「いくー、いるー?」
わずか三文字で自分を呼びつけてみせたその声に、「いません」と答えたくなる自分の気持ちを抑えるのは、やや難しいことではあった。永江衣玖が己との戦いに劣勢を強いられている合間に、声の主はドカドカと足音を立てて迫ってくる。
「なんだ、いるじゃない。返事くらいしなさいよ」
返事も聞かず勝手に上がり込んだ者の言い草ではなかったが、それを指摘する意味はない。本人は自分の無礼をちゃんと理解して、その上で無礼に振る舞っているからだ。注意されることは、望むところとすら思っているだろう。
「……ごきげんよう。総領娘様」
だから、衣玖は代わりに無難な挨拶を返した。
現れた少女の名は、比那名居天子。空を透かしたように美しい青の髪を腰までまっすぐに伸ばし、白を基調とした服装と相まって、彼女自身が空そのものであるかのような装いである。
彼女が青空なら、自分は雷雲だろうか。自分の藍色の髪を撫でながら、そんな風に思ったこともある。別に卑下したいわけではない。ただ、快晴の空を思わせる彼女の側に立つ時、なんとなく所在なくなる心地がした。
天子はそのまま台所まで歩いてゆき、自分用(勝手に彼女が置いていった)の湯のみに水を注いで居間のテーブルにつき、グビグビと飲み始めた。勝手知ったる他人の家という言葉を体現するかの如き無遠慮さだった。
もっとも、無遠慮というならば衣玖の方も言えたものではない。何しろ、長椅子にうつ伏せに突っ伏して、かけられた声に身体を起こすことすらもせずにいるのだから。
すでに日は高いが、眠りから目覚めたのもついさっきの事。髪は整えておらずボサボサ、寝間着姿の装いは、およそ客に見せられる有様ではなかった。
本来ならば、天子は衣玖にとって、このような対応が許される相手ではない。
竜宮の使いである衣玖にとって、天に到達せし天人はより高位の存在であると言える。直接の主従関係にないとはいえ、気軽に声をかけてよい相手ではない。
実際、衣玖は天子に気軽に声をかけたことなどない。向こうが気軽に声をかけ、気ままに訪れるだけである。
「こんな天気のいい日に家にこもってたら、ますます湿気っちゃうわよ」
「……天の上に天気の悪い日があるものでしょうか」
「だからこうして、毎日ぶらぶらしてるんじゃない」
そう言うと、天子は箪笥の上に片付けられていた将棋盤を取り出す。
「ほらほら、まずは起き抜けに一勝負といこうじゃない」
「最近、また地上が騒がしくなってたみたいね。王手」パチン。
「地上を巡回していた同僚が言うには、まるでお祭り騒ぎだったと」パチン。
「神社やら寺やら、宗教家たちがこぞって出張っていたらしいわよ。王手飛車取り」パチン。
「……………」
素知らぬ顔で会話を続けるべきか一瞬迷って、結局衣玖は「参りました」と頭を下げる方を選んだ。
「相変わらず弱いわねー」
「総領娘様が強いんですよ。これで始めてひと月足らずってどういうことですか」
「そうでもないわよ。隙間女には五回に一回くらいしか勝てないし」
すました顔で小憎らしい事を言う。衣玖は、あの妖怪に一度として勝ったことはない。
天界の生活は変わり映えがなくてつまらない、と彼女は言う。
衣玖からしてみれば、修行の末にたどり着く頂である天界が、変わり映えある刺激に満ち溢れた世界であっては困ると思うのだが、このお嬢様はそうは思わないらしい。これではどちらが天人なのだか分かったものではない。
そのあけすけな欲望に動かされるままに、地上に異常気象の異変を起こしてよりしばし。表向きは天人にふさわしい分別を身につけるための修行の一環として、実のところは単なるストレス発散として、天子が頻繁に地上に降りることは見咎められることも無くなった。
とはいえ、流石に一人で自由気ままにさせておくのも具合が悪い。そこで、先の異変にていくらかの交流を結んだ衣玖に、地上を歩く際のお目付け役という任務があてがわれたのだった。
「そういや、バタバタ倒れたっていう同僚の連中はもう大丈夫なの? 竜インフルエンザとかいったっけ」
「大丈夫じゃなかったら私は今日も出勤でしたよ。流石に二十連勤は堪えました」
「あらそう。悪い時に来たわね」
