うだるような暑さの中、私と霊夢は異形を挟むようにして応対していた。そよぐ風は熱しか運ばない。太陽の日射が地表を容赦なく照りつける。私は額で玉になった汗を自身の服の袖で視界を塞がないよう注意しつつ拭う。
この気温の中、目の前の異形の体表には汗一つ浮いていない。代謝しないのか、そもそも本当に生物なのだろうか。僅かに眉間に痺れを感じた。眼球の表面が乾き始めているのだ。
「霊夢、まばたきするぞ」
異形を挟んで対向に居る霊夢に声を掛ける。宣言してから一度、まばたきをする。一瞬の暗転の後瞼を開けると、視界の先に異形は相変わらず不動で佇んでいた。人型ではあるが手足は不自然に細く短い。貧弱そうな体躯に反して頭部は巨大である。そのくせ体幹は安定していて蹴りを入れても微動だにしない。顔面の中心を縦に裂くように配置された紅色以外全身は薄汚れた鉛白である。異形の顔面に付いた眼球らしき四つの黒い球体を観察する。やはりそれはどこか無機質で、有機的なものには見えない。間違いなく私を見ていない。皮膚?に触れてみても、体温も脈も感じずむしろ生物というよりオブジェのように思える。というか石の感触まんまである。
「魔理沙、あんたよくそんな気持ちの悪いもの触れるわね」
霊夢がぼやく。
「こうして見ている限り無害だぞ。触れてもなんともないよ」
「わかってても私なら触ろうとは思わないわ。魔理沙、まばたきするわ」
霊夢が宣言する。私はそれを合図に思わずまばたきしてしまはないよう異形を凝視する。この生物(明らかに無機物だが意思のようなものがあるようなので便宜上そう定義した)は他人に見られている限り動きを止めてしまうという怪異だった。早苗の奴が正式名称を教えてくれた気がするがやたらと覚えにくい名称だった。ともかく、私は見ている間だけ動きを止めるという特性からこいつを「だるまさん」と呼んでいた。いまいち定着しないが。
無理もないか。どうせすぐに処理しなければならないのだから。だるまさんに限らず、あの日を境にこの手のオカルトは溢れるように幻想郷中に出没するようになっていた。中には無害なものも多いのだが、だるまさんのように幻想郷に定住が許されないほど凶悪なものも少なくない。
だるまさんは人間の視界から外れた瞬間、殺戮を開始するという習性を持っていた。瞬間移動が出来るらしく空を飛ぼうと逃げられない上、膂力も凄まじい。物理攻撃が効かないせいで、私達は現状維持を余儀なくされていた。
「霊夢さん、魔理沙さん!」
菫子の声だ。私は異形を視界に捉えたまま聞き返す。
「来たか。だいじょうぶか、菫子」
疲れを隠せていない声で菫子は問題ないと応える。
「私は大丈夫だから、気にしないで。ともかく、私の推論通りならこれで……」
「うううううううう! 人間! 離せー!」
異形の目の前まで菫子は近づく。片手には念力で拘束した弱小妖怪の姿があった。常闇の妖怪、ルーミアである。無理矢理連れ去ってきたようで、ルーミアはとても不満そうに頬を膨らませている。
「視る、という事象で動きを止める怪異。では『視る』とは何か。私はそれを光を反射しない、ということと捉えたわ」
菫子が解説する。視覚というのは光を眼球内の感覚器官が受け取り、与えられた刺激を元に脳が映像を造り上げることで成立する。菫子の主張ではその際、人体に光子の一部が吸収されているという話だった。
故に異形は自身が反射した光が眼球内の感覚器官に吸収されて返ってこない、という現象が起こっているときにだけ動きを止めるという推論だ。筋が通っている気はするが、生物学に疎い私には頓知にしか聞こえず納得はいかなかった。そんなものでホントにこの化け物を封じることが出来るのか?
「ねえ、あなた闇を操れるんでしょ? その力は恒久的に使用できる?」
「コウキュウ? なにそれ、どういう意味だー?」
「自分がそうしようと思わなくても能力をずっと発動してられるかってことよ」
「無理に決まってるでしょ! わたしそんなに強くないぞ!」
ルーミアは菫子の拘束から逃れようと身体をばたつかせる。
「ルーミア。私のサポートがあればどう?」
霊夢が提案する。
「……霊力貸してくれるならいけるかもね。……って、なーんでわたしが協力する流れになってるの! というかその子だれ? また新入り?」
ルーミアは拘束されたまま異形に蹴りを入れる。異形はびくともせず、不気味に佇んだままだ。
「頼むルーミア。手を貸してくれ。私の飼ってるにわとり一匹やるからさ」
もう少し育ってから食う予定だったが、仕方ない。非常事態なのだから。
「むー。まあ、そこまで言うなら手を貸してあげてもいいかなー」
言う割にはルーミアは得意げで機嫌がよさそうだった。他人に頼られることが少ないからだろう。対して、霊夢は普段見せないほどに沈んだ表情である。妖怪に助力を頼む、という状況が気に入らないに違いない。
しかし自力での怪異の対処には限界がある。こうして使えるものは使っていかないと。
「……じゃ、結界を作るわよ。ルーミア、闇であいつを覆って。光子を吸収するタイプのね」
「りょうかい!」
それからの作業は滞りなく進行し、画してだるまさんは無事封じられた。菫子の推論は正しかったらしく、だるまさんは結界内で大人しくなっている。完全に幻想郷から追放する手段が見つかるまではこのままだ。
「まあ難しいこと色々言ったけど、本当は頑丈なコンテナでもこいつを封じられるんだけどね」
菫子は結界を眺めながらそんなことを言う。
「河童に発注してもいいが、時間掛かりそうだしなぁ」
息をつくのも束の間、上空から守矢の風祝、東風谷早苗がすっ飛んできた。表情は険しい。新たな怪異を発見したのだろう。
「大変です! 今度はくねくねです!」
また知らない怪異だった。例のごとく、外の世界で生まれた新規のオカルトだろう。菫子は聞き覚えがあるらしく、早苗の言葉を聞いて頭を抱える。
「おい、菫子。今度はどういう奴だ?」
「……視界に入れると、見たものが精神崩壊を起こしてしまうというオカルトよ。見た目は細くて白い糸みたいな感じ。早苗、あなたは大丈夫だった?」
「ええ。問題ありません。蛇にはピット器官と言って視覚以外の知覚方法があるので。それを使ってなんとか躱しました」
早苗の眼球が蛇のような瞳孔に変わる。この件に関して守矢の二柱の神は助力を惜しまないようだ。頼もしいことだ。
常に視界に捉えてなければならない怪異の次は視界に捉えてはならない怪異か。次から次へと、ふざけた話だ。
「行きましょう。ルーミア、あんたも着いてきて。視覚が関係するなら、あんたの能力がまた役に立つかも」
霊夢は疲労の色を見せずに指示する。ルーミアは霊夢の覇気に圧されて有無を言わずに了承させられる。菫子は霊夢に続いてふらふらと蛇行気味に飛行した。
次の怪異の対処が終わったら、一旦休憩を挟もう。私はそう思案しつつ、飛行する。
都市伝説が具現化する。オカルトボールを巡ったその異変は、収束することなくむしろ事態は悪化していた。オカルトボールを作った月の奴ですら原因がわからないらしく、匙を投げられた。結界破りの異変を起こした菫子も同様に何故そのような状態に陥っているのか見当が付かないらしく、後手後手のまま発生するオカルトに対処する毎日だった。
責任を感じているのか、菫子は長い時間幻想郷に訪れて怪異に対処しようとしている。ここへ来る為に睡眠導入剤を常用しているせいで、菫子は日に日にやつれていた。無理をするなと私たちが言っても聞かない。
霊夢はそんな彼女の負担を減らそうと人一倍躍起になって働いている。なんでも、異変の原因になった人間だろうと一度保護したら無事に帰ってくれないと巫女としての沽券に関わるという話だった。
普段は適当な癖に妙なところで霊夢は真面目だった。勿論、私もこの幻想郷に住まう身として協力を惜しむつもりはない。毎日毎日、怪異の対処の合間にオカルトボールの研究を続けている。
そうしてわかったのは、このボールは外の世界の影響を強く受けているということだ。原因は外にあるのだ。
それがわかったところで私にはどうしようもなかった。外の世界の知識を私はあまり持たない。そもそも知識を持つ外来人である早苗や菫子も思い当たることはないらしかったが。手札ではもう勝負が出来ない。
しかし、解決する宛てはまだ失っていない。外の情勢に詳しい奴が、まだ幾人か残っている。その一人である八雲紫の元へ私は訪れていた。幻想郷中がこんな大変なことになっているというのに、あの女は不自然なほど動かない。彼女の元を訪れたのは、いい加減私が痺れを切らしたというのも理由にある。いつもならこんな事態になったとき真っ先に動くのは奴だからだ。
「おい、紫! いるのか、いないのか!」
山の中腹付近。マヨヒガの前で私は叫ぶ。奴はここを寝床にしているわけではないのだが、式神をよくこの付近で見かける。それさえ捕まえられれば、紫との連絡も付けられるだろう。いつかの異変のときの遠隔の通信手段でもあればもっと楽に奴と連絡を取れたのだが。
「あら、何の御用かしら」
背後からまとわりつくような声がした。振り返ると紫がそこにいた。珍しい。気配も発さず唐突に現れるのはいつものことだが、呼んで出てくるとは思わなかった。寝起きなのか、彼女はけだるそうに欠伸をした。
「欠伸してる場合か! 紫! てめえ今ここで何が起こってるのか把握してるのか!?」
暢気そうな紫にイラついた私は思わず怒声を浴びせてしまう。我ながら余裕がない。紫はそんな私に対して嫌悪感を毛ほども滲ませず、いつも通りの余裕のある態度で切り返す。
「勿論、把握していますわ。外の世界の怪異が幻想郷へ流れ込んでいる」
「まさか幻想郷は全てを受け入れる、なんて悠長な寝言でもほざく気か? 流石に限度があるぞ!」
「まあまあ。落ち着いて。貴方達が焦りを抱く気持ちもわかります。魔理沙、中ですこし話しましょう」
紫はいつの間にかマヨヒガの中に移動していた。境界をいじる力を使った移動術。
手招きする。私はその誘いに応じた。
「では魔理沙。先ずは意見の統合を行いましょう。今回の異変について、貴方の見解を聞かせて頂戴」
頬杖をつき、紫は試すような口調で問う。脇から式神の式神である橙が私にお茶を出す。私はそれを啜りながら異変の研究で気づいたことを紫に伝える。
「都市伝説騒ぎのときのように無害なオカルトも多い。が、危険なものもそれなりにある。それらに共通することは、どれもこれも新規のオカルトだってことだ」
雲居一輪という命蓮寺に住まう妖怪がいる。彼女の操るオカルトが今回連続発生している怪異にもっとも近い。一輪の操るオカルトは八尺様という個人の作り出した作り話がインターネットという情報共有媒介を使って広まったものだ。
人々の噂から自然発生したのではなく、個人の生み出したオカルトを不特定多数の人間が共有することで力を強めるという従来のオカルトとは発生順序が逆になっているのである。外の世界のオカルトのスタンダードはこういった『創作のオカルト』であり、それらが大挙して幻想郷に訪れているというのが今の現状だ。
ここまで説明した時点で紫は小さく拍手する。
「よく調べていますわね、魔理沙。先の異変で、貴女は自分がオカルトを制御していた、と思っていたんじゃないかしら? それは正しい。そしてオカルトを制御していたのは何も貴女達だけではない。外の世界の住民も、今はオカルトを作り出し、制御しつつあるの」
艶っぽく紫は笑う。
「生み出されたオカルトはムーブメントとなり、多数の人間を虜にし、信仰を持つ。そして流行というものは過ぎ去るものです。信仰を抱いたその新しいオカルトは人々から忘れ去られ、ここへ至る。お分かりかしら? この異変の原因はオカルトボールではない。それは切欠に過ぎないのです」
幻想郷には人々から忘れられたものがたどり着く。最早外の世界にとっては、オカルトは消費されるものなのですわ。紫はそう締めくくり、一台のおかしな機械をスキマから取り出す。見た目は一面にだけ硝子を張った箱である。タイプライターのようなものと繋がっていて、コードが幾つか伸びている。部屋の隅にあるコンセントと接続すると、それは駆動音を鳴らし始める。しばらくすると硝子画面が違う景色を映し始める。紫は慣れた手つきでタイプライターをカタカタといじる。
「この画面を御覧なさい。これから幻想郷への流入予定の怪異達です」
紫は硝子板を指す。覗いてみると、その中にはずらりとオカルトの名前がリストアップされていた。眩暈がするほどの大量のオカルト群。
「こ、これが全部、最近作られたオカルトだってのか……?」
軽く百は超える。私は背筋が粟立つような感覚をおぼえた。
「ええ。言ったでしょう? 外の世界のオカルトは、消耗品です。作られ、信仰され、忘れられる」
「そんな、勝手な……。ふざけんなよ! 何とかならないのか!?」
「なんともなりませんわ。外の世界の人間の意識でも変えない限りは。科学の発展に伴う功罪により、オカルトというものは芯のある信仰を失いました。今では多数の人間に弄ばれる玩具ですわ。恐怖を駆り立てることは出来るけれど、不変性を持つには至らない」
それから私と紫は様々な議論を交わした。幻想郷を囲む常識と非常識をひっくり返す結界の性質を変更する手段。発生した怪異を集める場を形成する手段。外界の世論を誘導し、オカルトが忘れ去られないよう科学信仰を途絶えさせる手段。
どれもこれも実行には現実味がなく議論は不毛に終わった。結局、紫の元を訪れてわかったことは外の世界の『オカルトを消耗品として扱う文化』をどうにかしなければこの異変を解決できないという事実だけだった。
こちら側にいる私たちにはどうあがいても解決不可能だ。
「手詰まりか」
「仕方ありませんわ。幻想郷からは外の世界へは干渉できないけれど、外の世界の情勢はそのままここへ反映される」
「……お前。なんでそんなに落ち着いてるんだ? 幻想郷のピンチだぞ」
「ピンチ、というほどのこととは私には思えませんわ。新規の怪異は、どれもこれも結界を脅かすような力を持たない」
紫はリストアップされたオカルト群を指す。それらがどのようなオカルトなのかも既に調査済みなのだろう。
「貴女は人死にを気にしているのでしょう。でも、私からしたら人間なんて減れば増やせばいい。ただ、それだけの話なのです」
「もういい。お前に相談したのが失敗だった」
所詮、こいつは妖怪なのだ。なんとなく分かり合えた気になっていた私がバカだった。私は湯呑みの中身を一気にあおり、立ち上がった。
「邪魔したな。情報をくれたことだけは感謝する」
紙にまとめられた先刻の情報を私は受け取る。プリンターとかいう外の世界の簡易印刷技術らしい。なんだかこの利便さもオカルト染みているな。こんな物が理屈ありきで普及すれば、大抵の不思議に動じなくなるのもわかる。
ともかく、収穫としては十分か。この情報があれば少なくとも後手に回らず怪異に対処できる。
「うふふ。どういたしまして。そうだ、魔理沙」
紫は端末を操作する。そしてオカルトのうち一つの項目を指した。
「これは少しだけ古いオカルトなのだけど。魔理沙、貴女は1999年って数字が何のことだかわかる?」
「知るか。私は外の世界の暦なんて興味ない」
すぐにでも霊夢達の元へ戻りたかった私は適当に切り返す。邪険にしたせいか、紫はすこしだけ声のトーンを落とす。
「そう。残念」
私は神社に戻り、霊夢と菫子に紫から貰った情報を伝えた。紫が解決に至るような情報を落とさなかったことに霊夢は明らかに失望した様子だった。
しかし、一方で菫子は何かに気づいたのか私の話を聞いて黙りこくっていた。
「おい、菫子。どうかしたか?」
菫子は外来人である。外の世界の人間達に影響を及ぼそうと無茶な手段を練っている可能性がある。
「大丈夫よ。変なことなんて考えてないから。ちょっと、気づいたことがあって……」
ぶつぶつと菫子は誰にも聞こえない声量で独り言を始める。そうしてしばらくしたあと「資料の確認をしてくる」と言って姿を消した。おそらく外の世界へ戻ったのだろう。菫子は眠っている間だけ、幻想郷に来ることが出来る。外の世界で意識を取り戻せば、それだけで向こうに帰ることが出来るのだ。
「魔理沙。紫の話聞いた感じじゃ、原因は外の、しかも今の情勢にあるみたいだから、これから外の世界に出向いてどうのこうのしても意味なさそうね」
霊夢はそんな感想を漏らす。私は霊夢の言っていることが理解できず「どいういうことだ?」と訊き返す。
「外の世界のオカルトに対しての『意識』が原因だって話でしょ? そういう思想が一朝一夕で大衆に根付くものだとは思えないわ。幻想郷に新規のオカルトが流入する今の情勢をどうにかするには、それこそタイムスリップでもして過去の時点からそういう意識が流行らないようオカルトに芯を持たせる必要があると思うわ」
「なるほど。確かにそうだな。今挙げた解決策が突拍子もないことを除けば」
流石は巫女だ。宗教を扱う霊夢には大衆心理に関しては直感的に気づける部分も多いのだろう。しかし、大衆の意識操作はともかく解決策に時間遡行が必要だなんて。前提から無理がある。そう私が正直な感想を漏らすと霊夢はあっけらかんと言葉を返す。
「何言ってるの魔理沙。ここは幻想郷よ。その程度の能力の持ち主の一人や二人、いるでしょ」
楽観的である。
「んなわけあるか」
「咲夜とかどう?」
「あいつはどうなんだろうな……。自分の手の内はあんまり明かさないし」
幾度か交戦経験があるので奴が時間と空間を操作することはわかっているが、完璧に操れるようにも思えない。
「とりあえず、菫子が戻ってくるまでそういう能力の持ち主を探すことにしましょ。私はまずは永遠亭にあたってみようと思うわ。月の技術って結構進んでるみたいだし」
「じゃあ私は紅魔館だな。咲夜はもちろんだが、パチュリーの奴も何か情報を持ってるかもしれない」
「頼むわ。けれど、やばい怪異が発生したときはそっちの対処優先ね」
「わかってるさ」
オカルトは現在も絶賛流入中である。紫から貰ったオカルトリストのおかげで対処が楽になったとはいえ、同時進行で情報を集めるというのは中々骨が折れるだろう。しかし、私達に解決できない異変はないはずなのだ。今までだってずっとそうしてきたのだから。この異変も後から酒でも飲みながら楽しく語らえるような事件に落ち着くだろう。
私はそう思っていた。
後にこの異変のことを皆で語らえる日なんて来なくなるということも知らずに。
いつも通り、私は居眠りをする門番を素通りして正門を通り過ぎる。
「お邪魔するぜ」と申し訳程度に挨拶し、私は玄関の戸を開ける。外の熱気とは打って変わって館内は冷気に満ちていた。ふらふらと仕事をしているフリをしているメイド妖精達が目に付く。彼女達は私の姿をちらりと確認すると会釈し、すぐに掃除をするような動作を再開してこそこそと雑談に勤しむ。門番といいメイドといいどいつもこいつも仕事熱心な奴らだ。
「咲夜! いるかー?」
大声で呼ぶと殆ど間を置かず、背後から「はい」と止水のように落ち着いた声がした。
「客人の背後を取るとは無礼な奴だな」
「そうですね。盗人への対応としては相応のものだと思いますが」
「随分ときついことを言うな」
「そのくらいで傷つくような繊細な心は持ち合わせていないでしょうに」
「確かに」
私は振り返って背後にいた咲夜に改めて「お邪魔してるぞ」と挨拶をする。咲夜はそれに応じるように会釈する。
「それで、今日はどうしたの? いつものようにパチュリー様にご用かしら」
咲夜は首を傾げる。私が本を持ち帰る用の袋を持っていないので疑問に思ったのだろう。
「私はいつも図書館に用があるのであってあいつに会いに来てるわけじゃないぜ」
あいつとお喋りするのは割と有用なことも聞けたりするので嫌いではないが。
「またまた照れなくてもいいのよ」
茶化すように咲夜は返す。
「今日は図書館に用があるんじゃなくて、お前に会いに来たんだ」
茶化されたのが気に入らなかったので若干芝居掛かった口調で返した。すると咲夜はくすりとかわいらしく笑う。
「あら、いつからそんなに軟派になってしまったのかしら」
「たまにはいいだろ? ――まあすこしからかう風になっちまったが、お前に用があって来たってのは本当だぜ」
「例の異変の件に関しての話かしら? 紅魔館の方針としては、こちらに被害がない限り不干渉でいるつもりよ」
察しのいい奴だった。同時に薄情でもあると思った。咲夜は人間だが、どちらかというと妖怪寄りの思想の持ち主なので主や自身たちに害がない限り異変に積極的に関わらないというスタンスなのだ。
「わかってる。だがお前の力が必要かもしれないんだ。聞きたいんだが、お前の能力で『過去』へ戻ったりってことはできるか?」
咲夜は私の問いに対して首を横に振る。
「悪いけれど、私の能力はそんな便利なものじゃないわ。時間の流れを遅くしたり止めたりすることは出来るけれど、不可逆のものを可逆にすることは出来ない。時間の進みというのは基本的には一方通行なのよ」
咲夜は肩を竦める。残念だ。あまり期待はしていなかったから落胆するほどのことでもないが。
「そうか。わかった、すまないな。変なこと訊いて」
「気にしないで。ところで、今の口ぶりだと今回の異変は過去に原因があるのかしら」
「まあそんなところだ。しかし、困ったもんだ。時間遡行の能力持ちなんて、どっかにいないものかな」
「永遠亭は? ちょうど今永琳がお嬢様とお茶をしているわよ」
咲夜が応接間の方を指す。なんて出来たタイミングだ。
「はあ。間が良すぎるな。永琳の奴、なんでここに来てるんだ?」
「言ったでしょ。お嬢様とお茶をしに来たのよ」
「あいつらそんなに仲良かったのか?」
「いいえ。お嬢様があの人を誘ったのは今回が初めてのはずよ。込み入った話があるわけでもなさそうだったし、いつもの気紛れでしょう」
レミリアの奴の気紛れがこんな風に上手く機能するとは。まあ、結果的に永遠亭の方へ直接向かった霊夢には無駄足を踏ませるハメになってしまったが。
「その茶会に飛び入りしてもいいか?」
「構いません。お嬢様も暇をしているようでしたし。『飛び入りで客が来そうなときは通してもよい』とも仰っていましたね」
私が来ることを見越していたかのような予言染みた発言である。
「助かるぜ。レミリアの気まぐれもたまには役に立つな」
「あら、知らなかったのかしら? お嬢様が気紛れを起こすときは、大抵物事が上手く回ってしまうのですよ」
すこしだけ誇らしげに咲夜は言い切った。
「邪魔するぜ」
咲夜に通され、私は応接間に入室する。丁度メイド妖精がホールケーキをテーブルの上に持ってきたところだった。。
「来たわね。咲夜、このケーキ切り分けてちょうだい。三の倍数で割れる数でね」
普通に六等分にしろと言えばいいのにレミリアは回りくどい指示を出す。まばたきの合間に私の椅子とティーカップまで用意されていた。咲夜の能力の仕業だろう。一方永琳は僅かに驚いた様子で私の姿を確認する。
「魔理沙、貴方もこの子に呼ばれたのかしら?」
「呼ばれてないよ。永琳、私はお前に用があってここへ来た」
「おかしいわね。何故私目的で永遠亭へ向かわずここへ来るのです? 紅魔館に居ることはうどんげ達にしか教えていなかったのに」
「そりゃお嬢様の気紛れのせいでな」
私がそう言うと永琳は意味が理解できないらしく、小首を傾げる。その様子にレミリアはくすりと猫のくしゃみのように小さく吹き出す。普段全く隙のない永琳をからかえて気分がいいのだろう。
「それで、私にどんな用があるというのですか?」
「前に紺珠の薬とかいう未来を体験する薬作っただろ。あれと似たような薬ないか?」
「具体的には?」
「今度は過去に行けるようになる薬がほしい」
私がそう言うとレミリアは腹を抱えて笑い始めた。
「はははっ。な、なによそれー! そんなピンポイントに都合のいい薬があるわけないでしょ! 魔理沙、あんたおもしろすぎよ」
口調を崩しながらレミリアは茶化す。
「うるさいな。で、どうだ永琳?」
永琳は眉間を指で押さえて困ったような表情になる。
「魔理沙、流石に冗談が過ぎます。私は全能でも万能でもないのですよ」
「やっぱりそう都合よくいかないか」
「二人分くらいしかありません」
「あるのかよ!」
私は間髪入れずに突っ込んだ。レミリアは椅子ごとひっくり返りそうになりながら爆笑する。いつの間にかレミリアの背後に回りこんでいた咲夜が咄嗟に椅子を支えた。
「あはは、永琳、あんた薬師やめて神様にでも転職したほうがいいわよ。いや、復職かな?」
「煩いですね。それで、魔理沙。どうしてそんな薬が必要なのかしら」
「ああ。今回の異変を解決するにあたって過去に行く必要があるかもしれないんだ」
私はそう前置きしてから霊夢の提案した考えを永琳に説明した。霊夢の考えは永琳からしても的を射ているように思えたらしく、終始彼女は異論を挟まなかった。
「大衆に根付く意識を改革するためには長い時間が必要。成る程、納得しました」
「ずいぶんと大げさな手を考えるのね。それだけ今回の異変はやばいってこと?」
レミリアは他人事のように訊く。
「まあな。解決手段が選んでられるほど手は多くない。結界の性質を紫の奴は変える気がないようだし、お前らみたいな妖怪達はそもそも異変を問題視すらしてない。本当ならお前らだってこのままほっといていつか痛い目みても知らないようなまずい異変だぞ」
「あら、そうなる前にあなた達が解決してくれるんじゃないのかしら?」
レミリアは紅茶を啜る。
「ところで過去に戻ったはいいとして、扇動方法に考えはあるのですか?」
「いや、それはまだだ。霊夢の案もついさっき出来たばかりの思いつきだし。当然これからまた集まって意見を煮詰めるつもりだが。今はとりあえず手段を確保している段階だな」
菫子の奴も何か考えがあるようだったし、戻ってくるのを待って意見を聞かなければならない。
「手探りなのですね」
「私としては月の頭脳の意見も聞きたいな」
永琳は首を横に振る。
「私に頼る癖がついてはいけません。最低限、手段くらいは協力するつもりですが。永遠亭は一応人間側の勢力に寄っているので」
