窓を開けた。季節は冬。徹底的に空調が管理されたこの部屋ではそんなことを忘れてしまっていた。
顔を上げるといくつか星が見えた。十時四十七分だと直感的に理解した。
「ちょっと蓮子、サボっちゃ駄目よ。 印刷所の締め切り今日までなのよ?」
「もう何時間コンピュータと向き合ってると思ってるのよ。メリーこそあとがき進んでるの? 印刷所の締め切り今日までよ?」
Dr.レイテンシー著の同人誌は未だに完成しない。もともと仕事は二人で半々だったのだがいつのまにか蓮子の仕事のウェイトが増加していた。
窓を閉めて再びコンピュータと向き合う。普段起動しないような原稿作成アプリケーションが開いたままにされていた。勿論、表示されているのは創りかけの同人誌である。
フォント、挿絵、レイアウト。入稿時のデータ管理から紙の質……。軽い気持ちで始めたことだがその気が遠くなるほどの作業量である。机の上にアルコールとコーヒーが同時に並んでいる景色を蓮子は見たことがなかった。
「しかし、どうして紙の本なの? 一部のマニア受けするのはわかるけどさ、仕事量の割にあわないじゃない」
「私たちの話を直接ネットに流しでもしたら普通のオカルトサークルに紛れちゃうじゃない。当局の検閲も受けないし」
メリーはコーヒーのカップに口をつけた。当局、というのはジョークである。思考力の落ちている蓮子はこれで納得した。
蓮子はキーボードに指をかけて静止してしまった。
「ねえメリー、さっきの話もういっかい聞かせてくれない? なんだっけ、フォントに妖怪が潜むとかどうとか……」
「フォトンよ。光子」
「ああ、そう……」
メリーはまだあとがきの内容を考えていた。こういった文章は書き出しに一番時間を使うのだ、と自分に言い聞かせながら。
コーヒーを飲もうとした右手が途中で停止した。
「……ねえ蓮子、『われ真に驚くべき仮説を発見しせり』よ」
「でも、『それを書くにはこの同人誌のスペースは狭すぎる』かしら?」
さすがは蓮子、アルコールに酔ってカフェインだけを動力源とした疲弊していても、その頭脳は健在である。
「フォントとはいい目の付け所よ、蓮子。妖怪はフォントに宿るんだわ」
蓮子は顔だけこっちに向けてポカンと口を開けていた。
「さっきのフォトンの話に絡めるとね、まず本の中でフォントが支配する人間が見ている世界を『この世』とする。そのフォントを分解した一文字、もっと分解してアトムまで還元する。確かに一見ただの原子だけど複合的なな語句になって意味を伴った時、そこには『この世』とは違う『あの世』が存在する。その『あの世』にいる生命体……生きているのかしら? アレ。まあ、生命体を妖怪というのよ」
「待った待った。順を追って話してよ。飛躍しすぎて雲の上よ」
蓮子は姿勢を正してメリーの方を向いた。どうやら真剣な話だと分かったらしい。
「原子の話は……ひもの研究だとゆらぎって言うのだったかしら? 微細化してしまうと意味の無い世界にも明らかに意味が発生しているってことよ。ここまではOK?」
蓮子は一度頷いた。
「で、妖怪。私はともかく蓮子みたいに妖怪を自力で見れない人がどうやって妖怪の存在を信じるかと言われれば書物に書かれた文字、つまりはフォントの中じゃないかって話なのよ」
「でも神々のおわした太古の昔は口授だったわけでしょう? 他に絵も映像も妖怪を表現する媒体はいくらでもあるじゃないの」
「そこはどうでもいいのだけれど……。要するに見えない人にとっては妖怪は本やディスプレイの中に潜むって話よ。違うのは正確性とかじゃないかしら」
「正確性……。表現力ってこと?」
メリーは上を見て少し考えた。
「そうね。絵に描かれた時点で妖怪の形が決定してしまうより、文章から類推されたほうが妖怪のカタチとしては正しいはずよ。あくまで言葉でビジュアルじゃない。蓮子は知ってるかしら? 本物の火の鳥は人のカタチをしていたのよ」
その話は前に聞いたと蓮子は思った。
二人ともカップを手に取り、コーヒーを少し口に入れた。文字通りコーヒーブレイクだ。
「私たちは妖怪を創り出していると言っても過言ではない。火の鳥が人のカタチをしていたと書いたらきっと何人かの中で火の鳥は鳥のカタチを保てなくなるのではないかしら」
メリーはカップを両手で抱えながら言った。
「でも妖怪の形は一つのはずよ。火の鳥が鳥のカタチをしていると信じている人と人のカタチをしていると思い込んでいる人が同時に存在できるはずが……」
蓮子はそこまで言って言葉を尽くした。
メリーは口元を少し上げて誇らしげにしている。