白々しいといえば白々しく、天子は言う。
二日前の勤務で連勤は終わっている。疲労と寝不足の極致にあった昨日は、ほとんどの時間を寝て過ごした。
そのお陰で体調はだいぶ回復している。昨日は現れなかった天子が今日になってここを訪れたのは、それを見越してのことだろう。
自分のことしか見てないようで、実のところは他者を良く観察し、洞察している。それが比那名居天子という少女だった。
天子は他者の都合に頓着せず、一見してただ野放図に振舞っているように見える。にも関わらず、他者の口に彼女の名がのぼるとき、そこに強い悪意や怒りが含まれることはないようだった。
異変の時にそうだったように、彼女は相手を怒らせる振る舞いができる。それは、相手を怒らせない振る舞いも、また容易に成せるということでもあった。彼女は相手がどこまでを許すか、常に図って引く時を過たない。
もっとも、それも完璧というわけにはいかないようで、異変の際に隙間の妖怪を怒らせ、手ひどく打倒された事もあったらしい。後に彼女はその時のことを「失敗した」と語ったが、それが企みを阻止されたことに対してなのか、それとも、相手を必要以上に怒らせたことを言っていたのか、衣玖には判然としなかった。
「ご馳走様」「お粗末さまでした」
両手を合わせて丁寧に挨拶する天子に、衣玖も丁寧な応答で返す。
「美味しかったけど、ちょっと量が多かったんじゃない? お腹いっぱいだわー」
「このあいだ手に入れた野菜がそろそろ痛む頃合いでしたから、使いきってしまいたかったのですよ」
「そういや、もうそんな経ったっけ。今度はお肉とか探しましょうよ。燻製とかなら日持ちしやすいでしょうし」
「私、そんなに料理のレパートリーはないんですけどね……」
天子は地上に降りると、些細なことにもよく興味を示した。別段珍しくないようなものに対しても、見て聞いて触れる事を楽しんでいるようだった。
それにつられるように、衣玖も何かと色んな物を手に入れる機会が増えた。それが食料であった際には、こうして二人でせっせと消費する必要がある。結果、普段はしない料理をする機会も増えた。
衣玖は竜宮の使いとして、大半の時間を雲海を漂って過ごしてきた。天の空気こそが彼女たちの食料であり、人間が生きるためにするような食事は不要なものだ。
しかし、生存のための意味は無くとも、娯楽としての意味はある。ある時期、天女たちの間で人と同じような料理をするのが流行ったことがある。「花嫁修業」の一環だとかで、誘われて一緒に学んではみたものの、それを活かせる機会に巡りあった試しはなかった。これまでは。
手慰みに学んだ程度の腕前で、本職の――例えば赤い館のメイド長などに比べれば、遥かに拙い料理だろう。
それでも、天子は一度として衣玖の料理に文句を言った事はない。桃くらいしか食べ物のない天界にあっては、料理の体裁を保っているだけでも充分らしい。
そういえば、以前に地上の寺で昼食を馳走になった際、出された漬物を天子はたいそう気に入っていた。今度、作り方を教わりに行くのも良いかもしれない、と衣玖は思った。思ってから、こんな風に他者のために思いを巡らすこと自体、久しくなかったことだと考えた。
衣玖は同僚や天女たちから、真面目だと良く言われる。堅物だとか、保守的だとかも、言われてはいなくとも思われているようには感じている。
しかしそれは、役割として為すべきことを抜からないようにしているだけで、忠義心や信仰心から来るものではない。自分の役目には忠実だが、必要以上の振る舞いはしない。
もっとも、それは衣玖だけがそうなのではなく、天に棲む多くの者は、特段に若い者たちを除けば、総じてそういった傾向を持っていた。変化に乏しく、不自由のない、そして、それゆえに退屈という小さな不満が、いつまでも解消されずに腹の底を漂い続ける。それが天界という場所だった。
多くの者はそれに自覚的でないが、安寧は意欲を奪い、停滞は気力を奪い、退屈は情熱を奪った。「何も起こらなくて退屈だ」という気持ちを、「何も起こらず穏やかな日々は幸福だ」という気持ちにすり替え、緩やかな惰性の中に身を置く。その日々を無為なものと考えるのは、終わりある生を過ごす人間の思考だ。
