トランペットを吹けなくなったのは、六月の終わりだった。
それは突然だった。自分の頭の中の音と、実際に発せられる音がまったくのちぐはぐになってしまったのだ。
あれ、と思い、思わずマウスピースから口を離し、トランペットを逆さにして先端からのぞきこんだ。と同時に、今が人前で演奏中であることを思い出した。観客たちの怪訝なまなざしがわたしに向けられると同時に、ヴァイオリン担当のルナサ姉さんが、ちらりとこちらを睨むのがわかったので、それには気づかないふりをして、すぐさま体勢を立て直した。
一呼吸おいて、やっきになって息を吹き込んだけれども、出てくるのは壊れたブリキのおもちゃがたてるような音ばかりであった。
「お姉ちゃん今日どうしたの?」
キーボードの向こうから、妹のリリカがそう聞いてきたのは、ライブが終わって後片付けをしていたときだった。愛くるしい二つの大きな目が、心配そうな表情でわたしをのぞきこむ。ヴァイオリンのネックを拭いていたルナサ姉さんも動きを止め、何も言わずにわたしの方を見た。
「わからない」
ふたりの沈黙が、わたしの次の言葉を待った。そのせいで、慎重に言葉を選んで続けなければならなかった。
「楽器の調子がおかしいのかも」
わたしはそう言って、金属の管を人差し指ではじいた。うずくまったような音が、管の中で小さく鳴る。一拍遅れて、はじいたひとさし指の爪に、微かな痛みを感じた。
「道具屋さんに診てもらった方がいいんじゃない?」
ルナサ姉さんがそう言ったのに対し、そうしようかな、とわたしは答え、手に持っていたトランペットをさっと拭いて、バッグにしまい込むと、ふたりの片づけが終わるのを待った。
ルナサ・プリズムリバーはわたしの姉であり、ヴァイオリンの奏者だ。教科書に出てくるようなクラシックの堅苦しい曲ばかりが好きで、そのせいか、性格も明るい方とはいえなかった。食事などみんなが集まるとき以外は、部屋に閉じこもっていることが多かった。
わたしと姉さんは同じ時期に楽器を始めたのだけれど、姉さんの方はいつのころからか演奏よりも旋律のつくりに関心を見出したようで、日々その研究に時間を費やすようになった。
音楽は古典にこそ価値があるんだよ。というのが姉さんの持論で、姉さんに言わせれば、今の時代に残っている古典はどれも、旋律という音階の組み合わせの膨大な試行錯誤の結果そのものなのだという。流行りや廃れといった淘汰の環境に晒され続け、研磨されつづけた結果が今なお残る古典音楽なのであり、その軌跡ともいうべき古典を学ぶことが最も意味あることなのだと語った。たしかに、姉さんの部屋にはそこらじゅう大仰な装丁の楽典がうず高く積まれていたし、インクで表紙が汚れた罫線ノートを飽きもせず何冊も書きつぶしていた。
わたしにとってそれは、はっきり言ってしまえば退屈な理屈だった。まだ誰も聞いたことのない、まったく新しいフレーズの可能性の模索に労力を注ぐ方が、創造的に違いないと思っていた。メルランもすこしは勉強しなさいと分厚い本を手渡されるたび、わたしはうんざりして、何度も突き返してしまいたい衝動にかられたけれど、姉さんには姉さんで結構頑固なところがあったから、ケンカを避けるために、お互いの理念を押し付けあうようなことはしなかった。
「お姉ちゃん、楽器はどうだった?」
夕方、わたしたち三人はテーブルをかこんで夕食をとっていた。
「うん、一応ちゃんとみてもらうことにした」
自分のコップに水をつぎ足しながら、わたしは嘘を言った。トランペットはわたしの部屋にしまってある。
「だからしばらくは、演奏は……ごめん」
ルナサ姉さんとリリカにちょっと目をやって、わたしは水をごくりと飲んだ。
「そう。残念だけど、仕方ないわね」
姉さんがしずかに言って、わたしたちはまた食事に戻った。サラダに添えられたヒヨコ豆を、リリカがひとつづつフォークで刺しては口へ運ぶ。会話はそこで途切れてしまった。
食事を作るのはルナサ姉さんだ。もともとはわたしたち姉妹のひとりであるレイラの担当だったのだが、先に死んでしまってからは、姉さんがそのあとを引き継いでいる。
ルナサ姉さんの用意する食事は、最低限といったもので、なんだか一品少ないような、味気ない感じだった。凝り性だったレイラと違って、お皿や副菜に気を配ったりということはない。
レイラ・プリズムリバーは一番すえの妹で、もう死んでしまった。
わたしたち姉妹の関係は複雑だ。わたしと姉さんとリリカの三人は、なにか魔法のような力によって生み出された存在で、置き換えて言うならば、幽霊のようなものであるらしかった。だから、姉妹の中でも純粋な人間であるレイラだけが歳をとった。
