が思っていたよりもずっと強い女の子なのかもしれなかった。
「地獄なんて誰も会いに行けないぞ」
「あら、最近は幾分〝ありうること〟を広げる人も居る」
「あの巫女か」
博麗の巫女は、そう言えばどこにでも行く。
妖怪の山からあの世まで、殆ど道の無かった場所まで開いてしまったのだ。
今の地獄だって、いつか暴いてしまってもおかしくはない。
「妹紅さんも、来れないことはないのでしょう。きっと」
「そいつは、つまり」
言いかけて、はっとする。
それに応えるということは、いつか阿求を看取ってやるということではないのか。
死んだ後、阿求が阿求として本当に終わってしまうその時に、共にいて欲しいと望まれているということではないのか。
(私は、これからもこの子の側にいることに、耐えられるのだろうか)
(本当に阿求が死んでしまうその時に、狂うことなく。死んでしまった後に、ずっと)
それは、妹紅にとってわからないことであった。
友達が死んでしまうなんて、もう何百年もないことだった。
阿求が立ち上がる。
それを止めようとするが、
「病は止んだのにいつまでも過保護はいけません」と障子を閉める。
うっすらと暗くなる部屋で、振り向かない彼女。
「アンタは、私なんかに見舞いに来てほしいなんて思うのかい」
「ええ。それは、もう」
「無法者だ。地獄を荒らし回って帰るかもしれない」
「妹紅さんは死ねないですし、呼んだ私の罪になるかもしれませんね」
「そうだよ。困るだろう」
「転生が遅れるくらい、問題はないでしょう」
顔は見えないけれど、阿求は笑っているようだった。
(どうして、阿求は私なんかを、友達なんて思うのだろう)
なにもかも、共有できない二人なのに。それなのに、何故?
「延々と地獄に繋がれ続けるのを望むのも、変な話じゃあ、ないか」
けしかけたのは妹紅だというのに、すっかりと狼狽えてしまう。
「約束をしてくれませんか」と阿求。いつか見舞いに来てくれる、なんて。
「やめてくれよ。あんたにかかると、忘れたなんて言い逃れができない」
「と考えると、悪くない力なのかもしれない。求聞持の力も」
「アンタは、意地が悪いな」
「こんな身の上ですもの。意地くらい悪くなります」
そんなことを言われると、困ってしまう。
(やはり、この子は面白い)
(けど、大切な人を増やして、どうなる?)
妹紅は、問答の中で気が付いてしまっていた。
妹紅が恐れているのは、自分が狂うことだけでなかった。
何より恐れるのはきっと、いつか死んでしまう友達を〝埋没〟させてしまうこと。
〝たった一人の友達〟として死んだ友達を送ってやれない不義理を、愚かしくも恐れている。
(でも、自分で一度動かした針じゃあないか)
そもそも、間違いを突き詰めるなら、慧音を傍に置いた時に遡らなければならないのだ。
人を失う覚悟も、人と付き合う覚悟も、その時に固めておくべきだった。
それは、ただの妹紅の独りよがりだ。
現実には何の力もない、そんな罪を気にしているだけのこと。
それを、阿求を見捨てる口実にして良いはずもない。
不死人の友が、短命の彼女の救いとなるのであれば。どんな口実も意味を為さない。
思わず、ため息をついてしまう妹紅であった。
「こんな身だ。いつか縁のない地獄に行くのも、悪くはないのかもしれないね」
そう言うと、阿求はやっと振り向いた。薄く、意地の悪い笑みを浮かべて。
「それならば、重畳です」
いつか、新たな御阿礼の子が現れても、自分は阿求のための妹紅であろう。
せめてそんな言い訳を用意するしかない。
人と生きることがこんなにも恐ろしいなんて。千年生きた今、それを知る。
〈3〉
岩笠を殺してしまったときのことを、未だに妹紅は夢に見る。
自分の命の恩人を殺した罪悪感と、ほんの少し自分を憐れむ心がそこにはあったのだと思う。千年見続けたこの悲しい夢を、妹紅はこれからも見ることを望んでいる。
(恩人の死を、なかったことにしてはならない)
という思いが妹紅にそんな風に考えさせるのだったが
(けれど、夢に見る回数が減った気がする)
のだった。
その原因が、妹紅が幸せを感じる機会が増えたことに求めるのは自然なことだと思う。
何せ、千年ぶりに友達が出来たのだ。辛いことばかり思い浮かべても仕方がない。
(このまま、岩笠の記憶は埋没していってしまう?)