死を否定する天人。長大なる寿命を持つ妖。文字通りの不死者。死を見据える事のない日々を過ごす者は、いつか必ず、変化を否定する停滞の中に身を置く事になる。その停滞を悪辣と思うことは、自らが生きていることそのものを否定するに等しい。天界に棲む多くの者はそう考えているし、衣玖も、概ね同じように思っていた。
しかし、地上と交流を持つようになり、日々の変化に翻弄され、時に楽しみながら過ごす人々を目の当たりにすると、少し自信がなくなる。不思議なもので、人間たちのみならず、遥かな寿命を持つ妖怪や神、不死者さえも、穏やかな停滞よりも騒がしい変化を尊んでいるようだった。
情熱はいつでも生きもの全ての魅力――それは、衣玖がある妖精にかけた言葉だ。自然と口をついて出たそれは、心の底にある羨望が言わしめた言葉だったのかもしれない。
「そういや、あのチルノって妖精が傑作だったのよ。この前ね……」
話題が思いを馳せた相手と重なったことで、衣玖は少したじろいだ。話を聞いていなかったわけではないが、思考に没入しすぎたかも知れない。
天子は一旦言葉を止めていた。衣玖が「あの妖精がどうしました?」と続きを促すと、言葉を継いだ。衣玖の準備が整うのを待っていたかのようだった。内容はと言えば、川を凍らせて水をせき止めるイタズラを計画したが、凍らせたそばから流されてゆき、終いには氷と共に自分も流されたとか、そんな話だった。
「……総領娘様は、なぜ地上に降りられるのですか?」
「前にも言ったじゃない。退屈だからよ」
「今日は降りていません。では、退屈でしたか?」
「まあ、そんなに悪くはないわね。もう少し手強い対戦相手が欲しいところだけど」
「曲がりなりにも退屈を紛らせることができるのならば、わざわざ白眼視されることをせずとも良いのではないですか?」
「白い目で見られなくなると良いことがあるんだったら、そうするかもね」
不良天人。彼女の家系は天人たちの間でそう呼ばれる。
地上にありし日々の功績を認められて天に招かれた彼らは、天人としての修行を積んでいない。ましてやその娘の天子ともなれば、自分の功績など一つたりともなく、気づけば天人になっていたというようなものである。
天界において、天子に強い悪意を持っている者はいないが、好意を持っている者も、おそらくいないだろう。彼女は放埒で、わがままで、天人が嫌う変化を運んでくる存在だからだ。
天子もまた、他の天界の者たちにちょっかいをかける事はしない。彼らはそそくさと逃げるだけで、天子の望むものをもたらさないから。
楽しむことに貪欲な彼女のあり方は、この天界において異端だったし、彼女は誰に咎められても、その自分のあり方を良しとしていた。
天子の保護者役のようなことをさせられていると、多くの仲間は衣玖に同情した。もし、自分が彼らの立場だったなら、同じように思っただろう。そう衣玖は思う。
「食材も使いきったし、晩は私のところに来なさい。桃しかないけど」
「別に無理に食べる必要もないでしょう。それより、明日は降りますか?」
「ええ。上等なお肉を探さなきゃいけないし、吸血鬼とチェス勝負の約束もあるからね。ああそれと、神社で最近能楽をやっているとかで……」
そうして明日のことを話す内に空も暮れる。夜のお邪魔は、今日のところはしない事にした。天子は気にした風もなく「じゃあ、明日ね」と言って帰っていった。
何も思うこともなく、ゆるやかに時間を過ごす事。かつては習慣だったそれは、天子と過ごす時間の増えた今となっては、生活のどこにも存在しない。
振り回されている、と思う。だけど、それを嫌に思う気持ちは、心のどこにも見つけることはできなかった。
衣玖は食器を片付けると、将棋盤を取り出す。ついでに、地上で手に入れた将棋の研究本も。
天子を苦戦させられるように、いつかは、あのスキマ妖怪に勝てるように、勉強してみるのも悪くない。そう思ったのだ。
わずか三文字で自分を呼びつけてみせたその声に、「いません」と答えたくなる自分の気持ちを抑えるのは、やや難しいことではあった。永江衣玖が己との戦いに劣勢を強いられている合間に、声の主はドカドカと足音を立てて迫ってくる。
