橋姫といっても、年がら年中橋に引っ付いているわけではない。それが必要のない身体であろうとも、たまには家で惰眠を貪ってみたり、誰ぞと酒を酌み交わしてみたり、気分転換に他所を歩いてみたりしたくなるものだ。
無論、それが終わればまた橋に戻る。休むための家も、酒を呑むための宴会も、水橋パルスィの常の居所ではない。地底から旧都に至る橋。そこがパルスィの居場所であり、縄張りであった。
そこに先客なぞを見つけてしまえば、美麗な顔立ちに渋面を浮かべるのも無理からぬ事だった。
「よう。お邪魔しとるぞい」
欄干に腰を掛けていた不愉快な先客は、眼鏡の奥の瞳を細めてそう言った。大杯を傾けて中の液体を飲み干すと、ぷはあ、と呼気を吐いた。
「一人寂しい酒盛りのくせに、えらく楽しそうじゃない。妬ましいわね」
「そりゃ、お前さんのお陰で一人じゃなくなったからのう」
二ッ岩マミゾウ、と、先客の名前を思い出す。欄干に腰掛けたまま、一抱えほどもある尻尾をゆらゆらと揺らし、脚をぶらぶらさせる様は今にも転げ落ちそうである。しかし、おそらくパルスィが突き飛ばしたところで、こいつは事も無げに着地してのけるだろう。
パルスィは先客を無視する事にして、反対側の欄干に肘をついた。川の上流をじっと見つめる。それはパルスィの日課だった。
人間たちなどは、ただじっとしている事には一日も、場合によっては数時間程度も耐えられないものらしい。寿命の短い人間にとってみれば、それは無為に思える時間なのだろう。そして大抵の人間は、無駄な時間というものをひどく嫌う。
パルスィにとってはそうではない。流れる川のせせらぎ。岩にぶつかって流れを変える波。水しぶきが岩盤につける雫。何日どころではなく、何百年も見てきた光景。けれど、はるか昔に見飽きたその光景は、パルスィの心を落ち着かせ、安らがせるものでもあった。
「およ? ありゃあ着物の帯じゃのう。誰ぞ洗濯物でも流したかの」
その安らぎを、不躾な声が破壊する。パルスィはいつの間にか消えた渋面を復活させ、声の主を振り返った。
マミゾウはパルスィの隣に歩み寄り、欄干に背を持たれかけて川を見ていた。
「間抜けなやつもいるもんじゃ。しかし、どこに引っかかるでもなくこんなところまで流れてくるとは、なかなか運の良い帯じゃな。いや、悪いのか?」
「……ああいうのは大抵、あとで本体が来るものよ」
ほう? とマミゾウが片眉を上げる。
またやってしまった。橋を通り掛かる奴ならともかく、居座って話を振ってくる奴は、パルスィにしてみれば邪魔者でしかない。
ないのだが、話しかけられるとつい返事をしてしまう。もともと話すことは嫌いではないのだ。話さないことも嫌いではないだけで、誰かがそばにいると、ついつい会話に興じてしまう。それが邪魔に思っている相手であっても。
「おや……なるほどのう。あれが本体か」
マミゾウの言葉に目線を向けると、川の水面から僅かに見える肌の色があった。死体だ。水を吸って膨れ上がり見るも無残な有様だが、慣れているパルスィにとっては、何ら感慨をもたらすものではない。
せいぜい、着物を身につけたままの死体は珍しいなあ、と思う程度である。帯から間を置かず流れてきたを見るに、帯が外れたのもついさっきの事だと思われた。
地上を流れる川は、外の世界まで流れていくものと、地底に流れ行くものに分かれている。だが、あちこちで合流と分離を繰り返しているから、どっちに行き着くかは流れてみないと分からない。もっとも、生き物は結界が邪魔して外の世界にはたどり着けないのだが。
死体であっても、結界を通り抜けることはないはずだ。その場合、水底に沈んで腐り果て、いずれ結界の管理者が掃除するだろう。一方、地底に来た場合、地底湖に流れ着いて火車が回収し、乾燥させた上で灼熱地獄の燃料になる。
「どっちがマシな未来なのやら、分かったもんではないのう」
カラカラとマミゾウは笑い、また酒をあおる。
「もう死んでるんだから、未来も何もないでしょ」
違いない、とマミゾウはまた笑う。そしてまた酒をあおる。
何よりも不愉快なのは、この態度だった。
ケラケラとよく笑い、親しみやすい空気を作りつつも、決して踏み込んだ話を振っては来ない。会話を肴に酒を楽しんでいるという様相を崩さず、適度に言葉を挟んでこちらの発言を引き出す。自然と会話が弾む。
悪くない気分にさせられる。それこそが不愉快なのだ。
飲むかい? とマミゾウが差し出す盃を固辞する。相手のペースにこれ以上付き合うのはゴメンだという意思表示だったが、今更に過ぎる話ではあった。姿を見つけた時に力づくで追い出さなかった時点で、こうなることは自明だったのだ。
マミゾウは盃を引っ込めると「そいじゃ、邪魔したの」と言って、あっさり帰っていった。
最初にあの古狸と会ったのも、大体同じような経緯だった。
パルスィが少し橋を離れている間に、いつの間にか現れて酒を呑んでいた。気さくに声をかけてくるマミゾウをパルスィは無視したが、あれやこれやと話しかけられる内に、いつの間にか色々と話し込んでしまった。どれも他愛もない話ばかりだったが、しばらくするとマミゾウは満足気に帰っていった。
巫女や魔法使いが地底を訪れた間欠泉異変の後、地上と地底を行き交う者がポツポツと現れ始めた。マミゾウはその一人で、旧都でいろんな妖怪と話し込んでいる姿を目撃されていた。地上の妖怪とはだいぶ雰囲気が違うため、最初は地底の新入りかと思われていたらしい。
後に地上の妖怪と――さらに言えば外の世界からやってきた妖怪だと知れて、当初こそ刺客かと警戒されたが、すぐに打ち解けてしまったらしい。そもそも今更刺客を送り込まれる理由がないし、毒気のない笑顔と大物の貫禄を併せ持つ彼女は、偏屈な地底の妖怪たちからも慕われるようになった。
もっとも偏屈さを言うなら、地底の妖怪たちの年季の入りっぷりは伊達ではない。マミゾウを慕う妖怪が現れ出すにつれ、かえって警戒心を強めるものも多く現れだした。パルスィもその一人である。
マミゾウはそう頻繁に現れるわけではなく、神出鬼没であった。ある時は地底湖を眺めて一人酒を呑んでいた。それを見つけたある釣瓶落としは、マミゾウに警戒心を持っていたので隠れて見張っていた、誰と合流するようなこともなく、ひとしきり酒を飲み終えると帰っていったらしい。