「だろうな。ためしに訊いてみただけだ」
少なくとも永琳が制止する素振りを見せなかったので霊夢の案は致命的な手段ではないのだろう。私はそんな打算を頭の中に展開しつつ、ケーキを頬張る。頭を使う時に糖分補給は重要だ。
「貴方の考えについては理解しました。後でうどんげに薬を届けさせます。どう使うかは、貴方達の好きにしなさい」
「おう、助かるぜ」
「魔理沙ー。そのおもしろい遊び、私も混ぜてほしいわー」
「お嬢様、お戯れは程々に……」
紅茶を注ぎ足しつつ咲夜がレミリアに意見する。ブレーキ役も大変だな、と私は咲夜に同情した。
神社へ戻ると三人は既に戻っていた。日差しを避けるために三人は庇の影で涼んでいる。
霊夢はふくれっ面で腕を組んだ状態でぶつぶつと何かを捲くし立てていた。どうやら永遠亭で無駄足を踏んだことに関して二人に愚痴っている様子だった。
「戻ったぜ」
「あら、おかえり。魔理沙、私のほうは間が悪かったみたいで永遠亭で永琳に会えなかったわ」
「だろうな。あいつ、紅魔館に居たぞ」
私は先刻の出来事を三人に説明した。咲夜へのあてが外れたが、代わりに永琳は当たりだったということを。永琳が過去へ戻れる薬を処方できるという事実を聞いて菫子だけは半信半疑な様子で私に聞き返した。
「そんなとんでもない代物がほんとに都合よく存在してるの?」
「ああ、この手のとんでもアイテムに関しては信用できる奴だぜ」
「でしょうね」
「ですね」
二人は揃って首肯する。霊夢、早苗は紺珠の薬を既に体験しているので私の話に疑問を抱いていない様子だった。
「なんかすごい人なのね。今度是非お会いしたいわ」
「あんま期待すんなよ。ただの変な奴だぞ」
「そうですねー。キカイダーみたいな変な格好ですもんねあの人」
「キカイダー?」
それがなんなのかはよくわからないが早苗の評価は相変わらず容赦がない。変な格好とは言いすぎだろ。
「あー、ほんとにそんな格好なら確かにやばいわね」
早苗と菫子は二人にしか通じない話題でキャッキャし始める。おそらく外の世界のネタなのだろう。
「それで、菫子。さっき外に戻って確認してきた資料の話ってのはなんなの?」
霊夢が切り出す。
「よくぞ聞いてくれたわね。さっき魔理沙さんが報告してくれたユカリとかいう妖怪から貰った情報を聞いて思いついたの。そのひとは最後に『1999年』のオカルトに関して言及したらしいわね」
それに関しては本当についで程度の何のあてにもならない陳腐な情報だと私は思っていたのだが、菫子は何か取っ掛かりを感じたらしい。
「ああ。私は何のことだかわからずスルーしたけど。この異変に何か関係があるのか?」
「ええ。私の見解では重要なオカルトね。1999年。それは二十世紀最大にして最後のオカルトが死んだ年よ」
早苗が息を呑む。どうやら、このオカルトも外の世界では有名なものらしい。
菫子が語り始める。ノストラダムス、という予言者がいた。彼は「1999年に恐怖の大王が来るだろう」という予言を残した。これにより人類史は終焉を迎えるという終末予告だ。この恐怖の大王というのがなんなのかは諸説あり、巨大隕石説、疫病説、核兵器説、とあらゆる議論がなされた。当時の外の世界は滅びの予言を鼻で笑うものもいれば、恐怖に怯え生き残るための情報収集を欠かさないというものもいた。
信じるものも信じないものも、例外なく予言という名のオカルトを意識させられた年だった。私にはよくわからないが、テレビというもので特番という特別枠のメディア発信も多く行われていたらしい。
しかし結局、人類は滅亡することなくミレニアムを迎えた。恐怖の大王は降りてこず、影すら見当たらなかった。こうして完全に人騒がせな与太話として人類を終焉させる終末予告のオカルト『ノストラダムスの大予言』は終結した。
それを期に外の世界のオカルトブームは終息を始める。オカルト情報誌は発行部数を落とし、テレビというメディア発信にも枠を失っていく。ここまでは菫子が自身の倶楽部活動というものでオカルトの研究中に把握していたことらしい。
外の世界では二十世紀とそれ以降でオカルト観が違うのだ。紫が指摘したように、科学の発展も追い風となり、今ではオカルトは単純な娯楽に成り下がっている。
「浪漫を失ったのよ、オカルトは」
「納得できないな。そのノストラダムスの予言とやらはそんなに大きなオカルトだったのか?」
私が疑問を呈すと菫子は頷く。
「ええ。もしかしたら自分が死ぬかもしれない、という恐怖。万人に影響しうるオカルトはそれだけだったから。私はよく知らないけれど、資料を見る限りじゃ集団ヒステリーに近い状態だったと分析できるわ」
「確かに、なんだか結構な騒ぎになっていたと神奈子様からお話を聞いたことがあります。私は2000年問題のほうが関心がありましたが」
早苗が捕捉する。
「ふーん。菫子、自分の知らない時代のことをよくそこまで調べられるわね」
霊夢が感心する。
「まあね。外じゃそういう情報収集は比較的簡単にできるようになってるし。そういう利便さも世の不思議を埋め、幻想を途絶えさせる要因にもなっているのかもね。ともかく、今のオカルトを消耗品とする価値観の起源はここにあると私は推論を立てる。じゃあ、どうすればいいか。もうわかるでしょ?」
菫子は得意げに人差し指をぴんと立てる。こいつはオカルトが心底好きなのだろう。先刻まで発生する怪異の対処に追われて疲労困憊だったはずなのに、こういう話をしているときは疲れを感じさせない柔らかな笑顔を見せてくれる。
「さあな。どうするんだ?」
私はあえて答えを菫子に促す。菫子はにっこりと笑って答えた。
「1999年の世界で、私達が恐怖の大王を降臨させればいいのよ」
抽象的な提案だった。しかし、私達の中では菫子の案をヒントに様々なアイディアが浮かび始めていた。予言のオカルトで指されている恐怖の大王というものがなんなのかまるで解明されなかったことが大きい。それなら自分達でどんな風にでもこじつけられるからだ。
「はい! はーい! 私、思いつきました! 隕石落とせばいいんですよ!」
早苗が真っ先に発言する。
「いやいやいや。そんなことしたらこの異変よりやばい騒ぎになるだろ」
「もちろん、本当に落とす気なんてありませんよ。要するに大多数の人間に『恐怖の大王』を認知させればいいわけでしょ? なら私の能力で遠くから隕石を誘致して、被害が出ないよう落下直前に砂状に分解すればいいのです!」
早苗は『客星』のスペルカードをちらつかせながら力説する。確かに、あの光量を放つ隕石を引っ張ってこれるなら大変な騒ぎに出来るだろう。
「賛成だわ。本当に被害を全く出さないようにするなら隕石なんて誘致した直後に送り返したほうがいいんだろうけど、砂状に砕くのなら問題にならなそうね。物的証拠を残すという意味でもとてもいい案だと思うわ」
菫子が同調する。
「でも早苗、あんたの能力ってそんなに融通が利くもんなの?」
霊夢の指摘に早苗は胸を張って「もちろん!」と返す。
「隕石の誘致はそもそも楽勝に出来ますし、分解に関しても消費する霊力が大きそうですが、まあ何とかなるでしょう。詠唱する時間さえしっかり確保出来れば、私に不可能はありません!」
「頼もしいな、じゃあ過去へ行く面子の一人は早苗で確定だな」
私がそう言うと早苗は小躍りでも始めそうなほど上機嫌になりガッツポーズを決める。即席で思いついたにしては随分と力の入ったプレゼンだったが、単純に私欲も混じっていたらしい。永琳の処方する薬は二人分しか数がないという話だった。タイムトラベルだなんておもしろい体験はおそらくこの機会を逃せばもう二度と味わえないだろう。早苗が息巻くのも無理はない。
そしてそれは私も同じだった。以前の異変で訪れた外の世界。星の光のような光源と天を衝くような摩天楼が地表いっぱいに広がる、幻想郷以上に幻想的な情景。その景色は私の胸の中に強く残っている。しかも今回見られる景色は過去の世界のもの。想像するだけで胸の高鳴りを感じる。
「早苗、わかってるとは思うけど遊びに行くわけじゃないんだからね? あくまで異変の解決がメインよ」
はしゃぐ早苗を霊夢が窘める。内心浮かれていた私も同時に釘を刺された気分だ。
「わかってます、わかってますよー霊夢さん」
「ほんとにわかってるのかしら……」
「じゃあ、残る面子は私でいいか?」
私はそう切り出す。釘を刺されようが行きたいという気持ちに変わりはない。私は勝手なのだ。
「わ、私も行きたいわ!」
「お前は実体がないから駄目だろ。薬飲まないといけないんだぞ」
私は事前に準備していた意見で菫子の立候補を封殺する。落ち込む菫子を見るとすこし罪悪感を覚えた。
「ううー……。幻想郷の外なら私の領分なのに」
「まあまあ菫子さん。私の領分でもありますから、任せてくださいよー」
「で、霊夢は異論ないか?」
霊夢を封殺する意見はないのでこいつが乗り気だったらどうするべきか。私はそう考えていたのだが、どうやらそれは杞憂だったようで霊夢はめんどくさそうに同意した。
「構わないわ。ただし、しっかり早苗を制御してよね。なんか浮かれてるみたいだし」
霊夢は早苗の頭を御祓い棒で軽く叩く。早苗はへらへらと笑う。
……なんだか不安になってきた。
永琳によると過去に持ち運べる荷物には限りがある、という話だった。丁度私の持つ箒分くらいの質量しか運べないらしい。なので荷造りには悩まなかった。
「そこでその箒を優先する理由がわかりませんねぇ。それってなくても飛べるんでしょう?」
早苗が苦言を呈す。
「これがないと落ち着かないんだよ」
あと八卦炉と試験管に入れた魔法薬もスカートに忍ばせてるし。私にとってはこれだけで十分である。
「どうしてもというなら仕方ありませんが。向こうでは目立つのでこれで包んどいてくださいね」
と言って早苗は新聞紙を押し付けてくる。私は仕方なくそれに応じる。
「あと、これも着てください。外から持ってきた私の服なんですけど、神奈子様が捨てずに取っておいてくれました」
手渡されたのは制服という衣装だった。菫子や鈴仙が着ているものと同じようなものである。外の世界の私くらいの歳の女にとってはポピュラーな格好らしい。
「私のなので丈は合わないかもしれませんが」
確かに、サイズ的には一回りほど合わなかった。これに関しては向こうで違う服を見繕うことにしよう。生地が薄いせいでスカートの中に忍ばせていたアイテムも軒並み入らないのも結構辛い。ベルトなんかに巻き付ければ変わるだろうが、それではどうにも不恰好でゴテゴテしてしまう。戦闘に出向くわけじゃないんだから。
「くそー。仕方ないから八卦炉以外は置いてくか」
「というか、スカートは物をしまう場所じゃないでしょ」
菫子が指摘する。
「ほっとけ」
「……帽子は脱がないんですか?」
早苗は私の頭のとんがり帽を指す。
「ないと落ち着かないんだ」
そう返すと早苗は呆れたようにため息をつく。
「早苗、無駄よ。魔理沙って結構頑固だから」
霊夢が知ったような口を利く。
「でも流石にその格好は外じゃ目立つかなぁ。やめといたほうがいいと思うわ」
「お前に言われるとなんか説得力なくなるな」
菫子の妙な柄のマントと帽子を指しながら私は言う。でもまあ、これについても向こうのファッションに合わせたものを代わりに見つければいいか。
「ところで、あなた達お金とかは準備してるの?」
「金?」と私は菫子に訊き返す。
「外の世界ではなにをするにもお金が必要よ。それは1990年代でも変わらない。寝床も食事も衣料もお金が必要よ。物々交換なんて当然通じないし、食べ物も自生してない。お金がないとのたれ死ぬわよ」
前に外の世界を覗いたとき、地表が全て石のような材質で覆われていたことを思い出した。確かにあれでは食用の植物もそれを餌にする動物も望めない。
「普通に強盗でもしようと思ってましたけど」
「おいおいそれは流石に無茶が過ぎるだろ」
早苗はたまにとんでもない発言をする。
「冗談ですよ冗談」
「ホントかよ……」
「で、結局どうするわけ?」
霊夢が仕切りなおす。私達は揃って首を捻った。ここでは外の世界のお金なんてそれこそよっぽどのことがない限り流れ着かない。お金は人心を掴んで離さない。いわば物欲そのものなのだ。だからこそ外の世界はあれだけ発展したのだろう、と私は推察する。
「金のことでお困りのようじゃな」
ここに居る四人以外の声が頭上から突然聞こえた。
ひらひらと木の葉が舞う。瞬間木の葉は白煙に包まれ、私達四人の間を割るように二ッ岩マミゾウが顕現した。
「マミゾウ、あんたいつからそこに?」
霊夢があからさまに不機嫌になる。私はまあまあと手で霊夢を抑える。
「さあて、いつからかのう。少なくとも、おぬしらがよからぬことを企んでることは把握しておるぞ」
「よからぬことじゃなくて、異変解決に必要なことだぜ」
「すこし方法が過激すぎる気がするがのう。まあ、文句を言う気はないがな。儂もあの新参の怪異どもには辟易しておる。どいつもこいつも知能が無く言葉の通じん奴ばかりじゃ」
異変発生初期、マミゾウの奴が自身の勢力拡大のため積極的に怪異に接触していたのは知っていたが、どうやらあまり上手くいっていなかったようだ。
「異変をどうにかしてくれるんなら、儂としても助かる。90年代。その頃なら、儂は外の世界で金貸しとして活動していた時期じゃ。金の都合なら協力するぞい」
マミゾウは一枚の封筒を私に手渡す。封はされていたが、私は構わずそれを破り中身を確認した。
「安心せい、妙なことは書いとらん。過去の儂への協力要請だけじゃ」
確かに、文面だけ見ればただの嘆願書のようだった。
「でも過去のお前はこの文だけ見て状況を理解できるのか?」
「心配するな。儂の頭は柔らかい」
私は他の四人にも封筒の中身を見せ、不審な点がないか確認させた。
「……術を仕込んでる様子もなさそうね」
霊夢が手紙を検分しつつ呟く。
「そんな猪口才な真似せんて。儂は純粋におぬしらに協力するつもりで現れただけじゃ」
マミゾウは破れた封筒の代わりを取り出した。
「ふむ。お住まいは都心じゃないですか。あの辺は土地代結構高かった気がします」
「まあな。そこそこ経営が上手くいっとった時期じゃからのう」
早苗は封筒に書かれた住所を眺める。
「手を貸してくれるってんなら、頼らせてもらうぜ。何分、外の世界の知識には疎いからな」
「私は詳しいですよう」
早苗が頬を膨らませる。今までの言動を顧みるとあまりこいつは頼れそうにないのだが、直接口には出さないでおこう。それから私は外の世界に詳しい組である菫子・早苗・マミゾウから一通りレクチャーを受けた。お金の遣い方やら、マナーや禁則事項。もっとも、外の世界も倫理的にはさほど幻想郷と変わらないようで、最低限のモラルに反するような真似をしなければ法に触れることはないようだ。
個人的には交通規則とやらが一番面倒臭く、生活する上で息苦しそうだと思った。交通事故が外の世界での死因のトップであるらしいので規則に厳しくなるのは仕方の無いことなのだが。話を聞く限り、自動車とやらはこちらで言う妖怪みたいなものなのだろう。身近にある癖にふとした油断で容易に人を死に至らしめる。
三人の講義を聞きつつ時間を潰していると、ようやく鈴仙が現れた。片手には革の鞄を抱えている。一瞬私と早苗の制服姿を見て吹き出す様に鈴仙は笑った。
「お待たせ。珍しい格好してるわね」
「外の世界じゃ普通の格好らしい。笑うなよ」
「まあ、なんでもいいけど。というかえらく大所帯ね。薬は二人分しかないってお師匠様から聞かなかったの?」
「気にしないで。私達は見送りだから」
うんうんとマミゾウが首を振る。菫子はまだ時間遡行に未練があるようで、少しだけ不満げだ。
「ふーん。悪いけれど、あなた達は時間遡行の様子を眺めることはできないわよ。今回の薬は『タイムリープ』つまり意識だけを過去に飛ばす現象を引き起こすものだから、身体が過去に送られるわけじゃないの」
と、鈴仙は解説を始める。
「タイムリープ? 荷物を持ち運べると私は聞いたんだが」
「その辺も説明するから質問は後でまとめてして。さて、お師匠様のこの『遷化の薬』は意識だけの時間遡行を可能にする代物よ。これが現物」
鈴仙は鞄から透明の袋に入った薬を取り出す。見た目はただのカプセル状の錠剤だ。
「不可逆を遡行するには膨大なエネルギーが必要よ。それは質量によって相対的に増大する。なので、その負担を最小限にするため時間移動は『魂』や『自我』といった個を維持するのに必要な最小単位だけに限定するの。しかし、普通に遡行すれば移動先に意識の受信媒体がないので宙を浮遊する神霊に似た状態になってすぐに消滅してしまうわ。移動先に過去の自分がいたとしても、受信先にはなりえない。一つの器には一つの意識しか宿らないから」
意外な話だった。一つの体に幾つもの意識なんて共存できそうなものだが。
「その問題を解決するために、この薬は時間遡行とともにある術式も付随するようになっているわ。それは意識を骨子として、移動先に在る物質を間借りして原子変換し、肉体を組成するという術よ。これで受信問題は解決ね。身に着けているものを持ち込めるのはそういう理屈よ。物霊も一緒に移動するから、それもまとめて組成できるの」
なるほど。そっくりそのまま物を移動できるのではなく、同じものを現地でコピーする感じか。しかしその理屈だと移動先の私の肉体もコピーした偽物ということになってしまうが……。
意識が私のものとはいえ果たして遡行先の私は私なのだろうか? 哲学じみた問題である。沼男という思考実験を思い出した。いや、考えるのはよそう。嫌な気分にしかならない。
「原子変換って、時間遡行並みにやばい技術な気がするんだけど」
菫子が引き気味に言う。
「お師匠様は天才なので」
「そういう問題かなぁ」
「ともかく。理屈はだいたいこんな感じね。さて、服用方法だけどこの錠剤は水要らずよ。飲んだら口内で噛み砕いて。そして、飛びたい年数分息を止めるの。息を止めている時間一秒につき大体一年遡行できるわ。大雑把にそれで飛ぶ年数を決定した後は、遡行先の座標の景色と時間を細かく頭でイメージして。ずれると地球の自転と公転に置いていかれて宇宙空間に放り出されちゃうから注意ね。この細かい設定役は一人のほうが安定するわ。二人同時に行うとイメージがずれてしまうもの。手を繋いでいれば移動先は同じ場所になるから」
「早苗、調整はお前に任せる」
「はーい。了解です」
外の世界の座標を細かく指定するのは私には難しい。投げっぱなしで構わないだろう。
「過去の世界からこちらへ帰るには『帰りたい』と強く念じるだけでいいわ。注意点は、魂の形というのは強く肉体に影響するという点ね。仮の肉体だとしても、向こうで傷を負って帰ってくればこちらの身体も同じ傷を負った状態になるかわ。物霊の影響で所持品も変化するからそれも注意ね。こちらから持ち込んで、あちらに置いてきたものは持って帰ることは出来ない。逆に帰るときに身に着けていれば過去の物品も持ち帰れるけれど。説明はこんなところかな」
「はい、質問です。タイムパラドックスなんかについてはどうなってるんでしょう?」
早苗が聞く。小説か何かで見た覚えのある単語だ。確か時間遡行に伴う矛盾に関しての用語だったかな。鈴仙はその単語について把握しているらしく素早く質問を返した。
「それが引き起こった時点で肉体が現代へ強制送還されるわ。ただし、時間的矛盾は適応されたままね。タイムパラドックスを防ぐことはできないけれど、それによる因果の崩壊を最小に抑えるための機能よ。同じく、歴史を大きく変えるような行為をした場合でも強制送還されるわ。今回のあなた達の作戦を聞いたけれど、大衆の世論誘導とやらが成功した時点で薬の効能でここへ引き戻されることになりそうね」
なるほど。大体わかった。話だけ聞いてる限りでは、あまり作戦以外の行動で無茶は出来そうに無いと思った。
「他に質問はないかしら」
「バタフライ効果に関してはどうなる?」
私は鈴仙に質問する。はからずとも歴史を変えてしまう可能性について考えたとき、一番の課題になる問題である。簡単に説明するなら『風が吹いたら桶屋が儲かる』という話だ。小さな要因が積み重なり、大きな問題に波及する可能性。遡行先で石ころを蹴っ飛ばしただけで未来を改変するような事態にドミノ倒しで発展し、その時点で強制送還されるなんて事になれば堪ったものではない。
「問題ないわ。お師匠様によると歴史というものは弾性で、つまり元に戻ろうとする性質を持っているの。小さな要因で未来が書き換えられるような事態になりかけても、勝手に元々の歴史に事象は収束する。歴史の強制力・時間収斂・世界線収束範囲・スプリングバックと色々な呼ばれる方をしているわね。起こるべくことは多少の変化があっても起こるように出来ているのよ」
「でもそれだと今回私達が歴史を改変して大衆意識を変えさせるのは無理なんじゃないのか?」
「大丈夫よ。この収束範囲には限度があるから。明確に歴史を変遷しようとする意思の伴った行動には対応できない。そもそもこの世界の仕組みである『歴史』や『因果』は時間遡行なんて反則に完全に対応できないものなのよ」
他に質問は?と鈴仙が促す。他の奴らも思いつくことはないらしく、黙ったままだ。鈴仙の説明を各々自身の頭の中で推古しているのかもしれない。
「なければ薬を渡すわ。服用するのは魔理沙と早苗でいい?」
「はい」「おう」
同時に返事をした。霊夢に突っつかれたというのに、早苗の奴は相も変わらず浮かれた様子である。浮ついた気分であるのは私も変わらないけれど。未知の体験というものは否応なしに好奇心を煽る。薬を受け取ると早苗は目を閉じてぶつぶつと何かを呟く。外の世界のマミゾウの事務所付近の住所を短く暗唱して近場の風景を想起している様子だ。
私は息を止める時間を逆算しつつ心を落ち着ける。早苗と何度か薬を飲まない状態で予行練習をした後、いよいよ本番である。
「座標と移動する年代のイメージは、おおよそばっちりです」
「おおよそで大丈夫なのかよ」
「お師匠様の薬は、安心サーチ補助機能もついているから、ある程度大雑把でも問題ないと思うけど」
さすが永琳。気の回る奴だ。
「なら行けるな。早苗、準備はいいか?」
「ええ」
私達は手を繋ぐ。目の前で霊夢が時計を構える。遷化の薬を口内に含み、秒針が十二時を回った段階でそれを噛み砕き私達は息を止めた。カウントスタートだ。
カチリ、カチリと針が動く。薬の効果か、妙な浮遊感を覚える。意識と肉体が乖離するかのような。肉体への神経の伝達速度が遅れているかのような錯覚。
五秒――。不意に霊夢達の背後で裂帛音とともに空間が裂けた。一瞬薬の効果かと思ったが、それは紫の仕業だった。スキマから身を乗り出し、私達二人の様子を遠巻きに眺め、笑いながら手を振っている。見送りのつもりだろうか。
「蝶の羽ばたきにご用心」
と、忠告のような台詞をこぼす。いったい何のことやら聞き返したかったが、今は息を止めている真っ最中だ。私は紫に半眼の視線を返すだけだった。
秒針が規定の位置まで到達する。私達は同時に口を開け、思いっきり息を吸った。空気が口内に入る気配は無い。真空の感覚に溺れそうになる。驚きのあまり思わず手を離しかけたが、早苗は私以上に落ち着いているらしくしっかりと強い握力を感じた。
人体の感覚がおぼろげになる。視界も、聴覚も、溶けるように感覚が消失する。唯一確かな感覚は、早苗の手のひらの感触だけだ。早苗の手を見失わないよう、私は強く力を込めた。
暗転した視界は次第に光を取り戻し始める。さざめくように眼球が組成されている。浮遊感は消え、周囲の空気を押しのけるように自身の肉体が実体を持つのを感じた。最初に目に付いた光景は、滑り台や鉄格子の変なオブジェ。最初に早苗が座標に指定した公園という場所だろう。
「魔理沙さん、意識はありますか?」
冷静に早苗は言う。もっとはしゃいでるものだと思ったのだが。
「おう、問題ない」
足元はすこし地面が抉れている。私達の身体の質量分、原子変換とやらをしたせいだろう。早苗は周囲をきょろきょろと見渡すと、広場の端においてあるゴミ箱に歩み寄り躊躇無くその中に手を突っ込んだ。
中から取り出したのは新聞である。新聞はこの世界にも普及しているのか。少なくとも天狗製でないのは間違いないだろう。早苗は紙面の上部にある日付の欄を指す。1999年七月某日。
「成功です! やったー!」
早苗は突然小躍りしだし、勢い余って私に抱きつく。
「ちょっ、落ち着けよ!」
「落ち着いていられるものですか。私達は今、熱力学第二法則に反したのですよ! 宇宙の熱的死を、私達の意識という情報のエネルギー分遠ざけたのですよ! すごい、私達は今前人未到の領域に立っているのです!」
よくわからない単語を一気に捲くし立てられる。何なんだいったい。私も多少興奮しかけていたが、早苗の勢いに押されている。
「そ、そうだ。ここに来る直前、紫が蝶の羽ばたきがどうのって言ってた気がするんだが、あれどういう意味なんだろうな」
「バタフライ効果のことで間違いないでしょうね。でも、それは問題ないというのが永琳さんの意見だったはずですが」
うーんと早苗は頭を捻る。
「しかし、あの方が忠告するというからには何かあるのかもしれません。考えてみましょう。そもそもバタフライ効果とは何か。そこから始めますか」
べらべらと早苗は持論を展開し始める。まずい、早苗を落ち着けさせようと振った話題だったのだが薪に火をくべる結果となった。往来から人がちらちらと通りがかりにこちらの様子を伺う。私達の姿は外の世界から見れば常識的な格好のはずだが、不審に思われてはいないだろうか。早苗の一人語りは終わらない。仕方ないので私は早苗の手を引っ張って往来へ出た。この時代のマミゾウの元へ行かなければ。
レクチャー通り、信号のうつり変わりに気をつけながら道路を横断しタクシーを探す。しかし、私にはタクシーというのがどの車種を指しているのかわからなかった。道路を行き交う自動車は色とりどりで、目が回りそうになる。というか、人多すぎじゃないか?