「火の鳥も観測してみるまでわからない猫だってことなのね……」
「正解。誰かが観測するまではその火の鳥という『妖怪』は鳥のカタチであり、人のカタチでもある。『この世』と『あの世』だけの重ね合わせじゃなく、『この世』がそうであるように『あの世』も何重にも重ね合わさっているのよ」
「それでも、同じ性質の量子が支配するブレーンである程度まとまった姿として認識されるのはなぜかしら? メリー大先生はそこまでお考え?」
「ええ、実はね。答えは共同幻想よ。一貫した性質の世界ではその妖怪を創りだすバイブルが限定される。日本書紀や古事記がそうね。イザナギと言われて思い浮かぶのはゲームのキャラクタかもしれないけどそれが真の姿だと思っている人はいない。そうすると文献の中の文字から類推される架空の姿が過去の人間の妄想を絡めて一つの姿に集約され始める。それが同一性質の量子世界で妖怪の真実のカタチになるということよ」
「……やっぱりこの同人誌に書くには余白が足りないんじゃないかしら」
「そうね。やっぱりネットに流そうかしら」
メリーは立ち上がってコーヒーポットの方へ向かった。途中、蓮子がからのカップを差し出してきたのでそれも受け取った。コーヒーポットはまだ湯気を上げている。これはネットと同じ、テクノロジーの賜物。
「ネットの電子媒体と同人誌という物理媒体。どこが違うのかなぁ。書かれている情報はまったく同じはずよね」
蓮子がメリーの背中に向けて言った。
「物理は蓮子のほうが詳しいと思うけど……。そもそも何か違うのかしら?」
「違うのよ」
「うーん。ネットの情報は複製できるから希少性がないんじゃない? それに対して本とか物理のものは一点もので複製できない。そこに神話のような特殊な畏敬の念が生まれるって説はどうかな? 少なくともネットの中でそれ単独でカルト的な人気を誇るコンテンツなんて見たことないわ」
「的を射ているようには聞こえるわね」
蓮子は戻ってきたメリーからカップを受けとった。
「でも正鵠を射ているかはわからない」
「なら観測して確かめるしか無いわね。同人誌を創って」
時計を確認するともう十一時を十分近く過ぎていた。
二人が急いで原稿に取り組むも、結局日付をまたいでしまい早期割引を逃したのは他愛も無い話である。
顔を上げるといくつか星が見えた。十時四十七分だと直感的に理解した。
「ちょっと蓮子、サボっちゃ駄目よ。 印刷所の締め切り今日までなのよ?」
「もう何時間コンピュータと向き合ってると思ってるのよ。メリーこそあとがき進んでるの? 印刷所の締め切り今日までよ?」
Dr.レイテンシー著の同人誌は未だに完成しない。もともと仕事は二人で半々だったのだがいつのまにか蓮子の仕事のウェイトが増加していた。
窓を閉めて再びコンピュータと向き合う。普段起動しないような原稿作成アプリケーションが開いたままにされていた。勿論、表示されているのは創りかけの同人誌である。
フォント、挿絵、レイアウト。入稿時のデータ管理から紙の質……。軽い気持ちで始めたことだがその気が遠くなるほどの作業量である。机の上にアルコールとコーヒーが同時に並んでいる景色を蓮子は見たことがなかった。
「しかし、どうして紙の本なの? 一部のマニア受けするのはわかるけどさ、仕事量の割にあわないじゃない」
「私たちの話を直接ネットに流しでもしたら普通のオカルトサークルに紛れちゃうじゃない。当局の検閲も受けないし」
メリーはコーヒーのカップに口をつけた。当局、というのはジョークである。思考力の落ちている蓮子はこれで納得した。
蓮子はキーボードに指をかけて静止してしまった。
「ねえメリー、さっきの話もういっかい聞かせてくれない? なんだっけ、フォントに妖怪が潜むとかどうとか……」
「フォトンよ。光子」
「ああ、そう……」
メリーはまだあとがきの内容を考えていた。こういった文章は書き出しに一番時間を使うのだ、と自分に言い聞かせながら。
コーヒーを飲もうとした右手が途中で停止した。
「……ねえ蓮子、『われ真に驚くべき仮説を発見しせり』よ」
「でも、『それを書くにはこの同人誌のスペースは狭すぎる』かしら?」
さすがは蓮子、アルコールに酔ってカフェインだけを動力源とした疲弊していても、その頭脳は健在である。
「フォントとはいい目の付け所よ、蓮子。妖怪はフォントに宿るんだわ」
蓮子は顔だけこっちに向けてポカンと口を開けていた。
