季節は春先、雪解けを急かす春風が頬を撫でていく。
何もかも緩慢で抑えがちな冬も終わり、人間をはじめどの生物も行動を開始させる時期。
霊夢は遠くに見える雪山を眺めつつ、茶碗を傾ける。
縁側に素足をさらしていてはまだ寒い。けれど我慢できないほどではない。
緑茶から立ち上る湯気も大分薄く見えるようになってきた。
冬は冷たく張りつめた大気が望まなくとも身を引き締めさせたものだが、
やはり気温の上昇は何よりも人に優しい。
寒さへの我慢と縁側で梅を視界に楽しませる風流を天秤にかけ
もう風流の方に傾くほど、寒さは和らいでいた。
お茶菓子など必要ない。
春は自然が香らす優美で軽やかな匂いを楽しめれば、お茶の肴としては十分だ。
冬は冬でお茶の温かさが貴重となる。
冷えた手を茶碗で温める快感があれば、これも十分。
夏は冷茶。
秋は月に虫の鳴声。
季節に合わせて心をかよわせれば、いつでも菓子など節約できる。
我慢せずとも。
お茶をまるで喉に押し込んだ食べ物を流しこむ用途にしか考えていない輩もいる。
けしからん話だ。
あくまでも主体は茶であるというのに。
茶菓子などいらない。
それが必要なのは感性の鈍い享楽人だけであり、
精神世界に住む人間は必然的に必要とするものは減っていく。
霊夢は自分を過大にも過小にも評価していなかったが、こと茶においては一家言があった。
腹がぎゅるぎゅる鳴る音、これだけが上流の雰囲気を壊す不協和音。
ぐっと腹に力を込めたり抜いたりしながら、どうすればこの音を消せるか
姿勢を変えつつ試行錯誤していると
縁側の砂利を踏みしめる音が聞こえてきた。
とりあえず顔も向けずに行為を続ける。
ここにくる客人は多い。
いちいち反応などしていられない。
自分の目の前で誰かが止まる。
足先が見えたので仕方なく頭を上げると
両手に多くの荷物を抱えた早苗が立っていた。
肌つやも血行も良く、第三者がいれば自分とは対照的に見えたことだろう。
緑の巫女は首を軽くかしげてにこっと張り付けたような笑みを浮かべる。
「こんにちは霊夢さん。いい天気ですね!」
霊夢は、はあっとため息だけついてぽりぽりと背中をかく。
「ああ…元気そうね、朝っぱらから…」
「顔色悪いですよ霊夢さん。ちゃんと朝食べました?」
「これが朝ごはんよ…」
そう言ってもう湯気も出なくなった茶碗を傾ける。
早苗は荷物を置くと気の毒そうに頬に手を当てる。
「そんなことだろうと思いました。霊夢さんは冬を越すために兵糧を蓄えていますが、
この春先が、食料も尽きかけ、餓死寸前まで追いつめられる時期ですもんね。お辛いでしょう」
「私は熊か。別に、朝はお腹空かないだけよ」
づけづけと言いたいことを言う新参者の山の巫女、早苗。
最近では異変に携わった数も増え、異変解決のレギュラーと見えなくもないが、
自分から見ればまだまだルーキーだ。
まったく先輩への礼儀というのを知らない。
まあ礼儀が分かる人間や妖怪などこの世界にはいやしないけど。
「じゃあこれいりませんか?」
早苗がしゅるしゅると荷物の帯を解く。
白米や酒や煎餅といった飲食物が大量に詰められている。
霊夢はあっけにとられて荷物と早苗の顔を見比べた。
早苗はにこにこ笑っている。
霊夢は荷物を指さし自分の顔を指さし首をかしげる。
早苗はこくこくと頷く。
しばし呆然としていた霊夢の目が潤んできた。
「霊夢さんお茶こぼれてます。」
動揺のあまりかたかたと両腕が震え、茶碗の中身がびちゃびちゃとこぼれている。
しかしそんなこと意に介さない。
まったくもったいなくない。
もともとこのお茶の葉はもう8回は出した出枯らし中の出枯らし。
わずかな味も見極められるようになったこの霊夢の舌をもってしてもお湯にしか感じられない無色透明の液体。
豊かな緑色を探して目を凝らしても、誰がどうみても白湯だ。
「え?まじに?」
「はい。差し上げます。」
「お返しとか何もできないけど?」
「必要ないですよ。困ったときはお互い様です。」
「さ、早苗…」
感極まって立ち上がり、履物を履くこともことも忘れ、素足で砂利を踏みつけジャンプして早苗に飛びつく。
「ありがとう!ありがとお~!」
胸に顔をうずめてくる霊夢の頭をよしよしと撫でる早苗。
霊夢は泣きべそをかいていた。
「うう、お茶菓子欲しかったのぉ…お茶だけじゃ口の中が苦くてぇ…」
「苦くもないですよね?これ白湯じゃないですか」
早苗を無視して顔を巫女服にすりつける霊夢。
「あんた…なんていい奴なの…これほどの贈り物を…」
「いいんですよ。うちにはまだたっぷりありますし、余ってるものですから。」
霊夢が身体を離して早苗の肩をつかむ。
「え?余り?あんたんとこまだまだ食料あるの?」
「ええ。いろんな人が持ってきてくれますよ。信仰心の強い方が多いですね。」
「…なんでうちにはこないのよ…」
「信仰が足りないんです。さっきお賽銭箱を見てきましたが、全然掃除してないですよね?
見た目は大きいですよ。
汚れている場所はありがたみに欠けるんです。
外の世界では人は見た目が十割とも言います。
信仰も同じです。」
「掃除?」
ちゃんとしてるつもりだけれども。
もっとも掃除にもエネルギーを使う。
養分の足りぬ冬に熱を奪う極寒の屋外で掃除をし続けていれば、比喩でもなんでもなく気が遠くなる。
なるべく手早く片付けてしまおうとなおざりにはなっていたかもしれない。
「そして何より広告が足りません。
どれほど信仰が尊いか、そしてこの神社がどれほど信仰と密接に結びついているか知らせるんです。」
「ううん…面倒…というか、どうするのそんなの?ノウハウが足りないわ。」
「簡単なものからで構わないんです。
里でお祭りがあった時には、差し入れを大量にするとか。
まず有力者にターゲットを絞って狭い空間で集中的に信仰の講釈を垂れるとか。
集団の指導者に理解を受けられれば、その後は容易いものです。」
「差し入れがまず先立つものとしてないけど…はあ…買収と洗脳ねぇ…」
「最初は大変かもしれませんが、後で何倍にもなって返ってきますから大丈夫ですよ。」
霊夢は再び縁側に腰を下ろした。
「そういう器用なことはできないわよ。やっぱり人それぞれタイプがあるしね。」
「器用…」
その時、早苗の表情に微妙な変化が見られたような気がした。
さきほどからリラックスしているように見えた早苗からは感じなかった、
腑に落ちないような違和感を隠しきれない表情。
しかし、霊夢の言葉に対して不満があるという風ではない。
あくまで予想しなかった会話の流れの中で、魚の骨が喉に引っかかるように
心のどこかにそのワードが引っかかったようだった。
「まあいいや。あ、そういえば今日宴会あるのは知ってる?」
「知ってますよ。」
「あんたも来るんでしょ?酒も持ってきてくれたみたいだし。」
「今日は遠慮しておきます。神奈子様も諏訪子様も昨日から飲み明かして酔いつぶれていますし
今日は出席できないと思うんです。
なので今日は…」
「え?そんなのあんた一人でくればいいじゃん」
「え?」
「え?」
霊夢はなんかおかしいこと言った?という感じにもらったばかりの茶菓子を口に含んでもごもご話している。
早苗はじっと霊夢の膝あたりを見つめて、微動だにしない。
霊夢は早苗と会った時から感じたことのない奇妙な雰囲気を感じた。
特に変なことを言っているわけではない。
早苗は宴会でもわりと誰とでもうまく合わせられるし、神奈子や諏訪子と一緒にいつつ、酒をつぐなどの気配りもでき
正直、常識がぶっとんでいる客どもの中では重宝する。
別に一人になるときもあった気がする。
なにより散らかったままの神社の片づけをしてから帰る奴らなど絶滅危惧種で、早苗はその貴重な役割の一端を担っている。
宴会前の神社の状態に戻すのに、一人でも協力者が増えると段違いに迅速になる。
そしてこんな差し入れを持ってくる奴はそうそういない。
神社の宴会は何者も拒まないが、何者も歓迎しているわけではない。
そのなかで数少ないどちらかと言えば歓迎カテゴリーに入る人間である。
まあ早苗も傲慢で大胆で不遜で常識に欠けたメルヘンであることに変わりはないが、
相対的に見ると恐ろしいことにこれでもマシな部類だ。
別に遠慮することなどないが、遠慮などする人間だろうか?
早苗の顔に浮かんだ戸惑いにも似た狼狽の色は一瞬で消えうせ、
また信仰営業をする際に浮かべるようなわざとらしい笑顔を浮かべた。
「ふふ…寂しいんですか?霊夢さん。霊夢さんが出てほしいなら出てあげてもいいですよ?」
「別に無理にはいいけど」
別に腐るほど勝手に押し寄せる客人をさらに増やそうとする理由などない。
今でも相手にしきれないほど多くの客人に話しかけられ、酒を楽しむ本来の目的さえも霞んでしまうほどだ。
手伝いは確かに助かるが、いなくても差支えもないし、特にこいつと話したいこともない。
実際本心からそうだ。
早苗は笑顔を浮かべたままくるりと背をむけた。
「では今日はこれで。その差し入れ、生ものは早めに食べて下さいね。」
「はいはい。言われなくても。恩にきるわよ。」
早苗はそのまま軽やかに機嫌良さそうな足取りで去っていく。
おや?と思った。
その後ろ姿を見ながら、霊夢はあまりお目にかかったことのない姿を見ているような気がした。
と言っても異変の時に感じるような極端な気温の変化や霧や花の増加などといったものではない。
ここの住人は決してそうはしないような振る舞い。
つまり自然体に振る舞わないこと。
そんなこと言うまでもないというふうに、まさに傍若無人の根無し草な生き方を実行するここの住人にはまず見られない
いや、一度も見たことのない姿だ。
今までここの住人どころか早苗からも一度も見たことのない、不自然な姿。
まるで道化。
早苗は今、機嫌が良いように演技をしていた。
なぜ?
そんなこと知らない。
誰に?
無論、私に。他に誰もいない。
この間の抜けた気楽な世界とは調和しない歪なものを見た気がして、
霊夢は早苗の背中が見えなくなるまで、目を離せなかった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「ただいま」
誰にも聞こえないように、意識的に声を潜めて早苗は言った。
神奈子や諏訪子の耳に入って色々と話しかけられるのも、今は面倒だった。
履物を脱いで、いそいそと奥のプライベートルームに急ぐ。
早歩きで、余裕のない足取りで部屋に入るとすぐに襖を閉める。
ここまで相当急いできたせいで息が整わない。
不自然なところがなかったか、脳内でほんの少し過去の会話を再生させてみる。
思い出されるのは、霊夢の来なくても別にいいという宣言。
霊夢は誰にでも言うのだろう。
誰のことも憎まず、誰の贔屓もしない。
ずっと一緒に異変を解決してきた白黒の魔法使いも
最近の異変でよく神社に入り浸るようになった妖怪も
霊夢はほとんど扱いに差を設けない。
ある意味究極の平等主義とも言える。
かといって人間味がないわけではない。
誰よりも自由に振る舞い、何にも縛られず、やりたいことをして
言いたいことを言って、聞きたいことは聞いて、腹が立ったら批難する。
そこにはなんの打算も考えもない。
今後の人間関係や信頼が崩れるかどうかなんてことは頭にない。
ただ今がどうであるかが霊夢の唯一の基準。
合理的にして退廃的な自由人。
巫女としての責務はあるのだろうが、それすらも感じさせない
底抜けの自由を感じる。
きっと自分は今まで感じたことのない、そしてこれからも感じることはないであろう
絶対的自由を持って彼女は生きている。
羨ましくてしょうがない。
巫女という立場は似ている。
おそらくこちらの世界で霊夢の立場と一番近いのは自分だろう。
しかし、あまりにも違う。
心の中、考え方、振る舞い。
きっと霊夢は悩んでなどいないのだろう。
自分が喋ったことを後悔したり反省したりすることもなく
気ままに、どこまでも勝手に…誰に気をつかうこともなく。
どこまでも自分で規制を設けて一挙手まで意識して生きている自分とは違う生物にしか見えない。
今日だってそうだ。
差し入れを持っていったのも、
それがないと口実がないから。
ただ行きたかっただけ。
それを正直に言うこともできない。
結局最後まで言えなかった。
宴会にだってそうだ。
余計なちゃちゃを入れず、出席すれば良かった。
けれど、一人で行くのには、いまだに勇気が足りない。
一人で行くこと自体は問題ないはずなのに。
一人と強く意識してしまうこと。
これは絶対の禁忌だった。
宴会に行けばそこはいつもとはまるで違う世界。
人口密度は低く、ほとんど妖怪同士でも偶然に出会うことは少ないこの世界において
宴会ではどこから集まってきたのかというほど多くの人妖が集まる。
日常ではまず見られないけたたましい声。
堕落の極みのようにも見える宴会を否定したいわけではない。
むしろ自分も参加して和気藹々と自然に溶け込みたいという願望は持っている。
けれど、自分はそこにふさわしくないともう一人の自分が規制をかける。
そして、宴会のざわめき、大声、叫び声、笑い声が、まるで関係ない違う世界の声を思い出させる。
こちらの世界に来て、最初に宴会に参加するのも大変だった。
神奈子や諏訪子がいなくてはまず無理だったろう。
数え切れないほど宴会に参加して今では大分慣れてきた。
大声も出すし、人の悪口、こけおろしも何の躊躇もなく口にする。
すっとんきょうなことを喋り、下らぬ相手の話にけらけら笑う。
誰がどう見ても傍若無人な巫女。
貞淑なんて言葉からはきっと間逆に見えているだろう。
きっと霊夢以上に。
けれど決定的に違う。私だけは知っている。
目を瞑ると声無き声が聞こえてきた。
すべては過去に聞こえてきた有象無象の雑音。
意味を持たない群集の呻き声。
それはこちらの世界の妖怪や人間の宴会のざわめきだった。
しかし、まったく違う世界の声が段々と混じってくる。
意味が聞き取れないという意味では同じでも、その混じってきた声は、
カラフルな色にどす黒いインクを流し込むかのように不要で不愉快なものだった。
ー駄目だってばー
己で強く封じ込めようとする。
ー余計なことは考えないのー考えないー考えないー
どうにかこうにか暗示をかけようとするが、膨れ上がる思考は己の意思をまったく汲み取ろうとせず、
無秩序に心を蝕んでいく。
おぼろげだった霧が段々と形をなしていく感覚。
そのまったく望んではいない感覚に思わずため息が漏れた。
ーああー良くないーこれはーもうやだー
眠ることもなしに、望むこともなしに、早苗の意識は沈み込んでいった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
どっと笑い声が聞こえる。
びくりと身体を震わせる。
教室に入ろうとする足が止まる。
あと10メートル。
その距離が永遠のように感じられる。
決して自分を受け入れてくれない世界との断絶の距離だ。
肩も足も、落ち着かせようとするほど震えてくる。
こんな状況では余計に彼らを刺激してしまう。
ただいつも通りに
変わらずにいけばいい。
どうしてこんなことを考えているのだろう。
誰もこんなことを考えながら教室に入らない。
そんなことを考える必要はないのに。
自分だけがこの困難な精神的ハードルをやっとのことで越えなければ入ることができない。
時計に目をやればもうチャイムが鳴る時間。
もう先延ばしにはできない。
早鐘のように打つ心臓の鼓動を意識しないように心に働きかけながら
教室の扉を開ける。
外まで漏れてくる大音量のわめき声にも似た話し声が
明らかに分かる程度に小さくなり、多くの目が自分に集中する。
必死に冷静を装うが、これほど無駄な努力もない。
いつもの顔色で席につこうとするが、これほど熱くなる顔は学校だけだ。
嘲笑にも似た笑い声を、自分に対してではないと言い聞かせ窓際の自分の席へと向かう。
そして、椅子をチェックする。
同じ轍は踏みたくない。
何もない。予想していた望ましくない物体はそこにはなかった。
昨日の激痛が思い出され、腰に手を当てた。
刺さったのは尻だったが
あれは想像以上の苦痛だった。
本来は掲示板などに紙を留める役割の…画鋲。
今日はその忌々しいものはなく、机を見ても落書きなどはない。
ほんの少し安堵して、椅子に腰を掛けてバックを下ろす。
嫌がらせなどというのは反応しなければやってる側は飽きるものだ。
とにかく、自分が苦しんでいる姿を見せてはいけない。
暴力に快感を覚えるサディスティックな人間は、それを見たくてしょうがないのだ。
決して、決して表情を崩さないように心掛けてきた。
ついに乗り切ったのかもしれない。
高校生という時代は健康な肉体を持て余し、常に愉快になれる事象にアンテナを巡らせ
見逃しはしない。
少しでも退屈だと思えばあっけないほど波が引くのは早い。
彼らはついに諦めた。
ついにこの苦痛からも解放される。
とりあえず一限の教科書を用意しなくてはならない。
机の中に手を入れた瞬間、ひやりという感触があった。
ほんの少しの時間をはさんでやってくるちじみ上がるような激痛。
「いっ…つ」
思わず声を上げてしまう。
反射的に手を引くと手の先からぱたぱたと鮮血が床に飛び散る。
右手の人差し指と中指に鋭利な刃物で切ったようにぱっくり裂け目ができ、
どくどくと出血していた。
なんの構えも警戒もなく勢いよく手をいれてしまったので被害も大きくなった。
まさか机のなかに刃物をセットしていようとは夢にも思わなかった。
ご丁寧にテープで、表面と平行になるようにがっちり固定されている。
血の量に狼狽えて思わず立ち上がった。
その時、ななめ2メートルほどのところにいた男子学生がガッツポーズをして立ち上がった。
「っし!」
まるでサッカーのシュートを入れた時のように喜びを全身に表す男子。
教室を笑いが包んだ。
その学生の首に手を回す学生が興奮しつつ言う。
「ほら!言ったろ?気づかなかったじゃん!」
「ばっか。入れたのは俺だっつの!」
取り巻きらしき女子たちもけらけらと笑う。
「ちょっと~男子ぃ~かーわーい~そ~お~」
「はあ?昨日より過激にしろっつったのおめえだろ?」
「え~しらなーい」
仲良さそうにじゃれ合う男女混合グループ。
ハンカチを患部に当てる。
みるみるうちに赤く染まるハンカチを見て、恐怖を感じて教室を飛び出した。
水道に向かって一直線に駆け出す。
右手を差し出す。
右手から滴る血が排水溝に向かって小さく細い赤い川を作って流れていく。
蛇口をひねり、水に当てても痛みはまったく引かず、
冷たさをもってしても、まだ痛みの熱さが勝っている。
何分そうしていたろう。本当はさっさと止血するべきだったのに。
気が動転して冷静な判断が下せなかった。
しばらくして水を止め、再びハンカチで右手を包んだ。
そしてポケットに入れていた絆創膏を傷口に張り付けた。
傷は大きく、一枚では塞げなかったのでそれぞれ三枚ずつ使った。
とりあえずさっきのような出血は止まった。
まだ心臓は動悸を打っている。
気持ち悪いほど早く、不気味に。
このまま不整脈でも起こして倒れてしまいそうなほど気分が悪かった。
そのままふらふらと教室に向かって歩き、教室に入る。
既にホームルームは始まっていた。
担任の教師がねっとりとした目でじろりとにらみつけてきた。
「おい。遅刻か?」
「え?いえ…」
なんと答えればいいか迷っていると
一人の女子が手を挙げる。
「せんせー。早苗さんは遅刻じゃないでーす。ほら鞄あるでしょ?」
女子が早苗の机を指差す。
「そうか。じゃあトイレか?」
答えに窮していると、無視されたと思ったのか教師は苛立ちを含んだ声を出した。
「なんで始まる前に行っておかない?」
「は、はいすみません…」
青白い顔をしつつ席へ向かう。
回りからはあけっぴろげにはできない笑いを押し殺した声なき声が聞こえてくる。
席に着き、机を眺めた。
まだ朝。
果てしなく続く一日はまだ始まったばかりだ。
絶望のあまりめまいすら覚える。
まるでもう一つ心臓ができたかのようにズキズキと鈍い痛みがする右手を押さえながら
雑音にしか聞こえない担任の話にただ耳を傾けるふりをしていた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
授業中も、話に集中などできない。
これから起こるかもしれない不愉快な惨事を想像しては胃を痛めるばかり。
あと10分。
そう、休み時間まで。
休み時間までカウントダウンが始まる時間帯になると生きた心地もない。
誰もが早く授業が終わり友人達と束の間の休息を過ごせることを待っている。
けれど私はまったく逆。
授業こそが束の間の休息。
何が起こるか予想できない、そして大抵は予想より酷いことが起こる休み時間に対して、なんと気楽なことか。
あと5分。
心臓が早鐘を打つ。
まるで審判の時が近づくように、試験の結果を待つ学生のように、近づくその時。
授業終了の鐘が鳴る。
いつ聞いても獣たちを野放しにする合図にしか聞こえない、地獄の鈴の音。
しかも、ここが学校で最も不快な時間帯。
昼休み。
この高校は昼休みが1時間もある。
前は40分だったというのに、校長がのたまう自主性を育み、ゆとりのある生活を送らせるために必要だとかいう理由で
有難迷惑では済まない狂気の変更がなされた。
当然部活や帰宅の時間もその分遅らせる。
不思議なものでこれほどの傷を指先に負ったばかりなのに、ほとんど痛みを感じない。
痛覚よりも優先されるものはこの世には案外多い。
教師が去るやいなや教室は動物園に早変わりする。
どうしてそれほど大きな声を出す必要があるのかというほど、狭い教室で大声が反響する。
本当に愉快なのか、愉快じゃないのに、必死に人生を楽しんでいることをアピールしているのか。
それとも将来の不安を吹き飛ばすためか
暗黙のお互いの結束を確認するためか。
自分が標的にされる行為は、彼らが感じている以上に深層の心理が関係していそうだ。
しかし、どんな理由だろうが関係ない。
彼らに理由があろうとなかろうと、良心の呵責があろうとなかろうと、自分が害を受けている事実は変わらない。
ただ、自分はそこに不幸にもめぐり合わせたに過ぎない。
早苗は自分のバッグを持ってトイレに向かった。
バッグを置いていくと何をされるか分からない。
実際バッグをズタズタに引き裂かれてからまだ10日も経っていない。
少ないお小遣いでは足りず、母にお金をねだるのは非常に大変だった。
もうこれ以上お金がかかる被害は避けたい。
外靴も何もされないようビニールに包んでバッグに入れてある。
小走りで荷物を抱えてトイレへ急ぐ姿を晒しながら、
今の自分を見て違うクラスの人間も教師も自分を笑い蔑んでいるように感じていた。
毎日定位置の個室に入る。
鞄を扉についている鞄かけのフックにかけて蓋をしたままの便座に座る。
腕時計をチェックし、休み時間が始まって90秒が経ったことを確認する。
戻るのにベストな時間は分かっている。
休み時間の終わる1分前。
ここから教室までは30秒だ。
席に着いたとしても彼らも残り30秒では何もできない。
昨日初めて考え付いた方法だった。
気付いてみれば単純だが、意外と考えない。
蓋をした便座に腰を下ろして一息つく。
学校で一番落ち着く場所でもある。
時間制限付きだが。
その時、がやがやとかん高い声が複数聞こえてきた。
遠慮なくトイレの扉を開ける音がする。
声を聞き分けるに5人は居そうだ。
クラスの中でも最も力のあるグループだということが暗然としれているグループ。
早苗にとっては恐怖と不愉快がないまぜになった吐き気を催す存在だった。
何度被害にあったか知れない。
彼女達の前ではまるで息を吸うのも許可がいるように感じ、
自分の存在自体が認められていないとひしひしと伝わってきた。
この個室に入っているのが自分だとは分からないはずだ。
他のクラスの生徒もいるし、閉じているドアにひとつひとつ声をかけることもできない。
ここで息を殺しているだけでいい。
しかし、逃げ場を失った獲物のように、動悸はおさまってくれなかった。
「はあー、うっざ」
歩くことさえ面倒だと言わんばかりの怠惰な口調の声。
これはリーダー格の取り巻きの一人。
いつもちゃらちゃらと鞄や携帯に山ほどのキーホルダーをつけている。
音だけで誰がいるのか分かるほど金属が触れ合う音がする。
どぎつい化粧は明らかに学生の度を越しているように思われたが、
それを指摘する教師もいなかった。
教師はいつも早苗に対してはあれこれと小言を言うが、
このグループの人間に対して何か言っている姿は見たことがない。
生徒指導とは名ばかりで、誰かを叱っている姿を他の教師に見せているだけでいいのだろうか。
反抗してきそうな人間は叱ることが面倒なのか、それとも怖いのか。
それにしてもこの女子はいつも うざい とか 眠い とかしか言わない。
会話が成り立っているのを見たことがない。
「ほら、くみなよ」
良く澄んだ声が響いた。リーダー格の女子の声。
くみなよ という言葉が頭で変換できなかった。
組む、汲む、酌む?