日光を地面の石造りが照り返しているのか、余計に熱く感じる。環境の変化に身体がついていけないようで、着いて間もないというのに疲労感を覚える。こうして私が苦しんでいるというのに、早苗は涼しげな表情でべらべらとまだ喋っている。
「――というわけで、全ての物事は影響しあい、玉突きのようになっているというところに話は戻るのですが」
「戻すな戻すな。お前の話はよくわかった。わかったからタクシーとやらを捕まえてくれ」
「あら、いつのまにこんな人の多いところに。わかりました、すこしお待ちください」
言うが早い。あっという間に切り替えた早苗は車の行き交う道路側に身を乗り出し、手を振る。すぐにタクシーは私達の前まで動いてきて停まった。
早苗に続いて乗り込むと、車内は冷気に満ちていた。気温操作の魔法だろうか。否、と私はすぐに頭の中でそれを否定する。魔法は外の世界に存在しない。これは科学の力なのだ。車といい信号といい冷房といい、科学は魔法よりよっぽど優れているのではないかと私は思い始める。そりゃあ早苗がこんなに熱を持つはずだ。
「この住所までお願いします」
運転手のおっさんに早苗は封筒の住所を見せる。運転手は気持ちのいい返事で了解した。しばらくの間、車に揺られつつ私は景観を楽しむ。
「どうですか、外の世界は?」
「なんか、目がまわる」
正直な感想だった。早苗の奴は時間遡行という事象そのものに対して興奮していた様子だったが、私は純粋に外の世界の景色というのに昂ぶりを覚えている。今はスケールに圧倒されてはしゃぐ気にはなれないが、だんだん目が慣れてきた。すると思考も冴えてくる。なるほど、地面が石で覆われているのは起伏を小さくし、自動車の運転を安定させるためなのだな。幻想郷の人里の地面も舗装されているのは荷車の運転を安定させるためだし、発想は同じだ。
「あはは。でしょねー。私も幻想郷の風景になれてたから、なんだか落ち着きません」
「お前が落ち着かないのはタイムリープが原因だろ」
「よくわかりましたね! ――まあ、もう魔理沙さんうんざりしてる様子なので語りませんが」
「いや、話自体は結構興味深かったからまた聞きたいな」
現在の私のキャパシティーを超えているだけで、そういう科学の話はなかなか面白みがある。魔法の研究にも何か役に立ちそうだ。そんな暢気な外の世界トークをしているうちに目的地にたどり着く。
「ごめんなさい、運転手さん。ここで待っていてくれませんか?」
今はお金がないので、ちょっと中の知り合いから貰ってくる。そう早苗が伝えると運転手は了承した。この運転手のおっさん、妙に話のわかる奴だ、早苗の容姿がいいからだろうか。そんな邪推を浮かべつつ、私は雑居ビル内に入る。自動で動く不思議な扉を通ると、壁にフロア構成が描かれているのを見つけた。二階を『タヌキファイナンス』という会社が陣取っているのがわかる。ここで間違いないだろう。
階段を昇り、タヌキのシンボルを使っている戸へ向かう。ノックをして入ると、茶色のスーツを着た大柄の男が出迎えた。
私達の姿を見て、冷やかしかと思ったのか、「どうしたのお嬢さん、迷ったのかな?」と声を掛けてくる。私は「マミゾウに用がある」と返す。すると男はわかりやすくうろたえた。こちらでどういう名を名乗っているのか知らないが、少なくともマミゾウという名は外の世界では人妖か部下にしか通じない名だと聞いていた。
男は対応に困っているのか、なかなか私達を通そうとしない。痺れを切らした私は男を押しのけ、奥へ進む。
「邪魔するぞ」
一応ノックをして扉を開ける。部屋の中心でデスクに書類を広げて女性が椅子に座っていた。短く切りそろえた髪、白いブラウスを内に着込んだ紺のレディーススーツ、丸メガネ。私の知っている姿と大分相違あるが、醸し出す底知れない雰囲気から私はその女性がマミゾウであることを確信した。
「なんじゃ貴様ら。ここは塾施設じゃないぞ」
部屋へ入ってきた私達に気づくと鋭い眼光をマミゾウは見せる。早苗が私の背後で萎縮するのを感じた。
「お前に用があって来た。マミゾウ」
名を口にすると先刻の男と同じく動揺の影が見えたが、マミゾウは一瞬でそれを打ち消し足を組みなおしつつ私達の姿を観察する。
「何者だ」
「言っても信じないだろうけど、私達は未来から来た」
とりあえず正直に話す。マミゾウの怒気を圧し返すよう強めな態度で。たとえ荒事になっても手の内を知っている私のほうに分がある、という姑息な計算があったことは否定しない。
「おちょくっとるのか?」
「そんなつもりはないぜ。これが証拠。未来のお前からのお手紙だ」
私はマミゾウから受け取っていた封筒をマミゾウに渡す。文面に起すとかなりおかしな状況だ。マミゾウは封を破り、中の未来からの嘆願書を検める。
「……確かに、儂の字じゃな。そして――儂の術じゃな」
マミゾウは破れた封筒のほうを頭上の電灯で透かしつつ検分する。突然、封筒は煙に包まれ木の葉に変異した。私達は何が起こったのか一瞬理解が遅れて、身体が硬直した。
「ちょっ!」
私はマミゾウから木の葉を奪おうと手を伸ばす。マミゾウは立ち上がり身長差を使ってそれ避け、木の葉の表面に書かれているであろう未来からの情報を確認する。
するとマミゾウは手元から謎の端末を取り出し扱い始めた。携帯電話という代物だろう。
「儂じゃ。昨日買った株式、全て売り払え」と喋りかけ、端末を切る。続いて他の部下にも連絡をし、「あの土地を売れ」だの「あの品を買い戻せ」だの怒涛の指示を飛ばしまくる。私達はあっけにとられてそれを止めることすら出来なかった。ひと段落してマミゾウはふぅと息を吐き、いつもの見慣れた人の良い笑顔を私達に見せた。
「いやあ、助かったぞい。おぬしら。危うく大損こくところじゃったぞ」
「て、てめえなんてことしやがる!」
私はマミゾウの胸倉を掴む。鈴仙の解説を私は思い出す。明確な意思を以て未来を変えるようなことをすれば、私達は強制的に現代へ引き戻されるのだ。こいつの横着のせいで、即日帰還なんてことになれば洒落にならない。
「魔理沙さん、落ち着いてください! 転移が始まらない、ということはこの事象はそこまで歴史に影響を及ぼすような行動ではないのでしょう」
マミゾウに詰め寄る私を早苗が抑える。確かにそうだ。そう頭の中ではわかってるのだが、なんとなく利用された気になって腹が立つのだ。無償で協力すると言っていた癖に、やはり油断できない奴だ。封筒の方へ仕掛けを仕込んでいたとは。最初の封筒を中身を検閲するため私が破って駄目にするところまでおそらく織り込み済みだったのだろう。
「なにがなんだかわからんが、やらかしたのは未来の儂じゃ。儂は無関係じゃぞ」
「今しがた未来の情報を元に動きまくってただろうが」
「はて、何のことやら」
いつの間にかマミゾウは灰皿の上で木の葉をオイルの臭いのする長方形の妙なアイテム(おそらくライターとかいうやつだろう)で燃やしていた。つくづく良い性格をしている。
「まあまあ。お詫びではないが、おぬしらの素性は信じるぞい。手紙には『そちらでの生活を全面的に支援してくれ』と書かれている。いいじゃろう、儂に出来ることなら何でも協力しよう」
からからとマミゾウは笑う。してやられたが、そんな風に気持ちよく笑われたら怒っているのもバカらしくなってくる。私は息を吐き「そりゃ助かる」と投げやりに呟いた。早苗は「ありがとうございます」と頭を下げる。
「では早速、資金援助をお願いします。二十万円ほど。あと、ホテルも手配してください」
早苗はちゃっかりと要求を伝える。この切り替えの早さは見習いたいものだ。
「ふむ。構わんが、まずは名前を教えてくれ。おぬしらは儂と面識があるだろうが、儂からしたら初対面じゃ」
そりゃそうだ。私達はそれぞれ自分の名を名乗った。
「魔理沙殿に早苗殿だな。把握した。申し訳ないがここでは儂のことは『マミ』と呼んでくれ」
「わかった」
「なんだか可愛らしい呼び名ですね」
「はっはっは。似合わんのは承知しておるよ。さて、ホテルは一番良いとこの良い部屋を取っておこう。どのくらい滞在する気かは知らんが、好きに使うといい。資金援助は、かーどでいいかい? おぬしらのような少女が大金を持ち歩くのは危険じゃて」
「大丈夫ですよー。余裕で返り討ちに出来るくらい私達強いですからー。まあでも、カードのほうが確かにありがたいかもしれませんね。札束だとかさ張ります」
「うむ。では、儂のかーどを貸すぞい。それとは別に細かい買い物用にもちろん現金も用意しておこう」
「……お前。またなんか企んでないか?」
ちゃくちゃくと話を進めるマミゾウを私はすこしだけ棘っぽく突っつく。
「どうしてそう思うのじゃ?」
「私達がなぜ未来からここへ来たか全く詮索する気がないのか妙だと思ってな」
「あまり先を知りすぎるのは良くないのじゃろう? 先ほどの魔理沙殿のあわてぶりから察したわい。根掘り葉掘り事情を探るのは無粋じゃろう」
なるほど、と私は納得した。世渡り上手な奴だ。
現金の管理は早苗に任せることにした。キャッシュカードとかいう訳のわからないものも渡されたが、こいつも早苗任せだ。物の価値がわからない以上、下手に私が扱うわけにはいかない。外で待たせていたタクシーのおっさんに心持ち多めに代金を払い、とりあえず私達は服を買いに行くことにした。
「な、なあ。早苗。やっぱりこの帽子ってそんなに目立つのか?」
歩道を歩きつつ早苗に訊く。視線が辛いので私は自前の帽子を脱いでいた。
「そりゃそんなコスプレみたいな帽子、目立ちますよ。大丈夫です、帽子を被りたいなら私が似合うコーディネイトを選んであげますから」
と、妙に張り切った様子で早苗は言う。
街中はいろんなお店が乱立していて、適当に歩いているだけでも服屋をちらほら見つけることはあった。私は無意識にそのウィンドウに惹きつけられてふらりと近寄っていたのだが「この先に靴屋とアクセサリー屋さんが一体になってるビルがあるのでそこへ行きましょう」と早苗は言って寄り道を許さない。
私は一軒一軒見て回りたかったが、それではあっという間に日が暮れてしまうだろう。ビルへたどり着く。私達と似た格好の少女達がたくさん出入りしているのが確認できる。菫子と同種である女子高生という人種だろう。どいつもこいつも規格化された格好なのに着こなしが洒落ていてかわいらしい。へらへらとしながら、ど突き合い、黄色い声で喋りまくる。菫子の話じゃ彼女達が外の世界でヒエラルキーがもっとも高い種族らしいが、小集団となって楽しそうに我が物顔で往来を行く姿を見るとそれは正しいのだろうと思えてくる。
「なんだか制服の子が多いと思ったら、今日は半ドンだったんですね」
早苗が独り言のようにこぼす。
「半ドン?」
「半日しか学校の授業がない日、ってことですよ。主に土曜日のことを指します。私達の時代にはもうなかったんですけどね。さ、行きましょ」
早苗は私の手を引く。子ども扱いするなと突っぱねたら笑われた。この人ごみだからはぐれないようにだと諭される。
「言うほど混んでないだろ」
確かに人は多いが相応に建物内が広いせいで気にならない。
「まあほんとのこというと魔理沙さんが好奇心に任せてふらふらとどこかへ行きかねないなぁと思いまして」
言い返せない。実際、既に勝手に動く階段を見つけて私は興味しんしんだった。なんだあれ。
「あれはエスカレーターです。駄目ですよ魔理沙さん、お洋服を先に仕入れるって約束だったじゃないですか」
「わかってるって」
私は早苗と一緒にマネキンの並ぶ区画へ足を踏み入れる。色とりどりの洋服が並んでいて目が眩む。人が多いとここまで商いは大規模になるのか。私はとりあえず季節の服を見て回ることにした。じっくりと商品を眺めていると店員に何故か英語で話しかけられたので、日本語で返した。するとその女性店員は失礼しました、と頭を下げる。どうやら髪色のせいで外国人と勘違いしたらしい。外国人ではないが、地続きの異界に住む異界人ではあるのだけどね。
何故話かけてきたかを訊くとどうやら私に商品を勧めてきたことがわかる。こちらのファッションには疎いのでありがたく勧められる商品を手に取った。
「試着も出来ますよ」
と店員は壁沿いに配置された試着室を指差す。サービスがいいな。
「魔理沙さーん。待って、待ってください。先にこっち着ましょうよー」
知らぬ間に早苗は早苗で服を見繕っていたらしく、衣服を幾つか抱えていた。私の要望通り帽子も確認できる。
「悪い、連れがああいうもんだからさ」
私がそう言うと店員も苦笑いする。
「大丈夫ですよ、試着した奴は全部買っていきますからー」と妙なフォローを早苗はする。マミゾウの金だと思ってめちゃくちゃしやがる。
さっそく私は早苗から受け取った服に試着室内で着替えた。白を基調としたスカートと上着が一体型になった生地の薄いワンピースタイプの服だ。麦藁帽を被り、試着室を出ると早苗は手を叩きながら私を囃した。
「きゃああああ、かわいい! やっぱり私の思ったとおり、こういうひまわり畑に居そうな格好が似合いますね!」
先刻見た女子高生集団のような黄色い声で早苗ははしゃぐ。
「そ、そうか?」
「次はこれ着ましょうよこれ!」
という具合に私は着せ替え人形さながら何着か衣服を代わる代わる着せられた。私も負けじと自分で衣服をチョイスしてみたが、あまり早苗からの評価はがんばしくない。
「夏に黒系はしんどいのでは? 日光を吸って暑いような気がします」
「ほっとけ。黒が好きなんだよ」
「うーん。私の服は魔理沙さんに選んでもらおうと思ってましたが、魔女みたいな格好にされちゃいそうですね」
失礼な奴だ。
「それと、なんで頑なに帽子なんです?」
「そりゃ肌が焼けるからに決まってるだろ」
シミにでもなったりしたら大変だ。その辺り、幻想郷の少女どもは疎い。なのにどいつもこいつも美白を保っているのは霊力で紫外線をカットしているのではないかと私は疑っている。咲夜辺りは主人があれだから日中陽の下に出ないので納得できるのだが。
「そんなことでしたか。では、後でドラッグストアへ寄りましょう。日焼け止めという便利な塗り薬があるんですよ」
「マジかよ。どのくらい効果あるんだ?」
「帽子よりかは効果は薄いでしょうけど、少なくとも肌は焼けなくなりますよ」
そういうことなら帽子縛りのファッションをする必要はないな。結局私と早苗は四着ずつほど衣服を購入し、店を後にした。一着は私が自分で選んだので、それにそのまま着替えた。黒のポロシャツに丈の長いデニムスカートだ。早苗は白のキャミソールに短パンと際どい格好である。それぞれ靴屋で衣服に合うようにシューズと厚底サンダルを買い揃える。ようやく私は現代の空気に自身が馴染んだような実感を得た。シューズは固く、履き心地はよくなかったがそれも時期に足に馴染むだろう。
私達はそのままドラッグストアへ向かった。日焼け止めの他、シャンプーやボディーソープといった日用品を揃える。品数に私は圧倒されたが、それは服屋でも体験したことである。外の世界の住人はどうしてこんなに種類を棚に並べられて悩まずに買い物を済ませられるのだろう。早苗がいなければ私はずっと同じ店でどれを買おうか悩んだ挙句、商品を軒並み買い占めてしまうかもしれなかった。キャッシュカードとかいう魔法のカードもあることだし(早苗が何度かカードを使う場面を見たが、無限にお金の代わりになる代物らしい。すごい)そういう無駄遣いに私は抵抗がなくなっていた。現代に持ち帰る数が限られているのは残念だが。
食事はジャンクフードと呼ばれるやたらと美味い軽食屋で済ませ、昼食後も街中の探索を続けた。荷物は重いので、駅と呼ばれる公共交通機関に設けられていたロッカーの並ぶ区画の一つを拝借した。外の世界というのは過保護すぎる。ありとあらゆるストレスを解消する手段が身近に存在するのだ。そりゃこんなに気の抜けた顔になるわけだ。私は往来を行き交う外の世界の住人の顔を眺めながらそんな感想を抱く。
軽蔑はしない。このような環境に放り込まれれば私だって堕落するに違いないからだ。
それからも私は外の世界の見学と称して早苗にいろんな場所へエスコートしてもらった。夏は昼が長い。おかげさまで陽が落ちる頃にはくたくたになっていた。それでもまだぜんぜん街を回りきれていないらしいから恐ろしい。
徒歩で談笑しながら私達はマミゾウが確保したというホテルへ向かった。天を衝くような上等な建物である。まあ、この街の建物はどれも無駄にでかいのだが。中に入り、受付で私達の名を名乗ると、一番上の階層へ案内された。普通なら高いだけの場所に押し込められるのは面倒なだけで不満を漏らすところだが、ここにはエレベーターがあるのでその限りではない。いたせりつくせりである。だというのに人の一人も浮かせる技術がないのはなんともあべこべな話である。
昼のことだ。街を散策している最中歩き疲れたのでナチュラルに飛行しようとしたら早苗にすごい剣幕で止められた。この世界では人間が浮遊するのはとても不自然なことらしい。
人間一人が飛ぶエネルギーよりどう考えても鉄の塊が走ったり飛んだりするほうが力を使いそうなものだが、そこは理屈ありきらしくて早苗に長々と講釈された。ガソリンがどうのこうの、電気を流すことによりトランスミッション内のコイルがどうのこうの。要するにあいつらはでかいからこそ走ったり飛んだりする機構が詰められるのだ、という話だった。
この手の科学寄りの与太話が早苗は好きらしく、一日この調子だった。余計に疲れる。
部屋にたどり着いて、荷物を置き、ふかふかのベッドの上に倒れこむようにしてようやく私は息をついた。
「つ、疲れたぜー」
「あはは。ちょっとはしゃぎすぎましたね」
という割りに早苗は余裕のある様子で室内の冷房をリモコンで操作する。
「でも魔理沙さん。ここからが本番ですよ」
早苗が訳知り顔でにやりとする。
「はぁ。本番、ってなにかあったっけ?」
何か重大なことを失念している気はしていたが、他に考えることが多すぎて埋もれていた。
「やだなー、魔理沙さん。私達がここへ何をしに来たか忘れちゃったんですか?」
霊夢さんに怒られますよ、と付け足されて私は飛び起きる。そうだ、忘れてた。楽しすぎて。
「一番上の階に部屋を取ってもらえて幸いでした。屋上へ行くのが楽でいいですもんね」
屋上へ続く扉は封鎖されていたが、私達にはこんなの閉じたうちに入らない。鍵をこじ開け、人避けの結界を貼り、屋上へ繰り出す。空は快晴。しかし人工の光が満ちているせいで空の星の殆どは輝きを掻き消されていて、月がぽつんと寂しそうにしているように見える。不安になる。果たしてこれだけの光量を発する世界を、恐怖の大王が降りてきたと誤認させられるほどの光で塗り潰せるのだろうか。もしかしたら、いつもの夜よりちょっと明るいなと思う程度に民衆の思考は留まるのではないのか。
「大丈夫ですよ、魔理沙さん。突然正体不明の光が街が照らす現象も、飛行少女と同じでこの世界にはそぐわない不思議な現象ですから。オカルトというものはそういうものなんです。理屈の通じない超常。きっとみんなに驚いて貰えますよ」
早苗はいつの間にか透き通った青系の色の小さな小石を握っていた。
「それは?」
「霊石です。本来、隕石を遠くから召喚し、被害が出ないよう落下直前で砂状に分解するには休憩なしで丸三日ほどの詠唱時間が必要なのですが」
「なっ」
そんなに必要なのか。普通にやれば間違いなく早苗の体力が持たないだろう。
「ですが、これがあれば問題ありません! この霊石は私の詠唱で生まれた霊力を蓄積する効能があります。これを使い、何日かに分けて詠唱を小分けにして行えばお望みの結果を得られるでしょう」
「すげえ。やるな早苗!」
「はい! これを用意してくれた神奈子様に感謝ですね。ともかく、詠唱時間の件はこれで解決するとして何日で計画を実行するかという配分の話ですが――」
前に早苗が詠唱は十時間ほどぶっ続けられますよーっと酒の席で自慢していたことを思い出す。それを考えると、大体一週間くらいの滞在になるのか。頭の中でそう逆算していると何を察したのか早苗は私の頭にぽんと手を置く。
「まあ今日は疲れたので、詠唱は四時間が限界でしょうねぇ。うーんとすると、明日以降もこの調子になると計算するなら、滞在時間は二週間ちょっとくらいになりますかね」
早苗はウインクする。滞在日をそれだけ長引かせてくれるなら外の世界をかなり堪能できるだろう。
「おお、最高だぜ早苗!」
「ふふ。何のことでしょう」
早苗が照れながら言う。「では改めて」と詠唱の体勢に早苗は移行する。私は眺めているだけでいいのだが、役立たずで終わるのは気分が悪い。そこで空調と温度を魔法で操作することにした。夜とはいえ、季節のせいか蒸し暑い。日中の残暑が建物の石造りに染みているように感じる。この環境で詠唱を続けるのは辛いだろう。私の役目は早苗をケアすることだ。
冷風を早苗の周囲に展開した。早苗の長髪が靡く。
「ありがとうございます、魔理沙さん。涼しいです」
「おう。寒すぎるようなら合図をくれよ」
早苗は私のほうを向かず首肯する。空を仰ぎ、早苗は跪いた。詠唱は始まっていた。早苗の声帯から流れ出る音域は、言葉とは認識できないほど澄んだ音だったがどこか歌のような韻を含んでいて耳ざわりが良かった。
きっちり四時間の詠唱を終え、私達は部屋へ戻った。なにやら部屋の湿度が高いと思ったら風呂が沸いていた。早苗の奴がタイマーで事前に用意していたらしい。
「先に入れよ。疲れただろ?」
私がそう譲るといえいえと早苗は返す。
「魔理沙さん先にどうぞ。私はみたい番組があるので」
早苗はテレビのリモコンを操作する。「へえ、この頃にやってたんですね」とよくわからない感想を漏らしながら垂れ流される映像を眺めている。ううむ、あれは是非欲しいな。幻想郷で電波が拾えるかどうかはわからんが、と私はテレビに対して小さな雑念を覚える。いかんいかん、せっかく一番風呂を譲ってもらえたのだからさっさと入らなきゃ。
昼に購入した下着とパジャマとバスタオルとシャンプー等々一式抱えて脱衣所に突入する。このホテルには使いきりのアメニティが用意されているらしいが、やはり石鹸くらいは自分で選んだものを使いたいものだ。このボディーソープなんかすごいぞ、ラベンダーの香りがするのだ。
思わず頬がほころぶ。しかし入浴に際していくつかの些細な問題に私は直面する。服を脱ぎ畳んで風呂場へ入ると、正面には鏡、端に浴槽、備え付けの蛇口とシャワーノズルがあった。加えてバルブが幾つかに分かれていて、これが厄介だった。。目盛り付きのバルブとその他の二つのバルブの計三つ。ううむ、目盛りは温度操作で二つのバルブはそれぞれシャワーと蛇口に分かれているのか?
個人的には壁に張り付いた操作盤も気になるところだった。ジェットバスやらブローやらおかしな項目が散見される。というか風呂場の造り自体も興味深い。床は浅い溝が這っていて、浴槽はやたらとつるつるだ。床の造りは水捌けを良くする為で、浴槽の造りはおそらく何らかの特殊な加工を施すことによって撥水性を高めているのだろう。掃除とかしやすいように。
「魔理沙さん、背中流しますよ!」
「どわあ」
突然の呼びかけに一瞬ひっくり返りそうになった。振り返るとそこには素っ裸になった早苗がニコニコして立っていた。
「な、何してんだ早苗! テレビはどうしたテレビは」
「どうせこの多機能なお風呂に混乱してるんじゃないかと思い至りまして、私の助けが必要かなぁと。どうやら読み通りだったようですね。しかし、不親切なホテルですね。ぱっと見で操作がわかるようにしなきゃ機能たくさん付けても意味ないでしょうに」
はいはい座って座ってと言いながら早苗は前かがみになって私の肩越しにバルブを操作する。何がとは言わんが当たる。
「目盛りが温度操作でこっちのシャワーのアイコンのバルブが正解です。壁の操作盤は湯船の状態を操作できます。後で扱いましょう」
バルブを捻るとノズルから湯が飛び出した。突然お湯を引っ掛けられる形になったので驚いてすこし身体が仰け反ってしまう。
「湯加減はどうですか?」
「……悪くない」
早苗は蹴り出そうと逡巡したが、私は諦めた。早苗の言葉に毒は感じなかったし、心配になったというのは本当だろう。なんだか保護されてる気分だ。嫌な気分だ。
そんな粘性な気分も頭から湯を被せられると汚れとともにさっぱりと流され落ちる。気持ちがいい。
「魔理沙さん、前から思ってましたけど髪の毛綺麗ですよね。艶があって、毛先は猫みたいなふわっふわの癖っ毛で。何か手入れでもしてるんですか?」
「もちろん。半ば我流だが」
興味ありげだったので私は自分が普段やっているヘアケアーに関して早苗に教えてやった。手入れの手順等々。魔法の森のキノコや植物から油や香料を抽出・合成してトリートメントやコンディショナーを作っていることを話すと明らかに早苗は引いていた。
「ひええ。それって大丈夫なんですか? あの森の植物ってどれもこれも毒々しくてなんかやばそうだと思うんですけど」
「そんなことはない。用法容量を守ればどれも有用だ」
「間違えたらどうなるんです?」
「爆発するぜ」
「うわー」
幻想郷では髪の手入れ一つ間違えただけで死にかねないのだ。それに対してここはいい世界だ。危険を冒さなくても髪の手入れに使う品がお店に揃ってる。
「なんだか苦労してますね。私は普通に神奈子様や諏訪子様から頂いた蛇や蛙の油を使ってましたが」
「……いや、それもどうなんだ?」
「どうもこうも神徳混じりなのでいい感じですよー。それにしても、髪乾かすのに八卦炉を使えるのは羨ましいですね。私はまだ髪乾かす方法だけはちゃんとしたものを確立していないので。ドライヤーは電力多く使うので、あまり長時間使えないんですよ」
なんて風にガールズトークに花咲かせながらお互いの髪の毛洗い終える。早苗の髪を洗っているときに思ったのだが、こいつの髪質もなかなか上等だ。今度神奈子の奴にその爬虫類の油とやらを分けてもらうかな。
身体も流し、いよいよ入浴だ。事前に用意していたイチゴの匂いの入浴剤を早苗は投入する。
「こんな甘ったるい匂いの風呂入って虫が寄ってきたりしないかな」
蒸気により浴室内に入浴剤のフルーティな香りが舞う。
「大丈夫です。これ、イチゴっぽい匂いなだけで果汁とかは微塵も混じっていないので。科学的にフルーツの香りを再現したものですね。どちらかというと湯船の中で香りを楽しんでリラックスするためのものなので身体に匂いが付きにくいのです。ボディーソープの香料なんかと干渉しないので安心してください」
へえよく考えられてる。どうにか幻想郷でも作れないものか。可能ならこの滞在期間中に調合方法を勉強したいものだ。私は湯に浸かる。沸いてから結構長い時間放置してしまっていたので冷めているかと思いきや、お湯はほど良い熱を保っていた。保温機能まであるのか。遅れて早苗も湯に浸かる。湯船はなかなか広くて二人で入ってもそこまで窮屈じゃない。さすがマミゾウが一番いい部屋と称して確保したホテルだけある。
「そしてこの入浴剤には更に秘密があってですね。それを活かすためお風呂の操作盤を使います」
「待ってました。ずっと気になってたんだよそれ」
操作盤にはデジタルの数字と時計が付いている。数字のほうは浴槽内の湯の温度だろう。しかし、ジェットだのブローだの謎の単語の表示されたボタンは何の意図で付いているのか見当もつかない。
「ふふふ。この機能がお風呂についていたのは僥倖でした。では、スイッチオン」
「どわああ」
瞬間、腰の辺りの吹き出し口から鉄砲水の如く勢いよく水流が生まれるのを感じた。水流は皮膚の表面を圧迫するほどの強さだったが、緩急もあり感触が心地よい。
驚きも束の間。噴出される水流により生まれた泡が湯の表面に張って消えないことに気が付く。どんどん泡が増え、たちまち浴槽内に納まりきらないほどの量になる。
「なんだこりゃ!」
「泡風呂、という奴ですよ。この泡、浸透圧も緩く限りなく水に近い成分なので目に染みないんですよ。ほれー」
早苗は手のひらに広げた泡を思い切り息で飛ばす。真っ白の泡で視界が埋まる。
「や、やめろ! この!」
と、そこからは私もむきになってしまい泡やらお湯やらの引っ掛け合いになった。私達は泡が消えてのぼせる直前になるまで風呂を満喫してしまった。
二人揃って脱衣所の方へ出る頃にはふらふらだった。疲れを取るために入ったはずなのに、なんてことだ。
「……つ、次からは大人しく入りましょうか」
「……お、おう」
反省もそこそこに、身体を拭いて寝巻きに着替え、歯磨きまで終えてから私達は部屋へ戻った。備え付けのドライヤーを使って髪を乾かしながらテレビを眺める。丁度世界の風景を垂れ流す番組だった。ああ、なんていい気分だ。天井から吹く冷房の風も湯冷めに丁度いい。
「そろそろ寝ましょうか。電気消してもいいですか?」
髪を乾かしトリートメント等々で手入れまで終えてしばらくしたところで早苗がそう切り出す。
「構わないぜ。眠くなってきたところだし」
私はソファに寝転がり、タオルケットを被った。
「なーにしてるんですか、魔理沙さん。いっしょに寝ましょうよー」
早苗はベッドの上に乗り、ぽんぽんと掛け布団をはためかせる。
「やだよ。ガキじゃあるまいし」
「ソファで寝ても疲れは取れませんよ。ほらほら、何のためにこのベッドがこんなに広く作られてるかわかってるんですか?」
「知らないよ」
「知らないなら教えてあげます」
早苗は無理矢理私をベッドの中に引きずり込む。疲れも当然あったので、私は抵抗することなく観念して早苗に従うことにした。ベッドはふかふかで、羽毛か何かで出来てるんじゃないかと思えた。実際材質はそれに近かったらしく、早苗が解説してくれた。
「では消しますよー。おやすみ」
「おやすみ」
宣言と同時に灯りが消える。こいつもリモコン操作か。
真っ暗闇の中、疲れて眠気があるはずの私は何故かいつまで経っても眠れないでいた。外の世界への興奮が覚めないせいなのか、それとも思ったほど身体は疲れていなかったのか判断は付かない。もしかしたらアルコールを摂取していないからかもしれない。驚くべきことにここでは私達の年頃ではお酒を購入できないのだ。
昼間に普通にお酒を買おうとして店員に止められた。全く、そこだけは不満たらたらだ。何でアルコールが駄目なのだ。外の世界の少女達はお酒を飲まないとでも言うのか? いやまさか、そんなバカな。明日詳しく早苗に聞いてみるか。
「魔理沙さん、寝ました?」
不意に声を掛けられる。
「起きてるよ」
私は早苗に背を向けていたが、声の通り方からしてあちらは私の方を向いているようだ。寝返りを打ち、私は早苗に応えるように向かい合う。真っ暗で顔の確認はできないけど。
「なんだか修学旅行みたいで楽しいですね」
「そうだな」
修学旅行という言葉を私は知らなかったが、旅行という語感から似た意味だろうと判断してそう返す。
「でもね、魔理沙さん。私、遊びのつもりはあんまりないんですよ」
「そうなのか?」
「そうです。真面目に、幻想郷を救うつもりです。それが一番大事だと、常に意識しています」
意外な台詞だった。
「気張りすぎじゃないのか?」
「気張りもしますよ。幻想郷は、私にとって大事な場所ですから。私は魔理沙さんほど長くあそこに住んでるわけではありませんが、幻想郷を想う気持ちは負けないつもりです」
「そうか。私もあそこは好きだよ」
外の世界も確かに楽しいが、私の帰る場所ではない。私の居場所は、幻想郷だけだ。帰属意識を持っているつもりはなかったが、離れてみると当たり前のようにそう思う私が居た。驚きだ。
「魔理沙さん。必ず異変を治めましょう。やったらめったら外の怪異に荒らされる現状を、私は許せませんから」
「おう。私も同じ気持ちだぜ」
「現状、と言ってもここは過去の世界なんでそもそも異変はまだ起こっていないのですけど」
自身に突っ込みを入れるかのように早苗の台詞はそこだけ鋭かった。いかん、こりゃまた早苗のSFトークが始まる。眠れなくなるぞ。
「わかってるって。異変を発生させないようにするのが私達の目的だ。あの場所を守れるのはお前だけなんだ。頼りにしてるぜ」
私は話の軌道を戻すべく早苗を持ち上げるように言う。
「……はい。期待してください。私は神ですからね」
決意も新たに、そこから急に静かになった。早苗は眠ったのだろうか。確認するつもりはなかったのだが、私の手は無意識に早苗のほうに伸びていた。早苗の手のひらに接触する。早苗の手に触れるとなんだか気恥ずかしくなり、私はすぐに自分の手を引っ込めた。
くすり、と暗闇で早苗が笑う気配を感じた。さっさと寝ろよ、と私は声を掛け背を向けて布団に包まった。
甲高い電子音が鳴る。僅か一拍の間に私は腕を乱暴に伸ばし殆ど反射でその目覚ましを止める。こうして目覚ましが鳴る直前で起きてしまうのは脳の一部が寝てる間にも緊張しているからだとかなんとか早苗が言っていた気がする。だとすると、眠ってもちゃんと休めてないのかもしれないな。
隣で寝ている早苗を見やる。幸せそうな顔で吐息を立てている。なかなか画になるな、写真を撮りたくなる。私は早苗を起さないよう気をつけながらベッドから抜け出す。軽く伸びをして、テーブルの上においていたCDウォークマンを起動し、イヤホンを装着した。目覚めに音楽はいい、意識が覚醒する。
最初は音が重なりすぎて楽しむどころではなかったポップスだが、今では大分耳に馴染んだ。私はボタンを操作してお気に入りの楽曲まで順送りにしようとする。違和感を覚える。
ボタンが押しにくい。手元のウォークマンをよく見ると前に早苗とゲームセンターで撮ったプリクラが貼り付けてあった。
「おい早苗! 人の私物にプリクラ貼りまくるのやめろって言っただろ」
「きゃん」
ゲームセンターで手に入れた熊のぬいぐるみを軽くぶつけてやると早苗は布団の中で身を捩る。
「うーん……いいじゃないですかー。プリクラってのは色んな場所に貼ってなんぼですよ」
間延びした口調で早苗は開き直る。
「だからってこういう場所は下手したら跡が残るだろうがー」
「あは。ごめんねー。魔理沙さんみたいにみみっちく手帳にまとめるような習慣がなくて」
みみっちくは余計だ。私はプリクラを剥がし、自前のプリクラ手帳にそれを貼り直した。うーむ、こうして撮りためたプリクラを眺めているとなんだか感慨深くなる。私達が1999年の外の世界を訪れて一週間とすこし過ぎていた。滞在期間の折り返し。光陰矢のごとしとはこのことか。私達は昼間遊んで夜は異変解決のため詠唱を重ねるという毎日を繰り返していた。主に夜働くのは早苗なので、若干の負い目はあるのだが遊んでいるときはついつい忘れてハメを外してしまう。昨日は新幹線に乗って海まで行ってしまったし。いやあ、すごい。海は青かった。
何故海は青いんだ、という質問をあのとき思わずこぼしてしまったのは失敗だったが。おかげで帰りの新幹線での雑談はずっと偏光特性に関する話題だった。七色では赤の波長が一番長いとか、アリスは知っているだろうか。あと光は波だったり粒だったりする量子とかいう訳のわからない性質を持つ上に相対速度が変わらないのだ。ああでもこの辺の話は昔に紫がしていた気がするが、普通に聞き流していた。早苗に解説してもらって初めてすごさを認識できた。