またある時は、灼熱地獄の管理者が住む地霊殿から出てきたこともあった。このことは、マミゾウに疑念を抱く者の警戒心をより強くした。当のマミゾウは誰に見送られてもいなかったが、涼しい顔でそのまま地底を後にした。
何らかの企みがあろうと思われたが、厄介なのは、何かしら腹づもりがある事を彼女が隠していないことだった。
彼女を慕うものは、別に彼女に騙されている訳ではないのだ。脛に傷を持たぬ者のない地底では、腹に一物抱えて他者に近づくのはごく普通のことだ。近づかれた者にとって重要なのは、それが自分に不利益をもたらすかどうか、という一点に尽きる。
話してみて、酒を酌み交わしてみて、この人なら自分を悪いようにはしないだろう、と見極める。その信頼を、この地底にあっていくつも得ていることが、あの古狸の何よりも厄介なところだ。
(……まさかと思うけど、すでに地霊殿まで懐柔されてる、なんてことはないでしょうね)
偏屈さも嫌われっぷりも、地底にあって並ぶ者のないあのさとり妖怪を懐柔するなど、どこの何者にもできるとは思えない。
それでもその想像は、パルスィの背筋をいくらか冷やす程度には、うすら寒い想像だった。
「おう、また会ったの」
その声に――正確には声をかけられる前、その姿を見つけた瞬間から――パルスィは頭を抱えた。
「……昨日の今日でもう現れるとは思わなかったわ」
「なあに、愛しのパルスィちゃんに少しでも早く会いたくなってな」
ケタケタと笑い、マミゾウは煙草をくゆらせた。今日は酒瓶を持っていない。
「今日はなんぞ、面白いもんが流れてくるかのう」
欄干に身体を預けてそんなことを言う。昨日パルスィがじっと川を眺めていた位置だ。別にそこを専有の場所としていたわけでもないが、なんとなく、居場所に陣取られたような感覚を覚えた。
パルスィはスタスタと橋の反対側まで歩き、いつものように川の上流に目線を置いた。声を大きくすればマミゾウの位置にも届くだろうが、世間話には少し遠い。
マミゾウは寄ってくることはなく、煙を吐き出しながらパルスィと同じ方向を眺めていた。
「……あんたさあ」
うん? とマミゾウが首を傾げた。返事をしたというより、よく聞こえないから聞き返したという感じだった。
そのままパルスィが黙っていると、マミゾウはガタガタと厚底草鞋を鳴らして歩み寄ってきた。
「どうかしたかい?」
「あんた、なんでこんな所に来るの?」
パルスィはマミゾウの方を向かず、川の流れを見つめながら問いかけた。
「地上に手下や仲間がいっぱいいるんでしょ。話がしたいだけなら、そいつらと話せばいい。手下を増やしたいのなら、地上にまだいくらでも力のある連中がたむろしているでしょう」
マミゾウの表情は、見ていないので分からない。身体はこちらを向いていなかった。それでも、パルスィは見られている感覚を味わったが。
「あんたはここで、何人かを懐柔してるみたいだけど、逆にあんたに敵愾心を持ったヤツらもいるわ。ここにいるのは、味方にした時のありがたみより、敵に回した時の厄介さのほうが何倍も上回るようなヤツらばかりよ。あんたの利になっているとは思えない」
ふう、とマミゾウは深く煙を吐き出した。それがため息のように聞こえて、思わずパルスィは顔を向けた。
マミゾウは笑っていた。呆れや、怒りなどは、その表情のどこにも伺うことはできなかった。
「お前さんが儂を煙たがる気持ちはよく分かる。しかし、慣れることじゃな。いずれ、儂のような連中が何人もここを訪れる事になるよ」
「……形骸化しつつあるとはいえ、地上と地底には不可侵条約があるのよ。そんなに交流が盛んになるはずはない」
「『しつつある』のではなかろう。もうすでに形骸化しておるよ。一人目の例外を許した時点で、な」
マミゾウは身体を反転させ、欄干に背を預けるようにして、続ける。
「条約なんてものはな、どういう理由であれ一回でも例外を通せば、たちどころに意味を失うものよ。あとに残るのは名前だけじゃ。運営者が言い訳に使うためだけにな。儂は間欠泉の異変自体は見とらんが、それによって地上の者が地底に踏み入る事態が発生した時点で、もう不可侵という言葉は何の意味もないものになっておったのじゃろう。それが『博麗の巫女』という最大級の例外であろうとも、な」
パルスィは押し黙る。あの異変以来、何人もの仲間がコソコソと地上に遊びに出たし、鬼に誘われて地底の宴会に顔を出す魔法使いもいた。
マミゾウの言葉はまったく妥当で、もはや不可侵条約など、誰が意識しているのかという有様だ。
「……それでも、旧都に妖怪たちが移り住んだ経緯を思えば、それもそう長くは続かないでしょう」
地上において忌み嫌われた能力、体質。彼らは人間はおろか、妖怪たちからも鼻つまみ者であったが故に、地底へと移り住んでいった。
代表的なのが地霊殿の管理者、さとり妖怪の古明地さとりだ。この地底にあってなお嫌われる彼女の能力は、いくらか交流が復活したところで、地上に上がって受け入れられるようなことは到底ないだろう。それは、他の妖怪たちにしてみても同じことのはずだ。
だが、マミゾウは「どうかな」と言って笑うのだ。
「嫌われるのは、それだけ恐るべき能力を持っているからこそよ。その稀有な力を、地の底で遊ばせておくのはいかにも勿体無い。そう考える輩が現れんとも限るまい?」
そこでマミゾウは言葉を区切り、煙を吐き出して続ける。
「そして、何人もそういう連中が現れたなら、その中に、本当に地底をコントロールしてのける程の大物が出てくる可能性も、また否定できまいよ」
マミゾウは煙管の中身を携帯の灰皿に捨て、横目でパルスィを見つめた。
「そうしたら、お前さんはどうするかね?」
「どうって……」
「暖かな光のなかで生きる者が目を背けたその力を、必要だ、大切だと言ってくれる者が現れた時、お前さんは果たして、それを固辞するかね?」
その言葉を残して、マミゾウはゆっくりと歩み去った。
その背中に投げつけるべき問いの答えは、パルスィの喉から、ついに出ては来なかった。
マミゾウが去り、一人きりの橋の上。パルスィは橋の上流を眺めながら、流れてきた死体にも気づかないほど、思索に耽っていた。
私を必要とする? この、誰かを嫉妬して、誰かの嫉妬心を煽るだけの、卑しい能力を?