「なんだ、いるじゃない。返事くらいしなさいよ」
返事も聞かず勝手に上がり込んだ者の言い草ではなかったが、それを指摘する意味はない。本人は自分の無礼をちゃんと理解して、その上で無礼に振る舞っているからだ。注意されることは、望むところとすら思っているだろう。
「……ごきげんよう。総領娘様」
だから、衣玖は代わりに無難な挨拶を返した。
現れた少女の名は、比那名居天子。空を透かしたように美しい青の髪を腰までまっすぐに伸ばし、白を基調とした服装と相まって、彼女自身が空そのものであるかのような装いである。
彼女が青空なら、自分は雷雲だろうか。自分の藍色の髪を撫でながら、そんな風に思ったこともある。別に卑下したいわけではない。ただ、快晴の空を思わせる彼女の側に立つ時、なんとなく所在なくなる心地がした。
天子はそのまま台所まで歩いてゆき、自分用(勝手に彼女が置いていった)の湯のみに水を注いで居間のテーブルにつき、グビグビと飲み始めた。勝手知ったる他人の家という言葉を体現するかの如き無遠慮さだった。
もっとも、無遠慮というならば衣玖の方も言えたものではない。何しろ、長椅子にうつ伏せに突っ伏して、かけられた声に身体を起こすことすらもせずにいるのだから。
すでに日は高いが、眠りから目覚めたのもついさっきの事。髪は整えておらずボサボサ、寝間着姿の装いは、およそ客に見せられる有様ではなかった。
本来ならば、天子は衣玖にとって、このような対応が許される相手ではない。
竜宮の使いである衣玖にとって、天に到達せし天人はより高位の存在であると言える。直接の主従関係にないとはいえ、気軽に声をかけてよい相手ではない。
実際、衣玖は天子に気軽に声をかけたことなどない。向こうが気軽に声をかけ、気ままに訪れるだけである。
「こんな天気のいい日に家にこもってたら、ますます湿気っちゃうわよ」
「……天の上に天気の悪い日があるものでしょうか」
「だからこうして、毎日ぶらぶらしてるんじゃない」
そう言うと、天子は箪笥の上に片付けられていた将棋盤を取り出す。
「ほらほら、まずは起き抜けに一勝負といこうじゃない」
「最近、また地上が騒がしくなってたみたいね。王手」パチン。
「地上を巡回していた同僚が言うには、まるでお祭り騒ぎだったと」パチン。
「神社やら寺やら、宗教家たちがこぞって出張っていたらしいわよ。王手飛車取り」パチン。
「……………」
素知らぬ顔で会話を続けるべきか一瞬迷って、結局衣玖は「参りました」と頭を下げる方を選んだ。
「相変わらず弱いわねー」
「総領娘様が強いんですよ。これで始めてひと月足らずってどういうことですか」
「そうでもないわよ。隙間女には五回に一回くらいしか勝てないし」
すました顔で小憎らしい事を言う。衣玖は、あの妖怪に一度として勝ったことはない。
天界の生活は変わり映えがなくてつまらない、と彼女は言う。
衣玖からしてみれば、修行の末にたどり着く頂である天界が、変わり映えある刺激に満ち溢れた世界であっては困ると思うのだが、このお嬢様はそうは思わないらしい。これではどちらが天人なのだか分かったものではない。
そのあけすけな欲望に動かされるままに、地上に異常気象の異変を起こしてよりしばし。表向きは天人にふさわしい分別を身につけるための修行の一環として、実のところは単なるストレス発散として、天子が頻繁に地上に降りることは見咎められることも無くなった。
とはいえ、流石に一人で自由気ままにさせておくのも具合が悪い。そこで、先の異変にていくらかの交流を結んだ衣玖に、地上を歩く際のお目付け役という任務があてがわれたのだった。
「そういや、バタバタ倒れたっていう同僚の連中はもう大丈夫なの? 竜インフルエンザとかいったっけ」
「大丈夫じゃなかったら私は今日も出勤でしたよ。流石に二十連勤は堪えました」
「あらそう。悪い時に来たわね」
白々しいといえば白々しく、天子は言う。
二日前の勤務で連勤は終わっている。疲労と寝不足の極致にあった昨日は、ほとんどの時間を寝て過ごした。