それと関連付けてタイムトラベルの話題に移りかけたところで帰り着いてしまったが、個人的には光の話よりそっちのほうに興味がある。今度早苗に話題を振ろう。
私は冷蔵庫から朝食のヨーグルトを取り出す。
「あ、私も私もー」
「はいはい」
私はプラスチックのスプーンとともにカップのヨーグルトを早苗に手渡す。ヨーグルトは三つ組なので、残り一つは取り合いにならないよう冷蔵庫の端に隠しておくか。夜食として早苗が寝静まったときに楽しもう。
「そういや今日はどこ行く? 私はカラオケってやつに行ってみたいんだが。こっちの曲も結構覚えたし」
「いいですよ。その前に、今日はやることがあります」
早苗は親指と人差し指で輪を作り、にんまりとする。
「お金?」
「ええ。カードは使えますが、現金が残りわずかです。具体的に言うと残りは漱石さん二人分。細かい買い物をしすぎましたね。マミゾウさんのところへ行きましょう」
早苗は財布の中の二枚の千円札を見せる。
「なんか奴には世話になってばかりだな」
この前もちょっとしたトラブルがあって警察に補導されかけたときも助けてもらった。
「前にお世話になったのって、ゲームセンターで遊んでたときのあれでしょ? あのときは魔理沙さんが加減しなかったからいけないんですよ」
「いやいやいや。最初に手を出したお前が悪いだろ」
「しつこく言い寄ってきたので仕方ありません」
あのときは私達より一回り上くらいの年の頃の男に絡まれたのだ。思えばあれがナンパって奴だったのか。
「それにちゃんと謝ったからいいんですよ」
「ありゃ煽ってるようにしか見えなかったぞ……」
それで逆上した男を私が張り倒して気を失わせてしまったというのがことの運びだ。あの青年には悪いことをした。
「まぁ、言い過ぎた嫌いはありますね。次からは注意しましょう」
これ以上マミゾウの奴に借りを作るのは怖いし、私もその案には賛成だった。
マミゾウの事務所へは徒歩で向かった。眠気を覚ますためだ。早く行き過ぎても迷惑だと思い途中ハンバーガーショップで二度目の朝食をのんびり味わう。いつもと違い、お店に学生服を着ているものは少なかった。夏休みに突入したせいだろう。心なしか若者は皆、学校生活からの解放感からか快活に見える。今日は何しよう、どこへ行こう。なんだか毎日遊び歩いている私達と変わらないな。
店内のポップスに耳を傾けながら、今日はカラオケでこの曲歌ってみようとか考えつつ、外の世界に馴染みきった自身に違和感を覚えながら、しかし思考の端では幻想郷のことを夢想する。怪異が容赦なく流入する異変。この飽食の時代からくるオカルトを娯楽として消費する価値観が原因の異変らしいが、そういった世論に傾くのも納得できる。
ここは溢れている。物質に限らず、娯楽も思想も。消費しなければ埋もれて潰れてしまうのだ。60円のハンバーガーですらこの物量である。私は大口を開けてバンズごと肉に食らいつく。
「――不思議なのは言うほどみんな焦ってるように見えないところだな。今年で世界が滅ぶっていうのに」
「まだ今年は半分ありますからね。まあ、予言だと夏に恐怖の大王が降りてくるとされているのでみんな心のどこかで不安に思っているのは間違いありませんよ」
「ここの奴らが予言を意識してるってのはわかってるよ。ただ、危機感がなくてな」
周囲の人間を観察しているとわかることなのだが、話題が途切れたときに話のネタにするくらいには予言は意識されている。ただどこかそれは他人事で自身に関する危険とは意識されていない。
「福祉・医療技術の発達により現代人にとっては死は身近なものではなくなりました。見ようと思えば見えるけど、意識したくなければ避けられる程度の概念。お化けみたいなものですね。危機感なんていよいよ事が自身に及ぶという段階までに来ないと感じないでしょう。だからこそ意識の水面下でそれが常に残留しているという現状は大衆の意識に歪みを持たせてしまう。私は菫子さんの推論を支持してますよ。さてそろそろ行きましょうか」
議論もそこそこに、早苗は口元についたケチャップを拭い立ち上がる。私もコップに残っていたコーラをストローで思いっきり吸って飲み干した。むせた。
マミゾウの事務所に着くと妙な光景に遭遇した。タヌキマークの付いた扉の真ん前でマミゾウの部下の茶色スーツの大男が屈んでなにやら作業をしている。地面にダンボールを切り貼りしているようだ。
「よう」
「こんにちは」
私と早苗は同時に声を掛ける。大男は屈んだまま反射のように挨拶を返す。
「こんにちは、……?」
男は何故か私達を見て首を傾げる。
「どうした?」
「いえ。魔理沙さん、今朝も来ませんでしたか?」
今朝はホテルの部屋でぐーたれていたところだ。夢遊病でもない限り来ているわけがない。
「来てないけど。なんでだ?」
「……。いえ、私の勘違いでした。気にしないでください」
男は首を傾げつつも勝手にそう結論付けてダンボールを床に貼る作業に戻る。
「ところでなにやってるんだ?」
「はい。床に穴を空けられる悪戯をされまして。危ないので塞いでいたところです」
「ほう。どれ、見せてみろよ」
覗きこんでダンボールをすこし剥がしてみると大きく抉られた地面が確認できた。ここの床の材質は表面はリノリウム、その下は石造りになっていた。刃物か何かで表面を削って金槌かツルハシあたりで削らないとこうはならないだろう。。
「うわぁ。こりゃ酷いな」
「はい。商売柄、こういった嫌がらせはたまに受けるのですが、今回のは特に酷いです」
マミゾウは金貸しだが、高利貸しでもなかったはずだ。取り立て方がヤクザ染みているとかそういうことだろうか。大男の風貌もなかなか迫力あるし、そういった方面に特化してる可能性は十分ある。
「報復とかするのか?」
「まさか。犯人を見つけた場合は法に則りしかるべき処置をします。うちはヤクザではありません」
「なんだ。お前がそんなナリしてるから勘違いした。お前、狸だろ? 変化で好きな見た目になれるはずなのにそんなおっかない顔してるんだからそうなんだろうなぁと」
私の指摘に男はぎくりと肩を竦ませる。
「……私が妖獣だと、いつから気づいていたのですか?」
「お、当たりか? 鎌かけてみただけだ。引っかかったな」
私はへらっと笑い男の肩を叩く。男を引っ掛けた形になるが、マミゾウが自身の側近に素の人間を置くはずがないという決め打ちもあった。
「私がこのような見た目なのは、変化がそもそも不得意だったからです。しかしずっとこの姿でいるうちに、他の姿になれなくなりまして」
「元の狸の姿にもか?」
「ええ。私は人間に化けすぎました。私だけではなく、他の仲間もそうです。親分はそういう人間堕ちの妖獣にも食いっぱくれないよう仕事を与えてくれました」
「ふーん。面倒見のいい奴なんだなあいつ」
幻想郷では勢力増強に熱心だ程度の認識だったが、こうしてマミゾウに拾われている者の声を聞くと何も自分の利益のためだけにやっていることではなかったんだなと思えてくる。
「そういえば、今日はどういった御用で?」
「ああ。マミに会いに来た。現金がなくなってな」
「申し訳ありません。親分は先ほど出掛けたばかりで」
ありゃ、ゆっくりと朝食を摂っていたのが仇になったか。どうしようかと早苗に目配せすると、何故か視線を落として考え事をしている様子だった。思えばさっきから一言も喋っていない。
「おい、早苗。どうした?」
「へ? あー、ぽんぽこみたいな話ですね」
早苗は取り繕うように噛み合わない返事をする。どうしたんだこいつ。というかぽんぽこってなんだよ。
「現金がご入り用なら私が貸し出しましょう」
男はそう言って立ち上がり財布を出す。
「いいのか? 返ってこないかもしれないぞ?」
「構いませんよ。最近、親分の羽振りがいいので私もそれなりに高い給金を戴いていますから。でも、借用書は書いてもらいますよ」
男はダンボールの切り貼りを中断して事務所内に入る。私は空いた穴をひょいと跨いで男のあとに続いたが、早苗はしばらく立ち止まったまま穴のほうを注視していた。私が声を掛けると早苗はようやく作ったような笑顔を浮かべて動き出した。
金を受け取った私達は早速カラオケ店へ向かった。先ほどまで様子のおかしかった早苗だが、事務所を出た時点でそんな雰囲気は微塵も見せなくなりいつも通りに戻っていた。何かあったのか? と訊いてもはぐらかされるし、私も詮索するのは早々にやめてしまった。そもそも日常的にくっつき過ぎているとここへ来てから常々感じていたし、干渉し合うのはあまりよくない傾向だと私は思っていたのだ。
私は思考を切り替え、初めてのカラオケにめりこむことにした。ちなみにカラオケというのは防音壁に囲まれた個室内で機械を使って垂れ流される音楽に合わせて拡声器を使い歌を唄うという娯楽だ。声を出す、といのはストレス発散にもなり想像以上に楽しめるものだった。幻想郷には鳥獣伎楽というロックバンドがある。夜な夜な能力を使って奴等とその取り巻きが騒ぎ出すのは正直迷惑だと思っていたが、今は気持ちがわからないでもない。 今度ライブにお邪魔してみるかなとぶつぶつ考えているうちに音楽が途切れる。早苗の歌が終わった。
「あれ、魔理沙さん曲入れないんですか?」
フリードリンクをストローで早苗は啜る。
「ああ。歌えるものがなくなってしまってな」
この辺はカラオケをする上でまだまだ課題になるところだ。幻想郷へ戻ったらもっと積極的に外の音楽を取り入れてみよう。
「だったら、次は一緒に歌いましょうよ! 私、まだ持ち歌いっぱいありますから。私に続いて適当に合わせてください」
そう言って早苗は分厚い曲目録をぺらぺらめくる。流石にこの辺りは現代人の早苗には敵わない。というわけで私は持ち歌がなくなったというのにそれから更に二時間カラオケボックスに居座ってしまった。
フリータイム一杯使いきり会計を終えて外へ出るころには私はふらふらだった。夕日がまぶしい。ずっと冷房の効いた店内に居たせいか、暖気が心地よい。すぐに不快感に戻るけど。都心の土地は熱を集める性質があるらしく、日が落ち始めていてもなお熱が強い。
「ぐえー。喉が痛む」
「あはは。鍛え方が足りませんよー」
「鍛えてどうにかなるもんなのかよ」
早苗はケロリとしている。喉を痛めないコツでもあるのだろうか。帰り道の途中でコンビニで気休めにのど飴を購入し、舐めながらホテルへ戻った。顔なじみになったホテルの受付に軽く挨拶し、エレベーターに乗り込もうとすると「そういえば」と受付の女性に呼び止められる。
「まど……」とまで言って受付は何かに気づいたかのように手のひらに口を当てて言葉を塞ぐ。
「まど?」
「い、いいえ。なんでもないですよー」
受付は苦笑いで手を振る。エレベーターの戸が閉まる。
「どういう意味だ?」
早苗に聞くが、何故かまた考え事をしているのか顎を片手で支えるポーズをしている。
「さあ。よくわからないですね」
空返事である。結局なんなのかわからないまま部屋へ戻る。まどと言ったら、窓だよな、たぶん。そう判断して部屋の窓を確認してみたが、特にわかるような変化はない。強いて言うなら新品みたいに綺麗なだけだ。このホテルは定期的にシーツの交換や部屋内の清掃を行ってくれるからどこもかしこも綺麗なのは当たり前なのだが。
部屋に備え付けられた出前カタログで晩飯を吟味しつつ、私は早苗の様子をちらりと見やる。なんだか今日の奴はおかしい気がするのだ。一緒にいるのに一人別の世界に思いを馳せているかのような。まさかホームシックじゃないだろうな。
出前の蕎麦をだらだらと片付けて、早速今日の日課に私達は移る。屋上へ昇り、霊石に力を込めるのだ。私はこの間早苗が快適に詠唱できるように空調を整えるだけなのでなかなか暇なのだがそれはそれで昼間購入した本や小説を消化できるので充実はしている。
四時間の詠唱。しかし今日は何故か勝手が違った。予定の時刻を終えても早苗はまだ詠唱を続けている。時間だぞ、と声を掛けても早苗は詠唱を止めない。結局三十分近く詠唱時間を延長してようやく霊力込めが終わった。
「おい。なんだか今日はいつもより長かったな。どうかしたか?」
早苗のコンディションにより数分程度時間が予定より前後することはあるのだが、今回はその枠に収まらないほど不自然な伸び方だった。
「あはは。すいません。ちょっと今日から詠唱をすこし長くしようと思いまして」
「なんでだ?」
「念のため」
よくわからない答えである。
「構わないが、そういうのは私に相談してから決めてほしいぜ」
「すいません。なんだか例の計画を実行するのに霊力が足りない、って事態にならないか不安になりまして」
「おいおい大丈夫かよ」
早苗はいつも通りのへらへらと悩みもないような笑顔で応える。まあこいつがそう言うなら私としては合わせるしかないのだが。この世界での活動についての舵取りは基本早苗主体なのだ。遊び関連はその限りではないが。
その日から結局詠唱は四時間半で定着してしまった。負担になっていないか私は心配したが、早苗の奴は「だいじょうぶ、だいじょうぶ」と涼しげな顔でノルマをこなしていたから私も安心して任せていた。それが早苗の強がりだと気づかずに。
事が起こったときには遅かった。
詠唱ノルマを増やした日から約一週間後のことである。客星を落とし、被害が出ないよう対処するだけの目標霊力を溜め込み終えた日の夜だった。早苗を労おうと私は空調魔法を解除し近づく。瞬間、早苗はふらりと糸が切れたかのように倒れた。咄嗟に私は早苗の身体を支え、地面に身体が打たれるのを防いだ。
腕で支えたまま早苗の様子を伺う。酷い熱を帯びていた。額に手を当てると速まった脈を感じる。震えていたし、息遣いは荒く、顔色も悪く、意識も朦朧としていた。風邪を引いたのだ。私は早苗を抱えてとりあえず部屋まで運び、ベッドへ押し込んであたふたとした。
こんなに早苗が弱るまで気づかないとは、私はとんだ間抜けだ。気づかないだけではなく、私は連日早苗を各地に連れ回し、遊び歩いていた。ゲームセンター、カラオケ、ショッピング、図書館巡り、来る日も来る日も。自分のことしか考えず。
しかし、こういう状態になるまで私に何も告げずに無理を続けた早苗に憤る気持ちもあった。そんなに私は頼りないのか? そういった葛藤を私はひとまず押し殺し、早苗の看病に終始した。水に濡れたタオルを額に当て、ホテルの受付で氷嚢を借り、コンビニで消化にいい食料を幾つか仕入れて。
真夜中だったので早苗は私に寝るように促したがもちろんそんな指示聞く必要はない。
「魔理沙さん。眠ってください。私の看病で、あなたまで倒れたら笑い話にもなりませんよ」
「お前こそ寝ろ。なんで起きてるんだよ、治らないぞ」
時刻は三時を回っていた。あと二時間ほどで日の出である。
「眠くないんですよ」
「んなわけないだろ。ほら、タオル変えるぞ」
私は早苗の額に乗ったタオルを差し替える。タオルから嫌な熱を感じた。まだまだ治まらないか。発症から半日も経っていないから治るのを期待するほうがおかしいのだが。普段のハイテンションっぷりからどうしても弱っている早苗というのがイメージに合わず人外の回復力を望んでしまう。幻想郷に居ればまた守矢の神の加護があるだろうからちょっとは話が違うのだろうが。
「なあ、早苗。どうして無理をした?」
いつまでも眠らない早苗を相手に私は看病の仕方を変えることにした。会話をしてわざと疲れさせて眠らせようという医者から怒られそうな療法である。早苗に対して憤っていたという私情も混じっていたけれど。
「なんのことでしょう」
早苗はとぼける。
「なんのこと、ってのはないだろう。この一週間、お前は変だった。ノルマ勝手に増やしたり、こんなになっても弱音を私に見せなかったり……」
「あはは、そんな話ですか。別に魔理沙さんが頼りにならないと思ってるわけじゃないですよ」
私の不安を読み取り先回りするように早苗は言う。
「単純に私のエゴです。早く幻想郷を救いたいって気持ちが、空回りしちゃっただけです。二人で遊んでるときも、どうしても幻想郷のことが心配で、なんだか自分の意識が浮いちゃうような感覚になることが多かったの」
切り替えが下手なんですよ、と早苗は言う。嘘つけ、切り替えは上手いだろと私は心の中で返す。
「幻想郷の異変はこの時間軸からは未来の話なんだから、ここで逸っても何も変わらないのに。おかしな話ですよね。合理的ではありません、私らしくありませんでしたね」
要するに、早苗はこの外の世界での滞在を私ほど楽しめずにいたのだ。心の隅で不安を漂わせていたのならそういった心境になるのも仕方ない。その僅かなすれ違いで振り回し、早苗を弱らせてしまったのは私の責任だろう。私が能天気にここを楽しんでしまったから早苗は水を差せずに焦りを抑え込んだ。
「お前は、思ったより繊細な奴なんだな」
思ったより、周りの見えている奴だった。逆に私は周りの見えない奴だった。私は早苗の額に手を当てる。
「悪かったな。お前がそう考えてるのにも気づけずに」
「気づけたらびっくりですよ。さとりの妖怪でもないのに」
「早苗。異変を解決し終わったら、二人で結界破りの方法を考えよう」
「……へ。なんですか藪から棒に」
明らかに早苗の声のトーンが上擦る。
「半端な気持ちじゃ旅行は楽しめない。だから、この異変をばっちり解決してから改めて外の世界を旅行しようって話だ。どうだ、いやか?」
「いやじゃありませんけど……。結界破りだなんて、霊夢さんに怒られますよ」
「だからこれは私とお前の秘密だ。どうだ、楽しいだろ?」
「ふふっ。まあ、悪くはありませんね」
早苗は心持ち落ち着いた調子の息遣いで答える。早苗は根っこは私と同じアウトローだ。秩序を重んじるという気持ちは私より強いけれど。
「そのためにはまず万全の状態で恐怖の大王を降ろす必要がある。無理せずさっさと寝ろ」
「……。わかりましたよ、今回は魔理沙さんに甘えさせてもらいます」
言うが早い、早苗はすぐに吐息を立て始めた。まったく、なんでこんな場面で気を張ってたんだか。
――早苗はこのとき巧妙に自身の意図を伏せていた。それがわかるのは翌日の話なのだが。一方私は分かり合えた気になって安堵する。
伏せられた真意に気づかないままこの場面では早苗が折れて私に身体を預ける気になったと判断して看病に勤しんだ。
朝起きたとき私は椅子の上だった。座ったまま寝たせいで、尻も首も痛い。うたた寝のつもりだったがガッツリ眠ってしまったようだ。窓のカーテン越しに差す日の光量から相応の時間が経っていると私は判断する。時計を見ると案の定正午を過ぎていた。
早苗の様子を伺う。吐息を立てて寝ている。タオルを除け額に手を当てると熱がすこし落ちていることがわかる。それでもまだ高めの体温だ。氷嚢とタオルを交換し私は風邪薬を購入しに行くことにした。夜中にコンビニは開いていたけれど、ドラッグストアは閉まっていて仕入れられなかったのだ。申し訳程度に栄養剤を買ってきていたが、あまり効いているようには見えない。
「早苗、ちょっと出てくる。すぐ帰るからな」
聞こえてはないだろうが寝ている早苗にそう声を掛け、私は財布を取り部屋を出た。受付に挨拶し、ホテルの外へ繰り出す。天気は曇り。湿度が高く蒸し暑い。構わず早足でドラッグストアへ向かっていると「よう」と声を掛けられた。
「魔理沙殿! また会ったな」
「マミゾウか」
「だからー、外ではマミと呼べというとるだろう」
マミゾウは私と並び肘でどついてくる。
「ん。今日も一人か?」
今日も、とはおかしな言い回しだ。珍しく一人だと言ってもらいたい。
「早苗の奴が風邪引いちゃってさ。今から風邪薬の買いに行くところだ」
「現人神とはいえ、人は人。病気になるものなのだな。どうじゃ、医者にかかりたいなら保険証も偽造するぞい」
「いや、やめとく。早苗が言うには医者は風邪のときは宛てにならないってさ」
奴の話では私達の時代の最新の医療技術でも風邪への療法は確立されていないらしい。風邪への対処法はいつの時代だって暖かくして安静にして水分を摂り代謝を良くすることだけだ。これから買いに行く風邪薬にはあくまで症状を緩和する効果しかない。
「そうかい。なら儂の助けは要らんな」
「おまえは今日はどうしたんだ?」
「んー? いや、昼飯時じゃからな。外で済ませてたところじゃ。まだ昼礼まで時間あるし、買い物につき合わせてくれ」
マミゾウは私と並んで歩き出す。昼礼って、私からすると無駄としか思えないのだが。やはりマミゾウは部下とのコミュニケーションを重視しているのだろう。
目的地のドラッグストアまで早苗にすぐ戻ると言った手前、気持ち早足で向かう。その辺の事情を言わずともマミゾウは察しているようで私のペースに合わせてくれた。五分ほど歩いて到着する。
「店員に症状を言えば丁度良いのを取ってもらえるじゃろう」
マミゾウがレジを指す。しかし私は早苗が無理なく食せる食品もほしかったのでまずは冷蔵棚へ向かった。
「マミゾウ。風邪のときって何が効くんだっけ?」
「ふーん。風邪なんぞ引かんし、知らんなぁ」
「おいおい。おばあちゃんの知恵袋みたいなのはないのかよ」
「誰がおばあちゃんじゃ」
軽く頭を叩かれる。怒っている風ではないので、私の煽りにお約束を返したような切り返しだ。
「よく聞くのは葱とか生姜とかかのう? ほら、生姜ドリンクならあるぞ」
「じゃあそれをもらおうかな」
私は冷蔵棚からマミゾウが指した商品を二本ほど取り出す。それからヨーグルトやスポーツドリンクを取り、ようやくレジで風邪薬を受け取った。薬は量に対してなかなか値の張るもので、レジへ並ぶ前に持ち出した生姜ドリンクその他各種を併せた値段より高かった。まあ私の金ではないので気にはならないが。
レジ袋に商品を詰めて、私達は店を後にする。
「マミゾウ」
店を出たところで私は唐突に声を掛けた。普通に歩くペースで。
「なんじゃ?」
マミゾウは首を傾げる。
「私たち、明日か明後日には元の時代へ帰るよ」
私がそういうとマミゾウは意外でもないように頷く。
「そうか。何故じゃ? おぬしらは割りとここが気に入っていたように見えたから、もうちょっと滞在するとおもっとったのだが」
薄々私がそう決断した理由を察しているだろうに、わざわざマミゾウは発言を促す。
「ああ、出来ればもっと居たかったけど、早苗にこれ以上負担をかけるわけにはいかない。私はどうやらはしゃぎすぎていた」
「おぬしらくらいの年頃の子どもははしゃいでなんぼじゃて。でも、早苗殿のようなはしゃぎ方はいけないな。あの子は儂の目から見て、自制しているように見えた。特にこの一週間、何に気を張っているのやら」
ここ数日マミゾウと早苗は多くは会っていない筈だが、それでもあいつが無理をしている様子は浮き出て見えていたのか。私は気づかなかったけれど。だからこそ、だ。
「ここへ来たばっかりのとき早苗は言ったんだ。『幻想郷を必ず救いましょう』って。でも私は、あいつほど真剣に事を考えていなかった。遊ぶのに夢中でさ。それが結果的にあいつの負担になったのなら、それは私の責任だ。私も気を張るべきだった」
「気を張るって言ったそばから気が抜け取るぞい、魔理沙殿。何処のことを言っとるのかわからんが、儂がその幻想郷とやらの情報を今の時代で知るべきではないのだろう?」
口がすべっとるぞ、とマミゾウは軽く私の頭を叩く。
「確かにその様子じゃ、帰ったほうが良さそうじゃな。もうおぬしは早苗殿が心配すぎて、空回りしておる。気を張ることも、心の底からはしゃぐ気分にもならんじゃろう」
マミゾウの言った通りだ。どうにも今の私は調子が悪い。早苗のことなんて、以前はそんなに意識していなかったのだが。ここ二週間であいつに依存しすぎた。
「いじけるな。らしくないぞい」
「いじけてないよ。私は仕切りなおしたいだけだ。今の状態は、気に入らない。帰って、準備を整えて」
結界を破り、今度こそ気兼ねなく外の世界を満喫するのだ。早苗と約束した危険思想を飲み込んで私はマミゾウに向かって手を出す。
「まあ、そんなわけでマミゾウ、世話になったな。私達は帰るから、次に会うのは十数年後だ」
「おぬしの一存でそんなに簡単に帰還を決めてもよいのか?」
「あいつに文句は言わせないよ。私は自分勝手なんだ」
「やれやれ。おぬしがそんな調子じゃ、早苗殿はこの先もっと苦労することになりそうじゃの」
マミゾウはそう呆れたように言って、私の差し出した手を取る。それから私達は、軽い調子で挨拶をして別れた。
ホテルへ帰ると受付に「あれれ?」と訳の分からない反応をされた。
「どうした?」と訊くと受付は首を捻ったまま「……いえ、なんでも」と言う。変な奴だ。私はエレベーターに乗る。
部屋へ戻ると、早苗は額に手を当てて唸っていた。どうやら寝起きのようだ。
「帰ったぞ早苗。どうだ、調子は」
言いながら私は熱を持った濡れタオルをどけて早苗の額に手を当てる。
「ううーん……。ま、魔理沙さんが二人に見えるー」
薄目のまま、早苗はそんな素っ頓狂なことを言う。私の手のひらに伝う熱は相変わらず強い。
「やれやれ。まだまだ快復には遠そうだな」
仕入れた薬や生姜ドリンクを早苗に無理矢理飲ませ、私は看病を再開した。マミゾウには明後日には帰るかも、と伝えたがもしかしたらまだまだ居座る羽目になるかも。しかしそんな私の不安はおよそ数刻で杞憂に終わった。
日が落ち始めたぐらいの頃である。早苗はバネでも仕込まれていたかのように急にベッドから跳ね起きた。何事かと思い私は早苗の寝ているベッドに近づく。熱が強すぎて痙攣でも起こったのか?
「私は、なんて間抜けなんでしょう」
起き上がって一言。自省するようにそう早苗はこぼす。おかしなことにもう早苗の顔は紅潮していなかった。息遣いも普通に整っていて、冷や汗も出ていない。
「さ、早苗?」
「あー魔理沙さん。ご迷惑をおかけしました。もう風邪、治りました」
あっけらかんと早苗はある。
「んなわけあるか」
と私は早苗の額を試しに触ってみるが、確かに熱が引いていた。なんだこれは、どういうことだ。
「いや、こういう不足の事態のために私は霊力を多めに貯めていたのに、なにしてたんでしょうねー。頭が熱でどうかしていたのかも」
はっはっは、と気の抜けた笑い声を出して早苗は毎晩霊力を込めていた霊石を手のひらの上で転がす。
「霊力の力で風邪を飛ばしました。あはは、魔理沙さん看病ありがとうございます」
「お前、なぁ。そういうことが出来るなら初めからやれよ……」
「だからー熱でそこまで頭回らなかったんですよー」
だとしても一番最初に思いつかなければいけない手だろうが。私は思い切り早苗を貶してやろうと思ったが、やめた。疲れるだけだ。看病に労力を使った分、今ではコンディション的に私のほうが弱っている。喧嘩になると負けるかも。
「じゃあ病み上がりだが早速隕石を落とす準備でもするか。もうすぐ日も落ちる」
「はーい」
早苗は殆ど間を置かず私に同調する。私は半ば当てつけのつもりで言ったのだが、乗り気の早苗に驚く。
「……おい。ホントに大丈夫なのかよ。さっきまで寝込んでたんだから、まだ身体がだるかったりするんじゃないのか?」
「ご心配なく。絶好調ですよ、私。それに風邪で倒れちゃって思ったんです。これ以上、不足の事態を起こすわけにはいけません。ここに居座る時間が長ければ長いほど何らかの不足に巻き込まれる確率が上がります。忘れがちですが、私たちはこの時代では異物なのですよ」
そう結論付ける。私は同意する。名残惜しいが、私たちはこの時代を去らなければならない。
受付でチェックアウトを済ませ、私たちは屋上へ昇る。私は箒を片手に制服姿になっていた。色々と衣服は買い揃えたが、結局この格好が一番気に入ってしまった。シンプルで白黒だし。向こうに戻ればもう着る機会はないだろうが。
空は快晴、星は相変わらず街のあまねくネオンの輝きで相対的に薄まり見えないが。真っ黒の空には月だけが煌々としている。気温はいつも通り昼間の余熱がコンクリートに染みているかのような熱気。湿度もそこそこ。しかし今日の作業はすぐに終わるようなのでいつもやっている空調管理はやらなくていいだろう。
往来を見渡すと、歩行者の姿がたくさん見える。彼らが早苗の落とす『恐怖の大王』の目撃者達となる。
「では、準備はいいですか魔理沙さん?」
早苗は屋上の中心で霊石を地面に置いてその前で腕組立っている。いつもは霊石に力を込めるため手に握りこんで詠唱しているのだが、今回は術を発動させるので勝手が違うのだろう。
「準備も何も、私は見てることしか出来んぞ」
「心の、準備ですよ」
念を押すように早苗は言う。私はそれにサムズアップで応えた。早苗も私に倣い、親指を立てる。
「了解です。では、いきますよー。よく見ておいてくださいねー。と言っても、凄まじく光るでしょうから見ると目が潰れちゃうかもしれませんが」
言うが早い。早苗は詠唱を始める。霊力を込めるときに使うものとは違う音節の詠唱。私には何を言っているのかてんでわからないが、しかしその早苗の紡ぐ言葉は確かに神にだけ伝わる意味を持っているのだろう。
瞬間、不意打ちのようになんの前触れもなく私の視界が光に覆われた。脳が揺れるような錯覚。意識が遠のく。まるでスタングレネードでも食らわされたかのような攻撃的な衝撃。
意識が肉体から剥離する。もと居た私たちの時代に私の我が引っ張られる。意識が落ちる瞬間、最後に見た光景は剥がれた意識から俯瞰する私自身の後姿だった。
「う、うーん」
呻きながら私は上体を起こす。周囲は木々、地面は草っぱら。コンクリートジャングルでないことは確かだ。気温は高いが向こうと違い、風もあって随分涼しい。未だはっきりとしない意識のまま立ち上がり、周囲を見渡す。ここは神社の裏手側だ。幻想郷に帰ってきたのだ。
「早苗、は居ないか」
それどころか出発するときに私たちを見送った連中も居ない。今回行った時間旅行の形式はタイムリープだったので、旅立ったときと時間はあまり経っていないはずなのだが。
過去を変えたことで、こちらの情勢も細かに変わったのか? 確かに、私達の作戦が成功していたとしたらこの場所でみんなで集う意味などないからここに人が居ない理由もわかる。
ん? だとしたら時間遡行も行われなかった、ということになるので結局私達の作戦は実行されなくなるんじゃないのか? だんだん頭がこんがらがってきた。鶏が先か卵が先か。
私は面倒な思考を振り払う。どっちにしろ、異変が発生しているか否かが問題だ。事象の順序に関しての考察は後回しだ。
私は自分達の頑張りが徒労で終わっていないことを祈りつつ神社の鳥居側へ向かう。そこでは霊夢が竹箒を持って掃除をしていた。こんなに暑いのに精が出るな。
「よう、霊夢」
「あら。魔理沙。――ってなんて格好してるのよ。鈴仙の真似?」
霊夢は私の制服を指す。私は気にするな、と霊夢が茶化す前にその話題を打ち切った。
「それより霊夢、異変はどうなった?」
「異変?」
暢気な声音で霊夢は返す。
「ほら、外のオカルトがひっちゃかめっちゃかに流入してくる異変だよ」
「うーん? 魔理沙、夏の暑さでおかしくなっちゃった?」
霊夢は私に近寄り、額を触ろうとする。私はそれを避けて「どうなんだ?」と返事を促す。
「どうなんだ、って言われてもねぇ。そんな異変あったかしら。直近で起こった妙な出来事といえば、せいぜい月の侵略ぐらいじゃない?」
あの時はホントしんどかったわね、と霊夢は嘆息つく。私はそれを聞き、安堵した。私達の目論見通り、異変は起こらなかったらしい。
「いや知らないならいいんだ。よかった」
「? よくわかんない奴ね、相変わらず」
霊夢は竹箒での掃除を再開する。
「そういや早苗を見てないか? 一緒に居たはずなんだが見当たらなくて」
私がそう訊くと霊夢はすこし間を置いて、不審そうに私に訊き返す。
「早苗って、誰?」
この気温の中、目の前の異形の体表には汗一つ浮いていない。代謝しないのか、そもそも本当に生物なのだろうか。僅かに眉間に痺れを感じた。眼球の表面が乾き始めているのだ。
「霊夢、まばたきするぞ」
異形を挟んで対向に居る霊夢に声を掛ける。宣言してから一度、まばたきをする。一瞬の暗転の後瞼を開けると、視界の先に異形は相変わらず不動で佇んでいた。人型ではあるが手足は不自然に細く短い。貧弱そうな体躯に反して頭部は巨大である。そのくせ体幹は安定していて蹴りを入れても微動だにしない。顔面の中心を縦に裂くように配置された紅色以外全身は薄汚れた鉛白である。異形の顔面に付いた眼球らしき四つの黒い球体を観察する。やはりそれはどこか無機質で、有機的なものには見えない。間違いなく私を見ていない。皮膚?に触れてみても、体温も脈も感じずむしろ生物というよりオブジェのように思える。というか石の感触まんまである。
「魔理沙、あんたよくそんな気持ちの悪いもの触れるわね」
霊夢がぼやく。
「こうして見ている限り無害だぞ。触れてもなんともないよ」
「わかってても私なら触ろうとは思わないわ。魔理沙、まばたきするわ」
霊夢が宣言する。私はそれを合図に思わずまばたきしてしまはないよう異形を凝視する。この生物(明らかに無機物だが意思のようなものがあるようなので便宜上そう定義した)は他人に見られている限り動きを止めてしまうという怪異だった。早苗の奴が正式名称を教えてくれた気がするがやたらと覚えにくい名称だった。ともかく、私は見ている間だけ動きを止めるという特性からこいつを「だるまさん」と呼んでいた。いまいち定着しないが。
無理もないか。どうせすぐに処理しなければならないのだから。だるまさんに限らず、あの日を境にこの手のオカルトは溢れるように幻想郷中に出没するようになっていた。中には無害なものも多いのだが、だるまさんのように幻想郷に定住が許されないほど凶悪なものも少なくない。
だるまさんは人間の視界から外れた瞬間、殺戮を開始するという習性を持っていた。瞬間移動が出来るらしく空を飛ぼうと逃げられない上、膂力も凄まじい。物理攻撃が効かないせいで、私達は現状維持を余儀なくされていた。
「霊夢さん、魔理沙さん!」
菫子の声だ。私は異形を視界に捉えたまま聞き返す。
「来たか。だいじょうぶか、菫子」
疲れを隠せていない声で菫子は問題ないと応える。
「私は大丈夫だから、気にしないで。ともかく、私の推論通りならこれで……」
「うううううううう! 人間! 離せー!」
異形の目の前まで菫子は近づく。片手には念力で拘束した弱小妖怪の姿があった。常闇の妖怪、ルーミアである。無理矢理連れ去ってきたようで、ルーミアはとても不満そうに頬を膨らませている。
「視る、という事象で動きを止める怪異。では『視る』とは何か。私はそれを光を反射しない、ということと捉えたわ」
菫子が解説する。視覚というのは光を眼球内の感覚器官が受け取り、与えられた刺激を元に脳が映像を造り上げることで成立する。菫子の主張ではその際、人体に光子の一部が吸収されているという話だった。
故に異形は自身が反射した光が眼球内の感覚器官に吸収されて返ってこない、という現象が起こっているときにだけ動きを止めるという推論だ。筋が通っている気はするが、生物学に疎い私には頓知にしか聞こえず納得はいかなかった。そんなものでホントにこの化け物を封じることが出来るのか?