実際のところ、わたしたちは本当に血のつながった姉妹なのかどうかも分からない。わたしの記憶はレイラといるところから始まっているし、両親の顔も見たおぼえがない。けれどもそんなことは些細なことだった。生物上の種類が違っていようと、血のつながりがなかろうと、わたしたち四人は正真正銘の家族だった。
わたしもルナサ姉さんもリリカも、妹だったレイラを、いつしか親のように慕った。
レイラは明るく美しい女性だった。歳こそ取ったものの、いつも、前向きで、好奇心を絶やさず、生きる力に満ち溢れていた。そしてレイラは、わたしたちの演奏を本当に楽しそうに聴いてくれた。少なくとも月にいちどは演奏会と称し、レイラが街で知り合った色んな人を家に引き入れ、外国の珍しいお茶や趣味で作った焼き菓子を振舞ったりして、結局わたしたちも準備に駆り出されて大忙しだった。
レイラが死んでしまって、まるでこの家から太陽がなくなってしまったようだと感じる。三人とも言葉にしなかったけれど、レイラの不在は家全体にどことなく暗い影を落とした。
ひとり欠けるということはそういうことなのかもしれない。レイラがいなくなってからは、よくいう、”心に穴が開いたような”感覚がいつまでも続いた。まるで大切な感覚器官をひとつ失ってしまったように、毎日が不安定で、歓びも悲しみも、ひとり分足りないのだ。その喪失感は日常のどんな些細なことにも及んで、ひとつ空いてしまった歯ブラシ立てのスペースとか、使い方はわからないが手入れの行き届いた調理器具など、それらひとつひとつがレイラを思い起させ、わたしを苛むのだった。
残された姉妹の中で、レイラがいなくなったショックを、いちばん重く引きずっているのは、たぶんわたしだった。
レイラの最期のとき、ルナサ姉さんもリリカもハンカチがべたべたになるまで嗚咽したけれど、わたしは逆に、少しも悲しい気持ちではなかった。これでやっとレイラも、わたしたちとおなじ存在になるのだ。これからは幽霊同士、よりいっそう楽しくやっていこう。レイラは解放されたのだ。老化による膝の痛みに悩まされ、しわくちゃになった古くて不便な肉体から。本当の意味でいま、レイラはレイラになった。歓びこそすれ、悲しむ理由なんてあるものか。
お葬式が終わって、わたしは幽霊になったレイラが、ひょっこり顔をみせるのを何日も待った。六月の雨の降るなかをいつまでも。
けれどレイラは、わたしたちの前に現れることはなかった。
この古い家のなかでもお気に入りの部屋があって、そこはかつて応接室として使用していた場所だった。一階の隅にある裏庭に面した部屋で、窓のすぐそばに植えられた大きな木のせいで日当たりが悪く、いつしかレイラがいろんなところから集めてくる小物置き場と化して、いくら掃除をしてもなんとなくカビ臭かった。でも、表の喧騒が届かないその場所は、家の中でも特に静かで、もともとあった異国風の造りのどっしりとした家具なども、不思議と心を落ち着かせるのだった。
午前までの日が陰って、お昼を過ぎたころにはパラパラという音とともに、濡れた草の青いにおいがあたりに立ちこめていた。
わたしは棚から古いレコードを取り出すと、再生機にセッティングし、ボリュームをしぼった静かな音で再生した。チェット・ベイカーの「バットノットフォーミー」が、わたしの背丈ほどもあるスピーカーから流れ、囁き声のような歌声とやわらかなトランペットのトーンが、雨の音に滲む。
わたしはトランペットを手にすると一人掛けのソファに深く腰掛けて、マウスピースを口にあてた。あの日以来、トランペットから音を出すのを避けている。吹くまねだけして、そのまま音は出さずに、壁の方へと目をやった。目線の先には、額縁に入った一枚の絵が掛けてある。どこかの池を描いたもので、夏の日暮れの薄闇に沈んだような、ぼんやりとした絵だ。
それはレイラのお気に入りの絵だった。その作品が、モネという画家が生前なん枚も描き残した作品のうちのひとつであるということは、後から知った。絵は古くから家にあり、貿易をしていた父親がどこからか手に入れたものらしかったが、本物なのか偽物なのかは誰も知らなかった。
いつのころだったか、ある画商がよくレイラを訪ねてくることがあった。画商の目当てがその絵だったのか、別のお宝だったのか、ひょっとしてレイラを口説き落そうとしていたのか、今となってはわからない。わたしはなんとなくその画商のことが好きではなかった。マル眼鏡に口ひげを蓄えステッキを持つ姿が、キザな感じだった。