何だろう。トイレに入ってからの第一声。
既に意思疎通は済んでいたのか、聞きかえす声も聞こえなかった。
何か物音が聞こえる。
良く耳にする蛇口から放たれる水流音。
ドボドボと容器に水を入れる際の独特な音が聞こえた。
嫌な予感がした。
ほとんど間をおかずに上空から降り注ぐ水、シャワーというにはあまりに容赦のない冷たさに全身が襲われた。
外から響く笑い声と早鐘を打つ心臓。
身体は緊張と恐怖のために強張り、凍てつくような寒さにただ呆然と立ち尽くすことしかできなかった。
なんて奴らだろう。
人間らしい感情をまったく感じさせない手際の良さだった。
まだ彼女達が入ってきてから1分と経っていない。
ほんの少しでもこの蛮行に躊躇するような気持ちは沸き起こらないのだろうか。
なぜ自分がいる場所が分かったのか。
頭の中の自分が疑問を投げかける。
最初から自分がここに来ることを見通されていたのだろう。
そしてこの早さでトイレに来る生徒もあまりいない。
後を素早くつけ、ドアの閉められた個室を狙えば必中ということだ。
ひとしきりの笑い声が響いた後、あっけないほどすぐに女子の一団はトイレから出て行った。
他の生徒が来る前に退散するのだろう。
冷静な残酷さを感じさせた。
前髪からぽたぽたと垂れる水滴がスカートの上に規則的に落ちる。
しばらくすると水滴の落ちる早さは段々と緩慢になっていく。
早苗はびしょぬれになったブラウスを触ってみる。
少し押すだけで指先に水が滲んでくる。
とても休み時間中に乾きそうもない。
水分でふとももにぴったりと張り付いたスカートを眺める。
午後からどうすればいいのだろう。
適当な解決策は見つからなかった。
恐怖と悔しさで感情が高ぶり、冷静な思考を許してくれなかった。
とにかく落ち着かなくてはならない。
息苦しい。指先が異常に冷たい。水に濡れたことを考えても過度に冷えてまるで氷のように感覚がない。
心臓の動悸もいくらなんでも速すぎる。
パニックになりかけている自分をどうにか抑えつけようと深呼吸を繰り返す。
10分ほどはそうしていただろうか。
まだ身体の変調はあったが、少しは落ち着いてきた。
幸いバックの中にタオルが入っていたので、どうにか全身の水分ををふき取ろうとする。
頭からくるぶしまで、本来しなくていいはずの屈辱的な動作を繰り返しながら、
段々と濡れて吸収率が下がってきたタオルと自分の姿を重ねていた。
連日の悪意に少しずつ身体を蝕まれている。
心はとっくに毒に侵されている。
心の不調は遠からず身体にも及ぶ。
最近はまるで老人のように身体のあちらこちらに問題を抱えていた。
食欲はなく、夜は眠れず、耳鳴りがして、めまいがする。
外に違う生徒が入ってきた。
「ねえ。ここなんか濡れてない?」
「ほんとだ。ねえ、さっきバシャって音しなかった?」
「したした」
外の女生徒達は何か感じ取ったのだろうか。それからは当たり障りのない会話をしていた。
触らぬ神に祟りなしといったふうに。
ここも安住の場所じゃなかった。
きっともう落ち着ける場所なんてない。校内のどこにも。
明日からどうすればいい?
どこへ行けばいい?
どう振舞えばいい?
きっとどうしても駄目だろう。
彼らはロックオンしたミサイルのように、身も心も粉砕するまで追跡をやめないような気がした。
下の人間を見て疎外し、溜飲を下げる。
人間社会ならどこでも見られる光景にしても、彼らのそれには強い非人間性を感じた。
一言で言えば軽すぎる。
他者を攻撃する意思も、行動も、関心も。
まるで日課の洗濯のように当然のこととして実行していく冷徹さには悪寒を感じずにはいられなかった。
ほとんど昼休みすべてを使ってタオルで全身を拭いた。
意外と乾いたように見える。
もう休み時間が終わる2分前。そろそろ出なくてはいけない。
トイレの扉を開けて、鏡で自分の姿を見る。
感覚通り、思っていたより乾いている。けれど顔が濡れていた。
服に気をとられ、素肌がなおざりになっていたのかと、ごしごしと顔をこする。
再び鏡を見ると目が充血していたことに気づく。
濡れたのはさっきバケツの水を被った時じゃない。
あの時に顔は一番最初にふいたはず。
ー泣いてたんだー
だが時間がない。必死に引きつった顔を笑顔にする練習をして、足早に教室に向かった。
午後の時間は午前ほど大変ではない。
不思議なものでいつも午前中にあらかたの日課は終わってしまうかのように、穏やかだ。
午後の授業は誰でも眠くなるが、それは彼らも同じ。
午後は休み時間も寝ている人が増える。
そして意識も放課後や部活動に向かうのかもしれない。
早苗への意識は希薄になるようだった。
攻撃がないわけではないが、どこか手ぬるい。
椅子を蹴ったり足掛け払いをしたり、いまいち計画性がない腹いせにも似た嫌がらせだ。
もうこの程度ではあまり心が動かなくなっていた。
ただただ攻撃がエスカレートしないことを祈りつつ、下校までの時間を耐えていればいい。
そして、そうした時間は午前に比べれば早く過ぎる。
昼から下校までの時間は割りとすぐだ。いつものことながら。
当然部活にも入っていないので、そのまま最後まで画鋲等の類に警戒を怠らずに校門を後にする。
校外に出た時の喜びはきっと他の生徒の誰よりも大きいと思う。
開放感と安堵感が身体を満たしていく。
しかし、それも一時のことで、意識は学校へと向かう。
学校に居る時は早く帰りたくてしょうがないのに、帰ると学校のことばかり考えるのだから不思議なものだ。
家に着くとすぐにベッドにダイブする。
充実していた中学時代は、帰ってもすぐ遊びに行くか、勉強をするかといった感じにすぐ行動を起こしていた。
夜も遅くまで友達とメールして寝るのがもったいないという感触を強く持っていた。
睡眠時間は5時間程度だっただろうか。
それが今では、帰ってくるとすぐに寝る。
夜まで2、3時間。
起きて夕食とお風呂。
そして夜はいつも8時間くらい。
結局10時間以上寝ている。
それでも疲れは全然取れない。
ストレスを感じていると多くの睡眠が必要になると聞いてはいたが、予想以上だった。
高校…
どこで踏み外したのかいまいち分からない。
入学すぐではなかった気がする。
けれど友達の輪に入るのが少し遅れた自分に、からかい半分に話しかけてきた連中。
彼女達に既に悪意はあった気がする。
あの力のある女子グループの5人。
最初に声をかけられたのが彼女達だったのが運の尽きだった気がする。
「巫女さんなの?」
「家、神社でしょ?」
「じゃあずっと処女でなきゃいけないの?」
「つか、ねえその髪飾り何?蛙と蛇?マジうけるんですけど」
「しかも手作り?うわー器用…」
「はは、ありえないっしょー、蛙…くくく…」
「早苗さん、中学市内じゃないよね?なんかそういうもの買う風習ある土地なの?」
ほとんど自分が口を挟むことなく勝手に繰り広げられる会話。
嫌な予感がしていた。
決して中学の友達ように友好的にはなれないという匂い。
予感は的中した。
いや、的中したさらに先まで酷いことが起きた。
なんでここまで悪化したのか。
早苗はベッドに転がる。
ーいいよーどうでもいいーそんなのー
考えたところで詮無いこと。
意識的に思考を切断して早苗は目を閉じた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
カチコチカチコチ
規則的に響く機械の律動が静寂な部屋のただ一つの音。
やっぱりデジタル時計を買えば良かった。
部屋に時計がない、と意識したのは高校生になったばかりの時。
今まで携帯でチェックしていたから問題なかったが
勉強する際には目を上げてすぐに確認できる時計はやはり必要だと購入したものだ。
少しでも音がすればこの音はすぐにかき消される。
パトカーや救急車のみならず、乗用車が前の道路を通るだけでもまったく聞こえない。
布の擦れる音ですらいい勝負だ。
音の世界が遠ざかればとたんに存在感を示してくるこのリズム。
単調で面白味のない色彩のない音。
この音は…最近まで夜寝る時にうるさいだけの音だったが、今では違う意味合いが添加されていた。
行動への催促。
望ましくない義務の近づく足音。
止めようと思っても決して止まらず、早く進んで欲しい時にもまるで意に介さずペースを崩さない。
あまりに安定しすぎたこれが、最近は憎々しかった。
階下から聞こえる包丁を板に叩く音は既に20分前。
そろそろか…と思っていると案の定階段を上がってくる音。
鼓動が早くなる。ぎゅっと毛布を握りしめて頭まで引き上げる。
コンコン
部屋の扉を叩くノック音がこれほど嫌だと思うだなんて、昔の自分は想像できなかった。
「ちょっと!いつまで寝てるの?」
数えきれない程聞いてきた近親者の声。
いつもは精神的やすらぎを与えてくれる母の声も
今では胃液を逆流させる不愉快な不協和音。
「入るわよ」
なんの承諾もなしに入ってくる母親。
どうせ入ってくるのだから、ノックなど何の意味もない。
「どうしたの?早く起きないと間に合わないわよ?」
横向きで母親に背を向ける態勢を崩さず答える。
「頭…痛い…」
「また?昨日も言ってたわよね?大丈夫なの?今日は病院いったら?」
「だい…じょぶ…寝てれば、治りそう」
「そう?じゃあ今日もお休みの電話入れる?」
「うん」
「分かったわ。早く治しなさいね。」
それだけ言うと部屋から出ていく母。
話が早くそれほど食い下がって質問してくることもないどちらかというと淡泊な母が
こういう時はありがたかった。
階段を降りる音が聞こえなくなったあたりでゆっくりと身体を起こす。
そこで小さくため息をつく。
休めるのも今日までだろう。さすがに三日連続で休むのはまずい。
出ていったら、いつもより酷い目に遭うかもしれない。
明日は必ず行かなくてはならない。
今日一日かけて精神を落ち着かせる。
早苗は一日ベッドから出なかった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
また朝が来る。
今日学校に行かないわけにはいかない。
とりあえず教科書を鞄に詰め、下に朝食を食べに行く。
母親と何か会話したと思うが、
最近不思議なことに何を話していたかまったく思い出せない。
気付けば、もう出なくては遅刻する時間。
何の感情もなく、人格もなく、薄い理性だけを纏ってあまりに重い玄関の扉を開ける。
眩しい光に眉をひそめた。
人の気も知らないで、今日も朝から雲一つない空から燦々と太陽光が注ぐ。
順風満帆の時は、いちいち寒いだの暑いだの雨で靴が濡れるだの不満を漏らしていたが
今となっては吹き出したくなるようなことに不満を持っていた。
人の悩みは 名前をつけて保存されるような類ではない。
より大きな悩みがくれば、小さい悩みは相対的に思考から追い出される。
昔の自分だったら朝から暑いと愚痴っていたろう。
もうそんな世界には戻れない。
ただロボットのように足を動かす。
右、左、右、左、右
鉛のように足は重いのに
なぜ足は勝手に動くのだろう。
動かしたくなどない。
家でじっとしていればいいのに。
もう死んでも学校なんか行きたくないのに。
両足には感覚がない。
俯いて眺めるつま先。
これは本当に私の足?
地獄に向かって主人の意志に反して勝手に動く足に
ただ胴体が乗せられている感覚。
望ましくない方向に自分から進んで向かっていく生き物は人間だけだろう。
ただ自分の思うがままに生きることができればどれほど楽だろう。
人には決して許されない完全な自由行動。
社会、地域、文化、性別、通念、門地、時代、国籍、年齢、
ありとあらゆる個人の性格ががんじがらめに人を縛り、
閉じた世界で与えられた期待を遂行することを求められる。
もしもこれに反抗しようとすれば、可視化できるにせよできないにせよ様々な形で制裁を受ける。
さしあたっての自分には多くのしがらみがあり、到底逃れられない。
特に成人前の時期というのはその全期間を通して重要視される。
近代文明国家では特にそうで、この時代の振る舞い、決断、勉学や進学によってその後は大きく左右される。
正直自分には高校を辞めて受けるであろう、社会から受ける声なき非難と困難な前途を考えればとても生きていけない気がした。
高校を無事に卒業する自信はない。
たった3年とは言うけれど砂漠の中で終わりなき道を歩かされるような途方もない時間だと思える。
そして高校を辞めて生きていく自信もない。
じゃあどうする。
校門が見えてくる。
胃が締め付けられる。
小さく息を吐きながらなけなしの勇気を奮い立たせる。
その時、校門の前に立っていた男子がこちらを見ているのに気がついた。
見間違いかな?とも思ったが、お互いに合った目を逸らさない。
気恥ずかしくて目を逸らしたのは早苗の方だった。
男子と目を合わせるなんて慣れた行為ではない。
しかし、その顔はよく知った顔だった。
クラスで毎日見かける顔。
この子もクラスの中では浮いた存在だった。
早苗ほどではないにせよ、よくからかわれている。
スクールカーストというやつがあるなら下位に位置するのは間違いない。
早苗も同情と親近感が入り混じった感情を抱いていた。
男子はもじもじと躊躇するようなそぶりを見せた後、後ろに回していた手を前に突き出してきた。
手には手紙のようなものがある。
というか手紙そのままだった。
「あ、あの。早苗さん…」
「は、はい」
この人の声は授業で指された時以外で初めて聞いた。
妙に緊張してくる。
「こ、これ読んでください」
早苗の手に押し込むように手紙を握らせる男子。
「が、頑張って下さい」
そのまま校舎入り口に走り去る男子。
早苗は貰った手紙を裏返してみる。
ハートのシールで封をしてある。
早苗は徐々に赤面していく自分に気づいた。
急いで手紙を鞄に入れた。
どういう類の手紙だろう。
しかし、異性に渡す手紙の用途など限られている気もする。
そして渡す時の雰囲気と激励の言葉。
似たような境遇にいた自分への親近感を男子の方でも感じていたのかもしれない。
早苗は何ヶ月かぶりに笑顔らしきものを浮かべている自分に気づいた。
ーあなたもー
ー頑張ってー
胸のうちで男子の幸福を祈りつつ、校門をくぐる。
今日も今日とて地獄のような日々が待っているだろう。
けれどきっと昨日までとは違う。
少なくとも楽しみがある。
人は希望、期待の類を抱いている限り、真の意味で追い詰められることはない。
少なくとも今日帰って彼からの手紙を読むことを楽しみに、今日を乗り切れるかもしれない。
早苗は、いつもよりは落ち着いている自分の鼓動に気づいていた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
思っていた以上の苦痛だった。
放課後の楽しみなど、吹き飛ばしてしまうほどの。
昨日の悪夢をさらに上塗りするおぞましい一日だった。
帰ってくるまで、切り取られたスカートのスキマから下着が覗かないようにずっとスカートをつかみながら歩いてきた。
明日までには縫っておかなくてはならない。
履いてすぐには気づかず、朝教室に行くまでにそのまま歩いてしまった。
妙に視線を感じていたが、誰も教えてはくれない。
当然だ。自分と一緒に居るだけではなく、話すだけで良からぬ噂を立てられるのだろう。
身も心も疲れきっていた。
休んでいる間標的を失った野獣どもの鬱憤の溜まりようは想像以上だった。
早苗は朝、男子からもらった手紙を出してみる。
くるくると表に裏にしてみながら眺める。
何が書いてあるのだろう。
早苗は封を開けて見た。
中身は一枚の紙が入っているだけ。
目に入ってきた書式は、早苗が思っていたものとは違っていた。
行に分けられた文章ではなく、円形の寄せ書き。
望ましくないものであることに気づくのは、その中の文字を読んでからだった。
(死ね)
(もうほんとに学校来ないで)
(なんか早苗さんが近づくと線香臭いです(笑))
(きもい)
罵倒はまだまだ続いていたが、とても正視できず、早苗はベッドに座り込んだ。
ぐらぐらと世界が揺れている。
ーどういうこと?これ?ー
ークラスの奴らが私に?ーなんで彼が?-
あの男子がなぜこれを。
ああそうか。クラスであんなに弱い立場だったあの男子が自分に声をかけてくるはずはない。
ただ命令されていたのだ。
私にこれを渡すように。
そしてハートマークの封も、きっとラブレターだと勘違いさせて上げてから落とし、精神を揺さぶろうとした。
それが狙いだとしたら、まったくもって成功だと言わざるを得ない。
かき乱された精神は崩壊寸前だった。
暗澹とした感じたことのない絶望が胸を塞ぐ。
どうして…
ぎゅうっと指先が真っ白になるほど手紙を握りしめる。
困惑、悲哀、怒り、動揺、焦燥、落胆、、
あらゆる負の感情が全身を一瞬で駆け巡っていく。
分からないのだろうか?
こんなことをされた人間がどんな感情を持つのか。
恐らく死ぬまで忘れることができないであろう致命的な精神への打撃。
人生に長く影響を残す可能性のある行為。
人一人の心を冒涜し蹂躙し、破壊する。
それほどのことをして彼らが得るのは何だろう。
決まっている。
一時の愉悦でしかない。
テレビゲーム、路上での缶けり、そんな憂さ晴らし程度でしかない。
あまりに割に合わない。
これで相手が一生困ることのないほどの金を手に入れるなどというのならまだ分かる。
しかし、彼らの享楽と自分の絶望。
天秤にかけてもあまりに重すぎるこのストレス。
彼らの軽すぎる喜び。
動悸が収まらず、呼吸は浅くなり、指先が氷のように冷たい。
身体は気持ち悪いほど熱を帯びているのに、末端に血が巡らない。
人は本当に追いつめられた時、泣き叫ぶことなどできない。
それはやはり少々なりとて余裕があるからできること。
本当に切羽詰まれば、ただ何をすることもなく、傍から見れば脅えているように見える姿で
ただ呆けていることしかできない。
脳が次の行動を適切に指示しない。
分からない、どうしても分からない、こんなことをされる理由。
こんなことをする理由。
こんな行為がどれほど人を傷つけているのか
そんなことも分からない程想像力がないのだろうか。
いや、違う。人を傷つけるなどとは思っていない。
人ではない。少なくとも対等と見ていない。
一段下の生き物。
一段どころではない、動物…いや虫…
足元の地面に蟻が一匹見えた。
虫…
そう…きっと虫けらだ。
思い出されるのは同級生の男子たちが小さいころにやっていた遊び。
カエルの口に爆竹を入れて破裂させるとか、蟻の巣に熱湯を注ぐ類の遊び。
あの遊びの標的に自分がなっているにすぎない。
気付けば見慣れた部屋で何時間も一人ベッドに座り込んでいた。
何もせずに、ただ単調なアナログ時計の秒針を聞きながら…
病室の老人のようにただ座っているだけ。
身体を揺らすことすらしない、微動だにしない姿勢。
こんな時でも何事もないような涼しい顔で時計は時を刻み続ける。
制服も脱がずにただじっと首を垂れてスカートだけを眺めている。
ほんの少し目線を上げた。
さきほどの手紙が目に飛び込む。
どれほど時間が経っただろう。
凍てついた心の底から湧き上がってくる感情があった。
視界が歪む。
目をつぶる。
ティッシュを用意する暇もなく、滴り落ちた雫。
それはスカートに小さく痕を残していく。
ー何が 死ね よー
切れ込みを入れられたスカートを握りしめる。
誰とでも仲良く。
人に思いやりを持って、相手を尊重し、相手の立場に立って理解するように努力する。
小学校に入った時から教え込まれる人間社会の理念。
人の幸福を喜び、人の不幸には一緒に悲しむ。
どう見たって生きやすい。
人が皆敵よりも味方の方がいいに決まってる。
そう思って来た。
なのに、さしたる意味もなく排撃し疎外し追いつめて叩きのめそうとする人々がいる。
この世界は優しくない。
こちらがどんなに相手を尊重しようとしても一方的に関係を破棄し、貶めようとしてくる人間がいる。
昔から教えられた理念は、本当に理念。
こうだったらいいですね、という程度の話。
現実は違う。
大抵の人は他人の不幸を喜び、隙あらば格下の人間を見つけて攻撃するか、しなくても嘲笑して溜飲を下げる。
誰とでも仲良くしたい。
話せばきっと理解できる。
みんなに優しくしたいし、役に立ちたい。
人間なら当然と思っていた今までの考えもがらがらと崩壊していく。
視野は極端に狭窄し、今自分が置かれた状況にいる人間しか、世界には存在しないような錯覚に陥る。
人間や社会に対する尊敬や愛情なんて吹き飛んで、心には毒々しい怨念の言葉が渦巻いていた。
ー死ねーはこっちのセリフよー
今までだったら考えられないほど暴力的だと思っていた死ねと言う言葉も自然と胸に落ちてきた。
ーなんの生産性も能力もないくせにプライドばかりあるゴミどもー生きてて恥ずかしくないの?-
猛烈にこみ上げてくる怒りと悲しみに身体が焼き切れそうだった。
ー死ね死ねーどいつもこいつもー生きる価値なんてないーあんな連中ー肉にしてアフリカにでも送ればいいー
どんなに呪いの言葉を吐いても一切の罪悪感がない。
心の底から彼らが地獄に落ちることを望んで胸中で毒づいた。
悪態をつくのに一区切り終え、涙も枯れてしまうと
心に残ったのは諦念にも似た捨て鉢な感情。
彼らは自分ほど心を乱していないのに
こちらばかりが大きなリアクションを取っていることに馬鹿馬鹿しさを覚えながら
それでもすぐさま憎しみが頭をもたげる。
精神状態はぐちゃぐちゃだった。
それでもまた明日、あの牢獄よりもよほど地獄の空間に身を置かねばならないと思うと
気が狂いそうになる。
ーまたあそこに行くの?-嘘でしょ?-
もう無理だ。そんなこと
悪魔の巣にしか見えない丘の上の巨大な建築物。
まだ建てられたばかりで、前衛的なデザインが学びの社としての性格と対照的ながら調和している。
掃除婦まで雇っており、塵一つない廊下。
まだほのかにワックスの香りさえする校舎。
けれど、吐き気がする。
中にいる人間とあまりにそぐわない美しい殿堂のような校舎。
あの校舎が、まるで事故に居合わせた第三者のようにフラッシュバックする。
もはや現在進行形のトラウマだ。
どんな汚らしいスラムでも廃墟でも便所でもあそこほどはおぞましくない。
あそこに明日も行かなくてはならない?
それも8時間あまりの時間?
なんの冗談だろう。
学校?
勉強のため?
もうあそこは自分にとって学習の場として機能していない。
教師の言葉など一寸たりとて耳に入らない。
五分過ごすことさえ耐え難い苦痛なのに…
ほとんど一日を過ごさなくてはならない。
脳裏に過ぎるは自殺者の記事。
人一人が死んだというのに大した紙面も割かず、申し訳程度に書かれた事実と客観的意見
そのあまりの客観性と消費される価値もないような扱いにいつも憤ってきた。
(中学生、いじめ苦に自殺か?)