遠い遠い記憶の底の、地上の光に思いを馳せる。
そこには、自分たちの手を引いた誰かがいて、自分がいて、良く顔を合わせる仲間たちがいた。
さとりは、きっと太陽の光が苦手だろう。麦わら帽子でも被っているかも知れない。
さとりのペットのお燐とお空は、大はしゃぎで草原を駆けるだろう。
その二人を、釣瓶落としのキスメが追いかけて、土蜘蛛のヤマメは笑って眺めていると思う。
鬼の勇儀は……きっといつもと変わらないだろう。いつものように豪快に笑って、酒をかっ食らっているに違いない。
もしかすると、さとりの妹のこいしも一緒かもしれない。いつの間にかそこにいて、みんなを驚かせるのだ。
いつの間にか、パルスィは自分を抱くような格好で歯噛みしていた。
青空の下の空想は、とても甘やかにパルスィの心を刺し、穴を開けた。
その穴は、きっといつまでも塞がれないだろう。
いいや、自分が気づいていなかっただけで、きっと遥かな昔から、その穴は開いていたのだ。
縄でくくった酒瓶を肩にかけ、厚底草鞋を鳴らしてマミゾウは歩く。
大抵の妖怪たちは休んでいるような時間。地底に踏み入るのに丁度良い刻限だ。つまりは、昼日中という事だが。
目的の橋にたどり着いてみると、あに図らんや、水橋パルスィはすでに欄干に身体を預けて、川を見ていた。
「珍しいのう。こんな時間からお勤めとは」
「別に仕事ってわけじゃないけどね。なんとなく、あんたが今日も来ると思ったから」
「おやおや、ついに酒盛りに付き合ってくれる気になったのかい?」
「そうね、別に付き合ってもいいわよ」
ほう? とマミゾウが片眉を上げる。唇は笑みを形どっていたが、喜びよりも不審が覗く顔つきだった。
「あんたにお礼を言わなきゃいけないと思っていたから、ね」
「礼……とな?」
「でもその前に、この前の問いに答えを返しましょうか」
パルスィは全身でマミゾウに向き直り、宣言するように言葉を紡ぐ。
「もし、誰かが私の手をとって、私の力を必要としたなら……私を求めたなら。
私は、その優しさと前向きさに嫉妬するでしょう。
たとえその手を取ったとしても、それはそいつの力になるためじゃない。そいつが誰かに嫉妬する気持ちを見つけて、その心を盛大に増幅してやって、破滅する瞬間を眺めるため」
マミゾウは、何も言わなかった。ただ、独白のような言葉を聞いていた。
「あんたは、私達がなぜここに来る事を選んだのか、分かる?
私たちはね、誰の思い通りにもなりたくなかったのよ。
嫌われる能力を持っていても、妖怪の本分は人間を襲う事なのだから、それを順守している限りは、地上に居場所を見つけることはできた。
それをしなかったのは、『人間を襲い、人間に恐れられ、英雄に退治される妖怪』という、システムの歯車に組み込まれるのが嫌だったからよ」
パルスィの言葉は、どこかしら慟哭めいていた。
吐き出さなければならなかった言葉を、けれど長年吐き出せずにいた言葉を、今吐き出しているのだ、とでも言うように。
「地上の管理者を嫌っているわけじゃないわ。妖怪と人間の秩序を保って、よくやっていると思う。
けど私たちは、ただあるがままに己であることを、どうしても譲りたくなかった。
そのために、遥か地の底に封じられることさえ受け入れようと思うくらいに」
そこで、パルスィは一度言葉を切って、川に目をやった。
そのまま、マミゾウを振り向かずに続ける。
「……こんなことはね、ずっとずっと、思い出すこともなかった。あまりにも長い間、私たちはここにいたから、きっと、思うままの私でいることを選んだという矜持さえ、錆びついて、忘れてしまっていた」
再び、パルスィがマミゾウに向き直った。
「あんたがいなければ、今も忘れたままだったのでしょう。だから、感謝するのよ」
にやり、と口元を歪めるように笑う。
「私たちを懐柔しようと、自分の思うとおりにしようと、そんなことを企む身の程知らずがいることを、教えてくれてありがとう。お陰で、思い出せたわ。
嫌われ者の矜持を。忌まれ避けられ封じられた己を、なお誇る魂の在り方を」
まっすぐに見つめられて、マミゾウは思わず目をそらした。苦笑を浮かべて、ぽりぽりと頭をかく。
「そんなつもりではなかった……と言ったら、流石に失礼じゃろうな」
そして、降参するようにパッと両手を広げた。
「礼を言われるより、儂の方こそ詫びよう。つまらん企みに巻き込んでしまったな」
詫びの印じゃ、と、マミゾウは担いでいた酒瓶をパルスィの足元に置いた。
「そいじゃ、今日のところは退散するよ。またそのうち来るで、飲み交わすのはその時にまた、な」
パルスィは何も言わなかった。すぐに背を向けたマミゾウには、彼女がどんな表情を浮かべたのかは分からなかった。
「だーから言ったじゃん。あんな連中、手懐けようなんてどだい無理だってさ」
地上の光がにわかに差し込み始めたあたりで、マミゾウにそんな声が届く。
闇をまとうような黒の衣装に、背中には赤と青の歪な羽根。旧知の仲である封獣ぬえが、岩陰の暗闇から這い出てマミゾウの周囲を漂っていた。
「何の話かな? 儂は酒の肴にちぃとばかし声をかけてみたにすぎんよ」
「よく言うよ」
ぬえはニヤニヤと笑い、マミゾウは苦笑を浮かべた。
「あいつらがどこかに所属したりとか、誰かの下についたりとか、できるわけ無いって。そうでなきゃ、地底の封印なんて必要じゃなかったでしょう」
快活に笑ってぬえは言う。彼女もまた、最近まで地底にいた妖怪の一人だ。
彼女がそうであるように、地底の妖怪たちは封じられていた事に対する怒りや恨みという感情は無いようだ。
むしろ、そこまで恐れられ、忌み嫌われる己を誇りに思っている様子さえある。
だが一方で、光ある世界への渇望を捨てることも、またできないようだ。
封獣ぬえが地底に戻ろうとしないように。
水橋パルスィが、嫌われ者の誇りを語りながら、まるで慟哭するかの如き表情を浮かべたように。
「斯くて幻想は回りけり。なるほど、よくできたシステムじゃな」
「? なんの話?」