そのお陰で体調はだいぶ回復している。昨日は現れなかった天子が今日になってここを訪れたのは、それを見越してのことだろう。
自分のことしか見てないようで、実のところは他者を良く観察し、洞察している。それが比那名居天子という少女だった。
天子は他者の都合に頓着せず、一見してただ野放図に振舞っているように見える。にも関わらず、他者の口に彼女の名がのぼるとき、そこに強い悪意や怒りが含まれることはないようだった。
異変の時にそうだったように、彼女は相手を怒らせる振る舞いができる。それは、相手を怒らせない振る舞いも、また容易に成せるということでもあった。彼女は相手がどこまでを許すか、常に図って引く時を過たない。
もっとも、それも完璧というわけにはいかないようで、異変の際に隙間の妖怪を怒らせ、手ひどく打倒された事もあったらしい。後に彼女はその時のことを「失敗した」と語ったが、それが企みを阻止されたことに対してなのか、それとも、相手を必要以上に怒らせたことを言っていたのか、衣玖には判然としなかった。
「ご馳走様」「お粗末さまでした」
両手を合わせて丁寧に挨拶する天子に、衣玖も丁寧な応答で返す。
「美味しかったけど、ちょっと量が多かったんじゃない? お腹いっぱいだわー」
「このあいだ手に入れた野菜がそろそろ痛む頃合いでしたから、使いきってしまいたかったのですよ」
「そういや、もうそんな経ったっけ。今度はお肉とか探しましょうよ。燻製とかなら日持ちしやすいでしょうし」
「私、そんなに料理のレパートリーはないんですけどね……」
天子は地上に降りると、些細なことにもよく興味を示した。別段珍しくないようなものに対しても、見て聞いて触れる事を楽しんでいるようだった。
それにつられるように、衣玖も何かと色んな物を手に入れる機会が増えた。それが食料であった際には、こうして二人でせっせと消費する必要がある。結果、普段はしない料理をする機会も増えた。
衣玖は竜宮の使いとして、大半の時間を雲海を漂って過ごしてきた。天の空気こそが彼女たちの食料であり、人間が生きるためにするような食事は不要なものだ。
しかし、生存のための意味は無くとも、娯楽としての意味はある。ある時期、天女たちの間で人と同じような料理をするのが流行ったことがある。「花嫁修業」の一環だとかで、誘われて一緒に学んではみたものの、それを活かせる機会に巡りあった試しはなかった。これまでは。
手慰みに学んだ程度の腕前で、本職の――例えば赤い館のメイド長などに比べれば、遥かに拙い料理だろう。
それでも、天子は一度として衣玖の料理に文句を言った事はない。桃くらいしか食べ物のない天界にあっては、料理の体裁を保っているだけでも充分らしい。
そういえば、以前に地上の寺で昼食を馳走になった際、出された漬物を天子はたいそう気に入っていた。今度、作り方を教わりに行くのも良いかもしれない、と衣玖は思った。思ってから、こんな風に他者のために思いを巡らすこと自体、久しくなかったことだと考えた。
衣玖は同僚や天女たちから、真面目だと良く言われる。堅物だとか、保守的だとかも、言われてはいなくとも思われているようには感じている。
しかしそれは、役割として為すべきことを抜からないようにしているだけで、忠義心や信仰心から来るものではない。自分の役目には忠実だが、必要以上の振る舞いはしない。
もっとも、それは衣玖だけがそうなのではなく、天に棲む多くの者は、特段に若い者たちを除けば、総じてそういった傾向を持っていた。変化に乏しく、不自由のない、そして、それゆえに退屈という小さな不満が、いつまでも解消されずに腹の底を漂い続ける。それが天界という場所だった。
多くの者はそれに自覚的でないが、安寧は意欲を奪い、停滞は気力を奪い、退屈は情熱を奪った。「何も起こらなくて退屈だ」という気持ちを、「何も起こらず穏やかな日々は幸福だ」という気持ちにすり替え、緩やかな惰性の中に身を置く。その日々を無為なものと考えるのは、終わりある生を過ごす人間の思考だ。