その記事には何の感情もなかった。
今なら死んだ人の気持ちも十分に分かる。
これほどの苦痛を受けるなら死んだ方がマシ。
当然の気持ちだろう。死ぬ際に受ける苦痛など、
毎日毎夜襲ってくる精神的苦痛に比べればそよかぜのようなものだ。
これから楽しい事があるだの社会に出れば学校の狭さが分かるだの言うのは
所詮傍観者だから。
そんなことどうでもいい。
今この苦痛から解放してくれるならそんな未来いくらでも捧げてあげる。
今死なせてくれればー
再び
死ね という言葉が頭をよぎり、長い事考えた。
ー死んでやろうかー
それが復讐になる。
呪いながら死んでやる。
これ以上の復讐はない。
どれほどお前らが屑で救いようのない人間か
遺書にびっしりと書きつけて
全世界を否定して死んでやる。
けれど、怒りで熱くなった自分を冷静な自分が戒めにかかる。
死んでも奴らはなんとも思わない。
相手が死んで良心の呵責がうずくような連中なら最初からこんなことしない。
一瞬の話題になり、即座に忘れられる。
ただの死に損。
私は死んだのにのうのうと楽しく奴らは生き続ける。
そんなの耐えられない。
そして何より、両親が悲しむ。
どれほどの痛みと後悔が彼らを襲うだろう。
人並の家程度には親から愛されている自覚がある。
二人に対して特に思春期の子供が持つような不満はない。
今まで育ててくれた両親になんの恩返しもせず
なんの相談もしないうちに死ぬ。
これほどの親不孝もないだろう。
結局死ぬことはできない。
かといってこのまま生きているのもあまりに辛い。
八方塞がりの中、部屋の中で何もせずに、ただ無機質な秒針の音だけを聞き続けていた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「行きます」
なんの躊躇もためらいも無く、発せられた決断の言葉に、2人の神様はさすがに驚いたようだった。
「でもさ。こっちにも友達とかいるでしょ?すぐに決めなくても…」
諏訪子の声を聞くや否や首を振る。
「まったく構いません。いますぐにでも大丈夫です」
2人は顔を見合わせていた。
「いやあ。もっと揉めるかと思っていたけどさ。現代の人間なら特にさ。あっちは技術も娯楽も乏しくて後悔するかもよ?」
「しません」
力強くはっきりと断言した。
ずっとずっと思っていた。この世界から消えてしまいたいと。見知らぬ夢の世界に行ってみたいと。
これから行く世界が夢の世界でなくてもいい。
少々の苦行があってもいい。
きっとここに比べればどこだって天国だ。
一瞬、戦争や争いで荒廃した世界だったらどうしようとも思ったが、そんなことすらどうでも良かった。
質問する気もなかった。
どうせこちらに居ても心は死に瀕している。
もし、あちらの世界が酷いもので生きていけなかったらとしたら、潔く死ねば良い。
そのくらいの覚悟はできていた。
それよりもー
毎日毎日祈っていた。神様この窮地からお救い下さいと。
本当にお迎えが来た。しかも本当の神様が。
これがファンタジーでなくてなんだろう。
いまだに信じられなかったが、自分は統合失調症のような持病も妄想癖もない。
意識ははっきりしている。
部屋の中の家具や鞄、家の空気。
起きている際のはっきりとした意識を感じ、これを現実として捉えざるを得なかった。
ー空想じゃないー本当に救いに来てくれたー私の神様ー
早苗は正座して両手を前についた。
「不束者ですがよろしくお願いします。神奈子様、諏訪子様。私の全人生を捧げる所存です。」
その言葉に嘘偽りはなかった。
こちらの世界に未練を感じるとは思えなかった。
それよりも苦痛から開放されることの喜びが、涙が出るほど嬉しく、他の感情は小さく見えないほどに縮小してしまったようだ。
ー助かったー
早苗はこの時心からそう思った。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
本当にあれが現実の世界のことだったのか
幻のような気さえしてくる。
習慣も文化も住んでいる生物さえも違う異世界に来てあのことを思い出そうとしても
妙に霧がかかっている。
昨日のことのように思い出せるかと思うのに
いざ順を追って脳内に再生させようとしてもちぐはぐで的を得ない不可思議な映像が流れるばかり。
一種の自己防衛なのだろうか。
虐待から身を守るために二重人格をつくる子供のように
あんなことはなかったと思い込みたいのだろう。
しかし、思い出したくない時に限って勝手に脳は再生を始める。
鋭利にクリアで鮮明に。
ここに来て、すっかりとまでは言えないが、精神は落ち着きを取り戻し
高校以前の自分に近づいてきたような気がする。
夜中に動悸で目が覚めることもなければ、不安で勝手に涙が流れてくることもない。
外の世界の文豪が言っていた。
この世には喜びも悲しみもなくただ一切は過ぎていくと。
そう、どれほどの悲しみも過ぎていく。
肉親の死さえ、時は癒してくれる。
命の危険さえ感じたあの頃のことも、もう過去に近づきつつある。
ここの住人は妖怪でも人間でも意味なく危害を加えることはない。
異変を起こしたり、人の迷惑を考えないところがあるが
根幹としては自分が楽しむためのものだ。
確かに傷は薄くなっていく。
けれど決して消えはしない。
見えなくなるほど塞がっても、ある日突然殻を食い破って外に出てくる。
埋め込まれた種はいつ暴走するか分からない。
爆弾を抱えたまま生きているような不安感はあったが、
過去は消すことができない。
操作できるのは意識しかない。
けれど餅をこねるように自由自在にとはいかない。
いくら抑えようとしても手に余りのた打ち回る大蛇を、それでも必死に抑えようとする。
できるのはそれだけ。
帰って来て考えることは宴会のこと。
いつまでも縛られているわけにはいかない。
精神を縛る粘着質で癒しがたいトラウマで人生を棒に振るのは馬鹿げている。
もうどこにも危害を加えようとする者はいない。
どこかで一歩を踏み出さなくてはならない。
過去は一切関係ない。
あちらの常識など一切通用しないここであちらの基準を寸分たりとて意識することはない。
もう決心した。
ちょうどいい機会だ。
今日を過去に決別を告げる分水嶺としたい。
たった一人でも、なんの問題があろう。
霊夢の言葉をスイッチに大きく心が乱れたが、きっともう落ち着いた。
ましてや今日の朝に主催の霊夢に差し入れまでしている。
大手を振って凱旋すれば良いではないか。
別に場を盛り上げる役割もなければ、演説をするわけでもない。
自然と輪に加わり、当たり障りない言葉を選んで会話を流して酒を嗜んで帰る。
誰もがする一連の流れ。
こんなふうに義務的に、恐れをなしながら参加する者はいないだろう。
楽しみのために。
飲みたくて騒ぎたくて来るだけだ。
「違うもん…違う…違う…」
昔の自分とは…
何度も小声で呟きながら胸の前で両手を合わせて暗示をかける。
環境も己の中身も何もかもが変化した。
早苗はふと外を見やる。
どれだけの時間こうしていただろう。
ほんのちょっとしたきっかけで思い出したくもないことを思い出してしまった。
霊夢のところへ行ったのは午前中だ。
神奈子と諏訪子も何も言ってこない。
二日酔いの次の日はいつも食事はいらないと言われる。
まだ寝ているのだろうか。
早苗も昼は抜いていたが、まるでお腹が空かない。
食べていない事実さえ忘れていた。
半日を無為に遊ばせてしまった。
今日は霊夢に差し入れに行った以外、掃除も洗濯も料理もしていなかった。
既に日は暮れかけ、オレンジ色の光が畳に長い影を伸ばしている。
行くとなったらそろそろ準備をしなくてはならない。
行かないと言ったのに行ったらどんな顔をされるだろう。
嫌な顔をされるだろうか。
大丈夫。自分など大勢の一人でしかない。
誰にも目をかけない。
半日を使って考えていた。
宴会へ参加するか否か。
早苗は小さく頷くと何時間かぶりに立ち上がった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
夜の神社は喧騒に包まれていた。
もう夜も深くなりつつある神社の境内で宴会は開かれていた。
もう数えきれないほど開かれているであろう宴会は、異変が起こるほど時が経つほど
その規模を大きくしていく。
初期のころは宴会に参加した全員と話をしていたものだが、
最近では最後まで一言も口をきかずに帰る者も多い。
霊夢は日本酒に映りこんだ自分の顔を眺めつつ
もう一杯この酒をのむのが良いかそれとも他の銘柄にいくか考えていた。
「霊夢ぅ…何?もうおしまい…?」
すっかりできあがった吸血鬼が酒を手にしだれかかってくる。
鬱陶しくてぐいっと右手で押し返す。
酔いはじめがいつでも一番気持ち良い。
思考が鈍っているかどうか自分では分からない。
微妙な理性の狭間でたゆたうこの時間帯が霊夢は気に入っていた。
「近いわ。酒臭いし。」
「霊夢も酒臭いわよ…」
にこにこと性懲りもなく身体を寄せる吸血鬼。
やれやれとそのままにしておく。
右半身にかかっていた重みが、急に無くなったと思うとレミリアは背後に向かって倒れこんだ。
「あ、あえ?何、何?」
呂律の回らないレミリアがぽいっと横に投げ捨てられると、見慣れた妖怪が先ほどまでレミリアのいた場所に鎮座する。
「あらら。あんまり酔うとただ座っていることもできないんですね。」
金髪がふわりと霊夢の視界に入りこむ。横を見なくとも声や仕草ですぐに分かる常連の妖怪。
「ゆ、紫ぃ…何すんのよぉ…」
レミリアは立ち上がることもできずに身体を横にしながら手だけふらふらとこちらにかざしていた。
「まったく。品性を失うほど酔うなんて人格を疑いますね。ね?霊夢?」
といいながら自分が人格を疑うと言った妖怪とまったく同じに身体を寄せる紫。
面倒なので無視するだけにしておく。
これがいつもならスペルカードで吹っ飛ばしてもいいのだが、気持ちよく酔い始めているさなかに余計に身体を動かしたくない。
霊夢は酒瓶に手を伸ばす。
手に取ったそれは期待した重さをまったく有していなかった。
霊夢は思わず眉をひそめた。
「なによ…もうないの?」
さっき新しいのを開けたばかりなのに。
まったくこいつらはどういうペースで飲んでいるのだろう。
誰も酒を注いだりしていないのに、勝手にいつのまにか消えている酒。
嗜む程度に飲むなどという発想はなく、どこまでも潰れるまで飲みたがる連中だ。
こちらも十分に飲んだというなら文句はないが、まるで足りない。
あたりに散乱する酒瓶の数は数える気にもならない。
人数が多いのだからそれだけ減るのも早いが、どう見ても一人一升なんてものではない。
床に散らばる瓶はどう見ても空だ。
テーブルの上に並ぶ瓶を一本一本手に取るが、とるたびに失望するばかり。
「残ってないの?」
思いのほか泣きそうな情けない声を出してしまった。
「あ、これは私の持ってきた酒ね。霊夢?美味しかった?これ」
紫の弾んだ声色。
面倒ながらも紫が手に取った酒瓶の銘柄を見る。
そんなの一滴も飲んでいない。
押し寄せたハイエナ共にまったくすべて飲み込まれてしまった。
けれど目を輝かせる紫の視線にやられ、とりあえず頷いておいた。
紫はぱあっと笑顔を咲かせると抱きついてきた。
「また持ってきますわ!霊夢!」
「ちょっと霊夢。私のは?どうだった?」
レミリアが酒瓶を振り上げる。
まったく面倒だ。
一度相手をすると際限ない。
するとしなりしなりと独特の歩き方で近づいてくる着物の裾が目に入った。
霊夢は顔を上げるとこちらも紫とセットで良く見る亡霊が立っていた。
横には付き人の半霊の剣士もいる。
「あのぉ?お酒余ってない?」
幽々子がどこか気の抜けた声で尋ねる。
「ない」
憮然とした態度で答える。
なぜか自分たちの手持ちの酒がなくなった時、真っ先に聞かれるのが霊夢だった。
自分は酒を無限に生み出す生産機械ではない。
「ちょっと今日は酒が足りないわね。」
「ねー」
幽々子と紫が声を合わせる。
いらっとする。
そんなに飲みたいなら自分たちで溢れるほど持って来ればいいのだ。
「ん?」
持ってくる?
誰かが今日持ってきたような。
それで朝の出来事を思い出した。
霊夢は何も言わずに席を立つと台所に向かった。
確か今日貰ったものの中に…
早苗が届けた差し入れの中に酒が入っていた。
袋を見つけてごそごそ中をさぐると見つかった。
日本酒三本。
「ふふふ…」
思わず笑顔になる。酒瓶を抱えてとてとてと戻る。
「あったわよ。」
自分1人で飲んでもいいが、やはり宴会で手持ちの酒を温存するような不義理は許されない気がした。
おおっという歓声が上がる。
「なんだ。あるんじゃない…」
くすくすと笑う幽々子。
すぐに霊夢は一本目を開けて酒を呷る。
おっ と霊夢は椀を見つめた。
次に幽々子が両手で椀を呷る。
「あら。いいわ。これ」
次々と酒瓶が勝手気ままに傾けられ、瞬く間に一本目はなくなった。
「なかなかいいわねこれ。どこの?」
紫の言葉で想起される今朝の一幕。
「これは…」
早苗が持ってきて…
といいかけてふと周りを見る。
あいつは今日来ているだろうか。
来ないとは言っていたが…
周囲を一瞥しても自分以外の巫女の姿は認められない。
再び椀に手を伸ばそうとした時、視界に映ったわずかな緑色を意識してまた目を上げる。
いた。
ここから10メートルといったところ。
灯篭の石段に腰を下ろし、動くこともなく、誰とも話すこともなく、一人で両手で湯呑茶碗を包みながらじっとしている。
まるで存在感がない。
探そうと目をやったというのに見落とすところだった。
どういうことだろう。あの姿は。
沈鬱な表情で顔には生気がない。まるでお通夜帰りの人間だ。
馬鹿騒ぎを続けるけたたましい喧騒の中で一か所だけ浮いた冷えた空間。
何をしに来たのだろう
具合でも悪いのだろうか
それだったら家で寝ていればいい。
別に強制参加ではないし、今朝も別に来なくていいいと言ったはずだ。
それよりも、今朝は割合元気そうに見えた。
少なくともあんな病人のような顔はしていなかった。
今日急に体調を崩したのか。
それにしてもおかしい。
今朝も少々不自然なところがあった。
早苗は割と誰とでも話せるし、里では信仰の話を大勢の前でしているはずだ。
ここの妖怪達と同様にお喋り好きに見える。
何か将来への懸念材料でもあるのか。
そう考えて霊夢は自分がおかしくなった。
この世界では将来などという長期間のビジョンではものを考えない。
あるのは果てしない 今日 の連なり。
過去も未来も意識するに値せず、ひたすら楽しく、愉快に生きること。
それがここの誰もが抱く金科玉条。
外の世界ではどうだったか知らないが、早苗もここに来て長い。
もう分かっているはずだ。
分からない。
今を楽しまない早苗の姿が分からない。
なぜこちらに来ないのか?
ここでなくとも誰かと話さないのか。
あんなところで孤立して一人きり。
そんなのが楽しい人間がいるだろうか。
「霊夢?どうしたの?」
レミリアが顔を覗き込んでくる。
「別に…」
霊夢は早苗から視線を外してテーブルを見やる。
すでに朝、早苗の持ってきた酒もなくなっていた。
「ちょっと…」
周りをにらみつける。
さすがにやるせない。
まだ一杯しか飲んでいない。
一升瓶三本あったというのに。
ため息をついて愚痴る。
それからも周りの人妖と下らない与太話が続いた。
頭の片隅に早苗の異質な姿が残ったまま。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
何でこんなところにいるのだろう。
どうしてこんな気分で追いつめられているのだろう。
理由を考えてみるが適当な答えは思い浮かばない。
頼まれた訳ではないのだ。
自分の意志でここにいる。
周りを気にしていることを知られたくなくて、余裕でいるのだと、
好きでこうしているのだと周りに示すために
顔を上げずに涼しげな表情でいることに努めた。
しかし誰よりも分かっている。
誰も自分のことなど見てはいないのだ。
自分がどんな顔をしているかなど誰もなんの興味もない。
自分が一人でいることにも何ら関心はないのだ。
なぜならこの宴会にいる誰それがどんな気分でいるかなど
まったく自分は気にならないからだ。
自分だけが特別ではない。
しかし、どこまでいっても自分だけは自分にとって特別である。
誇りを持ち自尊心を持っている。
誰だってそうだ。
まるで自分がいなくてもまるで問題なくこの宴会は進んでいくかのように。
存在自体が無視されたかのような扱いは耐え難いものがあった。
宴会は楽しむためにある。
その他に目的などない。
なのになぜこんなに苦痛を感じなくてはならないのか。
こんなに不愉快なのにこの場にいる理由はなんだろう。
今すぐ帰ってもいいのだ。
しかし、こんな状況で帰ったらみんなの笑いものにならないだろうか
一人寂しく誰とも会話せずに帰ったとなれば、それこそ酒の肴にされる。
これほどの大勢の中、誰にも確認されず出ていくのは不可能に思われた。
それとも帰っても誰も気付かず興味もないだろうか。
ー帰りたいー
宴会に来る前から感じていた不安は現実になっていた。
誰にも相手されず話し相手がいなかったらどうしよう。
しかし宴会はかなりの人数が来る。
一人二人とは絶対に話ができる。
そう言い聞かせてここへ来たが
その意思ももはや萎えていた。
そういえばいつもは自分から声をかけていた。
けれど今日はそんな勇気はない。
いつもどうやって宴会を乗り切っていたか思い出せない。
椀を持つ手は震えている。
それどころか身体全体が震えているようだ。
つまらない。辛い。悲しい。やりきれない。気まずい。居づらい。帰りたい。
頭に浮かんでくるのはネガティブなワードの羅列。
ときおりどっと笑い声が聞こえるたびにびくりと身体を震わせて耳に全神経を傾ける。
誰かが私の悪口を言っているのではないか。
一人で寂しく飲んでいる奴がいると物笑いの種にされてはいないか。
けれどそんなことをしても無駄だった。
がやがやとあまりに騒々しい宴会の中で誰かの話している内容を正確に把握するなど至難の
技だった。
どんなに集中してもただ喧騒の中、解読不明な言葉らしきものの束が耳をかすめていくばかり。
不安を煽る集団の声声声。
そのときはいきなりだった。
なんの準備もなしに、なんの気配もなしに背中にずしっとした重量を感じた。
感じたことのない感触。
「おう!飲んでるか?」
聞いたことのある声。
一瞬の逡巡の後、脳内検索にヒットしたのは魔法使いの声だった。
馴れ馴れしくしだれかかってくる人間は魔理沙。
この神社の巫女とも特別懇意にしている人間の一人。
妖怪の起こした異変解決というと巫女の名前をよく聞くが
この魔法使いも異変解決には相当協力してきた。
もちろん早苗とも会うことは多かったし、自然よく話している。
いやそんなことはどうでもいい。
魔理沙に関する情報は一瞬で頭から消し飛び
ただここで話しかけられたことに対し激しく狼狽し
必死で返す言葉を考えるうち
何も話していないのに魔理沙はけらけらと笑い出した。
魔理沙は自分に酒をつごうとしてきた
「ははは!なんだ?呆けた顔して!ほら飲めよ!」
魔理沙の大声が耳元で鼓膜を直撃して、昔を思い出させた。
悪意のある集団の耐え難い声の連鎖。
思わず手を振り払った
「い、嫌っ!」
振り払った手は魔理沙の酒瓶に直撃し魔理沙の手から弾き飛ばされた。
心臓が止まるかと思った。
酒瓶は地面に叩きつけられ軽快な音を立てて砕け散った。
その音に反応して皆が一斉にこちらを見た。
凍りついたように固まり
地面に散らばった瓶の破片とまだ大量に残っていた中身の酒が地面に
染み込むのを呆然と見ていた。
魔理沙はおっと声を上げるとさっと機嫌のよさそうな振る舞いは消えて
ぶらぶらと手を振って顔をひきつらせた。
「おいおい…」
そして無残な酒瓶を認めるとこちらを見据えた。
批難が込められた視線に息が詰まりそうになる。
その眼は
なんだよこいつ…という興ざめの表情が含まれていた気がする。
顔から火が出そうになる。
そんなつもりはなかった。
決して。
ーごめんなさいごめんなさいごめんなさいー
高速で頭を巡る謝罪の連呼。
思考はフリーズした。
幼女が両親に許しを請うように必死に頭で唱える。
哀れで無力な立場だった。
けれど声が出ない。
人間は以心伝心などできない。
何も言わなければ何も伝わらない。
そしてタイミングが何より大事だ。
遅すぎても早すぎてもいけない。
人の会話の流れの機微は繊細だ。
さっさと謝罪すること。
それがこの場での唯一の選択肢。
分かっているのに声が出ない。
これほどの罪悪感を持ちながら、
相手には傲慢な無礼者と映っていることが、耐えられなかった。
「何?何?あんた何したのよ?」
駆けつける人影。
この魔法使いとよくセットで見かけるもう一人の魔法使い。
金髪の人形師アリス。
誰かが来る前に謝罪したかったのに。
もう駄目だ。
早苗は声を出すすべを失ったかのように縮こまっていた。
「いや、手滑らせちまった。」
魔理沙は爽やかに笑ってみせた。
思わず顔を上げる早苗。
アリスはやれやれといった感じに額に手を当てる。
「何やってんのよ。勿体ない。あなた大丈夫?怪我ない?」
アリスに顔を覗き込まれる。
はい、と蚊の鳴くような声で答える早苗。
「おいおい私の心配はなしか?」
「別にあんたが怪我しても自業自得でしょ。それより…」
アリスが怪訝な顔をする。
「早苗…?なんか元気ないわね」
ドキッとする。
アリスは魔理沙を睨みつけた。
「ちょっとあんた。なんかしたの?」
「いや、なんもしてないぜ。」
「ほんと?早苗」
早苗はこくこくと頷いた。
「…嘘ね。ちょっとあんたこっち来なさい。」
「い、いや。ホントになにもしてないぜ。早苗?なっ?」
早苗はまた はい と言ったが、お祭り騒ぎの宴会の中、きっとその小さな声は届かなかったろう。
アリスは魔理沙の腕に腕を絡めて引きづっていった。
再び一人になった時、激しい自己嫌悪に襲われた。
やっと話しかけてきてくれた人がいたのに、チャンスを無下にした。
しかも何度も話したことのある魔理沙が来てくれたのに。
千載一遇の機会を逸した。
魔理沙にも悪いことをした。
せっかく話しかけてくれたのに。
親切を非礼で返したのに、フォローまで入れてくれた。
どうしてこんなに駄目なのか。
あまりの痴態をさらして…
ほとほと嫌気がさす。
ーもう駄目ー
認めざるを得ない。
結局自分は半端者。
どちらの世界でも、馴染むことができない。
虚飾の仮面を取り繕って、必死の笑顔を演じて見せても。
常識知らずの傍若無人を意識しても。
あちらの世界ではおとなしく礼儀正しく振る舞ってきた。
それは素の自分だった。
けれど受け入れられず、拒否と排撃の憂き目に遭った。
こちらの世界では明るく、怖いもの知らずのように振る舞った。
これも駄目ならばどうしろというのだろう。
生まれながらに普通にはなれないのかもしれない。
見た目か、仕草か、表情か、声か、間の取り方か、話の中身か。
どこが悪いのだろう。
どうしても分からない。
考えても考えても…
教えてほしい。
どこが気にいらないのか。
もしかして何もかもか。
どこも悪い気がする。
だとしたらどうしようもない。
ーごめんなさいー
誰に謝るともなく心で呟く。
一体誰に謝っているのか。
さきほどの魔理沙に対してか。
両親に対してか。
それとも
生まれてきたことに対してか。
心は既に折れかけていた。
来たのは間違いだった。
思い出したくもない遠い昔の耐え難い苦痛そのままだ。
ぽつっと手の甲に水滴がつく。
雨か、とも思ったが、続けて落ちた水滴とぼやけた視界で
涙だと分かった。
惨めでしょうがない。
どこに行っても馴染めない醜いアヒルの子。
アヒルの子は白鳥になる将来があったが、自分にはない。
必死に涙を拭きとる。
泣くとさらに惨めになる。
少なくともここにいる人たちに精神の乱れを気取られたくない。
ーもう帰ろうー今なら帰れるー
自分の心はこちらの世界に来てからかつてないほど沈み込んでいたが、
対照的に宴会の賑やかさは最高潮に達していた。
一人いなくなっても誰も気づかない。
そして潰れそうな心のまま立ち上がろうとした瞬間。
誰かが自分の前に立ったのに気付いた。
だが自分相手ではないだろう。
自分に話しかけてくると思って心躍った時も大体は近くの他人が目当てだった。
しかし近い。明らかに人の懐に入り込もうとする近さ。
人のパーソナルスペースは個人差がある。
自分のスペースが広いか狭いかまでは分からないが
万人のそれに侵入しているだろうと思えるほどには近かった。
よく見かける紅。
心地よい紅の色。
誰とも見間違えようのない存在感がある巫女その人。
目を上げると霊夢が酒茶碗を右手でぷらぷら振りながら左手で早苗の横を指さした。
「ここ空いてる?」
無論空いている。
しかしここは座るような場所ではない。
灯篭の土台部分は狭いし傾斜があるし、雨風で汚れている。
他に適当な場所がなかったので嫌々座っただけだしお尻が痛い。
「はい…」
脳内が高速で回転しだした。
なぜ霊夢が話しかけてきているのか。
霊夢の印象として、いつも誰かに囲まれている。
誰かがひっきりなしに話しかける場の中心。
霊夢と比べれば自分は中心にいる器ではない。
それに霊夢がいなくなったら霊夢がいた場はどうなるのだろう。
ふと目をやると霊夢がいた座敷もやたらと人妖が溢れて賑やかにしている。
特に不自然なところはない。
きっと席を外す空気の読み方もうまいのだろう。
自分とは違って。
こちらの世界に来た時。
この人のようになりたいと思った。
勝手気ままに振る舞いながらなぜか誰にも嫌われず、いつも我を中心に考え、
それでいて実力十分で異変解決の立役者。
いつも霊夢を見る時は憧れと劣等感の狭間で自我を揺さぶられた。
実力も人望も容姿も
霊夢を真似ようとして
そして誰にも前いた世界のように馬鹿にされないように
大胆で英気あり恐れ知らずの常識知らずに振る舞ってみたけど。
できあがったのは霊夢とは似ても似つかない劣化コピー。
いやコピーにすらなってない出来損ない。
きっと全部が劣っているに違いない。
霊夢は過去に嫌なこともなかったのだろう。
うまくいく人はどこまでもうまくいく。
どこかでつまづいた人は泣きっ面に蜂。
次から次に負の連鎖。
それなのになぜだろう。
ひっきりなしに誰かと話している霊夢が自分から誰かに話しかける様など見たことがなかった。
それも自分のように一人っきりでいる人間に。
引く手数多の霊夢がこんなところに来る必要はどこにもない。
きっと自分といても楽しくない。
霊夢が隣に座った瞬間に強い罪悪感を感じた。
この空間で霊夢を引き止めるような何物も自分は持っていない。
何を言ったらいい?何をすれば?
脳みその全細胞を駆使して面白い話を提供したい。
霊夢に楽しんでほしい。
けれども空回りする脳内のモーターは何ら意味をなさない真っ白なモニターを映写するだけ。
「あ、酒あるじゃない」
霊夢が自分の足元にある酒瓶を手にとる。
すっかり忘れていたが、早苗が持参したものだった。
「やだ、まだまだ入ってる」
霊夢は笑いながら早苗の前に酒瓶を掲げる。
「きっとこの宴会の中で最後の一本よ。これ」
霊夢の声色は弾んでいる。
大勢と話してきた人間が自然に醸し出す、自信と余裕が感じられた。
本人はそんなこと気にもしていなさそうだが。
「ね?これ…いい?」
霊夢が両手で酒瓶を抱きしめて小さく首を傾げる。
飲んでもいい?