「ねえ、あなた闇を操れるんでしょ? その力は恒久的に使用できる?」
「コウキュウ? なにそれ、どういう意味だー?」
「自分がそうしようと思わなくても能力をずっと発動してられるかってことよ」
「無理に決まってるでしょ! わたしそんなに強くないぞ!」
ルーミアは菫子の拘束から逃れようと身体をばたつかせる。
「ルーミア。私のサポートがあればどう?」
霊夢が提案する。
「……霊力貸してくれるならいけるかもね。……って、なーんでわたしが協力する流れになってるの! というかその子だれ? また新入り?」
ルーミアは拘束されたまま異形に蹴りを入れる。異形はびくともせず、不気味に佇んだままだ。
「頼むルーミア。手を貸してくれ。私の飼ってるにわとり一匹やるからさ」
もう少し育ってから食う予定だったが、仕方ない。非常事態なのだから。
「むー。まあ、そこまで言うなら手を貸してあげてもいいかなー」
言う割にはルーミアは得意げで機嫌がよさそうだった。他人に頼られることが少ないからだろう。対して、霊夢は普段見せないほどに沈んだ表情である。妖怪に助力を頼む、という状況が気に入らないに違いない。
しかし自力での怪異の対処には限界がある。こうして使えるものは使っていかないと。
「……じゃ、結界を作るわよ。ルーミア、闇であいつを覆って。光子を吸収するタイプのね」
「りょうかい!」
それからの作業は滞りなく進行し、画してだるまさんは無事封じられた。菫子の推論は正しかったらしく、だるまさんは結界内で大人しくなっている。完全に幻想郷から追放する手段が見つかるまではこのままだ。
「まあ難しいこと色々言ったけど、本当は頑丈なコンテナでもこいつを封じられるんだけどね」
菫子は結界を眺めながらそんなことを言う。
「河童に発注してもいいが、時間掛かりそうだしなぁ」
息をつくのも束の間、上空から守矢の風祝、東風谷早苗がすっ飛んできた。表情は険しい。新たな怪異を発見したのだろう。
「大変です! 今度はくねくねです!」
また知らない怪異だった。例のごとく、外の世界で生まれた新規のオカルトだろう。菫子は聞き覚えがあるらしく、早苗の言葉を聞いて頭を抱える。
「おい、菫子。今度はどういう奴だ?」
「……視界に入れると、見たものが精神崩壊を起こしてしまうというオカルトよ。見た目は細くて白い糸みたいな感じ。早苗、あなたは大丈夫だった?」
「ええ。問題ありません。蛇にはピット器官と言って視覚以外の知覚方法があるので。それを使ってなんとか躱しました」
早苗の眼球が蛇のような瞳孔に変わる。この件に関して守矢の二柱の神は助力を惜しまないようだ。頼もしいことだ。
常に視界に捉えてなければならない怪異の次は視界に捉えてはならない怪異か。次から次へと、ふざけた話だ。
「行きましょう。ルーミア、あんたも着いてきて。視覚が関係するなら、あんたの能力がまた役に立つかも」
霊夢は疲労の色を見せずに指示する。ルーミアは霊夢の覇気に圧されて有無を言わずに了承させられる。菫子は霊夢に続いてふらふらと蛇行気味に飛行した。
次の怪異の対処が終わったら、一旦休憩を挟もう。私はそう思案しつつ、飛行する。
都市伝説が具現化する。オカルトボールを巡ったその異変は、収束することなくむしろ事態は悪化していた。オカルトボールを作った月の奴ですら原因がわからないらしく、匙を投げられた。結界破りの異変を起こした菫子も同様に何故そのような状態に陥っているのか見当が付かないらしく、後手後手のまま発生するオカルトに対処する毎日だった。
責任を感じているのか、菫子は長い時間幻想郷に訪れて怪異に対処しようとしている。ここへ来る為に睡眠導入剤を常用しているせいで、菫子は日に日にやつれていた。無理をするなと私たちが言っても聞かない。
霊夢はそんな彼女の負担を減らそうと人一倍躍起になって働いている。なんでも、異変の原因になった人間だろうと一度保護したら無事に帰ってくれないと巫女としての沽券に関わるという話だった。
普段は適当な癖に妙なところで霊夢は真面目だった。勿論、私もこの幻想郷に住まう身として協力を惜しむつもりはない。毎日毎日、怪異の対処の合間にオカルトボールの研究を続けている。
そうしてわかったのは、このボールは外の世界の影響を強く受けているということだ。原因は外にあるのだ。
それがわかったところで私にはどうしようもなかった。外の世界の知識を私はあまり持たない。そもそも知識を持つ外来人である早苗や菫子も思い当たることはないらしかったが。手札ではもう勝負が出来ない。
しかし、解決する宛てはまだ失っていない。外の情勢に詳しい奴が、まだ幾人か残っている。その一人である八雲紫の元へ私は訪れていた。幻想郷中がこんな大変なことになっているというのに、あの女は不自然なほど動かない。彼女の元を訪れたのは、いい加減私が痺れを切らしたというのも理由にある。いつもならこんな事態になったとき真っ先に動くのは奴だからだ。
「おい、紫! いるのか、いないのか!」
山の中腹付近。マヨヒガの前で私は叫ぶ。奴はここを寝床にしているわけではないのだが、式神をよくこの付近で見かける。それさえ捕まえられれば、紫との連絡も付けられるだろう。いつかの異変のときの遠隔の通信手段でもあればもっと楽に奴と連絡を取れたのだが。
「あら、何の御用かしら」
背後からまとわりつくような声がした。振り返ると紫がそこにいた。珍しい。気配も発さず唐突に現れるのはいつものことだが、呼んで出てくるとは思わなかった。寝起きなのか、彼女はけだるそうに欠伸をした。
「欠伸してる場合か! 紫! てめえ今ここで何が起こってるのか把握してるのか!?」
暢気そうな紫にイラついた私は思わず怒声を浴びせてしまう。我ながら余裕がない。紫はそんな私に対して嫌悪感を毛ほども滲ませず、いつも通りの余裕のある態度で切り返す。
「勿論、把握していますわ。外の世界の怪異が幻想郷へ流れ込んでいる」
「まさか幻想郷は全てを受け入れる、なんて悠長な寝言でもほざく気か? 流石に限度があるぞ!」
「まあまあ。落ち着いて。貴方達が焦りを抱く気持ちもわかります。魔理沙、中ですこし話しましょう」
紫はいつの間にかマヨヒガの中に移動していた。境界をいじる力を使った移動術。
手招きする。私はその誘いに応じた。
「では魔理沙。先ずは意見の統合を行いましょう。今回の異変について、貴方の見解を聞かせて頂戴」
頬杖をつき、紫は試すような口調で問う。脇から式神の式神である橙が私にお茶を出す。私はそれを啜りながら異変の研究で気づいたことを紫に伝える。
「都市伝説騒ぎのときのように無害なオカルトも多い。が、危険なものもそれなりにある。それらに共通することは、どれもこれも新規のオカルトだってことだ」
雲居一輪という命蓮寺に住まう妖怪がいる。彼女の操るオカルトが今回連続発生している怪異にもっとも近い。一輪の操るオカルトは八尺様という個人の作り出した作り話がインターネットという情報共有媒介を使って広まったものだ。
人々の噂から自然発生したのではなく、個人の生み出したオカルトを不特定多数の人間が共有することで力を強めるという従来のオカルトとは発生順序が逆になっているのである。外の世界のオカルトのスタンダードはこういった『創作のオカルト』であり、それらが大挙して幻想郷に訪れているというのが今の現状だ。
ここまで説明した時点で紫は小さく拍手する。
「よく調べていますわね、魔理沙。先の異変で、貴女は自分がオカルトを制御していた、と思っていたんじゃないかしら? それは正しい。そしてオカルトを制御していたのは何も貴女達だけではない。外の世界の住民も、今はオカルトを作り出し、制御しつつあるの」
艶っぽく紫は笑う。
「生み出されたオカルトはムーブメントとなり、多数の人間を虜にし、信仰を持つ。そして流行というものは過ぎ去るものです。信仰を抱いたその新しいオカルトは人々から忘れ去られ、ここへ至る。お分かりかしら? この異変の原因はオカルトボールではない。それは切欠に過ぎないのです」
幻想郷には人々から忘れられたものがたどり着く。最早外の世界にとっては、オカルトは消費されるものなのですわ。紫はそう締めくくり、一台のおかしな機械をスキマから取り出す。見た目は一面にだけ硝子を張った箱である。タイプライターのようなものと繋がっていて、コードが幾つか伸びている。部屋の隅にあるコンセントと接続すると、それは駆動音を鳴らし始める。しばらくすると硝子画面が違う景色を映し始める。紫は慣れた手つきでタイプライターをカタカタといじる。
「この画面を御覧なさい。これから幻想郷への流入予定の怪異達です」
紫は硝子板を指す。覗いてみると、その中にはずらりとオカルトの名前がリストアップされていた。眩暈がするほどの大量のオカルト群。
「こ、これが全部、最近作られたオカルトだってのか……?」
軽く百は超える。私は背筋が粟立つような感覚をおぼえた。
「ええ。言ったでしょう? 外の世界のオカルトは、消耗品です。作られ、信仰され、忘れられる」
「そんな、勝手な……。ふざけんなよ! 何とかならないのか!?」
「なんともなりませんわ。外の世界の人間の意識でも変えない限りは。科学の発展に伴う功罪により、オカルトというものは芯のある信仰を失いました。今では多数の人間に弄ばれる玩具ですわ。恐怖を駆り立てることは出来るけれど、不変性を持つには至らない」
それから私と紫は様々な議論を交わした。幻想郷を囲む常識と非常識をひっくり返す結界の性質を変更する手段。発生した怪異を集める場を形成する手段。外界の世論を誘導し、オカルトが忘れ去られないよう科学信仰を途絶えさせる手段。
どれもこれも実行には現実味がなく議論は不毛に終わった。結局、紫の元を訪れてわかったことは外の世界の『オカルトを消耗品として扱う文化』をどうにかしなければこの異変を解決できないという事実だけだった。
こちら側にいる私たちにはどうあがいても解決不可能だ。
「手詰まりか」
「仕方ありませんわ。幻想郷からは外の世界へは干渉できないけれど、外の世界の情勢はそのままここへ反映される」
「……お前。なんでそんなに落ち着いてるんだ? 幻想郷のピンチだぞ」
「ピンチ、というほどのこととは私には思えませんわ。新規の怪異は、どれもこれも結界を脅かすような力を持たない」
紫はリストアップされたオカルト群を指す。それらがどのようなオカルトなのかも既に調査済みなのだろう。
「貴女は人死にを気にしているのでしょう。でも、私からしたら人間なんて減れば増やせばいい。ただ、それだけの話なのです」
「もういい。お前に相談したのが失敗だった」
所詮、こいつは妖怪なのだ。なんとなく分かり合えた気になっていた私がバカだった。私は湯呑みの中身を一気にあおり、立ち上がった。
「邪魔したな。情報をくれたことだけは感謝する」
紙にまとめられた先刻の情報を私は受け取る。プリンターとかいう外の世界の簡易印刷技術らしい。なんだかこの利便さもオカルト染みているな。こんな物が理屈ありきで普及すれば、大抵の不思議に動じなくなるのもわかる。
ともかく、収穫としては十分か。この情報があれば少なくとも後手に回らず怪異に対処できる。
「うふふ。どういたしまして。そうだ、魔理沙」
紫は端末を操作する。そしてオカルトのうち一つの項目を指した。
「これは少しだけ古いオカルトなのだけど。魔理沙、貴女は1999年って数字が何のことだかわかる?」
「知るか。私は外の世界の暦なんて興味ない」
すぐにでも霊夢達の元へ戻りたかった私は適当に切り返す。邪険にしたせいか、紫はすこしだけ声のトーンを落とす。
「そう。残念」
私は神社に戻り、霊夢と菫子に紫から貰った情報を伝えた。紫が解決に至るような情報を落とさなかったことに霊夢は明らかに失望した様子だった。
しかし、一方で菫子は何かに気づいたのか私の話を聞いて黙りこくっていた。
「おい、菫子。どうかしたか?」
菫子は外来人である。外の世界の人間達に影響を及ぼそうと無茶な手段を練っている可能性がある。
「大丈夫よ。変なことなんて考えてないから。ちょっと、気づいたことがあって……」
ぶつぶつと菫子は誰にも聞こえない声量で独り言を始める。そうしてしばらくしたあと「資料の確認をしてくる」と言って姿を消した。おそらく外の世界へ戻ったのだろう。菫子は眠っている間だけ、幻想郷に来ることが出来る。外の世界で意識を取り戻せば、それだけで向こうに帰ることが出来るのだ。
「魔理沙。紫の話聞いた感じじゃ、原因は外の、しかも今の情勢にあるみたいだから、これから外の世界に出向いてどうのこうのしても意味なさそうね」
霊夢はそんな感想を漏らす。私は霊夢の言っていることが理解できず「どいういうことだ?」と訊き返す。
「外の世界のオカルトに対しての『意識』が原因だって話でしょ? そういう思想が一朝一夕で大衆に根付くものだとは思えないわ。幻想郷に新規のオカルトが流入する今の情勢をどうにかするには、それこそタイムスリップでもして過去の時点からそういう意識が流行らないようオカルトに芯を持たせる必要があると思うわ」
「なるほど。確かにそうだな。今挙げた解決策が突拍子もないことを除けば」
流石は巫女だ。宗教を扱う霊夢には大衆心理に関しては直感的に気づける部分も多いのだろう。しかし、大衆の意識操作はともかく解決策に時間遡行が必要だなんて。前提から無理がある。そう私が正直な感想を漏らすと霊夢はあっけらかんと言葉を返す。
「何言ってるの魔理沙。ここは幻想郷よ。その程度の能力の持ち主の一人や二人、いるでしょ」
楽観的である。
「んなわけあるか」
「咲夜とかどう?」
「あいつはどうなんだろうな……。自分の手の内はあんまり明かさないし」
幾度か交戦経験があるので奴が時間と空間を操作することはわかっているが、完璧に操れるようにも思えない。
「とりあえず、菫子が戻ってくるまでそういう能力の持ち主を探すことにしましょ。私はまずは永遠亭にあたってみようと思うわ。月の技術って結構進んでるみたいだし」
「じゃあ私は紅魔館だな。咲夜はもちろんだが、パチュリーの奴も何か情報を持ってるかもしれない」
「頼むわ。けれど、やばい怪異が発生したときはそっちの対処優先ね」
「わかってるさ」
オカルトは現在も絶賛流入中である。紫から貰ったオカルトリストのおかげで対処が楽になったとはいえ、同時進行で情報を集めるというのは中々骨が折れるだろう。しかし、私達に解決できない異変はないはずなのだ。今までだってずっとそうしてきたのだから。この異変も後から酒でも飲みながら楽しく語らえるような事件に落ち着くだろう。
私はそう思っていた。
後にこの異変のことを皆で語らえる日なんて来なくなるということも知らずに。
いつも通り、私は居眠りをする門番を素通りして正門を通り過ぎる。
「お邪魔するぜ」と申し訳程度に挨拶し、私は玄関の戸を開ける。外の熱気とは打って変わって館内は冷気に満ちていた。ふらふらと仕事をしているフリをしているメイド妖精達が目に付く。彼女達は私の姿をちらりと確認すると会釈し、すぐに掃除をするような動作を再開してこそこそと雑談に勤しむ。門番といいメイドといいどいつもこいつも仕事熱心な奴らだ。
「咲夜! いるかー?」
大声で呼ぶと殆ど間を置かず、背後から「はい」と止水のように落ち着いた声がした。
「客人の背後を取るとは無礼な奴だな」
「そうですね。盗人への対応としては相応のものだと思いますが」
「随分ときついことを言うな」
「そのくらいで傷つくような繊細な心は持ち合わせていないでしょうに」
「確かに」
私は振り返って背後にいた咲夜に改めて「お邪魔してるぞ」と挨拶をする。咲夜はそれに応じるように会釈する。
「それで、今日はどうしたの? いつものようにパチュリー様にご用かしら」
咲夜は首を傾げる。私が本を持ち帰る用の袋を持っていないので疑問に思ったのだろう。
「私はいつも図書館に用があるのであってあいつに会いに来てるわけじゃないぜ」
あいつとお喋りするのは割と有用なことも聞けたりするので嫌いではないが。
「またまた照れなくてもいいのよ」
茶化すように咲夜は返す。
「今日は図書館に用があるんじゃなくて、お前に会いに来たんだ」
茶化されたのが気に入らなかったので若干芝居掛かった口調で返した。すると咲夜はくすりとかわいらしく笑う。
「あら、いつからそんなに軟派になってしまったのかしら」
「たまにはいいだろ? ――まあすこしからかう風になっちまったが、お前に用があって来たってのは本当だぜ」
「例の異変の件に関しての話かしら? 紅魔館の方針としては、こちらに被害がない限り不干渉でいるつもりよ」
察しのいい奴だった。同時に薄情でもあると思った。咲夜は人間だが、どちらかというと妖怪寄りの思想の持ち主なので主や自身たちに害がない限り異変に積極的に関わらないというスタンスなのだ。
「わかってる。だがお前の力が必要かもしれないんだ。聞きたいんだが、お前の能力で『過去』へ戻ったりってことはできるか?」
咲夜は私の問いに対して首を横に振る。
「悪いけれど、私の能力はそんな便利なものじゃないわ。時間の流れを遅くしたり止めたりすることは出来るけれど、不可逆のものを可逆にすることは出来ない。時間の進みというのは基本的には一方通行なのよ」
咲夜は肩を竦める。残念だ。あまり期待はしていなかったから落胆するほどのことでもないが。
「そうか。わかった、すまないな。変なこと訊いて」
「気にしないで。ところで、今の口ぶりだと今回の異変は過去に原因があるのかしら」
「まあそんなところだ。しかし、困ったもんだ。時間遡行の能力持ちなんて、どっかにいないものかな」
「永遠亭は? ちょうど今永琳がお嬢様とお茶をしているわよ」
咲夜が応接間の方を指す。なんて出来たタイミングだ。
「はあ。間が良すぎるな。永琳の奴、なんでここに来てるんだ?」
「言ったでしょ。お嬢様とお茶をしに来たのよ」
「あいつらそんなに仲良かったのか?」
「いいえ。お嬢様があの人を誘ったのは今回が初めてのはずよ。込み入った話があるわけでもなさそうだったし、いつもの気紛れでしょう」
レミリアの奴の気紛れがこんな風に上手く機能するとは。まあ、結果的に永遠亭の方へ直接向かった霊夢には無駄足を踏ませるハメになってしまったが。
「その茶会に飛び入りしてもいいか?」
「構いません。お嬢様も暇をしているようでしたし。『飛び入りで客が来そうなときは通してもよい』とも仰っていましたね」
私が来ることを見越していたかのような予言染みた発言である。
「助かるぜ。レミリアの気まぐれもたまには役に立つな」
「あら、知らなかったのかしら? お嬢様が気紛れを起こすときは、大抵物事が上手く回ってしまうのですよ」
すこしだけ誇らしげに咲夜は言い切った。
「邪魔するぜ」
咲夜に通され、私は応接間に入室する。丁度メイド妖精がホールケーキをテーブルの上に持ってきたところだった。。
「来たわね。咲夜、このケーキ切り分けてちょうだい。三の倍数で割れる数でね」
普通に六等分にしろと言えばいいのにレミリアは回りくどい指示を出す。まばたきの合間に私の椅子とティーカップまで用意されていた。咲夜の能力の仕業だろう。一方永琳は僅かに驚いた様子で私の姿を確認する。
「魔理沙、貴方もこの子に呼ばれたのかしら?」
「呼ばれてないよ。永琳、私はお前に用があってここへ来た」
「おかしいわね。何故私目的で永遠亭へ向かわずここへ来るのです? 紅魔館に居ることはうどんげ達にしか教えていなかったのに」
「そりゃお嬢様の気紛れのせいでな」
私がそう言うと永琳は意味が理解できないらしく、小首を傾げる。その様子にレミリアはくすりと猫のくしゃみのように小さく吹き出す。普段全く隙のない永琳をからかえて気分がいいのだろう。
「それで、私にどんな用があるというのですか?」
「前に紺珠の薬とかいう未来を体験する薬作っただろ。あれと似たような薬ないか?」
「具体的には?」
「今度は過去に行けるようになる薬がほしい」
私がそう言うとレミリアは腹を抱えて笑い始めた。
「はははっ。な、なによそれー! そんなピンポイントに都合のいい薬があるわけないでしょ! 魔理沙、あんたおもしろすぎよ」
口調を崩しながらレミリアは茶化す。
「うるさいな。で、どうだ永琳?」
永琳は眉間を指で押さえて困ったような表情になる。
「魔理沙、流石に冗談が過ぎます。私は全能でも万能でもないのですよ」
「やっぱりそう都合よくいかないか」
「二人分くらいしかありません」
「あるのかよ!」
私は間髪入れずに突っ込んだ。レミリアは椅子ごとひっくり返りそうになりながら爆笑する。いつの間にかレミリアの背後に回りこんでいた咲夜が咄嗟に椅子を支えた。
「あはは、永琳、あんた薬師やめて神様にでも転職したほうがいいわよ。いや、復職かな?」
「煩いですね。それで、魔理沙。どうしてそんな薬が必要なのかしら」
「ああ。今回の異変を解決するにあたって過去に行く必要があるかもしれないんだ」
私はそう前置きしてから霊夢の提案した考えを永琳に説明した。霊夢の考えは永琳からしても的を射ているように思えたらしく、終始彼女は異論を挟まなかった。
「大衆に根付く意識を改革するためには長い時間が必要。成る程、納得しました」
「ずいぶんと大げさな手を考えるのね。それだけ今回の異変はやばいってこと?」
レミリアは他人事のように訊く。
「まあな。解決手段が選んでられるほど手は多くない。結界の性質を紫の奴は変える気がないようだし、お前らみたいな妖怪達はそもそも異変を問題視すらしてない。本当ならお前らだってこのままほっといていつか痛い目みても知らないようなまずい異変だぞ」
「あら、そうなる前にあなた達が解決してくれるんじゃないのかしら?」
レミリアは紅茶を啜る。
「ところで過去に戻ったはいいとして、扇動方法に考えはあるのですか?」
「いや、それはまだだ。霊夢の案もついさっき出来たばかりの思いつきだし。当然これからまた集まって意見を煮詰めるつもりだが。今はとりあえず手段を確保している段階だな」
菫子の奴も何か考えがあるようだったし、戻ってくるのを待って意見を聞かなければならない。
「手探りなのですね」
「私としては月の頭脳の意見も聞きたいな」
永琳は首を横に振る。
「私に頼る癖がついてはいけません。最低限、手段くらいは協力するつもりですが。永遠亭は一応人間側の勢力に寄っているので」
「だろうな。ためしに訊いてみただけだ」
少なくとも永琳が制止する素振りを見せなかったので霊夢の案は致命的な手段ではないのだろう。私はそんな打算を頭の中に展開しつつ、ケーキを頬張る。頭を使う時に糖分補給は重要だ。
「貴方の考えについては理解しました。後でうどんげに薬を届けさせます。どう使うかは、貴方達の好きにしなさい」
「おう、助かるぜ」
「魔理沙ー。そのおもしろい遊び、私も混ぜてほしいわー」
「お嬢様、お戯れは程々に……」
紅茶を注ぎ足しつつ咲夜がレミリアに意見する。ブレーキ役も大変だな、と私は咲夜に同情した。
神社へ戻ると三人は既に戻っていた。日差しを避けるために三人は庇の影で涼んでいる。
霊夢はふくれっ面で腕を組んだ状態でぶつぶつと何かを捲くし立てていた。どうやら永遠亭で無駄足を踏んだことに関して二人に愚痴っている様子だった。
「戻ったぜ」
「あら、おかえり。魔理沙、私のほうは間が悪かったみたいで永遠亭で永琳に会えなかったわ」
「だろうな。あいつ、紅魔館に居たぞ」
私は先刻の出来事を三人に説明した。咲夜へのあてが外れたが、代わりに永琳は当たりだったということを。永琳が過去へ戻れる薬を処方できるという事実を聞いて菫子だけは半信半疑な様子で私に聞き返した。
「そんなとんでもない代物がほんとに都合よく存在してるの?」
「ああ、この手のとんでもアイテムに関しては信用できる奴だぜ」
「でしょうね」
「ですね」
二人は揃って首肯する。霊夢、早苗は紺珠の薬を既に体験しているので私の話に疑問を抱いていない様子だった。
「なんかすごい人なのね。今度是非お会いしたいわ」
「あんま期待すんなよ。ただの変な奴だぞ」
「そうですねー。キカイダーみたいな変な格好ですもんねあの人」
「キカイダー?」