「ぬえよ。この幻想郷の在り方、実に危なっかしいとは思わんかね?」
頭の傘を少し下ろして、目線を隠すようにしてマミゾウは言う。
「地底の連中が表に出てきて暴れまわれば、地上は大混乱に陥るじゃろう。その煽りをもっとも喰らうのは、力なき人間たちじゃ。事によっては、絶滅寸前までその数を減らすことにもなりかねん」
その有様を想像したのか、ぬえは少しだけ眼を輝かせた。
「月。外の世界。幻想郷の仕組みを崩壊させ、破滅に導きうる存在は数多い。中には、未だ姿を見せんような連中もおるじゃろう。だからこそ、ああいう爆弾を内側に飲み込んでおることが、幻想郷が存続できている理由の一つなのじゃろうな」
「……劇物に触りたくなくて、外側の連中が手出しを控えるってこと?」
マミゾウはどこからか取り出した煙管を咥え、煙をくゆらせた。
「幻想郷の成り立ちを色々と調べてみたが、弾幕決闘のルールが制定されたのは最近のことらしいな。命のやり取りではなく、競いあうための戦いの仕組みを作ることで、妖怪たちの力が衰えるのを防ぐことができるという。
妖怪の力が衰えると、何がまずいのか? それは、外敵に対応する術を失うことじゃ。実際にそういう危険もあったというが」
ぬえはよく知らないが、かつて地上で吸血鬼だかが大暴れして、妖怪たちを瞬く間に征服していったことがあったらしい。
当時は弾幕決闘のルールができる前。幻想郷として隔離された世界では容易に人間を襲えず、妖怪たちはその意義を失ってどんどん弱体化していった。外から来た強大な力を持つ妖怪に、太刀打ちできた者はごくわずかだったという。
「結局のところ、この幻想郷は妖怪たちにとっての楽園であり、安住の地じゃ。何をしてでも守らねばならんと、妖怪たちの誰もが気づいておる。だからこそ、この地は絶対的に安全で、あらゆる脅威から守られた場所であってはならない、ということじゃ」
「ふーん……」
くるり、とぬえはマミゾウの周囲を一周りし、頭上から逆しまに顔を覗き込む。
「内側にある危ないもんを全部消し去ったところで、外側からもっと危ないもんがやってくる可能性は否定できない。だったら放置して、危ないもんの取り扱いに慣れておいた方がいい。つまりはそういうこと?」
ふう、とマミゾウが煙草の煙を吐き出す。もろに顔面に吐きかけられたぬえは嫌そうな顔をして離れた。
「あれだけ意気高く言葉を吐き出した橋姫も、誰もに忌避されるさとり妖怪も、力ばかりで分別のない地獄烏も、弾幕決闘のルールにだけは、はみ出すことをしない。それは、そこを踏み出してしまえば、この地の在り方そのものを否定する事になるからじゃ。ひいては、そこに生きている自分の事すらをも、な」
「……そう考えると、私た――あいつらが管理者のシステムに背を向けることも、そのために地底に封じられることも、全部システムの一環ってこと?」
『システムを否定する者たち』として、システムに組み込まれる。
それは矛盾だった。
種が生き残るために、死を選ぶ個がいるのと同じように。
「自覚的であろうとなかろうと、その矛盾にはみな、どこかで気づいておるのじゃろう。
それを受け入れる事。それが、この幻想郷で生きるための唯一の約束事というわけじゃ」
ぬえは不満そうな表情だった。自分もまたシステムの一部とされたのが、いかにも腹立たしそうだ。
それは、おそらく彼女も同じだろう。だから、あんなにも傷ついたような顔をしたのだ。
人を襲い、恐れられ、その肉を喰らう妖。
その己を譲らず、あるがままでいる事とは、すなわちこの地にて生きるを許されぬという事でもある。
幻想郷に生きるということは、あるべき己である事を諦めるということだった。
愛すべき、誇るべき己であるということは、死ぬということだった。
誰もがそうなのだ。地に封じられし嫌われ者たちでさえも。
その事を悔しいと、悲しいと思うから、きっと忘れていたかったのだろう。
「……少し、羨ましいのう」
その悔しみを、マミゾウは自分の中に見つけることはできなかった。
化けることに慣れすぎて、小賢しい知恵ばかりを身につけ、いつしか、純粋な妖怪としての己を、どこかに置いてきてしまったように思う。
すと、と軽い靴音。ぬえが宙を漂うのをやめて、マミゾウの背後に着地した音だった。
「……人間がいなければ、妖怪は生きられない。なのに、誰に顧みられることもないこんな場所に、私たちはずっといたんだ。
自分がなんなのか、とか、なんの為に生きるのか、なんて、今さらすぎる。馬鹿馬鹿しいよ」
軽く駆け足になって、ぬえはマミゾウを追い越し、振り向いて笑う。
「それよりさ、楽しいことをして、うまく行けば景気よく酒でも呑んで、駄目だったらやけ酒あおって――そんなふうにしてる方がよっぽど健全じゃない?」
いつの間にか俯かせていた顔を上げ、マミゾウはぬえを見やる。ほんの一瞬だけ表情に浮かんだ憂いは、すぐに笑みに変わる。
「妖怪の健全とは、つまり人間の恐怖じゃな。また何か企んでおるのか?」
「当然! せっかくこうして生きているのだから、もっともっと楽しまなくちゃ!」
そのあたりで、地底への洞窟から外に出る。
いつの間にか、太陽はその姿を隠し始めていた。ここからは妖怪の時間だ。
マミゾウは通り抜けた洞窟に目をやる。そこに住む者たちの事を想う。
封じられた者。忌み嫌われた者。それを誇った者。
それでも、生きるために何かを諦めた者。
その矛盾に傷ついた者。
きっと、自分よりも純粋な者。
今度は、もっと上等な酒を用意して行ってみよう。
そうして、また話をしてみよう。何かのためでなく、ただ、彼女のことをもっと知るために。
そんな事を思いながら、マミゾウは洞窟に背を向けて歩き出した。
無論、それが終わればまた橋に戻る。休むための家も、酒を呑むための宴会も、水橋パルスィの常の居所ではない。地底から旧都に至る橋。そこがパルスィの居場所であり、縄張りであった。
そこに先客なぞを見つけてしまえば、美麗な顔立ちに渋面を浮かべるのも無理からぬ事だった。