ということだろう。
無論良いに決まっている。
自分は酒を飲んでも今はまったく気分よくならないし、霊夢に楽しんでもらえれば十分だ。
こくこくと何度も頷く。
霊夢は 「やった」 と言うと酒を持参の椀に注ぎはじめる。
なみなみと注いだ酒を半分ほど飲んでから小さくため息をつく霊夢。
「ほんと美味しいわあんたの酒。朝に持ってきてくれた酒も好評だったわよ。」
「あ、ありがとうございます…」
顔が火照ってくる。自分が持ってきたものが喜んでもらえる。
それも霊夢に。
ほんの少しでも誰かの役に立てたという実感は甘く、じんわりと胸の中に浸透していく。
けれど会話が続かない。
霊夢とは数えきれないほど会話をしてきたはずなのに。
ほとんど壁を感じないほどに砕けた話もしてきたのに。
どんな話をしてきたのか、まったく思い出せない。
霊夢との話し方が分からない。
爆発的にまでテンションが上がった人妖達の叫び声にも似た笑い声が響く。
気まずく隣を見ると、霊夢は手の中で椀を遊ばせながら、少し赤くなった顔でどんちゃん騒ぎを見ている。
その顔からは霊夢がどのような感情を持っているかは読み取れなかった。
つまらなくないだろうか。
嫌じゃないだろうか。
本当は誰より宴会を楽しめるはずの霊夢が、自分などと一緒に…
「今日は…随分おとなしいのね…」
けたたましい大声の中、小さくしかし凛とした声が早苗の耳に届く。
一瞬何を言っているか分からなかった。
半瞬後に自分のことを言っているのだと分かり、また顔が急激に熱を帯びてきた。
「え?あ、えう…」
まるで白痴にでもなったかのように一切出てこない言葉。
役に立たない己の言語脳を呪いたい。
的確に返さないと駄目。
つまらない会話をしていたら霊夢が立ち去ってしまう。
嫌だ。ずっと座っていてほしい。
なのに、喋らないといけないのに…
こんなんじゃ嫌われて当然。
誰からも蔑まれて当然。
ろくに会話もできない根暗の巫女なんて…
トラウマを抱えた情緒不安定なんて、
考えうる限り最悪の要素だ。
霊夢はこちらを見ずに、ただ前を見ている。
「何を悩んでいるかは知らないけどさ…」
くいっと酒を口元に運ぶ霊夢。
「この中の誰もあんたのことを嫌ったりしてないわ。安心しなさいな…」
宴会場の声が何も聞こえなくなった。
脳は焼きついたようにフリーズを起こした。
そして、心の奥深く、今まで見ようとしなかった心の中核が、
決定的に揺さぶられた。
ゆっくりと横を見る。
まるで心を読んだかのような、
自分の心を射抜くような、
霊夢の透き通った声。
確かに聞こえた聞き間違えようのない声。
本当なの?
嘘じゃないの?
私が?
私のことを…?
「…とですか?」
「ん?」
「ほん…とうですか?」
「当たり前…って え?ちょっと」
霊夢が少々狼狽した態度を見せる。
どうしたのだろう。
さきほどまであんなに余裕を持っていたのに。
「ちょっと。泣かないでよ。」
霊夢が袖口を自分の目元に当ててくる。
自分で目元を触ってみると、熱い液体の感触が指先を伝った。
「あ、う…す、すみませ…」
目元を拭っても次から次に溢れてくる大粒の涙は、手がびっしょりになってもまだ止まってくれなかった。
「やだ…もう…ごめんなさい…」
もうどうしようもないので両手で顔を覆った。
「大丈夫?なんかごめんね?」
霊夢の声が頭上に響く。
どうして霊夢が謝るのだろう。
こんなに嬉しいのに。
霊夢はこんなに優しいのに。
私はこんなに駄目なのに。
この涙はなんのせいだろう。
霊夢はあたふたと周りに目をやりつつ誰も見ていないことを確認し、早苗の肩に手を当てた。
「ごめん。泣き止んで。ね?」
こんなことで霊夢に迷惑をかけることはできない。
霊夢が困っている。
なのになんで涙が止まらない。
止めようとしているのに。
霊夢を困らせたくないのに。
と、思うと視界が暗くなって何も見えなくなった。
顔に柔らかい布の感触があったと思うと、甘く香しい霊夢の香りがいっぱいに広がった。
そしてぎゅうっと背中に手を回されて抱きしめられる。
霊夢は早苗の頭を胸に抱いて頭を撫でた。
「ほ、ほら。泣き止んで。」
人間は単純だと思う。
何年悩んできたことでも、何年心の底に闇を飼っていたとしても
誰かとの出会い、氷を溶かすたった一言で変わってしまうことがある。
繊細な人間ほど、小さな出来事でまるで世界が変わってしまう。
我ながら呆れるほど。
ただ今考えることは一つだけだった。
霊夢に迷惑をかけたくない。
迷惑をかけないとは、力になるという意味もある。
「霊夢さんは…凄いです。」
「な、何よ。いきなり」
「誰とでも話せますし。」
「は?そんなのあんたもでしょ?」
「いいえ…」
そう言って強く霊夢を抱きしめる。
「強いですし。異変解決だって、私は霊夢さんには絶対かないません。」
「え?う…」
普段はまったく言いそうもないことを聞いて霊夢は反応に困っているようだった。
そして身体を離して正面から霊夢を見据える。
「それに可愛いです」
一瞬霊夢はきょとんとしていた。
しばらくしてあまりに長く見つめるこちらに気後れしたのか
視線を外して頬をかいた。
「何言ってんだか…」
酒を入れて上気した顔ということを考慮しても
明らかに顔が赤い。
きっと自分はもっと赤いだろうと思っていた。
「まったく。あんたはいつも安定しない奴だとは思ってたけど、今日は輪をかけておかしいわね。
泣いてたと思ったら…急に元気になっちゃって…そんなこと言ってくる奴初めてだわ…」
そんなこと、とは可愛いと言ったことだろうか。
早苗はくすくすと笑う。
ああ、ようやくだ。
ようやくいつもの自分に帰ってきた気がする。
誰にも気後れせず、傍若無人、唯我独尊の巫女。
それがこちらの世界の早苗だ。
これからも、ずっとこの世界で生きていく。
恐れず、不遜で、傲慢に見えてもいい。
思うがままに、自由に生きていく。
「霊夢さん。」
「何よ」
「顔赤いです。」
「涙でぐしょぐしょの奴に言われたくないわね。」
一瞬目と目が合った。
霊夢は微笑みを浮かべた。
いつものように、半分皮肉混じりの笑い方ではなく、優しく穏やかなものだった。
こちらも今できる限りの笑顔を浮かべた。うまく笑えているだろうか。
きっと大丈夫だ。
昔から思っていた。
この人の前では私は自然に笑える。
きっとこれからも… 霊夢が居れば
自分はきっと大勢の中の一人だろう。霊夢にとっては。
村人Aかもしれない。
けれどそれでもいい。
霊夢に拒否されないなら、それだけで幸せだ。
「霊夢さん。これからも色々持ってきますから、困ったら言ってくださいね」
「それは助かるわね。こっちは何も返せなくて悪いけど」
「悪くなんてありません。ただ…」
「?」
「これからも、側に置いて下さいね…」
霊夢は顔を上げた。
そして早苗の目を霊夢は見つめてきた。
自分が今思っている、卑屈で自虐的な考えも見透かされているようでどぎまぎした。
というより口にだしていた。
側に置いて などという言葉は対等な者同士の会話ではない。
「そんなの。許可なんていらないわ。」
そして霊夢は早苗の手を両手で握ってくる。
さっきまで抱きついていたというのに、それでも胸が跳ね上がった。
霊夢からスキンシップをとってくるとは思わなかったからだ。
「何も持ってこなくても。遠慮しなくて来ていいからね?分かった?」
「はい。ありがとうございます。」
再び涙がこぼれそうになるのを感じて早苗は俯いた。
霊夢はずっと早苗の手を握っていた。
その手の温もりを感じて、心までその熱が浸透してくるようだった。
昔からずっと欲しかった物。
それが今手の中にあった。
きっとずっと手に入らない人もいる。
そして死を選んでしまう人もいる。
自分もあと一歩というところまで追い詰められた。
けれども、人生はどうなるか分からない。
あの時はもう終わりだと思っていた。
まさかこんな未来が待っているとは夢にも思わなかった。
予想していた惨事が起こらないこともあれば、予想もしない良い事が起きたりする。
どれほど嫌なことが起ころうが、それで終わりはしない。
生きている限り、必ず望みの時は巡り来る。
ーああ、お父さんお母さんー
霊夢の手に大切な人たちの体温を重ねながら早苗は心から思った。
ー生きていて良かったー
宴会の熱は引かず、いまだにどんちゃん騒ぎが続いていたが、その声も早苗にはもうまったく違うように聞こえていた。
霊夢は早苗の元を離れずに、ずっと手を握っていた。
母に抱かれているように安心していた早苗はだんだんとまどろんできた。
そしていつしか、意識は深い底に沈みこんでいった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
雀の声が軽快に響くいつもの朝。
早苗は両手に持った柿を見比べていた。
早苗の周りには色とりどりの旬の野菜と果物。
普通の料理にしてはまず量が多すぎる。
一時にこれほどの食材を並べることは、多くの客人を招く宴会でもまずなかった。
一つ一つを手に取り、傷がないか色合いはくすんでいないか、熟しすぎてはいないか、丹念にチェックしていく。
そんな時に神奈子が近づいてくる。
「なーにやってんの?早苗。一つ貰っていい?」
「あ、ちょっと待って下さい。」
「え?」
手に取った柿を右手にピタリと止まる。
「それ。見せていただけますか?」
神奈子は怪訝な顔をしつつ黙って柿を渡す。
早苗は柿の表面を撫でるように見つめてほんの少し力を込めてみた。
「うん。神奈子様はこっちにして下さい。」
早苗が持っていた柿を神奈子に渡す。
新たに渡された柿はわずかに熟して、押せばわずかに沈み込む。色合いも少し濃すぎる。
「早苗…私そっちがいいんだけど…」
何度となく食べてきた果実は、見て触ればどの味がよりよいかすぐに分かる。
「贈り物に傷物や悪くなったものは渡せません。」
「神様にはいいの?」
神奈子は不満げだ。
「ふあ…何してんの?」
諏訪子が眠そうな顔でこちらに歩いてくる。
手に新聞を持っており、ばさばさと音を立てている。
「凄い量だね…一週間分の食糧くらい?」
「はい。けれどすぐに補充しますので大丈夫ですよ。」
早苗は上機嫌に鼻歌でも歌いそうな様子で果実の選別をしていく。
諏訪子が笑顔を浮かべる。
「ふふ…」
「どうしました?諏訪子様?」
「いんや。良かったと思って」
「?」
「早苗が元気になったみたいで」
ぴたりと手を止めて諏訪子を見やる早苗。
「何か昨日元気なかったからさ…心配してたんだよ?」
驚いた。昨日はたった一度宴会に行く前に顔を合わせただけなのに…
巫女が神様に心配させるとは。
巫女失格だ。
けれど、自分のことをそんなに見てくれている人がいるという事実。
盲目になっていた。
まるで今も一人ぼっちであるかのように被害妄想を受けて…
心が優しく香りの良いシルクの布で包まれるような心地がした。
ありがたい話だ。涙がでそうなほどに。
この幸福はかみ締めたいと思う。
「大丈夫です。私元気ですから…ありがとうございます。」
「ふふ…ところで今日の早苗…一面よ」
「?」
諏訪子が持っていた新聞をテーブルの上に広げる。
大きく横文字で書かれた明朝体は顔を近づけずとも読めた。
<赤い巫女と緑の巫女の関係性の謎ー巫女の目にも涙?>
すぐ下の大きな写真には霊夢が顔を押さえて泣きじゃくる早苗の肩に手を添えている場面が映されていた。
早苗はかあっと顔に血が上ってきた。
恥ずかしさと申し訳なさがいっぺんに突き上げてくる。
「まったく楽しそうだねえ。私も行きたかったなあ。」
「こ、こ、これ…いつ…?」
いつと言っても昨日のことに決まっているのだが、まさかあれほどの人数の中、
天狗が自分に注目して記事にしているとは夢にも思わなかった。
しかもトップで。
ーどうしようーこんな記事ーまた霊夢さんに迷惑をー
「早苗?」
心配そうに覗き込む諏訪子。
「ど、どうしましょう?こんなの…」
「ううん…霊夢が早苗を泣かしたのか?って記事では邪推されてるけど…そんなことないんでしょ?今日の早苗見てる感じじゃあさ」
その通りだ。
むしろ霊夢がいなかったら、また暗く沈鬱な気分が心を支配していただろう。
神奈子が記事を読みながら言う。
「そうだね。早苗が泣かされてるっぽいね」
「ああ…そんな誤解を。じゃあもっとたくさん入れないと…お詫びの意味でも…」
「あ、それ霊夢のとこに持ってくんだ?」
早苗は頷く。
昨日の感謝の意味も込めて、色々と持って行こうとは思っていた。
けれどまさかこんな記事にされているとは。
もっと多くの物を詰め込まないと。
だが霊夢はあんな記事気にもしないような気もする。
笑い飛ばすか、反応すらしないかもしれない。
霊夢はもう起きているだろうか。
今の時間帯だと寝ているかもしれない。
寝ていたらそのまま置いてこよう。
二日連続で訪問するのも馴れ馴れしい気がするし、重い女だと思われたくない。
自分はこれほど霊夢のことを考えているけど、霊夢はきっと自分のことなどまったく考えていないだろう。
いつも神社にいるだけで山のような訪問客がいる。
人気者は自分から動く必要もない。
宴会で中心になっていた霊夢は、普段の生活でも皆一目置いている。
皆が霊夢との時間を望んでいるようにも感じる。
気楽に気ままに生きているように見えて、空気も読めるし、気も利く。
誰にでも好かれるというのは難しいものだ。
しかし、霊夢には確かにその類まれな要素がある。
その引力で周囲の人妖の心を引きつけて離さない。
自分もすっかり参ってしまった。
霊夢と一緒にいたい。
できればほんの少しで良いから自分を特別に見て欲しい。
けれどそれは厳しいだろう。
ライバルが多すぎるし、霊夢は人によって態度を変えたりもしない。
それが好かれる要素でもあるのだけど。
でも構わない。
たまに訪問してお話できるだけでも幸せだ。
ああ…でも願わくば…
いつの日か…
霊夢が自分の意思でこの神社に遊びに来てくれますように…
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
布団から起きて眠気眼を擦り、気だるげに身を起こす。
春眠暁を覚えず。この時期の朝は際限なく惰眠によって浪費される。
二日酔いになるほど飲んだわけではないが、酒を入れない時には決して起こらない鈍い痛みが側頭部に走る。
酒と十分な食料を腹に入れての夜更かし。そしてこの春の日差し。
これほどの安眠の要素が重なれば、二度寝三度寝も仕方あるまい。
今朝は何度起きようとして失敗したかわからない。
のそのそと歩いてとりあえず草履を履いて空を見上げる。
太陽はもう高い。
昼前といったところか。
昨日大勢の人妖がいたとは信じられないぽっかりと空いた神社の空間。
いつもながら不思議になる。
人はどこから集まり、どこに散っていくのか。
「ん?」
神社の裏口の前にまた箱が置いてあり、霊夢は屈んでみた。
なかなかの大きさだ。木製だが重厚感が滲み出ている。
守矢神社と小さく書いてある。
箱を持ち上げるとどうしてなかなかの重さで一度目は失敗した。
二度目は腰を据えて力を入れて持ち上げる。
「よっと」
これは霊夢と同じ年代の女子では相当きついのではないかと思う。
二日続いて贈り物を持ってくるのは初めてだ。
一体どうしたことだろう。
「お寝坊さんね」
もうほとんど驚くこともなくなった唐突なスキマからの声。
「あんたにだけは言われたくない」
背中から聞こえる声に振り向きもせず、木製の箱を漁る。
中身は昨日のものよりさらに豪勢になっている。
しばらく食糧事情が改善されるのではないかというくらいだ。
「ん?」
見ると箱の下に紙きれが入っている。
ゴミかと思って取り上げると小さく丸い可愛らしい字でメッセージが書きつけてある。
(昨日は本当に申し訳ございませんでした。これはほんのお詫びです。
お休み中起こしてしまっては悪いのでここに置かせて頂きます。
どうか愛想を尽かさず、これからもお付き合いのほどよろしくお願いします)
霊夢はふっと笑った。
愛想を尽かすなんてあるはずないのに、この文面と綺麗な文字からは芯から謝罪したい気持ちが滲み出ている。
ー根は真面目なのねー結局ー
後ろに気配を感じるとさっと紙片を胸元に隠す。
「もう…見せてくれてもいいじゃありませんか…」
紫が切なげな声を出す。
どうして隠したりしたのだろう。
別に大した秘密が書いてあるというわけでもあるまいに。
けれど…
早苗が丁寧に書いてくれたこの紙片を…
どういうことか自分だけのものにしておきたかった。
無視してその場から動き、
荷物を整理してお茶を淹れ始めても紫はついてきた。
「山の巫女からですか?」
本当に勘だけは良い妖怪である。
反応しない霊夢の様子で紫は分かったようだった。
「でも、なんか意外でしたね。あの子」
すこし面白げのなさそうな棘のある口調だった。
「意外?」
湯飲みに伸ばした手が止まる。
紫の言うことにいちいち反応するのは面倒なのでほとんどをスルーしているが
この時はつい聞きかえしてしまった。
あの子 についてどのようなことを言うのか、自分でも意識しない程度に微妙な興味があった。
「ほら。意外とおとなしいっていうか。泣いちゃったりして…楽しい宴会を白けさせるようなことしないで欲しいっていうか。」
見ていたのか。まるで分からなかった。
「…」
「いつもはやかましいくらいに煩くて自信たっぷりなのに、安定しない人間は一番付き合いづらいわ。」
何だろう。別段変わったところはない。
いつもの会話といつもの空気。
下らぬ与太話。
心波立つこともなく、心浮き立つこともなく。
ただ退屈で心地よい話がどこまでも続くだけ。
なのに。
身体の芯の部分にどうしようもない不快感が生まれた。
胃もたれのような…
二日酔いとも思ったが、昨日はそれほど飲んでいない。
いつまで経ってもお腹が空かないような不健全な血の巡りを感じた。
こんな風になるのはどんな時か。
体調を崩した時を除けば…
自分の悪口を聞いたとき?
いや、そんなの気にしたことはない。
異変の解決に手こずった時?
困難の中にも楽しみを感じる機会は多い。
どんな時だろう…めったになることはないのに…
加えて胸が痛む。
自分が何か言われた時よりはるかに鋭利に。
何気ない、それほどの悪意もない紫の言葉が
どことも知れず突き刺さってくる。
「やっぱり私は霊夢の方が断然好きですわ。同じ巫女でも」
そう言って笑顔を浮かべる紫。
紫の笑顔も普段は割と鬱陶しいながらも安心する要素があるのだが、
今はそんな要素も一切感じなかった。
「紫」
名前を呼んで話を遮った。
そして紫にこっちこっちと手招きする。
紫は話を止めてこちらを見る。
笑顔を浮かべて手をつきながら近づいてきた。
「何です?霊夢」
ぴんっと紫の額にでこぴんをした。
紫は いたっ と言うと距離を置いて両手で額を押さえた。
紫の顔には ? マークがいくつも浮かんでいる。
「人の悪口なんかでお茶を不味くしないでよね」
「わ、悪口だなんて…そんなつもりは…」
涙目で訴える紫に反応せずに、茶をすする。
我ながら勝手なことを言っていると思う。
いつもは率先して人の悪口を言って、お茶の肴にすることもある。
他人が悪口を言った時ばかり諌めるのは理屈に合わない。
けれど、そんなのどうでも良くなるくらいに、
今の紫の話は不愉快だった。
いつもの話に比べればマイルドと言えなくもないのに、どうしてこんなにかき乱されたのだろう。
誰にも過去がある。
美しい思い出だけではない。
触れられたくないものや、忘れてしまいたいもの。
唾棄したいものもある。
そのすべてが人格を形作っている。
一切の過去と関係性のない自我など存在しない。
かといって生まれつきの気質、能力、思考の方向性も大きい。
その両方が人の土台だ。
しかし、早苗に至っては、やはり過去の比重が大きいような気がした。
本来のありのままの自分を歪めて強制的に捻じ曲げてきたのだろう。
昨日の早苗は体調不良や気分が乗らないという類の様子ではなかった。
きっと自分が想像できないようなことを体験してきたのかもしれない。
外の世界はこちらの世界とはまた違った悪意や恐怖に満ちているのかもしれない。
生まれた時からこちらの世界にいる自分からすれば、外の世界の人間、制度、文化など
知る由もないが、悲しみのない理想郷のようなものではないことだけは感じられた。
早苗は微妙な立場にいる。
心から気が休まることはあるのだろうか。
そんな相手はいるのだろうか。
場所はあるのだろうか。
生まれた時から割と恵まれていて、悩みらしい悩みももったことのない自分が想像しても
陰鬱とした気分になる。
自賛するわけではないが、早苗は自分を嫌いではないと思う。
もし、嫌でなければ、自分が早苗の落ち着ける場所になれればと思う。
自分の言葉で空気を悪くしたと思ったのか紫はあたふたと話題を変えた。
「あ、そ、そういえば今日の午後にお茶会するんだけど、霊夢も来ませんか?」
「お茶会?」
「はい。幽々子のところでね。皆何か持ってくるんですが、霊夢は手ぶらで構いませんよ?」
まったく暇で艶やかなことをしている。
あの手この手で暇を潰すこの地の住人。
巫女にとっての業務はそれはそれは少ない。
異変解決など忘れたころにやってくる程度の頻度だし、
境内の掃除や手入れも義務ではない。
用事などいついかなる時でも皆無に等しい。
ありあまる時間をお互いの創意工夫によって処理していく。
思いつき、捏ねあって、擦り合わせて練りこんでいく。
自分もそうした人間の一人。
どんな誘いも間髪入れずに承諾する。
それがもはやここの常識。しかし、今日ばかりは…
「ごめん。今日の午後はちょっと…行けないかな」
「え?」
素っ頓狂な声を上げる紫。
無理もない。
いついかなる時も霊夢は乗り気でないように見えて何でも参加する。
「どうして?」
ほとんど反射とも言える紫の疑問符。
「ちょっと用事」
「用事?霊夢に??」
悪意はないだろうが、相当無礼にも聞こえる。
確かに自分からどこかに出向くということはほとんどなかった。
いつも鬱陶しいくらいに大勢の客が来る。
客足は神社には絶えない。
自分が留守の時に訪れた者は用事があれば二度手間になる。
そう考えると自分からどこかへ出るのは効率が悪いし、さして意味がない。
けれどもそれに不満を持たなかったということは、それほど外の世界に働きかける意思が希薄だったことを意味する。
この世界の番人、管理人とも言える巫女を標榜しておきながら、さしたる興味も愛着もなく生きてきたことを思うと
少々のきまり悪さを覚えた。
そして用事があるなどということは他の人妖であれば他人に告げる必要もほとんどないはずなのに。
自分がここを離れれば、やはりすれ違いになる者は多いだろう。
ほとんど感じたことも無かったが、巫女の身分に初めて不満を覚えた。
これからは何でも受身に対応するのではなく、能動的に生きていってもいいかもしれない。
昨日も見ていた遠くの雪山を眺めながら、霊夢はそんなことを考えていた。
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誰も居なくなった縁側。
神社に訪れた客人もあまりお目にかかることができない上機嫌の巫女が一人で座っていた。
一人でいるのに顔をほころばせて。
お昼は既に済ませた。
食休みをしたらお出かけの準備をしようと思っていた。
昨日と同じように素足をぶらぶらと遊ばせる。
昨日よりさらに日差しは温かく、日光にさえ当てておけばもはや寒さは感じなかった。
考えていることも昨日とは違う。
不満を押し隠した無表情で
昨日は菓子のないお茶の乗り切り方を考えていた。
今日は…
ずっとあいつのことを考えていた。
昨日いつもとはまったく違う一面を見せたあいつのことを。
人の人格は一枚岩ではない。
誰もが違う自分の姿を持っている。
隠そうが意識しようが間違いなくある。
きっと外の世界の方が、それを強制されることが多いのだろう。
昨日の早苗が違う一面を見せたお返しに、こちらも違う一面をお見せしよう。
いつもは遊びに来た客人をもてなすだけだが、
この霊夢も自分から遊びに行くこともあるということを。
身体を揺すって鼻歌を口ずさみながら、何もせずに今日の午後を想像する。
二日連続の贈り物のお返しに今日は何を持っていこうかな。
あいつは何が好きだろう。何を持っていけば喜ぶだろう。
庭先のさらに勢いを増す梅の開花に目をやりながら…胸の内は弾んでいた。
なけなしの貯蔵の何をやっても惜しいとは思わなかった。
そして…今日の午後
訪れたらきっと見せてくれるであろう早苗の笑顔を思い浮かべていた。
何もかも緩慢で抑えがちな冬も終わり、人間をはじめどの生物も行動を開始させる時期。
霊夢は遠くに見える雪山を眺めつつ、茶碗を傾ける。
縁側に素足をさらしていてはまだ寒い。けれど我慢できないほどではない。
緑茶から立ち上る湯気も大分薄く見えるようになってきた。
冬は冷たく張りつめた大気が望まなくとも身を引き締めさせたものだが、
やはり気温の上昇は何よりも人に優しい。
寒さへの我慢と縁側で梅を視界に楽しませる風流を天秤にかけ
もう風流の方に傾くほど、寒さは和らいでいた。
お茶菓子など必要ない。
春は自然が香らす優美で軽やかな匂いを楽しめれば、お茶の肴としては十分だ。
冬は冬でお茶の温かさが貴重となる。
冷えた手を茶碗で温める快感があれば、これも十分。
夏は冷茶。
秋は月に虫の鳴声。
季節に合わせて心をかよわせれば、いつでも菓子など節約できる。
我慢せずとも。
お茶をまるで喉に押し込んだ食べ物を流しこむ用途にしか考えていない輩もいる。
けしからん話だ。
あくまでも主体は茶であるというのに。
茶菓子などいらない。
それが必要なのは感性の鈍い享楽人だけであり、
精神世界に住む人間は必然的に必要とするものは減っていく。
霊夢は自分を過大にも過小にも評価していなかったが、こと茶においては一家言があった。
腹がぎゅるぎゅる鳴る音、これだけが上流の雰囲気を壊す不協和音。
ぐっと腹に力を込めたり抜いたりしながら、どうすればこの音を消せるか
姿勢を変えつつ試行錯誤していると
縁側の砂利を踏みしめる音が聞こえてきた。
とりあえず顔も向けずに行為を続ける。
ここにくる客人は多い。
いちいち反応などしていられない。
自分の目の前で誰かが止まる。
足先が見えたので仕方なく頭を上げると
両手に多くの荷物を抱えた早苗が立っていた。
肌つやも血行も良く、第三者がいれば自分とは対照的に見えたことだろう。
緑の巫女は首を軽くかしげてにこっと張り付けたような笑みを浮かべる。
「こんにちは霊夢さん。いい天気ですね!」
霊夢は、はあっとため息だけついてぽりぽりと背中をかく。
「ああ…元気そうね、朝っぱらから…」
「顔色悪いですよ霊夢さん。ちゃんと朝食べました?」
「これが朝ごはんよ…」
そう言ってもう湯気も出なくなった茶碗を傾ける。
早苗は荷物を置くと気の毒そうに頬に手を当てる。
「そんなことだろうと思いました。霊夢さんは冬を越すために兵糧を蓄えていますが、
この春先が、食料も尽きかけ、餓死寸前まで追いつめられる時期ですもんね。お辛いでしょう」
「私は熊か。別に、朝はお腹空かないだけよ」
づけづけと言いたいことを言う新参者の山の巫女、早苗。
最近では異変に携わった数も増え、異変解決のレギュラーと見えなくもないが、
自分から見ればまだまだルーキーだ。
まったく先輩への礼儀というのを知らない。
まあ礼儀が分かる人間や妖怪などこの世界にはいやしないけど。
「じゃあこれいりませんか?」
早苗がしゅるしゅると荷物の帯を解く。
白米や酒や煎餅といった飲食物が大量に詰められている。
霊夢はあっけにとられて荷物と早苗の顔を見比べた。
早苗はにこにこ笑っている。
霊夢は荷物を指さし自分の顔を指さし首をかしげる。
早苗はこくこくと頷く。
しばし呆然としていた霊夢の目が潤んできた。
「霊夢さんお茶こぼれてます。」
動揺のあまりかたかたと両腕が震え、茶碗の中身がびちゃびちゃとこぼれている。
しかしそんなこと意に介さない。
まったくもったいなくない。
もともとこのお茶の葉はもう8回は出した出枯らし中の出枯らし。
わずかな味も見極められるようになったこの霊夢の舌をもってしてもお湯にしか感じられない無色透明の液体。
豊かな緑色を探して目を凝らしても、誰がどうみても白湯だ。
「え?まじに?」
「はい。差し上げます。」
「お返しとか何もできないけど?」
「必要ないですよ。困ったときはお互い様です。」
「さ、早苗…」
感極まって立ち上がり、履物を履くこともことも忘れ、素足で砂利を踏みつけジャンプして早苗に飛びつく。
「ありがとう!ありがとお~!」
胸に顔をうずめてくる霊夢の頭をよしよしと撫でる早苗。
霊夢は泣きべそをかいていた。
「うう、お茶菓子欲しかったのぉ…お茶だけじゃ口の中が苦くてぇ…」
「苦くもないですよね?これ白湯じゃないですか」
早苗を無視して顔を巫女服にすりつける霊夢。
「あんた…なんていい奴なの…これほどの贈り物を…」
「いいんですよ。うちにはまだたっぷりありますし、余ってるものですから。」
霊夢が身体を離して早苗の肩をつかむ。
「え?余り?あんたんとこまだまだ食料あるの?」
「ええ。いろんな人が持ってきてくれますよ。信仰心の強い方が多いですね。」
「…なんでうちにはこないのよ…」
「信仰が足りないんです。さっきお賽銭箱を見てきましたが、全然掃除してないですよね?