それがなんなのかはよくわからないが早苗の評価は相変わらず容赦がない。変な格好とは言いすぎだろ。
「あー、ほんとにそんな格好なら確かにやばいわね」
早苗と菫子は二人にしか通じない話題でキャッキャし始める。おそらく外の世界のネタなのだろう。
「それで、菫子。さっき外に戻って確認してきた資料の話ってのはなんなの?」
霊夢が切り出す。
「よくぞ聞いてくれたわね。さっき魔理沙さんが報告してくれたユカリとかいう妖怪から貰った情報を聞いて思いついたの。そのひとは最後に『1999年』のオカルトに関して言及したらしいわね」
それに関しては本当についで程度の何のあてにもならない陳腐な情報だと私は思っていたのだが、菫子は何か取っ掛かりを感じたらしい。
「ああ。私は何のことだかわからずスルーしたけど。この異変に何か関係があるのか?」
「ええ。私の見解では重要なオカルトね。1999年。それは二十世紀最大にして最後のオカルトが死んだ年よ」
早苗が息を呑む。どうやら、このオカルトも外の世界では有名なものらしい。
菫子が語り始める。ノストラダムス、という予言者がいた。彼は「1999年に恐怖の大王が来るだろう」という予言を残した。これにより人類史は終焉を迎えるという終末予告だ。この恐怖の大王というのがなんなのかは諸説あり、巨大隕石説、疫病説、核兵器説、とあらゆる議論がなされた。当時の外の世界は滅びの予言を鼻で笑うものもいれば、恐怖に怯え生き残るための情報収集を欠かさないというものもいた。
信じるものも信じないものも、例外なく予言という名のオカルトを意識させられた年だった。私にはよくわからないが、テレビというもので特番という特別枠のメディア発信も多く行われていたらしい。
しかし結局、人類は滅亡することなくミレニアムを迎えた。恐怖の大王は降りてこず、影すら見当たらなかった。こうして完全に人騒がせな与太話として人類を終焉させる終末予告のオカルト『ノストラダムスの大予言』は終結した。
それを期に外の世界のオカルトブームは終息を始める。オカルト情報誌は発行部数を落とし、テレビというメディア発信にも枠を失っていく。ここまでは菫子が自身の倶楽部活動というものでオカルトの研究中に把握していたことらしい。
外の世界では二十世紀とそれ以降でオカルト観が違うのだ。紫が指摘したように、科学の発展も追い風となり、今ではオカルトは単純な娯楽に成り下がっている。
「浪漫を失ったのよ、オカルトは」
「納得できないな。そのノストラダムスの予言とやらはそんなに大きなオカルトだったのか?」
私が疑問を呈すと菫子は頷く。
「ええ。もしかしたら自分が死ぬかもしれない、という恐怖。万人に影響しうるオカルトはそれだけだったから。私はよく知らないけれど、資料を見る限りじゃ集団ヒステリーに近い状態だったと分析できるわ」
「確かに、なんだか結構な騒ぎになっていたと神奈子様からお話を聞いたことがあります。私は2000年問題のほうが関心がありましたが」
早苗が捕捉する。
「ふーん。菫子、自分の知らない時代のことをよくそこまで調べられるわね」
霊夢が感心する。
「まあね。外じゃそういう情報収集は比較的簡単にできるようになってるし。そういう利便さも世の不思議を埋め、幻想を途絶えさせる要因にもなっているのかもね。ともかく、今のオカルトを消耗品とする価値観の起源はここにあると私は推論を立てる。じゃあ、どうすればいいか。もうわかるでしょ?」
菫子は得意げに人差し指をぴんと立てる。こいつはオカルトが心底好きなのだろう。先刻まで発生する怪異の対処に追われて疲労困憊だったはずなのに、こういう話をしているときは疲れを感じさせない柔らかな笑顔を見せてくれる。
「さあな。どうするんだ?」
私はあえて答えを菫子に促す。菫子はにっこりと笑って答えた。
「1999年の世界で、私達が恐怖の大王を降臨させればいいのよ」
抽象的な提案だった。しかし、私達の中では菫子の案をヒントに様々なアイディアが浮かび始めていた。予言のオカルトで指されている恐怖の大王というものがなんなのかまるで解明されなかったことが大きい。それなら自分達でどんな風にでもこじつけられるからだ。
「はい! はーい! 私、思いつきました! 隕石落とせばいいんですよ!」
早苗が真っ先に発言する。
「いやいやいや。そんなことしたらこの異変よりやばい騒ぎになるだろ」
「もちろん、本当に落とす気なんてありませんよ。要するに大多数の人間に『恐怖の大王』を認知させればいいわけでしょ? なら私の能力で遠くから隕石を誘致して、被害が出ないよう落下直前に砂状に分解すればいいのです!」
早苗は『客星』のスペルカードをちらつかせながら力説する。確かに、あの光量を放つ隕石を引っ張ってこれるなら大変な騒ぎに出来るだろう。
「賛成だわ。本当に被害を全く出さないようにするなら隕石なんて誘致した直後に送り返したほうがいいんだろうけど、砂状に砕くのなら問題にならなそうね。物的証拠を残すという意味でもとてもいい案だと思うわ」
菫子が同調する。
「でも早苗、あんたの能力ってそんなに融通が利くもんなの?」
霊夢の指摘に早苗は胸を張って「もちろん!」と返す。
「隕石の誘致はそもそも楽勝に出来ますし、分解に関しても消費する霊力が大きそうですが、まあ何とかなるでしょう。詠唱する時間さえしっかり確保出来れば、私に不可能はありません!」
「頼もしいな、じゃあ過去へ行く面子の一人は早苗で確定だな」
私がそう言うと早苗は小躍りでも始めそうなほど上機嫌になりガッツポーズを決める。即席で思いついたにしては随分と力の入ったプレゼンだったが、単純に私欲も混じっていたらしい。永琳の処方する薬は二人分しか数がないという話だった。タイムトラベルだなんておもしろい体験はおそらくこの機会を逃せばもう二度と味わえないだろう。早苗が息巻くのも無理はない。
そしてそれは私も同じだった。以前の異変で訪れた外の世界。星の光のような光源と天を衝くような摩天楼が地表いっぱいに広がる、幻想郷以上に幻想的な情景。その景色は私の胸の中に強く残っている。しかも今回見られる景色は過去の世界のもの。想像するだけで胸の高鳴りを感じる。
「早苗、わかってるとは思うけど遊びに行くわけじゃないんだからね? あくまで異変の解決がメインよ」
はしゃぐ早苗を霊夢が窘める。内心浮かれていた私も同時に釘を刺された気分だ。
「わかってます、わかってますよー霊夢さん」
「ほんとにわかってるのかしら……」
「じゃあ、残る面子は私でいいか?」
私はそう切り出す。釘を刺されようが行きたいという気持ちに変わりはない。私は勝手なのだ。
「わ、私も行きたいわ!」
「お前は実体がないから駄目だろ。薬飲まないといけないんだぞ」
私は事前に準備していた意見で菫子の立候補を封殺する。落ち込む菫子を見るとすこし罪悪感を覚えた。
「ううー……。幻想郷の外なら私の領分なのに」
「まあまあ菫子さん。私の領分でもありますから、任せてくださいよー」
「で、霊夢は異論ないか?」
霊夢を封殺する意見はないのでこいつが乗り気だったらどうするべきか。私はそう考えていたのだが、どうやらそれは杞憂だったようで霊夢はめんどくさそうに同意した。
「構わないわ。ただし、しっかり早苗を制御してよね。なんか浮かれてるみたいだし」
霊夢は早苗の頭を御祓い棒で軽く叩く。早苗はへらへらと笑う。
……なんだか不安になってきた。
永琳によると過去に持ち運べる荷物には限りがある、という話だった。丁度私の持つ箒分くらいの質量しか運べないらしい。なので荷造りには悩まなかった。
「そこでその箒を優先する理由がわかりませんねぇ。それってなくても飛べるんでしょう?」
早苗が苦言を呈す。
「これがないと落ち着かないんだよ」
あと八卦炉と試験管に入れた魔法薬もスカートに忍ばせてるし。私にとってはこれだけで十分である。
「どうしてもというなら仕方ありませんが。向こうでは目立つのでこれで包んどいてくださいね」
と言って早苗は新聞紙を押し付けてくる。私は仕方なくそれに応じる。
「あと、これも着てください。外から持ってきた私の服なんですけど、神奈子様が捨てずに取っておいてくれました」
手渡されたのは制服という衣装だった。菫子や鈴仙が着ているものと同じようなものである。外の世界の私くらいの歳の女にとってはポピュラーな格好らしい。
「私のなので丈は合わないかもしれませんが」
確かに、サイズ的には一回りほど合わなかった。これに関しては向こうで違う服を見繕うことにしよう。生地が薄いせいでスカートの中に忍ばせていたアイテムも軒並み入らないのも結構辛い。ベルトなんかに巻き付ければ変わるだろうが、それではどうにも不恰好でゴテゴテしてしまう。戦闘に出向くわけじゃないんだから。
「くそー。仕方ないから八卦炉以外は置いてくか」
「というか、スカートは物をしまう場所じゃないでしょ」
菫子が指摘する。
「ほっとけ」
「……帽子は脱がないんですか?」
早苗は私の頭のとんがり帽を指す。
「ないと落ち着かないんだ」
そう返すと早苗は呆れたようにため息をつく。
「早苗、無駄よ。魔理沙って結構頑固だから」
霊夢が知ったような口を利く。
「でも流石にその格好は外じゃ目立つかなぁ。やめといたほうがいいと思うわ」
「お前に言われるとなんか説得力なくなるな」
菫子の妙な柄のマントと帽子を指しながら私は言う。でもまあ、これについても向こうのファッションに合わせたものを代わりに見つければいいか。
「ところで、あなた達お金とかは準備してるの?」
「金?」と私は菫子に訊き返す。
「外の世界ではなにをするにもお金が必要よ。それは1990年代でも変わらない。寝床も食事も衣料もお金が必要よ。物々交換なんて当然通じないし、食べ物も自生してない。お金がないとのたれ死ぬわよ」
前に外の世界を覗いたとき、地表が全て石のような材質で覆われていたことを思い出した。確かにあれでは食用の植物もそれを餌にする動物も望めない。
「普通に強盗でもしようと思ってましたけど」
「おいおいそれは流石に無茶が過ぎるだろ」
早苗はたまにとんでもない発言をする。
「冗談ですよ冗談」
「ホントかよ……」
「で、結局どうするわけ?」
霊夢が仕切りなおす。私達は揃って首を捻った。ここでは外の世界のお金なんてそれこそよっぽどのことがない限り流れ着かない。お金は人心を掴んで離さない。いわば物欲そのものなのだ。だからこそ外の世界はあれだけ発展したのだろう、と私は推察する。
「金のことでお困りのようじゃな」
ここに居る四人以外の声が頭上から突然聞こえた。
ひらひらと木の葉が舞う。瞬間木の葉は白煙に包まれ、私達四人の間を割るように二ッ岩マミゾウが顕現した。
「マミゾウ、あんたいつからそこに?」
霊夢があからさまに不機嫌になる。私はまあまあと手で霊夢を抑える。
「さあて、いつからかのう。少なくとも、おぬしらがよからぬことを企んでることは把握しておるぞ」
「よからぬことじゃなくて、異変解決に必要なことだぜ」
「すこし方法が過激すぎる気がするがのう。まあ、文句を言う気はないがな。儂もあの新参の怪異どもには辟易しておる。どいつもこいつも知能が無く言葉の通じん奴ばかりじゃ」
異変発生初期、マミゾウの奴が自身の勢力拡大のため積極的に怪異に接触していたのは知っていたが、どうやらあまり上手くいっていなかったようだ。
「異変をどうにかしてくれるんなら、儂としても助かる。90年代。その頃なら、儂は外の世界で金貸しとして活動していた時期じゃ。金の都合なら協力するぞい」
マミゾウは一枚の封筒を私に手渡す。封はされていたが、私は構わずそれを破り中身を確認した。
「安心せい、妙なことは書いとらん。過去の儂への協力要請だけじゃ」
確かに、文面だけ見ればただの嘆願書のようだった。
「でも過去のお前はこの文だけ見て状況を理解できるのか?」
「心配するな。儂の頭は柔らかい」
私は他の四人にも封筒の中身を見せ、不審な点がないか確認させた。
「……術を仕込んでる様子もなさそうね」
霊夢が手紙を検分しつつ呟く。
「そんな猪口才な真似せんて。儂は純粋におぬしらに協力するつもりで現れただけじゃ」
マミゾウは破れた封筒の代わりを取り出した。
「ふむ。お住まいは都心じゃないですか。あの辺は土地代結構高かった気がします」
「まあな。そこそこ経営が上手くいっとった時期じゃからのう」
早苗は封筒に書かれた住所を眺める。
「手を貸してくれるってんなら、頼らせてもらうぜ。何分、外の世界の知識には疎いからな」
「私は詳しいですよう」
早苗が頬を膨らませる。今までの言動を顧みるとあまりこいつは頼れそうにないのだが、直接口には出さないでおこう。それから私は外の世界に詳しい組である菫子・早苗・マミゾウから一通りレクチャーを受けた。お金の遣い方やら、マナーや禁則事項。もっとも、外の世界も倫理的にはさほど幻想郷と変わらないようで、最低限のモラルに反するような真似をしなければ法に触れることはないようだ。
個人的には交通規則とやらが一番面倒臭く、生活する上で息苦しそうだと思った。交通事故が外の世界での死因のトップであるらしいので規則に厳しくなるのは仕方の無いことなのだが。話を聞く限り、自動車とやらはこちらで言う妖怪みたいなものなのだろう。身近にある癖にふとした油断で容易に人を死に至らしめる。
三人の講義を聞きつつ時間を潰していると、ようやく鈴仙が現れた。片手には革の鞄を抱えている。一瞬私と早苗の制服姿を見て吹き出す様に鈴仙は笑った。
「お待たせ。珍しい格好してるわね」
「外の世界じゃ普通の格好らしい。笑うなよ」
「まあ、なんでもいいけど。というかえらく大所帯ね。薬は二人分しかないってお師匠様から聞かなかったの?」
「気にしないで。私達は見送りだから」
うんうんとマミゾウが首を振る。菫子はまだ時間遡行に未練があるようで、少しだけ不満げだ。
「ふーん。悪いけれど、あなた達は時間遡行の様子を眺めることはできないわよ。今回の薬は『タイムリープ』つまり意識だけを過去に飛ばす現象を引き起こすものだから、身体が過去に送られるわけじゃないの」
と、鈴仙は解説を始める。
「タイムリープ? 荷物を持ち運べると私は聞いたんだが」
「その辺も説明するから質問は後でまとめてして。さて、お師匠様のこの『遷化の薬』は意識だけの時間遡行を可能にする代物よ。これが現物」
鈴仙は鞄から透明の袋に入った薬を取り出す。見た目はただのカプセル状の錠剤だ。
「不可逆を遡行するには膨大なエネルギーが必要よ。それは質量によって相対的に増大する。なので、その負担を最小限にするため時間移動は『魂』や『自我』といった個を維持するのに必要な最小単位だけに限定するの。しかし、普通に遡行すれば移動先に意識の受信媒体がないので宙を浮遊する神霊に似た状態になってすぐに消滅してしまうわ。移動先に過去の自分がいたとしても、受信先にはなりえない。一つの器には一つの意識しか宿らないから」
意外な話だった。一つの体に幾つもの意識なんて共存できそうなものだが。
「その問題を解決するために、この薬は時間遡行とともにある術式も付随するようになっているわ。それは意識を骨子として、移動先に在る物質を間借りして原子変換し、肉体を組成するという術よ。これで受信問題は解決ね。身に着けているものを持ち込めるのはそういう理屈よ。物霊も一緒に移動するから、それもまとめて組成できるの」
なるほど。そっくりそのまま物を移動できるのではなく、同じものを現地でコピーする感じか。しかしその理屈だと移動先の私の肉体もコピーした偽物ということになってしまうが……。
意識が私のものとはいえ果たして遡行先の私は私なのだろうか? 哲学じみた問題である。沼男という思考実験を思い出した。いや、考えるのはよそう。嫌な気分にしかならない。
「原子変換って、時間遡行並みにやばい技術な気がするんだけど」
菫子が引き気味に言う。
「お師匠様は天才なので」
「そういう問題かなぁ」
「ともかく。理屈はだいたいこんな感じね。さて、服用方法だけどこの錠剤は水要らずよ。飲んだら口内で噛み砕いて。そして、飛びたい年数分息を止めるの。息を止めている時間一秒につき大体一年遡行できるわ。大雑把にそれで飛ぶ年数を決定した後は、遡行先の座標の景色と時間を細かく頭でイメージして。ずれると地球の自転と公転に置いていかれて宇宙空間に放り出されちゃうから注意ね。この細かい設定役は一人のほうが安定するわ。二人同時に行うとイメージがずれてしまうもの。手を繋いでいれば移動先は同じ場所になるから」
「早苗、調整はお前に任せる」
「はーい。了解です」
外の世界の座標を細かく指定するのは私には難しい。投げっぱなしで構わないだろう。
「過去の世界からこちらへ帰るには『帰りたい』と強く念じるだけでいいわ。注意点は、魂の形というのは強く肉体に影響するという点ね。仮の肉体だとしても、向こうで傷を負って帰ってくればこちらの身体も同じ傷を負った状態になるかわ。物霊の影響で所持品も変化するからそれも注意ね。こちらから持ち込んで、あちらに置いてきたものは持って帰ることは出来ない。逆に帰るときに身に着けていれば過去の物品も持ち帰れるけれど。説明はこんなところかな」
「はい、質問です。タイムパラドックスなんかについてはどうなってるんでしょう?」
早苗が聞く。小説か何かで見た覚えのある単語だ。確か時間遡行に伴う矛盾に関しての用語だったかな。鈴仙はその単語について把握しているらしく素早く質問を返した。
「それが引き起こった時点で肉体が現代へ強制送還されるわ。ただし、時間的矛盾は適応されたままね。タイムパラドックスを防ぐことはできないけれど、それによる因果の崩壊を最小に抑えるための機能よ。同じく、歴史を大きく変えるような行為をした場合でも強制送還されるわ。今回のあなた達の作戦を聞いたけれど、大衆の世論誘導とやらが成功した時点で薬の効能でここへ引き戻されることになりそうね」
なるほど。大体わかった。話だけ聞いてる限りでは、あまり作戦以外の行動で無茶は出来そうに無いと思った。
「他に質問はないかしら」
「バタフライ効果に関してはどうなる?」
私は鈴仙に質問する。はからずとも歴史を変えてしまう可能性について考えたとき、一番の課題になる問題である。簡単に説明するなら『風が吹いたら桶屋が儲かる』という話だ。小さな要因が積み重なり、大きな問題に波及する可能性。遡行先で石ころを蹴っ飛ばしただけで未来を改変するような事態にドミノ倒しで発展し、その時点で強制送還されるなんて事になれば堪ったものではない。
「問題ないわ。お師匠様によると歴史というものは弾性で、つまり元に戻ろうとする性質を持っているの。小さな要因で未来が書き換えられるような事態になりかけても、勝手に元々の歴史に事象は収束する。歴史の強制力・時間収斂・世界線収束範囲・スプリングバックと色々な呼ばれる方をしているわね。起こるべくことは多少の変化があっても起こるように出来ているのよ」
「でもそれだと今回私達が歴史を改変して大衆意識を変えさせるのは無理なんじゃないのか?」
「大丈夫よ。この収束範囲には限度があるから。明確に歴史を変遷しようとする意思の伴った行動には対応できない。そもそもこの世界の仕組みである『歴史』や『因果』は時間遡行なんて反則に完全に対応できないものなのよ」
他に質問は?と鈴仙が促す。他の奴らも思いつくことはないらしく、黙ったままだ。鈴仙の説明を各々自身の頭の中で推古しているのかもしれない。
「なければ薬を渡すわ。服用するのは魔理沙と早苗でいい?」
「はい」「おう」
同時に返事をした。霊夢に突っつかれたというのに、早苗の奴は相も変わらず浮かれた様子である。浮ついた気分であるのは私も変わらないけれど。未知の体験というものは否応なしに好奇心を煽る。薬を受け取ると早苗は目を閉じてぶつぶつと何かを呟く。外の世界のマミゾウの事務所付近の住所を短く暗唱して近場の風景を想起している様子だ。
私は息を止める時間を逆算しつつ心を落ち着ける。早苗と何度か薬を飲まない状態で予行練習をした後、いよいよ本番である。
「座標と移動する年代のイメージは、おおよそばっちりです」
「おおよそで大丈夫なのかよ」
「お師匠様の薬は、安心サーチ補助機能もついているから、ある程度大雑把でも問題ないと思うけど」
さすが永琳。気の回る奴だ。
「なら行けるな。早苗、準備はいいか?」
「ええ」
私達は手を繋ぐ。目の前で霊夢が時計を構える。遷化の薬を口内に含み、秒針が十二時を回った段階でそれを噛み砕き私達は息を止めた。カウントスタートだ。
カチリ、カチリと針が動く。薬の効果か、妙な浮遊感を覚える。意識と肉体が乖離するかのような。肉体への神経の伝達速度が遅れているかのような錯覚。
五秒――。不意に霊夢達の背後で裂帛音とともに空間が裂けた。一瞬薬の効果かと思ったが、それは紫の仕業だった。スキマから身を乗り出し、私達二人の様子を遠巻きに眺め、笑いながら手を振っている。見送りのつもりだろうか。
「蝶の羽ばたきにご用心」
と、忠告のような台詞をこぼす。いったい何のことやら聞き返したかったが、今は息を止めている真っ最中だ。私は紫に半眼の視線を返すだけだった。
秒針が規定の位置まで到達する。私達は同時に口を開け、思いっきり息を吸った。空気が口内に入る気配は無い。真空の感覚に溺れそうになる。驚きのあまり思わず手を離しかけたが、早苗は私以上に落ち着いているらしくしっかりと強い握力を感じた。
人体の感覚がおぼろげになる。視界も、聴覚も、溶けるように感覚が消失する。唯一確かな感覚は、早苗の手のひらの感触だけだ。早苗の手を見失わないよう、私は強く力を込めた。
暗転した視界は次第に光を取り戻し始める。さざめくように眼球が組成されている。浮遊感は消え、周囲の空気を押しのけるように自身の肉体が実体を持つのを感じた。最初に目に付いた光景は、滑り台や鉄格子の変なオブジェ。最初に早苗が座標に指定した公園という場所だろう。
「魔理沙さん、意識はありますか?」
冷静に早苗は言う。もっとはしゃいでるものだと思ったのだが。
「おう、問題ない」
足元はすこし地面が抉れている。私達の身体の質量分、原子変換とやらをしたせいだろう。早苗は周囲をきょろきょろと見渡すと、広場の端においてあるゴミ箱に歩み寄り躊躇無くその中に手を突っ込んだ。
中から取り出したのは新聞である。新聞はこの世界にも普及しているのか。少なくとも天狗製でないのは間違いないだろう。早苗は紙面の上部にある日付の欄を指す。1999年七月某日。
「成功です! やったー!」
早苗は突然小躍りしだし、勢い余って私に抱きつく。
「ちょっ、落ち着けよ!」
「落ち着いていられるものですか。私達は今、熱力学第二法則に反したのですよ! 宇宙の熱的死を、私達の意識という情報のエネルギー分遠ざけたのですよ! すごい、私達は今前人未到の領域に立っているのです!」
よくわからない単語を一気に捲くし立てられる。何なんだいったい。私も多少興奮しかけていたが、早苗の勢いに押されている。
「そ、そうだ。ここに来る直前、紫が蝶の羽ばたきがどうのって言ってた気がするんだが、あれどういう意味なんだろうな」
「バタフライ効果のことで間違いないでしょうね。でも、それは問題ないというのが永琳さんの意見だったはずですが」
うーんと早苗は頭を捻る。
「しかし、あの方が忠告するというからには何かあるのかもしれません。考えてみましょう。そもそもバタフライ効果とは何か。そこから始めますか」
べらべらと早苗は持論を展開し始める。まずい、早苗を落ち着けさせようと振った話題だったのだが薪に火をくべる結果となった。往来から人がちらちらと通りがかりにこちらの様子を伺う。私達の姿は外の世界から見れば常識的な格好のはずだが、不審に思われてはいないだろうか。早苗の一人語りは終わらない。仕方ないので私は早苗の手を引っ張って往来へ出た。この時代のマミゾウの元へ行かなければ。
レクチャー通り、信号のうつり変わりに気をつけながら道路を横断しタクシーを探す。しかし、私にはタクシーというのがどの車種を指しているのかわからなかった。道路を行き交う自動車は色とりどりで、目が回りそうになる。というか、人多すぎじゃないか?