「よう。お邪魔しとるぞい」
欄干に腰を掛けていた不愉快な先客は、眼鏡の奥の瞳を細めてそう言った。大杯を傾けて中の液体を飲み干すと、ぷはあ、と呼気を吐いた。
「一人寂しい酒盛りのくせに、えらく楽しそうじゃない。妬ましいわね」
「そりゃ、お前さんのお陰で一人じゃなくなったからのう」
二ッ岩マミゾウ、と、先客の名前を思い出す。欄干に腰掛けたまま、一抱えほどもある尻尾をゆらゆらと揺らし、脚をぶらぶらさせる様は今にも転げ落ちそうである。しかし、おそらくパルスィが突き飛ばしたところで、こいつは事も無げに着地してのけるだろう。
パルスィは先客を無視する事にして、反対側の欄干に肘をついた。川の上流をじっと見つめる。それはパルスィの日課だった。
人間たちなどは、ただじっとしている事には一日も、場合によっては数時間程度も耐えられないものらしい。寿命の短い人間にとってみれば、それは無為に思える時間なのだろう。そして大抵の人間は、無駄な時間というものをひどく嫌う。
パルスィにとってはそうではない。流れる川のせせらぎ。岩にぶつかって流れを変える波。水しぶきが岩盤につける雫。何日どころではなく、何百年も見てきた光景。けれど、はるか昔に見飽きたその光景は、パルスィの心を落ち着かせ、安らがせるものでもあった。
「およ? ありゃあ着物の帯じゃのう。誰ぞ洗濯物でも流したかの」
その安らぎを、不躾な声が破壊する。パルスィはいつの間にか消えた渋面を復活させ、声の主を振り返った。
マミゾウはパルスィの隣に歩み寄り、欄干に背を持たれかけて川を見ていた。
「間抜けなやつもいるもんじゃ。しかし、どこに引っかかるでもなくこんなところまで流れてくるとは、なかなか運の良い帯じゃな。いや、悪いのか?」
「……ああいうのは大抵、あとで本体が来るものよ」
ほう? とマミゾウが片眉を上げる。
またやってしまった。橋を通り掛かる奴ならともかく、居座って話を振ってくる奴は、パルスィにしてみれば邪魔者でしかない。
ないのだが、話しかけられるとつい返事をしてしまう。もともと話すことは嫌いではないのだ。話さないことも嫌いではないだけで、誰かがそばにいると、ついつい会話に興じてしまう。それが邪魔に思っている相手であっても。
「おや……なるほどのう。あれが本体か」
マミゾウの言葉に目線を向けると、川の水面から僅かに見える肌の色があった。死体だ。水を吸って膨れ上がり見るも無残な有様だが、慣れているパルスィにとっては、何ら感慨をもたらすものではない。
せいぜい、着物を身につけたままの死体は珍しいなあ、と思う程度である。帯から間を置かず流れてきたを見るに、帯が外れたのもついさっきの事だと思われた。
地上を流れる川は、外の世界まで流れていくものと、地底に流れ行くものに分かれている。だが、あちこちで合流と分離を繰り返しているから、どっちに行き着くかは流れてみないと分からない。もっとも、生き物は結界が邪魔して外の世界にはたどり着けないのだが。
死体であっても、結界を通り抜けることはないはずだ。その場合、水底に沈んで腐り果て、いずれ結界の管理者が掃除するだろう。一方、地底に来た場合、地底湖に流れ着いて火車が回収し、乾燥させた上で灼熱地獄の燃料になる。
「どっちがマシな未来なのやら、分かったもんではないのう」
カラカラとマミゾウは笑い、また酒をあおる。
「もう死んでるんだから、未来も何もないでしょ」
違いない、とマミゾウはまた笑う。そしてまた酒をあおる。
何よりも不愉快なのは、この態度だった。
ケラケラとよく笑い、親しみやすい空気を作りつつも、決して踏み込んだ話を振っては来ない。会話を肴に酒を楽しんでいるという様相を崩さず、適度に言葉を挟んでこちらの発言を引き出す。自然と会話が弾む。
悪くない気分にさせられる。それこそが不愉快なのだ。
飲むかい? とマミゾウが差し出す盃を固辞する。相手のペースにこれ以上付き合うのはゴメンだという意思表示だったが、今更に過ぎる話ではあった。姿を見つけた時に力づくで追い出さなかった時点で、こうなることは自明だったのだ。
マミゾウは盃を引っ込めると「そいじゃ、邪魔したの」と言って、あっさり帰っていった。
最初にあの古狸と会ったのも、大体同じような経緯だった。
パルスィが少し橋を離れている間に、いつの間にか現れて酒を呑んでいた。気さくに声をかけてくるマミゾウをパルスィは無視したが、あれやこれやと話しかけられる内に、いつの間にか色々と話し込んでしまった。どれも他愛もない話ばかりだったが、しばらくするとマミゾウは満足気に帰っていった。
巫女や魔法使いが地底を訪れた間欠泉異変の後、地上と地底を行き交う者がポツポツと現れ始めた。マミゾウはその一人で、旧都でいろんな妖怪と話し込んでいる姿を目撃されていた。地上の妖怪とはだいぶ雰囲気が違うため、最初は地底の新入りかと思われていたらしい。
後に地上の妖怪と――さらに言えば外の世界からやってきた妖怪だと知れて、当初こそ刺客かと警戒されたが、すぐに打ち解けてしまったらしい。そもそも今更刺客を送り込まれる理由がないし、毒気のない笑顔と大物の貫禄を併せ持つ彼女は、偏屈な地底の妖怪たちからも慕われるようになった。
もっとも偏屈さを言うなら、地底の妖怪たちの年季の入りっぷりは伊達ではない。マミゾウを慕う妖怪が現れ出すにつれ、かえって警戒心を強めるものも多く現れだした。パルスィもその一人である。
マミゾウはそう頻繁に現れるわけではなく、神出鬼没であった。ある時は地底湖を眺めて一人酒を呑んでいた。それを見つけたある釣瓶落としは、マミゾウに警戒心を持っていたので隠れて見張っていた、誰と合流するようなこともなく、ひとしきり酒を飲み終えると帰っていったらしい。
またある時は、灼熱地獄の管理者が住む地霊殿から出てきたこともあった。このことは、マミゾウに疑念を抱く者の警戒心をより強くした。当のマミゾウは誰に見送られてもいなかったが、涼しい顔でそのまま地底を後にした。