見た目は大きいですよ。
汚れている場所はありがたみに欠けるんです。
外の世界では人は見た目が十割とも言います。
信仰も同じです。」
「掃除?」
ちゃんとしてるつもりだけれども。
もっとも掃除にもエネルギーを使う。
養分の足りぬ冬に熱を奪う極寒の屋外で掃除をし続けていれば、比喩でもなんでもなく気が遠くなる。
なるべく手早く片付けてしまおうとなおざりにはなっていたかもしれない。
「そして何より広告が足りません。
どれほど信仰が尊いか、そしてこの神社がどれほど信仰と密接に結びついているか知らせるんです。」
「ううん…面倒…というか、どうするのそんなの?ノウハウが足りないわ。」
「簡単なものからで構わないんです。
里でお祭りがあった時には、差し入れを大量にするとか。
まず有力者にターゲットを絞って狭い空間で集中的に信仰の講釈を垂れるとか。
集団の指導者に理解を受けられれば、その後は容易いものです。」
「差し入れがまず先立つものとしてないけど…はあ…買収と洗脳ねぇ…」
「最初は大変かもしれませんが、後で何倍にもなって返ってきますから大丈夫ですよ。」
霊夢は再び縁側に腰を下ろした。
「そういう器用なことはできないわよ。やっぱり人それぞれタイプがあるしね。」
「器用…」
その時、早苗の表情に微妙な変化が見られたような気がした。
さきほどからリラックスしているように見えた早苗からは感じなかった、
腑に落ちないような違和感を隠しきれない表情。
しかし、霊夢の言葉に対して不満があるという風ではない。
あくまで予想しなかった会話の流れの中で、魚の骨が喉に引っかかるように
心のどこかにそのワードが引っかかったようだった。
「まあいいや。あ、そういえば今日宴会あるのは知ってる?」
「知ってますよ。」
「あんたも来るんでしょ?酒も持ってきてくれたみたいだし。」
「今日は遠慮しておきます。神奈子様も諏訪子様も昨日から飲み明かして酔いつぶれていますし
今日は出席できないと思うんです。
なので今日は…」
「え?そんなのあんた一人でくればいいじゃん」
「え?」
「え?」
霊夢はなんかおかしいこと言った?という感じにもらったばかりの茶菓子を口に含んでもごもご話している。
早苗はじっと霊夢の膝あたりを見つめて、微動だにしない。
霊夢は早苗と会った時から感じたことのない奇妙な雰囲気を感じた。
特に変なことを言っているわけではない。
早苗は宴会でもわりと誰とでもうまく合わせられるし、神奈子や諏訪子と一緒にいつつ、酒をつぐなどの気配りもでき
正直、常識がぶっとんでいる客どもの中では重宝する。
別に一人になるときもあった気がする。
なにより散らかったままの神社の片づけをしてから帰る奴らなど絶滅危惧種で、早苗はその貴重な役割の一端を担っている。
宴会前の神社の状態に戻すのに、一人でも協力者が増えると段違いに迅速になる。
そしてこんな差し入れを持ってくる奴はそうそういない。
神社の宴会は何者も拒まないが、何者も歓迎しているわけではない。
そのなかで数少ないどちらかと言えば歓迎カテゴリーに入る人間である。
まあ早苗も傲慢で大胆で不遜で常識に欠けたメルヘンであることに変わりはないが、
相対的に見ると恐ろしいことにこれでもマシな部類だ。
別に遠慮することなどないが、遠慮などする人間だろうか?
早苗の顔に浮かんだ戸惑いにも似た狼狽の色は一瞬で消えうせ、
また信仰営業をする際に浮かべるようなわざとらしい笑顔を浮かべた。
「ふふ…寂しいんですか?霊夢さん。霊夢さんが出てほしいなら出てあげてもいいですよ?」
「別に無理にはいいけど」
別に腐るほど勝手に押し寄せる客人をさらに増やそうとする理由などない。
今でも相手にしきれないほど多くの客人に話しかけられ、酒を楽しむ本来の目的さえも霞んでしまうほどだ。
手伝いは確かに助かるが、いなくても差支えもないし、特にこいつと話したいこともない。
実際本心からそうだ。
早苗は笑顔を浮かべたままくるりと背をむけた。
「では今日はこれで。その差し入れ、生ものは早めに食べて下さいね。」
「はいはい。言われなくても。恩にきるわよ。」
早苗はそのまま軽やかに機嫌良さそうな足取りで去っていく。
おや?と思った。
その後ろ姿を見ながら、霊夢はあまりお目にかかったことのない姿を見ているような気がした。
と言っても異変の時に感じるような極端な気温の変化や霧や花の増加などといったものではない。
ここの住人は決してそうはしないような振る舞い。
つまり自然体に振る舞わないこと。
そんなこと言うまでもないというふうに、まさに傍若無人の根無し草な生き方を実行するここの住人にはまず見られない
いや、一度も見たことのない姿だ。
今までここの住人どころか早苗からも一度も見たことのない、不自然な姿。
まるで道化。
早苗は今、機嫌が良いように演技をしていた。
なぜ?
そんなこと知らない。
誰に?
無論、私に。他に誰もいない。
この間の抜けた気楽な世界とは調和しない歪なものを見た気がして、
霊夢は早苗の背中が見えなくなるまで、目を離せなかった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「ただいま」
誰にも聞こえないように、意識的に声を潜めて早苗は言った。
神奈子や諏訪子の耳に入って色々と話しかけられるのも、今は面倒だった。
履物を脱いで、いそいそと奥のプライベートルームに急ぐ。
早歩きで、余裕のない足取りで部屋に入るとすぐに襖を閉める。
ここまで相当急いできたせいで息が整わない。
不自然なところがなかったか、脳内でほんの少し過去の会話を再生させてみる。
思い出されるのは、霊夢の来なくても別にいいという宣言。
霊夢は誰にでも言うのだろう。
誰のことも憎まず、誰の贔屓もしない。
ずっと一緒に異変を解決してきた白黒の魔法使いも
最近の異変でよく神社に入り浸るようになった妖怪も
霊夢はほとんど扱いに差を設けない。
ある意味究極の平等主義とも言える。
かといって人間味がないわけではない。
誰よりも自由に振る舞い、何にも縛られず、やりたいことをして
言いたいことを言って、聞きたいことは聞いて、腹が立ったら批難する。
そこにはなんの打算も考えもない。
今後の人間関係や信頼が崩れるかどうかなんてことは頭にない。
ただ今がどうであるかが霊夢の唯一の基準。
合理的にして退廃的な自由人。
巫女としての責務はあるのだろうが、それすらも感じさせない
底抜けの自由を感じる。
きっと自分は今まで感じたことのない、そしてこれからも感じることはないであろう
絶対的自由を持って彼女は生きている。
羨ましくてしょうがない。
巫女という立場は似ている。
おそらくこちらの世界で霊夢の立場と一番近いのは自分だろう。
しかし、あまりにも違う。
心の中、考え方、振る舞い。
きっと霊夢は悩んでなどいないのだろう。
自分が喋ったことを後悔したり反省したりすることもなく
気ままに、どこまでも勝手に…誰に気をつかうこともなく。
どこまでも自分で規制を設けて一挙手まで意識して生きている自分とは違う生物にしか見えない。
今日だってそうだ。
差し入れを持っていったのも、
それがないと口実がないから。
ただ行きたかっただけ。
それを正直に言うこともできない。
結局最後まで言えなかった。
宴会にだってそうだ。
余計なちゃちゃを入れず、出席すれば良かった。
けれど、一人で行くのには、いまだに勇気が足りない。
一人で行くこと自体は問題ないはずなのに。
一人と強く意識してしまうこと。
これは絶対の禁忌だった。
宴会に行けばそこはいつもとはまるで違う世界。
人口密度は低く、ほとんど妖怪同士でも偶然に出会うことは少ないこの世界において
宴会ではどこから集まってきたのかというほど多くの人妖が集まる。
日常ではまず見られないけたたましい声。
堕落の極みのようにも見える宴会を否定したいわけではない。
むしろ自分も参加して和気藹々と自然に溶け込みたいという願望は持っている。
けれど、自分はそこにふさわしくないともう一人の自分が規制をかける。
そして、宴会のざわめき、大声、叫び声、笑い声が、まるで関係ない違う世界の声を思い出させる。
こちらの世界に来て、最初に宴会に参加するのも大変だった。
神奈子や諏訪子がいなくてはまず無理だったろう。
数え切れないほど宴会に参加して今では大分慣れてきた。
大声も出すし、人の悪口、こけおろしも何の躊躇もなく口にする。
すっとんきょうなことを喋り、下らぬ相手の話にけらけら笑う。
誰がどう見ても傍若無人な巫女。
貞淑なんて言葉からはきっと間逆に見えているだろう。
きっと霊夢以上に。
けれど決定的に違う。私だけは知っている。
目を瞑ると声無き声が聞こえてきた。
すべては過去に聞こえてきた有象無象の雑音。
意味を持たない群集の呻き声。
それはこちらの世界の妖怪や人間の宴会のざわめきだった。
しかし、まったく違う世界の声が段々と混じってくる。
意味が聞き取れないという意味では同じでも、その混じってきた声は、
カラフルな色にどす黒いインクを流し込むかのように不要で不愉快なものだった。
ー駄目だってばー
己で強く封じ込めようとする。
ー余計なことは考えないのー考えないー考えないー
どうにかこうにか暗示をかけようとするが、膨れ上がる思考は己の意思をまったく汲み取ろうとせず、
無秩序に心を蝕んでいく。
おぼろげだった霧が段々と形をなしていく感覚。
そのまったく望んではいない感覚に思わずため息が漏れた。
ーああー良くないーこれはーもうやだー
眠ることもなしに、望むこともなしに、早苗の意識は沈み込んでいった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
どっと笑い声が聞こえる。
びくりと身体を震わせる。
教室に入ろうとする足が止まる。
あと10メートル。
その距離が永遠のように感じられる。
決して自分を受け入れてくれない世界との断絶の距離だ。
肩も足も、落ち着かせようとするほど震えてくる。
こんな状況では余計に彼らを刺激してしまう。
ただいつも通りに
変わらずにいけばいい。
どうしてこんなことを考えているのだろう。
誰もこんなことを考えながら教室に入らない。
そんなことを考える必要はないのに。
自分だけがこの困難な精神的ハードルをやっとのことで越えなければ入ることができない。
時計に目をやればもうチャイムが鳴る時間。
もう先延ばしにはできない。
早鐘のように打つ心臓の鼓動を意識しないように心に働きかけながら
教室の扉を開ける。
外まで漏れてくる大音量のわめき声にも似た話し声が
明らかに分かる程度に小さくなり、多くの目が自分に集中する。
必死に冷静を装うが、これほど無駄な努力もない。
いつもの顔色で席につこうとするが、これほど熱くなる顔は学校だけだ。
嘲笑にも似た笑い声を、自分に対してではないと言い聞かせ窓際の自分の席へと向かう。
そして、椅子をチェックする。
同じ轍は踏みたくない。
何もない。予想していた望ましくない物体はそこにはなかった。
昨日の激痛が思い出され、腰に手を当てた。
刺さったのは尻だったが
あれは想像以上の苦痛だった。
本来は掲示板などに紙を留める役割の…画鋲。
今日はその忌々しいものはなく、机を見ても落書きなどはない。
ほんの少し安堵して、椅子に腰を掛けてバックを下ろす。
嫌がらせなどというのは反応しなければやってる側は飽きるものだ。
とにかく、自分が苦しんでいる姿を見せてはいけない。
暴力に快感を覚えるサディスティックな人間は、それを見たくてしょうがないのだ。
決して、決して表情を崩さないように心掛けてきた。
ついに乗り切ったのかもしれない。
高校生という時代は健康な肉体を持て余し、常に愉快になれる事象にアンテナを巡らせ
見逃しはしない。
少しでも退屈だと思えばあっけないほど波が引くのは早い。
彼らはついに諦めた。
ついにこの苦痛からも解放される。
とりあえず一限の教科書を用意しなくてはならない。
机の中に手を入れた瞬間、ひやりという感触があった。
ほんの少しの時間をはさんでやってくるちじみ上がるような激痛。
「いっ…つ」
思わず声を上げてしまう。
反射的に手を引くと手の先からぱたぱたと鮮血が床に飛び散る。
右手の人差し指と中指に鋭利な刃物で切ったようにぱっくり裂け目ができ、
どくどくと出血していた。
なんの構えも警戒もなく勢いよく手をいれてしまったので被害も大きくなった。
まさか机のなかに刃物をセットしていようとは夢にも思わなかった。
ご丁寧にテープで、表面と平行になるようにがっちり固定されている。
血の量に狼狽えて思わず立ち上がった。
その時、ななめ2メートルほどのところにいた男子学生がガッツポーズをして立ち上がった。
「っし!」
まるでサッカーのシュートを入れた時のように喜びを全身に表す男子。
教室を笑いが包んだ。
その学生の首に手を回す学生が興奮しつつ言う。
「ほら!言ったろ?気づかなかったじゃん!」
「ばっか。入れたのは俺だっつの!」
取り巻きらしき女子たちもけらけらと笑う。
「ちょっと~男子ぃ~かーわーい~そ~お~」
「はあ?昨日より過激にしろっつったのおめえだろ?」
「え~しらなーい」
仲良さそうにじゃれ合う男女混合グループ。
ハンカチを患部に当てる。
みるみるうちに赤く染まるハンカチを見て、恐怖を感じて教室を飛び出した。
水道に向かって一直線に駆け出す。
右手を差し出す。
右手から滴る血が排水溝に向かって小さく細い赤い川を作って流れていく。
蛇口をひねり、水に当てても痛みはまったく引かず、
冷たさをもってしても、まだ痛みの熱さが勝っている。
何分そうしていたろう。本当はさっさと止血するべきだったのに。
気が動転して冷静な判断が下せなかった。
しばらくして水を止め、再びハンカチで右手を包んだ。
そしてポケットに入れていた絆創膏を傷口に張り付けた。
傷は大きく、一枚では塞げなかったのでそれぞれ三枚ずつ使った。
とりあえずさっきのような出血は止まった。
まだ心臓は動悸を打っている。
気持ち悪いほど早く、不気味に。
このまま不整脈でも起こして倒れてしまいそうなほど気分が悪かった。
そのままふらふらと教室に向かって歩き、教室に入る。
既にホームルームは始まっていた。
担任の教師がねっとりとした目でじろりとにらみつけてきた。
「おい。遅刻か?」
「え?いえ…」
なんと答えればいいか迷っていると
一人の女子が手を挙げる。
「せんせー。早苗さんは遅刻じゃないでーす。ほら鞄あるでしょ?」
女子が早苗の机を指差す。
「そうか。じゃあトイレか?」
答えに窮していると、無視されたと思ったのか教師は苛立ちを含んだ声を出した。
「なんで始まる前に行っておかない?」
「は、はいすみません…」
青白い顔をしつつ席へ向かう。
回りからはあけっぴろげにはできない笑いを押し殺した声なき声が聞こえてくる。
席に着き、机を眺めた。
まだ朝。
果てしなく続く一日はまだ始まったばかりだ。
絶望のあまりめまいすら覚える。
まるでもう一つ心臓ができたかのようにズキズキと鈍い痛みがする右手を押さえながら
雑音にしか聞こえない担任の話にただ耳を傾けるふりをしていた。
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授業中も、話に集中などできない。
これから起こるかもしれない不愉快な惨事を想像しては胃を痛めるばかり。
あと10分。
そう、休み時間まで。
休み時間までカウントダウンが始まる時間帯になると生きた心地もない。
誰もが早く授業が終わり友人達と束の間の休息を過ごせることを待っている。
けれど私はまったく逆。
授業こそが束の間の休息。
何が起こるか予想できない、そして大抵は予想より酷いことが起こる休み時間に対して、なんと気楽なことか。
あと5分。
心臓が早鐘を打つ。
まるで審判の時が近づくように、試験の結果を待つ学生のように、近づくその時。
授業終了の鐘が鳴る。
いつ聞いても獣たちを野放しにする合図にしか聞こえない、地獄の鈴の音。
しかも、ここが学校で最も不快な時間帯。
昼休み。
この高校は昼休みが1時間もある。
前は40分だったというのに、校長がのたまう自主性を育み、ゆとりのある生活を送らせるために必要だとかいう理由で
有難迷惑では済まない狂気の変更がなされた。
当然部活や帰宅の時間もその分遅らせる。
不思議なものでこれほどの傷を指先に負ったばかりなのに、ほとんど痛みを感じない。
痛覚よりも優先されるものはこの世には案外多い。
教師が去るやいなや教室は動物園に早変わりする。
どうしてそれほど大きな声を出す必要があるのかというほど、狭い教室で大声が反響する。
本当に愉快なのか、愉快じゃないのに、必死に人生を楽しんでいることをアピールしているのか。
それとも将来の不安を吹き飛ばすためか
暗黙のお互いの結束を確認するためか。
自分が標的にされる行為は、彼らが感じている以上に深層の心理が関係していそうだ。
しかし、どんな理由だろうが関係ない。
彼らに理由があろうとなかろうと、良心の呵責があろうとなかろうと、自分が害を受けている事実は変わらない。
ただ、自分はそこに不幸にもめぐり合わせたに過ぎない。
早苗は自分のバッグを持ってトイレに向かった。
バッグを置いていくと何をされるか分からない。
実際バッグをズタズタに引き裂かれてからまだ10日も経っていない。
少ないお小遣いでは足りず、母にお金をねだるのは非常に大変だった。
もうこれ以上お金がかかる被害は避けたい。
外靴も何もされないようビニールに包んでバッグに入れてある。
小走りで荷物を抱えてトイレへ急ぐ姿を晒しながら、
今の自分を見て違うクラスの人間も教師も自分を笑い蔑んでいるように感じていた。
毎日定位置の個室に入る。
鞄を扉についている鞄かけのフックにかけて蓋をしたままの便座に座る。
腕時計をチェックし、休み時間が始まって90秒が経ったことを確認する。
戻るのにベストな時間は分かっている。
休み時間の終わる1分前。
ここから教室までは30秒だ。
席に着いたとしても彼らも残り30秒では何もできない。
昨日初めて考え付いた方法だった。
気付いてみれば単純だが、意外と考えない。
蓋をした便座に腰を下ろして一息つく。
学校で一番落ち着く場所でもある。
時間制限付きだが。
その時、がやがやとかん高い声が複数聞こえてきた。
遠慮なくトイレの扉を開ける音がする。
声を聞き分けるに5人は居そうだ。
クラスの中でも最も力のあるグループだということが暗然としれているグループ。
早苗にとっては恐怖と不愉快がないまぜになった吐き気を催す存在だった。
何度被害にあったか知れない。
彼女達の前ではまるで息を吸うのも許可がいるように感じ、
自分の存在自体が認められていないとひしひしと伝わってきた。
この個室に入っているのが自分だとは分からないはずだ。
他のクラスの生徒もいるし、閉じているドアにひとつひとつ声をかけることもできない。
ここで息を殺しているだけでいい。
しかし、逃げ場を失った獲物のように、動悸はおさまってくれなかった。
「はあー、うっざ」
歩くことさえ面倒だと言わんばかりの怠惰な口調の声。
これはリーダー格の取り巻きの一人。
いつもちゃらちゃらと鞄や携帯に山ほどのキーホルダーをつけている。
音だけで誰がいるのか分かるほど金属が触れ合う音がする。
どぎつい化粧は明らかに学生の度を越しているように思われたが、
それを指摘する教師もいなかった。
教師はいつも早苗に対してはあれこれと小言を言うが、
このグループの人間に対して何か言っている姿は見たことがない。
生徒指導とは名ばかりで、誰かを叱っている姿を他の教師に見せているだけでいいのだろうか。
反抗してきそうな人間は叱ることが面倒なのか、それとも怖いのか。
それにしてもこの女子はいつも うざい とか 眠い とかしか言わない。
会話が成り立っているのを見たことがない。
「ほら、くみなよ」
良く澄んだ声が響いた。リーダー格の女子の声。
くみなよ という言葉が頭で変換できなかった。
組む、汲む、酌む?