日光を地面の石造りが照り返しているのか、余計に熱く感じる。環境の変化に身体がついていけないようで、着いて間もないというのに疲労感を覚える。こうして私が苦しんでいるというのに、早苗は涼しげな表情でべらべらとまだ喋っている。
「――というわけで、全ての物事は影響しあい、玉突きのようになっているというところに話は戻るのですが」
「戻すな戻すな。お前の話はよくわかった。わかったからタクシーとやらを捕まえてくれ」
「あら、いつのまにこんな人の多いところに。わかりました、すこしお待ちください」
言うが早い。あっという間に切り替えた早苗は車の行き交う道路側に身を乗り出し、手を振る。すぐにタクシーは私達の前まで動いてきて停まった。
早苗に続いて乗り込むと、車内は冷気に満ちていた。気温操作の魔法だろうか。否、と私はすぐに頭の中でそれを否定する。魔法は外の世界に存在しない。これは科学の力なのだ。車といい信号といい冷房といい、科学は魔法よりよっぽど優れているのではないかと私は思い始める。そりゃあ早苗がこんなに熱を持つはずだ。
「この住所までお願いします」
運転手のおっさんに早苗は封筒の住所を見せる。運転手は気持ちのいい返事で了解した。しばらくの間、車に揺られつつ私は景観を楽しむ。
「どうですか、外の世界は?」
「なんか、目がまわる」
正直な感想だった。早苗の奴は時間遡行という事象そのものに対して興奮していた様子だったが、私は純粋に外の世界の景色というのに昂ぶりを覚えている。今はスケールに圧倒されてはしゃぐ気にはなれないが、だんだん目が慣れてきた。すると思考も冴えてくる。なるほど、地面が石で覆われているのは起伏を小さくし、自動車の運転を安定させるためなのだな。幻想郷の人里の地面も舗装されているのは荷車の運転を安定させるためだし、発想は同じだ。
「あはは。でしょねー。私も幻想郷の風景になれてたから、なんだか落ち着きません」
「お前が落ち着かないのはタイムリープが原因だろ」
「よくわかりましたね! ――まあ、もう魔理沙さんうんざりしてる様子なので語りませんが」
「いや、話自体は結構興味深かったからまた聞きたいな」
現在の私のキャパシティーを超えているだけで、そういう科学の話はなかなか面白みがある。魔法の研究にも何か役に立ちそうだ。そんな暢気な外の世界トークをしているうちに目的地にたどり着く。
「ごめんなさい、運転手さん。ここで待っていてくれませんか?」
今はお金がないので、ちょっと中の知り合いから貰ってくる。そう早苗が伝えると運転手は了承した。この運転手のおっさん、妙に話のわかる奴だ、早苗の容姿がいいからだろうか。そんな邪推を浮かべつつ、私は雑居ビル内に入る。自動で動く不思議な扉を通ると、壁にフロア構成が描かれているのを見つけた。二階を『タヌキファイナンス』という会社が陣取っているのがわかる。ここで間違いないだろう。
階段を昇り、タヌキのシンボルを使っている戸へ向かう。ノックをして入ると、茶色のスーツを着た大柄の男が出迎えた。
私達の姿を見て、冷やかしかと思ったのか、「どうしたのお嬢さん、迷ったのかな?」と声を掛けてくる。私は「マミゾウに用がある」と返す。すると男はわかりやすくうろたえた。こちらでどういう名を名乗っているのか知らないが、少なくともマミゾウという名は外の世界では人妖か部下にしか通じない名だと聞いていた。
男は対応に困っているのか、なかなか私達を通そうとしない。痺れを切らした私は男を押しのけ、奥へ進む。
「邪魔するぞ」
一応ノックをして扉を開ける。部屋の中心でデスクに書類を広げて女性が椅子に座っていた。短く切りそろえた髪、白いブラウスを内に着込んだ紺のレディーススーツ、丸メガネ。私の知っている姿と大分相違あるが、醸し出す底知れない雰囲気から私はその女性がマミゾウであることを確信した。
「なんじゃ貴様ら。ここは塾施設じゃないぞ」
部屋へ入ってきた私達に気づくと鋭い眼光をマミゾウは見せる。早苗が私の背後で萎縮するのを感じた。
「お前に用があって来た。マミゾウ」
名を口にすると先刻の男と同じく動揺の影が見えたが、マミゾウは一瞬でそれを打ち消し足を組みなおしつつ私達の姿を観察する。
「何者だ」
「言っても信じないだろうけど、私達は未来から来た」
とりあえず正直に話す。マミゾウの怒気を圧し返すよう強めな態度で。たとえ荒事になっても手の内を知っている私のほうに分がある、という姑息な計算があったことは否定しない。
「おちょくっとるのか?」
「そんなつもりはないぜ。これが証拠。未来のお前からのお手紙だ」
私はマミゾウから受け取っていた封筒をマミゾウに渡す。文面に起すとかなりおかしな状況だ。マミゾウは封を破り、中の未来からの嘆願書を検める。
「……確かに、儂の字じゃな。そして――儂の術じゃな」
マミゾウは破れた封筒のほうを頭上の電灯で透かしつつ検分する。突然、封筒は煙に包まれ木の葉に変異した。私達は何が起こったのか一瞬理解が遅れて、身体が硬直した。
「ちょっ!」
私はマミゾウから木の葉を奪おうと手を伸ばす。マミゾウは立ち上がり身長差を使ってそれ避け、木の葉の表面に書かれているであろう未来からの情報を確認する。
するとマミゾウは手元から謎の端末を取り出し扱い始めた。携帯電話という代物だろう。
「儂じゃ。昨日買った株式、全て売り払え」と喋りかけ、端末を切る。続いて他の部下にも連絡をし、「あの土地を売れ」だの「あの品を買い戻せ」だの怒涛の指示を飛ばしまくる。私達はあっけにとられてそれを止めることすら出来なかった。ひと段落してマミゾウはふぅと息を吐き、いつもの見慣れた人の良い笑顔を私達に見せた。
「いやあ、助かったぞい。おぬしら。危うく大損こくところじゃったぞ」
「て、てめえなんてことしやがる!」
私はマミゾウの胸倉を掴む。鈴仙の解説を私は思い出す。明確な意思を以て未来を変えるようなことをすれば、私達は強制的に現代へ引き戻されるのだ。こいつの横着のせいで、即日帰還なんてことになれば洒落にならない。
「魔理沙さん、落ち着いてください! 転移が始まらない、ということはこの事象はそこまで歴史に影響を及ぼすような行動ではないのでしょう」
マミゾウに詰め寄る私を早苗が抑える。確かにそうだ。そう頭の中ではわかってるのだが、なんとなく利用された気になって腹が立つのだ。無償で協力すると言っていた癖に、やはり油断できない奴だ。封筒の方へ仕掛けを仕込んでいたとは。最初の封筒を中身を検閲するため私が破って駄目にするところまでおそらく織り込み済みだったのだろう。
「なにがなんだかわからんが、やらかしたのは未来の儂じゃ。儂は無関係じゃぞ」
「今しがた未来の情報を元に動きまくってただろうが」
「はて、何のことやら」
いつの間にかマミゾウは灰皿の上で木の葉をオイルの臭いのする長方形の妙なアイテム(おそらくライターとかいうやつだろう)で燃やしていた。つくづく良い性格をしている。
「まあまあ。お詫びではないが、おぬしらの素性は信じるぞい。手紙には『そちらでの生活を全面的に支援してくれ』と書かれている。いいじゃろう、儂に出来ることなら何でも協力しよう」
からからとマミゾウは笑う。してやられたが、そんな風に気持ちよく笑われたら怒っているのもバカらしくなってくる。私は息を吐き「そりゃ助かる」と投げやりに呟いた。早苗は「ありがとうございます」と頭を下げる。
「では早速、資金援助をお願いします。二十万円ほど。あと、ホテルも手配してください」
早苗はちゃっかりと要求を伝える。この切り替えの早さは見習いたいものだ。
「ふむ。構わんが、まずは名前を教えてくれ。おぬしらは儂と面識があるだろうが、儂からしたら初対面じゃ」
そりゃそうだ。私達はそれぞれ自分の名を名乗った。
「魔理沙殿に早苗殿だな。把握した。申し訳ないがここでは儂のことは『マミ』と呼んでくれ」
「わかった」
「なんだか可愛らしい呼び名ですね」
「はっはっは。似合わんのは承知しておるよ。さて、ホテルは一番良いとこの良い部屋を取っておこう。どのくらい滞在する気かは知らんが、好きに使うといい。資金援助は、かーどでいいかい? おぬしらのような少女が大金を持ち歩くのは危険じゃて」
「大丈夫ですよー。余裕で返り討ちに出来るくらい私達強いですからー。まあでも、カードのほうが確かにありがたいかもしれませんね。札束だとかさ張ります」
「うむ。では、儂のかーどを貸すぞい。それとは別に細かい買い物用にもちろん現金も用意しておこう」
「……お前。またなんか企んでないか?」
ちゃくちゃくと話を進めるマミゾウを私はすこしだけ棘っぽく突っつく。
「どうしてそう思うのじゃ?」
「私達がなぜ未来からここへ来たか全く詮索する気がないのか妙だと思ってな」
「あまり先を知りすぎるのは良くないのじゃろう? 先ほどの魔理沙殿のあわてぶりから察したわい。根掘り葉掘り事情を探るのは無粋じゃろう」
なるほど、と私は納得した。世渡り上手な奴だ。
現金の管理は早苗に任せることにした。キャッシュカードとかいう訳のわからないものも渡されたが、こいつも早苗任せだ。物の価値がわからない以上、下手に私が扱うわけにはいかない。外で待たせていたタクシーのおっさんに心持ち多めに代金を払い、とりあえず私達は服を買いに行くことにした。
「な、なあ。早苗。やっぱりこの帽子ってそんなに目立つのか?」
歩道を歩きつつ早苗に訊く。視線が辛いので私は自前の帽子を脱いでいた。
「そりゃそんなコスプレみたいな帽子、目立ちますよ。大丈夫です、帽子を被りたいなら私が似合うコーディネイトを選んであげますから」
と、妙に張り切った様子で早苗は言う。
街中はいろんなお店が乱立していて、適当に歩いているだけでも服屋をちらほら見つけることはあった。私は無意識にそのウィンドウに惹きつけられてふらりと近寄っていたのだが「この先に靴屋とアクセサリー屋さんが一体になってるビルがあるのでそこへ行きましょう」と早苗は言って寄り道を許さない。
私は一軒一軒見て回りたかったが、それではあっという間に日が暮れてしまうだろう。ビルへたどり着く。私達と似た格好の少女達がたくさん出入りしているのが確認できる。菫子と同種である女子高生という人種だろう。どいつもこいつも規格化された格好なのに着こなしが洒落ていてかわいらしい。へらへらとしながら、ど突き合い、黄色い声で喋りまくる。菫子の話じゃ彼女達が外の世界でヒエラルキーがもっとも高い種族らしいが、小集団となって楽しそうに我が物顔で往来を行く姿を見るとそれは正しいのだろうと思えてくる。
「なんだか制服の子が多いと思ったら、今日は半ドンだったんですね」
早苗が独り言のようにこぼす。
「半ドン?」
「半日しか学校の授業がない日、ってことですよ。主に土曜日のことを指します。私達の時代にはもうなかったんですけどね。さ、行きましょ」
早苗は私の手を引く。子ども扱いするなと突っぱねたら笑われた。この人ごみだからはぐれないようにだと諭される。
「言うほど混んでないだろ」
確かに人は多いが相応に建物内が広いせいで気にならない。
「まあほんとのこというと魔理沙さんが好奇心に任せてふらふらとどこかへ行きかねないなぁと思いまして」
言い返せない。実際、既に勝手に動く階段を見つけて私は興味しんしんだった。なんだあれ。
「あれはエスカレーターです。駄目ですよ魔理沙さん、お洋服を先に仕入れるって約束だったじゃないですか」
「わかってるって」
私は早苗と一緒にマネキンの並ぶ区画へ足を踏み入れる。色とりどりの洋服が並んでいて目が眩む。人が多いとここまで商いは大規模になるのか。私はとりあえず季節の服を見て回ることにした。じっくりと商品を眺めていると店員に何故か英語で話しかけられたので、日本語で返した。するとその女性店員は失礼しました、と頭を下げる。どうやら髪色のせいで外国人と勘違いしたらしい。外国人ではないが、地続きの異界に住む異界人ではあるのだけどね。
何故話かけてきたかを訊くとどうやら私に商品を勧めてきたことがわかる。こちらのファッションには疎いのでありがたく勧められる商品を手に取った。
「試着も出来ますよ」
と店員は壁沿いに配置された試着室を指差す。サービスがいいな。
「魔理沙さーん。待って、待ってください。先にこっち着ましょうよー」
知らぬ間に早苗は早苗で服を見繕っていたらしく、衣服を幾つか抱えていた。私の要望通り帽子も確認できる。
「悪い、連れがああいうもんだからさ」
私がそう言うと店員も苦笑いする。
「大丈夫ですよ、試着した奴は全部買っていきますからー」と妙なフォローを早苗はする。マミゾウの金だと思ってめちゃくちゃしやがる。
さっそく私は早苗から受け取った服に試着室内で着替えた。白を基調としたスカートと上着が一体型になった生地の薄いワンピースタイプの服だ。麦藁帽を被り、試着室を出ると早苗は手を叩きながら私を囃した。
「きゃああああ、かわいい! やっぱり私の思ったとおり、こういうひまわり畑に居そうな格好が似合いますね!」
先刻見た女子高生集団のような黄色い声で早苗ははしゃぐ。
「そ、そうか?」
「次はこれ着ましょうよこれ!」
という具合に私は着せ替え人形さながら何着か衣服を代わる代わる着せられた。私も負けじと自分で衣服をチョイスしてみたが、あまり早苗からの評価はがんばしくない。
「夏に黒系はしんどいのでは? 日光を吸って暑いような気がします」
「ほっとけ。黒が好きなんだよ」
「うーん。私の服は魔理沙さんに選んでもらおうと思ってましたが、魔女みたいな格好にされちゃいそうですね」
失礼な奴だ。
「それと、なんで頑なに帽子なんです?」
「そりゃ肌が焼けるからに決まってるだろ」
シミにでもなったりしたら大変だ。その辺り、幻想郷の少女どもは疎い。なのにどいつもこいつも美白を保っているのは霊力で紫外線をカットしているのではないかと私は疑っている。咲夜辺りは主人があれだから日中陽の下に出ないので納得できるのだが。
「そんなことでしたか。では、後でドラッグストアへ寄りましょう。日焼け止めという便利な塗り薬があるんですよ」
「マジかよ。どのくらい効果あるんだ?」
「帽子よりかは効果は薄いでしょうけど、少なくとも肌は焼けなくなりますよ」
そういうことなら帽子縛りのファッションをする必要はないな。結局私と早苗は四着ずつほど衣服を購入し、店を後にした。一着は私が自分で選んだので、それにそのまま着替えた。黒のポロシャツに丈の長いデニムスカートだ。早苗は白のキャミソールに短パンと際どい格好である。それぞれ靴屋で衣服に合うようにシューズと厚底サンダルを買い揃える。ようやく私は現代の空気に自身が馴染んだような実感を得た。シューズは固く、履き心地はよくなかったがそれも時期に足に馴染むだろう。
私達はそのままドラッグストアへ向かった。日焼け止めの他、シャンプーやボディーソープといった日用品を揃える。品数に私は圧倒されたが、それは服屋でも体験したことである。外の世界の住人はどうしてこんなに種類を棚に並べられて悩まずに買い物を済ませられるのだろう。早苗がいなければ私はずっと同じ店でどれを買おうか悩んだ挙句、商品を軒並み買い占めてしまうかもしれなかった。キャッシュカードとかいう魔法のカードもあることだし(早苗が何度かカードを使う場面を見たが、無限にお金の代わりになる代物らしい。すごい)そういう無駄遣いに私は抵抗がなくなっていた。現代に持ち帰る数が限られているのは残念だが。
食事はジャンクフードと呼ばれるやたらと美味い軽食屋で済ませ、昼食後も街中の探索を続けた。荷物は重いので、駅と呼ばれる公共交通機関に設けられていたロッカーの並ぶ区画の一つを拝借した。外の世界というのは過保護すぎる。ありとあらゆるストレスを解消する手段が身近に存在するのだ。そりゃこんなに気の抜けた顔になるわけだ。私は往来を行き交う外の世界の住人の顔を眺めながらそんな感想を抱く。
軽蔑はしない。このような環境に放り込まれれば私だって堕落するに違いないからだ。
それからも私は外の世界の見学と称して早苗にいろんな場所へエスコートしてもらった。夏は昼が長い。おかげさまで陽が落ちる頃にはくたくたになっていた。それでもまだぜんぜん街を回りきれていないらしいから恐ろしい。
徒歩で談笑しながら私達はマミゾウが確保したというホテルへ向かった。天を衝くような上等な建物である。まあ、この街の建物はどれも無駄にでかいのだが。中に入り、受付で私達の名を名乗ると、一番上の階層へ案内された。普通なら高いだけの場所に押し込められるのは面倒なだけで不満を漏らすところだが、ここにはエレベーターがあるのでその限りではない。いたせりつくせりである。だというのに人の一人も浮かせる技術がないのはなんともあべこべな話である。
昼のことだ。街を散策している最中歩き疲れたのでナチュラルに飛行しようとしたら早苗にすごい剣幕で止められた。この世界では人間が浮遊するのはとても不自然なことらしい。
人間一人が飛ぶエネルギーよりどう考えても鉄の塊が走ったり飛んだりするほうが力を使いそうなものだが、そこは理屈ありきらしくて早苗に長々と講釈された。ガソリンがどうのこうの、電気を流すことによりトランスミッション内のコイルがどうのこうの。要するにあいつらはでかいからこそ走ったり飛んだりする機構が詰められるのだ、という話だった。
この手の科学寄りの与太話が早苗は好きらしく、一日この調子だった。余計に疲れる。
部屋にたどり着いて、荷物を置き、ふかふかのベッドの上に倒れこむようにしてようやく私は息をついた。
「つ、疲れたぜー」
「あはは。ちょっとはしゃぎすぎましたね」
という割りに早苗は余裕のある様子で室内の冷房をリモコンで操作する。
「でも魔理沙さん。ここからが本番ですよ」
早苗が訳知り顔でにやりとする。
「はぁ。本番、ってなにかあったっけ?」
何か重大なことを失念している気はしていたが、他に考えることが多すぎて埋もれていた。
「やだなー、魔理沙さん。私達がここへ何をしに来たか忘れちゃったんですか?」
霊夢さんに怒られますよ、と付け足されて私は飛び起きる。そうだ、忘れてた。楽しすぎて。
「一番上の階に部屋を取ってもらえて幸いでした。屋上へ行くのが楽でいいですもんね」
屋上へ続く扉は封鎖されていたが、私達にはこんなの閉じたうちに入らない。鍵をこじ開け、人避けの結界を貼り、屋上へ繰り出す。空は快晴。しかし人工の光が満ちているせいで空の星の殆どは輝きを掻き消されていて、月がぽつんと寂しそうにしているように見える。不安になる。果たしてこれだけの光量を発する世界を、恐怖の大王が降りてきたと誤認させられるほどの光で塗り潰せるのだろうか。もしかしたら、いつもの夜よりちょっと明るいなと思う程度に民衆の思考は留まるのではないのか。
「大丈夫ですよ、魔理沙さん。突然正体不明の光が街が照らす現象も、飛行少女と同じでこの世界にはそぐわない不思議な現象ですから。オカルトというものはそういうものなんです。理屈の通じない超常。きっとみんなに驚いて貰えますよ」
早苗はいつの間にか透き通った青系の色の小さな小石を握っていた。
「それは?」
「霊石です。本来、隕石を遠くから召喚し、被害が出ないよう落下直前で砂状に分解するには休憩なしで丸三日ほどの詠唱時間が必要なのですが」
「なっ」
そんなに必要なのか。普通にやれば間違いなく早苗の体力が持たないだろう。
「ですが、これがあれば問題ありません! この霊石は私の詠唱で生まれた霊力を蓄積する効能があります。これを使い、何日かに分けて詠唱を小分けにして行えばお望みの結果を得られるでしょう」
「すげえ。やるな早苗!」
「はい! これを用意してくれた神奈子様に感謝ですね。ともかく、詠唱時間の件はこれで解決するとして何日で計画を実行するかという配分の話ですが――」
前に早苗が詠唱は十時間ほどぶっ続けられますよーっと酒の席で自慢していたことを思い出す。それを考えると、大体一週間くらいの滞在になるのか。頭の中でそう逆算していると何を察したのか早苗は私の頭にぽんと手を置く。
「まあ今日は疲れたので、詠唱は四時間が限界でしょうねぇ。うーんとすると、明日以降もこの調子になると計算するなら、滞在時間は二週間ちょっとくらいになりますかね」
早苗はウインクする。滞在日をそれだけ長引かせてくれるなら外の世界をかなり堪能できるだろう。
「おお、最高だぜ早苗!」
「ふふ。何のことでしょう」
早苗が照れながら言う。「では改めて」と詠唱の体勢に早苗は移行する。私は眺めているだけでいいのだが、役立たずで終わるのは気分が悪い。そこで空調と温度を魔法で操作することにした。夜とはいえ、季節のせいか蒸し暑い。日中の残暑が建物の石造りに染みているように感じる。この環境で詠唱を続けるのは辛いだろう。私の役目は早苗をケアすることだ。
冷風を早苗の周囲に展開した。早苗の長髪が靡く。
「ありがとうございます、魔理沙さん。涼しいです」
「おう。寒すぎるようなら合図をくれよ」
早苗は私のほうを向かず首肯する。空を仰ぎ、早苗は跪いた。詠唱は始まっていた。早苗の声帯から流れ出る音域は、言葉とは認識できないほど澄んだ音だったがどこか歌のような韻を含んでいて耳ざわりが良かった。
きっちり四時間の詠唱を終え、私達は部屋へ戻った。なにやら部屋の湿度が高いと思ったら風呂が沸いていた。早苗の奴がタイマーで事前に用意していたらしい。
「先に入れよ。疲れただろ?」
私がそう譲るといえいえと早苗は返す。
「魔理沙さん先にどうぞ。私はみたい番組があるので」
早苗はテレビのリモコンを操作する。「へえ、この頃にやってたんですね」とよくわからない感想を漏らしながら垂れ流される映像を眺めている。ううむ、あれは是非欲しいな。幻想郷で電波が拾えるかどうかはわからんが、と私はテレビに対して小さな雑念を覚える。いかんいかん、せっかく一番風呂を譲ってもらえたのだからさっさと入らなきゃ。
昼に購入した下着とパジャマとバスタオルとシャンプー等々一式抱えて脱衣所に突入する。このホテルには使いきりのアメニティが用意されているらしいが、やはり石鹸くらいは自分で選んだものを使いたいものだ。このボディーソープなんかすごいぞ、ラベンダーの香りがするのだ。
思わず頬がほころぶ。しかし入浴に際していくつかの些細な問題に私は直面する。服を脱ぎ畳んで風呂場へ入ると、正面には鏡、端に浴槽、備え付けの蛇口とシャワーノズルがあった。加えてバルブが幾つかに分かれていて、これが厄介だった。。目盛り付きのバルブとその他の二つのバルブの計三つ。ううむ、目盛りは温度操作で二つのバルブはそれぞれシャワーと蛇口に分かれているのか?
個人的には壁に張り付いた操作盤も気になるところだった。ジェットバスやらブローやらおかしな項目が散見される。というか風呂場の造り自体も興味深い。床は浅い溝が這っていて、浴槽はやたらとつるつるだ。床の造りは水捌けを良くする為で、浴槽の造りはおそらく何らかの特殊な加工を施すことによって撥水性を高めているのだろう。掃除とかしやすいように。
「魔理沙さん、背中流しますよ!」
「どわあ」
突然の呼びかけに一瞬ひっくり返りそうになった。振り返るとそこには素っ裸になった早苗がニコニコして立っていた。
「な、何してんだ早苗! テレビはどうしたテレビは」
「どうせこの多機能なお風呂に混乱してるんじゃないかと思い至りまして、私の助けが必要かなぁと。どうやら読み通りだったようですね。しかし、不親切なホテルですね。ぱっと見で操作がわかるようにしなきゃ機能たくさん付けても意味ないでしょうに」
はいはい座って座ってと言いながら早苗は前かがみになって私の肩越しにバルブを操作する。何がとは言わんが当たる。
「目盛りが温度操作でこっちのシャワーのアイコンのバルブが正解です。壁の操作盤は湯船の状態を操作できます。後で扱いましょう」
バルブを捻るとノズルから湯が飛び出した。突然お湯を引っ掛けられる形になったので驚いてすこし身体が仰け反ってしまう。
「湯加減はどうですか?」
「……悪くない」
早苗は蹴り出そうと逡巡したが、私は諦めた。早苗の言葉に毒は感じなかったし、心配になったというのは本当だろう。なんだか保護されてる気分だ。嫌な気分だ。
そんな粘性な気分も頭から湯を被せられると汚れとともにさっぱりと流され落ちる。気持ちがいい。
「魔理沙さん、前から思ってましたけど髪の毛綺麗ですよね。艶があって、毛先は猫みたいなふわっふわの癖っ毛で。何か手入れでもしてるんですか?」
「もちろん。半ば我流だが」
興味ありげだったので私は自分が普段やっているヘアケアーに関して早苗に教えてやった。手入れの手順等々。魔法の森のキノコや植物から油や香料を抽出・合成してトリートメントやコンディショナーを作っていることを話すと明らかに早苗は引いていた。
「ひええ。それって大丈夫なんですか? あの森の植物ってどれもこれも毒々しくてなんかやばそうだと思うんですけど」
「そんなことはない。用法容量を守ればどれも有用だ」
「間違えたらどうなるんです?」
「爆発するぜ」
「うわー」
幻想郷では髪の手入れ一つ間違えただけで死にかねないのだ。それに対してここはいい世界だ。危険を冒さなくても髪の手入れに使う品がお店に揃ってる。
「なんだか苦労してますね。私は普通に神奈子様や諏訪子様から頂いた蛇や蛙の油を使ってましたが」
「……いや、それもどうなんだ?」
「どうもこうも神徳混じりなのでいい感じですよー。それにしても、髪乾かすのに八卦炉を使えるのは羨ましいですね。私はまだ髪乾かす方法だけはちゃんとしたものを確立していないので。ドライヤーは電力多く使うので、あまり長時間使えないんですよ」
なんて風にガールズトークに花咲かせながらお互いの髪の毛洗い終える。早苗の髪を洗っているときに思ったのだが、こいつの髪質もなかなか上等だ。今度神奈子の奴にその爬虫類の油とやらを分けてもらうかな。
身体も流し、いよいよ入浴だ。事前に用意していたイチゴの匂いの入浴剤を早苗は投入する。
「こんな甘ったるい匂いの風呂入って虫が寄ってきたりしないかな」
蒸気により浴室内に入浴剤のフルーティな香りが舞う。
「大丈夫です。これ、イチゴっぽい匂いなだけで果汁とかは微塵も混じっていないので。科学的にフルーツの香りを再現したものですね。どちらかというと湯船の中で香りを楽しんでリラックスするためのものなので身体に匂いが付きにくいのです。ボディーソープの香料なんかと干渉しないので安心してください」
へえよく考えられてる。どうにか幻想郷でも作れないものか。可能ならこの滞在期間中に調合方法を勉強したいものだ。私は湯に浸かる。沸いてから結構長い時間放置してしまっていたので冷めているかと思いきや、お湯はほど良い熱を保っていた。保温機能まであるのか。遅れて早苗も湯に浸かる。湯船はなかなか広くて二人で入ってもそこまで窮屈じゃない。さすがマミゾウが一番いい部屋と称して確保したホテルだけある。
「そしてこの入浴剤には更に秘密があってですね。それを活かすためお風呂の操作盤を使います」
「待ってました。ずっと気になってたんだよそれ」
操作盤にはデジタルの数字と時計が付いている。数字のほうは浴槽内の湯の温度だろう。しかし、ジェットだのブローだの謎の単語の表示されたボタンは何の意図で付いているのか見当もつかない。
「ふふふ。この機能がお風呂についていたのは僥倖でした。では、スイッチオン」
「どわああ」
瞬間、腰の辺りの吹き出し口から鉄砲水の如く勢いよく水流が生まれるのを感じた。水流は皮膚の表面を圧迫するほどの強さだったが、緩急もあり感触が心地よい。
驚きも束の間。噴出される水流により生まれた泡が湯の表面に張って消えないことに気が付く。どんどん泡が増え、たちまち浴槽内に納まりきらないほどの量になる。
「なんだこりゃ!」
「泡風呂、という奴ですよ。この泡、浸透圧も緩く限りなく水に近い成分なので目に染みないんですよ。ほれー」
早苗は手のひらに広げた泡を思い切り息で飛ばす。真っ白の泡で視界が埋まる。
「や、やめろ! この!」
と、そこからは私もむきになってしまい泡やらお湯やらの引っ掛け合いになった。私達は泡が消えてのぼせる直前になるまで風呂を満喫してしまった。
二人揃って脱衣所の方へ出る頃にはふらふらだった。疲れを取るために入ったはずなのに、なんてことだ。
「……つ、次からは大人しく入りましょうか」
「……お、おう」
反省もそこそこに、身体を拭いて寝巻きに着替え、歯磨きまで終えてから私達は部屋へ戻った。備え付けのドライヤーを使って髪を乾かしながらテレビを眺める。丁度世界の風景を垂れ流す番組だった。ああ、なんていい気分だ。天井から吹く冷房の風も湯冷めに丁度いい。
「そろそろ寝ましょうか。電気消してもいいですか?」
髪を乾かしトリートメント等々で手入れまで終えてしばらくしたところで早苗がそう切り出す。
「構わないぜ。眠くなってきたところだし」
私はソファに寝転がり、タオルケットを被った。
「なーにしてるんですか、魔理沙さん。いっしょに寝ましょうよー」
早苗はベッドの上に乗り、ぽんぽんと掛け布団をはためかせる。
「やだよ。ガキじゃあるまいし」
「ソファで寝ても疲れは取れませんよ。ほらほら、何のためにこのベッドがこんなに広く作られてるかわかってるんですか?」
「知らないよ」
「知らないなら教えてあげます」
早苗は無理矢理私をベッドの中に引きずり込む。疲れも当然あったので、私は抵抗することなく観念して早苗に従うことにした。ベッドはふかふかで、羽毛か何かで出来てるんじゃないかと思えた。実際材質はそれに近かったらしく、早苗が解説してくれた。
「では消しますよー。おやすみ」
「おやすみ」
宣言と同時に灯りが消える。こいつもリモコン操作か。
真っ暗闇の中、疲れて眠気があるはずの私は何故かいつまで経っても眠れないでいた。外の世界への興奮が覚めないせいなのか、それとも思ったほど身体は疲れていなかったのか判断は付かない。もしかしたらアルコールを摂取していないからかもしれない。驚くべきことにここでは私達の年頃ではお酒を購入できないのだ。
昼間に普通にお酒を買おうとして店員に止められた。全く、そこだけは不満たらたらだ。何でアルコールが駄目なのだ。外の世界の少女達はお酒を飲まないとでも言うのか? いやまさか、そんなバカな。明日詳しく早苗に聞いてみるか。
「魔理沙さん、寝ました?」
不意に声を掛けられる。
「起きてるよ」
私は早苗に背を向けていたが、声の通り方からしてあちらは私の方を向いているようだ。寝返りを打ち、私は早苗に応えるように向かい合う。真っ暗で顔の確認はできないけど。
「なんだか修学旅行みたいで楽しいですね」
「そうだな」
修学旅行という言葉を私は知らなかったが、旅行という語感から似た意味だろうと判断してそう返す。
「でもね、魔理沙さん。私、遊びのつもりはあんまりないんですよ」
「そうなのか?」
「そうです。真面目に、幻想郷を救うつもりです。それが一番大事だと、常に意識しています」
意外な台詞だった。
「気張りすぎじゃないのか?」
「気張りもしますよ。幻想郷は、私にとって大事な場所ですから。私は魔理沙さんほど長くあそこに住んでるわけではありませんが、幻想郷を想う気持ちは負けないつもりです」
「そうか。私もあそこは好きだよ」
外の世界も確かに楽しいが、私の帰る場所ではない。私の居場所は、幻想郷だけだ。帰属意識を持っているつもりはなかったが、離れてみると当たり前のようにそう思う私が居た。驚きだ。
「魔理沙さん。必ず異変を治めましょう。やったらめったら外の怪異に荒らされる現状を、私は許せませんから」
「おう。私も同じ気持ちだぜ」
「現状、と言ってもここは過去の世界なんでそもそも異変はまだ起こっていないのですけど」
自身に突っ込みを入れるかのように早苗の台詞はそこだけ鋭かった。いかん、こりゃまた早苗のSFトークが始まる。眠れなくなるぞ。
「わかってるって。異変を発生させないようにするのが私達の目的だ。あの場所を守れるのはお前だけなんだ。頼りにしてるぜ」
私は話の軌道を戻すべく早苗を持ち上げるように言う。
「……はい。期待してください。私は神ですからね」
決意も新たに、そこから急に静かになった。早苗は眠ったのだろうか。確認するつもりはなかったのだが、私の手は無意識に早苗のほうに伸びていた。早苗の手のひらに接触する。早苗の手に触れるとなんだか気恥ずかしくなり、私はすぐに自分の手を引っ込めた。
くすり、と暗闇で早苗が笑う気配を感じた。さっさと寝ろよ、と私は声を掛け背を向けて布団に包まった。
甲高い電子音が鳴る。僅か一拍の間に私は腕を乱暴に伸ばし殆ど反射でその目覚ましを止める。こうして目覚ましが鳴る直前で起きてしまうのは脳の一部が寝てる間にも緊張しているからだとかなんとか早苗が言っていた気がする。だとすると、眠ってもちゃんと休めてないのかもしれないな。
隣で寝ている早苗を見やる。幸せそうな顔で吐息を立てている。なかなか画になるな、写真を撮りたくなる。私は早苗を起さないよう気をつけながらベッドから抜け出す。軽く伸びをして、テーブルの上においていたCDウォークマンを起動し、イヤホンを装着した。目覚めに音楽はいい、意識が覚醒する。
最初は音が重なりすぎて楽しむどころではなかったポップスだが、今では大分耳に馴染んだ。私はボタンを操作してお気に入りの楽曲まで順送りにしようとする。違和感を覚える。
ボタンが押しにくい。手元のウォークマンをよく見ると前に早苗とゲームセンターで撮ったプリクラが貼り付けてあった。
「おい早苗! 人の私物にプリクラ貼りまくるのやめろって言っただろ」