死を否定する天人。長大なる寿命を持つ妖。文字通りの不死者。死を見据える事のない日々を過ごす者は、いつか必ず、変化を否定する停滞の中に身を置く事になる。その停滞を悪辣と思うことは、自らが生きていることそのものを否定するに等しい。天界に棲む多くの者はそう考えているし、衣玖も、概ね同じように思っていた。
しかし、地上と交流を持つようになり、日々の変化に翻弄され、時に楽しみながら過ごす人々を目の当たりにすると、少し自信がなくなる。不思議なもので、人間たちのみならず、遥かな寿命を持つ妖怪や神、不死者さえも、穏やかな停滞よりも騒がしい変化を尊んでいるようだった。
情熱はいつでも生きもの全ての魅力――それは、衣玖がある妖精にかけた言葉だ。自然と口をついて出たそれは、心の底にある羨望が言わしめた言葉だったのかもしれない。
「そういや、あのチルノって妖精が傑作だったのよ。この前ね……」
話題が思いを馳せた相手と重なったことで、衣玖は少したじろいだ。話を聞いていなかったわけではないが、思考に没入しすぎたかも知れない。
天子は一旦言葉を止めていた。衣玖が「あの妖精がどうしました?」と続きを促すと、言葉を継いだ。衣玖の準備が整うのを待っていたかのようだった。内容はと言えば、川を凍らせて水をせき止めるイタズラを計画したが、凍らせたそばから流されてゆき、終いには氷と共に自分も流されたとか、そんな話だった。
「……総領娘様は、なぜ地上に降りられるのですか?」
「前にも言ったじゃない。退屈だからよ」
「今日は降りていません。では、退屈でしたか?」
「まあ、そんなに悪くはないわね。もう少し手強い対戦相手が欲しいところだけど」
「曲がりなりにも退屈を紛らせることができるのならば、わざわざ白眼視されることをせずとも良いのではないですか?」
「白い目で見られなくなると良いことがあるんだったら、そうするかもね」
不良天人。彼女の家系は天人たちの間でそう呼ばれる。
地上にありし日々の功績を認められて天に招かれた彼らは、天人としての修行を積んでいない。ましてやその娘の天子ともなれば、自分の功績など一つたりともなく、気づけば天人になっていたというようなものである。
天界において、天子に強い悪意を持っている者はいないが、好意を持っている者も、おそらくいないだろう。彼女は放埒で、わがままで、天人が嫌う変化を運んでくる存在だからだ。
天子もまた、他の天界の者たちにちょっかいをかける事はしない。彼らはそそくさと逃げるだけで、天子の望むものをもたらさないから。
楽しむことに貪欲な彼女のあり方は、この天界において異端だったし、彼女は誰に咎められても、その自分のあり方を良しとしていた。
天子の保護者役のようなことをさせられていると、多くの仲間は衣玖に同情した。もし、自分が彼らの立場だったなら、同じように思っただろう。そう衣玖は思う。
「食材も使いきったし、晩は私のところに来なさい。桃しかないけど」
「別に無理に食べる必要もないでしょう。それより、明日は降りますか?」
「ええ。上等なお肉を探さなきゃいけないし、吸血鬼とチェス勝負の約束もあるからね。ああそれと、神社で最近能楽をやっているとかで……」
そうして明日のことを話す内に空も暮れる。夜のお邪魔は、今日のところはしない事にした。天子は気にした風もなく「じゃあ、明日ね」と言って帰っていった。
何も思うこともなく、ゆるやかに時間を過ごす事。かつては習慣だったそれは、天子と過ごす時間の増えた今となっては、生活のどこにも存在しない。
振り回されている、と思う。だけど、それを嫌に思う気持ちは、心のどこにも見つけることはできなかった。
衣玖は食器を片付けると、将棋盤を取り出す。ついでに、地上で手に入れた将棋の研究本も。
天子を苦戦させられるように、いつかは、あのスキマ妖怪に勝てるように、勉強してみるのも悪くない。そう思ったのだ。
彼女たちの日常の中で、表面上はありふれた、だけど衣玖さんにとってはとても珍しい日
読んでいてついつい顔がほころんでしまいました
ちょっとは将棋の練習でもしようと思っちゃう衣玖も好きです
天子さん将棋強いのか……そういう描写とかも良かったです。
何気ない日常がとても良かったです。
面白かったです。