先日、阿求に言った言葉は、そういった意味で本当だった。
求聞持の、忘却を忘れた力は、不死人にこそ必要だ。
千年生き、これからもまた千年生きる妹紅にとって、忘却は恐ろしい。
(慧音が死んでしまったらどうだろう)
(阿求が死んでしまったらどうだろう)
(岩笠を覚えて居られたのは、思うべき人がいなかったからではないのか)
岩笠を、友達をいつ忘れてしまうのか、そればかりが恐ろしい。
〈4〉
「自らを分散させているのかもしれない」
と、友達が言うのを妹紅は、呆れたふりをして聞いていた。
自分がそれを解する、一種の甘さを持ち合わせていると知られるのが、恥ずかしかった。
「アンタも、記憶の中で生き続けるなんて言うクチかい」
「知らなかったか。人はいつだって、誰かに思われたいなんて考える生き物だよ」
「ふしだらな男みたいなことを言う。ヒトに先生なんて呼ばせている理由がそんなことだなんて、思わなかったよ」
「可笑しいことかな。少なくとも有限の者は一度は考えると思うけれど」
誰かの心の中で、記憶の中で生き続ける。
それは人が死に臨む、一種の覚悟のような、信仰のようなものなのだと思う。
悲しいことに妹紅はもうそれを覚悟するだけの理由がなかったし、それは一種の欺瞞だと断じることも出来る。
けれどそれを信じたい友達のために、いつまでも覚えていてやるのは、自らの責務だと感じていた。
(私とは違う、有限な者たちのために)
彼女らの死を、ありふれたものに埋没させないために。
現に、岩笠という恩人の死だけは、いつまでも忘れないようにと願う妹紅である。
「けれど、けれど妹紅」
「なんだよ」
「そんな私が芽吹くのは、死んだ後のことだよ。今は、今だ」
と、慧音は言った。
「保険のようなものさ。いつか知らぬところに行く、その前準備をしているに過ぎない」
「それは、まあそうか」
「十年先か、百年先か。そんなことも分からない。それにばかり気を取られるほど愚かなつもりはないよ」
だから、今はそう重く考えなくても良い。
「今が楽しければ、それで良い」
そんなことを言う、妹紅の友達。
「へぇ、アンタにしては、ずいぶん刹那的な思想だね」
「思想と言えるほど、大したものじゃあない。結局のところ、勿体ないというだけの話さ。死ぬことばかりを考えて生きていくのは」
「今日より先には、目を閉ざす、ってこと?」
「閉ざすも何も、先のことは分からない」
それは、永遠に生きるお前であっても、そうだろう?
そう言って笑う慧音であった。
(そうだ)
(私は、友達が死んでしまう先ばかりを、気に掛けている)
妹紅は慧音を、阿求を、心の中で数え切れぬほど殺してしまっていた。
友達が死んでしまった後のふるまいを、どうこうと考えている。
(私の友達は、まだ生きているのに)
沈みゆく夕日が綺麗と思う、夏の日。
光は葉の影を縁取り、風に揺れていた。
慧音が家の中に入る。夕飯でも作るつもりなのだろう。
「今日は、何を作るの」
「生徒の親から、山女魚を貰ったから、それでも焼こうかと」
「じゃあ、火の番でもしているよ」
「最初からそのつもりだよ」
お前ほど火には慣れていないから、と。
そいつは何か、皮肉のつもりかい? そんなことを言おうとしてやめる。
皮肉も何も、その火を、不死を受け入れたのは自分ではないか。
(不死の罰は、死ねないことと思っていた)
(けれど、それだけではないのだろう)
(これからを考えずに、今を生きるというのは、どうにも)
(けれど、友達への誠実とはただ、今を共に生きるということなのかもしれない)
今更考えても仕方がない。
出会う人間には出会い、親しくなる人間とは親しくなる。
その数を、出会いを、今から否定しても仕方がない。
今は、うまい飯を食えるならば、それだけでよい。そう考えるしかない。
折角友達になれた二人のために、今度は何をしてやろう。
何をしてやるというのも変な話だ。傍にいてやることしか出来ない。
けれど、そんなことを考えたって良い筈だ。今笑い、今生きる彼女たちのために。
妹紅は岩笠に、そしていつか死んでしまう慧音と阿求に、一言謝る。
「せめて、忘れないから、今を生きることを許してください」
妹紅はこれからも人を知り、その身の罪を重くし続ける。
生きている有限の者に、死んでしまった有限の者に寄り添い続ける。
せめて、そのひとりひとりを、忘れないようにしよう。
仮にこの身や心がどれだけの痛苦に置かれることになったとしても。
(それこそが、不死にとっての、あるべき罰ではないのか)
そんなことを考えて家の中に入る。すると、
「難しい顔をするなよ」
そんな風に笑う友人が、竈の支度をして笑っていた。