何らかの企みがあろうと思われたが、厄介なのは、何かしら腹づもりがある事を彼女が隠していないことだった。
彼女を慕うものは、別に彼女に騙されている訳ではないのだ。脛に傷を持たぬ者のない地底では、腹に一物抱えて他者に近づくのはごく普通のことだ。近づかれた者にとって重要なのは、それが自分に不利益をもたらすかどうか、という一点に尽きる。
話してみて、酒を酌み交わしてみて、この人なら自分を悪いようにはしないだろう、と見極める。その信頼を、この地底にあっていくつも得ていることが、あの古狸の何よりも厄介なところだ。
(……まさかと思うけど、すでに地霊殿まで懐柔されてる、なんてことはないでしょうね)
偏屈さも嫌われっぷりも、地底にあって並ぶ者のないあのさとり妖怪を懐柔するなど、どこの何者にもできるとは思えない。
それでもその想像は、パルスィの背筋をいくらか冷やす程度には、うすら寒い想像だった。
「おう、また会ったの」
その声に――正確には声をかけられる前、その姿を見つけた瞬間から――パルスィは頭を抱えた。
「……昨日の今日でもう現れるとは思わなかったわ」
「なあに、愛しのパルスィちゃんに少しでも早く会いたくなってな」
ケタケタと笑い、マミゾウは煙草をくゆらせた。今日は酒瓶を持っていない。
「今日はなんぞ、面白いもんが流れてくるかのう」
欄干に身体を預けてそんなことを言う。昨日パルスィがじっと川を眺めていた位置だ。別にそこを専有の場所としていたわけでもないが、なんとなく、居場所に陣取られたような感覚を覚えた。
パルスィはスタスタと橋の反対側まで歩き、いつものように川の上流に目線を置いた。声を大きくすればマミゾウの位置にも届くだろうが、世間話には少し遠い。
マミゾウは寄ってくることはなく、煙を吐き出しながらパルスィと同じ方向を眺めていた。
「……あんたさあ」
うん? とマミゾウが首を傾げた。返事をしたというより、よく聞こえないから聞き返したという感じだった。
そのままパルスィが黙っていると、マミゾウはガタガタと厚底草鞋を鳴らして歩み寄ってきた。
「どうかしたかい?」
「あんた、なんでこんな所に来るの?」
パルスィはマミゾウの方を向かず、川の流れを見つめながら問いかけた。
「地上に手下や仲間がいっぱいいるんでしょ。話がしたいだけなら、そいつらと話せばいい。手下を増やしたいのなら、地上にまだいくらでも力のある連中がたむろしているでしょう」
マミゾウの表情は、見ていないので分からない。身体はこちらを向いていなかった。それでも、パルスィは見られている感覚を味わったが。
「あんたはここで、何人かを懐柔してるみたいだけど、逆にあんたに敵愾心を持ったヤツらもいるわ。ここにいるのは、味方にした時のありがたみより、敵に回した時の厄介さのほうが何倍も上回るようなヤツらばかりよ。あんたの利になっているとは思えない」
ふう、とマミゾウは深く煙を吐き出した。それがため息のように聞こえて、思わずパルスィは顔を向けた。
マミゾウは笑っていた。呆れや、怒りなどは、その表情のどこにも伺うことはできなかった。
「お前さんが儂を煙たがる気持ちはよく分かる。しかし、慣れることじゃな。いずれ、儂のような連中が何人もここを訪れる事になるよ」
「……形骸化しつつあるとはいえ、地上と地底には不可侵条約があるのよ。そんなに交流が盛んになるはずはない」
「『しつつある』のではなかろう。もうすでに形骸化しておるよ。一人目の例外を許した時点で、な」
マミゾウは身体を反転させ、欄干に背を預けるようにして、続ける。
「条約なんてものはな、どういう理由であれ一回でも例外を通せば、たちどころに意味を失うものよ。あとに残るのは名前だけじゃ。運営者が言い訳に使うためだけにな。儂は間欠泉の異変自体は見とらんが、それによって地上の者が地底に踏み入る事態が発生した時点で、もう不可侵という言葉は何の意味もないものになっておったのじゃろう。それが『博麗の巫女』という最大級の例外であろうとも、な」
パルスィは押し黙る。あの異変以来、何人もの仲間がコソコソと地上に遊びに出たし、鬼に誘われて地底の宴会に顔を出す魔法使いもいた。
マミゾウの言葉はまったく妥当で、もはや不可侵条約など、誰が意識しているのかという有様だ。
「……それでも、旧都に妖怪たちが移り住んだ経緯を思えば、それもそう長くは続かないでしょう」
地上において忌み嫌われた能力、体質。彼らは人間はおろか、妖怪たちからも鼻つまみ者であったが故に、地底へと移り住んでいった。
代表的なのが地霊殿の管理者、さとり妖怪の古明地さとりだ。この地底にあってなお嫌われる彼女の能力は、いくらか交流が復活したところで、地上に上がって受け入れられるようなことは到底ないだろう。それは、他の妖怪たちにしてみても同じことのはずだ。
だが、マミゾウは「どうかな」と言って笑うのだ。
「嫌われるのは、それだけ恐るべき能力を持っているからこそよ。その稀有な力を、地の底で遊ばせておくのはいかにも勿体無い。そう考える輩が現れんとも限るまい?」
そこでマミゾウは言葉を区切り、煙を吐き出して続ける。
「そして、何人もそういう連中が現れたなら、その中に、本当に地底をコントロールしてのける程の大物が出てくる可能性も、また否定できまいよ」
マミゾウは煙管の中身を携帯の灰皿に捨て、横目でパルスィを見つめた。
「そうしたら、お前さんはどうするかね?」
「どうって……」
「暖かな光のなかで生きる者が目を背けたその力を、必要だ、大切だと言ってくれる者が現れた時、お前さんは果たして、それを固辞するかね?」
その言葉を残して、マミゾウはゆっくりと歩み去った。
その背中に投げつけるべき問いの答えは、パルスィの喉から、ついに出ては来なかった。
マミゾウが去り、一人きりの橋の上。パルスィは橋の上流を眺めながら、流れてきた死体にも気づかないほど、思索に耽っていた。
私を必要とする? この、誰かを嫉妬して、誰かの嫉妬心を煽るだけの、卑しい能力を?