何だろう。トイレに入ってからの第一声。
既に意思疎通は済んでいたのか、聞きかえす声も聞こえなかった。
何か物音が聞こえる。
良く耳にする蛇口から放たれる水流音。
ドボドボと容器に水を入れる際の独特な音が聞こえた。
嫌な予感がした。
ほとんど間をおかずに上空から降り注ぐ水、シャワーというにはあまりに容赦のない冷たさに全身が襲われた。
外から響く笑い声と早鐘を打つ心臓。
身体は緊張と恐怖のために強張り、凍てつくような寒さにただ呆然と立ち尽くすことしかできなかった。
なんて奴らだろう。
人間らしい感情をまったく感じさせない手際の良さだった。
まだ彼女達が入ってきてから1分と経っていない。
ほんの少しでもこの蛮行に躊躇するような気持ちは沸き起こらないのだろうか。
なぜ自分がいる場所が分かったのか。
頭の中の自分が疑問を投げかける。
最初から自分がここに来ることを見通されていたのだろう。
そしてこの早さでトイレに来る生徒もあまりいない。
後を素早くつけ、ドアの閉められた個室を狙えば必中ということだ。
ひとしきりの笑い声が響いた後、あっけないほどすぐに女子の一団はトイレから出て行った。
他の生徒が来る前に退散するのだろう。
冷静な残酷さを感じさせた。
前髪からぽたぽたと垂れる水滴がスカートの上に規則的に落ちる。
しばらくすると水滴の落ちる早さは段々と緩慢になっていく。
早苗はびしょぬれになったブラウスを触ってみる。
少し押すだけで指先に水が滲んでくる。
とても休み時間中に乾きそうもない。
水分でふとももにぴったりと張り付いたスカートを眺める。
午後からどうすればいいのだろう。
適当な解決策は見つからなかった。
恐怖と悔しさで感情が高ぶり、冷静な思考を許してくれなかった。
とにかく落ち着かなくてはならない。
息苦しい。指先が異常に冷たい。水に濡れたことを考えても過度に冷えてまるで氷のように感覚がない。
心臓の動悸もいくらなんでも速すぎる。
パニックになりかけている自分をどうにか抑えつけようと深呼吸を繰り返す。
10分ほどはそうしていただろうか。
まだ身体の変調はあったが、少しは落ち着いてきた。
幸いバックの中にタオルが入っていたので、どうにか全身の水分ををふき取ろうとする。
頭からくるぶしまで、本来しなくていいはずの屈辱的な動作を繰り返しながら、
段々と濡れて吸収率が下がってきたタオルと自分の姿を重ねていた。
連日の悪意に少しずつ身体を蝕まれている。
心はとっくに毒に侵されている。
心の不調は遠からず身体にも及ぶ。
最近はまるで老人のように身体のあちらこちらに問題を抱えていた。
食欲はなく、夜は眠れず、耳鳴りがして、めまいがする。
外に違う生徒が入ってきた。
「ねえ。ここなんか濡れてない?」
「ほんとだ。ねえ、さっきバシャって音しなかった?」
「したした」
外の女生徒達は何か感じ取ったのだろうか。それからは当たり障りのない会話をしていた。
触らぬ神に祟りなしといったふうに。
ここも安住の場所じゃなかった。
きっともう落ち着ける場所なんてない。校内のどこにも。
明日からどうすればいい?
どこへ行けばいい?
どう振舞えばいい?
きっとどうしても駄目だろう。
彼らはロックオンしたミサイルのように、身も心も粉砕するまで追跡をやめないような気がした。
下の人間を見て疎外し、溜飲を下げる。
人間社会ならどこでも見られる光景にしても、彼らのそれには強い非人間性を感じた。
一言で言えば軽すぎる。
他者を攻撃する意思も、行動も、関心も。
まるで日課の洗濯のように当然のこととして実行していく冷徹さには悪寒を感じずにはいられなかった。
ほとんど昼休みすべてを使ってタオルで全身を拭いた。
意外と乾いたように見える。
もう休み時間が終わる2分前。そろそろ出なくてはいけない。
トイレの扉を開けて、鏡で自分の姿を見る。
感覚通り、思っていたより乾いている。けれど顔が濡れていた。
服に気をとられ、素肌がなおざりになっていたのかと、ごしごしと顔をこする。
再び鏡を見ると目が充血していたことに気づく。
濡れたのはさっきバケツの水を被った時じゃない。
あの時に顔は一番最初にふいたはず。
ー泣いてたんだー
だが時間がない。必死に引きつった顔を笑顔にする練習をして、足早に教室に向かった。
午後の時間は午前ほど大変ではない。
不思議なものでいつも午前中にあらかたの日課は終わってしまうかのように、穏やかだ。
午後の授業は誰でも眠くなるが、それは彼らも同じ。
午後は休み時間も寝ている人が増える。
そして意識も放課後や部活動に向かうのかもしれない。
早苗への意識は希薄になるようだった。
攻撃がないわけではないが、どこか手ぬるい。
椅子を蹴ったり足掛け払いをしたり、いまいち計画性がない腹いせにも似た嫌がらせだ。
もうこの程度ではあまり心が動かなくなっていた。
ただただ攻撃がエスカレートしないことを祈りつつ、下校までの時間を耐えていればいい。
そして、そうした時間は午前に比べれば早く過ぎる。
昼から下校までの時間は割りとすぐだ。いつものことながら。
当然部活にも入っていないので、そのまま最後まで画鋲等の類に警戒を怠らずに校門を後にする。
校外に出た時の喜びはきっと他の生徒の誰よりも大きいと思う。
開放感と安堵感が身体を満たしていく。
しかし、それも一時のことで、意識は学校へと向かう。
学校に居る時は早く帰りたくてしょうがないのに、帰ると学校のことばかり考えるのだから不思議なものだ。
家に着くとすぐにベッドにダイブする。
充実していた中学時代は、帰ってもすぐ遊びに行くか、勉強をするかといった感じにすぐ行動を起こしていた。
夜も遅くまで友達とメールして寝るのがもったいないという感触を強く持っていた。
睡眠時間は5時間程度だっただろうか。
それが今では、帰ってくるとすぐに寝る。
夜まで2、3時間。
起きて夕食とお風呂。
そして夜はいつも8時間くらい。
結局10時間以上寝ている。
それでも疲れは全然取れない。
ストレスを感じていると多くの睡眠が必要になると聞いてはいたが、予想以上だった。
高校…
どこで踏み外したのかいまいち分からない。
入学すぐではなかった気がする。
けれど友達の輪に入るのが少し遅れた自分に、からかい半分に話しかけてきた連中。
彼女達に既に悪意はあった気がする。
あの力のある女子グループの5人。
最初に声をかけられたのが彼女達だったのが運の尽きだった気がする。
「巫女さんなの?」
「家、神社でしょ?」
「じゃあずっと処女でなきゃいけないの?」
「つか、ねえその髪飾り何?蛙と蛇?マジうけるんですけど」
「しかも手作り?うわー器用…」
「はは、ありえないっしょー、蛙…くくく…」
「早苗さん、中学市内じゃないよね?なんかそういうもの買う風習ある土地なの?」
ほとんど自分が口を挟むことなく勝手に繰り広げられる会話。
嫌な予感がしていた。
決して中学の友達ように友好的にはなれないという匂い。
予感は的中した。
いや、的中したさらに先まで酷いことが起きた。
なんでここまで悪化したのか。
早苗はベッドに転がる。
ーいいよーどうでもいいーそんなのー
考えたところで詮無いこと。
意識的に思考を切断して早苗は目を閉じた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
カチコチカチコチ
規則的に響く機械の律動が静寂な部屋のただ一つの音。
やっぱりデジタル時計を買えば良かった。
部屋に時計がない、と意識したのは高校生になったばかりの時。
今まで携帯でチェックしていたから問題なかったが
勉強する際には目を上げてすぐに確認できる時計はやはり必要だと購入したものだ。
少しでも音がすればこの音はすぐにかき消される。
パトカーや救急車のみならず、乗用車が前の道路を通るだけでもまったく聞こえない。
布の擦れる音ですらいい勝負だ。
音の世界が遠ざかればとたんに存在感を示してくるこのリズム。
単調で面白味のない色彩のない音。
この音は…最近まで夜寝る時にうるさいだけの音だったが、今では違う意味合いが添加されていた。
行動への催促。
望ましくない義務の近づく足音。
止めようと思っても決して止まらず、早く進んで欲しい時にもまるで意に介さずペースを崩さない。
あまりに安定しすぎたこれが、最近は憎々しかった。
階下から聞こえる包丁を板に叩く音は既に20分前。
そろそろか…と思っていると案の定階段を上がってくる音。
鼓動が早くなる。ぎゅっと毛布を握りしめて頭まで引き上げる。
コンコン
部屋の扉を叩くノック音がこれほど嫌だと思うだなんて、昔の自分は想像できなかった。
「ちょっと!いつまで寝てるの?」
数えきれない程聞いてきた近親者の声。
いつもは精神的やすらぎを与えてくれる母の声も
今では胃液を逆流させる不愉快な不協和音。
「入るわよ」
なんの承諾もなしに入ってくる母親。
どうせ入ってくるのだから、ノックなど何の意味もない。
「どうしたの?早く起きないと間に合わないわよ?」
横向きで母親に背を向ける態勢を崩さず答える。
「頭…痛い…」
「また?昨日も言ってたわよね?大丈夫なの?今日は病院いったら?」
「だい…じょぶ…寝てれば、治りそう」
「そう?じゃあ今日もお休みの電話入れる?」
「うん」
「分かったわ。早く治しなさいね。」
それだけ言うと部屋から出ていく母。
話が早くそれほど食い下がって質問してくることもないどちらかというと淡泊な母が
こういう時はありがたかった。
階段を降りる音が聞こえなくなったあたりでゆっくりと身体を起こす。
そこで小さくため息をつく。
休めるのも今日までだろう。さすがに三日連続で休むのはまずい。
出ていったら、いつもより酷い目に遭うかもしれない。
明日は必ず行かなくてはならない。
今日一日かけて精神を落ち着かせる。
早苗は一日ベッドから出なかった。
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また朝が来る。
今日学校に行かないわけにはいかない。
とりあえず教科書を鞄に詰め、下に朝食を食べに行く。
母親と何か会話したと思うが、
最近不思議なことに何を話していたかまったく思い出せない。
気付けば、もう出なくては遅刻する時間。
何の感情もなく、人格もなく、薄い理性だけを纏ってあまりに重い玄関の扉を開ける。
眩しい光に眉をひそめた。
人の気も知らないで、今日も朝から雲一つない空から燦々と太陽光が注ぐ。
順風満帆の時は、いちいち寒いだの暑いだの雨で靴が濡れるだの不満を漏らしていたが
今となっては吹き出したくなるようなことに不満を持っていた。
人の悩みは 名前をつけて保存されるような類ではない。
より大きな悩みがくれば、小さい悩みは相対的に思考から追い出される。
昔の自分だったら朝から暑いと愚痴っていたろう。
もうそんな世界には戻れない。
ただロボットのように足を動かす。
右、左、右、左、右
鉛のように足は重いのに
なぜ足は勝手に動くのだろう。
動かしたくなどない。
家でじっとしていればいいのに。
もう死んでも学校なんか行きたくないのに。
両足には感覚がない。
俯いて眺めるつま先。
これは本当に私の足?
地獄に向かって主人の意志に反して勝手に動く足に
ただ胴体が乗せられている感覚。
望ましくない方向に自分から進んで向かっていく生き物は人間だけだろう。
ただ自分の思うがままに生きることができればどれほど楽だろう。
人には決して許されない完全な自由行動。
社会、地域、文化、性別、通念、門地、時代、国籍、年齢、
ありとあらゆる個人の性格ががんじがらめに人を縛り、
閉じた世界で与えられた期待を遂行することを求められる。
もしもこれに反抗しようとすれば、可視化できるにせよできないにせよ様々な形で制裁を受ける。
さしあたっての自分には多くのしがらみがあり、到底逃れられない。
特に成人前の時期というのはその全期間を通して重要視される。
近代文明国家では特にそうで、この時代の振る舞い、決断、勉学や進学によってその後は大きく左右される。
正直自分には高校を辞めて受けるであろう、社会から受ける声なき非難と困難な前途を考えればとても生きていけない気がした。
高校を無事に卒業する自信はない。
たった3年とは言うけれど砂漠の中で終わりなき道を歩かされるような途方もない時間だと思える。
そして高校を辞めて生きていく自信もない。
じゃあどうする。
校門が見えてくる。
胃が締め付けられる。
小さく息を吐きながらなけなしの勇気を奮い立たせる。
その時、校門の前に立っていた男子がこちらを見ているのに気がついた。
見間違いかな?とも思ったが、お互いに合った目を逸らさない。
気恥ずかしくて目を逸らしたのは早苗の方だった。
男子と目を合わせるなんて慣れた行為ではない。
しかし、その顔はよく知った顔だった。
クラスで毎日見かける顔。
この子もクラスの中では浮いた存在だった。
早苗ほどではないにせよ、よくからかわれている。
スクールカーストというやつがあるなら下位に位置するのは間違いない。
早苗も同情と親近感が入り混じった感情を抱いていた。
男子はもじもじと躊躇するようなそぶりを見せた後、後ろに回していた手を前に突き出してきた。
手には手紙のようなものがある。
というか手紙そのままだった。
「あ、あの。早苗さん…」
「は、はい」
この人の声は授業で指された時以外で初めて聞いた。
妙に緊張してくる。
「こ、これ読んでください」
早苗の手に押し込むように手紙を握らせる男子。
「が、頑張って下さい」
そのまま校舎入り口に走り去る男子。
早苗は貰った手紙を裏返してみる。
ハートのシールで封をしてある。
早苗は徐々に赤面していく自分に気づいた。
急いで手紙を鞄に入れた。
どういう類の手紙だろう。
しかし、異性に渡す手紙の用途など限られている気もする。
そして渡す時の雰囲気と激励の言葉。
似たような境遇にいた自分への親近感を男子の方でも感じていたのかもしれない。
早苗は何ヶ月かぶりに笑顔らしきものを浮かべている自分に気づいた。
ーあなたもー
ー頑張ってー
胸のうちで男子の幸福を祈りつつ、校門をくぐる。
今日も今日とて地獄のような日々が待っているだろう。
けれどきっと昨日までとは違う。
少なくとも楽しみがある。
人は希望、期待の類を抱いている限り、真の意味で追い詰められることはない。
少なくとも今日帰って彼からの手紙を読むことを楽しみに、今日を乗り切れるかもしれない。
早苗は、いつもよりは落ち着いている自分の鼓動に気づいていた。
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思っていた以上の苦痛だった。
放課後の楽しみなど、吹き飛ばしてしまうほどの。
昨日の悪夢をさらに上塗りするおぞましい一日だった。
帰ってくるまで、切り取られたスカートのスキマから下着が覗かないようにずっとスカートをつかみながら歩いてきた。
明日までには縫っておかなくてはならない。
履いてすぐには気づかず、朝教室に行くまでにそのまま歩いてしまった。
妙に視線を感じていたが、誰も教えてはくれない。
当然だ。自分と一緒に居るだけではなく、話すだけで良からぬ噂を立てられるのだろう。
身も心も疲れきっていた。
休んでいる間標的を失った野獣どもの鬱憤の溜まりようは想像以上だった。
早苗は朝、男子からもらった手紙を出してみる。
くるくると表に裏にしてみながら眺める。
何が書いてあるのだろう。
早苗は封を開けて見た。
中身は一枚の紙が入っているだけ。
目に入ってきた書式は、早苗が思っていたものとは違っていた。
行に分けられた文章ではなく、円形の寄せ書き。
望ましくないものであることに気づくのは、その中の文字を読んでからだった。
(死ね)
(もうほんとに学校来ないで)
(なんか早苗さんが近づくと線香臭いです(笑))
(きもい)
罵倒はまだまだ続いていたが、とても正視できず、早苗はベッドに座り込んだ。
ぐらぐらと世界が揺れている。
ーどういうこと?これ?ー
ークラスの奴らが私に?ーなんで彼が?-
あの男子がなぜこれを。
ああそうか。クラスであんなに弱い立場だったあの男子が自分に声をかけてくるはずはない。
ただ命令されていたのだ。
私にこれを渡すように。
そしてハートマークの封も、きっとラブレターだと勘違いさせて上げてから落とし、精神を揺さぶろうとした。
それが狙いだとしたら、まったくもって成功だと言わざるを得ない。
かき乱された精神は崩壊寸前だった。
暗澹とした感じたことのない絶望が胸を塞ぐ。
どうして…
ぎゅうっと指先が真っ白になるほど手紙を握りしめる。
困惑、悲哀、怒り、動揺、焦燥、落胆、、
あらゆる負の感情が全身を一瞬で駆け巡っていく。
分からないのだろうか?
こんなことをされた人間がどんな感情を持つのか。
恐らく死ぬまで忘れることができないであろう致命的な精神への打撃。
人生に長く影響を残す可能性のある行為。
人一人の心を冒涜し蹂躙し、破壊する。
それほどのことをして彼らが得るのは何だろう。
決まっている。
一時の愉悦でしかない。
テレビゲーム、路上での缶けり、そんな憂さ晴らし程度でしかない。
あまりに割に合わない。
これで相手が一生困ることのないほどの金を手に入れるなどというのならまだ分かる。
しかし、彼らの享楽と自分の絶望。
天秤にかけてもあまりに重すぎるこのストレス。
彼らの軽すぎる喜び。
動悸が収まらず、呼吸は浅くなり、指先が氷のように冷たい。
身体は気持ち悪いほど熱を帯びているのに、末端に血が巡らない。
人は本当に追いつめられた時、泣き叫ぶことなどできない。
それはやはり少々なりとて余裕があるからできること。
本当に切羽詰まれば、ただ何をすることもなく、傍から見れば脅えているように見える姿で
ただ呆けていることしかできない。
脳が次の行動を適切に指示しない。
分からない、どうしても分からない、こんなことをされる理由。
こんなことをする理由。
こんな行為がどれほど人を傷つけているのか
そんなことも分からない程想像力がないのだろうか。
いや、違う。人を傷つけるなどとは思っていない。
人ではない。少なくとも対等と見ていない。
一段下の生き物。
一段どころではない、動物…いや虫…
足元の地面に蟻が一匹見えた。
虫…
そう…きっと虫けらだ。
思い出されるのは同級生の男子たちが小さいころにやっていた遊び。
カエルの口に爆竹を入れて破裂させるとか、蟻の巣に熱湯を注ぐ類の遊び。
あの遊びの標的に自分がなっているにすぎない。
気付けば見慣れた部屋で何時間も一人ベッドに座り込んでいた。
何もせずに、ただ単調なアナログ時計の秒針を聞きながら…
病室の老人のようにただ座っているだけ。
身体を揺らすことすらしない、微動だにしない姿勢。
こんな時でも何事もないような涼しい顔で時計は時を刻み続ける。
制服も脱がずにただじっと首を垂れてスカートだけを眺めている。
ほんの少し目線を上げた。
さきほどの手紙が目に飛び込む。
どれほど時間が経っただろう。
凍てついた心の底から湧き上がってくる感情があった。
視界が歪む。
目をつぶる。
ティッシュを用意する暇もなく、滴り落ちた雫。
それはスカートに小さく痕を残していく。
ー何が 死ね よー
切れ込みを入れられたスカートを握りしめる。
誰とでも仲良く。
人に思いやりを持って、相手を尊重し、相手の立場に立って理解するように努力する。
小学校に入った時から教え込まれる人間社会の理念。
人の幸福を喜び、人の不幸には一緒に悲しむ。
どう見たって生きやすい。
人が皆敵よりも味方の方がいいに決まってる。
そう思って来た。
なのに、さしたる意味もなく排撃し疎外し追いつめて叩きのめそうとする人々がいる。
この世界は優しくない。
こちらがどんなに相手を尊重しようとしても一方的に関係を破棄し、貶めようとしてくる人間がいる。
昔から教えられた理念は、本当に理念。
こうだったらいいですね、という程度の話。
現実は違う。
大抵の人は他人の不幸を喜び、隙あらば格下の人間を見つけて攻撃するか、しなくても嘲笑して溜飲を下げる。
誰とでも仲良くしたい。
話せばきっと理解できる。
みんなに優しくしたいし、役に立ちたい。
人間なら当然と思っていた今までの考えもがらがらと崩壊していく。
視野は極端に狭窄し、今自分が置かれた状況にいる人間しか、世界には存在しないような錯覚に陥る。
人間や社会に対する尊敬や愛情なんて吹き飛んで、心には毒々しい怨念の言葉が渦巻いていた。
ー死ねーはこっちのセリフよー
今までだったら考えられないほど暴力的だと思っていた死ねと言う言葉も自然と胸に落ちてきた。
ーなんの生産性も能力もないくせにプライドばかりあるゴミどもー生きてて恥ずかしくないの?-
猛烈にこみ上げてくる怒りと悲しみに身体が焼き切れそうだった。
ー死ね死ねーどいつもこいつもー生きる価値なんてないーあんな連中ー肉にしてアフリカにでも送ればいいー
どんなに呪いの言葉を吐いても一切の罪悪感がない。
心の底から彼らが地獄に落ちることを望んで胸中で毒づいた。
悪態をつくのに一区切り終え、涙も枯れてしまうと
心に残ったのは諦念にも似た捨て鉢な感情。
彼らは自分ほど心を乱していないのに
こちらばかりが大きなリアクションを取っていることに馬鹿馬鹿しさを覚えながら
それでもすぐさま憎しみが頭をもたげる。
精神状態はぐちゃぐちゃだった。
それでもまた明日、あの牢獄よりもよほど地獄の空間に身を置かねばならないと思うと
気が狂いそうになる。
ーまたあそこに行くの?-嘘でしょ?-
もう無理だ。そんなこと
悪魔の巣にしか見えない丘の上の巨大な建築物。
まだ建てられたばかりで、前衛的なデザインが学びの社としての性格と対照的ながら調和している。
掃除婦まで雇っており、塵一つない廊下。
まだほのかにワックスの香りさえする校舎。
けれど、吐き気がする。
中にいる人間とあまりにそぐわない美しい殿堂のような校舎。
あの校舎が、まるで事故に居合わせた第三者のようにフラッシュバックする。
もはや現在進行形のトラウマだ。
どんな汚らしいスラムでも廃墟でも便所でもあそこほどはおぞましくない。
あそこに明日も行かなくてはならない?
それも8時間あまりの時間?
なんの冗談だろう。
学校?
勉強のため?
もうあそこは自分にとって学習の場として機能していない。
教師の言葉など一寸たりとて耳に入らない。
五分過ごすことさえ耐え難い苦痛なのに…
ほとんど一日を過ごさなくてはならない。
脳裏に過ぎるは自殺者の記事。
人一人が死んだというのに大した紙面も割かず、申し訳程度に書かれた事実と客観的意見
そのあまりの客観性と消費される価値もないような扱いにいつも憤ってきた。
(中学生、いじめ苦に自殺か?)