「さっきのフォトンの話に絡めるとね、まず本の中でフォントが支配する人間が見ている世界を『この世』とする。そのフォントを分解した一文字、もっと分解してアトムまで還元する。確かに一見ただの原子だけど複合的なな語句になって意味を伴った時、そこには『この世』とは違う『あの世』が存在する。その『あの世』にいる生命体……生きているのかしら? アレ。まあ、生命体を妖怪というのよ」
「待った待った。順を追って話してよ。飛躍しすぎて雲の上よ」
蓮子は姿勢を正してメリーの方を向いた。どうやら真剣な話だと分かったらしい。
「原子の話は……ひもの研究だとゆらぎって言うのだったかしら? 微細化してしまうと意味の無い世界にも明らかに意味が発生しているってことよ。ここまではOK?」
蓮子は一度頷いた。
「で、妖怪。私はともかく蓮子みたいに妖怪を自力で見れない人がどうやって妖怪の存在を信じるかと言われれば書物に書かれた文字、つまりはフォントの中じゃないかって話なのよ」
「でも神々のおわした太古の昔は口授だったわけでしょう? 他に絵も映像も妖怪を表現する媒体はいくらでもあるじゃないの」
「そこはどうでもいいのだけれど……。要するに見えない人にとっては妖怪は本やディスプレイの中に潜むって話よ。違うのは正確性とかじゃないかしら」
「正確性……。表現力ってこと?」
メリーは上を見て少し考えた。
「そうね。絵に描かれた時点で妖怪の形が決定してしまうより、文章から類推されたほうが妖怪のカタチとしては正しいはずよ。あくまで言葉でビジュアルじゃない。蓮子は知ってるかしら? 本物の火の鳥は人のカタチをしていたのよ」
その話は前に聞いたと蓮子は思った。
二人ともカップを手に取り、コーヒーを少し口に入れた。文字通りコーヒーブレイクだ。
「私たちは妖怪を創り出していると言っても過言ではない。火の鳥が人のカタチをしていたと書いたらきっと何人かの中で火の鳥は鳥のカタチを保てなくなるのではないかしら」
メリーはカップを両手で抱えながら言った。
「でも妖怪の形は一つのはずよ。火の鳥が鳥のカタチをしていると信じている人と人のカタチをしていると思い込んでいる人が同時に存在できるはずが……」
蓮子はそこまで言って言葉を尽くした。
メリーは口元を少し上げて誇らしげにしている。
「火の鳥も観測してみるまでわからない猫だってことなのね……」
「正解。誰かが観測するまではその火の鳥という『妖怪』は鳥のカタチであり、人のカタチでもある。『この世』と『あの世』だけの重ね合わせじゃなく、『この世』がそうであるように『あの世』も何重にも重ね合わさっているのよ」
「それでも、同じ性質の量子が支配するブレーンである程度まとまった姿として認識されるのはなぜかしら? メリー大先生はそこまでお考え?」
「ええ、実はね。答えは共同幻想よ。一貫した性質の世界ではその妖怪を創りだすバイブルが限定される。日本書紀や古事記がそうね。イザナギと言われて思い浮かぶのはゲームのキャラクタかもしれないけどそれが真の姿だと思っている人はいない。そうすると文献の中の文字から類推される架空の姿が過去の人間の妄想を絡めて一つの姿に集約され始める。それが同一性質の量子世界で妖怪の真実のカタチになるということよ」
「……やっぱりこの同人誌に書くには余白が足りないんじゃないかしら」
「そうね。やっぱりネットに流そうかしら」
メリーは立ち上がってコーヒーポットの方へ向かった。途中、蓮子がからのカップを差し出してきたのでそれも受け取った。コーヒーポットはまだ湯気を上げている。これはネットと同じ、テクノロジーの賜物。
「ネットの電子媒体と同人誌という物理媒体。どこが違うのかなぁ。書かれている情報はまったく同じはずよね」
蓮子がメリーの背中に向けて言った。
「物理は蓮子のほうが詳しいと思うけど……。そもそも何か違うのかしら?」
「違うのよ」
「うーん。ネットの情報は複製できるから希少性がないんじゃない? それに対して本とか物理のものは一点もので複製できない。そこに神話のような特殊な畏敬の念が生まれるって説はどうかな? 少なくともネットの中でそれ単独でカルト的な人気を誇るコンテンツなんて見たことないわ」
「的を射ているようには聞こえるわね」
蓮子は戻ってきたメリーからカップを受けとった。
「でも正鵠を射ているかはわからない」
「なら観測して確かめるしか無いわね。同人誌を創って」
時計を確認するともう十一時を十分近く過ぎていた。
二人が急いで原稿に取り組むも、結局日付をまたいでしまい早期割引を逃したのは他愛も無い話である。
でも自分では蓮子とメリーの会話が話の中で意味を持っている会話なのか、
気分転換の他愛もない話なのかはわかりませんでした
だから雰囲気の点数だけ入れておきます