遠い遠い記憶の底の、地上の光に思いを馳せる。
そこには、自分たちの手を引いた誰かがいて、自分がいて、良く顔を合わせる仲間たちがいた。
さとりは、きっと太陽の光が苦手だろう。麦わら帽子でも被っているかも知れない。
さとりのペットのお燐とお空は、大はしゃぎで草原を駆けるだろう。
その二人を、釣瓶落としのキスメが追いかけて、土蜘蛛のヤマメは笑って眺めていると思う。
鬼の勇儀は……きっといつもと変わらないだろう。いつものように豪快に笑って、酒をかっ食らっているに違いない。
もしかすると、さとりの妹のこいしも一緒かもしれない。いつの間にかそこにいて、みんなを驚かせるのだ。
いつの間にか、パルスィは自分を抱くような格好で歯噛みしていた。
青空の下の空想は、とても甘やかにパルスィの心を刺し、穴を開けた。
その穴は、きっといつまでも塞がれないだろう。
いいや、自分が気づいていなかっただけで、きっと遥かな昔から、その穴は開いていたのだ。
縄でくくった酒瓶を肩にかけ、厚底草鞋を鳴らしてマミゾウは歩く。
大抵の妖怪たちは休んでいるような時間。地底に踏み入るのに丁度良い刻限だ。つまりは、昼日中という事だが。
目的の橋にたどり着いてみると、あに図らんや、水橋パルスィはすでに欄干に身体を預けて、川を見ていた。
「珍しいのう。こんな時間からお勤めとは」
「別に仕事ってわけじゃないけどね。なんとなく、あんたが今日も来ると思ったから」
「おやおや、ついに酒盛りに付き合ってくれる気になったのかい?」
「そうね、別に付き合ってもいいわよ」
ほう? とマミゾウが片眉を上げる。唇は笑みを形どっていたが、喜びよりも不審が覗く顔つきだった。
「あんたにお礼を言わなきゃいけないと思っていたから、ね」
「礼……とな?」
「でもその前に、この前の問いに答えを返しましょうか」
パルスィは全身でマミゾウに向き直り、宣言するように言葉を紡ぐ。
「もし、誰かが私の手をとって、私の力を必要としたなら……私を求めたなら。
私は、その優しさと前向きさに嫉妬するでしょう。
たとえその手を取ったとしても、それはそいつの力になるためじゃない。そいつが誰かに嫉妬する気持ちを見つけて、その心を盛大に増幅してやって、破滅する瞬間を眺めるため」
マミゾウは、何も言わなかった。ただ、独白のような言葉を聞いていた。
「あんたは、私達がなぜここに来る事を選んだのか、分かる?
私たちはね、誰の思い通りにもなりたくなかったのよ。
嫌われる能力を持っていても、妖怪の本分は人間を襲う事なのだから、それを順守している限りは、地上に居場所を見つけることはできた。
それをしなかったのは、『人間を襲い、人間に恐れられ、英雄に退治される妖怪』という、システムの歯車に組み込まれるのが嫌だったからよ」
パルスィの言葉は、どこかしら慟哭めいていた。
吐き出さなければならなかった言葉を、けれど長年吐き出せずにいた言葉を、今吐き出しているのだ、とでも言うように。
「地上の管理者を嫌っているわけじゃないわ。妖怪と人間の秩序を保って、よくやっていると思う。
けど私たちは、ただあるがままに己であることを、どうしても譲りたくなかった。
そのために、遥か地の底に封じられることさえ受け入れようと思うくらいに」
そこで、パルスィは一度言葉を切って、川に目をやった。
そのまま、マミゾウを振り向かずに続ける。
「……こんなことはね、ずっとずっと、思い出すこともなかった。あまりにも長い間、私たちはここにいたから、きっと、思うままの私でいることを選んだという矜持さえ、錆びついて、忘れてしまっていた」
再び、パルスィがマミゾウに向き直った。
「あんたがいなければ、今も忘れたままだったのでしょう。だから、感謝するのよ」
にやり、と口元を歪めるように笑う。
「私たちを懐柔しようと、自分の思うとおりにしようと、そんなことを企む身の程知らずがいることを、教えてくれてありがとう。お陰で、思い出せたわ。
嫌われ者の矜持を。忌まれ避けられ封じられた己を、なお誇る魂の在り方を」
まっすぐに見つめられて、マミゾウは思わず目をそらした。苦笑を浮かべて、ぽりぽりと頭をかく。
「そんなつもりではなかった……と言ったら、流石に失礼じゃろうな」
そして、降参するようにパッと両手を広げた。
「礼を言われるより、儂の方こそ詫びよう。つまらん企みに巻き込んでしまったな」
詫びの印じゃ、と、マミゾウは担いでいた酒瓶をパルスィの足元に置いた。
「そいじゃ、今日のところは退散するよ。またそのうち来るで、飲み交わすのはその時にまた、な」
パルスィは何も言わなかった。すぐに背を向けたマミゾウには、彼女がどんな表情を浮かべたのかは分からなかった。
「だーから言ったじゃん。あんな連中、手懐けようなんてどだい無理だってさ」
地上の光がにわかに差し込み始めたあたりで、マミゾウにそんな声が届く。
闇をまとうような黒の衣装に、背中には赤と青の歪な羽根。旧知の仲である封獣ぬえが、岩陰の暗闇から這い出てマミゾウの周囲を漂っていた。
「何の話かな? 儂は酒の肴にちぃとばかし声をかけてみたにすぎんよ」
「よく言うよ」
ぬえはニヤニヤと笑い、マミゾウは苦笑を浮かべた。
「あいつらがどこかに所属したりとか、誰かの下についたりとか、できるわけ無いって。そうでなきゃ、地底の封印なんて必要じゃなかったでしょう」
快活に笑ってぬえは言う。彼女もまた、最近まで地底にいた妖怪の一人だ。
彼女がそうであるように、地底の妖怪たちは封じられていた事に対する怒りや恨みという感情は無いようだ。
むしろ、そこまで恐れられ、忌み嫌われる己を誇りに思っている様子さえある。
だが一方で、光ある世界への渇望を捨てることも、またできないようだ。
封獣ぬえが地底に戻ろうとしないように。
水橋パルスィが、嫌われ者の誇りを語りながら、まるで慟哭するかの如き表情を浮かべたように。
「斯くて幻想は回りけり。なるほど、よくできたシステムじゃな」