「ご婦人、絵画の美しさの本質がわかりますか?」
「と仰いますと?」
「ご存じのとおり、絵画は非常にデリケートなものです。だから我々絵画を持つものはその管理に細心の注意を払わなければなりません」
わたしは、画商と向かいあって座るレイラの後ろで、饒舌な画商の口元をみていた。
「しかし、どれだけ管理に気を遣ったところで、光や温度、環境による劣化を食い止めることはできません。それは絵画の背負わされた宿命ともいうべきでしょう。皮肉にも、われわれが鑑賞することで、絵画は命を削られていくのです。もちろん厳重に密閉してしまえば、外部からの影響を極力排除することは可能でしょうが、それは絵画という存在が意図するところではない。誰の眼にも触れさせないということは、別の意味で絵画を殺すことになりますから。絵画の美しさは、その宿命的な脆さの上にのみ成立する。いつか朽ちてなくなってしまう。そのことが我々に美しさをうったえかけるのです」
画商はさらにこう続けた。
「そういう意味では、永遠に劣化することのない音楽というものは、芸術というにはいささか頑丈すぎるようで……」
「あら、音楽だって単純に素晴らしいものですわ」
「確かにそれは否定しません。しかし、音楽には絵画のもつ儚さというものがない、その点に疑いの余地はないのではないですかな――」
わたしは再生機のスイッチを止めた。部屋が静寂に沈む。舌先で唇に触ると、マウスピースの痕が不快に苦く感じられた。
日が落ちて、いつのまにか部屋は壁に掛けた絵のような薄紫色に染まっていた。レイラが死んだ日の夕方も、ちょうどこんな色だった。
ふと気を抜くと、おおきな寂しさがわたしを飲み込んでしまいそうだった。
レイラがいなくなったあの日から、わたしの中に蓄積された負の感情は行き場をなくしたままだ。胸の中に、異物としてわだかまっている。それは、気づかぬうちに肥大化して、いまや怪物のようにわたしを脅かす。トランペットを吹けなくなったことの原因を求めるならば、おそらくそのことが理由なのに違いない。
リリカ・プリズムリバーはわたしの妹で、その小さな手で一生懸命にピアノを弾く。愛くるしい容姿で、ファンも多く、誕生日やバレンタインデーといった日には両手で抱えきれないほどの贈り物を持って帰ってきた。ピアノはまだ駆け出しといった感じだけれど、わたしとルナサ姉さんの間をうまく取り持ってくれた。
わたしも姉さんも、リリカのことが大好きだ。リリカがいなければ、わたしも姉さんも、こうして演奏を続けていたかどうかわからない。リリカは他人の気持ちを敏感に察する子だった。人懐っこいところがありながら、決して人を不快にさせるようなことはなく、そのせいかよく頼まれごとをされ、はたから見れば損をしていることもよくあった。
あれは何年か前の冬だった。レイラはもうずいぶん年老いており、車いすがなければ移動もままならなくなっていた。あるとき、ふだんの会話に細かな咳ばらいが混じるようになり、食事も箸をつけないことがあった。わたしももうおばあちゃんなんだから、と冗談めかして言うもののやはり心配で、一度医者に診てもらった方がいいと診療所に連れていくと、検査の結果胸部の血管に動脈瘤があることが分かった。医者のいうところではかなりの大きさにまでなっており、明日にでも破裂の可能性があると聞かされ、すぐに手術を行うこととなった。手術の日までは安静を保つように、と忠告されたその日のことだった。レイラとリリカが一緒に家から姿を消してしまったのだ。
最初に気が付いたのはルナサ姉さんだった。わたしたちは慌てて家じゅうを探したけれど、どこにも姿がなく、もしかして外に出たのかもしれないと、寝間着にカーディガン一枚で玄関を飛び出したところで、帰ってきたふたりと鉢合わせた。
雲一つない夜空には、針の先のような星が無数に瞬いていた。呼吸をするたび、冷えた空気に吐く息が白くなった。珍しく語気を強めたルナサ姉さんがリリカを問いただすと、わたしのせいなのよとレイラが代わりに答えた。
「どうしても星空を見たくなって、わたしがリリカに連れ出してくれってお願いしたのよ。悪いのはわたしなの。心配かけてごめんなさい」
リリカもわたしたちの方をちらと見て、ごめんと付け足した。
「行くにしても、ひとこと言ってからにしてほしかったよ」
「ええ、次は四人みんなで行きましょうね」