その記事には何の感情もなかった。
今なら死んだ人の気持ちも十分に分かる。
これほどの苦痛を受けるなら死んだ方がマシ。
当然の気持ちだろう。死ぬ際に受ける苦痛など、
毎日毎夜襲ってくる精神的苦痛に比べればそよかぜのようなものだ。
これから楽しい事があるだの社会に出れば学校の狭さが分かるだの言うのは
所詮傍観者だから。
そんなことどうでもいい。
今この苦痛から解放してくれるならそんな未来いくらでも捧げてあげる。
今死なせてくれればー
再び
死ね という言葉が頭をよぎり、長い事考えた。
ー死んでやろうかー
それが復讐になる。
呪いながら死んでやる。
これ以上の復讐はない。
どれほどお前らが屑で救いようのない人間か
遺書にびっしりと書きつけて
全世界を否定して死んでやる。
けれど、怒りで熱くなった自分を冷静な自分が戒めにかかる。
死んでも奴らはなんとも思わない。
相手が死んで良心の呵責がうずくような連中なら最初からこんなことしない。
一瞬の話題になり、即座に忘れられる。
ただの死に損。
私は死んだのにのうのうと楽しく奴らは生き続ける。
そんなの耐えられない。
そして何より、両親が悲しむ。
どれほどの痛みと後悔が彼らを襲うだろう。
人並の家程度には親から愛されている自覚がある。
二人に対して特に思春期の子供が持つような不満はない。
今まで育ててくれた両親になんの恩返しもせず
なんの相談もしないうちに死ぬ。
これほどの親不孝もないだろう。
結局死ぬことはできない。
かといってこのまま生きているのもあまりに辛い。
八方塞がりの中、部屋の中で何もせずに、ただ無機質な秒針の音だけを聞き続けていた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「行きます」
なんの躊躇もためらいも無く、発せられた決断の言葉に、2人の神様はさすがに驚いたようだった。
「でもさ。こっちにも友達とかいるでしょ?すぐに決めなくても…」
諏訪子の声を聞くや否や首を振る。
「まったく構いません。いますぐにでも大丈夫です」
2人は顔を見合わせていた。
「いやあ。もっと揉めるかと思っていたけどさ。現代の人間なら特にさ。あっちは技術も娯楽も乏しくて後悔するかもよ?」
「しません」
力強くはっきりと断言した。
ずっとずっと思っていた。この世界から消えてしまいたいと。見知らぬ夢の世界に行ってみたいと。
これから行く世界が夢の世界でなくてもいい。
少々の苦行があってもいい。
きっとここに比べればどこだって天国だ。
一瞬、戦争や争いで荒廃した世界だったらどうしようとも思ったが、そんなことすらどうでも良かった。
質問する気もなかった。
どうせこちらに居ても心は死に瀕している。
もし、あちらの世界が酷いもので生きていけなかったらとしたら、潔く死ねば良い。
そのくらいの覚悟はできていた。
それよりもー
毎日毎日祈っていた。神様この窮地からお救い下さいと。
本当にお迎えが来た。しかも本当の神様が。
これがファンタジーでなくてなんだろう。
いまだに信じられなかったが、自分は統合失調症のような持病も妄想癖もない。
意識ははっきりしている。
部屋の中の家具や鞄、家の空気。
起きている際のはっきりとした意識を感じ、これを現実として捉えざるを得なかった。
ー空想じゃないー本当に救いに来てくれたー私の神様ー
早苗は正座して両手を前についた。
「不束者ですがよろしくお願いします。神奈子様、諏訪子様。私の全人生を捧げる所存です。」
その言葉に嘘偽りはなかった。
こちらの世界に未練を感じるとは思えなかった。
それよりも苦痛から開放されることの喜びが、涙が出るほど嬉しく、他の感情は小さく見えないほどに縮小してしまったようだ。
ー助かったー
早苗はこの時心からそう思った。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
本当にあれが現実の世界のことだったのか
幻のような気さえしてくる。
習慣も文化も住んでいる生物さえも違う異世界に来てあのことを思い出そうとしても
妙に霧がかかっている。
昨日のことのように思い出せるかと思うのに
いざ順を追って脳内に再生させようとしてもちぐはぐで的を得ない不可思議な映像が流れるばかり。
一種の自己防衛なのだろうか。
虐待から身を守るために二重人格をつくる子供のように
あんなことはなかったと思い込みたいのだろう。
しかし、思い出したくない時に限って勝手に脳は再生を始める。
鋭利にクリアで鮮明に。
ここに来て、すっかりとまでは言えないが、精神は落ち着きを取り戻し
高校以前の自分に近づいてきたような気がする。
夜中に動悸で目が覚めることもなければ、不安で勝手に涙が流れてくることもない。
外の世界の文豪が言っていた。
この世には喜びも悲しみもなくただ一切は過ぎていくと。
そう、どれほどの悲しみも過ぎていく。
肉親の死さえ、時は癒してくれる。
命の危険さえ感じたあの頃のことも、もう過去に近づきつつある。
ここの住人は妖怪でも人間でも意味なく危害を加えることはない。
異変を起こしたり、人の迷惑を考えないところがあるが
根幹としては自分が楽しむためのものだ。
確かに傷は薄くなっていく。
けれど決して消えはしない。
見えなくなるほど塞がっても、ある日突然殻を食い破って外に出てくる。
埋め込まれた種はいつ暴走するか分からない。
爆弾を抱えたまま生きているような不安感はあったが、
過去は消すことができない。
操作できるのは意識しかない。
けれど餅をこねるように自由自在にとはいかない。
いくら抑えようとしても手に余りのた打ち回る大蛇を、それでも必死に抑えようとする。
できるのはそれだけ。
帰って来て考えることは宴会のこと。
いつまでも縛られているわけにはいかない。
精神を縛る粘着質で癒しがたいトラウマで人生を棒に振るのは馬鹿げている。
もうどこにも危害を加えようとする者はいない。
どこかで一歩を踏み出さなくてはならない。
過去は一切関係ない。
あちらの常識など一切通用しないここであちらの基準を寸分たりとて意識することはない。
もう決心した。
ちょうどいい機会だ。
今日を過去に決別を告げる分水嶺としたい。
たった一人でも、なんの問題があろう。
霊夢の言葉をスイッチに大きく心が乱れたが、きっともう落ち着いた。
ましてや今日の朝に主催の霊夢に差し入れまでしている。
大手を振って凱旋すれば良いではないか。
別に場を盛り上げる役割もなければ、演説をするわけでもない。
自然と輪に加わり、当たり障りない言葉を選んで会話を流して酒を嗜んで帰る。
誰もがする一連の流れ。
こんなふうに義務的に、恐れをなしながら参加する者はいないだろう。
楽しみのために。
飲みたくて騒ぎたくて来るだけだ。
「違うもん…違う…違う…」
昔の自分とは…
何度も小声で呟きながら胸の前で両手を合わせて暗示をかける。
環境も己の中身も何もかもが変化した。
早苗はふと外を見やる。
どれだけの時間こうしていただろう。
ほんのちょっとしたきっかけで思い出したくもないことを思い出してしまった。
霊夢のところへ行ったのは午前中だ。
神奈子と諏訪子も何も言ってこない。
二日酔いの次の日はいつも食事はいらないと言われる。
まだ寝ているのだろうか。
早苗も昼は抜いていたが、まるでお腹が空かない。
食べていない事実さえ忘れていた。
半日を無為に遊ばせてしまった。
今日は霊夢に差し入れに行った以外、掃除も洗濯も料理もしていなかった。
既に日は暮れかけ、オレンジ色の光が畳に長い影を伸ばしている。
行くとなったらそろそろ準備をしなくてはならない。
行かないと言ったのに行ったらどんな顔をされるだろう。
嫌な顔をされるだろうか。
大丈夫。自分など大勢の一人でしかない。
誰にも目をかけない。
半日を使って考えていた。
宴会へ参加するか否か。
早苗は小さく頷くと何時間かぶりに立ち上がった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
夜の神社は喧騒に包まれていた。
もう夜も深くなりつつある神社の境内で宴会は開かれていた。
もう数えきれないほど開かれているであろう宴会は、異変が起こるほど時が経つほど
その規模を大きくしていく。
初期のころは宴会に参加した全員と話をしていたものだが、
最近では最後まで一言も口をきかずに帰る者も多い。
霊夢は日本酒に映りこんだ自分の顔を眺めつつ
もう一杯この酒をのむのが良いかそれとも他の銘柄にいくか考えていた。
「霊夢ぅ…何?もうおしまい…?」
すっかりできあがった吸血鬼が酒を手にしだれかかってくる。
鬱陶しくてぐいっと右手で押し返す。
酔いはじめがいつでも一番気持ち良い。
思考が鈍っているかどうか自分では分からない。
微妙な理性の狭間でたゆたうこの時間帯が霊夢は気に入っていた。
「近いわ。酒臭いし。」
「霊夢も酒臭いわよ…」
にこにこと性懲りもなく身体を寄せる吸血鬼。
やれやれとそのままにしておく。
右半身にかかっていた重みが、急に無くなったと思うとレミリアは背後に向かって倒れこんだ。
「あ、あえ?何、何?」
呂律の回らないレミリアがぽいっと横に投げ捨てられると、見慣れた妖怪が先ほどまでレミリアのいた場所に鎮座する。
「あらら。あんまり酔うとただ座っていることもできないんですね。」
金髪がふわりと霊夢の視界に入りこむ。横を見なくとも声や仕草ですぐに分かる常連の妖怪。
「ゆ、紫ぃ…何すんのよぉ…」
レミリアは立ち上がることもできずに身体を横にしながら手だけふらふらとこちらにかざしていた。
「まったく。品性を失うほど酔うなんて人格を疑いますね。ね?霊夢?」
といいながら自分が人格を疑うと言った妖怪とまったく同じに身体を寄せる紫。
面倒なので無視するだけにしておく。
これがいつもならスペルカードで吹っ飛ばしてもいいのだが、気持ちよく酔い始めているさなかに余計に身体を動かしたくない。
霊夢は酒瓶に手を伸ばす。
手に取ったそれは期待した重さをまったく有していなかった。
霊夢は思わず眉をひそめた。
「なによ…もうないの?」
さっき新しいのを開けたばかりなのに。
まったくこいつらはどういうペースで飲んでいるのだろう。
誰も酒を注いだりしていないのに、勝手にいつのまにか消えている酒。
嗜む程度に飲むなどという発想はなく、どこまでも潰れるまで飲みたがる連中だ。
こちらも十分に飲んだというなら文句はないが、まるで足りない。
あたりに散乱する酒瓶の数は数える気にもならない。
人数が多いのだからそれだけ減るのも早いが、どう見ても一人一升なんてものではない。
床に散らばる瓶はどう見ても空だ。
テーブルの上に並ぶ瓶を一本一本手に取るが、とるたびに失望するばかり。
「残ってないの?」
思いのほか泣きそうな情けない声を出してしまった。
「あ、これは私の持ってきた酒ね。霊夢?美味しかった?これ」
紫の弾んだ声色。
面倒ながらも紫が手に取った酒瓶の銘柄を見る。
そんなの一滴も飲んでいない。
押し寄せたハイエナ共にまったくすべて飲み込まれてしまった。
けれど目を輝かせる紫の視線にやられ、とりあえず頷いておいた。
紫はぱあっと笑顔を咲かせると抱きついてきた。
「また持ってきますわ!霊夢!」
「ちょっと霊夢。私のは?どうだった?」
レミリアが酒瓶を振り上げる。
まったく面倒だ。
一度相手をすると際限ない。
するとしなりしなりと独特の歩き方で近づいてくる着物の裾が目に入った。
霊夢は顔を上げるとこちらも紫とセットで良く見る亡霊が立っていた。
横には付き人の半霊の剣士もいる。
「あのぉ?お酒余ってない?」
幽々子がどこか気の抜けた声で尋ねる。
「ない」
憮然とした態度で答える。
なぜか自分たちの手持ちの酒がなくなった時、真っ先に聞かれるのが霊夢だった。
自分は酒を無限に生み出す生産機械ではない。
「ちょっと今日は酒が足りないわね。」
「ねー」
幽々子と紫が声を合わせる。
いらっとする。
そんなに飲みたいなら自分たちで溢れるほど持って来ればいいのだ。
「ん?」
持ってくる?
誰かが今日持ってきたような。
それで朝の出来事を思い出した。
霊夢は何も言わずに席を立つと台所に向かった。
確か今日貰ったものの中に…
早苗が届けた差し入れの中に酒が入っていた。
袋を見つけてごそごそ中をさぐると見つかった。
日本酒三本。
「ふふふ…」
思わず笑顔になる。酒瓶を抱えてとてとてと戻る。
「あったわよ。」
自分1人で飲んでもいいが、やはり宴会で手持ちの酒を温存するような不義理は許されない気がした。
おおっという歓声が上がる。
「なんだ。あるんじゃない…」
くすくすと笑う幽々子。
すぐに霊夢は一本目を開けて酒を呷る。
おっ と霊夢は椀を見つめた。
次に幽々子が両手で椀を呷る。
「あら。いいわ。これ」
次々と酒瓶が勝手気ままに傾けられ、瞬く間に一本目はなくなった。
「なかなかいいわねこれ。どこの?」
紫の言葉で想起される今朝の一幕。
「これは…」
早苗が持ってきて…
といいかけてふと周りを見る。
あいつは今日来ているだろうか。
来ないとは言っていたが…
周囲を一瞥しても自分以外の巫女の姿は認められない。
再び椀に手を伸ばそうとした時、視界に映ったわずかな緑色を意識してまた目を上げる。
いた。
ここから10メートルといったところ。
灯篭の石段に腰を下ろし、動くこともなく、誰とも話すこともなく、一人で両手で湯呑茶碗を包みながらじっとしている。
まるで存在感がない。
探そうと目をやったというのに見落とすところだった。
どういうことだろう。あの姿は。
沈鬱な表情で顔には生気がない。まるでお通夜帰りの人間だ。
馬鹿騒ぎを続けるけたたましい喧騒の中で一か所だけ浮いた冷えた空間。
何をしに来たのだろう
具合でも悪いのだろうか
それだったら家で寝ていればいい。
別に強制参加ではないし、今朝も別に来なくていいいと言ったはずだ。
それよりも、今朝は割合元気そうに見えた。
少なくともあんな病人のような顔はしていなかった。
今日急に体調を崩したのか。
それにしてもおかしい。
今朝も少々不自然なところがあった。
早苗は割と誰とでも話せるし、里では信仰の話を大勢の前でしているはずだ。
ここの妖怪達と同様にお喋り好きに見える。
何か将来への懸念材料でもあるのか。
そう考えて霊夢は自分がおかしくなった。
この世界では将来などという長期間のビジョンではものを考えない。
あるのは果てしない 今日 の連なり。
過去も未来も意識するに値せず、ひたすら楽しく、愉快に生きること。
それがここの誰もが抱く金科玉条。
外の世界ではどうだったか知らないが、早苗もここに来て長い。
もう分かっているはずだ。
分からない。
今を楽しまない早苗の姿が分からない。
なぜこちらに来ないのか?
ここでなくとも誰かと話さないのか。
あんなところで孤立して一人きり。
そんなのが楽しい人間がいるだろうか。
「霊夢?どうしたの?」
レミリアが顔を覗き込んでくる。
「別に…」
霊夢は早苗から視線を外してテーブルを見やる。
すでに朝、早苗の持ってきた酒もなくなっていた。
「ちょっと…」
周りをにらみつける。
さすがにやるせない。
まだ一杯しか飲んでいない。
一升瓶三本あったというのに。
ため息をついて愚痴る。
それからも周りの人妖と下らない与太話が続いた。
頭の片隅に早苗の異質な姿が残ったまま。
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何でこんなところにいるのだろう。
どうしてこんな気分で追いつめられているのだろう。
理由を考えてみるが適当な答えは思い浮かばない。
頼まれた訳ではないのだ。
自分の意志でここにいる。
周りを気にしていることを知られたくなくて、余裕でいるのだと、
好きでこうしているのだと周りに示すために
顔を上げずに涼しげな表情でいることに努めた。
しかし誰よりも分かっている。
誰も自分のことなど見てはいないのだ。
自分がどんな顔をしているかなど誰もなんの興味もない。
自分が一人でいることにも何ら関心はないのだ。
なぜならこの宴会にいる誰それがどんな気分でいるかなど
まったく自分は気にならないからだ。
自分だけが特別ではない。
しかし、どこまでいっても自分だけは自分にとって特別である。
誇りを持ち自尊心を持っている。
誰だってそうだ。
まるで自分がいなくてもまるで問題なくこの宴会は進んでいくかのように。
存在自体が無視されたかのような扱いは耐え難いものがあった。
宴会は楽しむためにある。
その他に目的などない。
なのになぜこんなに苦痛を感じなくてはならないのか。
こんなに不愉快なのにこの場にいる理由はなんだろう。
今すぐ帰ってもいいのだ。
しかし、こんな状況で帰ったらみんなの笑いものにならないだろうか
一人寂しく誰とも会話せずに帰ったとなれば、それこそ酒の肴にされる。
これほどの大勢の中、誰にも確認されず出ていくのは不可能に思われた。
それとも帰っても誰も気付かず興味もないだろうか。
ー帰りたいー
宴会に来る前から感じていた不安は現実になっていた。
誰にも相手されず話し相手がいなかったらどうしよう。
しかし宴会はかなりの人数が来る。
一人二人とは絶対に話ができる。
そう言い聞かせてここへ来たが
その意思ももはや萎えていた。
そういえばいつもは自分から声をかけていた。
けれど今日はそんな勇気はない。
いつもどうやって宴会を乗り切っていたか思い出せない。
椀を持つ手は震えている。
それどころか身体全体が震えているようだ。
つまらない。辛い。悲しい。やりきれない。気まずい。居づらい。帰りたい。
頭に浮かんでくるのはネガティブなワードの羅列。
ときおりどっと笑い声が聞こえるたびにびくりと身体を震わせて耳に全神経を傾ける。
誰かが私の悪口を言っているのではないか。
一人で寂しく飲んでいる奴がいると物笑いの種にされてはいないか。
けれどそんなことをしても無駄だった。
がやがやとあまりに騒々しい宴会の中で誰かの話している内容を正確に把握するなど至難の
技だった。
どんなに集中してもただ喧騒の中、解読不明な言葉らしきものの束が耳をかすめていくばかり。
不安を煽る集団の声声声。
そのときはいきなりだった。
なんの準備もなしに、なんの気配もなしに背中にずしっとした重量を感じた。
感じたことのない感触。
「おう!飲んでるか?」
聞いたことのある声。
一瞬の逡巡の後、脳内検索にヒットしたのは魔法使いの声だった。
馴れ馴れしくしだれかかってくる人間は魔理沙。
この神社の巫女とも特別懇意にしている人間の一人。
妖怪の起こした異変解決というと巫女の名前をよく聞くが
この魔法使いも異変解決には相当協力してきた。
もちろん早苗とも会うことは多かったし、自然よく話している。
いやそんなことはどうでもいい。
魔理沙に関する情報は一瞬で頭から消し飛び
ただここで話しかけられたことに対し激しく狼狽し
必死で返す言葉を考えるうち
何も話していないのに魔理沙はけらけらと笑い出した。
魔理沙は自分に酒をつごうとしてきた
「ははは!なんだ?呆けた顔して!ほら飲めよ!」
魔理沙の大声が耳元で鼓膜を直撃して、昔を思い出させた。
悪意のある集団の耐え難い声の連鎖。
思わず手を振り払った
「い、嫌っ!」
振り払った手は魔理沙の酒瓶に直撃し魔理沙の手から弾き飛ばされた。
心臓が止まるかと思った。
酒瓶は地面に叩きつけられ軽快な音を立てて砕け散った。
その音に反応して皆が一斉にこちらを見た。
凍りついたように固まり
地面に散らばった瓶の破片とまだ大量に残っていた中身の酒が地面に
染み込むのを呆然と見ていた。
魔理沙はおっと声を上げるとさっと機嫌のよさそうな振る舞いは消えて
ぶらぶらと手を振って顔をひきつらせた。
「おいおい…」
そして無残な酒瓶を認めるとこちらを見据えた。
批難が込められた視線に息が詰まりそうになる。
その眼は
なんだよこいつ…という興ざめの表情が含まれていた気がする。
顔から火が出そうになる。
そんなつもりはなかった。
決して。
ーごめんなさいごめんなさいごめんなさいー
高速で頭を巡る謝罪の連呼。
思考はフリーズした。
幼女が両親に許しを請うように必死に頭で唱える。
哀れで無力な立場だった。
けれど声が出ない。
人間は以心伝心などできない。
何も言わなければ何も伝わらない。
そしてタイミングが何より大事だ。
遅すぎても早すぎてもいけない。
人の会話の流れの機微は繊細だ。
さっさと謝罪すること。
それがこの場での唯一の選択肢。
分かっているのに声が出ない。
これほどの罪悪感を持ちながら、
相手には傲慢な無礼者と映っていることが、耐えられなかった。
「何?何?あんた何したのよ?」
駆けつける人影。
この魔法使いとよくセットで見かけるもう一人の魔法使い。
金髪の人形師アリス。
誰かが来る前に謝罪したかったのに。
もう駄目だ。
早苗は声を出すすべを失ったかのように縮こまっていた。
「いや、手滑らせちまった。」
魔理沙は爽やかに笑ってみせた。
思わず顔を上げる早苗。
アリスはやれやれといった感じに額に手を当てる。
「何やってんのよ。勿体ない。あなた大丈夫?怪我ない?」
アリスに顔を覗き込まれる。
はい、と蚊の鳴くような声で答える早苗。
「おいおい私の心配はなしか?」
「別にあんたが怪我しても自業自得でしょ。それより…」
アリスが怪訝な顔をする。
「早苗…?なんか元気ないわね」
ドキッとする。
アリスは魔理沙を睨みつけた。
「ちょっとあんた。なんかしたの?」
「いや、なんもしてないぜ。」
「ほんと?早苗」
早苗はこくこくと頷いた。
「…嘘ね。ちょっとあんたこっち来なさい。」
「い、いや。ホントになにもしてないぜ。早苗?なっ?」
早苗はまた はい と言ったが、お祭り騒ぎの宴会の中、きっとその小さな声は届かなかったろう。
アリスは魔理沙の腕に腕を絡めて引きづっていった。
再び一人になった時、激しい自己嫌悪に襲われた。
やっと話しかけてきてくれた人がいたのに、チャンスを無下にした。
しかも何度も話したことのある魔理沙が来てくれたのに。
千載一遇の機会を逸した。
魔理沙にも悪いことをした。
せっかく話しかけてくれたのに。
親切を非礼で返したのに、フォローまで入れてくれた。
どうしてこんなに駄目なのか。
あまりの痴態をさらして…
ほとほと嫌気がさす。
ーもう駄目ー
認めざるを得ない。
結局自分は半端者。
どちらの世界でも、馴染むことができない。
虚飾の仮面を取り繕って、必死の笑顔を演じて見せても。
常識知らずの傍若無人を意識しても。
あちらの世界ではおとなしく礼儀正しく振る舞ってきた。
それは素の自分だった。
けれど受け入れられず、拒否と排撃の憂き目に遭った。
こちらの世界では明るく、怖いもの知らずのように振る舞った。
これも駄目ならばどうしろというのだろう。
生まれながらに普通にはなれないのかもしれない。
見た目か、仕草か、表情か、声か、間の取り方か、話の中身か。
どこが悪いのだろう。
どうしても分からない。
考えても考えても…
教えてほしい。
どこが気にいらないのか。
もしかして何もかもか。
どこも悪い気がする。
だとしたらどうしようもない。
ーごめんなさいー
誰に謝るともなく心で呟く。
一体誰に謝っているのか。
さきほどの魔理沙に対してか。
両親に対してか。
それとも
生まれてきたことに対してか。
心は既に折れかけていた。
来たのは間違いだった。
思い出したくもない遠い昔の耐え難い苦痛そのままだ。
ぽつっと手の甲に水滴がつく。
雨か、とも思ったが、続けて落ちた水滴とぼやけた視界で
涙だと分かった。
惨めでしょうがない。
どこに行っても馴染めない醜いアヒルの子。
アヒルの子は白鳥になる将来があったが、自分にはない。
必死に涙を拭きとる。
泣くとさらに惨めになる。
少なくともここにいる人たちに精神の乱れを気取られたくない。
ーもう帰ろうー今なら帰れるー
自分の心はこちらの世界に来てからかつてないほど沈み込んでいたが、
対照的に宴会の賑やかさは最高潮に達していた。
一人いなくなっても誰も気づかない。
そして潰れそうな心のまま立ち上がろうとした瞬間。
誰かが自分の前に立ったのに気付いた。
だが自分相手ではないだろう。
自分に話しかけてくると思って心躍った時も大体は近くの他人が目当てだった。
しかし近い。明らかに人の懐に入り込もうとする近さ。
人のパーソナルスペースは個人差がある。
自分のスペースが広いか狭いかまでは分からないが
万人のそれに侵入しているだろうと思えるほどには近かった。
よく見かける紅。
心地よい紅の色。
誰とも見間違えようのない存在感がある巫女その人。
目を上げると霊夢が酒茶碗を右手でぷらぷら振りながら左手で早苗の横を指さした。
「ここ空いてる?」
無論空いている。
しかしここは座るような場所ではない。
灯篭の土台部分は狭いし傾斜があるし、雨風で汚れている。
他に適当な場所がなかったので嫌々座っただけだしお尻が痛い。
「はい…」
脳内が高速で回転しだした。
なぜ霊夢が話しかけてきているのか。
霊夢の印象として、いつも誰かに囲まれている。
誰かがひっきりなしに話しかける場の中心。
霊夢と比べれば自分は中心にいる器ではない。
それに霊夢がいなくなったら霊夢がいた場はどうなるのだろう。
ふと目をやると霊夢がいた座敷もやたらと人妖が溢れて賑やかにしている。
特に不自然なところはない。
きっと席を外す空気の読み方もうまいのだろう。
自分とは違って。
こちらの世界に来た時。
この人のようになりたいと思った。
勝手気ままに振る舞いながらなぜか誰にも嫌われず、いつも我を中心に考え、
それでいて実力十分で異変解決の立役者。
いつも霊夢を見る時は憧れと劣等感の狭間で自我を揺さぶられた。
実力も人望も容姿も
霊夢を真似ようとして
そして誰にも前いた世界のように馬鹿にされないように
大胆で英気あり恐れ知らずの常識知らずに振る舞ってみたけど。
できあがったのは霊夢とは似ても似つかない劣化コピー。
いやコピーにすらなってない出来損ない。
きっと全部が劣っているに違いない。
霊夢は過去に嫌なこともなかったのだろう。
うまくいく人はどこまでもうまくいく。
どこかでつまづいた人は泣きっ面に蜂。
次から次に負の連鎖。
それなのになぜだろう。
ひっきりなしに誰かと話している霊夢が自分から誰かに話しかける様など見たことがなかった。
それも自分のように一人っきりでいる人間に。
引く手数多の霊夢がこんなところに来る必要はどこにもない。
きっと自分といても楽しくない。
霊夢が隣に座った瞬間に強い罪悪感を感じた。
この空間で霊夢を引き止めるような何物も自分は持っていない。
何を言ったらいい?何をすれば?
脳みその全細胞を駆使して面白い話を提供したい。
霊夢に楽しんでほしい。
けれども空回りする脳内のモーターは何ら意味をなさない真っ白なモニターを映写するだけ。
「あ、酒あるじゃない」
霊夢が自分の足元にある酒瓶を手にとる。
すっかり忘れていたが、早苗が持参したものだった。
「やだ、まだまだ入ってる」
霊夢は笑いながら早苗の前に酒瓶を掲げる。
「きっとこの宴会の中で最後の一本よ。これ」
霊夢の声色は弾んでいる。
大勢と話してきた人間が自然に醸し出す、自信と余裕が感じられた。
本人はそんなこと気にもしていなさそうだが。
「ね?これ…いい?」
霊夢が両手で酒瓶を抱きしめて小さく首を傾げる。
飲んでもいい?