「? なんの話?」
「ぬえよ。この幻想郷の在り方、実に危なっかしいとは思わんかね?」
頭の傘を少し下ろして、目線を隠すようにしてマミゾウは言う。
「地底の連中が表に出てきて暴れまわれば、地上は大混乱に陥るじゃろう。その煽りをもっとも喰らうのは、力なき人間たちじゃ。事によっては、絶滅寸前までその数を減らすことにもなりかねん」
その有様を想像したのか、ぬえは少しだけ眼を輝かせた。
「月。外の世界。幻想郷の仕組みを崩壊させ、破滅に導きうる存在は数多い。中には、未だ姿を見せんような連中もおるじゃろう。だからこそ、ああいう爆弾を内側に飲み込んでおることが、幻想郷が存続できている理由の一つなのじゃろうな」
「……劇物に触りたくなくて、外側の連中が手出しを控えるってこと?」
マミゾウはどこからか取り出した煙管を咥え、煙をくゆらせた。
「幻想郷の成り立ちを色々と調べてみたが、弾幕決闘のルールが制定されたのは最近のことらしいな。命のやり取りではなく、競いあうための戦いの仕組みを作ることで、妖怪たちの力が衰えるのを防ぐことができるという。
妖怪の力が衰えると、何がまずいのか? それは、外敵に対応する術を失うことじゃ。実際にそういう危険もあったというが」
ぬえはよく知らないが、かつて地上で吸血鬼だかが大暴れして、妖怪たちを瞬く間に征服していったことがあったらしい。
当時は弾幕決闘のルールができる前。幻想郷として隔離された世界では容易に人間を襲えず、妖怪たちはその意義を失ってどんどん弱体化していった。外から来た強大な力を持つ妖怪に、太刀打ちできた者はごくわずかだったという。
「結局のところ、この幻想郷は妖怪たちにとっての楽園であり、安住の地じゃ。何をしてでも守らねばならんと、妖怪たちの誰もが気づいておる。だからこそ、この地は絶対的に安全で、あらゆる脅威から守られた場所であってはならない、ということじゃ」
「ふーん……」
くるり、とぬえはマミゾウの周囲を一周りし、頭上から逆しまに顔を覗き込む。
「内側にある危ないもんを全部消し去ったところで、外側からもっと危ないもんがやってくる可能性は否定できない。だったら放置して、危ないもんの取り扱いに慣れておいた方がいい。つまりはそういうこと?」
ふう、とマミゾウが煙草の煙を吐き出す。もろに顔面に吐きかけられたぬえは嫌そうな顔をして離れた。
「あれだけ意気高く言葉を吐き出した橋姫も、誰もに忌避されるさとり妖怪も、力ばかりで分別のない地獄烏も、弾幕決闘のルールにだけは、はみ出すことをしない。それは、そこを踏み出してしまえば、この地の在り方そのものを否定する事になるからじゃ。ひいては、そこに生きている自分の事すらをも、な」
「……そう考えると、私た――あいつらが管理者のシステムに背を向けることも、そのために地底に封じられることも、全部システムの一環ってこと?」
『システムを否定する者たち』として、システムに組み込まれる。
それは矛盾だった。
種が生き残るために、死を選ぶ個がいるのと同じように。
「自覚的であろうとなかろうと、その矛盾にはみな、どこかで気づいておるのじゃろう。
それを受け入れる事。それが、この幻想郷で生きるための唯一の約束事というわけじゃ」
ぬえは不満そうな表情だった。自分もまたシステムの一部とされたのが、いかにも腹立たしそうだ。
それは、おそらく彼女も同じだろう。だから、あんなにも傷ついたような顔をしたのだ。
人を襲い、恐れられ、その肉を喰らう妖。
その己を譲らず、あるがままでいる事とは、すなわちこの地にて生きるを許されぬという事でもある。
幻想郷に生きるということは、あるべき己である事を諦めるということだった。
愛すべき、誇るべき己であるということは、死ぬということだった。
誰もがそうなのだ。地に封じられし嫌われ者たちでさえも。
その事を悔しいと、悲しいと思うから、きっと忘れていたかったのだろう。
「……少し、羨ましいのう」
その悔しみを、マミゾウは自分の中に見つけることはできなかった。
化けることに慣れすぎて、小賢しい知恵ばかりを身につけ、いつしか、純粋な妖怪としての己を、どこかに置いてきてしまったように思う。
すと、と軽い靴音。ぬえが宙を漂うのをやめて、マミゾウの背後に着地した音だった。
「……人間がいなければ、妖怪は生きられない。なのに、誰に顧みられることもないこんな場所に、私たちはずっといたんだ。
自分がなんなのか、とか、なんの為に生きるのか、なんて、今さらすぎる。馬鹿馬鹿しいよ」
軽く駆け足になって、ぬえはマミゾウを追い越し、振り向いて笑う。
「それよりさ、楽しいことをして、うまく行けば景気よく酒でも呑んで、駄目だったらやけ酒あおって――そんなふうにしてる方がよっぽど健全じゃない?」
いつの間にか俯かせていた顔を上げ、マミゾウはぬえを見やる。ほんの一瞬だけ表情に浮かんだ憂いは、すぐに笑みに変わる。
「妖怪の健全とは、つまり人間の恐怖じゃな。また何か企んでおるのか?」
「当然! せっかくこうして生きているのだから、もっともっと楽しまなくちゃ!」
そのあたりで、地底への洞窟から外に出る。
いつの間にか、太陽はその姿を隠し始めていた。ここからは妖怪の時間だ。
マミゾウは通り抜けた洞窟に目をやる。そこに住む者たちの事を想う。
封じられた者。忌み嫌われた者。それを誇った者。
それでも、生きるために何かを諦めた者。
その矛盾に傷ついた者。
きっと、自分よりも純粋な者。
今度は、もっと上等な酒を用意して行ってみよう。
そうして、また話をしてみよう。何かのためでなく、ただ、彼女のことをもっと知るために。
そんな事を思いながら、マミゾウは洞窟に背を向けて歩き出した。
『人間を遅い、人間に恐れられ、英雄に退治される妖怪』
面白かったです!
マミゾウと橋姫という組み合わせを上手くお話に盛り込んでいました。
幻想郷の仕組みについても楽しく読ませていただきました!
文句なしに満点です!