「きゃん」
ゲームセンターで手に入れた熊のぬいぐるみを軽くぶつけてやると早苗は布団の中で身を捩る。
「うーん……いいじゃないですかー。プリクラってのは色んな場所に貼ってなんぼですよ」
間延びした口調で早苗は開き直る。
「だからってこういう場所は下手したら跡が残るだろうがー」
「あは。ごめんねー。魔理沙さんみたいにみみっちく手帳にまとめるような習慣がなくて」
みみっちくは余計だ。私はプリクラを剥がし、自前のプリクラ手帳にそれを貼り直した。うーむ、こうして撮りためたプリクラを眺めているとなんだか感慨深くなる。私達が1999年の外の世界を訪れて一週間とすこし過ぎていた。滞在期間の折り返し。光陰矢のごとしとはこのことか。私達は昼間遊んで夜は異変解決のため詠唱を重ねるという毎日を繰り返していた。主に夜働くのは早苗なので、若干の負い目はあるのだが遊んでいるときはついつい忘れてハメを外してしまう。昨日は新幹線に乗って海まで行ってしまったし。いやあ、すごい。海は青かった。
何故海は青いんだ、という質問をあのとき思わずこぼしてしまったのは失敗だったが。おかげで帰りの新幹線での雑談はずっと偏光特性に関する話題だった。七色では赤の波長が一番長いとか、アリスは知っているだろうか。あと光は波だったり粒だったりする量子とかいう訳のわからない性質を持つ上に相対速度が変わらないのだ。ああでもこの辺の話は昔に紫がしていた気がするが、普通に聞き流していた。早苗に解説してもらって初めてすごさを認識できた。
それと関連付けてタイムトラベルの話題に移りかけたところで帰り着いてしまったが、個人的には光の話よりそっちのほうに興味がある。今度早苗に話題を振ろう。
私は冷蔵庫から朝食のヨーグルトを取り出す。
「あ、私も私もー」
「はいはい」
私はプラスチックのスプーンとともにカップのヨーグルトを早苗に手渡す。ヨーグルトは三つ組なので、残り一つは取り合いにならないよう冷蔵庫の端に隠しておくか。夜食として早苗が寝静まったときに楽しもう。
「そういや今日はどこ行く? 私はカラオケってやつに行ってみたいんだが。こっちの曲も結構覚えたし」
「いいですよ。その前に、今日はやることがあります」
早苗は親指と人差し指で輪を作り、にんまりとする。
「お金?」
「ええ。カードは使えますが、現金が残りわずかです。具体的に言うと残りは漱石さん二人分。細かい買い物をしすぎましたね。マミゾウさんのところへ行きましょう」
早苗は財布の中の二枚の千円札を見せる。
「なんか奴には世話になってばかりだな」
この前もちょっとしたトラブルがあって警察に補導されかけたときも助けてもらった。
「前にお世話になったのって、ゲームセンターで遊んでたときのあれでしょ? あのときは魔理沙さんが加減しなかったからいけないんですよ」
「いやいやいや。最初に手を出したお前が悪いだろ」
「しつこく言い寄ってきたので仕方ありません」
あのときは私達より一回り上くらいの年の頃の男に絡まれたのだ。思えばあれがナンパって奴だったのか。
「それにちゃんと謝ったからいいんですよ」
「ありゃ煽ってるようにしか見えなかったぞ……」
それで逆上した男を私が張り倒して気を失わせてしまったというのがことの運びだ。あの青年には悪いことをした。
「まぁ、言い過ぎた嫌いはありますね。次からは注意しましょう」
これ以上マミゾウの奴に借りを作るのは怖いし、私もその案には賛成だった。
マミゾウの事務所へは徒歩で向かった。眠気を覚ますためだ。早く行き過ぎても迷惑だと思い途中ハンバーガーショップで二度目の朝食をのんびり味わう。いつもと違い、お店に学生服を着ているものは少なかった。夏休みに突入したせいだろう。心なしか若者は皆、学校生活からの解放感からか快活に見える。今日は何しよう、どこへ行こう。なんだか毎日遊び歩いている私達と変わらないな。
店内のポップスに耳を傾けながら、今日はカラオケでこの曲歌ってみようとか考えつつ、外の世界に馴染みきった自身に違和感を覚えながら、しかし思考の端では幻想郷のことを夢想する。怪異が容赦なく流入する異変。この飽食の時代からくるオカルトを娯楽として消費する価値観が原因の異変らしいが、そういった世論に傾くのも納得できる。
ここは溢れている。物質に限らず、娯楽も思想も。消費しなければ埋もれて潰れてしまうのだ。60円のハンバーガーですらこの物量である。私は大口を開けてバンズごと肉に食らいつく。
「――不思議なのは言うほどみんな焦ってるように見えないところだな。今年で世界が滅ぶっていうのに」
「まだ今年は半分ありますからね。まあ、予言だと夏に恐怖の大王が降りてくるとされているのでみんな心のどこかで不安に思っているのは間違いありませんよ」
「ここの奴らが予言を意識してるってのはわかってるよ。ただ、危機感がなくてな」
周囲の人間を観察しているとわかることなのだが、話題が途切れたときに話のネタにするくらいには予言は意識されている。ただどこかそれは他人事で自身に関する危険とは意識されていない。
「福祉・医療技術の発達により現代人にとっては死は身近なものではなくなりました。見ようと思えば見えるけど、意識したくなければ避けられる程度の概念。お化けみたいなものですね。危機感なんていよいよ事が自身に及ぶという段階までに来ないと感じないでしょう。だからこそ意識の水面下でそれが常に残留しているという現状は大衆の意識に歪みを持たせてしまう。私は菫子さんの推論を支持してますよ。さてそろそろ行きましょうか」
議論もそこそこに、早苗は口元についたケチャップを拭い立ち上がる。私もコップに残っていたコーラをストローで思いっきり吸って飲み干した。むせた。
マミゾウの事務所に着くと妙な光景に遭遇した。タヌキマークの付いた扉の真ん前でマミゾウの部下の茶色スーツの大男が屈んでなにやら作業をしている。地面にダンボールを切り貼りしているようだ。
「よう」
「こんにちは」
私と早苗は同時に声を掛ける。大男は屈んだまま反射のように挨拶を返す。
「こんにちは、……?」
男は何故か私達を見て首を傾げる。
「どうした?」
「いえ。魔理沙さん、今朝も来ませんでしたか?」
今朝はホテルの部屋でぐーたれていたところだ。夢遊病でもない限り来ているわけがない。
「来てないけど。なんでだ?」
「……。いえ、私の勘違いでした。気にしないでください」
男は首を傾げつつも勝手にそう結論付けてダンボールを床に貼る作業に戻る。
「ところでなにやってるんだ?」
「はい。床に穴を空けられる悪戯をされまして。危ないので塞いでいたところです」
「ほう。どれ、見せてみろよ」
覗きこんでダンボールをすこし剥がしてみると大きく抉られた地面が確認できた。ここの床の材質は表面はリノリウム、その下は石造りになっていた。刃物か何かで表面を削って金槌かツルハシあたりで削らないとこうはならないだろう。。
「うわぁ。こりゃ酷いな」
「はい。商売柄、こういった嫌がらせはたまに受けるのですが、今回のは特に酷いです」
マミゾウは金貸しだが、高利貸しでもなかったはずだ。取り立て方がヤクザ染みているとかそういうことだろうか。大男の風貌もなかなか迫力あるし、そういった方面に特化してる可能性は十分ある。
「報復とかするのか?」
「まさか。犯人を見つけた場合は法に則りしかるべき処置をします。うちはヤクザではありません」
「なんだ。お前がそんなナリしてるから勘違いした。お前、狸だろ? 変化で好きな見た目になれるはずなのにそんなおっかない顔してるんだからそうなんだろうなぁと」
私の指摘に男はぎくりと肩を竦ませる。
「……私が妖獣だと、いつから気づいていたのですか?」
「お、当たりか? 鎌かけてみただけだ。引っかかったな」
私はへらっと笑い男の肩を叩く。男を引っ掛けた形になるが、マミゾウが自身の側近に素の人間を置くはずがないという決め打ちもあった。
「私がこのような見た目なのは、変化がそもそも不得意だったからです。しかしずっとこの姿でいるうちに、他の姿になれなくなりまして」
「元の狸の姿にもか?」
「ええ。私は人間に化けすぎました。私だけではなく、他の仲間もそうです。親分はそういう人間堕ちの妖獣にも食いっぱくれないよう仕事を与えてくれました」
「ふーん。面倒見のいい奴なんだなあいつ」
幻想郷では勢力増強に熱心だ程度の認識だったが、こうしてマミゾウに拾われている者の声を聞くと何も自分の利益のためだけにやっていることではなかったんだなと思えてくる。
「そういえば、今日はどういった御用で?」
「ああ。マミに会いに来た。現金がなくなってな」
「申し訳ありません。親分は先ほど出掛けたばかりで」
ありゃ、ゆっくりと朝食を摂っていたのが仇になったか。どうしようかと早苗に目配せすると、何故か視線を落として考え事をしている様子だった。思えばさっきから一言も喋っていない。
「おい、早苗。どうした?」
「へ? あー、ぽんぽこみたいな話ですね」
早苗は取り繕うように噛み合わない返事をする。どうしたんだこいつ。というかぽんぽこってなんだよ。
「現金がご入り用なら私が貸し出しましょう」
男はそう言って立ち上がり財布を出す。
「いいのか? 返ってこないかもしれないぞ?」
「構いませんよ。最近、親分の羽振りがいいので私もそれなりに高い給金を戴いていますから。でも、借用書は書いてもらいますよ」
男はダンボールの切り貼りを中断して事務所内に入る。私は空いた穴をひょいと跨いで男のあとに続いたが、早苗はしばらく立ち止まったまま穴のほうを注視していた。私が声を掛けると早苗はようやく作ったような笑顔を浮かべて動き出した。
金を受け取った私達は早速カラオケ店へ向かった。先ほどまで様子のおかしかった早苗だが、事務所を出た時点でそんな雰囲気は微塵も見せなくなりいつも通りに戻っていた。何かあったのか? と訊いてもはぐらかされるし、私も詮索するのは早々にやめてしまった。そもそも日常的にくっつき過ぎているとここへ来てから常々感じていたし、干渉し合うのはあまりよくない傾向だと私は思っていたのだ。
私は思考を切り替え、初めてのカラオケにめりこむことにした。ちなみにカラオケというのは防音壁に囲まれた個室内で機械を使って垂れ流される音楽に合わせて拡声器を使い歌を唄うという娯楽だ。声を出す、といのはストレス発散にもなり想像以上に楽しめるものだった。幻想郷には鳥獣伎楽というロックバンドがある。夜な夜な能力を使って奴等とその取り巻きが騒ぎ出すのは正直迷惑だと思っていたが、今は気持ちがわからないでもない。 今度ライブにお邪魔してみるかなとぶつぶつ考えているうちに音楽が途切れる。早苗の歌が終わった。
「あれ、魔理沙さん曲入れないんですか?」
フリードリンクをストローで早苗は啜る。
「ああ。歌えるものがなくなってしまってな」
この辺はカラオケをする上でまだまだ課題になるところだ。幻想郷へ戻ったらもっと積極的に外の音楽を取り入れてみよう。
「だったら、次は一緒に歌いましょうよ! 私、まだ持ち歌いっぱいありますから。私に続いて適当に合わせてください」
そう言って早苗は分厚い曲目録をぺらぺらめくる。流石にこの辺りは現代人の早苗には敵わない。というわけで私は持ち歌がなくなったというのにそれから更に二時間カラオケボックスに居座ってしまった。
フリータイム一杯使いきり会計を終えて外へ出るころには私はふらふらだった。夕日がまぶしい。ずっと冷房の効いた店内に居たせいか、暖気が心地よい。すぐに不快感に戻るけど。都心の土地は熱を集める性質があるらしく、日が落ち始めていてもなお熱が強い。
「ぐえー。喉が痛む」
「あはは。鍛え方が足りませんよー」
「鍛えてどうにかなるもんなのかよ」
早苗はケロリとしている。喉を痛めないコツでもあるのだろうか。帰り道の途中でコンビニで気休めにのど飴を購入し、舐めながらホテルへ戻った。顔なじみになったホテルの受付に軽く挨拶し、エレベーターに乗り込もうとすると「そういえば」と受付の女性に呼び止められる。
「まど……」とまで言って受付は何かに気づいたかのように手のひらに口を当てて言葉を塞ぐ。
「まど?」
「い、いいえ。なんでもないですよー」
受付は苦笑いで手を振る。エレベーターの戸が閉まる。
「どういう意味だ?」
早苗に聞くが、何故かまた考え事をしているのか顎を片手で支えるポーズをしている。
「さあ。よくわからないですね」
空返事である。結局なんなのかわからないまま部屋へ戻る。まどと言ったら、窓だよな、たぶん。そう判断して部屋の窓を確認してみたが、特にわかるような変化はない。強いて言うなら新品みたいに綺麗なだけだ。このホテルは定期的にシーツの交換や部屋内の清掃を行ってくれるからどこもかしこも綺麗なのは当たり前なのだが。
部屋に備え付けられた出前カタログで晩飯を吟味しつつ、私は早苗の様子をちらりと見やる。なんだか今日の奴はおかしい気がするのだ。一緒にいるのに一人別の世界に思いを馳せているかのような。まさかホームシックじゃないだろうな。
出前の蕎麦をだらだらと片付けて、早速今日の日課に私達は移る。屋上へ昇り、霊石に力を込めるのだ。私はこの間早苗が快適に詠唱できるように空調を整えるだけなのでなかなか暇なのだがそれはそれで昼間購入した本や小説を消化できるので充実はしている。
四時間の詠唱。しかし今日は何故か勝手が違った。予定の時刻を終えても早苗はまだ詠唱を続けている。時間だぞ、と声を掛けても早苗は詠唱を止めない。結局三十分近く詠唱時間を延長してようやく霊力込めが終わった。
「おい。なんだか今日はいつもより長かったな。どうかしたか?」
早苗のコンディションにより数分程度時間が予定より前後することはあるのだが、今回はその枠に収まらないほど不自然な伸び方だった。
「あはは。すいません。ちょっと今日から詠唱をすこし長くしようと思いまして」
「なんでだ?」
「念のため」
よくわからない答えである。
「構わないが、そういうのは私に相談してから決めてほしいぜ」
「すいません。なんだか例の計画を実行するのに霊力が足りない、って事態にならないか不安になりまして」
「おいおい大丈夫かよ」
早苗はいつも通りのへらへらと悩みもないような笑顔で応える。まあこいつがそう言うなら私としては合わせるしかないのだが。この世界での活動についての舵取りは基本早苗主体なのだ。遊び関連はその限りではないが。
その日から結局詠唱は四時間半で定着してしまった。負担になっていないか私は心配したが、早苗の奴は「だいじょうぶ、だいじょうぶ」と涼しげな顔でノルマをこなしていたから私も安心して任せていた。それが早苗の強がりだと気づかずに。
事が起こったときには遅かった。
詠唱ノルマを増やした日から約一週間後のことである。客星を落とし、被害が出ないよう対処するだけの目標霊力を溜め込み終えた日の夜だった。早苗を労おうと私は空調魔法を解除し近づく。瞬間、早苗はふらりと糸が切れたかのように倒れた。咄嗟に私は早苗の身体を支え、地面に身体が打たれるのを防いだ。
腕で支えたまま早苗の様子を伺う。酷い熱を帯びていた。額に手を当てると速まった脈を感じる。震えていたし、息遣いは荒く、顔色も悪く、意識も朦朧としていた。風邪を引いたのだ。私は早苗を抱えてとりあえず部屋まで運び、ベッドへ押し込んであたふたとした。
こんなに早苗が弱るまで気づかないとは、私はとんだ間抜けだ。気づかないだけではなく、私は連日早苗を各地に連れ回し、遊び歩いていた。ゲームセンター、カラオケ、ショッピング、図書館巡り、来る日も来る日も。自分のことしか考えず。
しかし、こういう状態になるまで私に何も告げずに無理を続けた早苗に憤る気持ちもあった。そんなに私は頼りないのか? そういった葛藤を私はひとまず押し殺し、早苗の看病に終始した。水に濡れたタオルを額に当て、ホテルの受付で氷嚢を借り、コンビニで消化にいい食料を幾つか仕入れて。
真夜中だったので早苗は私に寝るように促したがもちろんそんな指示聞く必要はない。
「魔理沙さん。眠ってください。私の看病で、あなたまで倒れたら笑い話にもなりませんよ」
「お前こそ寝ろ。なんで起きてるんだよ、治らないぞ」
時刻は三時を回っていた。あと二時間ほどで日の出である。
「眠くないんですよ」
「んなわけないだろ。ほら、タオル変えるぞ」
私は早苗の額に乗ったタオルを差し替える。タオルから嫌な熱を感じた。まだまだ治まらないか。発症から半日も経っていないから治るのを期待するほうがおかしいのだが。普段のハイテンションっぷりからどうしても弱っている早苗というのがイメージに合わず人外の回復力を望んでしまう。幻想郷に居ればまた守矢の神の加護があるだろうからちょっとは話が違うのだろうが。
「なあ、早苗。どうして無理をした?」
いつまでも眠らない早苗を相手に私は看病の仕方を変えることにした。会話をしてわざと疲れさせて眠らせようという医者から怒られそうな療法である。早苗に対して憤っていたという私情も混じっていたけれど。
「なんのことでしょう」
早苗はとぼける。
「なんのこと、ってのはないだろう。この一週間、お前は変だった。ノルマ勝手に増やしたり、こんなになっても弱音を私に見せなかったり……」
「あはは、そんな話ですか。別に魔理沙さんが頼りにならないと思ってるわけじゃないですよ」
私の不安を読み取り先回りするように早苗は言う。
「単純に私のエゴです。早く幻想郷を救いたいって気持ちが、空回りしちゃっただけです。二人で遊んでるときも、どうしても幻想郷のことが心配で、なんだか自分の意識が浮いちゃうような感覚になることが多かったの」
切り替えが下手なんですよ、と早苗は言う。嘘つけ、切り替えは上手いだろと私は心の中で返す。
「幻想郷の異変はこの時間軸からは未来の話なんだから、ここで逸っても何も変わらないのに。おかしな話ですよね。合理的ではありません、私らしくありませんでしたね」
要するに、早苗はこの外の世界での滞在を私ほど楽しめずにいたのだ。心の隅で不安を漂わせていたのならそういった心境になるのも仕方ない。その僅かなすれ違いで振り回し、早苗を弱らせてしまったのは私の責任だろう。私が能天気にここを楽しんでしまったから早苗は水を差せずに焦りを抑え込んだ。
「お前は、思ったより繊細な奴なんだな」
思ったより、周りの見えている奴だった。逆に私は周りの見えない奴だった。私は早苗の額に手を当てる。
「悪かったな。お前がそう考えてるのにも気づけずに」
「気づけたらびっくりですよ。さとりの妖怪でもないのに」
「早苗。異変を解決し終わったら、二人で結界破りの方法を考えよう」
「……へ。なんですか藪から棒に」
明らかに早苗の声のトーンが上擦る。
「半端な気持ちじゃ旅行は楽しめない。だから、この異変をばっちり解決してから改めて外の世界を旅行しようって話だ。どうだ、いやか?」
「いやじゃありませんけど……。結界破りだなんて、霊夢さんに怒られますよ」
「だからこれは私とお前の秘密だ。どうだ、楽しいだろ?」
「ふふっ。まあ、悪くはありませんね」
早苗は心持ち落ち着いた調子の息遣いで答える。早苗は根っこは私と同じアウトローだ。秩序を重んじるという気持ちは私より強いけれど。
「そのためにはまず万全の状態で恐怖の大王を降ろす必要がある。無理せずさっさと寝ろ」
「……。わかりましたよ、今回は魔理沙さんに甘えさせてもらいます」
言うが早い、早苗はすぐに吐息を立て始めた。まったく、なんでこんな場面で気を張ってたんだか。
――早苗はこのとき巧妙に自身の意図を伏せていた。それがわかるのは翌日の話なのだが。一方私は分かり合えた気になって安堵する。
伏せられた真意に気づかないままこの場面では早苗が折れて私に身体を預ける気になったと判断して看病に勤しんだ。
朝起きたとき私は椅子の上だった。座ったまま寝たせいで、尻も首も痛い。うたた寝のつもりだったがガッツリ眠ってしまったようだ。窓のカーテン越しに差す日の光量から相応の時間が経っていると私は判断する。時計を見ると案の定正午を過ぎていた。
早苗の様子を伺う。吐息を立てて寝ている。タオルを除け額に手を当てると熱がすこし落ちていることがわかる。それでもまだ高めの体温だ。氷嚢とタオルを交換し私は風邪薬を購入しに行くことにした。夜中にコンビニは開いていたけれど、ドラッグストアは閉まっていて仕入れられなかったのだ。申し訳程度に栄養剤を買ってきていたが、あまり効いているようには見えない。
「早苗、ちょっと出てくる。すぐ帰るからな」
聞こえてはないだろうが寝ている早苗にそう声を掛け、私は財布を取り部屋を出た。受付に挨拶し、ホテルの外へ繰り出す。天気は曇り。湿度が高く蒸し暑い。構わず早足でドラッグストアへ向かっていると「よう」と声を掛けられた。
「魔理沙殿! また会ったな」
「マミゾウか」
「だからー、外ではマミと呼べというとるだろう」
マミゾウは私と並び肘でどついてくる。
「ん。今日も一人か?」
今日も、とはおかしな言い回しだ。珍しく一人だと言ってもらいたい。
「早苗の奴が風邪引いちゃってさ。今から風邪薬の買いに行くところだ」
「現人神とはいえ、人は人。病気になるものなのだな。どうじゃ、医者にかかりたいなら保険証も偽造するぞい」
「いや、やめとく。早苗が言うには医者は風邪のときは宛てにならないってさ」
奴の話では私達の時代の最新の医療技術でも風邪への療法は確立されていないらしい。風邪への対処法はいつの時代だって暖かくして安静にして水分を摂り代謝を良くすることだけだ。これから買いに行く風邪薬にはあくまで症状を緩和する効果しかない。
「そうかい。なら儂の助けは要らんな」
「おまえは今日はどうしたんだ?」
「んー? いや、昼飯時じゃからな。外で済ませてたところじゃ。まだ昼礼まで時間あるし、買い物につき合わせてくれ」
マミゾウは私と並んで歩き出す。昼礼って、私からすると無駄としか思えないのだが。やはりマミゾウは部下とのコミュニケーションを重視しているのだろう。
目的地のドラッグストアまで早苗にすぐ戻ると言った手前、気持ち早足で向かう。その辺の事情を言わずともマミゾウは察しているようで私のペースに合わせてくれた。五分ほど歩いて到着する。
「店員に症状を言えば丁度良いのを取ってもらえるじゃろう」
マミゾウがレジを指す。しかし私は早苗が無理なく食せる食品もほしかったのでまずは冷蔵棚へ向かった。
「マミゾウ。風邪のときって何が効くんだっけ?」
「ふーん。風邪なんぞ引かんし、知らんなぁ」
「おいおい。おばあちゃんの知恵袋みたいなのはないのかよ」
「誰がおばあちゃんじゃ」
軽く頭を叩かれる。怒っている風ではないので、私の煽りにお約束を返したような切り返しだ。
「よく聞くのは葱とか生姜とかかのう? ほら、生姜ドリンクならあるぞ」
「じゃあそれをもらおうかな」
私は冷蔵棚からマミゾウが指した商品を二本ほど取り出す。それからヨーグルトやスポーツドリンクを取り、ようやくレジで風邪薬を受け取った。薬は量に対してなかなか値の張るもので、レジへ並ぶ前に持ち出した生姜ドリンクその他各種を併せた値段より高かった。まあ私の金ではないので気にはならないが。
レジ袋に商品を詰めて、私達は店を後にする。
「マミゾウ」
店を出たところで私は唐突に声を掛けた。普通に歩くペースで。
「なんじゃ?」
マミゾウは首を傾げる。
「私たち、明日か明後日には元の時代へ帰るよ」
私がそういうとマミゾウは意外でもないように頷く。
「そうか。何故じゃ? おぬしらは割りとここが気に入っていたように見えたから、もうちょっと滞在するとおもっとったのだが」
薄々私がそう決断した理由を察しているだろうに、わざわざマミゾウは発言を促す。
「ああ、出来ればもっと居たかったけど、早苗にこれ以上負担をかけるわけにはいかない。私はどうやらはしゃぎすぎていた」
「おぬしらくらいの年頃の子どもははしゃいでなんぼじゃて。でも、早苗殿のようなはしゃぎ方はいけないな。あの子は儂の目から見て、自制しているように見えた。特にこの一週間、何に気を張っているのやら」
ここ数日マミゾウと早苗は多くは会っていない筈だが、それでもあいつが無理をしている様子は浮き出て見えていたのか。私は気づかなかったけれど。だからこそ、だ。
「ここへ来たばっかりのとき早苗は言ったんだ。『幻想郷を必ず救いましょう』って。でも私は、あいつほど真剣に事を考えていなかった。遊ぶのに夢中でさ。それが結果的にあいつの負担になったのなら、それは私の責任だ。私も気を張るべきだった」
「気を張るって言ったそばから気が抜け取るぞい、魔理沙殿。何処のことを言っとるのかわからんが、儂がその幻想郷とやらの情報を今の時代で知るべきではないのだろう?」
口がすべっとるぞ、とマミゾウは軽く私の頭を叩く。
「確かにその様子じゃ、帰ったほうが良さそうじゃな。もうおぬしは早苗殿が心配すぎて、空回りしておる。気を張ることも、心の底からはしゃぐ気分にもならんじゃろう」
マミゾウの言った通りだ。どうにも今の私は調子が悪い。早苗のことなんて、以前はそんなに意識していなかったのだが。ここ二週間であいつに依存しすぎた。
「いじけるな。らしくないぞい」
「いじけてないよ。私は仕切りなおしたいだけだ。今の状態は、気に入らない。帰って、準備を整えて」
結界を破り、今度こそ気兼ねなく外の世界を満喫するのだ。早苗と約束した危険思想を飲み込んで私はマミゾウに向かって手を出す。
「まあ、そんなわけでマミゾウ、世話になったな。私達は帰るから、次に会うのは十数年後だ」
「おぬしの一存でそんなに簡単に帰還を決めてもよいのか?」
「あいつに文句は言わせないよ。私は自分勝手なんだ」
「やれやれ。おぬしがそんな調子じゃ、早苗殿はこの先もっと苦労することになりそうじゃの」
マミゾウはそう呆れたように言って、私の差し出した手を取る。それから私達は、軽い調子で挨拶をして別れた。
ホテルへ帰ると受付に「あれれ?」と訳の分からない反応をされた。
「どうした?」と訊くと受付は首を捻ったまま「……いえ、なんでも」と言う。変な奴だ。私はエレベーターに乗る。
部屋へ戻ると、早苗は額に手を当てて唸っていた。どうやら寝起きのようだ。
「帰ったぞ早苗。どうだ、調子は」
言いながら私は熱を持った濡れタオルをどけて早苗の額に手を当てる。
「ううーん……。ま、魔理沙さんが二人に見えるー」
薄目のまま、早苗はそんな素っ頓狂なことを言う。私の手のひらに伝う熱は相変わらず強い。
「やれやれ。まだまだ快復には遠そうだな」
仕入れた薬や生姜ドリンクを早苗に無理矢理飲ませ、私は看病を再開した。マミゾウには明後日には帰るかも、と伝えたがもしかしたらまだまだ居座る羽目になるかも。しかしそんな私の不安はおよそ数刻で杞憂に終わった。
日が落ち始めたぐらいの頃である。早苗はバネでも仕込まれていたかのように急にベッドから跳ね起きた。何事かと思い私は早苗の寝ているベッドに近づく。熱が強すぎて痙攣でも起こったのか?
「私は、なんて間抜けなんでしょう」
起き上がって一言。自省するようにそう早苗はこぼす。おかしなことにもう早苗の顔は紅潮していなかった。息遣いも普通に整っていて、冷や汗も出ていない。
「さ、早苗?」
「あー魔理沙さん。ご迷惑をおかけしました。もう風邪、治りました」
あっけらかんと早苗はある。
「んなわけあるか」
と私は早苗の額を試しに触ってみるが、確かに熱が引いていた。なんだこれは、どういうことだ。
「いや、こういう不足の事態のために私は霊力を多めに貯めていたのに、なにしてたんでしょうねー。頭が熱でどうかしていたのかも」
はっはっは、と気の抜けた笑い声を出して早苗は毎晩霊力を込めていた霊石を手のひらの上で転がす。
「霊力の力で風邪を飛ばしました。あはは、魔理沙さん看病ありがとうございます」
「お前、なぁ。そういうことが出来るなら初めからやれよ……」
「だからー熱でそこまで頭回らなかったんですよー」
だとしても一番最初に思いつかなければいけない手だろうが。私は思い切り早苗を貶してやろうと思ったが、やめた。疲れるだけだ。看病に労力を使った分、今ではコンディション的に私のほうが弱っている。喧嘩になると負けるかも。
「じゃあ病み上がりだが早速隕石を落とす準備でもするか。もうすぐ日も落ちる」
「はーい」
早苗は殆ど間を置かず私に同調する。私は半ば当てつけのつもりで言ったのだが、乗り気の早苗に驚く。
「……おい。ホントに大丈夫なのかよ。さっきまで寝込んでたんだから、まだ身体がだるかったりするんじゃないのか?」
「ご心配なく。絶好調ですよ、私。それに風邪で倒れちゃって思ったんです。これ以上、不足の事態を起こすわけにはいけません。ここに居座る時間が長ければ長いほど何らかの不足に巻き込まれる確率が上がります。忘れがちですが、私たちはこの時代では異物なのですよ」
そう結論付ける。私は同意する。名残惜しいが、私たちはこの時代を去らなければならない。
受付でチェックアウトを済ませ、私たちは屋上へ昇る。私は箒を片手に制服姿になっていた。色々と衣服は買い揃えたが、結局この格好が一番気に入ってしまった。シンプルで白黒だし。向こうに戻ればもう着る機会はないだろうが。
空は快晴、星は相変わらず街のあまねくネオンの輝きで相対的に薄まり見えないが。真っ黒の空には月だけが煌々としている。気温はいつも通り昼間の余熱がコンクリートに染みているかのような熱気。湿度もそこそこ。しかし今日の作業はすぐに終わるようなのでいつもやっている空調管理はやらなくていいだろう。
往来を見渡すと、歩行者の姿がたくさん見える。彼らが早苗の落とす『恐怖の大王』の目撃者達となる。
「では、準備はいいですか魔理沙さん?」
早苗は屋上の中心で霊石を地面に置いてその前で腕組立っている。いつもは霊石に力を込めるため手に握りこんで詠唱しているのだが、今回は術を発動させるので勝手が違うのだろう。
「準備も何も、私は見てることしか出来んぞ」
「心の、準備ですよ」
念を押すように早苗は言う。私はそれにサムズアップで応えた。早苗も私に倣い、親指を立てる。
「了解です。では、いきますよー。よく見ておいてくださいねー。と言っても、凄まじく光るでしょうから見ると目が潰れちゃうかもしれませんが」
言うが早い。早苗は詠唱を始める。霊力を込めるときに使うものとは違う音節の詠唱。私には何を言っているのかてんでわからないが、しかしその早苗の紡ぐ言葉は確かに神にだけ伝わる意味を持っているのだろう。
瞬間、不意打ちのようになんの前触れもなく私の視界が光に覆われた。脳が揺れるような錯覚。意識が遠のく。まるでスタングレネードでも食らわされたかのような攻撃的な衝撃。
意識が肉体から剥離する。もと居た私たちの時代に私の我が引っ張られる。意識が落ちる瞬間、最後に見た光景は剥がれた意識から俯瞰する私自身の後姿だった。
「う、うーん」
呻きながら私は上体を起こす。周囲は木々、地面は草っぱら。コンクリートジャングルでないことは確かだ。気温は高いが向こうと違い、風もあって随分涼しい。未だはっきりとしない意識のまま立ち上がり、周囲を見渡す。ここは神社の裏手側だ。幻想郷に帰ってきたのだ。
「早苗、は居ないか」
それどころか出発するときに私たちを見送った連中も居ない。今回行った時間旅行の形式はタイムリープだったので、旅立ったときと時間はあまり経っていないはずなのだが。
過去を変えたことで、こちらの情勢も細かに変わったのか? 確かに、私達の作戦が成功していたとしたらこの場所でみんなで集う意味などないからここに人が居ない理由もわかる。
ん? だとしたら時間遡行も行われなかった、ということになるので結局私達の作戦は実行されなくなるんじゃないのか? だんだん頭がこんがらがってきた。鶏が先か卵が先か。
私は面倒な思考を振り払う。どっちにしろ、異変が発生しているか否かが問題だ。事象の順序に関しての考察は後回しだ。
私は自分達の頑張りが徒労で終わっていないことを祈りつつ神社の鳥居側へ向かう。そこでは霊夢が竹箒を持って掃除をしていた。こんなに暑いのに精が出るな。
「よう、霊夢」
「あら。魔理沙。――ってなんて格好してるのよ。鈴仙の真似?」
霊夢は私の制服を指す。私は気にするな、と霊夢が茶化す前にその話題を打ち切った。
「それより霊夢、異変はどうなった?」
「異変?」
暢気な声音で霊夢は返す。
「ほら、外のオカルトがひっちゃかめっちゃかに流入してくる異変だよ」
「うーん? 魔理沙、夏の暑さでおかしくなっちゃった?」
霊夢は私に近寄り、額を触ろうとする。私はそれを避けて「どうなんだ?」と返事を促す。
「どうなんだ、って言われてもねぇ。そんな異変あったかしら。直近で起こった妙な出来事といえば、せいぜい月の侵略ぐらいじゃない?」
あの時はホントしんどかったわね、と霊夢は嘆息つく。私はそれを聞き、安堵した。私達の目論見通り、異変は起こらなかったらしい。
「いや知らないならいいんだ。よかった」
「? よくわかんない奴ね、相変わらず」
霊夢は竹箒での掃除を再開する。
「そういや早苗を見てないか? 一緒に居たはずなんだが見当たらなくて」
私がそう訊くと霊夢はすこし間を置いて、不審そうに私に訊き返す。
「早苗って、誰?」
続きが気になります
この作品自体の面白さ、初めてSF小説に触れた時のような感動と興奮に背を押されて、あっという間に読みきってしまった。
物語の引き際もとても良い、有り体に言って、続きが気になって仕方がない。
後編が楽しみだ。
後半にも期待
面白かった。
後編も読んできます
ここまで一気見してしまった