ということだろう。
無論良いに決まっている。
自分は酒を飲んでも今はまったく気分よくならないし、霊夢に楽しんでもらえれば十分だ。
こくこくと何度も頷く。
霊夢は 「やった」 と言うと酒を持参の椀に注ぎはじめる。
なみなみと注いだ酒を半分ほど飲んでから小さくため息をつく霊夢。
「ほんと美味しいわあんたの酒。朝に持ってきてくれた酒も好評だったわよ。」
「あ、ありがとうございます…」
顔が火照ってくる。自分が持ってきたものが喜んでもらえる。
それも霊夢に。
ほんの少しでも誰かの役に立てたという実感は甘く、じんわりと胸の中に浸透していく。
けれど会話が続かない。
霊夢とは数えきれないほど会話をしてきたはずなのに。
ほとんど壁を感じないほどに砕けた話もしてきたのに。
どんな話をしてきたのか、まったく思い出せない。
霊夢との話し方が分からない。
爆発的にまでテンションが上がった人妖達の叫び声にも似た笑い声が響く。
気まずく隣を見ると、霊夢は手の中で椀を遊ばせながら、少し赤くなった顔でどんちゃん騒ぎを見ている。
その顔からは霊夢がどのような感情を持っているかは読み取れなかった。
つまらなくないだろうか。
嫌じゃないだろうか。
本当は誰より宴会を楽しめるはずの霊夢が、自分などと一緒に…
「今日は…随分おとなしいのね…」
けたたましい大声の中、小さくしかし凛とした声が早苗の耳に届く。
一瞬何を言っているか分からなかった。
半瞬後に自分のことを言っているのだと分かり、また顔が急激に熱を帯びてきた。
「え?あ、えう…」
まるで白痴にでもなったかのように一切出てこない言葉。
役に立たない己の言語脳を呪いたい。
的確に返さないと駄目。
つまらない会話をしていたら霊夢が立ち去ってしまう。
嫌だ。ずっと座っていてほしい。
なのに、喋らないといけないのに…
こんなんじゃ嫌われて当然。
誰からも蔑まれて当然。
ろくに会話もできない根暗の巫女なんて…
トラウマを抱えた情緒不安定なんて、
考えうる限り最悪の要素だ。
霊夢はこちらを見ずに、ただ前を見ている。
「何を悩んでいるかは知らないけどさ…」
くいっと酒を口元に運ぶ霊夢。
「この中の誰もあんたのことを嫌ったりしてないわ。安心しなさいな…」
宴会場の声が何も聞こえなくなった。
脳は焼きついたようにフリーズを起こした。
そして、心の奥深く、今まで見ようとしなかった心の中核が、
決定的に揺さぶられた。
ゆっくりと横を見る。
まるで心を読んだかのような、
自分の心を射抜くような、
霊夢の透き通った声。
確かに聞こえた聞き間違えようのない声。
本当なの?
嘘じゃないの?
私が?
私のことを…?
「…とですか?」
「ん?」
「ほん…とうですか?」
「当たり前…って え?ちょっと」
霊夢が少々狼狽した態度を見せる。
どうしたのだろう。
さきほどまであんなに余裕を持っていたのに。
「ちょっと。泣かないでよ。」
霊夢が袖口を自分の目元に当ててくる。
自分で目元を触ってみると、熱い液体の感触が指先を伝った。
「あ、う…す、すみませ…」
目元を拭っても次から次に溢れてくる大粒の涙は、手がびっしょりになってもまだ止まってくれなかった。
「やだ…もう…ごめんなさい…」
もうどうしようもないので両手で顔を覆った。
「大丈夫?なんかごめんね?」
霊夢の声が頭上に響く。
どうして霊夢が謝るのだろう。
こんなに嬉しいのに。
霊夢はこんなに優しいのに。
私はこんなに駄目なのに。
この涙はなんのせいだろう。
霊夢はあたふたと周りに目をやりつつ誰も見ていないことを確認し、早苗の肩に手を当てた。
「ごめん。泣き止んで。ね?」
こんなことで霊夢に迷惑をかけることはできない。
霊夢が困っている。
なのになんで涙が止まらない。
止めようとしているのに。
霊夢を困らせたくないのに。
と、思うと視界が暗くなって何も見えなくなった。
顔に柔らかい布の感触があったと思うと、甘く香しい霊夢の香りがいっぱいに広がった。
そしてぎゅうっと背中に手を回されて抱きしめられる。
霊夢は早苗の頭を胸に抱いて頭を撫でた。
「ほ、ほら。泣き止んで。」
人間は単純だと思う。
何年悩んできたことでも、何年心の底に闇を飼っていたとしても
誰かとの出会い、氷を溶かすたった一言で変わってしまうことがある。
繊細な人間ほど、小さな出来事でまるで世界が変わってしまう。
我ながら呆れるほど。
ただ今考えることは一つだけだった。
霊夢に迷惑をかけたくない。
迷惑をかけないとは、力になるという意味もある。
「霊夢さんは…凄いです。」
「な、何よ。いきなり」
「誰とでも話せますし。」
「は?そんなのあんたもでしょ?」
「いいえ…」
そう言って強く霊夢を抱きしめる。
「強いですし。異変解決だって、私は霊夢さんには絶対かないません。」
「え?う…」
普段はまったく言いそうもないことを聞いて霊夢は反応に困っているようだった。
そして身体を離して正面から霊夢を見据える。
「それに可愛いです」
一瞬霊夢はきょとんとしていた。
しばらくしてあまりに長く見つめるこちらに気後れしたのか
視線を外して頬をかいた。
「何言ってんだか…」
酒を入れて上気した顔ということを考慮しても
明らかに顔が赤い。
きっと自分はもっと赤いだろうと思っていた。
「まったく。あんたはいつも安定しない奴だとは思ってたけど、今日は輪をかけておかしいわね。
泣いてたと思ったら…急に元気になっちゃって…そんなこと言ってくる奴初めてだわ…」
そんなこと、とは可愛いと言ったことだろうか。
早苗はくすくすと笑う。
ああ、ようやくだ。
ようやくいつもの自分に帰ってきた気がする。
誰にも気後れせず、傍若無人、唯我独尊の巫女。
それがこちらの世界の早苗だ。
これからも、ずっとこの世界で生きていく。
恐れず、不遜で、傲慢に見えてもいい。
思うがままに、自由に生きていく。
「霊夢さん。」
「何よ」
「顔赤いです。」
「涙でぐしょぐしょの奴に言われたくないわね。」
一瞬目と目が合った。
霊夢は微笑みを浮かべた。
いつものように、半分皮肉混じりの笑い方ではなく、優しく穏やかなものだった。
こちらも今できる限りの笑顔を浮かべた。うまく笑えているだろうか。
きっと大丈夫だ。
昔から思っていた。
この人の前では私は自然に笑える。
きっとこれからも… 霊夢が居れば
自分はきっと大勢の中の一人だろう。霊夢にとっては。
村人Aかもしれない。
けれどそれでもいい。
霊夢に拒否されないなら、それだけで幸せだ。
「霊夢さん。これからも色々持ってきますから、困ったら言ってくださいね」
「それは助かるわね。こっちは何も返せなくて悪いけど」
「悪くなんてありません。ただ…」
「?」
「これからも、側に置いて下さいね…」
霊夢は顔を上げた。
そして早苗の目を霊夢は見つめてきた。
自分が今思っている、卑屈で自虐的な考えも見透かされているようでどぎまぎした。
というより口にだしていた。
側に置いて などという言葉は対等な者同士の会話ではない。
「そんなの。許可なんていらないわ。」
そして霊夢は早苗の手を両手で握ってくる。
さっきまで抱きついていたというのに、それでも胸が跳ね上がった。
霊夢からスキンシップをとってくるとは思わなかったからだ。
「何も持ってこなくても。遠慮しなくて来ていいからね?分かった?」
「はい。ありがとうございます。」
再び涙がこぼれそうになるのを感じて早苗は俯いた。
霊夢はずっと早苗の手を握っていた。
その手の温もりを感じて、心までその熱が浸透してくるようだった。
昔からずっと欲しかった物。
それが今手の中にあった。
きっとずっと手に入らない人もいる。
そして死を選んでしまう人もいる。
自分もあと一歩というところまで追い詰められた。
けれども、人生はどうなるか分からない。
あの時はもう終わりだと思っていた。
まさかこんな未来が待っているとは夢にも思わなかった。
予想していた惨事が起こらないこともあれば、予想もしない良い事が起きたりする。
どれほど嫌なことが起ころうが、それで終わりはしない。
生きている限り、必ず望みの時は巡り来る。
ーああ、お父さんお母さんー
霊夢の手に大切な人たちの体温を重ねながら早苗は心から思った。
ー生きていて良かったー
宴会の熱は引かず、いまだにどんちゃん騒ぎが続いていたが、その声も早苗にはもうまったく違うように聞こえていた。
霊夢は早苗の元を離れずに、ずっと手を握っていた。
母に抱かれているように安心していた早苗はだんだんとまどろんできた。
そしていつしか、意識は深い底に沈みこんでいった。
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雀の声が軽快に響くいつもの朝。
早苗は両手に持った柿を見比べていた。
早苗の周りには色とりどりの旬の野菜と果物。
普通の料理にしてはまず量が多すぎる。
一時にこれほどの食材を並べることは、多くの客人を招く宴会でもまずなかった。
一つ一つを手に取り、傷がないか色合いはくすんでいないか、熟しすぎてはいないか、丹念にチェックしていく。
そんな時に神奈子が近づいてくる。
「なーにやってんの?早苗。一つ貰っていい?」
「あ、ちょっと待って下さい。」
「え?」
手に取った柿を右手にピタリと止まる。
「それ。見せていただけますか?」
神奈子は怪訝な顔をしつつ黙って柿を渡す。
早苗は柿の表面を撫でるように見つめてほんの少し力を込めてみた。
「うん。神奈子様はこっちにして下さい。」
早苗が持っていた柿を神奈子に渡す。
新たに渡された柿はわずかに熟して、押せばわずかに沈み込む。色合いも少し濃すぎる。
「早苗…私そっちがいいんだけど…」
何度となく食べてきた果実は、見て触ればどの味がよりよいかすぐに分かる。
「贈り物に傷物や悪くなったものは渡せません。」
「神様にはいいの?」
神奈子は不満げだ。
「ふあ…何してんの?」
諏訪子が眠そうな顔でこちらに歩いてくる。
手に新聞を持っており、ばさばさと音を立てている。
「凄い量だね…一週間分の食糧くらい?」
「はい。けれどすぐに補充しますので大丈夫ですよ。」
早苗は上機嫌に鼻歌でも歌いそうな様子で果実の選別をしていく。
諏訪子が笑顔を浮かべる。
「ふふ…」
「どうしました?諏訪子様?」
「いんや。良かったと思って」
「?」
「早苗が元気になったみたいで」
ぴたりと手を止めて諏訪子を見やる早苗。
「何か昨日元気なかったからさ…心配してたんだよ?」
驚いた。昨日はたった一度宴会に行く前に顔を合わせただけなのに…
巫女が神様に心配させるとは。
巫女失格だ。
けれど、自分のことをそんなに見てくれている人がいるという事実。
盲目になっていた。
まるで今も一人ぼっちであるかのように被害妄想を受けて…
心が優しく香りの良いシルクの布で包まれるような心地がした。
ありがたい話だ。涙がでそうなほどに。
この幸福はかみ締めたいと思う。
「大丈夫です。私元気ですから…ありがとうございます。」
「ふふ…ところで今日の早苗…一面よ」
「?」
諏訪子が持っていた新聞をテーブルの上に広げる。
大きく横文字で書かれた明朝体は顔を近づけずとも読めた。
<赤い巫女と緑の巫女の関係性の謎ー巫女の目にも涙?>
すぐ下の大きな写真には霊夢が顔を押さえて泣きじゃくる早苗の肩に手を添えている場面が映されていた。
早苗はかあっと顔に血が上ってきた。
恥ずかしさと申し訳なさがいっぺんに突き上げてくる。
「まったく楽しそうだねえ。私も行きたかったなあ。」
「こ、こ、これ…いつ…?」
いつと言っても昨日のことに決まっているのだが、まさかあれほどの人数の中、
天狗が自分に注目して記事にしているとは夢にも思わなかった。
しかもトップで。
ーどうしようーこんな記事ーまた霊夢さんに迷惑をー
「早苗?」
心配そうに覗き込む諏訪子。
「ど、どうしましょう?こんなの…」
「ううん…霊夢が早苗を泣かしたのか?って記事では邪推されてるけど…そんなことないんでしょ?今日の早苗見てる感じじゃあさ」
その通りだ。
むしろ霊夢がいなかったら、また暗く沈鬱な気分が心を支配していただろう。
神奈子が記事を読みながら言う。
「そうだね。早苗が泣かされてるっぽいね」
「ああ…そんな誤解を。じゃあもっとたくさん入れないと…お詫びの意味でも…」
「あ、それ霊夢のとこに持ってくんだ?」
早苗は頷く。
昨日の感謝の意味も込めて、色々と持って行こうとは思っていた。
けれどまさかこんな記事にされているとは。
もっと多くの物を詰め込まないと。
だが霊夢はあんな記事気にもしないような気もする。
笑い飛ばすか、反応すらしないかもしれない。
霊夢はもう起きているだろうか。
今の時間帯だと寝ているかもしれない。
寝ていたらそのまま置いてこよう。
二日連続で訪問するのも馴れ馴れしい気がするし、重い女だと思われたくない。
自分はこれほど霊夢のことを考えているけど、霊夢はきっと自分のことなどまったく考えていないだろう。
いつも神社にいるだけで山のような訪問客がいる。
人気者は自分から動く必要もない。
宴会で中心になっていた霊夢は、普段の生活でも皆一目置いている。
皆が霊夢との時間を望んでいるようにも感じる。
気楽に気ままに生きているように見えて、空気も読めるし、気も利く。
誰にでも好かれるというのは難しいものだ。
しかし、霊夢には確かにその類まれな要素がある。
その引力で周囲の人妖の心を引きつけて離さない。
自分もすっかり参ってしまった。
霊夢と一緒にいたい。
できればほんの少しで良いから自分を特別に見て欲しい。
けれどそれは厳しいだろう。
ライバルが多すぎるし、霊夢は人によって態度を変えたりもしない。
それが好かれる要素でもあるのだけど。
でも構わない。
たまに訪問してお話できるだけでも幸せだ。
ああ…でも願わくば…
いつの日か…
霊夢が自分の意思でこの神社に遊びに来てくれますように…
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布団から起きて眠気眼を擦り、気だるげに身を起こす。
春眠暁を覚えず。この時期の朝は際限なく惰眠によって浪費される。
二日酔いになるほど飲んだわけではないが、酒を入れない時には決して起こらない鈍い痛みが側頭部に走る。
酒と十分な食料を腹に入れての夜更かし。そしてこの春の日差し。
これほどの安眠の要素が重なれば、二度寝三度寝も仕方あるまい。
今朝は何度起きようとして失敗したかわからない。
のそのそと歩いてとりあえず草履を履いて空を見上げる。
太陽はもう高い。
昼前といったところか。
昨日大勢の人妖がいたとは信じられないぽっかりと空いた神社の空間。
いつもながら不思議になる。
人はどこから集まり、どこに散っていくのか。
「ん?」
神社の裏口の前にまた箱が置いてあり、霊夢は屈んでみた。
なかなかの大きさだ。木製だが重厚感が滲み出ている。
守矢神社と小さく書いてある。
箱を持ち上げるとどうしてなかなかの重さで一度目は失敗した。
二度目は腰を据えて力を入れて持ち上げる。
「よっと」
これは霊夢と同じ年代の女子では相当きついのではないかと思う。
二日続いて贈り物を持ってくるのは初めてだ。
一体どうしたことだろう。
「お寝坊さんね」
もうほとんど驚くこともなくなった唐突なスキマからの声。
「あんたにだけは言われたくない」
背中から聞こえる声に振り向きもせず、木製の箱を漁る。
中身は昨日のものよりさらに豪勢になっている。
しばらく食糧事情が改善されるのではないかというくらいだ。
「ん?」
見ると箱の下に紙きれが入っている。
ゴミかと思って取り上げると小さく丸い可愛らしい字でメッセージが書きつけてある。
(昨日は本当に申し訳ございませんでした。これはほんのお詫びです。
お休み中起こしてしまっては悪いのでここに置かせて頂きます。
どうか愛想を尽かさず、これからもお付き合いのほどよろしくお願いします)
霊夢はふっと笑った。
愛想を尽かすなんてあるはずないのに、この文面と綺麗な文字からは芯から謝罪したい気持ちが滲み出ている。
ー根は真面目なのねー結局ー
後ろに気配を感じるとさっと紙片を胸元に隠す。
「もう…見せてくれてもいいじゃありませんか…」
紫が切なげな声を出す。
どうして隠したりしたのだろう。
別に大した秘密が書いてあるというわけでもあるまいに。
けれど…
早苗が丁寧に書いてくれたこの紙片を…
どういうことか自分だけのものにしておきたかった。
無視してその場から動き、
荷物を整理してお茶を淹れ始めても紫はついてきた。
「山の巫女からですか?」
本当に勘だけは良い妖怪である。
反応しない霊夢の様子で紫は分かったようだった。
「でも、なんか意外でしたね。あの子」
すこし面白げのなさそうな棘のある口調だった。
「意外?」
湯飲みに伸ばした手が止まる。
紫の言うことにいちいち反応するのは面倒なのでほとんどをスルーしているが
この時はつい聞きかえしてしまった。
あの子 についてどのようなことを言うのか、自分でも意識しない程度に微妙な興味があった。
「ほら。意外とおとなしいっていうか。泣いちゃったりして…楽しい宴会を白けさせるようなことしないで欲しいっていうか。」
見ていたのか。まるで分からなかった。
「…」
「いつもはやかましいくらいに煩くて自信たっぷりなのに、安定しない人間は一番付き合いづらいわ。」
何だろう。別段変わったところはない。
いつもの会話といつもの空気。
下らぬ与太話。
心波立つこともなく、心浮き立つこともなく。
ただ退屈で心地よい話がどこまでも続くだけ。
なのに。
身体の芯の部分にどうしようもない不快感が生まれた。
胃もたれのような…
二日酔いとも思ったが、昨日はそれほど飲んでいない。
いつまで経ってもお腹が空かないような不健全な血の巡りを感じた。
こんな風になるのはどんな時か。
体調を崩した時を除けば…
自分の悪口を聞いたとき?
いや、そんなの気にしたことはない。
異変の解決に手こずった時?
困難の中にも楽しみを感じる機会は多い。
どんな時だろう…めったになることはないのに…
加えて胸が痛む。
自分が何か言われた時よりはるかに鋭利に。
何気ない、それほどの悪意もない紫の言葉が
どことも知れず突き刺さってくる。
「やっぱり私は霊夢の方が断然好きですわ。同じ巫女でも」
そう言って笑顔を浮かべる紫。
紫の笑顔も普段は割と鬱陶しいながらも安心する要素があるのだが、
今はそんな要素も一切感じなかった。
「紫」
名前を呼んで話を遮った。
そして紫にこっちこっちと手招きする。
紫は話を止めてこちらを見る。
笑顔を浮かべて手をつきながら近づいてきた。
「何です?霊夢」
ぴんっと紫の額にでこぴんをした。
紫は いたっ と言うと距離を置いて両手で額を押さえた。
紫の顔には ? マークがいくつも浮かんでいる。
「人の悪口なんかでお茶を不味くしないでよね」
「わ、悪口だなんて…そんなつもりは…」
涙目で訴える紫に反応せずに、茶をすする。
我ながら勝手なことを言っていると思う。
いつもは率先して人の悪口を言って、お茶の肴にすることもある。
他人が悪口を言った時ばかり諌めるのは理屈に合わない。
けれど、そんなのどうでも良くなるくらいに、
今の紫の話は不愉快だった。
いつもの話に比べればマイルドと言えなくもないのに、どうしてこんなにかき乱されたのだろう。
誰にも過去がある。
美しい思い出だけではない。
触れられたくないものや、忘れてしまいたいもの。
唾棄したいものもある。
そのすべてが人格を形作っている。
一切の過去と関係性のない自我など存在しない。
かといって生まれつきの気質、能力、思考の方向性も大きい。
その両方が人の土台だ。
しかし、早苗に至っては、やはり過去の比重が大きいような気がした。
本来のありのままの自分を歪めて強制的に捻じ曲げてきたのだろう。
昨日の早苗は体調不良や気分が乗らないという類の様子ではなかった。
きっと自分が想像できないようなことを体験してきたのかもしれない。
外の世界はこちらの世界とはまた違った悪意や恐怖に満ちているのかもしれない。
生まれた時からこちらの世界にいる自分からすれば、外の世界の人間、制度、文化など
知る由もないが、悲しみのない理想郷のようなものではないことだけは感じられた。
早苗は微妙な立場にいる。
心から気が休まることはあるのだろうか。
そんな相手はいるのだろうか。
場所はあるのだろうか。
生まれた時から割と恵まれていて、悩みらしい悩みももったことのない自分が想像しても
陰鬱とした気分になる。
自賛するわけではないが、早苗は自分を嫌いではないと思う。
もし、嫌でなければ、自分が早苗の落ち着ける場所になれればと思う。
自分の言葉で空気を悪くしたと思ったのか紫はあたふたと話題を変えた。
「あ、そ、そういえば今日の午後にお茶会するんだけど、霊夢も来ませんか?」
「お茶会?」
「はい。幽々子のところでね。皆何か持ってくるんですが、霊夢は手ぶらで構いませんよ?」
まったく暇で艶やかなことをしている。
あの手この手で暇を潰すこの地の住人。
巫女にとっての業務はそれはそれは少ない。
異変解決など忘れたころにやってくる程度の頻度だし、
境内の掃除や手入れも義務ではない。
用事などいついかなる時でも皆無に等しい。
ありあまる時間をお互いの創意工夫によって処理していく。
思いつき、捏ねあって、擦り合わせて練りこんでいく。
自分もそうした人間の一人。
どんな誘いも間髪入れずに承諾する。
それがもはやここの常識。しかし、今日ばかりは…
「ごめん。今日の午後はちょっと…行けないかな」
「え?」
素っ頓狂な声を上げる紫。
無理もない。
いついかなる時も霊夢は乗り気でないように見えて何でも参加する。
「どうして?」
ほとんど反射とも言える紫の疑問符。
「ちょっと用事」
「用事?霊夢に??」
悪意はないだろうが、相当無礼にも聞こえる。
確かに自分からどこかに出向くということはほとんどなかった。
いつも鬱陶しいくらいに大勢の客が来る。
客足は神社には絶えない。
自分が留守の時に訪れた者は用事があれば二度手間になる。
そう考えると自分からどこかへ出るのは効率が悪いし、さして意味がない。
けれどもそれに不満を持たなかったということは、それほど外の世界に働きかける意思が希薄だったことを意味する。
この世界の番人、管理人とも言える巫女を標榜しておきながら、さしたる興味も愛着もなく生きてきたことを思うと
少々のきまり悪さを覚えた。
そして用事があるなどということは他の人妖であれば他人に告げる必要もほとんどないはずなのに。
自分がここを離れれば、やはりすれ違いになる者は多いだろう。
ほとんど感じたことも無かったが、巫女の身分に初めて不満を覚えた。
これからは何でも受身に対応するのではなく、能動的に生きていってもいいかもしれない。
昨日も見ていた遠くの雪山を眺めながら、霊夢はそんなことを考えていた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
誰も居なくなった縁側。
神社に訪れた客人もあまりお目にかかることができない上機嫌の巫女が一人で座っていた。
一人でいるのに顔をほころばせて。
お昼は既に済ませた。
食休みをしたらお出かけの準備をしようと思っていた。
昨日と同じように素足をぶらぶらと遊ばせる。
昨日よりさらに日差しは温かく、日光にさえ当てておけばもはや寒さは感じなかった。
考えていることも昨日とは違う。
不満を押し隠した無表情で
昨日は菓子のないお茶の乗り切り方を考えていた。
今日は…
ずっとあいつのことを考えていた。
昨日いつもとはまったく違う一面を見せたあいつのことを。
人の人格は一枚岩ではない。
誰もが違う自分の姿を持っている。
隠そうが意識しようが間違いなくある。
きっと外の世界の方が、それを強制されることが多いのだろう。
昨日の早苗が違う一面を見せたお返しに、こちらも違う一面をお見せしよう。
いつもは遊びに来た客人をもてなすだけだが、
この霊夢も自分から遊びに行くこともあるということを。
身体を揺すって鼻歌を口ずさみながら、何もせずに今日の午後を想像する。
二日連続の贈り物のお返しに今日は何を持っていこうかな。
あいつは何が好きだろう。何を持っていけば喜ぶだろう。
庭先のさらに勢いを増す梅の開花に目をやりながら…胸の内は弾んでいた。
なけなしの貯蔵の何をやっても惜しいとは思わなかった。
そして…今日の午後
訪れたらきっと見せてくれるであろう早苗の笑顔を思い浮かべていた。
いや、もうなりかけてるが