そう言ったレイラは子供のような笑顔をして、それを見たルナサ姉さんはもう何も言わず、ふたりを家の中へ迎え入れた。その日の夜、レイラが寝付くまで、わたしは彼女のベッドのそばにいた。体が暖まったころ、レイラは自分がまだ子供のころ、父親に連れられて登った、雪山のてっぺんから見た星空の美しさが忘れられないことを話してくれた。それはもう、息をするのを、忘れてしまうほどだったのよ、と、ゆっくりと懐かしそうに語った。
今にして思えば、わたしたちとレイラは、同じ時間を過ごしていながら、その時間の意味合いには大きなへだたりがあったのかもしれない。
レイラの時間には限りがあった。木々が芽吹き、雛が孵り、いずれ朽ちてゆく世界が、彼女の居場所だった。
レイラは生を歓び、それと同時に、死をあるものとして受け入れていたのだ。
だから、幽霊になって、わたしたちの前に現れることはなかった。
ある日、家に帰って玄関の扉を開くと、ふとパンの焼ける香ばしい匂いがした。キッチンには専用の窯があったが、ここ何年は誰も使っていないものだ。ルナサ姉さんがわざわざ火をいれたのだろうか、わたしは不思議に思って食堂の方へと向かった。
「お姉ちゃんおかえり」
わたしを迎えてくれたのは、エプロン姿のリリカだった。窯のススがついた手で触ったのか、右頬が黒くなっていた。
「えへへ、お姉ちゃん今日はご馳走だよ」
リリカが何か期待を込めたような眼差しでわたしをみた。
「おかえり、メルラン」
声のしたほうを見ると、ルナサ姉さんがテーブルにお皿を並べていた。テーブルにはめったに使わない白いテーブルクロスと、中央の花瓶には庭からとってきたばかりらしいアジサイの花が添えられていた。台所で鍋から何かが吹きこぼれ、あわててリリカが火を弱めに行った。
「どうしたの? 今日なにかの記念日だったっけ?」
忙しそうにしている姉妹をよそに、わたしは呆然と立ち尽くした。
「リリカからのプレゼントだよ」
姉さんがそう答えたあと、リリカが、おほんと咳払いをひとつして言った。
「お姉ちゃんに元気になってもらおうと思って。わたしが全部作ったんだから」
突然のサプライズに驚きながらも、わたしは言われるまま席について、食事が運ばれるのを待った。
リリカはこの食事会を何日も前から計画していたようで、出てくるものはサラダにスープ、白身魚のソテーとなかなか手の込んだもので、味付けも丁寧にされていた。焼きたてのバターロールをひとくち食べ、わたしがおいしいと率直に感想を言うのを聞いて、リリカはしたり顔でルナサ姉さんと笑いあった。
「ルナサお姉ちゃんからもプレゼントがあるんだよ」
姉さんはちょっと気恥ずかしそうに、テーブルの下からヴァイオリンを取り出した。
「メルランに」
ルナサ姉さんの意外にもかしこまった感じに、わたしは思わず姿勢を正した。姉さんは少し緊張しているようだった。それを見て、わたしもリリカもどことなく改まったような、気恥ずかしいような気持ちだった。姉妹の演奏をこうしてちゃんと聴くのは、レイラがいなくなってしまってからは初めてだったかもしれない。いま目に映る光景が、不意に懐かしいものに感じられた。
華奢な顎の下でヴァイオリンを挟むと、ゆっくりと弓をひく。同時に、つややかな弦の音色が食堂にゆき渡る。ルナサ姉さんはそのまま、ピアノ曲であるシューマンの「トロイメライ」を演奏した。和音やヴィブラートを複雑に織り交ぜ、音程の独特なゆらぎによって紡ぎ出される、絹のように優しく美しい音色だった。その百年以上も前に書かれた曲は、茫漠な時間の経過を耐え、なお流麗だった。
そのときふと、レイラの魂が今ここにいて、姉さんの演奏を聴いているような気がした。それは単に錯覚だったのだろうが、それでもわたしたちはまるで、レイラがいたころのようだった。胸の中にぽっかりとあいていた穴が、柔らかなもので満たされていくのを感じた。
姉さんの演奏に耳を傾けているわたしのところに、リリカがトランペットを持ってきてくれた。わたしは恐る恐るそれに手を伸ばすと、ゆっくりとマウスピースを口につけた。姉さんと目が合って、無言のままわたしを促した。
ゆっくりと息を吹き込む。
一瞬、空気が重く振動する感触があって、それに楽器全体が共振すると、指先と唇に感じる微かな痺れと共に、きらびやかな黄金色のトーンが鳴った。
終
ジメジメとした梅雨が明けたような、爽快な後味のある良い作品だと思った。
仲のいいプリズムリバー素敵
文章から味わえる儚さとか切なさとか絵画のように味わえました
きっとまた読みたくなる文章です
読み進めていく途中で出てくる曲名がふと頭の中で流れるような、素敵な時間でした。
とても良いものを読みましたありがとうございます
また読みたいです。